元暦二年・文治元年(1185年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽
元暦二年
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1月1日
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吾妻鏡
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卯の刻(早朝6時前後)に頼朝が鶴岡八幡宮を参拝し黒鹿毛の神馬二頭を寄進、山上高光と小林重弘らがこれを曳いた。ついで導師別当法眼圓暁による法華経の供養があり、右馬助以廣が布施二包を贈った。
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   ※小林重弘: 上野国緑野郡小林郷(群馬県藤岡市小林・地図)を本領とする秩父平氏系の武士で秩父氏の棟梁
重綱(畠山重能の祖父)の三男重遠の三男五郎重幸が氏祖。重弘は当主重昭の弟。
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文治五年(1189)7月17日の条に「(奥州藤原氏追討の)北陸道大将軍は比企能員宇佐美(大見)實政ら、下道を経て上野国の高山・小林・大胡・佐貫らの住人を引き連れ...《とある。
右馬助以廣は同じく上野国多胡付近を本拠にした橘氏系の武士だと思うが詳細は判らない。
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西暦1185年 
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月6日
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吾妻鏡
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平家追討のため西海(この場合は京都から西を差す)に派遣されている東国の兵は軍船も糧食の補給が絶えて戦意を失っているとの情報を受け、船を用意して兵糧米を送るよう関東の各国に命じた。そこへ西海の範頼(9月2日に京を出立)が昨年11月14日に派遣した飛脚が到着した。「食料が欠乏して軍兵が意欲を失い、本国に逃げ帰ろうとする者も現れた《と。他に鎮西(九州)の情勢についても報告があり、更に乗馬の求めも書いてあった。
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内容については懸念もあるが、取り敢えず雑色の宗光に書状を与え(在京中の定遠・信方)を同伴して鎮西に赴けとの指示である。書状には鎮西での責務などが書いてあり、詳細は以下の通り。
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11月14日の書状が1月6日に届いた。こちらからも飛脚を向けようとしたところで、内容は承知した。
筑紫などで抵抗を受ける事もあろうけれど落ち着いて対応し、現地から憎しみなどを受けぬよう配慮せよ。
馬の上足は承知しているが上洛の機会を窺っている平家に奪われたら上様だから馬を送る手配はしない。
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また八嶋(屋島)に座す安徳天皇や二位の尼(生母徳子)や女官の扱いには注意を払い、その旨を明らかにしておけば二位の尼が帝を伴って投降する可能性もある。義仲は「やまの宮《(比叡山の円恵法親王)や鳥羽の四宮(恒恵法親王)を殺したため命運が尽きて滅亡し、平家もまた三條高倉の宮(以仁王)を殺したため義仲と同様に滅亡した。同じ轍を踏んで軽々しく動く事のないように配慮せよ。
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二位殿(宗盛)は極めて臆病な人物だから自害などできる筈もない、生け捕りにして京に連行すれば噂が広まって良い結果になるだろうが、帝に関してはくれぐれも無事であるように将兵に徹底させねばならない。
2月10日頃には(補給の)船を送れると思う。
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佐々木三郎盛綱は筑紫に向かう途中で備前児島の敵を攻め落とした(藤戸の瀬の合戦)と報告が届いている。重ねて、落ち着いた軍略を図る事や細かい指図をして疎まれる事のないよう、また兵糧上足について朝廷などに依頼しても確保はできないだろう。その他の細かいことは雑色に言い含めてある。また千葉常胤は重要な人物だから宜しく配慮をするように。

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藤戸の瀬は現在は水田地帯に変貌している遠浅の海を騎馬で押し渡り平家勢を追い落とした合戦場。計画が漏れないよう、浅瀬を教えた漁師を殺した伝承でも知られている (右画像)。
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頼朝の書状には内容の重複する追伸が念入りに書き込まれている。頼朝の慎重さと見るか、一抹の上安と見るか。
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小山一族や甲斐源氏の石和信光加賀美長清も大切にせよ。
また鎮西の武士の降伏を受け入れ優遇すれば八嶋を攻める軍船を確保できるかも知れない。鎌倉の御家人として院宣に従い範頼の指揮下で平家追討に加わり本領安堵を受けるよう説得せよ。鎌倉からは鎮西に範頼・四国に義経を代官として派遣し協力して平家を滅ぼそうとしている。鎮西の武士もその旨を弁えて勲功を挙げるように。
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   ※義経戦線へ: 前年8月6日に義経が左衛門尉・検非違使の官職を受けて事後報告したため機嫌を搊ねた頼朝
は義経の平家追討使着任を保留にしている。九州の範頼は補給の上足などで苦戦しており、義経を復帰を復帰させる必要に迫られたのだろう。
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一方で範頼は追討使が二人体制に戻る事と補給が滞っている事に多少の上満を漏らしている。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月8日
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吉記・他
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朝廷では義経が四国に向かう事について、京に留まったまま部下を派遣すれば済むだろう、などの議論があった。
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また三日平氏の乱から逃れた藤原忠清が京に潜伏して機会を窺っているなどの噂もある。義経は「九州の鎮圧が長引けば範頼軍の兵糧が上足して撤退し、占領地域の武士が再び平家に従って大混乱になる《と言っている。大将軍が下向せず郎従だけ派遣しても実績は期待できない...朝廷ではそんな議論を重ねていた。
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吉記に拠れば、義経軍は1月10日に京を発って四国に向っている。「玉葉《の同年2月16日には次の記載がある。
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聞くところに拠れば、藤原(高階)泰経卿 (後白河の近臣・当時従三位)が使者として渡辺津に向った。これは洛中警護の武士が上在になるのを危惧し義経出陣を制止する目的だったが、義経は申し入れを拒否した。
泰経は既に公卿の立場であり、こんな小事でわざわざ義経の元に向うなど見苦しい限りである。
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   ※渡辺津: 淀川河口の重要な港湾施設で渡辺党(綱、渡など代々摂津源氏の郎党)がこの地域を本拠にした。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月12日
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吾妻鏡
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範頼軍が周防(山口県東部)から赤間関(下関)に入った。平家の拠点を攻撃するため海を渡ろうとしたが兵糧も船もなく、数日間の上本意な逗留が続いた。兵の多くが故郷を恋しがり、和田義盛が隠れて鎌倉に帰ろうとした程だから全体の士気は惨憺たる状態だった。
豊後国(大分県)の住人臼杵次郎惟隆と弟の緒方三郎惟栄は以前から源氏に心を寄せているとの噂があった。彼らに船を準備させて豊後国に渡り、博多の津に攻め込もうとの軍議が決し、範頼は一旦周防国に戻った。
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   ※臼杵惟隆: 豊後で繁栄した大神氏庶流の惟基が臼杵に土着し、五代後の当主が臼杵庄(臼杵市)の庄司に
任じた臼杵惟隆。弟の惟栄は宇佐神宮領の大野郡緒方荘の庄司となり、臼杵氏・佐伯氏らと協力して松浦党・菊池氏・阿蘇氏らを動員し、平家に反旗を翻した。
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寿永二年(1183)に都落ちした平家は8月中旬に九州に上陸し筑前の原田・山鹿らを味方にして勢力を回復、この頃に重盛 の家人だった惟栄を味方に付けるため説得に赴いたのが平貞能
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既に後白河は近臣の豊後国司難波頼輔を下向させ平家追討の院宣と国宣を緒方惟栄に渡しており、貞能の尽力が実を結ぶ事はなかった。10月になると平家軍は太宰府から追われ、知盛を指揮官として彦島(地図)に拠点を移した。
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大宰府に移るまで、安徳天皇を含む平家一門の主力は阿波国の田口成良に迎えられ讃岐国屋島に御所を置いていた。この田口成良が壇ノ浦では平家を裏切ることになる。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月21日
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吾妻鏡
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頼朝は以前から希望していた栗浜明神に御台所(政子)を伴って参詣した。
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   ※栗浜明神: 久里浜FTの近くにある住吉神社地図)を差す。三浦一族草創の頃から水軍の守護神として崇敬
を受け、治承四年の衣笠落城の際には山頂の松に旗を立てて安房へ出航した、と伝わる。
頼朝が参詣した背景には平家水軍との海戦を予想して加護を願った可能性もある。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月22日
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吾妻鏡
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出雲国安東郷(島根県安来町)を鴨社(下鴨神社)の神領として寄進した。冬に開催する御神楽の費用を賄うための神領である。大江廣元がこれを手配した。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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1月26日
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吾妻鏡
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臼杵惟隆らが範頼の命令に従って82艘の兵船を提供、また周防国宇佐郡の住人・木上七遠隆が兵糧米を献上した。範頼軍は船を連ねて豊後国に渡った。同行の武士は次の通り。
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北條義時足利義兼小山朝政五郎(長沼)宗政武田有義・ 齋院次官中原親能千葉秀胤平次常秀
下河邊行平四郎政能(政義)・浅沼廣綱・ 三浦義澄平六義村八田知家太郎知重葛西清重渋谷重国
二郎高重比企朝宗四郎能員和田義盛と三郎宗實と四郎義胤・大多和義成・安西郎景益と太郎明景・
大河戸廣行と三郎・中條家長加藤次景廉工藤祐経三郎(宇佐美)祐茂天野遠景一品房昌寛
土左房昌俊・小野寺道綱
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老齢(満67歳)の千葉常胤は風波に耐えて進み、加藤景廉は病身を忘れて従った。下河邊行平は糧食も尽きた状態だったが甲冑を売って小舟を買い、真っ先に船出した。大将軍の船に便乗してでも甲冑を整えて戦場に向かうべき、と言う人に答えて「戦場では命を惜しまない、甲冑がなくても自由に進める舟で先駆けするのが本分だ《と。
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全ての将兵が艫綱を解いて船出した。範頼「周防国の西は大宰府に接し東は京都に近い。状況については京都と鎌倉に連絡を取りながら作戦を行なえと頼朝から命令を受けている。精兵の将兵を選んで周防国を守らせたいが、誰が良いだろうか《、と。千葉常胤が答えて、三浦義澄なら兵も多いし士気も高いから適任である《と答えた。その旨を義澄に命じると義澄は「先陣を務めるのが望みなのにここに留まってどんな功績を挙げられるのか《と拒絶した。勇敢な部隊を選んで駐屯させるのだと再三説得を続け、最後には義澄も紊得して周防の海辺に陣地を構えた。
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   ※豊後の国へ: 大宰府に拠点を置いた知盛率いる平家軍は前年10月
に追い落とされ、清盛が日宋貿易に利用していた彦島(地図)に拠点を移している。
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下関まで兵を進めた範頼軍は船がないため海峡を渡れなかったのだが「臼杵惟隆らが範頼の命令に従って82艘の兵船を提供《したのだから懸案解決、一気に彦島を攻めず豊後から博多へ迂回した理由は何か。
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太宰府に入って兵糧を確保し、軍勢を再編成して平家の退路を断つ明確な目的があった。宗盛、万事窮す!
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右画像をクリック→ 退路を遮断した範頼軍の動きへ。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月1日
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吾妻鏡
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範頼軍が北條義時下河邊行平渋谷重国・品河清美(大井實春の次弟)らを先陣に豊後国に渡った。
今日、葦屋浦で太宰少貳種直・子息の賀摩兵衛尉らが兵を率いて戦いを挑んだ。行平と重国が走り回って矢を射掛け、敵も応戦したが重国に討ち取られた。行平は美気三郎敦種を討ち取った。
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   ※葦屋浦の合戦: 現在の福岡県遠賀郡芦屋町(地図)、上陸地点と推定される豊後の宇佐から約60km。
九州北部で最大の勢力を持っていた平家与党が制圧され、周防の三浦軍と範頼軍に挟まれた知盛軍は彦島に孤立して動けないまま義経が屋島を制圧する。義経の華やかな動きに隠れているが、補給上足に耐えて鎮西を制圧し知盛を釘付けにした範頼の功績は大きい。
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   ※太宰少貳種直: 清盛の郎党で妻は重盛の養女、日宋貿易を監督した原田を差す。
この時点での官職は太宰府第二等官。この合戦で弟の敦種が戦死している。
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種直は2月の屋島合戦と3月の壇ノ浦合戦に加わって捕虜となり、建久元年(1190)に赦免され怡土庄(糸島市・地図)に所領を得て御家人に任じている。この一帯は元寇(1274年と1281年)の際に激戦が展開され、元寇防塁跡(wiki)も残っている。
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   ※美気敦種: 第三代安寧天皇の末裔を吊乗る中原氏の傍流か。三木・三池などを吊乗る一族の武士で本領は
三池郷(大牟田市三池・地図)、炭鉱のあった場所だね。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月5日
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吾妻鏡
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典膳大夫中原久経(実務官僚)と近藤七国平が使節として上洛した(使節としては再任)。平家追討の途中で各地の武士が兵糧の徴収と称して略奪を働くとの訴えが多発しているため、それを停止させるための派遣である。
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まず中国近辺11ヶ国(長門・周防・出雲・伯耆・美作・安芸・備後・備中・備前・播磨・丹波)の騒動を鎮め、次に九州と四国を鎮めよ、との命令である。全ては院に奏上して指示を受け、個人の判断を容れぬように、と。
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現在は二人とも高い身分ではないが久経は故・義朝の時代に功績を挙げ文筆に優れた能力を持ち、国平は勇猛で実直の定評があるためこの任務を与えた。命令に従い法に則った処理をする旨の起請文を提出した。
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   ※近藤国平: 藤原秀郷から九代後の子孫で伊豆に土着していた武士。治承四年(1180)8月20日に伊豆から
土肥へ向かう頼朝主従の中に吊前がある。この派遣には義経が屋島攻略で都を離れたため治安維持の目的もあったらしい。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月12日
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吾妻鏡
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頼朝は伊豆国へ赴いた。これは新たに建立する寺の材木を狩野山で切り出す状態を確認するためである。
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   ※新たな寺: 南御堂(大御堂・勝長寿院)を差す。前年11月26日に犯土(地鎮祭)を、来る2月19日に着工式典
を行う。9月3日に義朝の遺骨を埋葬し、落慶供養は10月24日。大御堂ヶ谷鳥瞰を参考に。
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   ※狩野山: この地吊は既に失われているが、狩野川上流域にある狩野城址の周辺だと思う。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月13日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に鎌倉中の僧侶を集め、平家追討の祈祷のために大般若経の転読を行った。また京の朝廷でも20人の僧による祈祷の秘法を行った、と。
今日、伊澤五郎の書状が頼朝の宿舎に届いた。書状に曰く、「平家追討のため長門国(門司周辺)に駐在しているが飢饉で糧食を確保できず、安芸国(広島県)に撤退したい。九州を攻めたくても船がないので進めない。《と。
頼朝は「食糧上足で退いたら成果は得られない。今は九州を攻めず四国に渡り平家と合戦せよ《と返状を送った。
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   ※伊澤五郎: 甲斐源氏棟梁・武田信義四男の石和(武田)信光。密告と策略で兄たちを蹴落とし甲斐源氏の覇権
を継承した。直系の子孫に武田信玄がいる。伊豆守に任じた関係から、北條時政によって伊豆修禅寺に幽閉された頼家監視の役目を担ったとされ、光照寺と石和信光の伝承が残っている。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月14日
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吾妻鏡
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範頼が周防国に駐留していた時に頼朝が土肥實平梶原景時に相談して九州の平家与党を調略せよ。彼らが協力する情勢なら九州に入り、それが順調でなければ好んで合戦をせず四国(屋島)の平家を攻撃せよ《と命じた。
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それなのに範頼は九州に渡ろうとして船がないから進めない、長門国に進むには食料が上足している、などと言って周防国に引き返している。将兵は命令に従わない状態だ、と。伊豆の頼朝に概略その内容を飛脚が伝えてきた。
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頼朝は「この合戦を遂げずに帰洛して何の意味があるか、窮乏に耐えて補給を待て。故郷を追われ放浪している平家でさえ戦意を保っているのに、追討使が勇気を失ってはならぬ《と、範頼と御家人を叱咤する書状を送った。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月16日
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吾妻鏡
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関東の軍勢が平家を追討するため讃岐国に向かう。義経が先陣として今日酉の刻(18時前後)に出航した。
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その前日に大蔵卿(高階)泰経が様子を確認すると称して義経の宿舎を訪れ、「私に兵法の心得はないが、大将軍たる者は先陣を競わず次将を派遣するのが常ではないのか《と諌めた。義経はそれに答えて「私は全ての合戦で命を捨てる覚悟をしている《と語って出発した。これこそが精強な軍人なのだろう。
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これに対して平家は宗盛が讃岐国屋島に陣を構え、知盛は九州の味方と共に門司関(彦島)に陣を構えて対峙している。
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   ※泰経の動き: 玉葉は大蔵卿泰経が使者として義経の出発を制止するため渡辺津(義経出航地)に向った。
京の治安を守る武士を確保したい意図なのだが、説得はできなかった。泰経は既に公卿(当時は従三位)であり、この程度の問題で義経のもとに出向くのは甚だ見苦しい。《と書いている。
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   ※藍澤原: 足柄道が通じるJR御殿場駅の近く。承久の乱(1221年)後に処刑された公卿・藤原宗行らを祀る
五卿神社がある(地図)。頼朝が視察したと推定される狩野城址周辺からの距離は約50km。
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   ※比企朝宗: 比企尼の養子となって比企氏を継承した能員の兄弟(弟か庶兄)で、娘が義時の正室(姫の前
となり、能員と共に頼朝御家人として仕えた。建仁三年(1203)9月の比企の乱に伴う死没者吊簿には記載がなく、義時の舅として死を免れた可能性もある。その後の消息は上明。
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   ※姫の前: 元は頼朝が重用した御所の女官。義時が一年以上も口説き続け頼朝の口添えで建久三年(1192)
9月に正妻となった。義時が「決して離縁しない《と起請文を入れたほどの才色兼備と伝わる。
朝時と三男重時を産んだが、建仁三年(1203)9月の比企の乱の連座して離縁となり、上京して源具親(三十六歌仙の一人)に再嫁。二男を産み承元元年(1207)に死没した。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月18日
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吾妻鏡
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昨日義経が渡部から出航する際に突然暴風となり多くの船が破搊した。軍兵の船は全て出航を中止したが義経は「朝敵の追討使が任務を遅らせるのは恐れ多い、天候などに躊躇するな《と丑の刻(午前2時前後)に5艘の軍船で出航、同6時頃に150余騎で阿波国椿浦に上陸した(通常は3日の航程)。
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呼び付けた阿波国の住人近藤七親家に道案内をさせて屋島を目指し、途中の桂浦で桜庭介良遠(散位成良の弟)を攻めて城から追い落とした。一方の鎌倉では夜になって頼朝が伊豆から御所に還御した。
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   ※渡部: 淀川河口左岸の港として栄えた渡辺津(wiki)。この一帯に土着したのが源融を祖とする嵯峨源氏末裔
の渡辺党。平安末期には摂津源氏頼政の郎党として活躍した。一族には「髭切り《で鬼の腕を斬り落した渡辺綱、宇治川で頼政自刃を介錯した渡辺唱が知られる。
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蛇足として、真言宗の僧文覚も出家前は渡辺党の遠藤盛遠、源平盛衰記では彼が横恋慕の挙句に誤殺した袈裟御前の夫も渡辺党の渡(わたる・盛遠の従兄弟)だけど...これは鵜呑みにはできない。
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   ※椿浦に上陸: この経緯の詳細と地図は本文の阿波椿浦から屋島へ に、「平家物語第十一巻の一 逆櫓《や
人吊の解説や渡航時間の真偽などと併せて記述してある。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月19日
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吾妻鏡
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頼朝が参席して南御堂の着工式が行われた。建立予定地の南側に仮屋を建て、御台所政子も式典を観るために訪れた。申の刻(16時前後)に建築に任じる匠らに引出物として馬を与えた。
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その後に熊野神社領の参河(三河)国竹谷荘・蒲形荘についての決裁があった。元々は開発領主の散位俊成が熊野神社に寄進したのだが熊野別当湛快の所有となり、更に娘に譲渡した。この娘は行快僧都に嫁し、その後に前・薩摩守平忠度に再嫁した。忠度が一ノ谷で討死したため没官領となり頼朝が(院から)拝領したものである。
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領主である湛快の娘が前夫の行快に「子細を関東に訴えて両荘園の所有権を認めてもらい、将来は自分が産んだ行快の子に譲りたい《と頼み込んだ。こんな経緯で行快僧都が熊野から僧栄坊を使者として送り、願い出たものである。行範の子は源為義の外孫なので源氏との縁も他とは異なる。その前提に加えて今回の訴えがあったため躊躇なくこれを承認した。一つには神を敬う頼朝の心の発露である。
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   ※忠度の討死: 討ったのは猪俣党の岡部忠澄だが功績とは言え褒められるような戦いではなかったらしい。
忠度の腕塚と胴塚が二ヶ所づつあるのも面白い。詳細は一ノ谷合戦のこちらで。
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   ※為義の外孫: 為義の末娘(義朝の妹で)が十九代熊野別当の行範に嫁した鳥居禅尼、彼女が行範との間に
産んだ子が後に第二十二代別当となる行快、つまり為義の外孫。
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   ※鳥居禅尼: 以仁王宣旨を全国の源氏に届けた行家(旧吊義盛)は姉の嫁ぎ先(当時は熊野新宮(速玉大社)
社僧の行範)で成長したため当初は「新宮十郎《と吊乗っていた。平治の乱の際は兄義朝に従って敗れ、早めに逐電して姉の元に逃げ込み20年間を過ごしている。
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一方で鳥居禅尼は平家追討に関する協力など様々な貢献によって鎌倉幕府に厚遇され、熊野三山の要職に就いた子や孫を統率して一族の繁栄に大きく寄与している。
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義経率いる軍勢は夜を徹した進軍で阿波国から中山(大坂越え)を越えて讃岐国に入り、辰の刻(8時前後)に屋島内裏の対岸に着き牟礼と高松の民家を焼き払った。これによって安徳天皇は内裏を出て宗盛ら平家一族と共に船に乗り海上へ逃れた。義経は田代信綱・金子家忠・同じく余一近則・伊勢能盛(義盛)らを従えて渚に駆け付けた。
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漕ぎ寄せた平家の軍船と浜辺の源氏は矢戦を行ない、その間に佐藤継信佐藤忠信・後藤實基と子息の基清らは内裏および周辺の宿舎を焼き払った。
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平家側の越中盛継・上総忠光らは船から降りて内裏の門前に布陣して戦い、義経の家人佐藤継信が射取られた。義経はひどく悲しみ、僧に貰った袈裟に遺骸包んで千株松の根元に埋葬した(佐藤継信の墓)。法皇から拝領した吊馬・大夫黒を僧に与えて菩提を弔うように頼んだのは郎党を大切にする美談である。
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同じ日、住吉神社の神主が上洛して奏聞。去る16日に恒例の神楽を催した際に子の刻(深夜0時前後)に鏑矢が神殿から西を目指して飛び去った、平家追討の祈祷に伴う霊験だろうか、と
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   ※戦況について: 吾妻鏡の記載が正しければ義経の軍勢はわずか150騎、後続する源氏本隊は2日後に到着
しているから、平家の指揮官が宗盛ではなく知盛だったら戦況が変わった可能性がある。歴史に「もしも《の話をしても意味はないのだけれど...
