文治四年(1188年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月1日
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吾妻鏡
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昨夜から雨、頼朝は例年の通り鶴岡八幡宮に参詣した。日中は快晴になり強風。佐野太郎基綱の窟堂下の家が全焼し火の粉が飛んで数十軒の家屋に延焼した。鶴岡に近いため頼朝は八幡宮の様子を確認するため社殿に入り、群衆が競って集まった。
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   ※窟堂下: 八幡宮から小町通り(地図)入口の「鉄の井」前を右に曲がると海蔵寺や化粧坂などがある扇ヶ谷
に通じる窟屋小路、少し先の山上には不動明王を祀る窟堂があった。その後は土砂崩れなどで現在地に移転して愛宕社となったが当時はまだ裏山の峠道で、基綱宅は山裾にあったのだろう。窟屋小路などの詳細は壽福禅寺のコーナーに記載してある。
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   ※鶴岡: 源頼義が康平六年(1063)に勧請した由比若宮の地が鶴岡で、現在の八幡宮は小林郷だった。
縁起の良い名前を生かして由比若宮と共に名称も一緒に遷した、という事。やがて市街地の開発とともに「鶴ヶ岡」に相対して「亀ヶ谷」の地名も定着していく。
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   ※小町通り: 観光用に設定した商店街の名称で、鎌倉時代から続く小町大路(地図)とは全くの別物。
いつも酷い混雑で歩くだけでも鬱陶しいから、私は絶対に立ち寄らない。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月6日
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吾妻鏡
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上総介足利義兼が椀飯を献じ馬五疋を添えた。頼朝が御所南面に出御し、義兼が自ら銀造りの太刀を献じた。
酒宴の最中には新年最初の射芸を奉じる的始めの儀が行なわれた。
     射手 一番は榛谷四郎重朝和田太郎義盛  二番は愛甲三郎季隆橘次公成
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   ※椀飯(おうばん): 飲食を献じ、太刀・弓箭・馬などを添えて主従関係を強める
儀礼的な饗宴。吾妻鏡には頻繁に記載が現れる。
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   ※榛谷重朝: 小山田有重次男(兄は稲毛重成)。元久二年(1205)に偽証して
畠山重忠を陥れた冤罪で族滅亡。一族の詳細は左フレームの「秩父平氏の系図」右隅近辺を参照されたし。
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   ※愛甲季隆: 横山党の武士で相模愛甲荘(厚木市)を本領とした弓の名手。
二俣川合戦では重忠を射取っている。建保元年(1213)の和田合戦では血縁の義盛に味方して族滅した。
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曽我物語は建久四年(1193)5月の富士裾野の仇討で曽我兄弟の弟 五郎時致に左腕を斬り落とされた、と書いている。重忠を弓で射殺したのはその12年後だから笑っちゃうけど。
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   ※橘公成: 平知盛の家人だった橘公長の次男で弓の名手として知られている。
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   ※法界寺: 真言密教に深く傾倒していた義兼は自邸の一部を持仏堂に改築して
壇上大御堂(後に嫡子義氏が整備して現在の鑁阿寺)、約6km北東の樺崎の地に建てた 法界寺を奥の院・下御堂として自らの廟所と定めた。
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法界寺の名は明治初期まで使われていたが、神仏判然令(神仏分離運動)により廃寺となり、地名を冠して樺崎寺跡と呼ばれ現在に至っている。「法界」の出典は法界定印(外部サイト)を参考に。
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宗教界では名称を法界寺に改めるよう連名で要望したが市の教育委員会は容認しなかった。
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右画像は足利義兼の持仏だった運慶作の大日如来像。鑁阿寺の奥院だった法界寺(樺崎寺)が明治初年の廃仏毀釈運動で廃寺になった際に現在の光得寺に伝わり、現在は委託を受けた東京国立博物館が収蔵している( 詳細は法界寺のコーナーを参照されたし)。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月8日
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吾妻鏡
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大倉御所で心経会あり、導師は鶴岡八幡宮供僧の義慶房と供僧5人。頼朝が出御して布施を賜った。
導師分は布の被物二重と馬一疋、供僧にもそれぞれ褒賞があり主計允二階堂行政がこれを差配した。
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   ※心経会: 般若心経の読誦法会を差す。奈良時代以降、災害を防いで福を招くため大般若経や金剛般若経を
読む法会が盛んになり、平安時代以降は霊験が顕著と考えられた般若心経読誦も隆盛した。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月16日
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吾妻鏡
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頼朝は鶴岡八幡宮に参詣し、御所に戻ってから二所詣に備えた精進潔斎を始めた。
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   ※二所詣: 鎌倉から相模路を通って伊豆山権現へ、さらに日金山を経由して三島明神から箱根権現へ参詣する
恒例行事。いずれも頼朝に崇敬され庇護寄進を受けていた神社で、頼朝は4回・政子 は2回・実朝は8回実施している。ニ所は筥根権現と伊豆山権現、実質的には三嶋大社を含む三所である。
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吾妻鏡での最初の二所詣は文治四年(1188)1月。二度目に実施した建久元年(1190)1月20日には初日の伊豆山権現に向かう途中で石橋山合戦場に立ち寄り、佐奈田義忠(与一)と郎従豊三の討死を思い出した頼朝が涙を流した、不吉なので次回からは順路を逆にした。」と書かれている。
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三島→伊豆山のルートになったから、後年の実朝が「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ」(金槐和歌集)が生まれたことになる。 日金山東光寺の項を参照されたし。
二所詣に関する記述は前年の12月27日と重複する。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月18日
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吾妻鏡
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二所詣の出発予定が近づいたため甲斐・伊豆・駿河の御家人らに行程の警備を命じてあるが、今日重ねて命令の徹底を指示した。これは義経の所在が未だに確認できないため、特に用心を巡らしたものである。
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   ※義経の所在: 吾妻鏡の前年2月10日に「山伏や稚児姿で妻子を伴い藤原秀衡を頼って奥州に入った」
9月4日には「秀衡が義経を庇護して謀反を企んでいる」と訴えた返事が朝廷から届いている。
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更に10月29日には「秀衡が義経を大将軍として国務を行え、と遺言した」、と記述している。従って「義経の所在が未だ確認できず」は整合性が乏しい。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月20日
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吾妻鏡
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頼朝が鎌倉を出発し伊豆山・箱根・三島の参詣に向かった。武蔵守大内義信・参河守源範頼・駿河守伏見広綱源頼兼・上総介足利義兼・新田義兼・奈胡義行・里見冠者義成・徳河次郎らが供として従い、伊澤五郎信光加々美次郎長清小山七郎朝光以下の随兵は300騎にも及んだ。三浦介義澄が差配して相模河に浮橋を設けた。
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   伊豆山は現在の伊豆山神社、箱根は箱根神社、三島は三嶋大社
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月22日
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吾妻鏡
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比企籐内朝宗の妻(御台所政子の官女、越後局)が早朝に男子を平産した。
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   ※比企朝宗: 15年後の建仁三年(1203)9月、比企一族は北條時政の手勢に急襲され滅亡するが、朝宗の娘
北條義時の正室(姫の前)だった関係で誅殺を免れたらしく、死亡者リストに載っていない。
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他に数え2歳だった比企能員の末子だけが助命され、成長して日蓮に帰依し姪の竹御所の尽力で鎌倉帰還を許された。竹御所の没後に彼女の菩提を弔って比企谷の館跡に建てた法華堂が後に法華宗に改めて妙本寺となった。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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1月26日
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吾妻鏡
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早朝、御台所政子と若公(萬壽・後の頼家)が鶴岡八幡宮に参詣、御神楽を奉納した。その後に萬壽は二所詣から帰還する頼朝を出迎えるため固瀬河付近まで足を伸ばした。頼朝の帰着は酉の刻(18時前後)。
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   ※固瀬河: 江ノ島近くに流れ込む現在の境川(地図)。大庭景親がここで斬首されており、近くには日蓮法難の
龍口寺(公式サイト)など古くからの刑場の痕跡が見られる。
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文治五年(1189)6月の首実検後に由比ガ浜に捨てられた義経の首は潮に乗って上流に遡上し、白旗神社に祀られた云々と、かなり御都合主義に満ちた伝承が残っている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月2日
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吾妻鏡
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各地の地頭らが所領などについて、京都朝廷や縁故などを介したり書状を送ったりして不当な措置を訴える例が多く、その件についての指示があった。 昨年の冬から鎌倉に滞在していた廷尉(検非違使)の大江公朝が近日中に帰洛を予定しているため、懸案になっている訴えに対する措置を後白河法皇に提示するため一覧にして書き出し、その訴えを鎌倉に運んで来た大江公朝に渡す旨の指示である。内容は次の通り。
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藤原忠良家の件 越後国奥山庄の地頭による不当行為について。
修理大夫家の件 尾張国津島社の年貢の板垣兼信による未納について。
右衛門佐御局の件 信濃国四宮庄の地頭が年貢および領家の取り分の未納について。
大宮御局の件 伊勢国志禮石御厨での宗輪田右馬允による不当行為について。
賀茂神社神主の件 大夫判官(義経)を捜している事および宣旨に背いた文覚上人の神領押領について。
新中将殿(藤原家房)の件 伊賀国若林御園の内七町九段の押領について。
佐々木定綱による五町四段、三浦義村による一町五段、阿保別府による一町
大江公朝の件 備前国吉備津宮領西野田保の地頭職貞光の訴えを停止し元の通り大江公朝の知行とする。
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以上の件は院からの命令であれば早急に裁決を下すべきだが、縁故を頼っての訴えは善悪の沙汰から除外した。縁故によって決裁すれば偏りの顰蹙を受けるためである。
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   ※越後国奥山庄: 北蒲原郡黒川村(現在の胎内市あかね町、奥山荘歴史館(胎内市のサイト)がある。地図)。
文治四年当時の地頭は和田義茂(和田義盛の弟)。義茂は 和田合戦で没したが、息子の重茂が北條方に与して奥山荘を安堵され、中条氏の祖となっている。
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   ※尾張国津島社: 愛知県津島市神明町(地図)の津島神社(参考サイト)。信濃四宮庄は元の御室仁和寺領、
この時点では八条院領に変更されている。現在の千曲市八幡(地図)にある武水別神社(公式サイト)の一帯を差す。
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   ※伊勢国志禮石御厨: 現在の三重県最北部の伊勢内宮神領、いなべ市藤原町志礼石新田(地図)一帯。
輪田右馬允が藤原町西野尻(地図)に城を築いて地頭に任じた。
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   ※藤原家房: 摂政松殿基房の二男で歌人。文治三年(1187)従三位、建久六年(1195)に従二位権中納言
に叙されたが翌年に死没した。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月4日
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吾妻鏡
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法務大僧正公顕の書状が到着。先月11日に五ヶ寺(法勝・最勝・成勝・延勝・圓勝)の別当職に補任されたのは誠に名誉である。数年前から朝廷に祈祷を命じられ霊験が明らかだったためである。去る文治元年(1185)に御堂(南御堂・勝長寿院)供養のため導師として鎌倉に参向した際に、どのような事でも連絡せよとの言葉を頂いた、その約諾に従っての報告である。
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   ※公顕: 第65代花山天皇の孫・延信王から始まる白川伯王家(皇室の祭祀を司った)の子孫。後に60世の
天台座主に任じている。ちなみに、62世は愚管抄を書いた慈円(65・69・71世も慈円)。
文治元年の9月10日、10月20日、10月24日に公顕の関連記事がある。
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   ※五ヶ寺: 文治二年(1186)6月29日と9月13日に記載した六勝寺だが、尊勝寺(南北朝時代の兵火で焼失
するまでは残っていた筈)が抜けているのはなぜだろう?
