当サイトは、9月から http://kamakura-history.holy.jp/index-aisatsu.html に一本化します。
.
8月末までは 従来のTOK2 サーバー も並行して使えますが、9月からは上記のみになります。ブックマーク変更を、お早めに!




正治三年・建仁元年(1201)

.
前年・正治二年(1200)の吾妻鏡へ       翌年・建仁元年(1202)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示する場合は 吾妻鏡を読む のトップページ で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。
.

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1201年
.
.
83代 土御門
正治三年
.
1月4日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
江間四郎(北條義時)が左金吾(頼家)の使者として鶴岡八幡宮に奉幣し神馬三疋を奉納した。
.

.
   ※頼家叙位: 頼家は前年12月27日に左衛門督・従三位に叙された。左衛門府は右衛門府と共に朝廷の諸門
警護に任じる役で督はその長官、唐名は「左金吾」。今後の頼家の代名詞となる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
正治三年
.
1月12日
.
吾妻鏡
.
椀飯の前に弓始めの儀式あり。射手は十人、弓場の左右に分かれ敷皮に列座した。金吾(頼家)が出御し、左近大夫将監親廣が御簾を挙げた。
.
   射手
   一番 榛谷四郎重朝      小野澤次郎重政重朝
   二番 海野小太郎幸氏     佐々木小三郎盛季(盛綱の三男)
   三番 望月三郎重隆      中野五郎能成
   四番 渋谷次郎高重      工藤小次郎行光
   五番 和田平太胤長       同三郎朝盛
.

.
   ※望月重隆: 義仲の嫡子志水冠者義高が人質として鎌倉に入った際に海野幸氏らと共に従った武士。義仲の
滅亡後は鎌倉御家人となり、武田信光小笠原長清・海野幸氏らと共に弓馬四天王と称された。
.
   ※中野四郎: 信濃国志久見郷を本領とした五郎能成(詳細は建久十年4月20日)の縁戚か。
.
   ※渋谷高重: 渋谷重国の次男で石橋山合戦後に降伏し頼朝に従った。
.
   ※和田胤長: 義盛の弟義長の嫡男。和田合戦の発端になった謀反の嫌疑に関与して流罪となり、乱の鎮圧後に
配流地(陸奥国岩瀬郡)で殺された。朝盛は義盛の嫡男常盛の子で和田合戦を生き延び、承久の乱(1221)では宮方に加わって敗北し逃亡したが、嘉禄三年(1227)に捕縛された。その後の消息は不明、処刑されたと推測される。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
正治三年
.
1月15日
.
吾妻鏡
.
御所に於いて心経会(般若心経の読経法会)が行われ尊暁阿闍梨が導師を務めた。左金吾(頼家)の出御は通例通り、法会後に御馬と御衣などが導師に贈られた。担当は源右近大夫将監親廣と江左近将監能廣である。
.

.
   ※尊暁: 初代八幡宮別当圓暁の弟とされる。圓暁死没(前年10月26日)直前の2日に二代の別当に就任した。
.
   ※江能廣: 親廣と併記されている親広は廣元の息子とする説もあるが
重複記載の間違いじゃないかと思う。
.
大江廣元 には親廣に該当する息子はいないし、親廣の官職は尊卑分脈では右近将監、安中坊系譜では左近将監と記載している事、などがその理由である。
.
   ※安中坊系譜: 親廣は承久の乱で宮方に与し、敗北後は廣元の所領
寒河江(目代は廣元正室の父多田仁綱)に隠棲し、晩年に安中坊を名乗っている。ここから伝わった古文書が安中坊系譜。
.
右画像は建久二年(1191)に寒河江に入った親廣が鶴岡八幡宮を勧請し地元の八幡社を合祀して大江氏の産土神(祀った者と土地を守護する)とした、と伝わる寒河江八幡宮(公式サイト)。
     画像をクリック→ 拡大表示。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
正治三年
.
2月1日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
阿闍梨筆頭を務める尊暁(法眼圓暁の弟子)を鶴岡別当に補任し、職責に就いて最初の拝礼を行った。その後に大官令(大江廣元)の取次により左金吾(頼家)が参拝した。
.

.
   ※圓暁補任: 「鶴岡八幡宮寺諸職次第」では正治二年(1201)10月2日に就任(と、定かでない記憶あり。)
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
正治三年
.
2月3日
.
吾妻鏡
.
未刻(14時前後)に掃部入道(中原親能)と佐々木左衛門尉定綱と大番で在京中の小山左衛門尉朝政からの飛脚が鎌倉に到着、次のように報告した。
.
先月23日に(第83代)土御門天皇が皇太子(後の(第84代)順徳天皇)と七條院(後鳥羽院の生母)と一宮を伴って仙洞(院の御所二條殿)の後鳥羽上皇に朝覲(拝礼儀式)のため行幸した。
.
ここで越後国の住人城四郎平長茂(城四郎助国の四男)が軍兵を率いて小山朝政の三條東洞院(地図)にある宿舎を包囲した。朝政は行幸に従って不在であり、残っていた郎従らが防戦して攻撃を退けた。
.
その後に長茂は帝が行幸している仙洞に押し入り四方の門を閉鎖した。関東を討伐するための宣旨を求めたが許されず逃亡、清水坂付近にいると聞いた朝政らが駆け付けたところ既に行方知れずとなっていた。
.
使者はまず大官令(廣元 )邸に報告、続いて御所に参上した。鎌倉中は群衆で騒動となり、夜になって沈静化した。
.

