建仁四年・元久元年(1204年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1204年
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83代 土御門
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建仁四年
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1月5日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝・去年10月24日に右兵衛佐に叙任)が新年最初の鶴岡八幡宮御参拝。前後には墻成(垣根を成す如く)に供者が連なり、太刀持ちは結城朝光が務めた。八幡宮寺で法華経を供養、導師は安楽房で招いた僧は六人、布施は一人当り帖絹三疋(六反)。筑後太郎朝重(八田朝重)がこれを差配した。
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   ※八田朝重: その後も布施の配布などで何度か記録に載っている。建暦三年(1213)5月2日の和田合戦勃発
前夜には「隣家の三浦義盛邸に軍兵が集結している」と大江廣元に連絡を入れている。
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和田義盛邸は八幡宮三の鳥居南東側(地図)と伝わっているから(正直言うと、この説には納得でき兼ねる。もっと南だと思う)、知重邸もこの付近だろう。
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西暦1204年
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83代 土御門
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建仁四年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で心経会を行った。導師は眞智房法橋で招いた僧は六人、将軍家(実朝)は南面(公式の場)に出御した。終了後に布施として馬を与えた。
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   ※心経会: 禍を防ぎ福を招くため般若心経を読み講義する法会。
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西暦1204年
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83代 土御門
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建仁四年
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1月10日
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吾妻鏡
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強い寒風は午刻(正午)になって止み、御弓始めを催した。将軍家実朝が出御し御簾を上げられた。
射手は六人、各々二射づつ五回射終わってから西の廊下で褒賞を受けた。行騰(騎馬用の袴カバー) 、騎馬用の沓、征箭(実戦用の矢)などである。
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    射手
      一番  和田平太胤長    榛谷四郎重朝
      二番  諏訪大夫盛隆  海野小太郎行氏(幸氏)
      三番  望月三郎重隆    吾妻四郎助光
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   ※諏訪盛隆: 盛高=盛隆=盛澄としている系図もあるため諏訪(金刺)盛澄の可能性が高い、と思う。
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   ※吾妻助光: 上野国吾妻郡(群馬県北西部の中之条町・嬬恋村・東吾妻町一帯)を領有した武士で藤原秀郷
子孫を名乗る(秀郷--千常--文侑--兼助--兼成--助亮--助光--行家--)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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建仁四年
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1月12日
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吾妻鏡
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将軍家実朝の御読書(孝経)始めを行った。多くの書籍を集め広い知識を備えている相模権守 源仲章の指導である。読み合わせの後に報奨として砂金五十両と御剣一振を仲章に与えた。
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   ※孝経: 儒教で重視される経書(経典・儒家経典)の一つ。弟子の曽子が孔子の言動を記録した書。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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1月14日
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吾妻鏡
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将軍家実朝が二所詣でに備えて精進潔斎を始めた。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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1月18日
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吾妻鏡
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辰刻(8時前後)に鶴岡八幡宮別当阿闍梨の尊暁が将軍家のために祈祷する目的で二所詣に出発した。
江間四郎主(北條義時)も奉幣使として同行、出発の際に尊暁は従者を門外に待機させ御所の南庭に控えた。
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将軍家は南の階段から庭に降り、伊豆と箱根と三嶋の方向に向いて七度づつ計二十一回拝礼した。
続いて義時が立ち上がり八幡宮に参拝してから出発した。
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   ※二所詣: 今回は義時による代参で、将軍実朝は鎌倉に留まり前浜での精進潔斎のみ行なっている。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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1月22日
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吾妻鏡
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夕暮れの頃に北條義時殿が二所詣から鎌倉に戻って来た。伊豆山走湯権現から直接鎌倉に入ったとの事。
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   ※二所詣: 治承四年(1180)の挙兵の際に加護を得た伊豆山権現と箱根権現(更に三嶋大社も加えて)頼朝
始めた、厳密には三所の巡拝。後白河法皇が再三行った熊野行幸(本宮・速玉大社・那智大社の三所)に倣う意向が頼朝にあったらしく、出発前の精進潔斎も模している。
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吾妻鏡に拠れば最初の頼朝二所詣は文治四年(1188)1月20日で順路は伊豆山→三嶋→箱根。
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二回目の文治六年(1190)1月に頼朝は石橋山合戦場佐奈田余一と郎党豊三の墳墓で落涙し、先達の僧が不吉を申し出て次回から逆ルートに変更した。
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なお、実朝最初の二所詣は妻を迎えて16歳になった建永二年(1207)1月で、それまでは御家人の代参奉幣だった。
頼朝は四回、実朝は都合八回の二所詣を行なっている。
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   右画像は十国峠の実朝歌碑(クリック→日金山(別窓)へ。
   実朝は金槐和歌集に載せた和歌をここで詠んだ、と想像されている。

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              箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ
