治承五年・養和元年(1181年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月1日
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早朝、頼朝が鶴岡若宮(八幡宮)に参詣した。日取りの良し悪しは気にせずに元日を八幡宮に詣でる日と定めた。
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三浦義澄畠山重忠大庭景義らが郎従を率いて前夜から辻々を警護した。騎馬で出御して専光房良暹が控える拝殿に入り、まず 宇佐美祐茂仁田(新田)忠常らが曳く神馬一頭を奉納した。次いで法華経を供養して館に戻った。
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千葉常胤が宴を用意し三尺の鯉を添えて献じた。酒肴は数えられないほど揃えられていた。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月5日
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関東の軍勢が海路で紀伊半島を廻り京に攻め上る噂が流れたため平家側は家臣を方々の港に派遣し志摩国は伊豆江四郎に警護させた。そこへ熊野山の衆徒が志摩の菜切島に集結して伊豆江四郎に攻めかかったため郎従の多くが負傷し敗走した。
江四郎は伊勢神宮を経て宇治岡に隠れたが、波多野忠綱義通の次男)と義定(義通の孫)が主従八騎で通りかかり、源氏への忠節を示ため合戦し江四郎の子息二人を殺した。忠綱と義定は義通の所領を相続して伊勢国に住んでいた。義経は敵対したため相模で討伐されたが、この二人は源家との縁を大事に考えて勲功を挙げた。
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   ※義経: 波多野義常の間違いで、義常は治承四年10月16日に討手を向けられ松田郷で自刃している。
原因は挙兵に参加を促した使者・安達盛長に対して拒否したばかりか暴言を発したことに起因する。
波多野の系図では義通の子が義常で、義通の妹が義朝の側室となり頼朝の兄・朝長を産んでいる。
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   ※菜切島: 志摩半島の英虞湾にある大王町波切とされている。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月6日
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工藤景光が平井の紀六久重を捕えた。これは去年8月の早河合戦北條宗時時政嫡男)を殺した者で、頼朝の鎌倉入り後に逃亡し行方不明になっていた。駿河・伊豆・相模の武士に命じて捜させていたが、相模国蓑毛付近で景光が捕え時政の元へ連行した。経緯を頼朝に伝えると「和田義盛に預けて無闇に殺すな」と指示された。尋問した結果、宗時を討ち取ったのは間違いないと認めた。
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   ※早河合戦: 吾妻鏡8月24日に「平井郷まで逃げ早河の近くで
伊東祐親勢に囲まれ小平井名主紀六久重の矢を受け討死」と記されている。平井郷周辺には「早河」の名はないが、すぐ近くを流れる「冷川」と取り違えた可能性はある。
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   ※蓑毛: 伊勢原市との境に近い秦野市蓑毛。阿夫利神社南麓の
大山中腹(地図)に地名が残っている。波多野氏や岡崎氏らの本領の水源金目川の最上流部。日本武尊が蝦夷討伐に向う途中で雨となった時に農民が「みの」を献じた。訪ねると地名は無いと答えたため、農民の親切心にちなんで「蓑毛」と名付けた、との伝承がある。
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右画像は函南の宗時神社に残る宗時と狩野茂光の墓石(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月11日
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仰せに従い、梶原景時が初めて参上した。昨年の冬に土肥實平が連れてきた者で、文筆を得手にしてはいないが言葉の巧みな、頼朝が気に入った人物である。
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81代 安徳
治承五年
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1月18日
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昨年の12月28日に奈良東大寺と興福寺の堂塔・僧坊が全て平家によって焼き払われた。わずかに勅封倉(正倉院)と寺封倉(寺宝の倉)のみが焼失を免れた。
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火が大仏殿に燃え広がった時に法難に耐え切れず身を投げて焼身した者が3名、両寺の火災で焼け死んだ者は100名以上との情報が伝わった。これは相模国毛利荘の印景が伝えた話で、印景は学僧として3年間奈良に在住していたが今回の寺院焼失によって帰国したものである。
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   ※東大寺: 建久五年(1194)6月28日に次の記載がある。
虚空蔵菩薩像は穀倉院別当中原親能、増長天像は畠山重忠、持国天像は武田信義、多聞天像は小笠原次郎長清、広目天像は梶原平三景時に造立を指示してある。
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つまり戒壇院と四天王像は治承五年1月に失われ建久五年に再建された、それが事実なら四天王像を「天平芸術の代表、云々」と評価するのは変だと思って少し調べてみた。
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四天王像は元々戒壇院にあった像(つまり建久年間に頼朝が造立させた像)でもなく、後世になって多分法華堂(三月堂)に日光・月光菩薩像と共に置かれていた可能性が高い。
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更に正確に書くと、この焼き討ちでは東大寺の中心ぶから離れた法華堂・二月堂・転害門・正倉院が焼失を免れたという。
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右画像は東大寺全体の鳥瞰図。焼け残った四つの建物を確認してみよう。
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   ※毛利荘: 現在の厚木市西部から愛川・橋本の一帯。
後に大江廣元の一族が領有し、子孫が安芸国(広島県)に移って戦国大名毛利氏の祖となった。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月21日
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熊野の悪僧が5日以降に伊勢国と志摩国に乱入して何度も合戦を繰り返した。19日までに港7ヶ所の民家を襲った。平家の家臣は砦などを捨てて逃亡した。僧兵の一部は殺されたり傷を負ったりしたが勢いに乗って今日二見浦の民家を焼き払い更に四瀬河付近まで迫った。平家の関出羽守信兼(山木判官兼隆の父)らが兵を率いて船江(伊勢外宮の北東2km付近)で遭遇し合戦となった。
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僧兵の中心人物・戒光(大頭八郎房)が信兼の矢を受けるなどしたため僧兵は二見浦まで退き、下女(30〜40歳)と童僕(14、5歳)など30人以上を捕えて船に同乗させ、熊野の港に向け船出した。
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騒動の原因を調べると、南海道(紀伊南岸一帯)は清盛の勢力範囲なのに熊野は関東の繁栄を祈り、平家を滅ぼそうとして企てたものである。清盛が権力に奢り朝廷を軽んじて神仏や仏法を尊ばず民を悩ましている。最近は伊勢神宮の神領に使者を送り兵粮米を徴収して労役を課した。天照大神が鎮座して1100年あまり、このような例はなかった。この数年は清盛の一門が滅びるように、貴賎を問わず全ての人が願っている。
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   ※四瀬河:固瀬川の間違い。五十鈴川支流の派川と推定されている。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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1月23日
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武蔵国の長尾寺と弘明寺などは僧長栄が差配すると定められた。源家累代の祈願所である。
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   ※長尾寺: 前年(治承四年)の11月15日と11月19日の記事を参照。
   ※弘明寺: 横浜市最古の寺(公式サイト)で真言宗、本尊は国重要文化財の十一面観音立像。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月1日
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北條時政の娘足利義兼に嫁した。また加々美長清上総廣常の婿となった。共に人柄の良い忠義者なので頼朝が気に入っており、仰せに従っての縁談である。
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   ※時政の娘: 政子の妹、通名を時子。足利法玄寺の伝承では、建久七年(1196)に密通を疑われたため
自殺した、とされる。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月9日
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去年の冬に河内国で平家に殺された源義基義家の六男義時の三男)の首が今日、獄門の樹に懸けられた。検非違使の中原章貞・源仲頼・中原基廣・安部資成・中原明基・大江経廣・紀兼康らが七条河原の平氏の家から首を受け取り、都大路を引き回した。ま義基の弟義資と義廣は生け捕られ、兄と共に左獄舎(左京の獄舎)に送られた。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月10日
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安房国洲崎の神領で従来の官吏に専横がある旨の訴えが神主から出された。従って、それを停止するように指図があった。
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曰く、「右の神社には全ての公租や労役などを免除してある。神官らの訴えが事実であれば許し難い旨を在廰官人(国衙(国府)で実務を担当する役人)は弁えるように。」と。