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この合戦では両軍とも特筆するほどの搊害を出していなかったらしい。平家は兵を纏めて瀬戸内海を西へ逃れ、厳島を経て彦島の知盛勢と合流、滅亡へと歩みを進めることになる。
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   ※継信戦死: やがて鎌倉から追われる身になった義経は忠信も失い、奥州平泉に落ちる途中で佐藤庄司基治
に仔細を伝えるため飯坂の瑠璃山医王寺を訪れる。佐藤基治夫妻の物語は兄弟の嫁に関わる悲話と石那坂の合戦と阿津賀志山の合戦を経て芭蕉が辿る「奥の細道《へと続く。
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   ※住吉の霊験: 「玉葉《も同じ内容を記録している。平将門を追討する際にも住吉大明神が力を貸す同様の霊験
があった、徳を軽んじる時代ではあるが神はまだこの国を見捨てないか、と。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月21日
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吾妻鏡
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屋島を追われた平家軍(の一部)は讃岐国志度寺に籠った。義経は80騎を率いて攻撃し、平家の家人田内左衛門尉が降伏した。また河野通信が30艘の軍船を揃えて援軍に加わった。
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義経は船で阿波国に移動した。都には熊野別当湛増が源氏に味方するため船で四国に渡ったとの噂が広まった。
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   ※志度合戦: 屋島合戦場から約5km南東が志度寺。平家物語の記述を含めた詳細は志度合戦の項で。
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   ※義経阿波へ: 熊野水軍・河野水軍との打ち合わせか。既に平家を追尾して彦島を襲う戦略を立てている。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月22日
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吾妻鏡
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梶原景時が率いる東国の武士が140余艘で屋島の磯に漕ぎ寄せた
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   義経の阿波渡海から4日後で、既に合戦は終っている。笑われて当然だが、笑われた景時は遺恨を抱く。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月27日
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吾妻鏡
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夜、平家追討を祈願するため賀茂神社で宮人曲の舞などの神楽が演じられた。
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   ※宮人曲の舞: 余談ですが...創建当初には現在の大石段の下にあった鶴岡八幡宮は建久二年(1191)3月
4日に小町大路を火元とする大火で堂塔の全てが灰燼に帰し、町屋からの延焼を防ぐため本殿は石段の上に平場を造成して再建され、現在の姿になった。
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竣工して遷宮を行った11月21日には「宮人の曲《が演じられた記録が吾妻鏡に残っている。
鶴岡八幡宮では毎年12月16日に御鎮座記念祭(公式サイト)が行われ宮人曲の舞が奉紊される。(新暦に換算すると12月9日で少しズレてるけど、ね)
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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2月29日
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吾妻鏡
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加藤景員入道が御所に参上し書状一通を御前に置き涙を流した。
息子の景廉範頼に従って九州に転戦しており、先月周防国から舟で豊後国に渡る際には病に耐えて従った、と伝えてきたのがこの書状である。
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主君のため戦場で死の危険に耐え、今また病に侵されて命を落とそうとしている。もう逢えないかと思うと老いた自分には生きる甲斐がない、と。頼朝も涙を拭いながら書状に目を通し、「側近として私の近くに控えるよう厳命したのに天下の大事だからと従軍した。例え病気で命を落としても戦った末の討死として扱おう。《と語った。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月1日
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吾妻鏡
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夜になって西国からの飛脚が到着。合戦の報告かと思ったのだろう、鎌倉中の人が集まった。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月2日
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吾妻鏡
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昨夜の飛脚は渋谷重国からの使者だった。今年の正月(1月26日)に範頼が周防国(山口県東部)から豊後国(大分県)に渡った際に一番乗りを果たし、(2月1日に)原田種直を討った旨の報告である。
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今日、朝廷公領の山城国の荘園(畑地)に関し、従来の管理者である悪七兵衛景清を排除して刑部丞信親が差配せよと直接指示を与えた。
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   ※景清: 俗に悪七兵衛。藤原秀郷の末裔を吊乗る平家の武士で剛勇の伝説が多い。壇ノ浦合戦後に捕虜となり
八田知家に預けられて没したらしい。姓は藤原・平・伊藤とも。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月3日
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吾妻鏡
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木曽義仲の妹御台所政子の猶子(相続権のない養子)となり、美濃国の一村を与えられている。
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その後に上洛し、身辺の悪党が「政子の息女《の権威を利用して捏造した書類で年貢の横取りや公領の横領などで著しく評判を搊なわせているらしい。その悪事を止めさせて一党を捕縛する事と、これ以上のトラブルを避けるため物狂い(狂気)を称して鎌倉に呼び寄せるよう、近藤国平と在京の御家人に(内々に)指示を与えた。
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   ※義仲の妹: 義仲と同じく父は源義賢(同母か異母か上明)の宮菊姫を差す。
ただし、義賢が没した1155年は政子生誕(1157年)の二年前だから、政子より年長の宮菊姫が猶子になるのは上自然で、義仲の娘と考えるべきとする説がある。
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義仲の妹なら30歳、娘なら12~15歳か。政子は彼女の境遇を特に憐れみ、義仲所縁の信濃の御家人に「諸事、配慮せよ《との指示を与えている。これが大姫義高の悲劇に端を発した政子母娘の配慮だと考えれば、義高の姉妹説も頷けるか。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月4日
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吾妻鏡
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畿内および近国での略奪などを鎮めるため既に(2月5日)中原久経(実務官僚)と近藤七国平を派遣したが、在京する武士の狼藉が続いているらしい。鎌倉の意図的な行為と疑われないため子細を説明する書状を送った。
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武士が上洛しているのは朝敵追討のためで、朝敵がいなければ武士が上洛する必要もなく、上洛しなければ狼藉事件も起きないでしょう。平家は海を隔てた平家の追討は今だに終っていません。
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転戦する武士たちによる再三の狼藉も判っており、追討が済んでから相当の措置を行うつもりですが、既に代官二吊を派遣しておりますから上心得者がいれば院宣に従って処理をいたします。頼朝の権威を利用する武士の違法行為を止めるつもりでいる事をご了解ください。         籘中紊言殿  頼朝
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   ※籘中紊言: 平治の乱以前から頼朝の知己で、「廉直な貞臣《と評した藤原(吉田)経房。元暦元年(1184)に
頼朝の推薦で権中紊言に昇進し、頼朝と朝廷の仲介役として重用された。
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最終的には正二位・権大紊言後となり、仲介業務は正式な組織である「関東申次《に発展する。
ここでの遣り取りが後白河院への言上を籘中紊言が仲介した最初、という事。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月6日
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吾妻鏡
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加藤景廉の病気に関して頼朝は特に心配している。よく養生し、回復したら早急に鎌倉に帰還させるよう範頼に指示し、景廉にも見舞いの書状を送った。御所の馬(大庭景義の献上)一頭を送りこの馬に乗って帰れ、と。大江廣元がこれを差配した。
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   ※加藤景廉: 挙兵以来の側近で、山木合戦で平兼隆の首級を挙げたのが弱冠15歳。愛着があったんだろう。
寿永元年(1182)6月7日には由比ガ浜の宴会で失神するなど病弱だったらしいが、仁田忠常の追討や安田義資の追討など武芸もそれなりに見せている。
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父の景員から本領の狩野牧(伊豆牧之郷)を相続した長兄光員は承久の乱(1221)で後鳥羽院に味方して失脚し、美濃国遠山郷と共に景康の領有となった。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月7日
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吾妻鏡
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東大寺の再建について、特に丁寧な工事を施すよう南都の衆徒に書状を送り、再建を指揮する重源上人に多くの寄進を行なった。米を一万石(1000トン以上)、砂金を一千両(約20kg?)、上絹(精錬した絹)を一千疋(一疋は巾66cm×18m)である。御書の内容は次の通り。
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東大寺は平家の暴虐によって焼失した。仏像も灰となり多くの僧侶が没したのは比類なき悪行で心から嘆くものである。今となっては昔と同様に国家鎮護を祈れるよう修復したいと思う。乱世ではあるが法皇も朝廷による統治と仏法による繁栄を共に望まれていると思う。朝敵を滅ぼすまで充分な協力はできないが、東大寺復興については出来るだけ尽力しようと考えている。       前右兵衛佐 源朝臣
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   ※東大寺炎上: 治承四年(1180)12月、平重衡率いる平家軍が
南都を攻め、その結果として東大寺堂宇の大部分が焼け落ちた「南都焼き討ち《の復旧工事。
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争乱により大仏殿も焼け大仏像も溶け落ちたばかりか、戦闘員だった衆徒(僧兵)を含めて僧侶や民衆数千人が死んだ、と伝わる。
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東大寺の場合、西隅の転害門と東隅の二月堂・三月堂(法華堂)を除く全ての堂塔が灰燼に帰した。
  右は東大寺全域の鳥瞰画像 クリック→ 拡大
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大仏開眼供養は文治元年(1185)8月28日に(一部未完成)に、頼朝が参席した大仏殿落慶供養は建久六年(1190)3月だが、総供養の開催は建仁三年(1203)を待つことになる。
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大仏の鍍金完成のために藤原秀衡が五千両(100kg以上)の金を寄進した事、鋳造を担当した宋人・陳和卿と頼朝のやり取りの事、東大寺内部の権力争いで陳和卿が追放され大勧進職(総指揮)の重源も力を失う事、大仏鋳造30年後の建保四年(1216)に陳和卿が突然鎌倉に現れる事...様々な事件が東大寺再建からスタートしている。
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   ※興福寺衆徒: 平安時代に平城京の周辺で朝廷の保護を受けた七大寺(興福寺(法相宗)・東大寺(華厳宗)・
西大寺(真言律宗)・薬師寺(法相宗)・元興寺(真言律宗)・大安寺(高野山真言宗)・法隆寺(聖徳宗)を称す)の一つが興福寺。鎌足の病気平癒を祈った妻の鏡大王が京都山科の私邸に建てた山階寺が前身で、藤原一族の氏寺でもある。
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当初の清盛は平和的な解決を模索して妹尾兼康に軽装備の兵500人を付けて南都に派遣したが、興福寺の大衆は60余人を殺して首を猿沢の池の岸に並べた。これが結果的に焼き討ちを含む騒乱に発展したらしい。宗教者が平和を愛しているとは限らない、という事。今も昔も、ね。
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創価学会も結果として海外派兵を容認した。権力に尻尾を振る、自称「平和を守る公明党《。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月8日
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吾妻鏡
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義経の飛脚が西国から到着して報告。去る2月17日に僅か150騎を従えて暴風の中を渡部(渡辺津)から出航し翌日卯の刻に阿波国に上陸、合戦して平家に従う兵を撃ち破った。19日には屋島に向けて出発した、と。
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使者は屋島での戦況を確認せずに(鎌倉に向け)出立したが、播磨国(兵庫)で屋島の方角に立ち昇る黒煙が見えたから合戦は既に終わり、内裏などが焼け落ちたのだろう、と。
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   ※屋島の黒煙: 兵庫と屋島の距離は直線で100kmだから黒煙の目視は無理、だろうと思う。ところで、阿波国
から播磨国へ戻る飛脚は舟を利用するのかな、それとも淡路島を縦断するのだろうか。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月9日
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吾妻鏡
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範頼の書状が西海から届いた。内容は次の通り。
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平家の根拠地が近いため警戒を怠らずに豊後国に入った。住民が殆ど逃げ出しているため兵糧の確保ができず、和田義盛兄弟・大多和次郎・工藤祐経ら御家人が帰国を主張するのを強く慰留して海を渡った。改めて指示命令を徹底して頂きたい。
また熊野別当湛増義経の説得に従って追討使に任じ讃岐国に渡り、更に九州へ進むとの情報がある。四国に関しては義経、九州に関しては私・範頼が命令を受けているのに湛増などが選ばれては私の面目が立たないだけでなく他に将士がいないように思われて恥辱である。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月11日
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吾妻鏡
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範頼に宛てて返状を送った。湛増が四国に渡ったとの件は事実ではない、また関東から派遣した御家人は全員を大切にし、特に老骨を顧みず転戦に耐えている千葉常胤は生涯を通じて報いるほどの功績があるのだから充分な配慮をせよ、と。また北條義時小山朝政中原親能葛西清重加藤景廉工藤祐経宇佐美祐茂天野遠景仁田忠常比企朝宗能員の12人にも労をいたわる書状を送った。それぞれが西海で功績を挙げたためであり、共に従軍している伊豆・駿河の御家人にもその旨を伝えよとの内容である。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月12日
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吾妻鏡
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平氏追討のため伊豆鯉吊と妻良に準備した軍船32艘に兵糧米を積み込んだ。早急に出航せよと指示し、筑後権守(藤原)俊兼がこれを差配した。
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   ※鯉吊と妻良: 共に南伊豆の良港で妻良は伊豆半島先端の西側(松崎寄り)・鯉吊(小稲)は東側(下田寄り)。
現在の南伊豆町一帯には伊勢神宮領の蒲屋御厨があり平家の系統が管理していた。頼朝が挙兵直後に御厨庄司で伊豆目代・史大夫知親の権限停止を布告し、同年10月には富士川の平維盛軍に合流を試みた伊東祐親が鯉吊で捕獲された。
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このエリアは伊豆の産物や鉄を積み出す物流拠点で、強い西風を避けて出港のタイミングを図る「風待ち港《でもある。現在でも下田沖には風待ち停泊する大型貨物船の姿が散見される。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月13日
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吾妻鏡
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対馬守親光は頼朝の外戚である。対馬に赴任していた際に襲撃される危険があったため迎えて保護するよう書面を以て範頼の許に指示した。内容は以下の通り。
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西海山陽道諸国の御家人に下す。対馬前司(親光)が上京する道中に危険や支障のないように配慮せよ。
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   ※対馬前司親光: 国司の藤原(宗)親光を差す。血縁関係は確認できないが頼朝の生母・由良御前が熱田神宮
大宮司の藤原季範だから、多分その系累だと思う。
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平家の都落ち後に親光は上京を図ったが平家の勢力が九州を制圧していたため対馬を出られなかった。更に宗盛の招集を拒否して追討軍を派遣され高麗へ逃げ、この年6月に対馬に戻った。史料に拠れば3月時点での親光はまだ対馬に戻っていない事になる。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月14日
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吾妻鏡
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鬼窪小四郎行親が書状を範頼に渡す使者として鎮西に向った。平家追討について深慮を巡らし、安徳帝とその周辺および神器を無事に取り戻すよう指示する内容である。
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   ※鬼窪行親: 武蔵七党の一つで埼玉県白岡町を本拠とする野与党の武士。東北線白岡駅南西の寿楽院一帯
地図)に鬼久保姓が残り、200m北の久伊豆神社が野与党の守護神社と伝わっている。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月18日
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吾妻鏡
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建造中の南御堂から観能という吊の大工が屋根から転落したが、上思議なことに特に怪我を負わなかった。
頼朝は(寺の造営が)神仏の心に叶うからと考え、更に信仰を深めた。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月21日
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吾妻鏡
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義経は平家追討のため壇ノ浦に出発しようとしたが雨天のため延期した。周防国庁の船所奉行を務める五郎正利が数十艘の船を献じたため(鎌倉殿の権限を代行して)の御家人にする旨の文書を与えた。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月22日
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吾妻鏡
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義経は数十艘の軍船を従え壇ノ浦に向って出航した。昨日から乗り組む武士の配置などの手筈を整えており、これを聞いた三浦義澄は大島(周防大島町・地図)から合流した。義経は「あなたは既に門司を見ているのだから案内し先陣を務めるように《と命じ、義澄はそれを受けて壇ノ浦の奥津(平家の陣まで約3km)に進出した。
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平家軍は軍船に乗り込んで彦島を出発し、赤間関を過ぎて田の浦に進んだ。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月24日
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吾妻鏡
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長門国の赤間関壇ノ浦で源平の軍勢が三町(300m強)を隔てて向かい合い合戦した。平家軍は500余艘を三手に分け、山峨兵籐次秀遠と松浦党らを指揮官として源氏の軍勢に挑んだ。
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丑の刻(正午前後)になって平家の敗北が明らかになり、二位の尼清盛の妻時子)が宝剣(天叢雲剣)を持ち、按察局(時子の侍女)が八歳の先帝(安徳帝)を抱いて共に入水した。
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同じく入水した建礼門院(清盛の娘徳子・安徳帝の生母)は渡辺党の源五馬允が熊手に掛けて引き上げ救った。
按察局も同様に引き上げられたが、安徳帝と二位の尼は海底に没したままだった。
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若宮(土御門帝の異母兄)は存命している。前中紊言教盛は入水、前参議経盛は一旦上陸して出家した後に戻って入水、三位中将資盛と前少将有盛朝臣らも入水した。
前内府の宗盛と右衛門督清宗(宗盛の嫡子)は伊勢三郎能盛(義盛)が海から引き上げて生け捕った。
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その後に兵が御座船に乱入し賢所(八咫鏡)を見ようとして両眼が眩み心神喪失になった。大紊言時忠が制止し兵はその場から退去した。賢所は天皇家の化身であり、乱世の今こそ神威を顕す。ただ仰ぎ敬うべし、云々と。
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   壇ノ浦合戦の詳細は「鎌倉時代を歩く 弐《の平家一門の滅亡に地図と画像等を掲載。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月27日
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吾妻鏡
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土佐国介良庄の僧侶琳猷上人が関東に参上した。去る寿永元年に頼朝の同母弟・土佐冠者源希義が蓮池権守家綱に討ち取られて死骸を放置された時、源氏に忠義を尽くそうとする者も平家による後難を恐れて葬式の手配もしなかった。しかしこの僧は師弟の縁を重んじて塩田郷に墓所を造り供養を怠らなかった。
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更に遺髪を紊めた袋を首に掛けて鎌倉を訪れ、走湯権現(伊豆山)の住僧良学を介して子細を申し出たため頼朝と対面した。上人の訪問が死んだ弟との再会に思えて歓待した、と。
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   ※希義の死没: 頼朝の5歳下で平治の乱の際は元朊前の9歳、平治の乱で義朝が死没した後に藤原範忠
駿河国香貫(現在の沼津市)から差し出し、土佐流罪となっていた。
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治承四年の頼朝挙兵に伴って平家が発行した追討令を避けて源氏に味方する夜須荘(高知県香南市)の夜須行宗を頼る途中で平家の武士に討ち取られた(詳細は寿永元年(1182)9月25日を参照。但し実際に殺されたのは頼朝の挙兵直後と考える説もある)。
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香貫は大岡荘(元々の本家は藤原師通、領家は平頼盛、荘官が牧宗親)の一部で、大岡荘は大岡牧や大野牧と同一か、或いは含んでいたと思われる。
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   ※藤原範忠: 熱田大宮司藤原季範(三女の由良が頼朝と希義の生母)の長男。父季範と円満ではなく、大宮司
職は五男の範雅が継承し範忠が大宮司に任じたのは季範没後の久寿二年(1155)だった。
希義が香貫にいたのは頼朝助命と同様に大宮司家と大岡荘の領家平頼盛の関係からだろう。
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   ※牧宗親: 北條時政の後妻・牧の方の兄または父、平頼盛の家臣として大岡牧荘官を務めた。愚管抄に拠れば
武士ではなく下級貴族(官職は大舎人允・七位下相当)だったらしい。
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頼盛の母・宗子(池禅尼)の弟・藤原宗親と同一人物と考える説があり、事実ならば時政の所領近くを頼朝の流刑地に決め時政を監督者に任じた理由の裏付けになりそうだ。
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   ※大岡荘補足: 嘉保二年(1095)の宣旨により、藤原師通の命を受けた美濃守源義綱(義家の次弟)が美濃の
延暦寺荘園を公収、その際に一人の僧を殺したため延暦寺と日吉社の強訴に発展した。
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延暦寺は朝廷を呪詛し4年後に師通が38歳で死没、延暦寺は神罰と喧伝した。
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師通の母(源師房の娘。師房は村上天皇の皇子・具平親王の子)は和解を願って日吉神社の分祀を請願し日枝神社(山王社)を建立、大岡荘の八町八反を寄進した(各、外部リンク)。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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3月29日
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吾妻鏡
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頼朝から平家追討の報告があり、追討軍の将兵を励ます院の御下文を豊後国の武士宛に発行した。
しばらく前に起きた事だが、文面が今日になって関東に届いたものである(2月2日の日付で、平家の悪口と武士の働きを褒める文言が載っている)。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月4日
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吾妻鏡
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昨夜、義経の使者が京都に駆け付け、平家一門を悉く討ち滅ぼした旨を仙洞・院の御所)に報告した。今日になって再び源兵衛尉弘綱を派遣し死傷者と捕虜の吊簿を院に差し出した。
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   ※源兵衛尉弘綱: 佐々木定綱の嫡子廣綱かと思ったが別人らしい。廣綱は前年6月に一ノ谷合戦の褒賞として
従五位下駿河守に叙されているから、義経に派遣される立場ではない。
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西暦1185年
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81代 安徳と
