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建久十年・正治元年(1199年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1199年
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83代後鳥羽

13年後の記事
建暦二年
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2月28日
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吾妻鏡
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から引用
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吾妻鏡が頼朝死没の事件を記載しているのは事件から13年後の建暦二年(1212)。
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相模国相模河に架っている橋の数ヶ所が腐って壊れた旨の報告が鎌倉に届けられた。修理が必要であるとの意見が三浦義村から出され、北條義時大江廣元らが協議を行った。
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去る建久九年(1198)に稲毛重成が橋の新設工事を完成させた折、落成供養に将軍が来臨した帰路に落馬事故があり、程なくして崩御。またその後には(供養の主催者)稲毛重成も事情があって討伐を受ける結果になった。
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橋に関して凶事が続いた経緯があるため将軍実朝に判断を求めたところ、「故頼朝将軍の死は覇権を得て20年が過ぎ官位を極めた後であり、重成は自分の不義のため天誅を受けたに過ぎない。橋の問題ではないのだから今後は一切不吉などと言うべきでない。あの橋があれば二所詣にとっても庶民にとっても便利である。壊れる前に早く修理をせよ。」との仰せだった。
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   ※原文は: 去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結縁之。
将軍家渡御。及還路有御落馬。不経幾程薨給畢。
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「及還路有御落馬」、つまり「(鎌倉への)帰路に落馬され」だから、文面に従えば「式典が終って相模川の橋から鎌倉に着くまでの間」になり、少なくとも馬が暴走して相模川に落下したのではない、と考えられる。
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   ※重成の不義: もちろん不倫(笑)ではなく、元久二年(1205)6月の
二俣川合戦の経緯を差す。畠山重忠一族は謀反の冤罪で滅ぼされ、事件の発端に関与した稲毛重成父子と弟の榛谷重朝父子(本領は二俣川)も「重忠を陥れた罪」で殺された。
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全ては北條一族(時政義時政子)の計画的な御家人粛清計画の一環で、更に時政の後継を争う義時・政子連合vs時政+後妻牧の方の争いも絡んでいるから面白い。
この時から武蔵国の実質的支配権は秩父平氏系を離れて北條一門が握っている。
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      右画像は相模川橋脚遺跡、橋供養の跡と推定される。画像をクリック→ 史跡の詳細情報へ。
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頼朝死没の
関連史料
神皇正統記
の記載
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稲毛重成入道が亡妻(北條時政の娘、政子の妹)追善のために架けた相模河橋供養に頼朝が出席。式典が終わって帰る際に落馬し、そのまま病床に伏した。

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    「神皇正統記」は南北朝時代に公卿の北畠親房が1339年頃に著した歴史書。
この記述には追加の情報が見られず、ネタ元は建暦二年2月28日の吾妻鏡と思われる。
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頼朝死没の
関連史料
保暦間記
の記載
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将軍は相模河橋供養に出席、帰路の八的が原で今までに殺した源義廣・義経・行家らの亡霊と目を合せた。更に
稲村ヶ崎の海上に十歳ほどの童が現れ「汝を見付けたぞ、我は西海に沈んだ安徳天皇である」と語って消えた。
恐怖を覚えた頼朝は落馬し、鎌倉に戻って病に伏した。

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    「保暦間記」は南北朝初期編纂の歴史書。著者は足利系武士か。
底本は北条九代記、更に底本は鎌倉年代記、だろう。
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   ※八的が原: 辻堂駅の近くに郷土史家が建てた「頼朝落馬の地」の
の看板(右画像・地図)がが立っている。
その努力には敬意を表して記載しておくが、文面にある「九条兼実宛の書状、云々」は1月13日の愚管抄の条に記載した慈円の言葉(下記)の転用だろう。
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ただしこのエリアは橋脚史跡から約7km鎌倉寄りだから頼朝が通った可能性は高いが、元ネタの「保暦間記」が「稲村ヶ崎の海上(更に10km鎌倉寄り)に現れた安徳帝の亡霊を見て落馬した」と書いた部分を割愛しているのは正確さに欠ける。
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JR辻堂駅南東の八松小学校(地図)が古い地名を伝えている。鎌倉時代に的を8ヶ置いた弓の練習場があり、海沿いの砂地に多くの松が生えていた事から八的→八松ヶ原に変った、或いは弓射競技の一種・八的から転じた可能性もある。
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頼朝の開基と伝わる宝珠寺が現在地(地図)に移転する前の旧跡(地図)の古い呼称が辻堂で、四辻に宝珠寺の不動堂があった事から辻堂の名が派生した。
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郷土史家は移転後の宝珠寺一帯を「頼朝落馬の地」と主張しているのだが、どうせなら旧跡の付近つまり鎌倉往還が通じていた宝珠寺の不動堂旧跡付近を主張すべきだろう、と思う。
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頼朝死没の
関連史料
北條九代記
の記載
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右幕下が没した。

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    「北条九代記」は1183年~1332年の幕府関連の事件を漢文で記録した書で作者不明、成立は1333年。
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   ※右幕下: 右近衛大将の官職名(唐名)、頼朝を差す。
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頼朝死没の
関連史料
承久記
の記載
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稲毛重成が亡妻供養のために架けた相模河の橋供養に出席した頼朝は帰り道で水神に魅入られ病を発した。
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半月のあいだ病床に臥して心も弱り命も終わると見えたため孟光政子)を呼び、「あなたと契りを結び長年を共に暮らしたが、別れの時が来た」として嫡子の頼家を招じた。
「私の運命も尽きた。八ヶ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)を治める大名や公卿らの策謀に与してはならぬ。千幡(実朝)を慈しみ、畠山重忠を頼りにして国を鎮護せよ」と遺言した。

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    「承久記」は承久の乱とその前後を描いた合戦記で武家による朝廷政治の崩壊を描いている。作者不明、
成立は最も古い慈光寺本で鎌倉時代の中期。いずれにしろ遺言の有無や内容に関する史料は存在しない。
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   ※孟光: 古代中国の説話に出てくる政治家・梁鴻の妻。容貌は誉められないレベルだが(笑)、理想的な賢婦
だったらしい。でも政子さんには失礼な比喩だし、まるで臨終の場に居合わせたような描写だね。
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頼朝死没の
関連史料
愚管抄
の記載
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関東の将軍が病床にあるとの噂があり、11日に出家して13日に没したらしい。僅か15、6日の事である。今年は必ず上洛して政治について沙汰を行うと思われたが、誠に存外の事件である。九条兼実殿にはその旨を連絡した。
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    「愚管抄」は天台座主(第62・65・69・71世)を務めた僧・慈円九条兼実の弟)の日記。
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   頼朝は九条兼実に宛てた書状につぎのように書いている。
   「今年は必ず上洛し世のこと沙汰せんと思いしに、よろずのこと存の外に候」 .
