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建仁三年(1203)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1203年
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83代 土御門
建仁三年
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1月1日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)、将軍家(頼家)が鶴岡八幡宮を御参拝。和田兵衛尉常盛が御劔を持ち、将軍家は本殿に入らず廻廊から遙拝した後に還御された。
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   ※遙拝: 本来なら遠く離れた場所から拝礼する事。鎌倉に入った頼朝が
八幡宮敷地から由比若宮(サイト内リンク・別窓)を遥拝した例(治承四年10月7日)が挙げられるが、八幡宮の回廊から至近距離にある本殿を遥拝するのは異例だろう。
ただし、この遥拝に宗教的な意味があるか否かは判らない。
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現在の鶴岡八幡宮本殿の近くには由比若宮遥拝所と宇佐神宮(公式サイト)遥拝所が設けられているが、なぜか肝心の、つまり祖先の頼義が鎌倉に勧請した京都の石清水八幡宮(公式サイト)の遥拝所は存在しない。河内源氏の氏神である石清水遥拝所を設けていない理由は何か、神官に聞いても解らないだろうね。
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右画像は鶴岡八幡宮本殿左手の宇佐神宮遥拝所(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1203年
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83代 土御門
建仁三年
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1月2日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の若君(一幡君)が鶴岡八幡宮に奉幣され神馬二疋を寄進した。
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御神楽奉紊の際に八幡大菩薩(wiki)が巫女に憑依し、次の通り託宣した。
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年内に関東で事件が起きる。若君が家督を継ぐことはない。岸に茂っている樹の根は既に枯れているのに、人々は梢の緑だけを眺めている。
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その後に将軍家は外出初めとして隼人入道(三善康清)邸に入御して蹴鞠、伯耆少将・北條五郎・六位進・富部五郎・比企弥四郎・細野兵衛尉らが集まった。今夜は康清邸に宿泊される。
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   ※託宣: もしも吾妻鏡が体裁の通りに「玉葉」や「山槐記」のような日記として書かれていたなら巫女の託宣にも
価値はあるが、比企の乱で一幡が殺害された数十年後の編纂を考えれば、何の説得力もない。
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単に北條氏による虐殺を八幡大菩薩の意志として正当化しようと試みているだけだから、本来の意図とは逆に計画的な主殺しの状況証拠になってしまう。
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史記(wiki)のような、後世の検証に耐え得る史書ではない事を前提にして読む姿勢が必要だ。
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西暦1203年
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83代 土御門
建仁三年
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1月3日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が隼人入道(三善康清)邸から還御された。御所に於いて御的始め(弓始め)を行った。
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       射手
       一番 海野小太郎幸氏   和田兵衛尉常盛
       二番 筑後六郎知尚   和田平太胤長
       三番 諏訪大夫盛澄    望月三郎重澄
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   ※筑後知尚: 常陸国の八田知家七男で浅羽・八田・筑後を吊乗った。北條氏に与して和田合戦を戦った後に
後鳥羽上皇に仕えた。承久の乱で幕府軍と戦い、承久三年6月14日に宇治川で討死している。
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   ※和田胤長: 義盛の弟義長の嫡男。和田合戦の発端になった謀反の嫌疑に関与して流罪となり、乱の鎮圧後に
配流地(陸奥国岩瀬郡)で殺された。一方で義盛の嫡男常盛の嫡子朝盛は和田合戦を生き延び、承久の乱(1221)では宮方で敗北し逃亡したが嘉禄三年(1227)に捕縛された。その後の消息は不明だが、処刑されたと推測される。
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   ※望月重澄: 望月重隆の弟か息子と思うが系図に見当たらない。 海野 幸氏と縁戚で滋野一族の武士。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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1月20日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が再び隼人入道(三善康清)邸に入御し蹴鞠。北條五郎ら人数は前例通り、数は二百五十と百二十。
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西暦1203年
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83代 土御門
建仁三年
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2月4日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に将軍家の御舎弟(千幡君(満10歳)・後の実朝)が鶴岡八幡宮に参拝、江間四郎(北條泰時)殿が参拝を補佐し神馬二疋を献紊した。結城七郎朝光と所右衛門太郎光季(伊賀朝光の長男)が上手(左)の手綱を引き、下手(右)は神人(職掌・神楽を演ずる役)が引いた。
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午刻(12時前後)に祭事と神楽の奉紊があり将軍家が参席、御奉幣は通例の通り。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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2月5日
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吾妻鏡
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彼岸の初日に当たり、尼御台所が鶴岡八幡宮寺で法華経をによる供養を行った。導師は安楽坊で招いた僧は六人、上絹と紺絹を各々三十疋と奥布二百反を布施とし、三善康信がこれを差配した。
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西暦1203年
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83代 土御門
建仁三年
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2月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺に建てる塔の地曳き(地鎮祭と概ね同じ)を行った。
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去る建久二年(1191)3月4日の大火で焼け落ちた塔の復興である。
将軍家(頼家)が出御し遠州北條時政と大官令大江廣元が供として従い、大夫属入道三善康信が建造の総奉行を務めている。
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   ※塔の復興: 焼失した建久二年(1191)の吾妻鏡は「鶴岡馬場横にある塔婆」と
あり、三重塔か五重塔か多宝塔かの記載がない。
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建築した際の形状や工期についても記録がなく、個人的には多宝塔(大塔)みたいな気がしている。
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明治初期の廃仏毀釈運動の煽りで解体破棄された「塔婆《(江戸初期から中期前後に建造、右画像をクリック→ 拡大)が多宝塔で、昔の様式を継承したかも...程度の根拠しかないのだが。
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興味があれば、文治五年(1189)閏4月8日の画像三点付き記事を参照されたし。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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2月16日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が蹴鞠、北條五郎・紀内所行景・肥田八郎・源性・義印の参加である。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で一切経を奉紊する法会があり将軍家(頼家)が通例の通り参席された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月4日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が隼人入道三善康清邸に入御して蹴鞠。北條五郎・富部五郎・比企四郎・肥田八郎・紀内所行景・源性・義印らが加わった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月10日
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吾妻鏡
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昨夜の亥刻(22時前後)から将軍家(頼家)が突然の体調不良に陥った。夢のお告げあり、駿河国方上御厨の地頭武田五郎信光の管理を停止し伊勢神宮領として寄進、 大江廣元 朝臣がこれを処理した。
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   ※方上御厨: 現在の焼津市北部(地図)、方ノ上の地吊が残っている。元々伊勢神宮領だから、地頭による管理
を停止したという事か。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月14日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の体調不良が平癒し御沐浴を行なった。
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   ※体調不良: 数日での回復は毒物の可能性が高い。この頃から北條時政の実力行使が始まった、と思う。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月15日
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吾妻鏡
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永福寺で一切経会を奉紊する法会あり。将軍家(頼家)が奉紊する神楽舞の観覧に出御され、春の霞に包まれた桜花を楽しまれた。還御に際して二階堂行政の山荘に入御され、晩鐘の頃に御所に戻られた。
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   ※行政の山荘: 著吊な人物なのに没年の記録がないのは面白い。二階堂姓を名乗ったのはごく晩年か、子息の
行光か行村の時代からで、この時点では藤原姓を名乗っている(面倒なので全て「二階堂」に統一した)。行政は駿河工藤氏系の公家(文官)で二階堂村を得たのが所領の最初で、「行政邸」ではなく「入御行政山庄」(原文)と書いているのは何故だろう。
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永福寺から僅か1km弱の大倉御所周辺に本宅と別の住居を構える必要も、同じ二階堂に「別荘《を構える必要もないと思うのだが...。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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3月26日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が隼人入道三善康清邸に入御し御鞠。人数は北條五郎・紀内所行景・富部五郎・比企彌四郎・肥田八郎・義印・源性、伯耆少将が検数に任じた。最近は一日間隔での蹴鞠である。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の例祭である将軍家(頼家)が参席され、江間四郎主北條義時が奉幣の使者を務めた。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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4月6日
