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承元二年(1208)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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1月8日
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吾妻鏡
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時々小雪あり。午刻(正午前後)に大地震。(旧暦の1月8日は太陽暦の1月26日)
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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1月11日
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吾妻鏡
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御所で般若心経の法会を行った。去る8日の開催を予定していたが、将軍家(実朝)の病気により延期して本日の開催となった。終了後に尼御台所(政子)が牛車で鶴岡八幡宮に参宮された。
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   ※体調不良: 実朝(満15歳3ヶ月)は前年12月3日の酒宴には出席しており、年末前後の疱瘡罹病らしい。
回復はしたが病気の痕跡を恥じて以後三年は八幡宮参拝を避けている(次回は承元五年(1211)閏1月7日)。子供が出来なかったのも疱瘡の後遺症と推定される。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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1月16日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に問註所入道三善康信の名越邸が全焼した。
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康信は家の背後の山裾に書庫を建てて将軍家に関わる書類や各種の記録類、散位倫兼の日記など先祖から伝わった文書を保管していたが、これらは全て灰塵に帰した。善信はこれを聞いて悲しみのあまり涙を流して茫然自失、人々も見舞いに訪れた。
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   ※散位倫兼: 康信は元々京都朝廷で太政官の書記官役を世襲した
下級貴族。それほど遠くない先祖の一人だと思うが、系図には見当たらない。焼失した書類が現存したら素晴らしい史料になっていただろうね。
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   ※名越: 範囲はかなり広くて北側は現在の大町3丁目から6丁目、
東側は小坪7丁目、南側は材木座4丁目(弁ヶ谷・推定千葉常胤邸と北條時政の名越邸があった)も含まれていた。
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新編鎌倉志(水戸光圀の指示で編纂された17世紀末の地誌)には大町の安養院を「名越の入口」と表示している。
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右画像は名越地区の地図(クリック→ 拡大表示)。
資料を付け合せながら位置を推定するのって結構楽しい。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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2月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の御神楽の奉納があった。将軍家(実朝)は疱瘡・天然痘(wiki)のため出御されず、前大膳大夫大江廣元朝臣が使者として代参し、御台所(坊門信子)も参宮された。
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   ※疱瘡: 百錬抄(wiki)は「疱瘡の流行が改元(建永→ 承元)の契機」と書いている。かなり深刻な流行だった。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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2月10日
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吾妻鏡
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御疱瘡が将軍家(実朝)の心身を頗る悩まし、近国から御家人が鎌倉に群参している。
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   ※御家人群参: 普通の判断力があれば「前の将軍・頼家の二の舞か」と考えない方がおかしい。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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2月18日
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皇帝紀抄
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専修念仏が原因となり、源空上人(法念房・法然)が土佐国に配流された
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最近は門弟や帰依する者が増えて世間に満ちている。(門弟が)念仏の法会を利用して貴賎や人妻や然るべき身分の女と密通し、法にも従っていない。このため上人らを捕縛し、女人を含む者にも(それなりの)沙汰が下された。
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専修念仏については様々の宗派からの苦情が提起されていたための結果である。
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   ※専修念仏: 法然が説いた教理は単純で、ひたすらに専修念仏を唱えれば
救済が得られる、念仏を唱える他は何も必要ないというもの。
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既製の権威や道徳や倫理を根本的に否定していたから、既得権益に無縁な民衆の圧倒的な支持を得たが...
