東海道 宇津ノ谷峠を歩く 2008年4月


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東海道五十三次の品川宿を1番とすると、21番目の丸子宿(鞠子宿)と22番目の岡部宿の間にある峠道。平安時代から使われた「蔦の細道」と、秀吉が小田原攻めの際に開いて明治初期まで使われた旧東海道と、明治9年(1876)に開通した「明治トンネル」と、昭和5年(1930)に開通した「昭和第一トンネル」と、昭和34年(1959)に開通した「昭和第二トンネル(現在のバイパス上り線)」と、平成10年(1998)に開通した「平成トンネル(バイパス下り線)」・・・・つまり平安時代古道が1本と旧東海道、そして併せて4本のトンネルが現存し全て利用できるという特殊な峠道である。

古道・蔦の細道
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伊勢物語の作者説(最近は否定説が主流)もある平安貴族・在原業平(天長2年・825年〜元慶4年・880年)がこの峠に差し掛かった時に旧知の修験者に会い、都への手紙を託した。新古今集(編纂は鎌倉時代初期)に業平の歌として するがなる うつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり が載っている。
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彼の作かは疑わしいらしいが、駿河にある宇津の山の麓では現実の世界でも夢の世界でもあなたには会えないのでしょうか・・・という意味で、地名である「うつ」と現実(つつ)と、対比語である「夢」を掛けて歌われた。蔦の絡まる細道を前に都への離愁を嘆き、それ以来宇津ノ谷峠は「蔦の細道」と呼ばれた、という事か。
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秀吉の小田原攻めの軍用道路として拓かれた新道によって利用されず長い間廃道となった「蔦の細道」は昭和40年代になって地元有志の手で復旧・整備された。岡部宿側の坂下地蔵堂から峠の頂上までは約800m、頂上から丸子側の道の駅まで約700m。最近では手軽なハイキングコースとして利用されている。
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宇津ノ谷峠の詳細と古道の復旧と整備については こちらのサイト に詳細が記録されている。

宇津ノ谷峠略図> 旧・東海道
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秀吉の小田原攻め(天正18年・1590年)に参戦した兵力は総勢21万、主力の豊臣・徳川軍17万人は東海道を進んだ。蔦の細道では大軍の通過が不可能で、宇津ノ谷峠には新たに軍用道路が造られた。傾斜も緩く峠越えが楽だったため次第に利用者が増え、蔦の細道は徐々に忘れ去られてしまう。
江戸時代には参勤交代の制度に伴い東海道も整備され峠の両側には丸子宿と岡部宿が置かれた。宇津ノ谷宿も峠を越える旅人で賑わった、と言われる。当時の道巾は4mほど、現在では峠の両側まで40分ほどで歩ける距離である。

明治トンネル
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明治9年(1876)に開通した最初のトンネル。安倍川に近い弥勒の村長で代々安倍川の川越え事業と人足の総元締を務めた宮崎総五が有志を集め、出資金を募って完成させた。全長221m・高さ4.5m・巾5.4mで徒歩と牛馬は6厘、牛馬と荷駄は9厘、駕籠と人力車は1銭5厘で日本初の有料トンネルだった。
ちなみに宮崎総五は明治7年にも安倍川に橋を架け橋銭で出費を賄ったとされている(徒歩=4厘、馬車=4銭5厘)。
その後明治29年に照明用のカンテラの失火が原因で一部が崩落、明治39年(1904)に赤レンガで改修され現存の「明治第2トンネル」となった。

昭和第一トンネル
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5年の歳月を費やして昭和5年(1930)に開通した、現在でも旧・国道1号が走る現役のトンネル。全長227m・巾7.3m・高さ4.4m、大型車がすれ違える程の規模だが取り付け道路の巾が狭くカーブも多いため交通量の増加を吸収できず、昭和34年(1959)に開通した「昭和第二トンネル」(全長844m・巾9m・高さ6.6m)に主役を譲り、地元の生活道路となった。峠の静岡市側からバイパスを跨ぐ形で旧道へと入っていく。

昭和第二トンネルと平成トンネル
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交通量の増加により平成7年(1995)に「平成トンネル」(下り専用、長さ881m・巾11.2m・高さ6.6m))が開通、昭和第一トンネルは上り専用となった。


