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建久四年(1193年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月1日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)が鶴岡八幡宮に御参詣。還御の後に椀飯の儀あり。千葉介常胤がこれを差配した。源氏門葉と江間殿(北條義時)と御家人らが庭に控え列座し、定刻に将軍家が出御。上総介足利義兼が立ち上がり、御簾を引き上げた。相模守 大内惟義が剣、右衛門尉八田知家が弓箭、左衛門尉梶原景季が行騰を持ち、千葉大夫胤頼が砂金を、千葉介常胤が鷲の羽を捧げた。次に常胤の息子三人 (師常胤信胤道)と孫二人(胤秀(父は誰だ?)、もう一人は?)が馬五疋を引き出した。また頼朝自筆による御家人の席順が定められた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※儀礼について: 年を追って虚飾の度合いが深まり、頼朝が京都への原点回帰を深めているように見える。
二度に亘る上洛と大姫の入内工作は平清盛の轍を踏むつもりか...治承の合戦から行動を共にした古参の御家人がそんな危惧を感じなかったかどうか。
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5日の記事にも記載したが吾妻鏡は所詮は後世の編纂に過ぎない。もし「玉葉」や「愚管抄」のような学識者の日記であれば微妙な空気まで記載された可能性が高い、と思う。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月5日
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吾妻鏡
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左衛門尉工藤祐経の家に怪鳥が飛び込んだ。その名前は判らないが形は雄の雉に似ているらしい。占った結果は慎み深くあれとのこと、神仏に祈って加護を願った。
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   ※工藤祐経: 今年の5月28日には富士山西麓で曽我兄弟の仇討ちによって落命する。吾妻鏡は日記の形態を
模した「記事の編纂集」だから事件の予告など自由自在だ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月10日
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吾妻鏡
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南御堂(勝長寿院)で修正が行われ、将軍家も参席した。
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   ※修正会: 新年早々に3日または7日間続けて行う法会で、国家や朝廷の安泰・五穀豊穣などを祈願する。
正式には修正月会、略して修正。前年(建久三年)の正月に初めて開催された。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月14日
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吾妻鏡
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高雄(神護寺・公式サイト)の文覚上人から連絡があった。
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東大寺・公式サイト)の造営作業が間に合いそうもない、と舜乗房が愁訴しています。 後白河院の時代には料米(費用に充当する米)として二万石が寄進されていましたが、国司の横領が頻発して効果が乏しかったのが現実です。関東が介入しない限り成功しないでしょう。
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後白河院の支配下から備前国を文覚に預け、その年貢分を東大寺修造に充当させるよう京都に申し入れて下さい。
との内容である。
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頼朝は荒廃した荘園を保元の時代(1156〜1158年)以後に再生させた分については拠出に応じるよう、土御門通親卿を通じて( 後鳥羽天皇)への奏上を申し入れた。

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   ※舜乗房: 東大寺復興の大勧進職(総責任者)に任じた重源上人(wiki)を差す、と思う。俊乗房の名が一般的
だが、舜は当て字だろう。
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右画像は韮山の毘沙門堂近くに残る文覚の「護摩石」。頼朝と面談して挙兵を薦め、護摩を焚いて戦勝を祈った、と伝わる(実際には授福廃寺の礎石らしい)。 画像をクリック→ 伝・護摩石の頁へ
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月20日
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吾妻鏡
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三浦一族の中に惣領である義澄の支配に背く者がいるとの噂がある。義澄に従うべきである旨の仰せがあった。
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   ※義澄に背く: 元々義澄と和田義盛は惣領の座についての確執もあり円満な関係ではないが20年後の建暦
三年(1213)の和田合戦で敵対するまでは特に問題を起こしていない。
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   ※両者の確執: 和田義盛の父(三浦義明の長男)義宗は長寛元年(1163)の秋に安房国平北郡にある所領の
争奪戦に出陣した。長狭六郎常伴の居館金山城(鴨川市・地図)を攻めるため水軍で出撃したのだが上陸地点で迎撃を受けて負傷、三浦に撤退して100日を満たず没した、と伝わる。
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この時の義明は72歳で義宗は39歳、父の死没前に家督を相続したらしいが嫡子義盛は17歳、義明は若い嫡孫よりも次男の義澄(37歳)に家督を継承させるのが順当と考えたのだろう。
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結果として三浦の惣領は義澄が継承し、義盛は分家して三浦半島西海岸の初声(はつせ)の和田郷(サイト内リンク)に本拠を置き和田を名乗ることになる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月26日
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吾妻鏡
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去年の12月30日に銭(貨幣)の使用を禁止する旨の命令が朝廷から発せられた。一條能保からの連絡である。
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   ※貨幣経済: 和銅元年(708)鋳造の和同開珎から天徳二年(958)鋳造の乾元大宝(共にwiki)まで12種類の
貨幣(皇朝十二銭)が発行されている。交換比率は乾元大宝一枚に対して旧銭十枚と定められたが品質が劣悪で流通せず、応和三年(963)を最後に鋳造が終了した。
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その後は既存の流通銭が少々と絹などの物品による交換経済がメインとなり、再び貨幣経済が始まるのは鎌倉時代中期以降となる。
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当時の銅銭(劣悪なものを除く)が等しく同じ価値だったのは面白い。つまり100円や500円硬貨のような一枚当りの価値差がなく、違う種類が混在していても「銭○○枚」での取引だった。
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   ※蛇足二点: 一枚一文の銭に紐を通して千枚にした束が一貫文(連)で、当初は時連と名乗っていた北條時房
が建仁二年(1202)に検非違使の平知康から「連は銭を連想させるから良くない」と言われ(6月25日)、それを耳にした当時の二代将軍頼家から改名を勧められて時房となった、らしい。
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この平知康は北面の武士で鼓の名手だった事から「鼓判官」と呼ばれており、平家を追い落として入京した木曽義仲に軍兵の狼藉防止を申し入れた際に「鼓判官とは多くの人に打たれたためか」と言われ、後白河法皇「義仲は馬鹿です、排除した方が...」と進言した。
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これが契機となって法皇が義仲に京都からの退去を要求し、怒った義仲が寿永二年(1183)11月19日に院の御所に攻め込んで法住寺合戦を引き起こした、と平家物語が挿話を伝えている。
二つとも真偽は不明だが...。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月27日
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吾妻鏡
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安房平太などの御家人が新恩を得た。大江廣元二階堂行政がこれを差配した。
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   ※安房平太: 摂津源氏の末裔を称しているらしいが詳細は不明。建久六年(1195)の頼朝随兵の名簿にある
野瀬判官代・安房判官代が該当するか。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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1月28日
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吾妻鏡
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南御堂(勝長寿院)の近くに御山庄を建てる旨の沙汰があった。
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   ※御山庄: 通常の理解では山荘だが、大倉御所から1km弱(地図)の
距離なので別宅とでも受け取るべきか。
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少し気になるのは30年後の嘉禄元年(1225)6月16日の吾妻鏡、政子が68歳で死没する45日前である。
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辰の刻(午前8時前後)に政子が意識を失い人々が参集したが暫くして回復した。日増しに容態が悪化し、昨15日に新邸に移るとの仰せは日取りが悪く、陰陽道により21日に延期となった。
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この新邸とは勝長寿院の境内に建てた御堂御所を差す。吾妻鏡の記述に重複があるため完成時期は確定できないが、遅くとも承応二年(1222)の末には完成していたのは間違いない。
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政子は6月21日に御堂御所に移り、20日後の7月11日に息を引き取った。6年前には実朝の遺髪を葬った勝長寿院で荼毘に付され埋葬されたのだが、生前の政子の意識に、「頼朝が南御堂近くに山荘を構えた」との記憶が影響していたか、どうか。
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右画像は南御堂があった谷津の北側からの鳥瞰。滑川から一番奥(黄色の●)まで約560m、廃寺の位置や遺構は全く不明である。  画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月3日
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吾妻鏡
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旧院(前の上皇・後白河)の周関(一周忌)法事のため御家人が拠出した長絹五百疋(一疋は二反)を京に送った。
朝廷への取り継ぎは左衛門尉佐々木四郎高綱に命じ、因幡前司大江廣元の差配によって今日出発した。
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   ※佐々木高綱: 文治三年(1186)に長門国と備前国の守護に任じている。今から二年後の建久六年(1195)
に家督を嫡子の重綱に譲り高野山で出家隠棲を遂げる。
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   ※なぜ高野山: 真言密教に拠れば、56億7千万年後に弥勒菩薩が
地上に降臨し、地球上の三ヶ所で説法を施して合計200億の人々を救済する。
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その一ヶ所が空海(弘法大師)を葬った奥の院で、弥勒菩薩の言葉を空海が通訳する、その場に居合わせるため多くの人が奥の院参道に墓地を求めるらしい。
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財力のある者は大きな墓地を、貧しい者は墓石の替りとして参道脇に小石を置いて菩薩の降臨を待つ、と。
誰が考えたストーリーなのかは知りませんが。
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右画像は奥の院に続く参道。弘法大師は現在でも生者として扱われ、一日二度の食事が運ばれている。
高野山で見逃せないのは奥の院と結界を示す高野大塔。全て宗教は組織として形骸化していく。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月7日
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吾妻鏡
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来る三月三日の鶴岡八幡宮法会(上巳の節句)での神楽について、従来は伊豆山権現と箱根権現の稚児を招いていた。しかし大勢の供僧と門弟や御家人の子息から然るべき少年を選んで練習させるべしとの指示が頼朝から若宮の別当法眼(円暁)に下された。これに従って大江廣元の子息・息摩尼珠、判官代藤原邦道の子息藤一、筑後権守藤原俊兼の子息・竹王らが応じた
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月9日
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吾妻鏡
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武蔵国の丹党と兒玉党の間に確執があり、合戦にまで発展する気配との噂があったため、これを説得し鎮めさせよと畠山次郎重忠に命令を下した。
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   ※丹党: 武蔵七党の一つ。秩父五郎を称した丹基房が児玉郡
の神流川流域(現在の神川町、地図)を本拠に、その子と孫の世代が入間郡(毛呂山町・越生町を中心にした埼玉県中部、地図)と秩父郡(現在の秩父市・小鹿野町・横瀬町・皆野町の一帯、地図)・児玉郡西部(美里町と神川町の西部・地図)に勢力を広げた武士団。
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児玉党と勢力を接する場所の一つが基房の子直時が本領とした児玉郡勅使河原(地図)で、この辺の境界か水利権が紛争になった、と思う。勅使河原直時は吾妻鏡の文治五年(1189)7月1日の放生会に登場している。勅使河原の詳細はそちらで。
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丹党に属する安保氏の子孫である「安保入道」は北條氏の命運を定めた関戸河原の合戦で総大将の北條泰家を守り討ち死にしている。    画像をクリック→ 拡大表示(サイト内リンク先)
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   ※児玉党: 武蔵七党の一つ。武蔵国最北部(現在の本庄市〜上里町一帯・地図)を本拠にして秩父や入西郷
(坂戸市付近)まで勢力を広げた記録が残る。七党の中では最大の勢力を培っていた。鎌倉幕府滅亡後の丹党と児玉党は本領が地理的に近接していた新田義貞に味方し、共に衰退を余儀なくされる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月10日
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吾妻鏡
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毛呂太郎季綱(毛呂季光の嫡子)が恩賞として武蔵国和泉(現在の滑川町和泉・地図)と勝田(現在の嵐山町勝田・地図)を与えられた。頼朝が伊豆国の流人だった頃、貧しさに困窮した下人が季綱の所領近くまで迷い歩いた。
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これを恐れ多い事だと考えた季綱が食料などを与えて伊豆に送り返してくれた。当時の頼朝は身寄りもない境遇だったが、受けた配慮には必ず報いようと考えた、その結果である。
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   ※季光の本領: 入間郡毛呂郷(現在の毛呂山町・地図)、新領の和泉と勝田は毛呂山の約20km北側、重忠の
菅谷館の北に隣接し3kmほど東には鎌倉街道(上道・かみつみち)が通っている。伊豆韮山からは160kmも離れているから頼朝の下人が迷い出たとは考えにくいし、頼朝流刑地近くには源氏の縁者も多いから飢えるほどの境遇ではない。
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頼朝の乳母比企尼の在所(地図)から毛呂山までは約20kmなので、可能性としては例えば比企尼を訪ねた折、などの接点が考えられそうだ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月18日
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠が報告、丹党と兒玉党が合戦に至りそうだった状態を制止するため双方を説得した。両党とも和平に同意して互いに兵を退いた。
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   ※重忠の立場: 重忠の本領は両党の南東側に接する畠山(現在の深谷市畠山・地図)だった事(ただし居館は
約13km南東の菅谷・地図)と、義経に連座して文治元年(1185)11月に誅殺された河越重頼が持っていた秩父氏惣領家伝来の武蔵国留守所総検校職(本来は武士の動員権を持つ一種の名誉職)を重忠が引き継いでいた事が仲裁に適任と判断されたのだろう。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月25日
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吾妻鏡
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平六左衛門尉北條時定が京都で死没した。時定は北條時政殿の腹心であり、目代と使節を兼ねて在京し多くの功績を挙げた。人々の惜しむ人物である。
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前左衛門尉平朝臣(49歳)、北條介時兼の息子。文治二年(1186)7月18日左兵衛尉に任ず。同五年(1189)4月10日左衛門尉(賀茂の臨時祭と祈祷の功績)に任ず。建久元年(1190)7月18日に職を辞す。
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   ※時定の詳細: 時政は保延四年(1138)生まれの43歳、時定の方が6〜7歳年上になる。時政と時兼は兄弟
(つまり時政の甥が時定)とされているから当然ながら時兼は時政の兄、しかも20歳以上も年の離れた兄になる。例え庶兄だとしても20歳以上も年下の時政が家督を継ぐのは不自然で...北條氏の系図は時政の親の世代から正統性に疑問が生まれてしまう。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月27日
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吾妻鏡
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先般から決まっていた鶴岡八幡宮の宮寺舞殿の建造が始まった。奉行に任じたのは二階堂行政、将軍家(頼朝)がこれを視察した。
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   ※舞殿(舞台): 建久二年(1191)3月4日に焼け落ちるまでの八幡宮本殿は現在の大石段の下にあり、左右に
回廊(文治二年(1186)4月8日に静が舞った場所)が伸びていた。同年11月21日に新しい神殿が完成し、元の本殿があった位置が舞殿になる。 (境内案内図(公式サイト)を参照)
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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2月28日
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吾妻鏡
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京都の警衛(大番役)に任じる御家人に対する褒賞は関東近辺での任務に従っている御家人よりも手厚くするように指示が下された。