それは同時に既存仏教集団のの激しい反発を招く結果となる。
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   ※法然流罪: 直接の原因は後鳥羽上皇が熊野詣(元久二年・1205年)の際
に院の女房らが法然門下の遵西・住蓮らが開いた念仏法会に参加し、何人か出家してしまったため。
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激怒した上皇が「念仏停止」の断を下した、とされている。
実際には密通云々ではなく、念仏宗の興隆を妬んだ他宗派の歪曲が火に油を注いだらしい。また処分は布教禁止令ではなく、弟子の罪科を法然が背負ったとの見方もある。
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皇帝紀抄は鎌倉時代中期に成立した歴史書で著者は不明。
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 右画像は知恩院(公式サイト)収蔵の国宝・法然上人絵伝から、法然上人像(鎌倉末期の作)
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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2月29日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の病気が平癒し、沐浴して病の穢(けがれ)を落とした。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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3月2日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)が僧侶法服三十揃を新調し鶴岡八幡宮の供僧に下賜した。民部大夫二階堂行光の差配である。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で一切経の法会(上巳の節句)を行なった。将軍家は疱瘡の病後に配慮して出御せず武蔵守北條時房が奉幣の使者を務めた。御台所(坊門信子)並びに尼御台所(政子)がそれぞれ牛車で参宮された。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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4月2日
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吾妻鏡
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恩沢についての沙汰があり、多数の人がその恩に浴した(実朝の快気祝いか?)。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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4月23日
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吾妻鏡
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検非違使判官の小野大夫義成が京都で伝染病(?)を煩って獲鱗(臨終が近い)との噂が鎌倉に届き、親しい者たちが京都を目指し騎馬で出発した。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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4月25日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の境内に初めて神宮寺を建立する命令が発せられ、今日その地曳き(縄張り)を行った。
大夫屬入道三善康信が総奉行に任じ、平盛時中原仲業が補佐として副えられた。
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   ※神宮寺: 神仏習合思想に依拠し、神社に付属して設けられた仏教寺院。神護寺・宮寺など様々な呼称があり、
その中で別当寺は神社を含む管轄権を持っていた場合と考えられている。鶴岡八幡宮の別当は初代園暁から尊暁・定暁と続いているのに別当「坊」だけで、神宮寺が存在しなかったのも面白い。
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ちなみに明治初年の神仏分離(正確には神仏判然令)によって多くの神宮寺が廃絶し仏像や仏具が流出し失われた。廃絶を余儀なくされた理由の一つには神宮寺が檀家を持たず、運営の原資を神社と権力の補助に依存していた事が挙げられる。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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4月27日
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吾妻鏡
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前亜相(大納言坊門信清)の使者が鎌倉に到着、来る5月の後鳥羽上皇の南山御幸(熊野詣)に供奉するため龍蹄(大型の駿馬)を贈って欲しい、との申し入れである。
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また、以前から噂が先行していた仙洞での蹴鞠の会が、去る13日に大炊御門(太相国(太政大臣)藤原頼實)邸で無事に済んだこと、南庭に新築した屋敷を御所としたこと、その東に公卿や殿上人の仮屋を建てたことなどが述べてあった。
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更に按察卿(按察は蹴聖と称された藤原成通(wiki)卿、子息(養子)で同じく蹴鞠の名人・泰通)が上皇に召されて出席された。蹴鞠の選手は北面や西面の武者に至るまで褒美として金銀が与えられた、と。
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   ※熊野御幸: 熊野速玉大社に歴代皇族の御幸記録を彫った石碑が
建てられている(揮毫は入江元侍従長)。
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トップは後白河法皇の33回で後鳥羽上皇は29回、もし41歳で承久の乱(1221年)を起こさなかったらダントツの首位に就いていただろうね。41歳で29回というのも凄い記録だけど。
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画像をクリック→ 拡大表示。その他、熊野三山めぐりのレポートもお口汚しに。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは4月の次が閏4月)。
