建永二年・承元元年(1207)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月3日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に参詣、ただし廻廊から神殿を御遙拝し神馬一疋を寄進した。
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   ※回廊から遙拝: 元は石段下にあった八幡宮本殿は建久二年(1191)3月4日の大火で焼け落ち、直ちに現在
の位置に再建された。回廊は石段の下に再建した若宮から流鏑馬道にかけて廻らされていたから本殿までは100mほどだから「回廊からの遥拝」には宗教的な意味があったのだろう。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月5日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝・満14歳3ヶ月)が従四位上に昇叙となった。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月9日
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吾妻鏡
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将軍家の御台所(坊門信子)が女官と共に牛車で鶴岡八幡宮に御参拝し上宮(現在の神殿)で法華経供養の法会に参席された。 導師は別当の法橋定暁、多数の供僧が群参した。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月18日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣での精進潔斎を始め、潮に浴して身を清めるため由比ガ浜に出御された。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月22日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に将軍家が二所詣でに出発された。相模守北條義時、武蔵守 北條時房、大膳大夫大江廣元、九郎右衛門尉足立景盛らが供として従った。
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   ※二所詣で: 記録に残る頼朝二所詣の最初は建久二年(1191)
2月4日の出発で、鶴岡八幡宮に参拝してから伊豆走湯権現→ 三嶋大社→ 箱根権現→ 鎌倉に還御が予定の順路、実質的には三所詣だった。
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伊豆山に向かう途中で石橋山古戦場に立ち寄った頼朝は佐奈田与一と郎党豊三の墓に詣でて苦しかった時代を思い出して涙を流したため先達者が上吉を主張し、次回から逆コースを辿るようになった。
今回の実朝も箱根権現を最初に設定している。
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   右画像は神殿に登る石段と三の鳥居。
   画像をクリック→ 「山岳信仰の聖地だった箱根神社」へ。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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1月27日
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吾妻鏡
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将軍家は申刻(16時前後)に二所詣でを終えて鎌倉に還御された。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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2月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神人である祝部(下級神職)である清太国次の座衆(下役)上総国姉前社の住人兼祐を鶴岡八幡宮の神人に補任した。神威を利用して徒党を組んだり無法や乱行をしないよう、図書允 清原清定を介して注意が与えられた。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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2月20日
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吾妻鏡
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北條時房朝臣が先月14日に武蔵守に任じられた。国の運営については故平賀(大内)義信入道の前例に従って行うよう仰せがあった。
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   ※平賀義信: 吾妻鏡に載った記録は建仁三年(1203)10月に実朝の元服で加冠役を務めたのが最後になる。
この時も「前武蔵守」だから、既に次男の朝雅と交替して一線を退いていたのだろう。朝雅が討たれたのは元久二年(1205)8月だから義信の死没時期とダブっており、少し気になるところだ。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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3月1日
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吾妻鏡
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北の御壷に桜や梅などの樹を多く植えた。永福寺からの移植である。
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   ※御壷: 坪庭との解釈もあるが、むしろ中庭に近いスペースだろう。永福寺の竣工は建久三年(1192)の末、
落成供養の法会が済んでそろそろ15年が過ぎる。光陰、矢の如し。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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3月3日
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吾妻鏡
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北の中庭で闘鶏の会が催された。北條時房右近将監源親廣結城朝光和田義盛時房足立遠元安達景盛境常秀和田常盛三浦義村長沼宗政らが同席した。
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   ※闘鶏: 平安時代から主として占いなどに利用していた。宮中では「鶏合(とりあわせ)」として3月3日に行われ
ていたらしい。平家物語巻十一の七で熊野別当湛増が紅白の鶏を戦わせて源氏に合流を決めた話は(嘘だか真実だか判らないけど)有名だ。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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3月10日
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吾妻鏡
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長沼五郎宗政に伯楽に関する諸事を差配するよう命令が下された。
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   ※伯楽: 原典は中国で天馬を守る星の名、転じて馬の良否を見分け病気を直す者、更に転じて人柄を見抜き
才能を引き出す者。宗政の場合は御所の馬を管理する部署の人事管理、ほどの意味だろうか。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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3月20日
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吾妻鏡
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武蔵国の未開墾地域の開発に務めよとの指示を地頭に与えるよう、武蔵守北條時房が命じられた。 大江廣元がこれを差配する。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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4月13日
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吾妻鏡
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戌刻、将軍家(実朝)が体調不良に陥った。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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4月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の病気が治癒せず続いているため相模守北條義時邸に於いて祈祷を行った。鶴岡八幡宮の供僧らが正座して終日の大般若経転読を行なった。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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4月20日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の病気が治癒し、沐浴して穢(けがれ)を落とした。
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   ※病弱: 両親(頼朝政子)の体質は問題なさそうなのに、大姫乙姫実朝は虚弱体質だよね。頼家は心身の
資質に問題があったみたいだし、祈祷に頼るのも判るような気がする。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で節句の祭礼あり。将軍家(実朝)が御参宮・参拝された。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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6月2日
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吾妻鏡
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民部入道蓮景(天野遠景)が嘆願書を提出した。まず相模守北條義時に渡した内容は恩沢の要望である。
治承四年(1180)8月の山木合戦から以降に挙げた数々の勲功を11ヶ條の述懐として載せている。大官令大江廣元がこの嘆願書を取り次いだ。
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   ※遠景の零落: 頼朝の時代に挙げた勲功で得た所領の大部分は
懲罰や没収などで失っていた、とする説がある。
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子孫が相続した所領の大部分は遠景が得たものではなく、嫡子の政景が承久の乱などの勲功で得た土地だったと伝わるから、もしかすると政景とも円満な関係ではなかった可能性もある。
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比企能員 謀殺などで北條氏には貢献したのに..