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   ※京都大番役: 地方の武士に京都の警護を負荷(旅費を含めた経費は全て自費負担)させたシステム。
東国武士には大きな負担となる反面、地方の武士が公家や朝廷との結び付きを強め官位を得て支配権の権威を強めたり、都の文化を郷里に持ち帰り伝播する側面もあった。
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それとは逆に、惣領が在京している間に同族に支配権を収奪される例(工藤祐経の在京中に葛見荘の支配権が 伊東祐親へ)や、大きな事件の際に決裁権が発揮できない例(畠山重能が在京中で勝手な決裁ができない重忠が平家に従わざるを得なかった)などの弊害も存在した。
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覇権を握ってからの頼朝にとっては御家人の負担軽減と共に、朝廷と御家人を軽い関係に留める目的もあり、任期は平安時代後期の3年→ 半年→ 三ヶ月に短縮された。ただし「御恩と奉公」の一端として鎌倉での警護などに任じる「鎌倉大番役」が新設されている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月1日
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吾妻鏡
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若公の万寿(後の頼家)、由比ヶ浜で小笠懸を行った。結城七郎朝光が補助に任じた。
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   ※小笠懸: 埒(馬場の柵)の左1杖(2.3m前後)に置いた地上に置いた4〜8寸(12〜24cm)の的を射る。
この時の頼家は満10才と6ヶ月で元服はまだだが、もう子供ではない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月2日
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吾妻鏡
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東大寺の造営作業に充てる供米の取り扱いは厳正な処理を心掛けよと周防国の地頭に命令を下した。
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   ※周防国: 画像左半分の山口市を含まない西側が長門国、山口市
を含む東側が周防国だった。
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周防国国府は佐波郡(現在の防府市国衙・地図)、すぐ近くの 国分寺(防府市のサイト)は平安〜室町時代の仏像数十体が保存されている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮法会(上巳の節句)が行われ将軍家も参席。神楽の奉納は従来の通りだが、八幡宮別当・供僧・門弟ならびに御家人の子息らがこれを演じた。
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   ※上巳の節句: 3月3日は五節句の一つ・上巳(じょうし)の節句。禊(みそぎ)行事と宮中の雛遊びが混じり合い
汚れを人形に託して流す「流し雛」に変化したらしい。この時代は「女の子の節句」ではない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月4日
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吾妻鏡
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来月13日は後白河法皇 の一周忌法要である。鎌倉で千僧供養を行なうため、当日は各々参上せよとの命令を寺々に告知した。鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺・伊豆山権現・箱根権現・高麗寺・大山寺・観音寺 などである。
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   ※寺の名: 前年の5月8日に後白河院の四十九日法要を行った寺院(永福寺のみ未完成)と重複する。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月9日
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吾妻鏡
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那須太郎光助が下野国北條の一村を拝領した。これは来月に那須野での遊猟を予定しているため、その費用を賄うための措置である。
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   ※那須光助: 那須氏の系図は錯綜が激しいため殆どが信頼に値しない。一応は資隆の十男または十一男宗隆
が与一とされており、その異父弟頼資の子が光助(系図では光資)らしい。
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   ※下野国北條: 那須一族の本拠である与一所縁の那須神社から約25km北、現在の那須高原別荘地に北条
の地名が残る(地図)。もちろん北條氏とは無関係。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月12日
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吾妻鏡
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江間殿(北條義時が病気で静養していた伊豆国から鎌倉に戻った。
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   ※江間の義時邸: 韮山の北條邸から狩野川を超えた西側に伝・義時邸の跡がある。痕跡すら残っていないが、
一応の一門菩提寺とされる北條寺から300mの徒歩圏、時間があれば訪問を。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月13日
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吾妻鏡
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後白河院一周忌法要の千僧供養である。布施は一人に白布二反・藍染の布一反・象牙一袋、武蔵守平賀義信がこれを差配した。まず宿老の僧十人を決めて頭とし、各々が百人の僧を伴い道場で法要を行った。饗応と布施を差配するため百人毎に二人の担当者を派遣している。
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一方の頭は若宮別当法眼(百僧が従う) 奉行は 大和守重廣 と 大夫屬入道善信
一方の頭は法橋行慈(百僧が従う) 奉行は 主計允行政 と 堀籐太(堀親家の庶兄)
一方の頭は法眼慈仁(百僧が従う) 奉行は 筑後守俊兼 と 廣田次郎
一方の頭は法眼厳耀(百僧が従う) 奉行は 法橋昌寛 と 中四郎惟重
一方の頭は法眼定豪(百僧が従う) 奉行は 民部丞盛時小中太光家
一方の頭は密蔵房賢□(百僧が従う) 奉行は 左近将監能直 と 前武者所宗経
一方の頭は阿闍梨行実(百僧が従う) 奉行は 籐判官代邦通 と 九郎籐次
一方の頭は阿闍梨義慶(百僧が従う) 奉行は 比企籐内朝宗 と 玄番助成長
一方の頭は阿闍梨求佛(百僧が従う) 奉行は 左衛門尉足立遠元 と 法橋義勝房成尋
一方の頭は阿闍梨専光(百僧が従う) 奉行は 善隼人佐康清 と 前右馬允宗長
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   ※中四郎惟重: 同じく治承四年8月20日の頼朝挙兵名簿に載っている中八惟平の兄だが、出自が判らない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月14日
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吾妻鏡
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東大寺の修造工事について、文覚上人に播磨国(兵庫県南西部)の管理を委ね、その年貢を充当させるようにとの命令が将軍家から下された。工事全体の進捗が滞っている事への対処である。
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   ※播磨国: 元暦元年(1184)〜建久十年(1199)の播磨国守護は梶原景時 、国主は確認できない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月15日
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吾妻鏡
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近日中に那須野で遊猟を行なう予定があるため、(駿河国)藍澤に設けてある屋形などを解体し下野国に運ぶよう、宿場の人足らに命令が下された。

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   ※藍澤原: 足柄峠の西麓一帯、現在の御殿場市東部。承久の乱(1221)に関与した藤原宗行卿がここで斬首
され、各地で斬られた五人の公卿を合祀した藍沢五卿神社・(地図)がある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月16日
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吾妻鏡
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平家に与していた越中次郎兵衛尉盛継らが(京都の)近国に潜伏しているとの噂がある。早急に見付け出して追討せよとの命令を兵衛尉後藤基清に下した。

