建久六年(1195年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月1日
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吾妻鏡
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上総前司足利義兼が椀飯を献じ、相模守大内惟義が剣を献上した。他に御弓箭などの献上があった後に将軍家は西侍障子の上段に出御し、私人としての宴会となった。数巡の献杯あり。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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1月2日
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吾妻鏡
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千葉介常胤が椀飯を献じた。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月3日
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝光が椀飯を献上した。
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   ※宴会続き: 権力を握ると追従者が現れる。安倍総理に尻尾を振る創価学会のように無節操な連中が...。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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1月4日
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吾妻鏡
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将軍家が籐九郎盛長の甘縄邸に入御した。三浦介義澄らが供として従った。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月8日
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吾妻鏡
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豊後守毛呂季光と右馬允中条家長が喧嘩を起こした。双方の縁者が集まって合戦の様な騒ぎになったため左衛門尉和田義盛に命じて双方を鎮め、中条家長には養父の八田知家を介して出仕停止の処分を下した。
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頼朝は毛呂季光を御所に呼びつけ、「御家人と闘って落命するような事態になれば穏便には済まぬ」と訓告し、この騒ぎのため予定していた般若心経法会は延期となった。両者の諍いは神慮に悖(もと)る行為である。
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季光は訳があって門葉に準じた扱いを受けていることに慢心が窺われ、家長は前右衛門尉知家の養子の立場に増長して礼儀を失していると叱責を受けた。
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   ※準・門葉: 毛呂季光は平安中期の公卿・正二位中納言藤原経季の曾孫(庶子)だから血筋は他の御家人より
由緒正しいが、血統は源氏一門とは無関係。準門葉として扱われる理由は流人時代の頼朝との接点だったと考えられている。当時の頼朝が召し使っていた下人の窮地を救った、あるいは頼朝の飢餓を助けたなど様々な説があり、何らかの恩を受けたためらしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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1月13日
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吾妻鏡
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将軍家が鶴岡八幡宮に参拝。結城七郎朝光が御劔を持ち、海野小太郎幸氏が御調度(弓箭)を携え、小倉野三郎が(将軍の代理として)甲冑を着けた。上総前司足利義兼以下が供として従い、還御の後に営中で般若心経の法会を行った。鶴岡八幡宮寺の住僧らが読経を務め、布施として馬を与えられた。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月15日
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吾妻鏡
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法橋の一品坊昌寛が使節として上洛。これは将軍家が南都東大寺大仏殿の落慶供養で仏縁を結ぶため上洛する際に宿泊する六波羅邸を修理する任務である。
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   ※六波羅邸: 建久元年(1190)に上洛した際の宿舎。同年12月10日に以下の記載がある。
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留守中の六波羅宿館の管理などについて、今日これを定めた。左兵衛頭一条能保の息子である高能(頼朝の甥)が使うことになる。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月16日
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吾妻鏡
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眞如院僧正の眞圓が帰洛のため鎌倉を発って帰洛の途に就いた。道中の宿舎や伝馬や荷物を運ぶ役夫については三浦介義澄民部丞平盛時らが奉行として手配の任務を行なう。
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   ※僧正眞圓: 彼は前々年(建久四年・1193年)11月27日の薬師堂着工供養の導師を務めた人物。
今回帰洛したのは去年の12月26日に落慶供養の導師を務めた前権僧正勝賢の筈で、吾妻鏡編者による編纂ミスではなく転記のミスと思われる。
この件に関しては建久四年(1193)9月30日の条にマークで記載してある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月20日
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吾妻鏡
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北條時政殿が伊豆国に向かった。これは願成就院の修正など、年間の仏事の詳細を決めるのが目的である。
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   ※修正: 修正月会の略語。毎年正月に3日〜7日間続ける法会で、国家や皇室の安泰と五穀豊穣などを祈る。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月25日
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吾妻鏡
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将軍家が三浦三崎の湊に渡御し船での宴会などを楽しんだ。三浦介義澄および三浦の一族が駄餉を用意した。
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   ※駄餉: 外出先に運ぶ飲食物・弁当のことで、起源は平安時代まで遡る幕の内弁当(wiki)か。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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1月27日
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吾妻鏡
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将軍家が三浦から還御した。
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   ※三浦: 参考までに、三浦港〜鎌倉大倉御所の距離は約27km、想像よりも近い。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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2月2日
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吾妻鏡
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将軍家の上洛に伴う供奉人など、旅程での様々な事についての決定があった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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2月4日
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吾妻鏡
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去年使者として上洛させた雑色の鶴次郎と吉野三郎が鎌倉に帰着した。相模国と武蔵国の年貢を先月の12日に納付し、その受領書を携えて御所に報告した。
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   ※上洛した雑色: 前年11月26日に「年貢の運送は雑色の時澤と成里である」と記載しており、相互の関係が
理解できない。単純な混同か、それとも別になんらかの任務があったのか。
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時澤については、治承四年(1180)12月28日に「出雲の時澤が雑色の長に任命された。毎日仕えている雑色は数多いが合戦に際しての功績が他の雑色より優れているためである。」との記載が、治承五年(1181)7月21日には「雑色の濱四郎時澤」との記載がある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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2月5日
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吾妻鏡
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左近将監内藤盛家が新恩(新たな領地の下賜、御恩と奉公の関係強化)を受け、加えて栄誉ある言葉を受けた。
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   ※内藤盛家: 元々の内藤氏は尾張に所領を持った武士。盛家は寿永四年(1185)前後から御家人に任じた。
建久元年(1190)頃から周防国に新領を得て地頭に任じ、遠石荘(周南市・地図)の,石清水八幡宮領を押領するなどして停止命令を受けている。今回受けた褒賞の内容と理由は判らない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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2月8日
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吾妻鏡
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雑色の足立新三郎清経が使者として上洛する。これは近日の将軍家御上洛のため海道沿いの駅家の雑務や渡船や仮橋の準備などを前もって手配するためである。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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2月9日
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吾妻鏡
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大庭平太景能(景義)入道が申請書を提出した。頼朝挙兵の当初から功績を重ねたにも関わらず疑刑(冤罪の意味か?) によって鎌倉を追放され、鬱々として三年を過ごした。余命も少なくなったため早く赦免を受け御上洛の供奉人に加わり老後の名誉にしたい、と書いてあった。直ちに罪を許し、併せて供に加わるようにとの仰せがあった。
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   ※景能の罪: 建久四年(1193)5月28日に勃発した曾我兄弟による仇討から三ヶ月が過ぎた8月24日の条に
「大庭平太景義と岡崎四郎義實らが出家した。特に理由はなく、各々が老齢に達したため御家人の役職を辞し、兼ねてからの望みを達したものである。」との記載がある。
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仇討に関係して起きた何らかの失態を咎められた可能性はあるが、詳細は判らない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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2月10日
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吾妻鏡
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将軍家御上洛の供奉人について指示があった。畠山次郎重忠が先陣を務め、和田左衛門尉義盛は先陣の随兵を差配し、梶原平三景時は後陣の随兵を差配せよ、行列の詳細は先年(文治六年10月)の上洛に倣えとのこと。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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2月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉納があり将軍家が参席、御劔持ちの源太左衛門尉梶原景季を従えて御幣殿に着座した。随兵らが廻廊の外で警護し寳前に於いて法華経による供養を行った。弁法橋定豪が導師である。
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   ※定豪: この時点では八幡宮寺宿老僧10人の一人。正治元年(1199)には勝長寿院別当、承久二年(1220)
には鶴岡八幡宮別当、後に東寺貫主に昇進している権力志向の僧。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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2月12日
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吾妻鏡
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早暁に籐四郎右衛門尉比企能員と兵衛尉千葉平次常秀が将軍家の上洛に先行して急遽鎌倉を出発した。<
これは前備前守行家と大夫判官義顕(義経)の残党らが東海道に潜み今回の上洛を狙って遺恨を晴らそうとの噂があり、先行して仔細を調べ事実ならば捕縛せよとの命令があったためである。二人共供奉人に含まれているが武勇に優れていることからこの任務となった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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2月13日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時祭を開催。流鏑馬、競馬、相撲などの催しがあり将軍家も奉幣を行った。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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2月14日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に将軍家が上洛のため鎌倉を出発。御台所と男女の御息(上から、大姫頼家乙姫実朝)が同行している。これは南都東大寺落慶供養に参席して仏と縁を結ぶためで、畠山次郎重忠が先陣である。
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   ※2月14日は: 新暦の3月27日に該当する。京都旅行には良い季節だね。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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20日間の
記事欠落

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2月14日朝の鎌倉出発から3月4日に鏡の宿驛を出発するまで、約20日間の記録が吾妻鏡には載ってない。今回は家族連れという違いはあるが、全く記載がないのは何らかの理由で欠落したと考えるのが妥当だろう。
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建久元年(1190)の上洛の際は10月3日に鎌倉を出発し10月18日に橋本驛(現在の湖西市新居町)、25日に野間大坊、27日に熱田神宮、29日に青波賀で長者の延壽邸に立ち寄って11月5日に野路の宿(鏡の驛の西隣)に到着、寄り道が重なったためもあって、同じ行程に32日を要している。
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ちなみに、平治の乱で死んだ頼朝の異母兄朝長の首級を葬った積雲院がある袋井には「建久六年の頼朝上洛は往路に12日、復路に18日を要した。頼朝はこの6日間に積雲院で朝長の法事を営んだ。」との伝承がある。
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   右画像は牛若丸が元服した鏡神社(画像をクリック→「鏡の宿」へ)。社伝には頼朝と政子も参詣した、とある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月4日
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吾妻鏡
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将軍家は近江国鏡の駅を出発して馬を進めた。ここで勢多橋の対岸まで下ってきた比叡山の衆徒たちが集まっているのが見えた。
将軍家は橋の東に馬を止めて対応を考え、小鹿嶋橘次公業を呼んで衆徒の集まりに派遣した。公業は衆徒の前に跪いて曰く、
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鎌倉将軍が東大寺供養結縁のため上洛の途上であり、何のための群集なのかを気に懸けておられる。ただし武将の常としてこのような場所で下馬の礼は取らず、乗馬のまま罷り通る。これを咎めるような事があれば、返事を聞く前に打ち払って通る。
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と呼び掛けて弓を取り直し厳しい態度を見せ、衆徒は揃って平伏した。公業は幼少の頃から京都周辺で成長し故実に詳しい人物である。言葉巧みに使者の役目を果たし、衆徒もこれを褒め讃えた。 将軍家は夕刻になって六波羅の宿館に入御、見物の牛車は向きも変えられないほどの混雑を見せた。
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右画像は広重の「近江八景」から、「勢多夕照」に描かれた勢多の唐橋。  画像をクリック→ 拡大表示。
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背景の山は方角を考えると伊吹山らしいが、富士山のようにデフォルメしている。橋の左へ進むと4kmほどで木曽義仲の胴を葬った膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)。宇治川合戦で義経軍に敗れた義仲は勢多橋を守っていた今井兼平と合流し北陸へ逃げようとするが、粟津原で一條忠頼の兵に囲まれ戦死した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月6日
