建暦三年・建保元年(1213)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月1日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に地震あり。
午刻(正午前後)に将軍家(実朝・満20歳3ヶ月)が鶴岡八幡宮に御参拝した。まず 大江廣元朝臣(満65歳)が牛車を寄せ、相模守北條義時(満49歳)が妻戸に控えた。陰陽師の少允安倍親職が将軍警護の祈祷を行い、宮内兵衛尉公氏が御剣を兵衛大夫季忠に渡し、南門を出た後に供奉人は騎馬で付き添った。最後尾は大夫判官基清
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八幡宮寺での法華経供養は通例の通り、導師は大学法眼行慈である。御所に還御の後に椀飯の儀があり、大江廣元がこれを差配した。
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   将軍家への御引出物の役人
       御劔       兵衛大夫季忠(素性不明)
       御調度    和田左衛門尉義盛
       御行騰沓  結城左衛門尉朝光
       御馬五疋

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   ※行慈: 平重国(渋谷重国)の子。故文覚の弟子で後継者。さらに詳細は建久六年(1195)4月5日の条で。
   ※宮内公氏: 実朝の側近。建保七年(1219)1月の暗殺前には形見として髪の毛一筋を受け取っている。
   ※調度: 実朝の代理として弓箭を携える。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月2日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が椀飯を献じた。
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   将軍家への御引出物の役人
       御劔      武蔵守北條時房
       御調度     左近大夫美作朝親
       御行騰沓   民部大夫町野康俊
       一の御馬   次郎兵衛尉伊賀光宗  同、三郎光季
       二の御馬   九郎左衛門尉三浦胤義  佐原又太郎(義連の長男盛連 か)
       三の御馬   左近将監佐々木信綱  加地六郎
       四の御馬   籐内左衛門尉藤原秀康  加藤兵衛尉
       五の御馬   南條七郎  曽我小太郎(曽我祐信の嫡男祐綱) .

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   ※御馬: 左側は弓手(左)の手綱を引く者、右側は馬手(右)の手綱を引く者。鶴岡八幡宮上棟式で頼朝から
「工匠に与える馬を引け」と命じられた義経が「私が上手(弓手)を引くと...」と渋り恫喝を受けた記載がある。詳細は養和元年(1181)7月20日の条で。
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   ※加地六郎: 佐々木盛綱の嫡男で加地氏の祖となった加地(佐々木)信実の六男時基。
信実は建久元年(1190)7月20日に御所の双六の際に工藤祐経 を石で殴り義絶、後に許されて承久の乱で戦功を挙げている。
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   ※加藤兵衛尉: 加藤光員の息子。建保六年(1218)9月29日の吾妻鏡に「比叡山の衆徒が日吉と祇園・北野
の御輿を担いで入洛し院の御所前で騒乱したため北面の武士が出動した。また在京の武士加藤光員・後藤基清・古庄能直佐々木広綱らを派遣しぎ、加藤兵衛尉光資(光員の息子で後加藤新左衛門尉)が八王子の御輿を担いでいた男の腕を斬り落として神輿を穢した」とある。
光員は承久の乱で朝廷側に与して(処分不明)おり、光資も何らかの処分を受けただろう。
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   ※南條七郎: 北條泰時の家臣(御内人)、時員。承久の乱では泰時に従って上洛し戦後処理を行った。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月3日
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吾妻鏡
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武蔵守北條時房が椀飯を献じた。
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   将軍家への御引出物の役人
       御劔      小山左衛門尉朝政
       御調度     左近大夫山城判官二階堂行村
       御行騰沓   民部大夫三浦九郎左衛門尉胤義
       一の御馬   武蔵太郎(北條時盛なら相模太郎だが...)  肥田八郎(伊豆韮山の北、肥田郷の武士)
       二の御馬   足立八郎兵衛尉(遠元の嫡子元春)  同、九郎(同じく、元重)
       三の御馬   吉良次郎  同、三郎
       四の御馬   豊嶋小太郎(朝経か有経か、系図錯綜のため確定できず)  同、又太郎(豊島時光)
       五の御馬   大和判官代藤原邦通  同、進士(合格した邦通の息子か?) .

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   ※吉良次郎: 建久六年(1195)3月10日、東大寺供養に向う頼朝行列の後陣随兵に吉良五郎の名がある。
また安貞二年(1228)7月23日の将軍頼経随兵に「足利五郎」として載っているのが足利義氏 の庶長子・長氏(吉良太郎・足利五郎)。吉良氏の本領に長氏が地頭として入り三河吉良氏の祖になった、ここに載っている吉良次郎と三郎は元々土着していた吉良氏一族と考えるべきか。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月4日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が椀飯を献じた。
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   将軍家への御引出物の役人
       御劔      三浦左衛門尉義村
       御調度     伊賀守朝光
       御行騰沓   和田新左衛門尉常盛
       御馬五疋
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その後、将軍家(実朝)は相模守北條義時の邸に入御、次に若宮別当(定暁)の雪下本坊に渡御、夕暮れの頃に御所に還御された。
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   ※別当の坊: 治承四年(1180)に鎌倉入りした頼朝は同年12月4日に上総国から定兼を招いて八幡宮供僧
に任命した。供僧は宗教行為と管理職を兼ねた僧で、供僧の長が別当に任じたらしい。
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地図)に25の僧坊を集積させた。彼らは鎌倉仏教界の中枢として儀典を掌握し、やがて既得権を守るだけの集団に化していく。権力と腐敗が一体化するのは自公連立でもでも同じこと。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月10日
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吾妻鏡
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相模守北條義時邸で神社と仏寺の吉事始めについての沙汰があった。陰陽師は二所詣に良い日取りが確保できないと申し出たが、近日中に出発するとの仰せがあった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月12日
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吾妻鏡
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幕府の女房らが双紙合せの会を催し、将軍家(実朝)が勝負の判定役をつとめた。
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   ※双紙合せ: 平安時代から流行した物合わせの一種で草紙の絵や表紙・綴じ方・料紙などの優劣を競う遊戯。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝が二所詣に向けての精進潔斎を始められた。 .
