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建仁二年(1202)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月4日
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吾妻鏡
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御弓場始めの儀式を行った。射手は各々的を射た数に応じた引出物を下賜された。
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   射手
       一番    和田平太胤長    市河五郎(行重)
       二番    海野小太郎幸氏   中野四郎
       三番    榛谷四郎重朝    糟屋太郎
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   ※和田胤長: 義盛の弟義長の嫡男。和田合戦の発端になった謀反の嫌疑に関与して流罪となり、乱の鎮圧後に
配流地(陸奥国岩瀬郡)に討手を向けられて死没。
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一方で義盛の嫡男常盛の嫡子朝盛は和田合戦を生き延び、承久の乱(1221)では宮方で敗北し逃亡、嘉禄三年(1227)に捕縛された。その後の消息は不明だが処刑と推測される。
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   ※市河行重: 圓城寺(三井寺)の僧・伊予阿闍梨覚義の子孫。覚義は源頼義の庶子(義家義光の異母弟)で、
甲斐守に任じた義光の縁故として甲斐に下り市河荘に土着、御崎明神(現在の表門神社・同、末尾に記載)の婿となった。
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その正確な年代は不詳だが、大治五年(1130)に常陸国武田郷から追放された 武田義清清光の親子が市河荘に土着した事と何らかの連携があったと考えられる。
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その後の市河氏は甲斐源氏と協調、治承四年(1180)8月25日の吾妻鏡に下記の記録がある。覚義の子または孫が行房、その次男が市河五郎行重らしい。
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甲斐国から南下した安田義定工藤景光行光・市河別当行房の軍勢が 俣野景久と駿河目代橘遠茂の軍勢を波志太山で打ち破った。
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   ※中野能成: 信濃国志久見郷(下水内郡栄村一帯・地図)を本領とした五郎の近親か。市川氏は後継男子が
いなかった中野氏の婿に入り実質的な支配権を確立している。中野氏の詳細は建久十年4月20日の記述で。
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   ※糟屋太郎: 比企能員の娘婿として比企氏と共に討たれた糟屋有季の嫡子有久か。弟の有長・久季と共に京に
逃れ一条高能能保の嫡子)の側室となっていた妹を介し後鳥羽上皇の武者所として仕えた。
後に承久の乱で兄弟と共に宮方に与して討死している。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月9日
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吾妻鏡
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左金吾(頼家)が鶴岡八幡宮に参拝、天野左馬允が御劔役を務めた。
宮寺で御経の供養があり、導師は日光別当真智房法橋隆宣(宮寺別当に次ぐ供僧筆頭)が務めた。
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   ※天野左馬允: 天野を名乗ったのは伊豆田方郡天野郷が本領の天野遠景が最初だからその近親だと思うが、
系図には見当たらない。遠景の弟光家の息子の可能性あり、か。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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1月10日
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吾妻鏡
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蹴鞠始めである。狩衣の左金吾(頼家)が立ち、北條五郎時連・紀内行景・富部五郎・比企弥四郎・肥多八郎宗直(以上は狩衣)、源性・義印らも加わった。数百二十と三百十。
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   ※五郎時連: この年に改名して五郎時房を名乗っている。 平知康から「連は銭(の単位)を表すから名前として
相応しくない」と言われたのを契機に改名したのだが正確な日時は確認できない。吾妻鏡の記述も時連と時房が一部混在している。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月12日
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吾妻鏡
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再び蹴鞠、加わったものは前日と同じである。
三善康清入道が亀谷の屋敷の庭に懸樹を植えた。 この様子は特に趣きありとの噂があり、興味を惹かれた左金吾はこの人数を引き連れて蹴鞠を行った。蹴った数は五百。
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   ※康清の亀谷邸: 建久十年(1199)6月30日に没した乙姫は乳母夫である 中原親能邸の持仏堂に葬られて
いる。1月29日には親能邸での蹴鞠予定があり、同じ文官同士はご近所さんだったかも。
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   ※懸樹: 正式な蹴鞠は建物から2間半(4.5m)以上離れた場所に3〜4間(5.4〜7.2m)間隔で植えた4本
の樹木(柳・桜・松・楓)の中で行なうらしい。その他、結構いろんな決め事がある。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月14日
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吾妻鏡
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入道従五位下の大炊助源朝臣新田義重(法名は上西)が没した。陸奥守義家朝臣の孫、式部大夫義国の長男、母は上野介(藤原)敦基の娘である。
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   ※義国と義重: 義国は足利氏と新田氏両方の始祖。最初に土着して
勢力を扶植した足利荘を次男義康に与え、長男の義重には河内源氏代々の拠点であり交通の要所だった摂関領上野八幡荘 (このエリア一帯)を与えた。
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後半生の義国は更に義重と共に利根川北岸の広大な土地を開墾して新田荘を拓き、同所で没している。
青蓮寺と義国神社および義重夫妻の墓を参考に。
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義国の墓石は足利鑁阿寺の赤御堂裏手にある巨大な五輪塔の火輪(笠の部分・鑁阿寺の中程に記載)、とも伝わっているが、この真偽は確認できない。
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義重の娘は頼朝の長兄悪源太義平に嫁し、夫の死後に新田に帰って剃髪した妙満尼。頼朝が艶書を送った事件でも知られている。
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晩年の妙満尼が彫った義重の像が一夜で不動明王に姿を変えた。この像が正安三年(1338)に新田義貞戦死の報が届いた際に涙を流した「泣き不動」、「新田の三不動」の一つである。
