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元久二年(1205)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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1月1日
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吾妻鏡
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遠州(北條時政)が将軍家(実朝)に椀飯および御馬と御剣などを献じた。
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  その役に任じた者
       御剣       小山左衛門尉朝政
       御弓征箭    三浦兵衛尉義村
       御行騰沓    足立左衛門尉遠元
       御馬五疋    一疋 佐原太郎 と 長井太郎 が手綱を引く   (以下、同様)
                 一疋 筑後六郎 と 同じく九郎
                 一疋 足立八郎 と 春日部次郎
                 一疋 長沼五郎 と 結城七郎
                 一疋 相馬五郎 と 東平太.

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   ※行騰: 乗馬の際に着ける袴カバー。画像(wiki)を参考に。
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   ※他の武士: 佐原太郎は義連の長男景連、長井太郎は大江廣元の次男で長井氏の祖となった時広だろう。
筑後六郎(八田知尚)は知家の六男で浅羽氏の祖。九郎は多分知家の七男で田中氏の祖となった知氏(その下の時家(高野氏の祖または小田氏)が十郎だから)。 足立八郎は四郎遠元の子息(元春・遠光・遠景・遠村・遠継)の一人だろうが該当者が判らない。
結城七郎は朝光の嫡男朝広(wiki)。
相馬五郎は師常の嫡子で相馬氏の二代目。
東平太は胤頼の嫡男重胤(wiki)。  世代がどんどん変わっていく。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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1月3日
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吾妻鏡
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千葉介胤正が椀飯を献じた。その後に弓始めの儀式あり。射手六人、各々二射づつを五度繰り返した。
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     一番  和田平太     藤澤四郎
     二番  佐々木小三郎  古河五郎
     三番  筑後六郎     荻野次郎
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※射手の明細: 藤澤四郎は次郎清親の三男で 座光寺氏(wiki)の祖となった光清。br>
佐々木小三郎は盛綱の三男盛季。古河五郎の素性は判らない。筑後六郎は1月1日を参照。
荻野次郎は相模国愛甲郡荻野を本拠にした一族の武士で、実朝に帰参を許された景時の孫(平次景高 の子・景継か?)が荻野氏を名乗り、承久の乱で後鳥羽上皇に従って戦死している。彼か、或いは 源太景季の子・景望かも知れない。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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1月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が御所の尼御台所(政子)邸に渡御された。御引出物などが贈与された。
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   ※御引出物: 原文は「有御引出物等云々」、どちらが贈ったのか判らないが、政子からの婚姻の祝賀だろうか。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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1月5日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が正五位下に叙された。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で心経会(般若心経を読む法会)が行われた。導師は真知坊隆宣。御馬などの布施物が多く与えられた。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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2月11日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参り。通例の通り年初の参拝である。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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2月12日
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吾妻鏡
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先月二十九日の除書が到着した。将軍家は右中将に任じ加賀介を兼務する。三善康信がこの書を御前に運んだ。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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2月17日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡に参拝した。これは羽林に任じた事の拝賀である。相州 (北條義時)と駿河守(中原季時)ら数名が供として従った。太刀持ちは安達景盛である。
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   ※羽林: 近衛府の中将と少将の唐名で、実朝は中将に任じた。中将の上は頼朝が任じた右近衛大将、後に実朝
は更に上位、武門の最高位である左近衛大将を望むのだが...
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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2月21日
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吾妻鏡
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武蔵国土袋郷の年貢は永福寺住僧の経費に充当される。遠州(北條時政)からの下命である。
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   ※武蔵国土袋郷: 現在の埼玉県比企郡川島町(地図)の一帯を差す。
町内の廣徳寺は美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うため館跡に政子が寄進した大御堂(浄土信仰の阿弥陀堂)が起源と伝わり、寺域には室町時代の再建と伝わる阿弥陀堂がある(右画像、クリック→ 拡大)。
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美尾屋十郎は平家物語の巻十一の五「弓流」に兄弟で登場する武者。屋島の合戦で那須与一が扇の的を射た直後、悪七兵衛景清に兜の錣(しころ・首を守る部分)を掴まれたが引き千切って逃れた武士。
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なぜ政子が彼の菩提を弔ったのかなど、その経緯を含めて話の真偽は判らない。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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3月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺方丈(栄西を差す)および鶴岡八幡宮別当の坊に渡御され、仏法についての談義や蹴鞠を楽しむなどで過ごされた。源親廣中原季時らが供として従った。
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   ※八幡宮別当: 鶴岡初代別当は圓暁、正治二年(1200)〜建永元年(1206)は尊暁(圓暁の弟・公暁の師)。