西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣に御出発。相模守(北條義時)と武蔵守(北條時房)が供奉した。夕刻から俄に風雨が激しくなる中を戌刻(20時前後)に酒匂の駅に着御された。
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   ※酒匂の駅: 現在の小田原市中央部を流れる酒匂川の河口東岸(地図)。鎌倉時代には要衝として宿駅が設け
られていたが江戸時代の東海道五十三次には含まれず、大磯宿と小田原宿の中間となった。
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頼朝が始めた一回目の二所詣(文治四年(1188)1月20日)では南下して伊豆山(走湯権現)を目指したが、その途中で立ち寄った石橋山合戦場跡で佐奈田与一と郎党豊三の墓に詣でて涙を流し、縁起が悪いため次回から逆コース(小田原から東海道を箱根権現へ)と定めている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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1月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣から鎌倉に還御された。今日、侍従の一條能氏が京都から鎌倉に入った。
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   ※一條能氏: 祖父の能保は建久八年(1197)11月、父の高能は翌年10月に相次いで死去したため一條家を
継承した。実朝が暗殺された建保七年(1219)1月の右大臣拝賀式典にも参席している。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月1日
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吾妻鏡
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御所で和歌の会を催した。詠む題は「梅花万春に契る」、武蔵守北條時房・修理亮北條泰時・兵衛尉伊賀次郎光宗・新兵衛尉和田朝盛が参入し、更に女房らも加わった。和歌を読み上げて披露した後に連歌を楽しんだ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月2日
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吾妻鏡
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側近の中から多芸・博識な者を選んで当番(学問所番と称す)を組んだ。当番任じた日は御学問所に詰め、求めに従って和漢の故事を語るよう仰せがあった。これは武蔵守北條義時の差配とする。
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   一番 修理亮北條泰時  伊賀左近蔵人仲能  安達右衛門尉景盛  嶋津左衛門尉忠久
       江兵衛尉能範  松葉次郎資宗
   二番 美作左近大夫  三條左近蔵人(不明)  後藤左衛門尉  和田新兵衛尉  山城兵衛尉
       中山四郎
   三番 安藝権守範高  結城左衛尉朝光  伊賀次郎兵衛尉光季  波多野次郎  内藤馬允
       佐々木八郎(不明).

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   ※伊賀仲能: 藤原秀郷から九代目の田村伊賀仲教の子で後に評定衆となった藤原仲能を差す。
建長五年(1253)に六代将軍宗尊親王の命を受けて扇ガ谷に海蔵寺を建立した。源氏山公園の葛原岡神社前に墓所の石碑がある。
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   ※大江能範: 在京の御家人で西面の武士。後鳥羽上皇の挙兵に加わり承久の乱後に斬首となった。
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   ※松葉資宗: 安芸南部の国人で安芸平賀氏の一族。
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   ※山城兵衛尉: 在京の際に検非違使に任じて「山城判官」と呼ばれていた二階堂行光か?
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   ※中山四郎: 秩父丹党の武士中山四郎重政。この年5月2日の和田合戦では嫡子太郎行重と共に義盛に従い
御所に攻め込んだとの記載がある。なぜか戦死者名簿には記載なし。
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   ※藤原範高: 熱田神宮大宮司の藤原季範(娘の一人が源義朝に嫁して頼朝を産んだ)の次男が季範の死没に
伴って大宮司職を継いだ範雅、その息子が範高。
建保六年(1218)3月に実朝が左大将に任じられた際に聞書(任官叙位の昇進者と理由を記した文書)を書写して実朝に献じている。鎌倉御家人となった経緯は不明だが、範雅の次の大宮司職は季範の長男(範雅の兄)が継いでいる。この一族も内紛が絶えなかった。
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   ※波多野次郎: 波多野義通の三男忠綱の次男経朝。
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   ※内藤知親: 藤原定家の門弟で実朝の近臣。承元三年(1209)7月5日に実朝の和歌30首を京都の定家に
届け、8月13日に実朝宛の口伝書を預かって持ち帰った。承元四年(1210)9月13日には御所での和歌の会にも加わり、1211年4月29日に実朝の永福寺参詣に従っている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で神事があり、流鏑馬と競馬が催された。修理亮北條泰時が奉幣の使者を務めた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月15日
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吾妻鏡
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千葉介成胤が法師一人を生け捕って相模守北條義時邸に連行した。この男は謀反を企てた輩の使者で、信濃国の住人青栗七郎の弟阿静房安念である。
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計画への協力を依頼するため成胤の甘縄邸を訪れたのだが、忠義を重んじる成胤は直ちに北条義時を経て将軍家(実朝)に報告し、前大膳大夫(大江廣元)を含めた協議が行った。阿静房安念は山城判官二階堂行村に引渡し謀反計画の真偽を尋問せよとの仰せを下し、(陪臣の)金窪兵衛尉行親を添えて連行させた。
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   ※義時の陪臣: この頃から金窪行親と安東忠家の名が頻繁に現れる。義時は承元三年(1209)11月14日に
「以前からの郎従(皆伊豆国の住民で主達(おもだち)と呼ぶ)の中から功績のある者を 選んで御家人に準じる扱いとしたい。」との希望を述べ、実朝に拒否されている。金窪や安東を差していたのだろう。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月16日
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吾妻鏡
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安念法師の白状に基づいて謀叛を企てた輩を各地で捕縛した。
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一村小次郎近村(信濃国の住人。匠作北條時房の預かり)、籠山次郎(同じく信濃国の住人。高山小三郎重親の預かり)、宿屋次郎(山上四郎時元の預かり)、上田原平三父子三人(豊田太郎幹重の預かり)、薗田七郎成朝(上條三郎時綱の預かり)、狩野小太郎(結城左衛門尉朝光の預かり)、和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長の預かり)、和田五郎兵衛尉義重(伊東八郎祐廣の預かり)、渋河刑部六郎兼守(安達右衛尉景盛の預かり)、和田平太胤長は(金窪兵衛尉行親安東次郎忠家の預かり)、磯野小三郎(小山朝政の預かり)。
