文治二年(1186年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月2日
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吾妻鏡
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頼朝と御台所(政子)が甘縄神明宮に参拝した。帰路の便宜などを考えて安達籘九郎盛長の屋敷に入った。
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  ※甘縄神明宮: 甘縄神社と安達邸跡のレポートはこちらで。
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   右画像は甘縄甘縄神明宮の参道入口。
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宝治元年(1247)の4月、隠棲していた高野山から25年ぶりに鎌倉に戻った安達景盛(盛長嫡子)に叱咤された嫡子義景と嫡孫泰盛が軍勢を引き連れて三浦邸へと出陣(宝治合戦)したのもこの邸である。
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皆殺しにした三浦一族の怨霊を鎮めるため屋敷の裏山に大仏を建立...そんな伝承も残る。
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興味があれば極楽寺坂から小町口へも参考に。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月3日
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吾妻鏡
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去年従二位に叙されたが頼朝はまだ直衣(高位の平服・詳細はwikiで)着初めの儀式をしていない。義経謀反によって世の中は落ち着いていないが、民衆を安堵させるため今日この儀式を行った。
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左典厩(一條能保)と平時家を伴って鶴岡八幡宮に参拝、武蔵守(平賀)義信・宮内大輔(藤原)重頼・駿河守 (伏見(藤原)廣綱・散位源頼兼因幡守(大江)廣元・加賀守(源)俊隆・筑後権守藤原俊兼・安房判官代高重(?)・籐判官代藤原邦通・所雑色基繁(?)・千葉介常胤足立右馬允遠元・右衛門尉朝家 (八田知家)・散位(千葉常胤の六男・東胤頼ら、および武装の随兵十人(下記)が従った。
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  武田兵衛尉有義板垣三郎兼信工藤庄司景光・岡部権守泰綱・渋谷庄司重国・江戸太郎・市河別当行房
  小諸太郎光兼・下河邊庄司行平小山五郎(長沼)宗政
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還御後に会食。参拝の際に供の者は前庭の左右に分かれて列座し、胤頼は父の常胤に相対して少し下座に寄って座った。見る人は感心しなかったが、これは頼朝の意向である。朝廷が父の常胤を六位・子の胤頼を五位に叙しているのは、平家が全盛の頃に大番役で京にいた胤頼は平家に頼らず、遠藤左近将監持遠の推挙を得て上西門院に仕え五位を得た。また同じく持遠の縁で神護寺文覚上人の仏弟子となり、文覚伊豆流罪の際に二人が心を合わせて挙兵を進言、父の常胤を真っ先に参陣させた功績は兄弟六人の中で最も優れている、と頼朝は語った。
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   ※従二位: 叙されたのは4月27日、鎌倉には5月11日に通知が届いた。平宗盛を捕え引き渡した功績、と。.
   ※市河別当行房: 甲斐源氏の一族で武田(源)義清の末弟・覚義阿闍梨の嫡孫。平塩寺別当を継承した。
子孫は戦国時代まで足跡を残している。詳細は常陸武田郷から甲斐市河荘への末尾で。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月5日
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吾妻鏡
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前中将平時実朝臣が流刑地に行かないのみならず義経と行動を共にして罪を重ねたため鎌倉に連行し、西御門の美濃籐次安平宅に拘禁している。仔細を尋問しても説明も謝罪もないのは承服していないのだろう。関東で公卿の罪を決める事はできず、京に送り返す旨を決定した。
また師中納言(吉田経房)が院の使者として鎌倉に来るとの情報がある。特に重要な要件でなければ来る必要はないし、去年の冬に送った公式書類に対する院の聖断を待つのみ、との通知を送った。
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   ※西御門: 頼朝法華堂跡の約100m西に石碑が建っている。(大倉幕府跡を参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月7日
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吾妻鏡
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北條時政の飛脚が京都から到着。去る12月26日に入洛して申し入れた件、翌27日に朝廷の沙汰が明らかになった。解官(解任)と配流について蔵人宮内権少輔親経が宣下を受け、別当の家通と籐宰相雅長が除目(任免の書類)を書いた。
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参議に源雅賢(元の蔵人頭・右中将)  右大弁に籐原行隆(元の右中弁)
左中弁に籐原光長(元の権右中弁)  右中弁に源兼忠(元の権右中弁)  権右中弁に平基親(元の左少弁)
左少弁に籐原定長(元右少弁)  右少弁に籐原親経(元の蔵人・宮内権少輔)
左大史に小槻廣房(元の算博士・日向の守、38歳)  大蔵卿に籐原宗頼(前の伯耆守)
右馬頭に籐原公佐(元の侍従)  和泉守に籐原長房(光長朝臣が譲る)
陸奥守に籐原盛實(前の中納言雅頼卿が譲る、元の近江守)  近江守に籐原雅経(参議雅長が譲る)
越中守に籐原家隆(元の侍従、前中納言光隆卿が譲る)   越前守に籐原公守  石見守に籐原業盛
因幡守に源通具(権中納言通親卿が譲る)  伊豫守に源季氏(右大臣が譲る)
美作守に籐原公明(左衛門督實家卿が譲る)  蔵人頭に籐原光長(従四位上)  源兼忠に従四位下
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解官は  参議平親宗  左大史小槻隆職  刑部卿籐原頼経  左衛門少尉籐知康(大夫尉)
左衛門少尉信盛(検非違使)  中原信貞  左馬権頭平業忠  兵庫頭籐原章経
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配流は  前大蔵卿高階泰経(伊豆へ)   前刑部卿籐原(難波)頼経(安房へ)
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議奏(政策の奏上)に任じる公卿
右大臣は九条兼實  内大臣は徳大寺實定  皇后宮大夫(三条實房)  中御門大納言(宗家)
堀河大納言(中山忠親)  権中納言(吉田経房)   源中納言(土御門通親)  左衛門督(河原實家)
籐原宰相(籐原雅長)  左大弁(籐原兼光)
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で般若心経(wiki)を読む法会が催された。供養する僧は八幡宮別当法眼と大法師源信・恵眼ら、布施は各々に各々被物(布)一重、邦通がこれを差配した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月9日
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吾妻鏡
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高野山の僧から苦情があったため北條時政が指示を下し、更に寺領での不法行為阻止のため雑色を派遣した。
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紀伊国高野山の荘園などに関し、兵糧米徴収と地頭職の配置を停止する件は高野山の意向に任せるとの下命が既に出ている。雑色守清を派遣し武士の狼藉を禁じる内容の命令書を発行するから遵守せよ、と。
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             文治二年正月九日  時政の花押「平」 あり
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月10日
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吾妻鏡
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摂津国貴志の輩が御家人に加えられた。ただし鎌倉に出仕して番役を務める義務は課さず、京で左馬頭一條能保の警護に任じるよう定めた。
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  ※貴志の輩: 貴志義茂が一族郎党を率いて鎌倉に入った、との記録がある。摂津国南部(現在の兵庫県三田市・
地図)を本拠とした武士団で、この年3月に時政と交替して京都守護となった一條能保の指揮下に入った。元々の出自は紀伊国貴志荘(現在の紀の川市貴志川町・地図)らしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月11日
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吾妻鏡
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高瀬庄については武士の関与を禁じる旨の命令が下されているが、時政が意見を付け加えた書類を師中納言(吉田経房)に提出した。その内容は次の通り。
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高瀬庄(現在の南砺市高瀬・地図)の件は既に兵糧米を拠出しているにも関わらず既に地頭惣追捕使が任命されている。ただし狼藉事件が起きれば任命は撤回する、と。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月17日
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吾妻鏡
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昨年冬に鎌倉に下向していた左大臣吉田経房の使者が今日帰洛する。頼朝の返書が遅れたためだが、使者を派遣した成果はそれなりにあった。
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まず(頼朝追討の)官符を義経らに与えたのは吉田経房の提案と聞いたため頼朝の怒りを招いたのだが、もしも宣下がなかったら行家義経は洛中で謀反の決起をしただろう。官符を与えたからこそ彼らは九州を目指し、結果として君臣が共に安全だった、これがなぜ不義とされるのか。頼朝はこの主張を聞いて承諾することとなった。
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  ※吉田経房の使者: 12月23日に「師中納言(吉田経房)が使者として鎌倉に派遣される、既に後白河も認可した
との噂が鎌倉に届いた。」との記載があったが、経房ではなく使節(職位姓名は不詳)の派遣だったらしい。なぜか、吾妻鏡には使節到着に関する記事は載っていない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月19日
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吾妻鏡
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鎌倉に居住していた神祇官(朝廷で祭祀を司る官職)次官からの使者が今日帰国する。去年11月9日に伊勢神宮神官の長で神祇官長官の副でもある親俊卿が伊勢国で逝去した。
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部下は各々後任に着任する願書を提出したが、朝廷の管理役である公卿の親宗と光雅が収賄し、同月25日に能隆朝臣を補任した。これは規定を飛び越す人事であり、しかもこの二人は平家に与した逆臣である。奸計は既に露見しているから神慮にも悖る、と。これは光倫神主(伊勢神宮の権禰宜)の訴えである。頼朝は事件の経緯や真偽を知らないため、そのまま朝廷に取り次いだ。
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   ※伊勢神宮の人事: 養和元年(1181)10月20日に「光倫神主が鎌倉に入った」との記載がある。何か利権か
猟官に絡むトラブルの匂いもするが、そのうちに追加の情報が出てくるかも。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月21日
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吾妻鏡
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後白河法皇は今年60歳の宝算(天子の年齢の敬称)である。祝賀を述べると共に絹・白米・斑幔(色違いの布を縫い合わせた幕)などを京都に送った。また去年申し入れた流刑などについて早急の処理を求めた。三善康信がこれを処理した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月23日
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吾妻鏡
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頼朝は諏方(諏訪)の上宮と下宮に神馬を寄進した。
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   ※諏訪大社: 公式サイトはこちら、上社は諏訪湖の南岸、下社は北岸に鎮座する。(以下、全て公式サイト)
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私が諏訪を通った時は上社に参拝して新鶴で塩羊羹を購入し(品切れが多い)、諏訪湖東岸の甲州街道を南下して上諏訪の旧道沿いにある宮坂醸造へ寄り道し「真澄」を試飲してから上社に詣でる習慣だった。その時の気分と時間により片倉館で一風呂浴びることもあったね。
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私は運転担当のため真澄の試飲は主に妻の役目。最後に寄った数年前はガラスの猪口を500円で買って数種類を自由に呑むシステムだった。妻曰く、「恥ずかしくて少ししか呑めない」、と。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月24日
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吾妻鏡
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比叡山日吉の塔下彼岸衆の訴訟について、頼朝は鎌倉で処理できる事例ではないため京都に取り次ぐ決定をした。吉田経房に宛てた書状の内容は次の通り。
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法性寺領である小橋庄の三ヶ村を押領された。重家は近衛基通から小橋庄を管理する業務を委ねられているのに衆徒は重家の押領だと主張している。いずれにしろ小橋庄内部の利権争いなので私が決裁する範囲ではなく、道理に従った処理をお願いしたい。
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   ※比叡山日吉: 現在の日吉大社(公式サイト)。平安遷都に伴い都の鬼門を守る延暦寺が創建され天台宗の
護法神として日吉を祀った。法性寺の詳細はwikiで。小橋庄は現在の大阪城南側一帯(地図
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月26日
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吾妻鏡
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摂録(摂政の交代)について早く宣下されるよう京都に申し入れた。現在の摂政である近衛基通は義経反逆に関与した責任があり、(更迭が遅れれば)余計な噂も発生するだろう、と。
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   ※近衛(藤原)基通: 義経に院宣を発行した張本人と見られているが、前後の経緯を見ると平家に好意的だった
事から九条兼実らとの政争の方が比重が高かったように思える。頼朝追討の宣下に関与して弾劾された人物の記事(前年1月10日と12月5日)にも基通の名は載っていない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月28日
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吾妻鏡
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一條能保と室(頼朝の同母姉妹・坊門姫)が帰洛するため宿泊していた足立遠元の屋敷を出発、それより前に頼朝と御台所政子が出向いて待機し餞別を贈った。帖絹・白布・紺布・藍摺などの布と豪華な食事である。
また従者ためにも様々な絹布・羽皮などを持ち込んだ。夜を徹して宴を催し、更に備後国信敷庄など数ヶ所の地頭職を室に贈与した。
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   ※帖絹: 帖が単位(例えば海苔一帖は10枚)なら貨幣経済に代用できる一定量の絹布の可能性があると思うが
詳細は判らない。
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    ※備後国信敷庄: 現在の広島県庄原市峰田町一帯(中国道庄原IC周辺・地図)、後世の毛利領。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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1月29日
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吾妻鏡
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義経の居所は未だに判明しない。事情聴取のため静女を鎌倉に送るよう北條時政に指示した。また義経探索が最優先である旨を吉田経房を通じて朝廷に申し入れよと命じた。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月1日
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吾妻鏡
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一條能保夫妻と娘・息子が鶴岡八幡宮に参拝して神楽を見物し、別当・供僧・職掌らがそれぞれ贈与を受けた。近日帰洛するための措置である。今日、北條時政が六条河原で群党(群盗?)18人を斬首に処した。このような犯罪に対しては検非違使に渡さず直ぐに処刑するべきとの判断による。
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  ※娘と息子: 長女(九条良経室・19歳)と嫡子の高能(10歳)の二人だろう。
  ※九条良経: 摂政関白九条兼実の二男。兄の良通が早世したため兼実の嫡子として従一位・摂政・太政大臣。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月2日
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吾妻鏡
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頼朝は諸国の国司任命についての条を京都に申し入れた。(吉田経房に宛)
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一.散位源邦業前の対馬守親光を還任すべきである。関東に忠節を行ったのみならず朝廷にとって功臣でもある。
在任中は宣旨に従って神事と祈祷を行い、八幡宮以下の神社を修復し復興に多大な寄与を果たした。
一.散位源邦業の国司について。功績を挙げた源氏の一族で、下総国は私に任命権のある関東御分国である。
一.毛呂太郎藤原季光の国司について。太宰権師季仲卿の孫で、穏やかな人柄は朝廷の賢慮にも適う。
同様に、御分国である豊後国司を推薦する。
一.鎌倉御家人の任官について。遠国に住んでいるため官職に就くのは慎むべきと考え、辞表八通を添付する。
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   ※源邦業: 清和から四代後の醍醐天皇を始祖とする醍醐源氏の末裔。申し入れ通り下総国司に就任している。
建久三年(1192)には大江廣元と共に政所別当に就任した。
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   ※豊後国司: 前任の難波頼経は義経派として文治元年(1185)12月に安房流罪となり、翌年3月の赦免後も
考えを変えないため再び伊豆流罪となった。この後任として藤原季光の補任を求めたらしい。
毛呂季光は申し入れ通り豊後国司に着任している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月3日
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吾妻鏡
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武蔵国の真慈悲寺は源氏にとって祈祷を担う名刹だが荘園を持たず、本尊には仏具の備えもなく僧には衣食の蓄えさえも失っている。今日住僧の有尋が参上し、一切経の寄進と堂宇の修繕を申請したため、直ちに院主職(住職)に補任した。
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   ※真慈悲寺: 現在の日野市三沢の百草園(地図)一帯にあった巨刹。詳細はこちら(外部サイト)で。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月4日
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吾妻鏡
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御所の北側の山麓で狐が子を産み、その子が頼朝の寝所に入り込んだ。占いに拠れば不吉の兆しで、去年から再三の変事が起きている。更に頼朝の夢に高位の僧が現れ「上皇を重んじるか、慎みを深くするかの思いを深くせよ」と語った。このため八幡宮別当の円暁が荒神供養の法業を行った。
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    ※北側の山麓: 大倉幕府跡の位置を考えると 北條義時の法華堂跡付近で産まれた
子狐だろうか。まぁ、今でも狐が棲んでいても不思議じゃないようなエリア、だけど。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月6日
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吾妻鏡
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一條能保卿が室(坊門姫)と姫二人を伴い帰洛。昨夜頼朝は馬10匹などを、御台所は室と姫に長絹300疋を餞別にした。頼朝は能保の(権中納言)昇進や室を後鳥羽天皇の乳母に任じる件などを朝廷に申し入れている。
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今回の帰洛には鎌倉に駐在している御家人や在国の御家人に警護を兼ねて供を命じた。岩原平三・中村次郎・比企籐次・土肥彌太郎・小楊士籐三・横地太郎・勝田三郎らであり、他にも前もって宿場ごとの衛兵を手配してある。
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能保が鎌倉にいれば打ち合わせや相談などが可能だが、京には事の大小に関わらず媒介する人物がいないため、急ぎの帰洛を促したものである。また神仏への信仰の事・帝や院の事・朝廷の行事や義経の事・公卿への申し入れなどの様々を具体的に書き出して手渡した。
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   ※室と姫二人: 吾妻鏡の2月1日には「能保と室と男女御子息が鶴岡八幡宮に参詣」と書いている。編纂ミスか、
それとも末娘(西園寺公経の室・全子)を含めた坊門姫の家族全員の鎌倉訪問か。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月7日
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吾妻鏡
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北條時政の使者が鎌倉に到着。先月23日に前の中将平時実配流の官符が下った。周防国を変更し上総国。
今日、大江廣元に肥後国山本庄を与えた。義経・行家謀反の対応(守護の配置など)措置が優れていた事による。
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   ※平時実配流: 文治五年(1189)に赦免を受け帰京・復権、建暦元年(1221)に60歳で従三位に叙された。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月9日
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吾妻鏡
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北條時政の飛脚が京都から到着し院宣を届けた。定長の奉書に拠れば今春中に熊野詣を行いたいとのこと、熊野三山に納める供米を手配せよとの内容である。これは去る三日の夜に吉田経房から届いたものだが、今月中の返答を厳しく求められたため、直ちに手配したとの内容である。
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上皇の熊野詣ではこの六、七年中断している。実施を思いつつ天下騒乱のため実現できなかったのは実に残念であると頼朝に伝えよ。 今月中に可否を知りたいから飛脚を送れと時政に命じた。また供物がないため米を手配せよとの仰せである。時政にもこの仔細を良く伝えるようにとの意向でもある。
    二月三日 左少弁定長   同日 師中納言吉田経房
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   ※熊野詣: 最も回数の多いのは後白河上皇の33回、後鳥羽上皇の29回が続く。正式には熊野本宮は浄土
であり、浄土に入るためには熊野本宮から流れてくる岩田川(現在の富田川)を三途の川に見立てて渡り(渡河地点は紀伊田辺の近く・参詣ルート中辺路の出発点・地図)、霊域を熊野本宮→熊野川を下って速玉大社→那智大社→山道を再び熊野大社へ戻るのが正規のルートらしい(全体図)。
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美味しい所だけ摘み食いしたような我が家の熊野三山巡拝記録はこちら
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月13日
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吾妻鏡
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北條時政の書状を携えた雑色が到着。静女を鎌倉に連行する、と。
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また1月23日と28日に洛中で群盗事件が発生、これを鎮圧して犯人を捕え18人を斬首し首を晒した。日が過ぎて処分が甘くなるのを避けて検非違使には渡さず、即刻の処分を行った。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月18日
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吾妻鏡
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義経が多武峯に隠れているとの噂がある。これによって義経の(牛若丸時代の)師である鞍馬の東光坊阿闍梨と南都の周防得業が共謀した疑いがあり、彼らを鎌倉に召喚する。
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   ※多武峯: 前年11月17日に吉野で静が捕縛され、同月22日には「義経は吉野山の雪を越えて多武峰(現在
談山神社・公式サイト)に向かった」の記載がある。今頃になって「噂がある」なんて不合理だけど。
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   ※周防得業: 奈良興福寺の高僧聖弘。翌年3月に頼朝の面前で兄弟の争いは不合理と、堂々と主張している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月19日
