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建暦二年(1212)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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相模守北條義時(満48歳)が将軍家(実朝)・満19歳3ヶ月)に椀飯を献じた。御劔役は武蔵守北條時房、弓箭の携帯は遠江守源親廣、御行騰と沓は賀茂冠者が携えた。引き出物の馬5疋は通常通り。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月2日
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吾妻鏡
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前大膳大夫大江廣元が将軍家(実朝)に椀飯を献じた。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月3日
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝政が将軍家(実朝)に椀飯を献じた。御劔役は結城左衛門尉朝光.
西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月10日
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吾妻鏡
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御所で心経会を催した。
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   ※心経会: 禍を防ぎ福を招くため般若心経を読み講義する法会。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月11日
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吾妻鏡
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御弓始めを催した。
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    射手
      一番 小国源兵衛三郎   工藤小次郎
      二番 海野小太郎       藤澤四郎
      三番 佐原又太郎兵衛尉   市河五郎(行重)
      四番 愛甲三郎         佐々木小三郎(佐々木盛綱の三男盛季)
      五番 和田平太         佐貫五郎(佐貫広綱の次弟)
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以上十人の中から、まず無双の精兵として名高い小国源兵衛三郎頼継を呼んだ。弓を携帯していないため鎮西(九州)などから献上された荒木弓を与えたところ、五度射た全てで弦が切れた。
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射芸もまた見事で、養由に比べても不思議ではない。将軍家(実朝)は感動の余りその場で越前国稲津保の地頭職を頼継に与えた。御下文の内容は、弦に用いる麻を作るために充当する所領である、と。
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この頼継は丹後守源頼行(頼政の弟)の孫にあたる桃園兵衛大夫宗頼の息子である。
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   ※荒木弓: 梓(あずさ)や檀(まゆみ)の丸木を使った強弓。弦の破断は弓の強さに弦が耐えられない意味か。
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   ※養由: 中国春秋時代(前8~前5世紀)の弓の名人。誰が射ても矢を掴むほど敏捷な猿が、養由が弓に手を
伸ばしただけで樹にしがみ付き泣き騒いだという。白髪三千丈の国だから割り引いて考えよう。
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   ※桃園宗頼: 源頼行は頼政の弟で養子でもある。この前後の系図は錯綜しているため信頼性が乏しい。
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   ※市河行重: 圓城寺(三井寺)の僧・伊予阿闍梨覚義の子孫。覚義は源頼義の庶子(義家 義光の異母弟)で、
甲斐守に任じた義光の縁故として甲斐に下り市河荘に土着、御崎明神(現在の表門神社、市河荘の末尾に記載)の婿となった。
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その正確な年代は不詳だが、大治五年(1130)に常陸国武田郷から追放された武田義清清光の親子が市河荘に土着した事と何らかの連携があったと考えられる。
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その後の市河氏は甲斐源氏と協調し、治承四年(1180)8月25日の吾妻鏡には「甲斐国から南下した安田義定工藤景光行光・市河別当行房らが俣野景久と駿河目代橘遠茂の軍勢を波志太山で打ち破った」との記録がある。覚義の子または孫が行房、その次男が市河五郎行重らしい。
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また鎌倉時代中期以降に埴科郡船山郷青沼(千曲川西岸・現在の千曲市稲荷山町一帯・地図)を領有した市河氏があり、寛元二年(1244)8月の吾妻鏡が一族内での所領争論を記載している。甲斐市河氏との正確な関連は判らないが、物語が進むうちに明らかになる、かも。
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   ※稲津保: 当時の国衙領で、現在の福井市稲津町(地図)。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月19日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝が鶴岡八幡宮に御参り。相模守北條義時・前大膳大夫大江廣元・安芸権守(藤原)範高・ 相模権守経定(素性不明) ・美作蔵人朝親民部丞町野康俊和田左衛門尉義盛和田新左衛門尉常盛小山左衛門尉朝政結城七郎左衛門尉朝光三浦兵衛尉義村東平太重胤葛西兵衛尉清重が供として従った。
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将軍家はまず大須賀四郎胤信を召して御調度(弓箭)を持つように命じたところ、胤信はこれを固辞した。
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右大将家(頼朝)の時代には、20本の矢で20人の敵を射取る腕を持つ者が務めるよう定められたからこそ、この任に当たる武士は面目を施した。つまらぬ役と考えるとは我侭に尽きる、出仕停止を申し付ける。
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将軍家はそのように怒り、和田常盛にこの役を務めさせた。
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   ※藤原範高: 熱田神宮大宮司の藤原季範(娘の一人が源義朝に嫁して頼朝を産んだ)の次男が季範の死没に