尊暁は辞職して京都に帰り病没。建保五年(1217)6月までは定豪 、建保七年(1219)の1月まで公暁、その後は慶幸(ここまでは圓城寺(三井寺)系)、定豪(東寺系)と続く。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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3月12日
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吾妻鏡
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各地の荘園に課せられた年貢の納期限の遅延が発生しているため、今後は国の遠近に配慮して期限を変更する事と定めた。 宗掃部允がこれを差配する。
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   ※宗掃部允: 政所に勤める能吏・惟宗孝尚。頼朝に近侍してから三代執権 泰時の時代まで文官を続けている。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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3月16日
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吾妻鏡
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坊門信清卿から扇を30本と櫛箱などが贈られた。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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3月25日
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吾妻鏡
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勝長寿院領の上総国管生庄十二ヶ郷について、今日これを二分割し六郷を別当分・六郷を供僧分と定めた。
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   ※上総国管生庄: 現在の木更津市管生(地図・小櫃川の南岸)。かつては摂関領だった。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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4月7日
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吾妻鏡
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佐々木判官定綱が病気のため出家した。
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   ※病気で出家: 定綱は65歳、重病などの場合は極楽往生を願って剃髪し僧籍に入るのが当時の習慣だった。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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4月8日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鎌倉市内の諸堂を巡礼された。騎馬、水干を着している。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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4月9日
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吾妻鏡
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検非違使左衛門少尉源朝臣佐々木判官定綱法師が死没した。
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   ※佐々木定綱: 佐々木秀義の長男で頼朝挙兵以前からの側近。波乱の25年だった。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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4月11日
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吾妻鏡
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鎌倉中が落ち着かない状態で、近国の武士が集結し軍備を整えているとの噂が流れている。
また、日頃は武蔵国に蟄居している稲毛三郎重成入道が遠州(北條時政)の招集を受け軍兵を従えて鎌倉に到着しており、人々はこれを怪しんで更に噂を広げている。
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   ※稲毛重成: 畠山重忠の従兄弟で時政の娘婿、本領は稲毛荘(現在の川崎市多摩区)。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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4月12日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が十二首の和歌を詠んだ。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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5月3日
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吾妻鏡
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世間に広がっていた騒がしさが鎮静し、鎌倉に集結していた御家人の大半は仰せに従って領国に戻った。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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5月12日
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吾妻鏡
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美作国の神林寺に故幕下将軍家(頼朝)の追善供養のため三重塔婆を建てることになった。
寺僧が材木の手配を願い出たため、美作国内の山からの切り出しを認める旨の仰せが下された。
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   ※神林寺: 岡山県真庭市の高野山真言宗神林寺(霊場会のサイト)。生前の頼朝が堂塔を寄進している。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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5月18日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮と三嶋大社の破損ヶ所などを補修した。また各々の神楽奉納に供する舞装束が既に老朽化しているため、御家人に割り当てて新調する手配を命じた。清原清定が奉行としてこれを差配する。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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5月24日
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吾妻鏡
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安楽寺領の筑後国岩田庄と田嶋庄について社僧からの愁訴に基づいて決裁し地頭職を神官の一族に与えた。
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   ※安楽寺: 神仏習合時代の大宰府天満宮(公式サイト)を管理した別当寺。福岡県小郡市に上岩田と下岩田の
地名(地図)と 老松宮(参考サイト)がある。
厨川工藤家の記録に拠れば、田嶋庄は 工藤祐経の嫡子祐時が建久九年(1198)に日向国地頭職を得た、四男の祐明が田嶋庄(地図)に下向した」なのだが...これ、宮崎県だから多分違うね。要するに、田嶋庄の所在は判らない。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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5月25日
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吾妻鏡
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御所に於いて五字文殊像(参考サイト)の供養を行った。導師は 壽福寺の長老栄西