.
   ※一宮: 浅学のため、誰だか判らない。
.
   ※二条殿: 現在の地下鉄東西線烏丸御池駅北西200m、国際マンガ
ミュージアム正面入口左(地図)に記念の石柱がある。ここだと朝政の宿舎から500mほどだから朝政と長茂が鉢合わせすると思うのだが...。
ちなみに、朝政邸から清水坂までは約3km強の距離。
.
   ※城長茂: 治承四年(1180)9月に木曽義仲が信濃で挙兵した際に
平宗盛の命令を受けて追討に向かう直前に脳溢血で死没した城資永の弟。長茂は大和吉野で朝政の兵に討たれるが、資永の姉妹・坂額と資永の息子資盛が越後鳥坂城(胎内市)で更に抵抗を続ける。この一連の合戦が建仁の乱。
.
右画像は越後平氏・城一族の略系図。 画像をクリック→ 拡大表示
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
平家物語
.
巻第六
.
嗄 声
.
資永死没の顛末。お互いに血圧には注意しましょうね。
.
越後國の住人城太郎助長(資永)は越後守に任じた平家の恩に報いるため木曽義仲を追討しようと三万余騎を集めた。6月15日に兵を整えて16日の卯の刻(朝6時前後)に出陣を予定したが、夜半に大風と豪雨が吹き荒れ雷が鳴り響いた。天気が回復すると雲の間から大きな嗄れ声が「金銅十六丈の盧舎那仏を焼き滅ぼした平家の与党がここにいる、召し捕れや」と三声叫んで通り過ぎた。
.
城太郎をはじめこれを聞いた者は身の毛がよだち、郎党らは「これ程恐ろしい天のお告げ、出陣は見合わせ給え」と言上したが「武者は弓矢にこそ頼るもの」と答えて予定通りに出陣した。わずかに十町ほど進んだ所で黒雲が湧き上がり、助長に覆いかぶさると共に身を竦(すく)ませて落馬、輿で館に運び込んだが数時間後に死んでしまった。この顛末を飛脚で都に伝えると平家の人々は大騒ぎになった。
.

.
   ※その後の合戦: 城氏の軍勢が壊滅する横田河原合戦前後の出来事は義仲の動向(別窓・サイト内リンク)で。
助長(資永)の跡は弟の長茂(助職・資職)が継いだが文治四年(1188)に降伏し、梶原景時の口添えを得て奥州合戦に従軍して功績を挙げ頼朝の御家人に加わった。
今回の反乱の背景には恩のある景時が失脚・追討された遺恨もあったらしい。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
2月5日
.
吾妻鏡
.
.
定綱らの飛脚が鎌倉を発って京都に向かった。長茂の事件に関し、居所などの捜索を在京および近隣の御家人に命じてある。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
2月13日
.
皇年代略記

.
.
改元があった。辛酉(かのととり)の年には大きな変革が起きるとの易経の思想に拠る。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
2月22日
.
吾妻鏡
.
.
今日、改元の詔書が鎌倉に到着した。去る13日に正治三年を改めて建仁元年とする。大夫屬入道(三善康信)がその詔書を御所に持参し、即ちに施行せよとの仰せを受けた。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮で一切経の法会を行った。神事例は通例の通りで、左金吾参席された。
.

.
   ※一切経: 大蔵経・蔵経・三蔵に同じ。仏陀の教え 「経蔵」 と戒律「律蔵」と弟子の教法指導「論蔵」を含む。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
3月4日
.
吾妻鏡
.
京都からの飛脚が鎌倉に到着して報告。先月22日に城四郎長茂および仲間の新津四郎らを吉野の奥で殺した。長茂は追討に先立って出家、同25日に長茂と仲間4人の首を都大路に引き回した。
.

.
   ※京都〜吉野: 距離は80km強、乱の勃発から鎮圧まで約1ヶ月、今後は越後鳥坂城での攻防となる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
3月10日
.
吾妻鏡
.
未刻(午前6時前後)に若宮大路の西側で火事。懐嶋平権守(大庭景義)の旧邸土屋次郎義清和田左衛門尉義盛の屋敷から由井ヶ浜に沿った人家まで短時間に数町が消失した。
.

.
   ※景義旧邸、他: 景義は存命しているから以前の住居らしい。ここに載っている三人は古くから婚姻などで関係
の深い氏族で、いずれも建暦三年(1213)の和田合戦では連携して北條勢と戦い一族滅亡に近い結果を招いた仲間。比較的同じエリアに住んでいたんだね。
.
義盛の屋敷は八幡宮三の鳥居前(地図)と考える説(根拠は確認できない)もあるが、その仮定に基づくと若宮大路に沿って西側のかなり広い部分が焼失した事になる。中の下馬橋(二の鳥居横・地図)から南と考えても焼失面積が広すぎる。ちなみに、集団墓地遺跡などの存在から、当時の海水面は現在より5m前後高いラインにあったと推定される。
.
   ※数町: もし面積表示ならば1町=3000坪だから広すぎる。数プロックの集落と考えるべきか。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
3月12日
.
吾妻鏡
.
京都からの飛脚が鎌倉に到着して報告。先月29日の城四郎長茂に与した城小次郎資家入道と同・三郎資正と本吉冠者隆衡らが官軍によって誅殺された。
.