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歴史家の中には「傀儡将軍だった実朝が「白波に囲まれた沖の小島」に我が身を擬した歌」とする意見もあるが、私には単に情景を詠んだ歌に思える。ちなみに金は鎌倉を、槐は槐門(大臣の唐名)を表す。つまり実朝の私家和歌集である。
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三嶋大社(公式サイト)と訪問記箱根神社(公式サイト)と訪問記伊豆山神社(公式サイト)と訪問記を参照されたし。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での御神楽奉納は通例の通り。前大膳大夫大江廣元朝臣が奉幣の代参を務めた。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月10日
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吾妻鏡
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伊勢国員辨郡司進士の員部行綱が囚人として拘留された。侍所別当和田義盛の訴えによる。
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   ※員部行綱: 前年の12月25日に伊勢国守護所を襲撃した嫌疑。無実が明らかになって5月8日に釈放される。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月12日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が由比浜に出御された。供として従った江間四郎(北條義時)らは水干(狩衣)を着し、各々野箭(狩猟用の矢)もしくは征箭(実戦用の矢)を帯びている。
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北條五郎時房和田平太胤長・多々良四郎義春榛谷四郎重朝海野小太郎幸氏望月三郎重隆諏訪大夫盛隆藤澤次郎清親愛甲三郎季隆が各々小笠懸・遠笠懸を射る様子を実朝は桟敷から観覧された。
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   ※多々良義春: 三浦義明の四男で杉本義宗(和田義盛の父)・三浦義澄佐原義連の弟。
多々良(横須賀市鴨居・地図)の一帯を領有した。子息の重春は治承四年(1180)8月24日に由比ガ浜小坪の合戦で畠山重忠勢に討たれている。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月13日
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吾妻鏡
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(故・頼朝将軍の月命日により)法華堂で追善供養の法事を行った。導師は摩尼房阿闍梨である。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月20日
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吾妻鏡
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各地の庄園に課されている年貢に関しては全て右大将家(頼朝)の頃と同様に処理するよう遠州(北條時政)からの命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月20日
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この日、改元となった。建仁四年を改めて元久元年、勧進者は参議藤原親経。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月21日
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吾妻鏡
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尼御台所が御逆修を始められた。
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   ※逆修: 予修と同じ。生前に自分自身の死後の冥福を祈って行う法事。政子は満47歳、まだ中年の範囲だ。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月22日
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吾妻鏡
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備後国御調本北條の地頭の四方田左近将監が権限を停止し管理権を国衙に付ける旨を北條時政が命じた。
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   ※備後国御調本北條: かつての御調郡北條(現在の尾道市北部の御調町・地図)。調は租税を意味するから、
国衙あるいは郡衙との関係があった可能性が想像される。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月25日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が江間四郎(北條義時)邸に渡御された。
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   ※北條義時邸: 義時が寶戒寺(公式サイト)一帯に小町亭を構えたのは
時政を追放して二代執権に就任した元久二年(1205)の閏7月19日以後、だろうと思う。
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それまでの義時は大倉御所南の金沢街道に沿った関取場跡の碑地図)から荏柄天神社参道入口を経て「エホバの証人」(地図)付近の屋敷(大倉邸)に住んでいた。
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右画像は「エホバの証人」西側。クリック→ 拡大表示
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公的な執務場所を小町亭に移してからの大倉亭は三代執権を継承する嫡子の泰時が住むとともに義時の私的な執務場所を兼ね、建保七年(1219年・5月27日に改元して承久元年)1月27日に八幡宮で実朝が暗殺された際にはここから指揮を執っている。
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元仁元年(1224)6月13日に義時が息を引き取ったのも同じ大倉邸である。大倉邸は泰時以後も使われたが、執権の執務場所は小町亭がメインとなった。
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和田合戦の発端となった和田胤長 邸は荏柄天神社の近くと伝わっており、義時が没収した胤長邸を義盛に渡さず専有したのは義盛を挑発する目的の他に、自邸に隣接した胤長の屋敷が欲しかったのかもしれない...などと勝手な妄想をするのも結構面白い。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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2月28日
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吾妻鏡
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今日は御台所の御逆修結願である。導師は壽福寺方丈が務めた。
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   ※壽福寺方丈: 壽福寺の僧正栄西を差す。釈迦の在家弟子だった維摩居士の家(10尺(3.3m)四方=方丈)
を訪問した文殊菩薩師弟の全員がその狭い中に入る事ができた...そこに全宇宙が内在されていると考え、住職が暮らす建物を方丈と呼び始めた。
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曹洞宗では住職本人も方丈と呼ぶ。鴨長明(下鴨神社禰宜長継の次男、後に出家)が自著を方丈記と名付けた所以でもある。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月1日
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吾妻鏡
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京都朝廷からの使者が到着、先月20日に建仁四年を改め元久元年と改めた。
また、同25日に後鳥羽上皇が天王寺に行幸された。金堂修理の完成供養に出席のためである。
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   ※天王寺: 現在の大阪市にある四天王寺(公式サイト)を差す。日本書紀によれば、推古天皇元年(593年)に
聖徳太子が創建した七大寺の一つで、特定の宗派に属さないのが創建の趣意。
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現在は全仏教的な存在として「和宗総本山」を称しているから信濃善光寺(公式サイト)に近い存在と考えるべきか。境内参拝は24時間可能で無料、駐車場のみ有料(確か30分200円)なのは善光寺よりも素晴らしい!