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の発願により鶴岡鶴岡宮で大般若経一部の終日転読が行われた。御布施は紺絹五十反、兵衛尉三浦義村がこれを差配した。
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   ※大般若経転読: 百聞は一見に如かず、動画(wiki)の中から実態の確認を。信仰と言うより形式の世界。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月20日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事が通常通り行われた。夕刻、畠山六郎重保が武蔵国から鎌倉に参着した。稲毛三郎重成入道が(所用と称して)呼び寄せたものである。
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   ※縁戚関係: 畠山重忠の父重能と稲毛重成の父小山田有重は同腹の兄弟で、重保から見ると重成は叔父。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月21日
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吾妻鏡
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牧の方が(娘婿の)平賀朝雅から「去年京都で畠山六郎重保に悪口を浴びせられた」との讒訴を受けて鬱憤を抱き、重忠親子の追討を狙って計略を巡らした。まず、夫の遠州(北條時政)が義時時房に重忠の追討を持ち掛けたが、二人は次のように答えた。
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重忠は治承四年から現在まで忠節を旨とし、右大将軍(頼朝)もその人柄を認めて子孫の守護を慇懃に遺言しました。しかも金吾将軍(頼家)の側に属しながらも比企能員との合戦では我々に味方したのは親子の礼節(重忠は遠州の聟)を重んじたためです。今になって謀叛を企む理由がありましょうか。
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再三の勲功も無視して軽率に追討すれば必ず後悔する結果になります。まず謀反の意思の有無を確かめてからでも遅くはありません。
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時政はそれ以上を語らずに座を起ち、義時らも退出した。その後に備前守時親が牧の方の使者として義時邸を訪れて次のように意向を伝えた。
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重忠の謀叛は既に明らかである。将軍実朝や幕府のためを考えて仔細を夫に知らせたのに、貴方は重忠の側に立って謀叛を誤魔化そうとしている。継母の私を軽んじて悪者に仕立て上げるつもりか。と。
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義時は「それではもう一度良く考えてみましょう」と答えた。
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   ※備前守時親: 牧の方の甥・牧時親を差す。但し父親の牧宗親は牧の方の父親説と兄説があり、ここでは政子
と牧の方の年齢差が10歳未満と思われる事を根拠にして「牧の方の兄説」を採用した。
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   ※吾妻鏡の曲筆: 奥州の藤原秀衡が没した文治三年(1187)10月29日に次の記事がある。
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今日、秀衡入道が陸奥国平泉の館で没した。日頃から重病で寿命が残り少ないと悟り、
前伊豫守義顕(義経)を大将軍として国務を行うよう嫡子の泰衡らに遺言した。
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一方で「玉葉」の文治四年(1188)1月9日には以下の記述がある。
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秀衡は10月29日死去の際に妾腹の長男国衡と正妻腹の二男(泰衡)を呼んで融和を
説き、国衡に自分の妻(泰衡の生母)を娶らせ、異心を持たぬ旨の起請文を義経を含めた三人に書かせた。義経を主君として兄弟が彼に従い、三人団結して頼朝と戦う策を講じるように遺言したという。
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平安末期から鎌倉時代の通念は儒教であり、「主君に逆らうのは不忠で親に逆らうのは不孝」とする通念があった。だから秀衡は自分の正妻を妾腹の長男国衡に再嫁させ、嫡男泰衡と国衡を「親子」の関係にして争いの防止を図ったのだろう。
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吾妻鏡の編纂者は覇権を握った北條得宗の意を汲んで「先祖の義時は通念に従って親の意向通りに忠臣重忠を討ち、その後は通念に従って実朝への忠義を全うするべく父の時政を失脚に追い込んだ」と弁護し、義時には不忠も不孝もなかった、と強弁している。
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ただし厳密に言うと、この「曲筆」が吾妻鏡を編纂した際の捏造なのか、或いは編纂した際の史料(幕府文官の日記または覚書)に捏造があったのかは判断できない。
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時系列の形を録っている吾妻鏡を読み解くには、編纂者の意志と原史料を書き残した人物の意思の二つを疑う必要がある、複雑な構成なのだね。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月22日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に鎌倉中が大騒ぎになり、軍兵が「謀反人を誅殺する」と叫んで由比ヶ浜の辺りを駆け回った。
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これを聞いた畠山六郎重保(重忠の二男で嫡子)が郎従三人を引き連れて現場に向かい、(時政の)命令を受けた兵衛尉三浦平六義村の軍兵・佐久太郎らに包囲された。重保も奮戦したが衆寡敵せず、主従共に討ち取られた。
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また畠山次郎重忠が鎌倉を目指しているとの風聞があり、途中を迎え討つために義時率いる軍勢が出陣した。 問注所入道三善康信大江廣元朝臣が相談し、時政に申し出て精鋭400騎で御所の四方を警護させた。
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大手の大将軍は北條義時で先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺平次兵衛尉常秀大須賀四郎胤信国分五郎胤通・相馬五郎義胤(相馬師常)の嫡男・東平太重胤(胤頼の嫡男)が務めた。
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その他に足利三郎義氏小山左衛門尉朝政三浦兵衛尉義村・同九郎胤義(義澄の末子)・長沼五郎宗政結城七郎朝光宇都宮彌三郎頼綱筑後左衛門尉知重安達籐九郎右衛門尉景盛
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中條籐右衛門尉家長・同苅田平右衛門尉義季(家長の子)・狩野介入道・宇佐美右衛門尉祐茂・波多野小次郎忠綱(義通の次男)・松田次郎有経(波多野義常の長男で松田氏の祖)・
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土屋彌三郎宗光(宗遠の嫡男)・河越次郎重時(重頼の次男で家督を継承)・同三郎重員(重時の弟で武蔵国留守所総検校職を継承)・
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江戸太郎忠重(重長の嫡男)・渋河武者所(本領は群馬県渋川市、和田合戦で没落)・小野寺太郎秀通(下野国都賀郡小野寺保の武士)・
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下河邊庄司行平・園田七郎(上野国山田郡園田村(現在の大間々町)を本領とした武士で藤姓足利氏の傍流)、ならびに大井・品河・春日部・潮田・鹿嶋・小栗・行方の武士と兒玉・横山・金子・村山党の武士が出陣した。 右上画像は二俣川古戦場の風景。画像をクリック→ 古戦場の遺跡(別窓)へ
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関戸(搦手)の大将軍は式部丞北條時房和田左衛門尉義盛。前後を囲む軍兵は数えられないほどの大軍で、午刻(12時前後)に武蔵国二俣河で畠山重忠一行を挟撃した。
