寿永三年・元暦元年(1184年)

.
前年・寿永二年(1183)の吾妻鏡へ       翌年・元暦二年(1185)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示する場合は 吾妻鏡を読む のトップページ で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
当サイトのアドレスは http://23.pro.tok2.com/~freehand2/ に一本化しています。

指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。
.

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永三年
.
1月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
八幡宮で神楽奉納があり、頼朝は欠席。これは昨年末の廣常(謀殺)の件で御所が血で穢れているためである。
藤原邦道が奉幣の使者として回廊に座し八幡宮別当法眼(圓曉)が相対して法華八講を行なった。
.

.
   ※法華八講: 法華経8巻を朝夕2巻づつ講じ、4日で完了する法会。1日の実施は初日の意味か、略式か。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永三年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
頼朝は願成就のため所領を豊受太神宮(伊勢神宮外宮)に寄進し、以前からの祈祷師である権の禰宜光親神主に書状を送った。 曰く、武蔵国埼西郡と足立郡の大河土御厨は平家に横領された源氏相伝の領地なので今後は天下泰平の祈祷のため豊受太神宮に寄進し、後のために書状を送る。但し地頭の変更はない旨を書き添える、と。
.

.
   ※大河土御厨: 現在の松伏町と越谷市にまたがる古利根川の流域で、北側を下河邊荘に接している。
元々は源氏相伝の所領で、平家が押領していたらしい。詳細は八潮市立資料館のサイトで。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月3日
.
玉葉
.
.
頼朝が出陣する旨の噂があり、また平家が来る8日に再び入洛するとの噂もある。信用できるか否か。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月5日
.
玉葉
.
.
後白河は源雅頼(前の中納言)を呼び情勢を話し合った。頼朝の軍は墨俣にあり今月中には入洛するらしい。
義仲も長くはないだろう、今後の展開次第で平家にも運があるかも知れない、などと。
.

.
   ※墨俣: 長良川を渡る東山道の要所(地図)。源平合戦と承久の乱(1221年)の合戦場でもある。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月6日
.
玉葉
.
.
噂では関東の軍勢は墨俣を越えて美濃に入った、と。義仲はかなり恐れているらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永三年
.
1月8日
.
吾妻鏡
.
上総一宮の神主が曰く「上総廣常が存命の時に願成就のため鎧一領を納めていた」と。頼朝は何らかの仔細があるかも知れないと考え、使者を送りこれを確認しようとした。籐判官代邦通一品房を派遣、神慮の祟りを宥めるため新たに鎧を二領奉納し、すでに神宝となっていたその一領と取り替えてもらった。
.

.
   ※上総一宮: 玉前神社を差す。ちなみに下総一宮は 香取神宮、常陸一宮は鹿島神宮(共に公式サイト)。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永三年
.
1月9日
.
玉葉
.
義仲と平家の和平が成立したとの噂あり。去年の秋頃から様々な情報が流れたが、妥結したらしい。義仲は1尺の鏡を鋳て八幡(熊野とも)の象徴とし、裏に起請文を鋳付けて平家に贈った、これにより和睦成立、と。
.

.
   ※義仲と平家の和平: 義仲が和睦を申し出たのは事実らしいが、成立したとの情報の真偽は確認できない。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
壽永三年
.
1月10日
.
吾妻鏡
.
義仲が伊予守の官職に加え征夷大将軍に任命された。鎮守府将軍の宣下は延暦十五年・796年の坂上田村麻呂 から安元二年(1176)3月の藤原範季まで70回あるが征夷大将軍は坂上田村麻呂の延暦十六年(797)任命と藤原忠文の天慶三年(940)の僅かに2度である。22代の天皇が治めた245年間も絶えてなかったのに、3例目が任命されるとは実に珍しい朝廷の配慮である。
.

.
   ※藤原範季: 平将門追討のため鎮守府将軍に任命されたが、現地に着いた時には既に藤原秀郷平貞盛
軍勢が討ち取っていた。ただし翌年には瀬戸内海に転じて藤原純友を討伐している。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月10日
.
玉葉
.
.
明日の夜に義仲は法皇ならびに多くの公卿と共に北陸へ向う、と。単なる噂ではないらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月11日
.
玉葉
.
.
今朝になって義仲の下向は中止、13日に平氏が入京するので法皇を引き渡し、義仲は近江へ下るらしい。
.

.
   ※京都の混乱: この後20日の鎌倉軍入洛まで玉葉の情報も錯綜しており、京都は騒乱の極みに陥っている。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月17日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
邦通一品房ならびに神主の兼重が上総廣常奉納の甲冑を持って鎌倉に戻ってきた。頼朝がその鎧(小桜皮威)を見ると、一通の封書が内側の紐に結ばれている。自らこれを開くと、内容は頼朝の運を祈る願い書だった。
謀反の冤罪で殺したのを悔いても無駄なので、廣常弟の天羽直胤と相馬常清は罪を免じられた
.
  願い書に曰く、「頼朝殿の願いが叶うため、かつ東国の平和のために3年の間次のように立願する。
  一.神田20町歩を寄進する。 二.恒例の通り社殿の営繕を行う。 三.一万回の流鏑馬を行う。」と。
.

.
   ※謀反の冤罪: 頼朝による計画的な粛清なのに、吾妻鏡の編者は「事件後に真実が明らかになった」と取り
繕っている。廣常所領の大部分は既に三浦氏と千葉氏に分け与えられ、嫡男の能常は自刃している。元久二年(1205)の畠山重忠追討の時も殺した後で濡れ衣が判明...この辺が権力に従順な吾妻鏡の信用できない部分、自民党の広報みたいなもの、だね。
.
   ※所領没収: 天羽や相馬の他に廣常縁戚の臼井氏らも所領を没収された後に千葉氏の家臣となった。
冤罪が判明したのに所領は返還されていない。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月20日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝が派遣した蒲冠者範頼源九郎義経らが数万騎を率いて義仲追討のため京に入った。範頼は瀬田から、義経は宇治から進軍してきた。義仲と志田義廣今井兼平らが防戦したが、ことごとく敗北した。
.
範頼・義経は河越重頼・同重房・佐々木高綱畠山重忠渋谷重国・梶原景季らを従えて六条殿に馳せ参じ法皇御所の警備に当った。一條忠頼らは義仲勢を追撃し、近江国粟津近くで相模国の住人石田為久が義仲を討ち取った。志田義廣は逃亡して行方不明。
.

.
   ※石田為久: 相模国石田郷(:現在の伊勢原市)の武士で三浦義明の弟が相模国蘆名(三浦市芦名)を継いだ
葦名為清、その子が相模国石田郷を継承した為景、その子が相模国大住郡石田郷を継承した為久で、義仲を討った恩賞として得た近江国石田村(長浜市石田町)を本領とした。
.
ただし相模の石田と近江の石田の関連は判らない。子孫に豊臣秀吉に仕えた石田三成がいるが、元々石田に土着していた土豪の子孫と考える説もある。
愚管抄(wiki)は義経の郎党・伊勢義盛が義仲を討ち取ったと書いている。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月20日
.
平家物語他
.
.
宇治川で義仲軍と義経軍が戦った。義仲の兵力は1000騎余り、今井兼平が500騎で瀬田、根井行親楯親忠が300騎で宇治、義仲は100騎で院の御所に布陣した。範頼は3万騎で瀬田を、義経は2万5千騎で宇治を攻めた。この時に生月に跨る佐々木高綱と磨墨に跨る梶原景季が先陣を争って渡河している。
.
義経軍は宇治川の防衛線を突破して院御所へ、義仲は後白河法皇の帯同を断念して瀬田へ走り、今井兼平と合流して北陸へ逃げ延びようとするが、範頼の率いる甲斐源氏一條忠頼の軍に行く手を阻まれた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月20日
.
平家物語
.
.
(従う家臣は)次々に討たれ、主従五騎になったがは討たれずに残っていた。義仲は「最期の合戦が女連れだったと言われたくないから落ち延びろ」と繰り返し命じた。ついに義仲を見送った巴が最後の合戦をしよう馬を止めていると、武蔵国でも大力の武者と知られた御田師重が30騎程で迫った。馬で駆け入った巴は組み付いて引き落とし、鞍の前輪に首を押し付けて捻り切った。そして甲冑を脱ぎ捨てて東国の方向へ落ち延びて行った。
.
残った手塚光盛は討死し、別当(手塚別当・光盛の父または叔父)は何処へともなく落ち延び、義仲は今井兼平と2騎だけになった。
.
義仲が「普段は何とも感じないのに鎧が重い」と言うと兼平は「体も馬も弱っておらず、味方が討たれ気弱になっているだけです。私一人でも他の武者千騎がいるのと同じです」と励ました。
.
そこへ新手の騎馬武者が50騎ほど現れたので「防ぎ矢をしますからあそこに見える粟津の松原に入って自害を」と言うと義仲は「都で死なずにここまで落ちて来たのはお前と同じ場所で死ぬためだ。」と轡を並べようとした。
.
右画像は宇治川合戦場から瀬田の唐橋を渡って北陸に逃れようとした義仲主従のルート(基準は古道)。
行く手を一條忠頼軍に阻まれ義仲寺付近の松原で最期の時を迎えた。(画像をクリック→ 拡大表示)
.
兼平は飛び降りて義仲の馬をおさえ「どんなに軍功を挙げても最期次第で不名誉となります。既に味方はなく、名もない武士に討たれたら悔やまれますから、あの松原へ入って下さい」と語りかけ、義仲はそれに従った。
.
兼平は名乗って敵を引きつけ、突入して散々に戦った。義仲は粟津の松原に走り込んだが深い泥田に馬を乗り入れて身動きできず、兼平を気遣い振り返った兜の内側を三浦の石田為久の矢に射抜かれ郎党二人に首を獲られた。
.
石田為久は太刀先に首を刺して「三浦の石田次郎為久が木曽殿を討ち取った」と名乗りを挙げた。
それを聞いた今井兼平は「もう守るべき人はいないぞ」と太刀先を咥えて馬から飛び降り、自害して果てた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月21日
.
吾妻鏡
.
.
九郎義経が義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣樋口兼光を生け捕った。
.
義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたにも拘わらず逃げられたため帰還し、八幡大渡(御所の南西10km、淀川と木津川の合流点)で義仲の討死を知ったのだが強引に京に入って義経の家来と戦い捕われたものである。
.

.
   ※平家物語では: 兼光と縁があった武蔵国児玉党の武士が自分らの功績に替えて助命を嘆願すると約束して
投降させた。範頼や義経も助命を願い一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を怨んで強く反対し、法皇もそれを無視できず「四天王の一人を許せば憂いを残す」として斬首と定めた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月22日
.
吾妻鏡
.
.
下総権守藤原(宅間)為久が頼朝に呼ばれて京都から参向した。豊前守為遠の三男で絵の名手である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月22日
.
平家物語
.
.
義仲関係の除目が全て廃され旧に復した。藤原師家は摂政の任を解かれ、その前の摂政近衛基通が復職した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月23日
.
吾妻鏡
.
.
常陸国鹿島神宮神官の使者が参向して曰く「去る19日に住僧が夢を見た。鹿島神宮の祭神が義仲と平家を倒すため京に赴いた。20日の夜に黒雲が社殿を覆って暗闇となり、鹿(春日大社の象徴)と鶏(鹿島神宮の象徴)が多く集まった。やがて黒雲は西へ移動し、鶏が一羽雲の中に居る如くに見えた。これは聞いたこともない瑞兆である」と。
.
頼朝は直ちに庭に降りて神宮を遥拝し、更に信仰を深めた。その時刻には京と鎌倉双方で雷鳴と地震があった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月26日
.
吾妻鏡
.
.
今朝、検非違使が七條河原で義仲・高梨忠直・今井兼平根井行親の首を受け取って獄門の前の樹に懸けた。
共に連行された樋口兼光も検非違使に引き渡された。上卿(行政官の長)は中納言藤原實家、職事(実務担当)は権大納言藤原光頼の三男・葉室光雅朝臣である。
.

.
   ※平家物語は: 日付を24日としている。法皇は六條東洞院に牛車を停めて首が渡されるのを見た。兼光は
懇願して首が引き回される行列に非人の姿で従い、翌25日に斬首された。
.
   ※義仲の墓: 家臣の一人が葬ったと伝わる首塚(京都観光局サイト)は東山区の法観寺(wiki)にあるが、この
真偽は判らない。法観寺は八坂の塔の別称で知られている(地図)。
.
最も有名なのは討死の地に近い大津膳所の義仲寺で、義仲の生き様を愛した松尾芭蕉も遺言に従ってここに葬られた。供養の墓は一族郎党の菩提寺である木曽の徳音寺(サイト内リンク・別窓、木曽谷の史跡の末尾に記載)にある。
義仲の生涯は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾「木曽義仲の興隆から滅亡まで」を参照されたし。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月26日
.
資料各種
.
.
後白河法皇が頼朝に宣旨を発行し、平家の追討と持ち去られた三種の神器を奪還するよう命じた。同時に平家の所領500余ヶ所が頼朝に与えられた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月27日
.
吾妻鏡
.
.
午後になって安田義定範頼義経一條忠頼からの飛脚が参着、去る20日に合戦し義仲主従を討伐した旨を報告。3人の使者を中庭に呼んで仔細を尋ねているところへ更に梶原景時の飛脚も到着し討ち取った敵と捕虜の詳細を書いた書類を持参した。他の使者は記録を持っていなかったため景時の思慮深さに頼朝は感心させられた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月28日
.
吾妻鏡
.
.
小山朝政土肥實平渋谷重国ら御家人の使者が鎌倉に参着、それぞれ無事に合戦が終わった祝賀を述べた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
1月29日
.
吾妻鏡
.
.
蒲冠者範頼と源九郎義経は平家討伐のため軍勢を率いて京を発ち西国へ向った。
.

.
   ※源氏の軍勢: 2月5日の吾妻鏡に拠れば源氏の総勢は7万6千騎、玉葉に拠れば「源氏はせいぜい2千騎
程度、平家は数万騎」。公家の日記と軍記物語の虚実が入り乱れ混迷に油を注ぐ。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
範頼が頼朝の機嫌を損ねた。義仲追討に向った折に墨俣の渡しで先陣を争い御家人と闘乱したためである。朝敵を追討する前に私戦に及ぶのは尋常ではない、と。
.