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の上巳節句に伴う通例の神事と法会が行われた。駿河守中原季時が奉幣の使者を務めた。
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   ※上巳の節句: 平安時代以前から貴族の子女が御所を模した飾り付けなどで遊び無事を願ったのが最初。
その後に武家社会や庶民に広がって定着した。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月9日
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吾妻鏡
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京都から武蔵守平賀朝雅の飛脚が到着して次の通り報告した。
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先ごろ、雅楽助平惟基の子孫らが伊賀国で挙兵し、更には中宮長司の平度光の子息らが伊勢国で挙兵した。いずれも明らかに準備した上での謀反である。
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両国の守護人である山内首藤刑部丞経俊が事情などの聴取を試みたがこれに応じず攻撃してきたため寡兵の経俊は退却し、反乱軍は伊勢と伊賀を占領し鈴鹿関と八峯山などの道路を封鎖した。これにより京都との往来が不可能となった。
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   ※平惟基: 平維盛の息子とされるが真偽は判らない。4月10日に発生し3日後の12日に鎮圧された経緯から
「三日平氏の乱」と呼ばれるが、元暦元年(1184)に勃発した大規模な「三日平氏の乱」とは異なる。
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   ※平度光: 惟基と共に伊賀で挙兵した若菜盛高(藤原忠清の次男・平忠光の子)の兄弟と推定される。
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   ※鈴鹿関と八峯山: 現在の亀山市から鈴鹿峠を越える国道1号(東海道)ルート(地図)と、現在の菰野町から
湯の山温泉を経て鈴鹿山脈を越える現在の国道477号ルート(地図)。
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ずっと前に亀山市の「道の駅 関宿」で国道1号鈴鹿峠の通行止めに遭遇し鈴鹿スカイライン経由に変更したのだが、武平峠が通行止め。やむを得ず施設の劣悪な「道の駅 菰野」でP泊を余儀なくされたから、この地域の状況は実感できる。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月10日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が帰洛の途に就いた。謀叛人の件については伊勢国と伊賀国に軍勢を派遣し厳しく追討せよとの命令を京都守護の平賀朝雅に命令を下した。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月15日
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吾妻鏡
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御所に於いて天台止観の講義を始めた。尼御台所も聴聞のため将軍の元に渡御された。
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   ※天台止観: 摩訶止観と同意。西暦594年に隋の荊州玉泉寺で天台の僧智が講義した内容を弟子である
章安灌頂が纏めた天台三大部の一つ。天台宗の根本的な修行である瞑想法を体系的に記述した世界観の集積、らしい。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月22日
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吾妻鏡
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鎮西(九州)の年貢について、掃部頭入道寂忍(中原親能)に詳細の検査が命じられた。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月27日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が勝長寿院に参拝された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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3月29日
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吾妻鏡
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伊賀と伊勢両国で勃発した平氏の謀叛事件について、その後の措置が著しく不明なため複数の雑色を派遣して近畿の御家人に命令を伝達した。武蔵守平賀朝雅に従って出陣せよとの命令である。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月1日
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吾妻鏡
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駿河・武蔵・越後の諸国については更に検地を実施するよう、三善宣衡中原仲業・坂上明定らを 派遣して調査する指示が下った。大江廣元と図書允清原C定がこれを差配する。
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   ※三善宣衡: 建仁二年(1202)11月9日に「善進士宣衡が...」の記述があるため三善氏の一族なのは確か
だが、それ以上の素性は判らない。同じ三善氏で承久の乱直前の後鳥羽上皇の動きを鎌倉に知らせた官人・三善長衡の系累だった可能性はあるが、康信に近い存在ではない。
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   ※坂上明定: 著名な明法家(法学者)として朝廷に仕えた明定の弟で分館として御家人を務めた。後に石見国
鹿足郡長田別符(現在の島根県邑智郡邑南町・地図)の地頭に任じている。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月10日
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吾妻鏡
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笠置寺(紹介サイト)の解脱上人の使者が先ごろ鎌倉に参着した。笠置寺に於いて磨崖仏を拝礼する堂を建造するために将軍家の寄付を願う為である。今日、砂金などの宝物を使者に託したが奉加帳は与えなかった。
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   ※笠置寺: 法相宗の海住山寺笠置寺、何よりも磨崖仏で知られている。数多い画像はこちら(wiki)、併せて
解脱上人貞慶の詳細も「wiki」で。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月16日
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吾妻鏡
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駿河など三ヶ国の検地については先日決定したが、検討の結果実施が延期された。新しい将軍の政治は民を慈しむ事を大切にして年貢や労働による負担を減らす意図があり、今年検地を行えば農民が休めず善政から外れる結果を招くのを避ける為である。当分の間は行わない、と。
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   ※検地の指示: 4月1日に命令を下している。朝令暮改か、エイプリル・フールか。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月18日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が御夢想のお告げに従って岩殿観音堂に参詣した。遠州(北條時政)および義時時房大江廣元朝臣ら多くの御家人が従い、三浦左衛門尉 佐原義連が食事の手配を行った。
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   ※岩殿観音堂:大倉御所から約4km南東(地図)の海雲山岩殿寺(公式サイト)。開山は行基と伝わり、吾妻鏡
の文治三年(1187)2月23日には大姫が参詣したとの記載がある。近くには大切岸と日蓮法難で知られた猿畠山法性寺があるが、ここの開創は70年も先の話になる。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月20日
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吾妻鏡
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御家人の中に故右大将軍(頼朝)自筆の指示書を持っている者が少なくない。書写して保存したいから提出して御覧に入れるよう仰せが発せられた。清原清定が担当してこれを取り纏める。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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4月21日