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吾妻鏡
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伊豫国の御家人河野四郎通信は幕下将軍(頼朝)の時代から忠節を尽くした功績により、守護職の佐々木三郎兵衛尉盛綱法師の支配に入らない特別な処遇を認め、一族と郎従を支配下に含めるのを許すとの御教書を発行した。
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平民部丞盛時がこれを処理し、鎌倉に駐在していた通信が許しを得て明日領国に帰るため御前に呼んでこの御教書を与えたものである。
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   ※河野通信: 正室(北條時政の娘)の産んだ嫡男の通政は西面に詰める武者と
して後鳥羽上皇に仕え、承久の乱(1221)では父と共に上皇方で戦って敗北。更に本領の高縄城(愛媛県松山市・地図)で抗戦の末に降伏した。通政は斬首、通信は多年の功績と老齢により罪を減じられ陸奥国江差(現在の岩手県北上市)に流されて翌年没した。
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墓所の位置は長く不明だったが、時宗の開祖一遍上人(通信の七男通広の子)の布教を描いた国宝「一遍聖絵」に載っていた祖父の墓に詣でる様子を元にして長期間捜索した末に確定されたという経緯がある。この「ひじり塚《の詳細は 北上市のサイトに載っている。
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右画像は大山祇神社収蔵の伝河野通信着用の国宝・紺糸威鎧。
     右画像をクリック→ 大山祇神社の詳細レポートへ。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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4月21日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)による蹴鞠。伯耆少将・北條五郎・紀内所行景・比企彌四郎・肥田八郎・源性・義印らが参加した。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で節句の祭礼があり、将軍家(頼家)が参席された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月18日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が鶴岡八幡宮寺別当尊暁の房に渡御され、伯耆少将・右近衛大夫将監親廣らが供として従った。ここで蹴鞠あり、人数は何時もの通りである。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月19日
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吾妻鏡
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子刻(深夜12時前後)、阿野法橋全成(幕下将軍(頼朝)の弟)に謀叛の嫌疑があり、将軍家(頼家)の命令を受けた武田五郎信光が捕えて御所に連行し、兵衛尉宇都宮(横田)四郎頼業に預けられた。
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   ※阿野全成: 頼家が全成の捕縛命令を発したのは彼の妻が北條時政の娘だったのが理由だろう。頼家排除を
画策する首魁は時政だから、ここで全成を殺せば時政が萎縮して将軍の権威を再認識すると誤認した。この時点で乾坤一擲、支配下の御家人で一気に時政を潰すべきだったのに...。
いや、別に頼家の味方してるんじゃないけどね(笑)。
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   ※宇都宮頼業: 五代当主頼綱の三男で母は稲毛重成の娘、承久の乱での宇治川合戦に奮戦の記録がある。
生母が謀反人の娘だった関係で宇都宮氏六代当主は次弟泰綱が継ぎ、業綱は分家して宇都宮南部の横田郷(地図)を本領とし横田氏の祖となった。
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ちなみに、長兄の時綱も生母が稲毛重成の娘で、下野国河内郡上条(現在の宇都宮市の南部の上三川町・地図)を領有したが宝治合戦(1247)では三浦一族と運命を共にし、時綱と上仲だった頼業は北條方に与して命運を保っている。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月20日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が比企四郎能員を介して尼御台所に伝えた。
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叛逆を企てた嫌疑で阿野法橋全成を捕えた。全成の妻 阿波局が尼御台所に仕えている筈、詳細を調べたいから出頭させて頂きたい。
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尼御台所は次のように答えて阿波局を出頭させるのを拒んだ。
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反逆云々など女が知る話ではないし、全成は去る2月に所領の駿河に下向して連絡が取れていないから嫌疑の対象にはならぬ。
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   ※駿河に下向: つまり全成は鎌倉ではなく、頼朝から所領として得ていた
駿河国井出(富士山南麓の沼津市井出一帯・地図)で拘束されたことになる。館の跡は現在の士詠山大泉寺、全成一族の菩提寺として墓石の類も保存している。(右画像をクリック→ 大泉寺の詳細(別窓)へ)
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大泉寺の1km弱東には延徳三年(1491)に挙兵して伊豆韮山の堀越公方を滅ぼし伊豆・相模を制覇した伊勢新九郎(通称を北条早雲)の居城だった興国寺城跡(沼津市のサイト)がある。
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ちなみに堀越御所跡北條時政館跡に近い一帯、兄弟を殺して公方の座を狙った足利茶々丸の墓も残っている。 願成就院守山八幡宮などの著名な史跡も近い。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月25日
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吾妻鏡
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申刻(午後4時前後)、阿野法橋全成は常陸国に送られた。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月26日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)は狩猟のため伊豆国に出発された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月28日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の供僧は去る26日から将軍家(頼家)の御旅行が無事に終るよう祈祷に励んでおり、政所からの褒賞として布施を与えられた。白布三十反と八木十果である。
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   ※八木十果: 八木は米を意味し十果は10石。単純計算で150kgだが玄米と精米では一割前後の誤差がある。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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5月29日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の留守中ではあるが、隼人入道三善康清が紀内所行景・富部五郎・源性・義印らを招いて蹴鞠の会を催した。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月1日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が伊豆国奥の狩場に着御された。伊東崎と呼ぶ山中に奥の知れない大きな洞穴があり、将軍家は巳刻(午前10時前後)に和田平太胤長に探索を命じた。胤長は松明を掲げて穴に入り、酉刻(18時頃)に戻って来て「長さは数十里あるとも知れません。真っ暗な中にいた大蛇が私を呑もうとしたため剣を抜いて斬り殺しました。」と報告した。
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   ※伊東崎の洞穴: 伊東大室山北麓の溶岩洞窟、現在は落盤のためすぐ
先で塞がっているが、昔は富士の人穴まで通じていたとの伝承もある。元々それほどの深さではない(地図)とされる。ホラ吹きは胤長か吾妻鏡の編纂者か。
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右画像は「大蛇穴《と呼ぶ洞穴がある桜の里公園。
   画像をクリック→「大蛇穴と周辺の風景」(別窓)へ
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月3日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が駿河国の富士裾野の狩場に渡御された。この山麓にも「人穴《と呼ばれる洞穴があり、その奥の姿を見極めるために新田四郎忠常主従の六人を送り込んだ。忠常は頼家から重宝の剣を与えられて人穴に入ったが、日が暮れても戻って来なかった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月4日
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吾妻鏡
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巳刻(午前10時前後)、出発してから既に一昼夜が過ぎた頃になって新田四郎忠常が人穴から戻り、次のように報告した。
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この洞穴は狭いため途中から引き返せず、真っ暗な中を前進するしかありませんで。主従とも松明を掲げて水流に足を浸し、多くの蝙蝠が飛ぶ中を進むと強い流れの河に行き着きました。
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渡る方法がなく困惑していると対岸から突然強い光を浴び、郎従の四人がたちまち落命しました。私は霊魂の教えを知っていたので恩賜の剣を河に投げ込み、辛うじて生き延びて戻った次第です。
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土地の古老に拠れば「この洞穴は浅間大菩薩の御在所で、見るのを許される場所ではありません。 今回の事件は誠に恐れ多いことです。」と。
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   ※富士の人穴: 単なる富士山信仰の霊地(地図)なのだが、怖いから一人では二度と行きたくない。
右画像は富士山西麓の「人穴《。オウムの「サティアン《跡地や曽我兄弟の仇討現場や青木ヶ原樹海も近い。         右画像をクリック→「人穴浅間神社」の頁へ(別窓)へ。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月10日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)が駿河国から鎌倉に還御された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月23日
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吾妻鏡
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八田知家が将軍家の命令を受け下野国で阿野法橋全成を殺した。
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   ※阿野全成: 宇都宮(横田)頼業 預かりだから、殺されたのは下野国横田郷か。宇都宮市南部の兵庫塚三丁目
地図)が居城の跡と伝わっている。駿河の全成菩提寺・大泉寺(5月20日を参照)の寺伝では全成の首はその夜に阿野庄まで飛び、松の枝に掛かったという。境内保育園の庭に首掛け松の切り株複製と石碑が建っている。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月24日
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吾妻鏡
