当サイトは http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html に変ります。ブックマーク変更を、お早めに!


養和二年(1182年)

.
前年・養和元年(1181)の吾妻鏡へ       翌年・寿永二年(1183)の吾妻鏡へ

左フレームに目次の表示がない場合は こちら から、どうぞ。   できれば、WINマシン+I E.8以降 での閲覧がベストです。
.
伏見版 吾妻鏡 の詳細画像(別窓) を追加しました。参考として御利用ください。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。
.
西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など

西暦1182年
.
81代 安徳


.
養和二年
.
1月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
早朝から鶴岡八幡宮で供僧らによる終日の勤行が始まった。頼朝の願成就を祈るためである。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


養和二年
.
1月3日
.
新年になって最初の外出で、頼朝は甘縄にある安達籐九郎盛長の屋敷へ。佐々木四郎高綱が弓を持ち、足利義氏・北條時政畠山重忠三浦義澄・和田義盛和田義盛らが後に従った。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
1月23日
.
平時忠の次男時家が初めて頼朝に面会した。継母の讒言により上総国に流され流刑地の上総廣常に気に入られて婿になった人物である。去年頼朝が三浦に出掛けた際に機嫌を損ねた事件があったため、廣常がそれを償うために面会させた。頼朝は京都の様子を懐かしがって歓迎し歓談した。
.

.
  ※継母の讒言: 父時忠の後妻・藤原領子が時家と折り合いが悪く、時家が謀反に加担した旨を夫に讒言し、
時忠と清盛がそれを信じた、と伝わる。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
1月28日
.
伊勢神宮に奉納するべき馬や砂金などが検討されていたが、今日禊の済んだ者たちが献上した。御所で頼朝が確認し採用を決裁した。まず金百両を千葉常胤と小山朝政が献上、次に神馬10疋が庭に引き出され俊兼が縁先で毛色と献上者を記録した。
.
鴾毛一頭・江戸太郎重長、河原毛一頭・下河邊四郎政義、栗毛一頭・武田太郎信義、栗毛駮一頭・吾妻八郎(常陸の武者か)、青黒一頭・高場次郎資幹、鴾毛駮一頭・豊田太郎幹重(下総国豊田荘、現在の常総市の武士)、鹿毛一頭・小栗十郎重成(常陸国小栗御厨(伊勢神宮領)、現在の真壁郡共和町の武士)、葦毛一頭・重葛西三郎清、白栗毛一頭・河越太郎重頼、黒瓦毛一頭・中村庄司宗平、以上を決め馬の世話人と共に生倫神主宅に預け置いた。
.

.
  ※生倫神主: 伊勢神宮の禰宜(宮司の補佐役)を指すらしい。
.
  ※再び馬の話: 平安〜鎌倉時代の一般的な馬は南方系の四川馬で
体高(首と背の境目)は平均して4尺2寸(130cm弱)程度だった。サラブレッドは160〜170cmだから、現代なら「ポニー(147cm以下)」のサイズ。
.
平家物語は「鎌倉勢と木曽義仲が戦った宇治川先陣争いで佐々木高綱が跨った生月は4尺8寸(約145cm)、極めて太く逞しい」と書いている。
.
それに比べても奥州の馬は四川馬よりもはるかに大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲(現代に換算すると100万円近く)もの値が付けいた、と言う。
.
頼義八幡太郎義家頼朝が奥州を欲しがった気持ちが判るなぁ...。
.
     右画像は随身庭騎絵巻(国宝) 宝治元年(1247)前後の騎馬武者姿を描いている。当時の平均身長は
     160cm前後らしいから、馬の体格は相当小さいのが感じられる。

.

西暦1182年
.
81代 安徳


養和二年
.
2月2日>
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
高場次郎の郎党・生沢五郎が頼朝の怒りを受け、囚人として小山朝政に預けられた。これは神馬が出発するまで大切に飼うよう命じられていたにも拘わらず手入れを怠けたためである。ただし生倫神主が「刑を課すのは神慮に叶う事ではない」と主張するため、罪は免れた。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
2月8日
.
諸国太平と民の幸せを祈る願状を伊勢神宮(公式サイト)に奉じた。生倫神主は衣冠束帯の正装で御所に上がってこれを預り、中原四郎維重に付き添われ出発、長江太郎義景が献納する神宝を管理するために同道した。
.
昔日の文久五年(1117)10月23日に義景の先祖である鎌倉権五郎景正が私領の相模国大庭を神宮の御厨として寄進しため、景正の三代目である義景がこの役目に最も相応しいと頼朝が決めたものである。
       ・・・この後に長々と願文の文面が続く。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
2月14日
.
伊東祐親法師は一昨年(治承四年10月15日)に捕えられ、囚人として三浦義澄に預けられていた。
このたび御台所政子懐妊の噂があり、義澄が頼朝の機嫌を窺っていたところ御前に呼ばれ「恩赦を与えよう」との仰せがあった。義澄がこの旨を祐親に伝えると祐親は参上すると答えた。
.
御所で待っていると郎党が走って来て、祐親が「ありがたい言葉を頂いて今更に過去を恥じる」と言い自殺してしまった、ただ一瞬の出来事だった、と。義澄は走って戻ったが、既に片付けられた後だった。
.