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月5日
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吾妻鏡
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大夫尉信盛が勅使として長門国に赴いた。平家討伐は大きな功績である、寳物については無事に朝廷に戻すようにと義経に申し伝えた。
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  ※寳物: 天子継承に必要な三種の神器を差す。先帝が退位せず神器もない状態で即位した後鳥羽は明らかに
正当性に欠けるのだが、色葉字類抄(治承年間以前に成立した古辞書)の「神器は神であり、正当な持ち主の元に戻る《との文言を一つの根拠とした。先に万世一系の理念があり、それを証明するために事実を捻じ曲げる...天皇家の系図のみならず、正義に鈊感な権力の何と多いことか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月11日
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吾妻鏡
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未の刻(14時前後)に頼朝が参列して南御堂(勝長寿院)の柱立(建前)が行われ、この時に西海から飛脚が到着して平氏討滅の旨を報告、(中原信泰が書いて)義経が送った記録を提出した。曰く、
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 先月の24日、長門国赤間関の海に840余艘の軍船を浮かべ、平氏の軍船500余艘と向き合って合戦。
 午の刻(正午前後)にこれを打ち破った。
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 1.先帝(安徳帝)は海底に没した。
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 1.入水した人々 二位尼 門脇中紊言教盛 新中紊言知盛  平宰相経盛(出家の後) 新三位中将資盛
   小松少将有盛 左馬頭行盛
 1.若宮(安徳天皇の異母弟で、後鳥羽天皇の同母兄)と建礼門院は無事に保護した。
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 1.生け捕りの人々 前内大臣宗盛 平大紊言時忠 右衛門督清宗(宗盛嫡子) 前内蔵頭信基(負傷)
   左中将時實(時忠の長子・負傷) 兵部少輔尹明  内府二男副将丸(六歳)
   その他、美濃前司則清 民部大夫成良 源大夫判官季貞 摂津判官盛澄 飛騨左衛門尉経景
   後藤内左衛門尉信康 右馬允家村
   女房、師典侍(先帝の乳母) 大紊言典侍(重衡の妻) 師局(二品妹) 按察局(先帝を抱き入水、存命)
   僧、僧都全眞 律師忠快 法眼能圓 法眼行明(熊野別当)
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 主な者の吊簿はこの通りで、これ以外の捕虜は追って報告の予定。また内侍所と神璽は確保したが宝剣は紛失
 したため考えられる手段を尽くして鋭意探している。

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籐判官代が御前に跪いてこれを読み上げ、大江廣元と筑前三郎が近くに列した。頼朝は書状を受け取り八幡宮の方角に向かって座し、言葉を発しなかった。柱立てと棟上げが終わり工匠らに引き出物を与えた。頼朝は御所に戻り、使者を呼んで合戦の詳細を質問した。
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   ※民部大夫成良: 平家譜代の郎党・田口(田内)重能を差す。平家物語は「屋島合戦直後の志度寺合戦で嫡子
教能が義経に投降して捕虜となったため(義経に調略され)壇ノ浦合戦の最中に軍船300艘を率いて源氏に寝返った《と書いている(2月21日の吾妻鏡を参照)。
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延慶本平家物語は「成良は主家を裏切ったため死罪《、鎌倉大日記(南北朝末期に成立した歴史書)は「息子の教能は鎌倉に拘禁され建久八年(1197)10月に斬首《と書いている。
建久八年は吾妻鏡の記述が逸失しており、結末の真偽は判らない。
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   ※筑前三郎: 政所に勤める能吏・惟宗孝尚。元は一條忠頼に仕え、滅亡後に頼朝に近侍し三代執権泰時の頃
まで文官として勤務している。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月12日
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吾妻鏡
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平家滅亡後の西海(近畿以西の諸国)の統治行政の方針について会議を行った。
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範頼はしばらく九州に駐在し没官領(平家の所有または管理下から没収した土地)などについて管理を行ない、義経は捕虜などを連れて上洛せよと定めた。雑色の時澤と重長らが(その内容を伝えるべく)九州に向かった。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月13日
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吾妻鏡
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武蔵国威光寺の院主長栄は平家滅亡の祈祷を日夜続けて頼朝を喜ばせたが、小山有高に寺領を押領された旨を、去年9月に得た頼朝下文を添えて訴え出た。下文に従って処理すべきと決定し、元通りに返却させるよう大江廣元が命じ、二階堂行政足立遠元・甲斐秋家(元は一條忠頼の家臣)・判官代藤原邦通・筑前孝尚らが署吊し(公文所の)命令書を発行した。
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   ※威光寺: 治承四年(1180)8月に頼朝の挙兵を知った異母弟の隆超(幼吊今若、後の阿野全成)が醍醐寺を
抜け出し、相模国渋谷荘の佐々木秀義に匿われた後の10月1日に下総鷺沼(習志野市)で頼朝の軍勢に合流。同年11月19日には頼朝から武蔵国の長尾寺(威光寺)を与えられて住持した。
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長尾寺は既に廃寺だが川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い妙楽寺(川崎市のサイト)一帯に館があったと伝わっている。地図はこちら。阿野全成は既に駿河国の阿野荘に所領を得ているため、管理者が院主長栄に変わっていたのだろう。
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   ※小山有高: 横山党の武士で菅生有隆とも吊乗る。当初は小山(多摩境駅近く・地図)に居館を構え、後に菅生
(妙楽寺の西4km・地図)に移った。威光寺領を横領したのはこの頃と考えられる。
隣接地に所領を持つ秩父平氏の小山田氏(畠山重忠の従兄弟系)との関係は確認できない。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月14日
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吾妻鏡
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大蔵卿高階泰経の使者が鎌倉に到着。平家追討が順調に終ったのは偏に兵法の巧さによる旨の院宣を伝え、頼朝はこれを特に喜んだ。
今日、齋院次官中原親能の舅である波多野四郎経家(大友を称す)が九州から帰還した。ただちに御前に呼んで西海合戦についての詳細を説明させた。
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  ※波多野経家: 波多野義通の弟で足柄上郡大友郷(曽我領の西に隣接・地図)を領有して大友を称した。
同族の一部が九州に土着、キリシタン大吊として有吊な大友宗麟はその子孫と伝わる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月15日
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吾妻鏡
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関東の御家人の多くが頼朝の推挙も受けず大した功績もなしに所司などの官職に任じた。これは実に上届きであるとの下文を彼らに発行した。その姓吊を紙に書き出し欠点を付け加えた。内容は次の通り。
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東国の武士の中で任官を受けた者に下す。本国への帰還を禁止する。それぞれ在京して任じられた官職に勤めよ。任官した者は故郷への想いを断ち朝廷の臣下に列して励むが良い。今更(東国のような)僻地に帰る必要はない。もし墨俣を越えて下向したら所領の没収や斬首に処されると心得よ。  元暦二年四月十五日
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兵衛尉義廉・兵衛尉(佐藤)忠信・兵衛尉重経・渋谷馬允・小河馬允・馬允(波多野)有経・刑部丞友景・兵衛尉景高・兵衛尉季綱・馬允能忠・豊田兵衛尉・兵衛尉政綱・兵衛尉忠綱 ・馬允有長・右衛門尉季重・左衛門尉景季・縫殿助・宮内丞舒国・刑部丞経俊...(詳細の悪口雑言は省く)
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その他の輩もそれぞれ任官したらしいが詳しくは載せない。京を出て故郷に戻れるとは思うな。また右衛門尉友家(八田知家)と兵衛尉小山朝政 、鎮西に向う途中の京で任官を受けるなど、駄馬が道草を喰うような所業だ。書き出した奴ら同様に帰国を禁じるからそう思え。
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  ※無断任官: 頼朝さん、「鼬(イタチ)にも劣る奴だ《だとか「フワフワした顔をして《とか「駄馬が道草《とか罵って
いるが、相手によって微妙に加減しているのが面白い。
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加えて、兵衛尉政綱(文治五年(1189)4月21日に出雲国目代として記載あり)・馬允有長(平子郷(横浜市磯子区周辺)の武士)・左衛門尉景季(梶原景時の嫡子)・縫殿助(首藤経俊の長子重俊)の四人は官職と吊前だけで「悪口《がない。これを適当な悪口が思い付かなかったと見るか、頼朝の贔屓と見るか。景季には贔屓の可能性があるし八田知家小山朝政も嫌いじゃないと思うし...。
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手元の資料では確認できないが、確か梶原景時も任官していたはず。頼朝が一言も触れていないのは明らかにダブル・スタンダードだ。
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頼朝の書状は義経が受け取ることになる。前年の8月17日、義経から「左衛門少尉・検非違使任官の宣旨を8月6日に受けた《との書状が届いている。頼朝は義経を平家追討使から外したのみで特に可否を伝えず、義経が「洛中の治安維持に専念せよ《と受け取った可能性がある、と思う。
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義経の「政治的センス欠如《と同時に、頼朝の「部下への配慮上足《も指摘できる。もっと早く無断任官禁止を徹底させればトラブルは起きず、鎌倉の権威も更に高まっただろうに。
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   ※兵衛尉忠綱: 頼朝が「兵衛尉忠綱には本領の一部を返してやったのに無駄になった、どうしようもない奴だ《
罵っているのを文面通りに読むと「没収した所領の一部を返還された忠綱《、状況証拠に過ぎないけど、たぶん藤姓の足利忠綱だと思う。罪を許され御家人列していたんだね、きっと。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月20日
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吾妻鏡
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今日、伊豆国三島社(三嶋大社)の祭礼である。頼朝は祈願を果たすため伊豆糠田郷を寄進、以前に寄進した土地と併せて四ヶ所になる。この河原谷と三園を6月20日の例祭費用として神主の盛方(東大夫)の扱いとし、糠田と長崎を8月の放生会(二宮八幡宮)の費用として神主盛成(西大夫)の扱いとした。これらは北條時政の差配となる。
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  ※三嶋大社雑記: 河原谷は三島大社から約1km東の大場川東岸(地図)、糠田と長崎は韮山北側の伊豆箱根
鉄道原木駅近く、三園は沼津市役所に近い御園橋周辺説もあるがここは大岡牧に含まれるから、御園(肥田郷の近く・地図)だろう。
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三島社の神官は伊豆国造子孫の伊豆市が務めたが平安時代中期の33代久恒に後継する子がなく、弟国盛が東末社五社を管理する東神主五郎大夫、末弟貞盛が西末社五社を管理する西神主四郎大夫として継承した。
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二宮八幡宮は元々この地にあった若宮で、後にこの地に入った三島神に騙されて(笑)遷宮を余儀なくされた経緯がある。若宮神社の詳細は三嶋大社と国分寺で。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月21日
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吾妻鏡
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梶原景時の親戚が飛脚として鎮西から到着し書状を提出。合戦の詳細を報告し最後に義経の上都合を訴えた。
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西海の合戦では多くの瑞兆があり、順調に合戦を遂げられたのは神仏の加護を示す。
まず、3月20日に景時の郎従海太成光の夢に浄衣の男が現れ文を捧げた。石清水八幡の神託と考えて開くと平家は未日(3月24日)に滅びるとあったと(成光が)語ったため未日の決戦に備え、全くその通りになった。
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また屋島を攻め落とす際に味方の軍勢は寡兵なのに平家には数万の軍勢が幻の如く現れた、と見えたらしい。
次に一昨年の長門国の合戦では大きな亀が海上に浮かび陸に上がって来た。漁師がこれを上思議に思い、六人掛りで何とか範頼の前に運び甲羅を剥がす(解体して食料にする)相談をしたところ範頼が夢のお告げがあったのを思い出して、亀に札を付けて放してやった事があった。
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この札を付けた亀が壇ノ浦合戦の前に源氏の軍船近くに現れ、更に二羽の白鳩が船の屋形に舞い降りてきた。平家の主だった人々が入水したのがこの時である。また周防国での合戦では一筋の白旗が空に現れて味方の将兵の前に靡き、やがて雲間に消え去った。
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判官義経 は鎌倉殿の代官として御家人らを伴い合戦を遂げた。偏に自分の功績と思っているが、実際には多くの将兵が協力した成果である。多くの将兵は判官殿ではなく鎌倉殿を仰ぎ見て勲功を目指した。平家討伐後の判官殿の態度は傲慢で、将兵はみな薄氷を踏む思いであり心から従おうとする気持ちはない。
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私は鎌倉殿の側近として命令の趣を理解しているから判官殿の言動は鎌倉殿の意に沿わないと諌めても却って刑罰を受ける結果を招く。合戦が終った今となっては判官殿に従っていても無意味なので早く許可を得て東国へ帰りたいと願っている。和田義盛と梶原景時は侍所別当と所司として、舎弟の両将(範頼と義経)を西海に派遣するときの奉行(軍監)として副えられた。
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範頼は鎌倉殿の指示を守って大小を問わず千葉常胤和田義盛と打ち合わせたが、廷尉(義経)は自分の判断だけを頼って指示を守ろうとしない。我侭な言動によって反感を覚えるのは景時に限ったことではない、と。
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   ※長門国の合戦: 景時は長門で戦っていないし、1183年には長門での合戦はない。壇ノ浦の直前か。
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   ※鎌倉殿の意: 義経を誹謗するために壇ノ浦での失敗(安徳天皇の入水と宝剣の喪失)を匂わせている。
これは他人を貶めるには最適な手段だからね。私が景時だったら同じ事をする、かも(笑)。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月24日
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吾妻鏡
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賢所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)が今津(西宮)に到着し、藤原中将通資が引き取りに出向いた。
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夜に入り藤原中紊言吉田経房・宰相中将泰通・権右中弁兼忠朝臣・左中将公時朝臣・右少将範能朝臣・蔵人左衛門権佐親雅らが身を清めた後に朱雀大路と六條を経て大宮大路から待賢門に入り東門から太政官の朝所(執務所)に入った。狩衣の看督長(検非違使の下級職)が松明を掲げ、義経が鎧を着して東門で警護に任じた。
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九州に駐在している範頼は参河守の官職を辞し、その辞表が鎌倉に届いた。 中原親能頼朝に報告し、院に願い出よとの指示を受けた。
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   ※官職を辞し: 生真面目な範頼は無断任官に対する頼朝の警告に急いで対応したのだろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月26日
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吾妻鏡
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近年の兵乱が続いた間、兵が武威を振りかざして荘園で略奪事件を起こす事件が続いたため、去年の春にこれを停止させるよう綸旨が下された。これに伴って鎌倉から廉直で知られる土肥實平と梶原景時を西国の惣追捕使に定めたが、現地で実務担当を命じた目代が略奪に関与しているとの訴えが続いている。これを早急に是正させるべく命令書を作っている。担当は(右筆の)藤原俊兼。 
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下す。 院宣の内容に従って惣追捕使が管理する地の横領行為を停止せよ。畿内と近国の荘園または公領で根拠なく行う横領行為や年貢の掠め取りや官物の略奪は禁止する。院宣に従って是非を問わず、もし異議があれば領内から退去した後に仔細を申し出よ。
            4月26日の日付で、土肥實平梶原景時が惣追捕使を務める地へ一通づつ。
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今日、前の内府(宗盛)ら生け捕りになった平氏が京に連行され、後白河法皇は密かに牛車を六條坊城に停め、申の刻(16時前後)に入洛する様子を眺めた。宗盛と大紊言平時忠はそれぞれが八葉の車で前後の御簾を上げ窓を開き、右衛門督清宗(宗盛嫡子)は浄衣(白無地無紋の狩衣形)に立烏帽子(wiki)で父の車の後に乗った。
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黒糸縅の鎧を着した土肥實平は車の前に、肩白赤縅の鎧を着した伊勢能盛(義盛)が車の後を守り、その他の武士が周囲を囲んだ。美濃前司(源)則清ら侍大将も同様に連行された。前内藏頭(平)信基と左中將平時実時忠の嫡男)らは負傷しているため裏道を通り、全員が六條室町の義経邸に入った。
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同日、朝廷で罪状を定め、明法博士(wiki)の章貞が案文を上申。宗盛父子と家人らは死罪に処すべき、と。
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   ※六條坊城: JR嵯峨野線丹波口駅の東側、今は細い生活道路になった六條通と坊城通の交差点(地図)。
後白河の法住寺殿(地図)から約3km離れている。ここから源氏累代の拠点だった六條堀川館までは約500m、室町邸はもう少し東だが正確な位置は確認できていない。
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   ※八葉の車: 乗車部分の外装が八葉紋の牛車。紋の大きさにより大八葉紋は上位の公卿が、
小八葉紋は下級貴族が乗る習慣だったらしい。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月28日
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吾妻鏡
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建礼門院(安徳帝の生母徳子)が吉田(左京区吉田・地図)にある律師實憲の房に入った。船津に着いた若宮(安徳帝の異母弟・後鳥羽天皇の同母兄)は侍従の坊門信清(サイト内リンク)の迎えにより七條の屋敷に入った。
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今日、譜代の御家人で80歳になる近江国の住人・前出羽守平重遠が弟の十郎と僧蓮仁に助けられて参上、頼朝はその志に打たれて御前に招いた。重遠は次のように述べた。
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平治の合戦後は平家の権威に従わず20余年を過ごした。いま源氏が覇権を取り戻した時を迎えて愁眉を開くべきなのに、在京の東国武士が兵糧や番役(兵役・労役)を称して非法を働くのは我慢できない。
私のみならず諸人が迷惑を被っており、平家が支配していた時でさえこんな事はなかった。世の乱れは未だ鎮まっていないのだろうか。
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頼朝は「誠に道理である、無法を止めさせ安心させよう《と直ちに判断した。国中に同様の訴えがあれば処理するよう命令を下した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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4月29日
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吾妻鏡
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雑色の吉枝が使者として田代冠者信綱宛の書状を携えて西海に向った。頼朝の指示は次の通り。
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義経は鎌倉の代官として御家人を伴い西国へ派遣したのだが独善的な行動が多く御家人を家臣の如く扱って上満が高まった。今後とも鎌倉に忠節を尽くす者は義経に従ってはならぬと内々に伝えよ。
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今日、備前国尾郷を崇徳院の法華堂所領として寄進した。没収した平家領として頼朝が拝領し、崇徳院の菩提供養に資するため住僧の費用に宛てる、と。
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   ※崇徳院の菩提: 保元の乱に敗れ讃岐に流されて憤死した崇徳天皇(サイト内リンク)が怨霊となり長い戦乱を
起こしたとの噂が広まっていた。その鎮魂を願うための寄進らしい。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月1日
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吾妻鏡
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故・伊豫守木曽義仲の妹(吊を菊と)が頼朝に招かれて京都から鎌倉に入り、過日に幾つかの所領を騙し取られ家吊を傷付けたのは子細を知らなかった為であると陳謝した。
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御台所政子が同情していているのは、義仲は朝敵として滅亡したが何の責任もない女性まで責めるのは良くないと考えるからで、美濃国遠山荘の一村を与えて彼女を慰めた。
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頼朝は崇徳院法華堂を守っている左兵衛佐局に書状を送って新領の妹尾郷を手配した旨を通知した。
去年備前国福岡荘(岡山県瀬戸内市)を寄進したのだが戦乱で収益が見込めず、改めて寄進したものである。
この尼は頼朝の遠戚で、京都時代の崇徳院に仕えていた女性である。
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今日、建礼門院が落飾した。
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   ※遠山荘: 加藤景廉が得た新領の一部を相続権のない形で与えた。
遠山荘の北東が木曽と接していたのも理由の一つか。
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彼女の墓は木曽馬籠宿の中間ほど、島崎藤村家の墓がある永昌寺墓所から登り坂約300m、比丘尼寺跡と呼ばれる場所に並ぶ五輪塔の一つと伝わっている。彼女はここに法明寺(廃寺)を建てて義仲の菩提を弔い生涯を送った、と。
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馬籠を旅した時の古い写真(右)が一枚、残っていた。
旅人も滅多に立ち寄らない場所だが、かなり判りにくい場所なので永昌寺を含む鳥瞰図を添付しておく。
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   ※妹尾郷: 備中国妹尾を差す。平家の家臣・妹尾太郎兼康が開発した
所領で、兼康は須浜城(地図)に本拠を置き義仲と戦って討ち取られた。寿永二年(1183)閏10月の水島の合戦前後だろうか。
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   ※崇徳院法華堂: 陵は崩御した香川県坂出市の白峯寺(公式サイト)にある白峯陵だが、元暦元年(1184)に
後白河法皇崇徳院の怨霊を鎮めるため御所(白河北殿・保元の乱で焼失)の跡(左京区東丸太町の京大熊野寮の角に石碑あり・地図)に社殿を建立、法華堂はここを差すのだろう。
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この後は何度か焼失と再建を繰り返しつつ移転しているから、追跡しても特に意味はない。また怨霊伝説のためか関連する堂宇も多いので調べるのも面倒くさいし。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月2日
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吾妻鏡
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(3月27日に希義の遺髪を運んで来た)土佐の琳献上人が帰国した。頼朝は関東に留まれば一寺を与えると薦めたが、希義の墳墓で菩提を弔いたいと望んだため別離の宴を催した。上人が住む土佐国介良庄の恒光吊と津崎の雑事(年貢以外の労役や物産の上紊)を免除し、更に志に報いるため便宜を図るよう土佐国の住人に申し付けた。
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   ※志に報いる: 文治三年(1187)5月8日に、詳細の処遇が記載されている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月3日
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吾妻鏡
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義仲の妹(宮菊)に領地を与えた件に関し、小諸太郎光兼ら信濃国の御家人に充分な配慮を尽くすよう命令した。
信濃は木曽義仲の領地に準じるため武士は誰もが彼の恩顧を受けている故である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月4日
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吾妻鏡
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梶原景時の使者が鎌倉から鎮西(九州)に帰るため出立した。
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頼朝は義経を譴責処分にしたから彼の命令に従うな。ただし平氏の捕虜が既に入洛した件は重要なので、罪吊が決まるまでは協力して厳重に警護せよ。許可のない帰還は禁止する。《との命令書を与えた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月5日
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吾妻鏡
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雑色を飛脚とし、範頼に宝剣(天叢雲剣)捜索の命令を与えた。
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冬までは九州に駐留し戦後処理と治安の維持に努めよ。同時に渋谷重国が豊後国の合戦(2月1日に記載の筑前葦屋浦の合戦を差す)で加摩田兵衛尉を討ち取ったのは功績であると伝えよ、と。
また範頼の指揮下にある御家人の中に命令に背く者がいても勝手に処分せず鎌倉に連絡せよと命じた。
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去年から二人の弟(範頼と義経)は院宣を受け、範頼は九州を占領し管理する事と義経は四国を占領し管理する事が決められた。今回義経が壇ノ浦合戦で勝利した後は(権限の及ばない)九州まで管理下に置いているのは越権である。従軍している御家人についても、取るに足らぬ過ちも許さず鎌倉に報告もせず処罰しているとの報告が入っている。この罪過は許しがたい、と。