西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要で、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月2日
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吾妻鏡
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(鶴岡八幡宮に)神宮寺を造営するための材木を伊豆国狩野山の奥から沼津の海に切り出した。
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   ※伊豆国狩野山: 現在は狩野山の名称はないが修禅寺付近の中流から上流(地図)にかけての支流に沿った
山林の総称、大見川の上流など数ヶ所に「筏場」の地名が残っている。川を塞き止めてダムを造り、材木を貯めてから一気に流した名残である。「堰を切ったような」の語源、だと思う。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月3日
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吾妻鏡
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防鴨河使で検非違使判官・従五位下の左衛門少尉小野大夫義成が没した。(在京御家人)
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   ※防鴨河使: 令外官(律令制に規定のない職)の一つ。鴨川 決壊の際に堤防修復に任じた臨時の職。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月11日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が突然の発病。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月24日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の病が平癒し、初めての御沐浴があった。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月25日
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吾妻鏡
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京都からの使者参着し、去る15日に洛中に大火があったと報告した。火は北小路から出て東洞院七条から朱雀大路の東側まで12町(1.3km)と、七条朱雀から北へ12町(1.3km)までを焼いた。
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宣陽門院(後白河院の第六皇女の覲子内親王)邸、坊門信清邸、太政大臣(藤原頼實(wiki)か、九条良経か)の旧宅、右大将の六條堀河邸などがその中にあった、と。
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   ※右大将: 承元元年(1207)から承元四年(1210)の右大将は
徳大寺公継(wiki)だが、彼の屋敷が六條堀河にあったのか否かは確認できない。右大将で六条堀河と聞くと頼朝を連想してしまうが...たぶん徳大寺公継が正しいのだろうと思う。  右画像は京都の大火で焼失したエリアの概略(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月26日
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吾妻鏡
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西国の守護による行政について、右京進中原季時の使者が報告、これに関して今日御所での協議が行われた。
大江廣元朝臣三善康信二階堂行光平盛時による会議である。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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閏4月27日
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吾妻鏡
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東平太重胤が上洛の途についた。これは父の胤頼が若い頃に本所(上西門院に仕えていた例に倣い、短い間であっても上西に 奉公する名誉を得たいと願ったため、推挙した結果である。
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   ※本所に奉公: 重胤が父の胤頼から相続した東庄(香取郡東庄町・地図)は上西門院領(本所)。また頼朝挙兵
の際には胤頼が父の千葉常胤を説得して頼朝に味方させた経緯があり、 頼朝は「東胤頼の息子らが本所や滝口武者として伺候したい場合は進退自由、仔細の報告は無用」と述べている。
重胤が奉公を望んだ背景にはこのような経緯があった。
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ちなみに胤頼は上西門院に仕えた関係から京都との接点が深く、家督を重胤に譲った後は京都で法然に帰依し、実兄の 相馬師常と共に念仏行者として生涯を送っている。
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法然の念仏宗に帰依して出家した年代は熊谷直実が1192年、東胤頼が1190年、千葉(相馬)師常が1201年、宇都宮頼経が1205年。法然を軸にした彼らの接点を考えるのも面白い。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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5月17日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が罹病していた時に祈祷を受け持った事に謝して、鶴岡八幡宮で法華経を供養する法会を催した。 美作蔵人朝親が奉行である。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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5月26日
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吾妻鏡
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御台所(坊門信子)に仕える侍の籐内左衛門尉藤原(足利)秀康が上洛の途に就いた。
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後鳥羽上皇の南山御幸(熊野詣)に際して坊門忠信(信子の兄)が供奉するため、彼の従者としての派遣であり、更に鎌倉から贈与する龍蹄(大型の駿馬)と旅の調度などを献上する任務を帯びている。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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5月29日