日付が不明なのは残念だが、「今年」は建久十年を指している筈だから、落馬事故から死没までの間に書かれた事になり、病床の頼朝が兼実との関係修復を考えていた、と推定できる。
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頼朝死没の
関連史料
明月記
の記載
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前の将軍が去る11日に出家し13日に頓病(急病)で逝去した。未刻(14時前後)に叙目があり、少納言に忠明、内蔵頭に仲経、右近衛大将に土御門通親、中将に頼家などが任じた。
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    「明月記」は歌人藤原定家 が治承四年(1180)から嘉禎元年(1235)までの56年間を記録した日記。
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   ※叙目: 別の記録に拠れば、正式な叙目は20日だったらしい。この日に頼朝死没の正式報告が朝廷に届き、
通親はそれを奏聞せずに「見存の由」(既に決まった事、の意味か)と称して叙目を決裁した。
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通親は自らの権限を強化し掌握するため既に自分の右近衛大将着任を決めており、頼朝の嫡子頼家を左近衛中将に任じることで鎌倉の反発を和らげようとしていた、と考えられる。
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頼朝の死去が公式発表されると頼家の昇進は延期せざるを得ない、それを防ぐため強引に叙目を行い、その後に頼朝の死去を知った形をとり弔意を表して閉門した、という事らしい。
この直後に一條能保の家人が通親襲撃を企てた「三左衛門事件」が勃発する。
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藤原定家は明月記の1月22日で通親の行動を「奇謀の至り」と非難しているが、権謀術策に長じた通親の面目躍如なのだろう。叙目にある中山忠明は正二位・内大臣の忠親の嫡子で仁治二年(1241)には従三位に昇っている。仲経は後白河院の近習だった源仲兼の間違い。
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   ※源仲兼: 鶴岡八幡宮で実朝と共に殺された文章博士・源仲章 (政所別当の一人で廷臣を兼任した)の弟。
仲章は源実朝に付き添う筈だった北條義時と間違われて討たれた、との説もある。
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本来の吾妻鏡 建久十年(1199)の記載はここから。

天皇
月日
記 事
西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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袖書
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吾妻鏡
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征夷大将軍 従二位左衛門督 源朝臣頼家 現在は左中将。前右大将頼朝卿の長男、母は従二位平政子(遠江守時政の女)、寿永元年(1182)壬寅八月十二日誕生。
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   ※従二位: 政子の従二位昇叙は建保六年(1218)11月(北條九代記に拠る)だからこの記載は表書きか。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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2月4日
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吾妻鏡
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羽林(近衛府中将と少将の唐名、頼家)殿下が先月20日に左中将に昇進した。同26日の宣下は次の通り。
  「前の征夷将軍源朝臣(頼朝)の跡を継ぎ、支配下の家人・郎党を指揮して従来通りに諸国を守護せよ」
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この宣下到着に伴って清大夫(祈祷に任じる者)が日時を選定し、今日吉書始めを行なった。
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北條時政殿・兵庫頭大江廣元朝臣・前大和守源光行朝臣・中宮大夫屬入道三善康信三浦介義澄・右衛門尉八田知家・左衛門尉和田義盛・右衛門尉比企能員梶原平三景時・民部丞二階堂行光・民部丞平盛時・右京進中原仲業・文章生(詩文や歴史の専門職)宣衡らが政所に列座した。
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三善康信が武蔵国海月郡に関する件を吉書の草案として提示し、中原仲業が清書した。大江廣元がこれを御所に献じ、羽林(頼家)は私邸に於いてこれを覧た。頼朝将軍の死没から20数日も過ぎていないが綸旨は厳守すべきであるとの仰せがあり、内輪での儀式の形で吉書始めとした。
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   ※吉書始め: 朝廷の習慣「吉書の奏」を真似て年頭や改元の際に吉書を見る行事で、業務開始の意味もある。
吉書は正月2日か3日に弁官・蔵人が奏し、政務の場合には正月9日や代始めや改元後の吉日に大臣が奏した。吉書は奏覧に供する儀礼文書、鎌倉では新年の文書発行行事として定着した。
最初の開催は建久二年(1191)1月15日の政所設置に伴って行われた。
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   ※海月郡: 久良岐郡を差す。現在の横浜市港南区上大岡一帯(地図 )。西側に鎌倉街道(上道)が通っており、
周辺の公園などには久良岐の地名が残っている。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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明月記
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「明月記」の記述をベースにして...「三左衛門事件」 の勃発と終結について
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1月11日に鎌倉から発せられた頼朝重病の知らせは18日には朝廷に届き、京都の情勢は不穏になった。
明月記は「怖畏逼迫の世か」と書き、猪隈関白記(近衛家実(wiki)の日記)は「天下閑か(おだやか)ならず」と書き残している。
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頼朝死没の正式な連絡は12月20日に届いたが、前年12月2日に養女の源在子が土御門天皇を産んだ事によって朝廷の権力を掌握していた源(土御門)通親はその知らせを上奏せず、独断で臨時の叙目を行った。自身の右近衛大将就任と、頼家の左近衛中将昇進である。頼朝死没が公になれば人事異動は凍結され、鎌倉の懐柔を目的とした頼家昇叙も自分の権限掌握も延期となる可能性があり、その危険を避けた緊急・強引な決断である。
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1月22日から京都には兵乱勃発の噂が流れ、通親は「いま外に出れば殺されるかも知れない」と判断して院の御所に籠った。在京の御家人梶原景季が襲撃の情報を通親に伝えたためである。(部分は二件とも愚管抄)
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関与者が不明だったため厳戒態勢が敷かれ、2月11日になって源隆保が自宅に武士を集めて謀議していたのが判明した。翌日には鎌倉からの飛脚が到着して「幕府は通親を支持」との方針が伝えられ、14日には 後藤基清・中原政経・小野義成の三名(共に左衛門尉だったため三左衛門事件)が関与した嫌疑で院の御所に連行された。
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翌日から関係者追求が始まった。17日に西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕停止、神護寺の僧文覚が検非違使に拘束された。26日には鎌倉から上洛した中原親能が騒動の後処理を行って京都は平静に戻った。親能は頼朝の次女・三幡(乙姫)の乳母夫で、上洛には朝廷と続けていた三幡入内交渉を進める目的もあった、らしい。
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三左衛門は鎌倉に護送されたが、幕府は「朝廷で起きた問題」として受け取らず、京都に送還となった。後藤基清は讃岐守護職を解任、残る二人の処分は記録に残っておらず、微罪で済んだ可能性がある。
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西園寺公経と持明院保家は蟄居、源隆保は土佐配流(5月21日に執行)、文覚は佐渡配流(3月19日に執行)となった。平家物語は「文覚が保護していた六代(平維盛の遺児)が斬首」と書いている。文覚がどの程度事件に関与したかは判らないが、毀誉褒貶の激しい人物が庇護者を失った場合の典型的な姿か。
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富士宮市郊外にある伝・維盛の墓と、沼津千本松原の六代松については参考としてこちらに記載した。
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  ※背景: 後藤基清と中原政経と小野義成一条能保の郎党、西園寺公経は能保の娘婿、持明院保家は能保の
従兄弟で猶子、源隆保は母が熱田大宮司藤原季範の娘で頼朝の姉妹 坊門姫(能保の妻)の従兄弟で一条能保親子の引き立てを受けていた人物。
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「愚管抄」は、能保と嫡子の高能が相次いで没した上に後ろ盾だった頼朝の死没によって一条家が冷遇され、自分たちも零落する危機感を抱いたのが土御門通親襲撃を企てた理由、としている。
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  ※事後: 頼朝→ 頼家への権力継承を支障なく済ませたい幕府は大江廣元を窓口にして事態の処理を図った。
廣元は建久二年(1191)に通親の推挙で明法博士・検非違使に任じており、長男の親廣は通親の猶子になっているから交渉には適任である。
一方で通親の側から考えると、幕府の協力を背景にして不満分子を一掃できるメリットが大きい。
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  ※更に: 建仁二年(1202)10月に通親が死没、建久九年(1198)に土御門に譲位して院政の強化に着手した
後鳥羽上皇は事件関係者を赦免し、能保の次男信能と高能の三男頼氏を近臣に取り立てて体制の補強人事を実行した。朝廷は通親独裁から一変、通親の政敵も抱き込んだ後鳥羽独裁へと突き進む。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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2月15日
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吾妻鏡
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京都からの使者が到着して報告。去る一日の丑刻(深夜2時前後)に石清水八幡宮(公式サイト)で火災があったが神殿や堂塔の被害はなかった。また五日に予定した大原野(左京区の地名・地図)での釈奠は関東の弔事によって延期された。

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   ※釈奠: 陰暦2月と8月の特定日に孔子と孔門十哲の画像を祀る儀式。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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故将軍(頼朝)四十九日の仏事が行われた。導師は大学法眼の行慈である。

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   ※行慈法眼: 文覚の弟子で明恵上人(建久六年4月5日に記載)の師。同年8月9日には稲毛重成の亡妻を弔う
法事で導師を勤めている。吾妻鏡の初出は文治三年(1187)1月8日の「営中心経会」、文覚が神護寺(公式サイト)再興のため京都に戻った跡を継いで鎌倉の公式行事に携わった僧。ちなみに、稲毛重成の亡妻は政子の異母(だと思う)妹。
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建久四年(1193)3月13日、後白河法皇一周忌の千僧供養で百僧を従える10人の宿老僧の一人として登場している。この百人を奉行した一人が二階堂行政、建久五年(1194)12月2日の条に「永福寺阿弥陀堂の寺社奉行を中原親能と二階堂行政」との記載があり、この阿弥陀堂が行慈の常駐していた寺だった、かも知れない。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月5日