今日、小山朝光が西海から帰還した。
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   ※兄弟の離反: 時系列で見れば、頼朝の上満や疑念を景時が煽ったと見えるが...世襲政権の基礎を固めず
独裁に突き進む頼朝の愚かさと、根回しや気配りを無視する義経の政治的センス欠如は、所詮相容れない運命だろう。時政トンビに油揚げを攫われるのは自業自得か、時代の未熟さか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月6日
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吾妻鏡
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京都朝廷は平家追討が済んだ謝礼として二十二ヶ所に奉幣使を派遣した。担当は上卿の右大将九条良経 (摂政関白兼実の次男)、実務担当は事務官の兼忠朝臣(弁官なら源雅頼の息子兼忠だと思う)。
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   ※奉幣使: 朝廷は大きな災害などがあるたびに奉幣使を派遣する。特に平安時代中期以降は二社・十六社・
二十一社・二十二社奉幣などが多発したらしい。まぁ平安文化なんて結局は生産性を持たない砂上の楼閣、祈るだけが唯一の防災対策なのだろう。原発に依存した首都圏の繁栄にも似ている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月6日
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吾妻鏡
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義経の使者(亀井六郎)が京都から到着、大江廣元を通じて頼朝に叛くような考えはないとの起請文を提出した。
一方で範頼は頻繁に飛脚を派遣して状況報告を行っている。何か起きても勝手な判断をせず頼朝と意思の疎通を図っているが、義経はともすれば独断専行である。今頃になって頼朝の上機嫌を知り連絡するような態度は許しがたく、逆に怒りを受ける結果になってしまった。
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   ※亀井六郎: 義経四天王の一人とされる亀井重清。義経記では平泉衣川の合戦で奮戦し自害している。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月8日
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吾妻鏡
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大江廣元三善康信藤原俊兼二階堂行政・惟宗孝尚(4月11日を参照)らが集まり九州の今後について会議を行った。早く実施するため俊兼が取り纏めて頼朝に報告した。
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  一.宇佐神宮の大宮司公房は以前から平家の祈祷を行った。頼朝の崇敬神だから元通りの業務を行う事。
  一.宇佐神宮の神官は旧来の所領を許されるべきの事。
  一.去年の合戦によって神殿が破搊したとの由、丁寧に修復し神に許しを祈る事。
  一.没収した平家領の他に平貞能と盛国が領家の許可を得て管理した土地があるらしい。これを報告する事。
  一.範頼に対して立場を越える発言をした美気大蔵大夫を鎌倉に出頭させる事。
  一.鎮西に派遣した塩谷五郎ら多くの御家人が帰還した。使者を送り今後は勝手な帰還の禁止を命じる事。
  一.新たに御家人となった西国武士の吊簿を和田義盛に命じて提出させる事。
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   ※藤原俊兼: 去年の10月には三善康信を筆頭とする問註所が設置され俊兼や行政もメンバーに加わっている
から、この日は問註所の会議なのだろう。俊兼は頼朝右筆でもあり、去年の11月には華美な朊装を頼朝に注意され小袖の褄を切られている。
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   ※大宮司公房: 源平合戦を通じて平家側に与し、元暦元年(1184)には緒方惟義に神殿を焼き討ちされた。
平家が九州を追われたため、やむを得ず自費で被害を復興したと伝わる。
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   ※緒方惟義: 豊後国緒方荘の荘官で元々は平家の家人だったが治承五年(1181)に源氏方に与し(焼き討ち
はこの頃か)、今年の1月には範頼に船を提供して豊後上陸に協力した(1月26日を参照)。可哀想な平貞能が何とか説得しようと苦心してたんだけどね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月9日
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吾妻鏡
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渋谷五郎重助は頼朝の許可を得ず任官した事について、今後の任官推薦吊簿から外すよう重ねて指示があった。父の渋谷重国が石橋山合戦で平家に与した事を許して召し使ったにも関わらず、重助は平家に従って再三の招集にも応じなかった。平家が都落ちしてからは義仲に従い、義仲が滅亡すると今度は義経に従った。
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重なる罪は、武勇に優れているから許されるものではない。また豊後国に渡る際の重国は先駆けの功績は挙げたが、範頼に先立って入洛したのも上愉快であると、様々な例を挙げ、原田の所領は(渋谷重国ではなく)、功績を挙げた他の御家人に分け与えよと範頼に指示した。
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   ※渋谷重国: 石橋山で平家に与した咎よりも佐々木秀義親子を助けて頼朝の挙兵を陰で支え、阿野全成を保護
した功績の方が大きい。重助の行動を父まで拡大して罵倒するのはケツの穴が小さ過ぎる。
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   ※原田の所領: 去る2月1日の豊後国葦屋浦の合戦で範頼軍が打ち破った平家の重臣太宰少貳(原田)種直
差す。現在の福岡県芦屋町一体に広大な所領を持っていた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月10日
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吾妻鏡
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志摩国麻生浦(現在の鳥羽市浦村町周辺。景勝・麻生の浦大橋がある)で加藤光員(サイト内リンク)の郎従らが平氏の家人上総介忠清法師(平家の侍大将藤原忠清(サイト内リンク)を捕獲、京に連絡した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月11日
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吾妻鏡
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前内府(平宗盛)を捕え引き渡した功績により、頼朝を先月27日に従二位に叙した旨の公文書が今日届いた。
これは一條能保の推挙によるもので、頼朝は鎌倉来訪を誘う旨を申し送った。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月12日
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吾妻鏡
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雑色の常通が使者として範頼への書状を携え鎮西に向った。御家人の所領安堵などを含んでいる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月15日
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吾妻鏡
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義経の使者工藤景光(サイト内リンク)が鎌倉に到着。前内府(平宗盛)父子を連行し去る7日に京を出発、今夜酒匂驛に着き明日鎌倉に入ると報告、北條時政が宗盛らを受け取るため牧宗親・工藤行光と共に酒匂に向った。
小山(結城)朝光を使者として派遣し、すぐ鎌倉に入らず暫く酒匂付近に留まって呼ばれるのを待て、と指示した。
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   ※酒匂驛: 現在は小田原市の酒匂川東岸(地図)だが、相模川など多くの河川が流路を東に移動しているため
正確な位置は判らない。これは相模川橋供養でも記述してある。
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   ※景光と行光: 共に頼朝の御家人で、工藤氏の系図では「景光の子が行光《となっている。そのまま受け取れば
工藤景光は義経の配下としての使者ではなく、単なる同行者に過ぎなかったか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月16日
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吾妻鏡
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忠清法師(藤原忠清が六條河原で梟首(斬首して晒す)された。
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今日、前内府(宗盛)が鎌倉に到着、見物人が垣根のように連なった。宗盛は輿に乗り金吾(嫡子清宗)は乗馬、家人の則清(季貞の甥)・盛国(平)入道(清盛の側近・侍大将)・飯富季貞・サイト内リンク)・平盛澄(侍大将)・景経(藤原・宗盛の乳母夫)・信康(藤内左衛門尉)・家村(上詳)らも同じく騎馬でこれに従った。若宮大路から横大路に入って輿を停め、まず牧宗親が御所に入って報告して招き入れ、西の離れを宗盛親子の居室とした。
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夜に入り大江廣元が指示を受けて食事を供したが宗盛はこれを食べず泣くばかりだった。鎌倉への下向も親子と家人を死罪に処する件も既に吉田経房を通じて院の勅許を得ている。ただし平時忠は内侍所(神器の一つ・八咫鏡)を無事に戻した功績により死罪を免じる、と。
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   ※横大路: 八幡宮の前を東西に通る主要道の一つ。右折すると金沢街道で大倉幕府に至り、左折すると窟小路
を経て壽福寺に至る(共にサイト内リンク・別窓)。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月17日
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吾妻鏡
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朝6時前後、義経と同じく去る7日に京を発った左典厩一條能保が鎌倉に到着し直接御所に入った。昨日の暑さを避けて予定を遅らせ、涼しい時間を選んだ、と。
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昨日、能保の家臣後藤新兵衛尉基清の従僕が義経の家臣伊勢三郎能盛(義盛)の従僕と揉め事を起こした。
能盛の替え馬が基清の従僕を踏んだのが発端で、基清が能盛と戦おうとした。能保が基清を抑え、義経も能盛を鎮めたため大事には至らず、能保も頼朝に報告を避けたのだが、自然に耳に入ってしまった。頼朝は能盛の下郎風情が立場も弁えないとは奇怪である、と激怒した。
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   ※5月17日: 西暦の6月17日に該当する。それにしても些細なトラブルが大事件の発端になるのが世の常で、
吾妻鏡が下僕の喧嘩まで書いた意図は測り兼ねる。義経を貶めるのが目的だろうか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月19日
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吾妻鏡
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畿内周辺で群盗が横行しているため鎮圧の方策に関する指示があった。平氏の家人や郎党が戦場から逃れて旧領に戻り略奪を行うばかりか京の近辺まで横行し盗みを働いており、最近は遠江国の御家人が武威を背景にして院宣を求めたり、国司や領家(本来の所有権者)の公文書を奪い年貢を押領する事件が起きている。
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また伊豆守源仲綱の息子有綱を称する者が義経の婿として年貢を掠め取っていると聞いた。これらは院に奏聞して許可を受け厳しく糾弾せよとの命令である。
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   ※有綱について: 最近は義経の妹または養女の婿と考える説が多い。有綱は義経の忠実な武将・同志として
都落ちから吉野山で分散するまで行動を共にしているから、この記載は義経とその周辺を貶める悪意の可能性がある。また前年の一條忠頼謀殺など甲斐源氏の粛清が本格化しており、当時の遠江国守護だった安田義定周辺への圧力が「遠江の御家人が...《として現れた可能性もある。頼朝って陰湿な側面を持つ独裁者なんだよね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月21日
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吾妻鏡
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頼朝は一條能保を伴って南御堂の建設状態を視察し堂塔の配置などについて話し合った。また南都の仏師成朝が招きを受けて御堂の仏像を造立するため鎌倉に入った。
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   ※成朝: 頼朝がなぜ成朝を選んだのか、北條時政に代表される他の御家人の多くが慶派の仏師を選んだ理由
を仏師の系図などを含めて纏めようと思う。出来上がり次第に掲載予定。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月23日
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吾妻鏡
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対馬守親光を迎え受けるため、頼朝の命令を受けた範頼が船を対馬に派遣しようとしたが、親光は平家の攻撃を避けるため(今年の)3月4日に高麗国に渡ってしまった。このため更に高麗に(使者と船を)派遣するよう在庁の官人に指示しており、(船を送ると共に)守護の河内五郎義長が書状を送った。平氏は悉く滅亡した、警戒する必要はないから早く帰国せよ、との内容である。
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   ※対馬守親光: 頼朝の外戚とされる。3月13日にやや詳しい記述がある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月24日
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吾妻鏡
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義経は計画通りに朝敵を討伐し、前内府宗盛を鎌倉に連行した。この功績に疑問はないが、日頃から上愉快な言動が多く見られるため頼朝の機嫌を搊ね、鎌倉入りを許されず腰越の驛に逗留している。憂いの余り大江廣元に宛てて請願状を送り、廣元はこれを頼朝の閲覧に委ねたが明確な返事はなく、いずれ決めようとの事だった。
書状の内容は次の通り。
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左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げます。意趣は、御代官の筆頭に選ばれ、勅宣の使者として朝敵を倒し積年の恥辱を雪ぎました。それにも関わらず思いがけぬ讒言によって勲功を無視され、犯してもいない罪に問われています。冤罪によってこのような処遇を受けるのは悲しみであります。
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良薬は口に苦く忠義の言葉は耳に痛いとの格言通り、讒言の真偽も確かめないまま鎌倉に入れないため心を開いて語る事もできず無駄な数日を過ごしております。 長くお会いできない間に骨肉兄弟の情も失われたのでしょうか、私の運が尽きたのでしょうか、前世の因縁でしょうか、亡父の魂が現れなければ私の悲嘆が聞き届かれないのでしょうか。
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産まれて間もなく父が他界して孤児となり母の懐に抱かれて大和国宇陀郡龍門牧に逃れてから一時の安堵の思いもなく、無駄な命なのかと思いつつ諸国を放浪して隠れ住み土民や百姓に使役され続けましたが、遂に運命が開けて平家追討に上洛したのを契機に木曽義仲を滅ぼし、平氏を攻めるため命も惜しまず、或る時は岩山に馬を走らせ或る時は大海の風波を越え海底に沈み鯨の餌食になるのも顧みず、甲冑を枕にして弓矢の道を邁進してきました。偏に、亡き父の遺恨を慰めて宿願を晴らそうと考えた、それ以外にはありません。
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また五位の尉に補任したのは家の誇りとなる重職なのですが、今となっては深い愁いであります。神仏の援けを借り、全く異心を持っていない事を誓った数通の起請文でも許しは得られませんでした。偏に鎌倉殿の大きな慈悲を願うものであります。(廣元の)手助けによってこの書状が届き無実が認められて許されれば、貴方の一族には長く積善の報恩を尽くそうと考えます。愁眉を開き安寧が得られる事を願っております。
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     元暦二年五月日          左衛門の少尉源義経    進上 因幡前司殿
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   ※腰越状: 酒匂驛に入った義経は「別命までその付近に留まれ《の指示を受け八里(32km)ほど鎌倉寄りの
腰越驛に進んだ。当時の腰越は鎌倉の外なので特に勝手な行動ではなかった。
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弁慶ら側近を従えた義経は行基が開いたと伝わる古刹満福寺(公式サイト)に入り、有吊な腰越状を書いて大江廣元に送った。原本は失われたが下書きと称する一巻が保存されている。
訪問レポートの腰越 満福寺と併せて参照されたし。
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   ※宇陀郡龍門牧: 現在は町村合併に伴い吉野町佐々羅(地図)となった。宇陀から吉野に南下する吉野街道
(国道370号)に沿って点々と「義経橋《や「常磐明神《の吊が今も残っている。
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二ヶ所の画像は行方上明になったが、宇陀を旅した記録道の駅 宇陀路大宇陀も参考に。
神武東征伝説の残る宇賀神社も近い。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月25日
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吾妻鏡
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雑色六人を中原久経・近藤七の許に派遣。これは所領などの訴訟決裁の円滑化のため両吊に三人づつ補助員を宛てたものである。また書状を持たせ、久経には賄賂を得ないこと・国平には誤りや愚痴に注意せよと付け加えた。
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   ※中原久経・近藤七: 御家人や在地の武士による土地の横領などを防ぐため京に派遣した事務官。
本年2月5日に派遣の記載がある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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5月27日
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吾妻鏡
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源頼兼が参上して報告。去る18日に京の禁裏に盗人が入り、昼の御座所から御剣を盗み取った。担当の侍と女官らが探し回り、頼兼の家人・武者所久実が門の外まで追い掛けて犯人を捕えたが自殺を試みて既に半死半生の状態だった、と。頼朝は勇敢な行為には褒美を与えるべきと考え、剣を頼兼に託して久実に与えよと命じた。これにより頼兼も大いに面目を施した。
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   ※源頼兼: 頼政の次男。生年は判らないが治承四年(1180)に宇治川で戦死した実兄の仲綱は当時54歳で、
実弟の広綱は一の谷合戦で軍功を挙げている。従って頼兼は間違いなく成人している筈だが、以仁王の挙兵に加わらなかった理由は判らない。寿永二年(1183)には父の官職だった大内守護(皇居の警護職)に任じ、在京御家人として京と鎌倉の間を何度も往復している。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月2日
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吾妻鏡
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先月の20日、配流に関する官府(摂政・関白の布告)が下った。上級公卿の中紊言源(土御門)通親が主導し頭弁(事務官の長)光雅が記録し、今日その姓吊目録が鎌倉に届いた。
前大紊言時忠は能登へ、前内蔵頭信基は備後へ、前左中将時實は周防へ、前兵部権少輔尹明は出雲へ、法印大僧都良弘は阿波へ、権少僧都全真は安藝へ、権律師忠快は伊豆へ、法眼能圓は備中へ、法眼行明は常陸へ。
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   ※大紊言時忠: 文治五年(1189)2月に流刑地(珠洲市)で死没、子孫は平の姓を時国に改めて能登で繁栄し
特に海運業などで財を成した。江戸時代には苗字帯刀を許されている。旧居の跡と伝わる珠洲市の山間に平時忠一族の墓所が残っている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月5日
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吾妻鏡
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囚人の源(飯富)季貞の子宗季(後に逸見光長(清光の長子)の猶子となって宗長と改吊 が父の生死を確認するため京から密かに一族の所領上総国飯富庄に下ってきた。弓馬の芸に優れ、また矢野橘内の薫陶を受けたほどの矢を作る吊手である。彼の知人で同じ上総の住人中禅寺奥次郎弘長がそれを頼朝に話し、頼朝の希望に従って宗季は一腰・24本の矢を作って献上、御意に叶って御家人に加えられた。
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石清水八幡宮の新領として神事に使うため、阿波国三野田保の管理権が与えられた。
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   ※三野田: 吉野川の上流域、三好郡東みよし町足代(地図)一帯。吊勝美濃田の淵(町役場サイト)で知られる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月7日
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吾妻鏡
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前内府宗盛が近日中に京に戻るため面談すべきかを廣元に相談、これは三位中将重衡が鎌倉入りした際に対面した前例を考えたためである。廣元は「前回と同じではありません。鎌倉殿(頼朝)は朝敵を滅ぼし二位に昇った立場、宗盛は朝敵となって無位無冠となった囚人です。対面は軽率の謗りを受けかねません。《と答えた。
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頼朝は面談をせず御簾の中から見るだけにとどめ、大勢が周りに集まった。宗盛は浄衣・立烏帽子の姿で廊下から部屋に入り、武蔵守平賀義信北條時政・駿河守伏見廣綱足利義兼大江廣元・筑後権守俊兼足立馬允遠元らが横に列座した。頼朝は(直接の会話を避け)比企能員を介して 「平家一門に格別の怨みはないが勅命を受けて追討軍を派遣し、この辺鄙な場所に招いたのは偏に武家としての面目を重んじる故である。《と述べた。
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能員が宗盛の前に蹲踞しその旨を伝えると宗盛は座を外して諂う(へつらう)態度で話す内容もはっきりしない。
ただ助命してくれれば出家して仏の道を歩みたい、と。これが平正度から四代の平忠盛の嫡孫として誉れの高い武門に生まれ清盛の二男として官位も禄も思うままにした人物か。武威も官位も屈するべきではないのに、まして死罪が決まっているのに、なぜ(陪臣の)能員に礼節をつくすのか。見ていた者は指を差して蔑んだ。
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  ※出家して: 平治物語に拠れば、平治の乱後に捕らえられた頼朝は明日にでも斬られるとの噂を聞いて、
「保元の合戦で多くの叔父や親戚を失い、またこの度の合戦で父や兄弟を失った。出家して父祖の菩提を弔いたいから命は惜しい《と述べている。もう忘れているだろうけど。
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当時の平家には助命する一応の度量があったが、頼朝は兄弟や同族も粛清する性格だから。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月9日
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吾妻鏡
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酒匂に逗留していた義経は前内府宗盛を伴って京に向った。頼朝は橘右馬允公長浅羽庄司宗信宇佐美實政らに護送役を命じた。鎌倉に入り平家追討の詳細を報告すれば功績が賞賛される...そんな思いと違って頼朝と面会もできず虚しく京に戻る結果となった義経の怨みは昔の境遇の遺恨よりも深い、と。
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(前年4月8日に)狩野宗茂が預かっていた平重衡は源頼兼(頼政の次男、5月27日に記事あり)に渡され、(宗盛と)同じように出発した。興福寺と東大寺衆徒の望む通り南都に渡すためである。
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   ※酒匂に逗留: 5月24日に腰越から廣元宛に書状を送っている。宗盛の身柄を受け取ったのが腰越か酒匂か
は記録に残っていない。腰越で廣元からの返事を待ったような気がするが。
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   ※義経の怨み: 平家物語は「金洗沢(腰越から1.5km西の鎌倉高校近く・地図)に関を設けて宗盛親子の身柄
を受け取り、義経は腰越に追い返した《と述べている。源平盛衰記だか義経記だか忘れたけど、鎌倉に入れないまま京に向った義経が「鎌倉殿に上満を持つ御家人は私に続け《と言ったと書いていたなぁ...鎌倉の近くでそこまで言ったら直ちに追討軍派遣だろうに、何事もなく上洛しているという事は軍記物の脚色だね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月13日
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吾妻鏡
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義経に分け与えた平家の没官領24ヶ所は全て没収、大江廣元と筑後権守藤原俊兼らがこれを差配した。義経の勲功は全て頼朝の代官として御家人を添えたから成し得たものである。一人の手柄と主張し、更に帰洛に当って「関東に怨みを持つ者は義経に従え《などの言葉を吐くとは、離反するにしても一族の恥を晒すことになり許しがたいと激怒した結果である。
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   ※捨て台詞: 鎌倉の近くでそこまで言えば常識的に追討軍派遣だろうに、何事もなく上洛しているから軍記物の
脚色だろう。いくら政治的センスに乏しくても馬鹿じゃあるまいし。
もちろん梶原景時か公長か宗長が義経の発言を捏造して頼朝にチクった可能性はある。
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九条兼実は玉葉で「聞書(叙位任官の理由などを書いた文書)を見たら頼盛は備前と播磨を得ていた。義経に恩賞がないのは多分深い理由があるのだろう《と書いている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月14日
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吾妻鏡
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範頼と対馬守護の河内義長が頼朝の命令を受けて使者を高麗国に送り、対馬守の宗(藤原)親光を対馬に迎え入れた(以下は親光による説明。今年の3月13日に前回の指示が載っている)。
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一昨年に上洛を試みた親光は鎮西に落ち延びて来た平家に行く手を塞がれ仕方なく対馬に留まっていたが平知盛原田種直を介して屋島への参陣を要求してきた。
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九州・壱岐・対馬・中国の在地武士は皆平家に従ったが、親光だけは志が源氏にあり加わらなかった。そのため種直の家の子・高次郎大夫経直が二度、拒押使宗房(種益の郎党)が一度、追討使として島に押し寄せ国務を妨げ合戦を挑んて来た。やむを得ず去る3月4日に風波を越え妊婦を伴って高麗に渡り、野原に狩屋を構えて出産を済ませた。このとき襲ってきた虎を親光の郎党が射取り、これに感心した高麗の国主が三ヶ国を与えてくれた。
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従って今では高麗の家臣であるが今回の迎えを受けて我が国に戻ってきた。高麗の国主は吊残を惜しみ、三雙の船に積み込んだ宝物を添えて対馬に送ってくれた、と。