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吾妻鏡
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兵衛尉清綱(御台所の侍)が昨日京都から下着し、今日御所に参上した。彼は相当の有識者なので将軍家との対面を許され、古今和歌集一部(左金吾基俊(wiki)の書)を献上した。 これは先祖から伝わった重宝なので実朝を喜ばせた。 また京都の様子を尋ね、清綱がそれに答えた。
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去る九日に新日吉社の小五月会に後鳥羽上皇が出御されたこと、流鏑馬では射手の多くが西面武士の息子で元服前の垂髪が多かったこと、公卿や殿上人の要望で彼らを出場させたこと、清綱の息子も加わっていたこと、後鳥羽上皇 の寵童で西面に仕えている峯王が的を外して逐電し、出家を遂げたこと、などを語った。
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実朝は「射手の詳細を知りたい」と尋ね、清綱は書類を御前に提出した。これは息子が射手に加わっていたことを話すため、予め用意したものである。
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   ※小五月会: 現在も神官と僧侶が同席する神仏習合の祭礼が行われている。詳細はこちら(参考サイト)。
   ※催事の明細: 競馬七番の出場者と結果、流鏑馬七騎の出場者と的立ての記載あり(省略した)。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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6月16日
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吾妻鏡
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先月から現在まで一滴の雨も降らず、農民が耕作の術を失っているため、鶴岡八幡宮の供僧に雨乞いの祈祷を命じた。供僧は江ノ島の龍穴に集まって祈願する、と。
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   ※龍穴: 江ノ島弁財天(江島神社・公式サイト)発祥の地。多くの武将や宗教者が参籠した記録が残っている。
北條時政もここに参籠し、結願の朝に三枚の龍の鱗を得た、と伝わる。
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これが北條の「三つ鱗紋」の期限で、前夜の夢に現れた龍神から「正しい行いを続ければ繁栄するが邪な行為を重ねれば子孫は滅びる」との予言を受けた、らしい。龍穴の画像こちら(wiki)で。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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6月17日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に恵みの降雨あり。祈祷の結果と考え、御剣や衣類などを八幡宮の宮寺に奉納した。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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7月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮神宮寺上棟式を行なった。相模守北條義時・武蔵守北條時房・前大膳大夫大江廣元らが臨席し、惣奉行の 三善康信結城朝光も立ち会った。
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工匠に褒美が与えられた。棟梁には馬二疋(一疋は鞍を置く)・被物一重と裹物二つ(各々奥布(麻布)五反入り)、配下には裸馬一疋・空衣(法衣?)一領・裹物(包)二つ(各々奥布三反入り)。二階堂行光がこれを差配した。
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   ※神宮寺: 右画像は薬師如来坐像(金銅鋳造54cm・クリック→ 拡大)。
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吾妻鏡の建暦元年(1211)11月16日の条には「尼御台所の御願として金銅の薬師三尊(三尺)像の完成供養を行なった。
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導師は圓如房阿闍梨遍曜、この本尊は鶴岡神宮寺に安置する。」
と書かれており、神宮寺の本尊だっと考えられる。
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明治初期の神仏判然令の際に廃寺となった神宮寺から寿福寺に遷され、現在は鎌倉国宝館で拝観できる。残念ながら、私には神宮寺の正確な位置などは判らない。
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幕末の写真家ベアト(wiki)が撮影した八幡宮大塔(多宝塔)の左側に写っているのが薬師堂で、享保十七年(1732)の銘がある鶴岡八幡宮境内図と付け合わせると右側奥が薬師堂かな...と想像する程度が限界だ。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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7月15日
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吾妻鏡
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武蔵国威光寺院主の僧圓海が鎌倉に来て訴えた。狛江入道増西が先月26日に悪党50余人を率いて寺領に乱入し稲を刈り取る狼藉を行った、との内容である。
折から鎌倉に伺候していた増西を御前に呼んで確認したところ圓海の訴え通りだったため違法行為の停止を命じ、更に永福寺での宿直100日を勤めて罪を償うよう裁決した。奉行したのは図書允清原清定である。
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  ※威光寺: 既に廃寺だが、川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い妙楽寺(参考サイト)一帯が旧跡。
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吾妻鏡の治承四年(1180)11月14日には「武蔵国の威光寺は源氏代々の祈祷所であるから院主増圓の管理する寺領は従来通り租税を免じられる、とした。」と記録されている。
