承元三年(1209)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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1月6日
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吾妻鏡
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御所での般若心経法会が通例の通り行われた。導師は法橋隆宣、将軍家(実朝)が出御された。
終了後に和田平太胤長望月三郎重隆・手嶋太郎(素性不明)・筑後六郎知尚・吾妻四郎助光らを射手として召され御的始めを開催、和田左衛門尉義盛がこれを差配した。
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   ※筑後知尚: 八田知家の六男で浅羽氏の祖。筑波なら小田の近くだから判るが、なぜ筑後氏なのか?
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   ※吾妻助光: 藤原秀郷の次男千常-文脩-次男兼光-次男兼助(吾妻権守)-兼成(吾妻権守)-助亮-助光
と続き吾妻郡(群馬県北西部の中之条町一帯)を本拠とした。系譜は大田氏・下川邊氏と近い。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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1月9日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に年初の御奉幣を行った。奉幣使は遠江守源親廣、経を供養した後に供僧に布施を贈った。布施の差配は二階堂行光である。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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1月12日
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吾妻鏡
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鶴岡の神宮寺で初めての修正会を行った。民部丞三善康俊が奉行である。
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   ※修正会: 新年早々に3日または7日間続けて行う法会で、国家や朝廷の安泰・五穀豊穣などを祈願する。
正式には修正月会(正月に修する法会、を意味する)、略して修正。
ちなみに、東大寺二月堂のお水取りは二月に修する法会で「修二会」と呼ぶ。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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1月14日
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吾妻鏡
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八幡宮神宮寺の修正法会は三ヶ日続いて今日結願し鬼走を行って終了した。
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   ※鬼走: 鬼に扮した者を追い払う、或いは鬼が松明を持って走り回る行事。魔を祓う意味を持つ。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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2月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で恒例の神事あり。将軍家(実朝)の御参宮なし、奉幣の使者は大江廣元が任じた。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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2月10日
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吾妻鏡
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武蔵国太田庄鷲宮の宝殿が鳴動したとの報告が飛び込んできた。
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   ※太田庄鷲宮: 現在の宮代町を中心に北西から南東の古利根川
沿いに広がっていた八条院領。鷲宮は太田庄最北西部(地図)にある現在の鷲宮神社(公式サイト)。
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建久四年(1193)11月18日に次の記載がある。
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武蔵国からの飛脚が到着して報告、昨日当国の太田庄鷲宮の神前に流血の跡が見られた。これは凶兆ではないかと考えて占った結果は「兵乱の兆し」だった。
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この報告直後に安田義資の追討や常陸国での多気氏粛清などが勃発している。兵乱を予知できる能力などあり得ないから、何らかの政治的意図があったと考えるべきだろう。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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3月1日
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吾妻鏡
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今日、高野山大塔の料所である備後国太田庄の年貢が滞納している旨の訴えが大塔の管理所から提出された。その裁定を行う際に使者の僧と地頭である大夫屬入道三善康信の代官が口論になった。御前の近くのため両名とも退去させられ、将軍家(実朝)から「この事は暫く時間を置いて検討しよう」との仰せがあった。
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   ※料所: 貢税料所。この場合は寺社の維持費用に資するための領地。他には合戦費用として荘園に負荷充当
する兵粮料所などがある。
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   ※備後国太田庄: 現在の世羅郡世羅町(地図)、本所は高野山で領家は後白河法皇平重盛の支配下にあった
平家の没管領である。文治二年(1186)7月24日の吾妻鏡に次の記載がある
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後白河院の祈願として、平家の怨霊を鎮めるため高野山に大塔を建立した。