伴って大宮司職を継いだ範雅、その息子が範高。鎌倉御家人となった経緯は不明だが、範雅の次の大宮司職は季範の長男(範雅の兄)が継いでいる。この一族もまた、内紛が絶えなかった。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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1月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)二所詣のための御精進始めである。(陰陽師の)安倍親職が吉日を選んだ。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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明け方に将軍家(実朝)は和田新兵衛尉朝盛を御使いとし、梅花の一枝を塩谷兵衛尉朝業に届けさせた。
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    送り主の名を言わず、「誰に見せようか」とだけ伝えて返事を聞かずに帰参せよと。
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朝盛はその言葉に従い走って戻ってきた。朝業からはすぐに和歌一首一首が届けられた。
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    うれしさも にほひも袖に あまりけり わかためをれる むめのはつ花
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月3日
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吾妻鏡
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辰刻(8時前後)に将軍家(実朝)と尼御台所(政子)が二所詣に出発された。相模守北條義時・武蔵守北條時房・修理亮北條泰時らが供として従った。
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   ※家族旅行(笑): 政子・義時・時房の三姉弟と孫の泰時、実朝も政子の息子だからね。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月8日
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吾妻鏡
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将軍家の御一行が二所詣から鎌倉に帰着された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月14日
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吾妻鏡
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武蔵国の田文調査について時房朝臣が差配し郷々に各々郷司職を補任した。ここで匠作(北條泰時)が自分の考えを述べようとしたが、将軍家が命じた「入道 武蔵守義信が国司だった時の例に倣って沙汰せよ」との言葉に従うと定めた。泰時からは「納得し兼ねる」との意見が出された。
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   ※田文: (たぶみ)は国衙領や荘園別に名称・面積・所有関係などを記載した文書で別名を田数帳・図田帳。
昨年12月27日に「年が明けたら駿河・武蔵・越後の諸国の田文を整備するよう二階堂行光 と図書允 清原清定に命じた。 」との記載がある。
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   ※匠作: 修理職・木工寮の唐名。内裏の修理造営を掌る職種で、この場合はもちろん泰時の名誉職。
大夫・亮・進(大と少)・属(大と少)がある。泰時は寿永二年(1183)生れだから間もなく満30歳、吾妻鏡は折に触れて彼の才能を賞賛しているが、個人的には只の凡才だと考える。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月19日
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吾妻鏡
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京都大番役を過怠している国々について将軍家(実朝)からの下問が下されていた。今日それに関する沙汰があり、今後は理由なしに一ヶ月参加しなかったら二ヶ月の勤務を加算する(計三ヶ月)との命令が諸国の守護人に下された。和田義盛三浦義村平盛時がこれを差配する。
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   ※大番役: 京都大番役は朝廷や摂関家を警備する義務(経費は自己負担)を地方の武士に課したシステム。
平安時代の三年勤務は頼朝の時代に半年間、鎌倉時代には三ヶ月に短縮された。
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不在による相続などの争乱や惣領権の収奪(例えば伊東祐親工藤祐経の相続争いが曽我の仇討を招いた、など)があって武士の負担が大きかったデメリットの反面、朝廷や貴族に仕える事によって官位を得られたり支配権の保証を得たり、都の文化を吸収できるなどの利点もあった。
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鎌倉大番役は京都を鎌倉に置き換えたもので「御恩と奉公」の奉公に含まれる役務。守護が負う権限と義務であり、後に御成敗式目(wiki)で明文化された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月19日
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吾妻鏡
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最近は南都(奈良興福寺)と北嶺(比叡山延暦寺)で騒動が勃発し、先月22日以後は延暦寺の衆徒が三井寺を焼き払うとの風聞が流れている。
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27日夜の雷鳴の際には奈良の衆徒が蓮花王院(三十三間堂・公式サイト)に押し入って警備の兵士を縛り、宝蔵を破って銀の薬師像一体と御剣20振を盗み逃げ去った。今月4日になって銀を売りに現れて露見し、その使者が捕縛されたために衆徒の蜂起を引き起こした。
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   ※蓮花王院: 創建と詳細は公式サイトを読むとして...建長元年(1249)の
火災で堂塔伽藍の大部分が焼失してしまう。
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文永三年(1266)に本堂は再建されるが、現存する1001体の仏像のうち火事から救い出された平安時代の仏像は124体、残りは建長三年から造像し始めたもの。
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しかし奈良から京都まで盗みに来るとは、今度奈良に行ったら興福寺の坊主に文句言ってやらなきゃ(笑)。
でも本当に興福寺か? 延暦寺の間違いではないのか?