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大江兵衛尉能範が使節として上洛した。これは、在京している相模権守源仲章佐々木左衛門定綱に頼全(全成の子・生母は阿波局か)を追討せよとの将軍命令を伝える使者である。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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6月30日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に鶴岡若宮(八幡宮)神殿の棟上に留まっていた唐鳩(家鳩・ドバト)一羽が地に落ちて死んだ。人々は珍しい事だ、不吉の前兆だろうかと危惧した。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月4日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)、鶴岡八幡宮の経堂と下の廻廊を繋いだ部分の屋根から三羽の鳩が喰い合って地面に落ち、その一羽が死んだ。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月9日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)、鶴岡八幡宮寺の閼伽棚(仏前の供える水や花を置く棚)の下に頭のちぎれた鳩が一羽死んでいた。前例のない出来事に驚いた供僧の報告である。
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   ※鳩の変死: 前年8月13日にも書いた通り、鳩は八幡神の使者であり武門の繁栄を象徴する鳥。それが三日も
続けて変死するとは将軍家に異変が起きても不思議ではない。北條氏のシンパである吾妻鏡の編纂者は、神仏の意志だと言いたい訳だね。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月18日
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠あり(今日以後は蹴鞠の会なし)。北條五郎時房・紀内行景・富部五郎・比企弥四郎・肥田八郎・源性・義印らが加わった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月20日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に将軍家(頼家)が突然の御病悩で苦しみ始めた。只事ではない。
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   ※毒殺未遂か: 私はキンポウゲ科の毒草トリカブトによる毒殺未遂説。狩猟と蹴鞠を頻繁に楽しんでいた頼家は
頑健だったと考えられるし、時政寄りの存在だった全成親子の追討直後でもある。最近時政の名が出てこないのも状況証拠の一つになりそうだ。
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トリカブトは奈良時代から一般的だったらしい毒草で、一説に30歳で死んだヤマトタケルもトリカブトによる毒殺だったと。更に詳細はこちら(別窓)で。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月23日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の病状はかなり深刻で、幾つもの御祈祷が開始された。卜筮(占い)に拠れば神霊の祟りである。
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   ※神霊の祟り: 頼朝の「事故死」も暗殺だった可能性がある。晩年の貴族社会回帰の志向は東国武士団には
同意し難い動きだったし、そもそも彼らが後世の武士社会に見られるような「忠義心」を持ち合わせていたかどうかは疑わしい。美しく表現すれば「御恩と奉公《の緊密な関係だが、露骨に言えば「金の切れ目が縁の切れ目」、メリットが乏しくなれば見捨てる程度の功利的な関係なのだろう。
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既得権擁護だけを共通のポリシーにしている自民党と公明党みたいな関係、よりマシか(笑)。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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7月25日
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吾妻鏡
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相模権守源仲章の使者が京都から到着して報告。去る16日に在京の御家人を招集し東山延年寺で播磨公頼全 (阿野法橋全成の息子)を発見して討ち取った、と。
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   ※東山延年寺: 五条坂の右側、現在の通称「鳥辺山墓地」が延年寺(既に廃寺)の旧跡墓地(地図)。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月4日
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吾妻鏡
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兵衛尉三浦平六義村を土佐国守護職に補任した。
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   ※義村を補任: 土佐国守護職は建久三年(1192)~正治二年(1200)が佐々木経高、正治三年(1201)~
建仁三年(1203)が豊島朝経(豊島清元または有経の子)が務め、8月に義村と交代している。豊島朝経は同年10月に比叡山衆徒討伐で討死しているが守護在任中の失態は記録にないし重病で危篤も囁かれている頼家が人事異動を発令する筈もない。
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品性の賎しさなどから考えて、義村は土佐国守護職と引き換えに時政の決裁権掌握を承認したと考えるのが自然だろう。彼らの忠誠心は所詮このレベルだった。
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国交省大臣ポストを確保したい公明党が憲法違反の新・安保法制に賛成したのと同じ図式だ。
宗教者の顔をしながら宗教者が持つべき品性も正義感もない、最悪の「営利団体」。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月7日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の病状は深刻で、かなり苦しんでいる。
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   ※蛇足として: トリカブトは特に根の部分に強い毒性があるが花粉や蜜による中毒例もあり、養蜂家はトリカブト
が自生するエリアでの養蜂を避けるらしい。狂言で主人の家宝を壊した太郎冠者と次郎冠者が舐めたの附子(ぶす・実は砂糖)がトリカブトの毒を表す言葉だった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で恒例の放生会だが将軍家(頼家)は重病で参席なし、大膳大夫大江廣元朝臣が奉幣使を務めた。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月16日
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吾妻鏡
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大膳大夫大江廣元朝臣が鶴岡八幡宮下の廻廊に着座し神事を代行した。流鏑馬などは通例の通り。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月27日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の病状が深刻なため相続に関する協議が行われた。
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関西三十八ヶ国の地頭職を(頼家の)舎弟千幡君(11歳・後の実朝)に分割譲渡し、関東二十八ヶ国の地頭職および惣守護職を頼家の長男一幡君(6歳)に譲渡する内容である。
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ここで将軍家の外祖父である比企判官能員が舎弟千幡君への譲渡に納得せず、外戚の権威による叛逆を企てて千幡君およびその外戚の滅亡を謀ろうとした。
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   ※千幡の外戚: 実朝の生母は政子だから実朝の排除=北條氏の排除だが、頼家の生母も政子だからヤクザが
因縁つけてるような図式。そもそも「叛逆」とは最高権力者(将軍家)に叛く事なのに...。
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会議の招集権者は時政。能員が反対しても外堀は既に埋められ、同調する御家人はいない。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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8月29日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の病状は日を追って悪化している。鶴岡八幡宮の宝前に土で造った八萬四千基の泥塔を供えて供養を行った。導師は安楽房重慶(供僧の長)と招いた僧が25人。御布施は帖絹百疋と白布二百反・藍摺三百反・色皮二十枚・米四十石(約600kg)、大江廣元朝臣三善善信二階堂行光がこれを差配した。
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   ※泥塔: 紀元前5世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤に
マガダ国のアショーカ王が取り出し八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形とされる。
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   ※補足: 六勝寺は平安時代末期に建てられた六宇の勅願寺でそれぞれ
山号に「勝」の字を持つ。位置はこちら、更に詳細は wikiを参照されたし。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月1日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)の病状は深刻のまま変わらず祈祷も治療も効果が見られない。このため鎌倉中が大騒動を呈し、近国の御家人が競って集まってくる。人々が気に懸けているのは叔父(北條義時)と甥(頼家)の間が上仲になり関東の安定が損なわれるのを危惧するためである。
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   ※不仲: 頼家暗殺計画は義時も政子も暗黙の承知はしていたと思うが、直接の関与はなかったと思うべきか。
不仲は叔父の義時ではなく祖父の時政、彼は頼朝挙兵に協力した頃から貴種として貴重な存在の頼朝を使って覇権を握る夢を描いた筈。頼朝の事故死(もちろん暗殺だった可能性もある)は老齢を迎えつつあった満65歳の時政にとっては千載一遇のチャンスだった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月2日
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吾妻鏡
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今朝、廷尉比企能員の娘(将軍の愛妾で若公(一幡)の母、元女官の若狭局)が北條時政追討を頼家に訴えた。
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家督に加えて地頭職まで分割すれば権威が二つに分かれて必ず争いを招きます。(将軍家の)息子と弟の双方に配慮したように見えても国が乱れる原因になるでしょう。遠州(北條時政)の一族を滅ぼさなければ家督を奪われるのは間違いありません。
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これに驚愕した将軍は比企能員を病床に呼んで時政の処遇を相談し、追討することを決めた。障子の陰でこの密談を聞いていた尼御台所は女房を通じて時政に知らせようとしたが、時政は法事を営むため名越邸に向かって御所を出た後だった。尼御台所は取り敢えずの概略を書いて女房に跡を追わせ、追い付いて渡すことができた。
時政は手紙を読んで涙を流し、再び乗馬して思案後に馬を回し大膳大夫大江廣元朝臣邸に入り面談した。
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最近は比企能員が権威を嵩にして御家人を軽んじているのは周知である。
将軍が病床にあって判断力が弱っているのを利用して謀叛を企てているとの報告があった。これは先に討伐すべきと考えるが、如何か
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大江広元は「私は頼朝将軍の時代から政治について補佐してきましたが軍事面での是非は把握していません。討伐については貴方が御判断ください」と答えた。
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時政は席を起ち、天野民部入道蓮景新田四郎忠常を従え莅柄天神社の前に来て馬を止め「謀叛を企てている能員を今日中に討伐する。討手を勤めよ。」と命じた。
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天野蓮景は「軍兵を送る必要はありません。たかが老人、御前に呼んで殺せば済むでしょう。」と答え、屋敷に戻って打ち合わせを行なった。時政は更に協議を重ねるため大江廣元を招いた。関与を避けたい廣元も断り切れず、同行を申し出た家臣には「考えがある」と言って押し止め、飯富源太宗長だけを伴って名越邸に向かった。
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   右画像は廣元邸・比企邸・吊越邸を含む概略地図(クリック→ 拡大)。.