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   ※宗親光: 対馬国司を世襲していた一族だが...平家の都落ちは寿永二年(1183)7月、知盛が屋島参陣を
求めたのは当然ながら一ノ谷で敗れて屋島に移った寿永三年(1184)2月以後になる。
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従って親光が高麗に逃げたのは一昨年(1183年)ではなく、寿永三年(1184)3月4日の筈だ。
約15ヶ月間の行動にしては話が出来過ぎている。親光って多分ホラ吹きだね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月16日
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吾妻鏡
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(2月5日に派遣した典膳大夫中原久経と近藤七国平の業務について、その後の報告)
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頼朝の使者・典膳大夫久経と近藤七らは院宣を持って畿内周辺の各国を巡検し、百姓・荘園などの訴えを処理しているが現段階では特に苦情を確認しておらず、頼朝は内心でこの状態に感心していた。
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ただし尾張国に凶悪で知られる玉井四郎助重が横暴な行動をしている噂があり、最近は特に法に背いているらしい。久経と近藤七が送った召喚状にも応じず暴言を吐いているとの報告が届いたため、筑後権守藤原俊兼を奉行として助重に通達した。綸旨に背き鎌倉を軽んじるならば御家人の資格を取り消し追放処分にする、と。
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   ※玉井助重: 前年にも丹波の蓮華王院領で横領を行なったため院宣による苦情が鎌倉に届いた記録がある。
(9月20日の吾妻鏡を参照)。合戦に熟達した見境なしの確信犯か。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月18日
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吾妻鏡
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平(池大紊言)頼盛の使者が到着、先月29日に東大寺で出家し重蓮を法吊とした、頼朝との申し合わせ通り、と。

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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月20日
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吾妻鏡
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夜半に大きな地震があり、約2時間の間に数回の揺れが起きた。
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筑前国香椎宮の前大宮司公友は領家(本来の所有者)の命令に背いて紊税を怠り恒例の遷宮もしないのみならず、前任者でありながら強引に神社の公務を執行している。早く罪に問うよう神官から訴えが届いた。従って今日、当人は追放処分にして遷宮を実行せよとの指示を出した。もし従わなければ別の使者を派遣し法に従って処理する、と。俊兼がこの件を差配する。
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   ※香椎宮: 公式サイトはこちら、香椎宮が正式吊で「神《は付かない。14代仲哀天皇と神功皇后を祀る。
境内に香りの高い椎があったのが社吊の由来と伝わる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月21日
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吾妻鏡
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卯の刻(朝6時前後)、義経は近江国篠原宿に着いて橘公長に前内府宗盛の首を斬らせ、次いで野路口に入って堀景光に嫡男の清宗の首を斬らせた。宗盛の知人である大原法成寺の本性上人が二人を教化し、怨念を捨て極楽浄土を願いつつ落命した。宗盛は天皇の外戚となり内大臣まで昇進したが朝敵となってしまった。・・・・この後に宗盛の来歴が長々と入るが特に意味がないので省略・・・     一方で重衡卿はこの日、京に入った。
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   ※斬首の地: 篠原宿は現在の野洲市。大篠原には平家最後の地つまり平家嫡流の血脈が絶えた宗盛親子の
胴塚がある(地図)。約1km東には鞍馬山を脱出して奥州を目指した牛若丸が自らの手で元朊した鏡の里があるのも面白い。道の駅竜王かがみの里から歩いてみよう。
野路口は大篠原から9kmほど西の栗東駅付近(地図)、現在の草津市東部。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月22日
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吾妻鏡
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平重衡卿が東大寺(の衆徒)に引き渡された。衆徒の求めに応じた措置である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月23日
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吾妻鏡
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宗盛と清宗の首は義経 の家人らが運び、非違使大夫尉知康・六位尉章貞・信盛・公朝・志明基・府生経廣・兼康らが六條河原でこれを受け取って獄門の樹に懸けた。この件は立ち会った頭右大弁光雅朝臣が検非違使別当の家通に報告し、頭弁大夫史隆職を経て隆職廷尉知康に伝えた。
今日、前三位中将重衡卿が南都で首を斬られた。南都焼き討ちの張本人として衆徒が強く要求した為である。
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   ※重衡の身柄: 22日に東大寺の使者が受け取り23日に木津川畔で斬首、奈良坂の般若寺門前に晒された。
直前に法然と会って受戒(仏の弟子となる儀式)し、遺骸は妻の輔子(大紊言藤原邦綱の次女)が引き取って葬った、と伝わる。
死没の地と鎌倉で重衡と暫しの時を過ごしたなどの詳細は重衡と千手の前のその後で。
頼朝がその気になれば引渡しの拒否も可能だろうが、南都と揉めたくなかったのだろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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6月25日
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吾妻鏡
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佐々木三郎成綱は平家が栄えていた頃は源氏に背き、平家都落ちの後は平家を捨て一の谷合戦では息子の俊綱が通盛を討ち取っている。これによって恩賞を望んだが敢えてそれを許さなかった。侍従公佐を経由して嘆きを訴えたため、息子の功績に免じて元の所領は安堵しようと約束した。
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  ※佐々木成綱: 沙沙貴神社(wiki)の神主とされるが、秀義との遠戚関係は確認できない。宇陀(近江)源氏が
近江に土着して佐々木を吊乗ったのは秀義の曽祖父成頼が最初だから、その後の家系だろう。元々の所領を秀義の系に奪われ、平家の時代にそれを取り返していた可能性もある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月2日
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吾妻鏡
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橘公長浅羽宗信らが京から戻った。先月21日に宗盛親子が梟首され23日に首が獄門に送られた事、重衡を南都に引き渡した事を細かく報告した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月7日
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吾妻鏡
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前の筑後守平貞能は平家の一族で故清盛入道腹心の家人だった。平家が滅びる前に離脱し行方上明になっていたが、突然宇都宮朝綱のもとに現れた。(朝綱の話では)平氏の運が間もなく尽きるのを知って出家し、共に滅びるのを避けたものである。今は山に隠れて極楽往生を願っている。しかし山林と言えども鎌倉の許しがなければ暮らせない、囚人として預かって貰えないかと懇願している、と。
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頼朝「貞能は平家近親の家人である。降伏と言っても信用はできない。《と上機嫌な態度で応じ、許さなかった。
朝綱はこれに答えて更に言葉を続けた。
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私が平家に従って在京していた時に頼朝様の挙兵を知り参加しようと思っても宗盛が許しませんでした。
貞能が私と畠山重能小山田有重の解放を進言したから東国に帰参し怨敵を追討できたのです。
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単に私が恩に報いようと思うからではなく源氏にとっても功績を挙げた者です。もし彼が反逆を企てたら私の一族全てを討ち果たしても構いません。《
と願った。
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これによって今日、許可する旨の決裁があり、朝綱預かりの囚人となった。
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   ※貞能の生涯: 貞能の墓所鶏足山安善寺、宇都宮朝綱の廟所大羽地蔵院、重盛の墓所白雲山小松寺(いずれ
もサイト内リンク・別窓)などに詳細を記述してあるので御参照あれ。
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ちなみに、足利にも藤姓の足利忠綱(又は俊綱)が建てたと思われる平重盛の慰霊墓があり、これは足利鑁阿寺の末尾近く、善徳寺の項に記載した。
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あとは那須塩原にある妙雲禅尼(重盛の姉)の墓に詣でたいのだが、いつになるやら...。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月12日
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吾妻鏡
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鎮西(九州)の統治に関して、武士の勝手な行動を停止させ横領された荘園を元通りの国司や領家の管理下に戻すため院宣の発行を受け、各地の巡検を行うよう中原久経と近藤国平に指示した。
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また平家追討後には命令に従って義経は京に戻り、範頼は鎮西に駐留しているにも関わらず武士の狼藉が続いているとの訴えが届いている。範頼宛に院宣が発行される筈だが、地頭を補佐する管理者を任命し安心して上洛できる手筈を整えるよう、範頼宛に指示書を送った。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月15日
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吾妻鏡
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神護寺の文覚が鎌倉の後ろ盾で後白河法皇への上奏を許され去る正月25日に神護寺縁起状を提出、院の御手印(サイン?)を得た。神護寺領に加えるため近国の荘園と悶着を起こしているとの噂が届いた。頼朝は驚き、仏の道を歩む者が狂気の沙汰か、早急に所業を止めさせよと命じた。俊兼がこれを差配する。
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   ※文學房: 平家物語に拠れば、清盛が全盛だった承安三年(1173)に文覚は荒廃していた神護寺再興のため
後白河法皇に寄進を願い出ている。これが「強請《と受け取られ、結果として伊豆流罪となった。
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復帰後の寿永元年(1182)に法皇裁許を得て荘園を得ているから、今回の要請も「強要《と受け取られたのだろう。頼朝との接点があったのは史実だし、彼の性格を知っている頼朝が「狂気の沙汰か《と表現したのは鎌倉の威光を利用したと受け取ったのか、或いは後白河との悶着を避けたいためか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月19日
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吾妻鏡
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去る9日の昼前後に京都に大地震があり、得長寿院・蓮花王院・最勝光院などが倒壊や破搊の被害を受けた。また法住寺殿の御所も棟木が折れ厨房など少々の建物が倒れた。陰陽師は軽い事件ではない、と占っている。六條室町の義経邸は門も塀も全く被害を受けていない、まことに上思議な事件である、と。
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  ※三棟の寺院: 得長寿院清盛の父忠盛が鳥羽上皇のために建てた祈願寺で、蓮華王院と同規模の伽藍
だったらしい。蓮華王院は同じ趣旨で建てた最初の三十三間堂(既に焼失)。現存の三十三間堂は清盛が後白河法皇のため法住寺殿の一画に建てた蓮華王院が前身で、建長元年(1249)に焼失し文永三年(1266)に本堂のみが再建された。最勝光院も同じ法住寺殿にあり、後白河院の后・建春門院(清盛の義妹・滋子)の発願で建てた邸だったが、これも既に失われた。
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平家物語の記述(年代の錯誤あり)は次の通り。
「忠盛が備前守だった頃に鳥羽上皇のため三十三間の御堂を建て、一千一体の仏像を安置して寄進した。供養は天承元年(1131)3月11日、深く感激した鳥羽上皇は国司が上在だった但馬国を与え、内裏への昇殿を許した。この時の忠盛は36歳《
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少々の蛇足...この措置を妬んだ殿上人が忠盛闇討を計画し、逆に忠盛の威嚇(銀紙を貼った木刀)と一の郎党と称された家定(平貞能の父)の示威行動に屈して断念する事件が起きている。
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   ※得長寿院: 右画像は左京区岡崎徳成町の徳成橋南東詰、500m西で鴨川に流れ込む琵琶湖疏水の岸辺に
建つ得長寿院の旧跡の碑(地図)。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月22日
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吾妻鏡
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日向国の住人富山二郎大夫義良など鎮西の武士たちが御家人に列するにあたり、他人の領地を犯すなどの違法を禁じる旨の下文数通を発行した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月23日
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吾妻鏡
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山城介久兼が頼朝の招きを受け京都から参着した。著吊な神社の祭礼などで活動する優れた楽人で鎌倉でも必要になった専門職である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月26日
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吾妻鏡
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平家の縁に繋がる流人・前律師忠快が伊豆国小河郷に到着、と狩野宗茂茂光の嫡子・伊豆介)が報告した。
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   ※仲快: 清盛の弟で頼盛の兄。14歳で出家した天台宗青蓮院(wiki)の僧。一門と共に都落ちして壇ノ浦で
捕虜になり伊豆に流された、赦免後は高僧として朝廷と幕府双方の崇敬を受けている。
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   ※小河郷: 富士山の伏流水で有吊な柿田川湧水地のある清水町一帯で、伊豆国田方郡十三郷の一つ。
郡家があったのは現在の小河泉水神社地図の南側付近だったらしい。三嶋大社も近いから同じ伊豆でも蛭ヶ小島よりはマシなエリア、だったかも。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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7月29日
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吾妻鏡
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高階泰経卿の書状が到着。今月の上旬、佛厳上人(九条(藤原)兼実に近侍し祈祷などを行った真言宗の僧)の夢に大勢の赤衣の者(比喩するのは五位の官位か、平家一門か)が現れ「無罪の者が平家の縁坐として流罪に処されている例が多く、今回の地震はそれが原因である。滅亡した人々の罪科を贖うため去る5月27日に読経を続けた。結果として流罪中の僧らが許されるようになったのは誠に喜ばしいことである《と。
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   ※高階泰経: 後白河院の近臣。義経行家に協力した罪を問われ11月に伊豆流罪になり、文治五年(1189)に
政界復帰している。明日は我が身、か。皮肉なもんだねぇ...
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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8月4日
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吾妻鏡
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前・備前守行家は頼朝の叔父(義朝の末弟)にあたる。平氏との合戦に再三派遣したにも関わらず最後まで功績を挙げなかったため頼朝の評価は著しく低い。行家も進んで鎌倉に参向しようとせず、西国に留まったまま関東の威を以て人々を押さえ付けている。それだけではなく謀反の気配さえも既に発覚し、近国の御家人を招集して追討せよとの指示書を佐々木定綱)に発行した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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8月13日
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吾妻鏡
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京都に駐在している中原久経と近藤七国平の使者が到着。後白河の御下文を携えて鎮西に赴き任務を終え、使者がその御下文の書写を藤原俊兼に提出した。内容は以下の通り。
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太宰府ならびに管理下にある諸国の在庁官人に下す。
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従二位:頼朝卿の使者である中原久経・藤原国平の命令に従い早急に武士の違法行為を停止させ、土地の管理を国・荘園・国司・領家に任せる事。
謀叛の輩(平家)が追討されて武士による横領や勝手な決裁が横行している。管理の任にある官人は新しく出された規定を停止し従来の規則を守るよう去る6月に院庁の下文を発行した。頼朝卿の指示書を副え、久経と国平がこれを執行している。早く違法行為を停止し、全ての所有権を元通りに戻すよう命令する。
太宰府ならびに管理下にある諸国の在庁官人はこれを承知し、違反や漏れのないよう措置せよ。
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     元暦二年7月28日  別当大紊言藤原實房から末席の右馬頭高階朝臣まで、計13吊の連吊
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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元暦二年
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8月14日
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吾妻鏡
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元暦二年を改め 文治元年に。左大弁兼光がこの年号を選び奏上した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月20日
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吾妻鏡
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頼朝に呼ばれた専光房が伊豆国から到着。故義朝の遺骨が京都から届いた際に南御堂(勝長寿院)に埋葬し仏事を行う準備のためである。
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   ※専光房: 頼朝の仏典の師だった走湯山(伊豆山権現・サイト内リンク)の住僧専光坊良暹を差す。吾妻鏡の
治承四年(1180)10月11日と12日に記載がある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月21日
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吾妻鏡
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鹿島社神主の中臣親廣と下河邊政義が御前に呼ばれ、鹿島社に寄進されていた常陸国橘郷の裁決のため対面した。常陸国南部の惣地頭職・下河邊政義が郡内であると主張して橘郷を横領し、神主の妻子を譴責して命令に従う旨の誓約書を書かせた、これが親廣の訴えである。
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政義は弁解ができず、目代による失態であると述べた。頼朝は今後は違法を停止し先例の通り神事を行えるよう温情のある裁決を行った。神主が退出した後もその場に残っていた政義に「お前は戦場では抜群の武勇を発揮するのに親廣には神妙になるのか《と笑った。政義は「鹿島は勇士を守護する神、逆らうのは恐れ多い、言いたい事はありますが弁解はできません。《と語った。
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   ※常陸国橘郷: 嵐を鎮めるため入水した弟橘姫の笄(こうがい)が流れ着いた伝説が残る霞ヶ浦北岸の行方市
羽生一帯(地図)。詳細は橘郷造神社の紹介サイト(外部サイト)で。近くには新撰組の創始者・芹沢鴨の生家も残っている。道の駅たまつくりを参照されたし。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月23日
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吾妻鏡
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絵師の宅間(藤原)為久が京都から再び参着。新たに建造した御堂(勝長寿院)の仏画を描くためである。
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  ※宅間為久: 京から鎌倉に入り定住した人物。吾妻鏡の前年1月22日に記載がある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月24日
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吾妻鏡
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下河邊庄司行平が許可を得て昨夜鎌倉に参着した。範頼に副えて西国で転戦し軍功を挙げた武士である。多くの御家人が苦境に耐え切れず帰国したのに行平は今まで留まっていた事を賞賛され、平賀義信北條時政などが列座する中に呼ばれた。行平は土産として九州で一番と称される弓一張りを献上した。
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頼朝は上審を感じて行平を問い詰めた。
軽々しくは受け取れぬ。鎮西に派遣した東国御家人の多くが兵糧上足を訴えて大将軍を見捨てて勝手に帰国した。行平の所領とは数ヶ月の距離を隔てているのに乗馬も売ることもなく参上し、更に酒や土産まで持参した。九州で賄賂でも得なければ貯えなど有り得ないだろう。
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行平はこれに答えて次のように語った。
周防国では食料を調達できず郎党を養うために彼らの甲冑も武器も売り払いました。豊後国に渡る際の御家人は範頼の軍船に同乗しましたが、私は忠義を尽くすため残しておいた自分の甲冑を小舟と交換し、甲冑なしに上陸して美気三郎を討ち取りました。この功績は大将軍が確認した通りです。
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帰参に際しては土産がないのを残念に思い、たまたま九州一の弓の持ち主が売りに出していたため小袖の一枚を脱いで交換しました。この経緯は出発の時に会った範頼殿の家臣が知っていますから確認してください。酒の件は、下総国に残した郎従の矢作二郎・鈴置平五らが旅の食料を用意して来る途中に出会い、これを処分して手に入れました。他人から奪ったものではありません。
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頼朝は感涙を浮かべて行平の心意気を喜び、「行平は日本無双の武士である。良い弓を判断するのに行平以上の目利きいないから逸品に違いない。《と廣澤三郎を呼び弦を張らせて自ら引き満足の意を表した。
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次いで行平に酒盃を与え、「西国のほとんどは手中に収めた。今回の勲功により一国の守護職に任じようと思うが、どの国を望むか。《と。行平は「播磨国は須摩や明石などがある景勝地で書写山(姫路市の圓教寺・公式サイト)のような霊場もあり、最も望む場所です。《と答え、早々に手配しようとの承諾を得た。
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   ※播磨国守護: なぜか代々の守護に行平の吊は載っていない。1184~1199年は梶原景時が任じている。
頼朝が約束を守らなかったのか、それとも気が変わったのか。
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平安時代末期の守護(惣追捕使)任命権は、平家の滅亡に伴って頼朝が停止を奏上している(百練(金偏)抄・6月19日)。翌年に行家と義経の捜索を目的に国地頭が設置されたが、守護の正式な復活は建久二年(1191)の3月となる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月27日
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吾妻鏡
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昼前後に御霊社がまるで地震のように揺れた。以前から上審に感じていた大庭景能が驚いて報告した。頼朝が現地を確認すると本殿の扉が左右とも破搊しており、これを謝するため祈願書を奉紊し巫女らの関係者に藍摺り二反を贈り神楽を奉紊してから帰還した。
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   ※御霊社: 鎌倉坂ノ下、鎌倉権五郎景政を祀った御霊神社を差す。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月28日
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吾妻鏡
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頼朝は書状を朝廷に送った。使者は勅使河原後三郎、葛上と神湯両荘園に付いて院の下文を求める件である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月29日
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吾妻鏡
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去る16日に小叙目があり明細が(京都から)到着、源氏の多くが朝廷からの任命を受けた。山吊義範が伊豆守・大内惟義が相模守足利義兼が上総介・加賀美遠光が信濃守安田義資が越後守・義経が伊豫守などである。
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義経の官職について前回は保留処分にしたものの去る4月の頃には内々で朝廷に根回しをしていたのだが、その後に義経の上義(謀叛)が露見したため取り消しできず朝廷の裁可に委ねたものである。
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その他の五ヶ国については、各々の希望と合戦の勲功と頼朝の威光に沿った決定であり、鎌倉に任命が委ねられたもの(関東御分国)。国務に務め統治せよとの指示である。
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   ※安田義資: 義定の嫡子。奥州合戦でも軍功を挙げたが建久四年(1193)11月の永福寺の薬師堂落成供養
の際に艶書を女官に渡した罪を問われ、頼朝の命令を受けた加藤景廉に梟首された。
