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承元五年・建暦元年(1211)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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相模守北條義時(満47歳)が将軍家(実朝・満18歳3ヶ月)に椀飯を献じた。御劔役は武蔵守北條時房(満35歳)、遠江大夫将監源親廣が弓箭を携え、結城左衛門尉朝光が御行騰を持ち運んだ。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき): 乗馬の際に着ける袴カバー。 wiki画像を参考に。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月2日
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吾妻鏡
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前大膳大夫大江廣元朝臣が椀飯を献じた。御劔役は源親廣
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月3日
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝政が椀飯を献じた。御劔役は結城左衛門尉朝光が務めた。その後に将軍の御前で酒宴が行われ
延年(wiki)の舞などの歌舞が演じられた。
相模守北條義時が御狩衣を下賜され、その他に武蔵守北條時房らも御引出物を受けた。
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   ※延年の舞: 平安中期に流行した芸能で、下級の僧や稚児が余興や
儀式の際に演じた。曽我物語に拠れば大庭景親の追手に館を焼かれた土肥實平「焼くなら何度でも焼け、源家繁栄の炎ぞ」と延年を舞った事になっている。
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安房に逃れる舟を出す前に館が燃え落ちるのを見ながら舞った土肥實平の延年・焼亡の舞は、能や謡曲では「岩海岸へ下る坂」(現在の「謡い坂」)とされているのだが、実際には山が邪魔して土肥館は見えない。
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右は岩海岸近くの坂道に建つ「謡い坂」の碑。
画像をクリック→ 「真名鶴の岩浦から安房国」へ(別窓)。

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湯河原(旧・土肥郷)の五所神社例大祭の出陣祭では今も演じられている、と思う。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月9日
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吾妻鏡
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御弓始めの儀式を催した。
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  射手   一番 和田平太胤長 vs 市河五郎行重
        二番 海野小太郎幸氏 vs 愛甲三郎季隆
        三番 工藤小次郎行光 vs 藤澤四郎清親
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   ※市河行重: 圓城寺(三井寺)の僧・伊予阿闍梨覚義の子孫。覚義は源頼義の庶子(義家 義光の異母弟)で、
甲斐守に任じた義光の縁故として甲斐国に下り 市河荘に土着、御崎明神(現在の表門神社・同、末尾に記載)の婿となった。
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その正確な年代は不詳だが、大治五年(1130)に 常陸国武田郷 から追放された武田義清清光の親子が市河荘に土着した事と何らかの連携があったと考えられる。
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その後の市河氏は甲斐源氏と協調し、治承四年(1180)8月25日の吾妻鏡には、
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    甲斐国から南下した安田義定工藤景光行光・市河別当行房らが俣野景久と駿河目代の
    橘遠茂の軍勢を波志太山で打ち破った。

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との記録がある。覚義の子または孫が行房、その次男が市河五郎行重らしい。
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また鎌倉時代中期以降に埴科郡船山郷青沼(千曲川西岸・現在の千曲市稲荷山町一帯・地図)を領有した市河氏があり、寛元二年(1244)8月の吾妻鏡が一族内での所領争論を記載している。
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甲斐市河氏との正確な関連は判らないが、物語が進むうちに明らかになる、かも。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月10日
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吾妻鏡
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政所と問注所の吉書始めがあり、二階堂行光三善康信が各々参上して執り行った。今日、橘三蔵人が問注所の事務方に加えられた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の外出初めがあり、北條義時邸に入御された。前大膳大夫大江廣元ら多数が供として従い、太刀持ちには結城朝光が任じた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月16日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が到着。去る五日に将軍家(実朝)は正三位に叙された旨を報告した。
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   ※実朝の官位: 1203年9月に従五位下(満11歳)、1204年1月に従五位上(満11歳)、
1206年2月に従四位下(満13歳)、1207年1月に従四位上(満14歳)、
1208年12月に正四位下(満16歳)、1209年4月に従三位(満16歳)、
1211年1月に正三位(満18歳)、1212年12月に従二位(満19歳)、
1213年2月に正二位(満20歳)、
1218年12月に右大臣に昇任し、翌月27日に死没(享年 満26歳)。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月27日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に大地震。今朝の陽光は影ができないほどに弱く、その色は赤黄色だった。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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1月28日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に到着。去る18日に将軍家(実朝)が美作国権守兼任の宣旨が下された、と。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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閏1月7日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に火災、武蔵守北條時房から南側の人家30軒余が灰塵に帰した。