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吾妻鏡
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相模守大内惟義が将軍家奉幣の使者として六條若宮に参拝し神馬の黒馬一疋を奉納した。
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   ※六條若宮: 第70代後冷泉天皇の勅願に従い源頼義の六條堀川邸の坤(南西)隅に石清水八幡宮を勧請した
のが最初(坤の隅では若宮の位置は整合性が乏しくなってしまうが)。この若宮は源氏の氏神として長く崇敬を受け、頼朝は阿闍梨季厳を別当職に任命し土佐国吾川郡を寄進している。
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更に詳細は文治元年(1185)12月30日と文治三年(1187)1月15日を参照されたし。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月7日
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吾妻鏡
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左馬頭源隆保朝臣が六波羅の宿館を訪れて将軍家と面会、御贈物などがあった。その他にも多数の公卿などの訪問があった。

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   ※源隆保: 村上源氏の官人で父は三河権守源師経、生母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘(頼朝の生母
由良御前の姉妹)だから頼朝とは従兄弟の関係になる。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月9日
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吾妻鏡
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七條院が東大寺大仏殿落慶供養に参席するため、南都の東南院に着御された。年預(一年交代で務める事務官)右馬頭信清朝臣が供として従った。
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今日、将軍家は網代車で石清水八幡宮(公式サイト)と並びに左女牛若宮(六条若宮・3月6日の記事を参照)の臨時祭に参席、御台所は後に白衣を出した八葉の車を、左馬頭隆保朝臣と越後守藤原頼房は近衛府の兵士4二人を伴い、前駆なしに出車(飾りの付いた牛車)を用いた。
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蔵人大夫源頼兼と上総介足利義兼と豊後守毛呂季光らが後駆を務めた。 御奉幣と鴾毛(赤みを帯びた白い毛色)の神馬二疋)が前を進み、石清水八幡宮の神前で参籠した。途中の随兵は十二騎である。
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   ※七條院殖子: 第80代高倉天皇(後白河の第七皇子。中宮徳子
建礼門院)の産んだ 安徳天皇に譲位した)の妃で第82代後鳥羽天皇の生母。
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   ※東南院: 東大寺大仏殿東南にあった支院で奈良における真言宗の拠点寺院だった。南大門北東にある現在
の寺務所が東南院の跡地で、東大寺と別に国の史跡指定を受けている。(3月12日の画像を参照)
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   ※八葉の車: 花弁が八つの「八葉蓮華」紋を付けた牛車。大型の紋は上位の公卿、小型紋を付けた「小八葉」
には下級貴族が乗る習慣だった。
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右の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。平治の乱で二条院が女房を装って御所から六波羅に脱出するシーンだから雰囲気は全く異なるけど。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月10日
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吾妻鏡
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将軍家は東大寺供養に参席するため石清水八幡宮(公式サイト)を経て直接南都東大寺の東南院に着御した。
供奉人の行列は次の通り。
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先陣
    畠山次郎重忠  和田左衛門尉(各々並ばず)
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次に随兵三騎が並び、各々家の子と郎従が同様に甲冑を着して路傍に整列、その人数は一族の任意である。
    江戸太郎   大井次郎   品河太郎
    豊嶋兵衛尉   足立太郎   江戸四郎
    岡部小三郎   小代八郎   山口兵衛次郎
    勅使河原三郎   浅見太郎   甘糟野次
    熊谷又次郎   河匂七郎   平子左馬允
    阿保五郎   加治小次郎   高麗太郎
    阿保六郎   鴨志田十郎   青木丹五
    豊田兵衛尉   鹿嶋六郎   中郡太郎
    真壁小六   片穂五郎   常陸四郎
    下嶋権守太郎   中村五郎   小宮五郎
    奈良五郎   三輪寺三郎   浅羽三郎
    小林次郎   同三郎   倉賀野三郎
    太胡太郎   深栖太郎   那波太郎
    渋河太郎   吾妻太郎   那波彌五郎
    佐野七郎   小野寺太郎   園田七郎
    皆河四郎   山上太郎   高田太郎
    小串右馬允   瀬下奥太郎   坂田三郎
    小室小太郎   禰津次郎   同小次郎
    春日三郎   中野五郎   笠原六郎
    小田切太郎   志津田太郎   岩屋太郎
    中野四郎   新田四郎   同六郎
    大河戸太郎   同次郎   同三郎
    下河邊四郎   同籐三   伊佐三郎
    泉八郎   宇都宮所   天野右馬允
    佐々木三郎兵衛尉   海野小太郎   橘右馬次郎
    大嶋八郎   中澤兵衛尉   牧武者所
    藤澤次郎   望月三郎   多胡宗太
    工藤小次郎   横溝六郎   土肥七郎
    糟屋籐太兵衛尉   梶原刑部兵衛尉   本間右馬允
    臼井六郎   印東四郎   天羽次郎
    千葉次郎   同六郎大夫   境平次兵衛尉
    廣澤與三   波多野五郎   山内刑部丞
    梶原刑部丞   土屋兵衛尉   土肥先次郎
    和田三郎   同小次郎   佐原太郎
    河内五郎   曽禰太郎   里見小太郎
    武田兵衛尉   伊澤五郎    新田蔵人
    佐竹別当   石河大炊助   澤井太郎
    関瀬修理亮   村上左衛門尉   高梨次郎
    下河邊庄司   八田右衛門尉   三浦十郎左衛門尉
    懐嶋平権守入道(保元合戦の際の装束)   北條小四郎   小山七郎
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将軍家(牛車)
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    相模守   源蔵人大夫   上総介(横に並ぶ)
    伊豆守   源右馬助(横に並ぶ)
    因幡前司   三浦介(横に並ぶ)
    豊後前司   山名小太郎   那珂中左衛門尉
    土肥荒次郎   足立左衛門尉   比企右衛門尉
    籐九郎   宮大夫   所六郎      各々狩装束である。
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次に随兵(三騎が並び、家子と郎等は先陣と同じ)
    小山左衛門尉   北條五郎   平賀三郎
    奈古蔵人   徳河三郎   毛呂太郎
    南部三郎   村山七郎   毛利三郎
    浅利冠者   加々美次郎   同三郎
    後藤兵衛尉   葛西兵衛尉   比企籐次
    稲毛三郎   梶原源太左衛門尉   加藤太
    阿曽沼小次郎   佐貫四郎   足利五郎
    小山五郎   三浦平六兵衛尉   佐々木左衛門尉
    小山田四郎   野三刑部丞   佐々木中務丞
    波多野小次郎   同三郎   沼田太郎
    河村三郎   原宗三郎   同四郎
    長江四郎   岡崎與一太郎   梶原三郎兵衛尉
    中山五郎   渋谷四郎   葛西十郎
    岡崎四郎   和田五郎   加藤次
    小山田五郎   中山四郎   那須太郎
    野瀬判官代   安房判官代   伊達次郎
    岡辺小次郎   佐野太郎   吉香小次郎
    南條次郎   曽我小太郎   二宮小太郎
    江戸七郎   大井平三次郎   岡部右馬允
    横山権守   相模小山四郎   猿渡籐三郎
    笠原十郎   堀籐次   大野籐八
    伊井介   横地太郎   勝田玄番助
    吉良五郎   浅羽庄司三郎   新野太郎
    金子十郎   志村三郎   中禅寺奥次
    安西三郎   平佐古太郎   吉見次郎
    小栗次郎   渋谷次郎   武藤小次郎
    天野籐内   宇佐美三郎   海老名兵衛尉
    長尾五郎   多々良七郎   馬場次郎
    筑井八郎   臼井與一   戸崎右馬允
    八田兵衛尉   長門江七   中村兵衛尉
    宗左衛門尉   金持次郎   奴加田太郎
    大友左近将監   中條右馬允   伊澤左近将監
    渋谷彌五郎   佐々木五郎   岡村太郎
    伊俣平六   庄太郎   四方田太郎
    仙波太郎   岡辺六野太   鴛三郎
    古郡次郎   都築平太   筥田太郎
    熊谷小次郎   志賀七郎   加世次郎
    平山右衛門尉   藤田小三郎   大屋中三
    諸岡次郎   中條平六   井田次郎
    伊東三郎   天野六郎   工藤三郎
    千葉四郎   同五郎   梶原平次左衛門尉
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  後陣
    梶原平三   千葉新介胤正(各々並ばず、郎従数百騎を率いる)
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  最後尾(水干)
    前掃部頭   伊賀前司(相並ぶ)
    縫殿助   遠江権守(相並ぶ)
    源民部大夫   伏見民部大夫   中右京進
    善隼人佐   善兵衛尉   平民部丞
    越後守  (面々家子・郎等を相具す)
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夜半(深夜12時)を過ぎて帝の南都行幸あり。外出には不吉な日だったためである。帝が京都の外に出る際にこの日を用いた例はない。
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   これだけ名前が並ぶと注釈を付ける気にもならない。いずれ、時間ができた際に。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月11日
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吾妻鏡
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将軍家は馬千疋を東大寺に寄進した。和田義盛梶原景時義勝房成尋らがこれを差配した。これに加えて献納は米一万石、黄金一千両、精練した絹一千疋(二千反)である。
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   ※献納: 米一万石は1600トン、10kg4000円で換算すると6.4億円、金一千両は41kgで現在の時価だと
約16億円、絹は換算できない。計算には自信がないけど膨大な金額なのは間違いない。
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権力者が血税を湯水の如く浪費する姿は鎌倉時代も現代も同じ、国立競技場やロゴ・マークは氷山の一角だ。なにしろ自分の懐は全く痛まずに賞賛を受けるんだからね。こんな美味しい話はない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月12日
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吾妻鏡
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雨のち晴れ、午後にまた激しい雨と地震。今日は東大寺大仏殿の落慶供養、風雨があっても瑞兆は明らかである。
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寅の一点和田義盛梶原景時が数万騎(白髪三千丈、だ)の武士を率いて東大寺の周辺を警護し、日の出の後に将軍家が牛車で参堂した。が御劔を持ち佐々木経高が甲冑を着し、愛甲季隆が弓箭を携えて従った。左馬頭源隆保と越後守藤原頼房ら従う者の車がこれに続いた。
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伊賀守田村仲教(古庄(大友)能直の弟)、蔵人大夫源頼兼、宮内大夫藤原重頼、相模守大内惟義、上総介足利義兼、伊豆守山名義範、豊後守毛呂季光らが従った。
数万騎の随兵は前もって市中の辻々や寺門の内外を警護し、海野小太郎幸氏藤澤次郎清親ら弓の名手は惣門の左右に控え、将軍家の周囲を守る随兵はわずか28騎が前後を固めている。
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侍所別当の和田義盛と所司の梶原景時等は警固の指図を済ませてから乗馬し、行列の先頭と最後尾に付いた。
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将軍家が大仏殿の前に着座されてから見物の衆徒らが集団で門内に入ろうとして警護の随兵と紛争が起きた。
梶原景時が鎮圧のため強圧的な命令を下したため双方が興奮して一触即発の状態になった。
将軍家は結城朝光を呼んで鎮圧を命じ、朝光は回廊の縁に手を懸けて立ったまま命令を承った。
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朝光は衆徒の前に進み跪いて「前右大将の使者である」と名乗り、衆徒は礼節を取り戻して騒ぐのをやめた。
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東大寺は平清盛によって焼かれ、礎石だけを残して灰燼に帰した。衆徒として最も悲しむべき事だが、源氏が復興の大檀那として着工から供養の時に至るまで力を尽くした。この仏事を遂げるために数百里の道を辿ってここに至ったのを喜ばない衆徒があるだろうか。殺生に明け暮れる武士でさえも仏との結縁を願って供養の一端を担っている。知恵に富んだ僧侶が騒乱を好み、自分の寺の再興を妨げるのは実に不当であるが、その理由があるのなら承ろう。と。
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朝光の言葉を聞いた衆徒はすぐに自分たちの行為を恥じて後悔し、全員が鎮まった。
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使者を務めた武士は容貌も美しくて弁舌は爽やか、武者としての勇気のみならず寺社での礼節も弁えている。感動した衆徒は後々のため姓名を名乗るよう求め、朝光は小山を称さず結城七郎と名乗って席に戻った。
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次に帝の行幸があり、摂関九条兼実以下高位の公卿が多数供奉し、未刻(14時前後)に供養の儀式が始まった。導師は興福寺別当僧正覚憲、呪願師(願文を読み上げる僧)は当寺別当権僧正の勝賢、仁和寺法親王ら著名な諸寺の名僧が千人にも及んだ。まことに朝廷と武門が力を合わせた仏教の大事業である。
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この寺は安徳天皇の御代である治承四年(1180)12月28日に平相国禅門(清盛)の悪行によって仏像と共に灰燼に帰し、焼け残った柱だけに姿を変えた。後白河法皇が重源上人に「身分の上下を問わず知識と力を結集して復興せよ」との勅命を下した。
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    右画像は東大寺の境内鳥瞰(画像をクリック→ 拡大表示)
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重源上人は寿永二年(1183)4月19日に宋国の陳和卿に大仏の頭を鋳造させ、文治元年(1185)5月25日から30日以上に亘り14度も鋳造を繰り返した末に16丈の大仏完成を見た。
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8月28日に法皇は16丈の仏像を見上げ自ら足場に登って開眼を行なったが、従った公卿たちは足が震えて半分までしか登れなかった。供養の唱導を担当したのは東大寺の別当法務僧正定編、呪願 師は興福寺別当権僧正信圓、講師は同寺権別当大僧都覺憲、拝礼の僧は千人。
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その後に重源僧正は故実に従い伊勢神宮に参拝して東大寺復興を祈願し、二粒の宝珠を得て勅封蔵にこれを納めた。翌年4月10日に初めて周防国に入って柱材を切り出し礎石を据え、120頭の牛に曳かせて材木を運んだ。そして建久元年(1190)7月27日に大仏殿の柱二本を建て同年10月19日に法皇の参席を得て上棟した。
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最初の創建は聖武天皇の天平十四年(742)11月3日、建立の勅願により勅使の左大臣橘諸兄を伊勢神宮に派遣し、天平十七年(745)8月23日に基壇を造成し背後に山を築いた。翌々十九年9月29日に大仏を鋳造、孝謙天皇の天平勝宝元年10月24日に三年間・8回の鋳造を経て完成し、12月7日に天皇と太上皇(聖武)が臨席して開眼供養を遂げた。導師は南天竺の波羅門僧正・呪願師は行基大僧正である。天平勝宝四年(753)3月14日に鍍金を開始した。金は天平二十年に初めて奥州から献上されたもので、これが我が国で最初の砂金である。
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   ※寅の一点: 一刻(2時間)を四等分した最初の30分。寅刻は午前3時〜5時、寅の一点は3時〜3時半。
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   ※16丈: 仏像のサイズは立像が基準なので坐像の場合は8丈=10尺×8=24m。台座を含めた大仏の高さ
は約18mなので計算が合わないのだが...6mの差は基壇だろうか。
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   ※南天竺の波羅門: 南天竺はインド、波羅門(バラモン)はヴァルナ(インドなど南アジアの身分制度・カースト)
の最高位として学問や祭祀を司る。ヴァルナの最下位の更に下には「不可触賤民」があり、インド社会の一部では憲法規定にも拘らず身分制度が続いている。再三の集団強姦事件や女性蔑視を重ねる国が核兵器を持っているんだから地球の未来は決して明るくないね。
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まぁ平然と解釈改憲を重ねる政党が国政を牛耳ってる日本も同じようなレベルかも。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月13日
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吾妻鏡
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将軍家が大仏殿に参拝した。(大仏の鋳造を担当した)陳和卿は宋国から来朝して我が国工匠の指揮に任じた。完成した盧遮那仏の出来栄えを見れば殆ど毘首羯摩の再来とも思える、並みの人物ではない。
将軍家は仏との結縁のために重源上人を介して和卿を招いたが、和卿は「朝敵(平家、他)を滅ぼした際に多くの人を殺した罪業を思うと面談しようとは思わない。」として固辞した。
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将軍家はこの対応に感動し、奥州合戦の際に着用した甲冑と鞍を置いた馬を三疋、それに加えて金銀などを贈与した。和卿は甲冑を大仏殿造営の釘の費用として寺に納め、鞍の一つは手掻会(寺の行事の一つ)の替え馬に寄進しただけで、他の馬は受け取れないとして全てを返却した。

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   ※毘首羯摩: 転法輪菩薩(弥勒菩薩の別称)の眷属で密教では工芸や音楽の神とされているらしい。