廣元は途中で宗長に次のように語ってから名越邸に入った。
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世の中の動きは著しく危険である。重要な事柄は今朝の面談で細かく評議したが、再度の呼び出しの意味するところは判らぬ。もし不慮の出来事があれば汝はまず私を殺すように。
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面談は長い時間を費やしたがその間の宗長は廣元の近くから離れず、午刻(正午前後)に退出した。
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時政は以前から名越邸で彫っていた薬師如来像開眼供養のため葉上律師を導師として法会を営み、その際には尼御台所も結縁のため入御の予定である。時政は工藤五郎を送って比企能員に伝えさせた。
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祈願することがあって仏像の開眼供養を行いたいので来臨を願いたい。併せて諸般について相談したいため早急に御足労ください。
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使者が帰ってから能員の子息や近親は能員を諌めて説き伏せようとした。
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色々の噂を聞いて策謀を巡らしたかも知れませんから軽々しく行ってはなりません。行くのなら家の子や郎従に武装させて同行させるべきです。
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能員はその諌めには応じず、次のように言い残して邸を出た。
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それでは警護ではなく、疑いを深める結果になる。甲冑の兵を伴えば鎌倉中が騒ぎになるのは目に見える。
仏事と結縁について、また家督相続についての相談だろうから急いで出掛けてくる。
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一方の時政は甲冑を着けて中野四郎と市河別当五郎を呼び、弓箭を持って門の両袖に待機するよう指示を下した。この二人は弓の名手で、征箭一腰(実戦用の矢24本)を二つに分けて手に持ち、門の両袖に控えた。
天野蓮景(遠景)と仁田忠常は腹巻(鎧の胴部分)を着けて西南の脇戸の内側に待機した。
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暫くして非武装の能員が平服のまま黒馬に跨って到着、連れているのは郎党二人と雑色五人である。 惣門を入り廊下を通って北面に向かったところで蓮景と忠常が脇戸の両側から出て能員の腕を捉え、庭の竹藪に押さえ付けて刺し殺した。時政は離れた座敷からこれを眺めた。
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能員の従者は走り帰って事の次第を報告、比企一族と郎従は一幡君の小御所に立て籠って合戦に備え、未三刻(14時半)に尼御台所(政子)の命令を受けた軍兵が討ち入った。
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寄せ手は江間四郎(北條義時)殿・ 同太郎(泰時)主・ 武蔵守朝政(平賀朝雅) ・左衛門尉小山朝政 ・同(長沼)五郎宗政 ・同七郎(結城)朝光畠山次郎重忠榛谷四郎重朝 ・兵衛尉三浦平六義村 ・左衛門尉和田義盛 ・同兵衛尉常盛 ・同小四郎景長・土肥先次郎惟光・後藤左衛門尉信康・右衛門尉伊賀(所)朝光 ・尾籐次知景・工藤小次郎行光金窪太郎行親加藤次郎景廉 ・同太郎(遠山)景朝仁田四郎忠常 らの大軍である。
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比企三郎・同四郎・同五郎・河原田次郎(能員の猶子)・笠原十郎左衛門尉親景・中山五郎為重・兵衛尉糟屋籐太有季 (この三人は能員の娘聟)らが必死に防戦し、激しい戦いは申刻(16時前後)まで続いた。加藤景廉・尾籐次知景・和田景長と郎従数人が負傷して後退した。畠山重忠は郎従を交代させながら攻め続け、笠原親景らは遂に禦ぎきれず館に放火し一幡君の前で自刃、一幡君もこの災厄から逃れることは出来なかった
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   右画像は焼け残った一幡の小袖を葬った「袖塚」。画像をクリック→ 妙本寺の詳細(別窓)へ。
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能員の嫡男余一兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが道に出たところで加藤景廉が殺し首を挙げた。その後に時政は大岡判官時親を派遣して死骸を確認させ、夜に入なって能員の舅である渋河刑部丞を殺した。
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   ※廣元の述懐: この殺戮に懐疑的な姿勢を見せつつ容認する廣元の行動が意味するのは何か。ひょっとすると
後世になって吾妻鏡の編纂に関与した廣元の一族が修飾したのかも...と考える私の思い過ごしだろうね。物事を素直に信じない性格だから(笑)。
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   ※小御所: 比企能員邸敷地の北側、滑川よりの高台・蛇苦止堂の近くにあったらしい。風が吹くと琴のような音を
響かせた「琴弾の松」があった、と伝わる。詳細は「妙本寺」の末尾近くで。
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   ※一幡の最期: 吾妻鏡は9月3日に「遺体は確認できなかったが数cm焼け残った菊模様の小袖を確認した」と
書き、愚管抄は11月3日の条に「義時の郎党籘馬が一幡を捕えて刺し殺した」と書いている。
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生母の若狭局は...生き残った、焼け死んだ、井戸に身を投げた、井戸に身を投げたのは妹の讃岐局だ、いや若狭局と讃岐局と同一人物だ、などなど諸説紛々である。
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比企尼の本領・武蔵国比企郡には「比企尼と若狭局が頼家と一幡の菩提を弔いつつ生涯を終えた」との伝承が残っている。この詳細は比企禅尼と若狭局で。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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愚管抄
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9月2日
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北條時政は比企能員を呼び寄せ、遠景入道が組み付いて仁田四郎に刺し殺させた。更に武士を派遣して病床の頼家を大江廣元邸に拘禁した。息子の一万御前は人を送って討とうとしたが母親が抱いて脇の門から逃げ出した。
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館に籠った郎党は逃げずに全て打ち取られた。粕谷有末(有季)は降伏せず、八人を殺して討ち死にしたため誰もがこれを惜しんだ。その他、笠原十郎左衛門親景や渋河刑部兼忠など著吊な武士は皆討ち取られた。能員の息子や娘聟の児玉党なども全て討たれた。
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   ※愚管抄: 天台座主慈圓が著した史論書。成立は承久二年(1220)、貴族社会の一員ながら貴族の時代から
武士の時代に歴史が変化していると捉え、頼朝の政治を肯定的に認識しているのが面白い。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月3日
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吾妻鏡
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比企能員に与した残党を捜索している。ある者は流罪、ある者は死罪など多くが処断された。妻妾と二歳の男子らは縁戚関係にある和田左衛門尉義盛に預けて所領の安房国に送られた。
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今日、(一幡の)小御所跡で大輔房源性(頼家の蹴鞠仲間だった僧)が故一幡君の遺骨を探したが、焼け残った死骸などが入り混じって見付からない。一幡君の乳母の話では最後に着ていたのは菊模様が付いた小袖との事、ある死骸の右脇下の小袖が僅か一寸(3cm)ほど焼け残り、そこに菊の模様が確認できた。源性はこの布切れを袋に入れて首に懸け、奥の院に納めるため高野山に向った。
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   ※安房の所領: 現在の南房総市和田町の一帯。平安末期に安房国への進出を
狙って和田郷に橋頭堡を確保した三浦義明は長男の杉本義宗に水軍を与えて奇襲を狙ったが、長狭郡を支配していた平家側の土豪長狭六郎常伴に迎撃されて敗北した。
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矢傷を負った義宗は鎌倉の杉本城に撤退して死没したが、長狭一族は治承四年(1180)に頼朝と共に進出した源氏連合軍に敗れて滅亡し、和田郷と長狭郡の一部は和田義盛の支配下に入った。
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ちなみに、杉本城は現在の杉本寺で相模国南部を支配していた大場氏や鎌倉氏の進出を防ぐ三浦一族の最前線でもあった。
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和田義盛と比企氏妻妾の縁戚関係は判らないが「妻妾」は一品房昌寛の娘と足助重長の娘、「二歳の男子」は 公暁栄實禅暁竹御所(名前は成人後)。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月4日
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吾妻鏡
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小笠原弥太郎(長経)・中野五郎・細野兵衛尉らを拘禁した。将軍の外祖父となった比企能員の権威を利用し、去る2日の合戦で能員の子息らと一緒だった嫌疑である。島津左衛門尉忠久は大隅・薩摩・日向の守護職を没収された。これは比企氏との縁座が理由である。また加賀房義印は無抵抗のまま侍所に出頭した。
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   ※小笠原長経: 小笠原長清の長男。特に罪を問われる事はなかったが本領の甲斐に引き上げて蟄居を続け、
承久の乱(1221)後に父を継いで阿波国守護に任じた。小笠原本家の家督は弟の伴野(小笠原)時長が継承し小笠原氏嫡流伴野氏の祖となっている。
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   ※中野五郎: 9月4日付で北條時政が「信濃国の住人中野五郎は本領を安堵」との文書を発行している。
この文書は酒田市の本間美術館が収蔵している市河文書(長野県北部(山ノ内町・木島平村)の一帯を支配した市河氏に伝わった古文書)に含まれていたもので、「中野五郎は時政のスパイ」説の根拠になっている。市河氏は甲斐市河荘に土着した市河別当覚義(新羅三郎義光の末子)の子孫だね。→ 甲斐市河荘を参考に。
