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承元四年(1210)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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1月1日
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吾妻鏡
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相模守北條義時(満46歳)が将軍家(実朝・満17歳3ヶ月)の使者として、鶴岡八幡宮に奉幣した。
右大将家(頼朝)の時代には吉凶を考慮せず概ね元日に奉幣を行っていたが近年はこの習慣が廃れていた。
今年は昔の良い例を復活させている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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1月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御行始め(外出初め)があり大江廣元朝臣邸に入御された。太刀持ちは佐々木義清が務めた。
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   ※廣元邸: 大倉御所から約1.7km東、十二所にある鎌倉五大堂の
一つ飯盛山寛喜寺明王院(公式サイト)の近くに館跡の碑が建っている。金沢街道(六浦道)の途中には杉本寺や浄妙寺や報国寺(竹寺)もあるのだが、ここまで足を伸ばす観光客は少ない。廣元は八幡宮近くにも別邸を所有していた。
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廣元の墓所と館跡などの詳細は大江(中原)廣元の墓で。
西側には景時邸跡と伝わる谷津もある。
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詳細は明王院と梶原井戸で。
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            画像は明王院周辺の鳥瞰図(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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2月1日
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吾妻鏡
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町の口の民家を火元にして火災あり。若宮大路まで延焼し、中條右衛門尉家長の家が焼け落ちた。
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   ※町の口: 鎌倉時代の「町」と言えば繁華街の一つだった大町。火災は下の下馬橋から東に入った横須賀線の
踏切近辺(地図)か。ツツジで知られた安養院も近い。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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2月5日
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吾妻鏡
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越後国(加地庄)の菅谷寺は護念上人による薫修の遺跡である。右大将(頼朝)の時代には寺の興隆に務められたが、崩御して年月を経た今では当時の意向に沿っていないだろうと考え、その寺の近くに良い場所を探して再興の手配をするよう相模守北條義時に仰せを下した。
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   ※菅谷寺: 現在の菅谷上動尊(紹介サイト・地図)。加地庄は現在の新潟県新発田市。平家追討の恩賞として
佐々木盛綱が加地庄の地頭となり要害山(地図)に築城した。
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   ※護念上人: 建久六年(1195)10月11日の吾妻鏡に次の記載がある。名の知れた僧なのだが俗名と出自が
不明。為義の子は保元の乱直後に幼子まで殺されて生存者はいない筈なのだけど...。
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護念上人慈應が越後国から鎌倉に参上、佐々木三郎兵衛尉盛綱を介して来た人物で将軍家と面談した。故六條廷尉禅門(源為義)の末子で頼朝の叔父に当たるため丁重な処遇である。
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出家剃髪してからは顕教(wiki)と密教の両宗を学んで徳を重ね、最近は越後国加地庄の菅谷山に天台山無動寺の地形に似た伽藍を建て、不動明王像を本尊として祀っている。その傍らの草庵に住み修行に明け暮れている、と。
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   ※薫修: 香の薫りが衣に染み付く如くに修行を繰り返すことの表現。
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   ※天台山無動寺: 延暦寺東塔を構成する塔頭の一つ(紹介サイト地図)。千日回峰行の拠点でもある。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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2月10日
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吾妻鏡
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紀伊国安弖川庄の地頭職は、故右大将軍(頼朝)の頃に高野大塔造営奉行を務めた功績として高雄の文覚房に与えられた。右大将軍の考えとしては文覚一代限りの処遇だったにも拘らず、湯浅兵衛尉宗光が上人から譲状を得たと称して所領安堵の御下文を求めてきた。
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現在の地頭職から仔細の説明がなければ簡単には認められないのだが、宗光は「御家人としての功績を挙げたのだから新恩として認めて欲しい」と訴えるため、今日それを安堵する政所の御下文を発行した。
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   ※安弖川庄: 現在の有田郡有田川町清水(地図)。道の駅しみずあらぎの里の中間にある山村。
有田川に囲まれた扇形の千枚田 蘭(あらぎ)島(紹介サイト)でも知られている。
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   ※高野大塔: 承元三年(1209)3月1日の条に多少の情報を載せてある。参照されたし。
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   ※湯浅宗光: 紀伊国湯浅(現在の有田郡湯浅町青木・地図)を本領とした湯浅宗重(平家の郎党を経て頼朝に
臣従した)が千葉氏から迎えた養子。四女が渋谷重国に嫁して明恵上人(建久六年(1195)4月5日を参照)を生んでいる。
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「平家物語・巻十 維盛出家」に拠れば、「千里浜の北にある岩代王子(熊野九十九王子の一つ・地図)で出家した平維盛主従と擦れ違い、湯浅宗光は声を掛けずに見逃した」事になっている。
諸説あるが、維盛はこの後に那智で入水自殺したと考えられる。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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2月21日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣の差配として使者を京都に派遣した。明王院僧正の公胤が長講堂供養の導師を務めるため稚児舞の装束を贈与するためである。