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  右画像は仏像群の一部(クリック→ 巾730ピクセルの拡大画像へ)
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   ※編纂ミス: この記事は吾妻鏡の建暦元年(1211)3月9日として記載された条をこの日付に訂正し移動した。
また蓮華王院の盗難は「行程紀抄」(1240年前後の編纂と推定される歴史書、著者不明)に同様の記載があり、吾妻鏡はこれを下敷きにしたと考えられる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月23日
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吾妻鏡
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山門(延暦寺)で勃発した騒動について将軍家(実朝)から、京畿の御家人を招集して園城寺(三井寺)を警固せよとの命令が 駿河守中原季時と左衛門尉佐々木廣綱に下され、足立八郎元春(足立遠元の長子)が使者として京都に出発した。
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   ※中原季時: 元久二年(1205)から京都守護として駐在している。佐々木広綱も建仁四年(1204)から在京。
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   ※編纂ミス: この記事は吾妻鏡の建暦元年(1211)3月23日として記載された条をこの日付に訂正し移動した。
「明月記」(藤原定家の日記)に騒動の記載があり、吾妻鏡はこれを下敷きにしたと考えられる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月25日
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吾妻鏡
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(将軍家の)御持仏堂に於いて恒例の文殊供養を催した。導師は隆宣法橋。
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   ※文殊供養: 承元四年(1210)9月25日に(最初の)供養法会を、建暦元年(1211)12月25日に二回目で、
今回で三回目。五十度行う立願をしている。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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2月28日
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吾妻鏡
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相模国の相模河に架かる橋の数ヶ所が朽ちて破損し修理の必要があると三浦義村が報告し、相模守北條義時大江廣元三善康信が対応を協議した。
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この橋は去る建久九年(1198)に稲毛重成が新造し、完成供養の式典に出席した故将軍家(頼朝)が帰路に落馬し程なくして逝去された。重成法師にもまた、不幸が訪れている。いずれも縁起が良くない事件だし、今更修理再建しなくても特に問題ないだろう、と意見が一致した。その旨を上申すると将軍家は以下の命令を下した。
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故将軍家の崩御は武家の棟梁となって20年、官位を極めてからの出来事である。重成法師は自分の不義によって罰を受けた。橋の建立とは何の関係もないから不吉などと一切言ってはならぬ。あの橋があるからニ所詣にも便利だし、庶民の往還にも寄与している。崩壊する前に早く修理せよ。
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   ※相模河の橋: 頼朝が没した時の詳細も相模川の橋脚遺跡も、この日
の記述が唯一の状況証拠なのが面白い。
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もしも関東大震災の液状化現象で橋脚の残骸が現れなかったら、頼朝が事故死した前後の詳細も「歴史の闇」に埋没していたかも知れないね。
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   ※重成の不義: 彼の讒言が元久二年(1205)6月の畠山重忠の滅亡
の発端になった、とされる。実際は北條時政義時の画策なのだが、「重成の不幸」は間違いない。
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右画像は大正十二年(1923)9月1日の関東大震災に伴う液状化現象で浮き上がった際の橋脚遺跡。詳細レポートは画像をクリックして該当ページへ。
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   ※蛇足として: 吾妻鏡の成立は概ね鎌倉時代末期の1300年頃とされる。 承久記(wiki)の慈光寺本の方が
明らかに古く、吾妻鏡が慈光寺本を下書きに利用した可能性も無視できない、と思う。
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慈光寺本は頼朝の死亡事故について「稲毛重成が亡妻を供養するために架けた相模河の橋供養に出席した頼朝は帰り道で水神に魅入られて病を発した」と書いているから、「頼朝死没の経緯」は吾妻鏡に「実朝の橋に関する発言」が載る以前に、知識人の間では共通認識だったことになる。公家の日記などに同様の記載が見付かるかも知れないね。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月1日
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吾妻鏡
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(春を迎えて)季節にあった蹴鞠の会を催したいとの仰せがあり、鎮西の人々まで含めて技術の習熟程度に拘らず選別を行うことになった。武蔵守(北條時房)を奉行として参加者を選抜する。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で一切経供養を催し、将軍家(実朝)が出御された。結城左衛門尉朝光が御剣を持ち和田平太胤長が弓箭を携えた。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)・承元三年(1209)・建暦元年(1211)の3月3日(上巳節句)にも開催しているから、上巳節句通例の法会として完全に定着している。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所などを模した飾り付けで遊び、無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉時代には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月6日
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吾妻鏡
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幕府の蹴鞠始めが行われた。将軍家(実朝)が狩衣で参加し、 武蔵守(北條時房)・匠作(北條泰時)・東重胤和田朝盛北條朝直らも加わった。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月9日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が三浦三崎の御所に渡御された。尼御台所(政子)および御台所(坊門信子)も同行、相模守北條義時・武蔵守(北條時房)・前大膳大夫(大江廣元)・右近将監(源親廣)らも供奉し、鶴岡八幡宮別当(定暁)が稚児を伴い乗船して船中での舞楽を楽しんだ。
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   ※三浦の御所: 生前の頼朝が建てた三ヶ所の別荘、椿の御所(現在の
大椿寺)・桜の御所(現在の本瑞寺)・桃の御所(現在の見桃寺)を差す。交通の便は良くないが、三崎港まで行けば三ヶ所を回っても2.4km、鎌倉将軍が訪れた景観を楽しめる。   画像をクリック→拡大表示。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月10日
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吾妻鏡
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夜になって(将軍家の一行は)三浦から還御された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月16日
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吾妻鏡
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前浜の一帯を(宅地として)御家人等に分け与えた。土屋大学助和田新左衛門尉境平次兵衛尉・波多野次郎(義通の三男波多野忠綱か?)・牧小太郎(駿河牧氏?)・長江四郎(義景の次男明義)・松葉次郎(資宗、実朝の学問所番衆)らが対象で、図書允清原清定がこれを差配した。