.
   ※三浦邸: 鶴岡八幡宮の東隣で大倉御所の西門まで200m前後、
現在の横浜国立大付属の校庭北側にあった。
.
   ※祐親自殺: 吾妻鏡は「前非を悔いて(御所に近い三浦邸で)自殺」
と書き、曽我物語は「恨めしげに伊東の方を眺めつつ鐙摺の三浦邸で自殺した(一部の異本では斬首された)」と書いている。個人的には、後悔ではなく恩赦を受ける屈辱を潔しとしなかった、と考えたい。
.
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
2月15日
.
義澄は御所の門前で堀籐次親家を経由して祐親自殺の件を報告した。
.
頼朝はこれを嘆くとともに心を打たれ、祐親次男の九郎祐清を呼び、「祐親は大きな過ちを犯したが、その事は許そうと思ったのに自殺してしまったのは実に悔いが残ることだ。ましてやお前を罪に問うことはできない、むしろ褒賞を与えるべきだろう」と。祐清が「父が死没しては褒賞など意味を持たない。早く身の暇を与えて欲しい」と言うため心ならず死罪とした。世間では潔い美談として語り合った。
.
頼朝が伊豆に住んだ安元元年の9月に祐親が討手を向け頼朝を殺そうとしたが、祐清の急報があったため辛うじて伊豆山へと逃がれられた、その功績を忘れなかったのだが、祐清の孝心はこんな結果になってしまった。
.

.
  ※祐清の処遇: 同じ吾妻鏡は「前年・治承四年(1180)10月19日(祐親が捕われた日)に頼朝の配慮を受けて
釈放され京に上って平家軍に加わった」、と書いている(重複記載)。平家物語には「祐清は寿永2年5月11日の倶利伽羅峠の合戦で討死した」、と。
.
史料に拠れば、共に戦った斎藤實盛は倶利伽羅峠から敗走した加賀篠原の合戦(wiki)後の篠原合戦で最後尾を守り討死、同じ東国から従軍した 俣野五郎景久や伊東祐清も共に篠原で戦死した、か。
更に平家物語は「俣野や斎藤らが「平家の劣勢は覆せないが、東国で名を知られた我らが寝返るなど見苦しい真似はできぬ。」として一人残らず討ち死にした。まことに痛ましい事だ...」と書いている。打算的な鎌倉御家人よりも、名を惜しむ平安武士のプライド。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
3月5日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
山田太郎重澄は朝夕祗候人だが、忠勤により(上野国)一村の地頭職を与えられた。
.

.
  ※山田重澄: 山田重澄は美濃源氏の末裔。義仲入京後は近江源氏の山本義経らと義仲に従っている。
  ※朝夕祗候人: 領地を持たない御所住み込みの家臣。一日当り玄米5升の年俸を受ける。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
3月9日
.
御台所政子が着帯の儀を行った。特別の仰せを承り千葉常胤の妻が帯を献上した。使者は常胤の孫・小太郎胤政。頼朝は丹後局の手を借りて自ら帯を結んだ。
.

.
  ※千葉氏: 千葉常胤の嫡男が胤正で、胤正の嫡男は成胤(この時は27歳)。帯を届けた「胤政」の名が系図に
現れるのは戦国時代になる。吾妻鏡って誤字誤録・思い違いの誤記がけっこう多いんだよね。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
3月15日
.
鶴岡八幡宮の前から由比ヶ浜までの道を整理して参詣の道を造った。
これは以前からの願だったが延び延びになっていた計画である。今回は御台所政子の懐胎を契機に頼朝自ら指揮して工事を行い北條時政以下の御家人がそれぞれ土石を運んだ。
.

.
  ※若宮大路: 御家人の宅地などが造成されて山地の保水力が弱まり、降雨のたびに若宮大路に水が流れ込み
惨状を呈したらしい。改修した若宮大路は巾33m、最も広い地点では60mもあった。
.
両側を掘り下げて巾3mの堀を造りその土を盛り上げたのが段葛で、浜から八幡宮入口の三の鳥居まで1.8kmも続き、横切れるのは3ヶ所だけだった。
.
若宮大路と段葛についてはこちらと、こちら(共に外部サイト)が興味深い。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


養和二年
.
3月20日
.
伊勢神宮への使者が鎌倉に戻った。内宮と外宮それぞれの最上位の神官が献上した品を受領し、懇切な祈祷をする旨を内々に答えたが願状は受け取らなかった。頼朝は平家に知れるのを憚ったと推察して釈然としなかった。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
4月5日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝が腰越を経て江ノ島へ赴いた。足利義兼北條時政新田義重畠山重忠下河邊行平・同じく政義結城朝光上総廣常足立遠元土肥實平宇佐美實政佐々木定綱・同じく盛綱和田義盛三浦義連佐野基綱らが供として従った。これは高尾の文學上人が頼朝の願成就のため弁才天を江ノ島に勧請し供養を始めるので臨席したのである。密かに決めた事だが藤原秀衡 の調伏(祈り殺す)が目的である。
.
本日鳥居を建て、帰路の金洗沢で牛追物を催した。下河邊行平和田義盛小山田重成(稲毛重成)愛甲三郎の矢が多く当り、それぞれが褒美に色皮や紺絹を与えられた。
.