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   ※長講堂: 経緯と詳細については承元三年(1209)10月17日の条を参照されたし。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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2月29日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛の南側が火事となり、強い南風のため数十軒の家屋が短時間で焼失した。
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   ※和田義盛邸: 若宮大路二の鳥居の西側と伝わっているから、現在の鎌倉駅付近の可能性がある。
それにしても「南風に煽られて数十軒が焼けた」のなら義盛邸も類焼したのだろうか。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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3月10日
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吾妻鏡
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駿河前司中原季時の使者が京都から鎌倉に入って報告、先月30日の未刻(14時前後)に高陽院殿の馬場御所が焼失した、と。
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   ※中原季時: 元久二年(1205)10月に京都守護に任じられて在京している。
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   ※高陽院殿: 元々は桓武天皇の第七皇子賀陽親王の邸宅で、後に関白の藤原頼通が約250m四方の敷地を
持つ豪壮な邸宅を造営した。後鳥羽上皇が院の御所として院政の拠点にし、承久の乱(1221)に備えて鎌倉幕府打倒の謀議を行ったのもこの高陽院だった。馬場御所はその一部か。
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現在の堀川丸太町交差点東100mの高陽院ハイツ前(地図)に跡地の銘板が置かれている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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3月13日
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吾妻鏡
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先月21日に明王院僧正公胤に派遣した使者が帰参して報告、去る2日の六條殿長講堂供養が無事に行われた。御導師は公胤僧正である、と。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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3月14日
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吾妻鏡
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武蔵国の田文を整備し国衙の業務として細かく定めた。武蔵国については右大将家(頼朝)の当初から朝廷から管理を鎌倉に委ねられている。建久七年(1196)に調査は済んでいるが、まだ目録の作成に至っていない。
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   ※田文: (たぶみ)国内の国衙領や荘園別に名称・面積・所有関係などを記載した文書。別名を田数帳・図田帳。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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3月22日
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吾妻鏡
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相模守北條義時の室の熊野詣に伴う旅程の雑務を各地の地頭に割り当てた。 中原仲業がこの作業を差配した。
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   ※義時の室: 藤原秀郷の12代後裔伊賀朝光の長女で通名伊賀方
先妻の姫の前(比企朝宗の娘)が離縁となった後に後妻として義時に嫁した。生母は二階堂行政の娘。
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義時との間には七代執権となった政村、金沢氏の祖となった実泰、一條実雅(能保の子)に嫁した娘がいる。 .
義時死没直後の伊賀氏の変で伊豆に流され、4ヶ月後に変死した(政子による冤罪&殺害の可能性が大きい)。
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       右画像は伊豆長岡の北條寺墓所の義時分骨墓(右)に並ぶ伊賀の方の墓(左)。クリック→ 拡大
          時房の菩提寺でもある巨徳山北條寺の詳細も参考に。

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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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4月9日
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吾妻鏡
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懐島平権守景能入道(大庭景能、景義が相模国で没した。
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   ※大庭景能: 史料の初出は保元物語「白河殿を攻め落とす事」で、鎮西八郎為朝の鏑矢で左の膝を砕かれ
ている(保元元年(1156)7月)。この時は辛うじて弟の三郎景親に救われたが殆ど歩行不能になり、大庭の家督を景親に譲って懐島(現在の茅ヶ崎・地図)に隠居した。
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治承の合戦で平家に味方した景親と次弟の俣野景久が死んだため当主として復帰し、建久四年(1193)に嫡子の景兼に家督を譲って再び隠居した。
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動乱の時代を生き抜いた最古参の御家人がまた一人、鬼籍へ。
跡を継いだ景兼は建保元年(1213)の和田合戦で義盛に味方し、消息を絶っている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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4月19日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が到着。去る四日に範子内親王(後鳥羽上皇の異母姉)が一條室町の故皇太后の御所で崩御され、上皇の南山御幸(熊野詣)が延期になった旨を報告した。
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また3月19日夜になって院号の宣旨があり中宮職を改めて坊門院となった。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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4月22日
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吾妻鏡