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   ※時房邸: 承久の乱(1221)で幕府軍を率いて勝利した後の時房は京都に駐在し六波羅探題として治安維持
に尽力している。元仁元年(1224)の義時死没直後には泰時に招かれて鎌倉に戻り初代連署に就任して三代執権となった泰時を補佐し、延応二年(1240)に死去している。
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通説では若宮大路に面した一画(右画像)が時房邸跡と伝わっており、現在は「タリーズコーヒー」に変貌している。
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更に80mほど南の小池小路(閉鎖中)の奥には古井戸と石の層塔が保存されており、時房邸跡とされていた。
        右画像をクリック→ 拡大表示
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まぁタリーズと小池小路の周辺だったと考えればそれ以上の追求は無用で、タリーズに陳列してある素焼きの土器や陶磁器も、特に時房邸跡を証明する遺物ではない。
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時房が鎌倉に戻った後の六波羅探題南方を継承した嫡子の時盛は仁治三年(1242)まで在京し、鎌倉に戻ってからは佐介ヶ谷に屋敷を構えて佐介流北條氏の祖となっている。時盛は屋敷に近い松谷寺に佐介松谷文庫(石碑あり・地図)を創設した、と伝わっている。ひょっとするとこの付近にあった時房本邸を時盛が相続した、のかも知れない。
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ここから500mの至近距離に、私が鎌倉散策の拠点にしているタイムズ駐車場(地図)がある。土日祝日を除いて一日停めても1100円、たぶん鎌倉で最も安い。私はここから折りたたみ自転車で出発するのが習慣で、西側の稲村ヶ崎まで約3km・東側の十二所・明王院まで約4kmだ。
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オレンジ色の自転車で颯爽と走っているジョージ・クルーニーに似た初老(中老?大老?)の男性を見かけたら声を掛けておくれ(石を投げたりしない事)。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは1月の次が閏1月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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閏1月9日
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吾妻鏡
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永福寺の近くから御所の北面に梅の樹一本を移植した。これは北野天満宮(公式サイト)の廟庭にある梅樹の種から育てたもので、濃厚な香りのみならず南側の枝には鶯の巣もあり、将軍家(実朝)が特に気に入っている。
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   ※北野天満宮: ちょうど梅花の季節を迎えている。和歌の名手だった菅原道真と梅の季節が重なって、和歌に
傾倒している実朝の琴線に触れたのだろう。
    東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
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この和歌を元にして本歌取りして暗殺される前に詠んだ実朝の歌が、
    出て去(い)なば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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2月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)と御台所(坊門信子)が安倍泰貞による熒惑星に基づく二人分の祈祷を行なった。
民部大夫中原仲業三浦平六兵衛尉義村がこれを差配した。

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   ※熒惑星: 火星の古名(中国名)。陰陽五行思想(wiki)に基づく祈祷を行っている。
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西暦1211年
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84代 順徳
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承元五年
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2月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の御神楽奉納と神事は通例の通り。右近大夫将監源親廣が奉幣の使者を務めた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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2月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参詣、剣持ちは結城朝光が務めた。疱瘡の跡を憚っていた去る承元二年(1208)以後は今日が始めての将軍家出御である。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の例祭(上巳節句)および一切経の法会は通例通り。ただし将軍家(実朝)の御参宮はなく、前大膳大夫 大江廣元朝臣が奉幣の使者を務めた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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3月9日
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玉蘂
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この日改元あり。承元五年を改め建暦元年とした。現在の帝(84代 順徳)としては最初の改元である。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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3月19日
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吾妻鏡
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京都朝廷からの使者が鎌倉に到着、改元の詔書を届けた。去る九日に承元五年を改めて建暦元年と定めた。
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   ※改元: 前年12月25日に83代土御門天皇が退位し84代順徳天皇践祚した事による。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月2日
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吾妻鏡
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陸奥国長岡郡小林にある新熊野社の堂舎は当時の陸奥守藤原秀衡法師の時代に豊前介實俊が差配して維持管理し、元暦二年(1185)8月には秀衡も郡内の荒野30町を寄進してこれを援助していた。
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文治五年(1189)8月に奥州征伐を行った右大将家(頼朝)も奥州に入御した際に武士による寺社への関与を禁止し、軍功によって新熊野社周辺の支配権を得た畠山重忠もこの禁令の影響を受けた。