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   ※洲崎の神領:頼朝は前年の9月12日に州崎明神(現在の洲崎
神社・公式サイト)に神田を寄進し、更に寿永元年(1182)には政子の安産を祈って同様に神田を寄進している。小坪の亀女と馴染んでいた頃、だね。
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      右画像は現在の洲崎神社(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月12日
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平知盛・清経・行盛が近江から京へ戻った。頼朝追討のために出陣したのだが知盛の体調不良のため引き返したものである。知盛が持ち帰ったものだろうか、今日美濃国で討ち取られた源氏たちの首が入洛した。小河重清・蓑浦義明(山本義経の子)・上田重康・冷泉頼典・葦敷重義・伊達家忠と同じく重親・越後重家(越後平氏)と同じく五重信・神地康信(上田重康の家臣)らの首である。
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   ※美濃国で:主戦場は美濃ではなく近江。前年12月1日に山本義経らと戦って獲った首だろう。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月18日
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大河戸太郎廣行と弟の次郎秀行(清久)・同じく三郎行元(高柳)・四郎行平(葛渡)の4人は頼朝に疎まれていたが、今日許された。廣行は三浦義明の娘と婚姻し義澄が身柄を預かっているため、義澄が連れ参上した。頼朝は簾越しに顔を見てそれぞれが勇士の相貌なので心を動かした、と。彼らの父・下総権守大江戸重行は平家に従っていた罪により去年伊豆蛭島に流罪となっていたが、許されて召還される途中で病死してしまった。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月18日
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吾妻鏡にはこの項が9月3日に記載されているが、城資永の死没月日に合せた。
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越後の城四郎資永は(8/13の)勅命により軍勢を集め木曽義仲を攻めようとしたが今朝になって死没
これは天罰が下ったものだろうか。
従五位下越後守平朝臣資永、城九郎資国の子息、母は清原武衡の娘、養和元年8月13日任叙
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   ※城資永死没: 義仲追討軍を指揮して出陣直前の2月25日に卒中で死去。反攻を期待して昇進させた平家に
とって大きな痛手となった。血圧には注意しましょうね。
この訃報が半年後の9月に載っているのは単なる編纂者のミスだろうか。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月27日
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安田義定の飛脚が遠江国から到着した。申して云く、平通盛惟盛忠度らが数千騎の軍兵を率いて京を発ち、既に尾張国に至った。兵を派遣して防戦の準備をするべきである、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月28日
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志太義廣が常陸国鹿島神社(公式サイト)の神領を侵しているとの情報が伝わったため頼朝は物忌みの沙汰を出し、散位久経がそれを取り仕切った。また、今日、和田義盛・岡部忠綱(忠澄の父)・狩野親光宇佐美祐茂土屋義清らを遠江国に派遣した。平家軍が向っているとの情報に対応するためである。
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   ※鹿島の神領:略奪事件を(格下と考えていた)頼朝に咎められた事が後の義廣挙兵に繋がった、とされる。
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   ※物忌み:一般的には外出を控え行動に気をつけることを指す。

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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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2月29日
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九州で兵乱があった。肥後の住人菊池隆直・豊後の住人緒方惟能らが平家に叛いたためである。
隆直に味方したのは木原盛實法師・南郷大宮司惟安、惟能に従うのは大野家基・高田隆澄ら、その他に長野太郎・山崎六郎・同じく次郎・野中次郎・合志太郎ら。600余騎の精兵を率いて陣を固め、海陸の往還を封鎖した。
そのため平家方の原田種直が九州の官兵2000騎を指揮して合戦し、隆直側兵士の多くが負傷した、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは2月の次が閏2月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月4日
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夜半に入道相国(平清盛)が九條河原口にある盛国の家で死去した。先月の25日から病床にあったものである。
遺言は次の通り。
三日が過ぎた後に葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺に納めて七日ごとに通常の法事を営むこと、毎日の法事はしないこと、京都で追善の法事は営まぬこと、一族の者はただ東国平定の努力をすること、と。
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   ※山田法華寺: 平家の荘園があった現在の神戸市垂水区西舞子(地図)と考えるのがノーマルだが既に廃寺
となり痕跡も不明。清盛の墓所については諸説があり確定に至っていない。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月7日
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頼朝誕生の時に最初の乳を含ませた女(現在は摩々と名乗る尼で、相模の早河荘に住む)を呼び出した。親愛の思いがあるため、屋敷や所領の農地などに間違いが起きないよう総地頭に申し付けた。
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   ※早川の摩々: 土肥郷と早川荘は土肥實平から嫡子小早川遠平が継承した。この時の総地頭は遠平か。
摩々は頼朝の乳母説と義朝の乳母説があるが、どうやら別人(同名の母と娘か)らしい。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月10日
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平宗盛の家臣・景高(平忠清の弟・景家の嫡男で宗盛の乳兄弟、本拠は飛騨)の率いる千余騎が頼朝を討つため関東へ向った、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月12日
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伊豫の住人河野(越智)通清(愛媛一帯の海域を支配していた水軍の長で河野通信の父)が平家に叛き伊豫を占領したとの情報あり。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月15日
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以下・閏2月28日までは吾妻鏡編纂者のミスで、実際には治承五年(1181)ではなく寿永二年(1183)の記事。従ってここでは緑色で記載し、寿永二年の該当箇所には写本(別窓)を載せると共に通常の文字で記載した。
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院から頼朝追討の下し文が出された。平重衡朝臣が携え、1000余騎の精兵を卒いて東国に向った。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月17日
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安田義定和田義盛・岡部忠綱・狩野親光宇佐美祐茂土屋義清、及び遠江の住人横地長重・勝間田成長らを率いて浜松の橋本に到着。頼朝の命令に従って、この要害の地で平家を迎え討つためである。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月19日
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京都の様子を報告する中宮大夫三善康信の書状が鎌倉に届いた。去る4日には清盛が死去し、遺骨を送るため一門はすでに播磨国に向った。世間が少し落ち着いたら鎌倉に参上したい旨が書かれていた。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月20日
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頼朝の叔父志田義廣は血族の縁に繋がる事を忘れ、数万騎の兵を率いて鎌倉を攻めようと常陸国を出陣し下野国に入った旨の報告が届いた。平家軍襲来の情報があったため鎌倉の軍兵の多くが駿河国以西に派遣されており、義廣の行動には思い煩わされるものがある。下総国には下河邊行平が、下野国には小山朝政がいる。両人は命令がなくとも戦って功績を挙げるだろう。
さらに今日、朝政の弟(長沼)宗政と従兄弟の政平などを援軍として下野国に向け出発させた。政平は頼朝に暇乞いの挨拶をした後に出発したが、頼朝は「政平には二心がある」と語った。果たして政平は途中で宗政と別れ、裏道を通って義廣の陣に馳せ参じた。

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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月21日
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頼朝は本日以後の七日には鶴岡若宮に参詣する願を立てた。これは東西の逆徒蜂起(東の義廣と西の平家)の平定を祈るためで、未明に参詣して神楽を奉納した。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月23日