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伊賀守朝光が使節として上洛。坊門院の崩御に伴う弔問である。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月6日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が大江廣元朝臣の家に渡御された。相模守北條義時・武蔵守北條時房らも加わって和歌などの宴を楽しんだ。亭主の廣元が三代集を将軍家に寄贈した。
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   ※三代集: 三代に亘り編纂された勅撰和歌集。醍醐天皇による古今和歌集、村上天皇による後撰和歌集
花山天皇による拾遺和歌集を差す。 (いずれもwiki)
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月11日
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吾妻鏡
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御家人中で本所や瀧口に務める責を負う者は参候せよとの仰せが京都から下され、早く勅宣に従うよう御書が発行された。小山・千葉・三浦・秩父・伊東・宇佐美・後藤・葛西らの一族十三流が譜代の役としてこれに該当する。
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   ※本所: 最上位の荘園領主が本家、本家に土地を寄進して庇護を受けるのが領家、本家と領家の中で荘園の
実効支配権を有する者が本所。
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   ※滝口: 朝廷の警護は近衛府の任務だが、9世紀末の上皇(平城)と
天皇(嵯峨)の兄弟が争った薬子の変(wiki)を契機に蔵人所を設け、その下に庭を警護する武士組織が置いた。
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清涼殿東庭北東にある排水の落ち口(滝口)近くを詰所にした事から滝口あるいは滝口武者と呼ばれた。
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やがて近衛府の武者と同様に武器を携帯して宮中に入るのを許されるようになり、その勤務を経て六位程度の衛府武官を目指すのが東国武士の栄誉と考えられるようになった。
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上皇の私兵として設けられた北面武士や後鳥羽上皇が更なる手勢の強化を目指して創設した西面武士の原型である。
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右画像は京都御所清涼殿の北東にある滝口。(画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月14日
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠が遺した後家の所領について、関係者だけで処理を進めようとしたが規則に外れる変更は禁じる旨の御意があった。
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   ※重忠の後家: 北條時政の娘(義時の異母?妹)。
この時点で武蔵守に任じていたのも兄弟の北條時房だから北條氏が自由な処分を目指したのだろう。
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彼女は重忠死没から間もなく足利義兼の庶長子義純に再嫁し、義純は畠山の名跡を継ぐ建前で正妻だった新田義兼の娘(来王姫)と離縁している。
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彼女は二人の息子を連れて新田に戻り、子孫は岩松氏として長く栄えるのだが、この来王姫が「らいわうごぜ」の名で新田義重(彼女の祖父)の置文(遺言)に登場する女性と重複する可能性(いや、間違いなく彼女だと思う)があるから面白い。
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いずれにしろ重忠の遺領に関わっているのは北條氏と足利氏だけで足利氏は北條氏との縁戚関係が深いから、身内での山分けに異議を発したのだろう。
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     右画像は新田義重の置き文。 画像をクリック→ 詳細ページ(別窓)へ。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月21日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が三浦三崎に渡御された。船の中で管弦の演奏があり、何れも興を催すものだった。また小笠懸を 見物、 和田常盛和田胤長海野幸氏が射手を務めた。
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   ※海野幸氏: 吾妻鏡に登場した最初が11歳の壽永二年(1183)3月、流鏑馬の射手を務めた最初が16歳の
文治四年(1188)8月、65歳の嘉禎三年(1237)7月には翌月の放生会での流鏑馬に出場する北條時頼の指導を行っている。名前が載る最後は建長二年(1250)3月1日(83歳)になる。
通算72年に亘る出場は登場人物の最長不倒記録だろうか?
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月25日
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吾妻鏡
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陸奥国平泉の諸寺を興隆させるのは故右幕下(頼朝)の時代には最初に建立した藤原基衡らの先例通りに維持せよとの沙汰を残したが堂塔は年を経るに従って老朽化し、僧侶も供物や灯明が絶えている状態を訴えている。今回は大江廣元の差配として、維持に必要な年貢などを元の状態に戻すよう、寺領を管理する地頭に命令を下した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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5月29日
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吾妻鏡
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伊賀守朝光が京都から下着した。後鳥羽上皇は去る17日に南山御幸(熊野詣)に出発、直前の精進を済ませたのは七條殿(藤原殖子邸)である。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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昨日、相模国の丸子河で土肥・小早河一族と松田・河村一族の喧嘩があり両方の郎従が負傷、更に双方が館に籠って合戦の準備をしている噂が聞こえた。これを鎮めるため和田義盛三浦義村が将軍家(実朝)の命令を受けて現地に向かい、夜になって鎌倉に戻った。
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喧嘩の原因は納涼遊覧に出掛けた際の先祖の武勲自慢が口論に発展したもので、使者の諌めに応じて講和し応援に加わった連中も引き上げた。「武者は国家を守る自覚を持つべきのに近頃は武威を競ってややもすれば闘乱を起こす。不忠至極だから厳しく戒める必要がある。」との相模守北條義時の沙汰があり、更に同様の事件を起こせば所領と御家人の身分を没収する旨の御書を今夜中に土肥と松田に届けるよう雑色に託した。
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   ※丸子河: 酒匂川(地図)の古名。治承四年(1180)8月の石橋山合戦の直前には応援に駆けつけた三浦勢が
増水で渡れず、合戦に間に合わなかった。また元暦二年(1185)6月には鎌倉入りを許されなかった義経が腰越から酒匂の驛に移動し待機している。要するに東海道の重要な宿驛で遊郭なども備えていた。酒と女と先祖自慢が重なると見境がなくなるのは世の常で...