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月8日
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吾妻鏡
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廷尉(検非違使)の大江公朝が京都に向って出立した。鎌倉での知人全てが選別を送った、と。
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   ※大江公朝: 文治元年(1185)8月に義朝の頭骨を運ぶ勅使として鎌倉に下ったのが最初、以後数度に亘り
使者を務めている。建久十年(1199)の頼朝死没直後に京と鎌倉が緊張状態に陥り、5月には息子の公澄と共に後鳥羽院の勅勘を受け失脚した。鎌倉との緊密な関係が嫌われたらしい。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月14日
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吾妻鏡
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鶴岳宮(鶴岡八幡宮)で問答講(仏教の教義に関する問答)を行なった。その最中に強風が吹いて樹木を抜き倒し本殿の扉を揺らして大きく傾かせた。
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   ※問答講: 神仏習合の場合、仏教に関する問答を宮寺ではなく八幡宮で行うのかな。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月18日
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吾妻鏡
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鎮西の宇佐八幡宮(公式サイト)の社殿修理について、平家の祈祷を行なった大宮司の公房はその罪を贖うため工事を負担させ、また東大寺再建は勧進を行っている重源上人に協力すべきである。その二点を師中納言吉田経房に書状で申し入れた
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月21日
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吾妻鏡
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天野籐内遠景が先月に送った書状が昨日到着。去年の12月に郎従らを貴賀井島に派遣し形勢を窺わせた。残党の追補に支障はないだろうが、鎮西の御家人が追討軍の招集に応じないため戦力が不足である。 再度命令書を発行して貰いたい。宇都宮信房が自ら船で攻める意向を示したが、遠景が制止したため親戚の精兵を派遣するとの連絡があった。この様子が京都に伝わり、九条兼実から「三韓征伐が成功したのは昔のこと、現在は我が国の勢力範囲かも明確ではないから将士を派遣しても無益だろう。しばらく様子を見ると良い。」との意見が届いた。
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   ※筆者注: 前年9月22日の記述が元になっている。コメントを含めた内容全てを下記に転載した。
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所衆(蔵人所に所属し国衙の雑事などに任じる者)の信房(宇都宮所と称す)が使者として九州に出発。天野籐内遠景と共に貴海島(現在の喜界島)を追討せよ厳命に従ったものである。
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この島は昔から船の往来がなく、平家の時代に薩摩国の住人阿多平権守忠景が勅勘を受けて逃げ込んでいた。筑後守家貞(平貞能の兄)が追討の船を何度も仕立てたが風波が激しくて渡れず、虚しく引換した経緯がある。
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義経に与した者が隠れている疑いを確認するための遠征である。去年には河邊平太通綱が渡海に成功したとの情報があって追討を思いついた。天野遠景は文治元年(1184)末から九州惣追捕使として駐在している。
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   ※貴海島: 奄美大島の東側にある現在の喜界島(地図)。鎮西八郎為朝が最期を迎えたとの伝説や俊寛が流刑
を許されないまま死没した島と言われている(硫黄島説が主流か)。
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   ※阿多(平)忠景: 薩摩半島を支配していた平貞時(将門の異母兄弟?)を祖とする薩摩平氏の子孫。平安時代
後期に薩摩国を占拠し、保元の乱(1156)の後に追討軍を受けて貴海島に逃亡したらしい。
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その前後に惟宗広言が摂関家筆頭の近衛領島津荘の下司として土着、その子の忠久(生母は頼朝の乳母の娘丹後局、頼朝の愛人説あり)が頼朝から薩摩国の地頭に任じられ島津氏の祖となった。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月23日
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吾妻鏡
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三河守(源範頼)が病気になり隔日に発症する瘧病らしい。今日から専光房覺淵を招いて祈祷を行う。
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   ※瘧病: (わらわやみ)、子供に多い熱病の一種で間隔を置いて発症する。マラリアに近い。専光房覺淵は流人
時代の頼朝に仏典を教えた走湯山(伊豆山権現)の僧。 加藤光員景廉の兄弟(兄だと思う)。後に走湯山の中枢密厳院東明寺(現在の般若院の前身)の初代院主として伊豆山権現に君臨した。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月28日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼が行われた。頼朝が出席し小山七郎(後の結城朝光)が御劔持ちを務めた。廻廊に着座した後に流鏑馬を開催、二騎(海野幸氏と諏訪盛澄)が射手を務めた。三騎の馬長が馬場を練り歩き、遠近の御家人がこの祭礼に加わるために集まった。
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   ※馬長: 神事などの際に着飾った小舎人童などを載せて馬場を練り歩く。あげうま、うまおさ。
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   ※諏訪(金刺)盛澄: 諏訪大社下宮の神官で御家人。弟の手塚光盛 と共に木曽義仲に与して捕縛され文治三年
の放生会で流鏑馬の妙技を見せて郎党とともに許され御家人に列した。
放生会の様子は前年8月15日に記述してある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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2月29日
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吾妻鏡
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京都守護の一条能保から連絡。義経に関し、奥州の藤原秀衡に命令するため勅使官の史生(下級事務官)国光と院庁官(文書管理の事務官)の景弘らを平泉に派遣する。来たる3月に下向の予定である、と。
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   ※秀衡に命令: 義経には既に捕縛・追討の宣旨が発行されており、勅命に従えとの使者になる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月2日
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吾妻鏡
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範頼の病気が平癒し、今日が病後初めての出仕である。祈祷の効果があったとの報告があり、頼朝は喜んで専光房の僧房に馬を贈った。
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   ※貨幣経済: 平安末期に清盛が大量の宋銭を輸入し、絹の価値を基準とした経済を貨幣本位に改めることに
よって経済の支配を試みたが定着せず、鎌倉幕府が正式に宋銭の使用を認めたのは嘉禄二年(1226)になる。その後の絹本位制は次第に駆逐され、鎌倉時代中期には年貢も銭で納める「代銭納」が一般的になった。頼朝の時代は馬や布で支払うのが当然の「古き良き時代」か。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月5日
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吾妻鏡
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宇都宮信房が先月に鎮西から書状を送り貴賀井島へ渡航する件を申し述べ、去年の調査で情勢を把握したため航路などの図を描いて差し出したものである。渡航はかなり困難だと聞いて躊躇していた頼朝は絵図を見て無理に渡航する必要もないだろうと考えた。ただし信房の功績は大きいと判断し、今日恩賞を与える手配をした。
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   ※事件の経緯: 2月21日に貴海島(現在の喜界島)に逃げた阿多(平)忠景に関する記載がある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月6日
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吾妻鏡
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梶原景時が兼ねてからの宿願により、戒律を重んじる高潔な僧による大般若経一部の書写を完成させた。これは関東繁栄を祈っての宿願であlり、景時は八幡宮に奉納する供養の仏事開催を願い出た。
頼朝は導師および儀礼に伴う垂髪(稚児)の準備などは景時の意向に従う旨の指示書を景時に与えた。
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   ※大般若経: 正式には大般若波羅蜜多経、唐の玄奘三蔵大乗仏教(共にwiki)の基礎的な教養を編纂した、
全16部600巻の教典群。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月10日
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吾妻鏡
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東大寺の復興工事を指揮している重源上人の書状が到着。修復作業は資金を拠出する檀那の協力がなければ成し遂げられず、諸国には一層の勧進を求めて頂きたい。仏縁の志がない者も鎌倉殿の権威には従うだろう。
この内容は院にも奏聞しているが、未だに勅答を得られていない、との内容である。
頼朝は東国に関しては地頭らに命じて協力させよう、と申し送った。
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   ※東大寺復興: 文治元年(1185)8月28日に大仏開眼供養を済ませた東大寺復興は二年半後の建久元年
(1190)10月には大仏殿を上棟する。進捗状況に比例して資金の枯渇も深刻になっている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月14日
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吾妻鏡
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前の廷尉(検非違使)平康頼入道が嘆願書を提出した。去年阿波国麻殖保の保司職を拝領して使者を派遣したが地頭の野三刑部丞成綱が認めず、徴税業務もできなかった。麻殖保は朝廷の内蔵寮の運営費用を賄っており、成綱の妨害については院宣が再三下されている。
頼朝は内蔵寮への納付を除く分を康頼に渡す命令書を発行した。
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   ※平康頼: 元は平家の家人だが尾張国司の目代だった際に義朝の墳墓 (野間大坊)を整備して供養を続けた功績によって麻殖保の保司職を得ている。詳細は文治二年(1186)閏7月22日を参照されたし。
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吾妻鏡が記載している「去年」は去々年の間違い。ちなみに康頼は鹿ヶ谷の謀議に加わって俊寛らと共に鬼界ヶ島に流されたメンバーの一人でもあった。 .
   ※野三成綱: 小野三郎成綱を差す。平家追討で功績を挙げて建久六年(1195)から尾張国守護を務め、建暦
元年(1211)の死没以後は息子の盛綱が世襲しているから康頼の訴えによって特に罰せられたり左遷された訳でもなかったらしい。
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   ※内蔵寮: 中務省に属して宝蔵を管理した役所。金銀・宝器や儀礼用の膳・衣服などの管理に任じた。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の道場※: で盛大な法会が催された。景時が宿願にしていた大般若経供養である。頼朝も仏との結縁のため出御し供奉の人々も意義を正して出席した。
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出御の際に頼朝は武田兵衛尉有義を召して劔役(太刀持ち)を務めるよう命じ、それを渋った有義に怒りを向けた。
「かつて小松内府(平重盛)の劔持ちを務めたのは京都中に知れ渡り源家の恥辱とされた。重盛は平家の一門で私は源氏一門の棟梁、釣り合いが取れぬか。」と叱咤し、結城朝光を召して太刀持ちに任じた。有義は供に加わる事もできずその場から逃げ去った。行列の詳細は次の通り。
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先陣随兵8人 小山兵衛尉朝政 葛西三郎清重 河内五郎義長(甲斐源氏武田清光の子) 里見冠者義成
千葉小次郎師胤(相馬師常の初名) 秩父三郎重清(重忠の弟) 下河邊庄司行平
工藤左衛門尉祐経
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続いて狩衣22人 参河守(源範頼) 信濃守(加賀美遠光) 越後守(安田義定の嫡子・義資) 上総介(足利義兼
駿河守(伏見廣綱) 伊豆守(山名義範) 豊後守(毛呂季光) 関瀬修理亮
村上判官代(清和源氏頼清流為国の弟・基国) 安房判官代(能勢高重) 籐判官代(藤原邦道
新田蔵人(義重の三男・義兼) 大舎人助 千葉介(常胤) 三浦介(義澄) 畠山次郎(重忠
足立右馬允(遠元) 八田右衛門尉(知家)  籐九郎(安達盛長) 比企四郎(能員
梶原刑部丞(景時の末弟・朝景) 同兵衛尉(景定・朝景の嫡子景貞?)