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自白では他に信濃国の保科次郎、粟澤太郎父子、青栗四郎、越後国の木曽瀧口父子、下総国の八田三郎、和田、奥田、同四郎、伊勢国の金太郎、上総介八郎(上総廣常)の甥の臼井十郎、狩野又太郎が関与している。
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およそ計画の主体には130余人、仲間は200人にも及ぶ。全員を拘束し連行するよう各国の守護人に命令を下し、小山朝政・二階堂行村・結城朝光・金窪行親安東忠家らがこれを差配した。
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事件の発端を調べてみると、信濃国の住人泉小次郎親平(泉親衡)が一昨年から計画を練って前述の輩と相談を重ね、故左衛門督 (頼家)殿の若君(栄實・尾張中務丞の養君)を大將軍として北條義時を討とうと計画していた。
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   ※頼家の若君: 養君は主君の子を庇護し養う事、尾張中務丞は頼家に近い存在だと思うが素性は判らない。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月18日
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吾妻鏡
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謀反に関与した囚人として上條三郎時綱に預けられていた薗田七郎成朝が逃げ出して行方不明になった。今夜、最初に自分の祈祷を担っていた僧(敬音)の坊に行って事件の仔細を語った際に僧は成朝を説得して、
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「今度の謀反に関与した者は逃亡するべきではない。一旦は逃れたように思えても最後まで安心して暮らせるのは困難だから出家を考えたらどうか」と語り掛けた。成朝はこれに答えて、
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謀反に関与したのは事実だが、古来から名のある将師は再起を期して逃れるのが本来の姿で、出家などは何も考えていない行為である。私にはいつか受領になるという志があり、実現させるまで出家するつもりはない。」と語ったという。
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僧は笑ってそれ以上の説得はせず、成朝は酒を飲んだ後の夜半に退出して行方不明になった。
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   ※受領: 国司 四等官の中で現地に赴任して行政実務を担う筆頭者を差す。 赴任した国司が前任者から事務の
引き継ぎを受けることを「受領する」と言ったのが始まり。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月20日
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吾妻鏡
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薗田成朝の逃亡が明らかになり、その僧を呼び出して尋問したところ成朝が話した内容をすべて報告した。
これを聞いた将軍家(実朝)は受領を望んでいる事を面白がり、早く探し出して恩赦を与えよとの仰せを下した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月25日
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吾妻鏡
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囚人渋河刑部六郎兼守については明日早朝に処刑するよう、安達景盛に仰せが下された。これを聞いた兼守はその悲しみに堪えず十首の和歌を詠んでを荏柄聖廟(天神社)に捧げた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月26日
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吾妻鏡
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工藤籐三祐高が昨夜荏柄天神社に参籠して今朝の退出の際に昨日兼守が詠んだ十首の和歌を御所に届け、和歌の道を愛している将軍家(実朝)は感動して罪を許した。
無実の罪を憂いて詠んだ兼守の十首が天神の心を動かし、更に将軍の温情を得た。鬼神の心を動かすのが和歌なのだろう。
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   ※和歌十首: 天神社の加護に感謝した渋河兼守は荏柄天神社の近く
に橋を寄進した。人々はこれを「歌の橋」と呼んだ。
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もちろん当時の橋ではないが、二階堂川を渡る金沢街道の東側に「歌の橋」(鎌倉十橋の一つ)が架かり、欄干の横に鎌倉青年団の石碑が建っている。家庭ゴミの集積場と共存しているのが少し悲しい風景だけど(地図)。    画像をクリック→ 拡大表示
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   ※鎌倉十橋: 江戸時代の延宝元年(1673)に鎌倉を旅行した水戸光圀は家臣の吉弘元常と河合友水に命じて
見聞記を元にした地誌「新編鎌倉志」を編纂させた。その際に名所として紹介したのが「鎌倉七口・鎌倉十橋・鎌倉十井・鎌倉五水・鎌倉谷七郷」など。
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背景にある伝承を参考にして黄門様の感覚で選んだものだから、どれ程の意味を見出すかは人それぞれ。石碑を巡って歩くのもまた、面白いかも知れない。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月27日
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吾妻鏡
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謀反に関わった者の殆どが流刑地に送られた。
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   ※謀反: 義盛を除く)和田一族が計画に関与したのは、例えば 畠山重忠らの冤罪事件と違って事実だった。
義時らによる様々なプレッシャーに耐え切れなくなったのだろうが、惜しむらくは計画の杜撰さだ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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2月30日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に御参り。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月2日
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吾妻鏡
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今回の謀反を計画した張本人の泉小次郎親平(泉親衡)が筋違橋の付近に隠れているとの情報があり、工藤十郎を派遣して出頭を命じたところ親平は躊躇なく斬りかかり工藤と郎従数人を殺して逃亡し、阻止しようとして鎌倉中が大騒ぎになった。結局は行方不明になってしまった。
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   ※筋違橋: 計画が露見してから半月以上が過ぎているのに、大倉御所
と指呼の距離(地図)に隠れていたのは疑問が残る。
