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元久三年・建永元年(1206)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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1月2日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参り。結城朝光が御劔持ちを務めた。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で心経会(般若心経を読謠する法会)を開催、将軍家も出御された。順序は通例通り、導師は三位法橋定豪
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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1月12日
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吾妻鏡
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将軍家の御読書始めが行われた。相模権守中原仲業が束帯姿で御侍読を務めた。定刻に孝経を携えて寝殿の南面に入り、将軍家が御布衣(狩衣)で出御した。御読書始め終了後に中原仲業には鞍を置いた馬が下賜され、和田三郎朝盛がこれを引いた。仲業は庭上に下りて拝礼した後に退出した。
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   ※侍読: 侍講に同じ、近くに侍って講義する意味。
   ※孝経: 曽子の門人が孔子の言動を伝えた十三経の一つ。孝の概略と実践の道を説いている。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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1月27日
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吾妻鏡
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故将軍(頼朝)の時代に拝領した土地は大罪を犯した場合でない限り没収する事はない、と定められた。この件を差配したのは 二階堂行村である。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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2月4日
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吾妻鏡
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大雪あり(西暦3月14日)。鶴岡八幡宮の祭礼は通常通り。夜になって将軍家(実朝)が雪を見るために名越山近くまで出御され、相州(義時)の山荘で和歌の会を催した。相模太郎泰時東重胤・内籐兵衛尉朝親が参席した。
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   ※義時の山荘: 名越近くだから北條時政が住んでいた名越邸(前年の6月23日を参照)だろう。
名越邸は後に義時の次男朝時が継承して本宅とし、名越流北條氏の祖となっている。
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   ※内籐朝親: 前年9月2日に新古今和歌集の稿本の写を京都から運んできた在京御家人。詳細は当日の条で。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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2月8日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に尼御台所(政子)鶴岡八幡宮に参拝された。駿河守大内惟義と民部大夫二階堂行光ら数人が輿の後に従った。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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2月20日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇から、一日に百人の僧による仁王講を行うようにとの院宣が全国に下され、関東で実施するべき明細が鎌倉に到着した。前大膳大夫大江廣元がこれを差配する。
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   ※仁王講: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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2月22日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で百人の僧による仁王講と、同じく百人の僧による本地仏の法会を行った。八幡宮の供僧らによる法会は院宣を下された中での相模国分である。
前大膳大夫大江廣元と大夫屬入道三善康信らが宮寺における法会を差配した。
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   ※本地仏: 神と仏の同居を理論的に取り繕うのが神仏習合思想で、簡単に書くと「神は仏の化身」と考えて辻褄
合わせを試みている(更に詳細はwikiで)。鶴岡八幡宮の本地仏は阿弥陀如来だった。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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3月2日
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吾妻鏡
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先月22日付の除目を記した書類が鎌倉に届き、将軍家(実朝)は従四位下に叙された。前大膳大夫 大江廣元がこれを御前に運んだ。
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   ※実朝の官位変遷: 1203年9月に 従五位下(12歳)、
1204年1月に 従五位上(14歳)、
1206年2月に 従四位下(15歳)、
1207年1月に 従四位上(16歳)、
1208年12月に 正四位下(17歳)、
1209年4月に 従三位(18歳)、
1211年1月に 正三位(20歳)、
1212年12月に 従二位(21歳)、
1213年2月に 正二位(22歳)・・・1218年12月に 右大臣に昇任し、翌月27日に死没。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に於いて一切経の法会を行った。将軍家(実朝)は廻廊に出御し、御家人らはその前庭に着座した。加藤判官光員が楼門の軒下に控えた。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)の3月3日(上巳節句)にも開催しているから、通例の法会なのだろう。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所などを模した飾り付けで遊び、無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉時代には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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3月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に奉幣された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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3月12日
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吾妻鏡
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信濃国の住人桜井五郎は鷹を飼い慣らす名人である。今日は将軍の御前で鷹飼いの奥儀や故実などを語り自慢話に及び、更には「鵙(百舌鳥・モズ)を鷹のように飼い慣らして鳥を獲る事もできます。」と語った。
将軍家は「その様子を見せよ」と望んだが、「直ぐに行なうのは無理ですから後日御覧に入れましょう」と辞退した