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重忠は去る19日に小衾郡の菅谷館を出発して二俣河(横浜市鶴ヶ峰一帯・ 地図)に到着。弟の長野三郎重清は信濃国、別の弟六郎重宗は奥州にいるため従うのは二男の小次郎重秀と郎従の本田次郎近常と榛澤六郎成清を併せて134騎、鶴峯の麓に布陣した。ここで重保が今朝鎌倉で殺された事と、追討の軍兵が迫っている事を知った。
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   ※挟撃: 重忠一行の進路は所謂「中の道」で、二子玉川を渡って二俣川を経由し、山ノ内(大船の近く)に南下
するルート。時房の率いる搦手軍は関戸の渡しから町田の小野路→二俣川を経由する「上の道」で、幕府滅亡の際に新田義貞軍が鎌倉を目指したルートである。
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時房は途中から「中の道」の荏田あたりに東進して重忠一行の退路を遮断したのだろう。義時の性格は緻密にして冷徹、躊躇は見せない。こちらの地図が判りやすい。
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郎従の近常と成清が重忠に進言した。
討手は数え切れぬ程の大軍、ここで戦うのは不利ですから一旦は菅谷に戻り軍備を整えるべきです。
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重忠は郎従の言葉に答えた。
そうではない。家を忘れ親を忘れて戦うのが将たる者の本分である。ましてや嫡男の重保が討たれた今では
本領を顧みる必要もない。去る正治元年(1200)に梶原景時が一宮館から逃げ京都を目指す途中で討たれたのは暫くの命を惜しんだか、或いは謀反の計画があったとも疑われる。これを戒めと考えよ。
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追討の軍兵は一番乗りを目指して襲いかかった。中でも安達景盛は郎党の野田與一・加治次郎・飽間太郎・鶴見平次・玉村太郎・與籐次らを率いて主従七騎が真っ先に進み弓を構えた。
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重忠は「竹馬の友である景盛が真っ先に来るとは嬉しい限りだ」と語り(次男の)重秀は「命を惜しまず攻めて来い」と声をかけた。
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攻防は数回を繰り返し、加治次郎宗季ら多くの武士が重忠に討ち取られた。弓の戦いも太刀による斬り合いも決着せずに時が過ぎ、申刻(16時過ぎ)に重忠(42歳)が愛甲三郎季隆の矢を受けて倒れ、季隆が首を獲り義時の本陣に入った。
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その後に小次郎重秀(23歳、母は右衛門尉足立遠元の娘)と郎従らが自殺して合戦が終った。
      右上画像は埼玉県川本町の畠山氏墓所。画像をクリック→ 詳細へ(別窓)
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今日未刻(午前10時前後)に相州(義時)の室(伊賀守朝光の娘)が男子(後の政村)を平産した。
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   ※愛甲季隆: 弓の名手だが、曽我物語は建久四年(1193)5月の曽我兄弟の討ち入り場面で「五郎時致が
太刀を取って頼朝の宿舎を目指し立ち塞がった愛甲季隆の左腕を斬り落とし...」と書いている。左腕を失っても弓を引けるのだから軍記物語って面白いね。足で引くのかも(笑)。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月23日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に相州(北條義時)らが軍勢を率いて鎌倉に帰参した。遠州(北條時政)が合戦の詳細を質問し、義時は次のように報告し、時政は言葉を発し得なかった。
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重忠の弟や親類の殆どは同行せず、合戦に加わったのは僅かに百余名でした。重忠が讒訴で落命したのは明らかで、実に残念です。本陣で重忠の首を見た時には旧交を思って涙を禁じられませんでした
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酉刻(18時前後)に鎌倉で再び騒動が勃発した。三浦平六兵衛尉義村が熟慮の末に経師ヶ谷の入口で榛谷四郎重朝と嫡男の太郎重季と次郎季重を謀殺した。 また稲毛入道重成は大河戸三郎に、子息の小澤次郎重政は宇佐美與一に討ち取られた。
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今回の合戦は稲毛重成法師の謀略が原因であり、右衛門権佐平賀朝雅が畠山次郎重忠に遺恨を抱いて謀叛を捏造し牧の御方(遠州室)に讒訴した。(舅の)時政がこの内容を稲毛重成に伝えて打ち合わせ、重成は親戚の好意を装って鎌倉に異変が起きたと重忠に連絡し、二俣河での討死を招いた。多くの人々が重忠の死を悲しんだ。
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   ※義時の嘘: 二俣川合戦場近くに万騎ヶ原の地名があり、義時が
率いた大手軍・公称一万騎の集結地だったらしい。
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まぁ話を五分の一と考えても完全武装の2000騎が普段着に近い137騎を襲った事になる。
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また合戦場には「矢畑」の地名もあり、高台に布陣した北條勢が重忠主従に向けて放った遠矢が矢襖(やぶすま)のように突き刺さった跡(現代風に言えば弾幕か)だったとされる。
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これは合戦ではなく殺戮と表現するべきで、そんな殺戮が終ってから「敵は僅かに百余名だったのに...」とは、余りにも白々しい虚言だ。
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   ※経師ヶ谷: 弁ヶ谷(材木座6-9(地図)に弁ヶ谷跡の石碑あり)の奥と伝わっている。弁ヶ谷には時政の名越邸
千葉常胤の館もあったのだが、この事件との関係は不明。弁ヶ谷には確か正田家(美智子妃の実家)の別荘もあったはず。相続に伴う物納で宅地になった、らしいが。
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右画像は弁ヶ谷一体の鳥瞰図 (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月26日
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吾妻鏡
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鎌倉の支配下にある東国の守護と地頭の取得分については先例の通りに厳密な処理を行うよう命令が下された。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月28日
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吾妻鏡
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武蔵国の久下郷を勝長寿院の弥勒堂領として寄進した。
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   ※久下郷: 建久三年(1192)11月26日に熊谷直實が所領の境界を争った養父久下直光の本領が久下郷で、
現在は菩提寺の東竹院が往時を伝えている。
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一方で夏の高温で知られたJR熊谷駅の近くには直實が建立した熊谷寺がある。こちらは部外者立ち入り謝絶のため塀越しに中を窺う程度。また所有権を寄進しても久下直光の管理権に変更はない。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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6月29日
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吾妻鏡
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相州(北條義時)が鶴岡八幡宮の供僧に命じて終日の大般若経一部の転読を供養させた。祈願していることがあり、殊に丹念な供養を求めた。
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   ※義時の祈願: 次のステップは父親の北條時政夫妻の追放と 平賀朝雅の粛清である。この時点で他の御家人
には根回しを済ませているのだが、時政は完全に虚を突かれた。因果はめぐる、糸車...
