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建久五年(1194年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍・前右大将の(頼朝)が鶴岡八幡宮に御参詣。還御の後に椀飯の儀あり。上総介 足利義兼は弓箭と馬を差配し、里見冠者義成が御剣持ちを務めた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月4日
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吾妻鏡
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甘縄宮の御霊社に奉幣。八田知家の代参である。

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   ※甘縄宮: 現在の甘縄神明宮で、門前東側一帯(地図)が安達盛長邸の跡と伝わる。社殿から直線で300m
北々東には高徳院(公式サイト)の大仏が鎮座している。
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吾妻鏡の嘉禎四年(1238)5月18日に次の記載がある。
相模国深澤里に建立している大仏の頭部を挙げた。
周囲八丈(24m・直径8m弱)である。
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この木製仏像はやがて失われ、建長四年(1252)8月17日の吾妻鏡し次の記載がある。
今日は彼岸の七日目に当るため深澤里の金銅八丈の釈迦如来像の鋳造を開始した。
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これが現存する大仏(釈迦如来は阿弥陀如来の誤記)で、木製大仏と入れ替わった経緯の記録は残っていない。
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鋳造開始の五年前・宝治元年(1247)7月には安達景盛の叱咤激励による奇襲で始まった三浦合戦によって 三浦泰村以下の一族数百人が死没している。
何らかの事故で木製大仏が失われ、それを三浦の怨霊による祟りと考えた景盛らが関与して大仏の建立による鎮魂を願った...時系列からはそんな可能性も見えてくる(私見)。
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右画像は甘縄神明宮前の安達邸跡碑。画像をクリック→ 「甘縄神明宮と安達邸」へ
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月7日
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吾妻鏡
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大倉御所で心経会を行った。導師は法眼行恵、供僧は大法師禅衍、源信、禅寮らである。まず上台所で食事を摂り次に経典の題目を解説、将軍家が出御して耳を傾けた。
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終了後に御布施があり、導師分は被物二重と裹物一つ、供僧には各々長絹二疋(四反)である。
皇后宮権大進為宗と安房判官代高重らがこれを差配した。
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   ※心経会: 般若心経を読誦する法会。上台所は主人や客用の食事を供する厨房を差す。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月8日
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吾妻鏡
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将軍家が安達籘九郎盛長の甘縄邸に入御した。
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   ※甘縄邸: 宝治合戦の勃発を書いた6月6日の吾妻鏡には甘縄邸と三浦邸の位置が記載している。
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(安達の軍勢は)甘縄の館を駆け出て門前の小路を東に行き、若宮大路の中の下馬橋を北に進み八幡宮の赤橋を渡って布陣した。 ~中略~ 神護寺(八幡宮別当寺)の門外に出て鬨の声を挙げ、公義五石畳紋の旗を差し揚げて筋替橋の北に進み鳴鏑を放った。
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10年ほど前に概ね同じルートを歩いた事があった。
寄り道しながら約3時間、地図上では約3kmになる。「門前の小路」は由比ヶ浜大通りと仮定し(実際は更に北側だろうが)、塔の辻の五輪塔残欠を右に見て六地蔵を左折し今小路を北進。
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ほどなく裁許橋跡と問注所跡碑の前を通り鎌倉栄光教会前(今はコインパーキング)を右折して踏切を渡り、喧騒の小町通りを横切って中の下馬橋(二の鳥居の左側)で段葛に入り、八幡宮の赤橋の横を通るルート。先人に思いを馳せつつ歩くのも結構楽しい。右地図(→ 拡大)を参考に。
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関連して極楽寺から小町口への古道も紹介しておく。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月9日
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吾妻鏡
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弓始めの儀式である。
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射手
   一番 下河邊庄司行平     和田左衛門尉義盛
   二番 結城七郎朝光      榛谷四郎重朝
   三番 海野小太郎幸氏     藤澤次郎清近
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弓射の儀式が終わり、前もって御前の簀子(すのこ)に置かれていた褒賞が各々に与えられた。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月15日
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吾妻鏡
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将軍家は三浦介義澄の屋敷に渡御された。
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   ※三浦邸: 位置を特定する材料が二つある。一つは上記の宝治合戦
1月8日、「(安達勢は)赤橋を渡り別当寺の門外に出て布陣、筋替橋の北に進んで鳴鏑を放った」との記述。
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もう一つは建保七年(1219)1月27日、右大臣拝賀の夜に実朝を殺した公暁「(雪ノ下北谷の)備中阿闍梨邸を出て八幡宮北側の峯を越え、三浦邸に入ろうとした所で長尾定景に遭遇」、との記述である。
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神仏習合時代の八幡宮寺は現在の国宝館付近と推定されるから、鏑矢を射た場所に該当するのは「この辺」(地図)になる。鳴鏑の飛距離は判らないが「公暁が北谷から越えた峯」は鎌倉二中と西御門1-1の間だろう。
三浦邸は西御門1-6から横浜国大校舎の北側付近だろうと推定できる。
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また傍証として、宝治合戦では「風が北から南に変わり、寄せ手は三浦邸南側の民家に放火した。
煙が館を覆い、泰村らは煙に咽び館から逃れて頼朝法華堂に籠った」
とある。
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館が学校のプールより北側なら、法華堂への移動は(敵に近付くから)弓射の的になってしまうが、プールより南なら攻め手から遠ざかるから、弓射の的になる危険を回避できる。
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右画像は北谷から赤橋・筋替橋の鳥瞰(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月18日
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吾妻鏡
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将軍家は永福寺と勝長寿院に参拝し、加護に感謝した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月29日
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吾妻鏡
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御台所が伊豆山権現と箱根権現に奉幣するため出発した。
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   伊豆山神社の公式サイト訪問記、 箱根神社の公式サイト訪問記を参考に。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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1月30日
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吾妻鏡
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伊豆国の甘海苔※: を朝廷に献上、雑色の吉野三郎が使者に任じた。
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   ※甘海苔: 文治五年(1189)11月1日に「供御の甘海苔」関連で伊豆の岩海苔について記載した。参照を。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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夜に入り江間殿(北條義時)の嫡男(童名を金剛、13歳)が幕府に於いて元服、西の侍所に三列の座を設けた。
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一方の着座
    武蔵守平賀義信   上総介足利義兼   伊豆守山名義範   信濃守(浅利遠義(義遠)
    相模守大内惟義   江間小四郎義時殿   大和守山田重弘    右衛門尉八田知家
    兵衛尉葛西清重   加藤次景廉   佐々木三郎盛綱
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一方の着座
    千葉介常胤   畠山次郎重忠   千葉新介胤正   三浦介義澄
    梶原平三景時   土屋三郎宗遠   左衛門尉和田義盛   籐九郎盛長
    ‬左衛門尉三浦義連   大須賀四郎胤信   刑部丞梶原朝景
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一方の着座
    北條時政殿   結城七郎朝光   下河邊庄司行平   左衛門尉小山朝政
    宇都宮彌次郎頼綱   岡崎四郎義實   右衛門尉宇佐美祐茂   榛谷四郎重朝
    右衛門尉比企能員   左衛門尉足立遠元   江戸太郎重長   比企籐内朝宗
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定刻になり、北條時政殿が童形(金剛)を伴って着座し、将軍家が出御して加冠の儀を行った。武蔵守平賀義信千葉介常胤らが燭台をもって左右に控え、名字は太郎頼時(後に改名して泰時)とした。
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次に御鎧などを頼時から烏帽子親(頼朝)に献じ、引出物の御劔が里見冠者義成を介して下賜された。次いで三献の儀、椀飯、その後に盃酒が数巡し歌舞宴会となった。
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将軍家は三浦介義澄を座右に召し「この若者を婿とせよ」との仰せがあった。義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた。
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   ※北條(殿): 何回も出ると権力者の走狗なのが露骨で不愉快。現代の御用学者や腰巾着マスコミと同じだ。
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   ※良い娘: 8年後の建仁二年(1202)に義澄の嫡男義村の娘(後の矢部禅尼)が泰時に嫁している。
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彼女は翌年に時氏(27歳で死没し執権に就いていない)を産み、時氏の正妻(安達景盛の娘・後の松下禅尼)が四代執権になる経時と五代執権になる時頼を産んでいる。
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更に8年ほど過ぎてから離縁(理由は不明)となり佐原(三浦)盛連義連の嫡子)に再嫁して(三浦)盛時らを産み、この関係から佐原一族は北條得宗との結び付きが強く、三浦一族が滅亡した宝治合戦では北條方に与して三浦宗家を継承している。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月3日
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吾妻鏡
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御台所政子が二所詣から鎌倉に還着された。

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   ※二所詣: 頼朝など鎌倉将軍の二所詣には三嶋大社(公式サイト)と、訪問記まで含めた実質的な三所詣が
通例になっている。政子の場合も同様だろう。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月6日
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吾妻鏡
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御台所政子が江間殿(北條義時)の邸に入御した。

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   ※義時邸: 当時は「岐れ道」に近い大倉(地図)にあった。更に詳細は建久四年(1193)10月1日の吾妻鏡で。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭が行われ将軍家(頼朝)が参拝された。
西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月14日
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吾妻鏡
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佐々木三郎盛綱が生鮭二匹を献上した。越後国にある所領の加治庄の特産品で、将軍家の好物である。
一匹は只今祇候の輩に下賜された。
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   ※加治庄: 現在の新発田市を流れる加治川流域(地図)。加治庄は盛綱の嫡子信實が継承して加地氏の祖と
なっている。承久の乱(1221)には加治庄の願文山城(現在の要害山・地図)に籠った後鳥羽上皇方の藤原信成の家人酒匂八郎を追討している。
旧暦の2月14日は現在の3月8日、越後では冬だが関東では春、運搬には数日が必要だろうから生鮭と言っても塩漬けだと思うが...。
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   ※只今祇候: 所領を持たず御所に勤務して俸給(米)の支給を受ける御家人。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月16日
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吾妻鏡
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武蔵国河越庄が本所(領主)の新日吉社に納めるべき年貢が未済であるとの連絡が京都朝廷から届き、今日雑色を河越に派遣して正確な納付を期すように命じた。
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   ※河越庄: 永暦元年(1160)に河越重頼(または父の葛貫能隆)が所領を 後白河法皇に寄進して立荘した。
後白河は更に新日吉社に寄進、新日吉社領河越荘となった。当時の武蔵守は平知盛
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文治元年(1185)11月、重頼は義経謀反に連座して失脚誅殺され、翌々年10月に後家の河越尼(比企尼の次女)が相続を許されている。
   右画像をクリックして河越荘の詳細を参考に。
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   ※新日吉社: 後白河法皇が法住寺殿(wiki)を造営した際に鎮守として