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親平の本領は信濃国小県郡小泉庄(現在の上田市)、もしも事件発覚の際に鎌倉に詰めていたのなら、わざわざ信濃国の住人を千葉成胤への使者に送る必要はない筈だし、北條氏と比較的近い存在だった千葉成胤に謀反への協力を求めるのも変な話だし、発覚した翌日にほぼ全員を捕縛と言うのも手際が良すぎるし。
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地図を見ると判る通り金沢街道(六浦道は)筋替橋の部分で文字通り「道筋を変えて」いる。元々は東の「岐れ道」方向から直進して三の鳥居前を通り愛宕社の前を通って亀ヶ谷(後の扇ヶ谷)に抜けるのが本道だった。
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養和二年(1182)4月24日に頼朝が神田の弦巻田を池(現在の源氏池)に造り変えたため、屈曲路になってしまった。左に鎌倉青年団の石碑が見える道を入ってすぐ左折→直進すると東鳥居から西鳥居まで突き抜ける流鏑馬道に至る。  右画像は南側から撮影した筋替橋。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月6日
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吾妻鏡
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弾正大弼源仲章朝臣の使者が京都から鎌倉に到着して次の通り報告した。
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先月27日に後鳥羽上皇は閑院に遷居され、今夜造営に尽力した者の報奨を行った。将軍家(実朝)が正二位に昇叙されたため、除書を同封する。正二位源實朝、従二位藤原光親(上卿)、正五位下平義時(相模守を重任。この他に権弁経高、大夫史国宗、検非違使明政の官位は申請に任せる。
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遷幸の行列に供奉した公卿は内大臣、右大将、大納言二人(通光・師経)、中納言四人(忠房・雅親・實宣・有雅)、三位二人(家良・通方)、近衛次將左九人(資家・忠家・雅経・家行・通時・公棟・公清・定親・為家)、右八人(清信・雅信・公賢・頼房・家信・実時・敦通・宗平)、賢所(三種の神器)の担当は家兼・師季・宗宣である。行幸の後に宗宣が自ら奔参して賢所の入御を奏上。賢所入御の手順などで少々の手違いが発生した。
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また造宮の作業は誰もが日程に追われ、完成してから計画と違う部分が散見された。部屋数や広さが旧と異なるために作り直すのも再三だった。南殿で陣座(上皇の座所)を挟む部分も巾が足りないし南の小庭もないし北側には恭礼門もない、辛うじて恭礼門は北向きに設ける事ができた。
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行幸の夜には清範朝臣を奉行として弁経高を呼び、急いで南殿の西の階段を解体し溜り水の湿気を避けるため南の簀子の中央に取り付けるなど改造は数ヶ所に及んだ。行幸前の先月25日に上皇が確認された際には特に指摘はなく、額や鳥居の要不要を尋ねられた件は不要の旨を奏上して沙汰止みになった。
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これらは仲章朝臣が報告した内容である。将軍家がこれを自ら御覧になった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月8日
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吾妻鏡
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鎌倉で兵乱が起きるとの噂が諸国に伝わり、遠近諸国から多数の御家人が集まってきた。普段は上総国伊北庄(いすみ市北西部)にいる和田左衛門尉義盛もこれを聞いて鎌倉に馳せ参じた。
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今日、義盛は御所に参上して将軍家に対面して昔から重ねてきた功績を訴え、かつ子息の義直義重が捕縛の措置を受けた件を嘆き訴えた。将軍家(実朝)はその言葉に打たれた将軍家は改めての沙汰に及ばず、義盛の勲功に免じて息子二人の罪を許すとした。面目を保つ事ができた義盛は退出した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月9日
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吾妻鏡
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和田義盛(木蓮色の水干に葛袴)が今日再び御所に参上した。一族98人を引き連れて南庭に列座し、囚人となっている 胤長の赦免を申請、大江廣元がこれを取り次いだ。しかしながら胤長はこの事件の首謀者で計画を立案した人物として許容されず、金窪行親と安東忠家を介して山城判官二階堂行村に引き渡された。
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相模守北條義時からは「厳しく取り調べよ」との将軍家の意向が伝えられ、胤長は面縛された姿で一族の前を引き立てられ、行村が身柄を受け取った。これが義盛が決起する引き金になった。
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   ※面縛: 後ろ手に縛った紐の端を額に回し顔を伏せられない状態にする。武士にとって最大の恥辱とされた。
赦免を許さない措置が実朝の真意ではなく義時の独断による挑発だった可能性はある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月10日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、故右大将家(頼朝)法華堂の裏山に光る物が現れた。長さは一丈(3m)ほど、暫く周辺を 照らしてから消えた。
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   ※光る物: 謀反や死没などの前に異変が起きるのは鎌倉の常識、これは義盛挙兵を予告している。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月16日
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吾妻鏡
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天変が確認されたため御所で祈祷を行った。不動供(不動明王を祀る教典)は隆宣法橋で天冑地府祭は大夫安倍泰貞が南庭で行った。橘三蔵人惟廣が将軍の使者として立ち会った。
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   ※天冑地府祭: 国家の大事などの際に陰陽道が行う重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君・天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月17日
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吾妻鏡
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和田平太胤長が陸奥国岩瀬郡に配流された。
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   ※岩瀬郡: 現在の福島県天栄村と鏡石町を含む。鏡石町は奥州街道
沿いで古くから開けた地域だが、天栄村はリゾート施設が点在する超ローカルなエリア。最近は別荘地としてデベロッパーの手を入っている。
雰囲気は道の駅 羽鳥湖高原で味わうとして、
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鏡石町には胤長の妻・天留が夫を慕って流刑地を訪れ、死没を知って沼に身を投げた。彼女の持っていた鏡が水の底で光を放っていたことから鏡沼と名付けたとの民話がある。