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吾妻鏡
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後藤左衛門尉基清は今回の罪科により讃岐守護職を解任とし、後任に近藤七国平を補任する。幕下将軍(頼朝)が定めた事例を改める最初の決定である。
また故将軍の姫君(乙姫、字は三幡)が高熱の続く危険な状態のため、尼御台所(政子)は各地の寺に読経を指示し、御所では一字金輪法の祈祷を行っている。修しているのは大法師聖尊(阿野少輔公と称す)である。
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   ※近藤七国平: 藤原秀郷から11代目の子孫。
曽祖父の景親が駿河権守に任じて島田に土着、その子息国澄(近藤八)が伊豆に移住し平次の乱で義朝に従って戦死している。国平は国澄の子で、頼朝挙兵当初から配下に加わっている。
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治承四年(1180)8月20日の出陣リストの中に近藤七国平の名か載っているが、彼が本拠を置いた地は判らない。古庄能直とは又従兄弟の関係になる。
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        右画像は秀郷が本拠を置いたと伝わる唐沢山の遠景。
         画像をクリック→ 「唐沢山城址と秀郷の墳墓」へ(別窓)

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   ※一字金輪法: 大日如来が説いた真言の一字を人格化した仏である
「一字金輪」を本尊とする密教の修法。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月6日
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吾妻鏡
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今月から中将家(頼家)御当年の星祭を毎月行なうよう、(京都朝廷の)主計頭安部資元朝臣に命じた。その内容は廣元朝臣の命令書として雑色が京都に届けることになる。
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   ※当年の星祭: 個人の運命を司る当年星と、北斗七星など固定された本命星を祀る大乗密教の修法。
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   ※安部資元: 建久六年(1195)10月3日には天文と暦の分野を統括する陰陽寮の職員・天文博士として載って
いるが、ここでは主計頭(租税の数量などを監査する主計寮の長)と書いている。御家人に準じる者として幕府の指示を受ける立場だが、命令の内容からは主計寮ではなさそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮が先月に実施する予定だった神事を今日行った。これは去る正月に幕下将軍(頼朝)が没したため鎌倉中が触穢の状態にあり、神事を延期していたためである。
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   ※触穢: 穢(けがれ)の状態にあること。この場合は頼朝の死没による穢。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月12日
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吾妻鏡
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姫君(乙姫)が日毎に憔悴し続けている。治療のため針博士の丹波時長を招いたが固辞して応じようとしない。
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この時長は当世の名医として著名な人物なので重ねて要請の使者を京都に派遣した。更に断る場合は上皇に(派遣依頼を)上奏せよと在京の御家人に命じた。
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   ※丹波時長: 宮内省で医療と調薬を担当する典薬寮の長官を世襲した医師。承元元年(1219)の実朝暗殺後
に後継将軍として下向した頼経の侍医として息子と共に鎌倉に入り、将軍家に仕えている。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月22日
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吾妻鏡
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佐々木三郎兵衛尉盛綱法師が嘆願書を提出した。幕下(頼朝)の時代に比べて零落している事、単に働きに対する恩恵の多少ではなく知行している所領まで没収の憂き目に会っており、天運を悔やむと共に理解に苦しんでいる状態、との内容である。
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   ※盛綱と子孫: この時は満48歳、頼朝死没の際に出家したらしいが所領没収の理由などは確認できない。
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隠居した上野国磯部郷には館跡(戦国時代の磯部城址・ 地図)があり、城址の1km北の松岸寺(安中市磯部町4-4・ 地図)には盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔二基がある。
ただし正応六年(1293)の銘があるため、これは子孫による供養墓らしい。
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建仁元年(1201)5月には鳥坂城で越後城氏の乱(城資盛坂額ら)を鎮圧して復権し、建仁三年(1203)10月には後鳥羽院の院宣を奉じて兄経高らと共に延暦寺衆徒を鎮圧、元久二年(1205)閏7月には時政失脚に伴って平賀朝雅を京都で追討している。
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承久の乱(1221)の際は長兄定綱の長男広綱・次兄の経高と長男高重・次男高兼らが京方に加わって滅亡したが、盛綱の次男信実は御所で双六の会があった際(建久元年(1190)7月20日を参照)に工藤祐経を傷つけて勘当され、そのまま関東に留まっていた。
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信実は越後検断(侍所所属の検査に相当職)に任じていた経緯から北陸道の大将として鎌倉方を指揮し、皮肉にも同族を滅ぼす結果となった。信実は恩賞として備前国守護に補任され、子孫は幕府の滅亡までその地位を続けることとなる。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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3月23日
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吾妻鏡
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中将家(頼家)は特別の宿願のため伊勢神宮御領六ヶ所の地頭職を停止し、その中で謀反狼藉を行う者があれば神宮の権限により捕縛し詳細を鎌倉に連絡するよう神主に指示を行った。その詳細は下記の通り。
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またその中で尾張国一楊御厨が神宮から派遣した管理官が地頭を追い出し、その取り分を没収したとの報告が届いた。右大将(頼朝)逝去の直後の狼藉は著しく遺憾である、詳細を確認せよとの命令が下された。
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伊勢神宮御神領の  遠江国蒲御厨  尾張国一楊御厨  参河国飽海本神戸  新神戸
              大津神戸  伊良胡御厨惣追補使
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   以上の各地に置いた地頭は特別の祈願のため職を停止する。鎌倉中将殿の御意向により通知する。
                   建久十年三月二十三日     兵庫頭大江 廣元
          伊勢神宮祭主 殿
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   ※遠江国蒲御厨: 浜松市東区神立町一帯・地図)、蒲冠者範頼が育った土地でもある。
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   ※尾張国一楊御厨: 名古屋市中川区一柳通の庄内川東岸(地図
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   ※参河国飽海本神戸: (豊橋市飽海町の安久美神戸(地図)。安久美神戸神明社(wiki)を参照。
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   ※大津神戸: 愛知県豊橋市老津町の古名が大津(地図)。新神戸の地名は資料では確認できないが本神戸と
大津神戸の距離は約10km、その周辺だろうと思う。
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   ※伊良胡御厨惣追補使: 渥美半島先端に800年代中盤創建の伊良湖神社(愛知県による紹介)がある。
御厨は渥美半島西部か。文治元年(1185)11月に義経追捕のため地頭職と共に設置の勅許を得た軍事検察官が惣追補使。
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   ※地頭職停止: 幕府の既得権放棄になると思うが、「特別の宿願」が何かは不明。頼家の資質を貶める曲筆の
可能性もあるので詳しい資料を探してみたい。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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4月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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問注所を幕府の外に移すことになった。問注所執事(長官)は大夫屬入道 三善康信である。
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故将軍(頼朝)の時代には御所の一ヶ所に訴訟に関わる者を呼んで決裁していたのだが、騒々しい上に無礼な行動をする者まで現れたため移転させる検討をしていた。
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そこへ 熊谷直実久下直光が所領の境界を争って対決、憤激した直実が西の侍所で髻(もとどり)を切り落とし出奔する事件が勃発した。その後は御所内での問注所開設を中止し、康信の家で実施していた。今回、そこから再び移転するための新造である。
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   ※幕府の外へ: 最初の設置は元暦元年(1184)の10月20日、
「御所東側の二間を利用」との記載がある。
建久十年の問注所は既に康信の家に移っているから「幕府の外に移す」は正しくない。
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   ※境界の争論: 建久三年(1192)11月25日の事件。熊谷直実
は証拠書類を投げ捨てて出奔し、翌年には出家を果たしている。
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   ※新・問注所: 鎌倉駅西側、小学校の筋向いに「問注所旧跡碑」
が建っている(地図画像をクリック→ 拡大表示)。
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すぐ近くには佐助川に架かる裁許橋(拡大表示) があり、重罪人は橋を渡って近くの刑場へ引かれたらしい。刑場は後に龍ノ口などに移転したが、跡地は「飢渇畠」と呼ばれ嫌悪されたと伝わる。
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その罪人を弔ったのが六地蔵、詳細は和田塚の項に記載してある。
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問註所→ 裁許橋→ 飢渇畠→ 六地蔵...そんなおぞましい現実がここにあった。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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4月12日
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吾妻鏡
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訴訟の決裁について、今後は羽林(近衛府の中将・少将の唐名、源頼家 を差す)による直接の決裁を停止し、全ては北條時政北條義時大江廣元三善康信中原親能(在京)、 三浦介義澄八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政の協議によって決裁する。その他の者は理由なく訴訟に関与してはならない、と定めた。