近江の日吉山王を勧請して新日吉社とした。 近江の日吉山王は建久二年(1191)の4月に佐々木定綱親子が紛争を起こした相手である。元々法住寺殿に隣接していた 新日吉社(参考サイト)の社地は移転を繰り返し、現在は東山区の京都女子大近く(地図)にある。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月18日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)は大倉観音堂に参詣し、帰り道に江間殿(北條義時)邸に立ち寄った。

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   ※大倉観音堂: 鎌倉最古の寺とされる現在の杉本寺(公式サイト)。 訪問記も参考に。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月22日
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吾妻鏡
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三浦と渋谷から数十本の竹を取り寄せて南御堂(勝長寿院)の背後にある山の麓に栽えた。
将軍家が巡覧し、三浦介義澄がこの作業を差配した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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2月25日
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吾妻鏡
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鎮西(九州)の御家人らが恩沢に浴した。

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   ※恩沢: 特に恩賞を伴うような九州での事件は見られないから新恩ではなく本領安堵と考えるべきだろう。
九州惣追捕使に任じていた天野遠景の占領統治に支障があり、この頃に解任され鎌倉に戻っている。恩沢と召喚に何らかの関係があった可能性も考えられる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺での法会は通例通り。将軍家が参席した。
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   ※通例の法会: 3月3日は五節句の一つ・上巳(じょうし)の節句。前年の同日にも法会を行っている。
元々は禊(みそぎ)の行事と宮中の雛遊びが混じり合い汚れを人形に託して流す「流し雛」に変化したらしい。この時代は「女の子の節句」ではない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月5日
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吾妻鏡
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三嶋大社に千度詣でのため女房(御所の女官)上野局を派遣した。特別の祈願のためである。
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   ※三嶋大社: 公式サイトはこちら、訪問記はこちら。春の桜と秋の金木犀が美しい。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月9日
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吾妻鏡
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掃部允藤原行光を政所の寄人(政務を司る担当官)に加えた。
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   ※藤原行光: 二階堂行政の嫡男。このサイトでは全て二階堂と表記
しているが正式な名乗りは藤原である。
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永福寺(二階大堂)が完成した建久三年(1192)11月末以後は二階堂の地名は定着したらしいが、一族が正式に二階堂を名乗った時期は確定していない。
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なお行光の系は政所執事を世襲し、弟の行村の系は検非違使を世襲し、行政・行光・行村の三人が遺した記録の多くが吾妻鏡の編纂に利用されたらしい。二階堂氏の略系図は左の目次から。
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右画像は発掘現場の鳥瞰画像(クリック→ 拡大)。
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コンピュータ・グラフィックによる復元想定図はこちら(外部サイト)で閲覧できる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月13日
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吾妻鏡
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甲斐国の武河御牧で産出した駒八疋が鎌倉に到着。頼朝の御覧を経て京都に献上される。
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   ※武河御牧: 現在の北杜市武川町(地図)の一帯広範囲で、奈良時代または平安初期からの官牧があった。
らしい。古書には「巨摩郡萬木乃ハ餘戸郷ノ北貳拾餘村ミナ此郷ニ属ス ~中略~ 釜無河、尾白河、大武河等此ニ発源ス。」とある。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月15日
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吾妻鏡
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将軍家が鶴岡八幡宮別当の坊に渡御した。これは別当法眼圓暁が京都から舞曲に長じた垂髪(稚児)を呼び寄せ、その芸の鑑賞に招かれたためである。酒宴が開かれて稚児が芸を披露し供僧が延年を舞い、供の武士が仰せを受けてこれに加わり賑やかな宴になった。頼朝は「祐経が生きていれば楽しかっただろうに」と涙を見せた。
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   ※法眼圓暁: 養和二年(1182)9月20日と23日の吾妻鏡に以下の記載がある。
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中納言法眼圓暁(宮法眼)が京から鎌倉に来た。後三條院の子である輔仁親王の孫で、義家にとっての外孫にあたる。その縁で頼朝が御所に招いた人物である。頼朝は中納言法眼坊を伴って八幡宮に参詣し、拝殿で宮寺の別当職に任命する約束を交わした。
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ちなみに、初代は圓暁(生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟)、二代は尊暁(圓暁の弟)~三代定暁~四代公暁(三代将軍実朝を暗殺)~五代慶幸と続き(ここまでは園城寺(三井寺)系)、東寺系の六代定豪~七代定雅~八代定親、次が再び園城寺系の九代隆弁となる。
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   ※延年: 平安中期から室町時代にかけて流行した寺院芸能。例えば法会の後に演じられる大衆の猿楽や稚児
の舞などの総称で、後に遊僧と呼ばれる専業者が継承し能楽などにも影響を与えたとされる。
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源平盛衰記には石橋山合戦後に頼朝主従を見失った大庭景親勢が土肥の館に放火して引き上げた。土肥實平は館が燃え落ちる炎を見て「これこそ開運の光である」として「延年の舞」を披露し、頼朝を大いに喜ばせ、落ち込んでいた敗残の武者たちを勇気づけた、と書いている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月16日
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吾妻鏡
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巳刻(午前10時前後)に将軍家は鶴岡八幡宮から還御した。朝陽の光が日食のように弱々しく、特に煙や霞でもないし春霞の景色でもない。人々奇異の念を抱いた。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月17日
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吾妻鏡
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諸国の守護職が国衙領を横領しているとの情報があり、不法行為を停止せよとの命令を下した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月22日
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吾妻鏡
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砂金を京都に献上した。これは東大寺大仏の鋳造費用として仏師院尊(仏師の系図を参照)に与えるもので、二百両を送る旨の指示書を発行した。
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   ※二百両: 律令制の一両は37g前後だから7400gの計算になるが、当時の価値(レート)が判らない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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3月25日
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吾妻鏡
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伊豆国の願成就院で如法経十種供養を行った。これは祐親法師大庭景親らの没後供養が目的である。
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   ※如法経十種供養: 主として、一定の方式で写経した法華経十種による供養らしいが詳細は不明。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮で臨時祭があり、将軍家は参詣せず。右京進中原季時 が奉幣の使者として参宮、流鏑馬などは通例の通りに実施された。
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   ※右京進季時: 鎌倉時代初期の文官中原親能の嫡男。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月4日
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吾妻鏡
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昨日と同様に鶴岡八幡宮の神事である。里見冠者義成が奉幣の使者を務めた。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月7日
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吾妻鏡
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源蔵人大夫頼兼の使者が京都から参着して書状を献じた。大内裏の守護に任じていた先月28日に仁壽殿の前で侵入者を捕獲した。尋問して放火の意図を自白させ、仔細を調べる必要は認めず直ちに梟首した。
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再三の功績を挙げ、武勇に関しては先祖に恥じない人物であると将軍家は特に感嘆した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月10日
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吾妻鏡
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鎌倉中の道路を整備し、梶原景時がこれを差配する。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月12日
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吾妻鏡
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将軍家に御宿願があり、伊豆権現の神前に於いて大般若経の転読を命じると共に神馬を献上した。
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   ※伊豆権現: 伊豆山の走湯権現、現在の伊豆山神社(公式サイト)、
偉大な先祖である頼義義家も成し得なかった奥州を征服して征夷大将軍になった頼朝に残った宿願は大姫の婚姻によって天皇の外戚になる事だった、かも知れない。
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頼朝はこの年8月に鎌倉に下った一条能保の嫡子高能との婚姻を考えたが大姫に激しく拒絶され、次の策として後鳥羽天皇妃としての入内を計画することになる。
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頼朝の心の中で京都回帰願望が芽生え始めた、それがこの頃だったのかも(私見)。
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   右画像は伊豆山神社参道  画像をクリック→ 訪問記へ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月16日
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吾妻鏡
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将軍家は由比ヶ浜に出御した。笠懸の勝負が開催され、長く本領に戻っていた氏家五郎公頼が鎌倉に参上したため笠懸の射手に加えた。抜群の射芸を見るためであり、多くの御家人も見物に集まった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月21日
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吾妻鏡
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故小松内府(平重盛)の嫡子平維盛卿の息子である六代禅師(平高清)が高雄の文覚上人の書状を 携えて京都から鎌倉に入った。頼朝の恩情によって助命された立場として関東で悪事を企む意図はない、自分は出家遁世の身であることを大江廣元を介して言上した。
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   ※六代禅師: 平家物語は維盛・文覚・六代・斎藤兄弟(伝・斎藤實盛の遺児)を巻き込んだ悲劇を伝えている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月22日
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吾妻鏡
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相模国中の寺社は全て旧来の神事や仏事を昔通りに行うよう、三浦介義澄を経由して指示を下した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月23日
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吾妻鏡
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伊豆山権現より連絡、(去る4月12日に指示を受けた)大般若経転読の部数報告が届いた。
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  ※転読:大般若経と薬師経の違いはあるが、イメージは変わらない。「何これ!ズルじゃないの!」などと言わず、
YouTube の画像を参考に。どの宗派でも同じような催しがあるらしい。
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供僧(供奉僧の略)は明治新政府の太政官布告に基づく神仏判然令(神仏分離令)まで神社に共存し、別当僧は神官の上位にあった。八幡宮の北側にあった僧房群 北谷(御谷)が有名。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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4月27日
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吾妻鏡
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相模国にある寺社の詳しい草創について報告せよとの命令を下し、中原仲業と安房判官代高重を巡回させた。
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   ※詳しい草創: こんな資料が残っていたら素晴らしいけど、幕府滅亡と共に消滅したんだろうね。色即是空...