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   ※辞退: 調子に乗ったヨタ話と思ったら、翌日に話の続きがある。桜井五郎は後白河院領の伴野荘に含まれる
佐久郡桜井郷(地図)を本領とした武士で、多分滋野氏の系だと思う。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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3月13日
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吾妻鏡
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相州(北條義時)が将軍に召されて御前に参上した。数刻の雑談後に将軍家が「桜井五郎が「鵙を使って鳥を取らせる」と語ったため実際に見たいと言った。これは子供じみた 望みだろうか」と問うた。義時はそれに答えて、
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「かつて源斉頼は鷹匠として同様の技を得手にしたそうですが、それが子孫に伝わっていれば稀有な事です。虚言なら彼にとって哀れですから内々に確かめてみましょう。」と言い終わらないうちに桜井五郎が参入した。
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紺色の直垂を着して餌袋を右腰に付け、一羽の鵙を左腕に留らせている。義時は御簾の中からこの姿を見て興味を惹かれ、「早くご覧下さい」と将軍を促して御簾を上げさせた。大官令大江廣元や問注所入道三善康信らも集まってきた。庭に控えた桜井五郎は鵙を三度飛ばして草の中にいた雀三羽を捕らえた。
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見る者は誰もが感嘆し、桜井は「小鳥などは当たり前、雉(キジ)が相手でも同じことです。」と語った。将軍家は縁の近くに桜井を召し、義時を介して褒美の御剣を与えた。
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   ※鷹匠の技: 斉頼の子孫が諏訪流(参考サイト・別窓)として技術を伝えていたらしい。桜井五郎は信濃の住人
だから、斉頼の末裔として鷹匠の奥義を伝えていた可能性はある。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の祭例あり。将軍家(実朝)が参宮された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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元久三年
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4月27日
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改元
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今日改元あり。元久三年を改め、建永元年とした
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   ※建永に改元: 百錬抄(公家の日記などを編纂した歴史書で成立は鎌倉時代後期)によれば赤斑瘡(はしか)の
流行、一代要記(鎌倉〜南北朝時代の年代記)によれば摂政九条良経兼實の次男)の急死が改元の契機とされている。兼實も翌年には死没し、良経の長男道家が家督を継承する。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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5月6日
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吾妻鏡
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伊勢神宮の祭主である従二位能隆卿が使者を派遣して次のように申し入れてきた。
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加藤左衛門尉光員は当家の家司であるが、現在は鎌倉に仕える形になり武威を振り翳して命令に従わず神領の数ヶ所を専有する状態になっている。しかも去年11月には仔細の報告もせず、検非違使に任じる宣旨まで受けた。早急に罷免を求めるべきである。
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この申し入れによって相模守北條義時大江廣元朝臣三善康信善信が協議を行い次のように返答した。
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光員による神領の専有については禁止の命令を下す。また廷尉(検非違使職)については、後鳥羽上皇の指示に従って西面に伺候しているため仙洞(院の御所)の意思であり、鎌倉が関与する範疇ではない。
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   ※従二位能隆: 大中臣家隆の三男で伊勢神宮祭主を世襲し28年間務めた。朝廷と幕府の双方と良好な関係を
保ち、寛喜二年(1230)4月に祭主を長男の隆宗に譲って出家・引退。
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   ※家司: 元々は親王や内親王家や公卿・将軍家などの家で家政を司る職員で「執事」に近い職責を担った。
平安中期以後は国の官人が権勢のある家の家司を兼任するのが普通になった。
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   ※西面: 院の御所を警護するため白河法皇が寛治年間(1186年頃か)に設置して詰所を御所の北側に置いた
「北面の武士」に加えて後鳥羽上皇が新たに設置した直属部隊。鎌倉の武力に対抗する意思に従って強化されて承久の乱(1221)の中核戦力になり、乱の鎮圧後は廃止された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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5月24日
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吾妻鏡
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前大膳大夫(大江廣元)を奉行として能隆卿の申し入れ内容を加藤光員に確認、光員は次のように答えた。
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伊勢国道前郡の政所職は伊勢神宮祭主の恩顧を受けての決裁に従ったものです。神領を知行しているのは元々自ら開拓した土地を神社に寄進したものであり、押領ではありません。
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これによって幕府の関与は必要なしと結論づけた。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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6月16日
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吾妻鏡
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左金吾将軍(頼家)の若君(善哉公、後の公暁)、鶴岡八幡宮の別当定豪の坊から尼御台所邸に渡御され着袴の儀を行った。将軍家(実朝)も同じく入御され、相州北條義時の息子らが給仕を務めた。
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   ※義時の息子: 長男泰時は23歳、次男朝時は13歳。三男重時は8歳だから給仕は少し無理かな。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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6月20日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭があり、将軍家(実朝)が臨席された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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6月21日
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吾妻鏡
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将軍家は御所の南庭で相撲を観覧され、相模守北條義時と大官令大江廣元朝臣らが近くに控えた。南面の御簾を上げた後に力士が庭の中央で勝負を決し結城朝光が奉行を務めた。向後の相撲は彼が行司を務める習いとなる。