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吾妻鏡
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武蔵守平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着、次の通り報告した。
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先月の23日に京都を出て伊賀国に向ったが、既に伊勢平氏が鈴鹿の関所を封鎖していた。険しい山道を進めば合戦を避けて伊賀国に入れるが人馬の通過が困難なので美濃国に迂回し、27日に伊勢国に入った。
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作戦を練った結果、今月の10日から12日にかけて進士三郎基度が守る朝明郡富田の館を襲撃し、基度と弟の松本三郎盛光と同じく四郎と九郎を討ち取った。次に安濃郡で岡八郎貞重と子息らを追討、更に多気郡に進んで庄田三郎佐房と子息の師房らと戦って撃ち破り、河田刑部大夫を捕虜にした。
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叛徒は一時的に伊勢と伊賀を占領したが僅か三日で敗れ去り、伊賀国に残る敵は更に厳しく追討する。
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   ※進軍ルート: 3月9日の情報に基づいて鈴鹿峠と八峯山の突破は避け養老の辺りから揖斐川沿いに南下か。
富田館は四日市市、このルートなら京都から約140km・4日間の行程だろう。
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ここから約40km南下して安濃郡(津市)で合戦、多気郡は範囲が広いので正確な場所は確定できないが現在の松坂市周辺で庄田親子を破って北上し、5月6日には25km離れた関の小野(亀山市の関宿付近・ 地図)で首魁の一人若菜五郎を討ち取っている。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での節句祭礼は通例の通り。将軍家(実朝)の参席なし、大江廣元朝臣が奉幣の使者を務めた。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月6日
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吾妻鏡
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平賀朝雅からの飛脚が再び到着して次の通り報告。
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先月29日伊勢国に到る。平氏雅楽助三郎盛時およびその同族が当国の六箇山に城柵を構えて数日間抗戦したが遂に敗北した。叛徒の首魁である若菜五郎(盛高)は伊勢国の日永・若松・南村・高角・関・北野などに拠点を構えて抵抗を続け、最後には関の北野で落命した。
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これまでの合戦の経緯と軍兵の忠節などについては詳細を記載する。また、山内首藤刑部丞経俊および瀧口六郎(通基)らは平家軍の勢いを恐れて逃げたが、朝雅と合流してからは共に合戦を遂げた、と。
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   ※六箇山: 現在の三重県西部・名張市滝之原から奈良県の曽根村〜
御杖村の一帯地図)。六つの山に囲まれていた事から付いた名称で、伊勢神宮領として御饌(神に供える供物)に使う竹・藤・黒葛など供給していた。助三郎盛時らは相当遠くまで逃げたと言える。
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   ※関・北野: 東海道五十三次47番目の「関宿」から約2km東の小山
が古戦場。関西本線の関宿駅に隣接した「道の駅 関宿」の徒歩圏内、古い民家が見事に保存されている。
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観光地化していない、結構見応えがある落ち着いた家並みなので近くを通ったら立ち寄ろう。
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    右画像は関宿から小野古戦場にかけての鳥瞰図。(画像をクリック→ 拡大表示)
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   ※瀧口通基: 経俊の次男。山内須藤経俊は三日平氏の乱への対応が遅れた責任を問われて伊勢国と伊賀国
の守護職を剥奪され平賀朝雅 と交代する。これは失策だけではなく娘婿を優遇した北條時政の意向もあったのだろう。経俊は朝雅に職を奪われた形になり、一方で朝雅は後鳥羽上皇から伊賀国の知行国司にも任じられたのだが...
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翌・元久二年(1205)閏7月に北條時政が失脚し、翌月には平賀朝雅も叛逆を謀った罪で追討される。殺害を命じたのは父の時政を追放した北條義時で実行者は経俊の息子瀧口通基。父の経俊は守護職への復帰を申請したが、認められなかった。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月8日
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吾妻鏡
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国司らの訴えについて朝廷の審議を経ての申し入れがあった。
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山での狩猟および海での漁は国衙への納税が課せられる事、製塩を行う者は三分の一を地頭に納付し滞納を避ける事、節句など季節の行事に使う焼き米などの税は国司の取り分とする事、この三ヶ条は国府の布告に従い洗礼の通りに処理せよとの命令が地頭に下された。三浦左衛門尉義村左京進中原仲業がこれを差配する。
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また伊勢国員辧郡司進士行綱が去年の12月25日に伊勢国守護所を夜討ちした嫌疑で2月10日から囚人となっていた件は、伊勢平氏若菜五郎らの犯行だった旨を仲間が自白して行綱の無実が明らかになった。釈放し本領を安堵するとの遠州(北條時政)からの指示があった。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月10日
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吾妻鏡
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伊勢平氏らの追討に関する恩賞の沙汰があり、大江廣元朝臣と問注所執事の善信(三善康信)がこれを差配した。
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武蔵守平賀朝雅は伊勢国守護職に補任され、更に伊勢平氏らの私領だった水田を与えられた。伊勢国と伊賀国の守護は山内首藤経俊が任じていたが、伊勢平氏の勢いを恐れて逃亡したのが更迭の理由である。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月16日
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吾妻鏡
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尼御台所が金剛壽福寺で法事をおこなった。祖父母の追善供養が目的である。
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   ※政子の祖父母: 政子の父は伊東祐親で祖父は伊東祐家、生母は 中村宗平の娘と言われるが確証がないし、
祐親の生母も判らない。曽我物語には三年ぶりに京都大番役から伊東に戻った祐親が娘(三女満劫)が産んだ頼朝の子千鶴丸を見て「誰の子か」と問い、後妻が「あれこそ貴方が養っている源氏御曹司の子」と悪し様に告げ口するシーンが描かれているが...これは宗平の娘ではない、らしい。壽福寺は正嘉二年(1258)に何も残さず全焼しているから、政子が営んだ法会の記録も、もちろん残っていない。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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5月19日
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吾妻鏡
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故右大将家(頼朝)が御家人に与えた御書について先日(4月20日)問い合わせ、これを所持している御家人が閲覧のために提出した。その中には左衛門尉小山朝政・同結城七郎朝光・千葉介の各々数十通がある。その他にも一通あるいは三通の提出である。将軍家(実朝)は書類から右大将が決裁した意図を汲み取るためこれらを書写させ、大江廣元朝臣がこれを差配した。
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   ※千葉介: 通常は常胤の代名詞だが、嫡孫(胤正の長男で五代当主)の成胤も千葉介だから、故人の常胤では