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   ※陳和卿: 「玉葉」に拠れば寿永元年(1182)に来日した宋の技術者。大仏殿と大仏の再建に功績を上げて
播磨国(兵庫県)に荘園を得たが、これも寄進した。後に彼の処遇を妬んだ同僚の僧による事実無根の讒訴で元久三年(1206)に失脚。以後10年は消息不明になっていたが、建保四年(1216) 6月に突然鎌倉に現れて三代将軍実朝に面会を求めるから、話は俄然として面白くなる。

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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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3月14日
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吾妻鏡
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将軍家が南都から京都に帰着した。
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   ※疑問点: 今回も文治六年(1190)の上洛の際も、頼朝は羽曳野
の通法寺を訪れていない。
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摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠とした父満仲の元から独立して河内守に着任し、石川郡に壺井荘を拓いて土着した三男頼信の本領である。
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疑う余地のない河内源氏の聖地であり、初代の頼信と頼義義家と続く三代の墳墓もある。
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鎌倉時代の中期までは栄えていたとの記録があるから荒廃していた筈はないし、東大寺からは30km強でさして遠くない。頼朝はなぜ足を運ばなかったのだろう。
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右画像は通法寺南部に残る頼信の墳墓。 画像をクリック→通法寺の詳細へ。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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3月16日
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吾妻鏡
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夜になって将軍家が宣陽門院を訪問した。
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   ※宣陽門院: 後白河法皇の第六皇女覲子内親王で、生母は後白河法皇から膨大な遺産を相続し朝廷で権勢を
振るった丹後局(高階栄子)。彼女は美貌と寵愛を武器にして朝廷に君臨し、後白河崩御後の建久七年(1196)11月には土御門通親と結んで関白の九条兼実を失脚させることになる。
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やがては彼女自身も失脚するのだが...娘の宣陽門院は母親ほど権力に拘泥せず、後半生を信仰の世界で過ごす。母親は彼女の反面教師だった、のかも知れない。
宣陽門院は院の御所・法住寺殿にあり、彼女が住んだ寺院の名でもある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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3月21日
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吾妻鏡
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将軍家は馬二十疋を禁裏(帝の御所)に献上した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月27日
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吾妻鏡
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将軍家が御所に参内した。朝廷が派遣した前駆が三名、後に従った随兵は次の八騎である。
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     北條小四郎義時   宇佐美三郎祐茂   小山七郎朝光   榛谷四郎重朝
     三浦平六兵衛尉義村   梶原平二左衛門尉景高   下河邊庄司行平   千葉平次兵衛尉常秀
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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3月23日
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史料
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九条兼実の盟友・左大臣三条実房が病気により辞任、求心力の落ちていた関白九条兼実は人事権を行使できなかった(次席の右大臣・花山院兼雅が土御門通親派だった事も理由らしい)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月29日
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吾妻鏡
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将軍家が従二位の尼丹後局宣陽門院の母、生前の後白河院の愛妾)を六波羅の御亭に招き、御台所や姫君らと面談した。御贈物(蒔絵を施した銀造りの箱に砂金二百両を納め白綾三十反を敷いた上に飾った)があり、更に従者たちにも同じく御引出物を贈った。左近将監大友能直左衛門尉八田朝重らが配る役を務めた。
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   ※丹後局と面談: この頃の頼朝は大姫入内工作を本格化させており、朝廷の権力者丹後局の招待もその一環
である。頼朝は大姫入内のため丹後局・土御門通親に接近し、彼らの政敵だった長年の協力者九条兼実を見捨てることになる。さすがの大姫も入内の餌には食いついた、らしい。
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兼実は建久七年(1196)に失脚するが、建久八年(1197)7月の大姫死没→ 正治元年1月の頼朝死没→ 同年7月の乙姫死没によって頼朝の夢は実現せずに終った。
建久九年(1198)1月に土御門に譲位して上皇となった18歳の後鳥羽上皇は院政の強化に努め、急速に影響力を失った丹後局も朝廷から去った。
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建久十年1月には頼朝が死没、建仁二年(1202)には土御門通親が死没して後鳥羽を制止できる者は皆無となった。承久の乱に敗れて隠岐島に流されるまでは後鳥羽上皇による安倍晋三的な一強独裁が続くことになる。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月30日
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吾妻鏡
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将軍家が御所に参内、関白の九条兼実も同席した。この際に門前で本間右馬允が犯人(不審者)を捕縛した。
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   ※本間右馬允: 現在の海老名市を本領とした海老名源八季貞の次男義忠が愛甲郡依知郷(厚木市金田・地図
を本拠として本間氏の祖となった。金田交差点の南西にある妙純寺が館跡と伝わっている。恒常的に渋滞する場所だが、一歩入ると広い寺域を囲む見事な土塁が残っている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3 月
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平家物語(長門本) 巻十九の記述
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鎌倉殿は大仏供養のため随兵を従え建久六年に御上洛、三月十二日に南都へ入った。大衆は恐れて遠ざかったが、大勢の中に怪しい者が見えたため梶原景時に命じ南の大門東側で捕らえた。頭に懸けた袈裟を引き剥がすと髪は剃らず髭だけを剃っている。素性と目的を詰問すると「平家の侍・薩摩中務丞宗助、将軍家を狙うためである」と白状した。頼朝は「その志は神妙である」として拘束し、大仏供養が終わり都に戻ってから六条河原で斬首した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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3月30日
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玉葉の記述
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参内し頼朝卿と会って雑事を談じた。この日は列見があり、土御門通親が上首である。
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   ※列見: 下級官人の位階授与を審査する面談。上首は首座・座長。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月1日
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吾妻鏡
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洛中の勘解由小路京極で結城七郎朝光三浦平六兵衛尉義村梶原平三景時が平氏の家人を捕縛した。
前中務丞宗資父子で、この十余年行方を晦ましていた輩である。
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   ※勘解由小路: 現在の上京区勘解由小路町(地図)。平安時代中期の公卿藤原伊尹(藤原北家九条流・正二位
摂政太政大臣)の孫が勘解由小路家の始祖で、ここに住んだのが姓の最初。日本で最も長い姓と言われているらしいが真偽は確認していない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月1日
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玉葉の記述...頼朝卿から馬二疋の贈与があった。この少なさはどういう事なのか。
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   ※馬二疋: 冷徹な政治家九条兼実も頼朝の豹変は予想外だったらしい。 後白河院の跡を継いで権限の集中を
図る後鳥羽天皇との対立が深まったから、頼朝との協調が続いたとしても失脚は訪れたと思うが、馬二匹は露骨すぎる。土御門通親に乗り換えると宣告する必要があったのだろうか。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月3日
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吾妻鏡
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将軍家(頼朝)と御台所(政子)と姫君(大姫)が内々に石清水八幡宮(公式サイト)などの霊地を巡礼した。
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   ※内々に: 原文は「密々」、大姫の入内成就を密かに祈願する、との意味があるらしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月5日
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠が明恵上人に会うため栂尾(高山寺・公式サイト)を訪れた。
重忠が寺に近付いた際に煙塵が巻き起こったため上人の門弟は洛中の火災を疑ったが、上人は「そうではない、名のある武士が来る気配が見える」と話した。
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程なくして到着した重忠が名乗ったため人々は改めて上人の言葉に感銘を受けた。上人は重忠に浄土宗の真髄を語り、重忠は如何にして煩悩を断ち解脱の道に進むのかを教えられて退出した。
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   ※明恵上人: 伊勢平氏の家人で後に頼朝に従った平重国(渋谷重国)の子。
華厳の教えと密教を融合させる教えを説き、仏陀の定めた戒律を守る事こそ本質と主張、これが後の華厳密教の基礎となった。
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建礼門院徳子後鳥羽上皇 に戒を授け、建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開いている。
後鳥羽天皇 ずっと前に和歌山を旅した時に立ち寄った有田川町(有田みかんの本場だね)の道の駅 明恵ふるさと館に近い歓喜寺(参考サイト)が遺跡の一つだった。
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右画像は山中での座禅を好んだ明恵上人像(国宝・高山寺蔵) クリック→ 拡大表示
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月10日
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吾妻鏡
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将軍家が帝の御所に参内。随兵十騎が御車の後に続いた。
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       小山左衛門尉朝政       北條五郎時連
       宇佐美三郎祐茂         佐々木三郎兵衛尉盛綱
       三浦十郎左衛門尉義連    梶原三郎兵衛尉景茂
       葛西兵衛尉清重         加藤次景廉
       稲毛三郎重成          千葉四郎胤信
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禁裏で摂政の九条兼実と対面。談話は数時間に及び、夜遅くに退出した。
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   ※兼実と対面: 頼朝と兼実は建久元年(1190)11月の上洛の際に最初の面談をしている。兼実の日記・玉葉
の11月9日には頼朝の言葉として以下の記載がある。
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今は法皇が政治を司り、帝は皇太子のような存在です。今はまず法皇の意向に任せ、崩御の後に帝が司るようになるべきでしょう。帝はまだ幼少であり貴方の余命はまだまだ先、私も運があれば政治が本来の姿に戻るのを見られます、云々。
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頼朝から政治的な援助の申し出が記されていないため、既にこの頃から兼実を見限っていたと考える説があるらしいが...私は頼朝の京都回帰願望が固まったのは建久五年(1194)8月18日以後だと思っている。この日に 一條高能との縁談が大姫 の固い意思で白紙になり、頼朝の心に大姫入内を介して朝廷に君臨する可能性を模索する夢が芽生えたのだろう、と。
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阻害になる筈の後白河院は既に崩御している。兼実は文治六年(1190)に娘の九条任子を後鳥羽天皇の中宮として入内させているから、いずれ利害は対立する。それが丹後局土御門通親との接近に繋がり、結果として「兼実には馬二疋」の冷遇になった、と思う。
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建久七年(1196)11月の兼実失脚に伴って任子(建久六年10月に昇子内親王を出産)は内裏を去り大姫入内の障害はなくなったが、肝心の大姫が建久八年(1197)7月に死没。頼朝の努力は兼実を排除したい通親と丹後局に利用されるだけに終った。
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一方で通親の養女在子(父は法勝寺執行で平家都落ちに同行して失脚した能円、生母は能円と離別した後に通親と再婚した藤原範子)は後鳥羽天皇の後宮に入り、この年の12月2日に為仁親王(後の土御門天皇)を産んでいる。この時点では、通親の圧倒的な勝利だ。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月12日
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吾妻鏡
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民部卿吉田経房が六波羅邸に来訪。将軍家と面会し因幡前司大江廣元を陪膳(給仕・接待役)として盃酒の儀があり、後白河院時代の事や現在の政務などについての談話が数時間に及んだ。退出後に中原親能に命じて砂金と馬を届けさせた。

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   ※経房と面談: 頼朝の全面的な信頼を受けて朝廷側の窓口を務め順調に出世を重ねた公卿。一説には兄信方
と経房が伊豆守に任じて(信方は1148〜1151年、経房は1151〜1158年)北條時政と接点があった(らしい)事、平治の乱(1159年)直前には経房が皇后宮権大進、、頼朝が皇后宮権少進として上西門院に仕え互いに面識があった事、などが主張されている。
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二人の密接な関係の根拠としては少し弱い気がするが...いずれにしろこの面談は兼実排除の協力体制確認と、今後の土御門通親丹後局体制への移行に伴うの情報交換だろう。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月15日
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吾妻鏡
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将軍家は石清水八幡宮(公式サイト)に参詣、若公(頼家)が牛車に同乗した。伊賀守田村仲教、相模守大内惟義、豊後守毛呂季光が前駆を務め、随兵二十騎が前後を固めた。
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  先陣の随兵
      北條小四郎義時       小山左衛門尉朝政
      三浦兵衛の尉義村     葛西兵衛尉清重
      大友左近将監能直     新田四郎忠常
      後藤左衛門尉基清     八田左衛門尉朝重
      里見太郎義成        武田五郎信光
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  後陣 の随兵
      千葉新介胤正        土屋兵衛尉義清
      稲毛三郎重成        梶原左衛門尉景季
      佐々木左衛門尉定綱    土肥先次郎惟光
      足立左衛門尉遠元     比企右衛門尉能員
      小山七郎朝光        南部三郎光行
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   ※田村仲教: 藤原秀郷の後裔を称する大友(古庄)能直の弟。能直は奥州合戦で得た恩賞の田村庄(現在の
田村町と三春町、郡山市の一部)を仲教に譲った。右側の地図を参照
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   ※土肥先次郎惟光: 5月20日の随兵の中に「土肥先次郎惟平」の記載があるので惟光=惟平か。中村一族と
共に義盛に味方して建暦三年(1213)の和田合戦を戦い敗北、斬首されている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月17日