.
   ※他の武士: 資家は長茂の次男、資正は同じく三男。本吉隆衡(高衡)は藤原秀衡の四男。文治五年(1189)
6月13日に義経の首を鎌倉に届けた新田冠者高平と同一人物で奥州合戦後に赦免されていた。かつての本領は本吉郡(現在の宮城県南三陸町)一帯。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
3月24日
.
吾妻鏡
.
千葉介常胤(84歳)が没した。従五位下、下総介常重の長男で生母は平政幹の娘。鳥羽上皇の時代・元永元年(1118)5月24日の生まれである。
.

.
   ※平政幹: 甥の義忠から河内源氏の支配権を奪おうとした義光に命じられて 義家の四男義忠(wiki)を暗殺した
常陸平氏・平成幹の三男。石下(現在の常総市)を領して石毛を名乗った。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
4月2日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
越後国からの飛脚が到着して報告、城小太郎資盛(城太郎助永の息子、長用の甥)が北国の軍勢を集めて叛逆を企てている。佐渡と越後両国の兵で攻撃しているが資盛勢も頑強に抗戦して鎮圧できないとの内容である。
.

.
   ※:城氏の名前 資盛の父資永が助長・資長・助永を称しているなど、複数の名乗りをしているので面倒くさい。
詳細は2月3日の「城一族の略系図」を参照されたし。坂額は資盛の叔母(資永の姉妹)で、吾妻鏡は鳥坂城攻防戦で負傷して捕虜となり浅利与一(義成(義遠))の妻となったと記録している。
.
「承久軍記」は浅利知義(坂額の子か?)が「東山道から京を目指した」と書いており、2001年に出産可能年齢だったとすれば資永の妹と推定できる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
4月3日
.
吾妻鏡
.
遠州(北條時政)と大江廣元朝臣三善康信が集まって協議。越後の飛脚が伝えた資盛の謀叛について、越後近国の御家人に追討を命令すべきか、または鎌倉から追討軍を派遣すべきかの議論を重ねた。
.
長茂は討ち取ったが仲間は未だ残っている。この情勢で鎌倉の御家人を失うのは避けたいから在国の武士を派遣しようとの結論に至ったが、越後には適当な人材が見当たらない。
そこで、上野国磯部郷にいる佐々木三郎兵衛尉盛綱法師(法名を西念)を選んだ。 越後国の御家人を集めて資盛を追討せよとの命令書を発行して和田義盛(侍所別当)に渡し、飛脚が携えて上野国に送付させた。
.

.
   ※佐々木盛綱: なぜか所領を没収されて磯部郷に蟄居していた。詳細は建久十年(1199)3月22日の条で。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
4月6日
.
吾妻鏡
.
夜になって義盛の派遣した飛脚が上野国から鎌倉に戻った。報告の内容は次の通り。
.
命令書(御教書)を西念の屋敷に届けたところ、西念は門の外に待機しており、立ったまま御教書を読んだ。
そして家の中には入らず、門の横に繋いであった鞍付きの馬に跨って直ちに越後を目指して走り出した。
.
郎従が追い掛けて「それ程に急がなくても」と言うと西念は「天慶の時代に将門が関東で乱を起こした際、宇治民部卿忠文に追討使の命令が下された。食事中だった忠文はそれを聞いて箸を投げ捨てて参内し、太刀を下賜されて家にも帰らず京都を出発した。それが勇士が目指すべき行動である。」と答えた。
.

.
   ※宇治忠文: 天慶三年(940)に68歳の高齢で将門追討のため征東大将軍となった公卿。将門は忠文が関東
に着く前に平貞盛藤原秀郷連合軍に討たれ、恩賞は得られなかった。
.
翌年には藤原純友の乱平定のため征西大将軍に任じたが、これも実際には戦場に赴いていない。恩賞がなかった事への不満から怨霊になったとの伝説も残る。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
5月6日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
昨日、佐々木中務入道経高(経蓮入道)が子息の高重を通じて一通の疑状(先月21日付)を提出、今日北條時政三善康信を介して頼家にそれを披露した。身に覚えがないにも拘らず讒言により処分を受けた嘆きを含み、まず罪科がない事を弁明した上で現在までの勲功を列挙している。
.
去年の7月に大和国の賊徒が叛逆を企てて京都に集結したとの報告を受け、淡路・阿波・土佐三ヶ国の御家人を招集したのは忠節による行動です。その際に圓識法師を称する者の企みが露見し伊賀新平内が生け捕りました。これは私の対応によって悪事を防いだものであります。
.
また勲功と申し上げているのは、関東草創の時代に私たち兄弟四人が討手に加わって大夫尉(山木判官の平兼隆)を討ち取ってから世の中が鎮まるまで、身命を賭して幾多の戦場に赴き敵を倒した事であります。
.
慎重な評議の結果経高の罪は免じられたが没収した所領の返還は保留となった。
.