なく成胤だろう。成胤は胤正が14歳の時に産まれた(つまり13歳で妊娠させた)ため年齢が近く、間違えやすい。なにしろ祖父常胤と孫成胤の年齢差が37歳だもの。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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6月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御願として今日中に愛染明王像三十三躰を造立し開眼供養を行った。導師は 荘厳房行勇である。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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6月8日
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吾妻鏡
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伊勢平氏追討に関する恩賞の追加があり、前回の恩賞に漏れていた加藤光員らの落胆が払拭された。
これは伊勢平氏が名乗っていた地名の水田などで、遠州(北條時政)がこの指示を差配した。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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6月20日
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吾妻鏡
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臨時の祭礼が行われ、将軍家(実朝・去る3月1日に右少将(右近衛府の少将)に叙任)が鶴岡八幡宮に参拝され神馬二疋を献納した。流鏑馬と読経の奉納は通例の通り。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月14日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に将軍家(実朝)が急に痢病となり、人々が心配して集まった。
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   ※痢病: 腹痛や下痢を伴う病気。特に疫痢・赤痢などを差す。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月15日
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吾妻鏡
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将軍家の痢病は回復の様子が見えないため、鶴岡八幡宮で大般若経を真読する法要を開始した。八幡宮の供僧による奉納である。駿河守中原季時が使者として八幡宮寺に参詣し、三日以内の結願(治癒成就)を命じた。
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   ※真読: 省略せずに経文の全文を読み通すこと。転読の反対語。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月19日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に伊豆国からの飛脚が到着して報告。昨日(18日)、左金吾禅閤(頼家、23歳)が当国の修禅寺で崩御された、と。

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   ※頼家死没: 吾妻鏡の死亡記事はこの一行のみで死因や犯人などの
記載はない。いくらなんでも「時政の刺客によって」とは書けないよね。
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   ※愚管抄は: 修禅寺で頼家入道が殺された。抵抗が激しかったため、
ふぐり(陰嚢)を押さえつけ紐で首を絞めるなどして刺し殺したらしい。勇猛でも力が及ばない場合もあるものだ。
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比企能員が児玉党の行時(秩父行重の子・片山姓)の娘を妻にし、その娘が頼家の子一幡を産んだものである。(愚管抄は慈圓の史論書)
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   ※承久記は: 頼朝の跡を継いだ二代頼家は行跡が悪くて人にも神仏
にも見放され、外祖父で後見人の北條時政に殺された。
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   ※梅松論は: 頼朝嫡子の頼家は建仁二年まで関東の将軍だったが悪事が多く、外祖父時政の命令で修禅寺に
於いて23歳の若さで討たれた。
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   ※武家年代記: 元久元年7月19日に頼家が修禅寺で死んだ。平義時が殺したものである。
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   ※修禅寺の伝承: 参道前の桂川に架かる虎渓橋の際にあった筥湯(はこゆ)に入浴中を襲われた、としている。
平成12年には橋の近くに新しい立ち寄り温泉が完成し筥湯(市役所のサイト)と命名された。
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右画像は2003年7月19日の頼家八百年忌で菩提寺の修禅寺山門を出る頼家の位牌。
   画像をクリック→ 八百年忌の風景へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の病気が平癒し沐浴された。
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   ※沐浴: (もくよく)髪や身体を洗う事、また神事や病気平癒後に湯や水を浴びて穢れを落とし体を清めること。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月24日
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吾妻鏡
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左金吾禅閤(頼家)の御家人らが片土(僻地・修禅寺付近の事)に隠れて謀叛を企てているのが発覚し、相模守 (北條義時)が金窪太郎行親らを派遣して直ちに追討した。
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   ※金窪行親: 北條得宗家(惣領家)御内人(家臣)。義時の家臣として
頭角を現し、比企の乱・和田合戦を含む多くの修羅場で実績を挙げて北條独裁体制に貢献している。
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殺された頼家家臣は謀反と言うよりも関係者を始末したか目撃者の抹殺だろう。
側近の遺跡は十三士の墓として保存されていたが、台風の土砂崩れで崩落し一部を除いて失われてしまった。
        右画像をクリック→ 頼家の廟所へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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 月 日
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修禅寺遺跡
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尼御台所(北條政子)は頼家の没後(一周忌か三回忌か)に桂川に架かる虎渓橋の架け替えと指月殿の建立を寄進している。
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虎渓橋はもちろんコンクリートに変わっているが、指月殿は1205年前後に建立された伊豆最古の木造建築として風格のある姿を今に伝えている。
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本尊は堂と共に政子が寄進した丈六の釈迦如来坐像、作者は胎内の銘札によりこの時代に関東での造仏を頻繁に行なっていた實慶と確認された。
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左右の金剛力士像は元々は2kmほど東の狩野川近くにあった惣門を守っていた二体だが、惣門が朽ちかけたためスペースに余裕があった指月殿に遷され、現在は1203年に増築した修禅寺の山門両袖に遷されている。
指月殿建立よりも更に古い、藤原時代の作品である。
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            右画像をクリック→ 指月殿の明細へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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7月26日
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吾妻鏡
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安芸国壬生庄の地頭職に関して山形五郎為忠と小代八郎らが訴訟で争っており、守護職の宗左衛門尉孝親が提出した報告に依拠して将軍家(実朝)の御前で裁決した。