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義廣は数万余騎兵を従えて鎌倉に向った。最初に誘った足利忠綱は元より源氏に叛いているためこれに従った。
小山と足利(藤姓)は藤原秀郷流の同族だが同じ下野地域で覇権を争う間柄。去年の夏に以仁王が平家討伐の令旨を諸国に送った際に小山には話があったのに忠綱にはなかった。その鬱憤もあって平家に加わり、宇治川合戦では源三位頼政の軍を破り以仁王を討ち取った。この際に小山も滅ぼしてしまおうと考えたのである。
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次に義廣は兵を挙げた旨を小山朝政に伝えた。朝政の父政光は大番役(皇居警護の役務)で殆どの部下を連れて在京しており、朝政の手勢は少ないが頼朝に臣従している。義廣を討ち取る軍議をしたところ歴戦の家臣が「味方すると偽って殺す機会を図るべき」とし、義廣に参加する旨を伝えた。
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義廣は喜んで朝政館に向ったが朝政は一足先に館を出て野木宮に隠れ、登々呂木澤や地獄谷の樹に部下を登らせて大声を出し大軍を装い、義廣が慌てた所へ郎従が攻めかかった。25歳の朝政は緋威の鎧に鹿毛の馬で走り回り多くの敵を倒した。義廣の矢を受けて落馬したが致命傷にはならず、乗馬は登々呂木澤で嘶いた。
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ちょうど鎌倉から小山に向っていた五郎宗政(20歳)はこの馬を見て朝政が討死したと思い義廣陣に攻め込んだ。義廣の乳母子・多和利山の七太が馬に鞭を当て宗政の左に立ち塞がったためこれを射落とし、小舎人童が首を獲った。義廣は少し退却し野木宮の西南に陣を張った。
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朝政と宗政は東側から攻め掛かり、ちょうど強い風が焼け野の塵を吹き上げたため人馬共に視界が利かずに分断され、多くの兵が地獄谷・登々呂木澤に死体を晒す結果となった。
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下河邊行平と弟の政義が古我(古河)と高野の渡しを固め、敗走する敵を討ち取った。足利有綱・嫡男の佐野基綱・四男の阿曽沼廣綱・五男の木村信綱、大田行朝らが小手差原に陣取り小堤などで戦った。他に八田知家・下妻清氏・小野寺道綱・小栗重成・宇都宮信房・鎌田為成・湊河景澄らも朝政軍に加わり、更に範頼も同様に加わった。
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小山朝政は藤原秀郷(俵藤太)が天慶の時に平将門を追討して下野と武蔵の国守を兼任し従四位下に叙されて以降この地を支配した一族の棟梁である。いま義廣の謀計を聞き命を惜しまず忠義を尽くして勝利を得た。

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   ※義廣の兵力: 頼朝が鎌倉に向った時は関東の武者が次々と馳せ参じて総勢2万7千騎、と書かれている。
それを考えれば志太義廣の兵力3万騎は明らかに誇張で、動員力の劣る朝政に敗れるのは合理性に欠ける。せいぜい千騎程度か、騙し討ちだった可能性もある。
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   ※野木宮合戦: 詳細地図などはこちら、現在の渡良瀬遊水池の東側一帯が戦場だった。
「大声で脅かした」とか「ちょうど宗政や下河邊や八田や範頼が...」など不合理な記述が多すぎる。叔父の義廣と藤姓足利氏を常陸・下野から駆逐するため鎌倉側は周到な準備をして大軍を派遣した、それが事実だろう。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月25日
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足利忠綱志太義廣に味方したが野木宮の合戦で敗れたのを悔やんで上野国の山上郷龍奥に引き籠った。家臣の桐生六郎だけを伴って数日間隠れてから六郎の勧めに従って山陰道を経て九州方面に落ち延びた。
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この足利忠綱なる者は無双の勇士で、他人よりも抜き出た事が三つある。その一つは百人力・二つは十里も届く大声・三つは三寸(この場合は3cm)もある歯である、と。


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   ※山上郷龍奥: 桐生市新里町西部。山上城址(地図)が残っている。
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     右画像は忠綱が開いたと伝わる足利の福厳寺。
     画像をクリック→ 福厳寺と両崖山城址(サイト内リンク・別窓)へ。

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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月27日
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頼朝が鶴岡八幡宮に参拝。願を掛けて7日目、満願の日である。志太義廣挙兵の件はどうなったかと独り言を漏らすと、太刀持ちとして控えていた小山(結城)朝光が言うには、既に朝政に攻め滅ぼされたでしょう、と。
頼朝は振り返って「若者の言葉は心の思いつきではなく神託だろう。もしその通りならば褒賞をあたえなくては」と言った。朝光は今年15歳である。
参拝が終わり御所に戻ると行平と朝政の使者が到着、義廣が敗北し逃走した旨を報告した。夜になって朝政の使者も到着し義廣方の武士の首を持参したと報告、頼朝は三浦義澄比企能員に命じ腰越の獄門に晒させた。

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   ※腰越の獄門: 腰越は鎌倉の外とされ、獄門があったらしい。後に義経の首も腰越浜で実検されている。
大庭景親も片瀬川で斬られているし後に日蓮法難のあった龍ノ口刑場も腰越から500m圏内、同じ場所だったのかも知れない。
朝光はこの合戦の功績で結城を与えられ、結城一族の祖となった。(地図)
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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閏2月28日
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小山(長沼)宗政が(先日の合戦で負傷した)朝政の代理として一族及び共に参戦した者を伴い鎌倉に参上、頼朝と対面して勲功を褒められた。宗政と下河邊行平およびその一族は西側に、八田知家と小栗重成らは東側に列した。義廣に従い捕虜となった者は29人、或る者は首を晒され或る者は行平や有綱に預けられ拘留された。
次いで、常陸・下野・上野で志太義廣に味方した輩の所領を全て没収、恩賞として朝政や朝光らに与えられた。

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   ※足利有綱: 藤姓足利氏棟梁俊綱(忠綱の父)の弟(庶子)。俊綱と忠綱父子は義廣に味方したが有綱と基綱
の親子は頼朝挙兵の直後から合流し、御家人として本領の佐野を名乗った。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月1日
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頼朝母の命日月である。亀ヶ谷にある土屋義清の仏堂で頼朝も出席し法事が行われた。導師は箱根権現別当の行實、供僧は専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿 ・専性房全淵・浄如房本月の5人。布施は導師に馬を一頭と絹二反、供僧にはそれぞれ白布二反が贈られた。
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   ※亀ヶ谷の仏堂: 義朝の旧邸跡に岡崎義實が建てたもので、前年10月4日の頼朝鎌倉入りの際に御所を
造る計画を中止した場所。土屋義清は岡崎義實の実子である関係からこの仏堂を管理していたと推測される。頼朝死没の翌・正治二年(1200)閏2月12日、政子はこの仏堂の場所に栄西を開山として壽福寺(サイト内リンク・別窓)の創建に着手している。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月6日
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伊勢神宮の神官・大中臣能親の書状が中八維平に届いた。
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去る1月19日に熊野神宮の湛増の一党と称する者が伊雑宮に乱入して建物を壊し宝物を盗んだ。御神体の鏡は伊勢内宮に遷したが、26日には仲間が山田郷と宇治郷を襲って民家に放火し略奪を働いた。
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天照大神の鎮座から1100年余、また皇室から斎宮が派遣され始めて600余年を経るが、こんな例はなかった。今は源家再興の時なので行動を慎むべきである、との内容である。
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維平は内容を報告、頼朝は「湛増は味方の筈なのに、この行動は驚くべき事だ。神宮には対処すると伝えよう」とした。
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   ※中八維平: 素性には吾妻鏡の誤記、同名異人説など諸説ある。
   ※伊雑宮: (いざわのみや・wiki)は伊勢神宮の別宮で内宮の南東10kmにある。地図はこちら
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月7日
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大夫屬入道三善善信(康信)が書状で報告。「去る2月7日に後白河院で協議があり、武田信義に頼朝追討の命令を下すと決められた。これは諸国の源氏ではなく、頼朝だけを指定している」との事。
頼朝は武田が異心を抱く可能性を考えて仔細を信義に尋ねたところ、本人が今日駿河から参着した。曰く、「追討の命令は届いていない、例え命令があっても従う意思はない。異心の有無はこれまでの功績で明らかであり、子々孫々まで叛く事はない。」との起請文を差し出したので対面となった。
用心のため三浦義澄下河邊行平佐々木定綱盛綱梶原景時を呼び左右に待機させた。信義は帯刀を外し、頼朝が奥に入った後に自らが退出するまで行平に預けた。
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   ※三善康信: 前年6月19日にも記載されている、頼朝の乳母の妹の子。月に3度は書状で京の様子を報告
しており、以仁王と頼政の敗死後に諸国の源氏追討令が下された時も早々に報告して奥州への逃亡を勧めている。ただし、重要な局面にそれとなく現れて有能さをアピールする例が多いため吾妻鏡を編纂した人物の一人とも考えられている、らしい。面白いねぇ!