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後陣随兵8人  佐貫大夫廣綱 千葉大夫胤頼(常胤の六男) 仁田四郎忠常 大井次郎實春(實治)
小山田三郎(稲毛重成)  源太左衛門尉梶原景季 三浦十郎(佐原義連) 同平六(三浦義村
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路次随兵30人 千葉五郎 加藤太(光員) 同籐次(景廉) 小栗十郎(常陸平氏大掾氏の庶家)
八田太郎(知家の長男で小田氏の祖・朝重(知重) ) 渋谷次郎(重国の二男・高重
梶原平次(景時の二男・景高 ) 橘次(公長の二男) 曽我小太郎(祐信の嫡子・祐綱) 安房平太
二宮太郎(友平の嫡子・朝忠) 高田源次 深栖四郎(平治物語巻三で、牛若を奥州へ伴った頼重の孫?) 小野寺太郎 武藤次 熊谷小次郎(直實の嫡子・直家) 中條右馬允 佐野太郎基綱
野五郎 吉河次郎  工藤小次郎 小野平七 河匂三郎 廣田次郎 成勝寺太郎 山口太郎
夜須七郎 高木大夫 大矢中七   (各々郎党3人を従える)
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参拝の後、供養の仏事。導師は義慶房阿闍梨(伊與・若宮供僧の一人)、従う僧は30人。
最初に箱根権現の稚児5人と伊豆山権現の稚児3人による舞楽があり次に供養、終了後の布施は源判官代・大舎人助・籐判官代が差配した。導師には別に銀造りの太刀一振りを御前から提供した。
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筑後守藤原俊兼梶原平三景時が前もって社殿に控えて行事全体を司った。
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   ※道場: 語源は釈迦が悟りを開いた菩提道場、転じて仏道修行の場所。浄土真宗・時宗では寺院を差す。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月17日
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吾妻鏡
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東大寺を再建する材木を周防国で切り出した中の10本が失われてしまった。 各地の国衙に割り当てれば仏との結縁を考えて尽力するだろうとの院宣はあったが趣旨は思うように徹底しない。困難に躊躇しては実現は望めないため国衙に割り当てを行った。院からは各地の荘園にも協力を命じたのに対応が遅い旨の申し入れがあり、それも配慮して指示を与えた。
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一.陸奥国白河領(元は信頼卿、後に平重盛の所領)について、免税の処遇を受けている土地だが本家が曖昧
である。院領であれば本家分の年貢は納入するから明確にして頂きたい。
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一.頼朝が寄進した神社領について、朝廷の安泰を祈祷する為の寄進である。年貢に関する処理と命令は早急
に願いたい。
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一.下野国の中泉・中村・塩谷など各庄について、平家から没収した所領ではないが関東の管理とされている。
これも同様に、年貢に関する処理と命令は早急に願いたい。
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一.常陸国の村田・田中・下村など各庄について、安楽寿院領とも八條院御領ともされている。この年貢を納入
すべき本所はどちらになるか。
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   ※周防の材木: 前年の11月10日に材木に関する記載がある。伊豆の奥にも川を塞き止めたダムに丸太を
貯めて一気に流れ落とした伝承が点在し「筏場」などの地名が残っている。
吾妻鏡の原文は「十本引失訖」だが、詳しい状況は想像する他にないね。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月19日
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吾妻鏡
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遠江守安田義定の使者が到着。所領の中で農民などに命じて灌漑用水の工事を行ったところ、近隣の熊野権現領の住人が妨害したため双方に死傷者が出た、双方を捕縛して連行するべきかの問い合わせた内容だが、熊野権現からの苦情を受けて騒動が拡大する可能性もある。現地のみで処理せよとの指示を与えた。
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   ※熊野権現: 前年の9月20日に熊野別当湛増の使者が布を献上したが受け取りを拒んだ事件が起きた。
何度も刺激を繰り返すのは...と頼朝が多少の忖度をしたか?などの印象はある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月21日
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吾妻鏡
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御所に於いて梶原景時が華美を尽くした宴を催した。頼朝も出御し、去る15日の大般若経法会に従った者や手伝いをした多勢の御家人も招待された。八幡宮の伊與阿闍梨義慶も招待を受け稚児を連れて参列し、酒宴と歌舞を楽しんだ。15日の供養が無事に行われた喜びの結果である。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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3月26日
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吾妻鏡
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諸国に四天王像を造って祀るようにとの宣下があった。東国の分が今日布告され三善康信 がこれを差配した。
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   ※四天王: 須弥山頂上に住む帝釈天の部下として眷属を従え、須弥山の中腹で仏法を守る守護神。
持国天・増長天・広目天・多聞天(音訳は毘沙門天)を差す。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月2日
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吾妻鏡
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年貢の藍染の絹布と供御の甘海苔などを仙洞(上皇の御所)に納付した。
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   ※供御: 皇族に供する食材を意味する。転じて、それを拠出していた地名もある。承久の乱で合戦の渡河地点と
なった瀬田川中流にも供御の瀬と呼ばれた場所がある。
供御の甘海苔は伊豆の名産として文治二年(1186)2月19日にも記載がある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼があり頼朝も参列し流鏑馬を開催して騎手の妙技を楽しんだ。故波多野右馬允義経(波多野義常)の嫡子有経は父祖の名に恥じぬ名手として射手に加わり抜群の技術を披露した。
これに感激した頼朝は故義常の旧領の中で特に豊かな一村を与えた。有経は父が追討された後に囚人として大庭景能に預けられていたが、七年後にこの慶びを得た。
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   ※景能の囚人: 波多野義常は頼朝が挙兵する直前の治承四年(1180)7月10日に参戦を促すため派遣した
安達盛長に暴言を吐き、同年10月17日の富士川合戦前夜に追討軍(下河邊行平)を送られて自刃した。有常は母の兄である大庭景親の元にいて難を逃れた(打合せ通りだろうけど)。
没収された義常の旧領は同族の義景(弟または従兄弟らしい)が継承していた。「豊かな一村」とは松田郷、有経は松田氏の祖となっている。波多野氏追討の件はこちらで。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月9日
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吾妻鏡
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奥州に向かう勅使官の史生(下級事務官)国光と院庁官(文書管理の事務官)の景弘らが先月22日に京を発った。藤原泰衡に命じて義経を拘束し引き渡す命令を伝えるためである。両人は宣旨と院の命令書を携えて今日鎌倉に入っている。宿舎の手配などについては院からの連絡が届いており、過怠なく準備するように稲毛重成畠山重忠榛谷重長らに命令した。頼朝は内々に宣旨の内容を確認した。内容は次の通り。
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文治四年二月二十一日     宣旨
出羽守藤原保房から東海道・東山道の国司と武士に命令する。源義経の一味が出羽国に入り古い官符を院宣と称して謀反している件。〜中略〜  
義経は平泉に逃げ込み前民部少輔藤原基成藤原秀衡の子息泰衡の協力を得て陸奥国と出羽国を略奪し国衙と庄家の官吏を追い出すなどの非法を行っている。これを捕縛し差し出すように命令する。もしこれに従わなければ官軍を派遣して共に討伐することになる。云々...    〜大勢の官名と修飾の多い文章は略す〜
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   天皇の発行した宣旨と院庁の命令書は概ね同じ内容。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月10日
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吾妻鏡
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去る元暦二年(1185)5月22日に平家に連座した前法印大僧都良弘は阿波国に流されていたが去る3月30日に京都に召し喚えされた。中原親能の報告である。
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   ※法印良弘: 平清盛の信任を受けた醍醐寺(公式サイト)の僧。以仁王挙兵の際に討伐の祈祷を行い安徳天皇
の護持僧として平家都落ちに同行した後に壇ノ浦で捕獲された。帰洛後の消息は不明。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月12日
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吾妻鏡
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院宣が到着。一つは前回の問い合わせに対する回答、一つは新たな申し入れである。詳細は次の通り。
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17日付の書状は26日に着き、内容の詳細は奏聞した。東大寺に使う材木の切り出しについては、荘園や公領に指示しても捗らないだろうから、(頼朝の支配下にある)諸国の大名に命令する方が早いだろう。勧進役の重源上人も同じ意見である。これは上人にも伝えてあり、院も同様の考えである。
                        3月28日 太宰権師 (藤原)吉田経房   (院宣を書き記す)
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(前法印大僧都)良弘については奏聞を済ませたので何らかの指示があるだろう。
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先月連絡した下野国仲村・仲泉・塩谷の三ヶ所は前の摂政家(近衛基通)の書類と同様で摂政家領である。従ってその通りの措置行うべきである。一日付けの恰土屋庄については法金剛院領ではなく、由緒により能盛法師が伝領したものである。年貢が入らず嘆いているため、他と同様に地頭を廃して欲しいのが院の意向である。
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私見として。諸国荘園の地頭については書状に書いてあった旨を内々に奏上した。この件は喜んで了解されておりその内容に従って指示するようにお考えである。 大した内容じゃないし面倒なので、以下は略す。
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   ※仲泉(中泉): 中泉庄は現在の壬生町(地図)。文治元年(1185)の10月9日、義経追討に赴く土佐房昌俊が
老母と幼子への配慮を願い、頼朝がその願いを容れている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月20日
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吾妻鏡
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酉の刻(18時前後)に中原親能の飛脚京都から到着、去る13日に六條殿が焼亡した。宝蔵と御倉は災難を逃れたが、長講堂は焼け落ちた、本尊は何とか救出できた、と。
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   ※長講堂: 後白河法皇が寿永二年(1183)頃に堀川の仙堂六條殿に
建てた持仏堂が最初。数回の焼失移転を繰り返し、秀吉の京都改造を経て現在は下京区の本塩竈町(地図)にあり、建物の大部分は幕末から明治初期の再建である。
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本尊の阿弥陀三尊像と後白河法皇木像は公開されておらず、4月13日の法皇忌のみ拝観できる。詳細はwikiで。
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右画像は六条堀川周辺の鳥瞰図(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月21日
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吾妻鏡
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鎌田新籐次が使者として上洛。六條殿火災の知らせを聞いた頼朝が特に驚いたのが原因である。京都守護職の
一條能保に書状を託し、院の様子を聞き鎌倉が出来る事を伺うように伝えた。
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   ※鎌田新籐次: 藤井俊長または鎌田俊長。野間で殺された源義朝の側近鎌田政家の子。伊豆国伊東に逃れて
定住したとの伝承がある。居館の跡は松川中流の稚児が淵北側に聳える城山(地図)で、現在残っている遺構は伊東氏が小田原北条氏の侵攻に備えて整備した当時の跡らしい。ずっと前に酷く荒れていた山道を登った事があるんだよね、懐かしい!