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月2日
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吾妻鏡
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由比ヶ浜の漁夫が病気でもないのに今夜突然死し、しかも穏やかな死に顔だったらしい。 諸人がこぞって見に集まったところ端座合掌し乱れた様子はなかったという。将軍家はこれを知って特に喜び、三郎兵衛尉梶原景茂景時の三男)を派遣して詳細を調べさせた。
毎日の魚釣りを暮らしの糧としていたが、(殺生を続けたにも関わらず)いつも阿弥陀の宝号を絶えず唱えていた。頼朝は哀れに思い白米を遺族に与えて後生を弔うように指示した。
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   ※殺生: 漁夫と同様に殺生を続け、五年後に死期を迎える頼朝を対比させた意味があるのだろうか。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月4日
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吾妻鏡
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右京進(中原)季時は寺社の訴訟を取り扱うように命令を受けた。
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   ※右京進季時: 4月3日にも記載あり。鎌倉時代初期の文官中原親能の嫡男。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月5日
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吾妻鏡
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御所の軒屋根に菖蒲を葺く作業を檜皮葺師の仕事にせよとの仰せがあり、毎年政所の下級職員の扱いとする。
今日は鶴岡八幡宮の神事である。将軍家の参詣があった。
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   ※八幡宮の神事: 五節句の一つ(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の
重陽)。剣の形に似た菖蒲を尚武に懸けて男子の成長を祈る風習は鎌倉時代から始まったとされるが、頼朝の時代に定着していたかは判らない。元々は月初(端)の午の日を意味し、午が五に通じて更に重なる五月五日が端午の節句となったらしい。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月10日
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吾妻鏡
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砂金百三十両を京都に送り、朝廷に献上するよう前中納言一條能保卿に指示した。これは東大寺大仏の鋳造鍍金に使うもので、春に献上(3月22日に二百両)した残余分である。全体で三百両が必要らしい。
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   ※計330両: 律令制の度量衡を適用すれば一両は41~42gだから13.6kgの計算になるが、当時の価値
(例えば米とのレート)が判らない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月14日
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吾妻鏡
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六代禅師の処遇について、しばらく関東に留まるようにとの決定が下された。これ平治合戦の際に故小松内府(平重盛)が源家のためになる進言をしてくれた、その恩顧を忘れていない結果である。
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   ※六代禅師: 4月21日に記載がある平維盛の遺児。清盛の祖父正盛(政盛)から六代目の意味で幼名を六代、
祖父の重盛は平治の乱の後に囚われた頼朝の助命を清盛に進言した、とされる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月20日
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吾妻鏡
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左衛門尉宇都宮朝綱法師が百余町の公田年貢を掠領しているとの訴えが下野国司(藤原)行房から 後鳥羽上皇への奏聞を経て届いた。将軍家は非常に驚き、それが事実ならば重い罪に問うべきである、とした。
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   ※年貢掠領: 7月に刑が確定。三代当主朝綱と、孫(四代当主業綱(成綱・建久三年(1192)に早世)の子)の
頼綱(長男・後の五代当主)および朝業(四男・塩谷氏の祖)の三人も流罪、宇都宮氏にとっての大事件に発展する。詳細の説明は後述。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月24日
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吾妻鏡
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侍所の序列に関し、別当の和田義盛と所司の梶原景時に支障がある場合の決裁は左近将監大友(古庄)能直が担当せよとの指示が下された。
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   ※大友能直: 出自は曽我領の西側に隣接する足上郡大友郷(現在の小田原市大友・地図)、頼朝落胤説もある
側近で元々は近藤姓。平安初期から足柄古道ルートを統治していた大伴部氏の地名から大友に改姓したらしい。豊後守護職に任じ、子孫には北九州屈指の戦国大吊となりキリシタン大名として知られた大友宗麟が出ている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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5月29日
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吾妻鏡
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東大寺落慶供養に関して発生する雑事の手配書と目録を民部卿吉田経房を経て奏上するべく送付した。また僧侶への布施や寺への供米などは御家人に寄進を求めよとの沙汰が発せられた。最初に建立してから寄進を軸として運営している、今が最も必要とされる時期である、と。
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因幡前司大江廣元・大夫屬入道三善康信らを奉行として、国中の寄進を求める旨の指示書が諸国の守護人に下された。
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   ※右画像 は光明皇后1250年大遠忌法要(2010年)の大仏殿。
          右画像をクリック→ 拡大表示
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天平宝字二年(758)に完成した大仏殿は治承四年(1180)12月28日の南都焼討ちで焼失、建久六年(1195)3月に再建落慶供養、永禄十年(1567)11月に戦火で焼失、宝永六年(1709)に再建落慶供養して現在に至る。
また明治12年~大正4年に屋根修理、昭和48年~55年に屋根などの大規模修理が行われている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月10日
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吾妻鏡
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左衛門尉和田義盛に命じて皇后宮大進為宗の家人源五七郎を拘禁した。これは去年に 横山権守時廣が献上した異形の馬を奥州外浜に放すよう命じたにも拘らず、途中で射殺したためである。
命令を守らなかったのが露見して逃走したが主人の為宗に命じて捕らえ引き渡された。
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   ※皇后宮大進為宗: 常陸入道念西の長子。父と共に奥州合戦に加わり功績を挙げた。為宗は本領の常陸国
伊佐郡(現在の筑西市)に留まり、承久の乱(1221)の宇治川合戦で戦死した。
父と弟らは伊達郡に下って伊達氏の祖になっている。
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   ※異形の馬: 去年の7月24日に記事が載っている。原文では「称有煩《なので「面倒なので《殺したのだろう。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の伶人らは三善康信の管理下に属するようにとの仰せがあった。
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   ※伶人: 雅楽や神楽の演奏に携わる者。太政官に置かれた雅楽局の楽人が始まり。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月15日
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吾妻鏡
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将軍家が六代禅師を呼んで対面した。謀叛などの気持ちがなければ一寺の別当職に補任しようとの仰せである。
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   ※六代禅師: 4月21日と5月14日に記載がある平維盛の遺児。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月17日
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吾妻鏡
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若公(後の頼家、8月で満12歳)が岩殿観音堂(坂東三十三観音のサイト)に参籠。その間に相撲があり、力自慢の従者らの勝負を楽しんだ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月25日
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吾妻鏡
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数名の囚人が京都から護送され鎌倉に着いた。奥州への流罪に処すよう左近将監伊沢家景の代官に指示が下った。彼らの罪状は強盗の類である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月26日
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吾妻鏡
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未明に将軍家が甘縄宮に参拝した。伊勢神宮の末社である。
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   ※甘縄神明社: 創建は和銅年間(708~715)、鎌倉で最も古い神社と伝わる。祭神は伊勢神宮(内宮)と同じ
天照大御神。ちなみに、外宮の祭神は食物と穀物を司る女神・豊受大神。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月28日
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吾妻鏡
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東大寺の復興造営は将軍家を筆頭に多くの人々が携わっている。使用する材木は左衛門尉佐々木高綱に命じて主に周防国からの供給に頼り、また二体の菩薩像と四天王像は御家人に造立を指示してある。
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観音菩薩像は左衛門尉宇都宮朝綱法師、虚空蔵菩薩像は穀倉院別当中原親能、増長天像は畠山次郎重忠、持国天像は武田太郎信義、多聞天像は小笠原次郎長清、広目天像は梶原平三景時の担当である。
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また戒壇院の造作は左衛門尉小山朝政千葉介常胤らに命じているが、作業が遅延しているため今日催促が下された。各々が仏との結縁を願い力を尽くすべしとの指示を既に与えている。命令に従うだけと考えての怠慢であれば辞退せよと、厳しく仰せられた。
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   ※戒壇院: 僧が守るべき戒律を与える「授戒」(僧から見ると受戒)を
行う場所。唐の高僧鑑真(wiki)が天平勝宝五年(753)に来朝して東大寺大仏殿前に戒壇を設けて聖武天皇ら400人に授戒し、後に大仏殿の西に堂を建て戒壇院(現在は四天王立像を収蔵)としたのが最初。
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戒壇そのものは唐招提寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺にも設置され、更に延暦寺や三井寺にも設けられた。
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現在では何と創価学会まで戒壇を備えている。
戒律その① 「政治権力には迎合する」なんちゃって。
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それは兎も角として下野 東山道の史跡の中段で戒壇と下野薬師寺について少し記述してある。また、焼き討ちのあった治承五年(1181)1月18日の吾妻鏡も参照されたし。
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      右画像は下野薬師寺戒壇の復元模型(クリック→ 拡大表示)。東大寺の戒壇堂は公式サイトで。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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6月30日
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吾妻鏡
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武蔵国の大河戸御厨に於いて、御厨の者と伊豆宮(越谷の久伊豆神社・wiki)の神人(下級神職)の間で喧嘩が起きたとの噂が届いた。将軍家は特に驚き、詳細を確認するよう命じて掃部允 二階堂行光を派遣した。
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   ※大河戸御厨: 伊勢神宮領の御厨で現在の松伏町大川戸(地図)から古利根川に沿って約5km下流域の吉川
近くまでを含んでいた。寿永三年(1184)に頼朝が臨時祭などの費用として伊勢神宮の外宮に寄進し、しばらくして内外両宮の所領となった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月3日
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吾妻鏡
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民部卿吉田経房からの連絡あり。東大寺落慶供養の予定は明春正月と決めているが、遠国の人々が仏との結縁を求めて上洛すれば時期的には問題がある。将軍の上洛により本領で正月を過ごせない者の不満もあるだろうし、少し延期する方が結縁を願う庶民の気持ちにも叶うだろう、と。
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   ※吉田経房: 建久二年(1191)1月に正二位に昇叙し今年の11月には中納言となる。現時点では関東申次
の初代として鎌倉との協議・折衝の窓口を務めている。この就任時期は不明(吾妻鏡には記載なし)だが、政所など組織を整備した建久二年1月15日の前後だろうか。
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   ※関東申次: 鎌倉幕府側の窓口が六波羅探題で、朝廷側の窓口となったのが関東申次。
設置当初は幕府側の要請または私的な指名を受けた公卿(吉田経房もこのケース)が就任し、寛元四年(1246)以後は幕府指名による正式な役職となった。
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   ※六波羅探題: 承久の乱(1221年)後に従来の京都守護を改編、出先機関として北(上席)と南を置いた。
本拠は南平家一門の本拠だった鴨川東岸(六波羅の地図)、承久の乱で 後鳥羽上皇に与した貴族らから没収した(主として西国の)荘園の管理と地頭の配置などを最初の業務とした。
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政情が落ち着くに従って武士に対する警察権の行使も付与され北條一門の若手御家人の出世コースにもなったが、実質的な権限は鎌倉が掌握していたため赴任を嫌う者も多かったらしい。
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設置当初は単に六波羅と呼ばれ、探題の名称を付与したのは鎌倉時代末期になる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月8日