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新熊野社住僧の隆慶は、平資幹が地頭を称して神田の年貢を押領したと訴えており、彼を呼び出して審理した。
資幹の主張の「重忠が管理した新熊野社については先例に従って処理したにも拘らず、隆慶が不足を訴えている。
崇敬の気持ちから10町を追加して40町を神田としている。」
との内容は問註所から事実との報告が届いている。
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これにより、訴えがあった神社は豊前介實俊が私的に建立したもので、公認された神田ではないから押領されたとの主張は根拠に欠ける。資幹が10町を追加で寄進したのも合理的であり、40町に関する年貢は免除するが隆慶の訴えは却下する、との将軍直裁が下された。図書允清原清定がこれを差配した。
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   ※新熊野社: 宮城県大崎市古川前田町3-29の熊野神社(地図)が該当する。玉造郡当地の拠点として多賀城
創建以前に名生館官衙があったらしい。重忠が得た葛岡地域(地図)から20km南東に位置する。ただし重忠が領有した葛岡の位置は5km前後の誤差が有り得る、と思う。
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   ※平資幹: 建久四年(1193)5月の曽我兄弟仇討事件直後に八田知家の策略により失脚した多気義幹の跡を
継承した馬場(平)小次郎資幹を差す(同年6月5日・12日・22日を参照)。
これ以後の馬場氏は「常陸大掾氏」として戦国時代末期まで繁栄することになる。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼および神事が催された。将軍家(実朝)は御参宮されず、大江廣元朝臣が奉幣使として神事を執行した。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月13日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が伊豆国に下向した。来る16日に三嶋大社(公式サイト)で神事が行われるためである。
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   ※三嶋大社: 三嶋(現在の三島市)には伊豆国府が置かれていた。大納言藤原為家の後妻・阿仏尼が相続の
訴訟で鎌倉に向かった際に一泊した「十六夜日記」でも知られている。
三嶋大社周辺レポートおよび法華寺と祐泉寺レポートなども閲覧されたし。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月16日
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吾妻鏡
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由比ヶ浜で千番の小笠懸が催された。三嶋大社の祭礼に伴う献納である。和田胤長らが射手を務め、和田義盛が行事を差配した。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月21日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が伊豆国から鎌倉に帰着した。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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4月29日
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吾妻鏡
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未明に将軍家(実朝)が永福寺に渡御された。供として従ったのは相模太郎(北條泰時)殿、その他に範高・内藤馬允知親二階堂行村東重胤町野康俊など、全員が徒歩である。
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昨朝、今年初めてここで郭公(カッコウ)(wiki)の鳴き声を聞いたと報告した者がおり、林のそばで数時間を過ごしたが聞くことは出来ず虚しく引き上げた。今日、この寺の運営については行村が監督せよとの仰せが下された。
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   ※藤原範高: 藤原季範の長男で久寿二年(1155)に熱田大宮司職を
継承した範忠の三男で安芸権守。建保六年(1218)3月に実朝が左大将に任じられた際に聞書(任官叙位の昇進者と理由を記した文書)を書写して実朝に献じている。
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   ※内藤知親: 藤原定家の門弟で実朝近臣。承元三年(1209)7月5日
に実朝の和歌30首を京都の定家に届け、8月13日に実朝宛の口伝書を預かり持ち帰った。承元四年(1210)9月13日には御所での和歌の会にも加わっている。
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右画像は二階堂永福寺の発掘現場入口。正面が鎌倉宮の方向、苑池と遺構は画像右手に広がっている。八幡宮鳥居前からは約1.5km、ここまで来ると観光地の喧騒は全くないが、発掘現場奥の谷津には300所帯ほどの住宅団地がある。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月4日
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吾妻鏡
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町野民部丞康俊(4月29日を参照)と伊賀次郎光宗らが差配し、新しい御所に菖蒲を葺く事の可否を陰陽師らに尋ねさせた。新しい御所でも移転した後ならば問題なし、移転の前なら好ましくない、との返事だった。
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   ※菖蒲を葺く: 「あやめふく」は夏の季語でもある。端午の節句に軒先に菖蒲を差して邪気を払い火災を防ぐ。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月10日
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吾妻鏡
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文治五年に故幕下将軍(頼朝)が奥州征伐に御下向された時、平泉の高屋から没収した 藤原泰衡が父祖代々から受け継いだ重宝は遠征に従軍した当時の御家人に分け与えられた。今でも各々が保存していると聞いた 将軍家(実朝)は和田義盛に命じて閲覧のため提出させた。多くは既に失われていたが、幾分かの品を確認してから持ち主に返却した。その中で葛西兵衛尉清重が提出した縫い目のない帷には特に興味を持たれた。
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   ※平泉の高屋: 文治五年(1189)8月21日に平泉に入った頼朝は翌
22日に焼け残った倉庫(高屋)を葛西清重と小栗重成に調べさせ様々な宝物を確認している。清重は望み通りの象牙の笛と「不縫帷」を与えられた。
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平泉の高屋とは現在のJR平泉駅から毛越寺に至る当時のメインストリート(右画像を参照)。
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   ※不縫帷: 帷子(かたびら)など衣類だとすれば重宝とは言えない。