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   ※島津忠久: 吾妻鏡は「是又依能員縁坐也」と書いているだけで詳細が判らない。生母である比企尼の長女
丹後内侍)が安達盛長と婚姻する前に産んだとされるのが忠久だが、そこまで古い事を「比企能員縁坐」として追求したのでもあるまいが...。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月5日
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吾妻鏡
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将軍家(頼家)は少し回復し命に別状のない状態になったが、若君と能員一族が皆殺しになったと聞いて憤激し、密かに遠州 (北條時政)の追討を和田左衛門尉義盛新田四郎忠常に命じる御書を堀籐次親家に託して届けた。
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しかし受け取った和田義盛は考えた末にこの御書を時政に提出し、時政は
堀籐次親家を捕らえ工藤小次郎行光に命じて殺させた。
これにより将軍家の苦悩は更に深まる結果となった。
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右画像は中伊豆に近い堀籐次親家の本領跡に建つ「籐次屋敷」の碑。
碑文には「北條氏を憚って長い間供養する事も出来なかった」とある。
        画像をクリック→ 堀親家の本領(別窓)へ。
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   ※頼家死没情報: 明月記(藤原定家の日記)にはこの事件について9月
7日の条に次のように記録している。
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左衛門督頼家卿死没の知らせが届き京都は大騒ぎになった。頼家の跡目を郎従が争い、息子(六歳または四歳)が外祖父の遠江国司時政に殺され、在京の近臣も殺されるか捕縛の措置を受けた。
金吾(頼家)の幼い弟(成長後の実朝)が家督を継ぐ旨の宣旨が発行された。
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また猪隈関白記(幕府にも信頼された関白・近衛家實の日記)の9月7日には「内大臣藤原隆忠を上卿(筆頭担当公卿)として従五位下征夷大将軍補任の除目が行われ、 後鳥羽上皇が「実朝の名を定めた」との記述がある。
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一方で吾妻鏡の9月15日は「征夷大将軍に補任するとの宣旨が下った」と書いているが、同一補任に「除目」と「宣旨」を重複発行した例はなく、吾妻鏡の記事は虚偽の可能性が高い。
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また、「除」は前任者(頼家)を削除して新任者(実朝)を任命する意味で、「目」はそれを記録する意味。この文書の発行が頼家の生存中だった事実にも着目する必要がある。
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鎌倉から届いた報告書は「9月1日に頼家死没」の内容で、頼家の病状は重篤ではあったが明らかに生存していた。
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鎌倉から京都への飛脚便はどんなに急いでも4日ほどだから、頼家の生存中に「将軍死没と弟の家督相続」の連絡が入って許認可の宣旨が下された事になる。
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状況は時政の計画通りに推移したけれど、もっと早く死ぬ筈の頼家が予想より強い生命力を持っていたのが唯一の計算違いだった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月6日
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吾妻鏡
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夕刻になって遠州(北條時政)は比企能員追討の恩賞を与えるため新田四郎忠常を名越邸に呼んだ。邸に入った忠常が暗くなっても出て来ないのを不審に思った供の舎人が馬を引いて帰宅し弟の五郎と六郎に報告した。
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五郎と六郎は将軍家が忠常に時政追討を命じたのが露見して殺されたと考え、江間殿(北條義時)の元を目指した。義時は大御所(前将軍頼朝の住居跡で現在は尼御台所邸)に居たため五郎らは駆け寄って矢を放ち義時の家臣がこれに応戦、五郎は波多野忠綱に討ち取られ、六郎は台所に火を掛けて自殺した。
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この煙を見た御家人が競って集まってきた。一方で何事もなく名越邸を出た忠常は自宅に戻る途中でこの騒ぎを知り、「この上は命など惜しまぬ」として御所を目指して走り、加藤次景廉に討ち取られた。
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   ※忠常の動き: 和田義盛は頼家の命令書を時政に届けたが、それを怠った忠常を警戒した時政が殺害を命じた
可能性もある。堀親家も忠常も挙兵以来の頼朝近臣だが、時政には特に必要な人材ではない。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月7日
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吾妻鏡
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亥刻(10時前後)に将軍家(頼家)が落餝(剃髪出家)された。病気である上に、一族と鎌倉を統治し難い状態を危惧した 尼御台所の指示により、不本意ながらこの結果となった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月10日
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吾妻鏡
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千幡君(後の実朝)を将軍家に推す旨の決定があった。若君は今日尼御台所邸から女房 阿波局(乳母で女官)と輿で遠州(北條時政)の名越邸に渡御された。輿の警護は江間太郎(北條泰時)殿と三浦兵衛尉義村が務めた。
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今日、御家人らの所領は変更なしとの御書が遠州の代行で発行された。
予期せぬ騒動を警戒するためである。
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   ※愚管抄の記述: 頼家入道を伊豆修禅寺という山中の堂に押し込めた。
8月31日に出家して大江廣元の邸に拘禁され、自分が出家した後は一幡君の治世になると考えていた。
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病気から回復した9月2日には一幡君が殺されたことを知り、太刀を握って立ち上がった。病後のため思い通りに動けず、母の尼らが取り押さえた後に修禅寺に押し込めたものである。
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          右画像は頼家が幽閉された修禅寺近くの庵跡。台風の土砂崩れで流失し、現在は痕跡を残すのみ。
              画像をクリック→ 頼家の墓所(別窓)へ。庵の跡は頼家廟所の後半に記載してある。

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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月12日
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吾妻鏡
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鼓判官平知康と紀内所行景に帰洛が命じられた。大江廣元朝臣が手配し、今日早朝に各々出発した。
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   ※知康と行景: 頼家の蹴鞠仲間として楽しい思いをした鼓の名手と蹴鞠の「名足」はお払い箱に。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月15日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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阿波局尼御台所の元を訪れて言上した。
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若君が遠州(北條時政)の名越邸に滞在するのは当然ですが、 牧の御方の様子を見ていると何か悪意が感じられ、乳母の立場としては安心できません。事件が起きない内にこちらにお迎えする方が良いと思います。
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尼御台所は時を移さず江間四郎義時三浦平六兵衛尉義村結城七郎朝光を派遣して若君を自邸に迎え入れた。時政は事情が分からず狼狽し女房(女官)の駿河局を介して尼御台所に問い合わせ、次の返答を得た。
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成人するまでは此方で養育すべと考えます。
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幕下大将軍(頼朝)二男の若君(名を千幡君、後の実朝)を関東の長者(棟梁)とし、去る七日に従五位下の叙位記録および 征夷大将軍の宣旨が下され、その書状が今日鎌倉に到着した。

   ※宣旨: これが9月5日に載せた「除目」と「宣旨」の重複はあり得ない話の続きになる。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月17日
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吾妻鏡
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掃部頭入道寂忍(中原親能)が書状で報告、比叡山の衆徒の間で確執があり合戦にまで発展した。原因は去る5月の頃に堂衆と学生が上仲になり、別々に温室(入浴施設)を造る状態になってからである。
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8月1日に学生は大納言岡と南谷の走井坊に城柵を設けて堂衆を締め出し、6日には堂衆が三ヶ所の荘園を管理する武士を伴って城柵を攻撃し多数の死傷者を出す騒ぎになった。争いを停止せよとの院宣が発せられて堂衆は退去し、学生は城柵を出て京都に下った。これで沈静化したと思っていたら28日に再び騒ぎとなり、学僧は団結して霊山・長楽寺・祇園に集まり狼藉を行っている。
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   ※掃部頭: 宮内省に属する掃部寮(宮中の管理などに任じる)の長。御家人と兼任で京都に常駐した。
親能は乙姫(頼朝の次女三幡)が危篤の際にも鎌倉に駆け付けている。
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   ※学生と堂衆: 学生は比叡山や高野山で学問の習得を専門とする僧、堂衆は寺院で雑役を担当した下級の僧。