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吾妻鏡
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将軍家ならびに御台所が鶴岡八幡宮に参拝した。
西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月14日
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吾妻鏡
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永福寺の境内に一宇を建立し、今日が上棟式である。将軍家が来臨し工匠らが褒賞を与えられた。
棟梁には馬三疋(一疋は鞍置き)と飾り太刀を一振り、棟梁以外の大工には各々馬一疋と白布十反である。差配を務めたのは二階堂行政中原仲業
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   ※寺域に寺: 来る9月11日の記述に「永福寺内新造御堂宿直...」とあり、薬師堂を建てたと推定される。
薬師如来は病を癒す霊験がある。大姫の病気平癒を祈っての建立だろう。
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神仏習合の時代には同じ寺域に複数寺社の混在が普通だった事も念頭に置く必要がある。
吾妻鏡の文治五年(1189)9月16日は平泉についての記述(関山の地図を参照)。
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   中尊寺の寺塔は四十余、僧坊は三百余 毛越寺の寺塔は四十余、禅坊は五百余
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つまり中尊寺の場合なら関山に散在していた僧坊は各々独立した寺で全体の堂宇を統括していたのが現在の中尊寺、支配と表現するよりも緩やかな連携関係にあったと考えるべきか。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月16日
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吾妻鏡
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信濃国の大井庄が納めるべき年貢について、今年は十一月中に京都に完納せよとの仰せがあった。
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   ※大井庄: 八条院領の佐久郡大井郷(現在の佐久市の湯川流域(地図)で大井庄12郷24村、西部の根井地区
木曽義仲 四天王の一人根井行親の本領だった。大井庄は後に承久の乱(1221)の宇治川合戦で功績を挙げた小笠原長清に与えられ、三男朝光が継承して大井氏の祖となった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月20日
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吾妻鏡
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将軍家の御鎧・御劔・弓箭などを鎮西の鏡社に奉納した。鏡社の大宮司草野大夫永平が提起した訴訟について代官が鎌倉に派遣され、大蔵卿頼平(武藤資頼の養父)が担当として訴状を受け取った。
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   ※鏡社: 佐賀県唐津市にある鏡神社(wiki)。天平十二年(740)に北九州で大規模な反乱を組織した藤原広嗣
藤原不比等(wiki)の三男・宇合の子)を二ノ宮の祭神に祀っているのが面白い。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月23日
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吾妻鏡
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江間殿(北條義時)が伊豆国に下向した。願成就院の破損を修理するのが目的である。

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   ※7月23日: 西暦では8月11日、台風による損壊だろうか。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月28日
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吾妻鏡
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中納言一條能保卿の飛脚が鎌倉に到着して報告。左衛門尉宇都宮朝綱入道は国司の訴えによって罪科が確定し、20日に配流の官符が下った。朝綱は土佐国、孫の弥三郞頼綱は豊後国、同・五郎(横田)頼業 は周防国である。
また廷尉(検非違使)の(源)基重らも朝綱法師を弁護した科によって京都追放処分となった。
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将軍家はこれを頻りに嘆き、武田(板垣)兼信佐々木定綱や宇都宮朝綱はいずれも貴重な人材である、定綱は山門比叡山延暦寺(公式サイト)の訴えなので対応できず、朝綱の年貢横領は関東のため名誉を失う結果となったと嘆き、(慰労のため)結城七郎朝光を京都に派遣した。
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   ※朝綱流罪: 結果は年貢の横領なのだが実態は鎌倉幕府による事務処理の手違いが原因で、朝綱には犯意が
なかった。文末の「爲關東頗失眉目之由云々」は「関東の名誉を貶めた」ではなく「関東のために名誉を失った」と理解される。
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   ※板垣兼信: 武田信義の次男で一條忠頼の弟、武田有義石和信光の兄。謙信と嫡子頼時の隠岐流罪は勅令
に背いた形を執っているが頼朝が弁明した気配がなく、「気が済むように処分してくれ」の様な突き放し方をしている。実質は甲斐源氏の弱体化を狙った頼朝による粛清だが、これが実際に頼朝の発言か否かは不明。吾妻鏡による曲筆の一つなのは間違いない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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7月29日
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吾妻鏡
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将軍家の姫君(大姫)が昨夜から体調を崩し、再三の事ではあるが今回は特に危急である。志水義高の事件があってから悲しみのため日毎に憔悴し続けている様子は貞女の鏡、と衆人が噂している。
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   ※義高の事件: 元暦元年(1184)4月21と26日の記事を参照。また清水冠者終焉の地班渓寺と鎌形八幡
大船の常楽寺などに関連情報あり。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月1日
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吾妻鏡
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今日から放生会(15日)までは殺生を禁止する旨の仰せがあった。東国の分は二階堂行政の差配である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月3日
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吾妻鏡
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御所に於いて毘沙門天(wiki)絵像の供養を行った。導師は法橋行恵である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月8日
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吾妻鏡
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将軍家は早暁寅刻(4時前後)に出発し相模国日向山(現在の宝城坊 日向薬師・公式サイト)に参詣した。 行基菩薩が建立した薬師如来の霊場で、相模国では最も霊験が顕著と考えての訪問である。将軍家は騎馬、着衣は水干。
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  先陣の随兵
    畠山次郎重忠    土屋兵衛尉義清     八田左衛門尉知重
    曽我太郎祐信    足立左衛門尉遠元    比企彌四郎時員(能員の三男)
    渋谷庄司重国    岡崎先次郎政宣     三浦左衛門尉義連
    梶原左衛門尉景季  加々美次郎長清     里見冠者義成
    北條五郎時連    小山左衛門尉朝政
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  御劔役は結城七郎朝光  御調度懸け(弓箭を携行)は愛甲三郎季隆
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  御後(水干を着す)
    武蔵守平賀義信     上野介憲信       上総介足利義兼
    伊豆守山名義範     開瀬修理亮義盛     因幡前司大江廣元
    下河邊庄司行平   下河邊四郎政義     千葉新介胤正
    千葉六郎大夫胤頼  三浦介義澄       三浦兵衛尉義村
    稲毛三郎重成    葛西兵衛尉清重     八田右衛門尉知家
    佐々木中務丞経高  佐々木三郎盛綱     加藤次景廉
    江兵衛尉(大江)能範(承久の乱で京方となり処刑、詳細不明)
    和田左衛門尉義盛    梶原平三景時    北條小四郎義時
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  後陣の随兵
    武田五郎信光    榛谷四郎重朝      小山五郎宗政
    江戸太郎重長    長江四郎明義       梶原三郎兵衛尉景高
    相馬次郎師常    野三刑部丞成綱     新田四郎忠常
    下河邊六郎光脩   所六郎朝光       境兵衛尉常秀
    梶原刑部丞朝景   佐々木五郎義清
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因幡前司大江廣元が下毛利庄に於いて食事を献じた。本尊(薬師如来)を拝して祈った後、夜になって鎌倉に還御した。夜を徹して参籠すべきだが(15日の)放生会の忌になるため回避した。
今回の参拝の本意は、姫君(大姫)の本復を祈るのが内々の目的である
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   ※日向薬師: 行基の開基と伝わる古刹(実際には平安時代中期か)。
本堂や宝殿には平安時代の造像と推定される薬師三尊像(950年前後の作か)をはじめ26点以上の仏像を安置している。詳細画像 こちら(公式サイト)から。
2016年2月現在は本堂大修理のため何も見られない。
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   ※下毛利庄: 相模国愛甲郡現在の厚木市西部の下古沢(地図)地区
を中心にしたエリア。地図のマーク地点の三島神社境内に「毛利氏発祥の地」の碑があり、大江廣元の四男季光の屋敷跡と伝わっている。
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元々の愛甲郡はほとんどが山林だったため「森の庄」とも呼ばれ、最初に領有した八幡太郎義家の六男陸奥義隆の通称も森冠者だった。石橋山合戦で頼朝と戦った大庭景親に従っていた毛利太郎景行が後に頼朝に従って御家人に列しており、義隆が領有していた1150年頃から30年後までの間に森が転訛して毛利になり、平家の家人景行の所領になったのだろう。
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この毛利庄が勲功を重ねた恩賞として大江廣元に与えられ、季光が相続して毛利季光を名乗ることになる。毛利景行一族は建暦三年(1213)の和田合戦義盛に味方して滅亡した。
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一方で季光は三代執権泰時から評定衆に任命されて幕府重鎮の一人となり、1247年の宝治合戦で三浦泰村に味方し頼朝法華堂で自刃している。当初は北條方に与するつもりだったが妻(泰村の妹)に「武士の所業に非ず」と言われて三浦に加わった、と吾妻鏡が記載している。
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宝治合戦によって毛利一族の大部分は滅亡し、所領の越後にいた季光の四男経光だけが連座せずに生き残り、子孫から戦国大名の毛利元就が現れることになる。
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   ※岡崎政宣: 三浦義明の弟・義實が大住郡岡崎(館跡・サイト内リンク・別窓)を継承し岡崎義實を名乗ったのが
岡崎氏の最初。義實の子は石橋山合戦で討死した長男佐奈田義忠土屋宗遠の養子に入った次男義清だけで、両者とも政宣を名乗った事実はない。
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土肥實平の嫡子遠平の子・維平=政宣との説もあるが彼は小早川を名乗って本領の土肥を相続しているし、そもそも根拠となる史料が存在しない。結論として岡崎政宣の素性は判らない。
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   ※上野介憲信: 詳細不明。上野介に任じた人物の中に憲信に該当する者なし。
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   ※開瀬義盛: 建仁二年(1202)6月の日吉社の文書に「越後国豊田荘地頭の開瀬義盛は神体を破壊して多くの
神人(下級神官)30余人を縛り上げ鎌倉に連行した」との記載がある。出自などは確認できない。
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   ※長江明義: 系図が錯綜しているが鎌倉氏の一族で梶原景時大庭景義らと近い縁戚関係にある。
明義は現在の葉山町長柄(地図)を本領とした弓の名手・義景の庶長子で、一族は宝治合戦(1247)で三浦泰村勢に加わって滅亡している。
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   ※下河邊光脩: 行平の一族なのは間違いないだろうが、系譜に記載なし。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月12日
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吾妻鏡
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(京都六条堀河の)左女牛(六条若宮)の宮寺に於いて特別の祈祷を行なうよう李厳阿闍梨に仰せを下した。
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   ※六条若宮: 第70代後冷泉天皇の勅願に従い源頼義 が六條堀川邸の坤(南西)隅に石清水八幡宮を勧請した
のが最初。宮寺の記載はないが、同時に神宮寺も建てたのだろう。
地図など詳細は文治三年(1187)1月15日の吾妻鏡で。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月14日
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吾妻鏡
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将軍家の御外甥である右兵衛督一条高能朝臣が京都から鎌倉に下着し、幕府に参上して対面した。宿舎は他処に求めず、小御所に滞在となった。
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   ※小御所: 御所の一角に設けられた建物で通常は将軍の後継者の住まいを差す。皇居における東宮御所と
同様か。対語が家康を差す言葉として知られた大御所らしい。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会である。舞楽が催され、将軍家も参席した。右兵衛督一条高能朝臣は廻廊に着座した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月16日
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吾妻鏡
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(放生会に伴う)馬場での流鏑馬などは通例通りに行われた。将軍家が参席し、江間太郎(北條泰時)が初めて流鏑馬の射手を務め褒美に預かった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月18日
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吾妻鏡
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姫君(大姫)の病状がやや回復し沐浴の儀を行ったが、容態の安定が危ぶまれるため人々の危惧は鎮まらず、将軍家の憂いが晴れることはない。御台所(政子)は一條高能との婚姻を内々で推奨したが承諾せず、「そのような儀に及ぶなら身を深淵に沈める」と答えた。これは志水冠者義高との懐旧の思いがあるからで、これを伝え聞いた一條高能は「この婚姻の件は進めるべきではないでしょう」と女房(女官)を介して御台所に伝えた。