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吾妻鏡
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供御の甘苔が伊豆国から鎌倉に到着した。伊豆の名産である通例の通り専使によって京に届けさせた。
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   ※供御の甘苔: 上皇・皇后・皇子のために献上する飲食物で年貢の一種。これを扱うのが供御人(wiki)。
甘苔はたぶん岩海苔だと思う。外海に面した岩場に着く天然の海苔で磯の香りがとても強く、寒い時期に採れる。空き缶のフタなどを使って掻き取っている風景を今でも見掛けるよ。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月21日
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吾妻鏡
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弓削庄での地頭による兵糧米徴収は停止せよと、院から吉田経房を経て北條時政に命令が下った。徴収した者に質して報告すると答えると、すぐ従わなければ問題になると考えた経房は取り敢えず院への報告を保留した。
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   ※兵糧米徴収: 武士による荘園公領の侵害事件が頻発している。義経に頼朝追討の宣旨を与えた弱みを責め
守護地頭の設置を認めさせた(前年12月)が治安は安定せず、後白河は粘り強く苦情を申し立て失地の回復を図り始める。結果として地頭の全国配置は延期され、文治二年(1186)10月には「地頭は平家の没管領のみ」に後退する。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月22日
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吾妻鏡
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神崎庄での地頭による兵糧米徴収は停止せよと、院から吉田経房を経て北條時政に命令が下った。太宰府の命令を確認し(九州惣追捕使の) 天野籐内遠景に問合わせてから鎌倉に連絡すると答えた。
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   ※神崎庄: 肥後国(現在の佐賀県神埼市)旧神埼郡(wiki)のほぼ全域を占めていた皇室領で、この時点では
後白河院 の所有。規模・発生の経緯についてはこちら(共にwiki)で。
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   ※天野遠景: 歴戦の勲功によって九州惣追捕使の地位を得たが荘園領主とのトラブルが多かったらしい。
最終的に建久四年(1194)前後に解任され鎌倉に戻っている。勲功で得たその他の所領も公収されて貧しい晩年を送ったとの記録が残る。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月23日
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吾妻鏡
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前の大史隆職宿祢は不忠の逆臣として解職されたにも関わらず知行していた土地を専有し公文書などを隠匿している件について、朝廷への申し入れを指示した。大夫史廣房が密かに訴え出たためである。
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   ※大史隆職: 前年12月5日の吾妻鏡の記事、朝廷への申し入れの一部に隆職に関して下記の記載がある。
更に1月7日には隆職の解官が記載されている。
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「左大史(太政官の職位)に関して、日向守廣房を任命されし。現職の小槻隆職は頼朝追討の宣旨を書いたため、新しい政治の草創に不適である。」
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ちなみに、解官された隆職の兄・永業の子が新たに任官した廣房。従って親族の猟官運動も絡んでいたらしい。建久二年(1191)に隆職が復権して左大史に任じ更に子の国宗が左大史を継承、国宗の没後は廣房の孫が任じられ、廣房の太政官復活は成らなかった。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月25日
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吾妻鏡
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北條時政は去年から在京して武家に関する業務を執行し、その適正な処理は貴賎の賞賛を受けている。このたび或る者が時政の命令と称して七條細工の鐙を奪おうとしたため訴えられた。検非違使の担当が問合わせたため時政は驚き、今日以下の通り即刻の説明を陳べた。
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入道鍛冶が訴えている鎧については全く関知しておりません。もし身分の低い者に何か言い分があるのなら直接時政に問い合せれば済みます。些細な事を訴訟して蔵人を煩わせるのは誠に残念です。
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   ※入道鍛冶: 事件の詳細は判らないが原文が時政を「於事賢直 貴賎之所美談也」と賞賛しているのは何となく
吾妻鏡編者の曲筆っぽい。時政は義経失脚の跡を継いで前年11月から京都守護に任じている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月26日
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吾妻鏡
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頼朝の男児(後の貞暁)が誕生。生母は常陸介藤原時長の娘、御産所は長門江七景遠の海沿いの家である。
女官として御所に勤務した際の密通が露見して御台所(政子)の嫉妬が激しく出産に関する儀式は全て省略した。
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   ※藤原時長: 伊佐郡(茨城県筑西市)を本拠とし、伊達氏の祖となった伊佐氏棟梁朝宗(常陸入道念西)。
尊卑分脈は伊達蔵人藤原頼宗と記録している。
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   ※長門景遠: 政子の嫉妬は更に続いたため乳母も付けられず、景遠は赤子を連れて深澤の辺りに隠れ住んだ、
と伝わる。赤子は七歳の建久三年(1192)春に上洛し、仁和寺(公式サイト)の隆暁(一條能保の養子)の弟子として出家した。頼朝は出立の夜に密かに深澤を訪れて太刀を与えている。
深澤は梶原景時所縁の 御霊神社の付近。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月27日
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吾妻鏡
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安達新三郎が飛脚として上洛。その内容は九条兼実を摂政に任じる提案も含んでいる。兼実は法住寺殿(藤原忠通)の三男であり、その才能も知識も抜き出ている。
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現在の摂政藤原(近衛)基通は以前から平家に近い立場であり、関東とは疎遠である。去年の義経謀反に伴う(頼朝追討の)宣旨にしても彼の提案が発端だったとの噂さえある。摂政着任に関しては以前から兼実にも提案していたところ、まだ時期が早いと遠慮する立場だったが、敢えて瀬踏みをする意図らしい。
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また、北條時政には関東の懸案について相談すべき事が多いため早急に帰参するよう申し伝えた。京都守護職は既に一條能保に指示しているためである。
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   ※安達新三郎: 数年前の読売夕刊に載った小説「宇田川心中」にこの名前があったなぁ...鎌倉時代から江戸
時代を経て現代まで、輪廻で固く結ばれた壮大な恋物語だった。単行本を見つけなきゃ。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月28日
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吾妻鏡
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頼朝が朝廷に申し入れた件(2月2日)について、決裁が次の通りに下された。
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一.全国の荘園に対し、今後の兵糧米を免除する旨を命じて農民を安堵させること。今回の徴収によって農家の
   疲弊が甚だしい。既に徴収の理由もないから、その旨を各国に周知させるよう北條時政に指示されたし。
一.肥前国神崎荘に於ける武士の横暴行為を停止させるよう(九州惣追捕使の)天野遠景に指示されたし。
一.後白河法皇の灌頂
(密教の儀式・詳細はwikiで) の費用などの拠出を指示されたし。
一.筑後介として着任の兼能が職務を果たさず叡慮に背くとの仰せが再三である。長く召し使わないように。
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最後の二件は師中納言吉田経房経由で処理するように。
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   ※筑後介兼能: 4月10日に吉田経房がこの件について私信を送っている。後白河の叡慮(笑)かも。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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2月29日
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吾妻鏡
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中原信房は、造酒正宗房の孫として優遇され、今日近江国善積庄を与えられた。これは圓勝寺領ではあるが信房が特に望んでいるため、宗房が重ねた功績に報いた結果である。
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  ※中原信房: 宇都宮氏初代とされる藤原宗円の二男中原宗房の長男。造酒正は宗円じゃないかと思うのだが、
確信は持てない。信房は後に豊後(大分)と日向(宮崎)に所領を得て豊後宇都宮氏の祖となった。
宇都宮氏の系図(左目次で)および宇都宮氏の廟所を参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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諸国に惣追捕使と地頭を任命した中で、七ヶ国分の権利は北條時政が朝廷から得たが、御家人との公平性などに配慮して地頭職を辞する旨を師中納言吉田経房 に文書で申し出た。
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その中で百姓を救済する一助として地頭の権限を保留にする事、横領行為を糺すため継続して惣追捕使の任を果たす事を申し述べている。経房は参議の藤原定長を経由してこれを奏聞した。
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今日、義経愛妾の静女 が時政の命令に従って鎌倉に到着、母の磯禅師が同行している。藤原(二階堂)行政の差配により 安達新三郎宅に入った。
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   ※守護と地頭: 前年11月に朝廷が時政の申請に応えて守護(惣追捕使)と地頭の設置を認可している。時政が
七ヶ国地頭の返上を申し出たのは取り敢えず荘園領主の反発を避けるためだが、後白河法皇には御家人の妬みなどを誘って鎌倉の混乱を招く意図があったのだろう。
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時政と頼朝は惣追捕使(守護)は返上せず軍事・警察権を確保し、地頭の権限は先送りにして余分なトラブルを避けたらしい。利権を巡る鎌倉と朝廷のせめぎ合いは承久の乱(1221年)で力の差が圧倒的になるまで続く。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月2日
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吾妻鏡
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昨日、師中納言吉田経房が今南庄と石負庄の兵糧米徴収を止めよとの院宣を北條時政に伝え、今日それが文書で届いた。また時政が提出した(辞任などの)件は院に伝えた、と定長から経房を経由して時政へ。内容は次の通り。
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時政の申し出は奏聞した。七ヶ国の地頭を辞退した件は感心だが、惣追捕使を辞さないのは何故か。
農業を振興するために地頭職を停止して百姓の愁いを云々は兵糧米未納の件と同じで、先送りにしただけではないのか。また平家没官領の調査については頼朝から何らの申し入れもない。委細を確認して処理せよとの仰せで、非公式ではあるが不機嫌な様子である。
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先月、前宰相(参議)藤原光能後室(出家)の比丘尼阿光が鎌倉に使者を送り、代々相続してきた所領の丹波国栗村庄が武士の妨害を受けていると訴えた。今日、頼朝は早急に狼藉を停止するよう下命した。
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また、南都の大仏師成朝を鎌倉に招いて勝長寿院仏像を造立させているが、同僚の仏師が留守を狙って成朝の職位を求めていると嘆いている。もしその様な様子があれば処理して頂きたいとの内容を書いて師中納言吉田経房に依頼の書状を送った。成朝が訴えている内容は次の通り。
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南都の大仏師成朝が申し上げます。 興福寺での造像について、早く他の仏師による作業を止めさせ代々の習慣に従い全てを成朝の造像に任せて頂きたい。この大仏師職は成朝の先祖から連綿と続き、定朝・覺助・頼助・康助・康朝と引き継いでいるものです。
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覺助・頼助の時代には興福寺の火災はありましたが、(寺に専従する)大仏師を置きながら他の仏師に任せた例はありません。まして覺助・頼助は功績により、開眼供養の際には綱位(位階の一つ)を受けています。
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今は成朝が伝統に従って造像に任じるべきなのに他の仏師がそれぞれ職を望み勝手に造像を行っているのは例えようもなく嘆かわしいことです。平家の時代に伝統が乱れたためでしょう。
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中には定朝の弟子を称する仏師もいますが、比べてみれば優劣は明らか、伝統も技量も成朝を越える者はありません。成朝のみに任せるとの指示をお願いします。東金堂の造像など宣下を守って作業していたところ、鎌倉殿から御堂の造像を命じられたため突然関東に下向し、留守の間は院性が希望して従事しているとの事、もし事実なら私に替ろうとしているのでしょう。どうぞ、道理に従っての判断をお願いします。
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   ※成朝の苦情: 吉記に拠れば、平家都落ち前の治承五年(1182)にも院に
訴え出ている。「興福寺の造像・補修は代々の奈良仏師が任じており、院尊率いる院派仏師には何の権利もない」と。
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   ※院性: 同名の仏師は存在せず、これは院派の院尚(仏師の系図を参照)と
考えられる。成朝は院派仏師の進出を以前から恐れており、偉大な父・康朝と康慶グループに囲まれ苦しみ続けた凡庸な仏師の可能性もある。彼には謎が多く、下記の疑問点を調べてみたいと思う。
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1.康朝の嫡流なのに作品が残っていない。知る限りでは安田義定
菩提寺甲斐放光寺の金剛力士像(右画像・クリック→拡大)のみで
私には特に秀でた大仏師による造像には見えない。
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2.興福寺の造像途中の鎌倉へ下向は何故か、頼朝の招請か。
しかも興福寺には成朝造像の記録さえないのは何故か。
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3.法橋に叙されたのは父・康朝の弟子康慶(興福寺造像の指揮者)
より17年遅い建久五年(1194)、しかもこの時の康慶は一つ上の法眼に叙されている。康慶の嫡子運慶は成朝より遥かに年下の筈だが、翌・建久六年に法橋になった。放光寺の像を見るたびに才能の欠如が感じられてならない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月4日
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吾妻鏡
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朝廷の主水司(wiki)の供御所(供給地)である丹波国神吉から、地頭職配置のため煩わしい問題が起きているとの訴えがあり、地頭職を免除するように北條時政に連絡した。大江廣元がこれを差配した。
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   ※丹波国神吉: 現在の南丹市八木町神吉(地図)の一帯。神吉にあった氷室神社を合祀した幡日佐氷室両神社
(地図)もある。大堰川→保津川→桂川の水運を利用して氷や野菜を朝廷に納めたらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月6日
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吾妻鏡
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静女を呼び、藤原俊兼平盛時(政所の官吏・頼朝の右筆)を介して義経の件を問い質した。以前に答えた吉野山逗留は信用できないと問い詰めると次のように答えた。
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逗留したのは山中ではなく僧房である。僧兵が襲ってくると聞き、僧の案内で山伏を装い大峯に入った。
私は一の鳥居まで従ったが、僧に女人禁制だと叱られて京を目指した。
その後は従っていた雑色が金品を奪って逐電し、私は雪の中を蔵王堂に迷い出た。僧の名は忘れた。
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頼朝は京で話した内容と違う部分があるから更に聴取せよ。大峯に入った或いは多武峯を経由して逃げたなどの情報もあるから虚偽の可能性もある、と命じた。
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   ※吉野山: 義経の逃走経路と静が彷徨った吉野山の地図・蔵王堂の画像などは吉野山系の山岳信仰で。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月7日
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吾妻鏡
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(3月1日に)北條時政が申し出た地頭辞任などの件は既に奏聞し、定長から吉田経房を経て時政に渡された。
奉書の内容は次の通り。
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一.地頭を辞退する件、領民の愁いを防ぐため辞任するのは殊勝である。
一.惣追捕使の件、呼称を改めるだけでは地頭と変わらない。国ごとに又は広い荘園ごとに惣追捕使を置けば
   義経と行家の探索にも役立つだろう。狭い土地に置けば騒乱が頻発し訴訟も無くならない。
一.未納の兵糧米徴収の件、道理に従って処理するべきである。
一.没官領の件、頼朝に異論がないのなら特に申し述べることはない。
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以上の趣旨で処理されたい。仔細には触れないから内容は斟酌せよ。(田植えが始まる)春までに農事を阻害したら全てが無為になり、寛容の心で処理すれば天意にも叶う。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月8日
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吾妻鏡
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源頼兼(頼政の二男)が思い悩んでいる丹波国五箇庄について、頼朝は朝廷への申し入れを決めた。
これは元々は三位頼政の家領であり、治承四年の挙兵・敗死の後は平宗盛が所有していた。今回の平家没官領の中から頼兼に与えられたが、後白河院が所有権を言い出したためである。
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   ※丹波国五箇庄: 現在の南丹市日吉町(地図・旧五ヶ荘村)。頼政の妻・菖蒲は「逃げるのは五箇庄か、故郷の
伊豆か迷った」とあり、この出典は忘れた(源平盛衰記かな)が、詳細は頼政挙兵の項で。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月9日
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吾妻鏡
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武田太郎信義が死没(享年59歳))。元暦元年に勃発した子息 一條忠頼の謀反が原因で、頼朝に疎まれたまま許されずに終わった。
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   ※忠頼の謀反: 元暦元年(1184)1月16日に大倉御所の酒席で謀殺。
もちろん謀反の計画が露見したのではなく、甲斐源氏を分裂させる謀略である。嫡子を殺され甲斐源氏棟梁の地位も失った信義は失意の中で没した。
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右画像は山梨県韮崎市の鳳凰山願成寺に残る伝・武田信義の五輪塔。更に詳細は画像をクリックして武田の郷の後半部分を参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月10日
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吾妻鏡
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かねて伊勢神宮領の地頭に指示していた年貢納付を精勤する件、今日正式に命令を下した。これは伊勢神宮に対して他と異なる信仰心を抱いている故である。
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伊勢国の神宮御領・御園(畑)と御厨(田)の地頭らに下す
神領での狼藉を停止し、領主および神官への納入分に関与せず、領家・神官らの取り分に逆らわず、先例に従って納付せよ。不作により納付の不足が生じれば地頭の取り分から補填し、神への義務を欠かしてはならない。御園と御厨を管理する武士はこれを承知し、緩怠するべからず。
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   ※納入分に関与: 前年11月28日に京都守護の北條時政が吉田経房卿を経由して朝廷に以下を申し入れた。
諸国の全てに守護地頭を置き領家の地位や荘園の種類に関係なく軍事用の糧食として一反当り五升の提出を義務付ける。 と。
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年貢から差し引いて徴収するため、換算すると領主には実質5%程度の減収になる。11月12日は大江廣元が地頭の設置を建議したのが始まりだが、利権が絡むと簡単には定着せず、地頭に任じた武士の方も既得権の放棄に抵抗してトラブルが頻発する。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月12日
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吾妻鏡
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小中太光家が使節として上洛。一條能保の息子が元服を迎えるため馬を三頭と砂金・絹などを収めた長持を二棹を贈るためである。 また頼朝の知行国のうち年貢を滞納している荘園のリストが朝廷から届き、併せて管理者に催促せよとの内容である。
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三カ国(下総・信濃・越後)について
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下総国・・・三崎庄(藤原長者領)・大戸神崎(同)・千田庄・玉造庄(三井寺領)・匝嵯南庄(熊野領)・
       印東庄(成就寺領)・白井庄(延暦寺領)・千葉庄(八條院領)・船橋御厨(院領)・相馬御厨(前)・
       下河邊庄(八條院領)・豊田庄(松岡庄・按察使家領)・橘と木内庄(二位大納言)・八幡
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信濃国 ・・・伊賀良庄(尊勝寺領)・伴野庄(上西門院領)・郡戸庄(藤原惣領家領)・江儀遠山庄・大河原鹿塩・
        諏訪南宮上下社(八條院領)・白川郷(諏訪上下社領)・小俣郷・熊井郷・落原庄(藤原惣領家領)・
        大吉祖庄(宗像少輔領)・黒河内藤澤(諏訪上下社領)・棒中村庄・棒北條庄・洗馬庄(蓮華王院領)・
        相原庄(相)・麻績御厨(大神宮領)・住吉庄(院領)・野原庄(同)・前見庄(雅楽頭濟盆領)・
        大穴庄(元左大弁師能領、近年忠清法師領)・仁科御厨(太神宮領)・小谷庄(八幡宮御領)・
        石河庄(御室領)・四宮庄南北(同)・布施本庄・布施御厨・富都御厨・善光寺(三井寺領)・
        顕光寺(天台山末寺)・若月庄(證菩提院領)・太田庄(殿下御領)・小河庄(上西門院御領)・
        丸栗庄(御室領)・弘瀬庄(院領)・小曽禰庄(八條院領)・市村庄(院領)・芋河庄(藤原惣領家領)・
        青瀧寺・安永勅旨・月林寺(天台末寺) ・今溝庄(松尾社領)・善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)・
        天台山領小市・東條庄(八條院領)・保科御厨・橡原御庄(九條城興寺領)・同加納屋代四箇村・
        浦野庄(日吉社領)・莢多庄(藤原惣領家領)・倉科庄(九條城興寺領)・塩田庄(最勝光院領)・
        小泉庄(一條大納言家領)・常田庄(八條院御領)・海野庄(殿下御領)・依田庄(前齋院領)・
        穀倉院領・佐久伴野庄(院領)・千国庄(六條院領) ・桑原余田(前堀河源大納言家領)・
        大井庄(八條院領)・平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)・左馬寮領・笠原御牧・宮所・平井弖・
        岡屋・平野・小野牧・大塩牧・塩原・南内・北内・大野牧・大室牧・常磐牧・萩金井・高井野牧・吉田牧・
        笠原牧(南條)・同北條・望月牧・新張牧・塩河牧・菱野・長倉庄・塩野・桂井庄・緒鹿牧・多々利牧・
        金倉井
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越後国 ・・・大槻庄(院領)・福雄庄(上西門院領)・青海庄(高松院領)・大面庄(鳥羽十一面堂領)・
        小泉庄(新釈迦堂領、預所中御門大納言)・豊田庄(東大寺)・白河庄(藤原惣領家領)・
        佐橋庄(六條院領、一條院女房右衛門佐局沙汰)・奥山庄(藤原惣領家領)・比角庄(穀倉院領)・
        宇河庄(前齋院領、預所前治部卿)・大島庄(藤原惣領家領)・白鳥庄(八條院領)・
        吉河庄(高松院領)・石河庄(賀茂社領)・加地庄(金剛院領、堀河大納言家沙汰)・
        於田庄(院領、預所備中前司信忠)・佐味庄(鳥羽十一面堂領、預所大宮大納言入道家)・
        菅名庄(六條院領、預所讃岐判官代惟繁) ・波多岐庄・紙屋庄(藤原惣領家領、預所播磨局)・
        弥彦庄(二位大納言家領)・志度野岐庄(二位大納言家領)・天神庄(前齋院領)・
        中宮(上西門院御領、預所木工頭殿)
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   ※荘園名簿: あ〜面倒くさい。そのうち時間ができたら詳細を調べることにして...