去る5月1日から荘厳な法要を行い、維持管理の費用として証書を添え備後国大田庄(平家没官領)を寄進した。ただし地頭の土肥弥太郎による年貢の押領がある旨の訴えがあり、朝廷からの地頭停止申し入れによって頼朝が地頭退去の命令を下した。
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   ※高野大塔: 空海と二世の真然大徳が二代(816~887年前後)を費やして
築いたと伝わる高野山のシンボル・多宝塔(創建当初は16丈・48.48m)。記録に残るだけでも5回焼失しており、何回目かの再建を後白河が寄進したのだろう。
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現在の大塔(参考画像)は昭和十二年(1637)の完成で、高さ48.5m、かつての姿を模したと伝わっている。 古い姿が載っている江戸時代の絵図の大塔に近い形状だったと考えられる現在の西塔(天保五年(1834)の建立)の姿を参照されたし。
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ここで再び、文治五年(1189)閏4月8日に載せた「鶴岡八幡宮大塔」の明治初期画像を右に添付しておく。
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鎌倉時代の「大塔」は三重塔または五重塔と考えるのが一般的だが、吾妻鏡を含む史料には「塔婆」あるいは「大塔」とあるだけで、形状についての記載は見られない。
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八幡宮大塔の古写真と高野の大塔と西塔は全て多宝塔に準じる様式であり、私は「鶴岡八幡宮の塔婆は多宝塔だった、そして韮山願成就院の南塔も同様だろう」、と考えている。
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更に加えれば、建久年間(1190年代)に足利義兼が邸宅を解体して建てたと伝わる鑁阿寺の多宝塔(画像・元禄五年(1692)の再建)も多宝塔である。 昭和三十八年の解体修理のでは相輪に納めた木製と金製の小塔と仏舎利容器が確認されているから創建当時の形と考えて良いだろう。
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鑁阿寺の堂塔の多くは鎌倉時代初期の建造と確認されており、過去の戦乱や空襲の被害も受けていない。かんとうでは三重や五重の塔よりも多宝塔が一般的だった可能性もある、と思う。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で上巳の節句に伴う一切経を献納する法会が行われた。相模守北條義時が将軍家(実朝)の奉幣使として廻廊に座し、美作蔵人朝親と山城左衛門尉二階堂行村が従った。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)の3月3日(上巳節句)にも開催しているから上巳節句通例の法会。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所などを模した飾り付けで遊び、無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉時代には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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3月21日
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吾妻鏡
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大夫屬入道藤原宗長が京都から届いたという鞠を御所に持参した。また去る二日に大柳殿(七条院藤原殖子の御所)で行われた蹴鞠の詳細も持参して高覧に供した。この日には左金吾将軍(頼家)の近臣だった大輔房源性も蹴鞠に加わっていた、と。源性は建仁三年(1203)9月の頼家失脚後は京都に暮らしており、当日の御鞠衆は御所・刑部卿(藤原宗長)・越後少将藤原範茂・寧王・医王・山柄・行景・源性らである。
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   ※藤原宗長: 義経に協力的な姿勢を続けて伊豆流罪となった藤原(難波)頼経の嫡子。父と共に流されたが後に
許されて形部卿となり、健保二年(1214)には従三位に昇っている。蹴鞠の名手(つまり名足)で難波流の開祖、弟の雅経が興した飛鳥井流と共に蹴鞠の二大流派となった。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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4月1日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震があった。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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4月14日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の仰せにより鶴岡神宮寺で初めて一夏九旬の安居を結んだ。神宮寺として最初の式典で、の八幡宮の供僧がこの業に任じた。
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   ※一夏九旬の安居: 夏の間に外出せず一ヶ所に籠って修業する夏安居(げあんご)を差す。原点はインド仏教、
雨季の間は行脚托鉢をせずに座禅修行を行う習慣が伝播、雨季の有無に拘らず、主として4月15日から7月15日までの90日間に実施した。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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4月22日
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吾妻鏡
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京都の使者が鎌倉に参着して報告、去る10日に将軍家(実朝)が従三位に昇叙された。
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   ※実朝の官位: 1203年9月に従五位下(満11歳)、1204年1月に従五位上(満11歳)、
1206年2月に従四位下(満13歳)、1207年1月に従四位上(満14歳)、
1208年12月に正四位下(満16歳)、1209年4月に従三位(満16歳)、
1211年1月に正三位(満18歳)、1212年12月に従二位(満19歳)、
1213年2月に正二位(満20歳)、