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  右上画像は妙満尼創建の新田大慶寺不動堂。画像をクリック→ 大慶寺(別窓)へ。
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残る二体は明王院安養寺が収蔵している。盾に乗って軍勢を指揮する義重の姿を模した木像が一夜で不動明王に姿を変えた「御影不動」と、山伏に姿を変えて遠い越後の同族に義貞挙兵を知らせて回った「触れ不動」。この二体は絶対秘仏である。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月28日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に大地震あり。辰の一点の朝日が二つの輪を掛けているように見えた。
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   ※辰の一点: 一刻は五分の一の「点」に分かれている。辰刻は7時〜9時だから辰の一点=7時〜7時24分、
二点=7時24分〜7時48分、三点=7時48分〜8時12分、四点=80時12分〜8時36分、
五点=8時36分〜9時。夜(呼称は更)も同様で、一更一点(19時〜19時24分)から五更五点
(4時36分〜5時)となり、なんとも面倒くさい。ところで、またしても事件を予告する天変地異だ。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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1月29日
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吾妻鏡
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掃部入道(中原親能)の亀谷邸で蹴鞠を行う予定があり、特に豪華な準備が行われていた。左金吾(頼家)が出御する前に尼御台所二階堂行光を介して次の言葉を伝えた。
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故仁田入道上西(新田義重を差す)は源氏として最後の長老で武家の要だった。去る14日に卒去してまだ20日も過ぎていない中での遊興は人の謗りを招くから好ましくない。
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左金吾は「蹴鞠と世間の評判は関係ないだろう」と言ったが、結局取りやめになった。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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2月2日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に到着、先月23日に左金吾(頼家)を正三位に叙したとの事。
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   ※頼家の昇叙: 前年12月2日に官位と官職について、さりげなく要求している。その返事だろう。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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2月20日
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吾妻鏡
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相模国積良の付近に銘木として知られた古柳があると聞いた左金吾(頼家)は蹴鞠を楽しむ庭に移植するため現地に渡御された。北条五郎以下60余名が従い、紀内所行景にも供を命じた。
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   ※積良: 「鎌倉志」(江戸時代の地誌)に拠れば現在の腰越漁港に流れ込む神戸川の中流域。河口から約1km
に現在も津西の地名が残る(地図)。
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当時は神戸川の水運を使った物資輸送が行われていた。現在の神戸川水面は海抜7mほど、更に5km以上内陸部の大船駅に近い柏尾川での現在の海抜は9m。
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粟を川舟で運んだ経緯で大船の常楽寺の山号が「粟船山」なのも面白い。
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   ※紀内所行景: 前年9月27日に鎌倉に下向した蹴鞠の名手。名手は「名足」、下手くそは「非足」と呼ぶ。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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2月21日
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吾妻鏡
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左金吾が鎌倉に還御され、積良の柳を運び込んで蹴鞠を行う庭に植えた。作業を差配した行景の意見では、特に銘木と呼ぶほどではない、とのこと。
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   ※銘木に非ず: それなら抜く前にそう言えばいいじゃないの。せっかく連れてったのに。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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2月27日
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吾妻鏡
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鶴岡の別当阿闍梨尊暁が蹴鞠の好きな者たちを招いて饗応した。これは別当阿闍梨の希望という事ではなく左金吾(頼家)から内々の指示を受けたもので、行景を寵臣としている処遇である。
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夜になって尊暁が蹴鞠を見たいと所望し、各々が樹の下に立って三百を蹴り数えてから解散した。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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2月29日
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吾妻鏡
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沼浜にあった故左典厩義朝卿の旧宅を解体して鎌倉に運び、栄西律師の亀谷寺(現在の壽福寺に寄進した。
これは二階堂行光の奉行で、壽福寺建立を決めた当初からの指示ではあるが義朝卿の記念として頼朝将軍が破損した部分に修復を加えていた経緯のため暫く解体を見合わせていた。
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しかし最近になって義朝卿が尼御台所の夢枕に現れ、「私は常に沼浜邸で漁師による殺生を眺めている。六楽を得たいからこの屋敷を壊して寺に造り直してくれ。」と語りかけた。夢から覚めてこの内容を三善康信に記録させて栄西に届けさせた。大官令大江廣元の言葉では、六楽は六根楽(wiki)であろうか、と。
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   ※沼浜: 義朝邸があったのは逗子市沼間の法勝寺(地図)付近と考えられている。三浦半島付け根の中央部
