建久三年(1192年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月5日
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吾妻鏡
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御的始め(弓始め)を開催した。射手は下記の通り。
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   ※御的始め: 上手と下手(上記の左と右)に分かれる対抗戦の形式で行なっている。どの御家人も屈指の名手
だが、勝敗の記録は載っていない。弓始めの場合は儀礼として勝敗なし、か?
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で行なっていた修正が結願する日である。頼朝が参詣した。
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   ※修正(会): 正月に催す仏事。前年の罪過や穢れを懺悔の行で祓い新年の無事を祈る。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月9日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に若宮の修正(一夜)を完了した。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月11日
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吾妻鏡
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若公(満0歳の万寿→頼家)が鶴岡八幡宮に参拝。従来は騎馬だったが今日は女房の使う輿を利用している。
小山五郎(長沼)宗政が劔持ちを 務めた。
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   ※地図上で計測: 大倉御所の北面(頼朝私邸)から六浦道に面した南門を出て八幡宮前の三の鳥居を潜り石橋
(赤橋)を渡って石段上の本殿前に着くまでの距離は1100m。御所西門から馬場道を通れば半分強で済むが、そんな安直なルートはペケだろう。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月19日
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吾妻鏡
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(東大寺再建の指揮を執る)重源上人の使者が参上。周防国で東大寺の柱を切り出す作業中に大内介弘成が少々の妨害行為を行ったため然るべき措置を願いたい、と。協議の結果、関東の指揮下にある者ではないから早急に朝廷に奏聞せよ、と命じた。
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   ※大内弘成: 元々周防国在庁官人のトップとして大きな実力を持ち、平家追討の功績で朝廷から周防の国内に
所領を与えられていたらしい。制度上は頼朝の支配下にはない、という事か。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月21日
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吾妻鏡
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頼朝が工事中の御堂(永福寺)の地に渡御した。犯土のさなか、土石を運ぶ人夫の中に左眼が盲目の男があり、頼朝がこれを怪しんだ。彼を派遣したのは何処の国の誰かを確認せよとの命令で 梶原景時が調べたが判明しない。御前に呼びつけたところで佐貫四郎廣綱が頼朝の意図を察し、面縛して調べると懐に一尺余の打刀を隠しており、眼には魚鱗を貼り付けて盲目を装っていた。
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危害を加える意図として厳しく詰問すると上総五郎兵衛尉と名乗り、頼朝暗殺を狙って数日間鎌倉を歩き回って襲撃の機会を窺っていたと白状した。和田義盛に引き渡し、共謀した者がいれば拘束せよと命じた。
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   ※犯土: 土を掘り返す作業を差す。元々は庚午から丙子までの7日間(大犯土・おおづち)は土公神(陰陽道での
遊行神)が地中にいるため、穴掘り・耕作・種まき・伐採を避ける習慣があった。後に期間の制限は廃れたが、土公神に許しを請う意味での地鎮祭が定着した。
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   ※面縛: 後ろ手に縛った紐の端を額に回して締め上げ、顔を伏せられない状態にすること。武士にとっては最大
の恥辱とされる。
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   ※打刀: 本来は抜き打ちしやすい様に刃を上に向けて(江戸時代の帯刀方法)腰に差す形を言うが、この場合は
即座に攻撃できるよう備える姿を表現しているのだろう。
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   ※上総五郎: 平家譜代の忠臣だった藤原忠清の二男。歌舞伎の景清物などで知られた 悪七兵衛景清の兄。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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1月25日
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吾妻鏡
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頼朝が走湯山伊豆山権現、に参詣した。住僧の序列については去る文治四年(1188)に基準が定められたのだが、ややもすれば異越する例が起きるため、今後は順序を守るよう改めて命令を下した。
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   ※走湯山: 現在でも70℃の熱湯を1日に7000トン(真偽は不明)も
噴出する山裾の源泉が語源。近くには足湯もあって眺めも素晴らしいから、熱海へ行ったら時代遅れの貫一お宮の銅像やお宮の松など見物せず、是非とも伊豆山へ足を運ぼう。交通の便が良くないのが難点だが。
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         右画像は「走り湯」噴出口。画像をクリック→ 拡大表示。
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   ※僧の序列: 伊豆山権現がどんな序列だったのかは判らないが。
仏陀の教えは、基本的に年功序列。知識や年齢の如何を問わず、先に出家した者を常に上位とする。
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能力の有無を基準にすれば必ず争いが起きる、教えを正しく伝えるには能力の多寡を優先して組織を拡大するよりも地道に永続させる道を選べ、と。
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組織拡大を優先すれば教義は正しく伝わらず、権力と癒着して腐敗する...仏陀(釈迦)は2500年も昔に創価学会の出現を予知していたらしい(笑)。
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まぁ能力主義も年功序列も弊害はあるから一概には言えない。共産主義は実質的に破綻したが、行き過ぎた自由主義経済も正常じゃない。野党は非力で創価学会と公明党はクズ、困ったもんだ。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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2月4日
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吾妻鏡
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大夫尉大江廣元が使節として上洛。年末から後白河法皇の体調が悪化して体の腫れなどの症状が伝えられ、頼朝は鎌倉で頻繁に祈祷を行なっていた。今回は廣元を通じて秘蔵の剣・鳩作を石清水八幡宮(公式サイト)に奉納し、更に追加して神馬も奉納する。
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廣元は去年の法住寺殿落成の行事に出席し、検非違使別当として賀茂祭の供奉などの任に就いていた。年末に鎌倉に帰参して再びの上洛は負担になるが、法皇の病気は天下の大事なので 頼朝が直々に命じたものである。
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   ※賀茂祭: 上賀茂神社の公式サイトに賀茂祭(現在の葵祭)の詳細が載っている。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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2月5日
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吾妻鏡
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故左典厩(源義朝)の乳母(字は摩々局)が相模国早河庄から参上し、持参の淳酒を御前に献じた。年齢は既に92歳、余命も少ないため拝謁して置きたいとの事である。頼朝は彼女の功績に配慮し、望みがあれば聞き入れようとの言葉を掛けた。彼女は早河庄にある知行地の国衙賦役免除を総領地頭に命じて欲しいと願った。頼朝は三町の土地を新たに与え、平盛時を呼んで(総地頭の)土肥弥太郎にその旨を命じるように指示を与えた。
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   ※摩々局: 治承五年(1181)閏2月7日に「頼朝誕生の時に最初の乳を含ませた女(現在は摩々と名乗る尼で、
相模の早河荘に住む)を呼び出した。親愛の思いがあるため、屋敷や所領の農地などに間違いが起きないよう総地頭に申し付けた。」との記載がある。
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義朝の誕生は1123年で摩々局は24歳前後、頼朝の誕生は1147年だから同じ女性なら48歳前後で乳母を務めた事になり、年代に違和感がある。
やはり摩々局と摩々尼は母娘で、早河庄に同居していると考える方がノーマルだろう。
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   ※早河庄: JRの早川駅周辺(地図)と考えがちだが実際の早河庄はかなり広大で、土肥實平が本領としていた
土肥郷(現在の湯河原町・地図)も早河庄に含まれていた。酒匂川の南側(小田原市西部)が早河庄と考える説もある。面白いのは羽多野氏の本拠が田原(秦野市田原・地図)で、酒匂川河口の南岸に出城を設けたから小田原と呼ぶようになった、との話もある。本当かね、いつか調べてみよう。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月2日
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吾妻鏡
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検非違使別当の大江廣元の書状が京都から到着し、この職の辞表を朝廷に提出した事を報告した。これは頼朝の意向に叶っていると思う、と。提出した辞表の写しは次の通り。
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正五位下行左衛門大尉の中原朝臣廣元が謹んで言上します。
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朝廷の恩を蒙って任じた左衛門大尉と検非違使職の辞職申請であります。私は去年の4月1日に明法博士と
左衛門大尉に任命され、同時に検非違使の宣旨を頂きました。三つの官職には対応しきれないため、同年の11月5日にまず李曹の儒職(明法博士)を離れたとはいえ、まだ棘署の法官(検非違使)の任にあります。
立身を願って鎌倉に赴きましたが、一族の足跡は全て京都朝廷の下にあります。
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しかしながら廷尉は朝廷の警護が本分であり、廷尉(検非違使)は民を管理し法を執行するのが本分です。
廣元はその両方を処理するだけの能力を持たず、鎌倉と京都の両方に使えるのは不可能と考えます。
分に値しない任官を頂いた事に感謝しつつ辞任し、今後は心の中で忠節を尽くしたいと考えております。
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     廣元誠惶誠恐謹言  建久三年二月二十一日   正五位下行左衛門大尉 中原廣元
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   ※廣元辞任: 朝廷の官職と京都守護は元々が利益の相反する組織の実務部隊だから官職辞任は当然の結果
だが、後白河院崩御が近付いたタイミングが少し気になる。
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一條能保が前年4月の延暦寺強訴の収拾に失敗し京都守護に専任する形で検非違使別当を廣元が引き継ぎ、頼朝は二人の存在で京都の情勢を把握できる環境を実現していたにも拘わらず...