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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7月1日
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吾妻鏡
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先月の(二俣河)合戦後に初めて御所に於いて盃酒(酒宴)が催された。和田左衛門尉義盛の差配である。
西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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7月8日
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠に与した者の所領を勲功を挙げた武士に与えた。将軍家(実朝)が未だ幼い(満13歳)ため、尼御台所(政子)の考えによる決裁である。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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7月20日
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吾妻鏡
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尼御台所に仕える女房の五、六人が新恩(新たな領地)に浴した。これも追討された者の遺領である。
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   ※獲物を山分け: 北條時政失脚が記録されたのは翌月の閏7月19日。一ヶ月前に 畠山重忠の所領を仲間で
分配したのだから、この時点で時政夫妻は既に失脚していたと見るべきだろう。
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時政の計画は、武蔵国に勢力を保っていた秩父平氏系武士を抹殺し娘婿の武蔵守平賀朝雅の権限と財政基盤を盤石にする目論見だったが、鳶に油揚げを攫われる結果となった。
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しかし重忠の冤罪が判明したのに戦利品の分配とは...政子・義時連合も貪欲だね。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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閏7月19日
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吾妻鏡
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牧の御方が奸計を廻らして娘婿の平賀朝雅を関東の将軍とし、現在は遠州邸にいる将軍家の排除を企んだ。
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尼御台所は結城七郎朝光三浦兵衛尉義村・同九郎胤義(義澄の九男)・天野六郎政景(遠景の嫡男)を派遣して羽林(将軍実朝)を義時邸に迎え入れた。同時に時政が招集していた武士の全員が義時邸に集結して将軍家の警護に任じた。同日の丑刻(深夜2時前後)に時政(68歳)は突然に出家、共に出家した者も多数である。
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   ※時政失脚: 長く辣腕を振るったように思えるが、実際には頼朝が急死してから6年と7ヶ月間の君臨だから、
約19年間執権の座に留まった義時に比べると意外に短い。
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北條に隠居させられて半年ぐらいは刺客の影に怯えていた、かも。もし逆の立場だったら時政夫妻は前将軍の頼家 を殺したように躊躇せず義時を殺しただろうから。
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時政は約10年後に北條で病没、平賀朝雅に嫁していた牧の方の娘は権中納言の藤原国通に再嫁した。
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時政没後の牧の方は娘の家で老後を送り、嘉禄三年(1227)3月には時政の十三回忌法要を行なった。
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藤原定家は明月記の中で、一族を引き連れ豪奢に寺社詣をする牧の方の姿を悪し様に罵っている。
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      右画像は北側から見た北條館の跡。時政の出身地で、同時に終焉の地でもある。
                            画像をクリック→ 北條館跡の明細へ(別窓)

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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは7月の次が閏7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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閏7月20日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に遠州禅室(出家した北條時政)は伊豆国北條郡に下向され、相州(北條義時)が執権の任に就くこととなった。今日、前大膳大夫屬入道大江廣元と籐九郎右衛門尉安達景盛らが義時邸に集まって協議し、右衛門権佐平賀朝雅の追討命令を在京の御家人に伝える使者を派遣した。
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   ※朝雅の処分: 彼が将軍の座に就く計画に関与したか否か、また謀反計画が実在したかどうかも疑問が残る。
実父の失脚を正当化するために事件を捏造した可能性があるし、いづれにしろ朝雅を生かしておくメリットがない。政子の場合は覇権を握った後も謀反の捏造を繰 り返して政敵や義時の後妻一族を冷酷に粛清しているからね。彼女は同族であっても心を許す相手は限られる、から。
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義時さんは...政範に家督を奪われそうになった事実を水に流すような性格ではない。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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閏7月25日
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吾妻鏡
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去る20日に出発した鎌倉の使者が今日の夜に入洛し、直ちに鎌倉の事件経過と命令を在京の御家人に伝えた。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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閏7月26日
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吾妻鏡
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右衛門権佐平賀朝雅後鳥羽院に伺候し、退出しないまま囲碁を楽しんでいた。そこへ小舎人童が走り寄って彼を招き追討使が来たことを告げた。朝雅は動揺を見せずに元の席に戻って石の目数を確認し、「関東から追討使が向けられました。逃げ隠れする所もありませんのでお暇を頂きます。」と奏上し、六角東洞院の宿館に戻った。
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討手の五條判官有範後藤左衛門尉基清・源三左衛門尉親長(親廣の縁者か)・佐々木左衛門尉廣綱(定綱の嫡男)・佐々木弥太郎高重(高綱の三男)らと暫く戦った後に脱出して松坂あたりまで逃げ、金持六郎廣親・佐々木三郎兵衛尉盛綱らが追い掛けた末に山内持寿丸(刑部大夫経俊六男の後六郎通基)が射留めた。
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   ※五條有範: 後に検非違使・筑後守となった在京の鎌倉御家人。
承久の乱で後鳥羽側となり、戦後に処刑された。
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   ※松坂: 現在の山科区日ノ岡(地図)の一帯を差す。東山を越える
日ノ岡峠と逢坂の関(地図)は昔から近江を結ぶ交通の要所、朝雅は六角東洞院から5km以上を逃げた末に討ち取られたことになる。大津を目指したのだろうか。
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続古今和歌集に、日ノ岡を描いた土御門院の和歌がある。
 はし鷹の すゝしの原 狩りくれて 入日の岡に きゝす鳴なり
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      右画像は願成就院に残る伝・北條時政の墓。