.
   ※江ノ島: 奈良時代から修行の地として僧などが参籠していたが頼朝が参拝して鳥居を奉納したのを契機に
代々の将軍や御家人が詣でるようになった。
.
   ※高尾の文學上人: 神護寺(公式サイト)の文覚上人を差す。江ノ島に弁財天を勧請し三七・21日の間飲食を
断って祈り続けたと伝わる。どこの弁財天を勧請したのかは記録していない。
.
古いものとして東大寺三月堂(法華堂)にあった塑像が知られている(破損が著しいため現在は公開していない。復元コピー像は奈良国立博物館に展示している)。
.
   ※金洗沢: 腰越の約1.5km東、現在の江ノ電七里ガ浜駅付近。平家物語異本では鎌倉に入ろうとした義経
金洗沢の関所で梶原景時に止められ腰越に追い返された、とある。
.
また五代執権時頼の頃(1250年頃)の相州の刀工正宗(参考サイト)は金洗沢の砂鉄で作刀した、とも。日蓮忍性と雨乞いの祈りを競った池(参考サイト)もこの近くにある(地図)。
.
駅を降りてすぐ左手にあるのが「行合橋」、龍ノ口での日蓮斬首が江ノ島の方向から来た強烈な光のため執行できず、それを幕府に報告する使者と赦免を知らせる幕府の役人がここで出会った事から金洗沢は行合川・行合橋となった。
.
   ※牛追物: 放された牛を騎馬で追い、先端を保護した矢(蟇目)を射って的中を競うもの。後に標的が牛から犬
に変わり、犬追物として流行した。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
4月11日
.
平貞能は肥後国豪族らの反乱の動きを封じるため鎮西(九州)に駐留している。官人に命じて部下を伴わせ、国々を廻って兵料米と称する略奪を行った。
源氏に呼応していた肥後の住人菊池次郎高直は当面の災厄を防ぐため、やむを得ず平家に降伏した、と。
.

.
   ※略奪: 平貞能は節操を曲げない平家の忠臣だったが兵糧徴収は源氏から見れば略奪になる。
.
国際紛争の場合は...例えば「明治43年(1910)の日韓併合は「侵略」ではない」と主張する国家主義者も現れるし、「侵略か否かは立場によって異なるし、国際的にも定義は定まっていない」と公言する安倍首相みたいな御都合主義者も現れる。
.
その主張に従えば、中国のチベット併合や海洋進出(要するに海洋侵略ね)や、ロシアによるウクライナ介入も正当化できる。慰安婦問題だって「当人の自由意思だった」と強弁すれば済むことになるね。他人の痛みを理解できない連中の多いこと。
.
こんな連中が「経済を維持するために原発は不可欠」とか「安全保障のために沖縄の基地は不可欠」と主張する。その前に、原発事故で故郷を失った人々や基地の弊害に苦しむ沖縄県民の苦悩に配慮して根本的な解決策を講じるのが当然なのに。  年表には関係ないけどさ。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
4月20日
.
義朝を呪詛から守る護持僧だった圓浄が呼ばれ、武蔵国から参上した。
御所に詰めい確かな祈祷をするためで、頼朝が母の胎内にある時に着帯の祈祷をした者である。平治の乱後に京から武蔵国に移り連光寺を建立して定住していた。従ってこれは往時の功に報いるためと今回の祈祷のため、水田五町歩と桑田五町歩を未来永劫の約束で寄進した。
.

.
   ※連光寺: 前年の4月20日に連光寺付近の所領について平太弘貞と小山田重成(稲毛重成)が争った記事が
見える。連光寺は既に廃寺で痕跡も不明だが、現在も多摩市に地名が残っている。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
4月24日
.
八幡宮前の水田(弦巻田)三町歩余の耕作を停止させて池に造り変えた。専光坊と大庭景義が工事を奉行した。
.

.
   ※弦巻田: 神に供える米を栽培する田・斎田のこと。斎田を放生池(現在の源平池)に改めた。
社殿に向って右が源氏池で左が平家池、政子が源氏の繁栄を祈って東の池に白い蓮を・西の池に赤い蓮を植えさせたとか、源氏池には島を三つ(産)・平家池には四つ(死)造ったとか...後付けと思われる伝承が多い。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


養和二年
.
4月26日
.
文覚上人が招かれて参上。去る5日から江の島に参籠した21日間の行が終わって昨日退出した。その間は食を絶ち、肝を砕くほど心を込めて祈祷した、と。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
5月12日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
伏見冠者藤原廣綱が初めて頼朝に目通りした。文筆に長けており、頼朝が京の様子に詳しい人物を探していたため安田義定が推挙したもので、遠江国懸河が最近の居住地である。
.