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   ※土肥・小早河: 現在の湯河原に本拠を置いた土肥實平と、その嫡子で土肥と早河(小田原市西部)を相続した
小早河遠平を差す。同族としては中村宗平の息子である二宮氏と土屋氏、縁戚関係にある曽我氏など。土肥氏・中村氏・土屋氏などの遺跡を参考に。
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   ※松田・河村: 現在の秦野市一体に本拠を置いた波多野氏の系。松田氏の祖は頼朝への合流を拒否して追討
された波多野義常の嫡男有常、他に波多野姓を継承した一族がいる。土肥・小早河・松田・河村氏の大部分は和田合戦(建暦三年・1213年)で義盛と共に滅亡している。
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   ※実朝の命令: 和田義盛は御家人の軍事・警察権を司る侍所別当、三浦義村は助役の所司に任じている。
義盛が打倒北條に蜂起した際は合流する約束だったが、義村は土壇場で義盛を裏切った。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月8日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)相模国の日向薬師堂に参詣された。武蔵守北條時房・源大夫将監(大江廣元の長男で源通親の養子になった)らが供として従い、夜になって還御された。
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   ※日向薬師: 行基が開いたと伝わる古刹(実際には平安時代中期らしい)。本堂や宝殿には平安時代の造像と
推定される薬師三尊像(950年前後の作か)をはじめ26点以上の仏像を安置している。
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現在の宝城坊 日向薬師(公式サイト)を参考に。仏像の詳細画像は こちら(公式サイト)から。
建久五年(1194)8月8日に多数の御家人を引き連れて参詣したとの記録がある。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月12日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御台所(坊門信子)に仕える女房丹後局が京都より到着した。駿河国の宇都山で群盗により所持の財宝や主人(坊門信清)が整えてくれた衣装など全てを奪われてしまった、と。
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   ※宇都山: 現在の日本平(地図)、最高点は307m。南側は太平洋の風波に削られた急峻な崖で久能山東照宮
や石垣いちごを売りにしたの観光地になっている。
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北側の緩やかな傾斜地に旧東海道が通り、五十三次に当て嵌めると江尻宿(旧清水市)と府中宿(駿府)の中間になる。草薙神社(参考サイト)の付近はヤマトタケル神話の伝承地のひとつ。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月13日
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吾妻鏡
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駿河国以西の海道宿驛などの夜間警備担当の順番を定めた。特に旅人の警固に注意し、丹後局が参向する際に盗み取られた財宝などを捜索するよう、今日守護人(記録では北條義時)に命令が下された。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月20日
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吾妻鏡
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崇徳院御影堂領の寺家から地頭職を廃止して欲しいとの訴えが届いた。
右大将家(頼朝)の時代には「勲功を挙げた者の所帯を貧しくするのは本意ではない。同様の申請は認めるべからず」との決め事があったため認可しない、との沙汰があった。
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   ※崇徳院御影堂: 祇園の歌舞練場南側(地図)にある御陵は慰霊墓で、葬られたのは讃岐国(香川県坂出市)
崇徳天皇陵(参考サイト)。保元の乱に敗れて讃岐に流され、戦死者供養のため京都の寺に納めて欲しいと願って送った写経の受け取りを戦勝者の後白河法皇に拒否され、憤怒の果てに生きながら天狗になった。これは伝承で、実際は8年後に没して荼毘に付されている。
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京都の陵は移転を繰り返しているから遺跡とは呼べず、この記事の崇徳院御影堂は100mほど南、後白河院の詔勅で建てた光明院観勝寺(公式サイト)の可能性が高い、と思う。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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6月13日
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吾妻鏡
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主計頭資元朝臣が京都から使者を派遣し、以前からの仰せに従って今日(14日)に如法泰山府君の祈祷を行うと報告した。これは将軍家(実朝)守護のための祈祷である。
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   ※主計頭資元: 天皇の補佐・詔勅・叙位など朝廷に関する職務全般を扱った中務省で占い・天文・暦の編纂など
を担当した陰陽寮の頭(かみ・長官)。当時の鎌倉では京下りの陰陽師・阿部泰貞が活躍していたが、朝廷の陰陽寮頭の権威の方が桁違いに高かった。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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7月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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金吾将軍(頼家)の室(辻殿、善哉公の生母)が落飾された。 戒師は荘厳房阿闍梨退耕行勇(鶴岡八幡宮の供僧で後に寿福寺の長老)である。
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   ※辻殿: 頼家の側室で父は三河の武将足助重朝(重長)、母は 源為朝
の娘。善哉公とは、後に実朝を殺すことになる 公暁の幼名。
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昭和五十九年(1984)に解体調査された伊豆修禅寺の本尊・大日如来像(仏師實慶の作)の胎内から女性の髪二束と承元四年(1210)8月の銘札が確認され「二代将軍頼家の七回忌に母政子が寄進した」との寺伝が証明される形となった。
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    関連画像と更なる詳細は修禅寺の項で確認されたし。