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   ※権限縮小: 将軍頼家の権限縮小を象徴する「宿老13人による合議制」のスタートである。
もちろん主導者は北條時政、この段階の義時(満36歳)は時政に追随する存在に過ぎない。
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まず、源氏の門葉と準・門葉の御家人(下記)が全て除外された裏でどんな合意が持たれたのか。
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それに加えて、古参の実力派御家人(下記)の除外はどう判断すべきか、を考えると実に面白い。
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そして比企能員が名を連ねたのは何故か。婿殿(頼家)の権限縮小に賛成とは、尋常ではない。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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4月20日
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吾妻鏡
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梶原平三景時と右京進中原仲業が差配して政所に壁紙を掲示した。内容は次の通り。
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小笠原弥太郎、比企三郎、同弥四郎、中野五郎ら将軍の近臣は鎌倉で狼藉を行ってもこれに敵対すれば罪科に問う旨を市中に周知させよ。また、この五人以外は特に許しのない限り将軍への拝謁を許さない。
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   ※小笠原弥太郎: 長清の長男長経。8月19日には頼家の命令を受けて安達盛長邸(甘縄)を包囲している。
建仁三年(1203)9月の比企の乱では一味と見られて拘束されたが、罪には問われなかったらしい。ただし家長は弟の時長が継承しているからそれなりの処分はあったか。
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   ※三郎と四郎: 比企能員の次男・三郎宗員と三男の弥四郎時員。共に比企の乱で討ち死にしている。
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   ※中野五郎: 信濃国志久見郷(長野県東北端、現在の栄村・地図)を本領とした武士。新潟県境を志久見川が
流れている。建仁三年(1203)9月の比企の乱後に拘束され所領没収・遠流の処分を受けたが、実際には時政の指示で所領安堵と免税の恩恵を受け、流罪も行われていない。
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比企一族と頼家の行動などを時政に報告する任務で、これを曖昧にしたのは吾妻鏡曲筆の一つと考えるのが概ね定説になっている。
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   ※この五人: 何回数えても四人だけ。比企の乱の際に与党として拘束された細野兵衛尉(頼家の蹴鞠仲間)を
吾妻鏡の編纂者が書き漏らしたのかも...しかし頼家の行動も稚拙だ、年齢(満16歳8ヶ月)から考えれば妥当かも知れないが、まともな帝王教育してなかったんだろう。
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ただし、頼朝死没から3ヶ月の間に頼家が鎌倉将軍に相応しくない行動をとった記録が吾妻鏡を始めとする史料には見当たらない、その事実には留意が必要だ。
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実質的に失脚する建仁三年(1203)7月までには幾つかの愚かな行動は記録されているが、最初の三ヶ月には少なくとも「権限を縮小」に相当するだけの暴走はしていないし、さすがの吾妻鏡もそこまでの曲筆はできなかった、か。
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西暦1199年
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83代 土御門
建久十年
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4月23日
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吾妻鏡
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故将軍(頼朝)の百箇日の供養である。御持仏堂に於いて法事を執り行った。新しく描いた釈迦如来と阿弥陀如来の絵像各一幅を飾って読経したのは法華経六巻、導師は荘厳房行勇が務めた。
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   ※持仏堂: 文治五年(1189)7月18日の奥州出陣の前に次の記載がある。
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(頼朝は)伊豆山権現の住僧専光房を呼び、「奥州征伐のため内密の立願をしている。汝は戒律を厳しく守る僧として、私が留守中の鎌倉で祈祷に従事せよ。出陣して20日目に大倉亭の裏山に私の念持仏である正観音像を祀る堂を建てよ。工匠に任せず自ら柱のみを建てれば良い、造作については改めて沙汰を下す。
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更に、建久六年(1195)10月21日の吾妻鏡には、
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頼朝御持仏堂の造営が始まった。奉行は左近将監大友能直と左京進中原仲業、将軍家も来臨した。  との記載がある。
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持仏堂を二軒建てるのも変な話だが、それはそれとして...持仏堂は没後の頼朝を葬った法華堂となり、その法華堂が明治初期の神仏判然令神社によって分離したのが現在の白旗神社である。
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右画像をクリック→ 墓所の明細(別窓)へ。
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高台の平場にある通称「頼朝の墓」は、安永八年(1779)に頼朝の子孫を僭称する八代薩摩藩主の島津重豪が裏山を開削、勝長寿院跡の廃墟から移設した古い供養墓を修復して整備したもの。だから史実としての裏付けは皆無、頼朝の墓ではない。
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   ※行勇: 北條泰時の菩提寺である常楽寺や、約140年後に幕府の滅亡と共に北條一族が命を絶つことになる
東勝寺を創建しているのも面白い。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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4月27日
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吾妻鏡

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関東各国の地頭に命じて水に恵まれている荒地を新たに開墾せよとの沙汰が下った。また、土地が痩せているとか不作とかを称して年貢を減らすのなら所領として認める必要はない旨を定めた。大江廣元の差配である。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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5月7日
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吾妻鏡
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‬医師の丹波時長が左近将監大友能直に伴われ、伊勢路を経て昨日鎌倉に入った。宿舎などについては兵庫頭大江廣元八田右衛門尉知家が手配せよとの指示を受けている。
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今日、亀谷にある掃部頭中原親能の家から南御門に近い畠山次郎重忠の家に移った。これは御所の近くに待機して乙姫の治療に当たるためで、再三辞退していたが早く関東に参向せよとの院宣が先月に下された。
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   ※伊勢路経由: 京都から東海道を外れて伊勢路を辿ると相当の回り道になる。頼朝伊豆流罪の際にも使われた
伊勢の阿濃津(三重県津市の阿漕塚(地図)付近にあった港)経由の海路だと思う。
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阿濃津は室町時代の1498年に起きたM8.6クラスの明応大地震に伴う津波で壊滅し、その後の港湾機能は現在の松阪港周辺に移ったらしい。
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   ※亀谷: 扇ヶ谷と山之内を結ぶ亀ヶ谷坂切通しを想像しがちだが、鎌倉時代初期に「鶴岡」に対する「亀谷」から
始まった呼称で、後に「扇のように広がった谷」から扇ヶ谷となった、らしい。甲府市の中心部にも「舞鶴城と遊亀公園」というセンスの良い命名がある。一條忠頼の史跡を参照されたし。
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   ※重忠邸: 屋敷跡の碑は八幡宮東鳥居の前(画像)にあり、碑文にも「時長は親能の家から南御門の重忠邸に」
と刻まれているのだが、ここは南御門より東御門に近い。一説に「重忠邸は南御門の八田知家邸と隣接」(こちらの画像の「横大路」の付近)とあり、こちらの方が整合性が高い、と思う。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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5月8日
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吾妻鏡
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時長が初めて朱砂丸を姫君に服用させた。これによって砂金二十両などの褒賞を得た。
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   ※朱砂丸: 現代でも漢方薬として使っているらしい。詳細はこちら、一時的な対症用には効果あり、か。
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   ※砂金20両: 律令制の一両は41gほど、20両(820g)は95年9月のレートで390万円。
ただしこれは当時の金の実質的価値を表す数値ではない。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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5月13日
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吾妻鏡
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北條時政殿・三浦介義澄・三浦十郎左衛門尉(佐原義連)・八田右衛門尉知家梶原平三景時らが毎日交代して医師時長の饗応を命じられた。今日の担当は北條時政による椀飯(接待用の食事)である。
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西暦1199年
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82代後鳥羽
正治元年
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5月16日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に大きな地震あり。今日、参河国薑御厨と橋良御厨の地頭職を停止して伊勢神宮に寄進した。兵庫頭大江廣元がこれを差配した。
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   ※薑御厨: 豊橋市仁連木町(地図)。室町幕府陪臣だった戸田一族が築いた二連木(にれんぎ)城があり、その
西側に二連木城の一部(家老屋敷)と伝わる薑郷(しじかみごう)城址がある。
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城が建っていた河岸段丘を含む豊川の南岸一帯が薑(はじかみ)御厨だった。「薑」は山椒の古名で、はじかみ→ しじかみに変わった理由や時期は不明。北側から見た丘陵の鳥瞰図はこちらで。
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   ※橋良御厨: 仁連木の5km南の豊橋駅近くに柱(橋良)の地名が残る。柱七番町の橋良神社(地図)には頼朝