縫い合わせていない幅広の幕(タペストリー状)と考えれば辻褄が合う。幅広の布を作れる巨大な織り機を使ったのだろう。  右画像は平泉の倉町遺跡周辺地図。
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   柳の御所 観自在王院 毛越寺
も参照されたし。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月15日
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吾妻鏡
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未の刻(14時前後)に地震。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月18日
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吾妻鏡
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御台所(坊門信子)が岩殿観音堂に御参詣。武蔵守北條時房が供として従った。
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  ※岩殿観音堂:大倉御所から約4km南東(地図)の海雲山岩殿寺(公式サイト)。開山は行基と伝わり、吾妻鏡の
文治三年(1187)2月23日には大姫が参詣したとの記載がある。すぐ近くには大切岸と日蓮法難で知られた猿畠山法性寺があるが、ここが開くのは70年も先の話になる。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月19日
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吾妻鏡
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小笠原御牧の管理担当者と、奉行人である三浦平六兵衛尉義村の代官が喧嘩した事件について、今日決裁が下された。このように現地で働く職員に対し奉行を称して横柄な態度を執れば得てして騒乱になる。 公平な対処を忘れた責任により義村の奉行職を停止するよう佐原太郎兵衛尉経連に指示が与えられた。
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   ※小笠原御牧: 甲斐源氏小笠原長清が父の加賀美遠光から継承した小笠原郷は現在の南アルプス市小笠原
小学校(地図)周辺が中心だが、御牧があったのは更に北部の明野町小笠原地区(地図)。
詳細は小笠原長清の史蹟を参照されたし。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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5月20日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で祭礼と神事あり。右近大夫将監源親廣が将軍家(実朝)の使者として奉幣を行った。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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申刻(16時前後)、将軍家(実朝)が突然病気になり、頗る危険な状態である。このため戌刻(8時前後)に御所の南庭で安倍泰貞による属星祭を催した。武蔵守北條時房が御撫物と将軍の御衣を持ち祈祷の場に加わった。
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   ※安倍泰貞: 安倍晴明から五代目の嫡流・泰親の孫近辺じゃないかと思うが、安倍氏系図には見当たらない。
陰陽師としての安倍氏は朝廷での権益を巡って争った賀茂氏との暗闘に加えて一族内部でも抗争を繰り返して衰退し、その過程で鎌倉に下った者が多かった。
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   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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   ※撫物: 災いや穢れを移して負わせる紙人形や代用する小袖など。それで体を撫でて水に流すなど処分する。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月3日
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吾妻鏡
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寅刻(明け方4時前後)に将軍の病状が回復、確かな夢のお告げがあったらしい。これは偏に昨夜の祈祷が効果を挙げたと思われ、宮内兵衛尉公氏を使者として御馬一疋を安倍泰貞に贈った。
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   ※宮内公氏: 実朝側近として吾妻鏡に数回載っている。建保七年(1219)1月27日の実朝暗殺の朝が有名。
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(右大臣拝賀に謝する)出発の直前に大江廣元が午前に進んで言上した。「私は成人してから涙を流した事がありませんが(不吉な前兆が重なった)今は落涙を抑えられません。東大寺落慶供養の日に右大将軍(頼朝)の前例に従い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)を着けますように」
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仲章朝臣が「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」と言って腹巻の件は中止となった。
また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き、記念にと称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。   ...出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
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実朝殺害事件は脚色が多いし実朝の和歌は本歌取(wiki)としても駄作だと思うが、側近公氏のサブ解説として載せておいた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月7日
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吾妻鏡
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越後国三味庄を管理する領家の役人が訴訟のため鎌倉に入り大倉近くの民家に宿泊したところ、今朝盗人に殺害された。夜が明けてから左衛門尉和田義盛がこれを調査し、下手人として三味庄地頭 の代官を捕縛した。
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地頭の親類らが縁者の女房(女官)を介して内々に尼御台所(政子)に(赦免または穏便な措置を)訴えたため、取り次いだ女房駿河局は「義盛の沙汰に齟齬はない」との厳しい叱責を受けた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月14日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に御参り。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月18日
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吾妻鏡
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御持仏堂に於いて御台所(坊門信子)の御本尊(如意輪観音)を供養する法事を催した。導師は荘厳房行勇である。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月21日