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   ※大姫の抵抗: 原文は「可沈身於深淵之由被申云々」、意訳すれば「そんな事したら死んでやるからね!」
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月19日
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吾妻鏡
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遠江守安田義定が梟首された。嫡子の義資を誅殺され所領を没収されてから頻りに五噫を歌い(嘆き憂いること)、また日頃から懇意にしている輩と相談して謀反を企てているのは既に明らかだった。
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遠江守従五位上 源朝臣義定(年六十一)、安田冠者義清の四男。
壽永二年八月十日に遠江守に任じ従五位下に昇叙。文治六年正月二十六日下総守に叙任。
建久二年三月六日遠江守に還任。同年月日従五位上に昇叙。
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   ※義定梟首: 鎌倉大草紙「義定は梶原景時安田義定が率いる追討軍を
迎えて、法光寺(現在の放光寺)で自刃」と書いており、。甲府盆地に残る義定の史跡数ヶ所は牧丘の小田野山以下に記述した。
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   ※鎌倉大草紙: 室町時代の東国を記録した軍記物語的な色彩の濃い歴史書。
著者は武蔵千葉氏(千葉常胤を継いだ胤正から15代後の胤宣の時代に武蔵千葉氏と下総千葉氏に分裂)の縁者らしい。
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この資料が描いている時代は康暦二年(1380)~文明十一年(1479)の100年間。安田義定の死没は上巻で触れている。
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右画像は放光寺の山門を守る金剛力士像の吽形。無銘だが、南都仏師の正統康朝の嫡子成朝(運慶 の父康慶の兄弟子)の作と考えられている(寺伝の惟肖記は「南京彫工浄朝」と記録)。
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定朝が造った勝長寿院の本尊(丈六阿弥陀如来)は文治元年(1185)10月21日の安置だから、この金剛力士像が定朝作ならば放光寺の創建(元暦元年(1184)・開基は義定)と同時だろうから、勝長寿院よりも一年古いことになる。   画像をクリック → 放光寺の詳細へ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月20日
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吾妻鏡
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名越の付近で遠江守安田義定の仲間五人の首を刎ねた。前の瀧口榎下重兼、前の右馬允宮道遠式、麻生平太胤国、柴籐三郎、武籐五郎らである。左衛門尉和田義盛がこれを差配した。
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   ※仲間五人: いずれも義定の家人だろうが素性の見当がつくのは甲斐武藤氏の縁者である武藤五郎のみ。
彼の詳細は元暦元年(1184)6月16日の吾妻鏡(一條忠頼謀殺)に「...忠頼を刺し殺した。
この時に武藤與一と山村小太郎らが太刀を取って部屋に駆け上がり多数を負傷させた...」
との記述がある。武藤五郎については上記「義定の史跡」の放光寺の項に追記した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月21日
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吾妻鏡
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和田義盛が新恩(新領付与)を得た。安田義定の党類追討の恩賞である。再三の勲功を併せての処遇となった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月22日
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吾妻鏡
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将軍家が歯痛のため体調不良。雑色が上洛して良薬を求めることになる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月26日
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吾妻鏡
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将軍家の体調が回復し、一条高能を伴って勝長寿院と永福寺などに参拝、し更に多古江河の付近を遊覧した。
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   ※多古江河: 現在の逗子海岸に流れ込む田越川(地図)を差す。大倉御所からは約7km、騎馬での周遊か。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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8月27日
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吾妻鏡
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京都で調達した金泥の法華経五部が鎌倉に届いた。勝長寿院と永福寺の持仏堂に安置するためである。
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   ※金泥の法華経: 経文の種類は違うが同じ金泥、中尊寺一切経(サイト内リンク)を参考に。
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   ※持仏堂: 携帯したり私室に安置して普段信仰する仏像(持仏・念持仏)を安置する堂。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは8月の次が閏8月)。
西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。

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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月1日
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吾妻鏡
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将軍家が右武衛一条高能を伴って三浦に渡御された。これは三崎の津に於いて御山庄を建てるための視察である。上総介 足利義兼北條時政 殿ら多数の供が同行し、まず小笠懸が行われた。
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  射手     下河邊庄司行平    小山七郎朝光
         和田左衛門尉義盛   八田左衛門尉知重
         海野小太郎幸氏    藤澤次郎清近
         梶原左衛門尉景季   愛甲三郎季隆
         榛谷四郎重朝      橘次公業(公成)
         里見冠者義成
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黄昏が近づいた頃に御台所および若君(頼家)と姫君(大姫)らが渡御された。小山五郎宗政三浦兵衛尉義村佐々木中務丞経高・梶原三郎兵衛尉景義(景時の四男)・工藤小二郎行光・小野寺太郎道綱右京進季時・江兵衛尉能範らが供として同行。三浦介義澄の準備により豪華な酒宴あり。三崎津の眺望は海の白浪と青い山の景色が素晴らしい。

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   ※小野寺道綱: 源為義に従っていた藤原義寛(滝口の武士)が恩賞として得た
下野国都賀郡の小野寺(現在の岩舟町小野寺・地図に土着したのが一族の最初と伝わる。
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道綱は源頼政以仁王が挙兵した際には平知盛の配下として勇名を馳せた。その後は頼朝の御家人として転戦、奥州合戦の軍功により出羽国雄勝郡の地頭職を得た。ただし出羽に土着したのは四代後の経道の頃(1250年前後)となる。道綱は承久の乱(1221)年6月に宇治川合戦で討死した(68歳)。
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ただし湯沢市の伝承では「出羽郡司小野良実の娘が都に帰任する父に従って都に上り小野小町になった、40歳前後で故郷に帰り90歳を超えた頃に他界した」と伝わっている。
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彼女の遺跡の一部を道の駅おがちに掲載した。栃木と秋田の小野が同じ地名になった理由は不明。
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右画像は現在の秋田県行政区分図。雄勝郡は南部の羽後町・湯沢市・東成瀬村+横手市南部の隣接エリアを含む。
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   ※大江能範: 大江氏の一族だが系図にないため継続捜索中。承久の乱で京方に属し処刑されている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月2日
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吾妻鏡
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御台所(政子)が鎌倉に還御。今日は彼岸の初日、七日間は持仏堂で法事を行なうためである。仏は釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩・観音菩薩・文殊菩薩・不動明王、供養は法華経ならびに読誦、当日の導師は法橋定豪
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三浦では再び小笠懸、昨日の勝負の続きである。その後に船中で酒宴。遊女が小舟で漕ぎ寄せて同行の小法師らが猿楽(wiki)を演じ、見物人は上から下まで解頷(顎を解く=大笑い)した。
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   ※小法師: 御所庭園の清掃や手入れなどに従事した賤民。中世には御庭者・河原者として道化にも任じた。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月3日
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吾妻鏡
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将軍家ならびに右武衛(一条高能)が三浦から鎌倉に還御された。
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   ※一條高能: 大姫 との縁談が纏まらずに帰洛した高能は松殿基房の娘を正妻に迎え、建久八年(1197)には
従三位に昇叙、鎌倉幕府のバックアップもあって出世街道を突き進むが...その翌年9月17日に満22歳で病没。奇しくも、前年7月には大姫が満19歳で病没している。
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一條家は異母弟(生母は糟屋有季の娘)能氏が継承、彼は実朝が暗殺された建保七年(1219)1月の右大臣拝賀式典にも列席して暗殺を目撃している。もう一人の弟・能継(生母は従二位権大納言藤原隆季の娘)は叔父の信能(能保の次男で母は江口(大阪府東淀川区)の遊女)と共に承久の乱に加担して宮方に加わり、斬首されている。能氏の関与はなかった、らしい。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月7日
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吾妻鏡
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安田義定朝臣の遺した土地と屋敷を江間殿(北條義時)の拝領となった。
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   ※土地と屋敷: 義定の屋敷は大倉御所に隣接した一等地だったらしい(正確な位置は不明)。当時の通例では
罪に関与しなかった同族による相続が通例なのだが、1205年の畠山重忠追討の際も1213年の和田義盛の際も遺領は北條氏が勝手に分配している。
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それにしても、自分の死後に股肱の臣を次々と殺され、更に息子二人(頼家実朝)を殺され、妻の実家に全てを奪われる結果を招く頼朝の哀れさと愚かしさ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月8日
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吾妻鏡
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御台所仏事の結願である。今日、志水冠者義高追善供養のため追加の読経が行われた。
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   導師は 法橋定豪  請僧は 法眼行恵  堅者は 阿闍梨恵眼密蔵
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  読経と仏事の後に故人の追憶などの法話があり、聴衆はみな随喜と悲嘆の涙を流した。
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  布施  導師に被物三重と裹物二つと五衣一つ(加えて供米三石)
        請僧一人に付き  被物一重と裹物一つと供米一石
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皇后宮大進(伊佐)為宗(常陸入道念西の嫡子、大進局の兄)と修理亮(関瀬)義盛と安房判官代高重と籐判官代邦通新田蔵人義兼らが配布し、図書允清原清定がこれらの準備を行った。
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   ※請僧: 導師の他に外部から招かれた、同士よりも格下の僧を差す。
   ※賢者: 仏法を議論する際に質問に答える役目を担当する僧。
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   ※清原清定: 公事奉行人、政所寄人として訴訟の判決などを担当した。建久五年(1194)には大庭景義と共に
鶴岡八幡宮の御願寺社奉行に任じた。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏 8月8日
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吾妻鏡
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相模守大内惟義が美濃国の没収地などを下賜された。
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   ※没収地: 安田 義定 の遺領だろう。大内惟義は新羅三郎義光の三男平賀盛義の孫、一方の安田義定は義光
の次男武田義清の孫だから清和源氏の比較的近い同族で美濃国守護が交代したことになる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月12日
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吾妻鏡
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但馬国多々良岐庄を初めて地頭を補任する地とし、熊野の鳥居禅尼を地頭に任じた。禅尼の所望である。
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   ※多々良岐庄: 現在の兵庫県朝来市多々良木(地図)。鳥居禅尼は頼朝の父義朝の姉妹(行家の姉)だから、
もし安田義定が関与していた土地なら一応は同族が継承する形になるが、これは判らない。
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原文の「始爲地頭補任」つまり「初めて補任」って、補充に任命するのが補任だろうから、「初めて」では意味が相反するような気がするのだが。
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ちなみに多々良岐庄は村上源氏の公卿・源兼忠が領家であり、来る9月23日には正式な下文が発行される。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月15日
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吾妻鏡
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将軍家が鶴岡宮に御参拝、自ら供物を供える役を務めた。
西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月16日
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吾妻鏡