1218年12月に右大臣に昇任し、翌月27日に死没(享年 満26歳)。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月5日
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吾妻鏡
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出羽国羽黒山から多数の衆徒が鎌倉に着いて、地頭大泉次郎氏平の非法を訴え出た。今日、この件について中原仲業を奉行として裁決を行った。  (参考 : 出羽三山神社の公式サイト
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羽黒山は元々地頭の支配に委ねた地ではなく、外部の関与や警察権などの介入を禁じて鎌倉の祈願所と定めた故頼朝将軍の下文により問題なく運営されていたのだが、氏平は羽黒山の維持管理に供する一万八千枚の田を押領した上に羽黒山の運営まで干渉してくるのは根拠がない、それが衆徒の訴えである。  
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氏平は弁明することができず、先例に背いての非法を行ってはならないと叱責され、羽黒山運営への関与を禁止する命令が下された。
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   ※衆徒: 比叡山や高野山などの大寺院に住んで学問や修行の他に運営の
実務を担当する僧の身分。更に細分化すると、学問習得を専門とするのが学生で雑役を担当した下級の僧が堂衆。比叡山では再三内紛を起こしている。
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   ※大泉氏平: 兄の武藤 資頼が奥州合戦の恩賞として出羽国大泉庄(現在の
山形県鶴岡市)の地頭職を得た。後に義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任し、更に肥前・筑前・豊前・壱岐・対馬の守護に任命された。氏平はその際に大泉庄を継承し、羽黒山の広大な神域と資金力を支配下に置こうと考えたらしい。大泉氏はその後も大宝寺氏として繁栄を続けている。
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右画像は現在の山形県行政地図。大泉荘は鶴岡市の概ね全域と、酒田市の一部にも代官を置いて支配していたらしい。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月12日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が内々に上総国司に推挙される希望を申し出ていたため、将軍家(実朝)は尼御台所政子にその可否を相談した。「故将軍(頼朝)の時代に「侍の受領は禁止すべき」との沙汰があった。ただし、その沙汰を知った上で新しい例を設ける考えならば女が口を出す限りではない」との返事があり、認可されなかった。
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   ※受領: 国司四等官の最高位は守。新任の国司が前任者から引き継ぎを受ける「受領」が職名になった。
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   ※新しい例: 一條忠頼は寿永三年(1184)に武蔵守、平賀義信は元暦元年(1184)に武蔵守、大内惟義
文治元年(1185)に相模守、北條時政は正治二年(1200)に駿河守、 北條義時は元久元年(1204)に相模守、北條時房は元久二年(1205)に遠江守を経て駿河守。多くの前例があるから義盛の上総守着任希望は新しい例とは言えず、政子の「意思」に過ぎない。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月15日
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吾妻鏡
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神嶽ならびに岩殿の観音堂に参拝し、御所に還御の途中で女房駿河局の比企谷の家に渡御された。ここは景色が良くて涼しい場所である。
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   ※主語がない: 駿河局は尼御台所政子の女房として数回登場しているのだが、「wiki」は「今回の巡覧は実朝
としている(根拠は判らない)。原文は「御參神嵩并岩殿觀音堂」
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比企谷は比企尼頼朝から拝領して館を建てていた場所(地図)で、比企一族が滅亡した建仁三年(1203)から約60年後に比企能員の末子能本(乱の時に一歳)が屋敷のあった跡地を日蓮に寄進し、現在の妙本寺になった。比企一族の滅亡を参考に。
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   ※神嶽: 神亀元年(724)建立の神武寺(wiki)境内後の山が神嵩(こうのたけ)、転じて神武寺(地図)を差す。
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   ※岩殿観音堂:大倉御所から約4km南東(地図)の海雲山岩殿寺(公式サイト)。開山は行基と伝わり、吾妻鏡
の文治三年(1187)2月23日には大姫、建久三年(1192)2月23日には 頼朝が参詣したとの記載がある。すぐ近くには大切岸と日蓮法難で知られた猿畠山法性寺があるが、ここが開くのは70年も先の話になる。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月20日
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吾妻鏡
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頼朝法華堂に於いて故梶原平三景時および落命した一族郎党の菩提を弔うのための法事を行った。導師は眞智房法橋隆宣、 相模守北條義時が参席した。最近御所で怪異な現象があり、更に将軍家(実朝)に夢のお告げがあったため、急遽法要を行って彼らの怨霊を鎮めようとしたものである。
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   ※急遽法要を: 28日に梶原家茂を殺害する土屋宗遠も恵まれているとは言えない晩年を迎えている。
「謀反人に豪華な法事を営んで...」との不満を抱いた、それが28日の凶行を誘発したのかなと、ふと思った。もちろん、さしたる根拠なし。
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   ※頼朝法華堂: 建物の規模について考え続けている。例えば頼朝の墓
の東側で発掘調査が済んだ義時法華堂の礎石は8.4m四方・約20坪強だから、現在の白旗神社の位置にあった頼朝法華堂も同じ程度か、と考えてしまうが...