なので海も沼も関係ないと思ったら標高は以外に低く、南に隣接する田越川の標高は14mほど。海水面が現在より高かった鎌倉時代初期には水運も利用されていたらしい。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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3月8日
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吾妻鏡
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いつもの人数により御所で連日の蹴鞠、その後に庭樹の花が最盛期との案内を受けていた比企能員邸に入御された。ここで京都から下向した「微妙」という名の舞女が宴席に呼ばれて歌舞を演じ金吾(頼家)を喜ばせた。
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能員は「この舞女の下向は訴え出たい事情があるためで、直接尋ねればよろしいでしょう。」と語り、舞女は金吾が質問しても涙を流すだけだったが、暫くして次のように答えた。
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去る建久年間(1190〜1199年)に父の右兵衛尉為成が讒訴を受けて投獄されました。その後に西の獄が拘留している囚人を奥州の蝦夷に奴婢として与えるため、将軍家(頼朝)の雑色が連行して下向する中に父の為成も含まれていました。母親は悲しみの末に死没し、七歳の私には兄弟も縁戚もなく孤独のまま過ごしましたが、成長すると共に父の安否を確かめたいと思い始め、舞女としての職を得て東国に下って参りました。
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この話を聞いた者は悉く涙を流し、金吾は奥州に使者を送って安否の確認をしようと仰せになった。宴席は夜を徹して続き、明け方になって御所に還御された。
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   ※花の盛り: 旧暦の3月8日は太陽暦の4月2日、山桜の満開時期にあたる。
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   ※蝦夷の奴婢: 吾妻鏡の原文は「爲給奥州夷」、夷は「東方の異民族」で古代アイヌ民俗を差す意味もあるが、
鎌倉に服属した蝦夷の子孫が一定の勢力を保っていた可能性もある。「山椒大夫」の世界か。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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3月14日
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吾妻鏡
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いつもと同じ人数で蹴鞠。数は三百六十と二百五十。
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今日、永福寺内多宝塔での供養が行われ、尼御台所および左金吾(頼家)が結縁のため参席された。導師は栄西律師、金吾の乳母を務めた入道武蔵守(源(平賀)義信朝臣の亡妻の追善供養である。
導師の布施などは尼御台所による手配、式典の差配は所右衛門尉伊賀朝光
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   ※義信の亡妻: 義信は源氏門葉の最上位に位置していた。金吾の乳母を務めた亡妻は伊東祐親の次男祐清
後家(比企の尼の三女)。夫の没後に義信に再嫁して平賀朝雅を産んでいる。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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3月15日
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吾妻鏡
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終日に亘り蹴鞠、数は百二十、三百二十、百二十、百二十、二百四十、二百五十である。
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その後に尼御台所が左金吾の御所に入御し、舞女(微妙)を召してその芸を観覧された。これは父を慕う志に心を打たれたためである。彼女の芸も見事であり、父の消息を調べるため奥州に派遣する使者を手配した。飛脚が戻ったら直ちに尼御台所の屋敷に報告するように命じ、微妙は尼御台所の還御に付き従った
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   ※微妙の同行: 頼家の子は...一幡(母は比企能員の娘・若狭局)、公暁(母は足助重長(賀茂重長)の娘)、
栄実(母は一品房昌寛の娘)、禅暁(母は一品房昌寛の娘)、竹御所(母は比企能員の娘・若狭局)の5人(一幡の他は全て成人後の名前、男子は4人)。
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翌年7月の頼家失脚と比企氏皆殺しは政子も合意していた既定路線で、頼家が新しい女に子供を産ませて厄介事を増やす愚を避けたかったのが政子の本音だろう。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭は通例の通り。但し左金吾(頼家)の参席はなく、遠州(北條時政)が使者として参拝した。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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4月13日
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吾妻鏡
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左金吾(頼家)が掃部頭(中原親能)入道の亀谷邸に渡御し、持仏堂の庭の樹下で蹴鞠あり。
金吾も加わり、伯耆少将・北條五郎・紀内行景・比企弥四郎・富部五郎・肥多八郎・源性・義印らも同様である。南風が頻りに吹いたため数は続かなかった。
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   ※持仏堂: 中原親能邸の持仏堂には建久十年(1199)1月13日に
没した頼朝の次女三幡、通名を乙姫が葬られているはず。ここでの蹴鞠は何となく不謹慎の雰囲気がある。
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亀ヶ谷坂を下った地点にある岩船地蔵堂は乙姫(三幡)の墓所または大姫の墓所だったと考えられており、もし乙姫(三幡)の墓所であれば中原親能邸の跡だと考えられる。
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右画像は平成十三年に立て直す前の岩船地蔵堂。現在は古都に似合わないピッカピカの建物に変貌している。
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    画像をクリック→ 岩船地蔵堂の詳細へ(別窓)。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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4月27日
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吾妻鏡
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いつもの人数(メンバー)で蹴鞠を行った。夕暮れになって左金吾(頼家)が小型の鞠を使って数・百二十を蹴り、近くで見守っていた行景が「天骨を得給う」と頻りに誉め挙げた。
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   ※天骨を得る: 極意を得た、才能が開花した、の意味。権力者に媚び諂う側近の姿が見える。
賛成するだけの仲間に囲まれていると己の才能や力量を過信して、愚かにも「自分は偉いんだ、反対する奴が悪い」と思い始め、その状態が続くと...