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3月に後白河院が崩じて後鳥羽天皇の時代に入ると間もなく九条兼実vs土御門通親丹後局連合の政争が本格化し、大姫入内を夢見た頼朝は朝廷で発言力を持つ丹後局に接近し、盟友の筈だった兼実を見捨てる形となる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で節句の法会があり、通例通り舞楽の奉納があった。頼朝が参詣し、若公(10歳の頼家)も同行した。
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   ※節句の法会: 3月3日は五節句の一つ・上巳(じょうし)の節句。禊(みそぎ)行事と宮中の雛遊びが混じり合い
汚れを人形に託して流す「流し雛」に変化したもの。この時代は「女の子の節句」ではない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月4日
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吾妻鏡
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江次(大江廣元の二男)の久家が神楽の秘曲などを習得するため上洛する。頼朝が奉書を左近将監好節(多好方の息子)の許に送り、平民部丞盛時がこれを差配した。奉書の内容は次の通り。
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弓立星歌などを習得させるため江次久家を上洛させるとの仰せである。
件の歌の他にも神楽の口伝や故実など様々に指導して来年八月の放生会には鎌倉に参向し、その際には久家も伴って欲しい、それが鎌倉殿の意向である。
   三月四日  盛時(奉)
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   ※多好方: 宮廷直属の雅楽師・音楽家。前年11月14日~22日と12月19日に関連の記載あり。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月13日
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【 玉 葉 】
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この日寅刻(御前4時前後)、後白河法皇が六條西洞の院の宮で崩御(御年66歳)された。鳥羽院(第74代鳥羽天皇)の第四皇子、御母は待賢門院、二條院(第78代二条天皇)と高倉院(第80代高倉天皇)の父、六條(第79代六条天皇)と先帝(第81代安徳天皇)と今上天皇(第82代後鳥羽天皇)の三帝の祖である。
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保元時代(1156~1158)から40余年天下を治められた。善智識上人は本成房湛敬、十念具足、臨終正念、顔を西方に向け手は定印を結び、極楽往生を全く疑わなかった(後に聞いた話では西方を向かず、巽方(東南)を向き微笑していた、と。      ()内は全て筆者の注。詳細は「天皇家の系図《で。
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   ※本成房湛敬: 大原来迎院の僧。吉記(吉田経房の日記)は文治元年(1185)5月1日の 建礼門院徳子出家の
戒師を務めた、と書いている(平家物語では長楽寺の阿房上人印西。
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   ※善智識上人: 臨終に立ち会い極楽往生に導く指導僧。
   ※十念具足: 阿弥陀仏を十回念じて心に備える。仏名を称して八十億劫の生死の罪を取り払う。
   ※臨終正念: 臨終の際にも心を乱さず、阿弥陀仏にひたすらに念じて極楽往生を願うこと。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月16日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に京都の飛脚が参着し、去る13日の寅刻(朝4時前後)に後白河法皇が六條殿で崩御した旨を報告。多量の腹水が溜まった事が直接の死因らしい。大原の本成房上人を召して御善知識とし、高声に御念佛七十回を唱え御手に印を結んで臨終を迎えて眠るように遷化された。御年は67歳、すでに半百(百歳の半分)を過ぎた。
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御治世四十年は殆ど上古の記録を越えている。白河法皇の他にこれ程の君主は居なかった。頼朝にとっては心を砕くほどの悲しみで、心を通わせながらも君臣としての礼儀を重んじた関係であった。
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   ※白河法皇: 第72代天皇の在位は延久四年(1073)~応徳三年(1087)の14年間だが、73代堀河天皇・
74代鳥羽天皇・75代崇徳天皇の三代に亘って幼帝を擁立し43年間の院政を敷いた。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の四上皇の治世を院政時代と呼ぶ。
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   ※これ程の君主: 愚か物でも没後は偉人扱い、「死者を鞭打たず」は日本の美徳だから戦犯まで軍神扱いする。
極東裁判の妥当性を問う以前に、数百万の国民を死に追いやった責任を問わないのはどう考えても異様だ。しかも帰国できなかった兵の半分以上は国を守っての戦死ではなく、餓死または戦病死。そんな戦争を推進した連中を靖国に祀ってどうするのさ。
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それは兎も角、後白河後鳥羽後醍醐の三人を持ち上げる必要なんかありません!
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月19日
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吾妻鏡
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後白河法皇の初七日を迎え、幕府に於いて法事を営んだ。御導師は義慶房阿闍梨(若宮供僧)、従う僧は七人。
頼朝は四十九日毎に潔斎をして念仏を唱えようと決めた。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月20日
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吾妻鏡
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山ノ内に百日間の蒸し風呂を設け、往来する人々や農民が入浴するようにと道筋に札を立てて周知させた。
これは後白河法皇追善のためで、担当は藤原俊兼が任じ、今日の費用は頼朝の負担である。
差配するのは平民部丞盛時堀籐次親家ら、百人で終了となる。雑色10人がその中に含まれる。
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   ※山ノ内: 武蔵国に向かう当時の幹線道路は八幡宮の西側から巨袋坂(巨福呂坂)で現在の切り通しの上を
越えて建長寺の前に下っていた。そこから大船の常楽寺近くまでが山ノ内で、横須賀線の踏切から北鎌倉駅付近までが山ノ内の中心部になる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月23日
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吾妻鏡
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頼朝は岩殿観音堂に参拝、従ったのは三浦介義澄と左衛門尉佐原義連ら、大多和三郎義久が椀飯を献じた。
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  ※岩殿観音堂:大倉御所から約4km南東(地図)の海雲山岩殿寺(公式サイト)。開山は行基と伝わり、吾妻鏡の
文治三年(1187)2月23日には大姫が参詣したとの記載がある。すぐ近くには大切岸と日蓮法難で知られた猿畠山法性寺(サイト内リンク・別窓)があるが、ここが開くのは70年も先の話になる。
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  ※大多和義久: 三浦義明の三男(義澄の次弟)。三浦郡大多和(現在の横須賀市太田和・地図)を本領とし、鐙摺
(現在の葉山・地図)にも拠点を持っていた。
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曽我物語では捕虜となった伊東祐親「鐙摺山(現在の旗立山)で恨めしそうに伊東の方向を眺めつつ自刃した」と書いている。祐親自刃の件は養和二年(1182)2月14日の吾妻鏡で。
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また義久から五代後の六左衛門尉義行は新田義貞 に味方して分倍河原合戦場に駆け付け、鎌倉幕府滅亡の契機となる関戸河原合戦の勝利に貢献している。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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3月26日
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吾妻鏡
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第二七日(ふたなぬか・没後14日)の法事が八幡宮で行われた。導師は安楽房(八幡宮供僧)。
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後白河院崩御についての詳細が今日、鎌倉に報じられた。崩御と共に女房の三位局(高階栄子)が落飾、この導師は本成房が務めた。若狭守範綱と主税頭光遠が崩御の後に出家した。
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今後については民部卿吉田経房と検非違使別当の右中弁棟範朝臣と検非違使の右少弁資實が差配を行う。崩御当日の亥刻(10時前後)に澄憲僧正と静賢法印が読経する中での御入棺となった。
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中将基範(成範卿の息子)・中将親能・少将教成(二品局の息子)・少将忠行・右馬頭資時入道(故資賢大納言の息子)・大膳大夫業忠・範綱入道(若州)・能成入道(周防守)らが入棺を補助し、同15日に法住寺法華堂に葬り奉った。陰陽の重なる日だが遺令に従ったもので、没後の措置は御存命の内に決めたおられた。
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              右画像は院の御所法住寺殿に隣接する後白河天皇陵(法華堂跡)  クリック→拡大表示
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月2日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に御台所政子が御着帯。御加持は安楽房阿闍梨で御験者は題学房が任じた。
武蔵守大内義信御台所政子が腹帯を持参し頼朝がこれを結んだ。今日以後は毎日安産の祈祷を行うよう、鶴岡八幡宮の供僧に命じた。
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   ※着帯: 妊婦が妊娠五ヶ月目の戌の日に白布を腹に巻く儀式だが、今では儀式としては廃れているだろうね。
この日は癸夘だから、戌の日に巻くのは後世の習慣だろう。政子は実朝を妊娠中、予定日は8月初旬。
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   ※加持: 験者は霊験を現すため山岳修行などを重ねて霊力を会得した者、修験者と同じ意味か。加持は元々は
密教の修法だが、民間信仰と一体化して病気や災難の除去など現世の利益を願う祈祷に変質した。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月4日
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吾妻鏡
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後白河院の三七・21日の法要を行った。導師は恵眼房阿闍梨、今日から頼朝は毎日一巻の法華経を読誦する事を心に決めた。これは毎日の習慣とは別の読経である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月5日
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吾妻鏡
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千手経三千巻を今月中に転読せよとの命令を相模の寺々に命令した。
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   ※千手経: 千手観音とその陀羅尼(繰り返し唱える呪文)について説いた経の略称。正式には千手千眼観世音
菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月11日
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吾妻鏡
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常陸入道(伊達朝宗)の妹が産んだ頼朝の子の乳母を務めるよう野三刑の丞成綱法橋昌寛と大和守山田重弘らに命じたが全員が固辞したため長門江太景国に申し付けた。来月には若君(後の貞暁)を伴って密かに上洛せよとの命令である。辞退者が多いのは御台所の嫉妬心が激しく、彼女の機嫌を損ねるのを恐れての結果である。
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この景国は鎮守府将軍藤原利仁から四代目に当る修理少進景通(伊豫守源頼義安倍貞任らと戦った際の武者七騎の筆頭)の曾孫で、父の景遠は大学頭大江通国の猶子として藤原から大江に姓を改めた人物である。
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   ※常陸入道: 念西、伊達氏の祖・朝宗と考えられている。 大治四年(1129)生まれの満63歳、妹が20歳年下
としても、頼朝の子(後の貞暁)を産んだ時には37歳になる。他の資料の記載は全て「常陸入道の娘」としており、「妹」は吾妻鏡の記載ミスだろう。
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   ※武者七騎: 陸奥話記に拠れば、天喜五年(1057)11月の黄海合戦(サイト内リンク)で 安倍貞任の迎撃を
受けた源頼義八幡太郎義家親子の軍勢は散々に敗れ、七騎だけで戦場を離脱した。
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義家に弓馬を教えた藤原景通は脱出の際に殿(しんがり)を務めて敵軍を食い止めた末に討ち死にした、と伝わる。加藤景廉の先祖でもあるが、大江氏の猶子(相続権を持たない養子)となった景遠は加藤氏(加賀の藤原氏)の系図には載っていない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月28日
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吾妻鏡
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後白河法皇三十五日の法要を営んだ。導師は恵眼房阿闍梨、布施は綾の被物二重と鞍を置いた御馬一疋である。また次の四十九日法要は僧百人の供養を予定しており、鎌倉に加えて武蔵・相模・伊豆の主な寺社の供僧らは招請に従うよう、二階堂行政中原仲業を介して書状を送った。また京都でも追善供養の法要を行うと定めている。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月29日
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吾妻鏡
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巨大な流星が飛ぶ様子が目撃された。陰陽師の占いでは吉凶の判断は判断し難い、との事である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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4月30日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に若宮職掌の紀籐大夫宅が焼け落ちたが延焼はしなかった。人々が集まったところで家主が言うには「放火でも失火でもない、天の火による結果である」と語った。
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   ※職掌: 職掌は雑務を担当する下級職員と、神楽を演じる職員の二通りの意味がある。ここでは後者か。
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   ※天の火: 前年3月の大火で御所や八幡宮が全焼、やっと再建した直後だからね。処罰を恐れて虚偽を語った
可能性を考えるのが普通だが...翌日の記事にその答えがある。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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5月1日
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吾妻鏡
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鶴岡宮で備供祭(神仏に供物を供える祭)が行われ、巫女や職掌らが集まった。その席で紀籐大夫が突然狂乱して語り出した。その内容は次の通り。
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小壺(小坪・地図)の町外れに住む女・楠前を日頃から口説いていた。彼女は「神鏡を鋳造して家に祀っており、近いうちに八幡宮に納めるつもり」と言って応じようとしないため、29日の夜に彼女の家に放火するつもりで訪れたが、できなかった。昨夜再び松明を持って出掛けるつもりが間違って自宅に火を付けてしまった。
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直ちに義慶房と題学房が加持(お祓い)を行った。
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   馬鹿だねぇ...とはいえ、恋の狂気は800年が過ぎた今も変わらず、か。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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5月8日
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吾妻鏡
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後白河法皇の四十九日法要は南御堂(勝長寿院)で行われ、僧百人が早朝から集合した。布施はそれぞれ白布三反と米一袋、二階堂行政と前右京進中原仲業の差配である。集まった僧の詳細は次の通り。
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鶴岡八幡宮供僧20人・勝長寿院13人・伊豆山権現18人・箱根権現18人・
大山寺(阿夫利神社・公式サイト)3人・ 観音寺(光明寺)3人・ 高麗寺(高来神社)3人・
六所宮(六所神社)2人・ 岩殿寺2人・ 慈光寺10人・ 大倉観音堂(杉本寺)1人・ 窟堂(壽福寺の冒頭)1人・
浅草寺3人・ 真慈悲寺3人・ 弓削寺(飯泉観音)2人・ 海老名の相模国分寺3人である。
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   ※注釈1: 寺社はサイト内リンク先と公式サイトなどが混在するため全て別窓表示とした。また神仏習合時代の
状態に従って神社と寺は区分していない。例えば六社神社の場合は併設の宮寺と判断されたし。
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   ※注釈2: 僧の数は、原文では「口」、特定の意味を持つ言葉ではなく単純に人数と解釈すべきか。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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5月12日
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吾妻鏡
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頼朝は神馬二疋を鶴岡八幡宮の上宮と下宮に奉納した。これは紀籐大夫の所業を知って神威の素晴らしさを改めて認識し、更に信仰心を深めた結果である。
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   ※神威: 5月1日に女の家の放火を企んだ紀籐大夫が自宅を焼いた、これを神威と解釈したらしい。変なの!