.
   ※藤原廣綱: 大江廣元が公文所長官として多忙になった頃から頼朝祐筆の一人となった。 八幡太郎義家
兵法を教えた大江匡房(廣元の祖父)と並ぶ学者と称された藤原正家(1026〜1111)の子が廣綱だけど年代が合わないから別人だろうなぁ...。
.
   ※懸河: 現在の掛川。藤原秀郷が首実検のため平将門ら18人の首級をこの地の川で洗って橋に懸けたため
懸川と呼ばれた、との伝承がある。真偽は不明。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
5月16日
.
衣冠束帯に笏(wiki)を持った老人が御所に入り、童僕二人を従えて西の廊下に座した。それぞれ神官の浄衣を着て榊の枝を手にし、参入の理由を尋ねても答えない。平時家が尋ねて初めて口を開いた。「直接鎌倉殿(に申し上げたい」、と。時家が重ねて姓名を問うても名乗らないため報告した。
.
頼朝が御簾(みす)の陰から確認すると見るからに神に仕える風体なので面会した。老人曰く「私は豊受太神宮(伊勢神宮外宮)の禰宜(宮司の補佐職)為保です。遠江国鎌田の御厨は伊勢神宮外宮領として延長(923〜931)の昔から代々伝えられているのに安田義定が占拠して横領し、従来の経緯を話しても埒が明きません。何卒恩情ある裁決をお願します」、と。更に旧来の仔細を詳しく述べた。頼朝は信仰心が強いため義定の言い分を確認せず直ちに下し文を与えた。新籐次俊長を使者にして為保の指示する者が御厨の管理に当たる旨を命じた。
.

.
   ※鎌田御厨: 現在の静岡県磐田市鎌田。御厨の跡には現在も鎌田神明宮(公式サイト)が建つ。
.
   ※安田義定: 文治元年(1185)には御門葉(源義光 の子孫・甲斐源氏)の一人として源を名乗るのを許されて
いるが、建久五年(1194)に謀反人として討伐されている。
吾妻鏡が「義定の言い分を確認せず」と書いたのは甲斐源氏粛清の前触れと見るべきかも。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
養和二年
.
5月25日
.
相模国金剛寺の住僧らが古庄郷司近藤太の非法を訴えて御所に参上した。その状を相鹿大夫先生が読み上げた。内容は古庄郷司近藤太が仏教を尊ばず、住僧を山狩りに動員するなど、由緒ある山寺に先例のない賦役を課して召し使っている。これを早急に止めさせて頂きたい、と。
.

.
   ※金剛寺: 現在の厚木市にある古刹で大同二年(807)に空海が建立したと伝わる。
かつては飯山寺・金剛寺・観音堂・新長谷寺などが一体だった。詳細は 参考サイトで。(地図)。
実朝の首塚がある秦野の金剛寺とは異なる。
.
   ※古庄: 金剛寺(飯山観音)の数km南にある上古沢・下古沢らしい。
.
   ※郷司近藤太: 大友氏系図に載っている近藤能成で、武藤氏(武蔵の藤原の同族。子の(大友)能直が母の
実家で波多野経家の所領になっていた大友郷を相続し、豊後大友氏の祖となっている。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


養和二年
.
5月26日
.
金剛寺住僧の訴えの件は昨日裁決の予定だったが昌寛に支障があって欠席したため、討議を経て命令が下った。由緒ある山寺に山狩りや養蚕をさせるなど見苦しいから速やかに停止すべし、と。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


5月27日
.
養和二年を改め壽永元年に改元。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
6月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝は寵愛している妾の亀の前を呼び寄せ小中太光家の小窪宅に住まわせた。外聞を憚って場所を鎌倉の外に決めたのであり、浜へ出る際に寄れるのも便利だからである。
亀前は良橋太郎入道の娘で伊豆流罪の頃から深い仲になった。優しい顔立ちだけではなく心も柔和な女性である。この春頃から日を追って寵愛が深くなっていた。
.

.
   ※亀の前: 父親の良橋太郎入道を含めて素性は不明。伊豆流罪の頃に始まった関係だから当然伊豆近辺の
女性だろう。妻の妊娠中に浮気する男は多いらしいから(笑)、政子が大姫を出産した治承二年(1178)前後からの関係だろうか。
.
   ※小中太光家: 小中太光家は中原光家、流人の頃からの近侍。挙兵の時には参加する武士召集の使者を
務め、石橋山合戦にも従っている。幕府設立後は政所の職員となって仕えた。
.
   ※小窪: 現在の逗子市小坪。位置は不明だが騎射などを催す前浜(由比ヶ浜〜材木座海岸)へ出た際に寄る
のだから現在の逗子マリーナ寄りの海沿いだろう。大倉御所からは4km弱だが鎌倉の外なのは間違いない。鎌倉の外か内か、後に大きな違いとなる。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
6月5日
.
熊谷直實は領地を持たず御所に住み込みで忠勤を励んでいた。治承四年に 佐竹秀義を追討した際には特に勲功があり、その武勇により久下直光が横領した武蔵国の旧領などの領有を認めた。生国に戻っていた直実は今日参上し、その下文を受け取った。曰く、武蔵国大里郡の熊谷次郎平直實の所領について、先祖伝来のものなので久下直光の横領を停止し直實を地頭とする。常陸の合戦に功績を挙げ、云々...と。
.