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画像左のバサバサ髪は政子の、右の柔らかそうなストレート・ヘアは辻殿の髪だろうと、勝手に想像している。修禅寺宝物館は撮影禁止、係員が席を離れた隙を狙って盗撮したため拡大用の高解像度どころかピントも完全に合わせられなかった一枚だ。失敗にめげす再度の盗撮に行かなくちゃ(笑)。
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また、これと別に埼玉県の比企郡にも比企禅尼と若狭局の伝承が残っている。若狭局は頼家の嫡子として扱われていた一幡の生母。吾妻鏡は比企館で焼け死んだと書いているが、愚管抄は「逃げ延びた末に義時の郎党が刺殺した」と記録している。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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7月20日
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吾妻鏡
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上総国の在庁官人(国衙の官吏)から訴えがあった。院北面の武士である藤原(足利)秀康 が先月17日に国守となり同月下旬に代官が国衙に入って執務を開始した。 この男には先例を無視した振る舞いが多く、在庁官人が嘆いている内に喧嘩を起こして数人の農民を刃傷に及ぶ事件を起こした、との内容である。相模守北條義時大江廣元三善康信が協議したがこれは関東の決済範囲ではないため早急に院庁に連絡せよとの指示を与えた。
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   ※藤原秀康: 後鳥羽上皇の側近。院の私兵である北面武士と後鳥羽が新たに補強創設した西面武士を統括し、
承久の乱(1221)では宮方の総大将を務めた。結局惨敗して京に逃げ帰り、後鳥羽院にも見捨てられた末に捕縛され斬られたらしい。
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   ※上総国守: 上総国と常陸国と上野国は親王任国(wiki)で、国守には必ず親王が太守として補任される。
和田義盛も着任を望んでいた国司とは二等官の上総介で、藤原秀康も同様だと思うが太守も介も記録には残っていない。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月7日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮放生会で稚児舞いを奉納する童子12人が八幡宮別当の定暁(圓暁 → 尊暁に続く三代別当)に伴われて御所に参上し、蹴鞠を行う小庭で管弦を演奏した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月9日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は関東の管理下にある社寺の所領確認と再興を思い立ち、規律から外れた遺失などの有無を報告するよう、文書で守護人に命令を下した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月12日
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吾妻鏡
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信濃国善光寺(公式サイト)の地頭職は故右大将軍(頼朝)の時代に、治安を維持して住僧が安堵できる人物を寺が希望した。
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適任の者を見付けるよう仰せを下した際に長沼五郎宗政が、「私の前世は悪人でした。生身の如来との結縁を得るために地頭に補任して頂きたいと思います。」と申請し、地頭補任の下文を与えた経緯がある。
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年月が過ぎた現在、本所である三井寺(公式サイト)から「寺家のためになっていない地頭職を停止して欲しい」との要望書が届き、昨日その旨の政所下文を作成し将軍の認可を得て発行した。差配は大江廣元である。
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   ※生身の如来: 本尊の阿弥陀如来三尊像は西方浄土の仏を生き写しに
鋳造したとの伝説から「生身の阿弥陀如来」とされている。
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右画像は7年に一度開帳する前立仏。鎌倉時代に数多く鋳造され全国の善光寺に贈られたレプリカと同じ像。
厨子の奥にある絶対秘仏の本尊は永遠に開帳されない。
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画像をクリック→ 甲斐と飯田の善光寺に大陸から渡来した阿弥陀像が善光寺に鎮座した経緯に加えてその後の変転などについて詳細を記述した。関連して未整理ながら、渡来した仏像が最初に祀られた奈良 明日香村遺跡群も参考に(共にサイト内リンク・別窓)。
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   ※三井寺領: 文治二年(1186)3月12日の吾妻鏡に「頼朝の知行国のうち年貢を滞納している荘園のリストが
朝廷から届き、併せて管理者に催促せよとの内容である。」との記載があり、その中に「善光寺(三井寺領)」が含まれている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月13日
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吾妻鏡
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来る16日には鶴岡八幡宮の馬場で流鏑馬が開催される。選ばれている射手の中から数名を選び今日馬場に於いて合否を決める騎射を行った。従来は同様の催しはなく、今年初めての例である。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会あり。将軍家(実朝)の御参宮なし、相模守北條義時が奉幣の使者として参宮した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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8月16日
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吾妻鏡
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昨日に続いて相模守北條義時が参宮。将軍家(実朝)は馬場での催しを見るため女房の輿を用いて密かに桟敷に渡御された。尼御台所(政子)並びに御台所(坊門信子)も同様に桟敷に出御された。
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流鏑馬と競馬が終わり、廟庭で相撲の勝負を催した。相模太郎(北條泰時)の郎党岡部平六と犬武を呼んで取り組ませ、岡部が敗れた。次に廣瀬四郎と西浜(和賀江島の近く)の住人鬼童丸を取り組ませたが勝負が決せず、再度取り組んだ末に引き分けとした。この一番は壮観だった。
