正治二年(1200)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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北條時政殿が中将(頼家)に椀飯を献じた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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西暦1200年.
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83代 土御門
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正治二年
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1月2日
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椀飯の献上あり。千葉介常胤の沙汰である。
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西暦1200年.
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82代後鳥羽
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正治二年
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1月3日
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椀飯の献上あり。三浦介義澄の沙汰である。
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西暦1200年.
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83代 土御門
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正治二年
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1月4日
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椀飯の献上あり。兵庫頭大江廣元の沙汰である。
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西暦1200年.
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83代 土御門
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正治二年
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1月5日
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椀飯の献上あり。八田左衛門尉知家の沙汰である。
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西暦1200年.
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83代 土御門
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正治二年
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1月6日
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椀飯の献上あり。相模守大内惟義の沙汰である。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月7日
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吾妻鏡
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椀飯の献上あり。小山左衛門尉朝政の沙汰である。
今日吉書始め。大江廣元朝臣がこれを差配し、次に御弓始めが行われた。二射づつ交互に五度の弓射で多くの矢が的を射抜き、通例の通り射手には褒美が与えられた。
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   射手   一番 榛四郎重朝      八田六郎知尚
         二番 小鹿嶋橘次公業   藤澤次郎清親
         三番 工藤小次郎行光   加藤弥太郎光政(素性不明) .
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   ※八田知尚: 八田知家の六男で越前に所領を得たらしいが、それ以上は判らない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月8日
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吾妻鏡
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椀飯の献上あり。結城七郎朝光の沙汰である。
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今日、御所で般若心経を唱える法要が行われ、鶴岡八幡宮の供僧が参加した。導師は法眼行慈である。
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   ※法眼行慈: 文覚の弟子で明恵(建久六年(1195)4月5日を参照)の師。前年3月2日の頼朝四十九日法事
では導師を務めている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月13日
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吾妻鏡
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夜になって雪、一尺近くの駅は積もった。椀飯の献上あり。土肥弥太郎(遠平)の沙汰である。
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故幕下将軍(頼朝)の一周忌。法華堂に於いて仏事を修し、北條時政殿を筆頭に諸大名群集した。本尊は絵像の釈迦三尊が一幅と梵字による曼荼羅(御台所が落飾した髪で刺繍したもの)が一枚。供養した経文は金泥で書した法華経六部と摺写(木版で刷った)大乗経五部、導師は葉上房律師栄西と請僧(招いた僧)が12人。
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   導師の布施として
錦被物十重 綾被物二十重 帖絹百疋 染絹百端 綿千両 糸二千両 白布百端 紺布百端 藍摺二百端
鞍置馬十疋   追加の布施として   砂金三十両 五衣一領
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   請僧一人当りの布施として
錦被物五重 綾十重 帖絹三十疋 染絹三十端 綿五百両 糸千両 白布三十端 紺布三十端 藍摺百端 鞍を置いた馬三疋
同時に僧100人による供養も行われた。
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また伊豆国願成就院の北隣は故右大将(頼朝)在世の頃に利用した山荘である。今は北條時政殿の沙汰で仏閣に改め、阿弥陀三尊像ならびに不動明王・地蔵菩薩を模った像を祀っている。
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更に駿河・伊豆・相模・武蔵など各国の仏寺では各々追善が行われ、東海道十五ヶ国では名のある御家人が追善供養の法事を営んでいる。
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   ※山荘を寺に: 現在の光照寺(右画像)と伝わる。周辺の鳥瞰画像はこちら
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月15日
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吾妻鏡
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椀飯の献上あり。在京の佐々木左衛門尉定綱の沙汰である。
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今日、京都大番役勤務についての指示が各御家人に下された。差配は左衛門尉和田義盛である。また去る五日に発行された除書が今日到着した。羽林(頼家)は従四位上に叙され、八日付で禁色の着用が許されている。
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   ※義盛の差配: 治承四年(1180)8月の頼朝挙兵直後の申請により鎌倉に入ると共に侍所別当に任じている。
吾妻鏡の正治二年(1200)2月5日は次のように記載している。
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和田義盛が侍所別当に還任した。治承四年に補任されていたのだが、建久三年(1192)に侍所所司の梶原景時が「一日で良いから別当の職に就きたい」と懇願したため義盛がそれを認めた。すると景時は「奸謀を弄して」別当の職に居座った。
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しかし官職の別当が御家人の間で勝手に遣り取りできる筈も、頼朝がそのまま認める筈もない。これは頼朝が命令した人事を吾妻鏡が面白く脚色したのだろう。
義盛が「別当の職を奪われた」との遺恨を抱き、その気持ちも景時失脚に繋がった、と思う。
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   ※除書: 平安時代以降の大臣以外の任命書。「除」は任命する、「目」は目録に記すことを意味する。
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   ※禁色(きんじき): 位階の別に衣服の色が定められ相当の位階より上位の色の着用が禁じられていた。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月18日
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吾妻鏡
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激しい風雪あり。 中将家(頼家)は狩猟を楽しむため大庭の野に出掛けた。稲村崎から江島の浜辺は長く続いて風情に満ちている。大庭には禽獣が多く、遊猟に適した土地である。
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大庭野の巻狩りでは波多野次郎経朝(波多野義通の息子忠綱の嫡子)が狐を二匹射止めた。数十騎が轡を並べている中で二匹を射止めて名を挙げ、更に工藤小次郎行光は一矢を以て二羽の鳥を射止めたため、頼家は彼らの腕前に感嘆した。
夜になり、畠山次郎重忠が椀飯の準備を整えている金洗澤に引き上げ、暗くなるまで酒宴を重ねた。経朝と行光を召し、見事な射芸を見せた褒美としてそれぞれに馬一疋と太刀一振りを与えた。
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   ※大庭の野: 伊勢神宮領大庭御厨の中心部(地図)と推定される。
片瀬江ノ島から約8km、鶴岡八幡宮から約12kmだから意外に近い。江ノ島経由なのを考えると大庭の南部、現在の辻堂から茅ヶ崎にかけての一帯か。
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     右画像をクリック→ 大庭城址の明細へ(別窓)
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   ※金洗澤: 現在の江ノ電七里ガ浜駅北側、行合川の古名(地図)。
古い時代に砂金を採ったのが語源とされる。
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文永八年(1272)9月12日に幕府批判の罪で松葉谷草庵の日蓮を捕縛、翌13日に龍ノ口(地図)で斬首の筈だったが 果たせなかった(奇跡が起きた・首斬り役人が躊躇した、と伝わる)。その旨を幕府に報告する使者と、赦免を知らせるため幕府を出た使者がここで行き逢った、その時から「行合川」と呼んだ、とされる。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月20日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に原宗三郎の飛脚が到着、梶原景時が相模一宮で合戦に備えているため警戒していたら昨夜丑刻(2時前後)に子息らを率いて一宮から逃亡した。謀叛を企み上洛するらしいとの噂がある。」と報告した。
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北條時政殿・兵庫頭大江廣元・大夫屬入道三善康信らが御所に集まって対応を協議し三浦兵衛尉義村比企兵衛尉能員糟屋籐太兵衛尉有季工藤小次郎行光らの軍兵を追討軍として派遣した。
