当サイトは http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html に統一しています。ブックマークの変更を!


寿永二年(1183年)

.
前年・養和二年(1182)の吾妻鏡へ       翌年・寿永三年(1184)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示する場合は 吾妻鏡を読むをクリック。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。

.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。
.

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に載った記事の意訳、および関連する記事と解説
天皇
月日

記録なし(逸失か)。前後の脈絡からこの年と推定できる部分を記載し、平家物語など他の史料からも引用した。

閏月とは
 
.
当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは2月の次が閏2月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月15日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
院から頼朝追討の下し文が東海道の諸国に出された。平重衡朝臣がこれを携え、頼朝を討つため千余騎の精兵を卒いて東国に向った。


西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月17日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
安田義定和田義盛・岡部忠綱(忠澄の祖父)・狩野親光宇佐美祐茂土屋義清、及び遠江の住人横地長重・勝間田成長らを率いて浜松の要害・橋本に到着。頼朝の命令に従い、ここで平家を迎え討つためである。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月20日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
頼朝の叔父志田義廣は(源氏の)知縁に繋がる事を忘れ、数万騎の兵を率いて鎌倉を攻めようと常陸国を出陣し下野国に入った旨の報告が届いた。平家軍襲来の情報があったため鎌倉の軍兵の多くが駿河国以西に派遣されており、義廣の行動には思い煩わされるものがある。
.
下総国には下河邊行平が、下野国には小山朝政がいる。両人は命令がなくとも戦って功績を挙げるだろう。
さらに今日、朝政の弟(長沼)宗政と従兄弟の政平などを援軍として下野国に向け出発させた。政平は頼朝に暇乞いの挨拶をした後に出発したが、頼朝は「政平には二心がある」と語った。
果たして政平は途中で宗政と別れ、裏道を通って義廣の陣に馳せ参じた。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月23日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
志田義廣は数万余騎で鎌倉に向った。最初に誘った足利忠綱は元々源氏に叛いているためこれに従った。
.
小山一族と(籘姓の)足利一族は同じ藤原秀郷(俵藤太)流の同族だが、同じ地域で覇権を争う間柄であり、去年の夏に以仁王が平家討伐の令旨を諸国に送った際に小山には話があったのに忠綱にはなかった。その鬱憤もあるため平家に加わり、宇治川で源三位頼政の軍を破り以仁王を討ち取った。この際に小山も滅ぼそうと考えたのである。
.
次に義廣は出陣した旨を小山朝政に伝えた。朝政の父政光は大番役(皇居警護の役務)で殆どの部下を連れて在京しているため手勢は少ないが頼朝に臣従している。義廣を討ち取る軍議をしたところ、歴戦の家臣が「参加すると偽って殺す機会を図るべき」と提案し、朝政は義廣軍に参加する旨を伝えた。
.
義廣は喜んで朝政館に向ったが朝政は一足先に館を出て野木宮に隠れ、登々呂木澤や地獄谷の樹に部下を登らせて大声を出し大軍を装った。義廣が慌てた所へ郎従が攻めかかった。
.
朝政は25歳、緋威の鎧を着して鹿毛の馬に跨って走り回り多くの敵を倒し、義廣の矢に射られて落馬したが致命傷にはならなかった。乗っていた馬は主人から離れ登々呂木澤で嘶いた。
       右画像をクリック→ 野木宮合戦の明細へ。
.
ちょうど鎌倉から小山に向っていた五郎宗政(20歳)はこの馬を見て既に朝政が討死したと思い、義廣の陣に攻め込んだ。
.
義廣の乳母子・多和利山の七太が馬に鞭を当て宗政の左に立ち塞がったためこれを射落とし、小舎人童が首を獲った。義廣は少し退却して野木宮の西南に陣を張った。
.
朝政と宗政は東から攻め掛かり、ちょうど強風が焼け野の塵を吹き上げ義廣の軍勢を襲ったため人馬共に視界が利かずに分断され、多くの兵が地獄谷と登々呂木澤に死体を晒す結果となった。
.
下河邊行平と弟の政義が古我(古河)と高野の渡しを固め、敗走してくる敵を討ち取った。足利有綱・嫡男の佐野基綱綱・四男の阿曽沼廣綱・五男の木村信綱、大田行朝ら小手差原に陣取り小堤などで戦った。他に八田知家 ・下妻清氏・小野寺道綱・小栗重成・宇都宮信房・鎌田為成・湊河景澄らも朝政軍に加わり、更に範頼も同様に加わった。
.
小山朝政は藤原秀郷が天慶の時に平将門を追討して下野と武蔵の国守を兼任し従四位下に叙されて以降この地を支配した一族の棟梁である。義廣の謀計を聞き命を惜しまずに忠義を尽くしたので勝利を得る結果となった。
.