遠州(北條時政)および大江廣元朝臣が御前で審議を行ったのは将軍家が直接政道を判断される最初である。
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   ※安芸国壬生庄: 現在の北広島町壬生(地図)。平安末期の山県為綱下向が立荘の最初とされるが詳細不明。
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   ※宗孝親: 本姓は惟宗で宗を名乗っているのは対馬宗氏の系かも知れない。、建久七年(1196)に安芸守護と
なったが、承久の乱(1221年)の際に後鳥羽上皇に従ったため守護職を失った。
ちなみに、彼が赴任した前後の守護は石和(武田)信光が安芸国守護を務めている。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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8月3日
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吾妻鏡
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今日、鎌倉内の寺社が所有する領地についての決裁が行われた。左京進中原仲業を永福寺の公文職(事務職の長)に補任して寺の管理を委ね、寺領の年貢などの処理を行うよう命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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8月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の婚姻について、従来は上総前司足利義兼の息女を迎えるよう下準備をしていたが結果として将軍の許しが得られず、京都から妻を迎えたい旨の申し入れが行われていた。これについて事前の打ち合わせが持たれ、使者と供奉人の数などに関して直接の指示があった。容貌の優れた若武者を選ぶようにとの仰せである。
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   ※実朝の婚姻: 病弱で疱瘡を病んだ容姿の負い目があり、和歌を介した京都への強い憧憬を持っていたと共に
有力御家人(比企氏)を舅にして滅亡した兄頼家の悲劇が頭にあったのだろう。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での放生会である。将軍家(実朝)は御軽服のため委細は宮寺に委任し、夜になってから明月に誘われて由比の浦に出御された。船を手配して数人の楽士を呼び華麗な音曲を奏でさせた。
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   ※軽服: 遠い縁戚の死没に着る喪服、または服喪中を差す。頼家は同腹の兄だが敢えて近親として扱わない。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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8月21日
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吾妻鏡
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石清水八幡宮(公式サイト)寺領の河内国高井田を将軍家の御祈祷所として地頭を廃止した。八幡宮寺の管理下に移譲するよう仰せが発せられた。
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   ※河内国高井田: 現在の大阪府柏原市高井田(地図)。石清水八幡宮からは40kmほど南。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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9月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の近習を務める者10余人を官職に推挙した。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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9月2日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が馬二疋(河原毛と栗毛駮)を新藤次俊長と和泉掾景家が引いて伊勢の内宮と外宮に献納、今朝出発した。
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   ※新藤次俊長: 吾妻鏡の初出は治承四年(1180)8月20日、伊豆韮山で挙兵し土肥に向かう頼朝主従名簿の
末尾から二人目に新藤次俊長の名が載っている。更に建久二年(1191)1月15日の政所吉書始めの項目に「案主(四等官の三位)は藤井俊長(鎌田新籐次)」と書かれている事から、「藤井俊長=鎌田新籐次=鎌田正清の息子」と判断される。
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つまり頼朝の父義朝が野間で長田忠致に謀殺された際、最後まで従って殺された鎌田正清の息子・藤井俊長が頼朝挙兵当初から加わり、後に政所創設と共に案主に任じた事になる。
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ここで面白いのが建久五年(1194)10月25日の記事で...勝長寿院で鎌田正清の娘が義朝と正清の追善供養法会を開いているのだが、息子と娘の間で齟齬が生じるから面白い。
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頼朝は正清の生涯を哀れんで遺族を捜したが男子がいなかったため娘を見付け出し、尾張国の志濃幾庄と丹波国の田名部庄の地頭職を与えた。旧恩に報いたものである。
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更に蛇足を加えれば、伊豆伊東市鎌田地区の伝承は「文治五年(1189)に鎌田新籐次俊長が平家に備えて鎌田に山城を築いた」と伝えている。
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まぁ平家は元暦二年(文治元年・1185年)に壇ノ浦で滅亡しているから捏造は間違いないのだが、この鎌田には頼朝が伊東祐親の娘八重に産ませた千鶴丸が川に沈めて殺された稚児が淵の近く。
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宗教とは無縁の私でも流石に少々の因縁を感じるね。
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この近くは安元二年(1176)10月に曽我兄弟の仇討の原点になった「奥野の巻狩り」(若き日の頼朝も参加)が開催されている。 この鎌田城は苦労して登った山城の一つなのだが撮影した資料は行方不明になってしまった。これもまた、悔やまれる。
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   右画像は伊東鎌田地区の鳥瞰。画像をクリック→ 「奥野の巻狩り」へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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9月13日
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吾妻鏡
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法花堂(頼朝法華堂)で法事(月違い命日か)を開催した。
夕暮れになって盗人が別当大学坊に侵入して故頼朝将軍の御遺物重宝等を盗み出した。すぐに大倉御所に連絡して当番の者らが犯人を捜索したが既に行方不明となっていた。
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   ※別当大学坊: 別当職の僧をおいていた事から頼朝法華堂がそれなりの規模を持った寺だったと判断できる。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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9月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は昨夜に相州(北條義時)邸に入御された。すぐ還御する筈だったが義時が引き留めて「今夜は月蝕(凶事を意味する)ですからお泊まり下さい。」と告げたため、宿泊を余儀なくされた。義時は特に喜んで二階堂行光も座に加え、行光は次のように語った。
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京極(藤原師實)が太閤(関白)だった時代に白河上皇が宇治に御幸し、還御されようとしましたが楽しさに負け一旦は逗留を申し出ました。しかし「還御を明日にすれば都が北なので方忌(凶の方角)となる、今日帰ろう」と思い直しました。師實がとても残念に思っていたら、行家朝臣が喜撰法師が詠んだ和歌を引用して「宇治は都の南ではありません、巽(東南)でございます」と申し上げたためその日の還御を中止しました。今夜の月蝕も同じことでしょう。
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この言葉に義時は感心すると共にその機転を喜んだ。