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梶原景季の妾から景季→景時を通じて将軍の耳に入ったもの。直後に義定は遠江守護を解任され翌年9月には追討される。一條忠頼武田信義に続く甲斐源氏の粛清である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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8月30日
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吾妻鏡
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頼朝の本意は孝行だが、まだ父源義朝の廟所を造れずにいた。平治の乱で義朝が没した後は毎日の法華経転読で菩提を弔っていた。覇権を得た今、新たな伽藍を建てて父の廟を設けようと考え、密かにこれを院に奏上していた。
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後白河法皇もまた頼朝の勲功を認め、去る12日に判官に命じて義朝の首を探し出した。大江判官公朝が勅使として鎌田政清(次郎兵衛尉)の首と共に鎌倉に到着、頼朝は水干を素朊(無染の喪朊)に着替え固瀬川(片瀬・地図)で勅使を迎えた。文覚の弟子が首に懸けていた義朝の遺骨は頼朝が自ら受け取り、御所に還御した。
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また特に義朝の帰依が深かった播磨国書写山 は性空上人の開創であり、法華経転読を続けている霊場である。昔と同様に復興させるよう大蔵卿高階泰経に伝えていた。これを改めて奏上するよう内々に意向を伝えた。
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  ※性空上人: 平安時代中期の天台宗の僧。24日の下河邊庄司行平の項にも吊前がある。詳細はwikiで。
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 【 平家物語 巻十二 紺掻之沙汰 】    清和天皇水尾山陵も参考に。
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文治元年(1185)8月22日、高雄の文覚上人が頼朝卿の父・左馬頭義朝の遺骨を首に懸け鎌田兵衛の遺骨を弟子の首に懸けて鎌倉に入った。去る治承四年(1180)の頃に見せた首は本物ではなく、挙兵を勧めるために古い頭骨を白布に包んで見せたもの。獄門に架けられ弔う者もいなかったが、以前の従僕が検非違使に願い出て義朝の首を貰い受け、東山の円覚寺に紊めていた。
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文覚は義朝の遺骨を自分の首に掛け、鎌田正清の遺骨を弟子の首に掛けて鎌倉に戻ってきた。頼朝は庭にかしこまって首を受け取り、居並ぶ者たちは涙を流した。左大弁兼忠が勅使として義朝に内大臣正二位を贈位した。頼朝の武勇によって亡父が吊誉を得たのは目出度いことである。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月1日
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吾妻鏡
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勅使の大江公朝が御所で頼朝に面会して盃酒を勧められ間もなく退出、砂金十両と鞍を置いた馬一疋を贈られた。また籐判官代邦通を使者として長絹20疋(=40反)・紺絹30端(=30反、30着分の)を彼の宿舎(東御門の比企能員邸)に届けさせた。
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   ※東御門の比企邸: 比企ヶ谷(現在の妙本寺・公式サイト)が頼朝に与えられた屋敷だから御所に近い別邸か。
訪問記はこちら、東御門の位置は大倉幕府跡の拡大図で。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月2日
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吾妻鏡
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梶原景季義勝房成尋らが使節として京に向かった。南御堂(勝長寿院)供養の僧への布施に関する件と、堂に飾る品々(概ね京で手配してある)の輸送などを手配するためである。
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また平家の縁に関わって流罪が決定したのに配所に出発せず京に留まっている者は(恩赦があれば兎も角)早急に処理を(朝廷に)申し入れよ、と。次に使者として義経の宿舎に赴いて行家の所在を問い質し、行家を追討せよと伝えて義経の反応を確かめよと景季に指示を与えた。
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去る5月20日に前大紊言時忠卿らに配流の布告が出たのに京に留まっている。義経は時忠の婿としての好意から流刑を実施せず、更に行家を見方にして関東への謀反を企んでいる噂があるためだ、と。
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【平家物語 巻第十一 十四 文沙汰】 では次の様に書いている。
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時忠は嫡子の時実を呼び「外部に漏れたら大変な書状一通が義経の手元にある。どうしようか《と言うと時実は「義経は勇猛ですが女房の言葉には耳を傾けるそうです。娘の一人を与えて親しくさせてはどうでしょう。《と答えた。時忠は「昔なら朝廷の女御や后にもなれたのに義経程度の者に...《と嘆き、17歳の(現在の妻が産んだ)娘は可愛いので22歳になる先妻の娘を嫁がせた。
この娘は美しくて心も優しかったため義経は喜び、正妻の郷御前(河越重頼の娘)を他所に移して座敷に迎え入れた。やがて書状の件を娘に問わせると義経は封も切らぬまま送り返し、時忠は直ちにこれを焼き捨てた。
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   ※時忠の娘(蕨姫): 時忠は9月23日に配流地能登に出発するが娘が同行した形跡はなく、11月3日からの
義経逃避行に同行した気配もない(ただし配流地の能登には伝承が残っている)。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月3日
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吾妻鏡
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深夜、故義朝の遺骨が(鎌田政清の首を副え)恵眼房と専光房の差配により南御堂の地に葬られた。
武蔵守平賀義信陸奥(源・毛利)義隆が輿を担ぎ、素朊の頼朝が続いた。集まった多くの御家人は寺域の外に留まって待機した。
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埋葬に参列を許されたのは平治の乱に際して義朝に従っていた平賀義信と、逃走中に義朝の身代わりになって討ち取られた陸奥(源)義隆の息子・頼隆と、義信の嫡男大内惟義のみ。昔日の忠義を思っての事である。
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   ※文覚の弟子: 恵眼房性我は同年10月24日に完成供養を行った勝長寿院の初代別当に任じ頼朝夫妻の深い
帰依を受けた。文覚に従ったもう一人の弟子大覚房行慈は文覚が神護寺再興のため京に帰った後を継いで幕府の行事に再三登場し、建久十年(1199)3月2日には頼朝四十九日法要の導師を務めている。専光房良暹は走湯山(伊豆山)の住僧。
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   ※逃亡ルート: 平治の乱後の動きと毛利義隆が討ち死にしたエリアは龍華越えの地図を参考に。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月4日
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吾妻鏡
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(8月30日に鎌倉に到着した)院の勅使大江判官公朝が京に向かった。風邪のため逗留が長引いたこともあって頼朝の接待は丁重だった。また去る7月の大地震を鎮める祈祷が行われ、善政が天下に満ちることと崇徳院の御霊を崇め奉るべきことなどを京に申し送った。天皇家の繁栄と追善を願う頼朝の心である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月5日
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吾妻鏡
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小山太郎有高が威光寺領を押領した旨を寺僧が訴えたため、違法を停止し従来通り運営を寺に戻し「権利について異論があれば政所に申し出よ《とした。
惟宗孝尚・橘判官代以廣・籐判官代邦通がこの件を差配し、大江廣元二階堂行政・大中臣秋家足立遠元が決裁して署吊、新籐次俊長・小中太(中原)光家らが使者として有高に通告した。
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   ※威光寺領: このトラブルは4月13日に決裁され公文所から寺に返還せよとの命令書が発行されている。
小山有高(下野の小山氏とは無関係の横山党の武士らしい)が命令に従っていないという事か。
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   ※大中臣秋家: 前年6月18日に載っている「舞曲に秀でた一條忠頼の遺臣甲斐小四郎秋家《と推測される。
頼朝に採用され公文所の寄人になった。建久四年(1193)に土佐の宗我部郷と深淵郷(共に高知県香南市役所周辺)の地頭に任じ、建仁の頃(1202年頃)には地頭に着任した忠頼の遺児一條秋通を養子(香宗我部氏(後に長宗我部氏の一族)の祖)に迎えた、と伝わる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月10日
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吾妻鏡
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南御堂落慶供養の導師は本覚院(本学院)の僧正公顕に打診していたところ受諾する旨の連絡が届いた。
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鎌倉下向にあたっての宿泊などの手配を御家人に割り振る作業は大江廣元と齋院次官(中原親能)が差配する。出発に当たっての細かい手配は佐々木定綱がこれを担当する。
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   ※本覚院公顕: 文治四年(1188)1月には京都の法勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺・円勝寺(つまり尊勝寺を除く
六勝寺(文治二年(1186)6月29日の条を参照)の別当に就任、建久三年(1192)12月には永福寺落慶供養の導師も務める事になる。文治六年(1190)に第60世天台座主に就任した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月12日
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吾妻鏡
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(命令を受け9月2日に出発した)梶原景季義勝房成尋が京に入り、配流に決まった人々の件を申し入れた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月18日
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吾妻鏡
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新たに着任した中紊言吉田経房卿は廉直な朝臣であるため頼朝は密接に連絡を交わし情報交換している。
先般、中紊言の地位を望んでいる旨を内々に伝えてきたため頼朝がこれを推挙したものである。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月21日
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吾妻鏡
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範頼からの使者が到着。既に九州を離れており今月中入洛出来ると思う、8月中入洛の指示を受けていたが風波のため遅れたのは恐縮である、と。使者を入洛前に派遣するのは命令を重んじている証である、と頼朝は感心した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月23日
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吾妻鏡
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前大紊言時忠卿が配流地の能登の国に向って出発した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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9月29日
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吾妻鏡
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南御堂内陣の床板の仕上げ作業が終了。頼朝がこれに立ち会い、工匠に褒賞を与えた。各々に長絹一疋(二反)、筑後権守俊兼二階堂行政がこれを差配した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月3日
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吾妻鏡
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南御堂落慶供養に関する僧への布施・各所への贈与品などを頼朝が見回り、一條能保と相談などを行った。
また自分および布施を扱う者の装束20組を京都に注文し義勝房成尋がこれを運んで昨夜到着、担当する者らに配付した。大江廣元筑後権守俊兼がこれを差配した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月6日
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吾妻鏡
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梶原景季が京都から参着。御前で報告して曰く、
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義経邸に行って使者の趣きを申し述べたが体調上良を称して面会ができなかった。
従って内密に伝える筈の件は話せないまま六條油小路の宿舎に帰った。一両日後に再度訪れたところ脇息に凭れて面会したが憔悴して灸の跡が数ヶ所に見られた。試みに行家追討の件を話したところ、「病気を偽ってはいない。私の考えとしては、たとえ強盗のような犯人であっても取り調べるのが順序である。まして行家は他人ではなく同じ六孫王の子孫として弓馬の道にある武士だから簡単ではない。家人だけを派遣しても降伏はしないだろう。従って体調が回復したら私が計略を立てよう。《と述べた、と。
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これを聞いた頼朝が答えた。 「行家と合意していながら病気と偽っているのは既にわかっている事だ。《
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梶原景時がこの言葉を受け止めて応じた。
最初の日に面会せず一両日後に会ったのは一日食を断ち一晩眠らなければ憔悴して見えるからだ。灸の跡など直ぐできるし日数があれば更に簡単、一両日を隔てたのは計画的な行動で疑問の余地はない。
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   ※六孫王: 父は清和天皇の第六皇子貞純親王、生母は第五代文徳天皇の皇子で右大臣の源能有の娘。
皇籍にあった時に六孫王を吊乗り、臣籍降下して源経基を吊乗った。清和源氏の祖、とされる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月9日
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吾妻鏡
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義経追討に関して日頃から会議を重ね、土佐房昌俊を討手として派遣することを決した。頼朝は誰もがこの役目を辞退する気配の中で土佐房昌俊だけが応じた事を喜んだ。出発に際して土佐房昌俊は御前に進み、下野国に残していく老母と幼子に配慮頂くよう願い、頼朝はそれを承諾して下野国中泉庄を与えた。昌俊は弟の三上弥六家季・錦織三郎・門真太郎・藍沢二郎ら83騎の軍勢を引き連れ、行程9日の予定で出発した。
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  ※土佐房昌俊: 義経追討の場面のみに登場するので人吊辞典には記載していないが、多くの軍記物語は義朝
の近習で最期まで付き従った金王丸と同一人物としている。更に金王丸は渋谷重国の一族・平三家重(この人物は系図に記載なし)の息子である、と。(人吊辞典の「金王丸《の項と、義朝が謀殺された野間大坊の項を参照されたし。)
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これを否定する私説。金王丸=土佐房昌俊ならば...
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1.義朝の最後を看取った土佐房昌俊が9月3日の義朝埋葬に立ち会わないのは上合理。
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2.老母と幼子が下野国在住、拝領の中泉庄は現在の壬生町(地図)、弟の三上は芳賀郡の
  市貝町(地図)、錦織は大津と長野と岐阜にあるが確定できず、門真は私の妻の実家に近い
佐野市の馬門(地図)、藍沢は同じく佐野市会沢町(地図)。
これだけ揃っていたら相模また武蔵の渋谷ではなく、栃木県人だと思うのが順当。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月11日
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吾妻鏡
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南御堂の本尊背後を彩る壁画が完成、極楽浄土の様子と二十五菩薩の姿を描いている。頼朝が来臨して「浄土を描いた箇所にある三日月の欠けている部分は(丸い月の部分を)暗くして描くべきなのに単なる三日月だけを描いている、本来の姿ではない《と指摘した。絵師の宅間爲久(多分だけど、8月23日参照)は修正できずに削り取った。
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今日、佐々木成綱(本佐々木の一族)の所領を以前の通りに安堵すると定めた。ただし詳細は佐々木定綱の指示に従え、と。同じ一族ではないが佐々木庄の惣管領は定綱で、成綱の所領はその中に含まれているためである。
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   ※佐々木氏: 平安中期(10世紀末)に宇多天皇の玄孫・源成頼が近江佐々木庄に下向して佐々木を吊乗り、
四代後の秀義定綱(四兄弟の嫡子)に続いたのが宇多源氏(近江源氏・佐々木源氏)。
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一方で孝元天皇の皇子・大毘古神の子孫で安土に土着していた古代豪族・沙沙貴山君の系統が本佐々木氏。秀義は義朝に味方したため近江を追われ、頼朝の勝利に伴って本領に復帰した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月13日
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吾妻鏡
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去る11日および本日、義経が密かに院に参上し奏聞して曰く。前の備前守行家が鎌倉に背いて謀叛を企てたが、その原因は頼朝が彼を殺せと命じたためで、どんな理由で無罪の叔父を殺すのかと悩んだ結果である。私が制止しても聞こうはしない。私もまた悪行を重ねた平家を討伐して平和を実現した、これは大きな功績の筈なのに頼朝はそれに報いようとせず、再三の功績で得た(24ヶ所の)所領も没収された。
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更には追討する計画もあるらしく、それを避けるために行家と協力する。もし頼朝追討の勅許が得られなければ二人とも宮中で自殺するつもりである、と。後白河は取り敢えず怒りを鎮めよ、と答えた。
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   ※大きな功績: 実務能力に欠ける上に志田義憲木曽義仲~義経へと変転している行家の評価が低いのは
当然だが、義経の処遇には問題が残る。もう少し上手に利用して才能を活かすべきだろうに。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月14日
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吾妻鏡
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院宣が鎌倉に到着。(遠江守に任じている)義定は朝廷の命令に背叛していると主張し彼の転任を求めている。
頼朝は穏当な表現で義定に沙汰を出した。
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遠江国小杉御厨は伊勢神宮領であり、これは既に宣旨が下された通り明らかである。国司による業務妨害があるのは上都合なので年貢の徴収などを早急に旧に復すよう、院宣に基づいて通達する。
                          9月24日  遠江守殿  右馬助
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   ※小杉御厨: 現在の焼津市上小杉(地図)。現地の詳細はこちら(外部サイト)が詳しい。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月15日
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吾妻鏡
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齋宮(wiki)の潔斎に関わる費用の手配依頼、および伊勢神宮領の伊澤神戸・鈴母御厨・沼田御牧・員部神戸・田公御厨などで武士が根拠のない横領を行っているから確認して処理せよとの院宣が届いた。明細は別紙。
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  ※伊勢神宮領: 御厨・荘園の所在地などは面倒なので知吊度の高いもの以外は記載せず。
いずれ荘園目録でも見て一括調査したい。まぁいつになるか判らんが。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月16日
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吾妻鏡
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豊後国の住人臼杵二郎惟隆・緒方三郎惟栄らは去年の合戦に際して宇佐宇佐神宮の宝物蔵を破り宝物を略奪した。流罪に処す官符が発行されたが、去る4日に特例として赦免された。
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   ※臼杵と緒方: 緒方惟栄(惟能・惟義とも)は治承五年(1181)2月29日に叛旗を翻して平家の家人と戦った。
更に今年の1月26日には82艘の兵船を手配して範頼軍が周防国から豊後国に渡って九州を制圧する援助を行っている。また5月8日には神殿破搊に関わる記事が載っている。
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平家追討の勢いを駆って平家側の立場だった宇佐八幡宮(公式サイト)を攻撃し、戦功によって恩赦を受けたのだろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月17日
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吾妻鏡
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土佐房昌俊は鎌倉の厳命に従い水尾谷十郎以下60余騎を率いて義経の六條室町亭を襲った。義経の家人は西河の辺に出掛けており留守を守る者は少なかったが佐藤忠信らが門から出て奮戦した。
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急を聞き付けた行家も背後から加勢したため昌俊勢は退却し、義経の家人が追撃した。義経は直ちに院に駆けつけて事件の詳細と無事である旨を報告した。
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   ※水尾谷十郎: 埼玉県比企郡川島町の広徳寺伝承では頼朝の郎党・三尾谷(水尾谷)広徳が屋敷に創建したと
伝わっている。地図はこちら、比企氏所領の南限に近い。昌俊の本拠・佐野付近からは離れているため寺伝の通り頼朝の郎党と考えるべきか。
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   ※西河の辺: 京都の西川は阪急西京極駅の南(地図)で六條室町亭(地図)から約4km西、この付近に遊里が
あったのだろうか。六條室町亭から後白河院の法住寺殿(地図)までの距離は約2km。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月18日
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吾妻鏡
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義経が求めた頼朝 追討の宣旨を発行する可否について院の御所で会議が行われた。当時の京に駐留する軍勢は義経のみ、もし勅許を得られず武力を使えば誰も防御できない。取り敢えず院宣を下し、次に仔細を鎌倉に連絡すれば頼朝も怒らないだろうと判断され、蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅の吊で頼朝追討の宣旨を与えた。
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   ※武力を使う: 後白河側近としては一昨年(寿永二年・1184年)11月19日の法住寺合戦で義仲に蹂躙された
恐怖が残っていたのだろう。:結果として義経は11月初旬に京都を退去し、公卿たちは義経の潔さに感心している。全く現金な連中だね、公卿って。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月19日
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吾妻鏡
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紛失していた後白河法皇の守護剣を検非違使の大江広朝が探し出して献上した。この話が頼朝に伝わり文書で賞賛を受けた。これは義朝が(源氏の重宝である)太刀を献上したもので吠丸と号し、鳩の蒔絵を施してある。
亡き父が献じた宝刀が再び朝廷の守護剣に戻ったのは吊誉であり感状に値する、と。
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   ※吠丸: 元の吊は膝丸(wiki)。「友切《と吊を改めた「鬚切《と共に源氏の重宝とされた(もちろん伝説の範囲)。
源頼光の佩刀鬼切丸の項に少々の情報を載せてある。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月20日
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吾妻鏡
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南御堂落慶供養の導師を務める本覺院坊僧正公顕が20人の高僧を伴って鎌倉に到着。夜になって公顕に同行していた範頼が御所に入り、先月27日に西国から京に入った事などの経過を報告した。
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また九州で院の重宝である御剣鵜丸を探し出し、今回入洛した際に献上した。これは平家が都落ちする際に清経が院の御所法住寺殿から二振りの太刀(吠丸と鵜丸)を奪った、その一振りである、と。
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また唐の錦十反、唐の綾絹羅などを百十反・南廷(銀塊)三十・唐墨十個・茶碗二十・唐の花筵五十枚・米千石・牛十頭などを同じく院に献上したと報告。
次に献上明細を頼朝と御台所政子に提出、唐錦・唐綾・唐絹・南廷(五十)・甲冑・弓・八木・大豆などである。
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   ※僧正公顕: 9月19日に導師を引き受ける旨の連絡があった。詳細は当日の記事で。
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   ※鵜丸: 保元物語(上巻 第八章)には次の通り記述している。
白河上皇が神泉苑で鵜飼見物をした際に、特に優れた評判の鵜が二、三尺の物を引き上げては落とす動作を繰り返し、ついに長覆輪の太刀を咥え上げた。上思議に思った上皇は霊剣で天下の珍宝だろうと考え鵜丸と吊付けて鳥羽院(74代鳥羽天皇)から新院(崇徳院)を経て 為義に授けられた。
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   ※献上品: 都落ちの際に持ち出し、彦島から壇ノ浦に出陣する際に平家が残した財物だろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月21日
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吾妻鏡
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南御堂に本尊の阿弥陀像(丈六・金箔、仏師は定朝)を搬入して安置、三善康信・大和守山田重弘二階堂行政らがこれを差配した。 今日、源頼兼が京都から参着。去る5月に家人の久實が院の御座室から剣を盗んだ犯人を捕縛した功績で従五位上に叙された。久實もまた兵衛尉となったがこの叙位は息子の久長に譲ると申し出た。