旅行で知っている地名が出ると何となく嬉しいね。例えば下総の玉造や下川邊や印東、信濃の遠山・白河・小谷・塩田・海野・依田、越後の青海・吉河・弥彦などなど。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月13日
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吾妻鏡
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関東御分国の年貢が平家討伐のため頗る停滞している。その分は免除を受け、今年から期日通り納入する旨を京都に申し入れた。文面は以下の通り。
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治承四年の蜂起から文治元年まで、(戦乱が続いて)世間が落ち着かず諸国の年貢が停滞している。農民が農業を忘れて平家の陣に加わり、関東の武士は合戦のため戦場を何度も往復し、領国を管理する余裕もなかった。私が知行している相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後については去年までの年貢納入を免除して窮民を安堵させ、今年から前例通りにすべしとの宣旨を頂けるよう願うものである。
            帥大納言(吉田経房)殿     頼朝
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   ※関東御分国: 将軍が国司任命権を持つ知行国主となり、国衙領(公領)を支配して国衙領から収入を得た。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月14日
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吾妻鏡
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行家と義経を探索せよとの宣旨が鎌倉に届いた。文面は下記の通り。
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前備前守源行家と前伊豫守源義経らは悪心を積み重ねた末に謀反が露見し、京で命を落とさず山林に逃れたらしいとの風評がある。熊野や金峯山、大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波など各国の国司に命じて二人の所在を探し求め、身柄を拘束して連行せよ。           蔵人頭左中弁藤原光長が奉る
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月15日
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吾妻鏡
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伊豫前司義経が各地を転々としている。今日、頼朝は所願成就の為として黄金造りの太刀を伊勢神宮に奉納した。
この太刀は頼朝が度々の合戦に際して帯びていた一振りである。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月16日
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吾妻鏡
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山城介久兼が伊勢神宮御厨の年貢横領事件を処理するため使節として上洛した。また、頼朝は諸国の兵糧米徴収を暫く中止せよと北條時政に命じた。現地の管理者から武士の狼藉を受けているとの訴えがあったためで、この件を上奏するよう師中納言に申し入れた。文面は下記の通り。
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諸国の国衙と荘園に関し、横領・狼藉を止めさせるため下文を発行し告知している。武士の中で特に目に余る者がいれば更迭し、廷臣の不正であれば院の決裁に委ねるつもりである。ただし、法皇は関与していないと言っても既に宣旨を発行した例もあり、必ずしも根拠がないとも言えない。この旨も奏上して頂きたい。
                                     師中納言殿    頼朝
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   ※大江久兼: 前年7月22日に下記の記載がある。
「山城介久兼が頼朝の招きを受け京都から参着した。著名な神社の祭礼などで活動する優れた楽人で鎌倉でも必要になった専門職である。」、と。 幕府の官僚として伊勢国治田御厨の紛争調査などに関与した。後に伊勢常楽寺荘の地頭に任じたとの説もある。
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   ※治田御厨: 三重県四日市の伊勢神宮領。畠山重忠が地頭に任じたが現地の目代が領家の伊勢神宮と紛争を
起こした。吾妻鏡の9月27日に下記の記載がある。
畠山重忠が囚人として 千葉胤正に預けられた。代官の悪事を伊勢神宮の神官・長家が訴えたためである。重忠は代官の行為を知らなかったと謝罪したが、所領四ヶ所を没収された。」、と。
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   ※法皇の関与: 不勉強なので文面の内容は良く判らない。「鎌倉に苦情ばかり言うけど、あんただって頼朝追討
の宣旨を出したじゃないか」なのか。まぁ嫌味の一つも言いたい気持ちは理解できる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月18日
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吾妻鏡
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加賀守俊隆は去年の秋から召抱えた人物で、当時は儀式の際に頼朝の前駆(行列の先頭を進む前触れ)を務める知識・経験のある人物がいなかった為である。義経反逆に対応して御家人を派遣した際に、俊隆の所領の一つ・尾張国中島郡で予期せぬ横領があり俊隆が嘆き訴えた。頼朝は「俊隆は在国の御家人と同様である、狼藉は認めない」と厳しく該当する御家人に言い渡した。
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   ※加賀守俊隆: 素性が判らない。「去年の秋」には該当なし、吾妻鏡の初出は今年1月3日の頼朝が鶴岡八幡宮
参詣行列。村上源氏の大蔵卿源師隆の息子の可能性もあるが、そうすると70歳近い高齢で鎌倉に転職した事になり、やや不自然に感じる。素直に受け取って構わないかどうか。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月21日
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吾妻鏡
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全国の兵糧米徴収を停止せよとの後白河宣旨が発行された。これは神社・寺院・摂関(藤原一門)・公卿ら領家全ての苦情が殺到したため協議を重ねた末の結論で、朝廷には既に通告済みである。
また法皇の灌頂(wiki)に関わる費用俊兼が差配し、駿河と上総の頼朝所領から玄米を千石、各地の所領から白布千反と絹百疋を拠出する、と。
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   ※灌頂の費用: 2月2日に頼朝から朝廷に数件の申し入れがあり、その返事が28日に届いている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月22日
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吾妻鏡
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静女の件、詳細を問い詰めても義経の居所は知らないと答え続けている。義経の子を妊娠しているため出産後に釈放するとの命令が下された。
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   ※静女の出産: 女子を産んだのは閏7月29日(西暦9月14日)だから、受胎したのは前年の10月20日前後
(西暦11月10日前後)の計算になる。土佐房昌俊が六條室町の義経邸を襲撃したのが10月17日だから(理論上は)その直後だね。当時は18歳、彼女が体験した最初の殺し合いか。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月23日
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吾妻鏡
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北條時政が関東に帰る旨を奏上した。後白河法皇は時政の在京が気に入っており引き止めたが頼朝の命令に従うことになる。京の治安を誰に任せるのかとの勅問があり、吉田経房を通じて返事を奏上した。内容は以下の通り。
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勅問の内容は謹んで預かり早急に鎌倉に伝えます。時政の下向は再三命じられているため、25日には出立しなければなりません。院の天王寺御幸や京都の守護は武士を駐留させ、一條能保様も在京しますから心配は無用ですが、この2点については重ねて申し継ぎをしておきます。    平時政
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   ※京都守護: 吾妻鏡では着任記事が確認できないが時政を引き継いだのは一條能保で、建久八年(1197)
まで任じた。後任の高能(能保の長子)が約一年勤めてから平賀朝雅が継いでいる。ちなみに頼朝は京都守護に任じた高能と大姫の縁談を進めようとして「そんなことしたら死んでやる!」 と拒絶された。別に高能に魅力云々ではなく、志水義高との思い出に因るのだろうけど。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月24日
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吾妻鏡
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前の摂関近衛基通の所領を現在の摂関九條兼実に移すかどうか、頼朝が検討を行っている。近衛基通はこれを聞いて後白河に書状で愁訴したため、今日吉田経房北條時政にその詳細を問い合せてきた。時政は早急に鎌倉に問い合わせる旨を返答した。
また播磨国守護人(梶原景時)について訴えがあった在庁官人からの二件と梶原景時からの一件は、景時が差配して解決せよとの命令があった。
近日中に北條時政が帰国するため後白河が名残を惜しんでいると吉田経房が伝えてきた。私心を忘れて公務を執った事への評価である。下向に際しても穏当な代官を任命して地頭らの管理に当たらせるべきだと求めたが、適任者がいないし安易に任命したら後顧の憂いとなると固辞し続けた。ただし治安維持に関しては頼朝の指示に従って北條(平六)時定を任命した。
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   ※訴えの処理: 守護である景時に対する訴えを景時に処理させるとは面白いね。東電経営陣の原発事故責任を
問う訴訟を起こしても検察が不起訴にする、そんな結果になるんだと思う。官僚機構の互助関係は平安末期から進歩していない、という事か。まさに互助奸計(笑)。
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   ※北條時定: 兼時(時政の兄弟)の子とされているが、北條の系図(時政以前)は信用できない。時政と兼時の
長序も同腹か異腹かも判らず、そもそも時政の父親が時方か時兼か、或いは別人かも不明確だ。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月26日
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吾妻鏡
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紀伊権守豊島有経を使者として丹波国篠村庄を松尾の延朗上人に寄進した。 元々は平重衡卿の所領で、後に恩賞として得た義経が義経の恩賞を経て延朗上人に寄進した土地である。上人は領内の年貢を廃止し念仏宗の布教に務めたが、寄進してくれた義経が謀反を起こしたため返上を申し出ていた。上人は源氏の祖である 源満仲の血を継ぐ対馬太郎義信の子であり仏典に秀でた人物である。
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   ※丹波篠村: 源氏に縁の深い、現在の亀岡市篠町篠上中筋。こちらのサイトが詳細を記述している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月27日
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吾妻鏡
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北條時政は関東に出発するにあたって洛中を警護するため優れた武士を選び、その名簿を吉田経房に提出した。内容は下記の通り。
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平六兼仗時定・あつさの新大夫・の太の平三・やしはらの十郎・くはヽらの次郎・ひせんの江三・さかを四郎・同八郎・ないとう四郎・彌源次・ひたちほう・へいこの二郎・ちうはち・ちうた・うへはらの九郎・たしりの太郎 ・いはなの太郎・
同次郎・同平三・やわたの六郎・のいらの五郎六郎・同三郎・同五郎・しむらの平三・とのおかの八郎・ひろさわの次郎・同彌四郎・同五郎・同六郎・かうない・大方の十郎・平一の三郎・いかの平三・同四郎・同五郎  以上三十五人
                               三月二十七日          平(判)
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  ※名簿: 記載は概ね原文通り。平仮名が多いのは時政を含む東国武士の識字レベルなのか、他に理由がある
のかは判らない。識字レベルについては新田義重の置き文も参考になる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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3月29日
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吾妻鏡
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去年、鎌倉の要求により(義経に関与などで)罪を受けた人々について、朝廷では刑の減免を求めて頻りに協議を巡らしていた。特に前大蔵卿高階泰経の嘆きは大きく、大江廣元に使者を送って窮状を訴えた。これに同情した廣元は遠流の中止を上申し、頼朝の許可を得て返状を送った。
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処罰に関しては院からも再三の要請があり、原因となった叡慮(頼朝追討の宣旨発行)を怒ってはいるものの近臣に大きな罪がないのは理解している。遠流は取り敢えず中止になったのを喜ぶべきか。所領などについては未定だが院に奏上して善処を頂くのが宜しかろう。詳細は使者から聞いて頂くように。    前因幡守廣元
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   ※高階泰経: 頼朝追討の宣旨を義経に与えた責任者として前年12月29日に大蔵卿豊後権守を解任された。
1月7日にはさらに伊豆流罪を宣下されているが、同17日には「頼朝が吉田経房の使者による事情の説明などを理解した」旨の記載があり、処分の中止は既に決まっていたらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月1日
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吾妻鏡
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京を出発した北條時政は尾張国萱津宿に到着した。ここで先月26日の頼朝書状を携えて鎌倉から来た使者に出会い、自分の書状を添えて(この内容は下記の通り)師中納言吉田経房卿の許に送った。
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1日に萱津宿に到着、ここに届いていた頼朝からの書状を同封する。大蔵卿(高階泰経)も刑部卿(難波頼経)も北面の人々(院を警護する武士)も、死罪も当然という自覚に欠けている。今回の件は後白河法皇 の叡慮に非ずと行っているが、頼朝は院の判断だったと考えている。この旨は確実に院に奏上するべきだと考える。
                                     平(北條)時政  大夫屬殿
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   ※萱津宿: 旧・海部郡甚目寺町。平成10年に七宝町・美和町・甚目寺町が合併して「あま市」になった。
地図はこちら、五条川沿いの西岸に鎌倉街道(後世の呼称)が通っていた。建久六年(1195)2月には上洛途中の頼朝一行が、嘉禎四年(1238)2月には四代将軍藤原頼経が、建長四年(1252)3月には六代将軍となる宗尊親王が萱津に泊まっている。当時の要衝だったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月2日
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吾妻鏡
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前刑部卿難波頼経と前大蔵卿高階泰経らには流刑の官符が下され、両人とも今後は誤りをしないと頻りに陳謝している。難波頼経については帰京を認める旨を朝廷に申し入れる。また北面の武士に関しては朝廷での恩恵に甘んじて驕り昂ぶる傾向があるから厳しく戒めて召し使うように、と。
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   ※流刑の官符: 高階泰経の方は許されず、文治五年(1189)8月に再出仕が許されるまで3年8ヶ月を流刑地
の伊豆で過ごしている。伊豆の何処だろうね?帰京の二年後には従三位から正三位に昇叙しているから、やはり官僚としては優秀な人材だったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月3日
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吾妻鏡
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安楽寺別当の安能僧都は平家のために祈祷をしたとの情報があるため調査せよと京都(守護)に指示した。宇佐大宮司公通の書状などを添付した。
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   ※安楽寺: 太宰府天満宮を差す。菅原道真は太宰府に左遷された翌々年に死没、遺骸を運ぶ牛車が安楽寺の
門前で動かなくなったため道真の遺志と考え境内に葬った。
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その後の都では天変地異や疫病が発生し、道真の祟りと考えた朝廷は醍醐天皇の勅使として藤原仲平を派遣し廟所の上に社殿を建てて安楽寺天満宮と称した。これが太宰府天満宮の創建である。
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宗との交易も含めて太宰府と平家の関係は古く、新興の武士団だった平家は大宰府を根拠地にして九州に勢力圏を築いていた。義仲に追われた平家の九州入りは、太宰府で政務を執らせていた原田種直(前年2月1日に記載)らと共に九州を制圧して源氏に対抗しようと考えたからだが...。
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そんな経緯が背景にあって安楽寺別当安能は平家のために祈祷を行ったのだろう。宇佐八幡宮の宇佐公通(元暦二年5月8日には嫡子公房が平家のため祈祷した件を叱責されている)も平家側で対馬守や豊前守に任じられているから、添付した書状は密告ではなく二人が合議した証拠だろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月4日
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吾妻鏡
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右兵衛長谷部信連は三條宮(以仁王)に従った武士である。以仁王が平家の言葉によって配流の官符を受けた際に検非違使らが(宮を捕らえるため)御所に乱入し 、信連の奮戦で三井寺に逃れることができた。そして今、頼朝に臣従するために参向し、過去の功績により御家人とする旨を西国に駐在している 土肥實平に連絡した。
一方で信連は安芸国司から検非違使の任務と荘園の公務を命じられているため暫くは手を離せない、と答えた。
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   ※信連の奮戦: 治承四年(1180)5月15日の吾妻鏡に事件の経過が載っている。御家人を望んで鎌倉に来た
のに安芸国で任じている公務から離れられないとは筋が通らない。實平を介した伝聞だろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月5日
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吾妻鏡
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師中納言吉田経房が先月17日に送った私信が届き、盛時がこれを読み上げた。内容は下記の通り。
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兼能の件は実に残念で、特に気を悪くする事ではないと考えます。周辺に確認しても後白河法皇の苦言だけで特に失策は見られず、このまま召し使って構わないと考えます。院での連絡や訴訟も無難に処理して人に嫌われる事も見えません。私の印象では聖人や若い荒武者のような任務ではなく重要な案件を委ねれば良いと思います。彼を召し使わないのは院にとっても当人にとっても損失であります。
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   ※兼能の件: 前年10月27日に「筑前介兼能(村上源氏の文官)が朝廷への使者として京に向かった」との記載
がある。ところが後白河に嫌われたらしく、「筑後介として着任の兼能が職務を果たさず叡慮に背くとの情報が再三ある。長く召し使わないように。」との通知が吉田経房経由で頼朝に届いている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月7日
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吾妻鏡
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後白河法皇の灌頂wiki)費用は京に送る旨を決めた。筑後権守藤原俊兼三善康信の差配とし、雑色を使者に派遣する。(約束の)供米は既に発送し、その他の絹などは陸路を同搬させる。
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   ※灌頂の費用: 2月2日と28日と3月21日に関連する記載がある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月8日
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吾妻鏡
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頼朝と御台所(政子)が鶴岡八幡宮に参拝し、舞曲を演じさせるため静女を回廊に召し出した。これは以前からの仰せにも関わらず(3月1日の鎌倉入りしてから)病気を理由に演じなかったためである。今の境遇では断れないのだが(謀反の罪で追われている)義経の妻として公の場に出るのは憚られる、と言い逃れていた。
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しかし静女は天下に知られた舞の名手であり、間もなく鎌倉から去ることになる。その芸を見られないのは無念であると御台所が繰り返して奨めるため、これを召す運びとなった。八幡大菩薩の御意にも沿うだろう、と。
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今は別離の悲しみが深くとても舞曲を披露する気持ちではないと更に固辞したが、再三の命令を受けて白い袖を翻して黄竹の歌を演じた。武勇の一族ながら六位の蔵人として朝廷に務めた経験のある工藤祐経の鼓と畠山重忠の銅鼓が拍子を合わせ、これに続いて静女が歌い始める。
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吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとそ恋しき  次に別の曲を演じ、再び和歌をくり返し吟じた。
しつやしつ しつのをたまき くりかえし むかしをいまに なすよしもかな
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社殿の梁の塵さえも震える程の素晴らしさに観衆は上下を問わず感動に浸ったが、頼朝は「八幡宮の神前で芸を披露するなら関東の繁栄を祝うべきなのに私の前で謀反人の義經を慕う歌を演じるとは奇怪である。」と怒った。