.
   ※闘乱: かなり広い範囲に使われる言葉らしい。吾妻鏡では死者や負傷者が出た事件も軽微な喧嘩も同じ表記
をしている例が多い。この場合は指揮権を考えれば大将軍と争った御家人に非があるだろうに、と思う。
.
頼朝が兄弟よりも御家人を優先したのは何故か...東国武士団に依拠する必要性・近親者への不信・疑り深い性格など様々だが、源氏が滅びた原因は頼朝の性格的な欠陥が大きいね。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月2日
.
吾妻鏡
.
.
樋口兼光が斬首され首を晒された。処刑を受け持った渋谷重国の郎従が斬り損じ、替った重国の子高重が首を落とした。先月20日の合戦で負傷したため片手打ちだった。兼光は武蔵国児玉党の武士らと親しくしており、彼らが勲功に替えての助命を願い義経もその旨を奏上したのだが罪が軽くないため許されなかった。
.

.
   ※樋口兼光: 義仲四天王の一人で義仲の乳母夫中原兼遠の二男、樋口郷(現在の辰野町)を領有して樋口を
名乗った。妹がとされるが真偽は不明、そもそも巴の実在も疑われている。嫡子の兼重が同地に定住しており、直江兼続(wiki)はその子孫と伝わる(異説あり)。
兼光の遺髪は本領の樋口に葬られ、没後800年を記念した石碑がある。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月4日
.
平家物語他
.
.
清盛の三回忌に当るため福原では平家一門が法要を行い、供養として叙位除目が行われた。
7日の朝6時に一ノ谷木戸口での矢合わせ(開戦の儀式)を行う事が決まった。源氏軍は4日に京を出陣し、蒲冠者範頼の率いる大手軍5万余騎はその日の夕刻には摂津国昆陽野に布陣、義経の率いる搦手軍1万余騎は丹波篠山を経由して進軍し播磨国と丹波国境の三草山東麓・小野原(一ノ谷の北方)に布陣していた資盛・有盛軍を夜襲して敗走させた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月4日
.
吾妻鏡
.
.
平家は中国と九州の武者数万騎を従え、摂津と播磨の境である一ノ谷に城郭を設けて布陣した。
また、今日は故清盛の三回忌に当るため仏事を営んだ。
<.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月5日
.
吾妻鏡
.
.
日暮れになって源氏の両将は攝津国に入った。7日の夜明けが箭合せの時と定められた。
.
大手の大将軍は蒲冠者範頼、 従うのは小山朝政武田有義板垣謙信下河邊行平長沼宗政千葉常胤佐貫成綱(広綱)畠山重忠稲毛重成・同、重朝・同、行重・ 梶原景時・ 同、景季・ 同、景高相馬師常国分胤道東胤頼中條家長・海老名太郎・小野寺通綱・ 曽我祐信・庄司忠家・同、廣方・塩谷惟廣・庄家長・秩父武者行綱・安保實光・中村時経・河原高直・同、忠家・小代行平・久下重光(直光の嫡子)ら。五万六千余騎を引き連れている。
.
搦手の大将軍は源九郎義経、 従うのは遠江守安田義定大内惟義山名義範・ 齋院次官中原親能田代信綱・大河戸廣行・ 土肥實平三浦義連糟屋有季・平山季重・平佐古為重・ 熊谷直實・同、直家・小河祐義・山田重澄・原清益・猪俣則綱ら。総勢二万余騎を引き連れている。
.
平家はこれを聞いて新三位中将資盛(重盛の次男)・小松少将有盛(重盛の四男)・備中守師盛(重盛の五男)・平内兵衛尉清家・恵美盛方ら七千余騎が三草山の西に布陣、源氏側は三里離れた東に布陣した。義経は信綱・實平と協議して夜襲し、平家軍は狼狽して敗走した。
.

.
  ※三草山: 両軍が対峙した三草山は一ノ谷の北50km、篠山と姫路を結ぶ国道372号沿い(地図)に位置し、
近くには平家の荘園もあったらしい。三草山攻略によって一ノ谷西側の塩屋口までルートが確保された。義経は實平に命じて西に敗走する資盛軍を追わせ、福原を目指して南下した。
.
  ※敗軍の将: 平家物語に拠れば、三草山陣の大将資盛と有盛と忠房は惨めな敗戦を恥じて一ノ谷には戻らず、
70kmも西の高砂(摂津五泊(参考略図)の一つ韓泊・現在の姫路市的形町))から舟で屋島に向った。師盛は侍大将の大内清家と海老盛方を引き連れ塩屋口を経て福原の本隊に合流した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月6日
.
平家物語他
.
.
後白河法皇の使者が平家の本拠福原に到着して和平を勧告し、合戦しないように命じた。一説にはこれを信用した平家が防衛体制を緩め、結果的に源氏側が戦闘を有利に展開した、とされる。策謀か、偶然か。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月6日

2月7日.
史料
.
.
一ノ谷合戦については諸説が入り乱れる上に鵯越の逆落しなど軍記物語の捏造が多いため両軍の公称兵力は変更せず単純に事実だけを記述する。地形図は右の通り(クリックすると別窓で拡大表示)。
.
合戦場西端の一部に過ぎない地名「一ノ谷」を合戦の総称として捉えることにも問題がある。最初に使ったのは吾妻鏡か平家物語かあるいは玉葉か、いつか調べてみたい。

.
1.平家軍は現在の鉢伏山南麓の一ノ谷西・塩屋口から生田川西の
生田口(守将は知盛重衡)まで東西約13kmを防衛拠点とし、宗盛本陣は大輪田泊(現在の兵庫駅南)に置いて安徳天皇や女官や非戦闘員を守り、軍船を待機させた。予備兵力は雪見御所(現在の雪御所町)に置き、宗盛本陣に最も近い夢野口(鵯越の南・雪見御所の西側)には通盛教経率いる1万騎を配置して北側からの攻撃に備えた。
.
2.義経は軍を二つに分けて大半を夢野口に向け、少数の兵を率いて山道を南下し7日早朝に一ノ谷を奇襲した。
同じ頃に海沿いの塩屋口を熊谷直実が先駆けし、続いて土肥実平らが攻め込んで平忠度軍と激戦となった。
.
3.範頼の率いる源氏の主力(公称は5万6千騎)は生田口で激戦を繰り広げ、梶原親子と畠山重忠らが生田川に
構築 した壕と逆茂木の防衛線を突破して攻め込んだ。
.
4.夢野口を攻めている安田義定軍に義経が送った増援部隊(公称は9千騎?)が加わり戦力の差が大きくなった
ため、通盛と教経は防衛線の維持が困難になった。
.
5.夢野口が危ないと見た生田口の副将重衡が夢野口の応援に向った。範頼軍が総攻撃を開始したため知盛軍は
支えきれず、防衛線を突破された。
.
6.西の塩屋口・東の生田口・北の夢野口が突破され、平家軍は東・西・北の三方から挟撃される形になった。
混乱した平家軍は先を争って唯一敵のいない南の海に逃げ溺死者多数を出した。宗盛は残存兵力をまとめて船で屋島に逃れた。後白河法皇は屋島の宗盛に三種の神器と重衡の交換を提案したが拒絶された。
.
平家一門の著名な戦死者
忠度(清盛の弟)、清房(清盛の八男)、清貞(清盛の養子)、経正(清盛の異母弟・経盛の子)、経俊(経正の弟)、
敦盛(経俊の弟)、知章(知盛の長男)、通盛(清盛の異母弟・教盛の嫡男)、教経(通盛の弟・戦死には異説あり) 、
業盛(教経の弟)、盛俊(清盛側近盛国の子)、など。その他に重衡(清盛の五男)が捕虜となった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月7日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
早朝寅の刻(午前4時前後)に義経は特に勇敢な70騎余りを率いて一ノ谷背後の鵯越に着いた。
.
武蔵国の住人熊谷直實・平山季重らは一ノ谷の前に廻り込み海辺から(塩屋の木戸に)突入して源氏の一番乗りを名乗った。飛騨景綱・越中盛次・上総忠光・悪七兵衛藤原景清らが23騎で木戸口を開き、戦闘となった。
.
直實の子息直家が負傷し季重の郎従が討ち取られた。続いて範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の武者が加わり、源平両軍の混戦となった。
.
義経は三浦義連らを伴って鵯越(猪・鹿・兎・狐の他は通れない険阻)から攻め込んだため平家軍は反撃ができず、或る者は馬に跨って館を放棄し或る者は船で四国に敗走した。
重衡は明石浦で梶原景時・家国らの捕虜となった。通盛は湊河で木村源三俊綱に殺された。他に忠度・経俊・知章・敦盛・業盛・盛俊らは範頼・義経の兵に討ち取られた。経正・教経・師盛は安田義定の兵に討ち取られた。
.

.
   ※一ノ谷と鵯越: 義経が攻め込んだとされる鵯越は夢野口の500m北に位置し、一の谷から鵯越に行くには
敵陣の北側を15kmも迂回する必要が ある(直線で8km)。
.
一ノ谷西側の塩屋口(又はその近く)を攻めている義経は鵯越で逆落しを実行し得ないし、夢野口は既に安田義定軍が攻撃しているから、義経が応援に入っても奇襲にはなり得ない。
.
更に、平家物語には「重忠が馬を担ぎ鵯越を下った」とあるが、重忠は範頼に従って生田口の知盛・重衡軍と戦っており、鵯越にはいない。
.
玉葉は「搦手の義経が三草山に続いて一ノ谷を落とし、多田行綱が夢野口を落とした」と書いている。義経の率いる遊撃部隊の増援はあったかも知れないが、「鵯越の逆落し」は平家物語と吾妻鏡による フィクションと考えるべきだろう。最初の出典は平家物語だと思うが。
.
   ※教経戦死: 平家物語に拠れば教経は一ノ谷合戦で死なず、壇ノ浦合戦で義経を狙った後に源氏方の安芸
太郎と実光と弟の次郎を道連れに入水している。
.
吾妻鏡は都大路を曳き廻した平氏の首10の中に教経が含まれており玉葉も「平氏の首の数は十」と書いているから一の谷合戦で討死したと考えるのが妥当。従って屋島の合戦で義経を庇った佐藤継信を強弓で射殺した話も、壇ノ浦での「義経八艘飛び」も平家物語の捏造になる。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月8日
.
吾妻鏡
.
.
関東の両将(範頼と義経)が飛脚を京都に送って報告。昨日一ノ谷で合戦し平家の大将9人の首級を挙げ、その他にも千人以上の敵を討ち取った、と。
.

.
   ※玉葉の記述: 範季朝臣(後白河の近臣)から来た人が言うには、梶原景時の飛脚が平家を悉く討ち取ったと
報告した、と。更に深夜に権大納言藤原定能卿が来て合戦の仔細を話した。
<.
最初に義経が丹波城(三草山)を落として次に一ノ谷を落とし、次に蒲冠者範頼が大手の浜地(生田口)から福原に押し寄せ、多田行綱が山側から攻めた。
.
(福原は)午前中の2時間ほどで攻め落とされた。平家方には誰も残っていない。4、50隻の船に乗っていた者もいたが出航できず火を放って焼死した。これは宗盛らではないだろうか。
討ち取った者の詳細はまだ報告がない。同じく劔璽・内侍所の安否も判らない、と。
.
   ※神器: 劔璽は三種の神器のうち草薙剣と八尺瓊曲玉を差す。転じて帝位の意味もあるがここでは神器。
内侍所は残る一つ神器・八咫の鏡を安置した場所を差すが、転じて八咫の鏡そのものを言う。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月8日
.
玉葉
.
.
式部権少輔範季(後白河の近臣)からの情報。夜半に梶原景時からの飛脚が到着し平家の殆どが討ち取られた、と。昼前後に藤原定能(北家の公卿・後白河の近臣)が来て合戦の詳細を語った。
.
まず九郎義経の報告で、搦手としてまず丹波城(三草山)を落とし次に一ノ谷を落とした。次に加羽(蒲)冠者(範頼)の報告で、大手として海沿いに福原を攻撃した。朝8時前後から10時前後までの二時間足らずで攻め落とした、と。
.
多田行綱が山側から攻めて最初に防衛線を突破、防御側の平氏は殆ど壊滅した。当初から40〜50艘の船に乗っていた平氏も逃げられず火を放って焼死し、これは宗盛らと思われる。討ち取った者の詳細はまだ報告がない。神器の安否も同じく不明である、と。
.

.
   ※多田行綱: 平家に従った後に義仲に与し、義仲の没落後は頼朝側に属した。一ノ谷では多田源氏を率いて
義経の指揮下に入り、北側(鵯越)の攻撃増援に派遣されたらしい。義経の本隊は一ノ谷・塩屋口を攻撃したが、後に行綱の功績が義経の戦果にすり替わったのだろう、と考える説がある。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月9日
.
玉葉
.
.
今日、捕虜となった重衡卿が褐の直垂に小袴の姿で都に入った。頼朝の郎従筆頭・土肥實平が拘留している、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月9日
.
吾妻鏡
.
.
義経が少数の武士のみを連れて京に入った。軍勢は追って入洛すると思われる。これは討ち取った平家の首を都大路に引き回す旨を報告するため、先行して戻ったものである。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月11日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
平家一族の首を都大路に引き廻したい旨が範頼と義経から申し出された。このため関白ら大臣3人と堀川大納言忠親が後白河に呼ばれて意見を求められた。
平家が朝廷に仕えて長い年月が経っているので恩情を掛けるべきか、また範頼や義経が私怨を晴らしたいと思うのも理解できる。決められないので良きに計らうように、と。意見は色々と述べられたが、範頼と義経が更に強く求めたため引き廻しを許すと定められた。勅使の定長は御所と源氏側を何度も往復させられた。
.

.
   ※玉葉の記述: 九条兼実は「後白河法皇は首の都大路引き回しには反対だった。義経と範頼は「義仲の首は
引き回したのに平家の首は何故駄目なのか」と言っているが、それぞれの罪は比較できない。ましてや帝の外戚であり、近臣だった。信頼(平治の乱で斬首)さえ同様の措置はなかった(中略)情けない世の中だ」と嘆いている。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月13日
.
吾妻鏡
.
.
平氏の首は義経の六條室町邸に集められた。 通盛忠度・ 経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊らの首級である。集められた後に八條河原に運び、検非違使の仲頼らが受け取って長鉾刀に括り付けた。また名前を書き記した赤札を付けて獄門に行き、樹に懸けた。見物人が多数集まってこれを眺めた。
.