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亥刻(午後10時前後)に景時親子は駿河国清見関に到着、弓の競技に集まっていた近隣の武士たちが解散するところに出会ったため彼らは怪しんで矢を射掛け、芦原小次郎・工藤八・三澤小次郎・飯田五郎らが追跡した。
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景時らは狐崎で応戦し、飯田次郎ら2名を討ち取った。芦原らには吉香小次郎・渋河次郎・船越三郎・矢部小次郎芦原らが応援に駆け付け、吉香小次郎が梶原三郎兵衛尉景茂(34歳)と名乗りあって戦い共に落命した。
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その後に六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連らが攻め掛かったが容易に決着せず、駿河の御家人らが加わって遂に梶原兄弟4人を殺した。景時と嫡子の源太左衛門尉景季(年39歳)・同弟平次左衛門尉景高(36歳)は背後の山に入って応戦し、景時・景高・景則の死骸は確認したが首は見付からなかった。
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   ※対応を協議: 13人の宿老に含まれている御家人景時の追討に関して頼家の決裁が載っていないこと、更に
景時弾劾に消極的な立場だった大江廣元が追討に賛成したことなどには疑問が残る。
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この辺は明らかに吾妻鏡の作為を感じさせる部分であると共に、時政の意のままに操られている御家人の愚かさも際立っている。
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   ※原宗三郎: この名乗りの武士は複数いる上に原の地名も多い。一宮の様子を覗える事、景時の上洛ルート上
(東海道)に近い事、数時間で鎌倉に連絡できる事、などの条件を加味すると絞り込みは可能だが確定はできない。とくに鎌倉時代初期は足柄峠と箱根峠が併行して使われているため始末が悪い。せめて下の名前が判れば何とかなるのだろうけど。
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   ※清見関: 平家物語巻五の十二 「富士川」では合戦直前の治承四年(1180)10月16日に「七万余騎を率いた
平家の大将軍維盛が駿河国清見関に入った」との記載がある。関が設置されたのは天武天皇の時代(680年前後)、山が駿河湾に張り出した交通の要所だった。現在の 清見寺地図・公式サイト)一帯が関所の跡と伝わっている。
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   ※狐崎: 清見関から約8km南西、JR東海道線の狐ヶ崎駅一帯(地図)。景時一行はここから数km北西の山に
逃げ込んで最後を迎えた。親子三人は自害し、雑色らが首を落として隠したのだろう。
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静岡に住んでいながら何故かまだ訪問していないのが残念だが...いずれ改めてレポートしたい。取り敢えず、詳細はこちら(外部サイト)に載っている。
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西暦1200年
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82代後鳥羽
正治二年
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1月21日
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吾妻鏡
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巳刻(午前10時前後)に山中で景時と子息二人(景高と六男景則)の首を見付け出した。景時の一党33人(原本により、36人とも)の首を路頭に晒した。
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   ※景時の息子: 嫡子景季から順に、景高・景茂・景義・景宗・景則・景連、全員がこの騒動で死没している。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月23日
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吾妻鏡
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平朝臣三浦介義澄(74歳)が没した。三浦大介義明の嫡男である。
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酉刻(19時前後)に駿河国の住人および鎌倉から派遣した追討軍が帰着し各々合戦の記録を提出した。大江廣元朝臣が中将頼家の御前でこれを読み上げた。内容は次の通り。
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   正治二年正月二十日、駿河国に於いて景時父子ならびに家の子と郎等を追討した件。
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     一.芦原小次郎が最初に攻撃して梶原六郎と同八郎を討ち取った。
     一.飯田五郎の部下が景茂の郎党二人を討ち取った。
     一.吉香小次郎が三郎兵衛尉景茂を太刀によって討ち取った。
     一.渋河次郎の部下が梶原平三の家の子四人を討ち取った。
     一.矢部平次の部下が源太左衛門尉景季と平次左衛門尉景高と狩野兵衛尉の三人を討ち取った。
     一.矢部小次郎が平三景時を討ち取った。
     一.三澤小次郎が平三景時の側近を討ち取った。
     一.船越三郎が家の子一人を討ち取った。
     一.大内小次郎が郎等一人を討ち取った。
     一.工藤八郎の部下と工藤六郎が梶原九郎景連を討ち取った。
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   正月二十一日 噂によれば、かねて景時は「駿河国の吉香小次郎は特に勇猛で、もし隠れて上洛するような
   時には、彼の家の前さえ過ぎれば後は恐れるものはない」と言っていたらしい。
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   ※粛清の連鎖: 梶原一族の次は比企能員 (1203年)、将軍頼家(1204年)、畠山重忠稲毛重成榛谷重朝
(1205年)、和田義盛と相模国の古参御家人(1213年)、そして最後に残った有力御家人の三浦一族(1239)の順に滅亡していく。次は自分じゃないか...と疑わなかったのだろうか。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月24日
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吾妻鏡
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安達源三親長が使者として上洛し、梶原景時を追討した旨を六波羅に伝えた。御教書の内容は次の通り。
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平景時が謀反を企んだため誅罰を加えた。在京している仲間も探し出せとの命令を大内惟義佐々木広綱が受け、大江廣元がこれを御教書に書いた。
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今日、加藤次景廉が所領を没収された。梶原景時の親しい友人だったのが処分の理由である。
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   ※加藤景廉: 建仁三年(1203)に時政の命令で比企能員を謀殺した
仁田忠常を殺し、建暦三年(1213)5月の和田合戦では北條側に与して元老の座に復権している。
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頼朝挙兵に従って以来の気骨のある武士なのだが、その気骨は大恩ある源氏を見捨てて全権を掌握した北條氏に与力する程度に過ぎなかった。
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    加藤景廉は伊豆狩野川沿いの牧の郷に本拠を置いた武士。
        右画像(牧の郷遠景)をクリック→ 狩野川沿いに残る遺跡の詳細へ別窓)。

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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月25日
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吾妻鏡
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今日、美作国守護職など景時父子の所領と公職を没収した。駿河国の住人など今回の合戦で功績を挙げた者が恩賞を受け、また比企能員糟屋重朝も同じく恩賞を得た。
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景時らが討たれたのは現地に到着する前だったが、追罰使に任じた恩賞である。夜になって景時の弟・刑部丞友景(朝景が降人として北條時政邸に出頭、工藤小次郎行光に武器を差し出した。
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   ※美作国: 現在の兵庫県北部。守護職には和田義盛が補任され、和田合戦後は北條氏の支配地となった。
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   ※梶原朝景: 関与なしと判断され罪に問われなかった。建暦三年(1213年)の和田合戦には縁戚関係にある
義盛に味方して戦死している。一族が北條氏に滅ぼされた遺恨があった、かも知れない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月26日
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吾妻鏡
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糟屋籐太兵衛尉有季が景時の友人である安房判官代隆重を生虜って連行した。一宮で景時に合流して駿河国へ同行、合戦によって多少の傷を負い樹上で夜を明かしていた。兵士が分散した翌朝になって里に降りてきたところを有季の郎従が捕えた経緯である。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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1月28日
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吾妻鏡
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夜になって伊澤五郎信光が甲斐国から参上して報告、武田兵衛尉有義が景時と打ち合わせて密かに上洛すると聞き、詳しく聞こうと彼の館を訪ねた。噂を否定すると考えていたのだが既に逃亡して行方知れず、景時からの書状が一通残っていただけだった。彼らが共謀していたのは明らかである。
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景時は二代の将軍から寵愛された威を借りて傍若無人に振る舞い、長い間横暴を重ねた結果御家人の反目を受けた。その結果として謀反を企み、朝廷に奏聞して援助を得る目的や鎮西の武士を味方に引き込むために上洛を目指した。日頃の親交を利用して源氏一族の武田有義を将軍に擁立しよう考えたのだろう。有義はその書状を落としたまま出発したに違いない、と語った。
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   ※有義と信光: 武田信義の嫡子一條忠頼は元暦元年(1184)6月に
頼朝により謀殺、次男の板垣兼信は建久元年(1190)8月に失脚し嫡子頼時と共に隠岐で配死、三男有義は今回の事件以後は消息も生死も不明になる。
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三人とも信光の策謀が関与し、更に父の信義も忠頼の死没後に失意のまま没している。
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甲斐源氏武田氏の家督は信光が継承し、この時から名乗りを伊澤(石和)から武田に改めている。
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信光は甲斐源氏の弱体化を狙ったる頼朝に協力して三人の兄を排除し、代償として家督の相続を得た、そう考えるのが通説である。
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「大切な書状を落として行った」なんて白々しい捏造を平然と載せる吾妻鏡の編纂者。