.
  ※義廣の軍勢: 頼朝の鎌倉入りの際は関東の武者が次々加わって総勢2万7千騎、と吾妻鏡は書いている。
それを考えれば志太義廣の兵力3万騎は明らかな誇張で、それほどの軍勢が動員力の劣る朝政勢に敗れるのは合理性に欠ける。せいぜい千騎か、譲っても三千騎程度だろう。ましてや、鎌倉を攻めるつもりで出陣したなど、有り得ない捏造だ。
.
  ※合戦の場所: 野木宮合戦の地は現在の渡良瀬遊水池東側、栃木県の野木町大字野木2404一帯。現在の
野木神社の地図はこちら、合戦の詳細と画像などは上記した野木宮合戦の明細で。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月25日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
足利忠綱は志太義廣に味方したが野木宮の合戦で敗れたのを悔やんで上野国の山上郷龍奥に引き籠った。
家臣の桐生六郎だけを伴って数日間隠れてから六郎の勧めで山陰道を経て九州方面に落ち延びた。
.
この足利忠綱は無双の勇士で、抜きん出た事が三つある。その一つは百人力・二つは十里も届く大声・三つは三寸(この場合は3cm)もある歯である、と。
.

.
  ※両足利氏の相克: 源姓足利氏の本拠である鑁阿寺の開山和尚は伊豆山権現の般若院を住持した理真上人。
鑁阿寺から2km弱西にある福厳寺足利忠綱が父母の菩提を弔って開いた謂わば菩提寺のような存在だが開山和尚は理真上人で、創建は寿永元年(1182)。
.
この時点で両家の関係は円満ではないにしても、戦火を交えるほど険悪ではなかった。
詳細は唐沢山城址と秀郷の墓所の中段やや下に記述した通り少し微妙な関係だった。
.
  ※山上郷龍奥: 桐生市新里町西部。城山に山上城址公園(桐生市のサイト)として多少の遺構が残っている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月27日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した。願を掛けて7日目、満願の日である。志太義廣挙兵の件はどうなったかと独り言を漏らすと、太刀持ちとして控えていた小山(結城)朝光が言うには、既に朝政に攻め滅ぼされたでしょう、と。
.
頼朝は振り返って「若者の言葉は心が思いつきではなく神託だろう。もしその通りならば褒賞を与えなくては、な」と言った。朝光は今年15歳である。
.
参拝が終わって御所に戻ると下川邊行平小山朝政からの使者が到着し、志田義廣の敗北と逃走を報告した。
夜になって朝政からの使者が再び到着し義廣に従った武士の首を持参したと報告、頼朝は三浦義澄比企能員に命じて腰越の獄門に晒させた。
.

.
  ※朝光の褒賞: この合戦の功績で結城を与えられ、結城一族の祖となった。
.
  ※腰越の獄門: 当時の腰越は鎌倉の外とされ、獄門があったらしい。後に義経も鎌倉入りを許されずに腰越で
足止めされ、平泉から届いた首も腰越浜で首実検されている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
閏2月28日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
小山(長沼)宗政が(先日の合戦で負傷した)朝政の代理として一族及び共に参戦した者を伴い鎌倉に参上、頼朝と対面して勲功を褒められた。宗政と下河邊行平およびその一族は西側に、八田知家と小栗重成らは東側に列した。
.
義廣に従って捕虜となった者は29人、或る者は首を晒され或る者は行平や有綱が拘留した。
また常陸・下野・上野で志太義廣に味方した輩の所領は全て没収され、恩賞として朝政や朝光らに与えられた。
.