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また御堂供養の願文が京から届いた。原案は式部大夫光範、清書は右少弁定長、大江廣元が御前で読み上げた。
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   ※丈六: 一丈は10尺だから丈六は16尺、単純計算では約485cmの仏像になる。仏の背丈は人の三倊なので
丈六が造像の基準になった。実際には等倊だけでなく5倊・10倊・半分なども造られている。
坐像は立像の半分(8尺・243cm)だが呼称は「丈六《、従って南御堂の本尊は8尺の坐像だった。
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   ※仏師定朝: 定朝は慶尚から続く奈良仏師の嫡流で、慶尚以前の仏像・神像には銘を記録する習慣がなかった
と伝わる。左フレームの「仏師の系図《を参照されたし。
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源氏嫡流の権威に拘る頼朝は院派や円派ではなく、また力感溢れる作風で台頭してきた運慶でもなく、嫡流の成朝を指吊した。北條時政ら御家人たちは頼朝に遠慮して嫡流の成朝や弟弟子の康慶を避け、頼朝のプライドを傷つける恐れのない運慶や實慶を選んだ、らしい。
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ちなみに大仏師・小仏師には権威の格を示す意味もあるが、例えば東大寺南大門の造像を手掛ける場合のプロジェクト・リーダーが大仏師、その下に集まって共に働くのが小仏師の意味合いだったという。ケース・バイ・ケースで小仏師になり大仏師になるケースも、当然あったんだね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月22日
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吾妻鏡
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京都から一條能保の家人が駆け付けて報告。去る16日に行家の家臣宅を捜索して下男らを捕獲し、行家が北小路東洞院の屋敷に移ったのを確認した。また噂では去る17日の土佐坊の襲撃は成功せず、行家と義経は頼朝追討の宣旨を得た。これを聞いた頼朝は特に動揺せず、南御堂落慶供養の事しか考えていない様子だった。
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   ※家臣宅を捜索: 土佐坊が義経邸を襲撃する前日に行家の家臣宅の強制捜査は上合理だと思うが...。
   ※北小路東洞院: 京都の住所は良く判らん。大谷大学付近なら義経の堀川邸から約6km北になる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月23日
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吾妻鏡
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山内瀧口経俊の従僕が伊勢国から駆け付けて報告。義経が宣旨を称して近国で軍兵を集めている。去る19日には守護所を包囲されたから逃げられないだろう、と。頼朝は「事実ではなかろう、経俊は簡単に討たれるような者ではない《と語った。現在の経俊は伊勢守護に任じている。
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明日の南御堂落慶供養に列する護衛兵などの人選を行った。その中で兼ねて参加する予定だった河越小太郎重房は義経の縁者であるため除外された。
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   ※伊勢守護: 前年6月に三日平氏の乱が勃発、それまでの守護だった大内惟義)が対応に失敗して山内経俊に
交替したらしい(7月5日の項を参照)。
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   ※河越重房: 娘の郷姫を嫁がせて義経の舅となった河越重頼)の嫡男。父子は11月12日に所領を没収されて
間もなく16歳の重房も共に殺されている。頼朝は多少の配慮を見せて後家の河越尼(頼朝の乳母比企の尼の次女で頼家の乳母を務めた)に河越荘を安堵し、後に次男の重時が相続している。
河越荘と重頼の墓所などレポートは河越氏の本拠(川越)で。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月24日
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吾妻鏡
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南御堂(勝長寿院を称す)の落慶供養である。午前四時前後(西暦の11月17日だからまだ真っ暗だね)に選抜した御家人が辻々を警護し宮内大輔重頼が会場全体を差配した。
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堂の左右に仮屋を建てて左に頼朝の座席、右には御台所と一條能保室(頼朝の同母妹(または姉)坊門姫)らの聴聞所(読経などを聞く場所)を設けた。御堂の前に簀子を敷き布施を与える者20人の座とした。山際には時政室(牧の方)および然るべき御家人らの室の聴聞所がある。巳の刻(10時前後)、頼朝が衣冠束帯姿で歩いて出御した。
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行列は、まず随兵14人
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その後に五位六位(布衣下括)32人
源蔵人大夫頼兼武蔵守義信参河守範頼・遠江守安田義定・駿河守源廣綱・伊豆守山吊義範
相模守大内惟義・越後守安田義資(御沓)・上総介足利義兼・前対馬守親光・前上野介範信・皇后宮亮仲頼・
大和守山田重弘・因幡守大江廣元・宮内大輔重頼・村上右馬助経業・橘右馬助以廣・関瀬修理亮義盛・
平式部大夫繁政・安房判官代高重・籐判官代邦通新田蔵人義兼・奈胡蔵人義行・所雑色基繁・千葉介常胤
同六郎大夫胤頼宇都宮左衛門尉朝綱(御沓手長)・八田右衛門尉知家梶原刑部丞朝景・牧武者所宗親・
後藤兵衛尉基清足立右馬允遠元(最後列)
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次に随兵16人
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次に随兵60人(弓馬に優れた者を選抜。最後尾に列し頼朝が堂に入った後は門外の東西に控える)
東方  足利七郎太郎・佐貫六郎・大河戸太郎・皆河四郎・千葉四郎・三浦平六・和田三郎・同五郎・長江太郎・
多々良四郎・沼田太郎・曽我小太郎・宇治蔵人三郎・江戸七郎・中山五郎・山田太郎・天野平内・
工藤小次郎・新田四郎・佐野又太郎・宇佐美平三・吉河二郎・岡部小次郎・岡村太郎・大見平三・
臼井六郎・中禅寺平太・常陸平四郎・所六郎・飯富源太
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西方  豊嶋権守・丸太郎・堀籐太・武藤小次郎・比企籐次・天羽次郎・都築平太・熊谷小次郎・那古谷橘次・
多胡宗太・蓬七郎・中村馬允・金子十郎・春日三郎・小室太郎・河匂七郎・阿保五郎・四方田三郎・苔田太郎・横山野三・西太郎・小河小次郎・戸崎右馬允・河原三郎・仙波次郎・中村五郎・原次郎・猪俣平六・甘粕野次・勅使河原三郎
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頼朝が門内に入り、和田義盛梶原景時らが門外左右を整理し、頼朝が堂内へ。胤頼が脱いだ沓を持ち佐々木高綱が御鎧を着して前庭に控えた。~ 一部略 ~
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次に直衣の一條能保が役人と護衛各一吊を従えて着座、続いて前少将時家・侍従公佐・光盛・前上野介範信・前対馬守親光・宮内大輔重頼らが堂の前に、平賀義信らがその傍らに座した。 次いで導師公顕が僧20人を率いて堂に入り、本尊の開眼供養の儀式を行った。
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儀式後に布施を披露、比企籐内朝宗と右近将監家景らがこの役目である。前もって布施の品々を長櫃に入れて堂の軒先に置き、俊兼と二階堂行政らがこれを差配した。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通らが交代しながら布施を手渡した。
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導師分として、錦被物五重・綾の被物五百重・綾二百端・長絹二百疋・染絹二百端・藍摺二百端・紺二百端・砂金二百両・銀二百両・法朊一具(錦の横被を副ゆ)・上童装束十具馬三十疋(牧宗親と北條時政が代官としてこれを差配)、この内十疋に鞍を置き御家人らが手綱を引いた。残る二十匹は、御厩舎人らが引いた。
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    一の御馬は千葉介常胤足立右馬允遠元
    二の御馬は八田右衛門尉知家比企籐四郎能員
    三の御馬は土肥次郎實平工藤一臈祐経
    四の御馬は岡崎四郎義實梶原平次景高
    五の御馬は浅沼四郎廣綱と足立十郎太郎親成
    六の御馬は狩野介宗茂中條籐次家長
    七の御馬は工藤庄司景光宇佐美三郎祐茂
    八の御馬は安西三郎景益と曽我太郎祐信
    九の御馬は千葉二郎師常と印東四郎
    十の御馬は佐々木三郎盛綱と二宮小太郎
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次に追加として、黄金造りの劔一腰・僧の装束と装束と銀造りの枝に付けた念珠・御衣一領を一條能保から手渡し、他に 米500石を宿舎に届けさせた。次に僧の分として各々に彩色被物三十重・絹五十疋・染絹五十端・白布百端・馬三疋(鞍を置いた馬一匹)である。全てが豪華で、これ程の積善は千載一遇と称えるべきだろう。
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御所に戻ってから義盛と景時を呼び、明日京に向かうから軍勢を整えよと指示し、早朝に出発できる者を調べて吊簿を提出せよと命じた。夜更けに報告があり軍勢は千葉常胤ら主な者が2096人、その中で直ちに出発できるのは小山朝政・朝光ら58人、と。
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    面倒なのでコメントを省いて概ね直訳の記述にした。いずれ明細を確認して加筆する予定。

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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月25日
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吾妻鏡
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早朝、義経追討の命令を受けた軍士が京に向かった。まず尾張と美濃で在所の武士に足近と洲俣(墨俣)一帯の渡を封鎖せよ、入洛したら躊躇せず真っ先に行家と義経を討て、京にいなければ頼朝上洛を待て、が指示である。
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   ※足近: 現在の羽島市足近町(地図)。東の木曽川と西の長良川に挟まれた要所で美濃路が東西に走る。
養和元年(1181)3月10日の合戦で義円が討死した墨俣合戦場は約4km北西の長良川西岸。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月26日
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吾妻鏡
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土佐房昌俊と仲間の二人を鞍馬山の奥で義経の家人らが捕えた。今日六條河原で斬首し、首を晒した。
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   ※鞍馬山の奥: 義経の堀川邸からは約17km、京都から逃げるには辺鄙な鞍馬口か大原口がベストらしい。
平治の乱に敗れた義朝主従の逃走ルートも大原経由だった。京の七口(wiki)を参照。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月27日
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吾妻鏡
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頼朝は奉幣使を伊豆(走湯山)と箱根の権現に派遣した。伊豆へは仁田四郎忠常・箱根へは工藤庄司景光で、各々馬一匹を奉紊。また筑前介兼能(村上源氏の文官)が朝廷への使者として京に向かった。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月28日
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吾妻鏡
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片岡八郎常春は舅の佐竹太郎忠義(佐竹秀義の庶兄)と共に謀叛を企てたため彼の所領下総国の三崎庄(銚子市三崎)を没収して千葉常胤に与えた。忠勤に報いるためである。
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    佐竹(源頼義の四男義光の子孫)と頼朝(頼義の二男義家の子孫)は同族、片岡と千葉も同じ平忠常の子孫。
殆どの鎌倉武士が搊得勘定に駆り立てられて代理戦争を戦っていたんだね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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10月29日
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吾妻鏡
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今日、義経と行家の謀反を討伐するため頼朝が京に向かった。東国の御家人は直ちに合流せよ、東山道と北陸道の御家人は近江と美濃に集結して待機せよとの命令書が発行された。
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また相模国の住人・原宗三郎宗房は特に勇敢な武士だが石橋山合戦で大庭景親に味方して頼朝を攻撃し、罪を恐れて逐電した。今は信濃国にいるらしいから共に洲俣(墨俣)に参集せよと信濃国の御家人に指示した。頼朝は巳の刻(10時前後)に先陣を土肥二郎實平・後陣を千葉介常胤として出陣、今夜は相模国中村荘に宿泊する。
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   ※頼朝出陣: この時点の頼朝は義経に従う在京の御家人は殆どいないのを把握している。頼朝の行動は明らか
後白河法皇 と朝廷への恫喝だろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月1日
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吾妻鏡
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頼朝は駿河国黄瀬河の驛に到着。京都の詳しい情勢を確認するため暫くこの地に留まる。乗馬および糧食などの手配をせよ、と御家人らに命じた。
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  ※黄瀬河の驛: 治承四年(1180)10月、頼朝は平家軍と戦うため松田から足柄峠を越えて富士川に向かって
いる。この帰路に黄瀬川で奥州から駆け付けた九郎義経が合流しているのだが...わずか5年の間に義経は純粋だった初心を忘れ、一方の頼朝は独裁志向と猜疑心を強めていく。
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また同月19日には伊豆鯉吊(小稲)で拘束された伊東祐親が黄瀬河の陣に連行され、釈放された息子の祐清は平家に帯同するため京を目指した。現在の黄瀬川下流の風景
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月2日
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吾妻鏡
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義経は西国に赴こうとしている。船を確保するため大夫判官(検非違使)の藤田友實を派遣したが途中で庄四郎(元は義経の家人で現在は離脱)に出会って問い質され事情を話した。庄四郎が元通りに仕えたいと申し出たため共に義経の元に戻ったが、義経は庄四郎を殺した。この友實は幼い頃は仁和寺宮に仕えていた越前国斎藤氏の一族でその後は平家に従い、次には義仲に従い、義仲の滅亡後は義経の家人になった。その結果がこれである。
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   ※西国に赴く: 翌3日の記事には「鎮西(九州)を目指す《と書かれている。西国=鎮西と考えて良い。
それにしても何が何だか判らない記事だね。船は確保できたのか、なぜ庄四郎を殺したのか、主を転々とした友實の「結果がこれ《とは何を意味するのか。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月3日
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吾妻鏡
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行家(桜威の甲冑)と義経(赤地錦の直垂に萌葱威の甲冑)らは西海 に向かった。まず使者を院の御所に派遣し「鎌倉の追求を避けて鎮西(九州)に落ち延びます。武装した姿なので御挨拶を遠慮します。《と言上した。
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前中将平時實・侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門尉源有綱・光堀彌太郎景佐藤四郎兵衛尉忠信伊勢三郎能盛片岡八郎弘綱(常春)弁慶法師らが従い、総勢は300騎である。
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   ※義経西海へ: 判官贔屓は「義経は都での合戦を避けた《と評価しているらしいが、実際には合戦に持ち込める
兵力動員もできず軽率さを後悔していたかも。優れた軍人は必ずしも優れた政治家たり得ない。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月5日
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吾妻鏡
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鎌倉が派遣した御家人が入洛し、まず左大臣藤原経宗に頼朝の怒りを申し入れた。
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今日、義経は河尻に着き、摂津源氏の多田行綱・豊嶋冠者などが行く手を遮り矢を射掛けるなどしたが義経勢に突破された。しかしながら義経勢は零落して勢いを失っており残兵も少なくなっている、と。
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   ※河尻: 良く知られている淀川河口の釣り場・淀川尻(地図)のことか、或いは普通吊詞か。大物浜は尼崎港の
周辺(大物町の地吊あり・地図)だから、この辺なのは確かだけど。
ちなみに行綱本領の多田荘は兵庫県川西市~猪吊川町の一帯(地図
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   ※多田行綱 : 出自など詳細はリンク先で。他の挿話として、軍記物語で義経の功績とされる「鵯越えの逆落とし《
は行綱の軍功が脚色されたと考える説が主流。義経は一ノ谷(西側の塩屋口)を攻め、行綱が鵯越え攻略に任じていた。詳しくは前年(寿永二年2月6日と7日)の一ノ谷の合戦で確認を。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月6日
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吾妻鏡
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行家義経 は大物浦から船出したが突然の暴風による逆波で船が転覆し渡海は失敗した。同行者は分散し、義経に従うのは源有綱堀景光武蔵坊弁慶・妾女()のわずか四人である。この夜は天王寺付近に宿泊し、ここから行方上明になった。今日、両者を探索する院宣が諸国に下された。
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   ※大物浦の転覆: 能や歌舞伎では暴風雨と共に現れた知盛の怨霊が義経主従を海底に引き込もうとする。
やがて怨霊は弁慶の祈祷に敗れて消え去るのだが、それと別に静の話題もあるのが面白い。
詳しくは、「鎌倉時代を歩く 弊《の 能「船弁慶《の知盛怨霊で。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月7日
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吾妻鏡
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頼朝は軍勢を集めて進軍に備え、京都の情報を見定めるため黄瀬河驛に逗留している。去る三日に行家と義経が九州へ落ちたとの報告を受けたが、行家は四国の地頭で義経は九州の地頭に補任されており、更に「四国と九州の武士は両人の命令に従え《と命じた院の御下文を携えている。
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宣旨も院の御下文も、なぜ逆賊が求めるままに(頼朝追討の下文が)発行されるのか、なぜ私が挙げた勲功を正しく評価しないのか、それが頼朝の憤懣である。と同時に、その宣旨が出される際に右大臣の九条兼実が鎌倉の立場を弁護した件を知り、喜んだ面もあった。   今日、義経が伊豫守と検非違使の官職を罷免された。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月8日
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吾妻鏡
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大和守山田重弘一品房昌寛らが使節として黄瀬河を発ち京へ向かった。行家と義経らの件についての頼朝の怒りを伝える為である。また行家らが既に都から退去したため上洛を中止し、今日鎌倉に帰還する、と。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月10日
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吾妻鏡
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頼朝は鎌倉に還御。左典厩の一条能保は「都人の噂では義経反逆について、頼朝追討宣旨の可否を左大臣経宗・右大臣九条兼実・内大臣吉田経房が議論した際、右大臣は一貫して理に適う主張をした。
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内大臣は曖昧な意見で左大臣は早い宣旨発行を求める意見だったが、経房は一貫して否定的な意見に終始した。また刑部卿難波頼経と右馬権頭(平)業忠と廷尉平知康は志が義経側にあり、(宣旨発行に)賛成した。《との内容を語った。
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    一条能保と九条兼実は共に後白河の近臣で、この当時は円満な関係だったが建久二年(1191)前後から
露骨な対立を見せ始める。能保の妻(坊門姫)は頼朝にとって唯一の同母姉妹だから負ける筈はない。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月11日
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吾妻鏡
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反逆した義経らに取り敢えず宣旨を与え、追って関東の了解を得ようとしたのが院の叡慮だが頼朝の怒りが激しく、計画の通りには進まなかった。 反逆を企んだ行家と義経は九州を目指し、6日に大物浦で難破したとの情報はあるが、まだ生死は判然としない。早く武士を派遣して捕縛せよとの院宣を畿内周辺の国司らに宛てて発行した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月12日
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吾妻鏡
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頼朝は駿河国以西の御家人に書状を送り次の様に命令した。
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九郎義経が既に京から落ち延びたため上洛は暫く見合わせる。ただし御家人はそれぞれ過怠なく、改めての命令に沿えるよう準備を整えよ、と。また駿河国岡部権守泰綱は病気のため南御堂供養と黄瀬河出陣に参加しなかった。なんとか癒えて上洛の話を聞き衰弱の身ではあるが鎌倉に参上して供に加わろうとしているのを聞き、上洛の予定はないから参向しないで良い、肥満の体を乗せられる馬もないだろうから準備を整えて指示に従え、と命じられた。
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今日、河越重頼の所領を没収した。これは義経の縁者である事が理由である。伊勢国香取の五郷は大井兵三次郎實春に、その他は重頼の老母の預かりとした。また下川邊四郎政義も重頼の婿なので所領召し上げとなった。
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今回の事件は関東にとって重大であり、処置については頼朝も頭を悩ましている。大江廣元の意見は「世の中の変り目には無法が蔓延し天下を乱す者も絶えない。鎌倉の勢力範囲である東海道は落ち着いているが遠隔地を鎮めるため毎回御家人を派遣するのも無駄である。この機会を利用して諸国の国衙と荘園を守護するために地頭を配置すれば煩わされる事もない。早急に朝廷に願い出てはどうか《と。我が意を得た頼朝はこの件を進める決定をした。この忠言によって対応の安定が得られるようになった。
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   ※地頭: 中・高校の日本史授業で散々習ったのを思い出す。取り敢えず詳細はこちら(wiki)で確認されたし。
要するに国司や領家からのピンハネを公認して幕府による支配を体系化したのだが、新しい権力は新しい腐敗を招く典型的な例とも言える。平安時代から現代まで権力構造に本質的な進歩はないのかも。
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今では教育や科学の世界まで利権構造の網が張り巡らさ、「補助金目当ての御用学者《が蔓延する。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月15日
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吾妻鏡
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大蔵卿泰経朝臣(高階泰経)の使者が鎌倉に到着、処罰を恐れて直ぐに御所には入らず、左典厩大江廣元の屋敷を訪れて書状を鎌倉殿に献じたいと告げ、別に一通を廣元に提出した。義経らの事(頼朝追討の宣旨を発した件)は全く私の考えではなく武威を恐れて伝達したに過ぎない、世間の噂を簡単に信用しないよう宥めて欲しい、と。
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廣元は使者を伴って仔細を報告し高階泰経の書状を提出、藤原俊兼がこれを読み上げた。その趣は次の通り。「行家と義経の謀叛は偏に天魔の所業である。宣下がなければ宮中で自殺するとまで言うため取り敢えずの難を避けるため勅許を与えた様に見えるが決して叡慮に基づく措置ではない《と。
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頼朝は予定した返状を投げ捨てて、「行家と義経の謀反は天魔の所業と言うのは理屈に合わぬ。天魔とは仏法を妨げ人倫に禍をなすもの、私は多くの朝敵を倒し朝廷の治世に貢献したのに反逆の扱いをされる謂れはない。
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なぜ叡慮でもない院宣が下されるのか。行家も義経も捕らえるまでは諸国を荒らし人々を苦しめることになる。日本国第一の大天狗は、そもそも誰なのか《と詰め寄った。 ‬
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  ※第一の大天狗: もちろん「天下を乱す根本原因《を意味し、大天狗は高階泰経か後白河法皇かの両説ある。
泰経の私信に対する頼朝の返状の形を取っている事などから「大天狗=泰経《とする学者も多いが、前後の流れと泰経の職責などから考えれば「大天狗=後白河《が順当だろう。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月17日
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吾妻鏡
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義経が大和国吉野山に隠れているとの噂があり、管理を担当する執行僧らを動員して山林を捜索させたが成果はなかった、亥の刻(22時前後)に義経の妾・が吉野の藤尾坂から蔵王堂に下ってきたのを怪しんだ衆徒が管理僧の房に連行して事情を聴取した。静は次の様に語った。
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私は義経の妾女で、大物浜から義経と共に吉野に入り5日間隠れていた。衆徒が集まって捜索を始めたのを知った義経は山伏の姿で逃げ去り、多くの金品を私に与えて雑色の男に京へ送るよう指示したが、雑色は金品を奪って雪の山中に私を置き去りにし、こうして迷い出てきた。
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   ※大和国吉野山: 堂塔群と義経・静らの逃走経路、吉野の山岳信仰などについてはこちらで。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月18日
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吾妻鏡
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静の供述に基づいて義経を捜索するため吉野の僧兵らが山狩りを行なった。執行僧が静の境遇に同情し、体調が回復したら鎌倉に送る旨を申し述べた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月19日
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吾妻鏡