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吾妻鏡
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丹後局が六波羅邸を訪れて御台所と姫公に面談、今日摂政の九条兼実が賀茂社に参拝するとのこと。
将軍家は御家人に「賀茂社の見物に出掛けてはならぬ」と命じた。これは将軍家が参拝しないためである。
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   ※賀茂社: 通常は上賀茂神社下鴨神社両社(共に公式サイト)の総称。御家人に見物を禁じたのは兼実との
接点を持たない・あるいは避ける、という意味か。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月21日
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吾妻鏡
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将軍家が御参内、また宣陽門院(覲子内親王)も訪問した。長講堂領の七ヶ所については故 後白河院の遺勅に従い荘園として引き継ぐよう処理をしたと伝えた。
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   ※長講堂: 現在は下京区(地図)にある寺院で、寿永二年(1183)頃に後白河法皇が仙堂御所六条殿に建てた
持仏堂が最初。文治四年(1188)に六条殿と共に焼失し、直ちに再建された。
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建久二年(1192)に後白河院は所有する全ての荘園(42ヶ国・89ヶ所)を長講堂に寄進し、翌年の崩御直前に長講堂と荘園の全てを娘の宣陽門院(覲子内親王)に譲り渡した(生前贈与、だ)。
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彼女が独身のまま没した後の長講堂領は紆余曲折の末に後深草天皇とその子孫(持明院統・天皇家の系図1246年を参照)の所有となった。建物としての長講堂は数回の焼失と移転を繰り返し、天正十六年(1588)に秀吉が現在地に移転させた。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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4月22日
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吾妻鏡
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将軍家は今日また御参内した。
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   ※また参内: この頃の頼朝は丹後局に操られていたのだろう。手練手管のキャリアが違うからね。
九条兼実は後白河存命の頃の日記に「近日の朝務は偏にかの唇吻にあり」と書いている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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4月24日
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吾妻鏡
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長講堂領の七ヶ所については以前と同様に年貢を納入するよう定められた。これは将軍家の決裁である。
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   ※長講堂領: この七ヶ所の明細は判らないが荘園全体は概ね順当に宣陽門院の相続が認められている。
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頼朝は大姫入内の内諾を獲得し、土御門通親丹後局の側は九条兼実を失脚させ幼帝の後鳥羽(1180生まれ)に代って朝廷の実権を掌握し長講堂領の相続安堵を得た...誰が有利な取引をしたのかは一目瞭然。そして大姫は入内が実現しないまま建久九年(1198)に病死してしまう。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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4月27日
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吾妻鏡
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将軍家は梶原平三景時を使者として住吉社(公式サイト)に奉幣し神馬を寄進した。今夕社頭に到着した景時は、和歌一首を釣殿の柱に記した。      我が君の 手向けの駒を 引き連れて 行く末遠き しるし表せ
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   ※和歌一首: 現在の住吉社は下京区醒ヶ井(地図)にあるが、元々は五条室町(地図)にあった。
和歌は「遠い未来まで栄える瑞兆を表せ」、程の意味か。釣殿は寝殿造りで池に張り出す形に建てた部分。一方から三方までを吹き抜けにしたケースが多い。 画像(wiki)を参考に。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家は御劔鞍馬寺(公式サイト)に奉納した。使者は相模守大内惟義である。
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   ※御劔: 鞍馬寺は無銘の劔二振を収蔵する。前に行った時は宝物殿に入らなかったが、頼朝奉納の劔かもね。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月10日
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吾妻鏡
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熊野別当湛増が甲冑を若公(頼家に献上した。将軍家は特に喜び、湛増と面会した。
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   ※頼家: 年令は満12歳9ヶ月、ちなみに同行している大姫は満17歳または18歳(誕生月が不明)、入内計画の
相手である後後鳥羽天皇は満14歳9ヶ月。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月15日
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吾妻鏡
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今夕に六條大宮付近で三浦介義澄の郎等が足利五郎長氏の従者と乱闘事件を起こした。
これに依って和田左衛門尉義盛佐原左衛門尉義連らが義澄の宿舎に駆け付け、小山左衛門尉朝政五郎宗政七郎朝光および大胡と佐貫の武士が足利宿舎に集結した。(報告を受けた)将軍家は梶原景時を双方に派遣して和平せよと命じ、夜になって沈静化した。
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   ※六條大宮: 南北の幹線だった大宮大路(現在の大宮通、片側二車線で結構広い)と六條通の交差点(地図)。
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   ※足利長氏: 義兼の嫡子義氏の庶長子。足利の家督は次弟の泰氏が継ぎ、長氏は三河吉良荘の地頭として
分家の吉良足利氏を名乗ったが、一族の中での家格は高かったらしい。
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応援に駆け付けた小山三兄弟はやや遠い縁戚であると共に足利氏とは本領を接して協力関係にある一族、大胡氏と佐貫氏は藤姓足利氏の末だが源姓足利氏とは近い関係にある。
一方の義連は義澄の次弟で、義盛は義澄の甥(義澄の亡兄・杉本義宗の嫡子)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月18日
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吾妻鏡
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将軍家は天王寺(四天王寺(公式サイト)の略称・地図)に参拝の予定で、船を使うことになる。これは一條能保卿が陸路より船を薦めた事と、陸路の場合は途中の費用負担を申し出る領主が多かった事も理由の一つである。
仏縁を求め仏法隆盛を願う霊場の参詣に他人の負担を求めるべきではない、そんな配慮である。
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   ※四天王寺: 聖徳太子が創建した七大寺の一つ。特定の宗派に属さないのが創建の趣意で、現在は全仏教的
な存在として「和宗総本山」を称している。善光寺に近い存在と考えるべきか。境内参拝は無料で24時間可能、駐車場のみ有料(確か30分200円)なのは偉い!
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月20日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に天王寺に向けて出発、御家人らに人夫の提供を命じて船を曳かせる手配をした。洛中は牛車で、鳥羽からは川を下るため同乗する約束をしていた一條能保卿を介して丹後局(高階栄子)の船を借りた。
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しかし能保が行程に伴う費用や雑事を途中の荘園に割り当てたと聞いたため、自分の趣旨にそぐわないと考えた将軍家は同道を断り、日中(原文の通り)に渡部に到着した。ここからは牛車、御台所と女房らの車が続いて行列を整えた。随兵以下の供奉人は騎馬である。
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  先陣の随兵
    畠山次郎重忠         千葉次郎師常
    村上判官代基国         新田蔵人義兼
    安房判官代高重         所雑色基繁
    武藤大蔵丞頼平        野三刑部丞成綱
    加藤次景廉           土肥先次郎惟平
    千葉三郎次郎         小野寺太郎道綱
    梶原刑部の丞朝景        糟屋籐太兵衛尉有季
    宇佐美三郎祐茂        和田五郎
    狩野介宗茂          佐々木中務丞経高
    千葉兵衛尉常秀        土屋兵衛尉義清
    後藤左衛門尉基清       葛西兵衛尉清重
    三浦左衛門尉義連       比企右衛門尉能員
    下河邊庄司行平        榛谷四郎重朝
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  御車
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  御後の供奉人(水干を着す)
    源蔵人大夫頼兼         越後守藤原頼房
    相模守大内惟義          上総介足利義兼
    伊豆守里見義範          前掃部頭中原親能
    左衛門尉小山朝政         右衛門尉八田知家
    豊後守毛呂季光          前因幡守大江廣元
    左近将監古庄能直          右京進中原季時
    三浦介義澄          梶原平三景時
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  後陣の随兵
    北條小四郎義時        小山七郎朝光
    修理亮関義盛          奈胡蔵人義行
    里見太郎義成         浅利冠者長義
    武田兵衛尉有義        南部三郎光行
    伊澤五郎信光         村山七郎能直
    北條五郎時連         加々美次郎長清
    八田左衛門尉朝重       梶原左衛門尉景季
    阿曽沼小次郎親綱         和田三郎義實
    佐々木三郎兵衛尉盛綱     大井兵三次郎實治
    小山五郎宗政         所(伊賀)六郎朝光
    氏家太郎公頼         伊東四郎成親
    小山田三郎重成        宇都宮信房
    千葉新介胤正         足立左衛門尉遠元
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  最後尾
    和田左衛門尉義盛(家の子郎らを相具す)
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午刻(正午前後)に四天王寺参着、まず門外の御念仏所に入り次に本尊に拝礼した。将軍家は予め灌頂堂で待機された長吏法親王に拝謁され、続いて当寺の重宝などを拝見した後に法親王は還御、将軍家も宿舎に入った。
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その後に蒔絵・銀造りの劔を聖徳太子霊廟に献納し、左衛門尉小山朝政を使者として銀の鞍を置いた糟毛(灰色、総鞦を懸けた)の馬を法親王に贈った。劔は法親王の使者が朝政と共に宝蔵に納めた。この他に布施として絹布などを住僧に贈った。
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   ※渡部: 淀川の下流、現在の中之島(地図)一帯にあった淀川水運の要、河口の外港・河尻泊など瀬戸内五泊
(サイト内リンク先)を経て宗との交易を行なう拠点でもあった。平安時代末期に幾多の合戦で武名を轟かせた摂津渡辺党の本拠地でもある。
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   ※摂津渡辺党: 渡辺津(淀川河口左岸)に本拠を置いた武士団。源満仲の嫡子 頼光に仕えた四天王の渡辺綱
(嵯峨源氏庶流)を祖とし、摂津源氏の郎党として代々の棟梁に仕えた。
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三位頼政に従った武者の多くが宇治川合戦で討死している。鬼の腕を斬り落した綱や省・競・唱など一字の名が特徴(渡辺徹や渡辺謙は子孫じゃない、と思う)。
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神護寺の僧文覚も元は渡辺党の武者で、上西門院に仕えていた時に横恋慕して殺してしまった袈裟御前の夫・渡辺渡も同じ渡辺党、しかも文覚の従兄弟だった、と伝わる。ただし、この話は源平盛衰記だけに載っているため信憑性は乏しい。
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   ※日中: 六波羅から鳥羽までは約6km、鳥羽から渡部は水路約45km、渡部から四天王寺は6km。
正午頃に着いたのだから、逆算すると「日中」は午前中程度の意味か。このルートは都から熊野詣に向かう場合も一般的なもので、建保六年(1218)4月には政子も利用している。
話のついでに、2008年の「熊野詣で記録」もオマケに。
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   ※長吏法親王: 坊門局が産んだ後白河院の第五皇子・定恵法親王。元暦元年(1184)から四天王寺別当を
務め、この翌・建久七年に没している。長吏は別当、座主の意。
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   ※総鞦: 馬の背中から尻を飾った房の付いた馬具。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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5月21日
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吾妻鏡
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将軍家の一行は晩鐘の頃に天王寺より帰洛した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月22日
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吾妻鏡
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将軍家が御参内。この折に摂政の九条兼実殿下と対面し、様々な政治の事や世間話などの多くを交わした。
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   ※対面: 兼実を切り捨てた頼朝と翌年11月には失脚する兼実、頼朝は意図して会ったのか、偶然か。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月23日
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吾妻鏡
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後鳥羽天皇の御所六條殿を訪問。退出の後に故後白河法皇の法華堂(法住寺)に詣で供僧らに布施を贈った。
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   ※六條殿: 後鳥羽天皇が退位して院政を始めるのは建久九年(1198)1月だからこの時点では今上天皇。
六條殿は「里内裏」か。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月24日
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吾妻鏡
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前掃部頭中原親能が将軍家の代参として高野山に向かった。これは東大寺の重源上人が去る13日に逐電し高野山に入った旨の噂があり、京都に戻るよう説得するためである。
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   ※重源の逐電: 詳細は不明だが29日には戻っている。外部から招かれて東大寺再建の大事業を成し遂げた
重源上人と陳和卿に対する東大寺生え抜きの僧の反感は根深く、それが陳和卿の失脚・追放事件に発展している。重源の逐電がそれに関係していると思うのだが資料が見当たらない。
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宗教界は嫉妬や勢力争いと無縁の善人が集まっている、などと善意の解釈しないこと。
公明党のように宗教人を装いながら権力に擦り寄って国民を裏切る連中もいるのだから。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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5月29日
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吾妻鏡
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重源上人が将軍家の命令を重く受け止めて現れた。行方を探すため関東への下向が延期となったのを知ったためである。来月の祇園忌にも配慮したらしい。
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   ※来月の祇園忌: 7月の祇園と言えば祇園祭。貞観五年(863)に神泉苑で行った疫病などによる死者の怨霊を
鎮める御霊会が発祥だから鎌倉初期に「祇園忌」と呼ばれていても不思議ではないけど。
神泉苑は寿永三年(1184)の夏に義経と静が初めて会った場所だね。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月3日
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吾妻鏡
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将軍家が若公(万寿公、十四歳、狩衣)を伴い網代車で参内。左馬頭源隆保朝臣が補助のため同行した。
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  供奉人は次の通り
    相模守大内惟義   伊豆守山名義範   左近将監大友(古庄)能直   左衛門尉和田義盛   榛谷重朝
    梶原景季  左兵衛尉葛西清重   千葉常秀   梶原景茂   右京進中原秀時 (各々狩衣で騎馬)
    小山五郎宗政   中務丞佐々木経高 (各々直垂、御車の左右に従う)
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  弓場殿に於いて宰相中将花山院忠経を介し御劔が下賜された。.