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   ※頼朝追討の院宣: 駿河の武士に宛てて「頼朝の命令に従わず平重衡に従うべし}との院宣が発行された
のは事実。武田信義は前年の10月21日から駿河に駐留して統治・防衛の任務に就いているため、院宣発行は信義も知っていたと考えるのが自然か。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月10日
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十郎蔵人行家為義の十男、義朝の末弟・頼朝の叔父)は嫡子太郎光家と同次郎・僧義圓・泉重光など尾張と駿河の武士を伴って墨俣川近くに布陣した。
平氏の大将軍は重衡維盛・通盛・忠度・知度・高田盛綱・左衛門尉盛久らが墨俣川西岸に布陣。
夜になって馬を洗うため川岸に来た重衡の舎人が源氏軍に夜襲の動きがあるのを察知して報告し、平家軍は源氏が出陣する前に急襲した。混乱した源氏軍は抗戦もままならず義圓は高田盛綱に討ち取られ、行家次男の次郎は忠度の捕虜となり、泉太郎と弟次郎は左衛門尉盛久に討ち取られた。他の軍兵も溺れたり討ち取られたりして凡そ690余人が落命した。古戦場周辺の地図は こちら
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   ※義圓の戦死: 合戦の経験が乏しい義圓は功を焦り一番乗りの栄誉を狙って夜半に渡河。葦の中に潜んで
いるのを発見され甲冑が濡れていたため討ち取られたらしい。墨俣川古戦場(サイト内リンク・別窓)周辺には義圓の墓や義圓地蔵などが残っている。
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   ※指揮官の行家: 平家物語は源氏六千騎vs平家三万騎・玉葉は源氏五千騎と記録しているから戦力に差が
あったのは事実らしい。指揮官の行家は40km南の熱田へ敗走、更に追撃を受けて30km南東の矢作を経て鎌倉に逃げた。恩賞はもちろん拒否されたため常陸の志田義憲の元に身を寄せ、義憲が滅びた後は木曽義仲に庇護されることになる。信義に篤い義仲は自分を頼ってきた無能な行家を見捨てなかった。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月12日
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諸国で平氏の攻勢が続き、警戒心が鎮まらない頼朝は諸国の神社に立願。まず常陸国の塩浜・大窪・世谷などの荘園を鹿島神宮に寄進した。また更なる信仰心から鹿島三郎政幹を神社の惣追捕使(警備責任者)に任命した。
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   ※鹿島政幹: 平成幹(鹿島・大掾・吉田)の三男で嫡子。父の政幹は新羅三郎義光の郎党で、次期棟梁を狙う
義光の命令を受けて河内源氏四代棟梁義忠を暗殺し、その後に口封じのため殺害された人物。政幹は常陸国鹿島郷を相続していたため鹿島神宮に対する発言力があったのだろう。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月13日
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安田義定の使者武藤五が遠江国から到着して曰く、「頼朝代官として守護を務め平家軍の襲来に備えている。このたび橋本に防御陣地構築のため人夫を招集したが浅羽庄司宗信と相良三郎らが馬鹿にして協力しない。私の前を騎馬で通り過ぎる非礼もあり、これは逆心を持つからだ。彼ら一族の多くは平家に従っているため早く処罰を加えるべきである」と。
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   ※橋本: 現在の浜名郡新居町。江戸時代に造られた国特別史跡・新居関所跡(参考サイト)から約1km南の
旧東海道沿いに橋本の地名が残る(地図はこちら)。鎌倉時代以降に橋本宿として栄えた。
頼朝の庶兄義平の生誕地が橋本宿とも言われるが、これは京都の橋本宿(石清水八幡宮近く)。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月14日
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浅羽庄司宗信・相良三郎については、片方の申し立てのみで罪は問えないと武藤五に言い含めた。武藤五が言うには「彼らの行状を訴えるため使者を送ったことは国中に知らせている。もしも何の裁可も得られずに帰国すれば守護としての 安田義定の権威失墜となる。後日もし虚偽の訴えだとなったら自分を斬罪に処して構わない」との事なので、全て義定に従うように命令書を発行した。
但し、浅羽庄司宗信の申し立てが理に叶っていた場合には訴えた側の罪を問う旨も書き加えた。
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   ※安田義定: 建久四年(1193)に謀反の罪で殺されている。頼朝は早期に臣従した小笠原や石和ら以外の
甲斐源氏を基本的に信頼せず、使い捨ての戦力と考えていた端緒が窺える。遠江国での義定がかなり強引な所領拡大を行って在地の武士と争いを起こしていたのも事実。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月19日
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尾張国の住人・大屋安資が鎌倉に駆けつけた。「去る10日に蔵人行家が墨俣川で平家軍と合戦し惨敗、重衡率いる平家軍は熱田神宮へ入った。先陣の行家軍が敗れたので更に東進してくる恐れもある」と。頼朝は「尾張の在庁官人の多くが平家に従っている中で安資が忠節を守っているのは神妙である」とした。
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   ※大屋安資: この報告の功績で所領を安堵され、尾張国の守護として現在の稲沢市大矢に城を築いた。
後に和田義盛の婿となっている。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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3月27日
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片岡常春に謀反の噂があるため下総の領地に雑色を送り呼び寄せようとしたところ、領内に乱入したとして傷付け、捕えて面縛した。従って罪科が重なったので領地を没収し雑色を釈放して鎌倉へ戻させる旨を命じた。
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   ※片岡常春: 高望王の四男良文→嫡男忠頼→次男忠常から続く房総平氏の系で三崎(現在の銚子周辺)を
本領とした。今回の罪が許された後に義経に従い壇ノ浦で戦功を挙げたが、文治元年(1185)に至って佐竹義政(隆義の長男)の残党とされ再び領地を没収、千葉常胤に与えられた。その後は義経に従って奥州へ逃れた、また平泉高舘で義経に殉じたなどの説があるが詳細は不明。
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   ※面縛とは: 後ろ手に縛った紐を顔に廻し上向きにさせること。晒し者、屈辱の意味を持つ。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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4月1日
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頼朝が八幡宮に参詣。庭に蔦が茂り垣にも草が絡まっていたため大庭景能(景義)に掃除の差配を命じた。
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   ※八幡宮清掃: 大倉御所から500mで住僧も多いのに雑草の繁茂は理解できないねぇ、夏でもないのに。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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4月7日
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御家人の中から弓の名手で忠節心の確かな者を選び夜間の寝所警の役を命じた。江間四郎(北條義時)・下河邊行平結城朝光・和田義茂 (義盛の弟)・梶原景季景時の嫡男)・宇佐美(大見)實政榛谷重朝葛西清重三浦(佐原)義連義明の九男)・千葉胤正常胤の嫡男)・八田知重知家の長男で小田氏の祖)らである。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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4月19日
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腰越の浜で平井紀六久重を斬って首を晒した。北條宗時を射殺した罪は軽くないため拘留されていた者である。
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   ※平井紀六斬首: 宗時が函南で討たれたのは石橋山合戦直後の8月24日、秦野で捕まったのが4ヶ月後の
1月6日。すぐ処刑しなかったのは何か理由があるのだろうか。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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4月20日
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小山田(稲毛)重成は頼朝の御意に叛くところがあり、頼朝の意向を恐れ蟄居している。これは前年に東国御家人の本領が安堵を受けた際に多西郡内吉富と一宮蓮光寺を自分の所領に書き加えて提出した。これはそのまま認められたのだが、平太弘貞(現在の日野市南部を領有した武士)が自分の領地であると書類で申し出た。調べるとその通りだったため弘貞の所領と変更された。この虚偽記載が明白になったためである。
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   ※小山田重成: 稲毛重成と同一人物。稲毛荘(川崎市多摩区)を安堵され、稲毛を名乗った。
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   ※一宮蓮光寺: 一宮は現在の京王線聖蹟桜ヶ丘駅一帯で連光寺はその東側、共に多摩市に地名が残る。