が建久九年(1194)に神領を寄進し、正治二年(1200)には安達盛長が桧の苗千本を寄進したとの社伝が残っている(吾妻鏡には記載なし)。盛長は正治元年(1199)まで三河守護に任じているし、墓所の一ヶ所は橋良から20km北西の蒲郡長泉寺(参考サイト)にあるのも理解できる。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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5月17日
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吾妻鏡
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勝長寿院別当の恵眼房が京都に向かった。中将家(頼家)が馬を贈与し、他の人々も餞別を贈った。
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   ※恵眼: 文治元年(1185)9月3日の吾妻鏡に「深夜、故義朝の遺骨が (鎌田政清の首を副え)恵眼房と専光房
の差配により南御堂の地に葬られた。」との記載があり、文治二年(1186)1月8日には「御所で般若心経会、供養する僧は八幡宮別当法眼と大法師源信・恵眼ら...」との記載がある。
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恵眼房は神護寺に於ける文覚の愛弟子であり、文覚の帰洛後は鎌倉の仏教を主導する立場にあった。
今回の帰洛は師・文覚の佐渡流罪に対応した行動だろう。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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5月22日
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吾妻鏡
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丑刻(御膳2時前後)に由比ヶ浜近くの火災で民家30余りが焼失、この中には平民部大夫盛時・中澤兵衛尉 ・飯富源太らの家も含まれている。
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   ※中澤兵衛尉: 熊谷直実と所領の境界を争った武士久下直光の祖父が中澤を称した、との記載がある。
武蔵国大里郡付近の出自か。
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   ※飯富源太: 上総国望陀郡飯富庄(現在の袖ケ浦市飯富・地図)を本領とした武士。始祖は源太宗季とも、彼の
祖父で源義家の孫・忠宗とも言われる。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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5月29日
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吾妻鏡
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今夕、姫君(乙姫)が少しだけ食事を摂り、これによって人々が大いに喜んだ。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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6月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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法橋定豪が勝長寿院の別当職に補任された。恵眼房の譲与である。
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   ※恵眼房: 5月17日に別当を辞して京都に向かっている。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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6月8日
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吾妻鏡
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主計頭安部資元朝臣の使者が京都から到着して報告、中将家(頼家)の御当年星祭は先月23日に行った、と。
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   ※安部資元: 今年の3月6日に星祭について鎌倉からの指示を受けている。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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6月14日
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吾妻鏡
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姫君(乙姫)の病状が悪化し、去る12日から御瞳が反転する凶相を呈している。
医師の時長は驚愕し、「既に手当しようがない、人力の及ぶところに非ず」と語った。
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   ※瞳が反転: 白眼剥き出しの状態になった、という事か。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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6月25日
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吾妻鏡
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掃部頭中原親能が姫君危急のため京都から鎌倉に駆けつけた。洛中で重要な業務があったため遅参した、と。
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   ※中原親能: 乙姫の乳母夫(妻の波多野経家娘が乙姫の乳母)に任じている。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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6月26日
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吾妻鏡
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医師の丹波時長が鎌倉を発って帰洛の途についた。中将家(頼家)から馬五疋と旅程の手配および荷物を運ぶ人夫20人と国衙の雑色二人と護衛する兵士が付与された。また兵庫頭大江廣元らも馬を贈った。
暫く前に帰洛の許可を得ていたのだが中原親能の到着を待つため今日まで出立を延期していたものである。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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6月30日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に姫君(三幡・14歳)が崩御し尼御台所が悲嘆に陥った。諸人の悲しみも筆舌に尽くし難い。
乳母夫の掃部頭中原親能は定豪法橋を戒師として出家を遂げた。
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今夜戌刻(20時前後)、姫君の亡骸を親能の亀谷邸にある持仏堂の傍らに葬った。江間(北條義時)殿・兵庫頭 大江廣元小山左衛門尉朝政三浦介義澄結城七郎朝光八田右衛門尉知家畠山次郎重忠足立左衛門尉遠元梶原平三景時宇都宮弥三郎頼綱(素服を着さず、最後列に)・佐々木小三郎盛季・籐民部丞 二階堂行光らが素服で参列した。
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   ※定豪法橋: 許しを得て6月2日に帰洛した恵眼房から勝長寿院の
別当職を譲られている。
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   ※中原親能邸: 5月7日に書いた通り亀ヶ谷は現在の扇ヶ谷を差す。
親能邸の位置は不明だが、右に記載した岩船地蔵堂が乙姫の墓所と考え始めたのは親能邸が亀ヶ谷にあった事から派生したらしい。
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   ※佐々木盛季: 佐々木盛綱の三男。近江国浅井郡野村庄(現在の
長浜市野村町一帯・地図)を相続し、建仁三年(1203)10月の比叡堂衆との戦いで負傷して死没(佐々木氏系図)、子孫は野村氏を称している。
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       右画像は乙姫墓所説もある亀ヶ谷の旧・岩船地蔵堂(現在は新築)。画像をクリック→ 明細へ(別窓)。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月6日
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吾妻鏡
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雷雨。亀ヶ谷の中原親能邸に尼御台所が渡御され、墳墓堂に於いて姫君(乙姫)の初七日法事が行われた。
導師は八幡宮寺の阿闍梨筆頭尊暁である。
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   ※尊暁: 話せば長くなるけど(笑)...義家の娘と皇太子になり損なった輔仁親王の間に産まれ園城寺(三井寺)
で出家したのが法眼行恵。頼朝が鶴岡八幡宮の初代別当として招いたのが行恵の子 圓暁、正治二年(1200)に圓暁の跡を継ぐのが弟の尊暁である。この時点では別当補佐、の感じか。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月10日
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吾妻鏡
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夜になって参河国から飛脚が到着して報告、室平四郎重廣が仲間を率いて宿驛を襲い武力を以て強盗や窃盗を行っている。庶民はこの被害を受け、国内が落ち着かない状態である、と。
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   ※参河国: 三河国に同じ、現在の愛知県東部。この年の7月以前に安達盛長が守護職に任じているが正確な
任命の日付は確認できない。室重廣は三河の地侍だろうが素性は不明、調べる必要もなさそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月16日
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吾妻鏡
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安達弥九郎景盛が使節として参河国に出発した。重廣の違法行為糺断が目的なのだが、景盛は頻りにこの任務を固辞していた。恐らくはこの春に京都から呼び寄せた女と離れたくないからだろう。しかし参河国は父の盛長が守護職に任じており、任務の忌避は許されないとの命令が下され、遂に出発を余儀なくされた。
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   ※景盛派遣: 頼家はこの4日後に景盛の愛妾を拉致してるんだから明らかに計画的だね。こんな羨ましい、じゃ
なかった、無茶してる場合じゃないのだけれど、頼家を貶める吾妻鏡の曲筆の可能性もある、か。
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ところで、景盛の生年も不詳なのは困ったものだ。父は盛長で生母は正妻の丹後内侍、つまり彼女が母の比企尼と共に頼朝を庇護する目的で武蔵国に下向し盛長に嫁したのが多分1162年頃、従って産まれたのは1165年前後...と仮定すると宝治二年(1248)に没した時は83歳前後で計算は合う。妾を頼家に奪われたのは35歳頃か。
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でも嫡子義景が1210年生まれだから、45歳で長男が産まれたと言うのも違和感があって...要するにデータ不足で判んねぇや。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月20日
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吾妻鏡
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早暁の頃、中将家(頼家)が中野五郎能成を派遣して強引に景盛の妾を連れ出し、小笠原弥太郎長経の家に囲ってしまった。日頃から強い恋慕の思いがあり、再三使者を送ったのだが良い返事が得られないため強引な行為に及んだ。御寵愛は殊に激しい。