      実際には当時のものではない、らしいが。  画像をクリック→ 願成就院の明細(別窓)へ。

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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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閏7月29日
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吾妻鏡
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河野四郎通信は今までの勲功が特に秀でているため、伊豫国の御家人32人は守護職(佐々木盛綱)の支配から離れて河野通信の下で御家人の任に励むよう、将軍押印(花押)の御書が下された。該当する32人の姓名は御教書の端に書き加えてあり、三善康信がこれを差配した。以下の32人である。
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    頼季(浅海太郎、同舎弟ら)  公久(橘六)  光達(新三郎)  高茂(浮穴大夫)  高房(田窪太郎、同舎弟)
    家員(白石三郎)  兼恒(高野小大夫、同舎弟)  清員(埴生太郎、同舎弟)  實蓮(眞詮房)
    重仲(井門太郎)  山前権太(同子)  信家(大内三郎、同弟)  高久(十郎大夫)  余戸源三入道(俊恒)
    高盛(久万太郎大夫、同舎弟)  永助(久万太郎)  安任(江四郎大夫)  家平(吉木三郎)
    高兼(日吉四郎、同舎弟)  長員(別宮大夫)  頼高(別宮新大夫、同舎弟)  吉盛(別宮七郎大夫)
    安時(三嶋大祝)  頼重(彌熊三郎)  遠安(籐三大夫、同舎弟)信任(江二郎大夫)  紀六太郎
    信忠(寺町五郎大夫)  時永(寺町小大夫)  助忠(主籐三)  忠貞(寺町十郎)  頼恒(太郎)
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   ※御教書: 河野家文書を転用した偽書(偽データ)と考えるのが一般的、らしい。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月2日
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吾妻鏡
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京都に派遣していた飛脚が関東に帰参し、金吾(平賀朝雅)を追討した旨を報告した。
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   ※金吾: 衛門府の唐名で、任じる者も差す。頼家は左衛門督(長)で左金吾、朝雅は右衛門佐(四等官の二位)。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月5日
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吾妻鏡
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子刻(深夜12時前後)に大岡備前守時親が出家した。遠州(北條時政)出家の繋がりである。
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   ※大岡時親: 牧の方の甥。更に詳細は6月21日を参照。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月7日
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吾妻鏡
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宇都宮弥三郎頼綱の謀叛が発覚した。すでに一族郎党を率いて鎌倉を目指しているとの風聞があり、 相州(北條義時)・大江廣元朝臣安達景盛らが尼御台所(政子)邸に集まって評議を行っている。その後に小山左衛門尉朝政(曳柿の水干袴)を呼び、大江廣元が御台所の指示を伝えた。
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最近は各所で騒動が発生している上に頼綱が叛逆し将軍の座を窺っている。
先祖の藤原秀郷平将門を追討してから長く下野国を護り続ける立場の朝政なのに、なぜ国内(宇都宮)の横暴を鎮めないのか。志田三郎先生(源義憲)の挙兵を討伐した時には故・頼朝将軍が「武門の眉目である」と賞賛する御下文を発行した前例もあり、今は頼綱の驕りを糾すべきであろう。
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朝政はこの言葉を聞いて次のように答えた。
頼綱とは縁戚の関係にあります。たとえ命令に従って縁を切ったとしても、直ぐに追討使を承るのは余りに薄情な行為となりますから、別の者に御下命ください。ただし朝政は叛逆には一切加担せず、頼綱が攻めてくれば死力を尽くして戦います。
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   ※藤原秀郷: 小山氏の祖ではあるが、秀郷直系子孫としてはむしろ
宇都宮氏の方が嫡流。(宇都宮氏の系図を参照)。
政子さん、無茶苦茶言ってるね。
この自己中心的な性格は終生変わらなかった。
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   ※義憲挙兵: 寿永二年(1183)の野木宮合戦を差す。前後の経緯を
考えると鎌倉側の騙し討ちと考えるのがノーマルだ。
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      右画像は渡良瀬遊水地に近い野木神社の参道入口。
                        (画像をクリック→ 野木宮合戦へ。)

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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月11日
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吾妻鏡
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宇都宮弥三郎頼綱が書状を相州義時に献じた。小山朝政の書状も添付してあり叛逆など考えていないとの内容が記述してある。これは朝政の忠告を受け入れたものだろう。
大江廣元朝臣が前後の事情を検討した結果、将軍家(実朝)に報告する必要はないと判断した。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家の出御はなく、駿河前司中原季時が奉幣の使者を務めた。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月16日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて例祭に)将軍家の出御なし、中原季時の参宮も機能と同じ。
今日、宇都宮弥三郎頼綱が下野国で出家し、蓮生の法名を名乗った。同じく郎従六十余人が出家したらしい。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月17日
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吾妻鏡
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蓮生法師(頼綱)が宇都宮を発って鎌倉に向った。これは叛意がない事と出家した事などを陳べるためである。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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8月19日
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吾妻鏡
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宇都宮弥三郎入道蓮生(頼綱)が鎌倉に到着。相州(義時)邸を訪れたが対面はできなかった。結城七郎朝光を介して陳謝の印に(切り落とした)髻を提出、朝光は丁重にこれを取り次いだ。義時は髻を見た後に朝光に預けた。
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   ※頼綱の謀反: 実際に謀反の計画があったかは疑わしい。
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最初の妻が稲毛重成 の娘で後妻が北條時政の娘、更に側妾が梶原景時の娘という縁戚関係から義時が疑念を抱いて牽制した可能性がある。
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わずか34歳だった頼綱は出家して隠居し、息子が幼少だったため弟の(塩谷)朝業が家督を預かり、後に頼綱の長男時綱(生母は稲毛重成の娘)ではなく次男の泰綱(生母は時政の娘)が宇都宮氏の当主となった。
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      右画像は益子の地蔵院横にある宇都宮氏累代の廟所。
      手前から四代業綱(成綱)・初代宗円(兼綱)・三代朝綱・二代宗綱の墓石。