吉富郷の位置は不明だが「キット」の当て字と考える説があり、その考えに従うと多摩市乞田(こった・京王永山駅周辺・ 地図)の可能性がある。これらは全て小山田重成の本領だった現在の町田市小山田地区に隣接している。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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4月30日
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遠江国浅羽庄司宗信安田義定の訴えで所領を没収されたのだが経緯を仔細に弁明した。安田義定のとりなしもあったため荘園の一部である柴村と田所職を返還した。 宗信には子息や家臣が多く、鎌倉にとって今後も必要な人物である。
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   ※浅羽宗信: これは3月14日に安田義定が宗信の非協力的な態度を訴えた件の裁決らしい。
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   ※田所職: (田荘職)は国衙で領内の田畠の台帳作成や管理などを担当する職位。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月8日
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園城寺(三井寺)の律静房日胤の弟子日恵(師公)が鎌倉に参着した。日胤は千葉常胤の息子で頼朝のための祈祷を受け持っており、去年の5月に祈祷の願い状を送っておいたものである。
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日胤は石清水八幡宮に千日参籠して無言で大般若経を読み、600日目に黄金の兜を授かる霊夢を見た。願が叶ったと感じた翌朝に以仁王の三井寺入御を聞き頼朝の願い状を日恵に託して以仁王の陣に走り加わった。
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その後26日に光明寺の鳥居付近で平家の兵に討ち取られた。日恵は続いて千日の参籠を済ませ師匠日胤の遺志を引き継いで鎌倉に参向しようと考えたが、戦乱のため今に延びてしまった、と。
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   ※光明寺鳥居: 以仁王戦死の地で現在の山城町(地図)、詳細は前年の5月26日の項で。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月13日
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鶴岡八幡宮造営の木材について指示があり、土肥實平大庭景義が奉行することとなった。去年仮に建てたものは急いでいたため松の柱に萱葺きだったが、今回は立派な社を造り神の威光を 示す建物にする、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月16日
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信濃国の村山と米用の地は従来通り村山七郎源頼直の所領とされた。これは頼朝挙兵の帰趨がまだ判らない時に平氏に敵対し越後の城助職(長茂)と戦った功績に報いるものである。
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   ※村山と米用: 村山は現在の須坂市西部の千曲川沿い。米用はその南部で「米持」の地名が残る。
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   ※平氏に敵対: 信濃源氏井上氏の一族・村山義直と平家側の豪族・笠原頼直が前年(治承四年・1180年)の
9月7日に市原合戦(善光寺裏合戦・長野市若里)を戦っている。村山方は木曽義仲に援軍を要請し、義仲の大軍を見た笠原方は越後の豪族・城資永の勢力圏へ逃げた。
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   ※越後の城氏: 城資永は義仲追討の出陣直後に卒中で急死。兄資永を継いだ城長茂(助職・資職)は一万の
大軍を率いて信濃に攻め込んだが横田河原の合戦(治承五年・1180年6月13日)で義仲軍三千に敗れ越後へ逃げ帰り、平家滅亡後は梶原景時の仲介で降伏し御家人に列せられた。
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景時が滅亡した一年後の建仁元年(1201)に長茂は倒幕の挙兵をして京で討死するが、資永の嫡子資盛が鳥坂城に籠って抵抗、長茂の妹・坂額は得意の弓で幕府軍を悩ました。
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最後には坂額も藤沢清親の矢を受けて負傷し、鎌倉に連行され浅利与一武田信義安田義定の弟)の妻となって甲斐国浅利郷(現在の中央市豊富)で生涯を送っている。
史跡など詳細は浅利与一と坂額を参照されたし。資盛は逐電して行方不明になっている。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月19日
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十郎行家は三河国から平家追討のため京へ向おうと図った。まず祈祷のため伊勢神宮三河目代の大中臣蔵人以通と相談して密かに願状を書き御幣物を添え二所太神宮(伊勢神宮内宮と外宮)に奉納した。内容は以下の通り。
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内外宮政所大夫殿   行家殿の仰せにより御幣物(美紙十帖、八丈絹二疋)を添え、このたび行家殿が受けた夢のお告げの内容を申し上げます。その趣旨を叶える祈念を頂く様にお願い申し上げます。
         治承五年五月十九日  三河御目代大中臣以通
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  ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌・養和二年に載っているが日付の通り治承五年のもの。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月23日
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御所の近くに大姫の住居と厩を建てるよう命令が出た。土用前に作業を始めるため資材を直接送ること、一両日中に大工職を寄越すように安房国の在庁官人たちに命令を下した。一品房昌寛が作業の管理を担当する。
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西暦1181年
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81代 安徳
5月24日
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大姫邸と厩の縄張り作業が始まった。大庭景義梶原景時・一品房昌寛が差配し、御家人らが人夫を拠出した。
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西暦1181年
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81代 安徳
5月28日
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昨夜、安房国の大工が参上した。よって今日、柱を立て棟上げが行われた。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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5月29日
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去る19日に十郎蔵人が伊勢神宮に奉った告文の返事が三河国に届いた。書状に曰く、
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仔細を拝見しました。去年の冬から関東が鎮まりません。特別の祈祷をするように綸言(天子の言葉)を受けたにも拘わらず、神主や禰宜が朝廷に背いて源氏に意を入れた祈祷をした旨を報告せざるを得ない状況になりました。再三に院宣を受けてその真偽を問われたため、もう過ちは犯さない旨の請文を提出した始末です。そのため、源氏のために祈祷をせよと言われても後日に朝廷の咎めを受ける恐れもあり、神宮を崇敬する故であっても朝廷の裁可がなければ祈祷は出来かねます。
また関東に伊勢神宮の領地は多くありますが、管理人たちは騒動が頻発することや兵糧米の要求などのため、催促しても神への税の納入が少なくなっています。神官たちも窮乏して経費も賄えず、神慮を損なう恐れさえあります。その旨のご理解をお願します。     治承五年5月29日  太神宮政所権神主
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行家は返状を読んで神慮が思わしくないのを知り更に周章した。そして比叡山に状を送り平家の求めを忘れて源氏に協力してくれるように依頼した。
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  ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌・養和二年に載っているが日付の通り治承五年のもの。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月某日
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越後の城四郎永用(長茂・助職・資職)が小河庄赤谷に城を構え、妙見大菩薩を祀り源家を呪詛している旨の情報が伝わってきた。
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  ※妙見大菩薩: 真言密教で天の中心を司る北斗七星を象徴とする信仰。山犬信仰と結びついて独特な世界を
形成している。かなり複雑怪奇だが興味があれば、詳細はこちら
関東では千葉一族を守護する千葉神社をはじめ秩父神社三峰神社などに妙見信仰の一端が見えるらしいが、ややこしいので深く追求しない。千葉周作の一刀流「北辰」は北極星を指す。北斗七星と北極星と千葉の姓、関係はありそうだが...