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   ※前浜: 現在の一の鳥居(地図)から西側(江ノ島方向)が前浜、東側(逗子方向)が和賀。ちなみに、かつての
一の鳥居の痕跡は150m八幡宮寄りの歩道橋下(地図)にあるのだが、これは後北条氏時代に建てられたもの。鎌倉時代にもこの近くにあったのだろう、とは思うが...これは確認されていない。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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3月20日
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吾妻鏡
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在京の御家人として務めている報奨として、大内惟義村上頼時佐々木廣綱らに各々一村の地頭職を与えた。
大江廣元朝臣がこの差配にあたる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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4月6日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に将軍家(実朝)が病悩。小御所東面の柱の根に花が開いたため、天地災変と鬼気(いずれも陰陽道の祈祷)を行うべきと相模守北條義時が提案し、直ちに鶴岡八幡宮の供僧に命じて大般若経の転読を行った。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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4月8日
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吾妻鏡
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寅刻(16時前後)、御所に於いて安倍親職と泰貞が天地災変と鬼気の祈祷を行った。相模守北條義時が狩衣姿で同席した。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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4月18日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が立願し大倉郷の吉地に寺を建てる運びとなった。今日午刻(正午)に上棟式である。朝廷の恩と父祖の徳に報いるためで、相模守北條義時・武蔵守北條時房・大官令大江廣元が参席し、戌刻(20時前後)に現地で水神と地鎮祭の儀式を行った。橘三蔵人がこれを差配した。
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   ※大倉郷に寺: かつて十二所の明王院(公式サイト)東側にあった大慈寺を差す。
ただし明王院の建立は嘉禎元年(1235)だから、正確に紹介するなら「隆盛していた大慈寺の西側に四代将軍藤原頼経が明王院を建てた」と書く必要がある。
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多くの堂塔が軒を連ねる大寺だったが、室町時代に廃寺となった。明王院の150m東に鎌倉青年団の石碑(地図)、明石橋の南西に墓地の一部らしき痕跡(地図)がある。落慶供養は建暦四年(1214)の7月27日、当時はこの辺まで大倉郷に含まれていたらしい。
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ただし吾妻鏡の寿永元年8月11日には「御台所の安産を祈祷するよう近国の神社に使者を派遣した」との記載があり、その中に三浦十二天(十二所神社・地図)が含まれているから、十二所の地名も相応に古かったと推定できる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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5月7日
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吾妻鏡
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相模次郎朝時が女性問題で(実朝)の怒りを招き、父の北條義時にも義絶され駿河国富士郡に下向して蟄居した。その女は去年京都から下向した佐渡守親康の娘で御台所(坊門信子)の官女である。
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彼女に惹かれた朝時は恋文を送り続けたのだが良い返事が得られなかったため、先日の深夜に彼女の部屋を訪れ誘い出したのが事件の発端である。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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5月27日
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吾妻鏡
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雨が続いて洪水が各地に頻発、河口や湿地の民家が水没している。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月7日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に御所の侍所で宿直の田舎侍の喧嘩があった。斬り殺された者二人、下手人も二人である。
鎌倉中が騒動となり御家人らが駆け集まった。佐々木五郎義清が下手人を捕縛し、和田左衛門尉義盛が数人の部下を率いて犯人に与した者の有無を探索した。
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   ※義盛参入: 武士の起こした事件は侍所別当である義盛の職務範疇になる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月8日
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吾妻鏡
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昨夜の喧嘩は宿直の部屋での寝場所争いが発端で、殺害犯は伊達四郎と萩生右馬允、死者は双方の郎従。
今日伊達は佐渡国へ、萩生は日向国に流罪となった。御所で狼藉を行った罪は重いため早急の処分である。
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   ※伊達四郎: 常陸入道(伊達氏の祖・朝宗)の四男為家。朝宗は既に没し家督は次男の宗村が継承している。
萩生は群馬県吾妻郡・千葉県富津市・山形県飯豊町など数ヶ所あり確定できないが、7月2日に千葉成胤が侍間の建て替えの負担を命じられているため、千葉氏の支配下である富津 (地図)の武士と推察できる。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月15日
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吾妻鏡
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常陸国吉田庄の現地管理人らが荘園領主への年貢納入を妨害している。
その一つは、去る文治二年(1186)閏7月25日付の故右大将家(頼朝)の命令に従い関東の処理範囲に含まれると定め、土地を本所に与える件を大江廣元の奉行として評議し院宣が下された経緯がある。その後には変更されていない筈との上申である。
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この件は地頭に関わる問題ではなく荘園領主から派遣されている管理者による業務妨害なので鎌倉の決裁範囲ではない。その旨を載せた返状を送付した。
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   ※吉田庄: 現在の水戸市街地南東部(地図)。常陸平氏の清幹が那珂郡吉田郷で吉田氏を称したのが最初。
常陸三宮吉田神社(公式サイト)の神領だったらしいが、常陸平氏と神社の関係は良く判らない。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月20日
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吾妻鏡
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将軍家実朝壽福寺に渡御され、方丈(僧正栄西)が相伝の仏舎利三粒を手渡した。
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   ※仏舎利: 新編鎌倉志(水戸光圀の指示で編纂された地誌で貞享二年(1685)刊行)に拠れば、この仏舎利は
実朝の没後に再び寿福寺に納められたらしい。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月22日