.
   ※経高の罪: 去年の7月27日に「朝廷の権威を軽んじ警備を称して兵を集め略奪を行った」との記事がある。
経高は城長茂の謀反に対応した行為だと主張しているのだが...。疑状は質問状か。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
5月13日
.
吾妻鏡
.
.
佐々木太郎高重が父経蓮赦免の御教書を持って京都に出発した。遠州(北條時政)と大江廣元朝臣が餞別として馬を与えた。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
5月14日
.
吾妻鏡
.
佐々木三郎兵衛尉盛綱入道の使者が鎌倉に到着して書状を提出、和田義盛が御所に届け三善康信二階堂行光頼家の前で読み上げた。 内容は次の通り。
.
城小太郎資盛が朝廷に叛き、越後国鳥坂の城郭に籠りました。近在の武士が手柄を焦って攻め寄せましたが悉く敗退したため私・西念に出陣の命令が下りました。先月5日に居住している上野国磯部郷に御教書が届き、直ちに出発して三日中に鳥坂口に駆け付けて資盛に軍使を送り御教書の内容を伝えましたが、雌雄を決するから攻め寄せろとの返答がありました。
.
これによって越後・佐渡・信濃の軍兵が攻撃を開始、私の子息小三郎兵衛尉盛季が一番乗りを目指し、信濃国の住人海野小太郎幸氏が盛季の右手に進みましたが盛季の郎従が幸氏の馬を抑えたため、盛季は望み通りに前進し最初の矢を射ることができました。
.
その後に幸氏も攻め寄せて戦ううちに負傷し、資盛率いる守兵も雨のように矢石を放って合戦は二刻(4時間)にも及び盛季も傷を負い数人の郎従が死傷しました。資盛の叔母で坂額御前を称する女性が敵の中におり、百発百中の弓箭の腕前は群を抜いていました。髪を束ね上げ腹巻を着して矢倉の上から寄せ手を狙い多くの兵を射殺し、西念の郎従の多くも彼女によって命を落としました。
.
最後は信濃国住人藤澤清親が砦の背後に廻り込み高所から放った矢が坂額の太股の左右を射抜き、倒れたところを清親の郎従が生け捕りました。傷が癒えたら連行する予定です。
.
坂額の負傷後に資盛の陣は崩れて敗れ去りました。資盛は先祖(四代前)の出羽城介繁成が野干(狐または狼)から手に入れた自慢の太刀をこの合戦で失ったそうです。
.

.
   ※鳥坂城: 現在の胎内市羽黒にあった山城(地図)。更に詳細はこちら(外部サイト)で。旅行の際にすぐ近くの
道の駅 胎内加治川に寄ったのだから無精をせず少し足を伸ばせば良かったのに、と思う。
.
   ※野干の太刀: 私の記憶では繁成ではなく城長茂の太刀。幼い時に行方不明になって狐に育てられ、4年後に
見つけ出された。その時に現れた老翁(狐の化身)が太刀と櫛を贈った、と伝わる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
5月17日
.
吾妻鏡
.
佐々木左衛門尉定綱の飛脚が鎌倉に到着。柏原弥三郎は去年三尾谷十郎広徳が追討に向かった際に逃亡して行方不明になっていたが佐々木広綱 の弟四郎信綱 が所在を突き止め、今月9日に討ち取った、と報告した。
.

.
   ※佐々木氏: 広綱は佐々木四兄弟の長兄定綱の長男。承久の乱では宮方に与して斬首となった。
信綱は定綱の四男で鎌倉方に与し、宇治川合戦で功績を挙げて尾張豊浦庄の地頭に任じた。
近江の旧領は四人の息子が継承し、大原氏・高島氏・六角氏・京極氏の祖になっている。
.
   ※柏原為永: 屋島と壇ノ浦合戦で勲功を挙げ、柏原庄地頭と京都守護
に任じていた武士。嫌疑の詳細は記録になく、一説に鎌倉の影響力を弱めたい朝廷の思惑と、朝廷を武力で威圧したい幕府の間で犯罪の捏造があった、とも。
.
昨年11月1日に追討せよとの宣下が発せられていた。
.
   ※三尾谷広徳: 文治元年(1185)10月17日に土佐房昌俊と共に
義経の六条室町邸を襲撃した水尾谷広徳を差す。
.
埼玉県比企郡川島町の広徳寺伝承では頼朝の郎党・三尾谷(水尾谷)広徳が屋敷に創建したのが最初と伝わっている。寺伝に拠れば、境内に残る大御堂(阿弥陀堂・国の重文、右画像をクリック→ 拡大)は広徳の菩提を弔って政子が寄進した、とされる。
.
地図はこちら、比企氏所領の南限に近い。
.
西暦1201年
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
6月1日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
寅刻(早朝4時前後)に左金吾(頼家)が江島明神に御参詣、併せて相模河付近を逍遙した。近在の御家人が集まって狩猟や弓射の勝負などを楽しんだ。今夜は大磯に止宿、遊女らを呼び集めて歌舞酒宴を催した。
.

.
   ※江島明神: 現在の江島神社(公式サイト)、祭神は三姉妹の女神。
.
ある時に北條時政が参籠し、満願の夜に天下の覇権を握る夢を見ると共に、「善根を積めば栄えるが悪行があれば一族が滅びる」との託宣を得た。翌朝三枚の龍の鱗が床に残っており、時政はそれを家紋(三つ鱗)とした。
.
元弘の乱での北條一族滅亡は高時らの悪行が原因...と書いていたのは太平記だったかな。悪行に関しては時政も高時には負けていないと思うけどね。
.
   ※大磯: 東海道の宿驛で、平安末期から鎌倉時代の相模国府も大磯
にあり、曽我兄弟の兄・祐成の愛人「大磯の虎」もこの宿の遊女だった。相模を代表する五社を大磯に合祀して総社とした六所神社や神揃山などに国府の雰囲気が残っている。治承四年秋の富士川合戦後に頼朝が初めての論功行賞を行った場所でもある。
.
右画像は相模総社の六社神社。画像をクリック→ サイト内の明細(別窓)へ
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
6月2日
.
吾妻鏡
.
今朝、左金吾(頼家)が大磯宿を出立する際に遊女の愛壽が突然落餝した。昨夜頼家に呼ばれた数人の中に入らなかったのが原因で、彼女の美しさを妬んだ同僚が名簿に載せなかったためらしい。
頼家は嘆息して多くの纏頭を与えたが彼女は受け取らず、布施として高麗寺に納めて立ち去ってしまった。
.
戌刻(20時前後)に金吾は鎌倉に御帰着された。
.