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  ※小河庄: 現在の新発田市で、赤谷の城は加治川上流標高205mの山城(地図)
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  ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の寿永元年(1182)9月28日に載っているが、治承五年(1181)6月13日
の横田河原合戦の前でなければ脈絡が失われる。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月13日
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越後の城永用(長茂・助職・資職)は国主の兄資元を継承し源氏を攻めようとした。今日、木曽義仲が北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)付近で合戦し、夜になって永用は敗走した。
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  ※この記事は: 横田河原の合戦(治承五年・1181年6月13日)を指す。横田城(地図)は現在のJR篠ノ井駅の
東が史跡で土塁跡などが残っている。
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  ※日付の誤り: 吾妻鏡の寿永元年(1182)9月3日に載っているが治承五年(1181)6月13日が正しい。
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西暦1181年
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81代 安徳


治承五年
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6月13日
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頼朝は新造の御所へ移った。千葉常胤が椀飯を献上した。(食事の饗応。更に詳細はこちら
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月19日
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頼朝は納涼を兼ねて毛利頼隆らの御家人を従えて以前から招待されていた三浦へ渡御した。上総廣常は仰せの通りに佐賀岡浜で出迎えた。廣常に従っていた50余人は下馬して平伏したが廣常は轡を緩めて礼をしたのみだった。このため三浦義連が頼朝の馬前に出て廣常に下馬を促したが廣常は「祖父から三代に亘りそのような礼はしていない」と答えた。
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その後に故三浦義明の屋敷跡(義澄邸)に至り、三浦義澄が豪華な酒宴椀飯を提供した。宴が進んだ時に岡崎義實が頼朝の水干を望んだため、これを与えた。廣常が強くこれを妬んで「こういう見事な衣裳は廣常のような者が拝領すべきであり、義實ごとき老人が頂くとは論外だ」と。怒った義實は「廣常の功績は認めるが挙兵当時の忠義とは比べ物にならない」と言い返して口論になり乱闘の気配になってしまった。
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頼朝は「これは宥めようがない」と思ったのか、特に言葉を掛けなかったが、義連が走り寄って岡崎義實を叱り「兄の義澄が主君を迎え饗応しているのに変な騒ぎを起こすとは老狂によるものか」、そして廣常には「あなたも理屈に合わない事をしている。何か所存があれば後日に。宴会を妨げるのは下らない事である」と双方を何度も制止し、騒動は治まった。この仲裁により義連は頼朝に気に入られるようになった、という。
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  ※佐賀岡浜: 現在の葉山一色海岸らしい。真名瀬漁港東側の三ケ岡(地図)が佐賀岡の転訛か。
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  ※上総廣常: 寿永二年(1183)12月、廣常は頼朝の命令を受けた梶原景時に殺されている(謀反の冤罪)。
傍若無人な態度を殊更に描写したのは殺害の正当性を匂わせているのかも。
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  ※義明の屋敷跡: 衣笠城。三浦半島内陸部で一色海岸から約10kmの距離にある(地図)。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月21日
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頼朝が鎌倉に帰還。義澄は兜などを献上し更に「髪上揆」という名の馬一頭も献上した。幾多の合戦でこの馬に跨って戦ったが未だ敗れたことがない運の強い馬である、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月25日
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夜8時に彗星が艮(丑寅の方角・北東は陰陽道の鬼門)に現れた。鎮星(土星)の色(に似た?)青赤で尾を引いている。これは寛弘三年に出現して以後は起きなかった事である。
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  ※彗星出現: この日(6月25日)は西暦1181年8月7日。天文学上の計算に拠ればこの年に超新星が現れて
おり、8月初旬から約半年間観察されている。
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  ※寛弘三年: 西暦1006年4月30日には史上最も明るい超新星(-9等程度)が出現している。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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6月27日
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 鶴岡八幡宮の新築に使う材木のうち柱13本と虹梁2本が今朝由比ヶ浜に着く旨の連絡があった。
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  ※虹梁: 寺社建築に使う虹のように湾曲した梁を指す。伐採地は不明だが川から流して海路で運んだのだろう。
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西暦1181年
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81代 安徳


治承五年
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7月3日
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八幡宮社殿建築の命令が下されたが鎌倉にはその仕事に適した工匠がいない。武蔵国浅草の大工(名は郷司?)を呼ぶため、一品坊昌寛にその地の責任者に指示するように命じた。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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7月5日
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長尾定景が石橋山合戦で佐奈田義忠(余一)を討った罪を許された。
義忠の父である岡崎義實に身柄を預けていたが義實は情けのある者なので殺さずに囚人として拘留していた。定景は毎日怠らずに法華経を読んで過ごしており、義實は夢のお告げがあったと頼朝に報告した。
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「息子の仇は殺さないと気が済まないと考えたが、定景の読経を聞くたびに怨む心が消えていく。もし彼を殺せば義忠<が成仏する妨げになる気がするので赦免してほしい」、と。頼朝は「義實の苦悩を癒すために与えたのである。法華経を読み、許すことで癒されるのならば同じ結果である」として赦免を許可した。
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  ※長尾定景: 28年後の建保七年(1219)に再び吾妻鏡に登場している。八幡宮で実朝を殺し三浦邸に向った
公暁を義村の指示で討ち取っている。
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西暦1181年
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81代 安徳
治承五年
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7月8日
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浅草の大工が到着し八幡宮の建築が始まった。まず御神体を仮の社殿に移して頼朝が参拝した。
相模国の大庭御厨から巫女が呼ばれて遷宮の準備を行い、建設の差配は輔通と景能(景義)が行った。新設の正殿への正式な遷宮は来月の15日に行うのでそれまでの完成が命じられた。
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  ※大庭御厨: 鎌倉権五郎景政が大庭郷を中心に開発立荘し伊勢神宮に寄進したのが始まり。