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   ※越中(平)盛継: 平家の侍大将で屈指の武者と呼ばれた盛俊(一の谷で猪俣範綱に騙し討ちされた)の次男。
歴戦の末に壇ノ浦から但馬国に落ち延びて隠遁生活を送っていたが建久五年(1194)に発見されて捕縛、由比ヶ浜で斬首された。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月21日
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吾妻鏡
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故・後白河院の一周忌が済むまでは諸国の狩猟を禁止していたが、その期間は既に過ぎ去った。将軍家は下野国那須野や信濃国三原などの猟場を訪れるため、今日鎌倉を出立した。
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以前から狩猟に熟達している者を招集し、その中から騎射に優れ忠義心の篤い御家人22人を選んで弓箭を携帯させた。その他の全員には弓箭の携帯を許さず、騎馬による勢子に任じるように定めた。その22人は次の通り。
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   ※信濃国三原: 浅間山の北麓、現在の群馬県吾妻郡長野原(地図)。古来から西吾妻の一帯は三原と呼ばれ、
上野国ではなく信濃国に含まれていた。川原湯温泉は頼朝の巻狩りの際の発見と伝わっているが、吾妻鏡の記述では頼朝一行は三原に行かず、4月末に那須野から鎌倉に帰還している。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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3月25日
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吾妻鏡
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武蔵国の入間野で鳥の追い出し猟を行った。藤澤次郎清親が百発百中の腕を見せ、雉五羽と鶴(マナズル)二十五羽を射て名を揚げた。将軍家は感心して乗っていた馬(名は一郎)を自ら引いて清親に与えた。
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これは祖先の源頼義将軍が安倍貞任を討伐した後に遊猟を楽しみ、その際に清原武則が一本の矢で二羽を射落し、頼義が自ら馬を引いて与えた、その故事を思い出したもの。騎射の極意とは鳥猟の見事さに現れる、と。
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   ※入間野: 奥州街道が現在の狭山市を通っていた。義仲の息子清水冠者義高が鎌形を目指して逃げたルート
であり(義高最期の地を参照)、元弘三年(1333)5月には鎌倉幕府の討伐をを目指した新田義貞の大軍が小手指ヶ原の合戦場を目指して入間川を渡った場所でもある。
入間野はこの奥州街道(後の鎌倉街道)に沿った狭山市と入間市のエリアだろう。
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   ※鳥の追出し猟: 私が若い頃の知人の実家が栃木県の大田原で、鳥撃ち(もちろん弓箭じゃなく散弾銃)に同行
した事があった。藪に隠れている野鳥(キジなど)を見付け、主人の準備を確認して追い出すのは近隣でも知られた名犬なのだが、二度続けて撃ち損なうと主人を置いて家に帰っちゃうんだよね。犬もこの位になると名犬の域を超えている、と思った。遠い昔の思い出。
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   ※頼義が与えた: 前九年の役で安倍貞任を倒せなかった頼義は「出羽の清原氏に臣下の礼を以て援軍を懇請」
したことになっている(陸奥話記を参照)。歴史の流れから推測すれば「贈った」であり、「与えた」は一種の曲筆で、編纂者の見栄。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は那須野を巡覧し、昨夜のうちに勢子を配置した。 左衛門尉小山朝政と 左衛門尉宇都宮朝綱と右衛門尉八田知家が各々千人の勢子を、那須太郎光助が食事を手配した。
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   ※勢子: 原則として猟場の風上から射手が待ち伏せる風下へ獲物を追い立てるのが勢子の役目。我が家の近く
でも冬になると猪の追い込み猟(昔で言う巻狩り)が行われる。農業被害を防ぐのが目的だが、撃たれて動けなくなった猪が猟犬に囲まれて悲鳴を挙げる、その声を聞くのは決して楽しいものではない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月11日
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吾妻鏡
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住吉神社の神主昌助頼朝留守中の御所を訪れて女房に申し伝えた。先月の故後白河院一周忌の恩赦により赦免の官符(太政官布告)が発行されたとの報告である。去る治承三年(1179)5月3日に伊豆国配流となり、赦免の手続きがないまま頼朝に仕えていた人物である。
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   ※佐伯昌助: 治承四年(1180)7月23日の吾妻鏡に次の記載がある。
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佐伯昌助は筑前国住吉社(公式サイト)の神官で、去年の5月3日に伊豆国に流罪となっていた。
それ以前の治承二年(1178)1月3日に同じ神社の神官だった昌守も伊豆国に流されていた。
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昌助の弟の住吉小大夫昌長が初めて頼朝に拝謁、また伊勢神宮(公式サイト)神官の子孫で、最近は 波多野義常の許に滞在していた永江蔵人大中臣頼隆も共に拝謁した。最近になって義常と疎遠になったため訪れた者である。この二人は普段から源氏に尽くす立場を守っており、神職として頼朝の祈祷に任じる意思を抱いている。

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その後もどこかで名前を見たような気もするが...10年ぶりの懐かしい名前。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月13日
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吾妻鏡
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二男の若公(千幡→ 実朝、約七ヶ月)が急病で大騒ぎになったが間もなく回復した。
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   ※実朝: 前年の12月には疱瘡を患っているし再三発病しているし子種も無かったらしい。頼家は健康だが大姫
乙姫(三幡)も病弱で早世...頼朝政子も病歴がない事を考えると前世の宿縁を疑いたくなるね。
特に政子なんか、産んだ息子と娘の全員が先に死んでいるんだもの。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月19日
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吾妻鏡
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昼間の12時前後に左衛門尉工藤祐経の家が全焼した。類焼はしなかったが、新築して38日しか経っていない建物である。主人の祐経は頼朝の遊猟に従い下野国に出掛けて留守だった。
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   ※祐経の家: 材木座の弘延山実相寺(地図)境内が祐経屋敷跡と伝わる。文永八年(1271)に日蓮の直弟子・
日昭(Wiki)が創建した寺で、日昭は祐経の孫とも言われるが、系図上の確認は取れない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月23日
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吾妻鏡
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那須野などでの遊猟がようやく終わり、藍澤から運んだ宿舎は再び解体して駿河国に運ぶことになる。
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   ※藍澤: 3月15日に場所などを記載してある。那須野から奥州街道経由で約270km、移動も大仕事だ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月28日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)が上野国から還御した。(那須野を出てから)式部大夫入道上西(源義国)の息子新田大炊義重の新田館に立ち寄り、そこから直接鎌倉に戻ったと。
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   ※新田館: 大田市寺井町(地図)付近と伝わるが、義国と義重に関する史跡は約10km南の新田荘南部地区、
(世良田〜岩松地区)に集中しており、特に義重が石清水八幡宮を勧請した岩松八幡宮・(地図)の一帯や義国の墓所がある青蓮寺地図)周辺の可能性が高いと思う。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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4月29日
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吾妻鏡
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先月12日の恩赦により流人の赦免が行われた。左衛門尉佐々木定綱もその中に含まれていると一條能保から連絡が届いた。また彼の弟経高盛綱らも同様である、と。将軍家の喜びは大きかった。治承四年に挙兵してから多くの勲功を重ねた貴重な御家人だったが、比叡山の訴えを受けて一昨年から薩摩国に流罪となっていた者である。
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   ※定綱の流罪: 事件の詳細は建久二年(1191)5月8日の院宣を参照されたし。定綱は薩摩・嫡子廣綱は隠岐
流罪、定綱の次男定重は比叡山衆徒に引き渡されて梟首となった。
記事の文面では経高と盛綱も流刑になった如くに見えるが、この二人は関与していない。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月1日
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吾妻鏡
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常陸国の鹿島神宮(公式サイト) は二十年に一度の式年遷宮が決められているが、去る安元二年(1176)に遷宮してから去年で二十年が過ぎている。多気太郎義幹ら神領を知行する輩の過怠により造営が著しく遅延しているため、将軍家が特に気を配り、造営奉行の伊佐為宗と小栗重成らに不快の意を示している。
右衛門尉八田知家に命じて、来る7月10日の例祭の前に工事を完成させるよう指示を下した。
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   ※式年遷宮: 前回が安元二年なら次の遷宮は建久七年(1196)に
なる。この誤解の原因は判らないが、頼朝に何らかの意図があった可能性を考えるべきか。
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   ※多気義幹: 常陸平氏大掾氏の惣領。頼朝挙兵当初の多気一族は
越後平氏(城一族)や佐竹氏と共に平家に属したたが、佐竹氏の敗北後は頼朝に帰服した。
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義幹の祖父致幹(多気権守宗基)の娘が源頼義の女子を産み、彼女は海道平氏から清原真衡(出羽国司・平安忠の次男)の養子となった成衡と婚姻した。
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源氏と平氏双方の血脈を受け継いで家格を挙げる意図は同時に清原の血脈を閉じる事に通じるため、結果としてこの婚姻が後三年戦役の引き金となる。
詳細は後三年の役と金澤の柵を参照されたし。
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しかし元々八田氏と多気氏の勢力エリアは重複しており、常陸からの多気氏駆逐を狙う八田知家の讒言などにより、多気一族は分家の一部を残して失脚することになる。
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   ※伊佐為宗: 常陸国伊佐郡(茨城県筑西市)を本領とした常陸入道念西貞暁を産んだ大進局の父)の子。
父と共に奥州合戦で勲功を挙げ、一族は恩賞の伊達郡(福島県北部)に土着して伊達氏の祖となった。為宗は伊佐郡に留まり、承久の乱(1221年)に従軍し宇治川合戦で討死している。
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   ※小栗重成: 常陸大掾氏の庶流で筑西市北西端の小栗城(地図)に本拠を置いた武士。治承戦乱以後は概ね
多気氏と行動を共にしており、建久四年以後の消息は明確でない。
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右画像は茨城県(旧常陸国)の行政区分地図。 クリック→拡大表示
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月2日
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吾妻鏡
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北條時政殿が駿河国に下向した。これは(頼朝が予定している)狩場の状態を確認するためである。宿舎の設営などを伊豆と駿河の御家人に指示し、狩野介宗茂と共に準備せよとの意向に従って出向いたものである。
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   ※狩野介: 宗茂の祖父狩野祐隆が駿河から伊豆に入り狩野川冬瓜の日向館に本拠を構え、祐隆または嫡子の
狩野茂光が対岸の柿木に移って要害の柿木城(狩野城)を構えた。
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現在見られるのは大部分が南北朝時代以後の遺構だが、茂光が伊豆韮山の流人だった頼朝を招いて観月の宴を催したと伝わる「古屋敷」の地名などが残っている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月7日
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吾妻鏡
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所衆の大江行義の娘が美作国に所有している土地の年貢を梶原刑部丞友景(景時の末弟・「秩父平氏の系図」を参照)に奪われた旨の訴えがあり、中納言 吉田経房の口添えもあったため、友景を呼んで決裁を下した。
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友景の陳述には違法行為は認められないが「友景はこの土地を失っても困らないけれど訴人は侘際(貧困)であり、まして中納言の意向もある。理屈を忘れて代官を撤去させるべきだろう」と友景に指示した。友景は直ちに了承し、特に拘わる様子も見せなかったため潔癖な姿勢であると褒められ、訴人である大江行義の娘も悩み事が解消した。
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   ※所衆: 天皇家の家政全般を取り扱う蔵人所(wiki)に属する職員。別当・頭・五位蔵人・六位蔵人の四等官と
下位の職員で構成する。
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   ※美作国: 岡山県北部。平家全盛の頃は平氏知行国で、梶原景時の守護→ 和田義盛の守護を経て北條氏の
領国となった。足利氏所有の記録がある荘園が多く散在する。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月8日
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吾妻鏡
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将軍家は富士野と藍澤での夏の遊猟を楽しむため駿河国に赴いた。
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江間殿上総介伊豆守小山左衛門尉同五郎同七郎里見冠者佐貫四郎大夫畠山次郎三浦介同平六兵衛尉千葉太郎左衛門尉三浦十郎下河邊庄司稲毛三郎和田左衛門尉榛谷四郎・浅沼次郎・工藤左衛門尉土屋兵衛尉梶原平三同源太左衛門尉同平二・同三郎兵衛尉・同刑部丞・同兵衛尉・糟屋籐太兵衛尉同平次・岡部三郎・土岐三郎・宍戸四郎・波多野五郎河村三郎愛甲三郎加藤太同籐次海野小太郎藤澤次郎望月三郎・小野寺太郎・市河別当・沼田太郎・工藤庄司同小次郎・禰津二郎・中野小太郎・佐々木三郎同五郎渋谷庄司小笠原次郎武田五郎らが供として従った。その他にも射手に任じる者が多数集結している。
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   ※他の武士: 浅沼次郎は佐野氏(藤姓足利氏)の阿曽沼四郎廣綱。父は足利俊綱の弟有綱の子佐野基綱
基綱が寿永元年(1182)築いた阿曽沼城(佐野市・地図)に本拠を置いて佐野氏に仕え、藤姓足利氏滅亡後は鎌倉御家人となった。
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三郎兵衛尉は景茂梶原景時の三男で景季景高の弟。刑部丞は朝景 、景時の末弟。兵衛尉は景定(役野景貞)で朝景の嫡子。
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岡部三郎は不明。武蔵猪俣党の岡部氏系か、工藤氏系の駿河国岡部郷の武士か判別できず。
土岐三郎は美濃源氏の武士だが詳細は不明。宍戸四郎は八田知家の四男で宍戸氏の祖。
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小野寺太郎は道綱、本拠は下野国都賀郡小野寺(地図)で当初は 知盛に従って宇治川合戦では三位頼政親子と戦い、後に鎌倉御家人となった。承久の乱の宇治川合戦で戦死、享年68歳。
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市河別当は行房。武田義清の末弟(源義光の末子)で圓城寺(三井寺)の覚義阿闍梨が父が国司に任じた縁のある甲斐国に土着して平塩寺(地図)の隆盛に寄与し、嫡子覚光と嫡孫の行房が平塩寺別当職を務めた。義清の甲斐土着を援助した。詳細は甲斐市河荘の末尾を参照されたし。
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沼田太郎は上野国利根郡の沼田城(地図)を本拠にした武士。文治元年(1185)10月24日と建久元年(1190)11月7日の随兵に記載がある。
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禰津二郎は信濃国小県郡禰津(東御市祢津・地図)を本領とした武士で海野氏・望月氏と並ぶ信濃の名族・滋野三家の一つ。一族の結束が強く、多くの勇猛な武士を輩出したことでも知られる。
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中野小太郎助光は信濃国中野の武士。建久十年(1190)11月7日の頼朝上洛の随兵に記載がある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月10日
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吾妻鏡
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前少将従四位下・平朝臣信時が鎌倉で死去した。
日頃から将軍家が配慮を加えていた人物で、大納言平時忠卿の息子である。平氏が滅亡する前に継母の讒言によって安房国に左遷されていたが、一族の滅亡後に頼朝に仕えていた。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月15日
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吾妻鏡
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藍澤での遊猟が終わり、将軍家は富士野の仮宿に入御した。南に面して五間(5スパン)の仮屋を建て、御家人の宿舎も軒を連ねている。狩野介宗茂は途中で合流し、北條時政殿は前もって到着し食事の準備を済ませていた。
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今日は齋日に当るため狩りは行わず、終日の酒宴である。手越宿と黄瀬河宿周辺の遊女が大勢集まり、頼朝は里見冠者義成を呼んで遊君別当を申し付けた。少し騒々しくなったため、別の場所に集めさせ歌舞に長じた者を選んで招きに応じさせよ、と命じた。この後は遊女に関する問題は全て義成が取り仕切ることになる。
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   ※仮宿: 狩宿の地名が残っている、(地図)。曽我の仇討ちの舞台。
曽我兄弟の足跡の後半を参照のこと。
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   ※齋日: 仏教思想に基づき殺生を禁じる日。前半の8日・14日・15
日と、後半の23日・29日・30日が該当する。
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   ※里見義成: 新田義重の庶長子でこの時は26歳。遊君別当は言葉
遊びで、宴会奉行兼・女性の割当担当を意味する。
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   ※手越と黄瀬河: 共に東海道の宿驛で、当時から江戸時代末期まで
(その後も、か)大勢の遊女がいたと伝わる。狩宿から約50km離れた手越と、約40km離れた黄瀬川(共に地図)。かなりの距離で、遊女さんの生活も色々と大変だね。
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右画像は頼朝の宿舎跡「狩宿」の鳥瞰。画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月16日
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吾妻鏡
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富士野の遊猟で将軍の家督を継ぐ若君(頼家)が初めて鹿を射止めた。愛甲三郎季隆が巧みに鹿を追い込み誘導した結果である。頼朝はこれは勲功に値すると、左近将監大友(古庄)能直を経て内々に季隆に伝えさせた。
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この事で今日の狩りは終わり、夜になって山神に矢口(狩りの始まりを意味する儀式)を祀り、江間殿北條義時が三色の餅を献じた。折敷(盆)の左に黒色の餅を三つ・中に赤色を三つ・右に白色を三つである。長さ八寸・巾三寸・厚さ一寸の折敷が三組である。狩野介宗茂が勢子に渡す餅を献じ、将軍家と若公は行騰(袴の覆い)を篠の上に敷いて座した。上総介足利義兼・江間殿・三浦介義澄らが列座した。
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この中から鹿狩りの際に眼に留まった射手三人を選び矢口餅を与えた。工藤庄司景光愛甲三郎季隆曽我太郎祐信らである。源太左衛門尉梶原景季・左衛門尉 工藤祐経海野小太郎幸氏が餅の膳を御前に並べて置いた。
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先ず工藤景光が呼ばれて御前に進み、蹲居して白餅を中に置き、赤餅を取って右に置いた 。その後に三色を各一つ取って重ね(黒が上・赤が中・白が下)、中・左・右の順に三口食べ、小さく矢叫びを発した。続いて愛甲季隆、作法は景光と同じだが餅の置き方は最初の通りで並び替えをしない。
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次に祐信を召し、「最初の二口は特に優れた射手を選んだが、三口目はどうするべきか」と問うた。祐信はそれに答えず、同じ作法で三口の餅を食べた。頼朝は「私の問いに気の利いた返事をしてから食べるべきなのに、それをせず勝手に食べたのは残念である」と仰せられた。
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次に三人に各々鞍を置いた馬と直垂を褒美として与え、三人は馬・弓・狩りの矢・行騰・沓(くつ)を若公に献上した。やがて列座した者に酒が行き渡って全員が酩酊、勢子などを務めた者たちを呼んで各々十字の付いた饅頭を配って労をねぎらった。
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   ※伝承: 頼朝は白糸の滝を見物し、水面を流れる花を見て一首を詠んでいる。出典不明、なんだけど...。
        この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝
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この和歌が八幡宮で舞った静の歌と重なるから面白い。詳細はオダマキの花(別窓)で。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月22日
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吾妻鏡
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将軍家は若公が鹿を射止めた事が嬉しくて平次左衛門尉梶原景高を鎌倉に送り御台所政子にこの経緯を報告させた。景高は鎌倉に駆けつけ、女房を通じて御台所に報告したところ特に喜びなどはなく、使者は面目を失った。
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「武将の後継者として原野の鹿や鳥を射止めるのは騒ぐ程のことではない、そんな使者は煩わしいだけ」が返事だった。景高は富士野に戻り、今日その内容を報告した。
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   ※政子の対応: このクールさが政子の真骨頂なのだが...頼朝の意図には「始祖の逸話」という背景がある。
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清和天皇の第六皇子貞純親王の子・六孫王経基は文武の道に優れた才能を発揮した。
武将の才覚があると考えた帝は源の姓を下賜して臣籍降下を許し、皇子は源経基と名乗って清和源氏の祖となった。後に経基は内裏に侵入した怪しい鹿を射止め、更に謀反の首魁藤原純友を討伐して武名を挙げた。