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懐旧の思いは兎も角として、新籐次俊長の名は治承四年(1180)8月20日に伊豆韮山から土肥(湯河原)へ進軍する頼朝の配下に網代小中太光家と並んで記載されている。
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光家は河津三郎を射て取った八幡三郎と大見成家の首を大見に届けた武士(曽我物語)、大見と網代と鎌田はそれぞれ10km圏内だから知人同士か。頼朝と新籐次の微妙な接点が真実か否か...数年先にも気になる記載が見られるのだが、いずれ改めて。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月22日
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吾妻鏡
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夜、御台所政子の女房(官女・千手の前)が頼朝の御前で気を失い、間もなく息を吹き返した。日頃は特に病気を抱えている女ではないが、念のため明け方に自宅に帰った。
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   ※千手の前: 元々は頼朝の官女で、元暦元年(1184)4月に鎌倉に連行した平重衡の態度に感服した頼朝が
身辺の世話のため与えた女性(同年4月20日の条を参照)。
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重衡は翌年6月9日に南都の僧に引き渡すため鎌倉を出発したが、それまでの1年強は千手の前と濃密な時を過ごし、この失神事件の三日後に急死している。千手の前の墓所などを参考に。
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平家物語は吾妻鏡の記述と少し異なり、千手の前は重衡の死後に出家して善光寺で修行し、重衡の菩提を弔いつつ死んだ、と書いている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月23日
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吾妻鏡
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頼朝の持仏堂で法華経の講読(内容を読み解く会)が始まった。唱導師は阿闍梨義慶が務めた。
これは御台所政子の祖母の命日にあたり、毎月23日に開催すると決められた。
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   ※政子の祖母: 時政の系譜さえ曖昧なのにその生母なんて判る筈がない。永遠の謎だね。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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4月25日
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吾妻鏡
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早暁に千手の前(24歳)が死没。穏便な性格な女だったため人々は突然の死を惜しんだ。前中将重衡卿が鎌倉に抑留されていた際には命じられて身辺の世話を続け、重衡卿が鎌倉を離れた後は恋慕の思いが積み重なり、これが病気の元なのだろうと人々には感じられた。
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   ※重衡の正室: 大納言藤原邦綱の次女輔子、壇ノ浦で入水後に救出され姉の家(現在の伏見区日野・奈良まで
約20km)に住んでいた。平家物語(巻十二)は警護の武士の配慮で、拘留されていた伊豆の狩野宗茂狩野介茂光の嫡子)邸から奈良に送られる重衡と奈良街道で最後の対面を果たした、と書いている。伊豆の狩野宗茂邸って、現在の狩野城址かな。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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5月1日
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吾妻鏡
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酉の刻(18時前後)に乾の方向(北東)から大きな音が響き渡った。これは霊魂の叫びか、雷鳴ではなく今まで聞いた事もないような音である。
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   ※天変地異: 吾妻鏡の場合、不思議な出来事は事件の予兆が多い。今回は何だろう。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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5月4日
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吾妻鏡
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武蔵国と下野国の御家人から、奥州平泉に向かう院の使者には丁重に接したとの報告が頼朝に届いた。
藤原俊兼を経由しての知らせである。
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   ※使者の接待: 武蔵国だと葛西か豊島か、下野なら小山か足利か宇都宮か。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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5月17日
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吾妻鏡
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天野遠景らの使者が貴賀井島に渡って合戦を遂げ、投降させた後に帰還した旨を報告した。特に宇都宮所衆の信房が功績を挙げた。近江にある信房の所領は検非違使別当家の所有になっているが、この功績に免じて返還して欲しいとの求めがあった。
また鎮西の荘園では成勝寺執行の一品坊昌寛の目代が非法を行ったため返還要求に従う旨を承服させたが未だに紛争が起きている。検非違使別当家(一條能保)は院の寵臣であるため、そこだけに限らず地頭の更迭を求める院の要求が再三ある。目代への命令には花押を入れるが、取り敢えずは問題を起こさぬよう努力せよ、と。
今日改めて指示があり、忙しい時の命令書には私の判を載せず、中原親能の判、または平盛時の判にせよ、と。
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   ※判を用いる : この時代、もちろん印鑑を押す習慣はなく、武士が書類に接する例が増えるに従い花押(wiki)
の使用が一般的になっている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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5月21日
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吾妻鏡
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八田右衛門尉知家の郎従庄司太郎は御所の夜間警備に任じていたにも関わらず怠慢であるとの噂があったため、身柄を検非違使に引き渡すよう佐々木定綱に命じた。更に八田知家には罰として鎌倉中の道路整備をせよとの命令を下した。
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   ※八田知家: 忍性上人の遺跡(三村山清冷院極楽廃寺を訪ねた際に知家が築城した筑波の小田城址周辺を
歩き回った。早く画像の整理をと思いつつ、時は矢の様に過ぎていく。
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蛇足...伊豆中部の大見地区に面白い伝承がある。大見の豪族平三家政の娘(玉枝)が同じ地区の八田八郎宗基に嫁して女子を産み、夫の死没後に娘を連れて伊東の領主祐隆に再嫁した。
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祐隆の嫡男・祐家(死別した前妻との子)は既に早世しており、本来は祐家の嫡男で祐隆の嫡孫である伊東祐親が伊豆東海岸の所領・葛見(宇佐美・伊東・河津)を継承するのが筋だったが...。
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祐隆は玉枝の連れ子に手を出して男子を産ませ、金石(後の工藤祐経)と名付けて本領伊東の支配権を与え、祐親には河津郷・祐経の弟祐茂に宇佐美郷を与えた。
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河津ニ郎祐親は祐隆の没後に伊東の遺領を独占、これが三大仇討ちの一つを描いた曽我物語の原点になった、との伝承が残る。詳細は八田屋敷の風景で。
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もちろん八田知家とは全くの同姓別人なのだけれど、話としては実に面白い。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月1日
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吾妻鏡
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大姫の館の山に沿った庭に水田を設け侍女が田植えを行ない歌を唱和した。武士の中で心得のある者を召し出して笛や太鼓を演奏させた。
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   ※田植え: もちろん本格的な稲作ではなく、大姫の気紛れか儀礼的な行事だろう。ちなみに、6月1日は西暦の
6月25日、当時も梅雨の真っ最中か。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月4日
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吾妻鏡
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各地の地頭に命令するべき事柄を具体的に指摘するよう師中納言吉田経房 に求めた書状の返事が届いた。勅答のままでは明細に言及できないため権右中弁定長朝臣による返状を添付してある。
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相模国大井庄の事  延勝寺領である。年貢は早く寺領の管理者に納付せよ。
上総国伊隈庄の事  金剛心院領である。年貢は早く寺領の管理者に納付せよ。
その他の年貢未納地は寺領の管理者から届いた報告を添付してある。
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蓮花王院領の伊豆国狩野庄、同じく常陸国中郡庄は年貢を納付せよ。
その他の年貢未納地は寺領の管理者から届いた報告を添付してある。
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上総国管生庄の事  前摂政の近衛基通家領である。年貢の催告状を送付する。
下野国中泉・中村・塩谷、相模国早河庄の事  この四ヶ所は同じく近衛基通家領である。
年貢は平棟範宛に納付するよう指示を受けている。
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八條院領の事  信濃国大井庄、常陸国村田・田中・下村庄・志太庄、下総国下河邊庄、越後国大面庄
これらには(東国沙汰権下なので)年貢の納付を早急に鎌倉から命令するように。
相模国山内庄、武蔵国大田庄、駿河国益頭庄、大岡牧、富士神領、信濃国伊賀良庄の事
文書紛失や平家の支配や土地の増減などのため庄家の確認と詳しい調査が必要である。
益頭庄も同様の状態と判断して一條能保に命じた。
ここは地頭の北條時政が正確に処理していると思うが、各地の地頭には周知徹底させよ。
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遠江国笠原庄の事  斎院への年貢納付を地頭に指示したのは良い処理だが、徹底していない旨の報告もある。
所領は他にもあるが、斎院に資するための御庄なのを認識して処理せよ。
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播磨国で梶原景時が知行する荘園の事   現地の訴えに従っての処理が妥当である。
景時が朝廷に忠義を尽くす者であり在京の際の功績も知っているから説明は不要である。
部下や代官による狼藉もあろうか、との仰せである。五箇庄・福田庄・西下郷・大部郷については、その訴えに沿って処理せよ。
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備前国宇甘郷の事  詳細を調査しているのは良い措置との御意に従って命令を下した。
伊勢式年遷宮費用の割当は国衙と荘園別に事務官に送付せよ。
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大内(内裏)の守護について   源頼兼の訴えは妥当である。
他の武士と交代で警護に任じるよう摂政の九条兼実に申し入れよ。
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六條院御領の事  詳しい報告が未着なので追って連絡する。
早河庄の事  連絡なし。
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今までの懸案はこの内容での処理を求めておられる。恐々謹言。  五月十二日 権右中弁
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   ※各地の概略: 相模国大井庄は足柄郡大井町の曽我荘北側(地図)、本所は和田義盛二階堂氏
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上総国伊隈庄は御宿・大多喜・睦沢の一部を含むいすみ市(地図)一帯で金剛心院(wiki)は後に忍性(鎌倉極楽寺の開山和尚)が復興している。
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伊豆国狩野庄は現在の修善寺駅から上流の柿木(狩野城址に至る狩野川中流域 (地図)、蓮華王院は後の三十三間堂。
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上総国管生庄は小櫃川の下流域で現在の木更津市に菅生(地図)の地名が残る。
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下野国中泉・中村・塩谷は現在の下野市から矢板市にかけての東山道沿い(地図)。
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相模国早河庄は現在の小田原市中心部の酒匂川から早川にかけてのエリア(地図)。
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信濃国大井庄は小諸市の東部、大井の古い字名が残っている(地図)。
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常陸国村田は筑波山の北西部で現在の筑西市村田(地図)、田中は約20km離れた土浦市とつくば市の両方に地名が残る(地図・中間地点をマーク)。つくば市の方は官衙遺跡や小田城址や三村山清冷院極楽廃寺などが近い。
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下村庄は常陸大宮市下村田、久慈川と那珂川に挟まれた肥沃なエリア (地図)。志太庄は稲敷郡美浦村大字信太 (地図)、志田三郎先生源義広(為義の三男)が平治の乱後の約20年間ここを動かず、後に野木宮合戦で滅びた際の本領。