   ※霊山・長楽寺・祇園: いずれも東山区円山公園の一帯(周辺地図)。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月19日
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吾妻鏡
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比企判官能員の残党である中野五郎義成らについて所領没収の処分が下された。

   ※所領没収: 9月4日に記載した市河文書の「本領を安堵する云々」の時政下文を参照。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月21日
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吾妻鏡
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遠州(北條時政)と大官令(大江廣元)の協議を経て決裁。出家した前将軍は鎌倉居住を禁じる命令が下った

   ※将軍の決裁: 形式的には将軍実朝の決裁だが年齢は満10歳を過ぎたばかり。傀儡政権のスタートである。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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9月29日
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吾妻鏡
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左金吾禅室(前将軍の頼家)が巳刻(10時前後)に鎌倉を発って伊豆国修禅寺に下向された。先陣の随兵は百騎、続いて女騎馬武者十五騎、続いて輿三台、続いて小舎人童一人(征箭(実戦用の矢)を背負って騎馬 )、次に後陣の随兵二百余騎である。
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   ※左金吾禅室: 左衛門督(の唐名)+僧籍に入った者、を意味する。
社長が係長に格下げされたような表現だ。
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   ※修禅寺と修善寺: きちんと使い分ける必要がある。寺の名は修禅寺
で、地名と駅名は修善寺。昔は両方とも「修禅寺」だったと思うが、いつの頃からか見境なく「修善寺」が使われるようになった。
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    右画像は虎渓橋から見た修禅寺山門。ここには多くの思い出がある。
    画像をクリックして修禅寺周辺の散策を、御一緒にどうぞ(別窓)。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月 3日
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吾妻鏡
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武蔵守平賀朝雅が京都警固のため上洛。近畿以西に所領を持っている御家人は朝雅の指揮下に入って在京せよとの御書が回覧された。
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   ※平賀朝雅: 源氏の長老平賀義信の次男で北條時政の娘婿(後妻牧の方との間に産まれた娘の聟)。
頼家を失脚させ幕政の実権を握った時政夫妻の次の目標は「いずれ実朝も排除して源氏の血を引く朝雅を将軍に擁立し、併せて政範(牧の方との間に産まれた唯一の男子)に北條の家督を譲り、いずれは二代執権に推挙する」ことだったらしい。
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第一段階として朝雅に京都守護として実績を挙げさせるべくバックアップし、武蔵国司として邪魔な存在の畠山重忠(武蔵留守所惣検校職の名誉職を持つ)など秩父平氏系豪族の駆逐を計画したのだろう。政範は元久元年(1204)の年末に病死して夢の一部は潰えるのだが、その翌年6月には重忠追討を実行に移すことになる。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月 8日
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吾妻鏡
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今日、将軍家(12歳)の御元朊である。戌刻(20時前後)に遠州(北條時政)の名越邸で式典が行われた。
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前大膳大夫大江廣元朝臣小山左衛門尉朝政安達九郎左衛門尉景盛和田左衛門尉義盛中條右衛門尉家長ら御家人百余人が侍の座に着き、江間四郎主(北條義時)と左近大夫将監親廣が道具を揃えた。
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定刻に出御され理髪は遠州(時政)、加冠は前武蔵守平賀義信。 次いで休所に移動して食事の儀、義時と親廣が給仕役を務めた。運ぶ役に任じたのは結城七郎朝光和田兵衛尉常盛、同三郎重茂、東太郎重胤、波多野次郎経朝、桜井次郎光高らである(近習の中で身分が低く両親が健在の者を選抜)。
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次いで鎧と御劔と御馬を献上、左衛門尉佐々木廣綱 、兵衛尉千葉平次常秀結城七郎朝光らがこれを務めた。
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   ※メンバー紹介: 和田重茂は誰だ?常盛の弟で三郎なら朝比奈義秀だけど。東重胤は東胤頼の嫡男、波多野
経朝は義重の庶兄、桜井光高は素性不明。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月 9日
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吾妻鏡
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新将軍家(実朝)による政所の執務始めである。
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午刻(正午前後)に政所別当の遠州(北條時政)と大江廣元朝臣らの家司(各々平朊)が政所に集合した。
民部丞行光が吉書を書き、図書允清定が返抄(受け取り状)を介して遠州が吉書を御前に運んだ。出御はせず簾中でこれを御覧になった。遠州が元の座に戻ってから椀飯と盃酒の儀式を行った。
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その後に初めて甲冑を着け乗馬され、遠州がこれを補助した。
小山左衛門尉朝政足立左衛門尉遠元が甲冑と母衣(矢を防ぐ布)を着ける補佐に任じ、執権の時政が故実に従って手順を指導した。
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夜になって北條五郎時房の差配により御弓始めあり。記録は図書允清原清定和田左衛門尉義盛が的の手配を行った。
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   射手
      一番 和田左衛門尉義盛  海野小太郎幸氏
      二番 榛谷四郎重朝     望月三郎重隆
      三番 愛甲三郎季隆     市河五郎行重(信濃市河氏か)
      四番 工藤小次郎行光    藤澤四郎清親
      五番 小山七郎朝光     和田平太胤長(和田左衛門尉義盛の弟義長の嫡男)
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   ※母衣: 背後からの流れ矢などを防ぐ布。右画像は「一ノ谷合戦屏風」から、敦盛を呼び止める熊谷直實
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月10日
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吾妻鏡
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昨日行なった御弓始めの射手十人を北面(私邸)中庭に呼んで褒賞を与えた。野剣(公家や衛府の兵仗(実戦用)の太刀)を一振あるいは腹巻一領である。
東太郎重胤(胤頼の嫡子)・和田兵衛尉常盛・足立八郎らを介して与えた。
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   ※足立八郎: 遠元の孫にあたる左衛門尉遠政(遠元--遠光--遠政)か。承元二年(1208)に新補地頭として
丹波国佐治庄(現在の丹波市青垣町・地図)に土着し丹波足立氏の祖となっている。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月13日
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吾妻鏡
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法花堂(頼朝の法華堂)で故大将軍の追善供養を行った。導師は真智坊法橋、将軍家(実朝)も参席された。
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   ※法華堂: 本来は悟りに近づくため法華経を読み学ぶための場所だが、平安時代末期以後は身分の高い人の
納骨堂も法華堂あるいは墳墓堂と呼ぶようになったらしい。頼朝の法華堂は江戸時代に造成した現在の墓所に登る石段の手前・左手に建つ白旗神社の位置にあった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月14日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮と二所(伊豆山権現箱根権現)、 野木神社三嶋大社、 (以下は公式サイト)  日光二荒山神社宇都宮二荒山神社鷲宮神社 の諸社に神馬を奉紊した。世の中が無事に過ぎている事に報いる寄進である。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月19日
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吾妻鏡
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佐々木左衛門尉定綱中條右衛門尉家長が上洛、これは実朝将軍になってから初めての派遣である。
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京畿の御家人らは特に忠節を心掛け、異心を抱かぬように命令を下した。またその旨の起請文(誓詞)を提出させよとの内容を武蔵守平賀朝雅と掃部頭入道寂忍(中原親能)らに指示する目的もある。二人は去る9日に出発した。
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   ※京都守護: 初代の北條時政は文治元年(1185)11月~同二年(1186)3月、
二代の一条能保は文治二年(1186)3月~建久八年(1197)10月(病死)、
三代の一条高能(能保の嫡男)は建久八年(1197)10月~建久九年(1198)9月(病死)、
四代の平賀朝雅は建久三年(1203)10月~元久二年(1205)閏7月(追討)、の順になる。
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近年発見の「六波羅守護次第」に拠れば、一条高能と平賀朝雅の間(1198~1203年)は