平安時代末期には相模国で最大の荘園になっていた。景政の後は庶流の大庭氏がこれを差配し、景義の嫡男・景兼が和田合戦(1213)に連座して滅んだ後は三浦領に、宝治合戦(1247)で三浦が滅びた後は北條得宗家の所領となった。本拠の大庭城址はこちらで。
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西暦1181年
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81代 安徳
7月14日
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この日、改元。治承五年を改めて養和元年とした。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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7月20日
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鶴岡若宮の上棟式が行われた。手前東の仮屋に頼朝が着座し、御家人はその南北に控えた。工匠に褒美の馬を与え、その馬を引く役目を九郎義経に命じた
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義経は「私が上手(かみて)の手綱を引くと下手(しもて)の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」と答え、頼朝は重ねて「佐貫広綱畠山重忠がいる。この役目を卑下して従うのを渋っているのか」と。義経はその言葉に恐怖し、座を立って二頭の上の手綱を引き、重忠が先の一頭を、広綱が後の一頭の下の手綱を引いた。
その他に土肥實平・工藤景光新田忠常・佐野忠家宇佐美實政らが手綱を引いた。
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午後4時前後に式典が終り頼朝が退出した。その時に一人の大男が頼朝の後に立ち止まって何か言おうとし、下河邊行平が男を取り押さえた。御所に戻ってから庭に引き出すと柿渋の直垂の下に腹巻を着け、髷につけた札に「安房国故長佐六郎郎等左中太常澄」と記してあり、仔細を尋問すると「弁解する気はないから早く斬れ」と言う。
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行平が「もちろん首を斬るが、理由を言わねば意味がない、早く言え」と言うと「去年の冬に安房国で主人が追討されてから旧臣は困窮し寝ても覚めても憂いが絶えず、その恨みを晴らしに来た。どうせ殺されるのだから死骸の素性を人に知らせるため名札を付けたのだ」と。
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頼朝は「聞く必要はないから早く殺してしまえ。ただし今日は上棟式だから明日にせよ」とし梶原景時に拘留させた。次に行平を呼び「今日の対応は見事だったので褒美として望む事を一つ与えよう」と。行平は「大した望みではないが、毎年税として馬を朝廷に納めるのが農民の負担になっているので」と願った。頼朝は「褒美を望むのは官位か所領が常なので普通ではないが、望み通りにしてやろう」と言って貢馬免除の下し文を与えた。成尋がこの指示を下総国御厩別当宛の書面にした。
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  ※義経の立場: 既にこの時点では義経を家臣として扱う頼朝と源氏一族として処遇して欲しい義経の間に溝が
生まれている。ちなみに頼朝は文治元年(1185)8月16日の除目で清和源氏の下記6人を国司に任命して「御門葉」とし、他の者には公式の場で源氏を名乗る事を許していない。
     山名義範大内惟義足利義兼加賀美遠光安田義定源義経
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義経は除目の時点では関係が険悪となり実質的に御門葉から除かれ文治五年(1189)に死没、安田義定は建久五年(1194)に追討されているから良い加減な格式だけどね。実弟の範頼や全成は含まれず、血縁関係の近さではなく忠節度が優先されている。
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  ※義勝坊成尋: 本姓は佐野忠家、挙兵当初から頼朝に従った僧兵で修験者。息子の家長は八田知家の養子に
なっている。知家の妻は成尋の妹で頼朝の乳母の一人。
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  ※長佐六郎常伴: 現在の鴨川市一帯に勢力を持っていた武士。治承四年9月3日に安房の民家に入った頼朝を
襲撃する計画を察知され、三浦義澄の兵に討たれた。その合戦の場所は不明だが、鴨川漁港近くの貝渚(かいすか)地区に「一戦場(いっせんば)」の地名があり、ここが戦闘の跡と伝わっている(地図)。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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7月21日
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和田義盛梶原景時らが命令によって昨日捕えた左中太を連行して固瀬川に向かった。
遠藤武者が稲瀬川まで追って来て「景時は八幡宮造営の監督者なので至急戻るように。その代りに天野光家(遠景の弟)が義盛と共に沙汰を実行するように」と。これに従って光家が同行した。左中太常澄が言うには「その程度の事は予め判っているだろうに、軽率な殿様だ」と。
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やがて一行は固瀬川に着き左中太を斬って首を晒した。雑色の濱四郎時澤が別の使者としてこれを確認した。
その夜の頼朝の夢枕に僧侶が現れて「左中太常澄は頼朝の前世の敵である事が社殿の造営中に判明した」と語った。頼朝は「造営とは大菩薩を崇めることで、棟上の日にこんな事件が起きたのは大菩薩の加護だろう」と。時を置かず葛西三郎(清重を差す)に命じて厩の駿馬(名を奥駿)を八幡宮に献上した。
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  ※固瀬川: 江ノ島の近くに流れ込む現在の境川、稲瀬川は江ノ電長谷駅近くで由比ヶ浜に注いでいる。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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8月13日
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平氏の申し立てに基づいて藤原秀衡が頼朝を、平(城)資永が木曽義仲を追討すべき旨の宣下が行われた。
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  ※吾妻鏡の編纂ミス:宣下を受けた城資永は出陣直前の今年2月25日に卒中で死没した。従ってこの記事は
1月〜2月初旬の記事の日付違いと推定される。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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8月27日
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渋谷庄司重国の次男高重は良く忠節を尽くす者であり、加えて心も穏やかな人物である。頼朝はそれに心を打たれ、高重の所領である渋谷下郷に課せられていた年貢などを免除した。
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  ※渋谷高重: 横山時広の娘婿。建保元年(1213)の和田合戦では時広が和田義盛側で戦い、高重もそれに
従って討死している。渋谷下郷は現在の藤沢市の長後付近。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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8月29日
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祈願成就のため鶴岡八幡宮と近国の寺社で大般若経と仁王経などを転読させる命令が出された。その中には一日中の祈祷(読経)をさせる寺社もある。鶴岡八幡宮は兼ねてからその仕方が定められていた。伊豆山権現と筥根(箱根)権現については今これを指示してそれぞれに文書を送った。一品坊昌寛により手配が行われた。
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  ※転読: 大般若経・仁王経・観音経・曼荼羅経などの転読指示が記載されている。wiki動画を参照。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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9月4日
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木曽義仲は平家追討のため北陸道を経て上洛を目指した。先陣の根井太郎は越前国水津に入り平通盛の軍との合戦が始まった。
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  ※根井太郎: 信濃望月氏の傍流で義仲四天王の一人根井行親。義仲に従って各地を転戦、寿永三年(1184)
の宇治川合戦で戦死したらしい。佐久市根々井の天神山正法寺に行親の供養塔が残っている。
源平盛衰記(だったかな?)では一番乗りを試みた畠山重忠の乗馬磨墨を射たと書かれていたけど、磨墨は梶原景季の馬だろ?