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でも「別当を含む数人の僧侶が常駐していた」ことや「逃げ遅れた一人の僧が天井裏に隠れた」ことや「宝治合戦で三浦一族数百人が自刃した」(話半分としても)ことを考えれば、20坪では不合理だ。史料に拠れば、法華堂の敷地は東西110m×南北70mと伝わっている。
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最低でも東大寺法華堂(公式サイト・5間×8間=40坪)程度あったんじゃないか、幕府の創設者で絶対権力者の霊廟だもの、などと。妄想は浅学者固有の権利なのだ(笑)。  右画像は頼朝法華堂周辺の鳥瞰図(クリック→ 拡大表示)。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月23日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が上総国司に就く事を望んで正式に款状(嘆願書)を大官令(大江廣元)に提出した。
最初に治承(挙兵した四年(1180)を差す)以来に挙げた数々の勲功について書き記し、後半では生涯で残っている望みはこの一事のみ、と述懐している。
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   ※上総国司: 結局認可されず、北條氏に対する義盛の怒りは徐々に増幅して1213年の和田合戦に突き進む。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月26日
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吾妻鏡
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将軍家実朝は(先月の従三位昇叙に続いて)更に右中将に任命された。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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5月28日
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吾妻鏡
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梶原兵衛太郎家茂が小坪の海辺を遊覧した帰る途中の西浜(飯嶋の地名あり)の付近で騒動が起きた。以前から家茂に遺恨を抱いていた土屋三郎宗遠が和賀江の近くで待ち伏せて家茂を殺害した。宗遠はそのまま走って御所に出頭し、和田兵衛尉常盛に大刀を渡してから身柄を和田義盛に預けられた。
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   ※飯島: 寿永元年(1182)11月10日に政子の命令を受けた牧三郎宗親
(牧の方の兄)が、頼朝の愛人亀の前が住んでいた飯島の伏見広綱邸を打ち壊す「政子の嫉妬事件」が起きている。和賀江島近くに飯島の地名が現存する(右画像(クリック→ 拡大)を参照)。
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治承四年(1180)8月24日の吾妻鏡に載っている小坪合戦(三浦の軍勢と畠山重忠が衝突)の場所でもある。
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南側が鎌倉四境の一つとされた南小坪で三浦氏の所領と接している。後に尾根の上に名越切り通し(「難越」が地名の由来、と)が拓かれた。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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6月13日
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吾妻鏡
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土屋三郎宗遠が款状(嘆願書)を提出した。内容は次の通り。
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私は右大将軍(頼朝)の時代から忠義を尽くした者で、家茂は謀叛人梶原景時の孫です。奉公を続けた者と不忠を働いた者を較べるのは不合理で、既に太刀を提出した者を拘束とは面目を見捨てる処遇であります。
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 和田義盛がこれを将軍家(実朝)に提出し、実朝は直ちにこれを読んで次のように対応した。
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款状の内容は理屈が通っておらず直ちに処分を下すべきではあるが、故右大将(頼朝)の月違い命日である。(故将軍が)御照覧されていると判断し、特に罪を赦す。
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   ※景時の孫: 家茂の名は系図に載っていないが、景時の息子の中で
「茂」を使っているのは三男の景茂のみだから、多分彼の息子だろう。景茂の生年は仁安二年(1167)で、景茂が18歳の時に家茂が生まれたと仮定すると23歳、土屋宗遠は81歳(共に満年令)だった。
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23歳の若者が81歳の老人に襲われ手傷も負わせず斬り殺されたのは、何となく合点がいかない。記録に残っていない(或いは残せない)事情があった可能性も考えるべきか。結果として「お咎めなし」も変だし..。
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土屋氏を含む相模武士団の殆どは和田合戦(1213)で義盛に味方して滅亡している。これは和田氏との濃密な縁戚関係を重んじたのが主な理由だが、高齢の宗遠は合戦に加わらず建保六年(1218)に90歳で没している。土屋一族の所領は金目川の中流域で上流は波多野氏の勢力圏、下流は大庭(懐島)景義の弟・景俊の豊田郷近くを経て平塚の花水川に合流する。
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右画像は金目川と座禅川に挟まれた丘に残る土屋一族の墓石。近くの大乗院弘宣寺が館跡と伝わるが遺構は見られない。詳細は画像をクリックして「土屋宗遠の館跡」(別窓)で。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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6月19日
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吾妻鏡