.
  ※有綱: 藤姓足利氏棟梁俊綱の弟(庶子)。俊綱忠綱父子は義廣に味方したが有綱と基綱親子は頼朝挙兵の
直後から合流し、御家人として本領の佐野を名乗っている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
3月
.
平家物語
.
木曽義仲以仁王の遺児北陸宮を担いで信濃〜北陸に勢力を広げ、頼朝と戦った源(志田)義憲十郎行家を庇護したため鎌倉との関係が悪化した。頼朝は10万の軍勢と共に上州を経て信濃善光寺に進出、義仲も上田市南部の依田城を出て信濃・越後国境に近い熊坂山(中野市永江、地図)に布陣、両者の協議が行われた。
.
義仲が嫡男義高を人質として鎌倉に送り戦う意思がないと示し、それを受けて頼朝が兵を退く妥協が成立した。
.

.
  ※妥協が成立: とりあえずは義仲に圧力をかけ打倒平家のために源氏勢力の分裂は避ける、平家を倒した後は
軍事力に勝る鎌倉側が有利になるだろう。そう考えた頼朝の政治的勝利である。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
4月17日
.
平家物語
.
.
義仲は嫡男の義高(11歳)を人質として鎌倉に送り、取り敢えずの和解が成立した。義高は海野幸氏望月重隆らを伴い、頼朝の長女大姫の婿という立場で鎌倉に入った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
4月17日
.
平家物語
.
この日、義仲追討のため総大将平維盛・大将軍平通盛の率いる軍兵10万騎が京を出陣した。軍勢は北陸道へ進み、越前国燧城(南越前町今庄)に籠った在地武士軍に勝利、越中国砺波山に敗走させた。
.
5月に入り維盛は主力7万騎で義仲軍を討つべく越中へ、平通盛と平知度は3万騎を率いて能登の鎮圧に向った。

.

.
  ※平家の出陣: 琵琶湖西岸の西近江路から北陸道を進軍。数年続いた飢饉のため兵糧が不足していたため
行軍途中での徴発が認められており、ルート上の農民はみな山野に逃げた、と伝わる。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
5月9日
.
平家物語
.
越後国府(上越市)にいた義仲は先鋒に今井兼平の6000騎を送った。兼平は越中御服山(富山市の神通川沿い)へ進んだ。義仲軍主力1万は六動寺(六渡寺・小矢部川河口付近(地図)・般若野の10km北)に待機。
.
加賀から倶利伽羅峠(地図)を越えた平家の先鋒平盛俊は越中盤若野(富山県高岡市南部)に進み兵を休めた。
今井兼平軍は9日早暁に奇襲、盛俊軍は善戦したが午後になって退却した。
.
平家軍は能登国志雄山(石川県羽咋市南部)に3万騎、倶利伽羅峠の東500mの栃波山に7万騎が布陣した。

.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
5月10日
.
平家物語
.
.
義仲軍の主力部隊は六動寺から移動して盤若野の今井軍に合流した。義仲の行動地図を参照されたし。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
5月11日
.
平家物語
.
義仲は源行家と楯親忠に兵を与え通盛&知度を牽制。この日は特に合戦せずに砺波山に進み、樋口兼光軍を平家軍の背後に廻り込ませて攻撃の準備を整えた。
.
義仲軍の主力は数隊に分かれ夜襲を掛け、退路の倶利伽羅峠を樋口軍に塞がれた平家軍は総崩れとなり唯一敵のいない南側の地獄谷に殺到して壊滅した。平家は主力の大半を失い、維盛軍七万のうち都に戻れた残兵は七千と伝わる。大将軍の平維盛も辛うじて死地を脱し京に逃げ帰った。

.

.
  ※倶利伽羅峠合戦: 周辺を歩いた記録は倶利伽羅峠の古戦場 周辺の地図はこちら。もう一度ゆっくりと歩いて
みたい、数多い場所の一つ。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
5月13日
.
平家物語.
.