.
   ※熊谷直實: 建久三年(1192)には頼朝の前で争論しており、癇癪を起こした直實は書類を投げ捨て髷を切り
御所から走り去った。その後は家督を嫡子に譲って法然の弟子になり翌年出家した。
一ノ谷で敦盛を討った元暦元年(1184)2月から8年後なので、直接の動機とは考えにくい。
.
   ※久下直光: 直實の生母の姉妹を妻にした武士で現在の熊谷市南東部の(行田や長井荘(斎藤實盛の所領)
と接している)久下郷開発領主。両親を早くに亡くした直實を養育し、所領の一部である熊谷郷を管理させていたらしい。その後も所領争いを続けたが、直實の主張には独善的な匂いがする。
.
   ※下文: 文面から判断して、書類の信頼性と正当性が疑われているらしい。子孫の偽造説が有力か。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
6月7日
.
頼朝は由比ヶ浜に出御した。武士たちはそれぞれ弓馬の芸を披露した。最初に牛追物(4/5の条を参照)が行われ、下河邊行平(頼朝の相手)・榛谷重朝和田義盛・同、弟の義茂・三浦(佐原)義連愛甲季隆が射手を務めた。
.
次に股解沓を八尺(2.4m)の杭に差し、愛甲季隆に射させると五射全てが命中。頼朝が距離を測らせたら八杖(24m)だったため今後の馬場は八丈四方に決めよう、と言った。
.
その後は宴会で時間を過ごし、日が暮れた頃に加藤景廉が気を失って倒れたために大騒ぎとなった。
佐々木盛綱が掛けてあった大幕で包んで退出し、邸で療養させた。頼朝は宴会を切り上げて御所に帰った。
.

.
   ※股解沓: 一般的には乗馬用の長靴と解されている。袴の上に履く巾広の長袴状、西部劇の「ローハイド」か。
巾を20cmとすると、現代の和弓には24mの距離で五射全てを的中させるほどの正確さはない。
.
   ※加藤景廉: 生誕は1166年前後だから16歳。韮山で平兼隆を討った時は14歳か...信じられない若さ。
源平合戦の際は現地で病気の手紙を出しているから意外に虚弱体質だったのかも。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
6月8日
.
頼朝は車大路の景廉邸へ見舞いに訪れた。今朝方から普通の状態に戻ったとの事なので、景廉を供に従えて小中太の家へ出掛けた。
.

.
   ※車大路: 鎌倉六大路の一つで極楽寺坂〜長谷〜一の鳥居〜安国論寺〜名越へ続く古道。景廉邸の場所は
判らない。六大路とは、段葛のある若宮大路・東に並行する小町大路・西に並行する今大路・三の鳥居前を東西に通る横大路・下馬を通る大町大路・一の鳥居を通る車大路を差す。
.
   ※小中太の家: 亀女を囲っていた小坪の家だから、浮気に出掛けるため景廉に仮病を命じたとも考えられる。
吾妻鏡は頭から信用せず裏を読むと面白い。邪推とも言えるけど(笑)。とすると、景廉邸は大町または名越寄りの車大路だった可能性もあるね。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


6月20日
.
夜8時頃に光る物が八幡宮の空から由比ヶ浜に向って飛んだ。長く尾を引いて暫く消えなかった。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
7月12日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
御台所政子が出産に備え以前から決めてあった比企氏の館に輿で移った。千葉胤正・同胤頼梶原景季らが供として従った。梶原景時は出産前後の雑事を仕切るように命じられた。
.

.
   ※比企氏館: 現在の妙本寺。比企一族は建仁三年(1203)9月に北條氏に攻められ、この地で滅亡した。
   ※梶原景時: 頼家の乳母夫の一人。他に比企能員河越重頼安達盛長平賀義信らも乳母夫を務めている。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
7月14日
.
新田義重が頼朝の勘気を蒙った。これは伏見廣綱に命じて義重の娘(頼朝の兄・義平の後家)宛に恋文を送ったのに返事が無いため父の義重に直接話をしたのだが、義重は御台所政子のことなどを熟慮して娘を還俗させ師六郎に嫁がせてしまったためである。
.

.
   ※新田義重: 足利義康と同じ源義国の子(異母兄弟)だが、頼朝への合流が遅れた事などで足利氏に比べて
冷遇され続けた。独立志向が強かったためか、要領が悪かったのか、女の遺恨か(笑)。
義重の庶子・山名義範は早期に臣従しているのだけど。
結果としては義重の七代後になって新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす事になるのだが...
.
   ※義平の後家: 義平は平治の乱後の永暦元年(1160)1月に20歳で斬首、妻が5歳下だったと仮定すると
37歳になっている。頼朝は熟女好みか?鎌倉は義平と新婚時代を過ごした思い出の土地だが、嫉妬深さで知られた政子がいる...父親ならそう考えるだろうね。
私は彼女が嫁いだ相手は毛呂季光だと長く思い込んでいた。毛呂と師を混同してたのかな?
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
8月5日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
八幡宮の住僧禅睿が「一心に祈祷に励んでいるのに免税田に労役などを課され難渋している」旨を訴え出た。
御前に呼んで直接に下文を与えて曰く、「八幡宮の供僧禅睿は祈祷の役を忠実に行なっている。百姓同様に労役を課すのは不当であり、今後は一切の労役と税を免除させるよう命じる」と。
.