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御台所政子は「あなたが流人として伊豆に住んでいた時に契を結んだのに父の時政が平家を憚って私を閉じ込めた。私はあなたを慕って暗夜に迷い豪雨に耐えてあなたの元に逃げた。また石橋山合戦の際には独り伊豆山に残り、あなたの生死も知らず魂が消える思いをした。それは今の静女の心と同じ、義経への思慕を忘れるのは貞女の姿に非ず。舞姿の内に風情を表し動きに中に心情を露すのは実に幽玄である。枉げて賞翫されよ。」と窘めた。
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頼朝は怒りを鎮め、暫くして卯花重の御衣を御簾から押し出し褒美として与えた。
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   ※黄竹の歌: 詳細はこちらに記述した(八代亜紀の「雨の慕情」だね)。また「しつのおだまき」の由来もその下に
記述してあるからご笑覧あれ。話のついでに書くと、頼朝は建久四年(1193)5月に勃発した「曽我の仇討ち事件」の直前に白糸の滝を見物し、流れてきた苧環(おだまき)の花を見て「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」と詠んでいる。頼朝が見た苧環と静女が歌った「おだまき」、関連は私説・ 曽我の仇討ち・白糸の滝で、どうぞ。
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   ※政子の恋愛: 曽我物語の影響を受けて鎌倉時代中盤以降に編纂された話だね。ましてや、既に大姫を産んで
いた政子が平兼隆との婚礼から逃げたなんて馬鹿馬鹿しい話は信用できない。
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   ※卯花重の御衣: 埼玉県栗橋市周辺の伝承に拠れば、静女は現在の利根川近くで病没。彼女の遺品は古河の
光了寺にあり、後白河法皇から拝領した蛙蟆龍(あまりょう)の御衣が保存されている。最高権力者・頼朝が与えた卯花重の御衣は見られず、静女の愛と誇りが見えるようだ。
栗橋に残る静女の史跡も参照されたし。
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   ※蛙蟆龍の御衣: 後白河が静女に御衣を与えた経緯は神泉苑の祈祷会に詳細を記載してある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月13日
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吾妻鏡
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京から戻った北條時政が参上し、頼朝の質問を受けて詳細の報告を行った。特に義経と行家に与して謀反した輩の所領検査を建議したが、これは認められなかった。
次に前摂政近衛基通の家領を現摂政の九条兼実に譲る件は、色々言い繕って結論に至っていない、と報告。
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次に播磨国守護人梶原景時の国衙領横領容疑の件は在庁官人と景時の主張が異なり、結論が出ていない。
次に今南と石負の両庄と弓削杣の兵糧米について、再三中止せよとの院宣が出ているため早急に地頭を召喚すると奏上した。いずれも先月24日に出した頼朝の命令通りである。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月15日
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吾妻鏡
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小中太光家が左典厩一條能保からの返状を携えて京都から戻った。先月の25日に息子(高能)が元服、理髪(前髪を落とす役)は右中将實教朝臣、加冠(烏帽子親)は内府 徳大寺実定(wiki)が務めた、と。
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   ※高能が元服: 3月12日に頼朝の命令を受けた中原光家が祝賀の品を京に運んでいる。
後に頼朝は高能と大姫の縁組を計画するが、志水義高が殺されたトラウマを抱えている大姫に「そんなことしたら死んでやるからね!」と脅かされて中止になった(どこかに書いた記憶あり)。
徳大寺実定は頼朝の信頼を受け能保の腹心として活躍したが建久二年(1191)に没している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月20日
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吾妻鏡
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新しい摂政九条兼実家の所領について、頼朝が朝廷に申し入れた。その趣旨は、下記の通り。
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前摂政近衛基通の妻(平清盛の娘盛子)の所領と称して興福寺領(春日大社所領を含む)以外を全て占有している。政治を司る任務を担う摂政が摂政家の所領を継承しないのは異常な事態である。前の摂政は祖父忠実の娘(鳥羽天皇妃)が継承した荘園50ヶ所を家領として知行すれば良い、それが道理に沿った手法である。
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また、義経と行家が今も洛中にあり比叡山の悪僧らを巻き込んで謀反を企んでいるとの情報があった、武装兵を派遣して捜索すべきだろうと師中納言吉田経房に申し入れるため源刑部丞為頼(元・知盛卿の家臣で故為長の縁戚)が使節として京に向かった。
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   ※源為頼: 満快(経基の五男・下野守)−満国(長男・甲斐守)−為満(長男・甲斐守)−為公(長男・信濃守)−
為基(五男・蔵人)−為行−為遠−為長−長清−と続く家系。
為公は信濃国伊那郡上ノ平城(地図)に本拠を置いて勢力を伸ばし、為基は所領の一部・片桐郷(地図)を継承して片桐(片切)を名乗った。為遠の弟・為重は保元の乱で源為義に従って戦死、平治の乱でも義朝に従って所領を没収されたが、為長(又は長清)の代に頼朝から所領を安堵された。
源刑部丞為頼は為遠の兄弟から8代後の子孫。
蛇足だが秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の七本槍」の一人・片桐且元は為頼の子孫に当たる。
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   ※蛇足の蛇足: 治承四年(1180)9月10日、頼朝と同様に以仁王の令旨を受けた甲斐源氏武田信義の軍勢は
伊那に進み大田切郷の平家与党を討っている。16km南が片桐郷だから、この時点で平知盛の家臣だったらついでに討たれる可能性もあった、のかも。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月21日
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吾妻鏡
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遠江守安田義定が遠江国から参上し、湖や岩室周辺などで義經を捜索しているが発見に至っていない、と。頼朝は御前に召して酒宴を催し、遠江国での様子を尋ねた。義定は「勝田三郎成長が去る六日に玄蕃助に任じたのが最も慶事、次に狩猟のため二俣川に行ったところ9頭の鹿が一列になって走るのを弓手(左手)に見た。私と息子の義資と浅羽三郎が馬で追い、これを悉く射て取った。皮を持参している。」と語ったため頼朝は喜んだ。
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5枚を頼朝に、3枚を若公(後の頼家)に献じ、1枚を酌をした小山(結城)朝光に贈った。頼朝は「成長の任官について前もって相談もせず独断での申請は不遜、是正の手続きをせよ。」と申し付けた。義定は赤面し軽率に語った事を悔やんだ。
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   ※湖や岩室: 遠江国(静岡県西部)で湖と言えば浜名湖のこと、岩室は磐田市北部の獅子ヶ鼻で平安〜室町期
に繁栄した密教系の巨刹。巨大な礎石や堂塔跡が発掘され、北側の谷からは大日如来像の頭部(120cm)などが出土し、現在は獅子ヶ鼻公園として整備されている。地図はこちら、「岩室廃寺」で検索すると資料・画像など多数あり。
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   ※勝田成長: 保元の乱では義朝の与党として「遠江国の勝田」の名が見られ、義定の系累ではなく源氏累代の
郎党らしい。建久六年(1195)3月10日、頼朝上洛の随兵の中に勝田玄番助の記載がある。
玄蕃助は戸籍・儀礼などを統括する治部省に属し、僧尼名簿の管理や仏事・使節の饗応などに任じる玄蕃寮の二等官。
蛇足・・・都に近い淡水湖があるから近江国、遠い淡水湖(現在は汽水湖)があるから遠江国。
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   ※浅羽三郎: 遠江国の豪族として頼朝に与し、養和元年(1181)に浅羽荘(袋井市浅羽・東小学校と円明寺の
周辺(地図)が館跡らしい)の庄司を安堵された宗信の子。弟に小三郎行光・五郎行長がいる。吾妻鏡の養和元年3月13日に「平家に備えた防御線構築に(在庁官人)浅羽庄司宗信と相良三郎らが協力しない」と義定が頼朝に訴えた記載がある。その後に関係修復したらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月24日
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吾妻鏡
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陸奥守秀衡入道の書状が到着。朝廷に献上する馬や砂金は先ず鎌倉に送るから中継して京都に送るよう依頼する内容で、先頃に送った書状への返事である。頼朝の書状は以下の通り。
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秀衡は奥六郡の主で頼朝は東海道の惣官。魚水の関係にあるべきだが距離を隔てるため意思の疎通がままならない。国土の献上品である馬と金は私が差配し鎌倉を経て朝廷に送るのが勅命に沿うことになる。
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    西の平家・東の鎌倉・北の秀衡が鼎立した時代は終わり、頼朝の覇権を阻むのは奥州藤原氏のみとなった。
頼朝は秀衡を格下に扱って圧力を加え始める。そもそも馬や金は鎌倉経由で、との勅命は存在しない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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4月30日
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吾妻鏡
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朝廷での議論が喧々諤々として鎮まらない。頼朝は内府徳大寺実貞ら太政官の議決を奏上する立場の公卿に書状を送り、誠実に議論を重ねて善政を行うよう求めた。
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天下の政道は集まった公卿の審議によって高潔を保ちます。
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それぞれが私心も諂いもなく、賢慮のみに従って行われるべきです。私は武士の家に生まれ朝敵を倒す功績を挙げましたが、長く遠国にあったため未だに政治の詳細を理解しておりません。
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もし理解していても、政務を担う立場ではないため口出しする事はできませんが、人の悩みを散じるため一度決裁した事は、頼朝の申し出であっても理不尽な変更や撤廃を行うべきではなく、正しい判断が求められます。
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勅宣や院宣が下されても、それが朝廷や世の中の騒乱を招くものであれば、何度でも訂正の奏上をするべきであります。奏上を恐れて躊躇するのは忠臣の務めではありません。      左大弁宰相殿 頼朝
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別紙 追伸...以上は、摂政家(九条兼実)から周知させて下さい。朝廷の中枢として忠節を尽くすべきです。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月1日
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吾妻鏡
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先日から黄蝶が飛び回り、特に八幡宮に群れているのは怪異、凶兆である。そのため通常の行事のついでに邦道(藤原 (判官代)邦通)の差配として臨時の神楽を奉納した。この時に八幡神が巫女に憑依して託宣した。
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反逆者あり。西から南に周り、南からまた西に戻り、西から更に南に至り、南からまた東に向かい、昼夜を問わず頼朝の運を窺う気配がある。神と朝廷を崇って正しい政治を行えば二、三年で水泡の如く消え去るだろう。
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邦道を介して神馬を奉納し、改めて感謝の参拝を行った。
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   ※託宣: 例えば九条兼実の日記「玉葉」のような記録なら感服するけれど、吾妻鏡は後世に編纂された文書。
既に結果が判っている事件なら八幡大菩薩じゃなくても予想した、と改竄できる。
日本には司馬遷(wiki)のように権力に阿ず史実を忠実に記録する傑物が現れなかった、という事。
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権力に媚び諂う御用学者やエセ宗教者(創価学会と公明党ね)はウンザリする程いるけど。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月2日
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吾妻鏡
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前対馬守親光は前職に戻すべきである旨を重ねて朝廷に申し入れた。都落ちした平家が九州に軍勢を送り屋島に参上せよと命じたが、誰も従わなかった。この時に少貳種直(原田種直)の郎従らが追討に向かったため高麗国に逃れた。平家滅亡後に頼朝の指示に従って上洛した経緯があり、これだけでも大きな功績である。
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更に在任中は朝廷のためや朝敵追討のため祈祷を行ったり八幡宮を始め60余ヶ所の社殿を修造し、放生会の装束や装飾などの整備に尽力した。これらは目録として鎌倉に届いている。国司の任にある時にこれらの業績を残した者は再任か遷任を受けるのが通例だから、同じ扱いをするよう申し入れた。
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更に上賀茂斎院と伊勢神宮への奉仕実績によって重任または遷任の宣旨を受けているのだから、尋常の国(対貧しい対馬ではなく、の意味)を拝任できるよう頼朝からも内々の要求をしていた。空いている国がないため元の対馬拝領を奏上をし、除目の際に任命しようとの勅答を得たのに昨春の除目の際には別人が任じてしまった。
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これについて検非違使大江公朝は鎌倉の意向を受けて処理したと主張しているが証拠の文書が存在しない。親光が鎌倉の書状を提出したと主張しても希望は実現せず、再度の推挙を願うため、今回の申し入れとなった。
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   ※対馬前司親光: 国司の藤原(宗)親光を差す。外戚の詳細は確認できないが頼朝生母・由良御前が熱田神宮
大宮司の藤原季範だから多分その関係だと思う。
平家の都落ち後に親光は上京を図ったが平家の勢力が九州を制圧していたため対馬を出られなかった。更に宗盛の招集を拒否して追討軍を派遣され高麗へ逃げ、この年6月に対馬に戻った。(前年3月13日の記事。他にも6月14日・12月23日に関連記事がある。)
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月3日
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吾妻鏡
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出雲国の杵築大社惣検校職について、出雲則房を解任し同族である資忠を任命する手配をした。
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   ※杵築大社: 明治四年(1871)に改称した、現在の出雲大社。惣検校職は管理の長官(CEOだね)。
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出雲則房の解任によって出雲国造家の世襲職だった惣検校職は、平家追討に功績を挙げた中原資忠に移った。建久元年(1190)6月の遷宮の際には出雲則房の還任申請が認められたが、中原氏はその後も四代に亘って職に留まり、次の義孝の代に国造家に戻され現在に至っている。
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財産(特に膨大な不労所得)が絡むと神仏の下僕も必死に争い続ける、これは2018年正月に起きた富岡八幡宮事件を引き合いに出す必要もない。
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そして第84代出雲国造家当主が出雲大社宮司の千家尊祐氏、その息子が高円宮家の次女典子女王と結婚した千家国麿氏。生母の千家礼子氏の実家は出雲大社北西の御碕神社の宮司を務める小野一族で全員が旧華族の男爵家だから、絵に書いたような既得権集団だね。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月8日
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吾妻鏡
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大倉御所に於いて薬師経百巻の転読を催した。鶴岡八幡宮の供僧らがこれを担当した。
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   ※転読: 大般若経と薬師経の違いはあるが、イメージは変わらない。「何これ!ズルじゃないの!」などと言わず
YouTubeの画像を参考に。どの宗派でも同じような催しがあるらしい。
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供僧(供奉僧の略)は明治新政府の太政官布告に基づく神仏判然令(神仏分離令)まで神社に共存し、別当僧は神官の上位にあった。八幡宮の北側にあった僧房群「北谷(御谷)」が有名。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月9日
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吾妻鏡
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それぞれ前任の大蔵卿高階泰経と刑部卿藤原(難波)頼経は流罪に処されているが、頼朝は去る3月(29日に記録あり)に「赦免して帰京を許す」旨の奏上を行って後白河法皇を非常に喜ばせた。
一條能保が奉書を受け、今日それが届いた。内容は下記の通り。
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頼朝の書状を院に奏聞した。泰経と頼経らの赦免については再三鎌倉に申し入れたが頼朝の考えが判らず、今回の奏聞を受け心が晴れた。院の警護を担う武士は今後とも注意して召し使う、それが院の考えである、と。
                        四月二十六日        左少弁定長
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   ※赦免: 高階泰経は前年12月に伊豆流罪となっていた。帰京の日程は未確認だが同月に安房流罪になった
難波頼経が3月に許されて帰京しているから、少し遅れて赦免されたのだろう。
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ちなみに難波頼経は義經を支持する姿勢を改めず、文治五年(1189)に伊豆国へ再び配流となった。筋を通す気骨のある公卿だったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月13日
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吾妻鏡
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飛脚の紀伊刑部丞為頼が京から院宣を携えて到着。昼夜を徹して至急に届けよとの、師中納言の命令である。北條時政が鎌倉に帰ってからは洛中での狼藉事件が頻発し、先月の29日夜には七ヶ所に群盗が押し入った、と。
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世間の騒乱は既に耳にしていると思う。鵜呑みにはできないような風説も、必ずしも無駄ではない。北條時政が在京中は院も安心されていた。代理の武士に警護を任せると申し出た時も、時政が任じるのが最善であると当人にも再三仰せられた。それにも関わらず下向してしまった結果がこの状態である。
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比叡山衆徒の中に義経に与する者がいるとの説もあり、事実であれば朝廷にとっての一大事である。以前から捜索を命じているが比叡山に隠れている証拠はなく、仏法に逆らって天台宗と騒乱を起こすのも憚られ、院にとっての禍にもなり兼ねない。先月20日の書状は一昨日為頼から受け取った。その返事として、院の意向正しく伝えて疑念を晴らすため、以上の仰せを承っているとお知らせする。   五月六日  吉田経房 源二位殿
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   ※20日の書状: (源)為頼の出自などと併せて4月20日の条に記載してある。併読が必要。
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   ※時政の実績: 北條系の権力者を有能に描くのは吾妻鏡の常套手段、経房の書状など残っていないだろう。
吾妻鏡の曲筆を指摘する歴史学者は多いが、その歴史学者が戦前の皇国史観をバックアップした方が遥かに恥ずかしい曲筆だと思う。更に安倍晋三の歴史修正主義や右傾化に警句さえ発しないのも、謂わば「曲筆」だ。まぁこんな事を書いても「馬の耳に念仏」だろうけど。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月14日
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吾妻鏡
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左衛門尉祐経梶原三郎景茂千葉平次常秀八田太郎朝重籐判官代邦通らが下若を携え静女の宿舎を訪れて酒宴を催し俗曲を歌い、静女の母磯禅師も歌舞を演じた。酩酊した景茂が言い寄ったため静女は落涙し、
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義経は鎌倉殿の弟、私はその妻である。あなたは御家人として普通の男女と同じ立場と考えるのか。義経が元の身分であれば同席することもなく、まして酒席でそんな態度をとれる筈もないだろうに」、と。
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今日廷尉(検非違使)大江公朝が院宣などを携えて到着、八田知家の屋敷に宿泊した。
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   ※下若: 中国浙江省長興県の地名。銘酒を産するため酒の別称に転じた。富山県射水市に下若の地名がある
が酒造問屋は見当たらないから、この場所は酒とは無関係か。
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   ※名簿: 梶原景茂は景時の三男、正治元年(1200)1月に駿河国狐崎で討ち取られた。千葉常秀は胤正二男
で嫡子成胤の弟、八田朝重は知家の嫡子。いずれにしても酒癖の悪いセクハラ男として歴史に名を残している(笑)。しかし(吾妻鏡をそのまま信じれば)静は凄いねぇ、これで18か19歳だもの。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月15日
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吾妻鏡
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北條時政の雑色が京から到着、去る六日に一條能保室が女子(後の 西園寺公経の正室)を平産したと報告。
また能保の伝言によれば、去る七日に京都守護に任じる院宣を受け、世の騒々しさを鎮めよとの指示を受けた。
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   ※京都守護: 鎌倉幕府の役職だから頼朝の任命だと思っていたら院宣が必要なのかな。いずれにしろ在京の