ふと、横畠内閣法制局長官の汚らしい顔を思い浮かべてしまった。
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        右画像は北杜市の石和信光菩提寺・信光寺。画像をクリック→ 信光の遺跡へ(別窓)
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月2日
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吾妻鏡
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中将頼家が侍所に出御し、波多野三郎盛通(義景の子)に勝来七郎則宗の捕縛を命じた。則宗は長年頼家に仕えた武士で腕力の強い相撲の名手、景時の与党だった事が捕縛する理由である。
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盛通は背後から則宗に組み付き、則宗は右手を振り抜き、腰刀(後世でいう脇差)で盛通を突こうとした。傍らにいた畠山重忠が左手で則宗の右手を抱え込み腕を折ってしまったため簡単に捕縛され義盛に引き渡された。
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義盛は厩の部屋で則宗を聴取し、景時が朝廷から鎮西支配を許可する院宣を得ようとしていた事、九州の一族に向けて京都に集結するよう連絡していたらしい事、ただしその真偽は判らない、などの供述を得た。義盛はこの内容を中将頼家に報告し、則宗を暫く拘留せよとの命令を受けた。
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   ※景時の計画: 朝廷の庇護を求めようとしたのが事実だろう。軍事行動が成功すると思うほど愚かではない。
則宗供述記録が事実かも疑わしい。史料の真偽から疑わなければならないとは...。
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   ※京都の反応: 「玉葉」は「景時の討伐は当然のことである。悪行を重ねての滅亡は趙高(秦の始皇帝に仕えた
悪臣で讒言の代名詞)に等しい」と、「明月記」は「噂では景時は既に討たれたらしいが詳しいことは判らない」と書いている。景時の讒言癖は京都でも知られていたんだね。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月5日
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吾妻鏡
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和田義盛が侍所別当に還任した。治承四年(1180)に挙兵して関東を制圧した最初に(頼朝との約束に従って)侍所別当に就いたのだが、建久三年(1192)に景時が「一日で良いからその役職に就きたい」と懇願した。その頃は義盛にも蟄居する必要があった関係から善意で短期間の代理を認めたのだが、当時は所司(次官)だった景時は奸計を巡らして居座ってしまった。
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   ※蟄居の必要: 原文は「義盛以服暇之次」、意味不明だから「蟄居」にしておいた。
まぁそれは兎も角として、仮にも侍所別当(現在なら警察庁長官に近い職責)の勝手な公職交代などを頼朝が認める筈がない。「征夷大将軍となり国の騒乱も収まった、これからは武将の義盛よりも文官の資質がある景時の方が適任か」と判断した頼朝による人事移動だろう。この日の描写もまた、景時追討を正当化する吾妻鏡曲筆の一つだ。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月6日
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吾妻鏡
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則宗の罪名および盛通の褒賞の沙汰があり、大江廣元朝臣・三善康信・宣衡二階堂行光がこれを差配した。
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ここで波多野盛通を心良く思っていない真壁紀内なる者が「手柄は盛通ではない、則宗生け捕りは畠山重忠である」と異論を挿んだため重忠を呼んで確認すると、「そんな話は知らない、盛通一人の行為と聞いている」と答えた。
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その後に侍所に戻った重忠は真壁に向かって「あのような讒言は無用である。武士の本分は真っ直ぐな心であり、盛通に対する意趣を勲功の席に持ち出すのは筋が違う。また盛通は譜代の勇者であり、私の名前を持ち出す必要もない。」と語った。真壁は赤面して何も答えられず、周囲の者は重忠の言葉に感嘆した。
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その後に左衛門尉小山朝政・左衛門尉和田義盛・畠山次郎重忠らが侍所に集まって暫し雑談した。
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渋谷次郎が「景時は一宮館に入る橋を落として短い間でも抗戦すべきなのに逃げ出して討たれた、普段の言葉にも似合わない行為だ。」と言うと重忠は「急な事件なので備えを固める余裕がなかったのだろう。」と答えた。
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安藤右馬大夫右宗(高雄の文覚を生虜った武士)は「畠山殿は大々名だから橋を落として防備を固める事など御存知ないのでしょう、近所の小屋を壊して橋の上に置き火を掛ければ簡単です。」と話した。
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また小山朝政は「弟の長沼宗政はいつも「一族の武勇は自分に尽きる」と豪語しているのに今回は景時の権威を恐れ訴状に花押を加えなかった。これを恥と思い今後は口を慎め。」と告げた。
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宗政は普段から言葉が荒く、誰に対しても平気で悪口を言う男だが、朝政に返答する術もなかった。
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   ※明月記には: 2月7日の条に「噂によれば洛内や周辺で景時の与党
を追捕する事件が多数あり」との記載がある。
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   ※宣衡: 建仁元年(1201)12月の記事には「善進士が京都から鎌倉
に帰参した」と載っている。
「善」は三善、進士は試験に合格した文章生(歴史・詩文担当)だと思うが、三善氏の系図には宣衡は見当たらない。
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   ※橋を落とす: 鎌倉時代初期の武家館として知られている足利鑁阿寺
にも、当時の水堀と土塁が見事に保存されている。
その鑁阿寺でさえ堀の巾は僅か5m強、橋を落としても本格的な戦闘になれば少人数ではとても守りきれない。一宮館の規模は更に小さかったと思う。
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           右画像は鑁阿寺の南門に架かる太鼓橋。画像をクリック→ 鑁阿寺明細へ(別窓)
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月20日
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吾妻鏡
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親長が京都から帰参、囚人として播磨国惣追捕使の芝原太郎長保を連行している。彼は景時の与党であり、左衛門尉佐々木広綱定綱の嫡子)が郎従を警護役として添えている。
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親長は御所で「去る2日に京都に入り、同7日に佐々木広綱・後藤基清を伴って五條坊門に面した景時邸で郎従を捕縛した。その自白により近江国富山庄で長保を生け捕った。」と報告、長保は和田義盛邸に拘留となった。
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   ※親長: 建久八年(1197)~承久三年(1221)まで但馬国守護を務めた安達親長。盛長の一族だと思うが、
安達氏の系図には名前が見当たらない。
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   ※播磨守護: 元暦元年(1184)~建久十年(1199)までは梶原景時、景時の失脚後は小山朝政が任じた。
惣追捕使は義経追討を目的に設置された職だが、朝廷や国衙の警察機能が脆弱だったため義経の 死没後も治安維持の目的で部分的に残されたらしい。
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   ※五条坊門小路: 四条大路と五条大路の中間を東西に走る現在の仏光寺通(地図)。景時邸の位置は不明。
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   ※富山庄: 砥山庄(延暦寺春蓮院門跡領)で現在の栗東市中部に下戸山と上砥山の地名が残る(地図)。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月22日
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吾妻鏡
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掃部頭大江廣元朝臣および三善康信の言葉によれば、景時が関東から逃亡した情報が京都に届いた2月1日に仙洞(院の御所)で五壇の修法による祈祷が行われた。理由は判らないが怪しむべき事である。景時の逐電を誰が知らせたのか、また事前に仙洞と打ち合わせての逃亡だった疑いもある。
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夜になって長保を尋問したところ「景時は播磨国守護なので彼の推挙によって惣追捕使に任じたが反逆には関わっていない。」と答えた。長保は左衛門尉小山朝政に召し預けた。
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   ※掃部頭: 大江廣元は昨年12月9日に兵庫頭(兵庫寮の長・従五位上相当)から掃部頭(掃部寮の長・従五位
下相当)に遷任した。今年の5月には大膳大夫(正五位下、後に従四位下相当)に転任する。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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2月26日
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吾妻鏡
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中将家(頼家)が鶴岡八幡宮に参拝、喪が明けて最初である。上宮で読経の供養を行った。導師は弁法橋定豪
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  供奉人
    先陣の随兵十人
        結城七郎朝光  三浦平六兵衛尉義村  宇佐美左衛門尉祐茂
        野次郎左衛門尉成時  佐々木小三郎盛季  加藤弥太郎光政
        榛谷四郎重朝  中山五郎為重  江間太郎頼時  北條五郎時連
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    次に御劔役  兵衛尉後藤基綱
    次に御調度懸け  兵衛尉糟屋籐太有季
    次に御甲着け  大井次郎實久
    次に御冑持ち  中野五郎能成
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    次に御後衆二十人(束帯布衣相交じる)
        相模守惟義  武蔵守朝政  掃部頭廣元
        前右馬助以廣  源右近大夫将監親廣  江左近将監能廣
        中右京進季時  小山左衛門尉朝政  後藤左衛門尉基清
        八田左衛門尉知重  島津左衛門尉忠久  所右衛門尉朝光
        和田左衛門尉義盛  笠原十郎左衛門尉親景  山内刑部丞経俊
        大友左近将監能直  若狭兵衛尉忠季  千葉平次兵衛尉常秀
        天野右馬允則宗  中條右馬允家長
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    次に後陣の随兵
        村上余三判官仲清  小笠原弥太郎長経  武田五郎信光
        泉次郎季綱  安達九郎景盛  比企判官四郎宗員
        土屋次郎義清  土肥先次郎惟光  葛西兵衛尉清重
        江戸次郎朝重
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    次に廷尉   新判官能員