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吾妻鏡
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三味庄の管理人を殺害した男が判明し、召し捕って拘禁した。故野三刑部丞(小野成綱)の従者で、主人が他界してから各地を転々としていたらしい。これにより捕縛していた地頭代は釈放となり、元の職場に戻された。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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6月26日
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吾妻鏡
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東海道に新しい宿驛を設ける件については決裁を重ねているにも拘らず未だに実施されていないのが将軍家の耳に届き、今日重ねて東海道の守護・地頭に命令が下された。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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酉刻(18時前後)に大地震。牛馬が驚いて騒ぎ立てた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が貞観政要を読み合せをされた。
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   ※貞観政要: 唐代に編纂された太宗(唐朝第二代皇帝(在位:626~649年)、名君・能筆家として名高い)の
言行録(全10巻40篇)。貞観は太宗の在位の年号、政要は政治の要諦を意味する。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月8日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)ならびに御台所(坊門信子)が相模国の日向薬師堂(現在の宝城坊 日向薬師・公式サイト)に御参りされた。武州守北條時房・ 遠江守源親廣結城左衛門尉朝光三浦兵衛尉義村葛西兵衛尉清重安達右衛門尉景盛佐貫右衛門尉広綱・佐原兵衛尉・和田四郎義直ら10人が供奉し、其々が郎従数十騎を率いた。
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   ※日向薬師: 行基が開いたと伝わる古刹(実際には平安時代中期らしい)。本堂や宝殿には平安時代の造像と
推定される薬師三尊像(950年前後の作か)をはじめ26点以上の仏像を安置している。詳細画像はこちら(公式サイト)から。建久五年(1194)8月8日の吾妻鏡に頼朝が多数の御家人を従えて参拝した記録がある。
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   ※佐原兵衛尉: 佐原義連の長男景連が兵衛尉に任じている。たぶん彼だろう。
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   ※和田義直: 和田義盛の四男で建暦三年(1213)5月3日の和田合戦で討死、吾妻鏡は次の様に書いている。
酉刻(18時前後)に和田四郎左衛門尉義直(37歳)が伊具馬太郎盛重に討ち取られた。
父の義盛(67歳)は深く嘆き、「鍾愛する義直のために禄を願ったのに、今となっては合戦を続ける意欲も失せた」と声を挙げて哭き、遂に江戸左衛門尉義範の郎従に討ち取られた。
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   ※鍾愛: 「寵愛」は妃などを可愛がる場合、「鍾愛」は子や孫を可愛がる場合が多い。義盛が上総国司を願った
のは義直のためを思っての希望だったらしい。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月9日
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吾妻鏡
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秉燭(灯をともす頃)に両御方(政子と信子)が日向薬師から鎌倉に還御された。
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   ※行程: 大倉御所~日向薬師は片道約38km、一泊二日の行程だった。建久五年(1194)の頼朝主従は早朝
4時前後に出発し、帰路に大江廣元領の下古沢(厚木市西部)で食事休憩、その晩に鎌倉に戻った。
これはかなりの強行軍だったと思う。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月11日
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吾妻鏡
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宗掃部允(惟宗)孝尚が将軍家(実朝)の怒りに触れて武蔵守北條時房に身柄を預けられた。
下野国中泉庄に届け出ていない隠し田があるとの訴えが本所から出されており、正しく措置せよとの命令を下したにも拘らず未だに放置しているのが理由である。
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   ※惟宗孝尚: 政所勤務の能吏で通名は筑前三郎。頼朝に近侍し三代
執権泰時の時代まで文官を続けた。
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   ※中泉庄: 現在の栃木県下都賀郡壬生町中泉(地図)。
文治元年(1185)10月9日に義経追討を命じられた土佐房昌俊が下野国に残す老母と幼子への配慮を願い、頼朝が中泉庄を与えたとの記録がある。
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栃木市から下都賀郡を経て陸奥国白河へは奥州に向う官道が通っていた。中泉の3kmほど北には義経(元服直後の牛若丸)を奥州平泉へ導いた 「金売り吉次」の墓と伝わる五輪塔が残っている。吉次は半ば伝説上の人物だから疑問符を付けざるを得ないけれど、この近くを奥州街道が通っていた事実は弁えておきたい。下野国庁と薬師寺跡も参考に。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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7月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が壽福寺(サイト内リンク・別窓)に御参りし、御仏事が終ってから方丈(住職(退耕行勇)の私室)で仏教の談義を交わした。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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8月8日
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吾妻鏡