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源近利を鶴岡八幡宮の職掌(雅楽を担当する下級職員)に加えた。図書允清原清定が奉行としてこれを差配した。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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7月5日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が夢の導きに従って二十首の和歌を住吉社(公式サイト)に奉納した。使者は内藤右馬允知親(藤原定家の門弟で実朝の近臣)、このついでに去る建永元年(1206)に習い始めてから詠んだ和歌を三十首を選び、定家の評価を受けるために届けさせた。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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8月13日
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吾妻鏡
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知親(元は朝親。美作蔵人朝親と混同するため改名した)が京都から帰参した。京極中将定家朝臣(藤原定家)に送った実朝の和歌に評価を加えたものと、詠歌の口伝書一巻を持ち帰った。これは和歌の六義風躰についての実朝の質問に答えた内容である。
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   ※口伝書一巻: 既存の手引書ではなく実朝のために書いて贈った詠歌の理論書。「近代秀歌」と呼ばれ中世の
歌人に尊ばれた。新古今和歌集の評価・反省・技術論・秀歌の例などを載せている。六義風躰は六種類の理論を意味する。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で通例の通り放生会が催された。ただし将軍家(実朝)は出御せず相模守(北條義時)奉幣使を務め、武蔵守(北條時房)が供として同行した。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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9月29日
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吾妻鏡
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園城寺(三井寺・公式サイト)の明王院僧正公胤が鎌倉に到着した。これは将軍家の招きに応えた下向である。
滞在中は二階堂行光の屋敷を宿館とし、宿直などについては佐々木廣綱が差配を担当する。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼を受け、後に 政子の依頼を受けて
頼家の遺児公暁を弟子として預かった。当初は批判していた法然と面談してから念仏に帰依し、曹洞宗の祖道元には臨済宗の 栄西への入門を勧めたことでも知られる。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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10月10日
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吾妻鏡
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民部大夫二階堂行光が永福寺近くに伽藍を建立し落慶供養を行った。
導師は明王院僧正公胤、尼御台所政子も渡御された。
相模守北條義時・武蔵守北條時房・前大膳大夫大江廣元・遠江守源親廣・大夫屬入道三善康信らも聴聞(読経に耳を傾ける)の為に参席した。
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寺の外も中も市が開いたような賑わいで、導師の御布施も会場の飾り付けの様も華美を尽くした姿だった。
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   ※二階堂氏: 幕府の事務官僚を世襲した一族の覚書や日記が吾妻鏡
の編纂に使われ、編纂にも直接関わった可能性も高い。寺の建立については自画自賛の可能性もありそうだ。
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右画像は二階堂一体の鳥瞰(クリック→ 拡大)。二階堂邸がどの辺だったか考えるのも結構楽しい。
テニスコートから鎌倉宮入口の間かな、と思うけど。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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10月13日
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吾妻鏡
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故右大将家(頼朝)の御月忌(月命日)にあたり法華堂に於いて仏事を行った。導師は明王院僧正(公胤)、施主として 尼御台所政子が参席し、相模守北條義時と武蔵守北條時房が聴衆に列した。教典や図絵の仏像などは金銀を飾った布施を含めて見事なもので筆舌に尽くし難く、導師の説法も富楼那の弁説を聞くようだった。故人も悟りの境地に達しただろうし、施主もまた百年の後には故人との同居が実現すると考えただろう。
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   ※頼朝の墓: 石段を登った平場の廟所は江戸時代の中期に島津家が
造成した。石柵が囲む五層の石塔も安永年間(1772~1780年・徳川十代将軍家治の頃)に荘厳院(鶴岡八幡宮寺25坊の一つ)の僧が勝長寿院跡から運んだもの。
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勝長寿院は室町時代の享徳四年(1455年・足利将軍義政の頃)前後に廃寺となっているから、荒廃した跡地にあった誰の物か判らない五層の石塔を移したのだろう。廃寺になって300年以上、記録が残っている筈もない。
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右画像は現在の頼朝の墓。有名だが、本物ではない。
        画像をクリック→ 詳細ページ(別窓)へ。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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10月15日
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吾妻鏡
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明王院僧正公胤が御所に参上して将軍家(実朝)と御歓談。僧正は園城寺の興隆は豫州刺史禅室源頼義)から続く源家代々との縁が支えている趣旨を述べ、前大膳大夫大江廣元が将軍家の仰せを受け、軒先に候して園城寺の徳を語る僧正の言葉を書き留めた。
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   ※豫州刺史禅室: 豫州(伊予国(愛媛)の)刺史(国司・守)の禅室(出家者)。伊予守は頼義の最終官職。