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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5月19日
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吾妻鏡
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若公(後の貞暁、幼名不明、満六歳)が仁和寺(公式サイト)の隆暁法眼の弟子として坊に入るため京に向かった。長門江太景国(4月11日に関連記事あり)・江内能範・土屋弥三郎(宗遠の嫡男)・大野籐八・由井七郎らが供として従い、雑色の国守・御厩舎人の宗重らが副えられ、由比にある常陸平四郎宅から出発した。 昨夜は頼朝が密かに渡御して剣を与えた。
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   ※恐妻家頼朝: 普通の男なら「なんでこんな女に手を出したんだろう」と後悔するのに、結局は似た者夫婦か。
晩年に伊賀氏謀反を捏造して粛清するなど、一度決めたら彼女には普通の理屈が通用しない。
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ふと野村克也と沙知代夫人が巻き起こした騒ぎを思い出したが、考えてみれば安倍晋三・昭恵夫妻も似ているね。公私の区別ができない馬鹿が権力を握ったら始末に負えない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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5月26日
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吾妻鏡
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多賀二郎重行が所領没収の処分を受けた。江間殿(北條義時)の息子金剛殿(後に三代執権を継ぐ泰時・満9歳)が徒歩で遊んでいる前を重行が乗馬したまま前を通り過ぎた。それが頼朝の耳に入り、頼朝は直接重行に向って「礼儀とは長幼ではなく身分に依拠する。金剛はお前らと同様に扱う立場ではない、世間がどう見るかを考えないのか。」と言い聞かせた。
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重行が畏怖しつつ「そうではありません、若公と従者に経緯を御確認ください。」と弁解し、金剛に確認すると「そのような(無礼な)事はありません」と答え、更に同道した奈古谷橘次も「重行は確かに下馬しました。」と報告した。
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頼朝は怒りを募らせ、「事後の糺明も恐れず嘘を吐いて罪を逃れようとする気持ちも行為も実に不届きなり」と何回も繰り返し、「それに比べて若公は幼いのに重行を庇う配慮を見せているのは賞賛に値する。」と以前から所持していた剣を与えた。後の承久の乱(1221)の宇治川合戦で(大将軍に任じた)泰時が帯びたのがこの剣である。
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   ※多賀氏: 近江国の多賀と甲良一帯(地図)を本領とした土豪で、後に多賀大社(公式サイト)の神官にも任じて
いたらしい。系図では所領を執権北條氏に寄進し、後世の関ヶ原合戦で石田三成に与して敗れるまでこの地方で勢力を保った事になっている。頼朝による所領没収と寄進の整合性は判らない。
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   ※金剛丸: 建久五年(1194)2月2日に御所で元服し頼朝が加冠して頼時と命名(頼朝の死後に泰時と改名)。
三浦義澄を呼び「この若者を婿にせよ」と述べた。義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた、と吾妻鏡は記録している。泰時の生母は義時の側室で御所の女房だった阿波局、これらの経緯から泰時=頼朝の落胤説が生まれるのだが...
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   ※立場の違い: 頼朝没後に掌握した権力の大きさを考えれば鎌倉将軍に相応しいのだが、所詮北條氏は陪臣
である。後に四代執権北條経時が娘の檜皮姫を五代将軍藤原頼嗣と婚姻させたのも、源氏将軍の断絶によって失われた北條一族の貴種性を確保する意図が感じられる。
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しかし北條一族は最後まで陪臣の身分から抜け出せず、利害関係で支配していた御家人が団結して倒幕に動いた時には一族と御内人(北條氏の陪臣)だけで戦わざるを得なかった。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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6月3日
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吾妻鏡
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恩賞の付与があった。ある者は新恩を、ある者は以前の下文を書き改めての給付を受けた。
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この日、文武の御家人双方への恩賞があり、前右京進中原仲業は右筆として勤めてきたが未だ恩賞を得ておらず、この新恩で正式に御家人の身分を得た。また藤田小三郎能国は弓馬の術を継承しているため、父が勲功で得た領地を引き継ぎ(御家人として)子孫に伝えよ、との事である。
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   ※御家人の身分: 鎌倉殿から受ける恩恵は、基本的に本宅安堵(本領の所有権保証)と新領給付の二つ。
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新領給付は謀反や戦乱で没収した土地の管理権を地頭に補任(新補地頭)する、など給付の恩恵である。御家人は恩恵の見返りとして軍役(従軍・京都や鎌倉の大番役・その他警護役)と公事(賦課された米などの納付)の義務を負う。
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膨大な所領を持つ御家人も零細な御家人も身分は同格であり、主従になるなどの支配関係は厳重に禁じられていた。従って頼朝の「金剛は別格、云々」発言は明らかに独善。
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その他、所領を持たない(準・御家人か)家臣として、「恪勤(かくご)」の立場がある。本来は御所の雑務に従事する者が一定量の米を給付され、住み込みで働くケース。今回の中原仲業もこれに該当するし、寿永元年(1182)6月5日に載っている熊谷直實の例もある。
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熊谷直實は領地を持たず御所に住み込みで忠勤を励んでいた。治承四年に佐竹秀義を追討した際には特に勲功があり、その武勇により久下直光が横領した武蔵国の旧領などの領有を認めた。生国に戻っていた直実は今日参上し、その下文を受け取った。
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曰く、武蔵国大里郡の熊谷次郎平直實の所領について、先祖伝来のものなので久下直光の横領を停止し直實を地頭とする。常陸の合戦に功績を挙げ、云々...と。
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まぁ彼の場合は背景が様々にあった(同日の記載を参照されたし)けれど。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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6月13日
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吾妻鏡
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頼朝が建造中の御堂(永福寺)の地に渡御した。畠山次郎重忠佐貫四郎廣綱城四郎助茂工藤小次郎行光下河邊四郎政義らが梁材や棟材を運んだ。彼らの力は力士数十人に匹敵し、頼朝を含めて見ていた者を驚かせた。
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江間殿(北條義時)が自ら工事の差配に当っている。作業する者の中に夏毛の行騰(乗馬用の袴カバー)に土を入れて運ぶ男を見た頼朝が素性を尋ねると、梶原景時が囚人の皆河権六太郎と答えた。木曽義仲に従い、その後は囚人として景時が預かっていた武士である。彼の働き振りに感心した頼朝は直ちに罪を許し赦免を与えた。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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6月18日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮別当の園暁法眼が京都から帰着し、直ぐに頼朝に謁見して後白河法皇崩御後の詳細を報告した。
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去る4月2日に主上(後鳥羽天皇)が3月15日に籠った倚廬(服喪中の天皇の仮屋)から御所に還御し正式に政務を開始した。20日の賀茂祭は 諒闇(天皇の服喪)のため中止となった。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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6月21日
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吾妻鏡
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美濃国の御家人らは守護である相模守大内惟義の命令に従うようにとの命令が下った。これは洛中に出没する群盗等を鎮圧するための措置である。詳細は次の通り。
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前右大将家の政所から、美濃国御家人らに下す。 直ちに相模守惟義の徴兵に対応せよ。
当国内の荘園の地頭のうち鎌倉の御家人に任じている者は直ちに惟義の求めに応じて勤務せよ。
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洛中で盗賊が犯行を重ねており、彼らを討伐するために上洛して大番役の指揮下に加わるように。御家人ではないと考えるものは仔細の事情を申し出ること。ただし、公領に所属する者はこの動員令に含まない。
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また佐渡前司山田(葦敷・源)重隆も同様に郎従を伴って参加せよ。隠れている者があれば姓名を報告せよ。
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             建久三年六月二十日   案主籐井
             令民部少丞二階堂行政  知家事中原光家  別当前因幡守中原(大江廣元
             前下総守源朝臣邦業  散位中原朝臣親能
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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6月28日
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吾妻鏡
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由井七郎が京都から参着して報告。去る16日に若公(貞暁)が一條能保卿に伴われて弥勒寺の法印隆暁仁和寺(公式サイト)の坊に渡御された。彼の坊で鎌倉からの贈与の品を参河律師隆邊に手渡した、と。