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大膳大夫大江廣元が体調を崩し、病状がかなり重いため祈祷を行った。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を催した。将軍家(実朝)はやや体調を崩しているため出御せず、奉幣の使者は相模守 北條義時が務めた。続いて将軍家は廻廊に出御し簾中で内々の舞楽観覧を行った。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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8月16日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて八幡宮での祭礼と神事が催され)相模守北條義時が参宮した。将軍家は(流鏑馬を)御見物のため馬場の桟敷に出御された。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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8月27日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が病気(6月2日に発病)から回復して初めて鶴岡八幡宮に参詣された。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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9月12日
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吾妻鏡
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今暁、内藤右馬允盛時が使者として京都に向かった。これは先月25日に中納言坊門忠信卿が遊放(昇叙の要求)に関して勅勘を受けたとの噂が届いたためである。中将一条信能朝臣も同じ理由で勅勘を受けた、とのこと。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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9月15日
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吾妻鏡
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金吾将軍(頼家)の若君(善哉公・満11歳)が定暁僧都(八幡宮寺三代別当)の房で剃髪し法名の公暁を名乗った。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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9月22日
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吾妻鏡
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禅師公(公暁)が登壇受戒のため定暁僧都(八幡宮寺三代別当)と共に上洛した。将軍家(実朝)の猶子になっている関係から、侍五人を付き添いとして同行させた。
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   ※登壇受戒: 仏の教えに従う証として戒壇に登り、戒律を守る誓約を
行なうこと。奈良時代末期の仏教社会は腐敗して僧侶は戒律を守らず、更に僧は課税されないため勝手に出家する庶民が増えて収拾がつかない状態になった。
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宗教法人の事業所得が減免の恩恵を得る現代と同じ。日本最大の宗教団体「創価学会」は課税を逃れるばかりか政党助成金まで懐に入れている。自民党に選挙協力すれば既得権が保証される、腐敗と堕落の温床、だね。
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朝廷は「受戒」の儀式を行える僧として鑑真(wiki)を招き東大寺(公式サイト)と下野薬師寺(廃寺)と筑紫観世音寺(wiki)に三戒壇を設置した。
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更に天長五年(828)には延暦寺にも戒壇院が建立されて独自に受戒が行えるようになると三戒壇の権威は揺らぎ始める。仏教の一部は再び権力と腐敗と欲望の世界に染まり...
鑑真から1300年を経て宗教者を装った創価学会が政治に関与する現代に至る。
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「平和」を党是とする公明党が集団的自衛権の行使を認め、国外での武器使用を(要するに殺傷を)容認するとは恐れ入った背信行為だ。自衛隊員が戦死したら、誰が責任を取るのだろう。
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右画像は下野薬師寺資料館の戒壇院レプリカ(画像をクリック→ 拡大表示)。
更に詳細は下野の史蹟 薬師寺跡と龍興寺で。
比叡山の戒壇院(公暁が受戒した建物ではなく江戸時代初期の建立)はこちら(公式サイト)。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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10月13日
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吾妻鏡
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鴨社の氏人(同族の人物)である菊大夫長明入道・法名蓮胤(鴨長明・wiki)、雅経朝臣(飛鳥井雅経)の仲介で今回下向し、将軍家(実朝)と再三の面談に及んだ。今日は幕下将軍(頼朝)の月違い命日に当たるため彼の法華堂で読経法会を行った際には懐旧の涙を流し、堂の柱に和歌一首を記した。
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          草も木も なひきし秋の 霜消て むなしき苔を はらふ山風
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   ※鴨社: 賀茂川上流にあるのが上社(賀茂社または上賀茂社、正式に
は賀茂別雷神社)。この項の鴨社は下流の下社(鴨社または下鴨社、正式には賀茂御祖神社)を差す。共に賀茂氏の氏神を祀る神社が原点で、両社の総称は賀茂神社(賀茂社)。
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   ※再三の面談: 鴨長明は元久元年(1204)に欠員が生じた賀茂御祖
神社の摂社河合社(公式サイト)の禰宜職を望んだが賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男祐頼を強く推したため実現せず、神職としての将来が失われ後鳥羽上皇 のとりなしにも関わらず出家・隠棲の道を選んだ。
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それから7年後の鎌倉下向は実朝の和歌の師として仕えるよう飛鳥井雅経が仲介・推挙したのだが、なぜか実朝がOKしなかったらしい。
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右画像は現在の河合神社に再現された鴨長明の「方丈」(十尺四方の庵)のレプリカ。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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10月19日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に永福寺に於いて曼陀羅を供えて宋本一切経五千余巻を読誦する法会を催した。
導師は大阿闍梨葉上房律師栄西、供僧は30人、題名僧(読経する僧)は100人である。将軍家(実朝)は牛車で出御され、二階堂行村が奉行に任じた。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の聖典で、
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)にはいずれも3月3日(上巳節句)に開催している。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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10月20日