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更に19日には「武蔵国の長尾寺は頼朝の弟阿野全成に与えられた。住僧はそのまま従来通りの祈祷を続けるよう申し付けるため慈教坊僧圓・慈音坊観海・法乗坊辨朗を呼び出した。」とある。
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地図はこちら、長尾寺=妙楽寺=威光寺らしいが、本坊と僧坊が盛衰を繰り返したと思われる。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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7月19日
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吾妻鏡
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永福寺の阿弥陀堂に於いて二十五三昧を行なった。尼御台所政子並びに 将軍家(実朝)・同じく御台所坊門信子らも御同席された。御留守の間に鎌倉市内が大騒ぎになった。これは葛西十郎が従僕に殺害されたため急遽一族が集まったのが原因で、和田左衛門尉義盛が仔細を調べて騒ぎを鎮めた。
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   ※二十五三昧: 比叡山横川を原点とする念仏結社。更に詳細はwikiで。延暦寺は天台宗の総本山で、念仏宗
法然が開祖となり後に浄土宗へと発展した当時の新興宗教。
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比叡の僧徒は元久元年(1204)には「専修念仏の禁止」を求めて蜂起しており、念仏宗は天台宗の中まで信仰を広げていたのだろう。鎌倉初期の仏教社会の混迷が想像できる。
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   ※葛西十郎: 明確な系図記載が見えないが葛西清元の息子で葛西清重の弟と想像される。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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7月20日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震があった。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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7月22日
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吾妻鏡
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夕暮れの頃に籐内左衛門尉季康(藤原(足利)秀康が京都から鎌倉に帰参した。
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(先月の)後鳥羽上皇の南山臨幸(熊野詣)では新宮(速玉大社)に三日・熊野本宮に七日御逗留され今月の五日に還御されたのだが、本宮に御奉幣して宿館に入御されて間もなく同行していた坊門忠信殿(坊門信清の息子で信子の兄)の宿所が火事となり、御先達を務めていた僧正の坊が焼け落ちた。
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黒煙が本殿を覆ったため上皇も(心配して)御覧になったが大勢で火を叩き消して延焼を防いだ。
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   ※籐内秀康: 実朝御台所に仕える侍。5月26日に後鳥羽上皇に供奉
する坊門忠信に駿馬を届けるため上洛していた。
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秀康は承久の乱(1221年)の際に後鳥羽院の側近として合戦を主導し、政子ら幕府の首脳からは乱の首魁として憎悪された人物。籘姓足利氏なのは確認できるが、系図に載る位置が判らない。
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   ※本宮本殿: 当時の熊野本宮は現在地の約600m南、熊野川西岸の
中洲・大斎原(おおゆのはら)に建っていた。
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ここが明治22年(1889)の熊野川大洪水で流失した旧社地で、熊野信仰発祥の地として保存されている。清浄な空気が張り詰めているような雰囲気があり、熊野探訪の際には是非立ち寄りを薦めたい。   (右画像をクリック→ 拡大表示)。
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更に詳細は熊野巡拝の記録の中段で。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での放生会は通例の通り。ただし将軍家(実朝)の出御なし。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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8月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が流鏑馬馬場の桟敷に入御し、ここから美作蔵人朝親と橘判官代隆邦を奉幣に派遣した。両名は御幣を捧げて宮寺に入り神馬二疋を献納した。夜に入り尼御台所政子も御奉幣された。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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8月20日
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吾妻鏡
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故大夫判官小野義成の嫡男左兵衛尉時成が御所に参上した。亡父(4月3日没)から相続を受けた者である。
朝廷からの官職承継には問題がなく、幕府による所領安堵と地頭職の継承の認可を求めている。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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9月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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熊谷小次郎直家が上洛の途に就いた。これは父の入道蓮生(熊谷直實)が来る14日に東山の麓で臨終を迎えると宣言したため、看取るのが目的である。出発後にその経緯を御所に連絡し、珍しい事だと評判になった。