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右画像は狩野川西岸に残る遠景一族の墓所。
画像をクリック→ 「天野遠景の本領」へ(別窓)
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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6月16日
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吾妻鏡
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例年と異なる冷夏で、まるで3月か4月を思わせる気候である。貴賤を問わず多くの人々が病に苦しんでいる。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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6月22日
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吾妻鏡
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坊門信清亜相(大納言)からの使者が到着し仁和寺御室の令旨を届けた。内容は次の通り。
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紀伊国の住民が高野山(金剛峯寺・公式サイト)に侵入し狩猟などを行って寺領を犯している。
これは和泉国と紀伊国の守護代による犯行なので、関東から命令を下し狼藉を停止させて欲しいと寺門(三井寺)を介しての愁訴があった。仁和寺御室が金剛峯寺の所司(事務職の僧)の書状を添えて私に依頼してきたため、その内容をお伝えする。
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   ※仁和寺御室: 真言宗御室派の総本山仁和寺(公式サイト)の門跡を差す。仁和寺は宇陀天皇(法皇)創建の
門跡寺院で、今の御室(門跡・皇族が務める住職)は後白河法皇の第二皇子・守覚法親王。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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6月24日
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吾妻鏡
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御室からの申し入れのあった坊門信清大納言を経由しての高野山の訴えについて、御所で協議を行なった。
和泉国と紀伊国の守護は佐原十郎左衛門尉義連が務め、義連が死没してから後任を決めていなかった。
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この両国は後鳥羽上皇の熊野詣に伴う驛家の雑務以外には特に業務がないので守護を置く必要がない。従って仙洞(院の御所)の管理に委ねることに決裁した。義連の代官は直ちに引き上げさせるよう、命令書を掃部入道寂忍(中原親能)に送ることとなった。大江廣元がこれを差配する。
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   ※義連の死没: 系図によって「建久三年(1192)に75歳で死去」から「承久三年(1221)に85歳で死去」まで
諸説ある。次兄の義澄が大治二年(1127)誕生だから両方とも没年令の合理性を欠いており、蘆名系図の「建仁三年(1203)5月に78歳で死去」が信頼できそうだ。
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とすれば、和泉国と紀伊国は3年間も守護不在のまま代官に管理を任せていたことになる。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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6月29日
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吾妻鏡
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陰陽師の左京亮維範が京都から鎌倉に入った。祈祷を命じるため特に呼び寄せた人物である。
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   ※左京亮維範: 安倍晴明の傍流と思われるが詳細は判らない。この時期の鎌倉には御多分に漏れず、京都で
メジャーな地位を得られなかった祈祷師や絵師などが新天地を求めて鎌倉に下向した例が多かったと推測される。時代が変わっても人の思いは同じ、なんだろうね。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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7月14日
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吾妻鏡
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皆既月食があり、明確に観ることができた。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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7月19日
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吾妻鏡
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午未(正午~14時前後)にかけての強風で御所の西棟が倒壊。下働きの女が二人、下敷きになって死んだ。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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7月23日
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吾妻鏡
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掃部入道寂忍(中原親能)の使者が鎌倉に到着して報告、内容は次の通り。
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和泉国と紀伊国の守護代については鎌倉の指示に従い、去る9日に参上せよと伝えました。同様に、13日にはその内容を坊門信清殿に言上しております。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家(実朝)が御所を出発する間際になって随兵の中に「支障があるため参加を辞退する」と申し出た者がいた。交替して加わる武士を手配したため出発が遅れ、結果として神事の混乱を招いてしまった。
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これは出御を担当する奉行を決めていなかったのが原因なので、直ちに民部大夫二階堂行光を呼び、今後は御所での行事に際しての供奉人の名簿などは間違いが起きないように沙汰せよと強く指示を行なった。
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出御が申刻(16時前後)にずれ込んだため舞楽などの奉納は夜になり、松明を灯しての儀式になった。将軍家は全ての行事が終わる前に還御された。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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8月16日