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  ※現地の報告: 治安維持のため経正と越前国府に入った平通盛は「国中が反乱状態」と報告を入れている。
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  ※戦況の詳細: 史料では9月6日に越前水津(敦賀市杉津・京まで約100km)に義仲軍vs平通盛軍が合戦し、
敗れた通盛は国府(現在の越前市)を放棄して南下し津留賀城(敦賀)に退却、11月にはここも放棄して京へ逃げ帰った。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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9月27日
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田口民部大夫成良率いる平家軍が伊予国に攻め込んだ。河野四郎(通清)ら在庁官人はこれに従わず合戦となったが兵力が足りないため河野側は敗北した。
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  ※田口成良: 清盛の忠臣だった安房国の武士。四国の勢力を結集して一ノ谷などで源氏軍と戦った。
嫡男教良は後に義経軍に転じ、父成良も平家を見限り義経軍に加わった。壇ノ浦合戦の帰趨に大きな影響を与えた寝返りだったが頼朝は功績を認めず、父子は鎌倉で処刑された。
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  ※河野通清: 伊予国の武士。頼朝挙兵の直後に平維盛の目代を討って伊予国を支配下に置いたが平家の命を
受けた田口成良らに攻められ伊予国高縄山城(現在の愛媛県北条市)で戦った後に討死した。嫡子の河野通信が伊予水軍の将として壇ノ浦合戦や藤原氏追討に転戦し、御家人として伊予での実権を握った(後に陸奥へ流罪)。
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  ※平家物語では: 巻九、六ヶ度軍(いくさ)の条に合戦の経緯が書かれている。
阿波・讃岐の在庁官人が瀬戸内海を渡り備前国下津井の教盛・通盛・教経の軍を襲った。教経らは反撃して敵を淡路へ追い詰め更に伊予を落とした。河野通信と豊後国(大分県の北部)の臼杵惟隆・緒方惟義ら2千人は備前国(岡山県東南部)今木の城(瀬戸内市・牛窓港近く)に入ったが教経が3千の兵に援軍も加え攻め寄せたため惟隆と惟義は本領の九州へ逃げ、河野四郎は伊予国に逃げた。奮戦を続けた教経は福原へ凱旋した。
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西暦1181年
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81代 安徳


養和元年
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10月3日
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平維盛が関東を攻めるために京を出発した、と。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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10月6日
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走湯山(伊豆山権現)の住僧・禅睿(叡)を鶴岡八幡宮の僧と大般若経を転読する僧に加えて八幡宮西の谷にある水田二町を(免税して)与える旨の命令書を出す、と。また玄信大法師も同職に加え最勝王経を休みなく転読する「長日役」に従わせる旨が命じられた。
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  ※禅睿(叡): 翌年8月5日の条にも「免税の田なのに労役などを課され難渋している」旨の訴えがあり、労役と
税を全て停止する命令が下された、と記載されている。ただしこの措置については別の見方もあり、該当箇所で再度掲載する予定。
 
  ※玄信大法師: 荘厳房 行勇律師(1163〜1241)に同じ。鶴岡八幡宮寺供僧から永福寺・大慈寺の別当を
経て鎌倉五山の五位稲荷山浄妙禅寺(wiki)の開山となった。頼朝と政子の信任も篤く、正治元年(1199)に栄西の門下に入って栄西没後は寿福寺二世を務めた高僧。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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10月12日
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書状で、常陸国橘郷を鹿島社(鹿島神宮・公式サイト)に寄進した。武家を護持する力があり、特に頼朝の信仰を篤くする神社である。
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  ※橘郷: 現在の行方市羽生(旧・玉造町)の一帯で、生贄になって海神を鎮めた弟橘姫(ヤマトタケルの妃)の簪
(かんざし)が流れ着いた伝説が地名となった。「道の駅たまつくり」(サイト内リンク・別窓)の近くに無住の橘郷造神社があり、5kmほど東には新撰組創始者の一人芹沢鴨の生家(行方市のサイト)がある。撮影した画像が行方不明だ(涙)。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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10月20日
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昨日、伊勢神宮神職の渡會光倫(相鹿二郎太夫)が鎌倉に到着した。頼朝が祈祷を依頼する書面を送ったため本日の対面に至った。
光倫が言うには「先月の19日に平家の命令を従い、東国の平定を祈り天慶の例に倣って金の鎧が伊勢神宮に奉納された。その前に祭主(神職の長)親隆卿の嫡男で神官少副の定隆が伊勢国一志の宿駅で死亡した。
また朝廷で奉納の沙汰が決まった当日には神宮本殿の棟木に蜂が巣を掛け、雀が小虫也を生んだ。この怪異現象は朝廷を軽んじ国を危うくする悪臣が敗れ去る時が来たことを示している。」と。
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頼朝は「去る永暦元年(1160)に流罪となり京を出る時に夢のお告げあってから伊勢神宮への思いは他と違うものがある。願成就の時には必ず新しい御厨(荘園)を寄進しよう」、と。
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  ※祭主: 伊勢神宮のみに置かれる神職。神宮の祈年祭・月次祭や
神嘗祭に奉幣使として天皇の意思を伝える。
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  ※一志の駅: 定隆が急死した伊勢街道の宿駅。紀勢本線六軒駅の
北に大正八年建立の勅使塚(地図)がある。
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  ※小虫也: 蛇の子あるいは未熟な子など諸説あるが、要するに通常
ではない子。
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  右画像は伊勢神宮内宮の拝殿前。画像をクリック→ 公式サイトへ。伊勢神宮訪問記(サイト内リンク)も参考に。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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11月5日
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足利義兼九郎義経土肥實平土屋宗遠和田義盛らが維盛軍を迎撃のため遠江国に向って出陣しようとした際に佐々木秀義が「維盛はいま近江国におり、関東に向う時期は不明である。十郎蔵人行家が尾張国に駐屯しているので準備をさせておけば急いで出発する必要もないだろう」と提言し、出陣は延期された。
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  ※吾妻鏡のミス: 行家は今年の4月25日に墨俣川合戦で重衡軍に敗れて熱田へ逃げ、更に追撃され三河の
矢作川の防衛線を突破された後に鎌倉に戻った。その後に志田義憲から離れて木曽義仲の許へ転々としている。従ってこの記事は墨俣川合戦の前のはず。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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11月11日
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加賀堅者が鎌倉に参着、彼は故頼政卿の一族である。「頼政の近親埴生彌太郎盛兼は宇治川合戦(頼政が自刃)から逃れて関東に落ち延びようとしたが、平宗盛の軍兵に捕らわれかけて自刃したため軍兵は仲間の少納言宗綱を連行した。親しかった私も捕まりそうになり、関東へ逃げてきた」、と。
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  ※加賀堅者: 大和源氏(頼親系)の頼安の子とする説もあるが、摂津源氏(頼光系)頼政の一族とは言えない。
仏法の議論で設問に答える者を「竪者(りっしゃ)と言うが...誰だろうね。
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  ※埴生盛兼: 頼政の近親ではなく郎党と思われる。
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  ※少納言宗綱: 藤原北家の公卿で従五位上。観相に長け「相少納言」と呼ばれたらしい。
「玉葉」には「少納言宗綱が「以仁王は天皇になる相の持ち主だ」と言ったために反逆者と判断されて捕えられた」、と書かれている。真偽は不明。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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11月21日
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通盛と行盛が北陸から京に戻った。経正は若狭国に駐屯を続けている。
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  ※名簿の詳細: 通盛清盛の弟教盛の嫡男(教経の兄)、行盛は重盛の弟基盛の嫡男、経正は清盛の弟経盛
の嫡男で敦盛の兄。盛り沢山で混線しそうだ(笑)。
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  ※若狭に駐屯: この年6月に横田河原の合戦で越後の城助職軍を破った木曽義仲は戦備を整えるため北陸に
留まっていた。この日は西暦の12月28日、戦線は春まで膠着状態になっていたらしい。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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11月29日
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早河庄の租税は頼朝の配慮により今後は免除される。
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  ※早河庄: 頼朝の乳母の一人摩々尼(母は義朝の乳母を務めた摩々局、二代続けての乳母)の所領。
閏2月7日にも相応の配慮をするように総地頭(小早川遠平?)に命じている。
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西暦1181年
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81代 安徳


12月7日
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御台所政子が病気になり、御所中が騒動となった。
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西暦1181年
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81代 安徳
養和元年
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12月11日
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最近は腹を病んでいた仏法の師・日恵が没し山の内(建長寺の北西)に葬られた。頼朝は悲しんで荼毘の地まで同行した。日恵は三井寺の律靜房日胤の門弟で仏法に通じた清廉な僧だった。師の縁を尋ねて鎌倉を訪れ、頼朝も帰依していた人物である。
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  ※律靜房日胤: 以仁王挙兵に合流して討ち取られた僧。5月8日に詳細の記載がある。
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前年・治承四年(1180)の吾妻鏡へ       翌年・養和二年(1182)の吾妻鏡へ