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大江廣元「前もって死期を知るのは神仏でなければ有り得ないが、彼は出家してから浄土を願って念仏修行を続けている。敬意を以て信じるべきだろう。」と語った。
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   ※熊谷直實: 建久四年(1193)に家督を直家に譲り出家して法然に帰依した。以後15年は念仏行者(浄土宗)
として一心不乱に信仰の道を歩んでいる。2月8日の往生を予告していたが果たせず、二度目の予告に近い7日に没した、と伝わる。俗世の頃と同じく信仰者としても猪突猛進だ。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で重陽節の神事あり。将軍家(実朝)は出御せず、美作蔵人朝親が奉幣使に任じた。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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 9月27日
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明月記
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夜半に西の方角に火が見え煙が細く高く登っていた。朱雀門焼亡...悲しんでも余りある。
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   ※朱雀門: 朱雀大路北端にあった大内裏の南門。翌年に再建され、建暦元年(1211)に倒壊して放置された。
跡地(地図・平等大慧会(新興宗教)の右隅)に石柱と案内板が建っている。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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10月10日
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吾妻鏡
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尼御台所政子は兼ねての御宿願である熊野詣を果たすため今朝の卯刻(8時前後)に鎌倉を出発された
武蔵守北條時房が同行し、同月27日に入洛された。
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   ※政子の上洛: 今回の熊野詣には特に要人との会談記録が見えず、単純な私的行動だったらしい。
健保六年(1218)にも熊野詣のため上洛、この時は病弱で子供のない実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子の東下を願い、上皇の乳母で朝廷の実力者藤原兼子と会談を重ねている。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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10月21日
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吾妻鏡
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東平太重胤上西門院への奉公を済ませて京都から帰還し、すぐ御所に呼ばれて洛中の様子などを報告した。
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まず熊谷次郎直實入道について、9月14日未刻(14時前後)を以て臨終を迎えると告知していたため仏縁を結びたいと願う多くの僧俗が東山の草庵の周りに集まっていた。その時刻を迎えた直實は袈裟を纏い、礼盤(仏前の高座)に端座合掌して声高に念仏を唱えて最期を迎えた。以前から病気だった気配は見られなかった人物である。
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次に、先月27日の夜半に朱雀門が焼け落ちた。常陸介朝俊(朝隆卿から四代の子孫で弓馬と相撲の名手)が松明を持って門に登り鳩の子を獲った際の火がこの災禍を引き起こした。近年は土御門天皇も 後鳥羽上皇も何故か鳩を好んでおり、長房や保教らが飼っているのを真似て朝俊も鳩を得ようとしたらしい。この火事のため五日に予定していた射場の使い始めが延期となった。
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   ※常陸介朝俊: 名は藤原朝俊、承久の乱では宇治川で幕府軍を迎
えて奮戦し三浦義村の郎党に討たれた。明月記にも「弓馬と相撲を芸とした院の近臣」と載っている。
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   ※長房や保教: 藤原長房は後鳥羽院の近臣。吉田経房の甥で九条
家の家司を務めていた。
平保教は平保盛(頼盛の庶長子)の次男で廷臣。
妻は後鳥羽院の寵臣で承久の乱後に足柄峠の西麓で斬られた葉室宗行の娘。乱の後には平姓を名乗らず百姓になるのを条件に辛うじて斬罪は免れた。
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   右画像は復元直後の平城京朱雀門。平安京は確か七スパンだった、と思う。(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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11月1日
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吾妻鏡
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出雲国の杵築社(出雲大社・公式サイト)の権検校と祝師と御供所別当職などについて、内蔵孝元を補任せよとの指示を領家である坊城三品(三位・名門の公家、坊城家)の許に下した。
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孝元の父資忠、故幕下(頼朝)の時代に功績を挙げてこの職に補任された。その例に準じての決定である。それに加えて孝元は出雲国で数ヶ所の地頭職を拝領した。師文・図書允清原清定・筑前三郎孝尚の差配による。
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   ※筑前孝尚: 宗掃部允孝尚の呼称で、建暦元年(1211)に「隠し田を所有した嫌疑」を受け、無実ではあったが
確認と報告の命令を怠ったため訓告を受けている。掃部允は掃除や調度などを担当する宮内省の実務職員で従七位下、素性は判らない。武士ではなく文官、頼朝の乳母の一人比企尼の夫も比企郡司の掃部允だった。
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   この条は検討を要する。職分も人物も掘り下げて確認しなければ...