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   ※廟庭: 頼朝が鎌倉に入った治承四年(1180)10月12日に「寅刻、祖宗を崇めるため小林郷の北山を選んで
宮廟を構え」との記載がある。鶴岡八幡宮が「宮廟」なら廟庭は八幡宮の庭と考えて良さそうだ。
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   ※岡部平六: 岡部には二氏族あり、駿河国志太郡岡部郷(静岡県藤枝市岡部町・地図)と武蔵国榛沢郡岡部郷
(埼玉県深谷市岡部・地図)を本領とした猪俣党の岡部氏があり、「平六」だけでは確定できない。
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志太郡の岡部郷は朝比奈川沿いの地域で最南端は東海道の宇津ノ谷峠(歩いたレポート)に接し、上流部分には静かな道の駅 玉露の里がある。
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武蔵国の岡部氏の遺跡については岡部忠澄の本領と平忠度の墓に詳細を記述した。
岡部忠澄は一ノ谷合戦で、剛勇として知られた薩摩守平忠度を騙し討ち(平家物語)にした武士。
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   ※犬武: 建久三年(1192)8月14日の放生会で「犬武五郎 対 白河黒法師」の一番が組まれている。
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   ※廣瀬四郎: 建永元年(1206)6月21日に御所の南庭で「広瀬四郎助弘 対 石井次郎(義盛の郎党)」の一番
が組まれている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月9日
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吾妻鏡
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(重陽節に伴う)鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。相模守北條義時が奉幣の使者として参宮した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月12日
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吾妻鏡
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足利又太郎忠綱の遺領である田畑が上野国に散在している。安達九郎右衛門尉景盛がこれを調査して明細を文書で提出、これにより新たな地頭に補任された。
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   ※安達景盛: 上野国守護だった比企能員 滅亡に伴い今年から守護に任じている。藤姓足利氏嫡流の足利忠綱
は文治元年(1185)4月の無断任官事件以後の消息は不明。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月13日
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吾妻鏡
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御所に於いて和歌の会が催された。遠江守源親廣・大和前司山田重弘・内藤馬允らが座に加わった。
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   ※内藤馬允: 藤原定家の門弟で源実朝の近臣。昨年7月5日に実朝の和歌30首を定家に届け、8月13日に
実朝宛の口伝書を預かって鎌倉に持ち帰っている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月14日
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吾妻鏡
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熊野の鳥居禅尼が申請していた、所有している地頭職を養子に譲補する件について、故将軍 (頼朝)の御避状があるため支障なしとの仰せがあった。大江廣元の差配による。
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   ※鳥居禅尼: 女性ながら再三の勲功により御家人に列した女傑で、この年の後半に没したらしい。
数ヶ所の地頭職を相続させたのは五男行詮の子の行忠または長詮と考えられている。
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   ※避状: 「自分が所有している権利を放棄する」という意味の証書。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月20日
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吾妻鏡
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佐々木左衛門尉廣綱が昨日近江国から鎌倉に着き、御馬を一疋献上した。今日蹴鞠を行う庭で将軍家(実朝)の御覧に供した後に三浦義村に預けられた。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月25日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が御持仏堂で守り本尊の五字文殊像を供養する法事を催した。導師は壽福寺の僧正栄西、この供養を五十度行う旨の御願を立てられている。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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9月30日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に西方第三星の傍らに異様な星が見えた。光は東に向けて三尺(91cm)ほどの大きさに明るく輝き、一丈(約3m)ほどの尾を引いている。この星は天文の書の通りなら彗星であると言う者がいた。
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   ※史料では: 玉蘂は「日没から戌刻まで聞いた事もない変異があった。彗星が西の空に現れた。」と書き、更に
翌日には「恐ろしい事に今夜も彗星が西に現れた。ある人は譲位があるのでは、と言う。」と。
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「玉蘂」は九条道家の日記。祖父兼実が書き遺した「玉葉」に準じて蘂(雄しべ雌しべの「蘂(しべ)」を使っているのが面白い。また道家は鎌倉幕府四代将軍に就く藤原頼経の父でもある。
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また愚管抄は「ほうき星と呼ぶ変異中の変異の彗星が現れて暫く消えなかった。人々は何事かと恐れ、慈圓僧正は熾盛光法(熾盛光如来(大日如来の仏頂尊)を奉じて行う密教の修法。主に天皇や上皇の除災・招福を祈る)を行なった。」と記録している。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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10月3日