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   ※行家朝臣: 讃岐守家経(歌人)の息子。喜撰法師は六歌仙の一人で、行家は下記の和歌を差している。
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    わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世(よ)をうじ山と 人はいふなり
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「しかぞすむ」は「こうして静かに暮らしている」の意味、「世をうじ山と」は「憂しと宇治の掛詞」。
全体として「私の庵は都の東南にあり、こうして穏やかに暮らしている。それなのに世間では私が世の中を憂いて宇治山に隠棲したと思っているらしい」ほどの意味。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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10月6日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に大地震があった。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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10月10日
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吾妻鏡
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強風に加えて降雨あり。申刻(16時前後)に雷鳴が数回。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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10月14日
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吾妻鏡
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前大納言坊門信清卿の息女(坊門信子)が将軍家(実朝)の御台所として下向されるため、御迎えに任じる御家人たちが上洛した。
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左馬権助(北條政範)・結城七郎朝光千葉平次兵衛尉常秀光・畠山六郎重保・筑後六郎(八田知尚)・
和田三郎宗實・土肥先次郎惟光・葛西十郎・佐原太郎経連・多々良四郎重春・長井太郎・宇佐美三郎祐(助)茂
佐々木小三郎盛季・南條平次・安西四郎らである。
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   ※その他の武士: 北條政範は時政牧の方夫妻の長男、畠山重保は重忠の嫡男、八田知尚は知家の六男で
浅羽氏の祖、和田宗實は義盛の弟、土肥惟光は遠平の長男、葛西十郎は清重の弟清宣、
佐原経連は義連の三男景連か、多々良重春は三浦義澄の弟多々良義春の息子、長井太郎は同じく義澄の弟長井義季の息子、宇佐美三郎助茂は祐茂の別名だが工藤祐経の叔父に当るため年代的に疑問が残る、佐々木盛季は盛綱の三男、 南條平次は判らない、安西四郎は安房国丸御厨(南房総市丸本郷一帯・地図)を本拠にして頼朝に従った景益の息子。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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10月17日
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吾妻鏡
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大隅国の正八幡宮寺からの訴えについて決裁が下された。これは故右幕下(頼朝)の時代に掃部頭入道寂忍(中原親能)が正宮の地頭に任じ、宮寺からの異議によって地頭職を停止した経緯がある。
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その後に神社領三ヶ所に三人の地頭を補任したが(年貢納入の義務を果たさないため)社殿の造営ができないとの内容で、今日地頭職を更迭した。帖作郷の地頭は肥後坊良西、荒田庄の地頭は山北六郎種頼、万得名の地頭は馬部入道浄賢である。大江廣元朝臣がこれを差配した。
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   ※正八幡宮寺: 大隅国(鹿児島県東部)の鹿児島神宮(wiki)を差す。帖作郷と荒田庄はいずれも鹿児島湾の
西部、万得名(領)は各地に散在する八幡宮寺領の総称。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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10月18日
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吾妻鏡
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各地の荘園・郷・保の地頭が勲功により獲得した事を根拠にして前例を無視し年貢の横領を行っているとの訴えが国司や領家から提起されている。今日、その県についての裁決が下された。
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名田も所職も下司(現地に駐在する管理者)の職責の範囲内で沙汰すること。この趣旨を守らなければ解任する、との内容である。中原仲業清原清定がこれを差配した。
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   ※名田と所職: 名田は開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得した者の名を冠したもの(名主)。
所職は所有ではなく管理者としての職。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月3日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)がやや体調不良である。
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   ※愚管抄の記録: 鎌倉将軍の妻を然るべき公卿の娘から選んだ。
最終的に坊門信清大納言の娘(13歳・坊門信子)に決定し、関東から多くの武士が御迎えに上洛した。
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信清の父・坊門信隆は後鳥羽天皇の妃である藤原殖子の父、従って信清は後鳥羽の義弟にあたる。
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(後鳥羽院は)法勝寺の小路桟敷で御覧になった。これは延勝寺執行僧の増圓法印が仰せを受けて設けたものである。
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   ※六勝寺: 山城国愛宕郡(現在の京都左京区)に建てた 勝の字を含む
六山の祈願寺(wiki)で、法勝寺と延勝寺はその中の二つ、現在は石碑が残るのみ(地図 )。
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全ての六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)は院政の衰退と再三の災害と戦乱により応仁の乱(wiki)以後、つまり1477年以後には廃寺となった。
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法勝寺は承保三年(1076)に白河天皇による六寺最初の建立で最大の規模だった。藤原師実(従一位・摂政関白太政大臣)が一族の別荘を寄進し、高さ80mの八角九重塔が建っていたと伝わる。
「桟敷があったのはこの辺かな」などと想像しよう。  (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月4日
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吾妻鏡
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伊勢国で鎮圧した三日平氏の乱の没収地に補任した地頭らが武力で威嚇し、伊勢神宮に納めるべき年貢米を横領しているとの訴えが届いた。これは伊勢国に散在する田畑である。元は平家の管理する地だが神宮に納める経緯は明白であるため、清原清定を奉行として先例の通りに処理するよう命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月5日
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吾妻鏡
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子刻(夜12時前後)、従五位下の左馬権助平朝臣政範(16歳・在京中)が没した。
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   ※北條政範: 時政と後妻牧の方の間に産まれた唯一の男子で、実朝に嫁する坊門姫を迎える使者一行に名を
連ねていた。当時42歳の義時も従五位下、時政夫妻は嫡男=政範に決めていた、のだろう。