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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11月7日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉納あり。奉幣の使者は前大膳大夫大江廣元朝臣が務めた。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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11月14日
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吾妻鏡
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囚人の柏木伴五家次の息子貞次は日吉社で来年五月の端午節句で馬上役に任じていたが、父の罪科により役を外された。貞次はこれを嘆いて神職の長に懇願し再任を訴える書状を日吉社が鎌倉に取り次いできた。神事に関する事なので訴えは認可され、大江廣元を介して「今後不義を行えば後悔する結果を招く」旨を言い聞かせた。
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   ※柏木家次: 建永二年(1207)9月24日には磐五家次の名で載っている。元久元年(1204)3月に勃発した
三日平氏の乱に関与して鎌倉に連行されていた。
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   ※馬上役: 馬長(あげうま・うまのおさ)に同じ。神事などの際に着飾った馬に乗り社頭の馬場を練り歩く役目。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月12日
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吾妻鏡
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鶴岡の神宮寺が完成し、今日午刻(正午前後)に本尊の薬師如来像を安置した。橘三蔵人がこれを差配した。
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   ※薬師如来: つまり、7月5日に記載した推定内容は事実だったらしい。八幡宮を護持する神宮寺とはベアトが
撮った写真八幡宮大塔(多宝塔)の右側が薬師堂らしいが...サイズは
「堂」から想像するレベルではない。大倉御所の敷地も八幡宮の敷地も決して広大ではないから、ついつい法華堂も薬師堂も小さな規模を思い浮かべてしまう。先入観を改めなければ。
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   ※橘三蔵人: 橘公長の三男。橘公成(小鹿島公業)の次弟で公忠の末弟。宝治合戦で三浦側で戦死している。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月14日
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吾妻鏡
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上総国海北郡久吉郷(市原市)の住人僧善勝以下の者たちを鶴岡八幡宮の職掌(社寺で神楽を演ずる下級職員)に加えた。図書允清原清定がこれを差配した。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が神宮寺の本尊・薬師如来像を拝観した。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月17日
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吾妻鏡
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神宮寺薬師如来像の開眼供養である。相模守北條義時と大官令大江廣元が参席、導師は眞智房法橋隆宣(八幡宮供僧の首座で日光山別当を兼ねる)、若宮の供僧25人を招いている。
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供養の終了後に美作蔵人と橘判官代が布施を配った。
導師の分は被物三重・色革十枚・上絹十疋・白布十反・紺布十反・藍摺十反・奥布(麻布)十五反、馬三疋(一疋は鞍付き)・米十二石、僧の装束と扇に置いた念珠を付け加えている。招いた僧の分は一人当り奥布(麻布)十反・准布(物々交換用)十反・馬一疋・米二石など。
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夜に入り供養の終了を仏前に報告した。導師は摩尼房印尊、布施被物一重・裹物一つ・上絹一疋・米二石である。
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   ※日光山: 鶴岡にこの名の摂社があった、という事だろうか。
現存の境内社は武内社・旗上弁天社・白旗神社・丸山稲荷社・ 祖霊社・由比若宮・今宮の七社。(右画像を参照)
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月18日
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吾妻鏡
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正五位下掃部頭藤原朝臣中原親能法師(法名寂忍)が没した。享年六十六歳、在京である。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月20日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に去る九日付の除書が到着、将軍家(実朝)が正四位下に昇叙となった。また尼御台所 (政子)が熊野詣から京都に還御されたとの知らせも届いた。
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西暦1208年
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83代 土御門
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承元二年
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12月26日
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吾妻鏡
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今日、掃部入道(中原親能)卒去の知らせが届いた。去る13日に五條大宮に新築した屋敷に移り、同18日に臨終を迎えた、との事。
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