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   ※若公との別離: 一行は5月19日に鎌倉を発った。前夜には頼朝が我が子に剣を与えている。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月3日
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吾妻鏡
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早暁から御台所政子が体調を崩し、周囲が騒動となった。八幡宮別当の園暁法眼が回復の加持祈祷を行った。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月4日
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吾妻鏡
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御台所政子の出産に用意する品々を揃えて産所に届けた。三浦介義澄千葉介常胤がそれぞれ義村常秀に命じて差配に当たらせた。また鳴弦を担当する役を定め、梶原景季がこれを差配した。
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   ※産所: 北條時政の名越邸と決められていた。正確な位置は不明だが現在の材木座四丁目と推定される。
千葉常胤の屋敷があって弁ヶ谷(千葉介の「介」の唐名「別駕」の転化か)と呼ばれた一角(鳥瞰図)。
ちなみに長男頼家の産所は比企ヶ谷の能員邸、乳付けの乳母は比企尼の次女・河越重頼室。
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   ※鳴弦: 邪気を払う呪文として弓の弦を鳴らすこと。当初は帝の行事として、後に鎌倉でも取り入れた。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月8日
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吾妻鏡
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御台所の体調不良は既に回復した。医師の三條左近将監は懐妊の影響だろうと言っている。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月18日
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吾妻鏡
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御台所が名越の御館(浜御所と呼ぶ)に渡御した。御産所に決められていたためである。
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   ※再び、産所: 名越邸については本文にも記載した通り、長い間大町六丁目の釈迦堂口切通しの近く(地図)と
考えられていた。鎌倉の地理を知った上で吾妻鏡を注意深く読めば疑問を持たない方がむしろ不思議で...そもそも急峻な崖の上が北條執権邸だなんて、不合理極まる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月20日
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吾妻鏡
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大理(検非違使別当の唐名)の一条能保からの飛脚が到着。去る12日に頼朝が征夷大将軍に任じられた。その除書(辞令)は勅使によって届けて頂くように申し入れた。
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   ※征夷大将軍: 一般的な日本史ではこの着任を以て鎌倉幕府が成立した、と記述している。征夷大将軍の詳細
「wiki」が懇切丁寧に説明している。
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鎌倉時代に直接関係する部分としては、新田源氏の祖先新田義重の四男世良田義季の子孫が新田荘南部の得川郷(現在の徳川町・地図)を領有し、天下統一を果たした徳川家康が世良田の系図を捏造して「私は源氏の子孫である(つまり征夷大将軍の地位に相応しい)」と言い出した事ぐらいか。詳細は 長楽寺と家康所縁の東照宮(サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月23日
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吾妻鏡
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御台所の立願として鶴岡八幡宮の供僧25人にそれぞれ龍蹄を一疋と絹布二反と越布一反を布施した。
差配は民部丞平盛時である。
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   ※再び馬の話: 龍蹄は背の高さ4尺(約121cm)以上の馬。当時も5尺(約152cm)程の大型馬もいたらしいが
一般的には4尺前後。現在の乗馬クラブなどの馬は150~170cm、147cm以下はポニー種の範囲、現在は子供用や愛玩用なのでイメージが崩れる。ポニーに跨った甲冑武者、か(笑)。
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吾妻鏡には阿津賀志山合戦から落ち延びた藤原国衡が跨っていた名馬「高盾黒」は九寸(約150cm)、と書かれている。(文治五年月10日の条)
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ただし当時の馬は大鎧で重武装した武者を載せても良く走り、耐久性にも優れていた。
平家物語は「宇治川の先陣争いで佐々木高綱が跨った生月は4尺8寸(約145cm)、極めて太く逞しい」と書いいる。それに比べると当時の奥州の馬は四川馬よりも大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲(現代に換算すると100万円近く)もの値が付けられた、と言う。
      奥州を手に入れたかった頼義や義家や頼朝の気持ちが判るなぁ...。
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   ※越布: 上質の麻糸で織った軽く薄い夏用の織物。越後上布(wiki)の他に薩摩上布(宮古島や八重山の産物
を薩摩藩が税とした)などが知られる。上布は夏の季語でもある。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月24日
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吾妻鏡
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頼朝が(時政の)名越邸に渡御し、三浦介義澄が接待の席を手配した。
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   ※頼朝渡御: 政子の出産は8月9日午前10時前後だから半月前の見舞いだ。貞暁 の件などあって多少は気を
遣ったのかも知れない。私なんか...二番目の子だったかな、麻雀屋で義母から出産を知らされ、以後10年ほど嫌味を言われ続けた。これは今でも深く深く反省している。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月26日
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吾妻鏡
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勅使(検非違使)の肥後介中原景良と康定が鎌倉に参着し征夷大将軍の除書(任命書)を持参した。両人はそれぞれ衣冠の姿で通例に従い鶴岡八幡宮の南庭に並び使者を介して除書を渡す旨を申し述べた。
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これに応じて三浦介義澄が遣わされた。義澄は左衛門尉比企能員と和田三郎宗實(和田義盛の弟)および甲冑を着けた郎従十人を率いて八幡宮寺に出向き、除書を受け取った。景良らは最初に姓名を問い、まだ介に任じられていない義澄は三浦次郎と名乗っただけで御所に戻った。
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衣冠束帯姿で待ち兼ねた頼朝は西の廊下に出て待っており、義澄は除書を捧げ膝立ちに進んでこれを献じた。亡父の三浦義明は頼朝のために命を捧げ、その勲功は子孫が受け継いだことになる。除書の内容は次の通り。
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左少史三善仲康  内舎人橘實俊  中宮権少進平知家  宮内少丞藤原定頼  大膳進源兼光
大和守大中臣宣長  河内守小槻廣房(左大史を辞す)  尾張守藤原忠明(元伯耆守)
遠江守藤原朝房(元陸奥)  近江守平棟範  陸奥守源師信  伯耆守藤原宗信(元遠江)
加賀守源雅家  若狭守藤原保家(元安房)  石見守藤原経成  長門守藤原信定
対馬守源高行  左近将監源俊實  左衛門少志惟宗景弘  右馬允宮道式俊
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    建久三年七月十二日      征夷使  大将軍源頼朝    従五位下源信友
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左衛門督源通親が御意を承り、参議の兼忠卿が書面にした。将軍任命に関しては以前から御意にあったが今になった。 後白河法皇が崩御して最初の会議で特に任命の沙汰があり、勅使の派遣となった。
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その後に八田知家が手配して武蔵守大内義信邸に勅使を招き、接待の宴を設けた。
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   ※人物名: 左少史三善仲康から右馬允宮道式俊まで20人が何を意味するのか判らなかったが、頼朝と同じ
タイミングで叙任あるいは遷任となった官人らしい。いずれも特に高名な人物ではない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月27日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)は勅使二人を幕府に招き、寝殿の南面(公式の場)で対面して献盃があった。加賀守(源)俊澄・大和守山田重弘小山七郎朝光らが接待の役目に任じ、前少将平時家・参河守範頼・相模守大内惟義・伊豆守山名義範らがその場に列した。
退出の際にはそれぞれに鞍を置いた馬(葦毛と鹿毛)が贈られ、左衛門尉工藤祐経八田朝重(知重)らがこれを引いた。二人の勅使は庭に降りて馬を請け取り一;礼して退出した。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月28日
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吾妻鏡
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北條殿(時政)の御沙汰として、椀飯(wiki)による勅使接待を行った。また小山左衛門尉朝政畠山次郎重忠らが贈物を献上した。三善康信藤原俊兼らの手配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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7月29日
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吾妻鏡
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勅使の景良と康定が帰洛の途に就いた。まず将軍家から餞別として、馬十三疋と絹糸百十疋(一疋は二反)・越布千反(7月23日を参照)・紺藍染の布百反が贈られた。使者は結城朝光である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月5日
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吾妻鏡