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胤長の妻は3月21日に娘の死を契機に落飾しているから、必ずしも「単なる伝承」とも片付けられない。現在は干上がりかけた小さな池に過ぎないが... (地図)。
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  右画像は福島県の行政区分地図。 画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月19日
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吾妻鏡
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今夜御所で庚申の教え(wiki)を守って参籠する催しを行ったが、夜半になって横山右馬允時兼に属する武装兵50余人が和田左衛門尉義盛邸付近に集結しているのが確認された。将軍家(実朝)はこれを警戒され、伊賀守朝光を派遣して行動の自粛を命じた。
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   ※和田義盛邸: 八幡宮三の鳥居の南西、或いは更に南の「中の下馬橋の西ともされるが、確証はない。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月21日
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吾妻鏡
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和田平太胤長の娘(名を荒鵑(鵑はホトトギスの別名)、6歳)は父の流罪を悲しんで病床に伏し回復が見込めない。 新兵衛尉朝盛が胤長に良く似ているため「父が帰って来た」と偽って病床を見舞ったが、娘は一瞬頭を上げ目を向けただけで、すぐに瞑目し息を引き取ってしまった。その夜のうちに火葬、母親(27歳)は西谷の和泉阿闍梨を導師として出家した。
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   ※胤長の妻: つまり死没した娘(荒鵑の母親)は横山時兼の妹。彼の一族は義盛挙兵に加わって滅亡している
から、親族の全てを失った胤長の妻が夫の流刑地を訪ねたとしても違和感はない。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月23日
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吾妻鏡
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浄遍僧都と浄蓮房が呼ばれて参上し、御所に於いて法華宗と浄土宗の教義などについての懇談があった。
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   ※浄蓮房: 加藤景員の息子・伊豆山権現の浄蓮上人源延(頼朝に仏法を教えた覚淵の弟)を差す。
信州平瀬の法住寺(廃寺・地図)で天台宗を学んだ後に加藤一族に合流し、頼朝の信頼を得て伊豆山権現に入った。後に義時追善供養の導師などを務め、承久三年(1221)に波多野氏の旧領に相模最明寺(松田庶子の最明寺史跡公園(県の紹介サイト)・ 地図)。ここも既に廃寺となったが、5kmほど南の大井町金子に相模善光寺・最明寺(地図)として再興されている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月25日
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吾妻鏡
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和田平太胤長の屋敷は荏柄天神社(公式サイト)の前・御所の東隣にあり、将軍家の側近は誰もがこれを欲しがった。和田義盛は女官の五條局を介して嘆きを言上し、屋敷地の下賜を願った。
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頼朝将軍の時代から、収公された一族の所領を他人に与えた例はありません。あの土地は宿直を務める際に便利でもあり、是非とも拝領させて頂きたい。    これは直ちに認められ、義盛を喜ばせた。
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   ※御所の東隣: 荏柄天神社に登る石段から約100mの場所(地図)に東御門跡の碑が建っている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月28日
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吾妻鏡
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藤原長定朝臣が蒔絵の箱に納めてある20巻の絵を献上した。古今集以後の(古今集を含めた)三代集(古今集・後撰集・拾遺集)の中から女性の作者を選び、詠んだ和歌とその趣旨を汲み取って描いたものである。
将軍家(実朝)はこれを特に喜ばれた。
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   ※藤原長定: 和田合戦の5月3日には「折から御所に詰めていた出雲守定長は武士ではないにも関わらず防戦
に尽力した。刑部卿難波(藤原)頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。」の記述がある。
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また、文治五年(1189)2月22日には頼朝が朝廷に送った書状の中に「頼経卿は義経に与する廷臣だから解官追放するべきと言上したのに在京している。~中略~また頼経嫡男の左少将宗長も同様である。」と記載されている。
後に宗長と弟の飛鳥井雅経は関東に下向して幕府に仕え、建暦元年(1211)10月13日には鴨長明と実朝を引き合わせたりしている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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3月30日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に御参詣され、法話と雑談などで時を過ごした。また去年(11月8日)結城朝光が献上した我が国の四大師(伝教・慈覚・智証・慈恵)の伝記の図絵を(行勇律師)に見せ、宗の仏教などについての書き間違いや誤字の指摘を受けた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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惟宗尚友が手配を命じられた更衣(朝廷の高位の女官)の装束が京都から届き、大江廣元朝臣が将軍家(実朝)の高覧に供した。遅延の罪を問う予定だったが衣装の出来栄えが見事なため考えを改め、褒美に一村を下賜した。
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   ※惟宗尚友: 9月8日に「豊前前司の尚友が息子の内蔵允尚光と兵衛尉能尚を伴って京都から鎌倉に到着、
二階堂行光の取次で御所に参上した。西国にある幕府領の年貢徴収を管理する奉行として在京している者である。」との記載がある。女官の装束は実朝が抱いていた京都志向を意味する。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月2日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が荏柄天神社の前にある和田胤長の屋敷地を拝領し、(陪臣の)金窪兵衛尉行親安東次郎忠家に与えた。既に実朝から下賜されていた和田義盛の代官久野谷弥次郎を追い出しての入居である。
これを知った義盛は激怒したが、既に将軍家の決裁が下されての占拠なので引き下がるしかない。
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先日は一族を率いて胤長の赦免を訴えたのに許されなかったのみならず、面縛して一族の前を連行し判官に引き渡した。面目を失った義盛はその日以後は出仕しなかったが、屋敷地を与えられて少し心を鎮めていた。根拠のない所有権の変更によって逆心が高まる結果になった。