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頼朝はこの逸話を前提にして将軍を継承する「頼家の天賦の才」を伝えたかったのだが。
田舎育ちの政子が250年も前の逸話なんか知る筈がない、木で鼻をくくるような返事になったというお話。育った環境の違う夫婦間の溝...現代なら価値観の違いとでも言うべきか。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月27日
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吾妻鏡
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未明から勢子を配置して終日狩猟を行い、射手は各々競って自慢の技を披露した。
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ここで、見た事もないほどの大鹿が頼朝の馬前に走り出た。工藤庄司景光(作與美(粗く織った麻布)の水干を着し鹿毛の馬に駕す)は頼朝の左方で「この鹿は景光の獲物、私が射取ります」と望み、頼朝はこれを許した。
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もとより手練の射手なので周辺の者は馬を抑えて見守り、景光は少し体を開いて弓手の鹿に最初の矢を放ったが当たらず、鹿は一段(約10m)ほど前を駆け抜けた。景光は馬に鞭を入れて鹿を追い掛け二の矢と三の矢を放ったが、これも当たらない。景光は弓を捨て、馬を止めて語った。
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11歳の頃から狩猟をして暮らし、既に七旬(70年)を越えたが弓手の獲物を射損じたことはない。しかし今は心身が定まらず甚だ落ち着けなかった。これは山神 が跨った鹿に違いない、私の運もこれまでか。
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見ていた者も奇異の念に囚われたが、夕暮れの頃に景光が発病した。頼朝は「奇怪である、狩りを中止して帰るべきか」と言い、宿老たちはそこまで考える必要はないと応じたため、明日から七日間は巻狩りにしようと決めた。
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   ※山神: ひょっとして、「もののけ姫」のあのシーンを思い出した人がいる、かもね。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月28日
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吾妻鏡
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子刻(深夜)、故伊東次郎祐親法師の孫である曽我十郎祐成と同五郎時致が富士野の神野の狩宿(地図)に推参し左衛門尉工藤祐経を殺した。また、同宿していた備前国の住人吉備津宮(公式サイト)の王籐内 も殺された。
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同じく同宿の手越の少将と黄瀬河の亀鶴らが泣き叫び、祐成兄弟は大声で父の敵を討ったと名乗ったため周辺は大騒ぎになった。子細が判らないままに宿泊していた大勢の侍が飛び出して暗闇の中を走り回り、祐成兄弟によって多くの者が負傷した。平子野平右馬允・愛甲三郎・吉香小次郎・加藤太・海野小太郎・岡部彌三郎・原三郎・堀籐太・臼杵八郎が疵を負い、宇田五郎が命を落とした。
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十郎祐成は新田四郎忠常と斬り合って落命し、五郎時致は頼朝の宿舎を目指して走った。頼朝は剣を取って立ち向かおうとしたが、左近将監大友(古庄)能直がこれを制した。
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この間に小舎人童の五郎丸が曽我五郎を捕獲し、大見小平次に召し預けられて騒ぎが鎮まった。和田義盛梶原景時が頼朝の指示を受けて祐経の死骸を検分した。左衛門尉藤原朝臣祐経、工藤瀧口祐継の息子である。
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   ※王籐内: 平家の家人瀬尾太郎兼保(備前国で木曽義仲軍と激戦
を繰り返し討死)に与した嫌疑で拘留されていた武士で、吉備津宮の神官。祐経の協力によって嫌疑が晴れ、去る20日に没収されていた本領の返還を得たため、仮宿に立ち寄り謝礼を兼ねた酒宴の後に同宿していた。
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   ※黄瀬河の亀鶴: 沼津の黄瀬川には亀鶴の後日談が残っている。
真偽は不明だが、黄瀬川の風景の末尾に詳細を載せておいた。
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   ※他の情報: 仇討事件に関しては曽我物語が虚実取り混ぜて記述
している。詳細は曽我の仇討ちで。
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         右画像は祐経宿舎跡の祠。画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月29日
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吾妻鏡
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辰刻(朝八時前後)に曽我五郎を狩宿前の庭に引き出し、頼朝が出御した。幔幕二間を引き上げ、主だった御家人10数人が列座した。
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一方は北條時政・伊豆守山名義範・上総介足利義兼北條義時・豊後前司毛呂季光里見冠者義成三浦介義澄畠山次郎重忠・左衛門尉佐原十郎義連伊澤五郎信光小笠原次郎長清、一方は左衛門尉小山朝政下河邊庄司行平稲毛三郎重成長沼五郎宗政 榛谷四郎重朝千葉太郎胤正彌三郎頼綱 らである。
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結城七郎朝光と左近将監大友(古庄)能直が御前の左右に、和田左衛門尉義盛梶原平三狩野介宗茂と新開荒次郎らが両座の中央に控えた。その他にも数え切れないほどの御家人が集まった。
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まず、狩野介宗茂と新田荒次郎を介して夜討ちの本意を尋ねさせたが五郎は「祖父伊東祐親が殺されてから子孫は零落したが、最後の所存を申し述べるのに汝らを介する必要はない。直接言上するから早く退け」と怒った。
将軍家は思う所があって言い分を直接聞くことにした。
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五郎の曰く、「祐経を討ったのは父が殺された恨みを雪ぐためで、ついに志を遂げることができた。祐成が九歳で私(時致)が七歳の時から片時も仇討ちの思いを忘れず、遂に宿願を果たした。その後に御前を目指したのは祐経が寵臣であるのみならず祖父の祐親を排斥したなどの恨みを言上してから自殺するためである。」と。聞いていた者は舌を鳴らして感動した。
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次に新田四郎忠常が祐成の首を運んで五郎に見せ、兄に間違いないと認めた。五郎の勇気に感動した頼朝は赦免も考えたが、祐経の幼息(犬房丸・後に伊東家を継いだ祐時)が泣いて願い出たため五郎(20歳)を引き渡し、鎮西中太郎なる者が首を斬った
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この兄弟は河津三郎祐泰(祐親法師の嫡子)の息子である。祐泰は去る安元二年(1176)10月の頃に伊豆奥野の狩場で郎党の矢に当り落命した。祐成が五歳で時致が三歳、成人して祐経の指示だったと知り恨みを晴らした。
それまでは狩りを催す度に従者の中に紛れ込み、影のように祐経の隙を伺っていた、と。
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また、手越の少将らを召し出して前夜の子細を尋ねた。祐成兄弟の所為であり、見聞したことを全て申し述べた。
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   ※長沼宗政: 小山政光の五男で朝政の同母弟、結城朝光の異母弟。下総長沼(現在の成田市)を本拠に下総
長沼氏の祖となった。承久の乱の勲功で淡路守護に任じ、陸奥国(須賀川)と武蔵国(稲毛)にも所領を得ている。
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   ※彌三郎頼綱: 後に宇都宮氏五代当棟梁を継承する頼綱。三代当主朝綱の孫で四代頼業の嫡子。
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   ※新開荒次郎: 土肥實平の次男實重が大里郡豊郷村(深谷市新戒・地図)の土豪新開忠氏の養子になった。
新開忠氏は頼朝が土肥から安房へ舟で逃れた「七騎落ち」の一人とされるが真偽は不明。
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   ※自殺の計画: これは信用できない。兄弟は祐経を殺し機会があれば頼朝も...と考えていた、と思う。
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   ※時致斬首: 曽我兄弟の墓などの遺跡は曽我兄弟の事跡に詳細を記述してある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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5月30日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)、雑色の高三郎高綱が飛脚として富士野から鎌倉に到着。これは祐成らの狼藉に関して御台所に報告するためである。
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また祐成が時致最後の様子を母親の許に送る書状を見たところ、幼い頃から父の仇を討つ願いを抱いていたと書いてあった。頼朝は感涙を拭ってこれを読み、長く文庫に保管せよと命じた。
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   ※母親の許: 曽我祐信の所領。館跡をはじめ様々な史跡やら偽物
やら、玉石取り混ぜて種々雑多に残っている。
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ちなみに、曽我物語によれば仇討の際には「我らは曽我に非ず、河津の子」と名乗った、としている。養父や母に累が及ぶのを避けたか、河津一族の矜持か。
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      兄弟の故郷は花の町河津、曽我荘に残る遺跡は曽我の仇討ち事件で。
      右画像は曽我に残る兄弟の生母・満江の墓石。画像をクリック→ 曽我 満江の墓所・法蓮寺へ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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曽我十郎祐成の愛人大磯の遊女(名は虎)を呼び出して調べたが、特に罪に問うような疑いはなかった。また五郎には父の 河津三郎祐泰が死んだ5日後に生まれた弟がおり、九郎祐清(祐泰の弟)の妻が養育して僧になっていた。
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祐清が平家軍に加わり北陸道の合戦で討死した後に妻は幼児を連れて武蔵守平賀義信に再嫁し武蔵国府にいる。祐経の妻子は曾我兄弟との共謀を訴えたため、取り調べのため出頭を命じた。
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また兄弟の養父である曾我太郎祐信は連座に問われるのを酷く恐れていたが、共謀の事実がない事が判明した。
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   ※僧の出頭: 実際は武蔵国府ではなく(越後の国上寺(道の駅「国上」の後半を参照)で仏道修行中だったため
鎌倉への出頭は7月になる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月3日
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吾妻鏡
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遊猟の際には常陸国久慈郡の御家人も供として従っていたが祐成らの夜討ちに怖れて逃亡した。そのため所領などの没収処分を受けた。
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   ※久慈郡: 現在の茨城県太子町と常陸太田市が該当する。右の茨城県の行政区分地図を参照。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月5日
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吾妻鏡
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曽我兄弟の事件を知った近隣の御家人が鎌倉に集結したため近国が騒がしくなった。常陸国の大名である右衛門尉八田知家と多気太郎義幹は特に険悪な仲ではないが、領地を接して互いに権勢を競う関係である。
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事件を知って鎌倉に向かおうとした際に知家は策略を企み、下人を使って「知家が軍勢を集めて義幹を討とうとしている」と義幹に伝えさせた。義幹は防戦を準備し一族を纏めて 多気山城(外部サイト・地図)に立て籠り、常陸国が騒ぎになった。
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知家は再び雑色を派遣し「富士野の狩宿で事件があったため推参するが同道されるか」と申し入れた。義幹は警戒してこれを断り、更に防御を固めた。
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   ※知家の策略: 5月1日に鹿島神宮絡みで多気義幹の名前が挙がっている。一義的には八田知家の謀略だが
実際には頼朝も事前に承認した粛清だろう。下野は小山・宇都宮・足利の勢力に、常陸は八田・小田・結城の勢力に任せて政権の不安定要素を排除したいのが頼朝の本音。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月7日
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吾妻鏡
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頼朝は駿河国から鎌倉に還御した。その途中で曽我太郎祐信に供としての同行を免除し、更に曾我庄の年貢を免除し祐成兄弟の菩提を弔う費用に宛てよと命じた。兄弟の勇気に深く心を打たれたためである。
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   ※同行の免除: 御家人の義務を免除し兄弟の菩提を弔え、との指示。祐信夫婦は剃髪し供養の生涯を送った。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月12日
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吾妻鏡
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右衛門尉八田知家が多気義幹に野心の企みがある旨を訴え出た。頼朝はこれを聞いて驚き、義幹の出頭を命じる使者を派遣した。