.
   ※他の史料は: 玉葉や他の史料もほぼ同じ描写だが、平家物語には「維盛が都に残した家族には斎藤實盛
息子・五郎と六郎が仕えており、首が大路を引き回される様子を報告した」との記述がある。
.
この兄弟は實盛の遺髪を伊豆山権現の別院・密厳院(現在の般若院)に葬ったとされ、廃寺の跡とされる場所に五輪塔が残る。實盛本領の長井荘には實盛が建立した熊谷市妻沼の聖天院(長井荘の末尾に記載)があるのに、敵方である頼朝が崇敬した伊豆山を選んだ理由は判らない。
.
   ※更に蛇足を: 承安三年(1173)に八重姫が産んだ頼朝の子・千鶴丸殺害を命じられたのが伊東祐親の家臣
だった斎藤五郎と六郎...と伊東弘誓寺の縁起には書かれている。様々な話が様々な場所に伝わっているのが面白い。祐親と同様に實盛も平家譜代の家臣だから子供が祐親に仕えていても不思議ではないが。千鶴丸殺害に関する伝承の詳細はこちらで。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月14日
.
吾妻鏡
.
.
右衛門権佐定長が法皇の勅命で重衡聴取のため土肥實平を伴って故中納言家成卿の八條堀川の堂へ出向いた。縁側の庇下で質問し、述べた内容を全て記録した。
本日、上総国の(廣常の)御家人らの多くが家屋敷を以前と同様に安堵する旨の下文が発せられた。去年の廣常事件の同罪として没収されていたものである。
.

.
   ※右衛門権佐定長: 後白河法皇近臣の藤原定長。後に兄の吉田経房と供に幕府と朝廷の調整役を務めた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月14日
.
平家物語
.
.
重衡が六条通りを東へ、土肥實平が30騎ほどで警護し前後の簾を巻き上げた牛車で引き回された。「気の毒ではあるが、これは南都焼き討ちの仏罰だろう」と人々は話し合った。
.
院の御所から定長が出向き「(平家本陣の)屋島に帰りたければ一門に連絡して三種の神器を返却させよ」との法皇の意向を伝えた。重衡は「無駄でしょうが、院宣ですから一応は伝えます」と答えた。院宣は屋島に届けられ、二位尼清盛の後妻時子、重衡の母)は受け入れを懇願したが一門の総意により宗盛が丁重な拒否の返書を送った。
.

.
   ※南都焼き討ち: 治承四年12月に清盛の命令で 重衡を総大将に平家に逆らう東大寺と興福寺を攻めた事件。
火攻めの放火が延焼し、東大寺大仏殿をはじめ多くの堂宇が灰燼に帰した。意図的な放火説・重衡主犯説・清盛の命令説などがある。
.
   ※吾妻鏡の記述: 2月20日に宗盛からの返書が届いた旨の記載がある。一ノ谷では法皇の停戦命令に従った
のに奇襲を受けたことなど、やや弱気と恨み言が多いが、要するに結論は拒絶である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月15日
.
吾妻鏡
.
.
朝、範頼義経からの飛脚が摂津国から鎌倉に到着し合戦の記録を献じた。内容は以下の通り。
.
去る7日に一ノ谷合戦で平家の多くが落命、平宗盛は船で四国の方へ逃げ去り、三位中将 重衡を生け捕りにした。また通盛・忠度・経俊の3人は範頼の兵が討ち取り、経正・師盛・教経の3人は安田義定の兵が討ち取り、敦盛・知章・業盛・盛俊の4人は義経の兵が討ち取った。その他に挙げた首級は一千余り、武蔵・相模・下野の兵がそれぞれ大きな功績を挙げた。これらは追って報告する、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月15日
.
吾妻鏡
.
.
今日、定長が再び重衡を尋問した。一昨日と同じ内容である。
.

.
   ※玉葉の記述: 中納言雅頼卿(兼実の友人)の話に拠れば、頼朝の4月上洛を求める院の使者親能が東国へ
向った。上洛が不可なら法皇が東国に向うと言っているらしい。まさに物狂いの有様だ。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月18日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝が京の治安について指示する使者を発した。
また播磨(兵庫県南西部)・美作(岡山県東北部)・備前(岡山県東南部)・備中(岡山県西部)・備後(広島県東部)の五ヶ国は梶原景時土肥實平の責任で使者を送り管理者として守護するように、併せて命じた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月19日
.
玉葉
.
.
聞くところに拠れば平氏は3000騎ほどで讃岐国屋島に戻った。都を引き廻した首の中にあった教経は生きている、維盛は何艘かの船で南へ落ち延びた。資盛と貞能らは豊後の武士に捕獲された、などの噂がありどこまでが真実か判らない。また(捕虜となった)重衡卿が尋問を受け、平家側は対応を協議しているらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月20日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
去る15日に使者を四国(屋島)に派遣し勅定の意向(安徳帝と三種の神器の返還)を宗盛に伝えた。
その返書が(院に)届き、閲覧に及んだ。曰く、
.
15日の書状は本日(21日)に到着し、蔵人右衛門佐の書状と共に内容を理解しました。安徳帝と国母(建礼門院)の京還御の件も承りました。去年の7月西海に向った際に還御せよとの院宣を受け、備中国下津井から船出しましたが洛中不穏の噂があるため延期し、去年の10月に鎮西(九州)を出御し還御に向ったところ、閏10月1日に院宣を称した義仲が千艘の軍船を率いて備中水島で安徳帝の還御を妨害しました。これは兵を以って義仲軍を打ち破り、讃岐国屋島に着御して現在に至っております。
.
さて、先月26日に再び出航して摂津(一ノ谷)に遷幸し、院宣に従って京都近くまで行幸しました。去る4日は亡父清盛の三回忌でしたが法事のために上陸する事も出来ずに輪田の沿岸を巡っていると去る六日に修理権大夫の書状が届き、「和平交渉の使者として8日に京を出て下向する。安徳帝の勅答を頂いて京に戻るまでは合戦をしないよう関東の武者には伝えてあるから、平家軍にもその旨を徹底させよ。」との事でした。
.
この仰せを守り、元より戦う意思もないので院使者の到着を待っていると7日になって関東の軍勢が御座船の停泊する一ノ谷に攻め込みました。我々が院宣を守って撤退したのに関東の軍勢は勝ちに乗って攻め掛かり、多くの将兵が殺されました。これは何事なのでしょうか。関東の軍には院宣を待てと言わなかったのか、あるいは関東の武士がそれを承諾しなかったのか、あるいは平家を油断させるため策略を巡らしたのでしょうか。
.
京に向うたびに関東の武士が妨害するのではとても還御は実現せず、それは平家の責任ではありません。和平は重要ですが双方に対して公平でなければ実現する筈もありません、この事態を報告するより先に院宣で還御と神器の返還を命じるのは理屈に合わない事であります。長い間忠義を尽くし御恩を得てきたのに不忠の疑い・叛徒の扱いを受けるのは何事でしょうか。西国に向ったのは義仲入洛に驚いたからではなく、法皇が平家を捨てて比叡山に逃げたため結果として反逆者扱いされたに過ぎません。
.
更に源氏は院宣を称して西国を侵し度々の合戦を仕掛けたため、我々は防衛に当っただけです。そもそも平家も源氏も互いに意趣はなく、平治の乱で信頼卿が叛いた時も院宣によって仲間の義朝らを追討したのも自然の成り行きで、宣旨・院宣に従ったのは怨恨ではないため合戦する理由もありません。長期間の合戦で世情も荒れ飢饉も深刻になり、安徳帝還御の行く手を源氏が妨げる状態が二年も続いています。今は早く合戦を停止して善政を行い、和平と還御について公平な院宣を頂くよう願います。 二月二十三日
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月10日
.
平家物語
.
.
重衡は文治元年(1185)6月に南都で斬首となる。ちょっと話を先取りして...。
重衡の身柄は義経の館に移され、頼朝の指示に従い梶原景時が鎌倉に連行した。到着後は臆すことのない立派な態度で頼朝と面談後に身柄を狩野宗茂に預けられ、頼朝から身辺の世話を命じられた女性(千手の前)や宗茂らと音曲や宴を楽しんで過ごした。
後に南都へ送られ首を斬られたのを聞いた千手の前は剃髪して善光寺に入り後生を弔ったという。
.

.
   ※千手の前: 遠江国中泉(現在の磐田市)の旧・白拍子村には彼女が庵を結び死没したとの伝承がある。
詳細はこちら、たぶん伝説に過ぎないと思うけど、「鎌倉時代を歩く 弐」の本文で。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月20日
.
玉葉
.
.
先月21日に頼朝宛に派遣した飛脚が戻った。「褒賞などは全てお考え通りに。過分の求めは致しません」との事。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月21日
.
吾妻鏡
.
.
義仲に従っていた尾籐太知宣なる者が関東に伺候。頼朝が直接仔細を問い質すと信濃国中野の御牧・紀伊国の田中庄と池田庄を知行する権利を訴えた。その根拠は、先祖の藤原秀郷の時代から継承していたもので、平治の乱で義朝に味方したため没収された。去年8月に義仲に訴えて田中庄に関して与えられた安堵の御下文を見せたため、頼朝は知行権を認める旨を語った。
.

.
   ※三ヶ所の知行: 中野御牧は現在の中野市中野、田中庄と池田庄は紀の川市中部(地図)で、隣接している。
田中庄は認められたが、中野御牧と池田庄の知行権については記載がない。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月21日
.
玉葉
.
.
左大弁吉田経房卿(平家に仕えた後に頼朝に重用された実務官僚)が来訪した。兵糧米や他人の所領強奪は禁止する旨の宣旨を下された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月23日
.
吾妻鏡
.
.
前右馬助季高と散位宗輔らは義仲に与していたため召し捕って検非違使に拘留された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月25日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝が朝廷の政務に関する所存の数條を記して大蔵卿泰経朝臣に送った。内容は次の通り。
.
1.朝廷政務について。
前例を守って徳政を行い、諸国の国司なども早く定めて混乱を避けるべきです。東国と北陸の民は義仲討伐まで放置されましたが今春から元に戻して帰農させれば来秋には国司も赴任し徴税業務も軌道に乗るでしょう。
.
2.平家追討について。
畿内と周辺の武士は義経の命令に従って平家追討の軍勢に加わるよう下知を願います。船での出陣は難儀もありますが義経には追討を急ぐよう命じてあります。勲功は頼朝が追って手配します。
p.
3.諸社について。
古来からの神国であり従来の神領に変りはなく、新たな付け加えもあろうかと思います。先年は鹿島大明神が上洛するとの風聞があった後に賊徒(平家)を追討したのは神威なので今後も社殿の修復などに尽力しますので決まり事を守り勤行するように指示を願います。
.
4.諸寺について。
すべての寺は昔の通りに恒例の勤めを怠るべきではありません。近年は僧侶が武勇を競って仏法を忘れ功徳を積もうとしないのは最も禁ずるべき仕儀です。乱暴で信心の足りない僧に公費を供する必要はありません。今後は私の沙汰として、僧の武具を決まりに従って没収し朝敵を討つ官兵に与える旨を裁許ください。
.
                                壽永三年二月  源 頼朝
.

.
   ※泰経朝臣: 近衛天皇、後白河天皇、後白河院に仕えた近臣の高階泰経を差す。政権中枢にいたため浮沈を
繰り返し、三度目の文治元年(1185)には義経謀反への関与を疑われて伊豆流罪になった。
.
文治五年(1189)には正解に復帰、建久二年(1191)には正三位に叙された。頼朝が泰経に送った書状にある「日本第一の大天狗は余人の事に非ず」は後白河ではなく泰経だ、と考える説があるのも面白い。専門家でも前後の流れに留意せず思い込みで結論を出す事があるのだね。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月27日
.
吾妻鏡
.
.
近江国の住人佐々木三郎成綱が参上し、成綱の嫡子俊綱は一ノ谷合戦で平通盛(清盛の異母弟教盛の嫡男で教経の兄)を討ち取った恩賞を受けるべきと申し出た。頼朝は「勲功に関しては立派だが、今まで平氏に与して源氏を侮蔑していたのに、平氏が落ちてから初めて参上したのは真実の志ではない」と言った。
.

.
   ※佐々木成綱: 近江源氏佐々木秀義の縁戚。保元の乱で為美に味方した秀義に所領を奪われたが、平治の乱
で義朝に味方した秀義が東国へ逃げたため取り戻していた。秀義は重なる功績で佐々木荘を安堵されたが、承久の乱では一族が分裂して争うことになる。源氏一族の宿命か。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月27日
.
玉葉
.
.
噂では後白河院は頼朝の4月下旬上洛を求めている、折紙(簡単なメモ、の意味)で政務を行う軽率さだ。もし頼朝が賢い人物なら益々天下の乱れを招くだろう。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月29日
.
玉葉
.
.
義経は平氏追討のため来月1日に西国に向かう予定だったが、理由不明で急遽延期になった。噂では(捕虜になった)重衡が宗盛の元に派遣した使者が帰参し宗盛の意向を伝えたらしい。神器・安徳天皇建礼門院(安徳帝の生母徳子)は院の仰せに従って入洛させる。宗盛は入洛に加わらず、讃岐国の領有を安堵して欲しい。供として嫡子の清宗を上洛させる、と。これは事実か、あるいはこの事で追討が延期されたのだろうか。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月30日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は信濃国東條庄にある狩田郷の領主職を式部大夫繁雅に分け与えた。平家の所領として没収したのだが繁雅が自分の本領であると愁訴したためである。
.

.
   ※狩田郷: 現在の小布施町東部に雁田の一帯(地図)らしい。覚えがある地名だなと思ったら、北信濃の道の駅
「オアシスおぶせ」でP泊した時に混んでて敬遠した「穴観音の湯」(公式サイト)のすぐ近くだった。
立ち寄ったことのある地名が出てくると、何とはなしに嬉しく感じる。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
2月30日
.
玉葉
.
.
後白河法皇の近臣藤原定能卿が来訪し世情の話を。平氏は和睦すべきだろう、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝は鎮西九ヶ国の武士に下文(命令書)を送り平家追討の趣旨を伝えた。諸国の兵を派遣しているのだが鎮西の諸国が平家に与しているため討伐できないためである。〜文面は略〜
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月1日
.
玉葉
.
.
定長(後白河法皇近臣の藤原定長で吉田経房の弟)の話では重衡に派遣を指示使者(左衛門尉重国)が帰洛した。宗盛の返事は、概ね講和を認め源平の双方を召し使うとの趣旨らしいが、これは頼朝が認めないだろうから実現は困難と思われる。ただし別の使者の派遣があれば改めて意向を述べる、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月2日
.
吾妻鏡
.
.
土肥實平が(範頼の軍監として)西海道(瀬戸内・九州方面)に出陣するため重衡卿は義経の元に移された。今後は義経の軍監に梶原景時が任じる。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月5日
.
吾妻鏡
.
.
一ノ谷合戦で平家を討った日に武蔵国の住人藤田三郎行康は(生田口の)先陣を務めて討死した。その勲功により知行などの遺産は子息の小三郎能国の相続を許す旨の下文が発行された。
.