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下総国下河邊庄は現在の江戸川と利根川(当時は更に南を流れていた。利根川東遷(wiki)を参照)。現在の幸手町を中心に北の古河市から野田市にかけての広大なエリア。
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越後国大面庄は現在の三条市大面(地図)、近くには天正六年(1578)の御館の乱で政権を掌握して出羽米沢藩初代藩主となった上杉景勝(共にwiki・)の所有となった大面城がある。
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相模国山内庄は北鎌倉から大船常楽寺を経て横浜市の一部を含むエリア(地図)。源頼義の郎党藤原資通が本拠を置いたのが最初とされる。
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武蔵国大田庄は久喜市鷲宮(地図)の一帯。 武蔵七党の一つで鷲宮神社(wiki)の神官を祖とする私市(きさいち)党の本拠とされる。
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駿河国益頭庄は現在の焼津市と藤枝市に跨るエリア(地図)で旧益津郡に属する。
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大岡牧は現在の沼津市大岡(地図)から黄瀬川の上流部を含む。この官牧の荘官が牧宗親(北條時政の後妻牧の方の父または兄)。
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信濃国伊賀良庄は現在の飯田市の西部(地図)、中央道の飯田IC近くに地名あり。
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遠江国笠原庄は現在の袋井市南西部の山崎に地名(地図が残っている。
五箇庄・福田庄・西下郷・大部郷は景時管理下にあった兵庫県加古郡稲美町(地図)一帯。
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備前国宇甘郷は岡山県吉備中央町の宇甘(うかん)川流域(地図) 。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月9日
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吾妻鏡
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後白河院 の六條殿(御所)修繕工事について功績を尽くすよう頼朝が命じた事を院は殊のほか喜んでいる。それならば元の姿と同様に長講堂を建てるよう申し入れがあった。また、その傍らに御所の居間があれば更に良いとの意向をお持ちである。吉田経房卿が書き記した去る20日付の御教書が鎌倉に届いた。
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   ※六條殿修繕: 六條殿と長講堂が去る4月13日に焼け落ちたとの連絡が4月20日に届いている。
頼朝は翌21日に一條能保を介して、出来る限りの援助を申し出た。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月11日
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吾妻鏡
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平泉の藤原泰衡から朝廷に貢ぐ馬・黄金・絹糸などが昨日大磯の駅に着き、この措置について三浦義澄から問い合わせがあった。泰衡と義経が与している事に頼朝が怒っており、朝廷からも使者が派遣されているための確認である。頼朝は、当人が謀反に与していても朝廷への献上品を押し留めて置く訳にはいかない、と指示した。
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   ※大磯の駅: 当時の相模国府は大磯の六所神社を参照。荷駄は国衙に入ったのだろう。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月14日
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吾妻鏡
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師中納言吉田経房を介して院の仰せが到着した。春近御領の年貢未納の詳細である。早急に納付を済ませよとの指示である。
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   ※春近御領: 実在する土地ではなく有力者が何かの都合で設定した架空の荘園だとの説や、伊那または現在
の松本郊外に実在したとの説や、数ヶ所の総称との説もあり、要するに実態が不明。名義が将軍家なのは間違いないらしい。
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   ※権利関係: 土地を開墾して開発領主になっても所有の法的根拠が乏しいため国衙に没収される例が多い。
  → 開発領主は土地を有力貴族や寺社に寄進して荘園領主(領家)とし所有権の保証を得る。
  → 中間に複数の領家が介在する場合、最上位に位置する領家=本家。
  → 中間に介在するのではなく荘園を実効支配する領家=本所。
  → 開発領主は現地の管理者(荘官・庄司)として荘園業務に当たる例が多い。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月17日
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吾妻鏡
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常陸房昌明は近年京都から鎌倉に入った者で元は比叡山延暦寺の僧兵。前の備前守源行家を討ち取って武名を挙げた人物である。強田付近の地頭に任じていたが思わぬ任期交代となり、愁訴するため上洛を考えた。便宜を図って貰おうと頼朝の御書を在京御家人宛に書いてくれるよう頼み、頼朝は昌明が在京している間は食事を手配せよとの内容を一條能保宛に書いて昌明に渡した。
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昌明は密かにそれを開いて内容を読み、これでは褒美ではなく罰のようだ、旅の食事など望んでいない。訴えのため上洛するので便宜を図って貰うためである、勇敢の誉れありと載っている部分は有難い事だが、と抗議した。
頼朝はその言葉が気に入り、藤原俊兼を呼んで書き改めさせた。京都守護の一條能保宛に、僧ではあるが勇士であるから在京中は警護役を命じると良いだろう、と。この事があって昌明は機嫌を直した。
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   ※常陸房昌明: 平家滅亡後は京都守護の北條時政に従った。その後も奥州討伐や承久の乱で転戦し同三年
(1221)には但馬守護に任じている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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6月19日
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吾妻鏡
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春と秋の彼岸に行う放生会の際には東国での殺生を禁止し、山焼きによる狩猟や毒流しの漁のような行為は今後とも禁止すると定めた。諸国に宣下して頂きたいと後白河院に奏聞を願うと。
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   ※放生会: 日本での初見は天武天皇五年(677)年8月。頼朝は文治三年(1187)6月18日に京都堀河若宮
での放生会開催を指示した記事が載っている。鶴岡八幡宮では同年8月15日に開催すると共に、頼朝が同月1日から15日までの殺生禁止を東国各地に命令している。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月4日
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吾妻鏡
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信濃守加賀美遠光が寵愛している息女が初めて御所に参上した。
頼朝は若君(来月で数え七歳になる万寿、成長して後に二代将軍頼家となる)の世話係に任じるよう定めた。
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   ※遠光の娘: 9月1日に頼朝に拝謁して大貳局と名乗るよう命じられている。
和田合戦(1213年5月)での義盛討死後に没収した陸奥国由利郡を得た記録がある。成長後の頼家と、後に三代将軍となった実朝にも仕えているから、北條氏からも信頼を受けていたらしい。
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北條実時が開基を務めた横浜の真言律宗別格本山称名寺(wiki)には大弐局が発願して運慶が彫った高さ21cmの大威徳明王像(右画像・健保四年・1216年作)があり、彼女が握っていた権限の大きさと待遇を彷彿とさせる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月10日
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吾妻鏡
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若公(万寿(頼家)・七歳)が初めて甲冑を着ける儀式が御所南面で行われ定刻に頼朝が出御、江間殿(北條義時)が御簾を上げ、次いで若公が出御し乳母夫の武蔵守平賀義信と乳母兄の比企四郎能員が補助役を務めた。
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小山朝政が若公の装束を甲冑と青地錦の直垂に改めて腰紐を結び、次に 千葉介常胤が鎧櫃を持ち込んで嫡男の千葉胤正と二男の相馬師常が御前に運び、六男の胤頼が背後で補助し常胤が甲冑を南に向けて立てた。
梶原景季が劔を、三浦(佐原)義連が同じく劔を、下川邊行平が弓を、 佐々木盛綱が征矢を、八田知家が鞍を置いた黒馬を献上し、息子の八田(小田)朝重がこれを引いた。
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三浦義澄畠山重忠和田義盛が手を貸し若公を馬に乗せて小山朝光葛西清重が轡を取り、小笠原弥太郎(長清の嫡子長経)・千葉五郎(常胤の五男国分胤通)・比企彌四郎(能員の四男・時員)が馬の左右に従って南庭を三度廻ってから足立遠元が抱いて下馬させた。次いで甲冑を脱ぎ堀親家が甲冑と馬を納戸と厩に収納した。
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その後に平賀義信が頼朝に馬を献じ、里見義成がこれを引いた。続いて西の間で平賀義信差配の酒宴となり、頼朝は寝殿の御簾を挙げ西面に出御した。最初の献酒は小山(結城)朝光、二献は三浦義村、三献は葛西清重である。酒宴後に頼朝が奥へ退き、平賀義信が若公の吉事を祝って酒肴と生絹一着と小袖五着を御台所政子に献じた。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月11日
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吾妻鏡
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六條殿の修造工事の件、頼朝が知行する国の負担分は中原親能 が差配し大工頭領国時に担当させる。
遠江国が負担する分の要求が院から届き、国司である安田 義定の元に転送した。内容は次の通り。
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六條殿の工事では六條通に面した築地垣一町(60間・109m)と門などを造るのが後白河院の意向である。
                  六月二十七日    権右中弁(藤原定長)    遠江守殿
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   ※藤原定長: 吉田経房の同母弟で後白河法皇の近臣として主に院伝奏の任に当たっていた実務官僚。
東大寺の復興事業にも関わっている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月13日
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吾妻鏡
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武蔵国平澤寺の院主職は僧永寛が任じられた。
また師中納言吉田経房卿の奉書が届いた。宮内権大輔重頼が地頭と称して各所を押領しているとの訴えが隠岐守仲国から届いている、との内容である。 今日、それに対応して重頼に是正の命令を下した。
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隠岐守仲国が申し立てている重頼押領の件はまことに不都合であり、書状を以て重頼に命令を下す。隠岐国司仲国の訴えに基づいて院からの指摘があり、各所を知行するなど問題外の所業である。まして中村別府には地頭に任じた事実もない。通達に従って是正せよ。
           七月十三日  御判    宮内大輔殿
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   ※平澤寺: 畠山重忠菅谷館に近い比企郡嵐山町平澤(地図)に
ある天台宗の古刹(右画像)。重忠の祖父秩父重綱が埋めた経筒などが出土している。鎌倉時代後期に廃寺となり天正年間(1580)頃に再建、現在の本堂は天保十年(1839)に建立している。本尊は阿弥陀如来像。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月15日
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吾妻鏡
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亡父義朝の追善供養のため勝長寿院で万燈会を開催した。武蔵守平賀義信千葉常胤足立遠元などが法会の開催を差配し、頼朝と御台所が参堂した。
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   ※万燈会: 懺悔や報恩のため主として旧盆の夜に灯明を点じて供養する行事。奈良時代から行われている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月17日
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吾妻鏡
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京都守護一條能保からの飛脚が到着。去年の夏に御家人の藤原宗長と 石清水八幡宮(公式サイト) の神人(下級の神職)と乱闘し神人が傷を負ったため去る11日に院宣が下された。再三の申し入れはあったが軽々に引き渡して御家人の反発が出るのも憚られるため保留にしていたが大きな事件になってしまった、どう処理すべきかとの連絡である。添付されている院宣の内容は次の通り。
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放生会の輿を担ぐ神人らの訴えを受理した法印成清の書状を送る。この事件で去年は神事半ばで中止となり、今年も騒乱の発生があれば朝廷にとっても大事件である。神社の訴訟は合理性に乏しいが神仏を相手にする場合には先に処罰した後に許すのが普通である。まず宗長に罪を償わせ、その後に改めて処分を考えれば良い。彼は特に大切な親族ではなく郎従に過ぎないから拘留を受けるのが忠義でもある。院の機嫌に配慮すれば、そのように処理すべきである。     七月十一日 申刻   勘解由次官宗隆  進上 右兵衛督殿
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   ※藤原宗長: 蹴鞠を得意とした廷臣(吾妻鏡が御家人と書くのは納得できない)で文治二年(1185)12月に義経