御家人を統括し警察権と司法権を握る職種で、幕府と鎌倉の調整窓口を務める部署。
承久の乱(1221年)後は六波羅探題となり、平家の六波羅邸跡の西部に庁舎を置いた。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月17日
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吾妻鏡
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大姫が南御堂(勝長寿院)に参籠、今日から二七日(14日)の予定で籠り続ける。これは(病弱の元と思われる)邪気を祓うのが目的である。
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   ※大姫: 政子が治承二年(1178)に産んだ最初の子。下に長男頼家・二女乙姫・二男実朝がある。
大姫は長女を意味する普通名詞(本名は不明)で、頼朝にとっては伊東祐親の娘(通称を 八重)に産ませた千鶴丸に続く第二子となる。寿永二年(1183)4月に許婚者の志水(清水)義高を父頼朝に殺されてから病床に就くことが多くなり、建久八年(1197)に未婚のまま病没する。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月18日
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吾妻鏡
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前摂政近衛基通の家領について先月詳細の勅答があり、師中納言吉田経房の書いた奉書が今日鎌倉に届いた。
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先月20日付の書状が4日に到着し、直ちに摂政の家領についての内容を院に奏上した。摂政退任と共に籘原の氏長者を譲らせる予定は当人の不承知によって撤回した。退任と同時に家領も分与せよとは、前摂政にとって甚だ不都合である。関白松殿基房退任の際にも同様の措置はなかったし、ましてや現在の摂政九条兼実には皇嘉門院領などの知行もあり、思った事は遠慮なく仰せられるべしとの事なので、院宣に従って申し送る。
                                          五月五日    経房
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   ※皇嘉門院: 九条兼実の異母姉で崇徳天皇の中宮となった藤原聖子。藤原(九条)兼実 を猶子とし、その後の
治承四年(1180)には兼実の嫡男良経を猶子として父の忠通から継承した最勝金剛院(現在の東福寺・公式サイト)領などを相続させた。これが九条家々領の原資となっている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月25日
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吾妻鏡
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一條能保北條時定および常陸房昌明の飛脚が到着し、前備前守新宮十郎源行家の首を持参した。まず使者を御所に呼び、仔細の経緯についてのを受けた。
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先日来、行家が和泉・河内一帯にいるとの噂があったため捜索していたところ、去る12日に和泉国の在庁官人・日向権守清実宅にいるとの知らせがあり、小木郷の家を取り囲んだ。行家は直前に背後の山に入りて民家の二階に逃げ込んだ。昌明が正面から討ち入って防戦した供の2名を捕縛し、背後から討ち入った時定が加わって行家の首を挙げた。また翌13日には行家の息子光家を討ち取った。
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一條能保の書状には行家を殺した旨を定長を介して奏上したところ「関与せず。摂政に報告せよ」との仰せで、摂政も同じ対応だったため鎌倉に送った、との事である。頼朝の喜びは大きく、恩賞もそれに伴うほどと思われる。
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前の備前守・従五位下源朝臣行家、大夫尉為義の十男で本名義盛。治承四年四月九日に八條院蔵人に補され行家と改名、寿永二年八月七日、勲功により備後守、同十三日に備前の守に遷任。
検非違使従五位下左衛門権少尉同朝臣光家、前備前の守行家の長子。 寿永二年十一月九日、蔵人・左衛門権少尉に任ず。勲功により宣旨を受け元暦二年六月十六日、叙留。
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   ※小木郷: 大阪府貝塚市畠中周辺で、近木・近義などの地名がある。元々は朝廷に櫛を納める職人が土着し
天皇・院・摂関家に属し給免田を得て周辺には社寺も点在していた。
和泉・河内の一帯は羽曳野通宝寺もある河内源氏の本拠、行家はその縁故を頼ったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月27日
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吾妻鏡
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夜になって静女大姫の希望に従って南御堂に入り、歌舞を演じて報奨を得た。大姫の参籠は明日で二七日となり寺を退出するため、これを催したものである。
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   ※大姫の希望: まだ数え9歳、現在なら小学校三年ほど。自由で健康で誇り高い静女に憧れていたのだろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月28日
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吾妻鏡
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去る16日発行の院宣が一通到着、院は行家が討たれ首が既に入洛した事を、天下のために特に喜んでいる。25日に着いた一條能保の書状では院が不機嫌らしく書かれていたため頼朝は疑念を抱いたが、この院宣で不信感を解消させた。この院宣の発行は能保の配慮によるものか。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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5月29日
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吾妻鏡
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美濃籐次安平が美濃国石田郷を横領している旨を、領主である刑部卿典侍(女官)が左典厩一條能保に訴え出た。 能保がこれを鎌倉に送り、折り返し横領の停止命令を能保宛に送った。
また筑前介兼能が上洛し後白河院に嫌われている事について弁解したいと申し述べている。
また寺社の運営などについて日頃から気に掛けていた頼朝は京都に申し入れると共に、東海道では守護らに命じて惣社や国分寺の破壊および霊跡や由緒の深い寺の被害を報告するよう指示した。その資料を奏上して状態に応じた修復を加える為である。
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三善康信藤原俊兼藤原邦通二階堂行政平盛時らの差配として各地に命令書を下した。
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   ※刑部卿: 本来は司法全般を統括する刑部省の長官だが平安末期に検非違使の業務拡充に伴い形骸化して
いた。文治元年(1185)12月に刑部卿の難波頼経が義経に与した罪で解官されており、この訴訟時点の長官が誰かは確認できない。父と共に流罪に処された嫡子宗長はその当時豊後守、赦免を受けた承元元年(1208)に刑部卿に任じている。彼は承久元年(1219)1月の実朝暗殺の際には坊門忠信と共に鎌倉に派遣され、八幡宮の事件現場に居合わせていた。
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   ※筑前介兼能: 前年10月27日に「筑前介兼能(村上源氏の文官)が朝廷への使者として京に向かった。」 との
記載がある。ところが後白河法皇に嫌われたらしく、「筑後介として着任の兼能が職務を果たさず叡慮に背くとの情報が再三ある、長く召し使わないように」との通知が吉田経房経由で頼朝に届いた。ただし、今年の4月5日には「解任したら朝廷も鎌倉も損失だから任務を忖度して使うべき」云々の意見が同じ吉田経房から届いている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月1日
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吾妻鏡
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今年は(戦乱などのため)国力が疲弊し農民も農作業に専念できなかった。頼朝はこれを憐れみ、三浦介義澄中村宗平に命じて相模国の主な農家に一人宛に米1斗を支給した。これは災いを祓う意味も兼ねている。
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夜になって、昨日武蔵国から鎌倉に入った豊後守毛呂季光が献酒に参上した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月2日
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吾妻鏡
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刑部卿の典侍が所領について(5月29日に)訴えた件、頼朝が下文を発行した。
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美濃国大野郡内石太郷の住人に下す。安平が非法を行っているとの訴えがある。 早急に美濃籐次安平の横領を停止させ、刑部卿典侍の命令に従わせよ。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月7日
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吾妻鏡
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神祇権大副(源)公宣が書状を提出、義経が伊勢国に現れて伊勢神宮に参詣し、奈良付近に隠れているとの噂があると報告。神宮の祭主(神官の長)能隆が義経に内通し祈祷を行っている可能性あり、と。
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   ※源公宣: 養和元年(1181)10月20日に「光倫神主が鎌倉に入った」との記載がある。この人物は今年の1月
19日にも、死没した神祇官副長官の後任人事を巡って不正があり、平家に与した能隆が着任したのは神慮に悖る、と訴えている。要するに、猟官に絡む不当な密告らしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月9日
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吾妻鏡
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今年4月、参議を介して政道についての提言を後白河院に上奏した。その勅答文書が師中納言吉田経房を通じて鎌倉に到着した。以下の各項である。
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一.諸社諸寺の修復について。
神社については、概ね全ての国衙に修復の指示を出した。貴重な諸寺については東寺を始め殆どが跡形もない状態で、申し出は尤もである。これは摂政に早急の処理を命じてある。
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一.記録所については、提言を受けた際に、訴訟に関する処理を摂政に処理を命じた。重ねて指示しておく。
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一.光雅朝臣については、聞き置く。
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一.各地の荘園については、追って検討する。
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一.播磨国(守護は梶原景時)の武士らによる横領について。
対応して処理したことは重々の喜びであり、人々の悩みは解消したと思われる。ただし五ヶ所の荘園については未処理であり、「代官の責任」とする景時の弁解も更なる確認を要する。寄進して誤魔化したり勝手に横領して相続を偽る類もある。安田庄は領家の若狭局からの預かりを称しているが、全く事実と相違している。ここから推測すると彼らは国務を侮っているから、早く叱って戒めさせるべきである。ここで見逃せば一旦は逃れ、隙を狙って違法を繰り返すだろう。
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一.備前国の件について。
頼朝下文の施行後に判断するが管理は全て国衙に任せ、武士には一ヶ所も治安を委ねる事はせず、全て法勝寺の塔を再建する費用に宛てる。来年は伊勢遷宮祭最初の山口祭が催されるから、その前に仏寺の件を終わらせる必要がある。
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一.美濃国の件については、在庁官人の申し立てについては既に沙汰が済んでいる。仔細は追って通告する。
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一.諸国の荘園に送った下文ついて。
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配布と告知は済んだが葦名為保が不満を漏らしている。阿波国久千田庄は父為清法師から相伝の所領なのに、なぜ地頭が他人なのか。この仔細は報告書が届いている。また山田庄については改めて述べるが前左馬権頭平業忠の件はどう処理するつもりなのか。高橋庄を横領した武士が虚偽の申告を以て済ませるのは納得できる処理に非ず、仔細を報告すべきである。
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一.高連島については、詳細を調査して処理されたし。
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一.春近(一條能保領)および郡戸庄の年貢について。
過怠なく納付するよう指示されたし。今後はその年貢を院の衣服に宛てるため早急の措置を。
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一.富士浅間神社領の件。
院領である事は既に通知してある。早く年貢を納付せよ。
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以上、記載した趣旨で下命するように。詳細の指示を行っている事は殊勝であり、人の愁いを除くのは世の中を鎮める基本である。謀反人が諸国を徘徊しているとの件は、早く捕縛して不安を取り除くべきである。
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※光雅朝臣: 右大弁光雅。頼朝追討の宣旨を書いたため義経に与したと判断され、前年12月6日に頼朝から
朝廷に解任を要求。同月29日に解官の宣旨が発行された。また、今年の3月29日には大江廣元が(頼朝の許可を得て)前大蔵卿高階泰経の流罪中止を承諾している。光雅についての「聞き置く」の意味は良く判らない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月10日
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吾妻鏡
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今日、丹後内侍が甘縄の家で病に伏した。頼朝は結城朝光千葉胤頼だけを従え、お忍びで彼女を見舞った。
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   ※甘縄の家: もちろん安達盛長の屋敷で、妻女は頼朝の乳母を務めた 比企尼丹後内侍である。
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盛長に嫁す前の彼女は惟宗広言(平安の歌人)と婚姻関係にあり、後に嶋津家氏祖となる惟宗(嶋津忠久)を産んでいる。薩摩家系図は忠久が頼朝の落胤だと主張しており、それが事実であれば頼朝(1147年5月9日誕生)は平治の乱勃発(1159年12月9日)以前に(つまり満12歳7ヶ月未満で)丹後内侍を妊娠させた事になる。
早熟の時代でも周辺環境を考えれば可能性は乏しく、系図捏造だろう。
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ただし頼朝と丹後内侍は実の姉弟のように睦みあって成長しており、鎌倉でも男女の関係にあった可能性は高い。安達氏は盛長−景盛義景泰盛と続いて嫡子宗景の「曽祖父の景盛は頼朝の落胤だから私は源氏だ」発言となり、弘安八年(1285)の霜月騒動(wiki)を引き起こした、と「保暦間記」は記載している。落胤説が事実か、霜月騒動の契機になったかは確認できない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月11日
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吾妻鏡
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藤原親光が書状で報告、先月の28日に対馬守に復帰した。これは偏に頼朝推挙の結果である、と。
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また熊野別当は上総国畔蒜庄を知行しているが、これは頼朝から地頭職を分割して与えたものである。代官に任じた足利義兼和田義盛の両者とも熊野の指示に従わず年貢も怠っていると鎌倉に訴え、更に京都にも報告を計画しているとの報告が届いた。驚いた頼朝は二階堂行政に処理を命じ、義兼と義盛に命令書を送った。
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   ※上総国畔蒜庄: 現在の房総半島内陸部、久留里の一帯。江戸時代は久留里藩として繁栄した。
確かに、近縁の義兼と近臣の義盛が共に非法を行なったら頼朝も言い訳不能の恐れがある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月13日
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吾妻鏡
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当番の雑色宗廉が京都から到着。去る6日に一條河崎観音堂付近で義経の母と妹を拘束した、鎌倉に送るべきかを問合わせてきた。
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  ※河崎観音堂: 鴨川西岸(上京区梶井町、この辺)、一演法師建立の感応寺境内にあった。
創建は貞観年間(859〜877年)、享禄四年(1531)に兵火で焼失した後に一演法師所縁の清和院(地図)に併合された、らしい。常盤の夫一條長成の邸は一條通にあり、常盤は邸から近い河崎観音堂を信仰していた可能性がある。
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義朝の側室として常盤が産んだ長男の阿野全成(幼名今若)は鎌倉で頼朝に仕え、二男義圓(幼名乙若)は既に美濃墨俣合戦で戦死していた。吾妻鏡には義経捜索の際に常盤(48歳)についての記事が載っているが拘束されなかったらしい。後妻とはいえ正四位下大蔵卿一條長成の正妻(長成は老齢と推定されるので既に死没かも)、簡単に拘束できないような気がするが...。
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これが常盤の名が見える最後の公式記録となる。彼女が産んだ長成の嫡子能成は義経と行動を共にし、常盤が捕まった前年の文治元年(1185)12月に頼朝の圧力で侍従職を解かれている。失脚したものの、頼朝死没後の承元二年(1208)に復帰し、建保六年(1218)には従三位に昇進している。常盤も公卿(主に従三位以上)の母として恵まれた晩年を送ったと思いたいけれど、保延四年(1138)の生まれだから建保六年には80歳、ちょっと無理かな。
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同行の妹は清盛の娘・廊御方とも長成の娘とも言われるが裏付けはなく、伝承の域を出ない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月14日
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吾妻鏡
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丹後内侍が平癒した。病床に就いていた間は頼朝が願掛けをしていたが、これで一段落した。
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  ※丹後内侍: 函南高源寺の寺伝は「愛妾丹後局懐妊の折に頼朝が安産を祈って参籠し子育て地蔵尊に祈った」と
主張する。もちろん週刊誌ではないから、現在の夫である安達盛長のコメントは載っていない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月15日
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吾妻鏡
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大宰府天満宮の宮寺・安楽寺の別当僧安能は平家に与していたと情報があり、頼朝はそれを憤って解任させようとした。この発端は安能と同族の珍全が別当職就任を望んで朝廷に画策したためである。安能は使者を送り、 籘判官邦通に仔細を述べ、永久年間(1113〜17)の起請文や保延年間(1135〜41)の宣旨などを鎌倉に提出した。
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  「寺の職務を果たしつつ時の権力者に申請して横領などを受けぬよう願ったもので、これらには証文もある」
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    面倒なので提出書類の明細は省略した。長々と主張の明細を述べ、同時に「規則や長幼の順や前例を無視
して籘氏長者の推薦も得ず猟官運動をする者を排除するよう願っている。同時に右中弁源(俊雅)朝臣がこの内容を追認し太宰府に通告している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月16日
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吾妻鏡
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頼朝と御台所は比企の尼邸に渡御した。緑が樹陰が多く涼しい場所であり、花園も楽しめると誘った為である。終日に亘って宴を楽しんだ。
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   ※比企尼邸: 流人時代以来の貢献により与えられた屋敷で現在の比企ヶ谷にある 妙本寺の一帯。
吾妻鏡のどこかに「菊を見に比企邸へ云々」の記事があったと記憶しているが...。
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比企の尼の夫・比企掃部守は既に没し、男子のいなかった比企家は甥(と伝わる)比企能員が跡を継いだ。頼朝の没後には歴史の転換点となる「比企の乱」が勃発し、一族は滅亡する。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月17日
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吾妻鏡
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梶原朝景 の使者が京都から参着、内大臣家の訴えとして、家領が武士の非法行為を受けている旨を報告した。越前国で北條時政の目代・越後介高成が国衙の業務を妨害しており、般若野庄は籐内朝宗(比企朝宗が、瀬高庄は籐内(天野)遠景が、大島庄は土肥次郎實平が、三上庄は佐々木三郎秀能が、それぞれ3年から2年間の年貢から規定を越える横領を行っている、と。
頼朝は非常に驚き、速やかに停止させよとの指示を各人に下した。
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   ※梶原朝景: 景時の末弟友景(または朝景)。正治二年(1200)1月20日の駿河狐ヶ崎での一族滅亡に記載は
ないが、「伴党36人の首を晒した」とあるから討死したのだろう。ここは伊豆から比較的近いのにまだ訪問していない。ちょっと心残りになっている場所だ。
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  ※般若野庄: 寿永二年(1183)4月、倶利伽羅峠合戦の直前に越中磐若野(富山県高岡市の弓の清水(地図
に着いた平家の先陣・平盛俊が9日早暁に今井兼平 軍の奇襲を受け、善戦したが敗色が濃くなり午後になって退却している。木曽義仲ファンなら知ってるかも。
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   ※内大臣家: 当主は徳大寺実定、頼朝の信頼を受け 九条兼実の片腕として働いていた。 .