.
   ※藤田郷: 本荘市北部の利根川沿い(地図)。南側は小山川を挟み
岡部忠澄の本領・岡部郷と接している。
.
岡部忠澄(猪俣党の武士)は同郷の藤田行康と一ノ谷で
戦い、平忠度を討ち取る勲功を挙げた。
.
藤田氏も猪俣氏と同じく小野篁の末裔を名乗っているから両家は血縁關係にあるかも知れない。
.
右画像は忠澄が忠度の遺髪を葬ったと伝わる清心寺の五輪塔。
更に詳細は画像をクリックして岡部忠澄の本領と平忠度の墓で。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月6日
.
吾妻鏡
.
.
蒲冠者範頼に対する頼朝の怒りが許された。(今年の2月1日に墨俣で御家人と先陣を争った件の謝罪を繰り返していたらしい) .
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月9日
.
吾妻鏡
.
.
先月18日発行の宣旨が鎌倉に到着。最近は平家追討のためと称する武士が各地の荘園で狼藉を働き人手や財物を奪う事件が多発している。しかも関東の威光を翳しているため簡単に処罰もできない旨を(非公式に)申し入れてきた。頼朝は庶民を煩わす考えはないので同様の事例は早急に是正させる旨を申し送った。(宣旨は省略)
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月10日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝の求めに従って平重衡卿が梶原景時に護送されて鎌倉に向かった。
今日、頼朝は因幡国の住人長田兵衛尉實経(後に廣経と改名)を呼び指示書を与えた。この者には平家に与した罪はあるが、父の高庭介資経は郎党の籐七資家に命じて私を伊豆まで送らせた、この恩は子々孫々まで忘れ難い。
.
従って本領(鳥取市西部の高庭荘)を安堵する。多くの家人が死んだり変節して去ったりした中で實経が親族の資家を添えてくれた恩に報いるためである。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月13日
.
吾妻鏡
.
.
尾張国の住人原大夫高春(尾張二宮大縣神社・公式サイト)神官が召された。上総廣常の外甥(妹の子)で、薩摩守忠度は娘婿にあたる。平氏の恩顧を受けていたが廣常との縁を重んじて清盛に背き、治承四年(1180)に関東に下って以来忠節を尽くしている。去年廣常が(謀反の冤罪で)誅されてから田舎に隠棲していたが、頼朝は無罪の廣常を処刑したのを悔いて親族の多くを赦免した。功績のある高春にも旧領を安堵するから引き続いて忠勤を励むように、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月14日
.
吾妻鏡
.
.
遠江国の伊勢神宮神領・都田御厨(浜松市北区・地図)は従来の通り、神宮使に従い業務を管理するよう定めた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月17日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
昨夜板垣兼信の飛脚が鎌倉に到着、判官代邦通が今日その内容を披露した。
.
君命に従って去る8日に京を発ち、平家追討のため山陽道に向いました。源氏門葉に列して追討使に任じ目的を果たす覚悟ですが、土肥實平は私の指揮下にありながら特命を受けていると称して協議をせず、補給や部隊の構成について独断で決裁しています。この状態が続けば戦意にも影響するでしょう。西国にいる間は兼信が指揮官であることを徹底指示して頂き、指揮系統の明確化をお願いします。
.
頼朝はそれに答えて次のように述べた。兼信の使者は虚しく帰らざるを得なかった。
.
門葉だから・家人だからではなく、實平の忠義心は他の者とは比べられない。目代の立場を弁えて西国での差配は實平に任せ、兼信は戦場で命を捨てる覚悟を見せれば良い。申し出は僭越である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月18日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は伊豆国に向けて出発した。これは野生の鹿を狩るためで、下河邊庄司行平四郎政義新田四郎忠常愛甲三郎季隆・戸崎右馬允国延らが先頭の射手を務めるよう定められた。
.

.
   ※伊豆の鹿: 天城の近くでは舗装道路を車で走っていて鹿に遭遇するのは珍しくない。特に大室山から遠笠山
に向かう天城高原(地図)は驚くほど多い。ついでに紹介すると、私の家はJRの駅から約1kmだが、何度も猪に遭遇している。犬と散歩した夕方に、1m以上ある成獣と5mの距離で向き合った経験もある。犬は見境なく吠えるし猪は脚で地面を掻いて威嚇するし...本当に怖かった!
一瞬、翌日の新聞に「猪に襲われて散歩中の男性が...」と載るのかな、と思ったもの。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
昨夜、伊豆北條に到着。今日、大内冠者惟義を伊賀国の守護に任じるとの指示があった。
.

.
   ※大内惟義: 新羅三郎義光--四男平賀盛義--嫡子義信--長男惟義と続く清和源氏。伊賀国大内荘の地頭に
任じて大内姓を名乗った。伊賀守護に任じたのは伊勢平氏を抑える目的があった。
.
元久二年(1205)に北條時政平賀朝雅(異母弟)の失脚後は伊勢国守護を継承し、更に越前・美濃・丹波・摂津の守護に任じて繁栄したが嫡男の惟信は承久の乱で後鳥羽院に味方し、平賀・大内一族は滅亡する。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月22日
.
吾妻鏡
.
.
大井兵衛次郎實春が伊勢国に出発しようとしている。これは平家家人の主だった者の不穏な動きがあるため討伐せよとの命令があったためである。
.

.
   ※不穏な動き: 鎌倉に拠点を置いて関東に勢力を拡大した頼義--義家に駆逐された感のあった東国の平氏は
伊勢に基盤を移し、西国の国司を歴任して勢力を広げた。
.
前九年と後三年の役などで勢力を失い始めた源氏は摂関家と疎遠になり、正盛を棟梁とする伊勢平氏が院と朝廷に重用され始めて両者の勢力が逆転した。
正盛は因幡・備前・伊勢の国守を、嫡子の忠盛は播磨・伊勢の国守となって財政基盤の強化に成功し、清盛の時代に最盛期を迎える。
.
治承の兵乱で形勢は再び逆転したが本貫の地・伊勢では一ノ谷合戦後も平家累代の家人が反乱の動きを強め始める。指導者は伊豆で頼朝に討たれた平兼隆の父・信兼、平氏一の郎党と称された家貞の子で貞能の兄家継ら。平氏の残党を糾合して伊勢と伊賀で大規模な反乱を起こした。平家物語が「三日平氏の乱」と書いた蜂起だが、実際の鎮圧には約一ヶ月を要した。
.
  ※源氏の凋落: 義家の武名が高まって朝廷の警戒心を招いた事、義家を継承する筈だった長男の対馬守義親
が任地での濫妨のため流刑となり隠岐国で平正盛に討伐された事、その二つが凋落の大きな要因で、保元の乱の時点での勢力差は既に顕著だった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月25日
.
吾妻鏡
.
.
土肥實平が使者として備中国庁に入り兵糧米徴収などの手配を行った。平家に解任されていた在庁官人の藤原資親ら数に本職に復帰させて政務を執らせた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月27日
.
吾妻鏡
.
.
重衡卿が伊豆国府に到着、梶原景時は北條にいた頼朝に使いを送って指示を仰いだ。頼朝は早々にここへ同道せよと命じ、到着した重衡卿には明朝一番に面談しようと伝えた。
.

.
   ※伊豆国府: 三嶋大社の近くにあったのは確実だが詳しい場所などは判っていない。三嶋大社から北條館まで
約9km、意外に近い。面談は鎌倉だと思い込んだのは不注意だった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
3月28日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
重衡卿は藍色の直垂に立烏帽子の姿で廊下に招かれ面談した。頼朝は「法皇の怒りを鎮めるため、且つ父の恥辱を雪ぐため石橋山で合戦して以来、平氏の追討に至ったのは承知の通りで(捕虜となった)あなたに面会し、いずれ宗盛殿にも同じように面会することになりましょう。」と。
.
重衡は答えて曰く、「源平は共に天下を警備する役目でしたが当家だけが朝廷を守るようになっていました。官職に任じる者は80余人、20年余りの繁栄であります。いま運命によって囚人となったのは弓馬に関わる者として特に恥辱ではないから早々に斬罪に処せばよろしい。」と、堂々とした態度で応じた。この対応を聞いていた者は全て大きな感銘を受けた。面談後の重衡は狩野介宗茂に預けられた。
今日、院からの申し出については滞りなく決裁せよ、武家の道理に関わる件には改めて対応すると決められた。
.

.
   ※立烏帽子: 中間で折らずに直立した形の烏帽子。義家に倣って源氏は左折れとか、平家は右折れを使うとか
上皇だけが右折れでその他は左折れとか...源平盛衰記などには色々書いてあるけれど、特に厳しい決め事はなかったようだ。牛若丸(義経)が元服した「かがみの里」の項を参照されたし。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月1日
.
頼朝が北條から鎌倉に帰着、夜、北の部屋安達盛長が無事に帰還した祝賀の酒盃を献じた。下河辺行平四郎義政新田忠常愛甲季隆、戸崎国延らに伊豆で射止めた鹿皮を与えた。
.

.
   ※北の部屋: 古代中国の君主は南に向いて座り、臣下は北に面した。これが公邸の北に区分した君主の私邸を
北面と呼んだ語源らしい。従って北に面して待機し君主を守る役に任じたのが北面の武士。
とすると大倉幕府での頼朝私邸は法華堂跡寄りにあったんだろうな。
.
  ※戸崎国延: 埼玉県騎西町を本領とした御家人で、居館跡と伝わる一帯に戸崎の地名が残る(地図)。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月3日
.
吾妻鏡
.
.
尾張国住人大屋忠三安資の本領を安堵し併せて領内の治安を守るよう命じた下文を発行、筑前三郎高久がこれを差配した。尾張の武士の殆どが平氏に従ったにも関わらず 、和田義盛の婿として源氏に従った功績である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月4日
.
吾妻鏡
.
.
御所の桜が満開になり、一條能保を招いて花見の宴を催した。平時忠も同席して音曲を楽しんだ。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月6日
.
吾妻鏡
.
.
前の池大納言・平頼盛清盛の異母弟)と正室(俊寛の娘)の所領は一度朝廷が没収した後に院から頼朝に与えられたが、故池禅尼(忠盛の後妻で頼盛の生母)の恩に報いるため、所領34ヶ所を頼盛の知行とするよう手配した。その中の信濃国諏訪社は伊賀国六箇山と交換した。
.
池大納言の沙汰は以下の通り。
走井庄(河内) 長田庄(伊賀) 野俣道庄(伊勢) 木造庄(伊勢) 石田庄(播磨) 建田庄(播磨) 由良庄(淡路)
弓削庄(美作) 佐伯庄(備前) 山口庄(但馬) 矢野領(伊豫) 小島庄(阿波) 大岡庄(駿河) 香椎社(筑前)
安富領(筑前) 三原庄(筑後) 球磨臼間野庄(肥後)
   右庄園17ヶ所は没収して院から与えられたが、元通りに池大納言家の沙汰とする。  壽永三年四月五日
.
池大納言家の沙汰は以下の通り。
布施庄(播磨) 龍門庄(近江) 安摩庄(安藝) 稲木庄(尾張) 以上は証拠など理由あり。
乃邊長原庄(大和) 兵庫三ヶ庄(摂津) 石作庄(摂津) 六人部庄(丹波) 熊坂庄(加賀) 宗像の社(筑前)
三ヶ庄(筑前) 眞清田庄(尾張) 服織庄(駿河) 国富庄(日向)   以上は八條院御領
麻生大和田領(河内) 諏訪社(信濃。伊賀六箇山と交換)   以上は女房御領
.
   右庄園16ヶ所は没収して院から与えられたが元通り池大納言家の沙汰とする。  壽永三年四月六日
.

.
  ※大岡庄: 北條時政の後妻・牧の方の出身地で、兄の牧宗親(父親説あり)が荘官。本来は関白藤原師通
所領だから、頼盛が名義を借りて手数料を稼いでいた可能性がある。
.
嘉保二年(1095)に美濃守義綱(義家の弟)が美濃の延暦寺荘園の公収を巡って寺側の僧を殺したため延暦寺(及び守護している日吉神社)とトラブルになり、処罰を求める延暦寺に対して師通は軍勢を送って鎮圧した。この際に矢が神輿や神官に当たり、神罰を受けた師通は三年後に37歳で早世した、とされる(一説に、院政を推進したい白河上皇の呪詛による、と)。
.
話が長引いたが、彼の死を悲しんだ母親は日吉神社の神霊を大岡庄に勧請し所領から八町八反を神領として寄進した。これが沼津市にある日吉神社(地図)草創の背景である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月8日
.
吾妻鏡
.
.
重衡卿が伊豆の国から鎌倉に入った。頼朝は御所内の一軒を提供し、狩野宗茂に命じて主従が10人づつ交代で警護させた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月10日
.
吾妻鏡
.
.
義経の使者が京都から到着して報告。先月27日に叙目があり頼朝は義仲追討の功績で正四位下に叙された。
天慶三年(940)には藤原秀郷将門追討の功績で六位から従四位下に昇った、その例に倣ったのだろう、と。
.
宇治民部卿(将門追討の征東大将軍に任じた藤原忠文)の例に倣って征夷将軍を宣下する議論もあったが、太刀の授与など手続きが複雑なので今回の叙目に載せるには無理がある。まず叙位を与えようとの経緯になった、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月11日
.
吾妻鏡
.
.
27日の叙目で典厩(左馬頭の唐名。義朝の官職だった)に任じた一條能保が鶴岡八幡宮に謝礼の参拝、その後に御所で頼朝と面談した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月14日
.
吾妻鏡
.
.
源民部大夫光行と中宮大夫屬入道善信(三善康信、後に法名を善信)らが京都から到着。光行は父の豊前前司光季が平家に与しているのを謝罪するためである。善信は母の姉が頼朝の乳母で、挙兵前から京都の情勢を知らせるなど様々に協力していた経緯があり、鎌倉への下向を誘われていた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月15日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝が鶴岡八幡宮に参拝、儀式の後に回廊で入道(三善)善信と対面した。頼朝は鎌倉に落ち着いて政務の補佐に任じるよう強く求め、善信も承諾した。その時に光行が席に現れたため、頼朝は面談を中止した。
その後に頼朝は「善信は穏やかな性格であるが同道して来た光行は配慮に欠ける気配があるな」と囁いた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
壽永三年
.
4月16日
.
吾妻鏡
.
.
壽永三年を改め 元暦元年に。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月18日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は特別な願い事のため京都宅間流の絵師下総権守為久に命じて正観音像の絵を描かせた。
為久は百日の精進潔斎を済ませてから束帯の正装で描き始め、頼朝も精進して観音経を読誦した。
.