に与した罪を問われた父の難波頼経と共に解官され8月17日には土佐配流の官符を受けている。
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後に許されて朝廷に復帰し刑部卿を経て建保二年(1214)には従三位に叙されている。乱闘事件と伊豆配流について関連の有無は判らない。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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7月28日
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吾妻鏡
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式部大夫中原親能 が武威に拠って他人の領所を奪い年貢を横領したとの疑惑を詰問したが弁解できなかった、との讒が院から届いたため頼朝から直接親能に照会したが詳細の報告はなく、去る6月に陳述書を届けた件と思われる旨の言上があった。特に問題ではなかったか、と頼朝も安心した。陳述の内容は次の通り。
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謹請 院宣二ヶ條の件
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一.駿河国蒲原御庄(後白河領)年貢の事。 蒲原御庄は親しくしている大外記の中原師尚に管理を委ねている。
調べたところ文治元年と二年分は完済して処理を終えたから師尚に問い合わせるのが妥当か。文治三年の納税分は4月に船に積んで出航を済ませている。
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一.越後国大面御庄(後白河領)年貢の事。 大面御庄の文治元年と二年分は領家(中納言入道)に届ける旨を
管理者が報告している。不審があれば管理者を本家に派遣して報告すべきか。三年の早期分は領家に納付し、後期分は船積みしたが到着は未確認で倉庫に在る可能性がある。院宣によって荘園の管理業務を停止されたため、積み出しが停滞しているかも知れない。   文治四年六月十一日   散位藤原朝臣親能
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   ※駿河国蒲原御庄: 富士川の西岸一帯(地図)。後に今川氏の本拠地となる。
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   ※越後国大面御庄: 現在の三条市大面(地図)、近くには天正六年(1578)の御館の乱で政権を掌握して出羽
米沢藩初代藩主となった上杉景勝(共にwiki)の所有となった大面城がある。
6月4日の院の問合せにも荘園について載っている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月9日
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吾妻鏡
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台嶺(比叡山)の悪僧が義経に与している事と、前民部少輔藤原基成藤原泰衡が義経を庇護し匿っている事について、朝廷の対応が頗る遅い。それらの状況を説明を遅滞なく説明するよう京都守護の一條能保に命じた。
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   ※藤原基成の館: 文治五年(1189)閏4月30日、吾妻鏡は「今日陸奥国で藤原泰衡の兵数百騎が義経の居る
民部少輔基成朝臣の衣河館を襲った。義経の家人が防戦したが悉く敗れ、義経は持仏堂に入り妻(20歳)と娘(四歳)を殺して自殺」と書いている。
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義経主従の居住地は高館ではなく中尊寺のある関山の北麓、現在の衣川北岸にあったと推定される。詳細は平泉高館と金鶏山(各々サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催。頼朝も参列し、まず舞楽が演じられ次に流鏑馬が行われた。海野幸氏諏方盛澄が射手を務めた。
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   ※二人の射手: 共に木曽(源)義仲の遺臣。諏訪(金刺)盛澄は前年8月15日の流鏑馬に出場したが、この時は
まだ数え15歳だった海野幸氏は今年が初の公式流鏑馬になる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月17日
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吾妻鏡
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京都から一條能保の書状が到着。街道筋で群盗が出没している件、疑念のある者については各所に手配を済ませている。比叡山飯室谷の竹林房に住む来光房永實と千光房七郎僧が悪党仲間を集めて野盗などを行っていると噂になっているため、その旨を院に報告した。
朝廷では法印の圓良を呼んで処理を命じたところ、去る4日にその僧を拘束して連行する旨の返答があった。
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また、藤原宗長石清水八幡宮(公式サイト)の訴えによって去る5日に土佐配流の官符が下された。
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   ※飯室谷: 飯室谷は横川から東に下る中尾坂の先。根本中堂・釈迦堂・横川中堂・無動寺明王堂と並ぶ延暦寺
五大堂の一つ・不動堂がある事で知られる (地図)。
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   ※宗長配流: 7月17日の石清水神人との乱闘についての記載がある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月20日
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吾妻鏡
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前の廷尉康頼入道が再び院に訴状を提出した。3月14日の訴状と同じく阿波国麻殖保の件で、地頭の刑部丞成綱が武力によって保司を無視し恩賞として私が得た土地がないと同然の状態である。それだけではなく内蔵寮への年貢も納付できないため、成綱の地頭職を停止する旨の院宣が下された状態になっている、と。
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頼朝は驚愕し、諸国に地頭を補任しているのは朝廷を警護し国の乱れ治めるためである。にも関わらず公領の物を横領するのは不穏当である、成綱は地頭職ではあるが領家の権利への関与は許されない旨を命令した。
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   ※康頼と成綱: トラブルの内容と両者の詳細は3月14日の訴状に詳しく載せてある。
頼朝は義朝の墳墓(野間大坊)を供養し続けた康頼の功績を認め、文治二年(1186)閏7月22日に麻殖郡の所領を与え康頼を保司職に任じたのが最初。
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麻殖保は徳島県吉野川市の中流域(地図)で、康頼は平姓麻殖(おえ)氏の祖となっている。保は庄などと同じく所領の単位だが内容には若干の差異がある。保司の業務は庄司に準じる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月23日
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吾妻鏡
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波多野五郎義景岡崎四郎義實が決裁を求め御前で対決した。相模国波多野本庄の北部は義景が先祖から受け継いできた所領だが、在京している隙を狙って義實がこれを占有しようとした件である。
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帰国した義景は「この土地は保延三年(1137)1月20日に祖父の筑後権守遠義から二男の義通が相続し嘉応元年(1169)6月17日に義景が相続した。何も問題がないのにどんな理由で所有を主張するのか」と主張している。
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この審議中に義實が「義景が以前に書いた「孫の先法師冠者に与える」との書類がある。」と主張した。
義景は「先法師は私にとっての外孫だから譲状を渡したが、祖父の私が生存しているのに義實がその土地を欲しがるのは筋が違う。」と答え、返事に詰まった義實は孫の将来を憂いての意図である、と謝った。
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土地の所有に関しては義景の意思に委ねる、義實の主張は不当であるから罰として百日間の鶴岡八幡宮と勝長寿院の宿直を命じる...頼朝はそのように決裁した。
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   ※波多野本庄: 現在の秦野市田原の一帯(地図)。平治の乱から平家滅亡までは現在の松田町まで東西10km
以上が波多野領で本拠は松田郷にあった(波多野義常が頼朝挙兵に参加を拒んだため後に追討され、松田郷は後に嫡子の有常が継承して松田氏の祖となった。秦野エリアは義景が継承して波多野氏を継いでいる。
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   ※先法師冠者: 義實の長男が石橋山合戦俣野景久の郎党長尾定景に討たれた佐奈田義忠(余一、25歳)、
その遺児が義實の肉親で唯一の内孫・先法師冠者、生母が波多野義景の娘だったらしい。
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波多野本庄と義實の所領岡崎は同じ金目川(花水川上流)に沿って隣接し、南西側は中村一族(土屋・二宮・土肥)の勢力範囲に接している。 義實の二男義清は中村宗平の養子になり、中村荘の南部・土屋郷を領有して土屋義清を名乗り、建暦三年(1213)の和田合戦で死没。
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実父の義實は死没する数ヶ月前の正治二年(1200)3月14日に御所を訪れ、老残の寂しさと窮状を政子に訴えている。頼朝没後に半ば忘れ去られつつあった幕府創建第一世代の苦しみ。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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8月30日
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吾妻鏡
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諸国での殺生を禁じるよう求める宣旨が到着した。頼朝の申請に拠る指示である。内容は次の通り。
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文治四年八月十七日   宣旨
殺生の戒めは重要であり、去年12月には帝の綸旨も下されている。しかし各地ではそれが守られていないとの情報があり、川に毒を流したり山を焼いて獣を狩ったりする罪業が行われている。猪や鹿のみならず鳥や魚も同じ生き物、安易に殺すのは仏法に背く行為である。全国に広く徹底させ禁制に従わせよ。  蔵人頭 右中弁兼忠
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   6月19日に頼朝が殺生を慎むべきと求めており、今回の宣旨はその対応と思われる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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9月1日
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吾妻鏡
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信濃守加賀美遠光 の息女が御所の女房となって初めて頼朝に拝謁した。大貳局と名乗るよう指示を受け、遠光が献杯を行なった。
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   ※遠光の系統: 7月4日に初出仕して万寿(後の頼家)の養育係に任じている。父の武田義清に従って常陸から
甲斐に移り勢力を扶植した(逸見)清光の最初の子が双子の光長信義
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長男光長は双子を嫌う風習に従って無名の生涯を送り、甲斐源氏の当主となった信義の嫡男一條忠頼 は謀殺され信義は失脚。御家人として服従の道を選んだ加賀美遠光の系と、兄三人を蹴落として実権を握った(石和)信光 (石和→武田)が甲斐源氏の嫡流となる。
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信光の末裔が甲斐を統一した武田信玄。甲斐武田氏の歴史も、清和源氏の歴史と同様に一族の血で彩られている。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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9月3日
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吾妻鏡
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宮内大輔重頼の違法行為が院宣によって指摘されたため、重頼に停止の命令を下した。また勅願寺領の年貢納付について各地の地頭に問い合わせたがその報告が揃っていないため、その旨を院に報告した。
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若狭国司が報告の松永・宮川保の地頭宮内大輔重頼が国衙の指示に従わない件、非法の停止を命じる。
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院から指摘のあった通り領家は通常の業務を行っており、地頭の側に不当行為が多いのは明らかである。しかし地頭が業務を正しく行い年貢の遅滞がない例も各地にある。
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領家の中には地頭の不法を指摘する風潮に乗じた根拠のない訴えも聞き及んでいる。従って記録した書類などを確認した上で裁許を行えば、不当行為をしている地頭は恐れをなし忠実で正確な業務を行うようになり、真面目に仕事をしている地頭は公平さを再確認するようになる。呼び出して調査すれば明白になるし、呼び出しに応じない地頭の名簿があればこちらから出頭を命令する。  頼朝恐々謹言  九月三日 頼朝(裏判)
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追伸  6月4日に届いた御教書にあった金剛心院と蓮華王院領の年貢納付の件、地頭の任地と居住地とが
離れており必要な書類が揃わず遅れているのは誠に恐縮である。
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若狭国松永と宮川保の住人に下す  先例に従って国衙への責務を果たす事
地頭宮内大輔重頼は地頭の職責を逸脱して国衙の業務を妨害しているとの申し入れが院から届いている。早急に地頭の業務に専念し国衙への妨害を停止して先例通り執務するよう命令する。
                          文治四年九月三日
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   ※宮内大輔重頼: 摂津源氏頼政の娘(女房三十六歌仙の二条院讃岐)を妻とした廷臣で鎌倉御家人藤原重頼。
今回のトラブル以外にも平家没官領の隠岐国犬来牧と宇賀牧(隠岐島町と西ノ島町)の地頭に任じ、隠岐国司から訴えられているから常習的確信犯か?