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   ※頼朝の疑念: 全国を制覇しても弱小御家人の謀反を疑う...独裁者の宿命だけでは理解できない性格だ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月18日
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吾妻鏡
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曽我十郎祐成の愛人・大磯の虎は剃髪はしていないが墨染の袈裟を着している。祐成三七日の忌日を迎えて箱根山の別当行實の坊で法事を行い仮名文字の諷誦文(死者を追善する文)を奉じた。読経の布施は生前の最後に祐成が与えた葦毛の馬一疋である。今日出家を遂げ信濃国善光寺(公式サイト)に向かった。
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このときの虎女は19歳、のちに曾我兄弟の話を聞いた者は緇素(僧も俗人も)の誰もが涙を流した。
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   ※別当行實: 石橋山合戦に敗れた頼朝を匿った箱根権現の僧。
頼朝は土肥實平に、「世が落ち着いたら行實を箱根の別当に」と薦められ、その約束を守っている。治承四年(1180)8月24日の条を参照。
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   ※仇討ちの話: 吾妻鏡が編纂された鎌倉時代中期以後には事件の
詳細は東国に広がっていたはず。
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「この時の虎女は...」以下の部分は史料の転記ではなく、吾妻鏡の編纂者が当時の世相を追記したものだろう。虎女が語った兄弟の生涯が箱根権現の僧や布教の遊行僧や瞽女などにより全国に広まるのだが、これは南北朝時代を待つ必要がある。
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右画像は信濃善光寺の近くにある虎ヶ塚。彼女はここに庵を結び大きな石を置いて兄弟の菩提を弔った、と伝わる(地図)。まぁ真偽は判らないけれど。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月20日
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吾妻鏡
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10日に渉って日照りが続き農民が降雨を乞い願っているため、鶴岡八幡宮と勝長寿院と永福寺の供僧が雨乞いの祈祷を行った。三善康信が差配し各々に願書を渡した。
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   ※6月10日: 建久四年のこの日は西暦の7月10日に該当する。田植え直後の水不足だろうか。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月22日
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吾妻鏡
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多気義幹が呼び出しに従って参上し、三善康信と藤原俊兼らが奉行として知家を呼び対決させた。
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知家は「富士野の事件が起きたことを今月4日に知り参上する際に義幹を誘ったのだが、義幹一族は郎従と共に多気山城に立て籠って謀反を企てた。」と述べた。
義幹は陳謝したが明確な弁明はできず、城郭を構えて兵を集結させた事実は否定しなかったため、常陸国の筑波郡と南郡と北郡等などの所領を没収し、身柄は岡部権守泰綱の預かりとした。所領は今日のうちに馬場小次郎資幹に下賜され、因幡前司大江廣元がこれを差配した。
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   ※岡部泰綱: 駿河国志太郡の朝日山城(地図)に本拠を置いた藤原南家・駿河工藤氏の武士。工藤祐経や狩野
一族の遠戚に当る。
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   ※馬場資幹: 多気氏の同族。義幹の所領と常陸大掾職を継承し、のちに水戸城を築いて本拠とした。多気氏の
所領を狙った八田知家は思惑が外れたことになる。
蛇足だが、義幹の次男茂幹の子孫に新撰組創立者の芹沢鴨(出自は行方市玉造町)がいる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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6月25日
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吾妻鏡
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文覚上人が東大寺造営の費用として管理している国衙領を重源上人(東大寺再建の指揮者)が弟子や布施をした旦那を称する知人に分け与えているとの風評が届いた。事実であれば仏法に叛く行為である。
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将軍家の推挙を得て管理に任じている立場でそのような行動があれば世間の嘲りと責任は鎌倉に負わされる、そう考えた頼朝は注意を喚起するため刑部丞梶原朝景(景時の末弟)と安達新三郎清恒を京都に派遣した。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月2日
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吾妻鏡
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武蔵守平賀義信が呼び出した養子の僧(僧位は律師)が昨夜鎌倉に到着した。彼は曽我十郎祐成の弟で、日頃は越後国久我窮山(現在の国上寺・公式サイト)で修行していたため到着が遅れたものである。
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しかし斬首に処されるとの噂を聞き、甘縄の付近で念仏を唱えた末に自殺してしまった。梶原景時がこの旨を報告し、頼朝はこの結果を悔やんだ。元より斬首の意図などなく、ただ兄と同じ意志を持っていたか否かを確認しようと考えたに過ぎなかった。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月3日
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吾妻鏡
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小栗十郎重成の郎従が鎌倉に駆け付け、梶原景時を介して申し出た。
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主人の重成は現在鹿島神宮造営の差配に任じていますが、先頃から疲労が激しくて物狂いの状態になり、神託と称して意味不明の言葉を発しています。去る文治五年に奥州平泉で泰衡の倉庫を開き重宝などを確認した際に玉幡の下賜を願って拝領し氏寺に飾っていたのですが、毎夜夢の中に数十人の山伏が枕元に現れて玉幡を欲しがるのだそうです。この夢に十日以上も悩まされ続け、遂に心に異常を来たしたようです。
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これによって小栗重成の造営差配の任を解き馬場小太郎資幹に交代を申し付けた。彼は多気義幹の所領を拝領し、現在は既に常陸国の大名の立場である。
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   ※玉幡: 玉座や内陣などの軒の先に提げる装飾(参考画像)。重成は文治五年(1189)8月22日に平泉館の
倉庫調査を命じられ、見つけ出した玉幡と金華鬘などを氏寺の装飾にと望んで与えられている。
ちなみに小栗重成は5月1日に鹿島神宮造営の工事遅延について注意を受けていた。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月10日
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吾妻鏡
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凉しい海風に誘われて将軍家は小坪の辺りを周遊した。長江や太田和の者が干潟に仮屋を建てて迎え入れ酒と食事を献じた。供の人々は漁師と共に釣りに戯れたり弓射を楽しんだりして秋の日を楽しみ、黄昏に還御した。
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   ※小坪: 昭和30年代に鎌倉霊園(約17万坪・地図)を造成し、その残土で
小坪の岩礁地帯を埋め立てたのが現在の逗子マリーナ地域。
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埋め立てが完了するまでは、現在の小坪港前の信号から海前寺の崖下を通って六角の井に続く道路の部分(地図)が崖下を通っていた「小坪路」で、周遊は和賀江島(鎌倉時代中後期に造成した港湾施設)から小坪漁港のある浜辺周辺なのだろう。
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また現在の小坪隧道(地図の印)にも三浦と鎌倉を結ぶ古道の「小坪坂」が通っており、平家物語が描いた小坪合戦で「鐙摺に入った三浦義澄も小坪浜に取って返した。」ルートだと思う。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月18日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の陪従(楽人)である大江右近将監久家が多好方の薫陶を受け神楽の秘曲を会得するため事前に申し入れた上で上洛していた。今日更に多好方に書状を送り、宮人の曲が秘蔵なのは承知しているが、久家に伝授するのは頼朝に伝授するのと同様に考えて欲しいとの申し入れを行った。
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   ※多好方: 建久二年(1191)の10月25日、11月19日、同21日と22日、12月19日に関連記事あり。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月24日
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吾妻鏡
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横山権守時廣が一疋の異様な馬を引いて御所に参上した。足が九本、つまり前足が五本で後足が四本である。これは所領の淡路国国分寺(現在の南あわじ市役所近く・地図)近くで去る五月に産まれ、その報告を疑いながら取り寄せた、との事。頼朝は伊沢左近将監家景に命じて陸奥国外浜に放すよう申し付けた。
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周の国に伝わる三十二蹄は八疋の馬を合わせた寓話だが、一疋で九本の足は実に珍しい。しかし吉兆とも不吉とも判断はできないから千里の彼方に放すのが妥当だろう、と考えた。
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   ※横山時廣: 横山氏は武蔵七党の一つで本領は現在の八王子市、多摩丘陵の横に位置したのが横山の名称
になった、と伝わる。八幡太郎義家に従って後三年の役を戦った小野経兼が恩賞として武蔵国多摩郡横山庄と相模国下足柄郡を得て横山庄に住み横山を名乗ったのが最初で、守護神社は八王子市横山町の八雲神社(公式サイト・地図)。
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奥州合戦の文治五年(1189)9月6日に次の記載がある。
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(頼朝は)藤原泰衡の首を懸けさせた。康平五年(1062)9月、鎮守府将軍源頼義安倍貞任の首を獲った際に横山野大夫経兼に命じて客分の貞兼が首を受け取り、郎従惟仲の手により八寸の鉄釘で丸太に打ち付けた。 .この例に倣い、経兼の曾孫である小(小野)権守時廣に命じ、梶原景時から時廣の息子時兼が首を受け取り、惟仲の子孫である郎従の七太廣綱を呼んで首を懸けさせた。釘もまた、昔の例と同じである。
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   ※陸奥国外浜: 狭義には津軽半島東部の陸奥湾沿岸、広義には当時の支配北限を示す。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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7月28日
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吾妻鏡
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刑部丞梶原朝景が京都から鎌倉に帰参し、文覚上人からの書状を提出した。東大寺造営に資する供米を人に与えているとの訴えがあった件についての説明である。
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東大寺再興の志は意味深いものですが備前国の民は策を弄して納税を怠り命令にも従いません。そのため縁者を兵として国衙領に派遣し徴税に従事させました。恐らくはこれが讒訴に及んだ原因でしょう。
そんな連中は現世の救済も受けられず、来世では無間地獄に落ちるでしょう。
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そのような悪口が並べてあった。これは説明として充分ではなく、将軍の意には沿わない対応である。
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   ※意に沿わない: この件を続けて検討した形跡は見られない。文覚は私利を求めるタイプじゃないからね。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月2日
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吾妻鏡
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参河守範頼が起請文を書いて将軍に提出した。これは謀反を企てているとの噂について質問されたためである。起請文の内容は次の通り。
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私は鎌倉殿の代官として再三戦場に赴き、朝敵を追討し忠義を尽くして以来全く二心を持っていません。
子孫の将来についても忠節を尽くす考えです。御意に叶うべく行動してきたのは御存知の通りであり、疑いを受けるのは思ってもいない事です。今までも今後も不忠を抱かず、それは子孫にも固く戒め伝えるものです。
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万が一にも違背すれば。上は梵天や帝釈天、下界では伊勢・春日・賀茂、更に氏神である正八幡大菩薩などの神罰を受けるでしょう。謹慎して起 請文を提出いたします。    建久四年八月日    参河守源範頼
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この起請文を因幡守大江廣元を介して見た頼朝は特にその内容を咎め、廣元に指示を与えた。
     源の字を載せ一族を名乗るのは頗る立場を弁えておらず、起請文の体を成していないと使者に伝えよ。
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廣元は使者の大夫屬重能を呼んで内容を伝え、重能は次のように答えた。
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参州(範頼)は故左馬の頭殿(源義朝)の息子であり、御舎弟であるのは御存知の通りです。去る元暦元年(1184)の秋に平氏を討伐するため上洛した際には「舎弟の範頼を西海の追討使として派遣する」旨が書状に書かれており、後白河院に奏聞して官符に載せていますから、勝手に一族を称した事はありません。
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頼朝からはそれ以上の言葉はなかった。重能は退いて遣り取りの内容を伝え、範頼は狼狽した。
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   ※謀反の嫌疑: 保暦間記には「曾我兄弟の仇討の際に頼朝が討たれたとの誤報が届いて嘆く政子に範頼が
「私がいる限り鎌倉は安泰」と慰めた、これが頼朝の後継を狙う発言とされたのが発端」と記載している。これは保暦間記だけに見られる記述で、仇討と起請文提出には二ヶ月の間隔があり、何らかの作為が働いた可能性が高い。頼朝の粛清路線の一環に過ぎない、と考える。