.
   ※宅間為久: 宅磨派絵師為遠の三男。宗家は兄が継ぎ、為久は頼朝に
招かれて鎌倉の浄明寺二丁目(地図・通称を宅間ヶ谷と)に定住し、鎌倉宅間派の祖となった。
.
この谷にある有名な報国寺(公式サイト・別名竹寺)は幕府滅亡直後の元弘四年(1334)の創建で開山は建長寺無学祖元の弟子・仏乗禅師。報国寺には為久の子孫宅間法眼作の迦葉尊者(釈迦十大弟子の一人)の像があり、一族が何かの形で関係していた可能性がある。
.
   ※正観音像: 頼朝は乳母の一人が清水寺に参籠して得た二寸(約6cm)
の銀製観音像を持仏としていた。( しとどの窟や治承四年(1180)8月24日の吾妻鏡および野間大坊にも観音像関連した記述がある。
観音像と頼朝の接点は壽福寺の項に記載した「鉄(くろがね)の井」も参考に。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月20日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
重衡頼朝の許しを得て入浴し、夕刻には捕虜の身を慰めるため籐判官代邦通(初期の右筆藤原邦通)、工藤祐経、官女一人(千手前)らが酒肴と共に遣わされた。重衡はとても喜んで時を過ごした。
.
工藤祐経が鼓を打って今様を歌い女房が琵琶を弾き、重衡が横笛で和した。〜言葉遊びの中間を略す〜
.
夜半になり一同は御前に戻って仔細を報告した。頼朝は事の次第に感動し、周囲の噂になるのを憚って参加しなかったのが心残りだと嘆いた。夜具一枚を(女房の)千手前に持たせて重衡の元に遣わし、祐経に「都から離れた土地の女も趣がある、逗留している間は召し置かれるように」と伝えさせた。
.
祐経は若い頃に重盛に仕えており、その頃には重衡を見知っているため頻りに彼の身の上に同情していた。
.

.
   ※重衡の拘留: 拘留場所は狩野宗茂邸、その跡が鎌倉大町の教恩寺(地図)。
元々ここには材木座の光明寺(公式サイト)の末寺だった善昌寺があり、その寺が廃寺になった跡に光明寺境内の教恩寺が移築された。
.
重衡は頼朝から一族の菩提を弔うようにと運慶作(真偽不明)の阿弥陀如来像(右画像、像高約100cm・寄木造)を与えられ、それが本尊として教恩寺に伝わっている。  (右画像。不鮮明だけどクリック→ 拡大)
.
   ※右筆と祐筆: どちらも同じ意味だが、祐筆は中世以降に使われたらしい。私は右筆は誤字
だと思っていた。何回も「祐筆」を使ったなぁ...勉強不足が恥ずかしい。
.
   ※今様: 簡単に表現すると当時の国民歌謡、七+五を四回繰り返して一節。この歌詞に曲を
付けたのが最初で、越天楽や黒田節のパターンらしい。
.
朝長が没した青墓宿には遊女が多く、彼女らが歌った今様の中心地でもあった。
後白河法皇は今様を集めて「梁塵秘抄」を編纂してトップ・シンガー「青墓の乙前」を青墓から呼び寄せた、と伝わる。
.
   ※祐経と重盛: 伊東祐親は若年の祐経を京の重盛に仕えさせて伊東を押領、久須見荘として
重盛に寄進し支配権を確立した。これが後に曽我の仇討を引き起こしていく。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月21日
.
吾妻鏡
.
.
昨夜、御所が大騒ぎになった。志水冠者(義高)は婿(大姫の許嫁)ではあるが父の義仲は勅勘を受けて討伐されており、その子も殺さねばならぬ、と頼朝は考えていた。これを側近に話した内容が女房を通じて大姫に伝わり、義高は女房の姿で他の女房に紛れて鎌倉を脱出した。離れた場所に馬を隠し蹄に布を巻いて音を消した、と。
.
同じ年齢の側近海野小太郎幸氏が義高の夜具で髪の毛だけ見せて眠り、夜明けからは義高と同じように双六で遊んでいた。誰も気付かなかったが夕暮れになってこれが露見、激怒した頼朝は幸氏を拘束し堀籘次親家らの軍兵を各所に送って討ち取るように命じた。大姫は魂を消すような有様だった。
.

.
   ※義高と大姫: 義高は承安三年(伝)生まれだから満11歳、大姫(長女を表す普通名詞、本名不詳)は治承二年
生まれだから満6歳。幼いながら仲睦まじい関係だったと伝わる。
.
大姫は義高惨殺がトラウマになったのだろうか、独身のまま20歳で他界する。義高の墓については大船常楽寺の項に、伝・大姫墓所は岩船地蔵堂乙姫の墓所説あり)に記載した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月22日
.
吾妻鏡
.
.
民部大夫光行と父親の豊前前司光季は平家に与していた罪の許しを願う手紙を義経宛に送った。
.

.
   ※源民部大夫光行: 4月14日に三善善信と共に京から鎌倉に入った人物。詳細はwikiで。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月23日
.
吾妻鏡
.
.
下河邊四郎政義は合戦に於いては能く功績を顕し幕政に於いては労を厭わず働いたため頼朝の評価も高い。
.
志田義廣謀叛の際には小栗十郎重成を除く常陸国の住人らが義廣に与したり奥州に逃亡したりした中で最初から頼朝に従っていた、その褒賞として常陸国南郡を与えることとなった。
.
この一両年は(合戦や遠征などのため)常陸の経済が停滞しているが互いに協力して改善を図るよう常陸国目代宛の文書として発行した。(これは国司の藤原俊盛に鎌倉の威光を確認させる意味もあり)、筑後権守藤原俊兼(実務文官で頼朝の初期の右筆)が代筆している。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月24日
.
吾妻鏡
.
.
賀茂神社(公式サイト)の神領41ヶ所について、後白河院からの下し文にある通り、頻発している武士の押領行為などを禁ずる旨の命令が発行された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月26日
.
吾妻鏡
.
.
堀籐次親家の郎従籐内光澄が鎌倉に戻り、武蔵国入間河原で志水冠者(義高)を討ち取った旨を報告した。これは内々にしたのだが大姫はこれを漏れ聞き、愁歎の余り水さえも飲まなく(飲めなく?)なったのは予想できた事、同様に大姫の気持ちを察した御台所政子の 悲しみも大きく御所の男女の多くもこの事件を嘆いた。
.

.
   ※義高追討: 事件の詳細は清水冠者終焉の地に記載した。関連して 班渓寺と鎌形八幡も参考に。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月28日
.
吾妻鏡
.
.
平家一門は西海(瀬戸内海)にいるとの風聞があるため軍勢を派遣することとなった。戦勝を祈って淡路国廣田庄を廣田社に寄進、下し文を前齋院次官中原親能が上洛する際に神祇伯の仲資王に提出することになる。
.

.
   ※廣田庄と廣田社: 廣田庄は淡路島中央部(地図)、廣田社は西宮の廣田神社(公式サイト)を差す。神祇伯は
神社や祭祀を司る律令制の神祇官(wiki)の長官、仲資王は神祇伯に任じた公卿の名。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
4月29日
.
吾妻鏡
.
.
中原親能が使節として上洛し平家追討に関する補給や事務連絡などについて差配する。土肥實平梶原景時も同様に出発、軍船を整えて海が穏やかになる6月を目処にして合戦を遂げるよう命令を受けた。
.

.
   ※實平と景時: 梶原景時は重衡を連行して鎌倉に戻ったから親能と共に出発できるが、土肥實平は3月2日に
西海に向け出陣したと吾妻鏡は記録している。その後に鎌倉に戻った記録は...見落したか、あるいは山陽道の用事を済ませて鎌倉に戻ったのだろうか。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
志水冠者義高に味方する者が甲斐・信濃に隠れ決起を計画しているとの噂があり、軍兵を派遣して討伐せよとの命令があった。足利義兼小笠原長清は家人らを率いて甲斐国へ、小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林らは信濃国へ入って反逆する者を捜索せよとの指令である。他に相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人らも同様に準備を整えて10日に出発せよと、和田義盛比企能員に命令した。
.

.
   ※足利義兼: 足利氏初代の父義康が保元二年(1157)に30歳で早世し、更に2人の兄が源平合戦で・もう1人
の兄が宇治川合戦で戦死したため四男の義兼が家督を相続、実質的な足利氏初代となる。
.
若年の頃は祖父の新田義重の援助を受けて所領の維持に努めたが、この時代の義重は頼朝に排斥され義兼が下野と上野の門葉筆頭となっていた。奥州合戦が終って世情が落ち着いた建久六年(1195)に41歳で出家して隠居したのは軍事的才能を警戒した頼朝の猜疑心を避け、一族の温存を謀ったとも考えられている。墓所の樺崎寺(法界寺)を参照されたし。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月2日
.
吾妻鏡
.
.
志水冠者殺害(と、与党討伐の命令)に伴って諸国の御家人が大勢駆け参じてきた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月3日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は二ヶ所の村を伊勢神宮に寄進した。永暦元年(1160)に伊豆流罪となって京を出る際に霊夢を見て以来伊勢神宮への信仰は他の神社とは異なる。平家の残党が伊勢国にいるとの噂を聞いて軍兵を派遣するにあたり、例え敵が隠れていても神官に無断で神宮に乱入してはならないと再三指示していた。
.
二ヶ所の村とは、内宮分として武蔵国飯倉の御厨を一の禰宜荒木田成長神主に命じたものと、外宮分として安房国東條御厨を會賀次郎大夫生倫に命じたもので、一品坊昌寛の差配として寄進状を与えた。
.
東條御厨に関しては既に寄進状を発行したのだが去年の11月に禰宜らが返状を寄越し「今は反逆者の立場である源氏が平家討伐の願文を捧げるのは筋が通らない」と、保留になっていた。今は情勢も変わり、更に會賀次郎大夫生倫が御所に参向していたため寄進状を与えた。生倫は衣冠を正して御所に参内しこれを受け取った。
.

.
   ※二ヶ村: 武蔵国飯倉は現在の港区飯倉、安房国東條は鴨川市のシーワールド一帯(地図)。
.
   ※禰宜と生倫: 現代の禰宜は宮司を補佐する神官、生倫神主は御厨を担当する神官を差す。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月12日
.
吾妻鏡
.
.
雑色(下働き)の時澤が頼朝の使者として上洛。日頃頼朝が祈祷を依頼していた園城寺(三井寺)の僧正・房覺が重病との知らせがあり、その見舞いである。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月15日
.
吾妻鏡
.
.
夕刻、伊勢国から飛脚が到着。波多野三郎大井實春山内(首藤)三郎経俊大内惟義(伊勢国守護)の家人らが羽取山志田義廣勢と合戦、終日戦った末に義廣の首を獲った。頼朝に反逆し鎌倉を攻めようとして小山朝政に敗れ逐電して義仲に与し、義仲滅亡後に再び逃亡していた者である。行方が判らないため頼朝の怒りは鎮まらなかったが、この報告に喜ばされた。
.

.
   ※波多野三郎: 頼朝挙兵に協力しなかったため討伐された波多野氏当主が義常義通の嫡子)、義常の所領を
継承した義景(義常の庶兄説あり)の息子が三郎盛通。
.
奥州合戦に出陣する直前の文治五年(1189)7月14日の吾妻鏡に「波多野五郎義景に供を命じた。それを受けた義景は所領を幼い息子に譲り、生きて帰らぬ覚悟を決めた。頼朝はこれを聞いて感動した」との記載がある。この「幼息」が誰なのかは判らない。
.
また文治四年(1188)には所領を巡って岡崎義實と争った記録もある。義實は「孫(義景にとっての外孫)のために遺したかった」と弁明して敗訴している。
.
義實の孫で義景の外孫って誰だろう。義實の子は石橋山で死んだ余一義忠(佐奈田)と土屋の養子に入った義清の2人、建暦三年(1213)の和田合戦戦死者名簿にある「土屋の人々 大学助(義清)・同新兵衛・同次郎・同三郎・同四郎」の誰か、かも知れない。義景の外孫は判らない。
.
   ※大井實春: 武蔵国荏原郡大井郷の武士、今回の功績で伊勢に所領を得、更に文治元年(1185)の河越重頼
追討により彼の所領(伊勢の5ヶ郷)を得て繁栄した。剛力で知られた武士。
.
   ※山内経俊: 頼朝乳母の一人だった山内尼の息子で石橋山では平家方で頼朝に矢を放ち、降伏後に許されて
御家人に加わった。元久元年(1204)に伊勢・伊賀で勃発した反乱の対応に失敗し両国の守護を罷免されている。
.
   ※大内惟義: 新羅義光の曾孫で平賀義信の長男、源氏門葉の一人。この年の伊賀国守護。志田義廣討伐後の
6月に伊勢平氏の乱が勃発し、鎌倉からの援軍が着く前に鎮圧したが初期対応の失敗を問われて恩賞は得られなかった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月19日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は頼盛卿と一條能保らと共に海へ、由比ガ浜から船で杜戸(葉山の森戸海岸・地図)に渡った。御家人らもそれぞれ仕立てた船を飾り先を争って漕いだのは趣があった。杜戸の松林では射芸を競う小笠懸けを行い、頼朝はこれは見物し甲斐があると勧め、客も充分に楽しんだ。
.