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   ※頼家の側近: 中野能成と小笠原長経については4月20日にコメントを追加してある。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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7月23日
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吾妻鏡
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仙洞(後鳥羽上皇)の使者として左衛門少尉信季が鎌倉に下向した。姫君(乙姫・幼名三幡)遷化の弔問である。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月25日
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吾妻鏡
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左衛門少尉信季が鎌倉を発って帰洛の途についた。尼御台所(政子)は二階堂行光を派遣して砂金三十両を、羽林(頼家)も比企三郎宗員を使者として龍蹄(大型の駿馬)を五疋贈った
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   ※砂金三十両: 律令制の一両は41gほど、30両(1230g)は95年9月のレートで585万円。
ただしこれは当時の金の実質的価値を表す数値ではない。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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7月26日
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吾妻鏡
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夜に入り、小笠原長経の家に囲っていた景盛の妾を呼び出して御所北側の一画で暮らすよう定めた。寵愛が甚だしいためである。また小笠原彌太郎長経・比企三郎宗員・和田三郎朝盛・中野五郎能成・細野四郎の五人以外は近付いてはならないと定めた。
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   ※頼家の側近: 小笠原長経・比企三郎宗員・中野能成・細野四郎は4月20日の記載を参照。和田三郎朝盛は
義盛の孫(父は義盛の嫡男常盛)。常盛は承安二年(1172)の誕生だから満27歳、朝盛は生年不詳だが13歳前後、建暦三年(1213)の和田合戦で討死している。
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朝盛は和田合戦を生き延びたが、承久の乱(1221)で朝廷側に与して敗北後に逃亡、嘉禄三年(1227)の捕縛後は消息不明になっている。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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8月15日
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吾妻鏡
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乙亥・晴。鶴岡八幡宮で放生会が行われた。中将家(頼家の御参席はなく、兵庫頭大江廣元朝臣が衣冠束帯・徒歩で代理の参拝を行った。家子2人と郎党20人が従い、中将家の小舎人が前を進んだ。
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   ※頼家欠席: あと一ヶ月で満17歳。性欲だけ一人前の我儘なガキが拗ねてるような状態で、事態解決のための
戦略も持たず補佐するブレーンもいなかったんだろうね。
頼朝と政子はどんな教育方針で頼家に接していたのだろう。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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8月16日
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吾妻鏡
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馬場での流鏑馬以などの神事は通例通り。和田左衛門尉義盛梶原平三景時が子息や郎従を率いて八幡宮一帯を警固した。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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8月18日
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吾妻鏡
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安達九郎景盛が参河国から帰還して報告。数日間参河国に留まって郎従を各地に派遣し重廣の行方を捜索したが既に逐電して確認できないため帰還した、と。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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8月16日
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吾妻鏡
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妾女の事について、景盛がこれを恨んでいると告げ口をする者がいた。それを聞いた頼家は小笠原長経・和田朝盛・比企三郎宗員・中野五郎能成・細野兵衛尉らを呼んで景盛の追討を命じた。
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夜になって小笠原長経が軍備を整えて籐九郎入道蓮西(盛長の法名)の甘縄邸に赴き、これにより鎌倉中の御家人が武装して集結した。尼御台所(政子)は急遽盛長の屋敷に入御し、二階堂行光を介して頼家に申し入れた。
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前の将軍頼朝が崩じて間がない上に乙姫(三幡)も早世した。その悲しみの中で合戦を考えるのは乱世の始まりである。まして景盛は故・頼朝将軍の寵臣であり、もし罪科があるならば私が調べた上で処断する。
調査もせずに殺しては必ず後悔するだろうから、それでも追討するのなら、まず私が矢を受けよう。
と。
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頼家は渋りながらも軍兵を止めざるを得なかった。鎌倉中の騒動で、まさしく人々が恐れる事態を招く危機だった。 大江廣元「鳥羽上皇(白河上皇の記載ミス)の時代に同様の事件があった。祇園女御は源仲宗の妻だったが院に召され、その後に仲宗は隠岐国に流されてしまった。」と語った。
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   ※同様の事件: 中宮賢子が没してからの白河天皇(共にwiki)は身分を問わず多数の女性と関係を持ち、更に
その女性を次々に寵臣に与えるという行為を繰り返した。
清盛の父・忠盛は寵妃の一人である祇園女御の妹を妻にし、祇園女御は妹の産んだ清盛を猶子とした。この経緯から゜清盛は白河院の子」との噂が広まっている。
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   ※源仲宗: 従四位下筑後守の官人で祇園女御の元・夫、とされる。白河院を呪詛した嫌疑で讃岐に流された。
この辺の話は憶測や噂の類が多く、信憑性はかなり眉唾だ。
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   ※吾妻鏡の意図: 政子と安達氏の結びつきを強調すると共に頼家の横暴を際立たせ、景盛の生母(丹後内侍
の実家比企氏を後ろ盾にした「無能な暴君頼家を見捨てる」行為を正当化する吾妻鏡の意図があった、と考えられている。なかなか芸が細かいね。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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8月20日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)が安達盛長入道の甘縄邸に留まっており、景盛を呼んで語った。
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昨日は頼家を説得して取り敢えず制止したが私も既に老境にあり、今後も抑えるのは困難である。まず、羽林(頼家)に逆らう意思を持っていない旨の起請文を提出せよ。と。
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景盛はこの言葉に従って直ちに起請文を書き、尼御台所はそれを頼家に献じると共に諌める言葉を伝えた。
使者は兵衛入道(佐々木三郎盛綱)である。
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景盛を討とうとした行為は軽率であり道理を弁えていない。治安にも政治にも寄与することがなく享楽に明け暮れて非難の言葉を顧みず、愚かで邪な者だけを召し使っている。
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源氏は幕下(頼朝)の一族で北條は私の親戚、故・将軍は双方を近くに置いてその言葉に耳を傾けていた。それなのに今では見境なしに(官職ではなく)実名で呼びつけるため不満が満ちていると聞く。何事にもきちんと準備して対応すれば末代まで秩序の乱れが起きないものだ。
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   ※北條の意図: 頼朝生存中(死没は1199年1月)の建久九年(1198)には比企能員の娘(若狭局)が頼家
長男一幡を産んでいる(吾妻鏡欠落のため何月かは不明)。
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子煩悩の頼朝が初孫の誕生に歓喜したのは確実で、この時点で頼家から 一幡に続く鎌倉殿の血脈が確立し、将軍外戚筆頭の地位が北條氏から比企氏に移る可能性が高まった。
つまり、頼家を排除しないと北條一族は二流の御家人に甘んじる時代を迎えることになる。
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時政政子義時連合がそのように考えたのは容易に想像できるし、頼朝没後の行動が彼らの合意に基づいて推移した、と考えるのは至極当然になる。
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私は「歴史の偶然」など信じない主義なので、一幡の誕生に始まって→ 頼朝の事故死→ 頼家の継承→ 権限縮小→ 失脚と比企氏滅亡...が当初の計画通りに推移した、と考えている。
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「頼朝の事故死」が時政の計画に欠かせないステップだった、その可能性は無視できない。
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   ※呼称について: 例えば頼朝の妻が「政子」となったのは従三位に叙された建保六年(1218)以後、藤原行政
一族が「二階堂」を称したのは嫡子行光からと推測されるし、廣元が中原を改姓して「大江」を称したのは建保四年(1216)に陸奥守に任じてから、となる。
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その他にも同様の事例が多数あるが、本稿では時代の推移に拘らず最も一般的な通名を採用している。決して不勉強が理由じゃないからね。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事である。大江廣元朝臣が奉幣の代参として参席した。
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   ※鶴岡神事: 毎年9月9日に行っている重陽節。吾妻鏡に拠れば最初の記載は1186年、続いて87年・91年・
95年に開催の記録があるが、その他には見当たらない。もちろん開催の有無と記載の有無は関係ないかも。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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9月17日
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吾妻鏡
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京都大番役について、勤務態度が怠慢との苦情が届いているため諸国の守護人らに注意を促した。大江廣元朝臣および 梶原景時がこれを差配した。
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   ※大番役: 経費は自己負担の京都警護職。平安時代末期までは3年間、頼朝の時代は半年に短縮された。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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9月23日