.
   ※纏頭: 後世(貨幣経済が確立した室町時代以後か)に花代として紙で作った花(纏頭)を渡して遊女がそれを
換金するシステムになったらしい。鎌倉時代初期なら単純に「贈与品」と理解すべきか。
.
   ※高麗寺: 神仏習合時代は現在の高来神社(大磯町のサイト・地図)と一体だったが明治維新の神仏判然令に
より廃寺となった。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
6月28日
.
吾妻鏡
.
藤澤次郎清親が囚人の資盛叔母(坂額を称す)を伴って参上した。彼女の傷はまだ癒えていなかったが左金吾(頼家)の仰せを受け清親に支えられての拝謁である。左金吾は御簾の中から眺め、畠山重忠小山朝政和田義盛比企能員三浦義村らが侍所に列座し多数の御家人が見物に群参した。
.
坂額はその中央を御簾の前まで歩み寄った。凛とした態度で少しも諂う様子を見せず、名のある武将と比べても見劣りのない堂々とした態度だが、絶世の美女である。
.

.
   ※坂額: 同じ女武者だが実在が疑われる巴御前と比べると史料が明確に残っている。美女かどうかは個人的な
趣向もあるから一概には言えないが、それなりの容貌ではあったらしい。
.
平家物語の「木曽殿最期」に描かれた巴は「敵の首を鞍に押さえつけて捩じ切った」などと書かれているからアジャ・コングみたいな女(笑)を想像してしまうが、坂額の場合は弓(半弓だろう)の名手だから、特にパワーを必要とするタイプではない筈だ、と思う。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
6月29日
.
吾妻鏡
.
阿佐利與一(義遠)が女官を介して願い出た。越後で囚人となった女の配所(処分)を決めるのであれば、是非とも私に頂きたい、と。
左金吾(頼家)は「彼女は朝敵である。望む理由を述べよ」と命じた。
.
義遠は「特別な所存はありません。妻として立派な男子を産ませ朝廷を護り武家の繁栄に努めたいと考えるからです」と答えた。
.
左金吾は「この女の容貌は美しいが内にある猛々しい心を思えば義遠の考えは尋常にあらず。」と嘲笑し、最後には願いを許した。義遠は坂額を伴って甲斐国の所領に下向した。
.

.
   ※その後の坂額: 義遠(浅利与一)の本領・甲斐浅利郷でその生涯を
終えたらしい。義遠は久安五年(1149)の生まれだから当年50歳、後妻または側室とする望みだろう。彼の本領と墓所、坂額所縁の地や伝・坂額の墓などは右画像をクリックして「浅利与一と坂額」の頁で。(かなり長くなるので別窓に設定してある)。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
7月6日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
焼けるような残暑である。涼しくなった夕刻を待ち、御所で百日連続の蹴鞠を始めた。左金吾(頼家)は長く蹴鞠を続けているが未だに奥義の境地に至っておらず、北面の武士の中で熟達している者を一人鎌倉に派遣するよう後鳥羽上皇に依頼していた。その勅許が下ったため、下向に備えて蹴鞠の仲間を加えての習熟が目的である。
.
申刻(16時前後)に参加者が集合して左金吾の準備も整い、北條五郎時連・少将法眼観清・富部五郎・大輔房源性・比企弥四郎時員(能員の三男)・肥多八郎宗直と蹴り始めた。数えるのは金持右衛門尉、江間四郎(北條義時)殿・同太郎主(泰時)・民部丞二階堂行光らが立ち合った。
.

.
   ※蹴鞠: 歴史やルールなどの詳細はwiki、または 保存会のサイトで。7月6日は新暦の8月6日にあたる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
豊嶋右馬允朝経(有経の嫡男)を土佐国守護職に補任した。佐々木中務丞経高法師の後任である。
.

.
   ※佐々木経高更迭: 5月6日に再審の処分結果が決定している。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
8月11日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
午刻(正午前後)に豪雨と強風あり。家屋が倒壊し船が転覆、鶴岡八幡宮寺の廻廊と八足門(八脚門)など多くの堂塔にも被害が発生した。民家一万軒の中で被害を受けないのは一軒もない、そんな状況である。下総国葛西郡の海岸では多数の人が潮に流されている。
.