.
   ※小笠懸け: 流鏑馬から儀礼的な部分を省いて実戦・余興・勝負の要素を強めた騎射。詳細はwikiで。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月21日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は高階泰經に書状を送り、頼盛卿と息子を元の官職に還任させる事と、源氏一族の範頼(蒲冠者)廣綱頼政の五男)・平賀(大内)義信を一国の国司に任じるように奏聞せよとの内容である。三善善信がこれを書き雑色の鶴太郎に託した。
.

.
   ※頼盛還任: 京に戻り6月5日に権大納言に、六男の光盛は侍従に、五男の保業は河内守に還任した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
5月24日
.
吾妻鏡
.
.
籐原(宇都宮)朝綱が伊賀国壬生野郷(伊賀市)の地頭職を拝領した。平家に仕えていた者だが志は関東にあり、密かに都から逃れて関東に合流した。その功績によって宇都宮の本領を安堵し、更に新恩を与えたものである。
.

.
   ※朝綱東国へ: 治承四年(1180)8月に頼朝が挙兵、10月には東国で平家に従っていた宇都宮・畠山・小山田
などが頼朝側に寝返った。大番役として在京在京していた宇都宮朝綱畠山重能小山田有重らは拘束されたが、都落ちの際に平貞能(母が宇都宮氏の娘)が彼らを東国に帰すよう尽力した。帰郷を裁許したのは平家物語では知盛、源平盛衰記では宗盛だったと書いている。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝は近日中に京に戻る予定の平頼盛(前の池中納言)を招いて別れの宴を催した。一條能保平時家も加わって酒を酌み交わし互いに世情の様子などを語り合った
.
小山朝政治三浦義澄結城朝光下河邊行平畠山重忠橘右馬允公長足立遠元八田知家後藤基清らが呼ばれて庭に控えた。いずれも京に駐在した経験のある者たちである。次に引出物として黄金造りの剣一振りを時家が献じ、砂金一袋を大江廣元が献じ、次に鞍を付けた馬10匹を引き出して献じた。
.
更に頼盛の従者たちにも引出物を与えるため、まず平家の一族である弥平左衛門尉宗Cを呼んだ。これは病気で(鎌倉入りが)遅れるとの申し出があり、もう到着したと考えての事だが、頼盛から「未だ参着せず」との返答があり、頼朝は落胆した。宗清は池禅尼に仕えた武士で、平治の乱の際に捕虜となった頼朝の便宜を図ってくれた恩に報いるため鎌倉下向に同伴するよう求めていた経緯がある。
.
頼盛が京を発つ時にそれを宗清に伝えたのだが、「戦場に向かうのなら喜んで先陣を務めます。平家が零落した時に昔の恩に報いるための招きを受けるのは恥であります。」と称して屋島の平宗盛軍に加わってしまった、と。
.

.
  ※三人の立場: 平家政権中枢に在りながら軋轢の末に見捨てられた形の頼盛(清盛の異母弟)、継母(時忠
後妻)による讒言が発端で上総流罪となった時家、義仲から逃れて妻(頼朝の姉妹・坊門姫)の縁に頼った能保、三様の生き様が見られて面白い。
.
鎌倉に定住した時家(時忠の二男)は政治顧問として優遇されて穏やかな晩年を過ごし、京に帰って後白河に重用された能保は宮廷の政争に身を投じ、頼朝の庇護を受けた頼盛は宮廷で安定した地位は保ったが、居所を失くした異分子として満ち足りない生涯を送ったらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月4日
.
吾妻鏡
.
.
石河義資が御所に勤務するべく朝夕官仕の立場で鎌倉に入った。去る養和元年(1181)に平家の捕虜となった石河義時(義家の四男)の遺児で河内源氏の生き残りである。義仲にも追われたため頼朝が朝廷に執り成し、3月2日に元の職位・右兵衛尉に任じる宣下が下されていた。
.

.
   ※朝夕官仕: 所領を持たず御所に住んで1日玄米五升の俸給を受ける勤務体系。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
頼盛卿が帰洛した。頼朝は荘園を亜相(=大納言=頼盛)に譲り、更に鎌倉逗留中は連日のように酒肴を勧めて宴を重ね金銀錦繍を贈った。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月16日
.
吾妻鏡
.
.
一條次郎忠頼には武威を振りかざし世を乱すく気配あると頼朝は受け取り、今日御所で討ち取ろうと決めた。
夜になって西の侍所に出御し招かれた忠頼と対座し、古参の御家人数名が列座した。献杯の儀があり、討手に任じた工藤祐経が銚子を持って御前に進んだが、名だたる武将との対決という大事に躊躇し顔色が変わった。
.
この様を見た小山田有重が席を立ち「酌をするのは老人の役目」と称して祐経の銚子を取り、更に子息の稲毛重成・弟の榛谷重朝が杯と肴を捧げて忠頼の前に進んだ。有重は「酒席の故実は袴の裾紐を上結びにする」と息子に教えて銚子を置き、紐を結び直した。その時に別の指示を受けていた天野遠景が太刀を抜いて左から忠頼を刺し殺し、頼朝は背後の障子を開いて奥に入った。
.
忠頼に従っていた新平太と甥の武藤與一・山村小太郎らが主人の惨劇を見て庭から部屋に駆け上がり、詰めかけた武士の多くを傷つけ寝殿近くに迫った。重成・重朝・結城朝光らが戦って新平太と與一を討ち取り、遠景を狙った山村は一間離れた所から大俎板を打ち付けられて縁下に昏倒し、遠景の郎従が首を獲った。
.

.
   ※一條: 甲斐源氏棟梁武田信義の嫡男。本質的には頼朝による甲斐源氏の排斥粛清だが、背後に兄たち
を排除して一族の支配権を狙った信義の四男・石和信光の策謀と、源氏勢力の内部分裂を策した後白河が「忠頼を武蔵守に任じる」意思を示した(忠頼が武蔵守を望んだ説あり)事などがあった。一族が団結できないのは甲斐源氏も同様か。
.
忠頼の墓所などについては一條忠頼の史跡で。 また後年の「曽我兄弟の仇討」で頼朝の宿舎に討ち入った曽我五郎時致を組み伏せた御所五郎丸が一條忠頼に仕えていたとの職歴(笑)も面白い。真偽は不明、詳細は御所五郎丸の墓で。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月17日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は鮫嶋四郎を呼び右手の指を切らせた。昨日の(忠頼殺害)騒動の際に味方を討った罪への処分である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月18日
.
吾妻鏡
.
.
一條忠頼の家人である甲斐小四郎秋家(京下りの人物)を呼び出した。舞曲に長けた者なので情けを掛け、御所に勤めるよう指示を与えた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月20日
.
吾妻鏡
.
.
去る五日、朝廷による小除目が行われ、その書類が到着。頼朝が申請した通りの内容である。権大納言に平頼盛、侍従に嫡子の光盛、河内守に五男の保業、讃岐守に一條能保、参河守に源範頼、駿河守に源廣綱頼政の末子)、武蔵守に平賀義信である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月21日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は範頼・義信・廣綱らを呼んで盃を与えて除目の内容を伝え、それぞれは大いに喜んだ。義経は再三推挙を望んでいたが頼朝は敢えてそれをせず範頼を優先したため特に感謝された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月23日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は特に目を掛けている信濃国の片切太郎為安を呼び出した。父の小八郎大夫は平治の乱で故義朝に従って本領の片切郷を平氏に没収されて既に20余年が過ぎた。今日から元通りに所領を統治するよう指示を受けた。
.

.
   ※片切郷: 現在の駒ヶ根市の南側、上伊那郡中川村(地図)。片切(片桐)氏は経基王の五男(満仲の弟)満快を
祖とする清和源氏の傍流。一族の為重は保元の乱で為義に与して戦死、弟の景重は義朝に与して勝利したが、平治の乱に敗れて所領を没収されていた。名前から考えると為安は為重の子孫、かも。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
6月27日
.
吾妻鏡
.
.
御台所政子の怒りが原因で堀籐次親家の郎従(籘内光家)が斬首となった。去る4月に討手として志水冠者義高を殺した為である。その事件後に大姫は悲しみの余り病床に伏して日増しに憔悴し、周辺を騒がしている。
.
全てはこの男(籘内光家)の不始末が原因であり、例え命令であっても前もって姫君の方に何故知らせないのか、それが御台所の憤りである。頼朝は弁解ができず斬罪という結果になった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月2日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
昨夜、高野山成就院僧正房からの使者が到着し、寂楽寺の僧兵が高野山領の紀伊国阿弖河庄に乱入し非法狼藉を行った旨を報告した。当山結界の絵図(領有の図面)と弘法大師の手形を押した書類の写しなどを提示、筑後権守俊兼が頼朝に内容を説明した。我が国の仏法は単に弘法大師の業績である。
.
信仰心の深い頼朝は日を置かずに内容を確認し、狼藉を停止し旧に復すよう7月2日付の書類を発行した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月3日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は前の内府(大納言宗盛)ら平氏追討のため義経率いる軍勢を西海に派遣する旨を後白河法皇に報告した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月5日
.
吾妻鏡
.
.
伊賀国守護職に任じる大内惟義からの飛脚が到着。去る7日に伊賀国で平家一族(清盛の系統・伊勢平氏) が蜂起し多くの家臣が殺された、と報告した。武士の多くが集まるなど鎌倉が大騒ぎになった。
.

.
   ※大内惟義: 新羅義光--四男平賀盛義--嫡子義信--惟義と続く源氏門葉一族で伊賀国大内荘を本拠とした。
時政の娘婿となった異母弟の平賀朝雅は元久二年(1205)の時政失脚と共に滅亡、惟義は連座せず朝雅の伊勢・伊賀守護を引き継ぎ、相模守→駿河守を転任し北條義時に次ぐ地位を保った。
.
没年は不明だが建保七年(1219)または翌年らしい。承久の乱(1221)では嫡子の惟信以下が後鳥羽上皇軍に加わって滅亡している。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月8日
.
玉葉
.
.
噂に拠れば、伊賀と伊勢の国人が叛乱を起こした。伊賀国守護の大内惟義が知行し郎従を各地に派遣して統治していたが、昨朝に平家継(平家一の郎党と称された家貞の長男で、貞能の兄)が指揮する軍勢が大内の郎従を悉く討ち取った、と。
また伊勢国では平信兼(頼朝の緒戦で討たれた山木判官兼隆の実父)らが鈴鹿の関を閉鎖して叛乱を起こした。この事件により院の御所は喩えようもないほどの大騒ぎになった。
.

.
   ※平家の叛乱: なんでそう呼ぶのか判らないけど、世に言う「三日平氏の乱」。鎮圧までに約一ヶ月を要したが、
京都に近い場所で起きた大規模な兵乱で、平氏から源氏に乗り換えた朝廷は「平氏の残党が都に戻ってきたら...」と考えて怯えたらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
.
今日、駿河国蒲原の驛で井上光盛が討ち取られた。武田(一條)忠頼に与しているとの噂があり、兼ねて命令を受けていた吉香・船越(共に現在の静岡市清水区)の武士が京からの下向を待ち受けて討ち取ったものである。
.

.
  ※井上光盛: 養和元年(1181)6月13日の横田河原の合戦では保科党(高井郡の保科荘の武士団)を率いて
城長茂陣営を奇襲した北信濃須坂の武士。木曽義仲に協力する仲間として参戦していたらしい。
.
吾妻鏡の記述通りに解釈すれば義仲から忠頼に転身した事になるが、詳細は判らない。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月10日頃
.
義経記・他
.
.
義経記に拠れば、この頃に長く日照りが続いたため後白河法皇が神泉苑(静と義経の出会いの項を参照)に百人の僧を集めて雨乞いの祈祷をさせたが効果がなく、百人の美しい白拍子を集めて舞わせても99人までは何も起きなかった、最後に磯禅師の娘「」が舞うと黒雲が湧き起り三日三晩も雨が続いた、と伝わる。
.
後白河法皇は「かの者は神の子か?」と深く感嘆し、褒美として蛙蟆龍(あまりょう)の御衣を与えた。一説には後白河が与えた御衣で舞った、とも言われる。もちろん平家物語や義経記の記述なんて鵜呑みにはできないけれど、その後の静の生き様を見ると「ひょっとすると...」なんて思えてくるから面白い。
静は龍神と心を通わせる能力を生まれながらに持っていた娘なのかも知れない、なんてね。
.

.
   ※蛙蟆龍の御衣: これが何と、静の遺品として現存しているから更に面白い。静の墓あるいは死没した土地の
伝承は多くあるが、私が「栗橋周辺説」を信じている大きな根拠がこの御衣の存在。
.
詳細は静の慰霊墓と光了寺の遺品に記述してある。できれば「鎌倉時代を歩く 弐」の14・九郎義経と白拍子・静の物語からじっくりと読んでおくれ。
ちなみに蛙蟆龍は古代中国の伝承で雨を司る龍の一種または幼い龍を差すらしい。
.
   ※静と龍神: 一ノ谷合戦で敗れ軍船に乗ろうとした知盛は追って来た児玉党の武者と組打ちになった。
その武者を討ち取って知盛を救った嫡男の知章は源氏勢に囲まれて壮絶な最期を遂げてしまう。
平家物語は、知盛は子を討たれ自分が助かった事を深く悲しんで泣いた、と書いている。
.
後に壇ノ浦で二領の鎧を着け碇を抱いて入水した知盛は龍神の世界に入り、彷徨う怨霊となって大物浦から九州を目差した義経の船を襲った。かつて神泉苑で舞い龍神と心を通わせた静が乗船していたら自然の脅威も怨霊の力も及ばぬ筈なのだが、能の「船弁慶」では静は乗っていない。
.
義経主従を海底に引き込もうとした知盛の怨霊は五大明王に祈った弁慶の法力に負けて波間に遠ざかって行く。龍神を脇役に、前段の静と後段の怨霊知盛の心が対峙する、幽遠な展開である。
.
ここで思い出すのは、静が寿永三年(1184)の夏に神泉苑で舞い黒雲を呼んで雨を降らせた事。
「あの者は神の子か?」と驚嘆した後白河法皇が蛙蟆龍(あまりょう・雨を司る龍)の御衣を下賜した事件である。白拍子静は舞を介して天候を司る龍神と心を通わせていた。
.
その静が船に乗らなかったために暴風雨を防げず、海上には知盛の亡霊が現れた...背後にはそんな経緯が秘められている。 ま、実際には静も船に乗っていたのだけれどね。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月16日
.
吾妻鏡
.
.
渋谷高重の父祖に恥じない勇敢さは再三頼朝を感嘆させたもので、今回は所領の中の上野国黒河郷について、通常の国衙の入部(収穫量調査に拠る納税決定)ではなく一定額の納税に改めさせた。その旨を文書にし、上野国の奉行である籐九郎盛長経由で国衙に指示した。
.