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   ※実朝の決裁: 胤長の謀反は幕府に対する反逆だから所領を没収し執権が相応の処分をする、それが義時の
論拠だと考えれば一応の筋は通る。ただし、百数十騎の重忠追討に数千騎を向けるような、或いは周辺の御家人を全て抱き込んでから時政を失脚させるような、つまり確実にリスクを避ける生き方をしてきた義時が強引な挑発を決心した姿勢には、やや疑問が残る。
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いずれにしろ一番の問題は、決裁の変更が自分の権威失墜に直結する事を認識できない実朝の愚かさだろう。不合理を許す者は不合理によって滅ぼされる。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事の神事は通例の通り。武蔵守北條時房が奉幣の使者を務めた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月4日
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吾妻鏡
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陸奥国平泉の堂塔が破損している件について、今日相模守北條義時の書状により修復の努力を尽くすよう郡内の地頭に命令が下された。昨夜、甲冑姿の法師一人が尼御台所(政子)の夢に現れ「平泉寺陵の荒廃は遺恨である。御子孫の運のためにも申し上げておく。」と語ったためこの措置となった。三日は藤原秀衡法師が死没した日である。これは彼の霊魂であろうか、甲冑を着しているのも不審であると人々は語り合った。
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   ※平泉寺陵: 平泉の堂塔全体を差す、或いは毛越寺を差す、などの説がある。私は「陵」の言葉に従って、遺骸
を安置した金色堂のある中尊寺(共にサイト内リンク・別窓)一帯と考えているのだが。また吾妻鏡文治三年10月29日には「今日、秀衡入道陸が陸奥国平泉の館に於いて卒去」と書いており、「三日」との食い違いがある。吾妻鏡の場合は伝聞情報だから、後日の修正だと思う。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月7日
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吾妻鏡
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女房らを集め幕府に於いて御酒宴あり。時に山内左衛門尉(政宣)と筑後四郎兵衛尉が(警備のため)中門の近くを歩いているのを簾中から見た将軍家(実朝)は両人を御前の縁近くに呼んで盃酒を与え、「二人とも近いうちに落命する。一人は敵となり、もう一人は御所を警備することになるだろう。」と語った。二人とも恐縮し鍾(盃?)を懐に入れて急ぎ退去した。
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   ※山内政宣: 養子関係があるため出自が三浦氏(岡崎氏)系か土肥氏(中村氏)系か不明だが、和田合戦では
和田側に与して戦った後に斬首されており、土肥から岡崎氏の養子に入った惟平(土肥遠平の実子)らしい。出自が良く判らない筑後四郎兵衛尉は北條方として討死している。従って実朝の「予告」は当っているのだけれど、こんな話を載せる吾妻鏡の意図が判らん。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月8日
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吾妻鏡
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(実朝の)御持仏堂に於いて仏生会を催した。荘厳房(退耕行勇)が法要を司り、将軍家も 寿福寺を訪れて灌仏を拝礼した。
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   ※仏生会: 釈迦の誕生を祝う法要。仏像に甘茶を掛けて祝うことから灌仏会法要とも。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月15日
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吾妻鏡
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和田新兵衛尉朝盛は将軍家(実朝)の寵臣として並ぶ者のない人物だが最近は一族が恨みを抱いて拝謁を忘れる状態である。朝盛もまた宿直などの勤務を放棄して蟄居状態にある中で浄遍僧都から出離生死(悟りの境地)への道を学び、読経念仏の務めを重ねている。
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今夕ついに出家する決心を固め、挨拶のために御所に参上し、明月に誘われた将軍家が南面(公式の場)で女房数人と和歌の会を催していた席に優れた和歌を献上した。更に日頃の仔細を陳謝して公私に亘る蟠りを払拭した。
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将軍家は特に喜び、その場で数ヶ所の地頭職を一枚の紙に纏めて下文を発行した。月が中天に昇ってから朝盛は退出し、直ちに京都に向けて出発、伴った郎党二人と小舎人童一人を含め全員が出家を遂げている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月16日
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吾妻鏡
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郎従が本家の義盛宅に駆け付けて朝盛の出家を報告した。義盛は驚きながら寝室にあった書状を開いた。
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「反逆の企てを見逃す事はできません。一族に協力して主君に矢を向けるのもできず、さりとて主君を守るため父祖に敵対する訳にもいきません。従って何もせず苦境から逃れようと思います。」と書かれていた。
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義盛は激怒し、「既に法体であっても連れ戻せ」四郎左衛門尉義直に命じた。朝盛は軍勢を指揮できる屈強の武将であり手放す事はできない、これを承った義直は騎馬で朝盛の跡を追い掛けた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月17日
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吾妻鏡
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御所で八万四千基の塔婆を供養する法要を催し、荘厳房荘厳房(退耕行勇)が導師を務めた。
朝盛の出家は今日将軍家(実朝)の耳に入った。残念な思いが強く、刑部丞忠季を送って義盛の悲しみを見舞った。
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   ※塔婆: 紀元前5世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤に
マガダ国のアショーカ王が取り出し八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形とされる。
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しかし...危機感のない実朝の能天気さは実に悲惨だね。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月18日
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吾妻鏡
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四郎義直が出家した朝盛入道を伴って駿河国手越の駅から急いで戻ってきたため、対面した義盛はやや鬱憤を散じた。朝盛は将軍に呼ばれ、墨染の衣のままで御所を訪れた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月20日