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吾妻鏡
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明け方に地震あり。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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10月12日
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吾妻鏡
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京都朝廷からの飛脚が到着。去る30日の異星は彗星であると主計頭資元朝臣が勘文を提出した。この変異に対応して祈祷などを実施した上で改元を行うべきである、と。
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   ※主計頭資元: 天皇の補佐・詔勅・叙位など朝廷に関する職務全般を扱った中務省で占い・天文・暦の編纂など
を担当した陰陽寮の頭(かみ・長官)。当時の鎌倉では京下りの陰陽師・阿部泰貞が活躍していたが、朝廷の陰陽寮頭の権威の方が桁違いに高かった。
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   ※勘文: 天皇や法皇などの諮問を受け、判断資料として先例や故実を考査して提出する答申書。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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10月13日
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吾妻鏡
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諸国の御牧について、興隆に務めるよう将軍家(実朝)から守護と地頭等に命令する指示が下された。
この件は武蔵守北條時房が差配し、二階堂行光から指示書を発行された。
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   ※御牧: 元々は朝廷の馬寮に付属する飼育・放牧場。平安時代末期から私牧が増えて荘園化した。
ここで言う御牧も幕府の管理下にある施設を含めた普通名詞と考えて良い、と思う。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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10月15日
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吾妻鏡
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聖徳太子の十七ヶ條の憲法、逆臣である物部守屋の遺跡、没収された田の数や位置、天王寺(四天王寺)と法隆寺(共に公式サイト)に納められている重宝の記録などについて、以前から将軍家(実朝)の質問が出されていた。大江廣元がこの件を調査し、今日奏覧に供した。
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   ※物部守屋: 用明天皇587年に丁未の乱で厩戸皇子(聖徳太子)に
滅ぼされた排仏派の豪族。半ば神話の世界だから盲信はできない。更に詳細は物部守屋(3項目ともwiki)で。
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物部守屋の墓(右画像)は聖徳太子創建と伝わる八尾市の大聖勝軍寺近く(地図)にある。周辺には守屋が射殺された地や首を洗った池や館の跡など、真偽は不明だが1400年以上前に起きた事件の伝承地が点在している。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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10月16日
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吾妻鏡
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夜、御所に於いて変異(彗星接近の件)に対応する祈祷を行い、大夫泰貞が属星祭を催した。図書允清原清定がこれを差配し将軍の使者は源兵衛尉季氏が務めた。
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   ※大夫泰貞: 阿部晴明から五代目の嫡流・泰親の孫近辺じゃないかと思うが、阿部氏系図には見当たらない。
陰陽師としての阿部氏は朝廷での権益を巡って争った賀茂氏との暗闘に加えて一族内部でも抗争を繰り返して衰退し、その過程で鎌倉に下った者が多かった。
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   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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   ※源季氏: 上総国望陀郡飯富庄(千葉県袖ヶ浦市飯富)を本領とした飯富氏(おぶし、経基の五男満快の子孫)
源(飫富季貞)の近親だと思うが、これも系図に記載がない。
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   ※朝廷でも: 玉葉や愚管抄にも「朝廷で読経・祈祷・譲位についての議論があった」との記述が見られる。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月20日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に火災あり。北風の影響で相模太郎(北條泰時)殿の小町亭および周辺にある御家人の家などが焼失したが、それ以上は広がらなかった。
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   ※小町亭: 現在の宝戒寺(公式サイト)一帯が小町亭で、義時執権時代の終期と泰時時代の初期には用途に
よって大倉邸(地図)と小町邸(地図)を使い分けていたらしい。 当サイト内の宝戒寺についての記述(ただし元弘三年(1333)の幕府滅亡に関する記述の一部)はこちらで。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月21日
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吾妻鏡
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幕府の南面(公邸部分)で和歌の御会を催し、東重胤和田朝盛らが祇候した。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御持仏堂で聖徳太子の御影(南無仏)を供養する法事を催した。導師は眞智房法橋隆宣、これは将軍家の以前からの宿願である。
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   ※南無仏: 聖徳太子は(満)二歳の時に東を向いて合掌し「南無仏」と唱えた。その際に掌から仏舎利が現れた