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   ※明王院: 公胤の通称。四代将軍藤原頼経が嘉禎元年に創建した十二所の明王院(公式サイト)とは無関係。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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10月17日
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吾妻鏡
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明王院僧正公胤が京都に向け鎌倉を発った。将軍家は寒い時期の長旅を気遣って延期を勧めたが、長講堂(現在の長講堂供養の導師を予定しているため帰りを急ぐとの事。相模守北條義時と・大官令大江廣元から多くの御家人に至るまで選別に贈った品は数百種に及んだ。
更に道中の宿驛や労役の手配を行うよう相模国から西の諸国の守護に命令を下した。
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   ※長講堂: 寿永二年(1183)頃に後白河法皇が六条殿の敷地に建立した持仏堂が最初、とされている。
文治四年(1188)4月に最初の火災に見舞われて焼け落ち、頼朝の支援を受けて再建された。
長講堂と六条殿の位置は吾妻鏡の文治四年(1188)4月20日の条に記載している。
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法皇は所有していた42ヶ国・89ヶ所の荘園を長講堂に寄進し、更にその全てを娘の覲子内親王(生母は高階栄子)に譲って翌・建久三年(1192)に崩御した。
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この長講堂領は覲子内親王の死後(建長四年・1252年)には紆余曲折の末に後深草天皇とその子孫(持明院統・天皇家の系図を参照)が継承するのだが、それは改めて記述するとして...     右画像は現在の長講堂。
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長講堂と六条殿は承元二年(1208)に二度目の火災で焼失しているから、明王院僧正はその再建供養の導師に任じていたため長期の鎌倉滞在を避けた、という経緯になる。
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その後の長講堂は何度も焼失→ 移転を繰り返し、天正十六年(1588)に豊臣秀吉が現在地(地図)に移転させた。現在の建物は元治元年(1864)の禁門の変(wiki)で焼失後に再建したもの。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮で神楽の奉納あり。将軍家(実朝)は出御せず、遠江守源親廣が奉幣使として宮寺に派遣された。
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   ※出御せず: 実朝の都合ではなく何か宗教上か儀礼上の理由がある、と考えるべきか。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月4日
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吾妻鏡
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小御所東面の小庭で和田新左衛門尉常盛らの武士が勝ち負けを 競う弓射を行った。弓馬の鍛錬を欠かすべからずとの相模守北條義時の諫めに従った催しである。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月5日
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吾妻鏡
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相模国の大庭御厨にある大日堂の本尊は特に霊験のある仏像で故頼朝将軍も深く帰依していたが、近年は荒れ果てているとのとの噂が届いた。これを惜しんだ将軍家(実朝)は今日相模守北條義時に修繕を加えるよう命じた。
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   ※大日堂: 「新編相模国風土記稿」には「西俣野村の御嶽社(別当寺は
御嶽山神札寺)、一尺一寸の御神体と本地仏大日不動の二体は既に失われ、今は堅牢な造りの地神を祀っている」とある。藤沢市西俣野にある御嶽神社 (地図)である。
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この大日堂に関しては、建久六年(1195)11月19日の吾妻鏡にも復旧と管理強化を命じた記載がある。
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俣野景久滅亡後に鎌倉権五郎所縁の大日堂が荒れ果てているのを三浦義澄が知って復興を願い出た。頼朝は護持を命じて必要な田畑を寄進した。
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当事者の頼朝と義澄が死ねば責任の所在は不明確、管理は放棄し関係者が私腹を肥やしていた、という事か。更に詳細は当日の条で確認を。
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      右画像は現在の大日堂(画像をクリック→ 拡大)。すぐ前の広い水田は俣野郷の風景だったかも。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月7日
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吾妻鏡
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去る四日に小御所で行った弓の勝負で負け方の者が酒肴を拠出して御所での御酒宴乱舞となり、公私上下を問わず羽目を外す大騒ぎとなった。武芸を本分として朝廷を警護すれば関東が繁栄する基となる、相模守 北條義時と大官令大江廣元 は御家人の本分に準(なぞら)えて話をした。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に建立した神宮寺の常燈の燈油に供するため、駿河国益頭庄の年貢を充当せよとの命令が相模守北條義時に下された。
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   ※益頭庄: かつての益津郡(藤枝市の東部)で、現在の藤枝市藤枝四丁目に御殿小路の地名(地図)が残る。
ここが益頭庄の庄家で後に今川氏家臣の藤枝氏が居館を構えた。
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駿河国司は...元久二年(1205)9月21日~承元元年(1207)1月14日の駿河守は北條時房、その後は大内惟信(惟義の嫡男)が承久の乱の朝廷方として敗れるまで務めている。