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前黄門(中納言)一條能保の使者が京都から到着し、去る二日に病気に伴って出家した旨を報告した。年齢は48歳、侍中(属官、副官)の三兵衛尉兼経と小舎人の荒四郎らも同様に出家を遂げた。
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   ※一條能保: 二ヶ月後の10月13日に死没する。閏8月の時点で死期を悟り出家したのだろう。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月21日
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吾妻鏡
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将軍家の支配下にある関東分国の寺社の燈明費用などに関しては規律に従って年貢を納付し齟齬なく務めるよう、各地の地頭に命令を下した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月22日
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吾妻鏡
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将軍家が甘縄宮(伊勢神宮の別宮)に御参拝。御所に還御する途中で安達盛長邸に入御された。
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   ※伊勢神宮の別宮: 祭神は同じ天照大神、和銅(710)に染谷太夫時忠が創建し承暦五年(1081)に 義家
社殿を再建と伝わるが、これは陸奥守に任じて奥州に下向した永保三年(1083)だろう。
甘縄神社の鳥居から約300m東南東に染谷時忠邸跡の碑(地図)が建っている(画像)。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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閏8月28日
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吾妻鏡
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平六左衛門尉北條時定の遺領については子孫が領掌せよと命令があった。また管理下にあった本所の所領少々は早急に本所に返却せよとの指示である。
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   ※時定の遺領: 前年春に死没したのに今頃になって何故?の感がある。数ヶ所の地頭職に任じていたらしいが
明確な所領は記録にないし、北條時政の影みたいな人物で妻子の有無や記録も見当たらない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月2日
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吾妻鏡
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東大寺大仏殿落慶供養に配る御布施の品を京都に送らせた。中原仲業二階堂行政がこれを差配し、雑色の時澤と清常に明細の送り状を持たせ派遣した。
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   ※雑色の時澤: 彼の名が初めて現れたのは治承四年(1180)年、「出雲の時澤が雑色の長に任命された。毎日
仕えている雑色は数多いが、合戦に際しての功績が他の雑色より優れているためである。
との記載がある。挙兵の前から仕えていた人物らしい。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月3日
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吾妻鏡
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御所で毘沙門天(wiki)の講演が始められた。
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   ※講演: 経典の講義を行い、併せて仏法を説く法会。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月6日
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吾妻鏡
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将軍家が三浦三崎の別業に渡御された。鶴岡八幡宮の稚児を呼んで廻雪の袖を翻えさせ、その後に小笠懸の勝負を観覧した。
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   ※別業: 業は家を意味し、別業は別荘・別宅となる。
   ※廻雪の袖: 風が吹き上げた雪のように翻る袖の動き、転じて舞いを意味する。出典は源氏物語か。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月11日
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吾妻鏡
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永福寺に新築した薬師堂の宿直当番の担当割り当てを行なった。結城七郎朝光畠山次郎重忠和田左衛門尉義盛らが含まれている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月22日
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吾妻鏡
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将軍家の歯痛が再発した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月23日
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吾妻鏡
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但馬国多々良岐庄は源宰相(村上源氏の公卿・源兼忠)が領家なのだが、熊野の鳥居禅尼(故義朝の同母姉)が日頃から特に欲しがっていた荘園であり、他でもない事なので地頭に補任する下文を発行した。ただし領家への義務と決まっている年貢や賦役については過怠のないように書状で指示を与えた。
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   ※多々良岐庄: この件は閏8月12日に最初の記事が載っている。「補任」は単純に「任命する」の意味と「交代の
補充に任命する」の意味で使い分けるケースがある。文面を読み分ける必要がありそうだ。
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   ※他でもない事: 「同族の関係だから」の意味らしい。第62代村上天皇の子孫と第56代清和天皇の子孫だから
広い意味の同族には含まれるだろうけど、そこまで範囲を広げたら源氏も平氏も、日本中全てが同族になっちゃう、と思う。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月25日
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吾妻鏡
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岡冠者頼基が所有している大和国の所領は間違いなく安堵されているとの命令を再度下した。
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   ※岡頼基: 官位の表示がない事、関東に所領安堵された事、などから太田頼基(wiki)だろうと思う。
建久六年(1195)9月18日の記事に「蓮花王院(三十三間堂)領の大和国藤井庄(天理市藤井町)について、岡冠者頼基が関東一族の権威を背景に地頭を称して業務を乱しているとの訴えが領家から出された。「この件はは去る文治年間(1185~1190年)に発せられた院宣により地頭職を停止しているため関東は関与していない」との返答を送った。」との記載があり、やや経緯が理解できない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月26日
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吾妻鏡
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将軍家は歯痛の治療法を尋ねるため京都の医師に飛脚を派遣した。
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   ※歯痛: 抜歯治療は平安時代からあった筈だ。征夷将軍が、まさか抜歯が怖いわけでもあるまいに。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月28日
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吾妻鏡
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伊勢神宮と熱田神宮に神馬と御劔などを奉納した。大江廣元朝臣がこれを差配し、各々に使者を派遣した。
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   伊勢神宮の公式サイト訪問記、熱田神宮の公式サイト訪問記も参考に。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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9月29日
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吾妻鏡
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将軍家は三浦の矢部郷に新たな寺を建立しようと思い立った。故・三浦介義明の菩提を弔うためである。今日中原仲業に命じて現地の調査を行わせた。
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   ※矢部郷: 三浦義明が死没した衣笠城の東に隣接している(地図)。建久五年(1194)に北條泰時が元服した
席での頼朝の意向に従い、建仁二年(1202)8月に泰時に嫁した三浦義村の娘が後に離縁して 佐原(三浦)盛連連(義連の嫡子)に再嫁し、夫の死後に所領の矢部郷に帰って矢部禅尼を名乗った場所でもある。和田義盛の遺跡もあるし、この一帯は三浦一族の聖地と言える。
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   ※新たな寺: 横須賀市大矢部にある現在の義明山満昌寺)を差す。
(公式サイト・ここには義明の供養墓が残っている)
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満昌寺の創建は建久六年。三浦に残る祝い言葉の
「鶴は千年亀は万年、三浦大介百三つ(又は百六つ)」は義明の享年89歳に建久四年までの14年を加えた103、または頼朝が大規模な法会を行ったらしい建久八年(1187)までの17年を加えた106とも伝わる。
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残念ながら建久七・八・九年の吾妻鏡は欠落しているため、この法会に関する史料は確認できない。
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満昌寺から道路を隔てた南側の高台にある清雲寺(紹介サイト)には義明の先祖三代(為通・為継・義通)の古い五輪塔がある。ただし五輪塔が関東に定着したのは1170年代以後だから、鎌倉時代に建てた供養墓と解するべきだろう。
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また右地図(クリック→ 拡大)に記載した薬王廃寺跡は和田義盛が父の義宗と叔父の三浦義澄を弔って創建したもので、わずかに伝・義澄の墓石だけが残っている。
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義明の祖父為継(為次)は後三年の役を締め括った金澤柵の合戦で鎌倉権五郎景政の右目を貫いた矢を抜こうとして顔に足を掛け、怒った景政に危うく殺されかけた武士である。
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事件の詳細は後三年戦役最後の地 金澤の柵で。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大舎人允三善行倫(康信の次男)が訴訟の記録役に任じられた。今までは父の大夫屬入道善信が奉行職を務めていたが他の作業と重複する場合が多いため、行倫を推挙した結果である。
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   ※三善康信: 問註所執事に任じたのは周知の通り。五代目の康行(康信→ 康俊→ 康持→ 康永→ 康行と続く)
康行が正和二年(1213)に筑後国生葉郡(福岡県うきは市・地図)を得て土着し、姓を「問註所」に改めているのが面白い。南北朝時代以後の子孫は大友氏→ 小早川氏に仕えている。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月9日
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吾妻鏡
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将軍家が小山左衛門尉朝政の家に入御された。朝政の兄弟をはじめとして多数の一族が集まり、数人が御機嫌伺いに拝謁した。 将軍家はここで騎射の技に優れた者を集めて古い記録を閲覧し、流鏑馬などの作物についての奥義を語らせた。各々の家に伝わる極意も考え方も異なるため、前右京進中原仲業に命じて詳しく記録させた。
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これは来年の上洛に際し住吉大社に参拝して宿願を果たすため、特に優れた者を選んで流鏑馬を射させる下準備である。近畿の者たちに東国武者が行なう騎射の真髄を見せる意図と共に、若輩たちにその技術を学ばせるためでもある。加わった者は次の通り。  (これは騎射の勝負ではなく、参加メンバーの「騎射談義」だろう。)
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    下河邊庄司行平   小山左衛門尉朝政   武田兵衛尉有義
    結城七郎朝光     小笠原次郎長淸     和田左衛門尉義盛
    榛谷四郎重朝     工藤小次郎行光     諏訪大夫盛澄
    海野小太郎幸氏   氏家五郎公頼      小鹿嶋橘次公業
    曽我太郎祐信   藤澤次郎清近      望月三郎重澄
    愛甲三郎季隆     宇佐美右衛門尉祐茂  那須太郎光助(wiki・人物不詳だが、参考に).

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   ※作物: 建久元年(1190)8月16日の八幡宮放生会。治承四年(1180)に大庭景能に命じて斬首した筈の
河村三郎義秀に「三流れ作物を射よ」と命じた記述がある。義秀は三尺・手挟み・八的の三種類を見事に射抜いて観客を驚嘆させた、と。
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手元の史料では、「三尺」は的の寸法が六寸・串の長さが三尺三寸・距離が十九杖(27m)、「手挟み」は的の寸法が六寸・串の長さが三尺三寸・距離が十八杖(25m)、「八的」は的の寸法が四寸・串の長さが三尺三寸・距離が八杖(11m)。残念ながら作法や射法は皆目判らないのだが、これらに流鏑馬・笠懸・小笠懸などを併せた騎射の総称が「作物」らしい。
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   ※曽我祐信: 曽我兄弟の仇討事件直後の建久四年(1193)6月7日に「年貢を免除し兄弟の菩提を弔う費用に
宛てよ」と命じられている。家督を長男の祐綱に譲って引退し御家人の義務も免じられたと思ったが、まだ出仕を続けていた、らしい。
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   ※望月重澄: 弓の名手として数回登場する滋野望月氏の武士だが系譜には名前が見られない。弓の名手として
著名な重隆と同一人物じゃないかと思うのだが...。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月13日
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吾妻鏡
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永福寺境内に建てている新しい堂(薬師堂)は今年中に完成させ、導師として東大寺の別当僧正の下向を依頼する予定である。そのため右京進中原季時に招聘する使者としての上洛を指示した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月17日
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吾妻鏡
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将軍家の歯痛治療について頼基朝臣が送ってきた処方と良薬が安達盛長を介して献上された。頼基朝臣は関東の配慮を受けて参河国羽渭庄を所有する人物である。

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   ※丹波頼基: 丹波氏は渡来系氏族で代々医療と薬業に従事した。頼基の曽祖父は典薬頭の丹波重康、祖父は
医博士の丹波重頼、父は典薬頭の丹波基康。典薬頭は律令制で医療全般を司る典薬寮の長官。典薬寮に所属し医術と調剤を医学生に教える職が医博士。