土肥實平--牧国親--五条有範--中原親能--里見義直が任じたとの記載がある。
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土肥實平は建久二年(1191)に没しているから何らかの齟齬の可能性もあるが、複数の守護が存在したのは事実だろう。牧国親は牧の方の父または兄(年齢的に、牧宗親は兄だと思う)、五条有範は在京の御家人で建久三年(1203)10月に平賀朝雅を追討し承久の乱後に宮方として斬首された武士、里見義直は義成の末子で美濃里見氏の祖。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月25日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は荘厳房行勇を御所に招いて法華経の講義を受けた。近習の男女も同席である。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月26日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が到着して次の通り報告した。
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去る10日に比叡山の堂衆が八王子山に城柵を構えと立て籠ったため15日に官軍を派遣して攻撃し退去させたが、この合戦でり葛西四郎重元・豊嶋太郎朝経・佐々木太郎重綱ら官軍の300名が悪徒に討ち取られた。
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伊佐太郎・熊谷三郎らが先頭に立って攻め込み、同19日には五幾七道(つまり全国)に対して堂衆を捕獲し連行せよとの命令が朝廷から発せられた。この経緯の中で悲しむべき事件が起きた。
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佐々木中務丞経高三郎兵衛尉盛綱の兄弟は勅命に従って比叡山に向け出陣する際、墨染の衣に桧笠姿の佐々木四郎左衛門尉高綱入道(兄弟の弟)が高野山から下って面談した。高綱入道は長男の左衛門太郎重綱が経高に従って出陣する姿を見て何も語らず、重綱はそのまま引き下がった。
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経高と盛綱は重綱の甲冑姿を評して「今回の合戦で勲功を挙げ恩賞を受けるのは間違いなかろう。」と語ったが、高綱入道は「武士は出陣の際には適正な武具を選ばねばなりません。まず軽くて動きやすい甲冑と短くて扱いやすい弓を選ぶのが故実ですが、重綱の選んだ甲冑は重いし弓も上相応に長い。これでは討死を避けられません。私はこの故実に従って幾多の合戦を戦い、一つとして間違いはありませんでした。」と語っていた。
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   ※八王子山: 現在のケーブル坂本駅の北西、日吉社(標高160m)
の西500mで標高は381m(地図)。
高綱は山岳での戦闘を前提にした武装をすべきと言ったのだろうが、その故実を教えるのが先輩である父親の役目でしょ!  と私が怒ってもしょーがないけど(笑)
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   ※他の武士: 葛西重元は清重の子だと思うが系図に載っていない。
豊嶋氏は葛西氏の本家筋なのだが同様に朝経は見当たらない。清重の従兄弟が豊島朝綱だから彼の子か。
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伊佐氏は常陸国伊佐郡出身で伊達氏の祖と多気氏の庶流の二つがある。
熊谷三郎は...直実が次郎で長男の直家が小次郎だから弟の実景か直勝だろう、たぶん。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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10月27日
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吾妻鏡
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武蔵国御家人の諸族は遠州(北條時政)に対して異心を抱かぬよう特に仰せが発せられた。
この指示は和田左衛門尉義盛を介しての沙汰である。
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   ※特に仰せ: 満11歳の実朝がこんな気の利いた命令を出せる筈がない。傀儡政権が始まった、という事。
時政の意図は既に武蔵国の支配権掌握に向けられていた。武蔵国司は時政の娘婿平賀朝雅だから、武蔵国に強い地盤を持つ畠山重忠と秩父平氏の諸族がターゲットになる。
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頼朝が「源家を守護し補佐せよ、と重忠に遺言した」との出典は源平盛衰記だと思うが、詳細は確認していない。これが真実であれば頼朝の孫一幡(頼家の子)を攻めて殺害に追い込んだ重忠の忠誠心や清廉潔白さも著しく疑わしい事になるが...そういう時代背景だったんだろうね。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月3日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は鶴岡八幡宮に慶賀の後、神馬を石清水八幡宮に初めて奉紊する手配を行った。代参の使者は和田兵衛尉常盛(狩衣を着す)が務めた。
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   慶賀: 意味は拝賀と同じ。9月15日に宣旨を受けて征夷大将軍に任じた事に感謝する参詣を意味する。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月6日
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吾妻鏡
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左金吾禅室(頼家)が伊豆国から尼御台所と将軍家(実朝)に書状を送ってきた。
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山奥のため時が過ぎるのを持て余す状態なので召し使っていた近習らの呼び寄せを認めて頂きたい。また、懲罰を加えるため安達右衛門尉景盛の引渡しを求める。と。
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尼御台所は三浦兵衛尉義村を派遣し、「どちらの所望も認めない。今後は書状の送達も禁じる」と申し送った。
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   ※鉄の女、政子: それなりの愛情や憐憫はあった、とは思う。実の息子を見捨てて死に至らしめるのは辛いが、
彼女の選択に基づく北條嫡流の繁栄は全てに優先する、との価値判断なのだろうね。これは頼家や実朝のみならず頼朝に対しても同じだったと思う。
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      岡本綺堂の紀行文「秋の修善寺」の中に、次の一節がある。
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~前略~ 頼家の墓所は単に塔の峯の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡というそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来り弔って、空ゆく月を打仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我子の上よ《と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡ということになったとか。 ~後略~  更に詳細は修禅寺 指月殿で。
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      感傷的な岡本綺堂さん...政子にも幾分の悲しみはあっただろうが、同じ状況の際には冷徹に同じ対応を
繰り返した冷酷な性格だったのも事実。そもそも「指月」の月は教典を意味する言葉で、「経典を差して教えても凡愚な者は指しか見ない」との説話を意味している。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月7日
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吾妻鏡
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入道左金吾(頼家)の近習である中野五郎らを遠流に処すとの決裁が下された。
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   ※中野五郎遠流: 9月4日に記載した「市河文書」と照合して裏工作の有無を想像しよう。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月9日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が前大膳大夫廣元朝臣邸に入御、尼御台所も同じく渡御された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月10日
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吾妻鏡
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三浦兵衛尉義村が伊豆修禅寺から帰参し左金吾禅室(頼家)の御閑居(幽閉と言うべきか)状態の詳細を報告した。尼御台所の悲嘆は大きかった。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月15日
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吾妻鏡
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鎌倉中の寺社奉行について改めて決定が下され、書記として中原仲業と図書允清原清定が記録に残した。
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     鶴岡八幡宮......江間四郎(北條義時)  和田左衛門尉義盛  図書允清原清定
     勝長寿院........畠山次郎重忠  三浦兵衛尉義村  三善康清
     阿弥陀堂 .......北條五郎時房  大和前司山田重弘  足立左衛門尉遠元
     薬師堂.........源左近大夫将監親広  千葉兵衛尉(境)常秀  籐民部丞二階堂行政
     右大将家法華堂...安達右衛門尉景盛  結城七郎朝光  中條右衛門尉家長
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   ※阿弥陀堂と薬師堂: 共に永福寺の敷地内。各々寺社奉行を三人配置
した事からも永福寺の壮大な規模が想像できる。
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   ※清原清定: 公事奉行人や政所寄人に任じて多くの訴訟に関わった
文官。建久五年(1194)から大庭景義と共に鶴岡八幡宮の寺社奉行に任じていたから担当の変更ということか。
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   右画像は大倉御所を囲む寺社の位置(画像をクリック→ 拡大表示).