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家長が絶対的な権限を持っていた時代で時政は幕府の最高権力者、異母弟に家督を奪われそうな義時と継母に実権を奪われそうな政子の歯ぎしりする姿が見えるようだ。
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一方の時政は実の息子と娘が父親を裏切るなんて、頭の隅にもなかっただろう。自分自身は幾多の謀略と暗殺を重ねて現在の地位を勝ち得た癖に...。
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やがて畠山重忠が謀叛の冤罪で追討され、同族の重忠を讒訴した罪で榛谷氏と稲毛氏も討伐される。時政が考えたこの計画を義時が共有していたのは間違いないが、義時は更にその先の時政夫妻排除と娘婿の平賀朝雅追討計画まで考えていた。もちろん政子も計画を共有していただろうし、政範の急死も義時にとって「計画の一部」だった可能性もある。
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邪魔者がタイミング良く死ぬなんて有り得ないし、「歴史の偶然」なんて95%ぐらいは嘘だから。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月7日
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吾妻鏡
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笠置寺の解脱上人からの使者が鎌倉に参着して申し出た。先月15日に礼拝堂が完成し無事に供養の法会を終えることができたのは将軍家の寄進によるもので、感謝を申し上げます。」との内容である。
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   ※笠置寺: 法相宗の海住山寺笠置寺、何よりも磨崖仏で知られている。数多い画像はこちら(wiki)、併せて
解脱上人貞慶の詳細も「wiki」で。   (この項目は4月10日の寄進依頼の条と重複)
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月7日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の体調不良が平癒し、御沐浴して穢れを落とした。
西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月13日
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吾妻鏡
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北條政範が去る5日に京都で没したとの飛脚が鎌倉に到着。政範は時政最愛の妻・牧の方の愛息である。将軍家の御台所を迎えるべく先月鎌倉を出立し11月3日に京都に入ったが、その途中で病気となり不幸な結果となった。父母の悲嘆は較べようもないほど深刻である。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月17日
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吾妻鏡
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前将軍頼朝の法華堂から去る9月に失われた重宝の行方を各地に手配していたところ武蔵国洲河の地頭が盗み出した犯人を捕縛し、今日侍所別当の和田義盛邸に連行。探し当てた宝物も全て運んできた。
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   ※武蔵国洲河: 秩父両神山東麓の須川(地図)の可能性が高い。この一帯は秩父平氏の系である丹党の本領、
盗人はここで売り捌こうとしたのかも。埼玉県の道の駅 両神温泉 薬師の湯も参考までに。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月18日
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吾妻鏡
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法華堂重宝の御剣などが別当房に返却された。洲河の地頭は御感の仰せを受け、報奨を与える意向が示された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月20日
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吾妻鏡
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故遠江左馬助(北條政範)の従者らが京都から鎌倉に帰着し、(政範の遺骸は)去る6日に東山の付近に葬ったと報告した。また同月の4日に武蔵前司平賀朝雅が六角東洞院(地図)の屋敷で酒宴を催し、その席で朝雅と畠山六郎重保が口論となったが、同席した者らが仲裁して治まったとの噂が鎌倉に流れた。
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   ※東山の付近: 葬送の地として著名なのは化野念仏寺(地図)と蓮台野
(船岡山南麓の千本釈迦堂一帯・地図)と鳥辺野(清水寺の南一帯・地図)。元々は墓を造れない庶民が亡骸を捨てた場所だったらしい。
政範の埋葬は「東山の辺」、鳥辺野あたりだろうか。
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   ※畠山重保: 重忠の次男で生母は北條時政の娘(政子の異母妹)。
重保の異母兄だった重秀は生母が足立遠元の娘なので実家が格上の重保が嫡子となった。
重保は翌・元久二年(1205)6月の重忠追討事件(二俣川の合戦)に先立って鎌倉で殺されている。若宮大路の西側、鎌倉警察署の筋向いが館跡(地図)と伝わっている。
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右画像は伝・館跡に建つ供養の宝鏡印塔。画像をクリック→ 館跡の明細へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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11月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が以前から京都の絵師に命じて描かせていた平将門の合戦の絵が今日到着した。
掃部頭入道中原親能)が手配した物で、20巻が蒔絵の箱に納められ、将軍家は特に大切に扱っている。
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   ※絵師: 頼朝が京都から呼び寄せて勝長寿院や永福寺の仏画を描かせた藤原(宅間)為久は音沙汰なしだが、
継続して画業に精出しているのだろうか。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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12月10日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御台所(坊門信清卿の娘信子)が鎌倉に下着された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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12月17日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が前大膳大夫(大江廣朝臣)の家に入御された。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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12月18日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)の祈願により描かせた七観音像が先日南都(奈良)から到着し、尼御台所邸で開眼供養を行った。導師は 金剛寿福寺の住職葉上坊栄西、願文は源仲章朝臣が起草した。将軍家(実朝)も結縁を願って来臨された。
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   ※七観音像: 人々を救済するために七種の姿で現れる観音観音。千手観音・馬頭観音・十一面観音・聖観音・
如意輪観音・准胝(じゅんでい)観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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12月22日
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吾妻鏡
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(実朝の)御台所に付き従って鎌倉に下向して来た男女数名が地頭職を拝領した。
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1204年
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83代 土御門
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元久元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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