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   ※網代車: 舘の部分を竹や桧の薄板を編んだ網代を取り付けた牛車。詳細はwiki画像で。
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   ※若公参内: 頼朝の嫡男として顔見せの参内。頼家の元服は記録にない(欠落の建久七年〜九年か)。
建久八年(1197)12月15日(満15歳)に従五位上に叙され右近衛権少将に任じられている。
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   ※源隆保: 村上源氏の官人で父は三河権守源師経、生母は藤原季範の末娘(養女・ 義朝の妻由良御前の妹)
だから頼朝一條能保の妻や足利義兼とは従兄弟・従姉妹の関係になる。
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   ※花山院忠経: 左大臣藤原兼雅の長男で最終官位は右大臣・正二位・右近衛大将、妻は一條能保の娘・保子。
この時点では従二位・参議・讃岐権守。
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   ※弓場殿: ゆばどの。帝が弓射の技を閲覧する施設。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月8日
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吾妻鏡
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将軍家が六條殿(後鳥羽天皇の里内裏か?)を訪れた。
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   ※六條殿: 文治四年(1188)3月に焼失した記事が吾妻鏡の同年4月
20日に載っている。頼朝の尽力により10月26日に再建の上棟式、12月30日に後白河法皇が完成を喜んだ、との記述がある。建久二年(1191)2月には荒廃していた法住寺殿の再建が始まり、12月16日に法皇は完成した御所に待望の還御を果たしたが、翌年3月13日に同所で崩御した。
六条殿と法住寺殿の使い分け、後鳥羽天皇の御所との区分が素人には判らない。
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右画像は現在の法住寺と後白河天皇陵(法華堂の跡)鳥瞰。院政期は蓮華王院(三十三間堂)や
新日吉社(現在の新日吉神宮
(wiki)。当時は更に南側)などを含む広大な敷地だった。
新日吉社を中心に置いた地図はこちら
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月13日
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吾妻鏡
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将軍家は故・後白河法皇の法華堂に参拝した。
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   ※法華堂: 右上に載せた鳥瞰図を参照。法華堂跡が御陵になり法親王の廟所が並列している「一陵七墓」。
葬られているのは、後伏見天皇九世皇孫・後陽成天皇皇子・後水尾天皇皇子・霊元天皇皇子二人・東山天皇曾孫・東山天皇五世皇孫。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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6月14日
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吾妻鏡
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下河邊庄司行平が平氏の家人桂兵衛尉貞兼を捕らえて連行した。京都の西(桂川の西?)に隠れ住んでおり、平家残党の搜索に伴って見つけ出した者である。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月18日
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吾妻鏡
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御台所と姫君(大姫)は内々に清水寺(公式サイト)などの霊地を巡礼した。
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   ※清水寺: 治承四年(1180)8月24日の吾妻鏡は、石橋山合戦に敗れて土肥椙山を逃げ回った時の様子を次
のように書いている。単なる物見遊山ではなく、清水寺には古い因縁があった。
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頼朝は髷の中の正観音像を取り出し岩窟に隠し奉じた。土肥實平 が仔細を尋ねると、「討ち取られて敵将の大庭景親に首を見られた時、源氏の大将に相応しい所業ではないとされるからだ。
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この像は私が三歳の時に乳母が清水寺に参詣して将来を祈った時に夢のお告げでこの二寸の銀の像を得た。」 と語った。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月21日
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吾妻鏡
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伊勢神宮の神官で神祇大副能隆朝臣六波羅に参上し将軍家と面談した。これは去る文治元年11月に祭主に任じてから命じられた多くの祈祷が良い結果を齎したためで、将軍家は自ら剣を取って能隆朝臣に与えた。
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   ※神祇大副: 権威の高くない官職で、長官の神祇伯(皇族の世襲)は従四位下、次官の神祇大副は従五位下。
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   ※能隆朝臣: 文治元年(1185)から寛喜二年(1230)まで伊勢神宮祭主を務めた(途中に辞任期間あり)。
朝廷と幕府の双方と良好な関係を保ち、面談した時の官位は正四位下、最終的には従二位まで昇叙している。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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6月23日
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吾妻鏡
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将軍家は使者を各所に派遣し、明後日関東に下る旨を連絡した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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6月24日
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吾妻鏡
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将軍家が若公(織り柄の狩衣を着す)を伴って御所に参内。関東に下向する挨拶を申し上げた。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月25日
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吾妻鏡
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将軍家が関東に向かった。供奉人は入洛の時と同様だが、畿内および西海の御家人の主たる者の多くが供に加わった。また中納言律師忠快門脇中納言教盛卿の子)、中納言禅師増盛新中納言知盛卿の息子)、前美濃守源則清の息子などを同行させた。彼らはいずれも平氏の縁戚である。
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   ※律師忠快: 応保二年(1162)生まれ。14才で出家し壇ノ浦合戦(1185)で捕虜となって伊豆に流された。
文治五年(1189)に帰洛し返還された父の土地で宝菩提院(現在の願徳寺・ 紹介サイト)を営んでいた。鎌倉下向後に再び京に戻り権少僧都→ 権大僧都に昇り、 実朝の招きによって鎌倉を数回訪れている。徳の高い高僧として朝廷と幕府の双方から崇敬された。
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   ※禅師増盛: 知盛の次男で幼い頃に出家している。平家都落ちの際には父に同行を許されず寺に留まった、と
伝わる。長男知章(1169生)と三男知忠(1180生)の間だから、18歳前後で鎌倉に下向したことになる。その後は勝長寿院の住僧として生涯を送ったらしい。
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   ※源則清: 清和源氏満政流の武士だが平家の家人として宗盛に仕え、壇ノ浦合戦で宗盛らと共に捕獲された。
元暦二年(1185)5月16日の吾妻鏡に以下の記載がある。
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前内府(宗盛)が鎌倉に到着、見物人が垣根のように連らなった。宗盛は輿に乗り金吾(嫡子清宗)は乗馬、家人の則清(季貞の甥)・盛国(平)入道(清盛の側近・侍大将)・飯富季貞)・平盛澄(侍大将)・景経(藤原・宗盛の乳母夫)・信康(藤内左衛門尉)・家村(不詳)らも同じく騎馬でこれに従った。若宮大路から横大路に入って輿を停め、まず牧宗親が御所に入って報告して招き入れ、西の離れを宗盛親子の居室とした。
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また、吾妻鏡の本年9月28日に以下の記載がある。
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前律師忠快が三浦義澄の希望を受けて三浦に向かった。博学の僧であり、義澄も深く仏法に帰依した人物である。また中納言禅師増盛は勝長寿院に住んでいる。
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角田文衛氏(wiki)は名著「平家後抄」の中で次のように述べている。
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建久年間には頼朝の平家に対する敵愾心は薄れており、増盛の例の他にも、平家の家人でも望む者には幕府への仕官を許したり、平維盛の子六代丸を助命したりしている」と書いている。敵愾心が薄れたかは否かは兎も角として、平家の血縁者を見境なしに殺さなくなったのは事実だ。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月28日
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吾妻鏡
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将軍家の一行は美濃国青波賀の駅に入った。美濃国守護である相模守大内惟義が食事の支度を整えた。
ここで飛脚が到着し、稲毛三郎重成の妻(北條時政殿の息女)が武蔵国の屋敷で重病で危険な状態、と報告。 稲毛重成は頼朝が与えた駿馬(黒馬)に飛び乗って鞭を揚げた。
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   ※青波賀: 頼朝に縁の深い土地。元久元年(1190)10月29日にも上洛の途中で立ち寄っている。
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   ※稲毛重成邸: 川崎市枡形6丁目一帯が館跡(地図)で背後の枡形山が詰め城と推定されているが遺構は殆ど
残っていない。青波賀からは約400km、重成は7月1日に到着したと記載している。
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   ※時政の娘: 生母は時房と同じく足立遠元の娘だが、何番目なのかは判らない。
重成は亡妻追善のため相模川に架橋し、その完成供養の式典(建久九年(1198)12月27日)に出席した頼朝が落馬事故を起こして翌年1月13日に没した。吾妻鏡の記録は建久六年(1195)12月22日で記録が中断し、頼朝死没から20日が過ぎた2月4日まで欠落しているため諸説が紛々としている。判っている範囲は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾八で。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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6月29日
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吾妻鏡
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将軍家は尾張国萱津の宿駅に入り、当国の守護人である野三刑部丞成綱が細かい手配を担当した。
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   ※萱津の宿駅: 現在のあま市上萱津(地図)の庄内川西岸に旧鎌倉街道の宿駅があった。嘉禎四年(1238)の
2月10日には権大納言に叙任する四代将軍藤原頼経 (20歳)が、建長四年(1252)4月には五代将軍になる宗尊親王(満10歳)が宿泊している。鎌倉将軍の定宿になっていたらしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月1日
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吾妻鏡
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将軍家が熱田社に御奉幣。大宮司範経に駿馬と御劔などを奉納、駿馬は自ら引いて納めた。
今日、稲毛三郎重成が武蔵国の館に駆け付けた。頼朝が与えた馬は龍が飛ぶ如く走り、三日黒と名付けた。
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   ※範経: 熱田大宮司の継承記録は実に煩雑で、兄弟間のたらい回しや再任・還任を繰り返す既得権が伴う相続
の醜さを端的に表している。まるで伝統芸能の家元争いのようだ。熱田大宮司千秋家譜(デジタル・ライブラリ)に拠れば下記の通り。この記録は「三度に及ぶ範雅の再任」や「範忠の還任」の事実を隠蔽しているため全面的な信頼は置き難いが、これに従えば奉幣した際の大宮司範経は頼朝の舅・季範の孫だから、頼朝の従兄弟になる。
  藤原季範→ 範忠(由良御前の兄)→ 範信(範忠の弟)→ 範雅(範信の弟)→ 清季(範忠の子)→
  範高(範雅の子)→ 忠兼(範忠の孫)→ 範経(範高の弟)→ 朝季(清季の子)→ 季継(季高の子)→
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   ※三日黒: 持久力の高い国産馬でも連続400kmでは速歩(時速10km強)も無理だと思う。宿駅に備えてある
替え馬を乗り継ぐ方が確実だろう。調べてみたらコサック騎兵が使っていた「ドン種」の馬が24時間で284kmを走った記録があるそうだ。
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バード・ランカスターとヘップバーンが共演した「許されざる者」(1960年)では替え馬を2頭連れて乗り継ぎながら追跡するシーンがあった。同様に馬を休ませながら長距離を走ったジョン・ウェインの「捜索者」(1956年)も懐かしい。共に70年前の映画だから、観たのはもちろんビデオ。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月2日
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吾妻鏡
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遠江国の橋下驛で当国の在庁官人と守護と沙汰人(業務の執行担当)などを予め招集しておいた。安田義定を更迭(建久四年(1193)12月)した以後の公務が正常に処理されているか確認するのが目的である。
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   ※橋下驛: 橋本驛と同じ。建久元年(1190)に上洛した際の宿泊が10月18日に記載してある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月4日
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吾妻鏡
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稲毛三郎重成の妻が武蔵国に於いて他界した。以前から病床にあり様々な治療を試みたが最期には風痾に侵されてしまった。重成は死別の辛さに耐えられず、殺生に明け暮れる武士の身分を捨てて出家してしまった。
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   ※風痾: (ふうあ)は特定の病名ではなく、外傷や消化器系以外の全ての症状を含む総称らしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月6日
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吾妻鏡
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将軍家は黄瀬河の驛に於いて、駿河国と伊豆国で起きている訴訟について善政に繋がる多くの決裁を行った。
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   ※黄瀬河: 義経の参陣で知られた沼津の宿驛。その他の挿話は 黄瀬川の風景で。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月8日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に将軍家が鎌倉に着御した。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月9日
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吾妻鏡
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御台所(政子)比企右衛門尉能員の屋敷に渡御した。稲毛女房(政子の妹)が他界したため軽服である。
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   ※軽服: 遠戚者の死没などに着る軽い喪服・きょうぶく。父母を亡くした際には重服(じゅうぶく)を着す。
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   ※比企邸: 流人時代以来の褒賞として得た屋敷で現在の比企ヶ谷にある 妙本寺一帯(サイト内リンク・別窓)。
比企尼の夫・比企掃部守は早世し、男子がなかった比企家は甥(と伝わる) 能員が跡を継いだ。
頼朝の没後には歴史の転換点となる「比企の乱」が勃発し一族は滅亡する。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月10日
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吾妻鏡
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北條時政殿と江間(北條義時)殿が軽服で伊豆国(韮山北條)に下った。また将軍家上洛に従って供奉していた御家人の多くが任を解かれて領国に帰った。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月12日
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吾妻鏡
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将軍家が鶴岡八幡宮に御参詣。鎌倉と京都を無事に往還した謝辞を献じるためである。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月13日
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吾妻鏡
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土肥實平の後家で落飾していた尼が下若などを携えて御所に参上、御前に呼んで楽しんだ。