.
   ※八脚門: 片袖に各々4本の柱を持つ門で金剛力士像などを納めて
いる例が多い(右画像は鎌倉小町大路の本覚寺山門)。
.
そこから近い妙本寺の山門は一般的な四脚門だが、本堂(祖師堂)の前には四脚門(二天門)もある。
妙本寺(比企館跡)の詳細を参考に。
.
   ※葛西郡: 下総国葛飾郡の南西部で現在の葛飾区と江戸川区の
一帯。秩父平氏の豊島清元有経の三男清重が開拓した所領を伊勢神宮に寄進して葛西御厨とし、葛西氏の祖となった(秩父平氏の系図を参照)。
.
清重の居館は現在の環七と国道6号(水戸街道)の交差点付近(御殿山公園・地図)で、この一帯が葛西郡の中心部と推定される。今回の出水が台風の高潮被害なのか中川の氾濫なのかは判断が分かれる。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で恒例の放生会が延期となった。廻廊が倒壊したためである。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
8月23日
.
吾妻鏡
.
.
去る11日と同様の豪雨と強風。各地で穀類の被害が発生し、国衙の倉庫には何も納められない状態である。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月7日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
蹴鞠の名手である紀内所行景後鳥羽上皇の仰せに従って鎌倉に下着。左金吾の申請に対応した措置である。
今日、下向する途中の宿舎手配などを担当した大膳大夫大江廣元朝臣邸に到着した。
.

.
   ※紀内行景: 「紀内」は「紀氏の内舎人」の意味(例えば、天野遠景を天野藤内と呼ぶのは「藤原氏の内舎人」)
だから。内舎人(うどねり)は帯刀して警護と雑事を担当する実務者(更に詳細はwikiで)。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月9日
.
吾妻鏡
.
大江廣元朝臣が行景を伴って御所に参内。行景(花田の狩衣に狩袴)は最初に侍所に入り、お召しに従って中庭を経て御所の縁に控えた。烏帽子に直衣で出御した左金吾(頼家)は行景に御盃を与え、「蹴鞠の師範として招き、偶然にも重陽の節句に面会する運びとなった。(庭の雛菊を盃に浮かべて)長い間の指導を頼む。」と語った。
行景は跪いて盃を受け、左金吾は自らの手で銀造りの剣を与えた。
.

.
   ※花田: 露草の花の汁で染めた淡い藍色を差す。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
8月11日
.
吾妻鏡
.
.
行景が鎌倉に到着して最初の蹴鞠に左金吾が加わった。北條五郎時連・紀内行景・富部五郎・比企弥四郎・肥多八郎宗直・大輔房源性・加賀房義印がメンバーである。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月15日
.
吾妻鏡
.
早朝、御所に行景を招いて蹴鞠。北條五郎ら五、六人が加わったが数えるほどの記録ではなかった。
.
今日は鶴岡八幡宮での放生会である。本来の予定だった先月には八脚門や廻廊が倒壊したため延期していた。左金吾が八葉の御車で参席し、山城左衛門尉二階堂行村が御劔役を務めた。
.
江間四郎(北條義時)殿・大膳大夫廣元朝臣・右近大夫将監源(大江)親廣 ・右近将監源能廣・新判官比企能員 ・右馬大夫安藤右宗・左兵衛尉和田常盛 ・左衛門尉中原章清・源三左衛門尉親長・太田兵衛尉・後藤左衛門尉信康・雅楽允景光・前右兵衛尉三浦義村結城七郎朝光らが御後に従った。
.
(将軍出御に)随兵がないのは異例、最近は何事につけても旧例を守っておらず、古老が嘆くような有様である。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
9月16日
.
吾妻鏡
.
.
左金吾(頼家)は昨日と同じく八幡宮へ参席。流鏑馬などは通例の通り。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月18日
.
吾妻鏡
.
左金吾(頼家)が犬を飼い、共に狩猟を楽しむ者たちに犬の世話をする順番を割り当てる札を庭の石坪に置いた。
.
    一番 小笠原弥太郎   細野兵衛尉
    二番 中野五郎      工藤十郎
    三番 比企弥四郎     本間源太
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月20日
.
吾妻鏡
.
御所で御鞠。最近は政務を顧みず専ら蹴鞠に傾倒し、側近も皆これに加わっている。今日は北條五郎時房 らが狩衣を着けずに参集し、蹴った数は七百に至った。
深夜になって月か星の様な光が空から降り、人々は災禍の前兆ではないかと怪しんだ。
.

.
   ※災禍の前兆: 吾妻鏡を読んで良く出会うのが事件の前に予兆がある例と、戸板の影などで立ち聞きする例。
編纂者は日記形式で書く事によって臨場感と真実味を訴求したのだろうが、実際には数十年後に複数の資料や日記を寄せ集めたもの。
事件の後に付け加えた周辺情報には価値がないのみならず、背景に権力者側の曲筆や欺瞞の意図があることを認識する必要がある。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
9月22日
.
吾妻鏡
.
今日も通例の人数で蹴鞠。大勢が見物する中で江間太郎(泰時)殿が密かに中野五郎能成に話し掛けた。
.
「蹴鞠は幽玄の芸で誰もが夢中になるのは判りますが、去る8月の台風で鶴岡八幡宮の門が倒壊し諸国が飢饉に苦しんでいるのに京都から人まで招いています。
.
去る20日に起きた変異も何かの前兆として警戒し、天文の学者などに確認すべきでしょう。幕下(前の将軍頼朝)が健在だった建久年間には百日間も毎日浜に出ると決めていたのに、天変地異が起きて安倍資元朝臣が諌めた後には遊びを止め、祈祷の指示を下しました。
今の状態は心配ですから、側近である貴方が機会を見つけて諫言すべきだと思います。」
.
能成はその通りだと思ったが、頼家を諌める事はできなかった。
.