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問題とすべきは、範頼に謀反を起こすだけの必然性が有り得たか、という事。比較的冒険心の乏しい行動に終始した範頼が勝算の乏しい謀反を計画する根拠は乏しい。
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   ※保暦間記: 「保」元元年(1156)の保元の乱から後醍醐天皇が崩御した「暦」応二年(1339)までの事件を
記述した歴史書。著者は不明だが足利尊氏に近い武士で、南北朝時代以前の成立と推定される。例えば頼朝の死因などで根拠の乏しい状況を記述するなど、全面的な信頼は置き難い。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月6日
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吾妻鏡
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宇佐美三郎祐茂が伊豆国より参上した。言いつけるべき事があって呼ばれたものである。
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祐茂は頼朝が気に入っている御家人であり、左衛門尉工藤祐経が横死したため近くに仕えるように命じられた。
この他にも信頼できる武士を周囲に集めたのは用心する必要ありと考えたためである。
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   ※用心の必要: これは次に起きる事件への布石。警戒したら案の定勃発した、と言いたいのだろう。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月9日
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吾妻鏡
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頼朝は由比ヶ浜に出御し、日程が近づいた放生会流鏑馬の射手を集めてそれぞれの射芸の腕を観覧した。
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北條五郎時連(後に改名して時房)が初めて射手を務めるため下河邊庄司行平に手順を教えさせたが、弓の構え方について兵衛尉武田有義海野小太郎幸氏らが違う考えを述べた。行平は先祖から伝わった口伝や故実を語り、頼朝はその内容に感心したのは勿論のことである。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月10日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に鎌倉中が大騒ぎになった。武士たちは甲冑姿で幕府に駆け付けたが間もなく鎮まった。
これは範頼の家臣である當麻太郎が頼朝寝所の床下に忍び込んだためである。
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まだ眠っていなかった頼朝は気配を感じて密かに結城七郎朝光宇佐美三郎祐茂と源太左衛門尉梶原景季らを呼んで當麻を発見し拘束した。夜が明けてから尋問したところ次のように供述した。
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起請文を提出して以後は何も仰せがなく、主人の範頼は将軍の御意向が判らず思い悩んでいます。
どのような処遇になるのかを確かめたいため忍び込んだのであり、決して謀反の企てではありません。
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範頼に問い合わせた結果は「知らなかった」とのこと、當麻は言葉を尽くして陳謝したが所行は尋常ではなく、範頼に対して抱いた疑念にも符合する。更に當麻は範頼の側近で武名の高い強者である。疑念は深まり、許される可能性はない。範頼との打ち合わせの有無を詰問したが、その後の當麻は心を閉ざして一言も発しなかった。
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   ※當麻の拘束: 通常でも警戒が厳しい筈の将軍寝所、警護要員を強化したのに床下への侵入を許したなどは
有り得ない。それが事実なら近習の中に内通者がいる可能性まで疑う筈で、この事件は捏造か、當麻の行動を拡大解釈したと考えるべきだろう。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月12日
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吾妻鏡
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大姫が体調を崩している。
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   ※大姫: 政子の初産による頼朝の長女で治承二年(1178)生まれの満15歳。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催、将軍家も参席した。随兵は三十人、前後に分かれて供奉した。 結城七郎朝光が御劔を持ち、源太左衛門尉梶原景季が御鎧を着し、宇佐美三郎祐茂が弓箭を携えた。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月16日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の馬場で流鏑馬を開催し、将軍家は昨日と同様に参席した。
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その射手、
    平六兵衛尉三浦義村    北條五郎時連(時房)
    小山又四郎朝長    下河邊六郎(行平の一族だろうが、詳細は不明)
    和田三郎宗實(義盛の末弟)    氏家五郎(宇都宮朝綱の三男で氏家氏の祖)
    海野小太郎幸氏    望月三郎重隆
    榛谷四郎重朝    千葉平次兵衛尉常秀
    小笠原次郎長清    武田五郎信光
    兵衛尉梶原次郎景茂
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月17日
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吾妻鏡
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参河守範頼朝臣が伊豆国に下向させられた。狩野介宗茂宇佐美三郎祐茂らによる護送で、帰参の時期は決めず配流に等しい処分である。
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當麻太郎は本来なら斬られるべきだが、姫君(大姫)の病気に伴い減刑され薩摩国に流罪となった。
これらは陰謀の計画が露見し、起請文を提出したとはいえ當麻の所業は許されるものではなく、このような処分になったものである。
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   ※伊豆に下向: 伊豆の伝承に拠れば範頼は修禅寺の東に隣接する
信功院(修禅寺八塔司の一つ)に幽閉され、間もなく梶原景時率いる追討軍を迎えて信功院に放火し自害した、と伝えている。吾妻鏡は範頼の最期を載せておらず、保暦間記や北條九代記が「三河守範頼が誅された。」との内容を記述している。
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右画像は伝・信功院跡。画像をクリック→ 信功院と範頼の墓所を表示。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月18日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)、参州(範頼)の家臣である橘太左衛門尉・江瀧口・梓刑部丞らが武装して濱の宿舘に立て籠ったとの情報があり、結城七郎梶原平三父子・新田四郎らを派遣してこれを討ち破った。
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   ※濱の宿舘: 範頼邸が由比ヶ浜近くにあり、家人と郎党を皆殺しにした、という事か。範頼には多くの生存伝説が
あり、最も知られているのは舅である安達盛長に匿われて所領の安達郡石戸で暮らした云々だが信頼に値しない。範頼の妻は安達盛長の娘(祖母は頼朝乳母の一人・比企尼)で、尼の嘆願により助命された子息が吉見氏として系譜を保った、とされる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月20日
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吾妻鏡
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曽我十郎祐成の同腹の異父弟である京の小次郎が追討された。参州(範頼)の縁坐である。
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   ※京の小次郎: 曾我兄弟の生母満江は狩野親光の娘(横山時重の
娘説あり)。彼女は河津三郎祐泰と婚姻する前に伊豆国司代の源左衛門仲成に嫁して一男一女を産み、4年目に離別して河津祐泰に再嫁している。
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狩野親光は任期を終えて京に戻る仲成に愛娘と孫が同行するのを許さなかった、ともされる。
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この男子が京の小次郎で源信俊と名乗った形跡があり、範頼の養子または猶子だった可能性がある。
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一方の女子は二宮朝忠(土肥實平の弟二宮友平の嫡男)に嫁して知足寺を建立、ここには朝忠と妻(知足尼)および異父弟だった曽我兄弟の供養墓がある。
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 右の詳細系図(サイト内リンク)を参照(クリック→拡大表示)
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月23日
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吾妻鏡
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姫君(大姫)の病状が好転し、回復後の湯浴み始めが行われた。
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   ※大姫: 政子の初産による頼朝の長女で治承二年(1178)生まれの15歳。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月24日
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吾妻鏡
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大庭平太景義岡崎四郎義實らが出家した。特に理由はなく、各々が老齢に達したため御家人の役職を辞し兼ねてからの望みを達したものである。
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   ※各々が老齢: 大庭景義は大治三年(1128)生れの65歳で、岡崎義實は天永三年(1112)生れの81歳。
景義は保元の乱で受けた矢傷で歩行困難であり既に嫡子景兼(建保元年(1213)の和田合戦以後は消息なし)に家督を譲っている。両者の出家剃髪に違和感は乏しく、曽我兄弟の仇討あるいは範頼失脚に関連付けて考える説もあるが、無理筋だと思う。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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8月29日
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吾妻鏡
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御台所政子が岩殿観音堂(現在の岩殿寺・公式サイト)に参拝。北條五郎時連(後の時房)が供として従った。
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   ※岩殿観音堂: 曹洞宗で山号は海雲山、坂東三十三観音札所の二番。政子と大姫が深く信仰していた。
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この参拝は大姫の病状が回復した謝礼だろう。岩殿寺は名越切通しを下り大切岸と法性寺の横を抜けた高台(地図)にある。大姫に対しては盲目的な愛情を注いでいた政子が頼家実朝にはやや冷淡だったのは彼女の内面を垣間見せているようで面白い。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月1日
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吾妻鏡
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多気義幹から没収した所領と職責が重ねて馬場資幹に下賜された。
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   ※義幹の所領: 6月22日の記事に「八田知家の訴えにより没収され同族の馬場資幹に与えた」との記載があり
「重ねて」は残余の所領または地頭の職責を追加で剥奪したと理解するべきか。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月7日
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吾妻鏡
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後白河法皇の御所だった宣陽門院は無住になっており、盗賊による狼藉が危惧されると 一條能保が心配している。今日、その措置について指示があり、畿内近国の御家人に命じて宿直させるよう 佐々木経高盛綱および 後藤基清らに手配が命じられた。
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   ※宣陽門院: 長講堂(後の三十三間堂を含む)などを差す。所領を含めて法皇の愛人だった丹後局(高階栄子
の娘で後白河院第六皇女の覲子内親王が相続し、宣陽門院を名乗っている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月11日
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吾妻鏡
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伊豆国江間郷にいた北條義時の嫡男である童子が昨日鎌倉に入った。去る17日の卯刻(朝6時前後)に伊豆国で射獲った子鹿一頭を携えて御所に参上、義時は初の矢を射た儀礼の餅を準備して詳しい話を聞いていた。
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そこへ頼朝が出御し、上総介足利義兼と伊豆守山名義範ら数輩の御家人が列座した。まず十字を供えて最初に小山朝政に与えた。朝政は御前に跪き最初の十字を一口食べて叫声を発し次に無言で二口目と三口目を食べた。
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次に三浦義連が次の十字を三口食べ三度声を発した。三人目は意図して逡巡し遅らせた後に諏訪祝盛澄を召し、盛澄は無言で三口を食べた。頼朝は十字を食べる三口の習慣は様々であると感心し、その後は酒宴となった。
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   ※義時の嫡男: 幼名は金剛、建久五年(1194)2月2日に頼朝を烏帽子親に元服して頼時を名乗り、頼朝の
没後に改名して泰時。寿永二年(1183)の生まれだから満10歳前後だね。頼朝の溺愛というか贔屓具合は元服式の記録と、建久三年(1192)5月26日の吾妻鏡に記載されている。
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   ※十字: 蒸した饅頭。十字に割いて食べた中国の習慣から赤い十字や点をつける風習が生まれたらしい。
狩猟を開始して最初の矢を射る儀式(矢口)には面倒くさい手順があったようで、曽我兄弟の仇討があった富士野の狩宿でも同じような儀式が行われている(5月16日の記述を参照)。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月18日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)が岩殿観音と大蔵の観音堂(杉本寺・に参詣した。大姫が病床に伏した際に立願したものである。