    次に殿上人(宮寺に参会す)  伯耆少将
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   ※印の武士: 野次郎成時は小野成綱の縁戚だと思うが系図では確認できず。
佐々木盛季は盛綱の三男。加藤光政は(加藤光員の縁戚かも知れないと思うけど...。
中山為重は秩父丹党の武士で比企能員の娘婿となり比企の乱で戦死している。
後藤基綱は後藤左衛門尉基の子、承久の乱で宮方に与した父基清を幕府の命令で斬首した。
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大井次郎實久は大井實春 、建久三年(1192)11月に永福寺で岩を運び大力を披露した武士。
中野五郎は前年4月20日を参照されたし。前右馬助以廣は橘姓だが出自が確認できない。
源親廣は大江廣元の長男で土御門(源)通親の猶子。承久の乱で宮方に与して失脚、その後に
   祖父の管理地に入って寒河江氏の祖となった。
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江左近将監能廣は大江氏だが系図にない。笠原親景は北信濃の武士で比企能員舅の一人。
若狭忠季は津々見、島津忠久の兄弟で若狭島津氏の祖。天野則宗の出自は判らない。
中條家長は義勝房成尋の子で嘉禄元年(1225)には評定衆に加わっている。
村上仲清は信濃源氏で白河上皇に仕えた仲宗の三男。兄の唯清が上皇を呪詛したため親子兄弟
   全員が流罪、仲清は阿波国流罪となり土着、治承の頃に御家人に加わったらしい。
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泉季綱は判らないので継続調査中。
比企宗員は能員の次男、頼家近習五人の一人で比企の乱(1203)で討死。
土肥惟光は遠平の嫡子・惟平を差すらしい。
江戸朝重は重長の次男。同族の畠山・河越・稲毛・榛谷氏らは滅亡したが江戸氏は庶流も含めて
   長く繁栄している。
伯耆少将は頼家の蹴鞠仲間として建仁三年(1203)1月2日などに記載がある藤原清基。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは2月の次が閏2月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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閏2月2日
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吾妻鏡
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彼岸の初日。尼御台所の御祈願として、故将軍(頼朝)の法華堂で法華懺法を供養した。担当は永福寺の供僧、民部丞二階堂行光がこれを差配した。
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   ※法華懺法: 法華経を唱えて犯した罪を懺悔する天台宗の法要。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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閏2月8日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が狩猟のため伊豆国の藍澤原に出発した。北條五郎時連三浦十郎義連和田胤長長沼五郎宗政結城七郎朝光・波多野次郎経朝(義通の弟忠綱の長男)・海野小太郎幸氏・大河戸太郎重澄(三浦義明の庶子?)・綱嶋次郎・狩野七郎ら射手60人が命令に従って供を務めた。
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出発後に掃部入道中原親能が差配して、往還の間が無事であるよう鶴岡八幡宮の供僧に祈祷の指示を行なった。
供僧は回廊に集まって絶えることなく観音経を読誦した。
今日は(閏2月2日)から始まった法華懺法の結願日で、招いた僧に布施を贈った。それぞれ一人当りに帖絹三疋・白布五端・藍摺十端である。
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   ※藍澤原: 鎌倉時代の「あいざわ」は伊豆国にも相沢郷の名が見える
のだが場所が確定できない。「藍澤原」のフルネームで確認できるのは承久三年(1221)7月14日に書かれた御殿場のみ。「於藍澤原。黄門宗行遂以不遁白刄之所侵。」
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承久の乱の責任を問われた中納言藤原宗行(47歳)がここで小山朝長朝政の嫡子)に斬られている。伊豆じゃないのが気に入らないけど、個人的にはこちらを選択したい。
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        右画像は殺された五人の公卿を祀った藍澤五卿神社。
        画像をクリック→ 五卿神社の明細へ(別窓)。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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閏2月12日
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吾妻鏡
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尼御台所の御祈願として新たに伽藍を建立する地として土屋次郎義清の所有する亀谷の地を選んだ。
かつて下野国司に任じた義朝公の旧邸跡地で、その恩に報いるため昔は岡崎四郎義實が草堂を建てていた。
今日、民部丞二階堂行光と大夫屬入道 三善康信がその土地を確認に出向いた。
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   ※草堂の地: 治承四年(1180)に鎌倉に入った頼朝が10月7日に義朝の旧邸跡を確認し、地形が狭い上に
義實が建てた草庵(壽福寺の地)があったため御所の建造地を大倉に変更した、その場所。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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閏2月13日
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吾妻鏡
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亀谷の土地を葉上房律師栄西(後に僧正に昇進)に寄進し、清浄結界の地として清めるよう命じた。午刻(正午前後)に結界を結ぶめ集まった僧が行道を行い、施主(政子)も監臨された。所右衛門尉伊賀朝光が御輿に供奉し、土屋義清が仮屋を構えて見事な食事の準備を行った。未刻(14時前後)に三善康信と二階堂行光が差配して堂舎(寿福寺)の着工式典が行われた。
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   ※行道: 列を作って読経しながら本尊や仏堂の周りを右に回って供養
しつつ礼拝すること。
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   ※寿福寺: 現在も鎌倉五山の三位として続いている壽福禅寺の山門。
嘉禄元年(1225)7月に没した御台所政子は勝長寿院に葬られたが、寺の焼失後に彼女が創建した経緯から、現在の壽福寺墓地裏の「やぐら」に改葬された。改葬の時期が鎌倉末期の火災か、それ以後の火災かは確認できない。
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     右画像は静かな佇まいを見せる亀ヶ谷の壽福禅寺山門。
         画像をクリック→ 現在の寿福寺周辺へ(別窓)。

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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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閏2月16日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に羽林(頼家)が藍澤から御帰着、道中が無事だったのは御祈祷の結果と思われて上絹五十疋を鶴岡の供僧らに贈った。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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閏2月29日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が永福寺など近隣の景勝地を巡覧され晩鐘の頃に還御した。永福寺に於いて郢曲(えいきょく)が 行なわれ、僧と稚児らが釣殿で幾度も盃酒を重ねて献じた。供の者も頗る酩酊した。
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   ※郢曲: 中国春秋時代の楚王朝(~紀元前223年)の都・郢で歌われた俗曲、転じて今様などの歌謡を差す。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で法会あり。羽林(頼家)も参席を予定していたが風雨が激しいため江間四郎(北條義時)が代理の奉幣に派遣された。
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   ※法会: 五節句の一つ・上巳の節句。貴族の子女が御所などを模した飾り付けで遊び、無病息災を願ったのが
始まり。鎌倉時代には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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3月14日
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吾妻鏡
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岡崎四郎義實入道が鳩仗にすがって尼御台所の屋敷に参上し、泣きながら訴えた。
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80歳を越えて病気と悲しみに満ちた日々を送っているのみならず貧しさにも苦しんでいる。恩賞として得た土地は義忠の菩提を弔うため寺に寄進する予定なので残るのは僅かばかり、とても子孫が安心できる程ではない。と。
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尼御台所はこれを憐れみ、石橋山合戦の頃に大功を挙げた者である。老後にも配慮し早急に所領を与えるべき。」と羽林(頼家)に申し入れた。使者は二階堂行光である。
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   ※鳩仗: 中国の史書を模し、奈良時代から高齢者の長寿を祝い握りに
鳩の飾りを付けた杖が贈られていた。
鳩は餌を食べても咽ぶ事がないのが所以らしい。
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   ※義忠: 義實の嫡子で、石橋山合戦で俣野景久と組み合い長尾定景
に討たれた佐奈田余一が義忠。文治四年(1188)8月23日にも義實は余一の遺児(先法師)に与える目的で波多野義景の土地横領を画策して訴えられ、頼朝に処罰されている。
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その後に降伏した長尾定景は生殺与奪は望みに任せるとして三浦氏傍流の義實に預けられたが、結果的に許されて三浦氏に仕え、建保七年(1219)には八幡宮で実朝を殺した公暁を討ち取ることになる。
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右画像は館跡と伝わる無量寺近くに残る伝・義實の墓所。
    画像をクリック→ 「鎌倉時代を歩く 弐」の該当ヶ所へ(別窓)。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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3月29日
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吾妻鏡
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勝長寿院の前別当だった恵眼房阿闍梨が死没した。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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4月8日
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吾妻鏡
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左衛門尉佐々木廣綱の飛脚が京都から参着して報告。
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先月29日の白昼に六條万里小路で若狭前司保季が掃部入道の郎党吉田右馬允親清の妻を犯した