.
   ※住僧禅睿: 走湯山(伊豆山権現)の住僧だった禅睿は前年の10月に鎌倉に呼ばれて大般若経転読衆に
加えられ西の谷の水田二町歩を与えられた。御谷(おやつ)と呼ばれ、八幡宮供僧二十五坊があった場所である。 詳細はこちら、後に実朝を殺した公暁が首を持って逃げ込んでいる。
.
一説に、鶴岡八幡宮ではこの頃に僧が土地を所有することで利殖に専念する傾向が始まったとされる。この既得権が住僧の腐敗を招き、それが仏教界全体に広がって明治維新の神仏分離に伴う廃仏毀釈運動につながる下地になった。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
8月11日
.
夜になって御台所政子が産気づき、頼朝が(産所の)比企氏館へ入った。鎌倉にいる御家人も多数参上した。頼朝は祈祷を依頼する使者を伊豆山権現と筥根権現と近国の神社に派遣した。
.
伊豆山権現(伊豆山神社、サイト内リンク・別窓)に 土肥遠平
筥根権現(箱根神社、サイト内リンク・別窓)に 佐野基綱
相模一宮寒川神社(公式サイト)に 梶原景高
三浦十二天(十二所神社・紹介サイト)に 佐原義連
武蔵六所宮(大国魂神社・公式サイト)に 葛西清重
常陸鹿嶋(鹿島神宮・公式サイト)に 小栗重成
上総一宮(玉前神社)に 上総良常(上総廣常嫡男)
下総香取社(香取神宮・公式サイト)に 千葉成胤(千葉常胤嫡孫)
安房東條寺(天津神明神社・公式サイト)に 三浦義村
同国洲崎社(洲崎神社・公式サイト)に 安西景益
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
8月12日
.
夕刻に御台所政子が男子を出産した。前途を祈祷する役目は専光房阿闍梨良暹、弓の弦を鳴らす(魔を払う)役は師岡重経・大庭景義・多々良貞義、上総廣常は引目役(大形の鏑矢を鳴らし魔を払う)を、河越重頼の妻(比企の尼の娘)が乳付け(乳母の儀式)を務めた。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
8月13日
.
若君が産まれたため、慣例に従って御家人らが守り刀を献上した。宇都宮朝綱畠山重忠土屋義清和田義盛梶原景時・同景季・横山時兼らである。また御家人が献上した馬は200余頭にもなった。
この駿馬は両親が揃って健在の武者が使者を務め、鶴岡八幡宮や相模一宮(寒川神社)などに奉納した。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


壽永元年
.
8月15日
.
鶴岡八幡宮で六斎(仏教で決められた斎日。詳細はこちら) の読経が始められた。
.

西暦1182年
.
81代 安徳

壽永元年
.
8月16日
.
若君誕生五夜目の儀式を上総廣常が取り仕切って行った。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
8月18日
.
若君誕生七夜目の儀式を千葉常胤が取り仕切って行った。子息6人を連れて参上し、常胤は侍所に着座。それぞれ白の水干袴で装い、胤正の母(秩父重弘の娘)が膳を置く役を務めた。贈答の儀があり、嫡男胤正と次男師常が甲冑を捧げ、三男胤盛と四男胤信が鞍を置いた馬を引き、五男胤道(胤通)が弓矢を持ち、六男胤頼が太刀を持って庭に並んだ。兄弟はいずれも立派な武者であり、頼朝も感動の様子だった。居並ぶ者たちも見事さに感嘆した。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


8月20日
.
若君誕生七夜目の儀式を外祖父の北條時政が取り仕切って行った。
.

西暦1182年
.
81代 安徳


壽永元年
.
9月15日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
木曽義仲追討のため北陸道に出陣していた平家軍が京に戻ってきた。寒い季節に入ったため北国で冬を迎えるのは困難である旨を言うが、実際には義仲の軍事力を恐れたためだろう。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
9月20日
.
中納言法眼圓暁(宮法眼)が京から鎌倉に来た。後三條院の子である輔仁親王の孫で、義家には外孫にあたる。その縁で頼朝が御所に招いた人物である。本来なら出産の祈祷をするべきだったが以前からの宿願があったため伊勢神宮に参籠したため遅くなってしまった、と。神宮祭主の親隆卿が家臣に命じて遠くまで送らせてくれた。
.

.
   ※親隆卿: 伊勢神宮の神祇大副で祭主の正三位藤波親隆(1105〜1187)を差す。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
9月23日
.
頼朝は中納言法眼坊を伴って八幡宮に参詣し、拝殿で宮寺の別当職に任命する約束を交わした。
.