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頼朝は征夷大将軍に任じてから最初の政所業務に渡御した。
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参席の者
    別当   前因幡守中原朝臣(大江)廣元  前下総守源朝臣邦業
    令     民部少丞藤原朝臣(二階堂)行政
    案主   藤井俊長
    知家事  中原光家
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大夫屬入道善信(三善康信)、筑後権守藤原俊兼、民部丞平盛時、籐判官代藤原邦通、前隼人佐康時(三善康清だろう)、前豊前介實俊、前右京進中原仲業らも列席した。まず千葉介常胤が(頼朝への)下文 を受け取った。
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大将に任じる前の下文には花押(wiki)が載っていたが、政所の設置以後は従来の下文を回収し新たに政所の下文に変更している。常胤はこれを不満に思い、
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「政所下文にあるのは家司(職員)の署名であり、後世に伝える栄誉たり得ません。私の分には別に花押を添えて頂ければ子孫の範に致します。」と申し出たため、その望みを容れた。(下文の)内容は次の通り。
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下総国の住人常胤に下す。
相伝の所領および新たに給された各地の地頭職を早急に掌握せよ。
去る治承の時代から平家が朝廷をないがしろにして甚だしい専横を行っていた。この賊徒を追討するため熟慮を巡らした際に、朝威を重んじる常胤が真っ先に味方に加わった。合戦での功績も忠節を尽くした功績も、傍輩に勝る実績を挙げたため、相伝の所領と軍功で得た各地の地頭職について、政所の下文を発するものである。子孫に至るまで相違ないことは本状の通りである。     建久三年八月五日

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右画像は三嶋大社(サイト内リンク・別窓)に保存されている頼朝の花押(自筆)
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社伝に拠ればこの花押が載る文書は、挙兵が成功したら三薗郷(三嶋大社から7km西の沼津駅南側)と川原谷郷(同、1km東の大場川東岸)を寄進するとの内容。
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記載してある治承四年(1180)8月19日は挙兵して山木(平)兼隆を討ち取った翌日、伊豆を出発して土肥を目指した前日に当る。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月9日
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吾妻鏡
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早朝から御台所の出産が近づいた気配となった。祈祷を受け持つのは八幡宮別当の園暁法眼、呪文を受け持つのは義慶房と大学房ら。鶴岡八幡宮および 相模国の主な寺社(下記)に神馬を寄進し、安産を祈る読経を行わせた。
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  福田寺(小田原市の南蔵寺(地図)の前身)   平等寺(平塚市豊田(地図・北600mに大庭塚あり)
  範隆寺(平塚市の春日社(地図)の別当寺だったが既に廃寺。春日社も鎌倉時代初期に海沿いから移転した)
  宗元寺(廃寺。横須賀市公卿町(地図)の曹源寺の前身か)
  常蘇寺(平塚市城所(地図)の浄信寺、西700mが 岡崎義實の本領
  王福寺(大磯町寺坂(地図)の 王福寺   新楽寺(大磯町小磯(地図)、現在の 金龍寺(共に大磯町のサイト))
  高麗寺(大磯高麗神社(地図)の別当寺だったが既に廃寺、隣に支院の慶覚院(大磯町のサイト)が現存する)
  国分寺(相模国一宮の寒川神社の更に9km北の海老名市に相模国分寺跡がある(地図)。
  弥勒寺(波多野。既に廃寺だが松田町寄(地図)に 寄神社(神奈川県のサイト)として痕跡を留めている)
  五大寺(八幡・大會の御堂。平塚市四の宮(地図)の 高林寺(外部サイト)の前身か)
  寺務寺(東逗子(地図)の神武寺(鎌倉紹介サイト)  観音寺(平塚市南金目(地図)の光明寺(wiki))
  大山寺(伊勢原市の阿夫利神社(公式サイト)の別当寺だった現在の 大山不動尊(外部サイト)・地図
  霊山寺(伊勢原市日向(地図)、現在の 日向薬師(公式サイト)の前身)
  大箱根は現在の箱根神社(公式サイト)、訪問記録はこちら
  惣社(大磯町国府本郷の相模国惣社・六所神社
  一の宮・佐河大明神は寒川神社(公式サイト)   二の宮・河匂大明神は二宮町川匂神社(wiki)
  三の宮・冠大明神伊勢原市(地図)の 比々多神社
  四の宮・前祖大明神は平塚市の前鳥神社  八幡宮は平塚八幡宮(公式サイト)・地図
  天満宮(今では相模川の土手に見る影もない小さな祠として残っている。紹介サイトはこちら地図
  五頭宮は渋谷重国が守護神社としていた綾瀬市早川(地図)の 五所神社(神社庁のサイト)か。
  黒部宮(地図・現在の春日神社(神社庁サイト)の元宮。別当寺範隆寺と共に高波で現在地に移転、旧跡不明)
  賀茂(柳下は旧地名か)。小田原市鴨宮の加茂神社(外部サイト・ 地図
  新日吉(柳田は旧地名か)、大磯町国府新宿(地図)の 蓮華院(外部サイト)が日吉社の別当寺だったと伝わる。
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まず鶴岡八幡宮に神馬二疋(上宮と下宮)は千葉平次兵衛尉常秀と三浦太郎景連(佐原義連の三男)らが引き連れて献じた。その他の寺社はその地の地頭を介して献じ、梶原景季三浦義村がこれを差配した。
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巳刻(10時前後)に男子(後の実朝)を出産、鳴弦役(月日を参照)は平山右衛門尉季重と上野九郎光範が務め、 和田左衛門尉義盛が引目役に任じた。暫くして江間四郎殿・三浦介義澄佐原十郎左衛門尉義連野三刑部丞成綱籐九郎盛長・下妻四郎弘幹(悪権守と号す)の六人が護持刀を献じた。
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また因幡前司中原朝臣(大江)廣元小山左衛門尉千葉介などの御家人が御馬や御劔などを献じ、これらは頼朝から加持祈祷に任じた者たちに与えられた。 八田兵衛尉朝重野三左衛の尉義成・左近将監古庄(大友)能直らが御馬を引き、加賀守俊隆が別途の褒美として衣を提供した。
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次いで阿野全成の妻室(阿波局)が御乳付けとして参上、女房の大貳局・上野局・下総局らがこれを補助した。
続いて命名の儀があり、千萬君と定められた。
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   ※鳴弦: 邪気を払う呪文として弓の弦を鳴らすこと。当初は帝の行事として、後に鎌倉でも取り入れた。
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   ※下妻弘幹: 平国香─貞盛─維幹─為幹─繁幹─為幹─直幹と続く。直幹は仁平年間(前九年戦役前後か)から
長男義幹・四男弘幹・五男忠幹・六男長幹(次男と三男は早世)に常陸国内の所領を割譲、弘幹は現在の下妻市一帯を継承したが建久年間の不都合で斬首、か。
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   ※大貳局: 文治四年(1188)7月4日に初めて出仕し、9月1日に頼朝に拝謁して大貳局と命名された女官で、
甲斐源氏加賀美遠光の娘。詳細は記載した日付の記事を参照。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月10日
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吾妻鏡
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若君が二夜を迎える儀式は武蔵守平賀義信三浦介義澄の差配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月11日
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吾妻鏡
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若君が三夜を迎える儀式は信濃守加賀美遠光の差配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月12日
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吾妻鏡
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若君が四夜を迎える儀式は千葉介常胤籐九郎盛長の差配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月13日
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吾妻鏡
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若君が五夜を迎える儀式は下河邊庄司行平の差配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月14日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の廻廊外庭で放生会に行なう相撲の取り組み明細を定めた。籐判官代藤原邦道の差配である。
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    一番 奈良籐次 vs 荒次郎    二番 鶴次郎 vs 藤塚目
    三番 犬武五郎 vs 白河黒法師    四番 佐賀良の江六 vs 兼仗太郎
    五番 所司三郎 vs 小熊紀太    六番 鬼王 vs 荒瀬五郎
    七番 紀六 vs 王鶴    八番 小中太 vs 千手王
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今夜は若君が六夜を迎える儀式で、因幡前司大江廣元の差配である。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮放生会で舞楽の奉納があった。将軍家(頼朝)は出御せず、上総介足利義兼が奉幣使として廻廊に座し、舞楽などの奉納に立ち会った。演じた稚児は
    左は 金王  瀧楠  彌陀王  伊豆熊
    右は 夜叉  観音  亀菊   良壽
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今夜は若君が七夜を迎える儀式である。小山左衛門尉朝政が差配して将軍家(頼朝)と若公に御馬と御劔などを献じ、御台所には綾織二十反と生糸の衣を三領、女房一同には長絹百疋(二百反)を贈った。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月16日
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吾妻鏡
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放生会での流鏑馬などの開催は例年の通り。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月20日
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吾妻鏡
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将軍家が御産所に渡御した。両親が健在の射手らを召して草鹿の勝負を行った。
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   一番 左衛門尉梶原景季 vs 比企彌四郎時員比企能員の三男)
   二番 三浦兵衛尉三浦義村 vs 同、太郎景連(佐原義連の三男)
   三番 千葉兵衛尉千葉常秀 vs 梶原兵衛尉(梶原景時の弟で梶原氏を継いだ友景(朝景 )の息子役野景貞) .