西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月19日
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吾妻鏡
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関東御分国および相模国と伊豆国の百姓に今年の年貢納付量を減じる布告を行った。将軍が交代した最初として農家を労わる善政である。
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   ※関東御分国: この場合の関東は東国の意味ではなく鎌倉幕府の知行国を差す。時代により増減し、建仁三年
現在では駿河・武蔵・伊豆・相模・越後・下総の六ヶ国。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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11月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が御所の馬場殿で小笠懸、遠州(北條時政)がこれを沙汰した。
小山左衛門尉朝政和田左衛門尉義盛が小笠懸の扶助を行い、それぞれ報奨として馬を与えられた。
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   ※小笠懸: 建久元年(1190)4月11日に画像と騎射芸について述べてある。参照されたし。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)祈願のため鶴岡八幡宮の上宮と下宮で法華八講を行った。師は安楽坊、右京進中原仲業が奉行として廟庭に控えた。尼御台所も輿で出御し廻廊に参席された。
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   ※上宮と下宮: 八幡宮社殿は建久二年(1191)3月4日の大火で焼失した直後に石段上の平場に再建したが、
同時に従来の神殿の跡にも若宮を再建した。厳密には石段上に遷して上宮(本宮)とし、遷った跡に下宮(若宮)を建てた、という事。
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   ※法華八講: 法華経の八巻を最初から一巻ずつ8回に分けて講義し称える法会。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月3日
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吾妻鏡
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尼御台所の御意に基づいて鶴岡八幡宮別当阿闍梨(尊暁)に指示し、宮寺での塔婆建設を中止した。 この塔は建立した直後の火災で八幡宮を始め鎌倉の数町が焼失、更に復興するため地割りをした数日後には金吾将軍(頼家)が重病になった経緯がある。不吉であるとの沙汰が発せられたためである。
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   ※宮寺の塔婆: 塔が焼け落ちたのは建久二年(1191)3月4日の火災、再建するための地割りは今年の2月
11日(画像などの記載あり)、頼家の発病は3月10日。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月13日
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吾妻鏡
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武蔵国国衙の染殿別当職について、故幕下将軍が決めていた通りに上野局を在任させる。
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   ※染殿: 布地や絹布を染める建物や組織を表す。上野局は文治三年(1187)6月8日に鎌倉幕府の染殿別当
に任命され、建久六年(1195)7月28日には武蔵国府の染殿別当に転任している。
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彼女は優秀な専門職の女官で、その任務を継続せよとの指示なのだろう。ちなみに、武蔵国府は現在の府中大国魂神社(公式サイト)の一帯で、文治三年当時の国司は平賀義信、現時点の国司は時政の娘婿平賀朝雅
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月14日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が輿に乗って永福寺などの御堂に参詣し本尊に拝礼した。以下の御家人が供として従った。
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   北條五郎時房 右近将監源親廣 大和前司山田重弘 結城七郎朝光 長沼五郎宗政 安達右衛門尉景盛
   三浦兵衛尉義村 足立左衛門尉遠元 千葉兵衛尉(境)常秀 佐々木左衛門尉定綱 和田新兵衛尉常盛
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月15日
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吾妻鏡
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尼御台所の沙汰として、諸国の地頭に許されている狩猟の権限を停止した。図書允清原清定がこれを差配した。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月18日
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吾妻鏡
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提起された訴訟については、関係書類が提出されてから三日が過ぎても決裁が行われない場合は奉行人の怠慢として措置する旨の規定が設けられた。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月22日
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吾妻鏡
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御所内の将軍私邸の雑事については北條五郎時房が管理の任に就くように命令が下された。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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12月25日
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吾妻鏡
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伊勢国守護所に夜討ちがあった。張本人は進士員部行綱であると和田義盛からの報告があった。
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   ※伊勢守護: 元暦二年(1185)~建仁四年(1204)の守護は山内経俊
が任じている。前任の大内惟義は前年の元暦元年(1184)6月の三日平氏の乱への対応が遅れたため(記録にはないが)怠慢の責任を問われて更迭されたらしい。
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守護所の位置は不明だが、国府跡と推定される鈴鹿市広瀬町長者屋敷遺跡(地図)と同居していた可能性が高い。
ヤマトタケル白鳥陵・能褒野陵の近くだ。
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右画像は能褒野陵の正面(画像をクリック→ 拡大表示。)
ヤマトタケル白鳥陵資料の一部は旅のスナップ「三ヶ所の 白鳥陵」の末尾で。
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   ※員部行綱: 員部大領家綱の子。文治三年(1187)6月29日の記事(下記)に関する遺恨だろうか。
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雑色の正光が使者として伊勢国に向かった。伊勢国の沼田御厨畠山重忠が地頭に任じているが目代の別当真正が員部の大領家綱の従者宅で財物を没収した。家綱は神官(外宮の?)を派遣して非法を訴えたため、その罪を糺すための派遣である。また正光が使者の権威を利用して横暴な行為を行えば譴責して仔細を報告せよと、山城介久兼(伊勢国に駐在)に命じた。
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   ※員部大領: 員部は三重県北部の現・いなべ市、大領は郡司の筆頭者を差す。沼田御厨は外宮領として吊が
見える旧飯野郡(ほぼ松阪市)だが正確な位置は上明。
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   ※山城介久兼: 元暦二年(1185)7月23日に記載がある大江久兼を差す。頼朝が京から招いた楽人で事務官
のような業務にも任じていたか、それとも伊勢神宮にでも出張中だったか。
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西暦1203年
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83代 土御門
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建仁三年
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