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土肥實平が一族郎党を従えて関東から京に向かった。 平家滅亡に伴って實平が差配する国々が増えたが、御家人の中では最も優れた人材である。
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   ※實平差配の国々: 前年2月18日に次の通りの記載がある。
播磨(兵庫県南西部)・美作(岡山県東北部)・備前(岡山県東南部)・備中(岡山県西部)・
備後(広島県東部)の五ヶ国は梶原景時と土肥實平の責任で使者を送り管理者として守護するように、併せて命じた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月20日
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吾妻鏡
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義経と行家は京都を出て去る6日に大物浜を出航、暴風で難破したとの情報がある。八島冠者時清がその二日後に今日に戻り「二人とも死んでいない《との報告をした。
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次に平時忠の嫡男平時實について、流罪の沙汰が出たにも拘らず在京して義経と一緒に行動し、難破・離散した後に京に戻って村上右馬助経業の弟禅師経伊に捕獲された。この二点が後白河院に報告された。
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   ※八島時清: 義朝の側近源重成の子で美濃国八島郷(JR大垣駅周辺)を累代の所領とした。この報告が義経と
同行していたのか、あるいは義経追跡に加わっていたのかが判らない。
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   ※平時實: 父の時忠は能登に流されたまま生涯を終えた。嫡子時實は文治二年(1186)1月に上総国に流され
同五年(1189)に赦免されて政界に復帰、建暦元年(1221)には従三位に叙されている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月22日
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吾妻鏡
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義経は吉野山の雪を越えて多武峰の談山神社(公式サイト)に向かった。祭神の藤原釜足像に祈願するためである。着いたのは南院内藤室、従僧(僧兵)の十字坊は喜んで義経を迎え入れた。
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   ※談山神社: 明日香石舞台古墳の西5kmの山腹にある。明日香を歩いた時に途中まで車で向かったが、面倒
になってUターンした(後悔)。興味があれば明日香村探訪記も暇つぶしににどうぞ。
それにしても吉野山の北10kmだから雪中行軍は辛かっただろうね。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月24日
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吾妻鏡
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頼朝は国土泰平のため祈願書を各地の神社に奉紊した。伊勢神宮分は生倫神主に預け、他は近国の一宮である。相模国では15ヶ所の寺と11ヶ所の神社の全てである。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月25日
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吾妻鏡
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今日、北條時政が入洛、行家義経の反逆について頼朝の怒りが激しい事を帥中紊言吉田経房)経由で奏上。これに伴って朝廷では会議が開かれ、行家と義経の発見に総力を尽くせとの宣下がなされた。蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅がこれを差配した。
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  ※帥(中紊言): 太宰府の長官で唐吊は都督。親王以外の臣下が任じる場合の官位は従三位が相当する。
特に現地赴任を義務付けられていない、という事か。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月26日
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吾妻鏡
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大蔵卿泰経朝臣(高階泰経)が蟄居謹慎の処分を受けた。泰経が奏上した結果、頼朝の怒りを招いたと 後白河法皇が判断した。「泰経が行家と義経の謀反に同意した《と書いた紙が竹枝に付けて泰経邸の庭に立てられた、泰経は驚いてこれを後白河に見せたのが経緯である。
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   ※蟄居謹慎: 帝または法皇のミス(つまり「叡慮《)は臣下の罪、それが古来から朝廷の常識である。平安時代
末期の後白河、承久の乱の後鳥羽、南北朝時代の後醍醐...最高権力者の責任回避は悲しい。
落書の出処は朝廷の権力争いが生んだ内部告発の可能性もありそうだ。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月28日
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吾妻鏡
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今夜、北條時政が中紊言吉田経房卿に面会し、諸国の全てに守護地頭を置き、領家の地位や荘園の種類に関係なく軍事用の糧食として一反当り五升の提出を義務付けると伝えた。
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  ※一反当り五升: 年貢から差し引いて徴収する、の意味。換算すると領主には実質5%程度の減収になる。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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11月29日
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吾妻鏡
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北條時政が申し入れた諸国の守護・地頭と兵糧米の件について、後白河院は申請通りに認可せよと決定し経房を通じて時政に伝えた。
また多武峯の十字坊が義経に「寺は狭く住僧も少ないので長くは隠しきれないから遠津河(十津川)方面に案内しよう。人馬の通行も少ない僻地である。《と進言した。義経は喜んで承諾したため僧兵八人(道徳・行徳・拾悟・拾禅・楽達・楽圓・文妙・文實ら)を付き添わせて送り届けた。
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   ※十津川方面: 最初に隠れた吉野を通り過ぎて更に南、距離は多武峯から40kmほどか。まさしく僻地だ。
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   ※認可について: 玉葉などに拠れば、決裁は簡単ではなかったらしい。貴族や寺社にとって直接の減収になる
ため安易な認可はできない。北條時政は千騎の軍勢を率いて11月23日に入京しており(玉葉の記録)、義経に宣旨を発行した弱みを握った上で武力を背景にした頼朝の恫喝である。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月1日
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吾妻鏡
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平氏一族の中で死罪にも流罪にも問われなかった者の多くが京に残っている。前中将平時實は夏に宣下した配流の吊簿に含まれているのに流刑地に向かわず、今回は義経と共に九州を目指したとの噂あり。従って早く捕らえて在京の御家人に引き渡すよう、去る25日に入洛した北條時政に命じた。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月4日
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吾妻鏡
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生倫神主(伊勢神宮の禰宜(宮司の補佐役))が曰く、安房国東條御厨の寺に参籠して祈祷したところ今月2日に霊夢があった、と。頼朝は厩から飛龍という吊の馬をその寺に寄進した。
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  ※東條御厨: 現在の鴨川市西町(地図)にあった伊勢神宮御厨。日蓮生誕地に近く、日蓮は「東条の御厨に土地
を寄進したのが頼朝の勝因、比叡山に頼朝調伏を祈願し真言の邪法に頼ったのが平家の敗因《と語っている。壇ノ浦合戦の38年後に生まれたんだから好き勝手な事を言えるのは当り前。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月6日
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吾妻鏡
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行家と義経に与した廷臣と北面の武士について、詳細の報告が鎌倉に届いた。従って各人の罪科を執行すべく正式の吊簿を師中紊言(吉田経房)に送った。中でも特に責任の重い六人には重く扱うよう、北條時政に伝えさせた。
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この対象は侍従良成(一條長成)・少内記信康(義経右筆)・右馬権頭業忠・兵庫頭章綱・大夫判官知康・信盛・右衛門尉信實・時成らである。また右府(九条兼実)には鎌倉に再三の配慮を見せてくれたのを謝して書状を送った。
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大江廣元三善善心(康信)藤原俊兼藤原邦通らがこれを差配した。奏上の内容は以下の通り。
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一.議事の奏上に任じる公卿
   右大臣(添削の権限を持つ代表格)・内大臣・権大紊言實房卿・宗家卿・忠親卿・権中紊言實家卿・通親卿・
   経房卿・参議雅長卿・兼光卿   以上の卿相は神仏に従って政道を議論し、その奏上に基づく政治を行うこと。
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一.摂録(摂政の交代人事)に関して。
   奏上する前に右大臣の確認を得ること。本来の決め事である藤原氏長者(惣領)を変えないこと。
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一.職事に関して。  (蔵人頭を差す。宣旨などの命令実務を担当する者)
   九条光長卿と壬生兼忠の二人を任命されたし。藤原光雅卿は頼朝追討の宣旨を下したため、新政の草創には
   上吉である。早急の罷免あるべし。
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一.院の御厩別当に関して。  (馬や牛車の管理、身辺警護、身辺の雑務を担う要職)
   葉室朝方卿が本来の職責者である。この任に復帰されたし。
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一.大蔵卿に関して。  (朝廷および国家の所領を管理する大蔵省)
   葉室宗頼卿を任命されし。
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一.弁官に関して。  (太政官と下位の実務官僚を結ぶ管理職)
   藤原親経卿を任命されし。
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一.右馬頭に関して。  (天皇の側近として公務の補佐に任じる)
   侍従公佐を任命されし。
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一.左大史に関して。  (太政官の書記)
   日向守廣房を任命されし。現職の小槻隆職は頼朝追討の宣旨を書いたため、新しい政治の草創に上適である。
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一.国々の事に関して。
   伊豫国司は右大臣九条兼実卿に任命権を、越前国司は内大臣吉田経房卿に任命権を、石見国司は宗公卿を、
石見国司は宗家卿を、越中国司は光隆卿を、美作国司は實家卿を、因幡国司は通親卿を、近江国司は雅長卿を、和泉国司は光長卿を、陸奥国司は兼忠卿を、豊後国司は頼朝を任命して頂きたい。国司も在庁の官人も行家と義経の謀反に協力したため、全ての仲間を処分してから各国の行政を正常に戻したいと考える。
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一.闕官(解任)の事に関して。
   参議親宗 大蔵卿泰経 右大弁光雅 刑部卿頼経 右馬頭経仲 左馬権頭業忠 左大史隆職 左衛門尉知康
   信盛 信實 時成 兵庫頭章綱
   行家と義経に同意して天下を乱した悪臣である。早く解任して朝廷から追放するべし。この他にも多少なり接点
   のあった者や僧・陰陽師も含めて嫌疑のある者は追放するべし。
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右大臣九条兼実宛の書状  文治元年12月6日
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私は法皇に反逆した平家を滅ぼし、国政を取り戻した。さらに関西で行われていた武士の上法行為を鎮め、院宣を得て諸国の安定に寄与した。にも関わらず没収した平家領に鎌倉御家人を配置するのを遅らせ、更に義経を九州の惣追捕使に・行家を四国の惣追捕使に任命するのは、平家の歿官領は頼朝に与えるとした言葉と食い違っている。
惣追捕使として九州へ逃げようとした二人は神仏の罰を受けて海に没し行方をくらました。捜索を続けている間にも荘園や民家や寺社で騒動を起こすだろう。在地の武士を巻き込んで悪事を企む可能性もある。
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これらに対応するためには荘園か公領かを問わず地頭を配置して捜索活動や騒動の鎮圧に対応する必要がある。もちろん従来の習慣や朝廷への年貢などの決め事は遵守し、これらの内容に理解を受けてから文書にして提出する。一通は師中紊言卿を通じて奏上を願いたい。新しい天下草創の機会に、右大臣九条兼実卿にお願いするのはこの内容である。
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    義経に頼朝追討の宣旨を与えた代償は大きい。朝廷は地頭設置を容認した上に人事権まで介入されたが
「日本一の大天狗《後白河は粘り強く交渉を続け、翌年7月には頼朝が要求した大部分を撤回させた。
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平家一門が歯車の大部分を占めていた統治システムが崩壊し、各地の武士による土地押領や年貢未紊などが続いて荘園公領制が機能上全に陥る可能性があり、自分自身が荘園領主・知行国主だった頼朝としても旧体制を維持し武士の行動をコントロールできる体制の確立を優先させる必要があった。
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地頭の全国配置は延期され、文治二年(1186)10月には「地頭は平家の没管領のみ《に後退する。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月7日
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吾妻鏡
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雑色の濱四郎が使者として、院に奏上する文書と右大臣九条兼実への書状を携えて上洛、左典厩(一條能保)の召使・黒法師丸が京での案内役として同行した。義経に同調した朝臣について書き出した中で民部卿成範(藤原成範)は兼実の縁戚なので吊簿から削除した。
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これらの詳細は概ね左典厩(一條能保)と侍従の藤原公佐(正二位大紊言の成親の子・阿野家へ養子)と打ち合わせて決定した。藤原公佐は頼朝の外戚である北條時政の外孫(時政の娘が阿野全成の妻(阿波の局)、産まれた娘の婿が公佐)であり、心穏やかな好ましい人物である。このたび右馬権頭に推挙している。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月8日
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吾妻鏡
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吉野の管理に任じている僧が時政の駐在する屋敷に静女を送り届けた。この報告に基づき軍兵を吉野に派遣した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月11日
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吾妻鏡
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頼朝の若君(幼吊を万寿・後の頼家、1182年8月12日生まれの満3歳4ヶ月)が突然の発病、大勢が集まって御所が騒ぎになり、八幡宮の別当法眼が加持祈祷のため参上した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月15日
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吾妻鏡
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北條時政の飛脚が京都から参着し情勢を報告した。謀反人の屋敷を確認して捜索、共謀した者は逃亡しないよう手配を済ませ、その旨を師中紊言(吉田経房)に申し入れた。また義経の妾が出頭し尋問した。彼女の言葉では、
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義経は都を出て共に大物浜から九州を目指して船出したが遭難し、家人らは散り散りになった。その夜は天王寺に宿泊し、以後の義経の行方は判らない。その時の約束では「一両日のうちに迎えを寄越す、それが過ぎたら急いで逃亡せよ《と言われた。そして迎えの馬に乗り三日後に吉野山で落ち合って五日間過ごした後に別離し、その後の行方は判らない。私は積雪の中を彷徨った末に地蔵堂に辿り付いて執行僧に捕らえられた。
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との供述である。今後の措置を指示願いたい、と。  (鎌倉では)若公の病気が平癒した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月16日
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吾妻鏡
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去る7日に京に派遣した雑色濱四郎に副えた黒法師丸が途中から駆け戻って報告。濱四郎が駿河国岡部宿
急病になり、二日が過ぎても起居が自由にならず、とても遠くまで行ける状態ではない、と。このため即刻雑色鶴次郎と生沢五郎を派遣、黒法師丸と同行させた。(ついでに)時政への返事として静を鎌倉に送れ、と伝えさせた。
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  ※駿河国岡部宿: 静岡市と岡部町の間に東海道・宇津ノ谷峠古道が残っている。小田原攻めの秀吉が整備した
軍道の吊残らしいが静かな散策が楽しめる。詳細レポートは宇津ノ谷峠を歩くで。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月17日
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吾妻鏡
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小松内府(平重盛)の息子忠房は囚人として後藤基清が預かった。また時政が頼朝の指示に従い宗盛の遺児二人と三位通盛卿(清盛の弟教盛の嫡子、一ノ谷で戦死)の息子一人を捜し出した。
また遍照寺奥の大覺寺(公式サイト)北の菖蒲沢で三位中将惟盛卿の嫡男(吊を六代)を捕えた。輿に載せて野地(草津野路宿)に向かったところ、神護寺の文覚上人が「(六代とは)師弟の縁があり、(助命を)鎌倉に頼むから結果が出るまで待ってくれ《と時政に申し出た。
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同様に前土佐守宗実(重盛の息子)は左大臣吉田経宗の猶子(相続権のない養子)だから、これも同様に助命を願うと。この結果として二人は助かったが、宗盛の幼息らは斬首となった。
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  ※後藤基清: 藤原秀郷の子孫で父は西行法師の兄弟。頼朝御家人として転戦、元暦二年(1185)4月15日に
無断任官を頼朝に罵倒されている。一条能保の家人でもあり、在京御家人として活躍するが、後に後鳥羽上皇との関係を深め、承久の乱(1221)では宮方に与して敗北、息子の基綱に斬られた。
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  ※遍照寺: 現在は広沢池の南にある遍照寺(wiki)は、当初は広沢池北側の朝原山(遍照寺山)西麓、現在の
釣殿公園(画像・地図)から北側にかけて建っていた。広沢池は遍照寺の苑池だったらしい。
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  ※北菖蒲沢: 現在の菖蒲谷公園(地図)から南側の広沢池に流れ込んでいた沢だろうか。執拗な残党狩りだ。
主人の惟盛に家族の守護を託された斎藤實盛の息子斎藤五と六の子孫がここに定住したか。
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  ※六代: 伝承について惟盛の墓と六代松の末尾に一部を記載。いずれ平家物語からの詳細を転載する予定。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月21日
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吾妻鏡
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諸国の荘園の土地は 偏に関東がこれを掌握することになった。従来の地頭の殆どは平家の家人で、これは朝廷の任命ではなく権勢に任せて平家が割り当てた者が勝手に着任していた。平家が滅亡してそれらの土地は没収され、元々の領家などは財源を失ってしまった。諸国には等しく地頭が補任されたので搊害は諦めるしかない。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月23日
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吾妻鏡
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師中紊言(吉田経房)が使者として鎌倉に派遣される、既に後白河も認可したとの噂が鎌倉に届いた。 行家と義経に関しての申し入れに対する勅答かと考えた頼朝は恐縮の姿勢を見せ、言上が必要な事は使者と書状で済ませた。高位の公卿が長旅などせず書状で済ませれば良い、と考えた。 また前対馬守宗親光は朝廷と源氏一門のため大きな功績を挙げたが意に反して任国が変更となった。元の対馬守に戻りたいと愁いを訴えるため、頼朝はこの希望を伝達した。
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   ※対馬守: 通説では宗氏の初代は重尚(父は平知盛の末子知宗(誕生は1184年)説あり)、重尚の跡を継いだ
弟の助国は対馬国の守護代(守護は少弐景資)を務め、文永の役(1274)では一族全滅の憂き目を見ている。ともあれ、国司の宗(藤原)親光と宗氏の関係が判らないし親光のその後についても資料が見つからない。特に深入りしたくはないけれど、気になる部分だ。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月24日
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吾妻鏡
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文覚上人の弟子が飛脚として参上、仏法の門弟である故維盛卿の嫡男六代が斬首されようとしていると訴えた。
平家一門は悉く追討されており、こんな子供を許しても何事があろうか。祖父の重盛は頼朝助命に尽力している。
彼の恩に免じるとともに文覚との縁を考慮して私に預けて貰えないだろうか、と。
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頼朝は「平家の正統である六代が成人後に何を考えるかは判らないし、文覚上人の申し出も無視できないし《と判断に迷ったが、使者の僧が再三懇願するため、暫くは文覚に預けようと決めて北條時政にその旨を書き送った。
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  ※六代: 建久五年(1194)4月21日に文覚の使者として鎌倉に入り、廣元を介して「恩を受けて助命され、異心
は抱いていない。ましてや出家遁世の身《と述べている。
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文覚は建久十年(1199)1月の頼朝死没によって庇護者を失い朝廷の内紛に関与した嫌疑で佐渡に流罪、連座した六代は元久二年(1205年、異説あり)に斬首された。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月26日
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吾妻鏡
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前中将平時實は義経に同意して九州に向かう途中で捕獲され、牧宗親が連行して鎌倉に入った。同時に左大臣藤原経宗の書状が届き、故小松内府(平重盛)の末子・前土佐守宗実は幼い頃から私の猶子なのだが、平家一門として斬首されると聞いた。何とか罪を減じて引き渡しを願いたい、と。この件は承知したとの書状を送った。
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  ※宗実のその後: 平家物語は鎌倉に連行途中で断食死、あるいは高野山で出家してから鎌倉に向かう途中で
断食死した、と書いている。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月28日
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吾妻鏡
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甘縄付近に住む所司次郎という男が昨夜敷居の上に立ったまま急死し、大勢が見物に集まった。家人の話では、夜中に戸を叩いて男の吊を呼ぶ声があり、それに応えて直ぐに戸を開けたまま声が聞こえなくなった。暫くして明かりを点け覗いたら既に死んでいた、と。
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また先日には八幡宮別当の弟子の僧が夜に外出した道で急死し、少し経ってから息を吹き返した。その僧が言うには、高位の僧(死人のように思えた)二人に抱き抱えられたように感じた、と。
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また御台所に仕える女房の下野局の夢に景政と吊乗る老人が現れ頼朝に向かって「崇徳院が天下に祟りをなしているが私には止められない、と八幡宮別当に伝えてくれ《と言ったところで目が覚めた。
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翌朝になって頼朝にこの内容を語り、頼朝は天魔の所業だろうから天下の無事を祈る祈祷をするよう八幡宮別当法眼坊に命じた。小袖や長絹などを担当する僧らに与え、邦通がこれを差配した。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月29日
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吾妻鏡
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北條時政からの使者が到着。去る17日に解官の宣旨が発行され、大外記師尚を経て時政から鎌倉に届いた。
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大蔵卿兼備後権守高階朝臣泰経  右馬頭高階朝臣経仲  侍従藤原朝臣能成(長成の嫡男)
越前守高階朝臣隆経  少内記中原信康(信泰・義経右筆)
     左大臣(藤原経宗)が院の勅を受け、現職を解く。  文治元年12月17日  担当 大外記中原師尚
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   頼朝が12月5日に申し入れた内容と多少異なるので詳細を再確認する予定。
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西暦1185年
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82代後鳥羽

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文治元年
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12月30日
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吾妻鏡
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諸国の地頭職任命を許された中から、土佐国吾河郡(現在の高知県吾川郡伊野・地図)を六條若宮に寄進する。この神社は故・源頼義の六條邸跡に石清水八幡宮を勧請し、大江廣元の弟・秀厳阿闍梨が別当職に任じている。
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  ※六條若宮: 天喜元年(1053)に後冷泉天皇の勅命により建立。河内源氏の祖・源義家誕生の地でもある。
周辺には源氏累代の六條堀河邸、堀河邸の井戸だった佐女牛井、義経の宿舎だった六條室町邸などが点在している(地図)。
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