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安倍晋三とその妻みたいになってしまう。低レベルの総理夫妻と低レベルの自民党議員。
この傾向は古今東西を問わないね。まぁ堕落し続ける公明党の方が更に低レベルだろうけど。

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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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5月2日
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吾妻鏡
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相続について兄弟が裁決を求めて争う場合、今後は話し合っての和解を原則とする旨を定めた。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での神事は通例の通り。北條五郎(時房)が奉幣の使者を務めた。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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5月10日
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吾妻鏡
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左金吾(頼家)が三浦の海辺に出御された。通例の笠懸けを行い射手十騎を選んだ。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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5月20日
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠。六位進盛景・紀内行景・細野四郎兵衛尉・富部五郎・稲木五郎・比企弥四郎・源性らが加わった。
数は二百二十と五百二十、伯耆少将と北條五郎は脚気を患っているため検数役に任じた。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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5月30日
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吾妻鏡
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早河庄を均等に2分割し、田146丁6段を預所である土肥弥太郎遠平の管理から外して箱根山(箱根権現)に寄進した。
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   ※早河庄: 現在の小田原市西部。146丁(町)は約44万坪だから単純
に換算すると1.2km×1.2kmの広さ、当時の早河庄が確保していた耕地面積の範囲が推定できそうだ。
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   ※箱根権現: 箱根神社の公式サイトと、訪問レポートを参考に。
少し時代は下るが、箱根精進池の石仏群も参考に。
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      右画像は箱根神社境内裏山の萬巻上人の奥津城(神道の墓所)。
      箱根権現の実質的な開創者である。参詣の際には足を伸ばそう。
      訪問レポートの終盤に記載してある。

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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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6月1日
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吾妻鏡
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遠州(北條時政)伊豆国北條に下向された。夢想のお告げがあり、亡き長男北條三郎宗時の菩提を弔う法事を執り行うためである。宗時の墳墓堂は伊豆国桑原郷にある。
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   ※宗時墳墓堂: 治承四年(1180)8月の石橋山合戦に続く堀口合戦
惨敗した頼朝軍は分散して逃げ延びた。
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宗時と狩野氏棟梁の狩野茂光は本領の伊豆を目指して落ちる途中の桑原郷で伊東祐親の手勢に囲まれ、平井の名主紀六久重に討ち取られている。
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墳墓堂跡は函南の宗時神社(右画像)として東海道線函南駅近くの高台にあり、二人の墓標も並んでいる。
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また一説に、桑原薬師堂(既に古い堂が残るのみ)に伝わっていた仏像群(かんなみ仏の里美術館(公式サイト)に移管・収蔵された)の一部は時政が建てた宗時墳墓堂にあったもの、とも考えられている。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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6月25日
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吾妻鏡
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尼御台所が左金吾(頼家)の御所に入御された。これは蹴鞠が連日行われているのは聞いていたものの未だ行景ら名手の技は見ていないためで、この機会に身分の上下を問わず多数の見物人が集まった。突然の夕立で樹の下に溜まった水が邪魔になり、壱岐判官平知康が直垂を脱いで水を拭き取った。人を感心させる、風雅な行いである。
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東北の御所で酒盃の宴あり。数巡の後に舞女の微妙を召して舞曲、知康が鼓を打った。更に酒宴が進み、知康が御前に進んで北條五郎時連に酒を勧めた。酩酊した知康は調子に乗って言い募った。
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     北條五郎殿は容貌も立ち居振る舞いも抜群の人物だが、名前が甚だ下品です。連の字は銭貨を貫いて
     束ねる意味でしょうか、それとも歌仙の紀貫之に因んでいるのでしょうか。将軍からも早く改名するように
     命じるべきでしょう。
と。
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時連は「それでは連の字を改めましょう」と承諾して場をおさめた。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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6月26日
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吾妻鏡
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尼御台所が邸に帰還された。昨日の知康の言動について相当に怒っているらしい。
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昨日の経緯は楽しめたように思えるかも知れないが、知康が妄言を連ねていたに過ぎない。
木曽義仲が法住寺殿を襲撃して公卿や殿上人に被害を与えたのは知康の軽率な言葉が原因であり、義経に与して関東を滅ぼす計画に加担したため、前将軍(頼朝)は憤激し追放するべきとの奏聞された筈だ。
その前歴を忘れて近くに召し使うなど、頼家は先君の遺志に背いている。」
と。
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   ※法住寺合戦: 「平家物語 巻八」に拠れば、京都に進駐した義仲の乱暴狼藉を危惧した後白河院が鼓の名手
として「鼓判官」と呼ばれた北面の武士・平知康を派遣し、治安維持に尽力するよう申し入れた。
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義仲が「鼓判官とは、多勢に打たれたのが理由か」と言ったため知康は院に駆け戻り、「義仲は馬鹿です。今に朝敵になりますから早く追討するべきでしょう」と報告した。これが契機になって法皇が義仲排除を決意し、それに応じた義仲が法住寺殿に兵を向ける事態に発展した。
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   まぁ原因は知康の報告だけではないし、全面的には信頼できる話でもないけれど...