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吾妻鏡
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将軍家の御持仏堂で聖徳太子の聖霊会(聖徳太子命日の法要)を催した。荘厳房以下、招いた僧は七人。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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6月24日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が和田左衛門尉義盛の家に入御された。特に丁寧な接待が行われ、引出物として和漢の著名な武将の肖像12枚が献上された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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7月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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先月刃傷事件が起きた御所の侍間を建て替えるべきか否かを相模守北條義時と大官令大江廣元が協議した。そこまでする必要はないだろうと言う者もいたが将軍家(実朝)は許容せず、千葉介成胤に建て替えと提供を命じた。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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7月7日
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吾妻鏡
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駿河前司大内惟義の使者が京都から到着し中納言藤原資實卿(正二位・権中納言、歌人で文章博士)の書状を届けた。賀茂川堤防の修理費用は近江国と丹波国および神社・仏寺・摂関家の荘園などを除き、鎌倉を経由せず直接の処理を惟義に命じて頂きたい、そしてこの内容を西国諸国の守護にも指示して頂きたい、との内容である。
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惟義の使者が補足して申し述べた内容は次の通りだが、この問合せの内容は言葉足らずで意味が判らない。そのため先月25日付の書状で資實が直接鎌倉に問い合わせている。
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この堤の件は現在処理中なのですが、先月24日に中納言藤原資實卿が後鳥羽上皇の仰せを受けたのは「堤について鎌倉に申し入れる場合は諸国負担させないよう留意せよ」との内容でした。
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しかし実際には各地の御家人に命じて摂関家か寺社かを区別せず割り当てたため、賀茂社や石清水八幡宮などの荘園から苦情が提出されました。朝廷の修理職に拠出する材木の負担や大嘗祭(帝の即位後に初めて行う収穫感謝祭)の費用を負担するのも近江国と丹波国なので免除を求めており、惟義は「材木の負担はどこに命じるべきかを藤原資實卿に問い合わせました。
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   ※賀茂川堤防: 承元二年(1208)閏4月3日の記事に「防鴨河使
(堤防修復に任じる令外官)で検非違使判官・従五位下の左衛門少尉小野大夫義成(在京御家人)が没した。」との記事がある。
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後任不在のまま推移したため意思の疎通に齟齬が生じたらしい。私も完全には理解できないが...
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   ※参考: 同じ内容が7月24日と26日の「明月記」に載っている。
この記事は吾妻鏡編纂者が明月記から転載したのだろう。
  右画像は賀茂川・高野川の合流点と下鴨神社の鳥瞰。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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7月8日
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吾妻鏡
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弾正大弼源仲章朝臣の使者が鎌倉に到着、先月27日に閑院(この場合は後鳥羽上皇の御殿)築造を始めた。
上卿(筆頭公卿)は藤原(葉室)光親卿と日野家宣(wiki)、実務は官人の明政。上卿はなかなか決められず、最初は光親、次に定通、次に師経、再び光親と転々とした。大夫屬入道(三善康信)が将軍家の御前でこの書状を読み上げ、「たまたま建設計画が持ち上がったため上席者を宛てたのでしょう」と説明した。
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   ※参考: 全く同じ内容が7月27日の「明月記」に載っている。これも吾妻鏡編纂者による転載だろう。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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7月9日
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吾妻鏡
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鴨川堤の件は難儀ではあろうが後鳥羽院の勅定に従って指定の荘園を除外するよう仰せが下り、大内惟義の使者は承って帰洛の途に着いた。 今日、御所の侍間を解体して寿福寺に寄進し、新築工事に取り掛かった。
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これは先月7日の刃傷沙汰に伴う措置で、和田左衛門尉義盛と図書允清原清定が奉行を務め、千葉介成胤が一族を集めて実務を担当した。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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7月23日
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吾妻鏡
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永福寺および大倉観音堂(杉本寺・公式サイト)の惣門を建てた。永福寺惣門は以前に焼失しての再建である。
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   ※永福寺惣門: 建暦元年(1211)11月3日に総門と塔が焼失、承久
元年(1219)9月22日に総門が焼失、寛喜元年(1229)10月25日に惣門が焼失(文暦二年(1235)7月5日に再建上棟式の記載がある)。8~10年間隔で燃えるなんて、幾ら何でも火事が多すぎる。
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ところで、永福寺跡地の発掘調査は概ね完成し既に一般公開や出土品展示などのイベントが始まっている。
     詳細は鎌倉市のサイトで。
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ちなみに、左右の翼廊を除いた阿弥陀堂から薬師堂までの間口は約100m。同じ部分を比べると平等院鳳凰堂は約53m、頼朝が永福寺のモデルにした奥州平泉の無量光院は推定60mだから永福寺の規模が桁違いだった事は容易に想像できる。
まぁ独創性に欠けるのは間違いないのだけれど。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家(実朝)の御参宮は通例の通り。これより先に尼御台所政子および御台所(坊門信子)が各々牛車で参宮、し舞楽を観覧するため回廊に渡御された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月16日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて)八幡宮で祭礼と神事、将軍家(実朝)も出御された。馬場での流鏑馬なども通例の通り。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月18日
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吾妻鏡
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伊賀前司朝光和田左衛門尉義盛は北面三間所(将軍の私邸エリア)に待機するよう、今日武蔵守北條時房を介して仰せが伝えられた。北面三間所は近習を務める武士が詰める場所で、宿老である両人には向かないのだが、将軍家が古い物語を聞きたいと望んだため加えられたものである。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月19日