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吾妻鏡
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中将家(頼家)が永福寺に渡御した。蹴鞠を予定していたが降雨のため中止して和田左衛門尉義盛に入御し、力自慢の者を召し出して相撲の勝負に興じた。
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   ※義盛邸: 八幡宮三の鳥居の前付近と伝わっている。この辺(地図)らしい。当時の一等地だ。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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9月25日
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吾妻鏡
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神馬(鹿毛駮、秘蔵の駿馬で白鞍を置く)を諏方上宮に寄進した。下宮には御劔(黄金造りで亀甲紋)である。
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   ※諏方宮: 諏訪大社の公式サイトはこちら。上社は諏訪湖南側の諏訪市中洲宮山(地図)、下社は諏訪湖北側
の諏訪郡下諏訪町(地図)にあり、どちらも広い無料駐車場を備えている。
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下社前の新鶴で塩羊羹を買ってから宮坂醸造(共に公式サイト)に寄り「真澄」を買って試飲を楽しんでから上社に参拝するのが信濃旅行の習慣だったが...もう5年以上ご無沙汰している。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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9月26日
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吾妻鏡
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御所に於いて不動明王像の落慶供養を行った。導師は葉上房律師栄西、布施は被物五重と裹物五つおよび馬一疋である。この像は奈良で造像し掃部頭中原親能が差配して鎌倉に運んだものである。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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10月24日
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吾妻鏡
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伊勢神宮に寄進した荘園が参河国内に六ヶ所ある。その伊勢神宮神官から「守護に任じている安達籐九郎(入道蓮西)代官の善耀が横領を行った」との訴えがあり、大江廣元朝臣を奉行として蓮西に聴取したところ、「この六ヶ所は租税免除の処理を行って一切の権限を含めて寄進したため関与はしていない」旨の報告が届いた。
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その書状を御教書に添えて神宮に送付した。権限の放棄後に業務の妨げなどできない、との文面を載せてある。
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   ※御教書: 三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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10月25日
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吾妻鏡
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結城七郎朝光が御所の控えの間に詰めていた際に、夢のお告げを得たと称して提案した。
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幕下将軍(頼朝)を供養するために各人が阿弥陀の称号を一万回唱えよう、と。
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各人が唱えている間に朝光は列座している御家人に向かって述懐した。
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忠臣は二君に仕えずという。幕下に多大な恩を受けながら遷化の際の遺言に従って出家を遂げなかったのが悔やまれる。今の世の中を見ると、まるで薄氷を踏むような思いがする。、と。
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朝光は右大将軍に仕えた無双の近臣だから懐旧の思いが深いのだろうと感じて、聞いていた者は涙を流した。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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10月26日
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吾妻鏡
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御所の女房(女官)阿波局結城七郎朝光に次のように告げて注意を促した。
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梶原景時の讒言によって貴方は既に誅戮を受けようとしている。「忠臣は二君に仕えず」と語って現在の治世を貶めるのは不忠であり仲間が増えないうちに処断すべきである、と具申している。もうこの災厄を避けられないかも知れない。
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これを聞いた朝光は思い悩んだ末に、緊急の用事と称して親友の前右兵衛尉三浦義村の家を訪れ相談した。
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私は死んだ父の小山政光から遺領を継がず、幕下将軍に仕えて初めて数ヶ所の所領を得た。その深い恩を考えて「忠臣は二君に仕えず」と言ったのにそれが景時讒訴の口実になり、逆賊の扱いを受けて討伐されようとしていると教えられた。ただの述懐が重罪を招いてしまうとは...
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義村はそれに答えて話し合い、次のように結論を出した。
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「局面は重大である。しっかりと計画しないと災いは避けられない。文治の頃から景時の讒言によって命を落とし、或いは失脚し者は数え切れないし、その恨みを引きずっている者も多い。景盛が追討されかけたのも、元は彼の讒言が発端なのに羽林(頼家)の失態にされてしまう。世の中と主君のために何とかする必要はあるが、合戦の騒ぎになれば再び戦乱を招く恐れがあるから、まず宿老と相談しよう。、と。
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まず使者を派遣して和田義盛安達盛長入道を招き、義村が詳細を説明し、義盛と盛長はそれに答えた。
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同じ意見の御家人を集め急いで連署状を作って訴え出よう。讒言を行う一人を選ぶのか多数の御家人か羽林の御意向を伺い、正しい裁決がなければ命を賭して戦うべきだ。連署状は誰に書かせるのが妥当か。
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義村は中原仲業が適任だ、文筆の才能がある上に景時には遺恨を抱いている。」として仲業に連絡、駆け付けた仲業は手を叩いて「恨みは晴らし切れないが最善を尽くして書き上げよう」と喜んだ。
相談が纏まって義村が酒を勧め、夜になってから解散した。
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   ※景時の讒言: 阿波局は北條時政の娘(政子の妹)。8月20日の項で前述した通り、頼家が将軍の任を全うし、
次の鎌倉殿が比企能員の外孫一幡に継承されるのを防ぎたいのが時政の基本的立場だし、時政の意向を受けた阿波局が朝光の危機を計画的に煽った可能性もある。
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同僚との折り合いが悪かった景時だが頼家には真摯な忠臣の立場を守っており、むしろ弾劾されるべきは頼家や景時ではなく北條一族だった事は景時失脚後の推移を見れば明らか。
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「玉葉」の正治二年(1200)1月2日には「他の御家人に恨まれた景時は「頼家を廃して実朝を将軍に、との陰謀がある」と頼家に訴え、御家人に言い負かされて失脚した。」と書かれている。また「愚管抄」は「景時の滅亡が結果的に頼家の失脚と殺害を招いた」と書いている。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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10月28日
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吾妻鏡
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巳刻(午前11時前後)に多数の御家人が鶴岡八幡宮の回廊に集まった。
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千葉介常胤三浦介義澄千葉太郎胤正三浦兵衛尉義村畠山次郎重忠小山左衛門尉朝政同七郎朝光
足立左衛門尉遠元和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛比企右衛門尉能員所左衛門尉朝光民部丞行光
葛西兵衛尉清重八田左衛門尉知重波多野忠綱 、大井次郎實久、若狭兵衛尉忠季
渋谷次郎高重山内刑部丞経俊宇都宮彌三郎頼綱榛谷四郎重朝安達籐九郎盛長入道弥九郎景盛
佐々木三郎兵衛尉盛綱入道稲毛三郎重成入道岡崎四郎義實入道土屋次郎義清、東平太重胤
土肥先次郎惟光河野四郎通信、曽我小太郎祐綱、二宮四郎、長江四郎明義、諸次郎季綱
天野民部丞遠景入道工藤小次郎行光右京進仲業らである。
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彼らは梶原景時を弾劾について一致団結して対応する事を誓い合い、中原仲業が訴状を持ち込んで読み上げた。
その中には「鶏を飼う者は狐を飼えず、家畜を飼うのなら狼は飼えない」との文章があり、三浦義村は特にこの部分に感心した。
連署状に署名捺印し花押を加えた者は66人、朝光の兄長沼五郎宗政も署名はしたが花押は書かなかった。弟の危難を助けるため我が身を顧みず多数の御家人が加わった計画なのに、兄は違う心を抱いているのだろうか。   その後に連署状を和田義盛と三浦義村が携えて大江廣元に届けた。
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   ※印の御家人: 和田経盛は義盛の嫡子、大井實久は素性不明、若狭忠季は丹後内侍の前夫惟宗広言の後妻
の子(島津忠久の異母弟?)で若狭国守護、東重胤は胤頼の嫡子、土肥先次郎惟光は遠平の嫡男惟平、曽我祐綱は祐信の実子で嫡男、二宮四郎は中村宗平の四男友平(二宮友平の館跡を参照)、長江明義は鎌倉氏傍流で葉山を本領とした義景の長男、諸季綱は毛呂季光の嫡男。
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   ※長沼宗政: 小山政光の長男朝政と次男宗政は共に先妻(出自不明)の子で、三男朝光(結城)の生母は政光
が後妻に迎えた宇都宮氏二代当主・八田宗綱の娘寒河尼(頼朝乳母の一人)。
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朝政は嫡男として広大な所領を継承し、次男宗政は芳賀郡長沼(現在の真岡市)を相続して長沼氏の祖となった。傍若無人で短気な乱暴者として定評がある。
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朝光が26日に「父の小山政光から遺領を継がず、幕下将軍に仕えて初めて数ヶ所の所領を得た。」と述懐しているのを考えると、異母兄弟の間で何らかの諍いがあった可能性が考えられる。
小山・長沼・結城の各氏族は離合集散を繰り返しながら北関東の覇権に絡んでいく。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月8日
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吾妻鏡
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右近将監の多好方は去る建久四年に宮人の曲の賞に関する褒賞として故右大将軍(頼朝)から飛騨国荒木郷を下賜された。この土地を子息の多好節に譲補したいとの申請があり、今日それが認可をされた。またこの所領については守護の関与を禁じる旨が命じられ、北條時政殿がこれを差配した。