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吾妻鏡
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平盛時が京都から帰参した。坊門黄門(坊門忠信)の件は既に勅許を得ている。先月8日の除目によれば、勅勘を受けた身(9月12日に記載)でありながら左衛門督に任じられている。
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また今月5日申刻(16時前後)に暴風でも地震でもないのに内裏瀧口の詰所建物が倒壊し備えていた矢が全て破損、中にいた雑仕女一人が揺れを感じて飛び出したため命は全うしたが右手を負傷した。貫首(部署の筆頭・この場合は蔵人頭)が陰陽寮に連絡して祈祷を行なった。
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   ※内裏瀧口: 御所の警護などに任じる滝口武者の詰所。画像などは承元四年(1210)5月11日に記載あり。
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   ※陰陽寮: 八省の一つ中務省に属し、占い・天文・時・暦の編纂を担当する。幹部職として陰陽頭、実務を担当
する陰陽師、その他の事務職が置かれていた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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10月22日
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吾妻鏡
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伊賀守朝光が永福寺の近くに一軒の堂を建て、今日落成供養を行なった。導師は葉上房律師栄西で供僧は8人、相模守北條義時ならびに後室の 伊賀の方北條泰時らが共に参席した。
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   ※明月記には: 10月23日に朱雀門が倒壊したとの記事あり。末世なのか魔物の祟りなのか、と。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月1日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に太白星(金星)が房上將星(さそり座ベータ星)の領域を距離六寸程度まで犯したと、天文を司る陰陽師が報告した。
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   ※天変地異: 翌々日に永福寺の惣門と塔が一棟焼失する。陰陽師はこの予兆だと考えている。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月2日
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吾妻鏡
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小川法印忠快が上洛の途に着いた。民部丞町野康俊が馬と宿驛などの手配や雑務を担当した。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月3日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に永福寺の惣門および塔婆一基(前の武蔵守源(平賀)義信の建立)が焼失、類焼はない。
戌刻(20時前後)、天変(一昨日の房上將星の件)に対応し、御所で泰山府君と歳星(木星)の祈祷を行なった。奉行は加藤判官光員、図書允清原清定がこの詳細を差配した。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月4日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に黄門(中納言)坊門忠信の使者が鎌倉に到着した。これは勅勘を受けた際に見舞いの使者を頂いた(9月12日の条)、すぐに御礼するべきなだったにも拘らず後鳥羽上皇の熊野行幸(先月22日に還御)などの仕事が続いて遅れた事を陳謝する書状である。
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その夜に上皇が朱雀門の大工国永と配下の職人を検非違使に派遣し、取り敢えず屋根の仮復旧を終わらせよとの勅定が下された。書状を三善康信が読み上げ、その内容について将軍家(実朝)からの質問があった。康信がこれに答えて次のように説明した。
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この門は末世である今の時代に相応しくありません。藤原通憲(信西)の時代(平治の乱・1159年)には無実なのに斬罪が行われ、治承元年(1177)4月28日の大極殿と朱雀門焼亡を招きました。
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建久九年(1198)に朱雀門は再建しましたが造営を担当した一条能保と息子の高能が相次いで死没し、元久三年(1206)に扁額を揮毫した後京極摂政殿(九条兼実の次男良経)も3月7日に頓死しました。
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今回は上棟後に父(坊門信清)の病気が突然回復して内大臣に昇叙し、今回の還御では御輿が建礼門に入る前に朱雀門が倒壊しました。魏の文帝が臨幸した日にも離宮の南門が倒壊した、と伝わっているそうです。
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   ※忠信の書状: 内容は明月記の10月22日条と内容が全く同じ。つまり、後世吾妻鏡を編纂する際に藤原定家
が書いた明月記の内容を坊門忠信の書状に置き換えて記載したらしい。加えて三善康信の子孫が吾妻鏡の編纂に関わっていた可能性から考えると、康信の事蹟を高める意図もあったか。
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なお、ここには記載がないが、朱雀門は承元二年(1208)10月21日にも焼け落ちている。当日の記事を参照されたし。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月16日
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吾妻鏡
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尼御台所政子の御願として金銅三尺の薬師三尊を造像し開眼供養を行った。導師は圓如房阿闍梨遍曜、この本尊は鶴岡八幡宮の神宮寺に安置された。
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   ※神宮寺: 承元二年(1208)7月5日に上棟式を行っている。中尊の薬師如来坐像は現在鎌倉国宝館に収蔵
されている。画像は当日の条で。坐像は台座を含み高さ54cm、本体は尺5寸(約45cmか)、仏像は立ち上がった状態での身長(この場合は三尺)を表示する。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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11月20日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が去る7月4日に始めた貞観政要の読み合せが今日その一篇を終えた。
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   ※貞観政要: 唐代に編纂された太宗(唐朝第二代皇帝(在位:626~649年)、名君・能筆家として名高い)の