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吾妻鏡
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鷹狩りの全面的な禁止を守護と地頭らに命じた。ただし信濃国諏方大明神の神事である御贄の鷹は免除された。
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   ※御贄の鷹: 中世までの諏訪神社(上社・公式サイト)は上中下の三段に分かれていた。「氏子が集う下段(現在
の前宮本殿か)には神に捧げる生贄(鳥獣と魚の肉)を掛ける棚が設けられていた」との話を聞いた事がある。鷹狩りはこの生贄を得る神事の一つだったと考えられている。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月22日
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吾妻鏡
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相模国の片岡と前取の社を将軍家(実朝)の御祈祷所と定めた。図書允(清原清定)がこれを差配する。
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   ※片岡神社: 平塚市片岡の旧雷電社で現在は無住(神社庁サイト)、
秦野の御嶽神社(参考サイト)が管理している。
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   ※前取の社: 平塚市四之宮の前鳥神社を差す。平安時代中期に現在
の大磯に移転するまで相模国府はこの神社近くにあり、周辺道路の一部で発掘調査も行われている。
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  詳細は画像をクリック→前鳥神社(別窓)で。
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相模国府が大磯に移ってから六ヶ所の神社を国府近くに合祀した相模国総社・六所神社も参考に。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月25日
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吾妻鏡
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将軍家の御持仏堂に於いて恒例の文殊講(文殊供養)を催した。
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   ※文殊供養: 2月25日に続き(記録に載っている)4回目。承元四年(1210)9月25日に(最初の)供養法会を、
建暦元年(1211)12月25日に二回目、2月25日が三回目。五十度行う立願をしている。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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8月27日
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吾妻鏡
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安達左衛門尉景盛が申請した上野国奉行職辞退の件は不許可との決裁があった。今後も管理に尽力せよ、と。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月2日
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吾妻鏡
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筑後前司頼時が昨夜京都から鎌倉に入った。現在は前駆を勤められる者が少ないため将軍家が呼び寄せた人物である。このついでに藤原定家朝臣の書状と和歌の書籍などを携えて、今日御所に持参した。
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頼時の話に拠れば、先月13日に石清水八幡宮(公式サイト)の神人数十名が藤原(四条)隆衡邸の門前に集まった。昨年山城国で石清水の神人を殺した者がおり、今年も更に長賢僧正の所領に属する者が神人を殺したためである。 確かな裁許がなければ宮寺には帰らないとし、同じ日には人数の半分が後鳥羽院の御所に集まった。明日の明け方までに結果を提示しなければ神輿を担いで押し掛ける、と主張している。
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また、17日には大膳大夫・平業忠(53歳)が死去した。忠綱朝臣と相撲を取り、首の骨を負傷したのが原因である。官禄や出世に無頓着で15歳以後は法華経を読んで毎日を過ごした人物である、と。
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   ※筑後(源)頼時: 検非違使・筑後守に任じていた官人で近臣として実朝 に仕えた。「前駆を務める者が少ない」
のではなく、身辺に京下りの者を増やしたかった実朝の意向だろう。源仲章経由の採用か。
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   ※前駆: 行列の前を騎馬で進み先導する役目。さきのり、さきばらい、とも。
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   ※神人: 神社に奉仕して保護を受け身分的特権を得た者。信仰心とは無縁の下層庶民が公的な課役の免除を
求めて寄り集まった例が多かった。サッカーに名を借りたフーリガンの同類か。
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   ※藤原隆衡: 藤原北家魚名流の公卿で正二位・権大納言、祖父の隆季と父の隆房は後白河法皇の近臣で生母
平清盛の娘、妻は実朝正室坊門信子の姉妹。この時は参議に任じていた。
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   ※長賢僧正: 承久の乱に関係して、この名前は承久三年(1221)に三回記録されている。
6月25日...首謀者らを六波羅に護送、刑部僧正長賢と観厳は結城左衛門尉朝光に預けた。
9月10日...叛逆者らの処分が決定、刑部僧正長賢は陸奥国へ流罪。
閏10月1日...弁法印定豪を刑部僧正長賢の後任として熊野三山検校職に補任。祈祷によって
関東に寄与した報奨である。今日北條義時に会って謝意を表した。
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この三点から長賢が熊野三山検校職だった事、承久の乱で朝廷方に与して陸奥流罪に処された事は判るが、所領および石清水との関与は判らない。
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蛇足を加えると、承久の乱では熊野三山も朝廷派・鎌倉派・中立派に分裂、辛うじて内部での合戦は避けられたが戦後の処分は苛烈だった。鎌倉の干渉により自治権を失い零落することになる。
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   ※平業忠: 後白河法皇の近臣で院と清盛が対立した影響で解官、文久元年(1185)11月には義経との関係を
疑った頼朝の要求により解官、建久三年(1192)には院崩御の際に入棺役を務めている。
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忠綱は後鳥羽院の近臣藤原忠綱。承久の乱勃発の直前に院の使者として鎌倉に入り、雅成親王下向の条件交渉を行っている。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月15日
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吾妻鏡
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常陸国那珂郡西部の管理者は地頭職を兼ねている。名主(新田開拓領主)の所有権を安堵する旨が発布された。該当するのは二階堂行光宇佐美祐茂二階堂行村伊賀光季らである。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が神馬二疋を石清水八幡宮および六條新八幡宮に寄進した。今日の明け方に雑色らがこれをこれを伴って出発した。
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   ※六條新八幡宮: 六條若宮を差す。詳細は文治三年(1187)1月15日の条を参照されたし。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月17日
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吾妻鏡
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(頼朝の時代に)関東から寄進した石清水八幡宮住吉神社廣田神社(いずれも公式サイト)の所領に関する訴訟は、訴状が届いたら即刻処理するよう問注所に指示を下した。。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月18日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が岩殿観音堂と椙本観音堂に御参詣された。