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   ※多好方: 楽所(らくそ。治部省の雅楽寮とは別組織)に所属した雅楽担当の官人。建久四年(1193)の7月
18日に御家人の師弟に秘曲を伝授する件で頼朝から依頼を受けている。
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頼朝に招かれて建久二年の10月25日に初めて鎌倉に入り、11月4日に絶妙の歌唱力を披露している。飛騨国荒木郷については同月12日に詳細を記載した。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月10日
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吾妻鏡
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兵庫頭大江廣元梶原景時を訴えた連署状を受け取ったが、その処理に頭を痛めていた。景時が讒訴していたのは間違いないが、右大将頼朝公の時代に親しく仕えた近臣を直ちに罪科に問うのも尋常ではない。穏やかに収拾する方法はないかと悩んで連署状を手元に止めていた。
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しかし今日和田義盛と御所で出会った際に連署状の結果を尋ねられたため、まだ奏上していない、と答えた。
義盛は眼を怒らせて「貴殿は鎌倉の中枢に任じて長い年月を経ている人物なのに、景時の権威を恐れて御家人多数が抱いている不満を無視している、それは道理に合わない」と抗議した。
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廣元が「景時を恐れているのではなく、彼の失脚を招くことに心を痛めているのだ」と答えると義盛は廣元に詰め寄って「恐れていないのなら数日を過ぎても手元に置いているのは何故か。見せるのか見せないのか、返事を頂こう」と叱責するかの如くに迫った。広元は「上奏しよう」と答えて座を起った。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月12日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が預かっていた連署状を中将頼家に提出した。頼家は直ちにそれを梶原景時に渡し、内容の是非について説明するように命令した。
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   ※経過: 朝光の述懐は10月25日で、阿波局が朝光に警告したのが翌26日。従って頼家は(阿波局の言葉に
拠れば)26日の早い時間帯に「朝光の誅戮」を考えた事になる。しかし現実には何も起きず、11月12日に広元が連署状を提出するまでの17日間は討手どころか朝光を詰問さえしていない。
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安達景盛が「妾女の件で不満を...」との噂を聞いただけで討手を向けた頼家の反応とは思えないね。吾妻鏡が忠実に事実を伝えているのか、疑うほうが良さそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月13日
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吾妻鏡
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梶原平三景時は彼に対する訴状を渡されても説明することができず、子息と一族を率いて(本領の)相模国一宮に下向した。ただし三男の三郎兵衛尉梶原景茂だけは鎌倉に残留している。
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   ※説明できず: 原文は「不能陳謝」、たぶん「申し開きできず」の意味だろう。「謝れず」じゃ意味が通らないもの。
朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言ったのが事実なら、弁の立つ景時なら説明できる筈だ。
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ひょっとすると「朝光の愚痴」も「景時の讒訴」も関係ない、時政が筋書きを書いた「景時袋叩き作戦」だったみたいな気がしてくる。そう考えるとも頼家が17日間も対応しなかった理由も納得できるから...やはり吾妻鏡の曲筆か?
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   ※系譜: 梶原氏の祖は平良文から四代後の鎌倉章名とされる。
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相模大領(郡司の最高位)だった丸子氏の婿になって相模国南部を拓いて開発領主となり、兄の為通は頼義に仕えて三浦を与えられ、三浦氏の祖となった。
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章名の次男景通が鎌倉氏を継承して景久-景清-景時に続き、景通の末弟で同じく鎌倉を名乗った景成の子が武名の高い鎌倉権五郎景政、嫡子の景継が大庭御厨の荘官となって懐島景義・豊田景俊・大庭景親・俣野景久の四兄弟に続く(秩父平氏の系図を参照)。
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右画像は景時の一宮館の跡伝わる天満宮。
   画像をクリック→ 梶原邸跡の訪問記(別窓)へ。
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鎌倉十二所の館跡は明王院と梶原井戸、一族発祥の梶原郷は梶原の御霊神社で。

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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月18日
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吾妻鏡
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中将家(頼家)が比企右衛門尉能員の屋敷に渡御し、南庭に於いて御鞠を楽しんだ。北條五郎時連(時房)・比企弥四郎時員(能員の三男)・富部五郎・細野四郎・大輔房源性らが蹴鞠に加わり、その後に行った酒宴の席に梶原景茂が参席、右京進中原仲業が酒の酌を務めた。
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羽林は景茂を近くに呼び、「最近は景時が権威を振りかざす状態には傍若無人の様子があり、それが御家人一同の訴状に発展してしまった。」と語った。景茂がそれに答えて「父の景時は他の者より先君(頼朝)の寵愛を得ていましたが、今でもその御愛顧を得ている訳ではありません。それなのに誰の威を借りての非義だと言えるのでしょうか。今では仲業の文章に萎縮し、諸人の武力を恐れているだけです。」と語った。
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列座している者は景茂の返事は理屈が通っている、と囁き合った。羽林(頼家)は今夜は能員邸に宿泊される。
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   ※富部五郎: 長野市川中島の伊勢神宮富部御厨(長野市川中島町・
地図の更級斗女神社付近が館跡)を本領とした武士。
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父の家俊は城資職(長茂)の配下として横田河原の合戦義仲軍の西広助に討ち取られている。
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五郎兵衛はその後は鎌倉御家人となり、承久の乱に加わった記録が残る。
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   ※細野四郎: 頼家の蹴鞠仲間として何回か現れるが素性が未だ確認
できていない。
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   ※大輔房源性: 頼家の家臣で蹴鞠仲間の一人。比企氏が滅亡した
直後の建仁三年(1203)9月3日の吾妻鏡に以下の記述がある。
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能員の残党を捜索し多くを流刑または死罪に処した。妻妾と二歳の男子は遠戚に当たる和田義盛に預けて安房国に流罪とした。今日、小御所の焼け跡で大輔房源性が故・一幡君(頼家の嫡子)の遺骨を拾おうとしたところ、焼死体に混じって菊の模様が付いた小袖の右脇が見付かった。乳母の言葉では最後に着ていたのが菊を染め付けた小袖と話していたため源性はこれを拾い、首に掛けて奥院に納めるため高野山に向かった、と。
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             右画像をクリック→ 妙本寺(比企氏の館跡・別窓)
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月19日
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吾妻鏡
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早朝から能員の屋敷で御鞠、加わった人数は昨日と同じだが若宮三位房と僧義印が追加で加わった。
午刻(12時前後)に中将頼家が御所に還御し、能員が引出物を献上した。御剣一腰を北條五郎時連(時房)が運び、駿馬一匹(鞍を置いた鴾毛)を比企三郎宗員と四郎時員が引き出した。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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11月30日
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吾妻鏡
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武蔵国の田文を整備した。これは故将軍(頼朝)の時代に検地を済ませていたのだが田文の整備が完了していなかったためである。

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   ※田文: 荘園や公領に於ける田畑の面積や所有関係などの詳細を載せた台帳で、これが課税の原簿となる。
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西暦1199年
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83代 土御門
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正治元年
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12月9日
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吾妻鏡
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梶原平三景時が一宮の所領から鎌倉に帰参した。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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12月18日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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景時の件、多数の御家人による連署状について協議を重ねた結果、ついに鎌倉からの追放処分が決定した。
和田左衛門尉義盛三浦兵衛尉義村がこれを差配して相模国一宮に下向し、景時の屋敷は解体して永福寺の僧坊に寄付された。
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   ※追放処分: 景時の屋敷は十二所にあった別邸を差す。屋敷も破却したのだから単純な
鎌倉追放ではなく、流刑に近い処分だ。
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西暦1199年
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83代 土御門
正治元年
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12月29日
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝政を播磨国の守護職に補任した。在地の御家人らは朝政の命令に従って内裏大番役を勤め忠節を励むことになる。ただし朝政の権限は謀反や殺害に関わる事件の処理のみで、国務に関与したり民間の訴訟を決裁してはならない。また住人を煩わせるような行動を取らないようにとの仰せがあった。
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   ※播磨守護: 寿永三年(1184)から建久十年までは梶原景時が任じている。職権の没収に伴う補任だろう。
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西暦1199年
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