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        左側・・岡部側道の駅の駐車場からバイパスの下を歩いて蔦の細道と旧東海道へ。歩道橋を左へ渡れば明治のトンネル方向の道へと続く。
        左中・・岐れ道にある坂下地蔵堂、別名を鼻取地蔵。農夫の牛が動かなかった時、子供の姿になった地蔵が鼻の縄を引いて歩かせた、と。
        右中・・本来の建立時期は不明だが元禄13年(1700)に岡部宿の有志3人が地蔵堂や鐘楼を再建した。堂内には地蔵菩薩が安置されている。
        右側・・多くの旅人がここで疲れを癒したのだろう。8月24・25日には縁日が開かれ、十団子を供えて供養が行われる。


     

        左側・・やがて左側に旧東海道の坂道が分岐する。その右下には20台ほど停められる駐車場があり、宇津ノ谷峠散策のベースに利用できる。
        左中・・歩いたのは八十八夜が近い4月の下旬、狭い山裾の茶畑には若葉の緑が溢れ、砂状に舗装された歩道は足触りが柔らか。
        右中・・坂下地蔵堂から200mほどで「蔦の細道公園」に至る。水の澄んだ木和田川沿いの、休憩所やトイレも整備された公園だ。
        右側・・木和田川には石積みの堰堤が造られ、ちょっと昔風の木橋が架けられて江戸時代の雰囲気を醸し出している。


     

        左側:木橋の上で記念撮影。公園は川沿いに芝生も造られ、古道の入口近くまで約500mの細長いレイアウトだ。
        左中:新緑に囲まれた木和田川の水量は少ないが傾斜がきつく、少し雨が続くとかなりの急流となって流れ下るらしい。
        右中:手入れの行き届いた芝生広場。ベンチが置いてあり、立入り禁止ではないらしい。弁当を広げるベストスポット、か。
        右側:左に山仕事用の道が分岐し、一段と細くなった遊歩道は通常のアスファルト舗装となり、更に奥へと続く。


     

        左側:やがて工事用以外の立ち入り禁止標識が現れ小さな木橋が左に分岐するのが見える。地蔵堂からここまで、約1000m。
        左中:この木橋が古道・蔦の細道の入口で急傾斜の石段が続く。雨の後で足場が悪いため今回はここまで、旧東海道分岐へと引き返した。
        右中:旧東海道の分岐は駐車場の反対側に造られている。足元は良く整備され、多少急勾配の箇所もあるが比較的歩きやすい。
        右側:道巾3〜4mほどの登りが続く。多分このあたりが最も往時の雰囲気を残している場所なのだろう。


     

        左側2枚:道は何度も屈曲を繰り返して登り続け、やがて石の「髭題目」の案内表示が見えてくる。ここまでは分岐点から約250m。
        右側2枚:髭題目は南無妙法蓮華経の端を跳ねて書くお題目。天保三年(1835)に備前国の木綿屋門平が人馬の安全を祈願して建てたもの。


     

        左側:細道は更に登り続け、間もなく明治トンネルへの分岐点が近づく。このあたりの直下をバイパスのトンネルが通過している。
        左中:分岐点に到着。左が明治トンネルからの舗装道路、右が旧東海道へ続く、工事用車両も利用する舗装道路だ。
        右中:分岐点に立って、登ってきた道を振り返る。この位置から右へ下ると明治トンネル、旧東海道は更に手前左へと続く。
        右側:宇津ノ谷峠の稜線にはトンネルの換気装置が造られており、この舗装道路はそこに向うメンテナンス用の作業道を兼ねている。


     

        左側:分岐点から250mほどは作業道を歩く。換気装置へは屈曲を繰り返して約1kmほど登らなくてはならない、らしい。
        左中:やがて作業道は右へ折れ、旧東海道は細道となって石垣の上へ延びる。峠の頂上まで、残すところ150m。
        右中:分岐点手前でやや視界が開け、左に大正のトンネルに続く旧道・すぐ下に明治のトンネルに続く旧・旧道と緑地が眺められる。
        右側:石垣上の細道から来た方向を振り返る。この付近にはかつての東海道が通っていた面影は見られない。


     