   ※籐内朝宗: 比企能員の弟または近親者とされる。妻は政子の官女だった越後局。娘の「姫の前」は頼朝が
仲介し「決して離縁しない」との誓詞を入れた北條義時に嫁している(比企の乱後に離縁)。
上記した比企の乱での死没者リストに載っていないため縁戚として殺害を免れた可能性がある。
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   ※佐々木秀能: 秀綱と記載している写本もあるが、三上庄(近江国野洲郡)を支配している佐々木三郎は秀能
(秀義)と考えるべき。秀綱は別系の佐々木氏で、安土の沙沙貴神社(wiki)を本拠とする神職系の実力者。野洲郡には支配が及んでいない。
平家追討により本領の佐々木荘を回復した秀能(秀義)は元暦元年(1184)7月の三日兵士の乱で討死して近江権守を贈られ、嫡子定綱は文治三年(1187)に近江守護に任じた。吾妻鏡の編纂者が秀綱と定綱を混同した可能性もある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月18日
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吾妻鏡
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水尾谷籐七が使者として京に向かった。去る二日に前池大納言平頼盛卿が没し、その弔問の為である。
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   ※水尾谷籐七: 前年の10月17日に土佐房昌俊に従って義経の六條室町邸を夜襲した武士の中に美尾谷十郎
の名前がある。「平家物語巻十一の五 弓流」にも悪七兵衛景清と組み合った美尾屋十郎(両方とも籐七の弟か)の名が載っている。本領は比企郡川島町、詳細は10月17日の頁で。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月21日
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吾妻鏡
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行家と義経を捜索するため近畿一帯の諸国に守護・地頭を配置したが、彼らが兵糧米の徴収を理由に無法を働くとの訴えが頻発し民の愁いで国の疲弊も進んでいる。従って諸国の守護と地頭を更迭するが、平家から没収した所領についてはその措置を除外する、と頼朝は朝廷に申し入れた。
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師中納言吉田経房を通じて奏聞するよう、大江公朝が帰洛するついでに書状を預けた。また大江廣元が使節として上洛することになる。後白河が天下を鎮めるための院宣を発行したためである。
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非道を糺断し武士の非法を停止させるべき国々
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山城国 大和国 和泉国 河内国 摂津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 岩見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国 若狭国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国 土佐国
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この三十七ヶ国々に院宣を下さる。武士の非法を糾し正常な姿に戻すためである。ただし鎮西の九ヶ国は吉田経房の指示に委ねる。また伊勢国では平氏に与する者の謀反が起きているため平氏に替わる地頭を補任した。
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しかし新任の守護が頼朝の下文も帯びず社寺や公卿の所領で勝手に横領しているのは驚くべき状態である。今となっては諸国に院宣を下し、あるべき状態に戻すしかない。
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伊勢国に限らず、謀反人がいた国々などには地頭を置いているが、荘園は本家や領家の賦役を・国衙は国の賦役を、先例に従って行うよう命じる。もしも本家や国衙に従わず不当な行いをする者がいれば処分となる。
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謀反人に対応するためとの理由で地頭を配置した場所であっても停止の命令に従い院宣には背かないと、師中納言を通じて奏上する為である。        文治二年六月二十一日    御判
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月22日
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吾妻鏡
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一條能保の飛脚が京都から到着。義経が仁和寺(公式サイト)または石倉周辺に潜むとの情報があり、梶原朝景と後藤基清以下の精兵を派遣したが事実ではなかった。比叡山に潜伏し悪僧らの保護を受けているとの噂もある。
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   ※石倉: 左京区岩倉(地図)の一帯で石蔵・岩蔵・石倉・石座などの呼称もあった。幼少時代の岩倉具視(wiki)
を養子とした岩倉具慶出自の地でもある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月25日
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吾妻鏡
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歓喜光院領の播磨矢野別府の事、海老名四郎能季が地頭と称して歓喜光院の指示に従わない旨の院宣が下され、頼朝は今後の非法を禁じる命令を下した。
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   ※歓喜光院: 変遷を経て、現在の菅原院天満宮神社(wiki)に変った。矢野荘は藤原顕季(正三位・修理大夫)
から孫の美福門院得子(鳥羽上皇后)が相続して立券した荘園(兵庫県相生市)で、矢野はその飛び地。美福門院は祈願寺として歓喜光院を創建し、矢野荘を寺領とした。
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永暦元年(1160)に彼女が没すると娘の八条院(ワ子内親王)を経て得子の乳母・伯耆局が譲り受け領家とし、その一部(矢野別府)を歓喜光院の寺領と定めた。
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   ※海老名能季: 村上源氏の子孫を称する。現在の神奈川県海老名市を本拠とした武士で、武蔵横山党から迎え
た男子(季兼)−源八季貞(義朝の配下として保元の乱に参戦)−有季−能季と続いている。季兼の弟・家季は矢野荘に土着して地頭に任じたとの資料もあり、補任との断定はできない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月28日
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吾妻鏡
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(京都守護職の)一條能保の飛脚が到着、去る16日に北條時定が大和国宇陀郡で義経の婿・伊豆右衛門尉源有綱と合戦。敗れた有綱は山に入って自殺し、郎従三人も負傷して落命した。残党の5人を捕縛し、有綱の首と共に役人に引き渡した。有綱は伊豆守仲綱の息子である。
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   ※義経の婿: 軍記物語では奥州にいた頃の義経の妻が産んだ娘の婿と書いているが、これは年齢の面で無理
がある(義経が秀衡の元にいたのは22歳まで)から養女の婿だろう。 仲綱頼政の嫡男で大治元年(1126)生まれ、平等院で父と共に戦死している。
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  ※大和国宇陀郡: このエリアは散々歩き回った。興味があれば道の駅 宇陀路大宇陀八咫烏神社・宇賀神社
なども参考に。なつかしいなぁ...。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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6月29日
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吾妻鏡
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伊勢国林崎御厨の件、平家に与した家資の所領として没官領に含めた地域だが、領家である伊勢神宮の訴えにより地頭を置かぬよう院宣が下されたため宇佐美実正(大見実政)による知行を中止させた。また成勝寺の再興についての配慮を朝廷に求めた。下文は次の通り。
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伊勢国林崎御厨の住人に下す
宇佐美平次實正の地頭職を停止し伊勢神宮の管理に委ねること。この御厨は謀反人家資の知行地だったが、先例に従い實正を地頭職に補任した。然しながら伊勢神宮神官の訴えにより實正の職務を停止する。ただし再び元に戻す(家資に戻す、の意味?)のは不都合なので当分は神宮が管理し諸事の手配を行うように。
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また成勝寺の修造は早急に行わないと更に破損して大規模な作業が必要になる。修造が天下静謐の祈りであり、全国の寺社復興も続いての指示をお願いしたい。      頼朝    師中納言(藤原光雅)殿
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  ※成勝寺: 山城国愛宕郡(京都市左京区)に建てた勝の字を含む
六山の祈願寺・六勝寺(wiki)の一つ(所在は右の地図を参照。もちろん現在は石碑が見られるのみ)。
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成勝寺は崇徳天皇の祈願寺で崇徳院の鎮魂を祈る法要も行われた。現在の左京区岡崎成勝寺町の京都市勧業館(地図)の地にあり、東西二町・南北一町(220×110m)の規模だったと伝わる。
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全ての六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)は院政の衰退と再三の災害や戦乱により、応仁の乱(wiki)つまり1477年以後には廃寺となった。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は北條時定 を兵衛尉に任じるよう京都に申し入れた。再三の勲功を上げたのが理由である。また伊勢国の伊勢神宮領林崎御厨の地頭は廃止するとの書状を左中弁光長宛に送った。これは奏聞のためである。
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  ※北條時定: 時政の甥・従兄弟・弟の諸説あり(時政の七歳下)。当サイトでは甥として扱っている。時政の代官
として京都周辺の治安維持と義経行家の探索に任じていた。
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  ※林崎御厨: 所在は鈴鹿市林崎(地図)、伊勢鉄道鈴鹿駅の東側に広がる肥沃な水田地帯。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月7日
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吾妻鏡
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諸国に置いた地頭について、平家から没収した所領と謀反を企む輩の所領以外・つまり摂関家など(有力な)公卿の領地では停止する旨を朝廷に連絡した。
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   ※地頭の停止: 中学時代の日本史では「義経搜索の名目でスタートし、幕政の安定に大きな成果を挙げた」と
教わったが実際には利権を手放したくない朝廷の抵抗も一筋縄では治まらなかったんだね。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月8日
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吾妻鏡
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院の北面の武士・左衛門尉能盛入道と院の官人・定康の所領に於ける(地頭の)非法行為を早急に停止させよとの仰せが後白河法皇 からあり、一條能保からその旨の書状が届いた。
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   ※北面の武士: 白河法皇(72代天皇)が院の衛兵として採用したのが始まり。上皇に権力が集中するに従って
肥大し、やがて「私兵または直属部隊」に近い存在として利用される場面も現れる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月11日
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吾妻鏡
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前備前守で5月13日に追討した十郎行家を供養するため、明日法要を行う。夕刻に筑後権守俊兼が差配し布施などを行慈法橋の許に届けた。
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   ※僧の位階: 多少の変遷はあるが、法印(大僧正・僧正・権僧正)−法眼(大僧都・僧都・少僧都・権少僧都)−
法橋(大律師・中律師・権律師)の10位があり、その下に位階を持たない凡僧(法師)があった。
行慈法橋は吾妻鏡の催事記録に結構頻繁に現れるから、実務を担当していたのだろう。
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   ※蛇足: 政情が安定すると既得権擁護に動くのは世の常、宗教界にも蓄財に走り女を囲う輩が現れる。
鶴岡八幡宮でも供僧の腐敗は深刻だったらしく、慶応四年(1868)発布の神仏判然令(神仏分離運動)の際に神職や檀家などから積年の恨みを晴らす例が多発したという。
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権威を背景にして800年も搾取し続けたのだから無理もないが...僧は放逐されて車夫などに零落し、この時に膨大な仏像・仏具・文書(今なら国宝級も多かったはず)が流失した、と伝わっている。
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「平和」を党是としながら安倍政権に迎合し続け、しかも「我々が努力したからここで食い止められた」と毎回のように嘘を吐いて自己弁護する)、結局は海外派兵まで容認した「こうもり党」も創価学会も、いずれは仏罰(笑)を受けるだろうね。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月15日
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吾妻鏡
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盂蘭盆(うらぼん)を迎え勝長寿院で萬灯会を行った。頼朝と御台所が渡御し両親ら祖霊の得脱菩提を祈った。
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   ※盂蘭盆: 起源は中国の盂蘭盆経(経典)で、死者の魂を救うための仏事だった。日本では神道と習合して祖霊
を供養する盆の仏事に変化した。ちなみに神道では、死霊は三十三年回忌を迎えると個性を失って祖霊の集合体(祖神)と同一化する。神となった祖霊は毎年の盂蘭盆に子孫の家を訪問して供応を受け繁栄を守護する、これが大きな神社で見る祖霊社である。
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   ※萬灯会: 燈明を供えて罪を懺悔し四恩(三宝・国家・父母・衆生)に謝する法要。闇を除き、智恵・福徳・涅槃を
得る。真言宗では天長九年(832)が勅許を得た空海高野山で萬燈会を催したのが最初とする。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月18日
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吾妻鏡
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出雲国園山庄で前の下司職の任にあった師兼は、現在は朝夕祇候人を務めている。
特に功績はないが、任憲大徳と昵懇な関係にあるため優遇を受けている。当人は園山庄下司職への還任を望んでいるため、今日頼朝から吉田経房に渡すための推薦状を与えられた。
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   ※朝夕祇候人: 元暦元年(1184)6月4日に記載のある「朝夕官仕」と同じ。所領を持たず御所に住んで1日に
玄米五升の俸給を受ける勤務体系。食住を保証された住み込み、か。
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   ※任憲大徳: 頼朝の母(熱田大宮司藤原季範 の娘)の弟・祐範の子、大徳は「清廉な僧」を意味する。
園山庄(神門郡薗山荘)は元々吉田経房 の所領(上西門院の縁故で得たか?)であり、この記事からは上西門院・藤原季範・頼朝・吉田経房・任憲大徳・師兼の密接な関係が読み取れる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月19日
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吾妻鏡
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駿河国の富士領の社務を担当する福地社に神田を寄進、江間四郎がこれを差配した。
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   ※富士領: 富士山信仰の原点である現在の富士浅間大社 (公式サイト)を差す。広い無料駐車場があり、気軽
に参拝できる。犬が元気だった頃は本殿裏手の湧玉池から流れる清冽な神田川(巾3m・深い場所で40cmほど)で水浴びを楽しませていた。今でも涙が出る、思い出の一つ。
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福地(フジ)社は浅間大社以前からこの地にあり、浅間大社の摂社を経て現在の富知神社になった。祭神は大山津見神、浅間大社の祭神・木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメ)の父神(地主神)で福地明神社・不二神社とも呼ばれ、現在は浅間大社の北西500mに三峯神社と同居している。
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   ※江間四郎: 北條時政 の二男義時を差す。長男の宗時が治承四年(1180)8月の石橋山合戦 から敗走する
途中で討死しているため、この時点から嫡子となった。個人的には、時政の本領である北條より江間(北條から狩野川を渡った西側)の方が広いことに疑問を持っている。伊豆の伝承では頼朝の愛人だった八重(伊東祐親の娘)は義時に再嫁した事になっており、個人的には時系列の迷路に踏み込んで悩んでいる。「鎌倉時代を歩く 弐」の田方盆地鳥瞰図を含む周辺記事を参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月24日
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吾妻鏡
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後白河院の祈願として、平家の怨霊を鎮めるため高野山に大塔を建立した。
去る5月1日から荘厳な法要を行い、維持管理の費用として証書を添え備後国大田庄(平家没官領)を寄進した。
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ただし地頭の土肥弥太郎による年貢の横領がある旨の訴えがあり、朝廷からの地頭停止申し入れによって頼朝が地頭退去の命令を下した。
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   ※高野大塔: 別称を「壇上伽藍」、空海と二世・真然大徳が二代(816〜887
年前後)を費やして築いたと伝わる高野山のシンボル・多宝塔(創建当初は16丈、48.48m)。記録に残るだけでも5回焼失しており、何回目かに後白河が再建・寄進したのだろう。
現在の多宝塔は昭和十二年(1637)の完成で、高さ48.5m。
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右画像は現在の高野大塔(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月25日
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吾妻鏡
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大夫尉伊勢守平盛国入道は去年鎌倉に連行され岡崎義實三浦介義明の弟)に預けられ日頃から法華経を唱えて食を絶ち、今日死没してしまった。頼朝はこれを聞き、彼を囚人として処遇したことを恥じた。
盛国は下総守季衡の七男、平家の一門である。承安二年(1172)10月19日に出家を遂げ、享年は74歳。
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   ※平盛国: 平正度−四男季衡−七男盛国と続く平氏傍流。清盛から見ると祖父正盛の従兄弟にあたる。
治承五年(1181)閏2月4日の吾妻鏡に「夜半に入道相国(平清盛)が九條河原口にある盛国の家で死去した。先月の25日から病床にあったものである」との記事がある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月27日
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吾妻鏡
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去る19日、因幡前司大江廣元が平家から没収した京都市街の目録を提出、今日頼朝がこれを閲覧した。
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木曽義仲の領三ヶ所の内 信兼家地一ヶ所・楊梅 友實家地一ヶ所・仁和寺 平家領一ヶ所・正親町重衡卿領
烏丸御局の領一ヶ所 左女牛南・東洞院西
中原親能の領一ヶ所 和泉守信兼(山木兼隆の父)家地・楊梅南・朱雀西
北條時政の領一ヶ所 綾小路北・河原東の景高(宗盛家人)領
土肥實平の領一ヶ所 楊梅の信兼領
後藤實基の領一ヶ所
近衛局の領一ヶ所 二条南・室町東の経盛(清盛の弟)卿領
南無阿房の領一所 堂敷地の高倉東・八條北の故平内尉領
                                    以上十箇所         在判(廣元)
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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7月28日
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吾妻鏡
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後白河の意向を記した師中納言吉田経房の奉書が到着。新日吉領(法住寺殿の鎮守社)の武蔵国河肥(河越)庄の地頭が一昨年から年貢を滞納している件および同じく長門国向津奥庄での武士の狼藉横領の件、現地の庄司の詳細報告を添え、早急の処理を申し入れる6月1日付の内容である。
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向津奥の件は直ちに下川邊行平に調査を命じた。河肥庄については領主が幼少で手続きに齟齬があったため、担当者を改めて正確に納付せよと武蔵守(大内義信)宛に書状を送った。藤原俊兼の差配である。
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   ※河肥(河越)庄: 河越重頼は義経謀反に連座して文治元年(1185)の末に失脚し嫡子重房と共に討たれ、
重頼の室(比企の尼の二女)は出家した。遺族を哀れんだ頼朝は文治三年(1187)10月に河越荘を河越尼に与え、彼女に従うよう領民に命じている。その間は「尼の預かり」としたらしいが、今回の滞納は空白の時期が原因だろうか。河越庄明細は河越氏館跡と重頼墓所で。
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  ※謀反に連座: 河越重頼の娘(郷御前)が義経に嫁した経緯に拠る。ただし吾妻鏡の元暦元年(1184)には、
  「この婚姻は頼朝の指示により兼ねて約束を交わしたものである」
と記載しているから、明らかに無茶な処理だった。同様に重頼の娘婿だった下河邊政義も所領を没収され、名目上の徴兵権を持つ武蔵国留守所惣検校職は河越氏から畠山重忠に移った。
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元久二年(1205)6月にはその畠山重忠も二俣川合戦で殺され、武蔵国の支配権は北條氏に移っている。相模に続いて武蔵国を狙う北條氏の深謀遠慮があったのだろう。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは7月の次が閏7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば静女が八幡宮で舞った文治二年4月8日は西暦では4月28日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイト (外部)が利用できる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏 7月2日
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吾妻鏡
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頼朝が草野大夫永平が望む職に推挙するのは彼の勲功が理由である。吉田経房宛の書状は以下の通り。
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平家が朝廷の権威に背いて謀反を企てた際、鎮西武士の大部分は平家に従ったが、筑後の住人草野大夫永平は二心を持たず朝廷に従って忠義を尽くした。彼ら在庁の官人は元の職務に復するべきと考えるが、私の決裁権には含まれない。奏聞のうえ永平を復職されるよう依頼する。      頼朝    師中納言殿
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   ※草野氏: 文治二年(1186)12月10日に松浦郡鏡神社(外部サイト・地図)の宮司に補任され松浦郡東郷に
に所領を得た。子孫は土着して館を構え松浦川東側一帯の草野庄を領有、草野党は天正十五年(1587)の秀吉島原征伐に参陣を拒み滅亡した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月10日
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吾妻鏡
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一條能保の飛脚が到着。義経の小舎人童五郎丸を捕縛し尋問したところ去る6月10日の頃まで比叡山に隠れていたと白状した。比叡の悪僧俊章・承意・仲教らの協力があった、と。従ってその内容を天台座主(59代全玄)と法印(九条兼實の弟・慈円)に連絡し、更に院に奏上した。
なお、義経は三位中将殿(九条兼實の二男・良経)と同名なのを憚る習慣に従って義行に改めている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月19日
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吾妻鏡
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先日来上洛していた大江廣元が鎌倉に戻った。諸国の守護・地頭などについて後白河法皇の下問に答えて所存を申し述べた。また播磨国と備前国での武士の非法行為を文書で指摘され糾明せよと指示された。廣元は頼朝の腹心として随一の人物であるとの評価を受けて面目を施した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月22日
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吾妻鏡
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前廷尉の平康頼法師(wiki・元は平家の家人で散位)が領地を得る恩沢に浴し、阿波国麻殖保(おえほ)の保司となった。尾張国野間庄にある故義朝の墳墓は訪れる者もなく草に覆われる状態だったが国司の目代として赴任した際に水田30町を寄進して堂を建て、常日頃から6人の僧に念仏の供養を続けさせた。この功績に酬いた結果である。
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   ※保司: 庄司と同じく、所領の単位を管理する職。保は国主の承認を得て開発した土地を差す。
   ※野間庄: 平治の乱で敗れた義朝が謀殺された地。詳細は野間大坊を参考に。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月26日
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吾妻鏡
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一條能保の書状が到着。義経に協力した比叡山の僧を出頭させる件を天台座主に申し入れたところ、逃亡したとの返答があった。しかし去る11日には延暦寺に隠れ続けているとの噂があり、この仔細無後白河院に報告した。
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16日に院の御所で会議があり、該当する3名を出頭させよと延暦寺と横河の末寺・荘園など全ての関連ヶ所に命令が下った。それに伴って逃亡した連中の仲間として3人が出頭し、彼らは検非違使に引き渡した。
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しかしながら安易に軍兵を派遣すると天台宗との紛争や仏教の弊害になる恐れもあり、取り敢えず仔細を座主に知らせるよう諸卿の意見が纏まった。17日にその旨の院宣が左少弁定長から師中納言 吉田経房に届けられた。
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   ※横河: 延暦寺中心部から5km弱北、三世座主慈覚大師円仁が開いた横川中堂を中心としたエリア。
平治物語は平家軍との合戦に敗れた義朝を討ち取ろうと「横河(よがわ)の法師が身分の上下を併せて4〜500人、龍下越に逆茂木を引いて待ち構えた」と書いている。頼朝の異母兄朝長が股に矢を受けて負傷したのもこの戦いだった義朝の逃走ルートは洛北から堅田へに記載してある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月28日
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吾妻鏡
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伊勢神宮の禰宜長重が召されて衣冠の正装で御所に参上し、駿河国の方上御厨を内宮に寄進すると頼朝から言い渡された。下文は既に22日に発行されているが長重の到着が遅れたためこの仕儀となった。義行(義経)が神宮に参詣して祈ったとの噂があり、彼の反逆心を破るための措置である。
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   ※方上御厨: 現在の焼津市方ノ上(地図)だが、「御厨を寄進する」の意味が判らない。
   ※義行(義経): 鎌倉側は義経の行方が知れるように「義行」、早く顕れるように「義顕」としている。バカらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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閏7月29日
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吾妻鏡
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静女義経の息子である男児を出産した。これまで帰洛を禁じられ鎌倉に留められていたためで、父親は関東に背いて謀反を企み行方不明になっている。赤子が女だったら母親に渡す、もし男であれば今は産着の中に居ても将来は危険の種になる可能性があり、幼いうちに殺すと定められていた。
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その経緯があって、命令を受けた安達新三郎が今日、由比ガ浜に赤子を沈めて殺した。静女は数時間も泣き叫び赤子を抱きしめて渡さず、譴責を受けた母の磯禅師が赤子を無理やり抱き取って新三郎に渡した。この件については御台所政子が赦免を勧めたが、頼朝は応じなかった。
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   ※幼子を殺す: 頼朝の頭には平治の乱で助命された自分が平家を滅ぼした、その認識があったのだろう。
人類は同じ歴史を繰り返す。いい加減にその愚かさを悟っても良い筈なのだが...