.
   ※渋谷高重: 秩父平氏の系で佐々木秀義親子を庇護した渋谷重国の二男。妻が横山党の棟梁時広の娘だった
関係から、建暦三年(1213)の和田合戦(サイト内リンク・別窓)では義盛に味方して討死した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月18日
.
吾妻鏡
.
.
伊賀国の合戦について、平家残党を討伐せよとの命令が大内惟義加藤景員親子・瀧口経俊らに下された。雑色の友行・宗重が命令書を持って出発した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月20日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡若宮(八幡宮)に祭壇を新設して今日熱田大明神を勧請し、頼朝が参拝。平賀義信源廣綱頼政の末子)ら一門が装いを整えて従った。 結城朝光が劔を持ち河匂三郎實政(武蔵猪俣党の武士)が弓箭を携えて従った。
.
實政は昨冬の義仲討伐に際して渡河の際に一條忠頼と先陣を争って勘気を受けた過去はあるが、武勇の誉れが高いため間もなく許された人物である。遷宮の儀式後に年貢料として相模国の一ヶ村を寄進し、筑後権守藤原俊兼が寄進状を書いた。
.

.
   ※藤原俊兼: 初期の頼朝右筆。この年の11月24日には華美な衣装を見た頼朝に叱責され褄を切られる事件
が起きている。京下りの実務官僚らしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月21日
.
玉葉
.
.
噂に拠れば反乱軍の大将平田入道(平家継)及び他の大将三人も討ち取られ、藤原忠清・家資らは山に籠った、と。また官軍の佐々木冠者(名は不詳だが実際には佐々木秀義)が討たれ数百人が戦死したらしい。
.

.
   ※藤原忠清: 平家の侍大将で歴戦の武士。富士川合戦では形勢不利と判断して惟盛に撤退を進言し、清盛
怒りを受けている。壇ノ浦合戦の後に志摩国で捕えられ斬首された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月25日
.
吾妻鏡
.
.
(7月10日に討たれた)井上光盛の部下である保科太郎と小河原雲籐三郎が降伏して出頭し御家人に加えられた。籐内(比企)朝宗がこれを差配した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
7月28日
.
史料
.
.
第八十二代後鳥羽天皇(満3歳、安徳天皇の異母弟)が即位。先帝(安徳天皇)が在位していること、即位の礼に必要な神器がないことなどから皇位継承の正当性に疑義も呈された。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月2日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
大内惟義の飛脚が再び到着した。曰く、去る19日酉の刻(18時前後)に伊勢平氏の叛乱勢と合戦して勝利をおさめた。90余人を討ち取り、その内の首謀者は4人(富田家助・平家能と家清・平田家継)、平信兼の子息と忠清らは山に逃げ込んだ。佐々木五郎義清と共に戦った佐々木秀能(秀義を差す)は討ち死にした。私(惟義)は敗北の恥を雪いだので恩賞を考えて欲しい、と。  7月21日の「玉葉」による情報と同じ。
.

.
   ※五郎義清: 佐々木四兄弟の異母弟(生母は渋谷重国の娘)。ちなみに長男定綱と三男盛綱と四男高綱の生母
源為義の娘、二男経高の生母は宇都宮氏の娘。義清は出雲・隠岐守護職に任じ、子孫は出雲源氏として土着した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月3日
.
吾妻鏡
.
.
大内惟義の使者を呼び詳細を記した書状を与えた。内容は次のとおり。
.
謀反の輩を滅ぼしたのは感心だが恩賞を求めるのは筋違いである。一国の守護に任じた者は治安の維持に務めるのが当然で、謀反した輩に家人らを殺されたのは謂わば怠慢である。賞罰に触れるべき事柄ではない、と。
.
また安達新三郎を使者として京都守護職の義経宛に派遣し、今回の伊賀国の兵乱は平信兼子息の企みなのに包囲を逃れて行方不明らしい。京都に潜伏しているのだろうから早く見付け出して殺せ、と命じた。
.

.
   ※安達新三郎: 姓は足立または安達、名は清恒・清経・常清とも。安達盛長や甥の足立遠元との血縁はないが
婚姻または養子関係があった可能性はある。御家人より身分の低い雑色から引き立てられて頼朝の近習を務めた。文治二年(1186)には鎌倉に入った義経の愛妾・を自宅に預かり、文治二年(1186)閏7月29日に産まれた男子を頼朝の命令により由比ガ浜に沈めて殺している。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月6日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は参河守範頼足利蔵人義兼・武田兵衛尉(逸見(武田)有義)および千葉常胤ら主な御家人を呼び集めた。これは平家追討のため西国に赴く壮行の宴で、終日行われた。終了の際にそれぞれ馬一頭を、特に範頼には甲冑を添えて秘蔵の駿馬を与えた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月6日
.
平家 他
.
.
一ノ谷合戦・三日平氏の乱などの功績により、義経が左衛門尉・検非違使(判官)に任ぜらる。
.

.
   ※義経の任官: 義経が強く望んだ、後白河が頼朝と義経の離反を策した、頼朝が後白河牽制の材料にするため
黙認した...などの諸説がある。義経とともに官職に任じられた御家人を頼朝が罵倒したのは翌年の壇ノ浦合戦後の事件。頼朝も平家が滅亡するまでは決定的な対立を避けたらしい。義経の人間像と共に、いずれ一項を設けたい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月8日
.
吾妻鏡
.
.
午の刻(昼前後)、範頼が平家追討使として1000余騎を従えて西海に出陣した。頼朝は稲瀬川に桟敷を構えてこれを見送った。主な武将は以下の通り。
.
北條義時足利義兼武田有義千葉常胤境常秀三浦義澄・同、義村八田朝家・同、朝重葛西清重長沼宗政結城朝光比企朝宗・同、能員・阿曽沼廣綱・和田義盛・同、宗實・同、義胤・大多和義成・安西景益・同、明景・大河戸廣行・同、三郎・中條家長工藤祐経宇佐美祐茂天野遠景・小野寺道綱・一品房昌寛・土左房昌俊
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月13日
.
吾妻鏡
.
.
鹿島神宮に寄進した土地などについて、常陸国奥郡(茨城北部)で決め事に従わない輩がいるため業務が停滞している、と。今日、神領である事を重ねて指示命令を行った。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月17日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
義経からの使者が到着して報告。去る6日、左衛門少尉に任じ併せて検非違使とする宣旨を受け取った。これは私の希望ではないが再三の勲功を黙視しない自然の成り行きとの仰せなので固辞できなかった、と。
.
これは頼朝の機嫌を著しく損ねた。範頼平賀義信の任官は頼朝の意思から実現したもので、義経については疑義を呈する者があり保留とした。にも拘わらず勝手に申請したのではないかとの疑念を持った。指示命令に背くのは今回だけではないため、平家追討使への着任は保留とした。
.

.
   ※追討使着任保留: 三日平氏の乱が鎮圧された直後であり、後白河は義経が京都守護職として駐留するのを
強く望んでいた。頼朝の意図(ペナルティ)が義経に正しく伝わらず、朝廷も鎌倉も「京都の治安維持に専念せよ」との意志だと理解していた可能性はある。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月18日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵国住人である天糟野次廣忠は特に有力な武士ではないが西海での平家追討に加わりたいと申し出た。
頼朝はこれに感動し、廣忠の所領については年貢以外の労務などを免除する旨の指示を与えた。
.

.
   ※天糟廣忠: 児玉郡美里町甘粕(地図)が本拠の猪俣党の武士(平忠度を討った岡部忠澄の同族で近隣)。
猪俣党は前九年・後三年の役が起きた1050年当時から源氏の郎党として従軍している。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月19日
.
吾妻鏡
.
.
絵師の下総権守為久(頼朝が正観音絵像を描かせた絵師。4月18日の記事を参照)が京に向った。頼朝は鞍を置いた馬などの餞別を与えた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月20日
.
吾妻鏡
.
.
大江廣元の安芸国司職および木曽義仲の祈祷師・掃部頭安倍季弘朝臣(陰陽師安倍晴明の子孫で安倍泰親の息子)の官職廃止の2件を京都朝廷に申し入れた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月24日
.
吾妻鏡
.
.
(公文書の管理などを行う)公文所を新たに設置した。今日上棟式を行い、三善康信(法名善信)藤原(二階堂)行政がこれを差配した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月26日
.
吾妻鏡
.
.
義経の飛脚が到着して報告。去る10日に信兼子息の左衛門尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時を宿館に呼んで殺した。同11日に信兼の官職を解く宣旨があった、と。
.

.
   ※義経の宿館: 代々の源氏が使っていた六条堀川館(六条室町亭?)だろうか。翌年10月には頼朝の命令を
受けた土佐坊昌俊が夜討ちしているから信兼の息子はここで殺されたのだろう。しかし三日平氏の乱が勃発した時点で自分らの危機も認識できた筈なのに、殺されるために出頭したの?
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
8月28日
.
吾妻鏡
.
.
新設の公文所に門が建てられた。大江廣元三善康信足立遠元・筑前孝尚らが立ち会い、大庭景義の手配により酒を勧めた。
.

.
   ※筑前孝尚: 宗掃部允孝尚の呼称で、建暦元年(1211)に「隠し田を所有した嫌疑」を受け、無実ではあったが
確認と報告の命令を怠ったため訓告を受けている。掃部允は掃除や調度などを担当する宮内省の実務職員で従七位下、素性は判らない。武士ではないらしいが、頼朝の乳母の一人比企の尼の夫も比企郡司の掃部允だった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月2日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
範頼の軍勢に加わるよう命令を受けた小山朝政が西海に向った。 彼の官職については兵衛尉(左右のどちらでも)を望んでいる、と。
.

.
  ※兵衛尉: 律令制に基づく兵衛府の四等官(督・佐・尉・志)の第三位。兵衛府(唐名は武衛)は六衛府(左右の
兵衛府・左右の近衛府・左右の衛門府)の一つで、本来は天皇および皇族の護衛などを担当する部署だが平安末期には曖昧な使われ方が増えている。
.
平治の乱直前の頼朝は右兵衛権佐で、「佐どの・武衛」の呼称はここから発生している。兵衛尉は七位相当の官職で、平安末期には左右に各25名、感激に値する名誉と考える武士も多かったらしい。旧日本軍や自衛隊の佐官・尉官などはここから転用してるんだね。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月9日
.
吾妻鏡
.
.
(伊勢で討ち取った)平信兼ら平氏の所有だった京都の家屋敷は義経が管理するように頼朝が指示書を発行した。
.
その内容は、「没収した平家の所領のうち京都の家屋敷は措置が未決なので武士の側が一ヶ所でも処理してはならず、院の裁定に拠る。信兼の家屋敷については義経が管理せよ」、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月12日
.
吾妻鏡
.
.
範頼が今月一日に派遣した使者が本日到着し書状を提出。27日に入洛し、29日に平家追討使の公文書を受け取った。本日(一日)西海に向けて出陣する、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月14日
.
吾妻鏡
.
.
河越重頼の娘が出発、上洛して義経に嫁すためである。頼朝の指示により兼ねて約束を交わしたものである。
重頼の家人(血縁)2人と郎従30余人がこれに従った。
.

.
   ※河越重頼: 久寿二年(1155)8月の大蔵合戦義仲の父帯刀先生義賢と共に悪源太義平が殺した秩父氏
の棟梁重隆(武蔵国留守所総検校職)の嫡孫で妻は比企の尼の二女。大蔵を追われた重隆の嫡子能隆が重隆と共に河越に移って土着し、開発所領を後白河に寄進して河越荘とし、重頼が武蔵国留守所総検校職(国司の代理職で謂わば名誉職)を継承した。
.
文治元年(1185)に頼朝と義経の対立深刻化に伴って舅の重頼も排斥され、同年12月5日に嫡男重房と共に誅殺された。この時は重頼の娘婿下川邊政義も連座して所領没収の憂き目に会っている(後に復権)。武蔵国留守所総検校職は畠山重忠が継承した。
.
重頼の娘(郷御前・京姫)は四歳の娘と共に平泉で義経に殉じている(平泉高館と金鶏山を参照)。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月17日
.
吾妻鏡
.
.
相模国大山寺が所有する免税(収穫に課す税以外)の水田五町と畑八町は先例通りとする命令があった。
.

.
   ※大山寺: 明治初期の神仏判然令から大山阿夫利神社大山寺(共に公式サイト)に分かれている。
下社と大山寺は約500mで登山ケーブルの1駅(地図)。下社から山頂(奥社)は徒歩90分、見晴台までは更に60分が必要。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月19日
.
吾妻鏡
.
.
一ノ谷合戦に敗れた平氏一族は西海に逃れその国々を占領し略奪している。これを攻撃するため橘次公業が一方の先陣として軍兵を率いて讃岐国の武士を集め、従う者の名簿を取り纏めて提出するよう指示が下った。橘次公業の指揮下に入り軍功を挙げよ、と。屋島の平氏を見限って上洛し源氏に従う武士の姓名は次の通り。
.
籐大夫資光・同子息新大夫資重・同子息新大夫能資・籐次郎大夫重次・同舎弟六郎長資・籐新大夫光高・三野郎大夫高包・橘大夫盛資・三野首領盛資・仲行事貞房・三野九郎有忠・三野首領太郎・同次郎・大麻籐太の家人
                元暦元年五月
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月20日
.
吾妻鏡
.
.
玉井四郎資重の乱行に関する院宣(下記)が鎌倉に届いた。頼朝は恐縮し直ちに中止させるよう指示を出した。
.
丹波国一宮出雲社は飯盛法師が預かり管理している蓮華王院の所領で、地頭を称する者など居る筈がない。にも関わらず鎌倉の下文ありと称して玉井四郎資重が横領を行っているのは理屈が通らない。この乱行を総杞憂に停止せよとの内容が院の意向である。  八月三十日          右衛門権佐    兵衛権佐殿
.