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吾妻鏡
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南都十五大寺に於いて衆僧や非人救済の布施会を行った。この施行は以前からの将軍家(実朝)の願い事で、今日京畿内の御家人に命じた行事である。大江廣元朝臣がこの手配を行なった。
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   ※施行: 仏法の善行を積むため僧侶や貧しい人々に物を施し与えること。
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   ※南都十五大寺: 朝廷の崇敬と庇護を受けた15の大寺、一般的には東大寺・興福寺・薬師寺・元興寺・大安寺・
西大寺・法隆寺・新薬師寺・不退寺・法華寺・超証寺 (超昇寺)・竜興寺・唐招提寺・宗鏡寺・
弘福寺 を差す。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月24日
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛に以前から仕えていた祈祷僧(伊勢国の者で尊道房)を追放した。人々はこれを不審に思ったが 、追放に見せかけて実際には伊勢神宮での祈祷を命じたとの噂が流れた。世間は緊迫の度を深めている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月27日
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吾妻鏡
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宮内兵衛尉公氏が将軍家(実朝)の御使いとして和田義盛の屋敷を訪れた。これは義盛が合戦の準備をしているとの噂が流れているため、その実否を問うためである。
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公氏が侍の間に入り、暫くして義盛が私室から侍の間との境(無橋)を飛び越えた際に烏帽子が脱げ、まるで首が落ちる如く前に落ちた。公氏はこれを見て「この人がもし叛逆すれば誅殺される、その運命の暗示だろう」と考えた。
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公氏が将軍家の申し付けた趣旨を伝えると義盛は「右大将家(頼朝)の時代には功績を挙げる機会に恵まれ多くの恩賞を得たが、崩御されて20年も経ていない今は零落し、泣いて願っても叶えられる事はない。衰運を恥じているのみで、もとより謀叛の企てなどない。」と語った。
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面談が終って退去する際には古郡保忠朝比奈義秀らが兵具を整えて列座していた。公氏が御所に戻って見聞した内容を報告したところへ相模守北條義時が参席した。義時は鎌倉に駐留している御家人を御所に招集し、「義盛の謀叛は既に確実と思われる。ただし、まだ甲冑を着けるほど差し迫ってはいない」との指示を与えた。
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夜になって再び宮内忠季を使者として義盛の元に送り、「挙兵の噂が流れている事に驚いている。蜂起を考えず自粛して将軍の恩裁を待つように。」と伝えた。義盛はこれに答えて、「将軍家に対しては何の遺恨も抱いていない。義時の傍若無人な言動について説明を求めるべきと考える若者たちが集まっているので私(義盛)はこれを諌めているが既に決意が固く、説得の及ぶところに非ず。」との返事だった。
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   ※宮内公氏: 実朝側近として吾妻鏡に数回載っている。建保七年(1219)1月27日の実朝暗殺の朝が有名。
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(右大臣拝賀に謝する)出発の直前に大江廣元が御前に進んで言上した。「私は成人してから涙を流した事がありませんが(不吉な前兆が重なった)今は落涙を抑えられません。東大寺落慶供養の日に右大将軍(頼朝)の前例に従い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)を着けますように」と。
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源仲章朝臣が「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」と言って腹巻の件は中止となった。
また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き、記念にと称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。   「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
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実朝殺害事件は脚色が多いし実朝の和歌(本歌取、この場合は道真の和歌の一部を取り入れて詠むことを差す)も駄作だと思うが、側近公氏の傍証として載せておく。
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   ※古郡保忠: 建仁二年(1202)8月の吾妻鏡に保忠と舞女「微妙」の恋物語が載っている。
平安時代末期に武蔵国横山党の庶流が甲斐の都留郡の西部進出して波加利荘(現在の大月市初狩と笹子エリア・地図)を立荘し(領家は後白河院から長講堂領と共に継承した宣陽門院)、横山義隆の子・忠重が古郡郷(上野原市・地図)に進出して古郡氏を名乗った。保忠は忠重の息子らしく、建暦三年(1213)の和田合戦では5月4日の条に、次の記録がある。
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古郡左衛門尉兄弟(経忠・保忠)は甲斐国坂東山波加利の東・競石郷二木に於いて自殺した。和田新左衛門尉常盛(42歳)と横山右馬允時兼(61歳・横山権守時廣の嫡男)は坂東山償原別所で自殺した。
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保忠の本領はJR上野原駅に近い諏訪神社(地図)、鳥居の額も地図での表示も「諏訪神社」だが拝殿には「古郡神社」の額が架っている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月28日
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吾妻鏡
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夜になって相模守北條義時が御所に参上、大江廣元朝臣らを招いて協議を行った。また御祈祷 のため、鶴岡八幡宮での大般若経転読を供僧に指示した。
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他に勝長寿院の別当法橋定豪は大威徳法、小河法印忠快は不動法、浄遍僧都は金剛童子法、天地災変祭は安倍親職が、天冑地府祭は安倍泰貞が、属星祭は安倍宣賢がこれを催すことになり、廣元朝臣の奉書(指示書)によって連絡。山城判官次郎基行、橘三蔵人惟廣、宮内兵衛尉公氏らが使者を務めた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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4月29日
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吾妻鏡
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相模次郎北條朝時が駿河国から鎌倉に入った。将軍家の御気色および父(義時)の義絶によって駿河に籠居しており、危機に備えて飛脚を送り呼び戻したものである。
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   ※朝時の蟄居: 去年の5月に実朝の正室坊門信子の女官を深夜に連れ出した罪による。何だ、そのくらい!