たまたま六波羅から帰宅した親清が保季を追い掛け、六條南の万里小 路西、九條面平門の中で斬り殺した。
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その後に親清は廣綱の許に出頭し、摂津権守入道と称する者が駆け付けて身柄を引き取ろうとした。検非違使の求めに従って引き渡そうとしたのだが、駿馬に跨って逃げ去り、摂津権守もまた行方不明である。
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保季の父親・少輔入道寂蓮が朝廷に訴え出たため親清を召喚する命令が再三発せられたが、東国に逃れた可能性もある。保季は容貌が美しく、小袖で首の辺りを覆っただけの姿を見た大勢の見物人が涙を流した。
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   ※佐々木広綱: 佐々木定綱の嫡男。建久二年(1191)4月に延暦寺と紛争を起こし隠岐流罪、2年後に許され
復帰した。承久の乱(1221)では宮方に加わり、斬首されている。嫡男継綱は討死、次男為綱と三男親綱は行方不明、11歳の四男勢多加丸は助命されるが家督を継ぎたい広綱の弟信綱に身柄を奪われ強殺された。これ以後の佐々木氏は信綱が宗家となる。
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   ※明月記は: 殺された若狭前司藤原保季は明月記を書いた定家の縁戚。吾妻鏡の記事の大部分はオリジナル
ではなく、明月記から転載したらしい。「これは白昼の密通で、藤原保季は小袖を引っ掛けただけの全裸に近い姿で逃げて斬り殺された、元々女癖の良くない男だった。」と。
「犯した」は必ずしも強制や強姦の類を意味せず、浮気まで含まれるんだね。
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   ※藤原寂蓮: 僧侶で書家、家人としても著名。詳細はwikiで。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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4月9日
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吾妻鏡
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北條時政殿が去る一日に遠江守に任じ、従五位下に叙された。その除書(辞令)が今日鎌倉に届いた。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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4月10日
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吾妻鏡
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今日、掃部頭大江廣元朝臣が江間(北條泰時)殿に次の内容を伝えた。 「先月に若狭前司保季を殺害した男が出頭した。どう処理すべきか、貴方の意見を伺ってから中将(頼家)に報告しようと思う。」と。
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泰時は「是非についての判断を願えば良いと思います。郎従の立場で昇殿の資格を有する者を殺害するのは武士の本分を弁えていないし、白昼の犯行である事実も重いものです。直ちに検非違使に引き渡し死罪に処するべきでしょう。」と答えた。廣元はこれを聞いて措置の妥当さに感嘆した。
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   ※北條泰時: 相談した相手の江間殿は文章の後半を考えると義時ではなく「泰時」らしい。
原文は「掃部頭廣元朝臣申送江馬殿云」と書いているなのだが、この頃の泰時は「江間太郎」を名乗り、義時は「北條四郎」となっている。この時はまだ満16歳か17歳、本来は廣元が相談すべき相手ではない。いくら露骨なゴマスリの吾妻鏡でも...そこまでヨイショするのか。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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4月11日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が佐々木広綱の飛脚に指示を与えた。「(若狭保季を殺した)吉田親清の罪名は三善康信と協議した結果、次の通りである。自ら出頭したのだから取り敢えずは拘留し、事件の経過を検非違使に報告して然るべき決裁を待つように。」との内容である。これを受けて廣綱の使者は今日帰洛の途に就いた。
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   ※然るべき決裁: 吉田親清の処分などの情報は以後の吾妻鏡には載っていない。たぶん明月記も同様だろう。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭、端午の節句である。羽林(頼家)は御参宮せず、大膳大夫大江廣元朝臣が束帯で奉幣使を務めた。流鏑馬の際に馬場を見物人の中で喧嘩があり、長江四郎明義の従僕の中に殺された者がいた。
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   ※長江明義: 鎌倉権五郎景政の子が景継、その子が大庭景宗(景義景親の父)と、三浦義明の娘を妻にした
長江義景(所領は葉山町長柄・地図)で、義景の嫡子が長江明義。
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治承四年(1180)に頼朝が挙兵した際には同族の大庭・俣野・梶原・長尾など鎌倉党の主流は平家に与したが、長江氏は三浦氏と共に頼朝側に味方している。
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明義は父の所領の森戸川流域を継承して長柄字殿ヶ谷(地図)に本拠を置き、建久五年(1194)の8月8日には頼朝の相模国日向山参詣などに供奉のメンバーとして従っている。宝治合戦では縁戚関係の深い三浦氏と共に戦って滅亡し、次弟の師景が長江の家名を継いだ。
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殿ヶ谷の入口にある福厳寺が長江氏の菩提寺で、森戸川沿い400mほど上流左手の長江義景大明神一帯(地図)が館跡らしい。裏手には数基の五輪塔が残っている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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5月12日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が念仏宗の僧による布教活動を禁止した。これは黒い衣を着しているのが理由である。
今日、その僧侶14人を集め、比企弥四郎時員(能員の三男)が連行し政所の橋近くで袈裟を剥ぎ取り焼いた。
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多くの見物人が集まり指を指してその行為を非難し、僧の一人伊勢称念という者が「昔から俗人の束帯と僧の黒衣は同じ色に決まっているのになぜ禁止するのか。最近の御釐務(政道)の様子を見ると仏法も世の中も滅亡が近いと言うべきか。私の袈裟を焼くことはできないぞ。」と抗議した。
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彼の袈裟には火が移らず自然に消えてしまい、伊勢称念はその袈裟を身につけて立ち去ってしまった。
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   ※黒い衣: 平安末期以後は位階一位から四位までの位袍(位階による
衣の色)は黒。頼家はその禁色を僧が纏っているのが気に入らなかったらしい(ただし、この挿話の真偽は疑わしい)。
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ちなみに、天皇は黄と青・平安中期以前の一位から三位は紫系で四位と五位は深緋系。
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   ※政所の橋: 数年前に八幡宮の東に隣接した空き地に保育園を造る
計画があり、世界遺産登録運動との兼ね合いで中止になる騒ぎがあった(本音は史跡保護ではなく、登録)。
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この空き地の一帯に政所があったと推定され、「政所の橋」は筋替橋だと考えられている。もちろんこの空き地の範囲に限定されている訳ではない。
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                右画像は八幡宮敷地から筋替橋までの鳥瞰図(画像をクリック→拡大表示)。
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   ※鎌倉仏教: 後に宗教の主流となる禅宗(臨済宗・曹洞宗)も法華宗もまだ現れていない。この頃の鎌倉仏教は
庶民の救済を説く浄土宗(法然)と浄土真宗(親鸞)が主流で、やがて時宗(一遍)・曹洞宗(道元)・法華宗(日蓮)・真言律宗(忍性)・臨済宗(栄西)が加わって混沌の時代を迎える。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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5月25日
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吾妻鏡
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江間(北條義時)殿の側妾が男子を平産した。安産を祈祷するため若宮別当が昨夜から義時の大倉亭に詰めていた。今朝、羽林(頼家)が祝賀の御馬を、尼御台所(政子)が産着を贈った。
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   ※義時の男子: 生母は伊佐朝政の娘で、生まれたのは後の有時 。この時点での義時正室は朝時重時・竹殿
wiki)を産んだ比企朝宗の娘・姫の前。嫡男となった泰時の生母は阿波局である。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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5月28日
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吾妻鏡
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陸奥国の葛岡郡新熊野社の僧が寺領の境界について訴え出た。接している土地と両方の書類を揃え、惣地頭である畠山次郎重忠の決裁を求めたものである。重忠はこれを辞退し、「この神社は私の管理下にはあるが、藤原秀衡が管領だった頃に朝廷の安泰を祈祷した経緯がある。今は武門繁栄のため鎌倉の祈祷を行っているため私には決め難い。」として大夫屬入道三善康信を介して羽林(頼家)に上申した。
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今日頼家が境界の絵図を確認し、自筆で中央に線を引いた。「狭いか広いかは其々の運だと考えよ。使者を送って確認するまでもない、今回の争論はこの様に決裁するから不満があれば訴訟を起こすが良い。」との仰せがあった。
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   ※葛岡郡新熊野社: 奥州合戦の文治五年(1189)8月20日と9月20日に葛岡郡に関する記載がある。
陸奥国には該当する郡がないため津久毛橋北側の玉造郡の葛岡 (地図)だろうと思うが異説もあり、確証はない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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6月15日
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吾妻鏡
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勝長寿院で一切経の法会を行った。併せて舞楽の奉納があり羽林(頼家)も出御された。
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   ※一切経: 大蔵経・蔵経・三蔵に同じ。仏陀の教え 「経蔵」 と戒律「律蔵」と弟子の教法指導「論蔵」を含む。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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6月16日
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吾妻鏡