        左側:石垣の上の小道を登る。作業道のため進む方向がやや不明確で、20mほどの間はやっと擦れ違える程度の道巾しかない。
        左中:峠の頂上、岡部側。地蔵堂からここまでは約700mの登り道で、ゆっくり歩いても30分ほどで到着する。
        右中:宇津ノ谷宿側・つまり静岡市側から見た峠の切り通し。いかにも旧東海道の雰囲気が残っている。復元された道巾は当時のまま、約2間。
        右側:切り通しのすぐ下に地蔵堂の跡が残されている。道が廃れると地蔵菩薩は麓に下ろされ、現在はお羽織茶屋裏の慶龍寺に祀られている。


     

        左側:ここは河竹黙阿弥作の歌舞伎「蔦紅葉宇津谷峠」 (参考) の舞台になった。伊丹屋十兵衛が百両の金を狙って按摩の文弥を殺した場所だ。
        左中:切り通し付近には平地がないため石垣を積んだ上に地蔵堂が建てられたらしい。これも往時のままに復元されている。
        右中:芭蕉と同門の俳人・山口雁山の墓。彼は享保12年に旅に出てそのまま駿河に住み着き、黒露の名で俳諧の師匠となったのだが...
            彼が旅先で死んだと思った友人たちが法事を営み、ここに墓を造ったらしい。後に本人が自分の墓を見てひどく驚いた、と伝わる。
        右側:峠から少し下ると眼下に宇津ノ谷宿が見えてくる。藁葺き屋根が瓦に変っているが町並みは昔のまま。左手に慶龍寺と墓地が見える。


     

        左側:急傾斜の坂道を下る。途中で明治のトンネル方向への道などが分岐している。
        左中:石段を下って宿場の家並みへ。道巾は矢張り約2間、綺麗過ぎる石畳に少々の違和感を感じるが...
        右中:なだらかな坂道の両側には屋号の札を下げた家々が続く。伊勢屋・角屋・御羽織屋・車屋・などなど、ハイカーには人気の高いスポットだ。
        右側:観光客が必ず立ち寄る御羽織屋。本来の屋号は石川屋で、小田原攻めの途中立ち寄った秀吉に数々のおべんちゃらを言って気に入られ、
            凱旋の途中で再び立ち寄った秀吉が羽織を与えた、と。後にこの羽織を見た家康も茶碗を与え、この2点は茶屋の奥で見る事ができる。
            この宿の名物は小さな団子が10個入った十団子。5色の小さな団子が2ヶづつ、10個1セットで入っている。
            むかし宇津ノ谷峠にあった梅林寺の和尚が腫れ物に悩まされ、小僧に膿を吸い出させていた。やがて小僧は人肉の味を覚え、峠を越える
            旅人を襲って食う鬼となり人々を悩ますようになった。ある日一人の僧侶が通りがかると巨大な鬼が現れ、「小さなものに化けられるか?」
            の言葉に騙され小さな玉になった途端に杖で打たれ10個になり、飲み込まれてしまった。この僧は峠に祭られていた地蔵菩薩だった、と。


     

        左側:石段を下ってから家並みが途切れて川を渡るまで約150m、規模の大きな丸子宿や岡部宿よりもはるかに狭い。
        右3枚:帰り道で撮影した3枚のスナップ。背景が新緑に覆われた宇津ノ谷峠。


     

        左側:道の駅(静岡市側・下り)を見下ろす陸橋まで歩いてUターンした。駅舎の右に「蔦の細道」へ登る小道がかすかに見える。
        左中:下って来た道を元へと辿る。中央はバイパスが開通するまでの国道1号、左の上はバイパスから集落に入る車専用の陸橋。
            バイパス寄りの集落は峠に近い「上の宿」と対比して「下の宿」と呼ばれていたらしい。
        右中:宿場に入る旧東海道と旧国道1号の分岐点。右へ直進すると慶龍寺の前を通って「昭和のトンネル」を抜け岡部側に至る。
        右側:帰り道は旧東海道への途中から「明治のトンネル」へ向った。このトンネルは車両通行止め、手前の小さな公園に数台の駐車場がある。


     

        左側:トンネルへのアプローチ。現在は観光客が歩くだけで実用には使われていない。内部の撮影は失敗したため、これはまた次回に。
        左中:長さは221m、カンテラの雰囲気を生かした照明に照らされて岡部側の出口へ。レンガ積みの雰囲気は天城峠の隧道に似ている。
        右側:岡部側からトンネルを振り返る。道は緩く下って旧国道方向と旧東海道方向に分岐し、国道寄りは更に分岐して坂下地蔵堂へと向う。

この頁は2019年 7月23日に更新しました。