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   ※草鹿: 流鏑馬などの騎射ではなく、徒歩(かち)による弓射(歩射・ぶしゃ)。鹿の姿の板に革や布を張り、中に
綿や草を入れて的とする。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月22日
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吾妻鏡
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雑色の成里は長年の務めを通じて功績を積んだため頼朝が気に入っていた者で、御家人と優劣を付けられない程の働きをしていたが、この夏に他界してしまった。頼朝はこれを深く嘆き子供を捜させたところ子息の成澤が伝え聞いて越中から参上した。今日初めて拝謁を許し、慰めの言葉を掛けた。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月24日
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吾妻鏡
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二階堂の地(永福寺建設用地・地図)に初めて池を掘った。地形は元々が水や樹木の似合う場所である。
近国の御家人に命じて各々三人づつの人夫を集め、頼朝も工事の進捗を眺めた。
帰路の途中で二階堂行政の家に立ち寄り、三浦義澄以下の御家人たちが酒一瓶と肴一種を携えて集まった。
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   ※二階大堂: 文治五年(1189)9月17日、平泉の中尊寺堂塔群を
巡覧した頼朝は二階大堂を見て荘厳さに深く感動し、鎌倉にも同じ仏堂と浄土庭園を再現しようと考えた。
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平泉に残っている平安末期の建造物は金色堂(中尊寺の後半を参照)のみで、頼朝を感動させた二階大堂は既に失われた。山を背にして前に池を配した全体の姿は無量光院跡の復元想像図に近かっただろう。
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ただし、清衡秀衡が抱いたような「平和への祈りと浄土信仰」が頼朝の心にあったかは疑わしい。
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    右画像は発掘調査中の永福寺跡(画像をクリック→拡大表示。)
     夕陽を背にした無量光院の想像図と比べてみよう。

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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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8月27日
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吾妻鏡
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頼朝が二階堂に渡御した。阿波の阿闍梨静空の弟子である僧静玄を召し、御堂前の池に置く立石について話し合った。数十もの巨石を各地から取り寄せ、積み上げて小高い丘を造る、と。
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   ※御堂前の池: 造園の手法は壮大な規模の毛越寺庭園を縮小して模したと想像すると判りやすい。
特に立石の配置などについて記載は明らかに作庭記の記述を意識に置いており、静玄という僧が作庭記の内容に習熟していた可能性は高い、と思う。
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   ※作庭記: 平安時代の造園マニュアル。摂政関白・藤原頼通の二男で正四位上の公家、歌人としても知られた
橘俊綱(wiki)が著したと伝わる。文章のみで図は描かれていない。興味があればこちら(外部サイト)で現代語訳も読める。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月4日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮上宮の西壇所(修法のための壇)に於いて終日続けて聖観音供養法(仏・菩薩・経を供養する行法)ならびに法華講讃(法華経を講義し称える)を始めた。供僧らによる勤めである。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月5日
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吾妻鏡
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右馬権頭公佐朝臣からの書状が届いた。先月の20日に讒言を受けて朝廷の役職から除籍されてしまった、身に覚えのない処分なので撤回を願うために添え書きが欲しい、との事。
頼朝は「讒言であっても全くの嘘が天聴に達するとも思えないから、何らかの過怠があったのだろう。親戚であっても軽々に引き受ける訳にはいかない。」との仰せだった。
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   ※藤原公佐: 頼朝の異母弟阿野全成の娘(生母は北條時政の娘阿波局)の夫である藤原公佐。
正二位・権大納言藤原成親(wiki)の子で 滋野井実国(wiki)の養子となった。息子の実直は母方の姓の阿野を称して公家・阿野家の祖となった。三代目か四代目?の子孫に南朝初代後醍醐天皇の寵妃として第二代後村上天皇を産んだ阿野廉子(wiki)がいる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月11日
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吾妻鏡
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静玄が永福寺御堂前の池に立石を設置する。頼朝は二階堂行政の家に昨日から逗留してこの作業を眺めた。
汀野の埋め石・金沼・汀野の筋・鴉會石・嶋等石など、全ての庭石は今日中に設置を終えた。玉沼石と形石などは長さ一丈(約3m)ほど、静玄の指示を受けた畠山次郎重忠が一人で担ぎ上げ、池の中心まで進んでこれを据え立てた。見ていた者は全てその力に驚かされた。
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   ※石の種類: 配置する場所または用途による名称だと思う。作庭記を
丁寧に読めば載っている、かもしれない。
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右画像は平泉毛越寺の「立石」、大震災直後に傾いたため縄を巻いて保護し添え木で倒壊を防いでいる。(画像をクリック→ 拡大画像→ 毛越寺へ)
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ちなみに、一般的な庭石の比重は2.6~3.0前後、現在の20×30×300cmの立石は容積が
0.18立法mだから、重量は470kgの計算になる。
担ぐだけなら可能性がないとは言えないが、運ぶのはいくら畠山重忠でも無理だね。
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話のついでに書いておくと、池の跡から見付かった(本物らしい)立石は近くの民家が庭石として使っている。長さは150cm弱で径は10×30cm弱、これが実物なら推定で120kgだから重忠の話も現実味を帯びてくる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月12日
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝政が先年の勲功により恩賞として常陸国村田下庄を与えられ、今日政所の下文発行を受けた。内容は次の通り。
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将軍家政所が下す 常陸国村田下庄(下妻宮など)の地頭職に補任する件  左衛門尉藤原朝政
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右の者は去る寿永二年に三郎先生義廣が謀叛し合戦を企てた際に偏に朝威を重んじて単独でも防ごうと務め、同年2月23日の官軍到着と共に下野国野木宮一帯で合戦し、抜きん出た功績を顕した。よってその軍功により地頭職に補任し、荘官はその内容を承知し違背のないように命令を下す。    建久三年九月十二日
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     案主藤井   令民部少丞藤原   知家事中原   別当前因幡守中原朝臣   下総守源朝臣
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   村田下庄: 現在の筑西市村田(地図)。下妻宮は10kmほど南にある現在の大宝八幡宮(公式サイト)を差す。
下妻の一帯は8月9日の末尾に記載した下妻弘幹(常陸平氏の大掾氏惣領家、生母は千葉常胤 の娘)の所領だが、地元の史料では「建久年間の不都合で所領没収のうえ斬首」と記録されている。
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弘幹の出自である多気氏は常陸平氏大掾氏の惣領家で、当初は常陸源氏嫡流の佐竹氏に与して頼朝に対抗し、佐竹氏の零落後は頼朝に従った。建久四年(1193)5月には多気氏の当主義幹も失脚しているから、大掾氏の解体を目的とした計画的な粛清計画があった可能性が高い。
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ちなみに、下妻弘幹の父に当る多気直幹(つまり千葉常胤の娘婿)の父・多気致幹(後三年合戦記での多気権守宗基)の娘は陸奥と京都を往来した源頼義の娘を産み、その娘は出羽の覇権を握った清原真衡の養子として跡を継いだ成衡(出自は海道平氏)に嫁している。
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真衡の目論見としては海道平氏の男子と源頼義の娘を夫婦養子に迎えて家格を高め一族を掌握したかったのだろうが、血筋が失われる事や真衡独裁に反発した吉彦秀武家衡清衡らとの抗争を巻き起こし、後三年の役に発展する。詳細は後三年戦役最後の地 金沢柵で。
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   ※野木宮合戦: 寿永二年(1183)閏2月に起きた志田義廣vs小山朝政を主力とした鎌倉勢の合戦。吾妻鏡の
記述は杜撰で独善的だが、取り敢えずの詳細は野木宮合戦と野木神社で。
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   ※案主藤井 以下: 文案は藤井俊長(鎌田正清の遺児) 役職順に上へ、 令の民部少丞藤原 (二階堂行政
知家事の中原(中原光家) 別当の前因幡守中原朝臣(大江廣元
別当の下総守源朝臣(源邦業)   サラリーマン時代の稟議書を思い出すね(笑)。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月17日
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吾妻鏡
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来月、一條能保が熊野に参詣にする。頼朝は白絹五十反を整え献上せよとの指示を佐々木中務丞経高に命じ、更に龍蹄(大型の駿馬)二疋の贈与を手配させた。今暁に雑色鶴次郎と御厩舎人仲太が連れて上洛する。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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9月25日
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吾妻鏡
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幕府の官女(名は姫の前)が今夜江間殿(北條義時)に嫁して屋敷に赴いた。彼女は 比企籐内朝宗の娘で、頼朝に重用されている美女である。江間殿はこの一両年想いを寄せて再三消息を送ったが相手にされなかった。頼朝がその仔細を聞き、離縁するような事はないとの起請文(誓書)を出させるよう姫の前に助言した。義時はその旨を書いて渡し、婚儀が纏まったものである。
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   ※姫の前: めでたく結婚した彼女は朝時(名越流北條氏の祖)と重時(極楽寺流北条氏の祖)の二人を産んだ後
に比企の乱(1203)に連座する形で離縁となった。生母の家格から考えると正室の産んだ朝時が嫡子となる筈だったが...その不満などが蓄積し、朝時の子供たちは 宮騒動(wiki)に関与して没落、一方で極楽寺流の方は3人の執権(6代長時、13代基時、16代守時)を輩出している。
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   ※消息: 要するに恋文。翌建久四年(1193)11月には安田義資が御所の女房に同様の手紙を渡したため罪を
問われ梟首される事件が起きている。周囲の状況は殆ど違わないのだが、義時の場合は「消息」でめでたく婚姻、義資の場合は「艶書」で斬首。甲斐源氏粛清の一環とは言え、酷いダブルスタンダードだ。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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10月15日
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吾妻鏡
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左女牛若宮領の土佐国吾河郡は京都大番役以外の公事(労役)を免除することとなった。但し大番役だけは別当秀厳(惟光の子で大江廣元の弟)の指示に従い継続勤務するよう、守護の中務丞佐々木経高に命令を下した。二階堂行政平盛時らの差配である。
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   ※左女牛若宮: 源頼義が六條堀河邸の坤(南西)隅に石清水八幡宮を勧請した六条若宮を差す。場所などの
詳細は文治三年(1187)1月15日の記載を参照されたし。
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   ※土佐国吾河郡: 文治元年(1185)12月30日の吾妻鏡に以下の記載がある。
諸国の地頭職任命を許された中から、土佐国吾河郡(現在の高知県吾川郡伊野・地図)を六條若宮に寄進する。この神社は故・源頼義の六條邸跡に石清水八幡宮を勧請し、大江廣元の弟である秀厳阿闍梨が別当職に任じている。
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   ※廣元の弟: 系図により、廣元の父は藤原光能(正三位・参議)と大江維光(従四位上・式部大輔)の二説ある。
吾妻鏡の建保四年(1216)閏6月14日には勅許を得て中原→大江に改姓している(鎌倉では当初から大江を名乗っていたが、戸籍上の姓は中原だった)。
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廣元の申請には、「養父中原広季の養育を受けた恩はあるが中原一族には後継者が多く、大江一族は衰退しているので本姓に戻したい」とあるから、大江維光の子と考えるべきなのだろう。
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秀厳の方はとくに系図上の疑問点はなく、大江維光の子として載っている。上記の左女牛若宮に土地を寄進した際に阿闍梨季厳として記載があるから、若宮創建当初から任命されたのだろう。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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10月19日
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吾妻鏡
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御台所と新たに誕生した若公(千萬、後の実朝)が名越浜の御所から幕府に戻った。 北條五郎時連里見冠者義成新田蔵人義兼小山左衛門尉朝政・同、七郎朝光三浦左衛門尉義連・同、兵衛尉義村八田兵衛尉朝重梶原左衛門尉景季・同、兵衛尉景茂(景季の弟)らが供として従った。
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   ※名越浜の御所: 地名が名越(なごえ)で時政の娘(政子)の産所に決まっていた。それだけで「時政の名越邸」
だろうと想像できる。「釈迦堂口切通しの上」が根拠のない伝承に過ぎないと、歴史家ならもっと早く気が付くべきだった、と思う。
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   ※五郎時連: 義時の弟・時房を差す。「連」が銭の単位を思わせるとの話が頼家の耳に入り、建仁二年(1202)
6月25日に改名を勧められた。元服の際に時連と名付けた烏帽子親は誰だ?