.
   ※玉井資重: 熊谷市西部(斎藤實盛が庄司を務めた長井荘の南西部)の玉井郷(地図)を本領とした武士。
平家物語「小宰相の段」は「近江国住人佐々木三郎成綱と武蔵国住人玉井四郎助景(資重?)が平通盛を討った」と書いている。
.
   ※蓮華王院: 三十三間堂を差す。所領の出雲社(亀岡市の丹波国分寺跡近く・地図)は後白河の所有。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
9月28日
.
吾妻鏡
.
.
去る五日に(陰陽師の安倍)季弘朝臣を解官したとの通知が院から届いた、と義経が書状で報告。
.

.
   ※安倍季弘の解任: 義仲の祈祷師を務めた人物のため、8月20日に鎌倉が解任を求めていた。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月6日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
未の刻(午後2時前後) に新造の公文所で吉書始めが行われ、大江廣元が別当(長官)として着座した。
.
次官に中原親能、他に藤原(二階堂)行政足立遠元、甲斐四郎秋家籘判官代(藤原)邦通らが実務担当として集まり、邦通がまず吉書をしたため頼朝に披露した。次に相模国の寺社の所領や所有物などの確認し、頼朝が加わって宴となった。千葉常胤が祝賀として頼朝に神馬一頭・他の者には野劔一振を献じた。
.

.
   ※吉書始め: 公館の開設や新年の仕事始めに縁起の良い文章を書いてスタートとする。
.
   ※甲斐秋家: 武田(一條)忠頼の遺臣で舞の名手、6月18日に記載あり。
.
   ※野劔(剣): 二通りの解釈(儀仗用の剣と実戦用の剣)あり。常識的には前者だろうけど、「野」は儀仗に対して
兵仗(実戦)を表す筈なので...要するに教養不足で判らない(笑)。ま、大した問題じゃない。
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月12日
.
吾妻鏡
.
.
範頼が頼朝の指示を受け、安芸国で勲功を挙げた者に恩賞を与えた。当国の住人山方介為綱の働きが顕著だったため特に賞した。
.

.
   ※山方介為綱: 寿永二年(1182)に壬生荘に下向し、津久羅山(北広島町・地図)に居館を設け安芸山県氏の
祖になったと伝わるが、出自の詳細などは判らない。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月15日
.
吾妻鏡
.
.
辰の刻(午前8時前後)に地震あり。頼朝は山の紅葉を愛でて散策、八幡宮別当の圓暁が同道した。
.

.
   ※別当圓暁: 圓暁は初代別当、次は尊暁(圓暁の弟)〜定暁公暁実朝を暗殺)〜慶幸と続き(ここまでは
園城寺系)、六代目から東寺系の定豪〜定雅〜定親、九代目が再び園城寺系の隆弁となる。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月20日
.
吾妻鏡
.
.
訴訟の裁決に関し、藤原俊兼平盛時らを立ち合わせて双方の言い分を聴き記録を残して決裁すべき旨を三善康信に指示した。御所東側の二間を利用して問注所と名付けて額を掲示した。
.

.
   ※問注所: 初代執事は京下りの実務官僚三善康信が任命され、室町時代まで世襲した。
当初は御所内にあった問注所は訴訟と論争の騒々しさに辟易していた頼朝が建久三年(1192)の熊谷直實vs久下直光所領境界論争を契機にして康信邸に仮移転させていた。
更に頼朝死没直後の建久十年(1199)4月には鎌倉駅西の今小路沿いに新庁舎を設置しており、現在は問注所跡の碑 が建っている。
.
門注所の南には刑場に向かう罪人が渡った佐助川に架かる裁許橋、更に刑場の跡と伝わる「飢渇畑」の伝承が残り、死罪に処された罪人の後生を弔った六地蔵(和田塚の項を参照)が続いている。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月24日
.
吾妻鏡
.
.
(9月18日に因幡守に任じた)大江廣元が報告。同じ18日に義経が叙留し、今月11日に院内(院と内裏)昇殿を許された。八葉の車に乗り衛府三人と騎馬の共侍20人を従えて(昇殿の)儀式に臨んだ、と。
.

.
   ※叙留: 官職は変わらず官位のみ昇ること。義経は検非違使尉のままで正六位上から従五位下に昇った。
五位から昇殿が許されるため、特に東国武士には栄光のシンボルだったらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月27日
.
吾妻鏡
.
.
淡路国廣田庄は去る4月26日に廣田神社に寄進した場所だが梶原景時が平家追討のため駐留しており、郎従が押し入って業務を妨げている旨の抗議が神祇伯の仲資王を経由して届いた。寄進の件に変更はないため景時に指示すると共にその内容を仲資王に書き送った。(場所などの詳細は4月26日の記事を参照)
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
10月28日
.
吾妻鏡
.
.
石清水八幡宮の成清別当に依頼された2件を右筆の藤原俊兼に命じて大蔵卿(院近臣の高階泰経)に申し入れた。八幡宮内の弥勒寺荘園の件と別院の宝塔院荘園の件、従来の通りの好意的な処遇を願う内容である。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月6日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝も出席して鶴岡八幡宮で神楽があり、終了後に別当圓暁の坊に招かれた。圓暁は京から呼び寄せた稚児(惣持王と称す)に酌をさせて酒を楽しみ、惣持王の横笛に併せて景時の二男梶原平次景高)が歌い、また畠山重忠が今様を歌った。頼朝は存分に楽しみ、夜になってから御所に帰った。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月12日
.
吾妻鏡
.
.
常陸国の住人らを御家人とし、その立場を弁えよとの指示を行った。
.

.
   ※常陸国の住人: 直近の事件として8月13日に常陸国奥郡の武士が鹿島神宮と紛争を起した件がある。
在地武士を本宅安堵して御家人と認定し規律に従うよう求めたのだろう。
.
   ※本宅安堵: 頼朝が早期に支配権を確立した東国(相模・武蔵・下野・上野・伊豆・下総・上総・安房など)の
武士は大部分が合戦などで協力し、頼朝の「本領安堵」を受けて御家人となった。
.
それ以外の地域での「本領安堵」は荘園領主や国司の権限だったため、「本宅安堵」によって領主や国司の権限を侵害せず在地武士への支配権を確保したらしい。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月14日
.
吾妻鏡
.
.
宇都宮朝綱小野成綱ら、西国に新たな所領を得た武士は多い。その詳細を把握して処遇せよとの指示書を義経の元に送った。
.

.
   ※小野成綱: 吉野川中流・現在の吉野川市川島町一帯(地図)の麻殖保を得た武士。まだ平家の支配下なので
合戦を通じて実力で奪い取れ、という事だろう。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月21日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝はある思いがあって筑後権守俊兼を呼び出した。俊兼は元から華美を好む人物であり、装いを凝らし、小袖十余枚を重ねた袖口を鮮やかに彩っていた。
.
頼朝は俊兼の刀を取り小袖の袖口を切り裂いて「お前は才能のある男なのに倹約を弁えていない。千葉常胤土肥實平らは清濁を知らぬ(美しさを見分けられぬ)武士だが、多くの所領にも関わらず衣服も質素で華美を好まぬ故に裕福であり多くの家臣を養い勲功を重ねようと考えている。財を費やす術を知らぬお前は分に過ぎている、今後は華美を慎むか。」と問い詰めた。
.
俊兼は平伏して二度と同じ過ちをしない旨を答えた。同席していた大江廣元と判官代藤原邦通も震え上がるような状態だった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月23日
.
吾妻鏡
.
.
園城寺の専当法師が到着し衆徒からの申し入れ書を提出。頼朝は直ちに専当法師を御前に招き、大江廣元に書状を読ませた。(内容概略は以下)
.
平家から没収した所領を園城寺に寄進し、寺と仏法の隆盛に寄与して欲しい。以仁王頼政を助けて祈祷をしたなどが原因で清盛の暴虐によって多くの堂宇を焼失し、死者や離散者は千人を越える。園城寺は窮乏状態にあり、末寺の荘園なども武士の略奪に苦しんでいる。園城寺は源氏の援助によって繁栄し、源氏の平穏は園城寺の祈りによって報われる。仏法を犯せば洛中が乱れ、仏法に帰依すれば天下に平和が訪れる。云々...
.
          寺主法師・大法師・権僧正和尚・阿闍梨大法師などの署名・捺印あり
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
11月26日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は鎌倉に新たな寺を建立するため適した土地を求め、御所の東南に霊地を見出して堂宇の造営を計画した。父義朝の菩提を弔うのが願いである。京での大嘗祭が済んでから地鎮祭を始めようと決めていたところ、先月の25日に義経が出席して儀式が終ったとの知らせがあり、今日犯(地鎮祭)を行った。大江廣元と筑後権守藤原俊兼らが差配し、頼朝も臨席した。
.

.
   ※新たな寺: 既に廃寺となり痕跡すらない勝長寿院(南御堂)を差す。鎌倉入りして最初に建てた鶴岡八幡宮、
奥州平泉の二階大堂(平泉中尊寺を参照)を模して建てた永福寺(発掘調査サイト・外部リンク)と並んで頼朝が手掛けた三つの巨大な寺社の一つ。
.
   ※大嘗祭: 天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(収穫を謝する祭紀)。今回は前年(寿永二年・1183年)
8月20日に即位した後鳥羽天皇として最初の新嘗祭になる。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月1日
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
頼朝は園城寺の使者を招き、書状二通を前兵衛佐の署名を入れて託した。
.
1.平家旧領で院から預っている若狭国玉置の一部を仏法隆盛のため寄進し下司職(管理者)は鎌倉が手配する。
2.寺の荒廃は兼ねて心に留めていた事なので特に問題のない旧寺領の二ヶ所(近江国横山・若狭国玉置領)に
ついて、書類を添えて寄進する。但し世間が落ち着けば重ねて手配するつもりでいる事を承知願いたい。
.

.
   ※書状二通: 内容は概ね同一、文面から判断すると前者は事務的な連絡で後者は私信に近いらしい。
   ※若狭玉置荘: 下賀茂神社の所有だと読んだ記憶があるが(地図)...「その一部」という事か。
   ※近江国横山: 名神蒲生インターに近い現在の横山町(地図)。もう何年も訪問していない石塔寺の近くだね。
雪の写真もあったのに、いくら探しても出てこない(涙)。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月2日
.
吾妻鏡
.
.
頼朝は葦毛の馬一頭を佐々木盛綱秀義の三男)に与えた。平家追討のため西海で転戦しているのだが乗馬がない旨を言上してきたため雑色に命じて送ったものである。
.

.
   ※西海で転戦: 盛綱は12月7日に備前国児島で藤戸の合戦を戦っている。2日に手配してたら7日の合戦に
間に合わないから、盛綱は乗馬を確保していた事になるね。指揮官クラスの武将が徒歩で戦う筈ないし。この頃の頼朝は挙兵以来の武士を再三気遣っている。好き嫌いはあるけど。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
.
園城寺の専当法師が京への帰途についた。かねて園城寺に帰依している北條時政は慇懃な書状を書き寺に関する措置に配慮するよう(京都守護の)義経に伝えた。
.

.
   ※園城寺に帰依: 園城寺(三井寺)はもちろん天台宗(正確には天台寺門宗)の大本山。元暦元年の時政が
帰依していたのなら、文治ニ年(1186)に造仏を始めた韮山の願成就院も創建当初は天台宗だったと思うが現在は高野山真言宗、残念ながら改宗した時代が判らない。こんど訪問した時に聞いてみよう。お寺さんて、結構節操なしに宗派を変えるからねぇ...。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月7日
.
吾妻鏡
.
.
平行盛(清盛の二男基盛の嫡子)は500余騎の軍兵を率いて備前児島に布陣、佐々木三郎盛綱は頼朝の代理として行盛を攻め落とそうとしたが入江に遮られて舟を確保できず、浜の干潟に馬を留めた。行盛が頻りに挑発するため思い切って乗馬のまま瀬戸の入江三町余り(300m以上)を渡りきった。従うのは郎従6騎(志賀九郎・熊谷四郎・高山三郎・與野太郎・橘三・橘五)、上陸して行盛を追い落した。(詳細は12月2日のリンク先で)
.

.
   ※備前児島: 鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した児島高徳の本領とも言われているが伝説上の人物
説もあり判然としない。新田義貞の弟・脇屋義助関連で児島高徳の墓所・高徳寺(サイト内リンク・別窓)を載せた。興味があれば御覧あれ。
.
   吾妻鏡の原本には元暦二年(1184年)の記事として記載されている。 .
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月16日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
吉備津宮(公式サイト)の神官が鎌倉に参着、供僧の行實が書状を提出した。神社所有の田畑のうち祈祷などの費用として税を免じられている部分までが合戦により奪われている。関東の命令で本来の状態に戻して欲しい、と。頼朝は詳細を確認し処理するよう、備前国で転戦中の土肥實平宛の指示書に受け取った書状を添えて発送した。
.

.
   ※供僧: 簡単に表現すると、神仏習合時代は神宮寺(別当寺)が神社の上位にあり、寺の別当・検校..などが
神社を統括し神官を支配する立場にあった。同行して来た僧の職位は不明だが代表格だったと思う。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月20日
.
吾妻鏡
.
.
今日、義経の返状が京都から到着。西国に所領を与えられた御家人については指示に従って処理する、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月24日
.
吾妻鏡
.
.
公文所が大江廣元の指示により雑仕女(雑用などを処理する下級女官)三人を採用した。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月25日
.
吾妻鏡
.
.
鹿島社の神主中臣親廣・親盛らが招きによって御所に参上し金銀の贈与を受けた。同時に、寄進した領地は地頭の関与を受けず全てを神主が管理せよとの指示も与えられた。
.
日頃の祈祷などで今年の春から神慮が明らかになり、義仲が滅亡し宗盛もまた一ノ谷で敗れて四国に逃げた。このため益々頼朝の信仰心が募ってこの結果になったものである。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月26日
.
吾妻鏡
.
.
佐々木盛綱が騎馬で備前国兒島に渡り平行盛を撃ち破った件、今日感状 を以て褒める言葉を送った。昔から馬で渡河した話は多いが馬で海を渡る話は聞かぬ、類まれな吉兆である、と。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
.
常陸国鹿島社の神官良景の所領について、通例に従って万難事(収穫に課す正規の年貢以外、労働提供など)を停止せよとの指示があった。
.
西暦1184年
.
81代 安徳と
.
82代後鳥羽
.
元暦元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.

.

前年・寿永二年(1183)の吾妻鏡へ       翌年・元暦元年(1185)の吾妻鏡へ