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   ※下若: 酒または酒の産地を差す。元々は中国浙江省の村名で良い水質から銘酒を産したのが語源。
實平は挙兵の前から協力した股肱の臣、死亡記事ぐらい載せても良い筈だが没年の記録はない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月14日
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吾妻鏡
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将軍家が勝長寿院に参詣した。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月15日
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吾妻鏡
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将軍家が永福寺に御礼の参詣を行った。また勝長寿院で盂蘭盆の仏事である万灯会を行った。
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   ※万燈会: 罪業懺悔や報恩のため多くの灯明で供養する行事(万灯供養)で奈良時代から行われた。
東大寺の万燈供養会(公式サイト)が有名。
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   ※盂蘭盆: 各地で様々な行事がある。記憶に残る一つは長崎の精霊流し(公式サイト)。豪華さを競う船が進む
中で小さな舟を掲げる若い父親の姿などを見ると涙が出る。幼子を亡くしたのだろう。
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もう一つ紹介するのは既に途絶えた行事、箱根精進池の「火焚き地蔵」。盂蘭盆が終わるとこの地の霊魂は精進池を越えて駒ヶ岳方向へと帰り、縁者は火焚き地蔵の前で送り火を焚いた。
詳細は箱根精進池の石仏群後半の「磨崖仏 俗称応長地蔵」で。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月16日
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吾妻鏡
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武蔵国の国務を執っている大内義信朝臣の行政手腕が庶民の賞賛を受けていると聞いたため、これを褒める書状を与えた。今後の国司はこの内容を守って業務に邁進せよと国府庁舎に貼紙をするよう平盛時に指示を下した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月17日
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吾妻鏡
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斎藤左衛門尉基員が頼朝の代官として相模国大山寺に参詣するため今暁に出発した。
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   ※大山寺: 伊勢原市の阿夫利神社(公式サイト)の別当寺だった現在の 大山不動尊(外部サイト)・地図)。
明治初期の神仏判然令で分離したが、それ以前は神仏習合思想に基づいて一体だった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月19日
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吾妻鏡
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故大納言平時忠卿が所有していた左女牛の土地については平家から没収したものとして書類に含めてあったが、以前のまま放置されていた。今回頼朝が上洛した際に、便利な場所なので六条若宮の供僧らに与える事を認める要望書を提出した。しかし、使者が京都から鎌倉に向けて出立した後に時忠卿の後妻師典侍(藤原領子・wiki)がこの件を聞き、使者を派遣して嘆きを申し出た。その書状が昨夕鎌倉に到着。
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平盛時に書かせた鎌倉の返答は「没収の予定はないため従来の通り管理せよ」との内容である。
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  ※佐女牛: 現在の佐女牛井は「さめがい」と称するのが一般的だが、西本願寺の北を東西に抜ける花屋町通は
昔は「佐女牛(さめうし)小路」と呼ばれた。堀川の清流(今は暗渠)が南北に流れ、源氏累代の六條堀川邸がこの銘水(と、井戸水)を利用していた。
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現在は堀川通の拡巾で面影の一片も残っていない。画像地図を参考に。石碑の東300m、 この辺が頼朝が寄進したエリアの中心、だと思う。
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  ※六條若宮: 第70代後冷泉天皇の勅願に従い源頼義の六條堀川邸の坤(南西)隅に石清水八幡宮を勧請した
のが最初(坤の隅では若宮の位置は整合性が乏しくなってしまうが)。
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この若宮は源氏の氏神として長く崇敬を受け、頼朝は阿闍梨季厳を別当職に任命し土佐国吾川郡を寄進している(文治元年(1185)12月30日の項目を参照されたし)。
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天正十二年(1584)に秀吉が若宮を東山に遷したため旧社地は本願寺に包含され、同十六年には再び方広寺(wiki)の北(詳しい場所は不明)に移転した。さらに秀吉没後の慶長二年(1597)6月に現在地(地図)に遷って若宮八幡宮社(wiki)となった。
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堀川にあった古い祠の跡には地元の有志が建てた社があるが、ここが「六條堀川邸の坤隅」か否かは判然としないし、位置から推定すると頼朝が新たに寄進した一角とも考えられる。
各スポットを推定して落とし込んだ地図はこちらで。
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  ※耳納堂: 鎌倉初期編纂の古事談(wiki)や伝承などに拠れば、
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義家と同様に父頼義も殺生を重ね、奥州十二年の合戦では俘囚の首一万八千を斬り、その片耳を切り集め干して革籠に入れて凱旋した。本来なら地獄に堕ちる筈の人間だが後に出家して仏門に入り、六條坊門の北・西洞院の西に建てた堂の土壇に葬って殺生を悔いたため成仏できた。義家は罪のない人を多数殺して悔いる事がなかったから無限地獄に堕ちた。」とされている。
これが耳納堂(みのわ堂)だが、正確な位置は不明。
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     右は鳥瞰図 (画像をクリック→拡大表示)
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月20日
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吾妻鏡
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若公(頼家)の厩舎を建てて御馬三疋を納め、比企籐次がこれを奉行した。拠出した者と馬の明細は次の通り。
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   一疋 黒駮    千葉介常胤
   一疋 鴾毛    小山左衛門尉朝政
   一疋 河原毛  三浦介義澄
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   ※比企籐次: 能員の嫡子・余一兵衛尉か。比企の乱の顛末を記録した建仁三年(1203)9月2日の吾妻鏡は
「能員の嫡子・余一兵衛尉は女装して逃れようとした途中で景廉 に討ち取られた」と書いている。
詳細は妙本寺 比企一族滅亡の跡で。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月24日
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吾妻鏡
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新熊野神社領の安房国群房庄※: 領家に納める年貢について、去年中に納める分が未済であるとの訴えがある。再三の訴えがあるため暫くは地頭職を解任し、地頭の取り分を未納分と本年分に補填した後に地頭を復帰させるか否かを検討するよう定めた。二階堂行政がこれを差配し、確実な神威への奉仕を続けることになる。
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   ※群房庄: 「安房平群郡」の略称らしい。現在の南房総市北部、旧富山町(地図)。館山道ハイウェイ・オアシス
を兼ねた道の駅 富楽里とみやまの魚介料理は安くて旨かったし、二階で売っている手作り惣菜も魅力があった。今でも同じだと良いけど。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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7月26日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬の出発に関して、今回の上洛に供奉した事を理由にした遅滞などが起きないよう御家人に申し付けた。中原仲業三浦介義澄の差配である。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月28日
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吾妻鏡
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武蔵国国衙の染殿別当職を御所の女房上野局に任命、糸所別当は近衛局が任命された。
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   ※上野局: 文治三年(1187)6月8日の吾妻鏡に「御所の女官である上野局を幕府の染殿別当に任命した」
の記事がある。国衙と幕府の染殿別棟を兼任する、との意味か。
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   ※染殿: 布地や絹布を染める建物や組織を表す。律令制での本来の糸所は縫殿寮の分局だが国衙での組織上
は両方とも縫殿寮に属する、と思う。
武蔵国府は現在の府中大国魂神社(公式サイト)の一帯、当時の国司は平賀義信だった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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7月29日
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吾妻鏡
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将軍家は早朝から浜御所に渡御して終日遊興し笠懸や管弦の音曲などを楽しんだ。北條時政殿の差配である。
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   ※浜御所: 時政の差配とは、時政の名越邸(弁ヶ谷・材木座4丁目の付近)の意味か。当時の海岸線は現在の
光明寺や穂陀洛寺近くだったから名越邸を浜御所と称しても不思議はないが(鳥瞰図)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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放生会の開催(8月15日)が近付いたため殺生禁断を厳しく守るようにとの命令があった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月2日
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吾妻鏡
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放生会が終ってから信濃国善光寺に出掛ける旨の仰せがあった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月6日
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吾妻鏡
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丹後国の志楽庄および伊称保の領家雑掌が提出した解が到着した。地頭を務める後藤左衛門尉基清が押領を行ったとの内容である。仔細に調査し、もし事実であれば地頭が得るべき量の三分の一を記録して報告せよ。その上で別人を補任する旨を前掃部頭 中原親能に命じた。
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   ※志楽庄: 舞鶴市東部を東西に流れる志楽川の流域。舞鶴湾東岸から松尾一帯の若狭国境まで(地図)。
伊称保は京都府北部・丹後半島の伊根に転訛している(地図)。
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   ※雑掌と解: 国衙で公文書を扱った下級官人が雑掌、「解」は上級官庁への上申書。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月8日
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愚管抄
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愚管抄は天台宗の僧 慈円九条兼実の同母弟)が著した史論書。成立は承久二年(1220)前後。
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中宮(兼実の娘任子・後鳥羽天皇の中宮)の御産で騒ぎになり祈祷なども行われた。
しかしながら皇女(昇子内親王)が生まれたため殿(摂政関白の九条兼実を差す)は残念に思われた。
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   ※皇女: 歴史の気紛れだね。もし任子が男児を産んだら建久七年(1196)11月の兼実失脚もなかったろうに。
大姫入内工作に走った頼朝は任子が男児を産み兼実が天皇の舅になる可能性も覚悟したのだろうか。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月9日
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吾妻鏡
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御台所の屋敷に於いて故稲毛重成の女房(政子の妹)のために仏事を行った。導師は行慈法眼である。
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   ※御台所の屋敷: 大倉御所の一部だろう。晩年の政子は勝長寿院の寺域に住居を構えている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月10日
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吾妻鏡
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熊谷次郎直實法師が京都から鎌倉に入った。武士の身分を捨て来世の仏縁を求めて西方浄土を目指し、東山に落ち着いている。
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今回の将軍家上洛の際は考えがあって参上せず苦しい修行を重ねたと涙で述懐した。将軍家の前に呼ばれて最初に欣求浄土と仏法の真髄を語り、次に兵法と合戦の故実などを語った。既に剃髪した僧体ではあるが心に俗世界が同居している様子を見た人々は感嘆を覚えた。
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これから武蔵国に下向するとの事、将軍家は再三引き止めたが改めて参上すると述べて退出した。
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   ※熊谷直實: 建久三年(1192)11月に出奔して家督を嫡子直家に
譲り、法然に帰依して法力房蓮生を名乗っている。
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直情径行型と言うべきか、単純明快タイプか、単細胞イノシシ武者とでも評するべきか。
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右上画像は直實の菩提寺・熊谷寺の山門。
画像をクリック→ 「熊谷寺と東竹院」の詳細へ
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   ※東山: 鎌倉時代の初期、法然は鹿ヶ谷の草庵で弟子と共に厳しい
修行を重ねた。その草庵が念仏道場を経て現在の法然院(公式サイト)になったとされる (地図)。「東山云々」が事実であれば、直實が修行したのは鹿ヶ谷の草庵だろう。
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すぐ北側には銀閣寺もあるし、少し足を伸ばして見事な紅葉を楽しもう。 右画像は紅葉に囲まれた法然院の山門。
             画像をクリック→ 拡大表示。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月13日
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史料
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後鳥羽天皇の中宮・任子(九条兼実の娘)が女児(昇子内親王)を出産。
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もし男児ならば天皇の外祖父となり、頼朝土御門通親丹後局連合に対抗できる筈だった兼実の落胆は大きく、日記「玉葉」には当日の記載も残っていない。兼実は再び任子の懐妊に夢を託したが、12月2日には通親の養女在子(生母の藤原範子が通親と再婚)が男児(のちの土御門天皇)を産んで兼実の失脚は決定的になった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月13日
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吾妻鏡
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北條時政殿と江間殿(北條義時)が伊豆国から鎌倉に帰着した。
西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月14日
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吾妻鏡
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将軍家は放生会の流鏑馬に出場する射手を引き連れて由比ヶ浜に出御し、各々の射芸を観覧し16騎を選抜した。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会が行われ、将軍家が参宮した。梶原源太左衛門尉景季が御劔を持ち、望月三郎重隆が御調度を携えた。 舞楽が催され、伊豆守山名義範豊後守毛呂季光千葉介常胤三浦介義澄小山左衛門尉朝政八田右衛門尉知家比企右衛門尉能員足立左衛門尉遠元らが招集され廻廊に列座した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月16日
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吾妻鏡
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将軍家は今日また御参宮。馬場で流鏑馬が開催され、選抜された熟達の射手16騎が出場した。
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    一番 三浦和田五郎義長   二番 里見太郎義成
    三番 武田小五郎信政    四番 東平太重胤
    五番 榛谷四郎重朝        六番 葛西十郎
    七番 海野小太郎幸氏      八番 愛甲三郎季隆
    九番 伊東四郎成親      十番 氏家太郎公頼
   十一番 八田三郎知基      十二番 結城七郎朝光
   十三番 下河邊四郎政義     十四番 小山又四郎
   十五番 江間太郎泰時      十六番 梶原三郎兵衛尉景茂.