.
   ※江間太郎: 前年2月26日の頼家八幡宮参拝の随兵として「江間太郎頼時」の名が載っている。この時点では
烏帽子親である頼朝が与えた「頼」が、今日の記載では江馬太郎殿(泰時)に変っている。
実際に泰時を名乗り始めた時期は不明だが、頼朝死没から一年が過ぎて北條氏が頼朝の(つまり源家の)支配から離れた意思表示なのだろう。
.
   ※泰時の発言: 安倍資元の名が吾妻鏡に現れた最初は建久六年(1195)10月3日で、この時は京都からの
報告だから「諫言」には該当しない。可能性が考えられるのは脱落している建久七年〜九年だが、頼朝は大姫に続く乙姫の入内工作などで浜遊びに熱中できるような情勢ではない。
.
そもそも、現在18歳の泰時が、「頼朝が健在だった建久年間(つまり泰時が数え年13〜14歳の頃)には...云々」などと言える筈がない。泰時の事跡に関しては吾妻鏡が多くの逸話を掲載して「人物の高潔さと才能の豊かさ」を強調している。
.
つまり頼家の人格を故意に貶める事例を数多く載せた事実と対比させて逆説的に考えれば、「凡庸な人物を卓越した政治家に偽装した」可能性も考えるべき、だろう。若年の江間太郎に「殿」まで付けて語る吾妻鏡を信用してはいけない。
.
それに加えて、本来なら鎌倉殿の補佐役を務めるべき泰時らの宿老が政権運営に関する権限を剥奪した上で「政治に関心を持て、遊びに熱中するな」と諌めるのは笑止千万だね。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
御所で蹴鞠あり。北條五郎・紀内・富部五郎・肥多八郎・比企弥四郎・源性・義印がこれに参加、数は三百六十。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
10月2日
.
吾妻鏡
.
夜になって観清(写本により親清、素性不明)法眼がひそかに江間太郎(北條泰時)殿の館に来て語った。
.
先月22日に能成に話したことの詳細が左金吾に伝わった。誇張もあったと思うが、父親(義時)や祖父(時政)を差し置いての諫言は僭越との怒りを招いている。ただし長く続く事ではなく短期間で鎮まると思う。
.
泰時はそれに答えて次のように答え、旅支度の蓑や笠などを出して見せた。
諫言などではなく、自分の考えを側近に相談しただけです。処罰を受けるとすれば本領の本領に戻っていても同じでしょうが、急ぎの用事があるため明朝北條に下向しようと思います。忠告には感謝いたしますが、帰国は兼ねてからの予定であり、旅の準備もこの通り揃えてあります。
.

.
   ※泰時の背後で: 時政の長男として合議制のメンバーの中でもナンバー2の地位にあった義時が従五位下に
叙されたのは41歳の元久元年(1204)3月6日、これに対して時政の後妻牧の方が産んだ政範(1204年11月5日に15歳で病没)も従五位下である。叙位の正確な時期は判らないが、建仁元年の時点での時政嫡男の序列は明らかに義時から政範に移っていた。
.
私は時政の野望は頼朝挙兵の頃から漠然と芽生えていたと考える。主殺しの汚名を避けるために頼家の悪行を殊更に強調し、東国武士団の総意を代弁する正義を装った。
.
同じように、後継の地位を継母の息子に奪われかけた義時政子の政権奪取計画もこの前後(政範の叙位の頃)に芽生えたのではないか。時政が源家に叛く「正当な」機会を待ったように、義時も実父に叛く行為を正当化できるチャンスを待ち始めたのだろう、と思う。
.
そんな内輪の争いを念頭に置いて吾妻鏡を読むのも面白い。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月3日
.
吾妻鏡
.
.
卯刻(朝6時前後)に江間太郎(北條泰時)殿が北條に向け出発した。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
10月6日
.
吾妻鏡
.
江間太郎(北條泰時殿が昨日伊豆北條に下着した。ここは去年の不作の影響で春から飢饉の状態にあり、数十人連名の嘆願状に応じて出挙米(種籾)50石を支給した、その返済期限が今秋である。
.
しかしながら8月の台風で被害を受けたため餓死の危険が迫り、返済できない農民が譴責を恐れて逃亡まで考えていると聞き、泰時はその救済のため急行したのが本来の経緯である。
.
泰時は負債を抱えた数十人を集め目の前で証文を焼き捨て、「豊作の年になっても返済の必要はない」とした。
更に取り敢えずの食事と酒と一人当り1斗(白米に換算して約16kg)したため人々は嬉し涙を流して退出した。
手を合わせて泰時の子孫繁栄を祈るような農民の思いである。泰時は事前に食事と酒を目代に用意させていた。
.