義仲は能登国志雄山に向った行家軍の応援に2万騎を率いて駆けつけ通盛&知度軍3万を撃破、京に向けて撤退する平家軍を追う。平家軍は19日に加賀篠原(地図)に布陣して防衛ラインとした。

西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
5月21日
.
平家物語
.
義仲軍は平家軍が布陣した加賀篠原(加賀市篠原町)を攻めて壊滅させた。平知度が討ち死に、最後尾を守って奮戦した老将斎藤実盛も義仲の家臣手塚光盛に討ち取られた。久寿二年(1155)に大蔵合戦で源義平に殺される筈だった幼い義仲(当時の駒王丸)の命を救った武者である。

.
  ※戦死者: その他に俣野景久大庭景親の弟)や伊東祐清祐親の次男)もこの合戦で落命したと思われる。
平家物語に書かれた「伊藤九郎祐氏」が伊東祐清だろう。
都を出陣した一月前の平家軍は公称10万騎、5月末に都に戻れたのは通盛&知度軍の敗残兵と倶利伽羅峠の敗残兵を併せても2万だから八割を失った計算になる。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
6月10日
.
平家物語
.
.
義仲は越前国府に入り、太夫坊覚明に命じて入京の途中にある 比叡山延暦寺(公式サイト)に書状を送った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
6月16日
.
平家物語
.
.
平家を選ぶか、義仲に味方するか。その選択を迫る義仲の書状が比叡山に届いた。平家に味方して進軍を妨げ禍根を残すか、神仏と天皇と国のため源氏に味方するか、と。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
7月
.
平家物語
.
比叡山の僧は半月の会議を経て源氏に味方する結論に達し、その旨を書き送った。その直後に平家一門の公卿が連署して救援を依頼する内容の書状が届いた。憐れみを乞い願う、と。
.

.
  ※比叡山の去就: 桓武天皇が保護し平安遷都の3年後には官寺と定めた古い由緒を持つ、平家と縁の深い寺
なのだが、これも栄枯盛衰の一つに過ぎない。
南都(奈良)の東大寺や興福寺は治承四年(1981)12月28日に重衡の率いる平家軍に焼き討ちされているから味方する筈もない。京に残るのは敗残の兵のみ、南も北も敵となった。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
7月14日
.
平家物語
.
.
平貞能が九州の反乱を鎮圧して京に戻った。都での決戦を主張したが容れられなかった。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
7月24日
.
平家物語
.
木曽義仲軍5万騎が東坂本(琵琶湖西岸・大津の北)に入り、行家軍数千が宇治に進んだ、との報告が京に到着。
平知盛重衡 らは京での決戦を主張したが、棟梁の平宗盛は「法皇と帝を擁して西海で再挙を計る」道を選んだ。
.
しかし後白河法皇はその夜のうちに御所の法住寺殿を脱け出して鞍馬へ、更に比叡山へと逃げ込み、昨日までは朝敵だった義仲に平家追討の院宣を与えた。

.

.
  ※後白河法皇: 後に頼朝が「日本一の大天狗」と評した法皇の面目躍如だ。流れを読んで早めに逃げた法皇の
狡賢さもあるが、簡単に逃げられてしまった宗盛の詰めの甘さは棟梁の器とは言えない。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
7月25日
.
平家物語
.
朝5時、平家の公卿殿上人70余人は6歳の安徳天皇建礼門院および三種の神器を伴い七千の郎党と共に急いで都を離れた。六波羅をはじめとする屋敷に火を放ち、都の大半が焼け落ちた、という。
.
頼朝と事前に連絡を取り合っていた頼盛清盛の異母弟・生母は池禅尼)は途中で離脱し都に引き返した。
平貞能宗盛の許しを得て平家一門と別れ都に戻った。
.
東国の武者であるため拘留されていた畠山重能小山田有重宇都宮朝綱は斬られる筈だったが知盛が釈放を願い、宗盛もそれを許した。重能らは西国への供を願ったが宗盛は「心が東国にあり、魂の抜け殻に過ぎない」として同行を許さなかった。平家一門は造営の半ばだった福原宮に一泊し、翌朝火を掛けて船に乗り西へ向った。

.