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   ※羽渭庄: 現在の愛知県豊川市御津町金野灰野坂(地図)。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月18日
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吾妻鏡
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上総介足利義兼が使者として日向薬師堂に代参した。歯痛の治癒祈祷のためである。
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   ※日向薬師堂: 8月8日に頼朝が参拝している。詳細説明は当日の記載で確認されたし。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月22日
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吾妻鏡
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兵衛尉葛西清重が白い大鷹一羽を献上した。滅多にない逸物であり、直ちに 結城七郎朝光に預 けられた。
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   ※白い大鷹: アルビノ種だね。「albino hawk」で検索すると多くの画像が提示されるよ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月25日
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吾妻鏡
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勝長寿院で如法経十種供養を行った。これは故兵衛尉鎌田正清の娘が開いた法会である。同時に故左典厩 (源義朝)の菩提を弔うと共に亡父正清の追善を加え、勝長寿院本堂で僧侶による一千日の法華経読経を奉じた。願文(法会開催の趣意書)は信救得業の起草、因幡前司大江廣元が清書した。
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この法会の導師は大学法眼行恵、将軍家御台所が仏縁を結ぶために臨席した。経王(最も優れた教典=法華経を指す)の功徳も施主の懇志も富楼那を見るように細やかな配慮に満ち、聴衆は袖を涙で濡らす有様だった。上野介憲信と工匠蔵人と安房判官代高重らが布施を配った。
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施主を務めた女性の父・左兵衛尉鎌田正清は故左典厩義朝に仕えた股肱の臣で、二人は同じ場所で生涯を終えた。将軍家はそれを哀れんで遺族を捜したが男子はなく、娘だけが見付かった。尾張国の志濃幾庄と丹波国の田名部庄の地頭職を与えて旧恩に報いたものである。
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   ※富楼那: 釈迦十大弟子の一人で最古参、特に優れた弁舌だったと伝わっている。
   ※死没の地: 平治の乱(1160)に敗れ東国に落ちる途中で謀殺された。詳細は野間大坊で。
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   ※下賜の地名: 志濃幾庄は篠木・篠城とも。現在の愛知県春日井市篠木(地図)。
田名部庄は田辺・田造とも。現在の京都府舞鶴市の田辺地区、舞鶴城(丹後守護所の跡)のある一帯(地図)。
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   ※上野介憲信: 8月8日にも載せた、素性不明で私を悩ましている中の一人。困った奴だ。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月26日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬八疋と砂金・紫絹・染絹・綿などを運ぶ雑色が上洛の途に就いた。昨夕の出立である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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10月29日
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吾妻鏡
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六郎大夫東胤頼の子息らが本所や瀧口に勤務する場合、今後は許可制に拠らず 其々の判断に委ねよとの仰せが下された。

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   ※本所や瀧口: 本所は重層する荘園領主(本家・領家・預所)の中で現実に荘園を支配している実権者を差す。
瀧口は朝廷を警護する賦役。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月1日
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吾妻鏡
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北條時政殿が三嶋大社の祭礼を援助するため子息の五郎時房を伴って伊豆国に下向した。
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   ※三嶋大社の祭礼: 最も古く重要な一つが11月16日(新暦)の酉祭(とりまつり)、新嘗祭と同様に穀物の収穫
に感謝する例祭だとされる。ひょっとするとこの祭礼が原型かも知れないね。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月2日
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吾妻鏡
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将軍家は武蔵国太田庄の堤防を補修強化する工事は来年の三月までに完成させるよう指示を下した。

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   ※太田庄: 藤原秀郷の孫で鎮守府将軍に任じた兼光の孫・行尊
(つまり秀郷から六代目)が武蔵国東部の低湿地(久喜市~春日部市、中世の利根川(現在の江戸川と古利根川の流路周辺)流域)を開墾した広大な荘園。記事に載っている堤防はこの流域と考えて良いだろう。
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小山・下川邊・大河戸・長沼の各氏は行尊の支族に含まれる(左フレームの「藤原秀郷の系図を参照」)。
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行尊は寿永二年(1183)2月の野木宮合戦に加わって頼朝の所領安堵を受けたが、建久五年の神人殺傷(6月30日の条を参照)によって支配地を没収され失脚・没落した。   右画像の空色部分が概略の太田庄エリア(クリック→ 拡大)
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月4日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で神楽の奉納が行われ将軍家が参席した。右近将監大江久家が秘曲等を唄い畠山次郎重忠梶原左衛門尉景季が付歌を唱和した。
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   ※大江久家: 多好方(朝廷の楽人)から神楽を習得のため建久二年(1191)12月から京都に派遣された文官。
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   ※付歌: 最初に発声する人が歌う第一句に続いて第二句以降を唱和すること。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月7日
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吾妻鏡
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永福寺に新造した薬師堂※: に扉を建て付けた。将軍家が監臨し、工匠たちに別禄(報酬と別の褒美)を与えた。
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   ※薬師堂: 病気平癒など現世功徳のため薬師如来を本尊として祀る。和歌山県有田市にある医王山浄妙寺
薬師堂(wiki・鎌倉時代の建立で重文)が永福寺薬師堂のイメージに近いかなぁ...。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月8日
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吾妻鏡
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京都と鎌倉を結ぶ早馬の往復と献上品などを運ぶ人夫を東海道の宿驛に割り当てた。大きな宿驛には8人、小さな宿駅には2人づつである。これは既に普段から置かれているのだが、新しい宿驛の増加に伴っての措置である。
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   ※京都~鎌倉: 距離は約450km、当時も大差ないはず。普通の旅人なら15日前後、飛脚は7日前後、早馬の
場合は4~5日を要したらしい。 承久の乱(1221年)の際には「5月15日牛刻(正午前後)に六波羅探題で京都守護の伊賀光季伊賀朝光の嫡子)が後鳥羽院 の派遣した官軍に討たれた、それを知らせる飛脚が19日未刻(14時前後)に鎌倉到着」と書いているから、最短4日弱に間違いはないだろう。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月10日
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吾妻鏡
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姫君(大姫)の病状がまた悪化し大勢が集まって幕府が騒動となった。将軍家は三嶋大社に神馬を奉納するため新田六郎を使者として派遣した。願成就院修理のため伊豆国に滞在していた江間殿(北條義時)も馳せ参じた
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   ※新田六郎: 新田は仁田と同じで忠常の弟、四郎忠常・五郎忠正・六郎忠時の三人兄弟。建仁三年(1203)の
比企の乱後に些細な行き違いで(吾妻鏡の記述。真相は断定できない)皆殺しになっている。
伊豆仁田の近くには仁田との関連が疑われる日田・肥田などの地名もある。
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   ※義時馳参: 原文は「江間殿自伊豆国被馳參」、願成就院から駆け付けたのは神馬を奉納して祈祷を行なった
三嶋大社か、それとも鎌倉かが判らない。
18日に三嶋大社に派遣された記述があるので鎌倉だとは思うけれど。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月13日
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吾妻鏡
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上総介足利義兼が鶴岡八幡宮で両界曼陀羅二鋪による供養法会を行った。導師は八幡宮別当法眼で唱和する僧は60人。施主の義兼は狩衣(普段着)で廻廊に座し、伊豆守山名義範ら門葉の源氏三人が同様に列座した。安房判官代源高重と三位判官代藤原教重が布施を配る役に任じた。
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   ※両界曼陀羅二鋪: 仏教の教えを示す二つの曼荼羅、金剛頂経の奥義を表現した金剛界曼荼羅と、大日経を
基礎にして悟りの真髄を表した胎蔵界曼荼羅を差す。この法会では曼荼羅(絵)を掲げて密教の教義を説いたのだろう。かなり複雑なので、もっと詳しく知りたい場合や真言密教の奥義に近付きたいと思う奇特な方(笑)はこちら(外部サイト)をどうぞ。
両界曼荼羅の画像(外部サイト)も参考に、義兼が祈った世界に触れてみよう。
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   ※蛇足: すぐ隣の足利学校(市のサイト)と共に有名な 鑁阿寺は真言宗大日派の本山。
義兼を継いだ三男の義氏が義兼の持仏堂を寺に改めて発展させたもの。
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鑁阿は一般には盲目の高野山勧進聖の名とされているが、高野春秋編年輯録(高野山に残る文書などを編纂した記録)には
足利義兼は文治二年(1186)に出家し法華坊鑁阿と号して高野山に住んだ...と書かれている。
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「鑁」は金剛界で「阿」は胎蔵界を意味し、奥州合戦から凱旋した際に建てた隠居所の法界寺(現在の樺崎寺)の「法界」は「仏の世界での万物平等」を意味するから、晩年の義兼さんは完全に真言密教の世界に入り込んでいたんだね。
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右画像は鑁阿寺の屋根付き太鼓橋と山門。
     画像をクリック→ 鑁阿寺の詳細頁へ(別窓)。
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   ※門葉の三人: 義範以外の二人(?)は誰か。新田源氏なら里見義成、甲斐源氏なら加賀美遠光小笠原長清
石和信光、信濃源氏なら平賀義信大内惟義あたりか。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月14日
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吾妻鏡
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上総介足利義兼が因幡前司大江廣元を介して八幡宮別当の法眼圓暁に申し出た。昨日供養し奉納した曼陀羅は将軍家への祈祷で宮寺への奉納である、と。直ちに八幡宮上宮の東回廊に安置した。
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   ※祈祷の趣旨: 前後の経緯を考えると頼朝に配慮して大姫 平癒を祈ったのだろう。
足利義兼は翌・建久六年に家督を三男義氏に譲って隠居しており、甲斐源氏を含む多くの源氏同族が頼朝に粛清された事件との関わりが考えられている。義兼の卓越した軍事的才能を警戒した頼朝の猜疑心を避け、隠居によって一族の温存を図ったのだろう、と。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月15日
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吾妻鏡
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将軍家ならびに御台所が鶴岡八幡宮に参拝された。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月18日
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吾妻鏡
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江間殿(北條義時)が奉幣の代参として伊豆国三嶋大社に派遣された。今朝の出発である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月19日
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吾妻鏡
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多気義幹が人の讒訴によって所領没収の処分を受けたとの嘆願書を提出した。取り次ぎは狩野介宗茂である。
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   ※義幹の処分: 曽我兄弟の仇討直後の建久四年(1193)の6月22日に所領没収された。直接は八田知家
讒訴だが、常陸国から多気氏の主流を排除する頼朝の意図があった可能性はある。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月20日
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吾妻鏡
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永福寺に新造した薬師堂落成供養について、導師などに渡す布施の品々が京都から届いた。前掃部頭中原親能が手配し調達した品である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月21日
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吾妻鏡
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三嶋大社の神事である。将軍家は念入りに潔斎を済ませて鶴岡八幡宮の三嶋別宮(末社)に参詣し、御霊神社の前浜で千番の小笠懸を行った。左衛門尉和田義盛の差配である。
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  射手は次の通り(左が勝者)
      武田太郎信義     武田五郎信光
      小山五郎宗政     小山七郎朝光
      境兵衛尉常秀     三浦兵衛尉義村
      工藤小次郎行光    榛谷四郎重朝
      小鹿嶋橘次公業    渋谷次郎高重
      足利太郎親成    梶原兵衛尉景高
      土屋兵衛尉義清   所雑色基繁
      藤澤次郎清近     愛甲三郎季隆
      佐々木三郎盛綱   佐々木五郎義清
      所雑色基繁      廣澤三郎重義.