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法住寺合戦に敗北して捕われた知康は義仲の要求で解官され、その後は京都に進駐した義経に接近したが義経失脚と共に再び解官となった。元暦三年(1186)には弁明のため鎌倉に下向し頼家の蹴鞠相手としてそのまま側近に任じ、頼家の失脚後は京都に帰っている。
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今回の政子の発言は、平家物語をネタ元にした吾妻鏡編纂者のフィクションだと思う。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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7月16日
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吾妻鏡
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遠州(時政)が北條から鎌倉に帰参した。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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7月17日
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吾妻鏡
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左金吾(頼家)が狩猟のため伊豆国に出発、供として北條五郎時房が従っている。また、鶴岡八幡宮では新たに御祈祷が開始された。
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   ※伊豆の狩猟: 頼家が伊豆へ狩りに行く気持ちは理解できる。熱海の南部に土着して15年、鹿と猪と猿には
何回も遭遇した。犬の散歩中(民家が並ぶ舗装道路だよ)に大型の猪と5mの距離で向き合い、威嚇された時には冷や汗が出た。犬は吠えるし猪は背中の毛を逆立てて睨むし...「散歩中の男性、猪に襲われ重傷」と書かれた翌日の新聞記事が目に浮かんだもの。
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でも猟銃で撃たれ犬に囲まれて悲鳴を挙げている猪の声を聞くのは本当に嫌だ。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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7月23日
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吾妻鏡
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左金吾(頼家)が伊豆国から鎌倉に帰着された。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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7月29日
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吾妻鏡
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蹴鞠あり。北條五郎・紀内・比企弥四郎・肥多八郎・源性・義印等が加わっている。数は百二十と四百五十。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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8月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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朝廷の使者が鎌倉に到着。先月22日に左金吾(頼家)が従二位に叙され征夷大将軍に補任された旨を報告した。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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8月5日
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吾妻鏡
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奥州に派遣した雑色が鎌倉に帰着し、舞女微妙の父為成は既に死没と報告した。微妙は泣き伏して気を失った。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での放生会は通例通りに行われ、将軍家(頼家)も参席された。夜になって舞女微妙が 栄西律師の禅坊で出家を遂げ、持蓮と号して父の後生を弔う事となった。尼御台所はこれを哀れんで深澤の里の近くに住居を与え「いつでも私の持仏堂に来るように」との指示した。
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この微妙は最近になって古郡左衛門尉保忠と恋仲になり必ず共に暮らす約束をしたが、保忠は所用のため領国の甲斐国に下向した。その帰りを待てず、父を失った悲しみのあまり落飾してしまった。
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   ※深澤の里: 鎌倉の西部、近くには梶原氏本貫の地である御霊神社地図)がある。
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   ※古郡保忠: 平安時代末期に武蔵国横山党の庶流が都留郡の西部に進出して波加利荘(現在の大月市初狩と
笹子エリア・地図)を立荘し、横山義隆の子・忠重が古郡郷(上野原市・地図)に進出して古郡氏を名乗った。保忠は忠重の息子らしく、建暦三年(1213)の和田合戦では5月4日の条に、
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古郡左衛門尉兄弟(経忠・保忠)は甲斐国坂東山波加利の東・競石郷二木に於いて自殺。
新左衛門尉和田常盛(42歳)と横山右馬允時兼(61歳・横山権守時廣の嫡男)は坂東山償原別所で自殺した。
との記録がある。
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保忠の本領はJR上野原駅に近い諏訪神社(地図)、鳥居の額も地図での表示も「諏訪神社」だが拝殿には「古郡神社」の額が架っている。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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8月16日
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吾妻鏡
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昨日に続いて八幡宮の祭礼だが将軍家の参席はなく、馬場の桟敷で流鏑馬だけを観覧された。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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8月18日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に鶴岡八幡宮の西の廻廊に鳩が飛び込み、数時間も立ち去ろうとしなかった。供僧らがこれを不審に思い、真智房法橋と大学房らが問答講を行って吉凶についての議論を行った。
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将軍家(頼家)が見聞のために参宮し、遠州(北條時政)と大官令(大江廣元)が従った。その他にも多くの群集が見物に集まったが、酉刻(18時前後)になってその鳩は西の方向に飛び去った。