                  画像をクリック→ 宇都宮一族の廟所と益子上大羽地蔵院へ別窓)。

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      地蔵院の近くには平重盛の忠臣だった平貞能が余生を送った安善寺もある。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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9月2日
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吾妻鏡
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内籐兵衛尉朝親が京都から鎌倉に下着し、新古今和歌集を御所に届けた。
これは 堀川通具(wiki)・ 藤原有家(wiki)・ 藤原定家藤原家隆(wiki)・ 藤原雅経(wiki)ら朝臣が 後鳥羽上皇の勅命を受けて3月16日に和歌所が選び4月に奏覧に呈したもの。まだ竟宴は行われず公開もしていない。
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将軍家(実朝)が和歌を好まれているし、故・右大将軍(頼朝)の詠んだ和歌も入っているため、将軍家の意向に配慮して手に入れた。定家の弟子である朝親の詠んだ歌も詠み人知らずとして選ばれている関係で書写できたのだが、平賀朝雅畠山重忠の追討事件のため京都も落ち着かない状態だったため今まで遅延してしまった、と。
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   ※竟宴: 講義や勅撰和歌集の撰が済んだ後に宴を設けて関連する詩歌を詠ませて報奨などを与える席。
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   ※内籐朝親: 在京の御家人。文治二年(1186)3月27日の吾妻鏡に「(京都守護職を一条能保と交代して鎌倉
に下向する)北條時政が洛中を警護する武士を選び吉田経房に名簿を提出した」との記事がありその中に「内藤四郎」の名がある。また建久二年(1191)1月18日には「御家人の内藤六盛家が周防国の石清水八幡宮領遠石庄屋で押領を行った」との記事がある。
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系図ではこの内藤四郎と盛家が同一人物と推定され、彼の嫡男が盛親。ここに載っている朝親はその近縁と考えられる。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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9月19日
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吾妻鏡
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伯耆国宇多河庄の地頭職を大原の来迎院に寄進、大江廣元朝臣がこれを差配した。
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   ※宇多河庄: 汗入郡(鳥取県米子市淀江町東部・地図)、来迎院は京都大原の天台宗寺院。wikiを参考に。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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9月20日
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吾妻鏡
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首藤刑部丞経俊が款状(官位や恩賞などを望む嘆願書)を提出した。内容は次の通り。
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昨春に勃発した伊勢平氏蜂起(三日平氏の乱)の際に手勢が少なかったため取り敢えず伊勢から逃れ、派遣された平賀朝雅が平氏を追討する結果となった。経俊の所有していた伊賀と伊勢の守護職は恩賞として朝雅に充てられたが、情勢に応じての進退は兵法の故実であり、簡単に理非を問うべきではない。
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まして謀反した朝雅を追討した軍勢の中で実際に討ち取ったのは愚息の持寿丸の手柄である。元々の守護職が経俊だった事をも考慮し忠節に免じて両職の返還をお願いしたい。
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この款状は認められず、守護職は大内帯刀長惟信が補任となった。
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   ※大内惟信: 大内惟義(平賀朝雅の兄)の嫡男。源氏の門葉として父が任じていた美濃国守護職も継承したが
北條氏の台頭によって徐々に勢力を失い、承久の乱(1221)では後鳥羽上皇 側に与して敗北。10年近い逃亡の末に捕縛され流罪となった。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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10月10日
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吾妻鏡
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駿河前司の中原季時が京都守護職として上洛した。
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   ※京都守護職: 謀反人として追討された平賀朝雅の補任。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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10月13日
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吾妻鏡
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五條判官有範の使者京都から到着して次の通り報告した。
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去る2日の子刻(深夜12時前後)に比叡山法華堂の回廊が放火され、講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五佛院・實相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊などが全て灰塵に帰した。根本中堂まで延焼する危険があったため本尊と十二神将像を随自意堂に遷し、前唐院の経文と宝物などは法華堂と常行堂から取り出して食堂で供養した。
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放火については堂衆による犯行の疑いがある。
比叡山は桓武天皇六年の延暦四年(785)7月20日に伝教大師最澄が開き根本中堂を草創して以降、朱雀院の承平五年(935)3月16日の火災で根元中堂(本尊は避難)を始め堂舎・僧坊40.余ヶ所が焼け落ちた。
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村上天皇の康保二年(965)10月28日の亥刻(22時前後)には延暦寺講堂・文殊楼・延命院本堂東・法華三昧・常行三昧堂・鐘楼および僧坊の31宇が瞬く間に焼失、この火元は故・天台座主の喜慶坊だった。
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四天王院の四天王像は助かったが北方像(多聞天像)は腰の部分が焼亡して頭と足が離れ、見る者が涙を拭う姿となった。そして今年もまた乙丑年の10月にこの災厄に見舞われたのは実に不思議である。
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   ※五條判官有範: 在京御家人として閏7月26日の朝雅追討に加わり
承久の乱では後鳥羽側として処刑された。
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   ※堂衆: 比叡山や高野山で学問習得を専門とするのが学生で、雑役を
担当した下級の僧が堂衆。再三内紛を起こしている。
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   ※比叡山の火災: 元亀二年(1571)の信長の全山焼き討ち(wiki)が
最も有名(これは9月だった)。
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   右画像は比叡山総本堂の国宝・根本中堂。画像をクリック→ 拡大表示
                堂塔配置など詳細は公式サイトで。

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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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11月3日