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   ※岩殿観音: 政子大姫が深い信仰を寄せていた。本年の9月11日に記事が載っている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月21日
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吾妻鏡
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頼朝の外舅である憲實法眼の子玄番助大夫仲経が美濃国土岐多良庄を下賜された。これは他とは異なる縁戚の誼による。

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   ※頼朝の外舅: 頼朝の生母・由良御前の父熱田大宮司藤原季範の弟が憲實(頼朝の外舅つまり大叔父)、その
次男(頼朝の甥)が仲経。
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   ※土岐多良庄: 現在の大垣市上石津町(地図)の一帯。明智光秀出生地(真偽は不明)ともされる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月26日
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吾妻鏡
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御外舅(大叔父)憲實法眼の後家が御所に参上した。故藤原季範朝臣との縁は黙止できないため特に歓待し、加えて故上綱の遺領を継承して管理するように指示を与えた。
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   ※上綱: 寺に置かれた三種類の役僧が三綱(上座・寺主・都維那、宗派や時代により異なる)。
上綱は「上位の僧」を意味し、ここでは故・憲實法眼を差す。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月27日
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吾妻鏡
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来月に実施する御堂(勝長寿院)法要の導師を京都から招く件について、手配等の詳細を宮内大輔(藤原)重頼に命じた。

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   ※藤原重頼: 元は京都の実務官僚。源三位頼政の娘を妻にした関係から頼政の遺児である頼兼広綱と共に
頼朝に仕えた。文治元年(1185)10月の勝長寿院落慶供養では会場設営などの差配に任じた。頼朝の没後は側近の文官として頼家に仕えている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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9月30日
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吾妻鏡
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勝長寿院の法要に関し、警固に任じるため鎌倉に参上するよう関東近国の御家人に命令書を送付した。
梶原平三景時と右京進中原仲業らがこれを差配する。
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   ※勝長寿院法要: 11月27日の永福寺薬師堂供養には京から下向した前権僧正眞圓が導師を務めているが、
御堂(勝長寿院)法要の記録は見当たらない。実は翌・建久五年にも同様の食い違いがあり、12月15日には「御堂供養の導師が近日下着」、12月26日には「永福寺に新造した薬師堂供養を行った。導師は前権僧正勝賢、云々」の記事がある。
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更に翌年1月16日には「眞如院僧正眞圓が帰洛、云々」の記事があり、御堂供養の記事も御堂供養の導師が帰洛した記事も見当たらない。導師の名前から判断すると、何らかの記事の混同と判断される。2年続けて永福寺に薬師堂を新造するのも整合性に欠けるしね。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月1日
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吾妻鏡
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家督の若公(家督を継ぐ若公、頼家を意味する)が江間殿(北條義時)の新たに建てた花亭に渡御し、御馬・御劔などの献上を受けた。
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   ※花亭: 一般的には東屋を差す言葉だが「花(桜)が見事な建物」の意味にも取れそうだ。
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当時の義時邸は大倉(地図)にあった。後に執権邸として使った小町亭(現在の宝戒寺の地)も既に建っていた可能性もあり(実朝が暗殺された建保七年(1219)1月27には体調が悪くて小町亭に帰ったとの記載)、建久四年の状況は判断できない。
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ただし、時政に従属する存在だった30歳の義時が大倉亭と小町亭の二軒を構えるのは不自然だろう。泰時もまだ10歳に過ぎないし...。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月2日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬や砂金を京に送るため御家人にこれを拠出させて準備を整えている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月3日
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吾妻鏡
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勝長寿院法要の導師が京都から下向する件について、東海道の宿駅の手配や人員の確保などを御家人に割り当て、雑色らに指示書を届けさせた。来る20日に京を出発する予定で、中原仲業二階堂行政と武藤頼平(養子は武藤資頼)らがこの業務を差配した。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月7日
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吾妻鏡
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多好節が頼朝の招きに従い、来月の鶴岡八幡宮祭礼で御神楽を演じるため京都から参着した。また神楽の秘曲を習得するため上洛していた右近将監山城久家も同道して鎌倉に帰参した。
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官人の曲を全て習得したと報告したのみならず、好方(好節の父)もその旨を書状に載せている。弟子でなければ教えないのが本来だが、頼朝の厳命に従って全てを伝授した結果である。
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   ※山城久家: 建久二年(1191)12月19日に「鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら13人を京都に派遣。
これは神楽の秘曲を伝授すべく書状を携えて多好方の許に行く任務である。」との記載がある。
約2年間の特訓が成果を見せた、らしい。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月10日
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吾妻鏡
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野本の齋藤左衛門大夫尉基員の子息が幕府で元服の儀式を行い鎧などを献上した。将軍家からは重宝などが下賜された。

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   ※基員の子息: 下川邊政義の息子を養子に迎えた時員(野本氏の祖)を差す。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月21日
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吾妻鏡
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鎌倉将軍の御領に関する年貢計算に携わる奉行人らが私宅でその業務を行っているとの噂があり、これは規則に反する行為である。今日以後は政所での処理を行うよう指示が下された。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月28日
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吾妻鏡
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佐々木左衛門尉定綱が鎌倉に参着、薩摩国に流罪となっていたが去る3月13日の故・ 後白河院の一周忌法要に伴って赦免となった。この流刑は頼朝にとって悩みの種だったため喜びは大きく、直ちに御前に呼び近江国守護職に復帰し職務に励むようにとの仰せがあった。
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   ※定綱流罪: 建久二年(1191)4月5日・6日・16日・30日、5月1日・2日・3日・8日・20日に関連記事がある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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10月29日
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吾妻鏡
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幕府の蔵に納めるべき米百石と大豆百石を遠国から鎌倉に出仕している御家人等に分与し、二階堂行政がこれを差配した。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月4日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事である。将軍家が参詣し、最初に問答講を行なった。次いで深夜になって御神楽の奉納があった。多好節が宮人曲を歌った時に突然空が曇り、雨が瑞籬(玉垣)に降り注いだが、暗い冬空にも関わらず神殿の上には星が現れていた。神威は今までなかった程に明白である。
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   ※問答講: 仏教の教義や解釈について相互に問答を交わす修行のための八幡宮寺供僧の法会。
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   ※宮人の曲: 大火で焼け落ちた八幡宮再建の儀式(建久二年(1191)11月21日)に京から招いた楽人多好節
の父・多好方が演じたのが鎌倉での最初。
現在の鶴岡八幡宮では毎年12月16日の御鎮座記念祭(公式サイト。十二月→で表示)で演じている。原型は歌なのだろうが演じるのは往時の姿を想像した神楽の様式、「薪能に似た幽玄な雰囲気を強調した観光イベントに過ぎない」との酷評もあるけれど。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月5日
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吾妻鏡
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右近将監大江久家が去る夜の鶴岡八幡宮に降臨した星の図を描い御所にて献じた。将軍家(頼朝)はこの件に深い信仰を寄せている。