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月3日
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吾妻鏡
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先月の20日頃、義経に協力していた悪僧の仲教および承意の母親を捕えたとの報告が比叡山から朝廷を経て一條能保 に届いた。更に義経の居所を確認せよとの仰せがあった。
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   ※悪僧捕獲: 原文は「生虜同意豫州悪僧仲教及承意母女之由」だから悪僧2名の母親(つまり母親が二人)では
なくて仲教+承意の母なんだろうな。すると「仲教の母と承意の母」の場合はどう書くのだろう。
あ〜、高校時代の漢文教師の顔を思い出す。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月4日
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吾妻鏡
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比企籐内(朝宗)が使節として上洛。後白河法皇の熊野詣でに伴う費用供物を献上するためで、以前から諸国の荘園に割り当てて徴収したものである。
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   ※熊野御幸: 速玉大社には歴代皇族の熊野参詣記録の碑がある。最多は 後白河法皇の33回、そけに続いて
後鳥羽天皇の29回と鳥羽院の23回が続く。合計23人・141回、と。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月5日
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吾妻鏡
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師中納言吉田経房の書状(先々月・7月28日)に返状を送った。新日吉領の武蔵国河越庄年貢の件と、長門国向津奥庄に於ける狼藉の件に関してである。平盛時がこれを書いた。
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6月1日の御教書が7月28日に届き、謹んで拝見。新日吉社領の武蔵国河肥庄は元々請所として年貢を納めていたが、去年領家(河越重頼)逝去の知らせがあって年貢の納付先が確認できず、両家からの報告を待っているうちに返書が遅れてしまった。地頭(この時点では河越尼の預かり)が意図した滞納ではない。現在は領家の孫・禅師君に領家を継がせるので遅滞なく処理させる予定である。
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また同じく(指摘のあった)長門国向津奥庄の地頭職は平家の与党である豊西郡司弘元を罷免し景国を補任したもので、景国が悪行を重ねているのが事実なら論じる必要もなし、上洛して仔細を報告し裁決を仰げば良い。取り敢えずは非法を止めさせ日吉社の指示に従うよう命令を下した。   頼朝
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   ※請所: 収穫の善し悪しに関係なく、荘官などの管理者が徴収した年貢から一定額を荘園領主などに納める
システム。領主側には定額収入が見込めるが、関連して係争が起きる原因にもなっている。
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   ※重頼失脚: 義経に連座して所領の伊勢国香取五ヶ郷は没収、大井實春 (紀氏系の御家人)に与えられ本領
の河越荘のみが尼の預かりとなった。尼が正式に地頭職継承を許されたのは文治三年(1187)10月になる。重頼と嫡子重房は殺され(文治二年(1186)末〜翌年初頭)、その後に二男重時が地頭職を相続した。嘉禄二年(1226)には空白だった秩父氏・河越氏相伝の名誉職・武蔵国留守所検校職は三男重員に与えられたが、既に武蔵国司は北條時房が任じている。河越氏は北條氏の分断政策によって重時系と重員系に分かれ、更に弱体化された。
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   ※禅師君: 重頼嫡男重房(1169年誕生・当時16歳)には子の記録がなく、孫として可能性があるのは後に家督
を継ぐ二男重時(当時14〜15歳?)の嫡子(成人して泰重)のみだろう。後に三代執権泰時 から「泰」の字を与えられ、北條氏に取り込まれている。
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   ※長門景国: 吾妻鏡の今年10月23日に次の記載がある。
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長門江太景国が御台所の怒りを受けた。頼朝が側妾(御所の侍女・大進局、常陸入道念西の娘)に産ませた男児(当年2月誕生・後の貞暁)を養育しているのが露見したためである。今日景国は若公を抱いて深沢の辺りに逃げ隠れた。
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景国は向津奥庄の地頭職を解任され、鎌倉に戻っていたのだろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月6日
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吾妻鏡
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(閏7月2日に)草野大夫永平の所望について推挙した件に院の勅許があり、師中納言吉田経房 の書状が届いた。
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平家が朝廷に背いて都を離れた際、鎮西の武士は殆どが平家に従ったにも関わらず永平は彼らに与せず忠節を保った事は院にも届いている。よって筑後の在国司(国司の筆頭代官)と押領使の両職に任じる旨を後白河法皇 の意向通りに通達する。     閏7月26日   太宰師(吉田経房)
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月7日
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吾妻鏡
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鎮西の住人草野次郎大夫永平は栄誉ある言葉を受けて本領の安堵を得た上に更なる勲功も得ることになる。これは平家に従わず源家に尽くした結果である。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月9日
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吾妻鏡
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勝長寿院の山門が風によって破損したため今日修理を行い、頼朝がこの様子を確認に訪れた。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月15日
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吾妻鏡
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頼朝が鶴岡八幡宮に参詣、一人の老僧が鳥居の付近を歩いているのを怪しんで梶原景季に素性を確認させると佐藤兵衛尉憲清法師、現在の西行法師である。頼朝は参詣を済ませたら落ち着いて面談し和歌の話などを交わしたい旨を伝え、承諾を得た。頼朝は早々に参詣を済ませて御所に戻り西行と面談、和歌や弓馬について色々と質問、西行は次のように語った。
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弓馬の事は出家する前に家風を受け継いだに過ぎず、家に伝わった兵法書などは保延三年(1137)8月に俗世界を離れた際に焼き捨てて心にも留めていない。和歌については、花鳥風月に心を動かした折に三十一文字を並べるだけで全く奥義など知らず、申し上げたいような事はない。
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それでも色々と話すうちに弓馬についても具体的に語り、内容は藤原俊兼が書き止めた。歓談は終夜に及んだ。
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   ※西行と面談: 諸国を巡リ歩いた漂泊の歌人。この時は東大寺再建の勧進を求めて奥州平泉に向かう途中で、
鎌倉の援助を願うため頼朝を待ち受けていた、と思われる。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月16日
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吾妻鏡
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午の刻(正午前後)に西行上人が退出した。頼朝 は熱心に引き止めたが、西行は応じなかった。頼朝は銀造りの猫を贈り物とし、西行は門を出てから遊んでいた幼児にこれを与えた。 西行は重源上人の依頼を受け東大寺再建の砂金拠出を依頼するため奥州に赴くついでに鶴ヶ岡に立ち寄ったもので、陸奥守秀衡入道は同じ一族である。
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   ※銀造りの猫: 文治五年(1189)8月22日、奥州征伐の際に平泉に入った頼朝は葛西清重らに焼け残った倉
を調べさせ、金造りの鶴や瑠璃の灯爐など宝物の中に「銀造の猫」があるとの報告を受けた。
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本当に門前の幼児に与えたのか、西行が平泉に持ち込んだのか、あるいは偶然同じ銀の猫があったのだろうか。既に確かめる術のない話ではあるが。
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ちなみに、奥州から戻った西行は伊勢を経て河内に隠居し、鎌倉に立ち寄ってから4年後の建久元年(1190)2月に没している。定住と漂泊を繰り返した、良寛や芭蕉の先駆者でもある。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月18日
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吾妻鏡
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鎮西の安楽寺(天満宮別当寺)の別当僧安能には(平家に与した)罪があり、頼朝は朝廷に処分を申し入れていたが、去る6月26日に死没した。このため次席の全珍を補任するよう朝廷に申し入れた。
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   ※全珍補任: 参考・・・4月3日と6月15日の吾妻鏡に安能を糾弾する記載あり。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月20日
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吾妻鏡
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小御所の東側を改築し、今日転居の儀式を行った。上野国の負担とし、守護の安達盛長がこの作業を差配した。
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   ※小御所: 私的な空間を意味する場合と、身内(例えば幼い嫡子など)の住まいを意味する場合もある(例えば
「流人頼朝は伊東祐親の建てた「北の小御所」に住んだ」など)。この場合はどちらだろうねぇ。
頼家(幼名は万寿)も今年9月には満4歳だから小御所を宛てがっても不思議ではない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月26日
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吾妻鏡
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蓮花王院領の紀伊国由良庄で、京都七條の銅細工師・紀太が違法行為を行っている旨が領家である藤原範季の報告書と院宣で届いた。これに伴って今日命令書を発行、銅細工師・紀太の謀計を止めさせ院宣に従って両家が荘園の業務を司るよう命令を下した。藤原範季の報告書と院宣は次の通り。
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由良庄での非法について報告。七條の紀太丸の謀計は特に悪質なので重罪に処して頂きたい。領家は平基親朝臣と称して詳しい事情を知らない田舎者と侮り、悪質な企みを行っている。しかも後白河院の熊野詣でを前にして荘園に問題が起きれば、垰田郷が務めてきた桧の食器の献上にも支障が起きかねない。高尾寺(神護寺)領の荘園に変更されたのも一因であり、早急の処理を願いたい。    閏7月24日   木工頭範季
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蓮花王院領由良庄の違法行為について領家・藤原範季提出の報告は、子細の調査が院の意向である。
                                             閏7月29日    太宰権師経房
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   ※藤原範季: 後白河に仕えた公家。近江守・常陸介・上野介など受領職を歴任し、応保元年(1161)頃には
頼朝の異母弟範頼を庇護し養育した(経緯は不明)。九条(藤原)兼實の家司を務めながら平家にも近く、平清盛の養女を妻に迎えている。謀反人となった義経を擁護し興福寺で接触したのが11月5日に露見し、12月11日に解官されている。この行動は陸奥守に任じた際の藤原秀衡との関係に基づくものか、或いはその後の復権と昇進を考えれば後白河法皇の意向に依るものか。
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娘が後鳥羽天皇の子(後の土御門天皇)を産んだ事などから建久八年(1197)に従三位に、没後5年の承元四年(1210)に孫が即位(順徳天皇)した際に従一位・左大臣を遺贈された。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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8月27日
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吾妻鏡
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土佐守源国基は頼朝の同族で断ち難い関係にある。伊勢神宮領の伊勢国玉垣御厨の領主職の他にも多くの所領を与えた。また家人刑部丞景重は鎌倉で頼朝に仕えるよう命じられた。渡辺党の武士である。
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   ※源国基: 摂津源氏頼国の四男・実国から五代後の武士で頼政の系に近い。清和源氏の系図を参照。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月5日
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吾妻鏡
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諸国の荘園と公領の地頭らが領家の指示を無視しているとの情報が多発している。地頭に定められた収益以外に介入してはならず、年貢や労役の義務を怠ってはならない。これを守らない輩は罪に問う旨を定めた。また賀茂別雷社の所領について院宣が下され、地頭 の業務を停止し賀茂別雷社の管理に任せるよう下命した。同じ社領の備後国有福庄も土肥實平の年貢収奪を停止する、と。
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近江国安曇河御厨に下す
佐々木定綱による業務を直ちに停止し、従来通り領家である賀茂別雷社の管理に戻す事。定綱の違法行為によって神社の業務に支障が起きているとの訴えがあり、院から命令が下ったものである。武士による違法行為は直ちに奏聞を経て裁定を受けねばならない。   文治二年九月五日
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   ※有福庄: 現在の広島県府中市上下町有福(地図)。土肥實平が守護所を置いた、と伝わる。
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   ※安曇河御厨: 賀茂神社(wiki・上鴨と下鴨両社)の所領で現在の高島市安曇川町。道の駅藤樹の里あどがわ
の約2km東にある阿志都彌神社(wiki)付近が御厨の中心地だったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月7日
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吾妻鏡
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頼朝は由比ガ浜から深澤の一帯を巡覧、岡崎義實が駄餉(外出先での食事)を手配して献上した。
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   ※巡覧コース: 2月26日に「頼朝の若公が誕生、生母は常陸介籘時長の娘である。産所は長門江七景遠の浜
の家、云々」の記事がある。鎌倉で「浜」と言えば由比ガ浜、中心部から離れた稲瀬河付近・更に(勝手に)限定すれば(大太刀稲荷神社)辺りに景遠宅があったと考えても違和感はない。
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まして10月23日の記事には「(この件が)御台所(政子)に露見して景国は若公を抱き深沢の辺りに逃げ隠れた」、とあり、深澤は坂ノ下の北西に隣接するエリアだから、傍証にもなり得る。頼朝の由比ガ浜巡覧は赤子を見るのが目的、だろうと思う。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月9日
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吾妻鏡
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重陽節にあたり、判官代藤原邦通が菊花を献上。中国の故事に倣って御所北側の庭に植えた。香りが庭に溢れ艶やかな花が垣根を彩った。毎年秋にはこの花を献上せよと邦通に申し付けた。枝に結びつけた紙にを開いて見ると絶句(漢詩)が書かれていた。
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   ※重陽節: 陽数の九が重なるため中国では九月九日を「重陽」とした。日本では菊を飾り菊酒を嗜む行事として
宮中に定着した。最古の記録は天武天皇十四年(685)だが、崩御が朱鳥元年9月9日(686年10月1日)だったため国忌として廃止され、再開は延暦十年(791)からとなった。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月13日
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吾妻鏡
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最勝寺領の越前国大蔵庄に関し、北條時政 の代官時定と常陸房昌明らが年貢を押領している旨、寺の報告書を添えた院宣が発行された。頼朝の沙汰を経て、今後は地頭時政の知行であっても最勝寺の業務を侵害せず従来の手順に従って年貢や賦役の勤めを行宇部市都の命令が下された。
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   ※最勝寺: 山城国愛宕郡(京都市左京区)に建てた六勝寺(勝の字を含む六山の祈願寺)の一つ。
最勝寺は鳥羽天皇の祈願寺で創建は元永元年(1118)、現在の京都会館の東(地図)にあり、一町四方(約110m四方)の規模だったと伝わる。6月29日にも六勝寺の一つである成勝寺の年貢について同様の記載がある。
全ての六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺・)は院政の衰退と災害・戦乱により応仁の乱以後(wiki・1477年以後)に廃寺となった。
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   ※最勝寺領大蔵庄: 丹生郡大蔵庄は現在の鯖江市西部・大倉町一帯(地図)。日野川の西岸に水利を生かした
水田が広がっている。昔の旅で立ち寄った道の駅パークイン丹生ヶ丘近くには古墳群もあり古くから拓けた地域(鳥瞰図)だったらしい。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月15日
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吾妻鏡
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刑部丞梶原朝景が昨夜京都から鎌倉に戻った。去年御家人を選んで26ヶ国に派遣した中で土佐国を担当し、命令に従って治安の維持を保った武士である。頼朝は御所に召して京都の情勢などを質問し、朝景はまず義経逃亡後の朝廷の対応と義経に協力した輩などについて報告した。
その他、3月に群盗の主魁である平庄司(丹波国の住人)を捕らえて左獄(左京の獄(東獄)、対して右獄(西獄)もある)に拘禁したが仲間が襲撃して獄を破り、庄司らは全て逃亡した。検非違使別当の家通らに捜索させたが発見できず、8月11日に私が捕獲し21日に検非違使に引き渡した、と。
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   ※梶原朝景: 当主景時 ・次弟景道の末弟(異説あり)で朝景または友景を名乗る。
正治二年(1200)に駿河国狐ヶ崎(清水市)で一族が討伐された際には降伏して許され、建暦三年(1213)の和田合戦に義盛方として参戦、戦死者の中に梶原刑部・同、太郎・同、小次郎の名がある。また、一族の一人が酒匂氏の祖となった、らしい(これも異説あり)。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月16日
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吾妻鏡
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静女と母の磯禅師が釈放され京に向かった。御台所(政子)と大姫は彼女の境遇を憐れんで多くの宝物を与えた。
源義経の所在を尋問するため鎌倉に召し下したが(吉野山で)別離の後は行方を知らないと陳述した。帰洛に支障はなかったが、産後の回復を待って逗留していたものである。
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    これが公式記録に静女が現れる最後となる。伊豆韮山の真珠院の寺伝に拠れば、静女は自分と同様に愛児
を殺された頼朝の愛人八重姫の生涯を悼み、入水自殺した八重を葬った満願寺に立ち寄って堂(現在の静堂)を寄進した、としている。果たして静女に八重の菩提を弔うほどの精神的余裕があったか、どうか。
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更に頼朝の異母弟・阿野全成は静堂のストーリーに心惹かれ、満願寺の近くに真珠院を建立した、と。満願寺は遠い昔に廃寺となり、遺物は全て真珠院に移されている。正直言って信用できる話じゃないけどね。
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私としては、京に戻った静女は義経がいる筈の奥州平泉を目指した、と考える。最も信頼に値する彼女の消息として栗橋周辺に残る静御前の足跡を記述した。この前後を御覧あれ。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月20日
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吾妻鏡
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女房(京都朝廷の女官)少将局の使者が鎌倉に到着。蓮華王院法華堂領の伊勢国釈尊寺で武士の違法行為あり、早急に止めさせて欲しい、と。
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   ※蓮華王院: 後白河の離宮・法住寺院殿のほぼ中心に建てたのが蓮華王院本堂(三十三間堂公式サイト)。
清盛に資材の提供を命じて長寛二年(1165)12月に完成した。当初は北殿・南殿の他に最勝光院・熊野社・日吉社・五重塔・法華堂などを併設した本格的な寺院だったが建長元年(1249)に焼失、文永三年(1266)に本堂(現在の三十三間堂)のみが再建され現在に至っている。天台門跡の一つで最澄が開いた妙法院(外部サイト)の管理下にある。
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法住寺院殿敷地周辺の復元推定地図はこちら(外部サイト)を参考に。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月22日
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吾妻鏡
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糟屋籐太有季が京に隠れていた義経の家人堀彌太郎景光を捕えた。また中御門東洞院で同じ家人の佐藤忠信を殺した。忠信は強者なので簡単には討てず、大勢の寄せ手で襲った結果郎従二人と共に自殺した。
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忠信は以前から義経に従っていたが宇治の辺りで別れて洛中に戻り、馴染みの青女(若い女)に書状を送った。女はそれを夫に見せ、その夫が有季に知らせて討手が向かう結果となった。
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忠信は鎮守府将軍藤原秀衡の縁戚で、治承四年(1180)に義経が平泉から関東に向かう際に秀衡が優れた武士を選び継信と忠信の兄弟を付き添わせたのが経緯である。
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   ※糟屋有季: 相模国大住郡糟屋荘(伊勢原市)の庄司で石橋山合戦では大庭景親 に従い、後に頼朝に従って
御家人に列している。比企能員の娘を妻とし、比企の乱(建仁三年・1203年)には頼家の子一幡を守り小御所で討死している。糟屋荘を最初に開拓した伊勢山田の人・曾右衛門は新田の鎮守として故郷の伊勢神宮を勧請し(伊勢原大神宮・公式サイト)、これが伊勢原の地名になった。
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   ※秀衡の縁戚: 佐藤兄弟の父は湯の庄司佐藤基治、生母は 藤原基衡末弟・和泉十郎清綱の娘で基治の後妻
となった乙和子姫、秀衡と乙和子は従兄妹の関係になる(奥州藤原氏の系図を参照)。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月25日
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吾妻鏡
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北條時定 が院の召使則国からの書状二通を受け取りった。一通は院の職員に渡し、他の一通が今日鎌倉に着いた。紀伊国由良庄に於ける七条紀太の横領行為の報告である。詳細は下記の通り。
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【蓮花王院領の広由良庄 について、院の召使則国が報告した籘三次郎吉助丸の詐欺横領の件】
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則国が院宣を携えて使者(検非違使北條時定の代官)と共に荘園に出向き事件の原因を調べた。この吉助は以前には一條能保の使者籘内を称した者で、次のように申し述べた。
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「一條能保の使者を名乗ったのは嘘で、本当は吉田中納言阿闍梨の使者だ。院宣など気にも掛けない。俺の兄弟は伊豫国で院の従者を二人も斬り殺した。召使など相手にもならぬ。」と悪口を並べて使者を追い返そうとした。しかし私が詳細を検非違使の代官に報告して企みが露見したため、夜中に逃げ去った。