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大官令邸背後の山麓に建物を新造した。山水と庭石などを設けた納涼散策の適地である。
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今日、大江廣元朝臣が「京都に手配して置いた鞠が届いた」旨を報告、羽林は廣元邸に渡御して献杯と音曲に興じ、廣元は涼しくなった黄昏に取り寄せた鞠を松の枝に付けて献じた。
将軍家は北條五郎・比企弥四郎・富部五郎・肥田八郎・加賀房らと蹴鞠を楽しみ、今夜はここに止宿となった。
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   ※大官令: 古代の官職で大膳大夫の別称。ここでは大江廣元を差す。廣元邸は十二所明王院の南東で滑川の
南岸。大江廣元の墓(サイト内リンク・別窓)の後段を参照されたし。また明王院西側の谷津には梶原景時邸があった、と伝わっている。詳細は明王院と梶原井戸で。
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   ※他の武士: 比企弥四郎は能員の三男時員、富部五郎は信濃の武士で正治元年(1199)11月18日に詳しく
記載した。肥田八郎は正確には判らないのだが、伊豆韮山北部の狩野川沿いの肥田(地図)の武士の筈で、頼朝挙兵の際に兼隆討伐隊が「...盛綱と景廉は宿直に任じた。時政の一隊は茨木を北に行き肥田原に至る...」の記載がある。
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蛇足として、仁田=日田=肥田で仁田忠常の縁戚説も存在する。加賀房は、判らない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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6月17日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が廣元邸から御所に還御。廣元が御馬などの御引出物を献じ、御供の人々にも各々贈与があった。
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   ※距離は: 十二所の廣元邸から大倉御所までは滑川沿いの金沢街道(六浦道)で約1.7km、歩ける距離だ。
途中には浄妙寺(wiki)・報国寺(公式サイト)・杉本寺(公式サイト)など地味なスポットが点在する。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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6月21日
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吾妻鏡
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岡崎四郎平義實法師(89歳)が死没。三浦義継の四男である。
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   ※岡崎義實: 三浦義明の末弟。3月14日に御所を訪れて政子と面談したばかりなのにねぇ...。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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6月29日
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吾妻鏡
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梶原平次左衛門尉景高の妻(野三刑部丞成綱の娘)は尼御台所に仕えて重用された官女である。優れた女性であり、故将軍頼朝の時代には尾張国の野間庄と内海庄などを拝領していた。
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夫が追討された後は連座の処分を恐れて蟄居していたが、所領などは従来通りに安堵するとの結論が出た。今日その旨を聞いて胸をなで下ろした。
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   ※野間庄: 義朝が謀殺された野間大坊(大御堂寺)のある土地で、内海は南に隣接する。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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7月1日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が鵜船(鵜飼い)を見物するために相模河に赴いた。畠山重忠葛西清重ら、鵜飼いの好きな者たちが特別の仰せを受けて従った。
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   ※相模川: 昔は鵜飼い漁があったんだね。大倉御所からは約20km、河口近くの流路は幾筋にも分かれて広い
湿地帯を流れていたらしい。頼朝の落馬事故があった現場とされる相模川橋脚史跡は現在の本流から約1.5km東に離れている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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7月6日
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吾妻鏡
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尼御台所が京都で十六羅漢像を描かせた。手配したのは佐々木左衛門尉定綱、今日鎌倉に到着し、御台所が確認して葉上房(栄西)の寺に送って祀った。
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   ※十六羅漢: 尊敬や布施を受けるだけの知識と人格を備えた聖者。国立博物館収蔵の十六羅漢も参考に。
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   ※栄西の寺: 五ヶ月前の閏2月13日に亀ヶ谷で築造を始めた寿福寺を差す。
鎌倉時代中期には堂塔14舎を持つ大寺だったが、宝治三年(1247)の焼失に加えて正嘉二年(1258)に全ての堂宇を焼失しているためか、十六羅漢像は現存しない。
また裏山にある政子実朝の「やぐら」は南北朝時代に入ってからの建造と考えられている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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7月8日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が相模河から還御された。その帰路で工藤小次郎行光が荒馬に跨って険阻(険しい場所)を走り、頼家から褒賞を受けた。
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   ※相模河: 日帰りできる距離に一週間とは長逗留、中流域まで遠征して遊覧したのかも知れない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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7月15日
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吾妻鏡
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金剛寿福寺で、新しく描いた十六羅漢像の開眼供養を行なった。導師は当寺の長老葉上房律師栄西、尼御台所も供養の読経を聴聞のため参席した。
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   寿福寺は鎌倉で最も古い臨済宗の寺院。臨済宗は政権との結び付きが強く、鎌倉五山(一位から順に)、
建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺は全て臨済宗(建長寺と円覚寺のみ公式サイト、他はwiki)。
ちなみに五山の順位は単なる格式で権威や価値とは無関係。
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政権から保護を受けた宗派との互助関係が、日蓮を宗祖とする法華宗から「念仏宗は無間地獄、禅宗は天魔、真言宗は亡国、律宗は国賊」と罵られる事になる。
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日蓮さんも、法華宗の教義を継承する筈の創価学会&公明党が政権と癒着して「天魔・国賊に堕落する」
なんて想像もできなかったんだろうね。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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7月27日
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吾妻鏡
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六波羅からの書状が到着、中務丞佐々木経高は京都を警護する役目でありながら朝廷の権威を軽んじているとの抗議である。洛中で強盗犯を捕えると称して近隣の民家で略奪し、加えて淡路国守護に任じているのに国司を侮蔑して国務を妨げた。去る9日には淡路・阿波・土佐の兵に武装させて市中で騒ぎ、朝廷を驚かせた。
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その根拠を問うと「敵の襲撃を受けそうになった」と答えたが、そのような事実は見受けられない。一連の行動が条規を逸しているため関東に通告せよとの勅命である。これらは後鳥羽上皇の逆鱗にふれている、との内容である。
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   ※武装兵の件: 年末から翌年にかけて畿内で不穏な動きがあり、城四郎平長茂の反乱が勃発している。
翌・建仁元年(1201)5月6日の条に経高子息からの書状に以下の申告が入っている。
「大和国の賊が謀反を起こし京都に集まるとの情報があり、それに対応して兵を集め謀反人らを捕縛した。叱責などの処分は不当である」情報の錯綜があったらしい。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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8月1日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が、新たに判官(検非違使の四等官)に任じた比企能員邸に入御された。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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8月2日
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吾妻鏡
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頼家の怒りを受けた佐々木中務丞経高が淡路・阿波・土佐の三ヶ国守護職などの所領を没収され、その旨を朝廷に連絡した。先日来の京都での行動について協議を重ねたが勲功を重ねた者なので容易に結論が出せなかった。洛中警護の武士として京都を騒がし上皇(後鳥羽院)の叡慮に背く行為は許しがたく、この結果となった。
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   ※齟齬の責任: 結局は翌年5月に真相が判り処分は撤回されている。要するに京都守護(承久の乱(1221年)
以後は六波羅探題に改組)の報告に問題があったのだろう。
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ただし京都守護の公式記録では建久九年(1198)9月までが一条高能で、建仁三年(1203)10月から平賀朝雅が任じている。この間の5年間は土肥實平・牧国親(たぶん牧の方の兄)・五条有範中原親能・里見義直(義成の四男で美濃里見氏の祖)が交代しており、この事件の際に誰が担当していたかは詳細を調べないと判明しない。
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   ※五条有範: 京での活動が多かった御家人で検非違使に任官(五条判官)して後鳥羽院に仕えた。
承久の乱(1221)では京方に与して戦後に梟首されている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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8月10日
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吾妻鏡