.
  ※貞能の行動: 主人だった重盛の遺骨を掘り返して高野山に納め東国に向った。2年後の文治元年(1185)に
僧形で宇都宮朝綱を訪ね保護を願い出る。朝綱の外戚であり、拘留されていた朝綱と畠山重能(重忠の父)らを気遣って帰国に尽力した縁だった。
.
.
  ※朝綱の外戚: 貞能の父は平家一の郎党と称された平家貞、母は宇都宮氏の娘。兄(生母は不明)の家継は
元暦元年(1184)7月の三日平氏の乱を起こして死没している。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
7月28日
.
平家物語
.
.
木曽義仲が入京。比叡山に逃げていた後白河法皇は義仲率いる5万騎と共に都に戻った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
8月10日
.
平家物語
.
後白河法皇による除目が行われ、義仲は左馬頭・伊予守・朝日将軍、源行家は備前守が与えられた。当初は義仲に越後守、行家に備後守が与えられたが任国が不満とのことで、16日に変更となった。
.

.
  ※任国が不満: 玉葉には「行家が義仲と同様の扱いでは不満なので変更した」とあり、義仲の不満とは書いて
いない。性格や前歴から推量するとグズグズ言ったのは行家か。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
8月12日
.
玉葉
.
.
後白河法皇が平家に要求していた安徳天皇と神器の返還が拒絶された。義仲は自分が伴ってきた以仁王の子である北陸宮の即位を要求して拒絶され、朝廷における評価を著しく悪化させた。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
.
壽永二年
.
8月17日
.
平家物語
.
.
平家一門は筑前大宰府に入った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳
壽永二年
.
8月
.
状況説明
.
.
第80代・故高倉天皇(後白河の子)の四男82代後鳥羽天皇(安徳帝の弟・数えて5歳)が即位したが、三種の神器がないために正式な即位礼は行われていない。そもそも安徳天皇が在位中で、更に継承に必要な神器もないのに新帝が即位するなんて...正統性は完全に欠如しており、とても「万世一系」なんて言えないね。
.
以後、安徳天皇崩御の1185年(平家側の寿永四年・源氏側の元暦二年)3月24日まで二人の帝が併存する。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
9月
.
平家物語
.
.
平家一門は大宰府に落ち着いて御所を造営を考えたが、後白河法皇の命令で大宰府からの退去を求めた豊後の緒方惟義(元は平重盛の家臣)と合戦して大宰府を追われた末に船で清盛の知行国だった長門国に入った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
9月
.
状況説明
.
.
この年の8月から、平家物語はもちろん玉葉(九条兼実の日記)などに義仲の失態や治安維持の失敗に関する批判が多くなる。幼い時に父を殺された境遇は似ているが、都で暮らした経験のある頼朝と違って義仲にはリーダーとしての経験も教育も欠けており、更に都の風俗習慣にも通じていなかった。
.
もちろん政治的な駆け引きや交渉事にも不慣れで、後白河法皇や頼朝にとって扱いやすい相手だったのだろう。
また情勢に応じて正しい助言ができる参謀役がいなかったのも致命的だった。
.
松尾芭蕉はそんな義仲の一本気を愛し、遺言した通り大津にある義仲寺の墓所(胴塚)の隣に葬られている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
9月7日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
吾妻鏡は治承五年・養和元年(1181年)9月7日(二巻 )の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
従五位下藤原俊綱(足利太郎)は藤原秀郷の後裔で、鎮守府将軍兼阿波守兼光から6代目の家綱の息子である。
足利郡の棟梁であり、一帯の数千町歩を領有している。去る仁安年間(1166〜1168年)にある女性を殺した罪科により平重盛が下野国足利庄の支配権を没収し、新田義重に与えた。
.
俊綱は上洛して嘆き訴えたため元に戻され、その恩を忘れず平家に忠節を尽くし、更に嫡男の忠綱源(志田)義憲に与して頼朝陣営には加わっていない。頼朝はこの不満が重なっているため、三浦(佐原)義連葛西清重宇佐美實政らを加えて和田義茂に追討の命令書を発行した。先発として和田義茂が本日出発した。
.