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   ※御霊神社: 坂ノ下の権五郎神社の下部(サイト内リンク・別窓)を参照されたし。
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   ※足利親成: 足利太郎の呼称で該当するのは義氏だけなので間違いないと思うが、親成の名は該当せず。
義氏の生涯には不明な部分が多いのが少し気にかかる。
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   ※他の人物: 所雑色基繁は所六郎を名乗っている伊賀朝光の雑色か。廣澤三郎重義は現在の久喜市南東部・
備前堀川一帯(地図)を本拠とした武士。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月23日
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吾妻鏡
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北條時政殿と江間(北條義時)殿が三嶋から帰参した。願成就院の修理が完了した、と。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月26日
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吾妻鏡
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武蔵国と相模国の年貢を京都に発送した。二階堂行政中原仲業と源實景らがこの作業を差配した。運送を担当する使者は雑色の時澤と成里である。
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   ※雑色時澤: 人物の情報は今年の9月2日に記載した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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11月27日
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吾妻鏡
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近国各地の一ノ宮と国分寺の破搊や老朽を修復せよとの命令を下した。
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   ※修復指示: 義時が伊豆に出向いたのは7月23日(西暦8月11日)、台風による被害だろう。その報告を受け、
近国の社寺に同様の被害の有無確認を命じたか。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月1日
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吾妻鏡
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将軍家が籐九郎盛長の甘縄邸に入御した。上野国守護に任じている盛長が国内の寺社全て※: を管理権限に含めるよう、その場で命令を下した。
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   ※寺社を管理: 5月4日には中原季時に寺社の訴訟を取り扱う命令を下した」との記載があり、盛長の権限との
整合性に疑問がある。思いつきが結構多いのは独裁者の宿命か。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月2日
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吾妻鏡
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祈願所としている寺社には担当する御家人(寺社奉行)を決めているが、今日は更にその人数を追加した。
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      八幡宮の上宮と下宮は...大庭平太景能  籐九郎盛長  右京進毛利季時  図書允清原清定
      勝長寿院は...因幡前司廣元  梶原平三景時  前右京進仲業  豊前介實景
      永福寺は...三浦介義澄  畠山次郎重忠  義勝房成尋
      同、阿弥陀堂は...前掃部頭親能  民部丞行政  武藤大蔵丞頼平(武藤資頼の養父)
      同、薬師堂(新造中)...豊後守季光  隼人佐康清  平民部丞盛時
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   ※清原清定: 公事奉行人や政所寄人(通常は他の部署に務め、招集に応じて政所に加わる)に任じて政務や
政務や訴訟の判決に携わった文官。
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   ※豊前介實景: 奥州藤原氏に仕えていた有能な文官の何人かが頼朝に臣従して鎌倉に入っている。頼朝には
鎌倉の行政機関を平泉に倣って整備する意思があり、その中に豊前介実俊の名がある。実景は実務に精通した彼の兄弟または近親だろう。文治五年の記事を転載した(詳細は本文で)。
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文治五年(1189)9月2日
頼朝は陸奥と出羽両国の省帳と田文の提出を求めたが平泉館炎上の際に焼失し、詳細は調べられなかった。古老に尋ねたところ、陸奥国の住人豊前介實俊と弟の橘籐五實昌が故実に詳しいとの答えを得て両名を呼び出し質問した。兄弟は両国の絵図および諸郡の所有権などに関する書類を提出した。郷と里・山野・河海などが悉く記載してあり、余目の三ヶ所を書き漏らしている他には脱落していない。頼朝は感心し、直ちに召し使うよう定めた。
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文治五年(1189)9月23日
頼朝は秀衡が宇治平等院を模して平泉(の私邸の近く)に建立した無量光院に参拝、豊前介が案内人として同行した。
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   ※義勝房成尋: 治承四年(1180)8月20日、伊豆を出発して相模に向かう頼朝勢の中に義勝房成尋の名前が
あり、挙兵当初からの御家人(元は武蔵横山党の武士)だった事が確認できる。
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また文治元年(1185)9月2日に梶原景時と義勝房成尋が六條室町亭の義経に面会して行家との謀反共謀を質している。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月6日
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吾妻鏡
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相模国と武蔵国の年貢などは雑色が管理して京都に向けて発送した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月10日
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吾妻鏡
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越前国志比庄比企籐内朝宗によって年貢を横領されたと領家の最勝光院から訴えが提出された。
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去る文治元年(1185)に謀反人義経に与した輩を捕らえるため諸国に兵粮米の拠出を求めた際、各地の御家人が便乗して不法行為を行った。庶民の苦難が続いたため再三に亘って院宣が下され、鎌倉の命令として37ヶ国の 荘園に於ける武士の関与を禁止した。何年も過ぎた今になって訴えが起きた事に驚いた将軍家は朝宗を聴取したところ「横領はしていない」との弁明があり、、その陳述書を本所(荘園領主)あてに送付した。
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   ※越前国志比庄: 現在の福井県永平寺町(地図)、現在も志比の地名が残っている。志比庄の地頭職に任じた
波多野義重が寛元二年(1244)に曹洞宗の開祖道元禅師を招いて永平寺を創建、これが現在の曹洞宗大本山永平寺(準・公式サイト)に発展している。
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   ※最勝光院: 院の御所法住寺殿の一角に建てられた後白河院の御願寺。院の女御建春門院平滋子と息子の
80代高倉天皇の供養を本願とする。後に最勝光院を継承した後醍醐天皇は嘉暦元年(1326)に荘園を含めた全てを東寺(公式サイト)に寄進している。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月13日
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吾妻鏡
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右京少進中原季時が京都から鎌倉に到着、永福寺薬師堂供養の導師は既に鎌倉に向かっている、と報告した。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月15日
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吾妻鏡
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薬師堂供養の導師が近日中に到着するとの先使が到着、出迎えの御家人を手配し連絡に使う馬なども補充した。三浦介義澄が五疋、和田左衛門尉義盛が四疋、梶原平三景時が二疋、中村庄司宗平が五疋、小早河弥太郎遠平が五疋、渋谷庄司重国が五疋、 曽我太郎祐信が二疋、原宗三郎が一疋である。その他は宿驛の負担とした。
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   ※原宗三郎: 原の地名は川崎・深谷・駿河などにあり、彼の本領は確定できない。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月17日
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吾妻鏡
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明春の将軍家上洛の予定に伴い供奉に任じる東国の御家人等を招集する。中原親能が総指揮を執り二階堂行政が明細を記録した。内容は次の通り。
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各国の御家人に伝える。将軍家に従って上洛せよとの仰せがあった。もし上洛できない場合は鎌倉に出頭して仔細を説明せよ。これは上洛に同行しない者にも留守役の務めが求められるためである。報告が遅れた場合は譴責を受けることになる。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月19日
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吾妻鏡
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東大寺別当で前権僧正の勝賢が鎌倉に到着、八田右衛門尉知家に入った。
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   ※八田知家邸: 南御門の近くだったとの記録あり(大倉幕府の地図を参照)。ここなら便利だね。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月20日
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吾妻鏡
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蔵人大夫源頼兼と宮内大輔重頼らが京都から鎌倉に到着した。
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   ※宮内大輔重頼: 賀茂社領の遠敷郡宮河荘(現在の福井県小浜市宮川地区・地図)の地頭に任じていた武士。
妻は名高い歌人の二条院讃岐(源三位頼政 の娘)で、文暦年間(1234年前後・90歳超!)に夫から地頭職を相続している(出典は福井通史)。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月22日
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吾妻鏡
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囚人の藤二が御堂供養に伴う恩赦を受けて赦免された。去年雑色の時澤に暴行を加えた罪により拘留されていた伊豆国妻良の船頭である。
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   ※伊豆国妻良: 西伊豆最南端の妻良漁港(地図)。南伊豆の鯉名(現在の小稲・地図)と並んで船による物流の
重要な拠点だった。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月26日
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吾妻鏡
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永福寺内に新造した薬師堂の落慶供養が行われた。前権僧正勝賢が導師を務め、将軍家が臨席した。北條五郎時連が劔を、愛甲三郎が弓箭を携えて従った。
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  狩衣の供奉人
    源蔵人大夫頼兼  武蔵守義信  信濃守遠義(義遠の間違い)  相模守惟義  上総介義兼
    下総守邦業  宮内大輔重頼(20日を参照)  駿河守宗朝(出自を特定できず)  右馬助経業
    前掃部頭親能  前因幡守廣元  民部大夫繁政(出自を特定できず)  小山左衛門尉朝政
    下川邊庄司行平  千葉介常胤  三浦介義澄  同、兵衛尉義村  八田右衛門尉知家
    足立左衛門尉遠元  和田左衛門尉義盛  梶原刑部丞朝景  佐々木左衛門尉定綱  佐々木中務丞経高
    東大夫胤頼  境兵衛尉常秀  野三刑部丞成綱  後藤兵衛尉基清  右京進季時  江兵衛尉能範
  最末
    梶原平三景時
  随兵八騎
    北條小四郎泰時  小山七郎朝光  武田兵衛尉有義  加々美次郎長清
    三浦左衛門尉義連  梶原左衛門尉景季  千葉新介胤正  葛西兵衛尉清重
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  布施を配る役
    右兵衛督高能朝臣(一條能保)の嫡子  左馬権頭公佐朝臣  上野介憲信(出自を特定できず)
    皇后宮大夫進為宗  前対馬守親光  豊後守毛呂季光
    橘右馬権助次廣(橘氏の一族だろうが...)  工匠蔵人(判らない)  安房判官代高重
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  導師の布施...錦被物三重  綾被物七十重  綾百端  長絹百疋  染絹三百端  白布千端
  加えて...金作劔一腰  香呂筥(綾紫絹等を以てこれを作る)
  その他...馬二十疋  供米三百石
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  請僧一人宛...色々被物三十重  絹三十疋  染絹三十端  白布二百端  紺百端  馬二疋  供米百石.

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   ※薬師堂落慶: かなり大きな催事だったらしい。「たかが薬師堂}」の観念は改めるべきか。
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   ※右馬助経業: 信濃源氏の御家人で村上頼時の父。源頼政の娘婿として門葉に近い地位にいたらしい。
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   ※江兵衛尉能範: 大江氏の傍流で西面の武士(院の警備担当)。承久の乱で宮方に与し斬首。
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   ※左馬権頭公佐: 阿野全成の娘婿で本姓は藤原。建仁三年(1203)に頼家の命令を受けた八田知家が全成を
殺し、後に公佐の嫡子実直が阿野を称して公家・阿野氏の祖となっている。
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   ※皇后宮大夫進為宗: 頼朝の三男貞暁を産んだ大進局の兄で父は常陸入道念西。長子の為宗は常陸の本領
伊佐郡(現在の茨城県筑西市)に留まり、弟たちが念西と共に奥州合戦の恩賞で得た陸奥国伊達郡に移り伊達氏の祖となっている。
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   ※前対馬守親光: 頼朝の外戚対馬守藤原親光を差す。頼朝の生母由良御前の父熱田神宮大宮司藤原季範
系累だと思う。平家の都落ち後に親光は上京を図ったが平家の勢力が九州を制圧していたため対馬を出られなかった。更に宗盛の招集を拒否して追討軍を派遣され高麗へ逃げ、平家滅亡後に対馬を経て京都に戻った。その後にどこかで消息を見たような気がするが...。
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   ※安房判官代高重: 治承四年(1180)9月5日、石橋山合戦に敗れて安房に逃れた頼朝は房総半島西南端の
洲崎明神(現在の州崎神社)に参拝し、上総廣常千葉常胤‬が味方に加われば寄進を行うとの祈願を行なう。これが成功したため9月12日には神田を寄進し、社伝に拠れば覇権を握った後の文治二年(1186)には安房判官代高重の訴えを受けて社殿の修復を命じている。高重はこの頃に正式な御家人に加わったのかも。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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12月28日
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吾妻鏡
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将軍家(源頼朝)ならびに御台所(政子 )と若公(頼家 )が永福寺薬師堂に参詣。落慶供養が無事に終った事を謝する拝礼である。
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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吾妻鏡
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西暦1194年
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82代後鳥羽
建久五年
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吾妻鏡
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記事
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