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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10月25日
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吾妻鏡
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二階堂(完成後の永福寺)に惣門を建立した。
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   ※惣門を建立: 永福寺の立地はやや変則で、南北に長い谷津の西側に東向きの堂を建てて前に苑池を造った
ため平泉の毛越寺や無量光院のように門→ 池を渡る橋→ 金堂を一直線に配置できなかった。池の南側、現在のテニスコート付近(地図)だろうと考えるのが通説らしい。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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10月29日
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吾妻鏡
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永福寺の扉と本尊を安置する内陣の後壁に絵を描く作業が終わった。絵師は修理少進季長である。これは藤原秀衡が建立した圓隆寺(毛越寺の金堂)を模したもので、絵の細部に至るまで圓隆寺を想わせる姿になった。
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   ※修理少進季長: 寿永三年(1184)1月22日には絵の名手・藤原(宅間)為久を京都から招いた記事があり、
翌年8月23日には勝長寿院(南御堂)の仏画を描くため再度招いたとの記載がある。ただし同年10月11日には頼朝が絵にクレームをつけ修正させた記録があるから、宅間為久の技量に不満を感じて追加で招いたのが季長だったかも知れない。宅間為久は鎌倉に定住して永福寺の絵も手掛けた記録がある。
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   ※圓隆寺: 毛越寺の金堂で本尊は運慶の丈六薬師如来像。堂塔の大部分は保元元年(1156)までには
完成し、最後に残った嘉祥寺だけは引き継いだ秀衡が仁安二年(1167)に落慶させている。秀衡の父・ 基衡は金堂の圓隆寺を含めた堂塔の大部分が完成した保元ニ年(1157)に52歳で没しているから「藤原秀衡が建立した圓隆寺」は藤原基衡が建立した」の間違い、と言える。
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   ※運慶作: 吾妻鏡の挿話は「雲慶」(該当する仏師はいない)と書いている。文治五年(1189)9月17日を参照。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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10月30日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に武者所牧宗親(牧の方の兄)の浜(由比ヶ浜だろう)の家が焼け落ちた。宗親はたまたま外出中で、煙を見て駆け戻り筝(琴) を持ち出そうとして左側の髭を焼いた。唐の国太宗の髭は薬のために施し、我が国の宗親の髭は筝を惜しむ心を表している。焼いた場所は同じだが、焼いた理由は全く異なっている。
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   ※左側の髭: あごひげ=鬚で、口ひげ=左側の髭。従って焼いたのは「左のくちひげ」になる。ちなみに、耳の
近くの生えは「びん」=鬢。
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   ※太宗の髭: 太宗とは唐の名君・李世民大帝。重臣の一人が病気になったとき、「髭を焼いた灰が薬になる」と
聞いた太宗は自分の髭を切って薬を作った。家臣は涙を流して感謝したが、大宗は「卿のためではなく、国家のために必要だから切ったのだ。感謝するような事ではない。」と答えた。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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御堂(永福寺)の落慶供養を来月に行なうと決定。導師が京都から下向する事に関する雑事の処理は二階堂行政平盛時が差配するようにとの仰せがあり、海道の宿驛については経路にあたる諸国に手配を命じた。
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また足柄峠を越える警備は沼田太郎・(波多野五郎義景・(河村三郎義秀)・豊田太郎・工藤介らが手配せよとの命令を下した。
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   ※落慶の導師: 本覚院公顕は文治四年(1188)1月には京の法勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺・円勝寺(つまり
尊勝寺を除く六勝寺(文治二年(1186)6月29日の条を参照)の別当に任じ、元暦二年(1185)10月24日の勝長寿院(南御堂)落慶供養の導師も務めている。文治六年(1190)には第60世天台座主に就任している。六勝寺の一つ・成勝寺の執行僧に任じていたのは娘が頼家 の側室として栄實禅暁 を産んだ一品房昌寛
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   ※沼田太郎: 北九州一帯に勢力を広げた大友氏の一族。大友(古庄)能直の母方の叔父が沼田城(現在の沼田
市西倉内町・地図)に依拠して沼田太郎実秀を名乗ったのが最初、と伝わる。
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   ※豊田太郎: 大庭景義の同母弟・豊田景俊だろう。大庭塚と豊田郷を参照されたし。
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   ※工藤介: 該当するのは工藤(狩野)茂光だけしか思いつかないが、彼は治承四年の石橋山合戦後に函南で
自刃し、その後の工藤介は見当たらない。たぶん狩野介(狩野宗茂)の誤記だと思う。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月5日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)、新たに誕生した若公(千萬・後の実朝)の御行始め(外出初め)があり、輿を使って籐九郎盛長の甘縄邸(現在の甘縄神社と安達邸跡を参照)に入御された。
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女房大貳局・阿波局らが介助し、相模次郎(北條朝時)・信濃三郎(南部光行)・小山三郎・三浦兵衛尉(義村)・梶原源太左衛門尉(景季)・下河邊四郎(政義)・佐々木三郎(盛綱)らが供として従った。
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終日逗留し供奉人らの中で献盃があり安達盛長が御劔を献上、供の男女にも同様に贈物があった。女房二人に各々小袖を一着、相模次郎以下には各々染めた革を一枚である。
亥刻(20時前後)になって一行は御所に還御した。
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   ※小山三郎: 宇都宮朝綱の孫である頼綱が 寒河尼に預けられ、夫小山政光の猶子となって弥三郎を名乗った。
文治五年(1189)7月25日に「猶子」として記載がある。当時20歳、小山三郎は頼綱。
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宇都宮氏系図は初代藤原宗円→ 二代八田(中原)宗綱→ 三代朝綱→ 四代業綱(成綱・建久二年(1192)に早世)→ 五代頼綱と続いている。
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建久五年(1194)7月に朝綱と孫の頼綱と朝業の三人は公田横領の罪により流罪となった。実際には頼朝が犯した手続き上のミスだったが...
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頼綱と朝業は短期で帰国(配流地に行かなかった、とも)したが朝綱の赦免は2年後の建久七年(1196)となり、帰国と共に益子上大羽の綱神社に隠棲した。
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この前後に小山氏の猶子から復姓した頼綱が宇都宮の家督を継承する事になる。
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     右画像は朝綱が創建した綱神社。 画像をクリック→ 綱神社と宇都宮氏廟所へ。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月13日
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吾妻鏡
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二階堂(永福寺)の池に配置する石について不満が残っているため、頼朝は静玄を呼んで配置を修正させた。
畠山次郎佐貫大夫大井次郎が石を動かし、頼朝は三人が見せた百人にも匹敵する働きに感動した。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月15日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬五疋が京都に向かった。御厩舎人の家重が同行している。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月20日
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吾妻鏡
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永福寺の建造が完了した。雲軒月殿 絶妙無比類(が原文、雲の如く聳える軒と月の如くに美しい金堂か)、阿弥陀の西国浄土九品の荘厳な姿を二階の堂として関東に再現した姿である。今日、 御台所政子も参詣に訪れた。
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   ※九品: 浄土への往生は生前の行いにより九段階の蓮台に生まれ出る。転じて浄土の姿。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月22日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に御神楽の奉納があった。これは御堂(永福寺)の落慶供養が滞りなく行われるための御祈祷である。相模守大内惟義が奉幣の使者として派遣された。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月25日
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吾妻鏡
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早朝に熊谷次郎直實久下権守直光が頼朝の御前で対決した。これは武蔵国熊谷郷と久下郷の境界についての争いである。武勇では一人当千と言われる程の直實だが論争に関しては十分な説明ができず、頼朝から何回も質問を受ける有様だった。ついに直實は、
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「これは立ち会いの梶原平三景時が直光に味方して予め主張する手順などを教え、そのために私が何度も質問を受けているのだろう。直光が有利な裁決を得るに違いない、書類など何の意味もない。」と言って証拠の品や書類を投げ捨てて座を立ち、怒りが鎮まらないまま西の侍所で自ら髻(もとどり・髪を頭上で束ねた部分)切り落として「殿の侍に登ったはてに」と叫んで南門から走り出し、自宅にも帰らず行方不明になった。
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人の話では馬に跨って京の方角へ走ったらしい、と。事件に驚いた頼朝は相模と伊豆の各地や箱根権現や伊豆山で出家するつもりか、行く手を遮って制止せよと御家人や衆徒(僧)に指示を下した。
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直光は直實の姨母(生母の姉の夫)である。その縁により直光の代官として京都大番役を務めた際に、同じ武蔵国から上洛していた同僚が代官と侮って無礼な扱いをした。
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直實はそれに我慢できず平知盛卿に臣従して何年かを過ごしてから関東に下った際に石橋山合戦が勃発した。
直實は平家に味方して戦った後に源家に仕えて各地を転戦し軍功を挙げたのだが、直光との関係を放棄して知盛の家人になった事が尾を引いて境界争いに発展していた。
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今日は永福寺の落慶法要として曼荼羅の供養が行われた。導師は法務大僧正公顕、前因幡守大江廣元 の差配である。導師や請僧の布施などは勝長壽院(南御堂)供養の際と同じで布施の運び役は十人、導師への布施として銀造りの剣一振りは前少将平時実 から渡された。将軍家頼朝の臨席あり。
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  先陣の随兵
      伊澤五郎信光   信濃三郎光行   小山田三郎重成   渋谷次郎高重
      三浦左衛門尉義連   土肥彌太郎遠平   小山左衛門尉朝政   千葉新介胤正
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  将軍家
      小山七郎朝光が御剣を持つ   佐々木三郎盛綱が御甲を着す   勅使河原三郎有直が御調度を懸く
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  御後の供奉人(各々布衣)
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      武蔵守大内義信   参河守源頼範   遠江守安田義定   上総守足利義兼
      相模守大内惟義   信濃守加賀美遠光   越後守安田義資   豊後守毛呂季光
      伊豆守山名義範   加賀守俊隆    兵衛判官代義資   村上判官代義国
      籐判官代藤原邦通   源判官代高重    修理亮義盛   新田蔵人義兼
      奈胡蔵人義行   佐貫大夫廣綱    所雑色基繁   橘右馬大夫公長
      千葉大夫胤頼   野三左衛門尉義成   八田左衛門尉知家   足立左衛門尉遠元
      比企左衛門尉能員   梶原刑部丞朝景    梶原兵衛尉景茂    左衛門尉景季
      後藤兵衛尉基清   景定(梶原朝景の子)    畠山次郎重忠   土屋三郎宗遠
      工藤庄司景光   加藤次景廉   因幡前司廣元   梶原平三景時
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  後陣の随兵
      下河邊庄司行平   和田左衛門尉義盛   小山田四郎重朝   葛西兵衛尉清重
      工藤左衛門尉祐経   野三刑部丞成綱   小山五郎宗政   佐々木五郎義清
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   ※勅使河原有直: 武蔵七党の丹党に属する武士。秩父武綱の曾孫・丹基房(畠山重能重忠の父)と同じ世代)
の長男直時が埼玉県北西部上里町の勅使河原(地図)を本拠にしたのが一族の始まり。
平家物語 巻九の三 河原合戦に次のような一節がある。
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義仲が六条河原に出てみると東国勢三十騎ほどが現れ、武者二騎が進み出た。一騎は塩屋五郎維広、一騎は勅使河原五三郎有直である。塩屋は「応援の到着を待つべきか」と言い、勅使河原は「一ヶ所を突破すれば残党は崩れる、突撃!」と叫んで突っ込んだ。義仲は背水の陣で防戦し、東国勢は我こそが討ち取るぞと攻めかかった。
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神流川東岸の大光寺は有直が建保三年(1215)に創建した、と伝わる。鎌倉幕府滅亡後の丹党は新田義貞に従って南北朝時代を戦い、南朝の没落とともに衰退した。
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   ※加賀守俊隆: 文治二年(1186)3月18日にも記載がある人物だが素性が判らないし、加賀守の歴代リスト
にも見当たらない。なぜだ?