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   ※他の人物: 三浦義長は和田義盛の弟、東重胤は東胤頼の嫡子、武田信政は石和信光の三男、
葛西十郎(清宣)は葛西清重の弟、伊東成親は工藤祐経の娘婿か?、八田知基八田知家の三男、小山又四郎は朝長(小山朝政の長子)  御家人も少しづつ世代交代だ。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月17日
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吾妻鏡
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御台所が御所に還御した。喪中の軽服(軽い喪服)のため八幡宮神事の期間中は御所から他所に移っていた。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月19日
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吾妻鏡
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将軍家の歯痛が再発した。

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   ※歯痛: だから前年9月26日の歯痛の時に抜歯を勧めたのに(笑)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月23日
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吾妻鏡
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善光寺に参詣する計画は延期となった。やがて寒期が訪れるため来春に行う旨を御家人に指示した。

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   ※やがて寒期: 8月23日は新暦の9月28日、寒さの心配をするのは少し早いような気がするが...。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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8月26日
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吾妻鏡
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将軍家の歯痛が少し治まり、船を用立てて三崎に渡御し遊覧などを楽しんだ。今回の上洛して鎌倉に戻ってからは初めての三浦遊覧である。
西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月28日
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吾妻鏡
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東国の庄園で強竊二盗および博奕などを繰り返す場所については地頭職を没収し、悪党を捕らえた者を補任するよう陸奥国と出羽の国に命令を下した。
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   ※強竊二盗: 竊は窃の旧字、強盗と窃盗の二種類の犯行を指す。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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8月29日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の上宮と下宮の常燈に供する油を補給するのは大名の役務とし毎月の順番を定めたにも拘らず過怠が起きているらしい。従って人数を増やし毎日の順番を定めて過ちを防ぐこととした。月初の5日間は幕府の負担とし、毎日宮寺に持参するよう清常(雑色)に通達させた。この差配は二階堂行政の担当である。
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   ※上宮と下宮: 建久二年(1191)の大火で焼失した後に大石段の上(現在の本殿位置)に再建したのが上宮、
石段の下(現在の若宮)にあるのが下宮。(八幡宮の境内図(公式サイト)を参照)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陸奥国の平泉にある堂塔は丁寧に修理を加えるよう葛西兵衛尉清重および伊澤左近将監家景らに命令した。
破損が著しいとの知らせが届いたためである。泰衡は追討されたが、寺の建物については元の姿を保つよう重ねて指示を下したもので、将軍家が仏法に寄せる志は前代未聞の重篤さである。
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   ※伊澤家景: 文治六年(1190)初頭に起きた奥州藤原氏の遺臣・大河兼任の乱鎮圧後に陸奥国留守職に任じ
葛西清重と共に奥州総奉行として東北行政の安定に務めた文官。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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9月9日
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吾妻鏡
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将軍家が臨席されて鶴岡八幡宮の神事が行われた。流鏑馬が七騎、競馬が三番、相撲が十番である。
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   ※重陽節: 文治二年(1187)から毎年9月9日の通例になっている。文治三年には比企能員邸(現在の妙本寺
の地)で菊見の宴会を行っている。陽数の九が重なるため、中国では九月九日を「重陽」とし、日本では菊を飾り菊酒を嗜む行事として宮中に定着した。
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最も古い開催の記録は天武天皇十四年(685)だが、崩御が朱鳥元年9月9日(686年10月1日)だったため国忌として廃止され、再開は延暦十年(791)から再開となった。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月18日
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吾妻鏡
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蓮花王院領の大和国藤井庄について、岡冠者頼基は源氏一族の権威を利用して地頭を称し荘園の業務を妨害しているとの訴えが領家から届いた。
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> 文治年間に後白河法皇が出した院宣によって既に地頭職は停止されているから関東が決裁する範囲ではないとの返状を送った。
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   ※蓮花王院: 現在の三十三間堂(公式サイト)。元は後白河法皇が 平清盛
命じて離宮法住寺殿の一角に建てた仏堂で、本尊は千手観音。
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長寛二年(1165)に完成した当時は五重塔も併設していたが建長元年(1249)に焼失、現在の建物は文永三年(1266)に本堂(三十三間堂)だけ再建されたもの。千体の仏像のうち平安時代末期の創建当初に刻まれたものは124体。
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右画像は中尊の国宝・千手観音坐像(335cm)、堂の再建直後の建長六年(1254)に大仏師湛慶が康円と康清を率いて完成させた、と胎内に銘記されている。  画像をクリック→ 拡大表示
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   ※藤井庄: 葛城市南藤井の屋敷山公園を中心にした一帯(地図)。
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   ※岡冠者頼基: 満仲の次男頼近の末子で大和に土着した頼基らしい(清和源氏の系図を参照)。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月19日
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吾妻鏡
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新籐次藤井俊長中原光家が御分国の巡検使に着任する。これは不熟損亡が理由である。
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   ※藤井俊長: 治承四年8月に挙兵し20日に相模国土肥を目指した頼朝主従名簿の最後の二人が新藤次俊長
と小中太光家。俊長は建久二年(1191)1月に政所が設置された際に案主(文書を管理し故実の調査が任務)に任命された文官と思われる。義朝と共に知多半島野間で討たれた鎌田政清(政家)の息子の可能性もあるのだが...詳細は本年12月7日のコメントで。
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   ※不熟損亡: 農作物の出来が悪く存亡の危機にあるとの表現。御分国は頼朝の管理下にある関東の諸国。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月23日
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吾妻鏡
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多くの武士が御家人となり、新恩として所領の安堵を受けた。大江廣元二階堂行政、武藤頼平(武藤資頼の養父で元は 平知盛の目代)がこれを差配した。
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   ※新恩: 例えば平家滅亡や奥州藤原氏滅亡に伴って得た領地を御家人に分け与えるのが新恩だが今回は特に
与えられる原資が見当たらない。新たに御家人と認めた武士に対して行った旧領安堵と考えるべきか。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月28日
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吾妻鏡
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前律師の忠快が三浦に向かった。これは忠快の深い学識を尊敬している三浦義澄の求めであり、また義澄が仏法に帰依している事も理由である。また、忠快と同じく平家の一族だった中納言禅師増盛も勝長寿院の住僧である。
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   ※忠快と増盛: 忠快は平知盛の、増盛は平教盛の息子。詳細は6月25日の記事を参照。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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9月29日
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吾妻鏡
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鷹狩りを停止せよとの命令を諸国の御家人に下した。この規制を守らない場合は相当の罪に問う、ただし神社への供物として納める場合は規制の限りではない、と。
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また故藤原秀衡入道の後家が現在も生存しており、彼女に対しては特に配慮を加えるよう葛西兵衛尉清重 と左近将監伊澤(留守)家景に指示を与えた。両人が奥州惣奉行に任じているためである。
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   ※奥州惣奉行: 二人の職務の詳細は9月3日の記事を参照。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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武蔵国など関東御分国に課せられている税と領主へ年貢納付に関しては厳守せよとの命令があった。
しかしながら今年は農民が飢饉の状態を訴えており、期限通りの納付は困難と思われる。これは管理に任じている比企能員二階堂行政からの報告である。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月3日
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吾妻鏡
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天文博士の資元朝臣が先月17日に発送した書状が鎌倉に届いた。太白変(金星の軌道の変化)についての報告が添付してある。
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   ※天文博士: 律令制に基づく陰陽寮の職員で定員は一名、天文と暦の分野を統括し後進の学生(定員は10名)
を指導する。資元は安倍晴明(wiki)の子孫なのは間違いないらしいが詳細の系図は調べていない。というか、朝廷では賀茂氏と安倍氏が内部分裂を繰り返しつつ陰陽道の既得権を争奪して醜悪な権力闘争を繰り返しているから、調べるのも馬鹿らしい。
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ただし安倍氏の庶流が鎌倉に下向して祈祷や卦占に関与したのは事実で、承元四年(1210)10月16日には「安倍泰貞が属星祭(運命を司る星の祈祷)を行った」、建暦元年(1211)12月28日には 「安倍親職と泰貞が「将軍実朝の厄除けに天冑地府祭を行った」、承久三年(1221)10月19日には「安倍親職・安倍泰貞・安倍宣賢・安倍晴吉らが合戦(承久の乱)の吉凶を占関東勝利の卜筮を得た」、などの記載が見られ、幕府の中に浸透していた事が窺える。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月7日
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吾妻鏡
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将軍家が参席して鶴岡八幡宮の臨時祭が行われた。江間太郎(北條泰時)、豊後守北條五郎時房、伊豆守山名義範毛呂季光、江左衛門尉成季らが供奉し御経の供養。導師は大学法眼行慈である。
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   ※大江成季: 素性未確認、継続調査中。行慈は文覚の弟子。4月5日に記載した明恵の叔父で師でもある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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10月8日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬八疋が京都に向け出発した。和泉大掾国守がこれを引き連れている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月11日
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吾妻鏡
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護念上人慈應が越後国から鎌倉に参上、佐々木三郎兵衛尉盛綱を介して来た人物で将軍家と面談した。故六條廷尉禅門(源為義)の末子で頼朝の叔父に当たるため丁重な処遇である。
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出家してからは顕教と密教の両宗を学んで徳を重ね、最近は越後国加地庄の菅谷山に天台山無動寺の地形に似た伽藍を建て、不動明王像を本尊として祀っている。その傍らの草庵に住み修行に明け暮れている、と。
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   ※慈應: 名の知れた僧なのだが俗名が判らない。為義の子は保元の乱直後に幼子まで殺され生存者は不明。
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   ※菅谷山: 現在の菅谷不動尊(紹介サイト・地図)。加地庄は現在の新潟県新発田市。盛綱は平家追討の恩賞
として加地庄の地頭となり要害山(地図)に築城した。
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   ※天台山無動寺: 延暦寺東塔を構成する塔頭の1つ(紹介サイト地図)で千日回峰行の拠点でもある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月13日
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吾妻鏡
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元は南都の学僧で、故左馬頭木曽義仲朝臣の右筆を務めた大夫房覚明と云う者がいる。(寿永三年(1184)1月に)義仲朝臣が討伐されてからは本名の信救得業を名乗り、昨今は箱根権現に住んでいるとの報告が届いた。
鎌倉および近国に出ず箱根山に留るよう別当の元に命令書を送った。
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   ※得業: 僧に課された所定の学業を終えた事を示す呼称。南都(奈良)では興福寺の維摩会と法華会・薬師寺の
最勝会(各々問答形式の資格試験、「三会」)を修した者。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月15日
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吾妻鏡
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大姫の病状が思わしくない。寝食が安定せず心身ともに平常を保っていないのは邪気が取り憑いているのか。
護念上人が命令を受けて加持祈祷を行い、今日はとりあえず回復した。
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良い結果が現れたのを喜んだ将軍家は仏法興隆のため荘園を寄進したいと申し出たが、考えるべき事があるとして受け取らなかった。聖者の考えは凡人には計り知れないものである。
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   ※護念上人: 10月11日に記載がある僧で、佐々木盛綱を介して鎌倉を訪れていた慈應を差す。荘園の寄進を
受け取らなかったのは大姫に死の影を見たため、かも知れない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月16日
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三長記
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今日、中宮任子の産んだ姫宮が内親王の宣旨を受け、父親の九条兼実殿下の参内があった。評定所が「在、瑛、昇」の三字を選んで上奏し、昇にせよとの仰せが下された。
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   ※三長記: 公卿藤原長兼の日記。建久六年(1195)7月〜承元五年(1211)12月まで断続的に残っている。
   ※中宮任子: 4月10日に兼実や頼朝などの思惑を併記してあるので参照されたし。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月17日
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吾妻鏡
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美濃国の地頭が納付すべき年貢が遅滞している旨の申し入れが朝廷から入った。今日、早急に完納せよとの命令を相模守大内惟義に下した。
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   ※大内惟義: 文治三年(1187)〜承元五年(1211)の24年間、美濃国守護に任じている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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10月20日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬が三疋、(10月8日の八疋に続いて)今暁京都に出発した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月21日
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吾妻鏡
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頼朝御持仏堂の造営が始まった。奉行は左近将監の大友能直と左京進の中原仲業、将軍家も来臨している。
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   ※頼朝持仏堂: 頼朝は奥州出兵直前の文治五年(1189)7月18日に伊豆山権現の住僧専光房を呼んで次の
ように命じている。
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奥州征伐のため内密の立願をしている。汝は戒律を厳しく守る僧として私が留守中の鎌倉で祈祷に従事せよ。出陣して20日目に大倉亭の裏山に私の念持仏である正観音像を祀る堂を建てよ。工匠に任せず自ら柱のみを建てれば良い、造作の件はは改めて沙汰を下す。
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この持仏堂は完成したのか、今回の造営と重複するのか、などは不明。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月26日
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吾妻鏡
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若公(頼家)が鶴岡八幡宮と三浦栗濱大明神に参拝、北條五郎時房比企右衛門尉能員以下50余人が従った。
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   ※栗濱大明神: フェリー港に近い住吉神社(地図)。三浦一族草創の頃から水軍の守護神として崇敬と保護を
受け、治承四年の衣笠落城の際には山頂の松に旗を立てて安房へ出航した、と伝わる。
頼朝は壇ノ浦合戦直前の元暦二年(1185)1月21日に政子を伴ってここに参拝している。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月27日
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吾妻鏡
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若公が三浦から還御、三浦介義澄が引出物を献上した。帰路の途中で和田左衛門尉義盛※: に立ち寄った。
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   ※義盛邸: 本領の三浦・和田郷だろう。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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10月28日
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吾妻鏡
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護念上人が越後国に帰った。将軍家は引き止めたが街の中は好きではないと言って早々に出発した。
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   ※早々に出発: 祈祷したのに大姫の容態が急変したらヤバイから、などと考えたのかも知れない。他の例だが、
祈祷の結果が悪かった陰陽師が更迭などの処分を受けた記録もある。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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11月1日
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吾妻鏡
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将軍家が鶴岡八幡宮に参拝した。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月4日
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吾妻鏡
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嘉祥寺領の長門国河棚庄について、守護人が領家の業務を妨げている旨のクレームが朝廷から届いた。
河棚庄の地頭職は文治年間(1185〜1190年)の後白河院宣によって廃止している。今さら違法を行なえば罪科を招くから早急に停止せよとの命令を下した。
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   ※嘉祥寺: 嘉祥三年(850)に第55代文徳天皇(56代清和の父)が父親の54代仁明天皇の陵墓近くに建てた
伏見区深草坊町の嘉祥寺(深草聖天・地図)。分院の貞観寺(既に廃寺)は東寺を超える規模と広大な荘園を所有していた、と伝わる。
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   ※河棚庄: 現在の下関市豊浦町大字川棚(地図)。嘉祥寺の荘園として知られている。
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   ※守護人: 建久四年(1193)に薩摩流罪を許された佐々木定綱が同年12月20日に長門などの守護に還任、
恐らくは元久二年(1205)の死没まで務めている。定綱流罪の経緯は建久二年(1191)4月6日に記録されている。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月6日
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吾妻鏡
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将軍家は下河邊庄司行平の気概を愛し、子孫は長く門葉に準じる待遇に処するよう書状を与えた。
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   ※その後の行平: 頼朝没後の正治元年(1199)10月に勃発した景時弾劾は兎も角として、元久二年(1205)
6月には畠山重忠追討に加わっているし、その重忠も頼家失脚と比企氏の滅亡に関与した。
鎌倉武士の忠義心は基本的に「御恩と奉公」、御恩が失われれば奉公も...か。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月10日
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吾妻鏡
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将軍家が参席し鶴岡八幡宮で御神楽の奉納があった。陪従(六位以下の楽人)に任じた大江左衛門尉景節が秘曲などを歌った。俄かに風雨が巻き起こったのはまさに神威の瑞兆である。
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   ※秘曲: 建久二年(1191)12月15日に「鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら13人を京都に派遣した。
これは神楽の秘曲伝授を多好方に依頼する任務である。」との記載がある。
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翌年3月4日、その翌年7月18日、更に翌・建久五年11月4日にも久家の名前が載っているが景節の名は初出(だと思う)。これは才能の差が顕れたのだろう。久家も景節も出自などは確認できない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月10日
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史料
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九条兼実の嫡子良経が内大臣に任じ、次期摂政関白となる事を内外に示した。
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   ※九条良経: 翌年11月には土御門通親丹後局によって父と共に朝廷から追放・失脚となった。
正治元年(1199)に左大臣として復帰、建仁元年建仁二年(1203)10月の通親急死もあって12月には土御門天皇の摂政に、同四年(1204)には従一位・太政大臣に昇り詰めたが...