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   ※大江久家: 頼朝の側近で奉行人。文治五年(1189)の奥州合戦に参加の記録あり。建久二年(1191)12月
19日の吾妻鏡に「鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら13人を京都に派遣した。これは神楽の秘曲を伝授すべく書状を携えて多好方の許に行く任務である。」との記載がある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月8日
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吾妻鏡
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前権僧正眞圓(亮を称す)が京都から着した。これは永福寺の寺域に堂を建てて薬師如来像を安置するため供養の導師として招聘した人物である。右衛門尉比企能員の屋敷を宿舎として提供した。また仏に捧げる願文も到着、文章の起案は式部大輔藤原光範卿、清書は按察使葉室朝方である。
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   ※藤原光範: 民部卿(民政をつかさどる民部省の長官)で、代々文章博士を出す家系の人物。
   ※按察使: 地方行政を監督する令外官の官職。葉室朝方は鳥羽法皇と後白河法皇の二代に仕えた院の近臣
で正二位・大納言。義経に与した嫌疑で文治五年(1189)2月22日の解官要求に名が載っている。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月11日
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吾妻鏡
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御堂(永福寺薬師堂)供養の御布施に関しては二階堂行政藤原俊兼平盛時中原仲業が奉行として手配する任にあたる。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月12日
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吾妻鏡
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右近将監多好方が神楽に力を尽くした件で恩賞を受けた。今日、飛騨国荒木郷の地頭職に任じる旨の政所御下文を発行、国衙に納める課役は従来の例に従うように載せている。因幡前司 大江廣元と民部大夫二階堂行政らがこれを差配した。

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   ※飛騨国荒木郷: 現在の高山市国府町の荒城川流域(地図)、地域としては高山市よりも飛騨古川(飛騨市)に
近く、以前の旅行で立ち寄った道の駅アルプ飛騨古川から5kmほど西の山間地にある安国寺(参考サイト・貞和三年(1347)に足利尊氏が全国に建立)の古い地名が荒木郷だったと伝わっている。当時はそんな事は露ほども知らなかった。
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蛇足だが、飛騨古川は諏訪の製糸工場で働いた女工哀史で知られた娘たちの供給基地でもあった。「アルプ飛騨古川」から更に東の山間部の道の駅飛騨たかね工房の末尾に「野麦峠訪問記」を載せてある。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月15日
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吾妻鏡
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僧正眞圓が鶴岡八幡宮と勝長寿院を巡覧してから幕府に参上し、将軍家に面談して御贈物を受けた。
畠山次郎重忠が陪膳(食膳の接待役)を務めた。
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   ※亮: 「権」と同様に次官の意味を持つ。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月18日
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吾妻鏡
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武蔵国からの飛脚が到着して報告、昨日当国の太田庄鷲宮の神前に流血の跡が見られた。これは凶兆であると考えたため占った結果は「兵乱の兆し」である、と。
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   ※太田庄鷲宮: 現在の宮代町を中心に北西から南東の古利根川
沿いに広がっていた八条院領。鷲宮は太田庄最北西部(地図)にある現在の鷲宮神社(公式サイト)。
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      右画像は埼玉県の行政区分図 画像をクリック→拡大表示
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月19日
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吾妻鏡
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神馬(鹿毛)を鷲宮に奉納し、また社壇を美しく厳かに飾るように命じた。使者は榛谷四郎重朝である。
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   ※榛谷重朝: 太田庄の北東に隣接する同じ八条院領の下河辺荘庄司下川邊行平に命じた方が連絡が早い、と
と思うが、これは余計なお世話だね。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月23日
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吾妻鏡
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上総国小野田郷の住人である本掾太国廉、姨母(おば、母の姉妹)を刃傷した罪により召喚され、伊豆大島に流すよう北條時政が命じられた。
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   ※小野田郷: 現在の千葉県長生郡長南町下小野田(地図)。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月27日
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吾妻鏡
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永福寺の薬師堂(の着工)供養である。将軍家が渡御し、南門の外で行列を整えた。千葉小太郎成胤が御劔を持ち、 愛甲三郎季隆が御調度(弓箭)を携えた。
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先陣の随兵
    畠山次郎重忠   葛西兵衛尉清重   蔵人大夫頼兼   村上左衛門尉頼時
    氏家五郎公頼   八田左衛門尉知重    三浦介義澄   和田左衛門尉義盛
    下河邊庄司行平   後藤左衛門尉基清
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後陣の随兵
    北條五郎時連   小山七郎朝光   梶原源太左衛門尉景季   同刑部左衛門尉定景
    相馬次郎師常   佐々木左衛門尉定綱   工藤小太郎行光   新田四郎忠常
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将軍が出御してから午刻(正午前後)になって導師の前権僧正眞圓が参加する僧を伴って堂に入り、法要が終わってから布施が配られた。
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    導師に...錦被物 二十重  綾被物 百重  砂金 五十両  帖絹 二百疋(四百反)  紫絹 五十反
            白布 二百反  藍摺 三百反  綿 五百両  色革 百枚  鞍を置いた馬 十疋
            加えて、五衣一領  水晶念珠  金作り劔一腰
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    請僧に...各々  錦被物 五重  綾被物 三十重  帖絹 五十疋(百反)  染絹 五十反  紫絹 二十反
            白布 百反  藍摺 百反  綿 三百両  色革 三十枚  鞍を置いた馬 三疋
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将軍が御所に還御の後、巻絹百反・染絹百反・宿衣一領・米百石(目録。近江国での引渡しを指示)などを僧正の宿舎に送った。比企籐内朝宗が使者である。
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   ※氏家公頼: 下野国氏家(現在のさくら市・地図)を本拠にした武士。出自には諸説あるが、宇都宮朝綱の次男
とする説が最も有力。弓の名手として多くの流鏑馬や頼朝の随兵などに登場している。
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子孫の一部は奥州に入って大崎(宮城県北部)に土着し奥州氏家氏として続いたが、下野の氏家氏は南北朝時代に滅びたらしい。
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   ※梶原定景: この名前は系譜になく、刑部尉に任じている同族は景時の弟 朝景(友景)だけの筈なので定景は
間違いだと思う。朝景は正治二年(1200)の景時追討の際には降伏して生き延びたが、建暦三年(1213)の和田合戦で義盛に味方して討死している。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月28日
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吾妻鏡
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僧正(導師を務めた前権僧正眞圓)が鎌倉から京に向かった。
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今日、越後守安田義資が女の件で梟首された。命じられたのは加藤景廉である。父の遠江守安田義定も義資の縁坐で頼朝の勘気を受けた。義資は昨日の御堂供養の際に聴聞所の女房(女官)に艶書を渡し、女房は事件になるのを恐れ隠していたが梶原景季の妾(龍樹と称す)が景季に話し、景時を経て将軍に言上されたものである。
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真偽を糾明したところ女房たちの言葉と符合したためこの措置となった。中国の故事にある通り三年の忠節も一日の失敗で無為となる。      従五位下越後守源朝臣義資、遠江守義定が長男、文治元年八月十六日任叙。
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   ※頼朝の勘気: 御家人として無条件に心従せず、将来敵対するかも知れぬ(と頼朝が考えている)甲斐源氏は、
建久四年の時点では安田義定のみ。実際には身内でありながら最も危険な北條時政がいるのだけれど、頼朝は露ほども疑っていない。
既に甲斐源氏の実権は石和信光加賀美遠光小笠原長清の親子が掌握しており、義定の実力など気にする程ではないのだが...。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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11月30日
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吾妻鏡
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人々が恩沢を受けた。因幡前司大江廣元と民部大夫二階堂行政と大蔵の丞頼平(文官らしいが、詳細は不明)らがこれを差配した。

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   ※恩沢: 安田義資追討以外には特に事件が起きていないから、義資の所領没収→他の御家人や女房への分与
と考えるべきだろう。当時の習慣では不祥事で没収された資産は不祥事に関与していない親族に分与するのが原則だった(このルールは和田合戦の前までは生きていた筈)。12月5日の前触れか。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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12月1日
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吾妻鏡
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相模守大内惟義が頼朝の奉幣使として尾張国熱田社に参拝し神馬(黒栗毛)を奉納した。また頼朝は別途の奉納を大宮司の藤原範経に贈った。これは特別の祈祷を行なうためである。
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   ※藤原範経: 熱田大宮司職は変遷を繰り返しており、手元の資料では確認できない。判別できる大宮司職は、
尾張員職→ 外孫の季範(1114年)→ 季範の五男範雅(1137年)→ 季範の長男範忠(1155年)→ 再び範雅(1161年)→ 再び範忠(1170)→ 範忠の孫忠兼(1178年)→ 再び範忠(1181年)まで。範忠の没年は不詳だが、その次または次の次が範経だろう。
いずれにしろこの大宮司変遷は激しい内部抗争などがあったのを想像させる。
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   ※熱田社: 現在の熱田神宮(公式サイト)。オリジナルレポートは オリジナルレポートも参考に。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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12月5日
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吾妻鏡
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遠江守安田義定の所領を没収した。当国浅羽庄の地頭職は加藤景廉を補任し、今日に大蔵丞頼平が差配して御下文が発行される。

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   ※浅羽庄: 旧・遠江国磐田郡、現在の袋井市浅羽地区(地図)、天竜川東岸の要衝である。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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12月13日
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吾妻鏡
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前右衛門尉八田知家に命じて常陸国の住人下妻四郎弘幹を梟首した。彼は北條殿(北條時政)に遺恨を抱き、笑顔の裏に敵意を秘めている。その思いが最近に露見したための措置である。

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   ※下妻弘幹: 今年の6月22日に粛清された多希義幹の弟で現在の下妻市一体を本拠にしていた。敵意云々に
関係ない、常陸国から多気氏一族系類を排除する一環である。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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12月20日
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吾妻鏡
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左衛門尉佐々木定綱が流罪の前に支配していた領地は全て元通りに返還し、その七ヶ国には各々一ヶ所づつを追加して加えてある。
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隠岐国では他者の関与を一切排除し全域の地頭職を与え、長門国と石見国に関しては守護職に補任された。
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   ※長門と石見: 長門国は現在の山口県の半分、北西部一帯(地図)。
石見国は現在の島根県西部で、出雲国(出雲市・雲南市・奥出雲町・松江市・安来市)を除いたエリア。
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右画像は島根県の行政区分地図。
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西暦1193年
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82代後鳥羽
建久四年
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月 日
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吾妻鏡
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