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陸奥国と出羽国の諸郡や郷に関わる地頭は業務は秀衡泰衡が統治していた時代の規則に従うのが故・頼朝将軍の決め事だったが、ともすると境界などの争いが発生している。今日、改めて旧例に任せるようにとの指示が出された。秀衡らが管理していた時代には境界ごとに札を立てていた、その跡を確認して表示せよとの内容である。
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大江廣元中原親能が頼家の言葉を受けて命令を下した。中村掃部丞が留守所に連絡した。
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   ※留守所: 奥州藤原氏滅亡に伴い、北條時政の推挙で御家人に任じた文官の 伊沢家景葛西清重を総奉行と
して奥州行政のトップに就任させた(建久元年・1190年)。家景はそのまま奥州に土着して留守所を務め、子孫はその職を世襲して留守氏を名乗っている。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、羽林(頼家)の参席は通例通りである。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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8月16日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での流鏑馬が通例通り行われた。羽林(頼家)は参席せず大膳大夫大江廣元が奉幣の使者を務めた。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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8月21日
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吾妻鏡
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宮城四郎が使者として奥州に下向。これは調べるべき事があって芝田次郎を再三召喚したにも拘らず病気を称して出頭しないため追討するのが目的である。
宮城四郎は午刻(正午前後)に甘縄の自宅を出で御所に参上し、家の子三人と郎等十余人を従えて侍所西南の角に控えた。少しして大江廣元朝臣が廊下の戸際に宮城を呼んで使者の要件を命じ、退出の際に鞍を置いた馬を与えた。中野五郎能成が馬を庭に引き出し、宮城はこれを受け取って退出した。
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   ※芝田次郎: 10月16日に宮城四郎が帰還し「9月16日に芝田の館を攻め、帰還途中の白河関で討ち取った、
との報告を受けた」と記録している。芝田の罪状は判らないが居館は柴田郡柴田町の船岡城址公園(地図)にある山城(参考サイト)で、山本周五郎の小説「樅の木は残った」の主人公原田甲斐(モデルは伊達騒動の首魁・原田宗輔)の居館に設定されている。
若い頃に読んで「彼みたいに生きたいなぁ」と思いつつ正反対に近い(笑)年月を過ごしてしまった。
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   ※宮城四郎: 伊沢家景の弟・家業、あるいは他の御家人とも言われるが系図上の確認はできない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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9月2日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が小坪の海辺を周遊。小坂太郎(光朝)と長江四郎が食膳を整え、通例通り笠懸けを行なった。
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射手は結城七郎朝光・小笠原阿波弥太郎海野小太郎幸氏・市河四郎義胤和田兵衛尉常盛らである。
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続いて船を準備して海上で宴会、水練の名手朝夷名三郎義秀が命令を受け海に入って数町(数百m)を往復し、更に水中に潜ったままになった。人々が危惧した頃に鮫を三匹生きたまま捕えて船の前に浮かび上がったため満座の人々は感嘆し、頼家は跨ってきた駿馬(誰もが欲しがった名馬)を与えた。
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ここで義秀の兄常盛が「水練では義秀に及ばないが相撲なら兄に一日の長がある、御馬を間に置き勝負の結果を見てから与えて下さい。」と申し出た。頼家は面白がって船を岸に寄せ、小坂太郎の家の庭で勝負させた。二人は衣装を脱いで組み合い、力士と変わらない勢いで地面が揺れるかと思えるほどに戦った。
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義秀がやや有利な態勢で常盛は押され気味になり、江間殿(北條義時)が遺恨を残さぬよう間に引き分けとしたが、常盛は間に置いてあった駿馬に裸で飛び乗り逃げ去ってしまった。義秀は口惜しがり、見物人は大笑いとなった。
この馬は大江廣元が献上した奥州一の名馬で、常盛は日頃から所望したにも拘らず得られなかった経緯がある。
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やがて夕暮れが近づき、頼家は御所に還御した。
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   ※小坂光朝: 現在の小坪3~4丁目(地図)を本拠にした武士。出自には信濃源氏井上氏の傍流説と平良文
子孫説がある。後者の場合、「鎌倉谷七郷を支配した良文が各郷を家人または郎党に与えた、その一つが光朝の土着した小坂」とされ、「殿の井戸」などの遺構が残っている。
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念のために書いておくと鎌倉谷七郷それ自体が資料により様々で、全てを集約すると「鎌倉・梶原・長尾・長江・小坂・香河・柳本・金井・尺度・荏草・沼浜・片瀬・大島・小林・葉山・津村・矢部」の17郷が記録され、その中の小坂が光朝の住んだ小坪、になる。
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ただし吾妻鏡の建久四年(1193)7月10日には次の記載があるから話が少し複雑で...
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将軍家(頼朝)は涼しさを求め小坪に出御された。長江と大多和の者たちが酒肴を準備し干潟に仮屋を設けて迎え入れた。漁師は釣り糸を垂れ武士は弓射を楽しんで黄昏に還御した。
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つまり建久四年には小坂光朝の家は小坪に存在しなかった事になる。頼朝の遊覧には光朝の家を使えば仮屋を建てる必要も、小坪から4km南西の長江や更に11km先の大多和に任せる必要もない。結論として小坂光朝の存在は間違いないが、土着した時代と経緯が確認できない。
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   ※長江四郎: 葉山を本領とした武士。詳細は今年5月5日の記事を参照。
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   ※市河義胤: 甲斐国市河荘(源義清の本領の末尾・表門(うわど)神社を参照)を本貫地とする信濃の国人。
建仁二年(1202)の1月には中野四郎(同郷)と弓始めの射手を務めている。
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   ※小笠原弥太郎: 長清の長男長経。前年8月19日には頼家の命令を受け 安達盛長邸(甘縄)を包囲している。
建仁三年(1203)9月の比企の乱では一味と見られて拘束されたが、罪には問われなかったらしい。ただし家督は弟の時長が継承しているからそれなりの処分はあったか。
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西暦1200年
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83代 土御門
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正治二年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡の神事(重陽の節句)である。羽林(頼家)の参席なし、江間太郎(北條泰時)が奉幣の使者を務めた。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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9月25日
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吾妻鏡
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安達源三郎親長と山城三郎行村が日頃から官職を得たいと望んでいるため靱負尉に推挙した。
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   ※安達親長: 建久八年(1197)~承久三年(1221)まで但馬国守護(後に出雲国守護を兼任)に任じた。
なった。承久の乱では宮方に与し、宇治川の防御線眞木嶋の合戦で敗北している。その後の消息は不明だが、戦死か斬首だろう。山城三郎行村の詳細は判らない。
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   ※靱負尉: 律令制度の衛府の官人(武官)。靭(ゆぎ・矢のケース)を携えて宮中を巡回する役目からこの職名に
なった。例えば「左衛門尉」などが該当する。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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10月10日
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吾妻鏡
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献上する砂金五百両と馬20疋を京都に贈った。今日、佐々木五郎義清が使節として京都に搬送する。
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   ※砂金五百両: 律令制の一両は37g前後だから8200gに相当する。
ちなみに、1kgの地金は113×52×厚さ10(ミリ)、8.2kgは2010年10月のレートで3.9億円だが、当時の実質的な価値(例えば米に換算する、など)は判らない。
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   ※佐々木義清: 佐々木秀義の五男で兄弟の末弟。秀義の長男 定綱と三男盛綱 と四男高綱の生母は源頼義
娘で、次男高綱の生母は宇都宮氏(朝綱か?)の娘、末子義清だけは秀義が 渋谷重国の食客になってからの子で生母は重国の娘、大庭景親の娘を妻にした。結構複雑な家庭環境なのだ。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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10月13日
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吾妻鏡
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今日、宮城四郎が奥州から鎌倉に帰参して次のように報告した。
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「先月16日に合戦して芝田の館を攻め落としたが、ここで感動した事件が起きた。工藤小次郎行光の郎従である籐五と籐三郎の兄弟が奥州の所領から鎌倉に向かう途中の白河関近くで鎌倉の軍勢が芝田を攻めるとの話を聞き、奥州に駆け戻って合戦当日には芝田の館の裏手から多くの矢を射掛けた。これにより10余人の死者を出して芝田は逃亡、この両名の功績は賞賛に値する。」と。
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   ※宮城四郎: 8月21日に芝田次郎追討使として派遣された。鎌倉~船岡(芝田の居館)の距離は約370km。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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10月21日
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吾妻鏡
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羽林(頼家)が浜の御所に入御された。遠州(北條時政)が酒席を設け、和田義盛小山朝政三浦義村ら多くの御家人が列座し、 工藤小次郎行光が酌などの役に任じた。ここで羽林が行光に命じた。