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   ※観音堂: 岩殿は逗子の海雲山岩殿寺、 椙本は大倉の大蔵山杉本寺(ともに公式サイト)、本尊は観音菩薩。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月21日
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吾妻鏡
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諸国の港湾の停泊料や渡河の通行料は廃止せよとの指示を下していたが、各地の地頭から得分であるとの主張が届いているため、今日元に戻すよう改めて命令を下した。
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   ※得分: 既得権の主張を差す。宗教法人の事業税が一部非課税なのも既得権、創価学会が自民党と手を握る
のもそれなりの理由がある。見返りに安保法制に賛成して憲法違反を黙認する、ウィン・ウィンの関係。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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9月26日
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吾妻鏡
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御物沙汰衆が勤勉に務めているため報奨を与えた。恒例行事が去年から延引していたためである。
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   ※御物沙汰衆: 什器備品を管理する職種。律令制だと宮内省の筥陶司に該当するか。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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10月11日
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吾妻鏡
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新しく建てる寺の場所を覽るため将軍家(実朝)が大倉の地に渡御され、相模守北條義時以下、多くの者が従った。今日初めて山水や銘石などの指示があった。川も山もあり地形も素晴らしく、まさに仙人が住む地の如くである。
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三善康信が京都から取り寄せた山水絵図を献上して将軍家を喜ばせ、思い出を語った。
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去る建久九年(1198)11月頃に夢を見ました。私が先君(頼朝)に従って大倉山の麓を訪れた際に一人の老翁が現れ、「この地は清和天皇の御代(850~881年)に文屋康秀が相模国府の官人として住んでいた場所である、寺を建てて私を鎮守とせよ」と語りました。夢から醒めてこれを話したとき先君は病気でしたが直ぐに信仰心を催し、「平癒したら寺を建造しよう」と仰せになりました。
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先君はその翌年正月に崩御され、御意思を果たされなかった事を残念に思っておりましたが、将軍家の御代になって実現するのは霊夢の結果であります。寺の繁栄は必定でしょう。
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同行していた僧はそれに答えて、
将軍家も先年の夢に導かれてこの寺の創建を思い付きました。それは古今の夢が合体した事であり、古い書物には文屋康秀が駿河国府の官人として下向する際に小野小町を誘ったと伝わっています。
この二人は仁明天皇の御代(833~850年)に出会っており、清和天皇の御代と考えるべきでしょうか。
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三善康信は次のように言葉を続けた。
夢の中の出来事なので何とも申し上げられませんが、古い徐書には康秀が元慶三年(879)に縫殿の助に任じて清和の御代に仕えていた、とあります。相模国府への赴任は考えずとも良いのでは。
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将軍家は感動し、範高に命じて問答を記録させ「この寺の縁起としてこの夢を草創とせよ。」と内々に仰せられた。
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   ※小野小町: 古今和歌集の和歌  わびぬれば 身をうき草のねをたえて さそふ水あらば いなんとぞ思ふ
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   ※文屋康秀: 低い官位に終始した官人だが小野小町と親密な関係だったらしい。駿河国府に赴任する際に
小野小町に同行を誘い、彼女は「今の私は零落して浮草のような身なのに、誘って頂けるのならば如何なる地にも流れてお供いたしましょう」との和歌を返した、と伝わる。
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どちらも伝承に過ぎないが、小野小町は天長二年(825)前後の誕生で文屋康秀の没年は仁和元年(885)ともされる。この二人が何歳頃に出会ったのか、小野小町は康秀に同行したのか。
想像するだけに留めておこう。
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   ※藤原範高: 熱田神宮大宮司の藤原季範(娘の一人が源義朝に嫁して頼朝を産んだ)の次男が季範の死没に
伴って大宮司職を継いだ範雅、その息子が範高。鎌倉御家人となった経緯は不明だが、範雅の次の大宮司職は季範の長男(範雅の兄)が継いでいる。この一族も内紛が絶えなかった。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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10月19日
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吾妻鏡
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京都からの使者が参着し、去る8日に閑院(後鳥羽院の御所)の上棟を報告した。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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10月20日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に鶴岡八幡宮上宮の神殿前に夥しい数の羽蟻が飛散した。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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10月22日
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吾妻鏡
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関東御分国(幕府の直轄管理国)に管理監督官を派遣し、庶民の悩み事を聴取して対応せよとの仰せがあった。
鎌倉まで訴えに来る煩わしさを負担させない配慮である。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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御所に於いて絵合わせの会を催した。男女を老若に分けて左右とし、その勝負を楽しんだ。八月の上旬から開催するとの仰せがあり、各々が準備を重ねて京都から絵を取り寄せたり、新たに描かせたりしていた。
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大江廣元の絵は小野小町一生の盛衰を描いたもの、結城朝光の絵は我が国の四大師(伝教・慈覚・智証・慈恵)の伝記である。将軍家(実朝)は提示された絵の中でもこの二枚が特に気に入り、老人側の勝ちと定めた。
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   ※絵合わせ: 左右の参加者各々が絵または絵に和歌などを添えたものを提示して優劣を競う風雅な遊び。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月11日
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吾妻鏡
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河内国から関東に供する藍の栽培に従事する60人について、通例通り中右衛門尉朝定を奉行人として務めるよう仰せを下した。