.
  ※足利の支配権: この変遷がよく判らない。手元の資料には「義家の四男義国は康治元年(1142)に相続所領
の足利を安楽寿院に寄進して足利荘とした」とある。安楽寿院は後白河天皇(在位1127〜1192)の仏堂だから荘園の勝手な管理権変更はできない筈だし...
.
まして義国から相続した足利義康は鳥羽上皇に仕えていたし。平家全盛の時代に藤姓足利氏が優遇された経緯は判るが、この辺はもう少し詳細に確認する必要がある。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
9月13日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年・養和元年(1181年)9月13日(二巻 )の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
和田義茂の飛脚が下野国から到着した。
書状に曰く、「義茂が足利に着く前に俊綱腹心の家臣である桐生六郎が頼朝への臣従を示すため主人の俊綱を殺して龍奥の山中に隠れた。捜した者の話を聞き義茂の許に来た六郎は俊綱の首を持参しておらず、鎌倉に届けたいと言う。どうするべきか」、と。頼朝は「持参させよ」と命じ、使者は直ちに引き返した。
.

.
  ※俊綱の首: 足利の伝承では、両崖山城攻撃の前日に桐生六郎が渡良瀬川の義茂陣に首を持参した、とある。
両崖山散策記録は福厳寺に、 足利学校と鑁阿寺の末尾・善徳寺の項にも関連項目を記載した。
.
籐姓足利氏追討なら源姓足利氏・小山氏・宇都宮氏・下川邊氏などを派遣するのが合理的なのにそれをしなかったのは何故か。また「抵抗しない一族・家臣に危害を加えるな」とわざわざ指示(18日)したのは何故か。気になる部分ではある。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
9月16日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年・養和元年(1181年)9月16日(二巻 )の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
桐生六郎が俊綱の首を持って鎌倉に参着した。先ず武蔵大路から使者を梶原景時の許に送ったが鎌倉には入れず、深沢を経て腰越に向うように命じられた。
頼朝は首実検のため俊綱の顔を知る者の有無を質問したが、誰もが目を合わせた事がないと答えた。
.
佐野七郎が「下河邊政義なら会っている筈だ」と言うため政義を呼び確認させた。「首を刎ねてから日数を経ているため顔が変わっているが多分間違いないだろう」と報告した。
.

.
  ※佐野七郎: 承久の乱(1221年5月)の際に東海道を進んだ軍勢の中に佐野太郎三郎・四郎・太郎入道・五郎
入道・七郎入道の記載がある。佐野氏の初代が佐野太郎基綱、その父が文治二年(1186)6月に没した記録がある足利七郎有綱だから、七郎は基綱の弟と考えるのが年令としては妥当だが、七郎から見た俊綱は叔父だから顔を知らないのは変だし...。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
9月18日
.
吾妻鏡
.
吾妻鏡は治承五年・養和元年(1181年)9月18日(二巻 )の記事として記載しているが、壽永二年が正しい。
.
桐生六郎梶原景時を経由して俊綱を殺した褒美に御家人に列して欲しいと申し出た。頼朝は「譜代の主人を殺すなど最も重い罪で褒賞に値するものではない、殺せ」と命じた。景時は六郎を斬り、俊綱の首の傍らに晒した。
.
俊綱の遺領などについて命令が下された。所領は公収、妻子については家屋敷と財産を安堵する旨を下し文に載せて和田義茂の許に送った。曰く、「俊綱の子息・家臣であろうとも降伏してくる者を罪に問わないこと、桐生の者を含めて同様であり危害を加えてはならない。またそれらの者の住居なども損壊してはならない」、と。
.

.
  ※桐生六郎: この年の2月25日に桐生六郎は野木宮合戦で敗れた俊綱の嫡男忠綱を九州方面に逃がそうと
手引きをしている。忠綱は1164年生れの当年19歳、もし俊綱の首が偽なら六郎が身を捨てて主人父子を助けた可能性もある。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
9月19日
.
平家物語
.
.
後白河法皇木曽義仲に都の治安回復と平家追討を厳命、翌20日に義仲は京の治安を樋口兼光に任せて平家を攻めるべく山陽道に向けて出陣した。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
9月28日
.
吾妻鏡
.
.
和田義茂が下野国から鎌倉に戻ってきた。
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
10月1日
.
平家物語
.
屋島に渡ろうとした義仲軍は、逆に屋島から渡海してきた平家軍と備中国水島(現在の倉敷市玉島)で合戦、知盛教経が率いる平家軍に部将の矢田義清(足利義康の庶長子)が討ち取られ、戦線は膠着状態に陥る。
.
平家軍は再度の入京を視野に入れ、摂津国福原(神戸市中央区・京都まで50km)を経て屋島に本拠を構えた。