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   ※兵衛判官代義資: 元暦元年(1184)6月4日に記載がある、源義家の四男義時の遺児。鎌倉で朝夕官仕の
身分(住み込みで1日玄米五升の俸給を受ける勤務体系)に就いた。
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   ※村上判官代義国: 清和源氏頼清流の信濃村上氏・経業の系累だと思うが、系図に見当たらない。
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   ※源判官代高重: 社伝に拠れば文治二年(1186)に安房判官代高重の訴えに基づいて安房一宮の安房神社
(洲崎明神・地図)社殿の造営修復を頼朝が厳命している(吾妻鏡には該当する記載なし)。治承四年(1180)に安房へ逃げた頼朝は洲崎明神に戦勝を祈願した(9月5日と12日に記載)。高重は神官を兼ねた土着の武士か。
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   ※修理亮義盛: フルネームは関瀬修理亮義盛で随兵など各所に現れているのに素性が判らない。
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   ※奈胡蔵人義行: 甲斐源氏黒源太清光の八男(浅利余一の次兄)で巨摩郡奈胡荘(南アルプス市南湖・地図
を本領とした。清光の三男小笠原長清が継承し多くの史跡が残っている小笠原郷の東南、秋山光朝領の北東に隣接している。
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   ※所雑色基繁: 判らない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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11月29日
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吾妻鏡
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誕生した若君の若君(千萬・後の実朝)の五十日・百日祝賀の儀があり、北條時政殿がこれを沙汰した。給仕などは女房(女官)ではなく江間義時殿が担当した。献上した贈物は御劔・砂金・鷲の羽などである。
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武蔵守平賀義信・ 前上野介藤原範信・ 参河守源範頼・ 相模守大内惟義・ 前因幡守大江廣元千葉介常胤
小山朝政結城朝光畠山重忠三浦義澄中村宗平下川邊行平八田知家加賀美遠光安達盛長
足立遠元葛西清重和田義盛加藤景廉梶原景時梶原朝景工藤景光らが出席し十字が贈られた。
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   ※藤原範信: 熱田大宮司藤原季範の次男。季範の跡は生前に五男範雅が継ぎ、季範の没後に長男の範忠が
継いでいる。範信は従四位下・式部丞。
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   ※十字: 蒸した饅頭。十字に割いて食べた中国の習慣から赤い十字や点をつける風習が生まれたらしい。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月2日
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吾妻鏡
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本覺院(本覚院)の宰相僧正公顕が京都に向け出発した。すでに二度の要請(勝長寿院と永福寺の落慶供養法要)に応じてくれたのは有難い対応である。
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   ※本覚院: 比叡山の西塔、釈迦堂や法華堂・常行堂などが集まっている一角(地図)。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月5日
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吾妻鏡
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永福寺落慶供養に集まってきた御家人は未だに帰らず鎌倉に残っている。
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今日、武蔵守大内義信・信濃守加賀美遠光・伊豆守山吊義範・上総守足利義兼千葉介常胤・左衛門尉小山朝政下河邊庄司行平小山七郎朝光三浦介義澄佐原左衛門尉義連・左衛門尉和田義盛らを浜の御所に呼び、北面の部屋に集めた。頼朝は新た誕生した若公 (実朝)を自ら抱いて出御し、深く可愛がっている様子を見せた。
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御家人たちは心を合わせ将来を守護する旨を申し上げ、酒が振舞われた。女房の大貳局・近衛局が酌をして回り、列座の御家人たちは各々に若公を抱き御引出物(腰の刀)の献上を申し述べてから退出した。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月10日
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吾妻鏡
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女房の大進局が先日拝領した伊勢国三箇山の内容について内容の不明を申し出たため、改めて政所の下文を発行した。担当は民部丞二階堂行政である。
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   ※大進局: 文治二年(1186)2月26日に頼朝の男子(後の貞暁)を産んだ常陸入道念西の娘。政子の嫉妬が
激しいため、頼朝は建久二年(1191)1月23日に仁和寺の隆暁法眼(一条能保の養子)の弟子として上洛させ、伊勢国に所領を与えていた。母親の方はまだ鎌倉に残っていたらしい。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月11日
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吾妻鏡
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走湯山(伊豆山権現)の住僧専光房が使者を派遣して報告。内容は次の通り。
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熊谷直實に関する指示を頂いた件で、直ちに東海道の様子を窺ったところ、京都に向かう直實に出会うことができました。既に僧形で様子が変だったため鎌倉殿の仰せと称して引き止めましたが、承知しません。とりあえず出家した功徳を褒め、私の僧坊に誘って浄土宗の教えなどを語っているうちに何とか落ち着きました。私は書状を書いて遁世逐電を強く諌め、とりあえずは上洛を思い直す気持ちになったようです。その書状の下書きを同封いたします。
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  ※下書き: 要するに武士の本分である主従の道理を捨てて出家をするのは神仏の意思にも沿っていない、云々
の内容を故実を引用して説得に当っている、との内容。美辞麗句を駆使しているが権威に従えと言っているだけで、取りたてての意味はない。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月14日
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吾妻鏡
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一條能保からの書状が到着、亡妻(坊門姫)の遺産である20ヶ所の所領を、男女の子供たちに分与したとの報告である。将来の意見が乖離することのないよう先月28日に宣旨の発行を願い、権中納言(兼光卿)が勅を奉じ右中弁棟範朝臣を経て勅旨を得た。平家没官領(平家から没収した所領)の内、下記の諸処との内容である。
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摂津国福原庄・武庫御厨・小松庄・尾張国高畠庄・御器所松枝領・美濃国小泉御厨・椎庄・津上良領・近江国今西庄・粟津庄・播磨山田領・下端庄・大和国田井・兵庫庄・丹波国篠村領・越前国足羽御厨・肥後国八代庄・備後国信敷庄・吉備 津宮・淡路国志築庄。
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以上の20ヶ所、先日将軍家の御妹である亡妻から一條能保が譲渡を受けたものである。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月20日
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吾妻鏡
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渋谷重国の一族は誰もが勇敢で常に頼朝の意思に応える働きをしている。公事の負担を軽くするため、所領の相模国吉田荘(渋谷荘) の地頭として領家圓満院に申請し、定額の納付と定め幕府の倉からの納付で贖うよう処理した。
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前右大将家政所  運上 相模国吉田庄の年貢に関する件。
内容は布、染布、上絹、藍染の布、荷駄に用いる馬、人夫、加工した紅花、熨斗鮑、染革、など。
         建久三年十二月二十日     平盛時 (頼朝の花押)
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月23日
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吾妻鏡
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この一両日、若公の万寿(後の源頼家)の体調が悪く、今日になって疱瘡が発症した。都でも僻地でも広く流行しており、尊卑にも関係なく罹病している。
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   ※疱瘡: 現在では撲滅した天然痘を差す。致死率は40%ほど、北米大陸の先住民族を駆逐するため罹病者の
毛布や衣類を意図的に付与したなどの記録もあり、いわゆる民族浄化の手段とされた例も多い。
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日本でも数回の大流行が記録されており、奈良時代の天平九年(737)には政権を担っていた藤原四兄弟(不比等の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が天然痘で死没し大混乱になった。
天平十五年(743)に始まった東大寺大仏造営はこの事件が一つの契機だった、とされる。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月28日
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吾妻鏡
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伊勢神宮領の武蔵国大河戸御厨(現在の松伏町から越谷に至る古利根川流域・地図)の紊税については課税額を増やし、代償として神主に対し多くの水田を追加して与えた。平家が知行していた頃の神宮に収める分は絹113反の他にはなかったが、公私(朝廷と幕府)安泰の祈祷の費用が正税と共に免ぜられる。
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旧領は水田一町に対して絹を二疋四丈で、新田には一町に対し二石。公田は一町に対し一石三斗である。
大江廣元二階堂行政がこれを差配する。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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12月29日
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吾妻鏡
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佐々木定綱から問い合わせがあった。東大寺の修造に関し、周防国の材木運搬を早急に行えとの催促を受けたが、重ねての仰せが出された意味は何か、と。
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また今日、走湯山(伊豆山権現)の専光房から年末に実施した読経の数の報告と共に、熊谷直實の様子について知らせてきた。直實法師の上洛は専光房の説得で何とか思い止まったが、簡単には幕府に戻らないつもりらしい。暫くは武蔵国に引き籠る旨を語っている状態である、と。
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   ※佐々木定綱: 建久二年(1191)3月に起きた佐々木庄での日吉神社とのトラブルが原因で同年5月20日に
薩摩国流罪に処されている。赦免されたのは建久四年(1193)3月12日、鎌倉に帰還したのは10月28日だから、この日の記事は整合性に欠ける。長男広綱・次男定重・三男定高の三人も同様に流罪とされており、処分を受けなかったのは11歳の四男信綱以下だけだった。
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事件発生直後に定綱の弟三郎盛綱五郎義清が佐々木庄に向かい、定綱は流刑が決まるまで出奔しているから、定綱流罪の間に問合わせてきたのは二人の弟だろう。
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西暦1192年
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82代後鳥羽
建久三年
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月 日
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前年・建久二年(1191)の吾妻鏡へ       翌年・建久四年(1193)の吾妻鏡へ