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   ※藍の栽培: 河内との関係も朝定の人物像も不明だが、園芸に興味があればこちらのサイトが面白い。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月13日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が(月違い命日に伴って)頼朝法華堂で法事を催し、加わった供僧には布施として国絹を贈った。
二階堂行光がこれを差配した。
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   ※国絹: 厳密な意味の確認ができないペンディング事項。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月14日
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吾妻鏡
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去る八日の絵合わせ勝負について、負方に品物の提供が課された。また遊女らを招き寄せた。遊女は児童の格好を模して紅葉や菊の花を付けた水干を着し各々が郢律を唱謡、更には芸自慢の若者が延年などを演じた。
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   ※郢律: 今様・俗曲・民謡など中世歌謡の総称。
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   ※延年: 平安中期から室町時代にかけて流行した寺院芸能。例えば法会の後に演じられる大衆の猿楽や稚児
の舞などの総称で、後に遊僧と呼ばれる専業者が継承し能楽などにも影響を与えたとされる。
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源平盛衰記には石橋山合戦に敗れた頼朝主従を見失った大庭勢が土肥の館に放火して引き上げた。土肥實平は館が燃え落ちる炎を見て「これこそ開運の光である」として「延年の舞」を披露し、頼朝を大いに喜ばせ、落ち込んでいた敗残の武者たちを勇気づけたと書いている。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の祈願として、良い日取りを選んで南山に奉幣使を派遣する事が今日政所で決裁された。日次已下治定す。二階堂行光が御所に出向いてその旨を報告した。
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   ※南山に奉幣: 一般的には南山=高野山=金剛峯寺だが奉幣の対象は神宮・神社で仏寺は含まれないから、
熊野三山と理解するしかない。実際に12月2日には伊賀朝光が「熊野山」に出発しているのだが、何となく納得できない気分が残る。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月21日
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吾妻鏡
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荻野三郎景継が永福寺で出家を遂げた。梶原平次左衛門尉景高の息子である。景高が討伐されてから残された息子たちが零落した中で穏やかな性格の景継は将軍家に良く仕えていた。突然の出家は去る夜に御前の常夜灯を(給油を忘れ)滅してしまった、これを恥じての結果である。
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将軍家(実朝)は伊賀次郎(光宗か?)を使者に送り「特に憚るような事ではないし恥辱と受け止める必要もない、早く帰参せよ」と伝えようとしたが、面談もせず行方不明になった。以前からの意思だったのかも知れない。
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   ※荻野景継: 承久の乱(1221年)では朝廷方に加わり6月14日に宇治川合戦で討ち死にしている。承久記の
「宇治の敗るる事」は「最後まで抗戦した荻野次郎(景継だろう)が落ちようとして渋江平三郎と組み合って馬から落ち首を取られた」と書いている。辛くて悲しい人生だった。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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11月27日
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吾妻鏡
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奉行人を各国に派遣する件について過日の沙汰があったが人数が決まらないため暫く保留とした。
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   ※奉行人派遣: 10月22日に載っている「庶民の悩み事を聴取」の件、か。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月2日
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吾妻鏡
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伊賀守朝光が奉幣使として熊野に向かった。熊野で年を越す予定である。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月11日
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吾妻鏡
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京都からの使者が鎌倉に到着し、去る11日に建設中の閑院(後鳥羽上皇の御所)に門を建立した。
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   ※玉蘂は: 11月22日に「閑院上棟の日時について、今日上卿の中納言藤原光親卿が現地で検討した結果、
来月2日と定めた」と書いている。日付の違いだけではなく吾妻鏡は「門」と書き、玉蘂は「閑院上棟」と記述している。時系列で考えると「2日に決定」を確認した使者が9日後に鎌倉着、が妥当か。
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「玉蘂」は九条道家の日記。祖父の兼実が書き遺した「玉葉」に準じて蘂(雄しべ雌しべの「蘂(しべ)」を使っているのが面白い。また道家は鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の父でもある。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月21日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が去る11日の除目の聞き書きを届けた。将軍家(実朝)は従二位に叙された。
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    侍従清房      左京権大夫親綱     修理権大夫同長経
    従二位實朝     従四位下清實      正五位下籐光俊
    同孝通(修理)   従五位上籐親康
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月24日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が仏名経の法会を催した。
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   ※仏名経: 諸仏の名前を集めた経典。5種類が知られており、三劫三千諸仏名経は仏名会で読誦される。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月28日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に鎌倉中で騒動があった。道路が原因もなく揺れているのは年末の慌しさとは異なる、謀叛を企む輩がいる疑いがあるか。
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   ※天変地異: 10月20日には八幡宮で夥しい羽蟻が飛ぶし今日は道路が揺れる、謀反の予兆に違いない、と。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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12月29日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が故右幕下(頼朝)法華堂などの諸堂を巡礼された。相模守北條義時、遠江守源親廣が供奉し、還御の際には前大膳大夫大江廣元邸に入御された。
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1212年
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84代 順徳
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建暦二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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