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行光の郎従が先頃の奥州で武勲を挙げたと聞いている。まだ顔を見ていないので呼ぶように。
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行光は座を立って若宮大路の自宅に戻り、籐五郎・籐三郎・美源次の三人の衣装を改め、飾った馬に跨らせて伴ったため途中の見物人が列をなし、混雑のため進めないほどになった。
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三人は各々紺の直垂を着して敷皮に列座し、羽林は御簾を巻き上げて彼らを見た。彼等が皆勇敢な面構えをしているため、羽林はその中の一人を御家人として召し抱えよう、と述べた。行光はそれに答えて次のように謝絶した。
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亡父の景光は平家追討の合戦に加わって以来多くの戦場で十数回も死にかける程の危機を味わいましたが、その多くは彼らに救われたと聞いております。そして私は、その家を継いでおります。将軍家には多くの勇士が御家人として仕えておりますが、私が頼りにしているのはこの三人であります。
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羽林は「その理屈は道理が通っている。武勇だけではなく言葉も達者な奴だな」として酒盃を与え、北條五郎時連(建仁二年(1202)に改名して五郎時房)が酌を務めた。行光は郎党を連れて退出し、夜になって羽林は御所に還御した。
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   ※浜の御所: 数年前から弁ヶ谷の北條時政の名越邸、推定地は右画像)が「浜の御所」と呼ばれ始めた。
この屋敷は泰時の次弟朝時が相続して名越流北條氏の祖となっている。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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10月26日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の別当法眼圓暁(宮法眼)が死没した。
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   ※圓暁: 治承四年(1180)10月6日に頼朝は大軍を率いて鎌倉に入り、同11日には政子に同行して、頼朝の
仏典の師だった走湯山(伊豆山)の住僧専光坊良暹が合流した。この良暹が取り敢えずの鶴岡八幡宮別当を務め、寿永元年(1182)9月20日に正式な初代別当として園城寺の法眼行恵が鎌倉に入っている。系図上では頼朝の従兄弟に当たる行恵は名を圓暁と改め、草創期の幕府を宗教面で支えた。
吾妻鏡には載っていないが、10月2日には二代目の八幡宮別当として弟の尊暁が就任している。
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   ※頼家叙位: 明月記に拠れば、今月27日に頼家が左衛門督・従三位に叙された。左衛門府は右衛門府と共に
朝廷の諸門警護に任じる役で督はその長官、唐名は「左金吾」。今後の頼家の代名詞となる。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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11月1日
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吾妻鏡
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相模権守源仲章および左衛門尉佐々木定綱の飛脚が京都から参着。先月22日に頭弁(太政官の事務職)の公定朝臣を奉行とし、近江国の住人柏原弥三郎(為永)を追討せよとの宣下があった旨を報告した。勅命に背く行為が再三あったのが理由である。
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   ※柏原為永: 屋島と壇ノ浦合戦で勲功を挙げ、柏原庄地頭と京都守護に任じていた。結局は定綱に追討された
のだが、嫌疑の詳細は記録に残っていない。一説に、鎌倉の影響力を抑制したい朝廷の思惑と、朝廷を武力で威圧したい幕府の間で犯罪の捏造があった、とも。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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11月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時祭が行われ御神楽が奉納された。尼御台所および羽林(頼家)が参席された。
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   ※臨時祭: 建久四年(1193)と翌・建久五年には11月4日に神事の記録がある。吾妻鏡の場合は本来は定例
の節句神事も「臨時祭」と書いてあるので何が何だか判らない部分あり。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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11月4日
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吾妻鏡
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今日、渋谷次郎高重と土肥先次郎惟光が柏原弥三郎追討の使者として京に向かった。それぞれ相模国の所領に戻ってから出発する予定である。
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   ※土肥惟光: 遠平の嫡男(つまり實平の孫)の惟平。建保元年(1213)
の和田合戦では縁戚関係の深い義盛側に味方して北條氏と戦い子息二人が討死、惟平も捕縛され斬首となった。
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父の遠平は無関係を貫き、土肥郷と安芸国沼田荘の所有を辛うじて許されたが実質的には安芸に土着して相模での権益は北條氏に独占されている。
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右画像は土肥一族の菩提寺・JR湯河原駅近くの城願寺。
    画像をクリック→ 湯河原城願寺の詳細ページへ。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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11月7日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が到着し、先月26日の除書を提出した中将家(頼家)は左衛門督に任じ従三位に叙された。また推挙していた安達源三郎親長と山城次郎行村は衛府の少尉(衛門尉)に任じた。
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   ※推挙: この二人は官職の希望があり、9月25日に推挙を行っている。詳細は当日の記述で。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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12月3日
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吾妻鏡
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大輔房源性(源進士左衛門尉の子)は算術の名人で、しかも田畑の辺の長さを測っただけで面積を正確に計算でき、弘法大師のような五筆の技も会得している。今回は陸奥国伊達郡で境界の争いがあったため8月に下向し、昨夜帰着して今日御所に参上した。右筆と蹴鞠の能力を認められて頼家の近くに仕えている人物である。
源性は奥州の案件などについて質問を受け、次のように答えた。
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松島である僧に会い、その庵に一泊し仏法について語り合いました。翌朝になって僧が「私は天下第一の算術の名人だ」と言ったため、私は「この源性ほどではないでしょう」と答えました。
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僧は「それでは直ぐに勝敗の結果をみせてやろう」と算を取り出して源性の周囲に置きました。その途端に周囲が暗くなって庵の中が海になり、円座は石に変わりました。松の梢を吹く風と波の音が響いて意識が朦朧とする中で僧の声が「自慢話を後悔しているか」と響き、私は「後悔しております」と答えました。
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僧は更に「それならば今後は算術の自慢などはやめよ」と語り、私も承諾しました。やがて意識が正常に戻り周囲も明るくなったため私は「今の術を教えてください」と依頼しましたが、僧は「今は末世であるから伝える事はできない」と答えました。」
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頼家は「その僧を連れて来なかったのは失敗である」と語った。
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   ※五筆: 両手両足と口で五本の筆を操り文字を書く空海(弘法大師)の技術。単なる軽業に思えるが...
   ※算: 「算木」のこと。中国から渡来した計算用具で長方形の木片271枚を使用する。
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   ※末世: 建仁三年(1203)8月の頼家失脚と翌年7月の死没は自らが招く末世だ、と暗示したいのだろう。
主殺し(時政による頼家暗殺)や親殺し(義時による時政排除)が罪悪と見られていた時代だから、予言や神慮や天変地異によって所業の罪を正当化する必要があった。北條氏への配慮を余儀なくされた(或いは自ら片棒を担いで曲筆を繰り返した)編纂者の姿が垣間見える。
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この姿勢は安倍総理に媚びて真実を歪めた横畠内閣法制局長官や公明党が忠実に継承している。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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12月27日
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吾妻鏡
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先般(11月4日に)上洛した渋谷次郎高重と土肥先次郎惟光が鎌倉に帰還して報告。上洛するよりも前に官軍が近江国柏原庄の柏原弥三郎(為永)を襲撃し、三尾谷十郎が背後の山から攻撃したため賊徒は逃亡した。我々はその行方を追ったが目処が付かずに引き上げた。
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   ※柏原庄: 米原市柏原(地図)の一帯。柏原為永は村上源氏の末裔とされるが系図上の位置は確認できない。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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12月28日
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吾妻鏡
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金吾(頼家)が政所に命じて諸国の田文(田畑の課税台帳)を提出させ厳正に明細を調べさせた。治承と養和の戦乱以後に得た恩賞の土地で一人当り人五百町を越える場合は、その越えた分を没収して所領を持っていない近臣らに与える意向を持っていたが、直ちに施行せよと大江廣元に命令を下した。
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これは異常な施策であり、人の嘆きや謗りを招く。廣元以下の宿老は困惑し、三善康信が言葉を尽くして諌めて取り敢えず保留にしたが、明春に改めて命令するのが頼家の意向である。
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西暦1200年
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83代 土御門
正治二年
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月 日
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83代 土御門
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