との伝承に基づく信仰。上半身裸の幼い太子立像を祀る。wikiによる画像紹介を参考に。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は奥州十二年合戦の絵を京都から取り寄せ、今日これを御覧になった。 中原仲業が仰せを承って詞書(言葉書き)を読み上げた。
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   ※奥州合戦絵巻: 源頼義の陸奥守赴任(1051)から阿部一族の滅亡(1062)まで描いた絵巻物で、意外だが
「古今著聞集」でも「源頼義朝臣が安倍貞任や宗任らと戦い陸奥国で十二年の春秋を送った」と書いているように、後三年の役は含んでいない。
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平安時代に書かれた巻物(後白河法皇が作成を命じた?)は現存せず、鎌倉時代後期の写本が早稲田大学図書館のWeb資料で閲覧出来る。
概略の内容は当サイトの 陸奥話記から見た前九年の役も参照を。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月24日
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吾妻鏡
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駿河国建穂寺の鎮守馬鳴大明神が去る21日卯刻(6時前後)に子供の言葉を介して酉の歳(建暦三年・1213)に合戦が起きると託宣し神主の長がその旨を書状で報告、相模守北條義時が今日これを披露した。
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大江廣元「占いを行うべきか、否か」を申し上げたところ将軍家(実朝)は「去る21日の明け方に合戦の夢を見て同じお告げを受けた。虚夢ではないから卜占の必要はない。」と答え、剣を馬鳴大明神に奉納した。
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   ※建穂寺: 元々は神仏混淆、現在は山裾に500mほど離れて建穂寺
(真言宗)と建穂神社に分かれている。両方とも無住で地元の住民組合が管理している。神社の住所は静岡市葵区建穂271(地図)で建穂寺は建穂2-12-6、安倍川と藁科川の合流点近くに位置する。現在は公民館裏の小さな観音堂のみ、元々は神社の位置に同居していたらしい。
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観音堂は30体ほどの仏像(鎌倉~室町時代)を収蔵しており、相当の大寺だったと想像できる。
テーマから外れるため掲載は省くが、見応えがあるから近くを通ったら拝観を。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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11月25日
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吾妻鏡
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(9月25日に続いて)将軍家(実朝)が御持仏堂に於いて守り本尊である五字文殊像を供養する法事を催した。
導師は荘厳坊退耕行勇が務めた。
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   ※史料では: 九条兼実の孫道家の日記・玉蘂には「この日、土御門天皇が皇太弟順徳に譲位された」とある。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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12月1日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)には日蝕が見えなかった。法橋隆宣が日食に対処する祈祷を行った。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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12月5日
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吾妻鏡
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朝廷の使者が鎌倉に到着、先月25日に突然の御譲位があったと報告した。これは後朱雀院の例に同じである。
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   ※後朱雀院の例: 第68代後一条天皇が弟の第69代後朱雀天皇に譲位した例を差す。
今回の第83代土御門天皇も弟の第84代順徳天皇に譲位している。
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西暦1210年
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83代 土御門
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承元四年
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12月15日
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吾妻鏡
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戌亥の両時(20時~22時)に月蝕が明確に確認できた。対応する祈祷の担当は摩尼房阿闍梨。
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83代 土御門
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承元四年
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12月21日
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吾妻鏡
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積雪が一尺。今日伊賀次郎光宗を経由して民部大夫中原仲業が問註所寄人を兼任するよう指示が下された。中原親能入道の家臣であり、右筆の業務に長けているための措置である。
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   ※問註所寄人: 訴訟を扱う部署、寄人は書類の作成などに任じる関係
から、右筆経験者が多かったらしい。
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右画像は問註所があった鎌倉駅西の今小路の風景。
今小路一帯には罪人が刑場に向った裁許橋や、刑死した罪人の菩提を弔った六地蔵などがある。
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画像をクリック→ 問註所跡碑の拡大画像。
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   ※史料では: 前述した道家の日記・玉蘂には「この日、順徳が太政官庁
で即位した」とある。
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