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吾妻鏡
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小澤左近将監信重が綾小路三位師季の息女(二歳)を伴って京都から参着、二階堂行光を介して尼御台所に経緯を申し述べた。娘の母親は稲毛三郎入道重成の娘で遠州禅室(時政)の外孫に当る(つまり政子の姪)。
去る6月に重成入道が追討された際に乳母夫の信重が処罰が及ぶのを恐れて隠れ住んでいた。それを尼御台所が哀れんで内々に鎌倉入りを打診したものである。
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   ※小澤信重: 小山田(町田市)の古い地誌には「稲毛重成の遺領は後に同族の小澤左近将監信重に与えられ、
応安(南北朝時代の1368〜1374年)の頃に小沢左衛門尉国高が領有した」と書かれている。
重成の嫡子・重政は小沢郷(現在の稲毛市)を領有して小澤姓を名乗り、父と同様に経師谷で6月23日に討たれている。信重との関係は記録にないが、比較的近い縁戚だろう。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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11月4日
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吾妻鏡
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夜になって綾小路の姫君が尼御台所邸に入り、猶子(相続権を伴わない養子)となる手続きを行った。武蔵国小澤郷(稲毛入道の遺領)を知行させよとの仰せがあった。
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   ※綾小路: 宇多源氏の源時賢流が綾小路家だが、師季の名は(三位なのに)系図に見当たらない。
年代的には源(綾小路)時兼(1176〜1255)の兄弟あたりだと思うのだが...。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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11月15日
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吾妻鏡
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相馬次郎師常(67歳)が没した。坐禅の姿勢で合掌しており、極楽往生は確実と思われる。師常は念仏行者(信仰者より出家信者の意味に近い)で、仏縁を結ぶために多数の僧俗が集まって彼の姿を拝したという。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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11月20日
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吾妻鏡
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訴訟による決裁を経ずに示談・和解した場合は、当事者はそれを改変して再び争ってはならない旨を決定した。
図書允清原清定がこれを差配した。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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12月2日
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吾妻鏡
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故左金吾将軍(頼家)の若公(幼名を善哉、後の公暁、満5歳)が尼御台所の配慮によって鶴岡八幡宮寺別当の阿闍梨尊暁の門弟となり、酉刻(18時前後)に尊暁の本坊(屋敷)に渡御された。侍五人がこれに従った。
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   ※頼家の遺児: 失脚直後の建久三年9月3日に「妻妾と二歳の男子らは縁戚関係にある 和田左衛門尉義盛
預けて所領の安房国に送られた。」とあるから、鎌倉に呼び寄せた、という事か。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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12月10日
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吾妻鏡
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伊勢平氏旧領への新補地頭について新たな規則を定め、これを施行した。図書允清原清定がこれを差配した。
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   ※新たな規則: 原文は「新補率法」。承久の乱(1221)以後は「功績に応じて没収地に補任される「新補地頭」
には3分の1の権利を与える」と定め、これを「新補率法」と呼んだ。
新補地頭がこの権利を利用して不当な行為を行った例が多いのは知られているが、その15年前に施行されていたとの記事はこの一件のみ。編纂者が誤記した可能性もある。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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12月18日
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吾妻鏡
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御台所(実朝の正室坊門信子)が鶴岡八幡宮に御参り。用いたのは八葉の牛車、従った女房の牛車が二両続いた。
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   ※八葉の牛車: 建久六年3月9日の条に画像と説明を載せてある。発展型の網代車は建久元年11月9日で。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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12月24日
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吾妻鏡
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去る10日、黒柄次郎入道が上総国で追捕狼藉を行ったと公文名主が訴えたため南部三郎光行二階堂行村に対処を命じた。今日は行村が上総国の担当奉行である。
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   ※追捕狼藉: 通常は家屋や倉庫に侵入して財物を奪うなど不当な没収
行為を差す。鎌倉時代には犯罪者や年貢の遅滞に対する強制収用も「追捕」と看做された。
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後に荘園の権利関係が複雑になると追捕した側にとっては正当な権利に基づく行為でも、権利が対立する側では略奪・狼藉と受け取って訴訟に発展するなどの例が増えたらしい。この事件が一例だろうか。
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   ※公文名主: 公領や荘園領主から農地経営を請け負うと同時に領主
への責務(年貢・公事・夫役の提供)を負担した階層。
庄司など荘官の下で実務を行う有力農民が武士となり後に鎌倉御家人となった例も多く、鎌倉時代の農地の権利関係は余りに複雑化している。
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右画像は甲斐源氏・南部光行の本領(富士川中流域)だった浄光寺の波木井氏墓所。光行の三男實光が甲斐国南部郷に残り、他の兄弟は奥州合戦で得た新領の陸奥国に移って長く繁栄した。
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南巨摩郡南部町(地図)には實光の遺構と併せて文永十一年(1274)に波木井の身延山久遠寺に住んだ日蓮に関する遺跡も点在する。  画像をクリック→ 南部一族発祥の地へ(別窓)。
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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吾妻鏡
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西暦1205年
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83代 土御門
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元久二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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