言行録(全10巻40篇)。貞観は太宗の在位の年号、政要は政治の要諦を意味する。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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宗掃部允孝尚が将軍家(実朝)の怒りを受けた件が今日許しを受けた。これは下野国中泉庄に穏田があるとの訴えを受け、調査と整理を命じられたにも関わらず怠っていたのが原因なのだが中原仲業が命令を受けて調べても隠田の事実はなかった。結果として孝尚に罪はなく、整理が遅れた怠慢に関しての注意を受けた。
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将軍家は穏田が事実なら重い処分を課そうと考えられていたが、本所の訴えが事実ではなかったのは孝尚にとっての幸運だった。今後は何事についても慎み深く行動するよう、大江廣元を介して注意が与えられた。
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   ※訴えの詳細: 中和泉庄の場所と訴えの詳細は7月11日を参照されたし。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月10日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)から武名を残している和漢の武将について質問があり源仲章朝臣がこれを書き出して上覧に供した。
今日、三善康信大江廣元が御前でこれを読み上げ、将軍家が疑問点を尋ねた。問答は再三繰り返され、将軍家は感銘を受けられた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月13日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が故・右大将(頼朝)の法華堂に御参りし、恒例の御仏事(月違い命日)を催した。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月17日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が支配している地域の神社仏閣を興隆させる手法を検討した結果、将軍家(実朝)に提議したい件があり、日向介(詳細は不明)がこれを差配した。
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   浅学のため、この条の内容は理解できない。「且有被申入之旨。日向介奉行之云々」とは何か?
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月18日
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吾妻鏡
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(実朝の)御持仏堂で観音経を読み合わせる法会を開催。隆宣法橋が作法を進めた後に管弦奉納も行われた。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月20日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が上総国司への推挙を望んだ件は既に諦めたため申請状を変換して頂きたい旨が子息の四郎兵衛尉義直(義盛の四男で朝比奈義秀の次弟)から大江廣元に伝えられた。
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これは過日に将軍家(実朝)の御前に提出した申請状であり、撤回は問題になり兼ねないと知りながら、将軍家に上申したもので、案の定「暫く待つようにと命じたにも拘らず撤回を申し出るとは、私の意思を軽んじるのか」との勘気を受ける結果となった。
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   ※暫く待つ: 義盛が内々に希望を申し出た日付は判らないが、承元三年(1209)5月12日に実朝は母の政子
にその件を相談して否定的な意見を受けている。
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故将軍(頼朝)の時代に「侍の受領は禁止すべき」との沙汰があった。ただし、その沙汰を知った上で新しい例を設ける考えならば女が口を出す限りではない。
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義盛が正式に款状(上総国司に任じる希望)を提出したのは承元三年(1209)5月23日で、実朝から「暫く待て」と伝えられたのが同年11月27日。最初に希望を申し出てから2年半、「暫く待て」と言われてから一年以上が過ぎている。要するに実朝には政子の意向に逆らう意思を持たず、更に考えれば政子と義時が意図して義盛を追い詰めたとも言えるだろう。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が勝長寿院と永福寺に御参詣された。こ歳末の恒例行事である。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月25日
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吾妻鏡
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御持仏堂に於いて恒例の文殊供養を催した。導師は葉上房律師栄西大江廣元が布施を差配した。
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   ※文殊供養: 前年の9月25日に(たぶん最初の)供養法会を催している。五十度行う立願をした、と。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月27日
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吾妻鏡
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年が明けたら駿河・武蔵・越後の諸国の田文を整備するよう二階堂行光と図書允 清原清定に命じた。
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   ※田文: (たぶみ)国内の国衙領や荘園別に名称・面積・所有関係などを記載した文書。別名を田数帳・図田帳。
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西暦1211年
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84代 順徳
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建暦元年
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12月28日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は来年が太一定分の厄年に当たるため、今日祈祷を催した。葉上房律師栄西定豪 法橋(勝長寿院別当)、隆宣法橋(日光別当真智房)らがこれに任じ、併せて(陰陽師の)安倍親職と同・泰貞が天冑地府祭の祈祷を行った。差配は武蔵守北條時房
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   ※太一定分: 数え年3歳・9歳・15歳・21歳・27歳の厄年。実朝は来年が21歳にあたる。
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   ※天冑地府祭: 陰陽道が国家の大事などの際に行う重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君・天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
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西暦1211年
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84代 順徳
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