建久五年(1195)鎌倉に戻って頼朝側近を務め、頼家にも仕えた。没後の若狭国宮川保の地頭には二条院讃岐が任じている。
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   ※松永・宮川保: 松永保は現在の福井県小浜市東部(地図)、宮川保は同じく北東部(地図)。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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9月14日
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吾妻鏡
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熊野から尊南坊僧都定任が鎌倉に参向した。頼朝は偏に現世と来世の願成就を求め、以前から持仏と祈願書を預け置いて祈祷を重ねさせている僧である。
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城四郎長茂は平家の一族として鎌倉と敵対したため囚人として梶原景時に預け置いた武士で、彼もまた定任を仏法の師としている。来訪を契機として罪を許し御家人に加えるよう定任の推薦があり、頼朝もそれを認めた。
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今日定任が御所に入り頼朝に拝謁して世事を語り合った。御家人らは東を上座として二列に座し、南側の上座には畠山重忠・北の上座には梶原景時が着座した。全員が見つめる中、身の丈7尺(210cm以上)で白の水干に立烏帽子の城四郎長茂が参入。二列に着座している中を進み、(頼朝が座している)御簾を背にして着座した。
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これを見た頼朝は無言を続け、(長茂を推薦した)定任は恥ずかしくて赤面した。景時が「そこは鎌倉殿が座す場所である」と注意し、長茂は「知らなかった」と言って座を立ち退出した。定任は敢えて取りなす事もしなかった。
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城長茂(本名を資茂)は鎮守府将軍維茂(平貞盛の弟)の子で出羽城介繁茂から七代の子孫である。維茂の勇猛さは有名で、鎮守府将軍の宣旨を受ける前から将軍を称していた。武士を本業としながら毎日法華経を転読し毎年六十巻(玄義文句止観)一部を読み終えていた。また恵心僧都に会って極楽浄土への往生を語り合ってもいる。
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繁茂は生まれた直後に行方不明になり、四年後に夢のお告げを得て狐の巣で捜し出し連れ帰った。狐が老人に姿を変えて来訪し太刀と櫛を幼児に与えた。私がそのまま育てていれば日本の国主にもなっただろうが今ではそれも成らず、と語った。この幼児が後の繁茂である。長茂は彼の子孫として跡を継ぎ、今もその太刀を帯びていると。
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   ※城一族: 越後平氏の名族。治承五年(1181)の2月、清盛の病没直後に後継の宗盛から木曽義仲追討令を
受けた当主の資永が一万の軍兵を率いて出陣したが直後に卒中で死没、替って指揮を執った弟の長茂は横田河原の合戦で義仲軍に大敗し没落した。女武者として名高い坂額は資永・長茂の姉妹。
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   ※玄義文句止観: 法華経の三大部である法華文句・法華玄義・摩訶止観を差す。謂わば法華経の根幹。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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9月21日
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吾妻鏡
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岡崎四郎義實は(8月23日の波多野義景との所領争いによる)罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院などの宿直を命じられ悩んでいたが、郎党らが箱根の山裾で山賊の首魁(名を王籐次)を捕獲する功績を挙げたため罪を許された。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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9月22日
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吾妻鏡
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信濃国伴野庄の年貢未納について再三の問合せにも対応していない。今後も同じ状態なら必要な措置を取ると小笠原次郎長清に命じ、長清は直ちに納付を済ませた。この旨は師中納言吉田経房に連絡した。内容は次の通り。
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信濃国伴野庄の年貢未納について、今後も同じ状態なら必要な措置を取ると地頭の小笠原次郎長清に命じて納付させた。この旨の報告である。        九月二十二日    頼朝 進上 師中納言殿
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追伸...納付先の倉庫が判れば地頭に指示し、毎回の報告を省略する。
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   ※伴野庄: 現在の下伊那郡豊丘村神稲伴野原(地図)。天竜川の対岸には元善光寺がある(末尾に記載)。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月4日
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吾妻鏡
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右衛門権佐定経の奉書によって仰せの備前国福岡庄について、今日返状を送った。内容は次の通り。
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先日仰せの備前国福岡庄について、平家没官領に含まれていたため受領した。宮法印御房が讃岐院(崇徳上皇)を国で弔う命日の費用について嘆いたため、仔細を考慮せず福岡庄を充てるよう寄進した。特に間違いではない筈だが叱責に至ったようだ。事前に決定があれば遅滞せずそれに従う旨を了解願いたい。
                           十月四日   頼朝(裏判)  進上 右衛門権佐殿
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   ※備前国福岡庄: 現在の瀬戸内市長船町福岡(地図)。立荘の時期は不明だが、平家滅亡後に頼朝の所有を
経て崇徳院法華堂に寄進された記録が残る。備前焼、備前長船などで広く知られた地。
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肝心の右衛門権佐定経奉書の記載ヶ所が見当たらず、院からのクレーム内容は判らない。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月10日
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吾妻鏡
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所々に浮雲、雨が僅かに降り間もなく止んだ。巳刻(10時前後)に窟堂の聖阿弥陀佛房が勝長寿院に詣でて本尊を拝んだ後に退出、道路で頓死した(84歳)。珍しい事件である。直ちに勝長寿院の供僧良覚の差配で納棺し亥刻(22時前後)に葬送、藁で火葬に付した。昨今は頓死の例が多い。
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   ※窟堂の聖: 窟堂は今年の1月1日に記事を載せている。聖は徳の高い僧・諸国を布教して遍歴する遊行僧や
寺院に属さない修行僧の意味があり、この場合は二番目か。一時期の 空海行基一遍も同様。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月17日
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吾妻鏡
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比叡山僧兵の俊章は以前から義経に与しており、今回は追われている義経を数日のあいだ匿い、奥州を目指して逃げた際には仲間を引き連れて途中まで送り届けた。帰洛した後に謀反を企てたとの噂があり、様子を確認してから身柄を拘束せよ、と在京の御家人に命じた。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月20日
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吾妻鏡
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大庭景能(景義)が八幡宮流鏑馬馬場の辺りに宮寺の警護所を建て、今日頼朝が訪れて渡御の儀式を行った。庭の樹木が紅葉して見事だと言うため頼朝が訪れ八幡宮別当圓暁も加わり酒宴、稚児が延年の舞を演じた。
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   ※警護所: 馬場のスタート地点なら警護所は東鳥居の辺り(地図)か。なお、東鳥居の右手が畠山重忠邸の跡、
国立大付属の北側部分が三浦邸の跡。当時の八幡宮本殿は現在の若宮の位置にあった。
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   ※延年の舞: 平安中期から流行した芸能で、下級の僧侶や稚児が余興や儀式の際に演じた。
曽我物語では大庭景親 の追手に館を焼かれた土肥實平「何度でも焼くのなら焼け、源家繁栄の炎ぞ」と延年を謡って舞い味方を鼓舞した事になっている。
湯河原の五所神社例大祭の出陣祭では今も演じている(と思う)。
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   ※蛇足: 例大祭では頼朝出陣の武者行列も開催される。本殿でお祓いを受けた武者は1km弱の湯河原駅まで
進軍してから名乗りを挙げるのだが、10年ほど前までのスタート地点は約3km離れた観光会館、頼朝挙兵に合わせた真夏のイベントだった。本来は挙兵なのに、湯河原駅に到着した行列はまるで落ち武者同様に息絶え絶えの姿だった記憶がある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月25日
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吾妻鏡
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義経追討の宣旨の写書が鎌倉に届いた。本状は担当官が奥州へ持ち込む事になっている。内容は次の通り。
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文治四年 十月十二日   宣旨
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前伊豫守源義経は悪心を抱き、都から離れて偽言を用いて奥州に逃れた。
よって前民部少輔藤原基成および藤原秀衡の子息 藤原泰衡らに命じ、彼の義経を捕縛して差し出すよう宣旨を下したにも関わらず弁明に終始している。今では義経が奥州に隠れているのは周知の事実で、勅命に従わず野心を抱くのは朝廷の意思を軽んじる状態である。
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先祖から四代目を継承した泰衡の権威に従わない者が陸奥国にいる筈はない。重ねて泰衡に命じる、早く義経を捕縛して連行せよ。もし義経に与すれば後悔して恨みを残す結果になる。勲功があれば恩賞を受け、凶徒に従い反逆すれば官軍を向けて征伐する。勅命の重さに違背する事なかれ。
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                                     蔵人右衛門権佐 藤原定経(奉)
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   ※勅命の重さ: まぁ権力を世襲しただけの泰衡に軍事的な能力を期待しても無理なのだが、頼朝の最終目的が
義経追討なのか、それとも陸奥国支配なのかを判断するのは勇気や根性とは別の問題。
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義経を殺し、義経に賛同した兄弟を殺したら解決すると考えた、そのレベルの人物なんだね。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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10月26日
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吾妻鏡
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去る18日に六條殿が上棟した。関東が担当した分の工事に従事していた者は、任務を終えたら直ちに鎌倉に帰還せよ。その旨を前もって工事を担当する職責の者に伝えておくよう、 中原親能に伝えさせた。
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   ※六條殿: 工事の着手は7月11日の記述に触れている。約3ヶ月で上棟だから流石に大掛かりな工事だ。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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11月1日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮馬場の樹が風もないのに倒れたと、大庭景義が詳細を報告した。頼朝が出向いて確認し禍を祓うため馬と供物を奉納して陳謝の意を評した。
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   ※景能の報告: 景能が八幡宮馬場に警護所を設けてから10日目の出来事。何かの作為を感じるが...