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   ※廻廊に鳩: 何だ、鳩ぐらいで...などと反応してはいけないのだ。
鳩は八幡神の使者で武運長久と戦勝を象徴しているから、鳩が死んだり異様な行動を見せるといつも大騒ぎになる。
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以前にもどこかに載せたけど、鶴岡八幡宮本殿の神額の「八」は「ナメクジ」ではなく、鳩の姿をデフォルメしている。
もしオリーブの枝を咥えていても、平和の象徴ではない。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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8月21日
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吾妻鏡
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蹴鞠あり。人数はいつもの通りで数は二百五十と百三十。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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8月23日
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吾妻鏡
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江間太郎(北條泰時)が三浦兵衛尉義村の娘と婚姻した。
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   ※義村の娘: 泰時元服の席で頼朝三浦義澄に「この若者を婿にせよ」と指示し、義澄が「孫の中から良い娘を
選んで御意のままに」と答え、8年後に婚姻した。長男の時氏を産んだ後に離縁(理由は不明、両家の関係悪化も認められない)となり、矢部禅尼を名乗っている。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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8月24日
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吾妻鏡
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夜になって亀谷(栄西律師・別窓表示)の付近で騒動があった。古郡左衛門尉保忠が舞女微妙の出家を聞いて甲州から到着し、彼女が栄西律師の門弟祖達坊を導師として落飾した事を知った。
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仔細を確かめようと祖達の房を訪れたところ、祖達はこれを恐れて御所の門前まで走って逃げ、保忠は怒りを抑えきれずに房にいた従僧らを殴りつけた。騒ぎを聞いて集まった近隣の住民は大した事件ではないと知って退散し、尼御台所結城朝光を派遣して保忠の怒りを宥めた。
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   ※微妙が出家: 気持ちは判るけど、せめて保忠と話し合う余裕は欲しかった。男性としては保忠に同情する。
ちなみに、祖達の房があった亀谷のも壽福寺から大倉御所南御門までの距離は約1km。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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8月27日
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吾妻鏡
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今日、保忠が将軍家(頼家)の怒りを受けた。昨夜に祖達房の従僧を打擲した件についての憤りである。
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出家者は人々を善行に導くのが本分であり、理由もなしに髪を下ろして授戒させるなど有り得ない。それにも拘らず暴行を加えるなどの所業は理不尽である旨を、尼御台所が和田義盛結城朝光を介して伝えたためである。
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   ※所業は理不尽: 記載がないから処罰は受けなかったらしい。良かったね。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での祭礼(重陽の節句)は通例通り。将軍家(頼家)が参席された。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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9月10日
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吾妻鏡
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三嶋社で例祭があり、江間四郎主(北條義時が奉幣の使者を務めた。
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今日、蹴鞠が三回行われた。参加者は北條五郎時房・紀内行景・肥多八郎宗直・比企弥四郎・源性・義印ら、数は朝が二百七十と百六十・昼が二百八十と二百三十・夕刻が百三十と三百九十と五百五十である。
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   ※江間四郎: 義時が江間四郎で息子の泰時が江間太郎、その呼称に違和感はないのか。
時政=北條四郎、義時=江間四郎、泰時=江間太郎、時房=北條五郎。牧の方が産んだ政範=左馬権助で通称は遠江左馬助。名乗りの習慣は浅学のため理解できないが、この時点で「時政の嫡男は政範」が既定路線になっていたのか、と思う。
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若年の政範が40歳の義時と並ぶ従五位下に叙された時期が確認できないのは残念だが、義時と泰時と政範の呼称が継承順位を意味しているのか否かはとても興味がある。
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そして前年9月には頼朝が与えた「頼」を捨てて公然と頼時から泰時に改名させ脱・源家の方針を明確にし始めた北條時政の姿勢にも注目しなければならない。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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9月11日
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吾妻鏡
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荏柄社の祭礼である。大江廣元朝臣が奉幣使を務めた。
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   ※荏柄社: 南御門跡近くの岐れ道から永福寺に向かう道筋にある現在
荏柄天神社(公式サイト・地図)。吾妻鏡の建仁三年(1203)9月2日、時政が比企氏討伐を大江廣元に相談した記述の中に荏柄社の名が載っている。
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廣元邸は十二所だから時政が名越邸に帰るのは金沢街道(当時の六浦路)経由、時政は六浦街道に面した参道(現在の一の鳥居)の前で馬を止めた、のだろうか。
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時政は天野遠景仁田忠常を従えて廣元邸を辞した。莅柄社前で再び馬を止め「能員が謀反を企てたから今日中に討伐する、討手を務めよ」と二人に命じた。