.
   ※八幡宮寺別当: 初代は圓暁(生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟)、二代は尊暁(圓暁の弟)〜三代定暁
〜四代公暁実朝を暗殺)〜五代慶幸と続き(ここまでは園城寺(三井寺)系)、東寺系の六代定豪〜七代定雅〜八代定親、次が再び園城寺系の九代隆弁となる。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
9月25日
.
頼朝の同母弟(母は藤原季範の娘)源希義義朝に連座して土佐国の介良庄に流されていた。
平家は頼朝が挙兵した際に協力する疑いがあるため追討の命令を発した。重盛家臣の土佐住人菊池家綱と平田俊遠が功績を挙げるため希義を襲撃しようとした。
.
希義は夜須行宗との以前からの打ち合わせに従って介良庄から夜須庄へ向ったが追ってきた家綱と俊遠らによって吾河郡年越山で殺された。急を聞き助けるため駆けつけた夜須行宗は野宮付近で希義死没を知り 空しく引き上げた。家綱と俊遠らは更に行宗も討とうとしたが行宗一族は仏崎から船で逃げた。家綱らは使者を船に送り「相談事があるから来てくれ」と騙そうとしたが、行宗は策略を見抜いて二人の使者を斬り、紀伊国に向った。
.

.
   ※希義死没: 前後の経緯と場所は高知市の歴史散歩サイトに詳細が載っている。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
9月26日
.
八幡宮の西に場所を定め宮寺別当坊の棟上げを行った。大庭景義が取り仕切り、頼朝も臨席して見守った。
.

.
   ※八幡宮の西: 御谷(みたに)、二十五坊の地。8月5日にも詳細を記述した。
.
81代 安徳
壽永元年
.
10月9日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
この日の記事は吾妻鏡は10月9日・平家物語は9月、玉葉(wiki) は6月と記載している。(いずれも治承五年・1181年)。玉葉が正しいと推測されるため、その記述に従って6月13日に記載し、ここには薄いグレーで載せた。
.
越後の城永用(別名を長茂・助職・資職)は国主の兄資元を継承し源氏を攻めようとした。今日、木曽義仲が北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)付近で合戦し、夜になって永用は敗走した。
.

.
   ※ この戦いは横田河原の合戦(wiki)を指す。横田城(地図)は現在のJR篠ノ井駅東、土塁などが残る。

.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
10月17日
.
御台所政子と若君(満寿=後の頼家)が産所から御所に戻った。佐々木定綱経高盛綱高綱の兄弟らが輿を担ぎ、小山(長沼)宗政が弓矢を持ち、小山(結城)朝光が太刀を持ち、比企能員が乳母夫として贈物を捧げた。
.
御家人は多数いるが能員の義母比企尼は頼朝の乳母を務め、更に伊豆に流されていた頃に夫の武蔵国比企郡役人である掃部允と共に下向し、治承四年秋まで20年忠節を尽くした。繁栄の時を迎えて功績に応え、比企の尼が推挙した養子の甥・能員を乳母夫にしたのである。
.

.
   ※数の縁起: 佐々木兄弟は太郎定綱〜四郎高綱、小山宗政は五郎、小山朝光は七郎の縁起担ぎをしてる。
六が抜けているのは偶然か、それとも理由があるのか。時代が合えば畠山重忠嫡男の六郎重保あたりが向いてるんだけど、彼の誕生は1185年前後。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
11月10日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
近頃ご愛寵の亀前は飯島にある伏見廣綱の屋敷に住まわせていたが御台所政子に露見し憤激させてしまった。これは北條時政の後妻である牧の方が密告したためである。政子は牧三郎宗親に言い付け廣綱の家を打ち壊し屈辱を与えた。廣綱は亀の前を伴い辛うじて逃れ鐙摺の大和田義久の屋敷に入った。
.

.
   ※飯島: 和賀江島近くに飯島の地名が残る。地図はこちら、南側が鎌倉四境の一つとされた南小坪。
後に尾根の上に名越切り通し(難越が名前の由来)が拓かれた。
.
   ※牧宗親: 牧の方の兄とする説が一般的だが愚管抄では父親としている。
.
   ※打ち壊し: 政子の嫉妬なのは事実だけれど、中世の風習だった後妻打ち(うわなりうち)(wiki)と見るのも
可能だろう。まぁ源氏棟梁の正妻が取るべき態度か否かは別として。
.
   ※鐙摺: 現在の葉山港一帯。曽我物語では伊東祐親自刃の地とされ鐙摺山に供養墓がある。
流人時代の頼朝が三浦を訪ねた時に馬の鐙が岩に摺るほど急だったことから鐙摺山の名が付いた、と。小坪合戦で重忠と三浦が争った際に三浦義澄が陣を構えたため旗立山とも。曽我物語の編者は「鐙」を「鎧」だと思い込んで「よろいするという場所で」と書いている。
.
   ※大和田義久: 三浦義澄の次弟で佐原義連の兄。大田和(三浦半島西部の小田和湾一帯)を領有した。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
11月12日
.
頼朝は遊興を理由にして牧宗親を供に鐙摺の義久邸へ出掛けた。そこで伏見廣綱を呼んで一昨日の件を尋ね、廣常は詳細を報告した。詰問された宗親は弁明も出来ず、ただ土下座する始末だった。
.
頼朝は自ら宗親の髷を切り落とし「御台所の言い付けを重んじるのは神妙だが命令に従う前に何故知らせないか、こんな恥辱を与えるとは何事だ」と。宗親は泣きながら逃げ出した。今夜の頼朝はここに宿泊した。
.