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吾妻鏡
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(昨日に続く例祭に)将軍家が御参宮、流鏑馬などは通例の通り。昨日と今日の御剣持ちは結城朝光が任じた。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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8月17日
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吾妻鏡
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将軍家が放生会に出御される際に支障を申し出た者について、相模守北條義時・武蔵守北條時房大江廣元朝臣三善康信二階堂行光が集まって協議した。調べたところ或る者は服喪、或る者は体調不良の旨を答えたが、随兵の中で吾妻四郎助光だけは辞退の理由を申し述べなかったため、行光を介して詰問した。
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吾妻助光はそれ程の大名ではないが昔から仕えていた勇者として随兵に加えた。名誉とは考えないのか。間際になって辞退した所存は何か」、と。
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晴れがましい行事のために用意した鎧が鼠のために損傷していたため周章し支障ありと申し出てしまいました。と助光が答え、行光が重ねて指摘した。
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用意した鎧が新しく誂えたものならば、実に好ましくない。随兵は華やかさではなく警護が任務である。
だからこそ右大将軍(頼朝)の時代から譜代の武士は必ず随兵の任を務めるよう定められてきた。
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武勇の者なら甲冑一領は所有している筈はないのに、なぜ父祖から伝わった鎧を使わず新たに縅したものを使うのか。ましてや恒例の神事の度に新調するのは倹約の心掛けにも背く。この趣旨を守るように。
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助光は御所への出仕停止処分を受けた。
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   ※吾妻助光: 藤原秀郷--次男千常--文脩--次男兼光--次男兼助(吾妻権守)--兼成(吾妻権守)--助亮--助光、と
続き、吾妻郡(群馬県北西部の中之条町一帯)を本拠とした。系譜は大田氏・下川邊氏と近い。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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9月24日
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吾妻鏡
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掃部頭入道寂忍(中原親能)が京都から鎌倉に参着、近江国の住人磐五家次を伴っている。これは伴四郎兼仗祐兼の子孫で、去る元久元年(1204)に追討された伊勢平氏富田三郎基度の娘聟である。武力を振るって謀叛を計画し、また各地の道路で行き交う人々を困らせていた。
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去る建仁三年(1203)に比叡山の堂衆による蜂起も家次の企みから勃発した。その際にも捕らえようとしたが逃亡して行方不明となり、五日に白河の付近で捕獲したものである。
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   ※磐五家次: 近江国甲賀郡(現在の甲賀市水口町柏木・地図)にあった伊勢神宮の柏木御厨を本拠にしていた
柏木五郎家次。柏木は元々は源義光の所領で、園城寺(三井寺)の支院を建てて末子の僧・覚義に住持させ、伊勢神宮に寄進したとの経緯がある。
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この覚義阿闍梨は後に大蔵館に入って帯刀先生義賢と接点を持ち、更に甲斐市河荘に土着して御崎明神(現在の表門神社)の聟となって平塩寺の繁栄に寄与している。義光と甲斐源氏の繋がりを示す一端だが、この覚義も興味を惹かれるキャラの一人だ。
大蔵館および 市河荘を参照されたし。
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   ※富田基度: 現在の四日市を本拠とした武士。元久元年(1204)4月21日に伊勢国関宿近くで討ち取られた。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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10月2日
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吾妻鏡
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囚人の磐五家次を取り調べた。隠したりせずに全てを白状し処罰には異論を挟まない、と。厳罰に処する事になる。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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10月8日
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吾妻鏡
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夜に入り、強風に煽られて若宮大路の家屋が焼亡した。火の粉が飛び、被害は数町に及んだ。
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西暦1207年
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83代 土御門
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建永二年
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10月25日
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吾妻鏡
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今日改元あり。建永二年を改め、承元元年とした
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   ※建永を改元: 三合(金星・木星・火星が重なり合うこと)または疱瘡の流行が理由との説あり。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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10月29日
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吾妻鏡