.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
10月上旬
.
玉葉
.
.
頼朝の書状が朝廷に届いた。曰く「平家が横領した院と宮家・寺社の所領を返還し、降伏する者は斬らない」、と。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
10月9日
.
百錬抄
.
.
後白河法皇は流人の立場だった頼朝を赦免し東海道と東山道の実質的な支配権を与える宣旨を発行した。
既に義仲を見限っているのだが、事後の余計な紛糾を避けるため北陸道の支配権を取り上げずにいる。

.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
10月14日
.
平家物語
.
頼朝が八幡宮で征夷大将軍の宣旨を受けた。使者は左史生(宮廷の書記官)の中原泰定、受け取り役は三浦義澄が務めた。中原泰定には返礼の砂金を贈り、更に帰路の宿場ごとに使者一行が消費し切れないほどの米を送った。(この辺が頼朝の巧みな配慮で)結果として中原泰定は義仲には較べられない人物だと報告している。
.
頼朝は「平家は頼朝の勢いを恐れ都落ちしたのに木曽義仲や行家の手柄だと振舞って任国の良し悪しまで言うのは存外である事、また頼朝に従わない奥州の藤原秀衡と常陸の佐竹高義(隆義)追討の院宣発行を」要求した。
.
頼朝の印象は「背は普通、顔が大きく色白で立ち居振る舞いや言語は優美、都の人の雰囲気がある」、と。

.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
10月15日
.
玉葉
.
.
頼朝の弟が数万の兵を率いて京に向っているとの情報が届いたため、義仲は手勢のみを率いて京に戻った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
10月19日
.
玉葉
.
.
義仲が法皇や公卿と共に京を出て北陸へ向うとの噂が流れるが、翌20日に義仲は「行家が意図的に流布した嘘」と否定した。十郎行家は義仲を排して法皇に接近し、両者はきわめて険悪な関係に陥った。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
10月20日
.
玉葉
.
.
義仲が後白河に対し、頼朝の上洛を求めた事と宣旨を発した事について厳重抗議、頼朝追討の宣旨または教書(公式文書)と志田義廣の平氏追討使起用を要求したが認められず、10月末には在京の源氏軍も混乱を極めた。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
11月4日
.
玉葉
.
.
行家は平家追討令を受け、少ない軍勢(玉葉に拠れば270騎余り)で西国へ出陣した。
.

.
  ※行家西國へ: 義仲を中傷したのが露見した行家は都に留まれない、何とか平家に一矢を報いて後白河法皇の
評価を高めようと考えたのだろうが、この男の軍事的才能の欠如は致命的だ。墨俣川合戦以後は連戦連敗を続けている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
11月8日
.
史料複数
.
.
義経の率いる鎌倉軍が不破関(現在の関ヶ原町・京まで90km)に至った。主力の範頼は3万騎、義経は2万5千騎の大軍を率いている。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
11月16日
.
玉葉
.
義仲は「義経軍が少数なら入京を認める」と提案したが後白河は義仲に対抗するため延暦寺や園城寺(三井寺)を味方にして御所(法住寺殿)の防御を強化、義仲陣営の近江・摂津・美濃の源氏らを引き入れて戦力を増強した。
.
義仲に対しては「平氏追討のため直ちに西に向え。従わずに鎌倉軍と戦うなら宣旨に背いた私戦とする、もし京に留まるのであれば謀反とする」旨の最後通告を突き付けた。

.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
11月17日
.
玉葉
.
義仲の返答。「君命には背かない。鎌倉軍が入京するなら合戦するが入京しないのなら西国へ向う」、と。九条(藤原)兼実は「これはごく穏便な申し出であり、後白河の強硬な態度は行き過ぎである」と書き記している。
.
ともあれ法皇の意図は完全に義仲排除に固まり、義仲が何を願おうが妥協する姿勢は全く見られない。