.
   ※頼朝の怒り: 部下を責めずに自分の女房に言えよ...と個人的には思うけど、鎌倉幕府の正史扱いされる
吾妻鏡が品のないワイドショーみたいな諍いを記録するのは何故だろう。自分の命令に従って清水義高を殺した堀親家の郎党藤内光澄を斬首したのも政子の圧力だったし...。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
11月14日
.
夜に頼朝は御所に戻ったが、北條時政は急に伊豆へ発ってしまった。宗親への仕打ちを怒っての事である。
頼朝はこれを不満に思って梶原景季を呼び、「江間(義時)は穏やかな性格だから父親が変な恨みを持って挨拶もなしに帰国しても従わず鎌倉にいるだろうと思うが、確認して来い」と命じた。
.
暫くして景季が戻り、帰国せず鎌倉にいると報告、再び景季派遣して義時を呼んだ。邦通を介して「宗親がとんでもない事をしたので罰を与えたら、不本意にも時政が臍を曲げ伊豆に帰ってしまった。お前が私の気持ちを察し時政に従わなかったのは流石に立派だ、私の子孫を守護する資格さえある。この手柄には追って賞を与えよう」と。
義時は意見を言わず、ただ言葉を承って退出した。
.

.
   ※頼朝の対応: 時政の反応にやや落ち着かない頼朝を描いている。吾妻鏡の編纂者は無言の義時を思慮が
深いと見たのか、ずる賢いと見たのか。
ひょっとすると、編纂者には時政と義時の評価を高める意図があった、のかも。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
11月20日
.
土佐国の住人菊池家綱と平田俊遠を討伐するため伊豆有綱を土佐に差し向けた。有綱は夜須行宗を今日の早朝に先行させた。家綱らが土佐冠者希義を殺した罪科のためである。
.

.
   ※希義殺害: 経緯に関しては9月25日の条を参照されたし。
.

西暦1182年
.
81代 安徳

壽永元年
.
12月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
(去る2月8日に頼朝の願状や神馬と共に伊勢へ向った)伊勢神宮神官が書状で報告。内宮と外宮が関東のために祈祷した件を平家が訴えたため公家の議論に及び、遂に神官が狂ってしまったのかと言われた、と。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
12月2日
.
伊勢神官からの連絡を受け、頼朝も神宮に書状を送った。
曰く、「神官が頼朝に協力したと平家が訴えた件、驚きました。神様は道理に叶う事は許容するもので、法皇(後白河)も同様でしょう。途切れなく祈願して呉れれば関東が寄進した神宮の所領も安泰ですから、その旨を二宮(内宮と外宮)にお伝え下さい」と。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
12月7日
.
頼朝は深夜に佐々木盛綱と和田義茂の他に供を連れず八幡宮に参拝した。拝殿で祈っていると宮寺の承仕法師(下働きの僧)が咎めて頼朝公の座に着くのは何者か、早く退去せよ、と。頼朝はその職務の忠実さに感心して御前に呼び、甘縄の田一町歩を与えた。
.

.
   ※甘縄: 長谷大仏の南・江ノ電長谷駅一帯。安達盛長邸や長谷観音・御霊神社などが点在する。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
12月10日
.
亀前が小中太光家(中原)の小坪邸に戻った。しきりに御台所政子の思惑を恐れているが、頼朝の寵愛が日毎に深まっているためやむを得ず仰せに従ったものである。
.

.
   ※亀前の移動: 6月1日に伊豆から小坪の中原光家邸に転居、その後に移った飯島の伏見廣綱邸が11月10
日に打ち壊されたため鐙摺の大和田義久邸に避難し半年ぶりに飯島に戻った、ということ。
彼女が吾妻鏡に現れるのはこれが最後となる。どんな後半生を送ったのだろうか。
.
西暦1182年
.
81代 安徳
壽永元年
.
12月16日
.
伏見廣綱が遠江国に配された。御台所政子の怒りによる結果である。
.

.
   ※廣綱配転: 原文は「伏見冠者廣綱配遠江國」。この「配」は配転の意味だと思っていたら「配流」らしい。
ただし廣綱は元々同国の掛川に住んでいたし、純然たる流罪とは違う...と思う。
同じ右筆の牧宗親が廣綱失脚を狙って政子を利用した可能性を指摘する歴史家もいる。
.

前年・養和元年(1181)の吾妻鏡へ       翌年・寿永二年(1183)の吾妻鏡へ