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掃部頭入道寂忍(中原親能)が京都に帰った。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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11月5日
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吾妻鏡
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改元の詔書が鎌倉に到着、先月25日に建永二年を改めて承元元年。問注所入道三善康信が御前に提出した。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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11月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉紊あり。将軍家(実朝)が御参宮された。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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11月17日
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吾妻鏡
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伊勢国木幡村は伊勢平氏富田三郎基度によって領家に納めるべき年貢を押領され続けていた。彼の滅亡後も幕府に没収され補任された地頭が支配を続け、領家の女房(管理に任じる女官か)が困惑し嘆いていた。
大夫屬入道三善康信を奉行とし、今日その地頭職を停止し元通り領家の管理下に移すよう仰せがあった。
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   ※木幡村: 伊勢神宮の治田御厨(現在の四日市市大治田・地図)。この御厨は文治三年(1187)6月29日に
畠山重忠の代官がトラブルを起こした沼田御厨(旧飯野郡で、ほぼ松阪市)と同一の可能性を指摘する説もある。大治田は鈴鹿越え、沼田は伊賀街道に近い。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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11月19日
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吾妻鏡
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遠州禅門(北條時政)が伊豆国願成就院の南に塔婆を建立した。これは時政が宿願としていたもので、今日落慶供養を行った。本尊は大日五仏の尊容である。
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   ※願成就院南塔: 辛うじて現存する唯一の遺構で、現在の山門から
約50m南にある。願成就院の寺域は概ね確認されているが堂塔の正確な配置は不明、この南塔も五重か三重か、或いは多宝塔かも判らない。
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   ※大日五仏: 真言密教で大日如来とその徳から現れた四仏を差す。
金剛界では大日・阿閦 ・宝生 ・阿弥陀・上空成就の五如来、胎蔵界では大日・宝幢・開敷華 王・阿弥陀・天鼓 雷音の五如来。五智如来とも称する。
当時の寺は堂塔ごとに本尊を祀る習慣だった。
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右画像は南塔の礎石部分。画像をクリック→ 願成就院の詳細へ(別窓)
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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12月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の祈願により鶴岡八幡宮で供僧25人による終日の大般若経転読を行った。布施は一人当り上絹一疋(二反)、民部大夫二階堂行光か゜これを差配した。右京進中原仲業が奉行である。
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   ※大般若経転読: 以前にも掲載してあるが、現物の動画(wiki)を見る方が早い。
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西暦1207年
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83代 土御門
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承元元年
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12月3日
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吾妻鏡
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小雪が舞う中、御所に於いて将軍家(実朝)が出御されて酒宴、相模守北條義時・大官令大江廣元が同席した。
その時に一羽の青鷺が進物所に入り、更に寝殿の屋根に止まって動かなかった。
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将軍家が これを気にして射落とすよう命じたが適当な射手が御所に見当たらず、義時が「吾妻四郎助光が将軍家の怒りを受けたことを嘆き、訴えたいと願って御所の近くにおります。彼を呼びましょうか。」と提案して許された。
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急いで参上した助光は庭に降りる階段の影から引目の矢を引き絞って矢を放った。鳥には命中しなかったように見えたが青鷺は鳴き騒ぎながら庭に落ち、助光が鳥を御前に運んだ。左眼から少し出血していたが命に関わるような傷ではない。
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助光は「極めて強い鷹の羽を使った矢羽根が鳥の眼をかすめて飛びました、狙った通りです。」と報告、生きたまま射落としたことに将軍家は感嘆し、元通り近くに仕えるよう命じて御剣を下賜した。
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   ※吾妻助光: 放生会の随兵役を欠席したため、8月17日に出仕停止
の処分を受けていた武士。
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   ※進物所: 別名を「たまいどころ」、貴人の家で軽い食事の準備や
食事の温め直しなどの作業をする場所。
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   ※引目の矢: 音を発する鏑矢の一種で穴が蟇蛙(ヒキガエル)の目に似ている事からの呼び名。
今回は鏃(やじり)を外して使っている。
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    右画像は青鷺。我が家の近くを流れる小川でも良く見かける。いつも一羽だけなので寂しそうな奴...。
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西暦1207年
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83代 土御門
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