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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11月9日
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吾妻鏡
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頼朝外甥の僧任憲が御所に参上した。血縁関係を知らない人物なので委細を尋ねると故祐範の息子である旨を申し述べたため北面の客間に招き入れ親しく語り合った。
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祐範は季範朝臣の息子で頼朝にとって母親の弟に当たる。母親が早世した際には祐範が七日の忌日を迎える毎に澄憲法印を導師として経を唱えて供養してくれたのみならず、永暦元年(1160)に頼朝の伊豆下向(流罪)の際には郎従を一人付き添わせ毎月使者を送ってくれた、この恩義は今も忘れていない。その息子が訪れたのは実に良い出来事である、と深く喜んだ。
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   ※頼朝の外甥: 頼朝の母親(由良御前)の弟(藤原季範)の息子で、甥ではなく従兄弟。頼朝の伊豆配流に付き
添ったのは祐範の郎従と、義朝の家人だった高庭介資経の親族藤七資家の二人だけだった。吾妻鏡の元暦元年(1184)3月10日は次のように記述している。
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因幡国の住人長田兵衛尉實経(後に廣経と改名)を召した。頼朝が与えた書類に曰く、「平家に与した罪人ではあるが父の高庭介資経が家人の籘七資家を伊豆まで付き添わせてくれた事は子々孫々まで忘れ難いので彼の知行を安堵する。
あの時は源氏に縁のある者は死没したり変節して、敢えて従おうとする者もいなかったのに、實経が親族の資家を副えてくれたのは忘れられない」と述べた。
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   ※母親が早世: 由良御前の死没は保元四年(1159)3月1日。同年12月には平治の乱が勃発しているから、
頼朝は10ヶ月の内に両親を失った事になる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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11月18日
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吾妻鏡
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西風が激しく吹き、降雪あり。早暁に大庭平太景義(景能)宅の庭で狐が死んでおり、怪異と考えて門を閉じた。
今日、師中納言吉田経房の書状が届いた。隠岐守仲国が訴えている讃岐国務についての問題点を調べて裁許して欲しい、との内容である。
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   ※仲国の訴え: 詳細は21日(下の段)に頼朝下文と共に記載してある。9月3日に載っていた、隠岐国犬来牧と
宇賀牧の地頭に任じている宮内大輔重頼の不正に関する訴えである。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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11月21日
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吾妻鏡
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隠岐国司仲国朝臣が訴えている件について、院へ返状を送り在庁官人らに命令を下した。内容は下記の通り。
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先月27日の書状が今月18日に到着し拝見した。隠岐守仲国が訴えている三ヶ条について、頼朝決裁の下し文を送る。前司惟頼が知行する中村別府は勅定(院の指示)記された通りである。この内容を奏上されるように。
                                        十一月二十六日  頼朝
隠岐国の在庁らに下す
犬来牧と宇賀牧の他に宮内大輔重頼知が知行している地は国衙の支配とする。
これらの土地は以前は平家の所領だったと判断して重頼を管理者に任命したが、犬来牧と宇賀牧以外は平家領ではなかったと在庁官人らが誓紙と共に国司に申告した。院の決裁を経た内容は、犬来牧と宇賀牧の他は重頼の管理権を停止し、国衙の管理に変更する措置とする。  文治四年十一月二十三日
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   ※仲国朝臣: 宇多源氏河内守光遠の子で後白河の近臣だった源仲国だと思うが、隠岐守に任じていた記録は
見当たらない(備前・若狭・伊勢守・刑部大輔院・細工所別当を歴任している)。妻が丹後局の縁者で、後白河の没後託宣と称して「再三妖言をなして世を騒がせた」ため仲国は建永元年(1206)に細工所別当を解任された、とある。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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11月27日
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吾妻鏡
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大庭景能の父・景宗の墳墓は相模国豊田庄にある。群盗がこの塚を掘り起こして内部に納めてあった財物を盗み出し、追い掛けても行方知れずになってしまった。これは18日に狐の死骸が見つかったのと同じ頃で、人々は不思議な事件だと噂した。
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   ※豊田庄: 大庭氏の開発型荘園で大庭景宗の次男豊田次郎景俊
の所領。豊田庄は現在の平塚市西部の岡崎郷・二宮郷に接したエリアで、僅かに墳墓の痕跡(地図)と五輪塔および崩れた石塔の一部が残っている。
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景宗の子は大庭景義(景能)・豊田景俊・ 大庭景親俣野景久波多野義常室の5人。景義と景俊の母は横山隆兼(愛甲季隆の父)の娘。景義と景俊、景親と景久は別腹の兄弟と推定される。
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景義が保元の乱で源為朝の矢に膝を砕かれ歩行不能になり家督を景親に譲った事、源平に分かれて戦った事、戦後に景親の助命を願わなかった事などを考え合わせると、円満な関係ではなかった可能性が高い。    右画像は現在の大庭塚(ほぼ「痕跡」状態)。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月6日
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吾妻鏡
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中原親能の飛脚が京都から到着。先月25日に東大寺で寺僧と武士が喧嘩して双方に数十人の負傷者が出た。今日(29日)に在京の武士を南都に派遣する予定だったが、朝廷にとって大事件に発展する恐れありとの(院の)指示が一條能保と親能に下されたため、師中納言吉田経房に派遣の中止を報告した。
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この事件の発端は、高太入道殺害事件について調査し措置せよとの頼朝の命令があったため、親能が使者を南都に派遣した。その調査が済まないうちに騒動が勃発したものである。
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   使者の派遣を自治権の侵害と受け取ったトラブルで、南都との紛争拡大を朝廷が警戒した、という事か。
ただし、肝心の高太入道殺害事件については全く判らない。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月11日
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吾妻鏡
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京都朝廷から義経追討の宣旨が発行され、更に後白河院の命令書も添えられた。官吏の守康がこれを帯同して奥州に赴く途中で鎌倉に入り、八田知家宅に立ち寄って食事などの接待を受けた。院宣の内容は次の通り。
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院の庁が陸奥国と出羽国、両国の国司らに命じる。二度発行した宣旨の内容に従って早急に前民部少輔藤原基成および秀衡法師の子息藤原泰衡らに義経の拘束と京都への身柄引渡しをするべき事。
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今年の春に、基成と泰衡らに対して義経の捕縛・引渡しの宣旨と院宣を下したにも関わらず、泰衡らは勅命に従わず勅使の派遣にも驚かず勝手な弁明に終始している。義経らは現在も服従することなく陸奥の辺境に隠れているのは明白である。基成と泰衡らは臣下として帝の土地で暮らしながら帝の命令を無視し、愚かにも逆賊に与するのか。二度の宣旨に従って義経の身柄を引き渡すべし。
これ以上宣旨に従わない場合には、早急に官軍を派遣して討伐する。両国の国司はその旨を心得て従うよう命令を下す。           文治四年十一月日   主典代織部正大江朝臣(担当書記官)
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別当左大臣藤原 [経宗]   判官代河内守藤原朝臣 [清長]    大納言兼右近衛大将藤原朝臣 [實房]
右衛門権佐兼和泉守藤原朝臣 [長房]    権大納言藤原朝臣 [長房]   左近衛權少将藤原朝臣 [公国]
権大納言兼右近衛大将藤原朝臣 [兼雅]   少納言兼侍従藤原朝臣   権大納言藤原朝臣 [忠親]
勘解由次官平朝臣 [宗隆]  権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣 [朝方]   権利右中弁藤原朝臣 [親経]
権大納言藤原朝臣 [實家]   右少弁兼左衛門権佐藤原朝臣 [宗経]   權中納言藤原朝臣 [實宗]
左少弁平朝臣 [棟範]   権中納言兼右衛門督藤原朝臣 [頼實]   右中弁藤原朝臣 [親雅]
権中納言藤原朝臣 [定能]   権中納言源朝臣 [通親]   権中納言兼太宰権師藤原朝臣 [経房]
権中納言藤原朝臣 [泰通]   参議藤原朝臣 [親信]   参議左大弁兼丹波権守平朝臣 [親宗]
参議左兵衛督藤原朝臣 [隆房]   右京大夫兼因幡権守藤原朝臣 [季能]   宮内卿藤原朝臣 [季経]
内蔵頭藤原朝臣 [経家]   右近権中将兼播磨守藤原朝臣 [實明]   修理大夫藤原朝臣 [定輔]
大蔵卿兼備中権守藤原朝臣 [宗頼]   造東大寺長官左中弁藤原朝臣 [定長]
修理権大夫藤原朝臣 [頼輔]   丹後守藤原朝臣 [長経]
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   朝廷上層部のフルメンバー連名だね。googleで検索すると殆ど全てヒットする重要人物だ。泰衡、驚け!
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月12日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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因幡前司大江廣元の使者が京都から到着して報告した。今月三日に後白河法皇が熊野参詣に出発し、事前の精進の際に閑院(里内裏)と六條殿の修造工事について、精勤し殊勝であるとの言葉を受けた。偏に裏方とした働いた、その結果と考え歓喜の涙を抑えられなかった。
別件として、廣元が知行している周防国嶋末庄について、院の女房である三條局が手紙で所望する旨を伝えてきた。師中納言吉田経房を経由して知行した経緯を尋ねられたため仔細を報告してある。直接の問い合わせがあると思うので、報告した内容を添付する。
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周防国嶋末庄地主職について。この庄は大嶋の中央部で、源平合戦の際に平知盛が城塞を築いて数ヶ月の間居住し、島の武士は全て従っていた。平家滅亡後に頼朝の命令を受けて所領とし、代官を置いて先例に従った業務と納税を済ませてきた。ただし院からの要望があれば異議を挟まず従うつもりである。
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   ※大江廣元: 吾妻鏡の初出は元暦元年(1184)の8月20日、安芸国司に推薦した件。同26日には公文所の
門の設置に立ち会い、9月17日に因幡守に任じている。京都にいた頃の最終官位は従五位上だから法皇に褒められるなんて嬉しかっただろうね。 .
鎌倉に下った正確な日付の記録は見当たらないが、7月頃か。前回の記録は文治三年(1187)11月28日だから久し振りに見た名前だ。どこかで見落としたか。
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   ※周防国嶋末庄: 周防大島の中央部ではなく、平成16年に合併するまで東側半分にあった旧東和町(地図)で
瀬戸内海西部の要衝だったらしい。昔は製塩と海賊が生業だったとの噂あり。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月16日
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吾妻鏡
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義経に与していた比叡山の悪僧俊章について、取り調べて糾弾するため身柄を引き渡すよう衆徒に命令した。書状を書いたのは三善康信、少数の策謀によって僧の全員が事を構えてはならぬ、彼らを排除しなければ今後は正しい行いをする者まで汚名を受ける結果になる、と。
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   ※悪僧俊章:10月17日に捕縛命令を下している。奥州に向かう義経主従に途中まで従い叡山に戻ったらしい。
頼朝の意図には比叡山に圧力を加えて牽制する意図があったと思われる。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月17日
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吾妻鏡
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式部大夫中原親能が御所に参上し、息子の一法師冠者能直が右近将監に任命された旨を報告し謝辞を述べた。
親能は無二の寵臣で頼朝の推挙により去る10月14日に息子が任命されたのだが、相模国大友郷の自宅で病床に伏していた。今日なんとか出仕し、直ちに御前に召されていた。
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   ※大友郷: 酒匂川東岸、鎌倉まで約40kmの小田原市西大友(地図)、曽我祐信の所領に隣接している。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月18日
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吾妻鏡
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頼朝が走湯山伊豆山権現(サイト内リンク・別窓)に参詣した。南山(高野山金剛峯寺・公式サイト)の住僧らの臈次(出家後の年数・序列)について定めるためである。
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   ※走湯山: 当時の走湯権現は山岳宗教の修験道と天台宗が融合した神仏習合の世界。なぜ高野山真言宗の
僧侶の序列を決める事に関係があるのか判らないが...。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月24日
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吾妻鏡
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権右中弁藤原親経による院からの書状と師中納言吉田経房の書状が到着。伊勢神宮の役夫工米について、頼朝が知行する関東領の納税を早く命令せよ、但し朝廷が免税している箇所も含んでいるのを留意、との事である。
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   ※役夫工米: 伊勢神宮(公式サイト)造営のため全国の荘園公領に課した米による税(やくぶくまい)。
20年毎の式年遷宮の費用は平安時代中期まで費用は朝廷が、労役は伊勢・美濃・尾張・三河・遠江の五ヶ国が負担したが、11世紀中頃から全国規模で賦課・徴税するようになった。
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朝廷が握っていた徴税権は徐々に鎌倉幕府に移り、南北朝末期には室町幕府の管理となった。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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12月30日
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吾妻鏡
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中原親能から連絡。六條殿の造営について、課せられた作業は丁寧に任務を果たした旨の御感を蒙った、と。鎌倉にとっても実務の担当者にとっても名誉な事であると、頼朝はとても喜んだ。
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   ※六條殿: 幾多の寺社と同様に焼失と移転を繰り返し、現在は「元六條御所 長講堂」として下京区本塩竈町の
裏通り(地図)に残っている。今では面影もないが、詳細はこちら(外部ブログ)で。
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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月日
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吾妻鏡
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西暦1188年
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82代後鳥羽
文治四年
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月日
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吾妻鏡
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前年・文治三年(1187)の吾妻鏡へ       翌年・文治五年(1189)の吾妻鏡へ