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      一番  三浦高井太郎重茂(杉本義宗の五男宗実の子) vs 三毛大蔵三郎(鎮西の住人)
      二番  波多野五郎義景 vs 大籐八
      三番  廣瀬四郎助弘(相模の侍) vs 石井次郎(義盛近親の郎党)
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褒賞は予め廊下の板戸横に準備した鷹の羽・染めた革・砂金などで、相撲が終ってから負けて退場した力士も呼び戻して勝敗に関係なく双方の力士に下賜された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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7月1日
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吾妻鏡
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(元久元年(1204)3月の)伊勢平氏蜂起の際に平賀朝雅が大将軍として近国の御家人を招集した。 加わらなかった者の所領は没収したが、不参加の事情説明が妥当だった分として五條蔵人長雅らの所領は返還された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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7月3日
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吾妻鏡
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三位法橋定暁が鶴岡八幡宮別当に補任され、今日始めて神殿に拝礼した。その後に御所に参上して謝礼を述べ、大江廣元がこれを取り次いだ。
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   ※八幡宮別当: 鶴岡初代別当は圓暁、正治二年(1200)〜建永元年(1206)は尊暁(圓暁の弟・公暁の師)。
尊暁は辞職して京都に帰り病没。建保五年(1217)6月までは定暁、建保七年(1219)の1月まで公暁、その後は慶幸(ここまでは圓城寺(三井寺)系)、定豪 (東寺系)と続く。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催、舞楽の奉納などは通例の通り。将軍家(実朝)が臨席された。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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8月16日
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吾妻鏡
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(例祭に)将軍家(実朝)が御臨席。流鏑馬の最中に暴風雨があり、天気の回復を待ったため一部が夜になった。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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10月20日
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吾妻鏡
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左金吾将軍(頼家)息子の若君(善哉公、後の公暁)が尼御台所(政子)の仰せに従い将軍家(実朝)の猶子として初めて御所に入られた。乳母夫の三浦平六兵衛尉義村が(将軍家に)贈与の品を献じた。
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   ※猶子: 一般的には相続を目的としない養子格で、昇進や婚姻の便宜や同族としての関係強化を目的とする。
ただし相続を伴ったり養子と全く同じ意味を持つ場合もあるから、ケース・バイ・ケースの判断が必要。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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10月24日
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吾妻鏡
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相模守北條義時の二男(13歳)が御所に於いて元服、次郎朝時と号した。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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11月18日
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吾妻鏡
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将軍お気に入りの近習である東平太重胤が下総国から鎌倉に戻って来た。突然鎌倉を離れて所領(現在の千葉県香取郡東庄町・ 地図)に下向したまま数ヶ月も過ぎた。将軍は詠んだ和歌を送って帰還を促したが更に遅参したため怒りを招き、蟄居を余儀なくされていたものである。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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11月20日
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吾妻鏡
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佐々木五郎義清が将軍家(実朝)が外出する際の諸事差配を担当するよう命じられた。
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西暦1206年
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83代 土御門
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建永元年
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12月23日
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吾妻鏡
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東重胤が相模守北條義時邸を訪れ、将軍家(実朝)の怒りを受けている事について相談した。義時は、「宮仕えをする際には良く起きることだから和歌を詠んで献じれば御機嫌を直して頂けるだろう。」と答え、重胤はその場で筆を執り一首を詠んだ。これに感心した義時は重胤を伴って御所に赴き、門外に待たせて中に入った。
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将軍家はちょうど南面(公務の場)に出ていたため義時は重胤の詠んだ和歌を御前に置き、「重胤が怒りを受けたことを嘆き悲しんでおります。」と言上した。将軍家は和歌を三度読み返して重胤を御前に召し、田舎の冬の様子や枯野の眺めや鷹狩りや雪の翌朝などについての話を求めた。
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数時間後に義時は退出。重胤は庭に降りて見送りながら手を合わせ、「ご配慮を頂き許しを得ることができました。子々孫々まで御恩を忘れず御一門に従います。」と誓った。
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   ※重胤の子孫: 嫡子の胤行は承久の乱での戦功で美濃国山田荘
(郡上市)の地頭となって嫡子行氏が土着、子孫は在京の御家人として六波羅探題に仕えた。
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越前街道の長良川支流に東氏館跡が残っている。ここ、千葉氏傍系の東氏とは知らずに立ち寄ったんだよね。静かで落ち着ける場所だった。
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右画像は「東氏館の庭園跡」の一枚。興味があれば画像をクリックし「道の駅 古今伝授の里やまと」の「近隣の見所」をご覧あれ(別窓)。
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