父の兼実死没(1207年4月)に先立って元久三年(1206)3月に38歳で急死している。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月13日
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吾妻鏡
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北條時政殿が伊豆国に下向した。三嶋社の神事に出席するためである。
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   ※三嶋社: 公式サイトはこちら訪問レポート法華寺(共にサイト内リンク・別窓)などのレポートも参考に。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月19日
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吾妻鏡
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将軍家は相模国大庭御厨の俣野郷にある大日堂に田畑を寄進し、将来に亘って燈明の油代に充てるよう命じた。これは 権五郎景政が在世の頃に伊勢神宮式年遷宮の古い柱を得て大日如来を彫り本尊として祀った堂で開眼供養は権大僧都頼親、東国の人々を守護する祈りを込めて安置した経緯がある。
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霊験の顕著も明らかだったが、跡を継いだ俣野五郎景久が滅亡してからは建物も傾き、本尊さえも雨露に晒される状態になっている。景久の後家尼が嘆き悲しんでいるのを仏法に帰依する志を抱く三浦介義澄が伝え聞き、復興させるよう願い出た。景久は反逆者だが権五郎景政は源氏に仕えた忠臣である。本尊を刻んだ材木の起源も堂の由来も景政の心情に従って護持するよう命令を下し、必要な寄進が行われた。
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   ※大庭御厨: 長治元年(1104)前後に鎌倉権五郎景政が開発し永久五年(1117)に伊勢神宮に寄進した広大
な荘園。景政の後は庶流の景宗を経て平家に与した景親→ 景親の滅亡→ 兄の景義→ 和田合戦で大庭系滅亡→ 三浦氏→ 宝治合戦で滅亡→ 北條得宗の実質支配、に変遷した。
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   ※俣野郷: 大庭景親の同母弟・景久が相続した御厨西側の境川流域。
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   ※大日堂: 「新編相模国風土記稿」には「西俣野村の御嶽社(別当寺は御嶽山神札寺)、一尺一寸の御神体と
本地仏大日不動の二体は既に失われ、今は堅牢な造りの地神を祀っている」とある。
現在の藤沢市西俣野にある御嶽神社(地図)が該当する。
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   ※三浦義澄: 権五郎景政の祖父鎌倉景政の兄が三浦為通(義澄や義盛の祖)、権五郎景政と共に後三年の役
を戦い景政の右目に突き刺さった矢を抜いたのが為通の嫡子為継(後三年・金澤の柵を参照)。
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両家の関係は左フレームの「秩父平氏の系図」を、大庭氏の内紛と御厨の範囲は大庭塚と豊田郷を参照されたし。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月20日
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吾妻鏡
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北條時政殿が伊豆国から鎌倉に駆け戻って来た。一昨日(18日)に三嶋社第三御殿の上に頭を切られた鳥が死んでいた旨の報告した。
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   ※三嶋社第三御殿: 11月13日のリンク先を参照。今の祭神は大山祇命積羽八重事代主神(共にwiki)だが
これは室町時代以後の設定で、それ以前の三嶋神は「御島神=噴火の激しい伊豆諸島の神」として祀られていたと考えるのが定説になりつつある。
従って鎌倉時代初期の三嶋社第三御殿とは何か、その祭神は何かの特定はできない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月21日
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吾妻鏡
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北條五郎時連(後の時房)が神馬と御剣などの供物を携え、使者として三嶋社に派遣された。また潔斎を続けていた菊太三郎家正が将軍家の仰せに従って千度詣のため出発した。 これらは18日に三嶋社で発生した怪異な事件を神に陳謝し、祓い清めるのが目的である。
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   ※千度詣: 便宜上、鳥居と神殿の間を往復するのを一度と考えて簡略化するのが通例らしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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11月23日
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史料
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後鳥羽天皇の中宮任子(九条兼実の娘・8月13日に皇女(昇子内親王)を出産)が内裏から強制的に退去。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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建久六年
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11月25日
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史料
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九条兼実が関白を罷免された。必要な上表(天皇への上奏)も行われず、後任は土御門通親に近い近衛基通が任命された。愚管抄(慈円の著した史論書)は通親が兼実の流罪を主張し、後鳥羽天皇が「そこまでの罪はない」と押し止めた、と書いている。
兼実の弟・慈円は天台座主を、もう一人の弟で太政大臣の兼房は各々辞任。兼実に近い勢力は朝廷から一掃され、源(土御門)通親 がすべての人事権まで掌握した。
    いわゆる「建久七年の政変」である。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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11月25日
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吾妻鏡
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伊豫国越智郡の地頭職を停止した。これは荘園領主が殿下(九条兼実)であることに因る。
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   ※越智郡: 現在の今治市(愛媛県行政地図)とほぼ同一で当時の地頭は河野通信が務めているが...。
領主が兼実である事と通信の地頭職を停止する事の関係は、浅学のため理解できない。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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>建久六年
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12月2日
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史料
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後鳥羽天皇の側妻在子(土御門(源)通親の養女)が男児(後の土御門天皇)を出産。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月2日
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吾妻鏡
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駿河国富士郡の年貢として綿千両が京都に送られた。雑色の常清と時澤が使者に任じた。
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   ※富士郡: 富士川合戦が起きた南部の富士下方と、曽我兄弟の仇討が
起きた北部の富士上方に分かれていたらしい。
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   ※綿千両: 中世の綿は木綿ではなく繭を煮て伸ばし綿(わた)にした状態
を差す。一両は推定で約40gだから、換算すると約40kgか。
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右画像は現在の静岡県行政地図、参考までに。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月5日
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吾妻鏡
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遠江国の住人勝間田玄番助成長が所領を没収された。これは国府の光堂で乱闘と刃傷に及んだためである。
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   ※遠江国: 上記した行政地図の静岡市西側の川根本町〜藤枝市〜焼津市ラインから浜名湖まで。国府の正確
な位置は確定していないが、平安時代以後は磐田市の中心部で東海道五十三次28番目の見附宿が置かれた磐田市見付(地図)一帯だった可能性が高い。光堂の意味は不明、2kmほど北西には巨大な中世墳墓群の一部を保存した 一の谷遺跡地図がある(見学と駐車は無料)。
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   ※勝間田成長: 牧之原市勝田(地図)を本領とした御家人。子孫は元弘の乱(1331)にも加わっており、更に
戦国時代の文明八年(1476)には勝間田城に籠って今川軍に攻め落とされた記録も残っているから、所領没収=失脚追放ではなかったらしい。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月7日
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吾妻鏡
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相模国と武蔵国の年貢として糸と綿が京都に送られた。新籐次俊長が運送の任を務めた。
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   ※新籐次俊長: 一般的には主人の義朝と共に知多半島野間で討たれた鎌田政清(政家)の息子とされる。
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治承四年(1180)8月20日の吾妻鏡には伊豆国から土肥に向けて出陣する頼朝主従の末尾から二番目に新籐次俊長の名前があり、更に建久二年(1191)1月15日には新設の政所の案主(四等官の三位)として藤井俊長(鎌田新籐次)が載っている。
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平治二年(1160)1月に殺された政清の遺児が旗揚げ当初から頼朝に仕えていた、幕府の統治機構整備に伴って事務官僚に引き立てられた、と思うまでは良いのだが...これが建久五年(1194)の吾妻鏡の記事と食い違ってしまうから面白い。
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【 吾妻鏡 建久五年10月25日 】   詳細は当日の記載を参照されたし。
(法事の)施主の女姓の父左兵衛尉鎌田正清は故左典厩義朝に仕えた股肱の臣で、二人は同じ場所で生涯を終えた。将軍家はそれを哀れんで遺族を捜したが男子はなく、娘だけが見付かった。尾張国の志濃幾庄と丹波国の田名部庄の地頭職を与えて旧恩に報いたものである。

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建久二年に「鎌田新籐次」と注釈を加えているのだから政清の遺児だと知っていた筈で、これは「遺族を捜したが男子はなく」との整合性に欠ける。治承四年の編纂者と建久二年の編纂者は別人かも知れないが、真実が何かは少し気になる部分ではある。
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義朝主従の謀殺については知多半島 大御堂寺で。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月12日
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吾妻鏡
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千葉介常胤が申請書を提出した。
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戦場に於いて再三の勲功を挙げ、他の者とは比べられないほど長年の忠節を尽くしております。今は老齢を迎えてこれ以上の功績は望めませんから、褒賞を得て子孫に残したいと考えております。一族にとって所縁のある美濃国蜂屋庄を頂きたいと考えます。
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頼朝はこれに対して次のように答えた。
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功績が判っているから人より多くの褒賞を与えてきた。蜂屋庄は後白河法皇の時代の院宣で地頭を停止した経緯があり、改めて申請はできない。必ず良い土地を見つけて手配しようと考えている。
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常胤は落涙し、「その御配慮には心を打たれます。今ては蜂屋庄を頂けなくても残念には思いません。」と答えた。
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   ※蜂屋庄: 美濃加茂市に蜂屋町の地名が残る(地図)。道の駅 日本昭和村の近く。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月16日
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吾妻鏡
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伊豆国願成就院の鎮守社を大切に祀るよう命令があった。これは先日から夜中に怪異な事件があり、石礫が飛んできて堂宇の扉を破ったり天井裏を人が歩くように揺れたりするためである。妖魔は神仏には勝てない、信仰に偽りがなければ魔物の存在など恐れる必要はない、と。
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   ※鎮守社: 現在の守山八幡宮(別名を旗揚八幡)を差す。
治承四年(1180)8月17日の挙兵の際に頼朝が本陣を置いたのは北條邸と考えるのが順当だが、吾妻鏡には...
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頼朝は宿舎縁先で放火の合図を待ったが煙が見えず舎人を樹に登らせても確認できないため...
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とあり、北條邸は守山の西側にあるため東側・兼隆邸の方向を見通す事ができない。文面が事実とすれば、山頂に近い守山八幡本殿と考える必要がある。
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        右画像は東側から見た守山の全体図(クリック→ 拡大表示)
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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12月22日
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吾妻鏡
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将軍家が籐九郎盛長の甘縄邸に入御、今夜は宿泊である。
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   ※盛長の妻: 頼朝が平治の乱に敗れて京から落ちたのが満13歳7ヶ月、後に盛長の妻になる丹後内侍は既に
惟宗広言と通じて男児(後の島津忠久)を産んでいる。
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彼女は頼朝より2〜3才年上と考えるのが妥当で...とすれば建久六年末の頼朝は48歳6ヶ月、丹後内侍は50歳を過ぎている計算になる。若い頃の彼女が頼朝が肉体関係にあったのは疑えないが、もう枯れた関係になっていたのだろうね。
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西暦1195年
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82代後鳥羽
建久六年
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月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1195年
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82代後鳥羽
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記事
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前年・建久五年(1194)の吾妻鏡へ       翌年・建久七年(1196)の吾妻鏡へ