.
   ※種籾50石: 単純換算すると9000リットル。真偽は判らない。
.
   ※義時と泰時: 正確な日付は判らないが、烏帽子親の頼朝が与えた
初名の頼時から泰時に改め(もちろん頼朝の没後)、江間太郎と記載されている。
父の義時は従来の江間四郎から北條四郎主に表記が改まっている(相模守に任じた元久元年〈1204)以後は「相州」となっている)。
.
この頃の義時邸は北條時政邸から狩野川を隔てた西岸の南江間、跡地の伝承は残っているが痕跡はない。(右画像をクリック→ 江間郷の義時邸跡(別窓)へ
.
義時夫妻(義時墓所は分骨)を葬った北條寺も至近距離にある。ここは五郎時房とその子孫一族の菩提寺でもある。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月10日
.
吾妻鏡
.
.
江間太郎殿が伊豆の国から帰着された。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月21日
.
吾妻鏡
.
.
御所で蹴鞠あり。加わったのは北條五郎時房・紀内・富部五郎・比企弥四郎時員(能員の嫡子)・肥多八郎・源性・義印、相模守重頼・若宮三位房らが検分した数は九百五十。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月27日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の廻廊と八足門(八脚門)の上棟式があり工匠らが褒美を得た。遠州(北條時政)・大官令( 大江廣元)・大夫屬入道(三善康信)が八幡宮寺で儀式を行い、見物人も群集した。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
10月21日
.
吾妻鏡
.
.
御所で蹴鞠あり。加わったのは北條五郎時房ら前回と同じ、見分した数は三百六十。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
11月13日
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
左金吾(頼家)から謹慎処分を受けていた佐々木中務入道経蓮(経高)が赦免され、それを謝するため先日鎌倉に参着した。今日、故将軍家(頼朝)の御月忌(月命日)を迎え、法華堂に於いて法華経六部を供養する法事を行った。この六部は謹慎中の京都で少しづつ仕上げた写経である。
.
導師を務めたのは題学房で招いた僧は六人、導師には絹布六疋で他の僧には一人宛に白布一反を布施とした。所領も公職も没収されたため僅かな布施に過ぎないが志は故将軍家も照覧されると考え、諫文(和字・ひらがな)に直した経文を読み上げた。その懐旧の情を察した聴衆は涙を流し、尼御台所も仏縁を結ぶため内々に参席された。
.

.
   ※謹慎の経緯: 前年の7月27日に「洛中に武装兵を集めて狼藉云々」の記載がある。今年5月6日に弁明した
書状を提出したのだが、所領没収は撤回されなかったらしい。
経高は12月3日に頼家に面会し没収された中の一ヶ国(場所は不明)の返還を受けている。ここで再び泰時が登場するから「ゴマスリもいい加減にしろよ」と言いたくなるが...。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
12月2日
.
吾妻鏡
.
文章生の宣衡が使節として京都に向かった。これは左衛門督(頼家の官職)の辞表を届けるためで、辞表を書いた政所には官職の記載を省略するように指示を下した。
.

.
   ※宣衡: 翌年11月9日に「善進士宣衡が...」の記述があるため三善氏の一族なのだが、それ以上の素性は
判らない。同じ三善氏で承久の乱直前の後鳥羽上皇の動きを鎌倉に知らせた官人・三善長衡の系累だった可能性はあるが、三善康信の近親ではない。
.
   ※官職と官位: 頼家の官位は従三位。左衛門督は従四位に相当する官職なので官位と官職がバランスしない。
上級職を求める場合には官職の記載を省くのが通例だったらしい。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
佐々木中務入道経蓮(経高)が子息の高重を伴って御所に参上し、近日帰洛する旨を申し述べた。
.
比企能員の取り次ぎによって東の小御所で左金吾(頼家)と対面、没収した所領一ヶ所の返還が許され、暫くの世間話や思い出を語り合った。経蓮は忘れ得ない記憶や他人と比べられない奉公の記憶を語り、独り涙を拭って退出した。当時を知る和田義盛ら年老いた御家人たちの多くも涙を流した。
.
また江間太郎(北條泰時)殿が密かに家君に向かって次のように語りかけた。
.
経蓮が没収された土地は全て勲功で得た恩賞で、罪を許すのなら全てを返還すべきでしょう。譜代の勇士なのに恨みを残したままにしたら公私ともに禍を招きかねません。そんな配慮をされないのでしょうか
.

.
   ※家君: 家長、父親を意味する。この場合は義時を差す。
.
   ※泰時の危惧: 承久三年(1221)に勃発した承久の乱で経高は後鳥羽上皇 に与して自害、嫡男高重と次男
の高兼も戦死した。吾妻鏡はここでも泰時の洞察力と頼家の愚かさを対比させている。
.
表面的に受け取れば泰時の優れた洞察力。こんな言葉が恣意的に残っているのは、泰時の高い能力を認めさせたい編纂者の意図があった可能性が高い。こんな話が頻発すると「優秀さを証明する逸話を残す必要がある」レベルの才能だった、のかも知れない。
.
もしも所領の全てを返還する配慮を見せていれば経高が京方に与する事もなかった可能性はあるが、元々の佐々木一族は朝廷と深い接点を持っていたし、常駐に近い形で在京していた事実も知っておく必要がある。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
12月18日
.
吾妻鏡
.
.
御所で蹴鞠。人数は前に同じ、数は三百二十である。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
.
建仁元年
.
12月28日
.
吾妻鏡
.
.
善進士三善宣衡が京都から帰参して報告。15日に御辞表を提出したが勅許は得られず、辞表は返却された、と。
.

.
   ※三善宣衡: 12月2日に頼家の辞表を携えて京都に向かっている。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
今日、梶原景時の与党だった勝木七郎則宗が囚人の扱いを許されて鎮西に帰った。
.

.
   ※勝木則宗: 正治二年(1200)2月2日に勝来として登場、捕縛しようとした波多野盛通を突こうとして畠山重忠
に腕を折られている。
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1201年
.
.
83代 土御門
建仁元年
.
月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.

前年・正治二年(1200)の吾妻鏡へ       翌年・建仁二年(1202)の吾妻鏡へ