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この吉助は平貞能法師の郎従高太入道丸の舎弟で、奸計を以て蓮花王院領の横領を狙ったのだろう。また吉田中納言阿闍梨は七条紀太から何等かの書類を入手し、賄賂を使って北條の関係者を詐称し詐欺を企んだ。
その阿闍梨と七条紀太を院の庁に召し捕り戒めを加えれば今後の悪行はなくなるだろう。
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                          文治二年九月十一日   御使召使藤井
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   8月26日に「蓮花王院領の紀伊国由良庄で京都七條の銅細工師・紀太が違法行為、云々」の記載がある。
しかし下らない詐欺未遂事件を再三に記載している理由はなんだろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月29日
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吾妻鏡
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兵衛尉北條時定の飛脚が到着して報告。去る22日に糟屋籐太有季が堀彌太郎を捕獲し佐藤兵衛尉忠信を討ち取った。景光の供述に拠れば、この頃の義経は奈良の聖弘得業に匿われていた。景光は義経の指示で木工頭(藤原)範季を訪ね、何度も打ち合わせをしていた、と。このため一條能保の奏聞を経て500騎の兵を比企朝宗に与え、義経捜索のため奈良に派遣した。
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   ※聖弘得業: 奈良興福寺(公式サイト)の僧。翌年3月8日には鎌倉に召喚され頼朝に尋問されるが「天下静謐
のために義経と和解するべき」と説いて頼朝を感動させた。もちろん頼朝は和解などしないが、勝長寿院の供僧に任じて関東の繁栄を祈祷せよ、と命じている。
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   ※藤原範季: 範頼・義経・秀衡とも接点のある公家。詳細は8月26日の条に記述した。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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9月30日
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吾妻鏡
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下野国寒河郡内の水田十五町を日光山の三昧田として寄進した。寒河郡は去年野木宮神社に寄進したが、この十五町は国領から切り離して処理せよ、と。
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   ※寒河郡: 小山市の南西部、思川と巴波川(うずまがわ)に挟まれた南北に長いエリア一帯(地図)。北側に隣接
して国庁や国分寺・国分尼寺があった。下野東山道の史跡群にを参照されたし。
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   ※日光山: 二荒山神社・日光山輪王寺・山岳信仰など全体の総称。信仰の象徴である男体山は奈良時代には
補陀洛山(ほだらさん)と呼ばれ、後に同音の二荒山となり、更に音読して総称の日光山となった。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月1日
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吾妻鏡
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陸奥国の藤原秀衡入道から今年の貢金450両が届けられた。これは頼朝を経由して納付するためである。また賀茂別雷神社領の出雲国福田庄・石見国久永保・参河国小野庄などの社家(現地を管理する世襲の神職)宛に下文を発行した。この神社は頼朝の信仰が特に深いためである。
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また院領や高位の貴族領などについては新たな地頭の赴任を行わないよう朝廷からその目録が下されたため、詳細を確認して下文を発行し京都に送った。内容は次の通り。
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先日に下された御下文のうち朝廷関連の神社仏寺の領地については命令が完了している。その他、院や朝廷の関連および高位の領地・補任などについては252枚の下文と2通の書状およびこの文書と目録を添付して逐一処理している。武士による不当行為に関しては善悪の指摘を頂ければ確認して善処する。その他仔細が確認できないものは除いて、申し入れの通りに下文を発行した。この類の事に関しては今後は摂政の九条(藤原)兼實殿に申し出て事務的に処理して頂きたく、その旨を奏上されたし。  十月一日 頼朝     師中納言殿
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私信として追加。来年か再来年かの式年遷宮について、要求があれば承りますから指示願います。また院に宛てる書状や通常の場合には御覧の通り花押を加えますが、これは私信なので加えていません。
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   ※奥州貢金: 当時の斤量で換算すると約6.3kg前後か(1両=1.4gで計算)。天平勝宝四年(752)に大仏の
鍍金(金メッキ)に使った金は4187両(58.5kg)、東京鍍金工業組合は「大仏の鍍金に要する金の量は50kg弱」と推定試算しているから記録との数値差は許容範囲だろう。
「東大寺要録」に拠れば、この時に陸奥国から献上された金は900両(12.6kg)。
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治承の戦乱で焼け落ちた大仏を修復するため後白河法皇は奥州に金3万両の拠出を命じたが、秀衡は「金は殆ど掘り尽くし、これが精一杯です」として最終的に5千両(約64kg)を納めている。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月3日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬および秀衡が献上する黄金について、 二階堂行政が添付書類を記した。馬五疋、鹿毛駮・葦毛駮・黒栗毛・栗毛・連銭葦毛である。  文治二年十月三日
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   ※秀衡の献上品: 頼朝は「鎌倉を経由せよ」との理不尽な要求をし、秀衡から4月24日に了承の返事があった。
原文の「貢馬并秀衡所進貢金」は「(鎌倉が)献上する馬と、秀衡が献上する金」と読んで良いのだろうか。それとも「馬も金も秀衡の献上品」か。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月10日
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吾妻鏡
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先月末に比企朝宗らが奈良興福寺に兵を進め聖弘得業(9月29日の記事を参照)の僧房周辺を捜索したが、義行(本名義経、先頃改名)は発見できず虚しく京に引き返した。この事件が南都の騒動となり、衆徒が蜂起して朝廷鎮護の護摩行法会が中止になるかも知れないとの噂が流れた。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月16日
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吾妻鏡
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深夜に雑色の鶴次郎が御使として京都に向かった。これは木工頭の藤原範季が伊豫守義経に協力していた件を朝廷に申し入れよと兵衛尉北條時定に伝えるためで、三日のうちの到着を命じられた。
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   藤原範季の件は8月29日の堀景光の供述に基づく対応。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月23日
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吾妻鏡
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長門江太景国が御台所政子の怒りを受けた。これは2月に頼朝の側妾が産んだ男児(後の貞暁)を養育しているのが露見したためである。今日景国は若公を抱いて深沢の辺りに逃げ隠れた。
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   ※長門景国: 2月26日の記事には「長門江七景遠の海辺の家で出産」とあり、9月7日にも関連を疑われる記事
がある。江太景国と江七景遠は兄弟と思われるが、出自などの詳細は判らない。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月24日
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吾妻鏡
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甘縄神明の宝殿を修理し、今日周囲の荒垣と鳥居を立てた。安達籐九郎盛長の差配である。頼朝が参席し、小山五郎宗政・同七郎朝光千葉小太郎胤正佐々木三郎盛綱・刑部丞梶原朝景・同兵衛尉景定らも同席した。
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   ※甘縄神明: 現在の甘縄神社(甘縄神社と安達邸跡の後半に記載、 地図)、開山は行基で創建は染谷時忠
鎌倉で最も古い神社の一つと伝わる。参詣の際には由比ガ浜古道ルートも歩いてみよう。染谷時忠館跡も近いし「塔の辻」の一つと伝わる石塔残欠があるのも感慨深い。
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   ※参列した御家人: 五郎宗政は朝光の兄で長沼氏の祖(小山氏の系図を参照)、梶原朝景は景時の弟、景定は
朝景の嫡子(坂東平氏の系図を参照)。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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10月27日
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吾妻鏡
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信濃国伴野庄の年貢納付明細が到着し、頼朝は書状を添付して京都に送った。地頭の加賀美二郎長清(小笠原長清)の怠慢である。
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   ※伴野庄: 信濃国には同名の荘園が二ヶ所あり、この記事は現在の東御市から佐久市一帯の佐久郡伴野庄を
示している。周辺の大井荘・平賀郷と入り組んでいるため正確なエリアは不明(地図)だが、鎌倉時代初期の領家は藤原(九条)基家で地頭は小笠原長清、後に六男時長が継承して伴野氏を名乗った。
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義仲の挙兵に協力した信濃の名族滋野氏・望月氏・根井氏・海野氏らの本領も近い。中山道が東西に通じている交通の要所でもある。
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伊那郡の伴野荘は下伊那郡豊丘村伴野(地図)。5世紀初頭に大伴氏の庶流が土着し伴野氏を名乗ったのが最初で、平安時代末期に上西門院領伴野庄となった。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月5日
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吾妻鏡
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豫州(義経)搜索の件について、頼朝は重ねて師中納言吉田経房に書状を送った。
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未だに発見できない理由の一つは公卿を含む廷臣が鎌倉に悪意を抱き庶民と共に義経を助けている、特に藤原範季や仁和寺宮(後白河法皇の第二皇子で藤原成子の産んだ守覚法親王)が協力しているのは容認できない。義経の従者藤田友実の家(所有者は仁和寺)を北條時政が捜索した事件などで敵意を抱いているのではないか、と。
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また大江廣元の意見として、義行の意味は「良く行く」あるいは「良く隠れる」だから捕まらない。改名するなら意味を考えて同じ発音を避けるべきだ、と語った。頼朝は義経に戻すよう摂政の九条(藤原)兼實に申し入れた。
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   ※義経の改名: 義行の初出は10月10日、九条兼実二男で兄良通の早世により嫡子となった良経と同音なので
呼び名を変えたのが経緯(頼朝が言い出した、と思う)。
続いて11月24日の玉葉には「義行の改名について、義顕が最適だと思う、と藤原兼光(当時は権中納言)が言っている」との記述がある。顕(現れる)だって...バッカじゃないの?
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   ※義経の処遇: 頼朝の側に立って考えれば、義経は許しがたい行動を再三行っている。
1.養和元年(1181)7月20日、八幡宮上棟式での馬の手綱を引く命令のトラブル。
2.元暦二年(1185)4月15日に頼朝の内挙を得ず無断任官した。
3.同4月21日、軍監として同行した梶原景時から義経の独断専行を非難する書状が届いた。
4.御家人の勲功を認めず戦勝は全て自分の手柄であると主張し結束を乱した。
5.平氏が独占していた院御厩司(院政の軍事的支柱)に補任され平時忠の娘を娶った。
6.安徳帝の保護と神器の確保を厳命したにも関わらず性急な作戦で安徳帝と二位尼を死なせ
  宝剣を失った。後白河との取引材料を失った上に頼朝の宝剣捜索命令にも従わなかった。
7.義仲と平家を滅ぼした評価が高まり、後白河が平家の地位を義経に継承させるかのような
  動きを見せた(後白河が意図して源氏の分裂を画策し、義経が乗せられた傾向あり)
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結果として義経は御家人の信任を得られず、頼朝と戦うために必要な恩賞も手当できなかった。
戦術(実戦での個々の戦略)には優れ、長期的な戦略を構築する能力には欠けていたのだろう。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月8日
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吾妻鏡
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藤澤余一盛景は諏訪大社大祝(世襲神職家)の訴えにより頼朝の勘気を受けていたが、今日罪を許された。これは盛景が神領の黒河内と藤澤で神事の狩りおよび拝殿の修理を妨害し、その訴えを受けた頼朝の処分を受けた結果である。大祝としては同僚を厳しく訓戒するため懲罰を申請したが業務が滞っては神慮を違えるから、大祝の指示に従って規律を守り、急いで神事を行うように命じる事となった。
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   ※藤澤盛景: 諏訪の南・杖突街道沿いの伊那市高遠町藤澤御堂垣外(地図)に本拠を置いた諏訪氏(諏訪上社
(公式サイト)大祝の一族)。要するに神主一族の内紛か。
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   ※黒河内: 藤澤の南10km、桜で有名な高遠城址から更に南の伊那市長谷黒河内(地図)。現在は美和湖畔に
旅情豊かな道の駅南アルプスむら長谷がある。かなり山の深いエリアだね。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月12日
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吾妻鏡
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若公(万寿、満四歳二ヶ月。後の頼家)が輿に乗って鶴岡八幡宮を参詣。小山五郎(長沼宗政)・同七郎(結城朝光 )・千葉平次常秀三浦平六義村梶原三郎景茂・同兵衛尉景定らが従った。帰路に馬場入口の仮屋大庭平太景義が駄餉(外出先での食事・弁当)を献じた。
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   ※供の御家人: 千葉常秀は胤正の二男、他の武士は重複している10月24日の記事を参照されたし。
   ※馬場の入口: 八幡宮の流鏑馬道東端を差す。流鏑馬の神事は現在もここから西に向かってスタートしている。
すぐ前に畠山重忠邸があり現在は石碑が建っている。鶴岡八幡宮も参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月17日
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吾妻鏡
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雑色の鶴次郎および貢馬の使者生澤と御厩舎人の宗重らが京から戻り、北條時定の書状を持ち帰った。貢馬は去る二日に朝覧を済ませ、同日に木工頭兼皇后宮亮の藤原範季が現職を解任された旨が述べられている。
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   ※使者の帰還: 10月16日に鶴次郎派遣の記事があり義経と範季の関係を糾弾している。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月24日
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吾妻鏡
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先月8日と9日の院宣が先頃鎌倉に届き、その返状を今日発行する。三善康信藤原俊兼らが頼朝の意向を聞いて書き加えた。これは旧平家領に補任した地頭が、特に謀反の証拠もないのに年貢や賦役を課して役人を煩わせていると国司や領家が朝廷に訴え、それが院宣の内容に反映されたためである。平家領と確認できる場所以外は地頭による越権行為を停止せよ、との命令である。院宣二通と返状の内容は以下の通り。
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諸国宛の太政官符 早く国衙庄園の地頭による非法を停止させる事   内大臣實定が勅を宣す。
平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し、明確な平家領と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている。従って支配下の武士に命令して明確な謀反人領の場合以外は地頭の関与を禁止させよ。院宣に依って命令する。到着次第に差配せよ。
  文治二年十月八日  正六位上行左少史大江朝臣  従四位上左中弁兼中宮権大進藤原(光長)朝臣
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諸国の荘園と国衙領で、平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し、明確な平家領と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている。従って支配下の武士に命令して明確な謀反人領の場合以外は地頭の関与を禁止させよとの院宣は以上の内容である。
     文治二年十月九日   左少弁定長  進上 源二位殿
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頼朝の請文   院宣を承り、諸国の荘園と国衙領で、平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し、明確な平家領と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている件については、それぞれ国司領家に従うように命じた。さらに非法を行う輩があれば氏名を連絡して頂ければ処罰する。      文治二年十一月二十四日   左少弁定長  進上 源頼朝(請文)
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   ※請文: 上位者からの命令や諮問に対して返答や報告を記して差し出す文書。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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11月29日
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吾妻鏡
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義行(改め、義顕)を捜索する件について、去る18日に院で公卿の会議が催された。先般の例と同じく捕縛の宣旨を畿内周辺と北陸道に下すべきである。洛中は検非違使に命じ地域を区分して捜索させ、諸社寺には祈祷を命じる旨が衆議一決した。以上が(京都守護職の)一條能保 から頼朝に伝えられた。
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   ※北陸道:若狭(福井県西部)、越前(福井県中・北部)、加賀(石川県南部)、能登(石川県北部)、越中(富山県)
越後(新潟県)、佐渡(佐渡島) を差す。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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12月1日
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吾妻鏡
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千葉介常胤が下総国から鎌倉に参上して今日献盃の儀あり、頼朝は西の侍所に出御した。常胤に加え小山朝政三善康信岡崎義實足立遠元安達盛長ら古参の御家人も多く列席した。献杯が繰り返されて皆酩酊し、常胤が座を起って舞った。善信(康信)が俗曲を歌い、また催馬楽(民謡を雅楽風に編曲したもの・大辞林による)を歌った。
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   ※常胤の本領: 父常重または祖父常兼が拓いた所領を鳥羽院に寄進して千葉荘とし、常重は荘園内に亥鼻城
(現在の千葉大学周辺)を築いて歴代の本拠とした。千葉氏を名乗ったのは常胤が最初。
系譜は「坂東平氏の系図」を参照されたし。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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12月6日
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吾妻鏡
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御台所(政子)が鶴岡八幡宮に参拝した。神楽が奉納され、巫女や楽師らには報奨が与えられた。
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   ※鶴岡八幡宮: 治承四年(1180)10月12日に着工し良く養和元年(1181)7月20日に上棟した鶴岡八幡宮
は現在の本殿の位置ではなく、山裾の舞殿一帯にあった。建久二年(1191)3月4日の大火(火元は小町大路)で全焼。直ちに再建工事が始まり、類焼の危険が少ない中腹の現在地に本殿を上棟したのは同年8月27日。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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12月10日
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吾妻鏡
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肥前国鏡神社(wiki)の大宮司職を草野次郎大夫永平に継承させた。先祖からの世襲であり、同時に忠義への報奨の意味も含めている。また、今日藤原遠景(天野遠景)を鎮西九ヶ国の奉行人(九州惣追捕使)に任命し、同時に各地の地頭職を与えた。
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   ※草野永平: 肥前松浦党の武士で治承年間から継続して頼朝に従った。大宮司職の他に筑後在国司と共に
押領使に任じた。本領は山本郡草野(久留米市東部)。
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   ※在国司: 遥任が多い国司に対して在国する国司を差す。平安末期から鎌倉初・中期、主に西国の在庁官人層
に散在して着任した。権限の範囲や国司との関係は明らかではない。
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   ※天野遠景: これ以後建久十年(1194)頃まで大宰府に駐屯したが結果として統治に失敗し解任されて鎌倉に
戻った。挙兵当時からの古参御家人としては不遇な晩年である。本領など詳細はこちらで。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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12月11日
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吾妻鏡
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去年行家と義顕(表記は義経 →義行→義顕と変遷している)に協力した廷臣は頼朝の怒りによって解任されたり流罪の官符を受けたりした。その中でも特に前廷尉(検非違使)の平知康には強い憤りがあり、知康は取り敢えず弁明のため鎌倉に行くと申し出た。頼朝は「処分は朝廷の結論に従う、と伝えよ」と結論した。
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   ※平知康: 日付は不明だが鎌倉に入り陳述したらしい。頼朝は翌1月23日に師中納言吉田経房に書状を送り
「院に決裁を委ねたのに未だに勅裁がない」と苦情を伝えている。
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知康はそのまま鎌倉に留まり頼家の蹴鞠の相手として側近を努め、建仁三年(1203)の頼家失脚の際に帰洛している。このまま読み進んでいくとそれ以前に再登場するかも知れないね。
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西暦1186年
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82代後鳥羽
文治二年
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12月15日
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吾妻鏡
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比企籐内朝宗以下の御家人は郎従らを南都山階寺に派遣して聖弘得業の僧坊を見張らせている。こ れは義顕(義経)を見つけ出すためだが、興福寺別当の 信円は上洛して「この状態は寺の存亡に関わる。早く見つけ出して退去せよ」と申し入れた。京都守護一條能保の報告である。
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   ※山階寺: 興福寺(公式サイト)の旧い呼称。夫の藤原釜足の病気平癒を祈った夫人の鏡大王が天智天皇八年
(669)に山背国山階(現在の京都薬科大キャンパス南東の「五条別れ」信号北東に石碑あり・地図)に創建した寺が起源。672年に藤原京に移って厩坂寺(推定地は橿原神宮前駅東口・地図)、和銅三年(710)の平城遷都の際に現在地に移って興福寺となった。藤原氏の氏寺である。
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