遠景は「軍兵を派遣するまでもないから呼び出して殺そう、あんな老人など造作もない」と答えた。

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右上画像は莅柄社参道入口(クリック→拡大表示)。100m先で永福寺に続く小道を横切り、更に100mで鎌倉宮への道を横切り、更に100mで神域に至る。
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蛇足として... 六浦道の杉本寺近くから南に約500mで釈迦堂口切通し(wiki・画像多数)、現在は通行止め。
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この上が時政の名越邸跡とされていた場所で、発掘調査により鎌倉時代末期の寺院跡として地図上でも「北條名越邸跡」→ 「大町釈迦堂口遺跡」と表示されるようになった。
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釈迦堂口切通しの開削は鎌倉時代中期以降と推定される。
切通し上の尾根が居住地としては全く適していない事、時政が廣元邸から名越邸に帰る際に釈迦堂口に曲がる道を通り過ぎている事、名越の地名と釈迦堂口が2km近く離れている事、などを考え合わせれば、釈迦堂口=名越邸跡と考える根拠は完全に乏しいのだが、専門家は長い間それを信じていたらしい。
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右下の画像は当該地点を落とし込んだ地図(クリック→ 拡大表示)
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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9月15日
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吾妻鏡
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蹴鞠が行われた。数は二百三十と百六十、その後に夕暮れの頃になって将軍家(頼家)は再び中庭に出御し、塀の内側に行景を呼んで小鞠の蹴り合いを行った。二・三回蹴って行景に蹴り渡し、同じように行景が蹴り返して百五十を数えたが、壱岐判官平知康が座を立って鞠を打ち落とし、将軍家は御所に入御された。
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壱岐判官知康は退出する行景に「もし将軍家が蹴り損なったら将軍家にとっても貴殿にとっても恥辱となるから打ち落としました。」と語った。行景はすぐに御台所に向け女房を通じて「行景が鞠を打ち落としたのは尾籠な(馬鹿げた)行動ではありません。」と奏上した。
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   ※御台所: 若狭局(比企能員 の娘)なのか足助重朝(重長)の娘なのかは議論の分かれるところ。
常識的には長男の一幡(嫡子の扱い)を産んだ若狭局が正室だが、翌年10月の「比企の乱」に乗じて焼き殺した(或いは刺し殺した)一幡が頼家正室の産んだ源氏嫡流ではどう考えてもマズイ。
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従って吾妻鏡の編纂者は「足助重長女が「室」で若狭局は「愛妾」と書いている。こういう部分は日記みたいな形式で実は後世に纏めて編集した吾妻鏡が捏造しやすい部分だ。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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9月18日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が鶴岡八幡宮に御参り。北條五郎が御剣役を務め、中野五郎能成が弓箭を携えた。
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   ※時連→時房: 6月25日に鼓判官平知康から「連は下品だ」と言われた約三ヶ月後に始めて「時房」として登場
している。種本により「頼家も改名を勧めた」(wiki)と転載しているが具体的な根拠には乏しい。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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9月21日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が伊豆と駿河両国の狩場に数百騎を率いて下向され、まず獲物を追い立てる勢子と待ち受ける勢子の分担を決めた。将軍家と共に待ち受ける側は小笠原阿波弥太郎・比企弥三郎・和田三郎・細野兵衛尉、各々弓箭を持たず竹の笠と袴覆いを着けて鞭を持ったが中野五郎能成だけは弓矢を許された。
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他の追い立て役も弓矢は持たず、射手10人(兵衛尉和田常盛榛谷四郎重朝和田平太胤長海野小太郎幸氏望月三郎重隆・小坂弥三郎・鎌田小次郎・笠原十郎・新田四郎忠常工藤小次郎行光 )だけ弓矢を携えている。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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9月29日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)がようやく鎌倉に還御の予定となり、仁田忠常に入られた。終日小笠懸があり、忠常が賞品10種類・各10個を提供した。その概ね九割は当り矢の多かった幸氏・重隆・重朝・胤長・能成・行光らが獲得した。
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   ※新田忠常邸: 原文は「将軍家漸令還鎌倉給」だから「鎌倉への帰還
を言いつけた、命じた」ほどの意味になる。
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仁田邸は韮山の北條邸から約4km北、三嶋大社との概ね中間(地図)にあり、狩野川の支流・来光川を天然の水濠に利用していた。
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現在も子孫の仁田氏が居住し、四郎忠常・五郎忠正・六郎忠時の五輪塔を守っている。ただし兄弟三人全員は比企能員謀殺直後の建仁三年(1203)9月6日に北條時政の命令で殺されているから、後世の供養墓と考えるべきかも知れない。
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   右画像をクリック→ 仁田忠常の館跡へ(別窓)。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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10月3日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が駿河国から還御された。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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10月8日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が騎馬で突然に隼人入道(三善康清)邸に渡御された。庭の紅葉が見事と聞いたためである。
朝から降っていた雨が止み晴天の下で蹴鞠を行ったが、庭に水が溜まっていたため楽しめなかった。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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10月29日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)御所北側の内庭に松を植えて蹴鞠の場所を設けた。四方の樹は全て松とし、北條五郎和田左衛門尉三浦兵衛尉義村・山口次郎有綱に2本づつ割り当てて用意させた。