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守護は北條時政、彼の失脚後は義時泰時と世襲され、北條氏の財源の一部を支えている。今回の燈油充当が義時に命じられたのはこの変遷に拠る。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月14日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が、以前からの郎従(皆伊豆国の住民で主達(おもだち)と呼ぶ)の中から功績のある者を 選んで御家人に準じる扱いとする希望を述べていた。これについて内々(非公式)の沙汰があり、将軍家(実朝)の許しが得られず、厳しい仰せがあった。
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それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕府參昇(幕政への関与)を企てるようになる。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。
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   ※将来の危惧: 八代執権北条時宗(着任は文永元年・1264年)の時代になると得宗家(北條嫡流)の権限が
圧倒的に強化され、それに伴って得宗被官(御内人)の権限も拡大され御家人として幕政に関与し始める。九代執権貞時の頃には更に権力を握った御内人筆頭の平頼綱 が有力御家人の安達泰盛霜月騒動(wiki)で滅ぼし、執権や得宗家を上回るようになった。
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結果として平頼経は成長した貞時によって追討されたが、御内人が政治的・経済的に主導権を握る構図は生き残り、幕政の腐敗とともに倒幕勢力の台頭を招くことになる。
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話を冒頭に戻して...才能の乏しい傀儡将軍が満17歳で発した科白としては鵜呑みに出来かねる。これは御内人の平頼経らが駆逐された正応六年(1293)4月以降に吾妻鏡の編纂者が実朝の言葉として追記した、「後世に問題を残す恐れ」が現実化した後に添付された。そう考えないと辻褄が合わない、と思う。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月20日
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吾妻鏡
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諸国守護人の職務遂行に緩怠の傾向があり、群盗の横行によって荘園や保(土地管理の単位)の年貢徴収などに支障が起きているとの訴えが国衙から届いている。これについて検討を重ねた結果、将軍家(実朝)からは
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「守護職が世襲となり故実に頼って怠慢の状態になっている。年数を決めて交代制を導入したらどうか。或いは国情をつぶさに調べて管理状態の悪い者を更迭させたらどうか」との仰せがあったが、決定に至らない。
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「とりあえず最初に就任した時の命令書を確認しよう。その上で元々安堵されていた所領と勲功によって新たに得た所領とを分離してから検討すべきだ」との仰せが下された。
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和田義盛中原仲業清原清定らがこの件を差配する。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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11月27日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が上総国司への着任を望んでいる件について内々の指示があった。「しばらく決裁を待つように」との内容で、義盛の喜びは特に大きかった。
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   ※上総国: 上総国と常陸国と上野国は親王任国(wiki)で、国守には必ず親王が太守として補任される。
従って義盛の望む国司とは二等官の上総介となる。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家の御台所(坊門信子)の御方に仕える者および侍は将軍家の外出の際にも供として従うこと、また幕府から新領を得た者は定められた公務を務めるよう定められた。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月11日
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吾妻鏡
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美作蔵人朝親と小鹿嶋左衛門尉橘公業が軽率にも合戦に及ぼうとし、それぞれ親戚縁者が駆けつける騒ぎとなった。三浦一族が朋輩を称して公業の側に加わり、武田と小笠原の一族が朝親を応援するために駆けつけた。
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将軍家がこれを聞いて驚いたが侍所別当の和田義盛は既に公業の側に加わっているため、武蔵守北條時房を派遣して取り敢えず双方を説得して騒ぎを鎮めた。
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朝親と公業の宿館は門が向かい合う目の前にあり、最近になって朝親の妻は急に行方不明になっている。ところが夕暮れになって若い女が突然公業の家に入り、これが月明かりでも判るような美女だったので公業は前後の事情も考えずに同衾して数日を過ごしてしまった。
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ここで悪意を抱く者が現れ、妻を想っている朝親に「貴方の妻女は兼ねてから公業と密通し、今では同居している。」と告げ、これを聞いた朝親は遺恨を晴らそうとした、これが事件の経緯である。
時房が実朝の仰せを受けて調べたところ朝親の妻女に間違いなく、夫の朝親に返すよう公業に命じた。
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公業にも言い分はあるだろうが意図せずに起きた事件だからで騒ぎを大きくしてはならぬと言い含めた。
公業は妻女を送り出したが、彼女は再び行方を晦ましてしまった。朝親はまだ合戦の準備をしているらしい。
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   ※密通事件: 時代が変わっても同じような事を繰り返すのが人間の愚かさ(楽しさ、かも)だね。
当時の共通認識(実際は判らないけど)として貞永元年(1232)に三代執権泰時が発布した御成敗式目から該当する項目を抜き出すと...