.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
11月18日
.
玉葉
.
.
後鳥羽天皇・守覚法親王・円恵法親王・天台座主の明雲が法住寺殿に入り、義仲軍と戦う体制を整えた。
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
11月19日
.
玉葉
.
.
義仲軍が法住寺殿を攻撃。御所は放火されて法皇側は大敗し、円恵法親王と天台座主明雲・主力の部将だった摂津源氏棟梁の光長と検非違使・左衛門尉だった次男光経らが殺された。後白河法皇と四歳の後鳥羽天皇は拘束され、五条東洞院の摂政邸に監禁された。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
11月21日
.
玉葉
.
.
義仲はアンチ平家の行動により失脚状態にあって復権を狙っていた前の関白松殿基房と手を結び、その子息師家を内大臣兼摂政として傀儡政権を樹立した。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
11月29日
.
玉葉
.
.
師家が下文を発行。後白河法皇の側近だった前の摂政・近衛基通の所領を全て義仲に与え、中納言藤原朝方以下の49人が官職を解かれた。 .
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
11月28日
.
平家物語
.
屋島に本拠を構えた平家軍は瀬戸内海を渡り、平知盛重衡を大将として播磨国室山(揖保川河口の丘陵)に布陣。十郎行家は少ない軍勢で攻撃を強行して大敗し、高砂(姫路市の東)を経て舟で和泉国に逃げ、更に河内国を抜けて長野城(大阪府河内長野市)に入った。軍事的才能の乏しさに反比例するように逃げ足の早さは見事。
.

.
  ※長野城: 烏帽子形城(参考サイト)として城址が保存されている。近鉄長野線・河内長野駅の南西約1km。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永二年
.
12月1日
.
百錬抄
.
.
左馬頭だった義仲は院御厩別当となって軍事の全権を掌握した。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
12月2日
.
百錬抄
.
義仲は平家に書状を送り和平交渉を試みるが実現しなかった。さらに院に強要して藤原秀衡に頼朝追討の下文を発行させるが秀衡は動かない。
.

.
  ※義仲の戦力: 数万騎で京都に入った義仲軍は水島と室山で敗れてから脱落が続き、既に2千騎弱に激減。
いまさら平家が和平の申し出に応じて鎌倉軍と戦う筈はないし(宗盛は心を動かしたらしいが)、搦め手の大将として2万5千の鎌倉軍を率いている義経を育てた奥州の秀衡が頼朝追討に立ち上がる筈もない。義仲の焦りと絶望が見て取れる。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
12月10日
.
百錬抄
.
義仲は源頼朝追討の院庁下文を発行させ、形式の面では官軍となった。
.

.
  ※危機が迫る: 後白河を確保して何とか活路を見出したい義仲、水島と室山で勝利し意気上がる平家、圧倒的
な戦力で迫る鎌倉軍、静観する奥州の秀衡、義仲と不和になり義経に接近する行家...風雲は急を告げて寿永三年へ。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
12月20日
.
史料
.
頼朝は謀反の嫌疑により、梶原景時に命じて上総廣常を暗殺させた。御所で景時と双六に興じている時に斬り殺したと伝わる。嫡男の能常は自刃し、所領は公収されて千葉氏・三浦氏に与えられた。
.

.
  ※廣常を抹殺: 愚管抄に拠れば、建久元年(1190)に上洛した頼朝は廣常について後白河法皇に「兼ねてから
朝廷に気を遣う必要などないと主張しており、平家打倒よりも関東の自立を優先させる考えだったため殺させた」と語ったという。権力を掌握するに従って情け容赦のない血の粛清が始まる。独裁者にとって昨日の友は今日の敵だ。
.
西暦1183年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永二年
.
12月30日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
上総国御家人の周西二郎助忠ら多くが恩赦を受け本宅を安堵された。
.

.
  ※恩赦の経緯: これは廣常粛清事件と直接の関係はないと思われる。周西二郎助忠(助忠)は上総廣常の兄
印東常茂の子で上総国周西郡(君津市一帯)を領有した武士。父と共に平家に従い、捕虜として廣常に預けられていた。この時に罪を許され家屋敷を安堵されたらしい。
.
ちなみに、常茂は維盛に従って富士川合戦に加わり敗走途中を捕われて斬首された人物。兄の常景を暗殺して上総権介を強引に継承し、京都で平家に仕えていたのだが...留守の間に上総の実権を弟の廣常に握られていた。
.

前年・養和二年(1182)の吾妻鏡へ       翌年・寿永三年(1184)の吾妻鏡へ