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紀内行景その枝を見定め、有綱が用意した松は良くないと言った。有綱は顔色を変え「何本もの中で私の持参した松だけ選り好みするのは納得できぬ、京下りの輩に良くある仕打ちは実に不愉快だ」と非難し、行景は抗弁せずに退出した。
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   ※山口有綱: 三浦義澄の次男で義村の弟。現在の葉山町下山川流域を相続
して本領とし、山口を名乗っていた。
三浦義明は七人の息子(杉本義宗・三浦義澄・佐原義連・多々良義春・長井義季・森戸重行・大多和義久)と各々の息子に本拠の衣笠城を囲む出城の地を与えて防御線を構築していた。
右の地図に各々の地名(本領)を落とし込んである。
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  画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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閏10月1日
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吾妻鏡
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今日、由比の浦で恒例の笠懸の会が行われた。射手は十騎である。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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閏10月13日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が鎌倉中の著名な寺の僧侶を招き、御所に於いて饗応した
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   ※僧を饗応: 前将軍頼朝の三回忌、月命日と考えるべきか。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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閏10月15日
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吾妻鏡
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諸国の守護が執行する業務について、予め規定されている事項以外は他の雑務と一緒に簡単に処理される例が多いとの訴えが届いている。その件について今後は是正するように指示があり、違反した場合には守護職を解補するとの厳命が下された。大江廣元朝臣の差配となる。
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西暦1202年
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83代 土御門
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建仁二年
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11月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で通例の御神楽が奉納され、進士の三善宣衡庭火の曲(参考サイト)を歌った。
将軍家の御参席なし、大江廣元朝臣が奉幣の使者を務めた。
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   ※三善宣衡: 三善氏の一族なのだが、それ以上の素性は判らない。同じ三善氏で承久の乱直前の後鳥羽上皇
の動きを鎌倉に知らせた官人・三善長衡の系累だった可能性はあるが、三善康信に近い存在ではない、と思う。前年12月2日に頼家の左衛門督(頼家の官職)の辞表を京都に届けた際には文章生で今回は進士、律令制の試験に合格していたらしい。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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11月21日
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吾妻鏡
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今日、将軍家(頼家)の若君(善哉、三歳)が初めての鶴岡八幡宮に参拝された。神馬二疋を献納、 比企三郎と新田六郎がこれを引いた。
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   ※善哉: 17年後の建保七年(1219)1月27日に八幡宮で実朝を殺すことになる 公暁一幡の弟)の幼名。
比企三郎は能員の次男宗員、新田六郎は忠常の末弟忠時。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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12月19日
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吾妻鏡
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七寸(約21cm)ほど積雪。将軍家(頼家)は鷹狩りの狩場を視察するため山内荘へ出御された。
夜になって堤判官知康を供にして還御する際に亀ヶ谷の付近で知康の乗馬が暴れ、瞬く間に近くの古井戸に落ちたが特に大事には至らなかった。御所に入られた後に知康に小袖20着を与えた。
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   ※山内荘: 現在の北鎌倉から大船の常楽寺を経て鎌倉街道沿いの
横浜市栄区・戸塚区まで含む広大な荘園だったらしいが、領家が確認できない。この地を本拠とした首藤資通が八幡太郎義家に従って後三年戦役を戦い、その曾孫首藤俊通の妻が頼朝の乳母の一人となった。その息子で頼朝の御家人となった山内首藤経俊の本領である。
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   ※亀ヶ谷: 現在の亀ヶ谷坂切通し壽福寺側に下った一帯が亀ヶ谷。
鎌倉時代中期には山ノ内から巨福呂坂を経て大倉に下る道が整備されたが、かなり急峻なため少し遠回りの亀ヶ谷坂切通しが本道として主に利用されていた。
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   右は亀ヶ谷坂切通しの山ノ内側入口。画像をクリック→ 亀ヶ谷坂切通しの頁へ。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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12月24日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に地震、降雪もあった。雷鳴が併せて三度。
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   落ち着かない一日だったらしい。大変な事件が続く来年の予兆か。
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西暦1202年
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83代 土御門
建仁二年
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