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「第三十四条 人妻との密通禁止」
強姦か和姦(原文は和奸)を問わず人妻と密通(原文は密懐)した者は所領の半分を没収して出仕を禁じ、所領がない場合は遠流に処す。人妻の処分も同じ。
道路で女を拉致した御家人は百日の出仕停止、郎従以下の者は右大将の頃に準じて片側の頭髪を剃る。ただし法師の場合はその時々に判断を下す。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月13日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)と将軍家(実朝)が故頼朝の法華堂で恒例の仏事(月違いの命日)を催した。導師は荘厳房退耕行勇が務めた。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月15日
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吾妻鏡
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関東近国の守護補任に関する御下文が発行された。
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まず千葉介成胤が言うには、先祖の千葉大夫元永(常胤の祖父常兼。秩父平氏の系図を参照)以来は千葉庄の検非違所(警察・司法権)に任じ、右大将家(頼朝)の時代には常胤が下総一国の守護職に補せられた、としている。
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また三浦兵衛尉義村が言うには、祖父の義明が天治(1124~1125)の頃から相模国衙で行政に携わり、同じく右大将家の時代に警察権と司法権を行使するよう義澄が承った、としている。
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また小山左衛門尉朝政が言うには、御下文は持っていないが先祖の下野少掾豊澤が下野国の押領使として裁決など全てを行ってきた。藤原秀郷朝臣が天慶三年(940)に(平将門討伐の恩賞として)官符を受けてから十三代・数百年(正確には270年)の間に途絶えた事はない。ただし右大将家の建久年間に亡父の政光入道が朝政に相続させる際に安堵の御下文を受けているから新恩の職ではないとして官符などの書類を提示した。
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その他の国々も同様に右大将家の御下文を持っており、例え小さな罪を犯したとしても安易に改補すべきでないと判断が下され、今後とも心を引き締めて任務を果たすよう其々に仰せがあった。この件の差配は大江廣元である。
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   ※下野少掾豊澤: 藤原鎌足─不比等─房前─魚名─藤成─豊澤─秀郷 と続く。以下は藤原秀郷の系図で。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月17日
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吾妻鏡
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美作朝親橘公業の喧嘩について、将軍家(実朝)が改めて慰撫するため武蔵守北條時房を派遣した。
朝親は今となっては特に確執はないと語り、公業も元より不満は持っていないと答えた。
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   ※確執なし: ところで争いの元になった美人の妻女はどうなっただろう。元の鞘に戻ったのか、それとも離縁か。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月19日
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吾妻鏡
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佐々木兵衛太郎入道西仁が硯一面を将軍家(実朝)に献じた。三位平通盛卿が愛用したという重宝で、将軍家も特に喜ばれた。
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   ※佐々木西仁: 建久元年(1190)7月20日に工藤祐経を石で傷付けた当時15歳の信實(佐々木盛綱の長男)
で加地氏の祖。翌21日にその後の経過が載っているが、34歳で既に出家とは傷害事件の始末だろうか。越後国加地荘の地頭を経て承久の乱(1221)の勲功により備前国守護となった。
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西暦1209年
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83代 土御門
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承元三年
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12月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が勝長寿院と永福寺と頼朝法華堂などに御参り。供奉人多数が従った。
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