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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筑後左衛門尉朝重宅は和田義盛邸の近くにある。軍兵が集結し合戦の準備をする様子が窺えたため、自らも戎服(軍装)を整えて前大膳大夫大江廣元に状況を報告、来客を迎えて酒席にいた廣元は直ちに御所に駆け付けた。
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当初の三浦平六左衛門尉義村と弟の九郎右衛門尉胤義は和田義盛勢と連携して決起し御所北門を固める、その旨の起請文を書いたにも拘らず相談の上で義盛を裏切った。祖先の三浦平太郎為継八幡太郎義家に従って奥州の清原武衡家衡を討伐して以来(源氏と)主従関係にあり、恩禄を受けている。
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縁戚に与して累代の主君に弓を引けば天誅を逃れ難い。
そう考えた義村は直ちに過ちを撤回して起請文の内容を報告するべく相模守北條義時邸に入り、囲碁の会を催していた義時に義盛出陣を報告した。
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義時は驚く様子を見せず、碁石の目数を数えてから座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め水干姿で幕府に参上した。
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義盛と横山時兼が手を組んでも今朝から合戦が始まる事もなかろうと判断したが、御所の警備が手薄なので尼御台所(政子)と御台所(坊門信子)を鶴岡八幡宮の別当坊に避難させた。その後の申刻(16時前後)になって和田義盛が率いる軍勢が大倉御所を襲撃した。
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襲撃に加わっているのは義盛嫡男の和田新左衛門尉常盛と次男の新兵衛尉朝盛入道・三男の朝夷名三郎義秀・四男の和田四郎左衛門尉義直・五男の五郎兵衛尉義重・六男の六郎兵衛尉義信・七男の七郎秀盛、その他に土屋大学助義清・古郡左衛門尉保忠・渋谷次郎高重(横山権守時重(時兼の祖父)の聟)・中山四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衛門尉惟平・岡崎左衛門尉實忠(真田與一義忠の子)・梶原六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛・同七郎景氏・大庭小次郎景兼・深澤三郎景家・大方五郎政直・同太郎遠政・塩屋三郎惟守ら。
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ある者は親戚として、ある者は朋友として、この春から徒党を組んでいた輩である。150の軍勢を三手に分け、幕府の南門・義時邸(小町の北)・御所西門と北門を囲んだ。義時は幕府に出仕しており、留守番の武士は板塀を防御の盾にして隙間から矢を放ち防戦したが、多くの武士が死傷した。
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大江廣元邸にも義盛の軍兵が押し寄せた。残っていた客は相手も判らないままに抗戦して敗北、義盛勢は横大路(御所南西の道)に移動し、御所の西南にある政所の前で(北條方の)御家人と数度の合戦に及んだ。防衛側の中務丞波多野忠綱が先頭で戦い、三浦左衛門尉義村もこれに加わった。
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酉刻(18時前後)になって義盛勢は幕府の四方を包囲し、旗を翻して箭を放った。相模修理亮北條泰時次郎朝時・上総三郎足利義氏らが奮戦して防御に務めた。朝夷名三郎義秀は御所の惣門(南門)を突破し南庭に攻め込んで防衛する御家人と戦い、更に御所に放火したため全ての建物が焼け落ちた。これにより将軍家(実朝)は火を遁れて右大将家(頼朝)の法華堂に退避、義時と大江廣元がこれに従った。
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朝夷名義秀は鬼神のような武威を表し、敵対した五十嵐小豊次・葛貫三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗ら数輩が討ち取られた。
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その中で高井三郎兵衛尉重茂(和田次郎義茂の子、義盛の甥)が互いに弓を捨て雌雄を決しようと馬上で組み合い、共に落馬した末に重茂が討ち取られた。義秀を落馬させたのは重茂一人のみ、一族の謀叛に加わらず御所を守って落命した姿は多勢を感動させた。
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馬から降りた義秀に対して相模次郎朝時が太刀を取って戦った末に負傷、これは落命するほどではなかった。また足利三郎義氏が政所前の橋の横で遭遇した義秀に鎧の袖を 掴まれ、馬を励まして西に逃げた。
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袖は鎧から断裂したが落馬せず、馬も倒れなかった。義秀は更に追ったが数刻の合戦で馬が疲弊し、堀の東に馬を止め橋を渡って追い掛けた。これを遮った鷹司冠者が義秀に討たれ、その間に義氏は逃げ延びた。
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また武田五郎信光が若宮大路の米町口で義秀に出会い、互いに目を合わせて戦おうとする寸前に信光の息子悪三郎信忠が二人の間に割って入り、父の身代わりに戦おうした。義秀は彼の勇気に心を打たれ、戦わずに行き過ぎた。
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和田義盛の武威のみならず率いているのは一騎当千の武士が多く、天地が揺れるほどの戦いは日暮れ後も続き、匠作(北條泰時)は彼らの武勇を恐れず身命を賭して戦った。明け方を迎えて義盛勢の兵も討たれ矢も尽きて疲馬を励まして前浜近くまで退却した。泰時は旗を掲げ軍勢を率いて中の下馬橋に布陣、米町辻や大町大路の各所で戦い、足利三郎義氏・筑後六郎尚知・波多野中務次郎経朝・潮田三郎實秀らは勢いに乗じて攻撃に移った。
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大江廣元は文書類の散逸を防ぐため、避難していた法華堂から御家人に護衛されて政所に戻った。また納涼の地を求めて出掛けていた侍従の能氏(高範卿の子)・安藝権守範高(熱田大宮司範雅の子)らは騒動を聞いて走り帰り、戦場に巻き込まれるのを避けて山ノ内付近に待機していたが、義盛が退却した隙に法華堂に戻った。
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   ※義村の裏切り: 文面では「先非を悔いて義盛出陣を報告」だが、同族に対する明白な裏切り行為に過ぎない。
この狡猾で優柔不断な性格は嫡子の泰村に引き継がれ、やがて三浦一族の滅亡を招く。
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   ※三浦為継: 義盛や義盛の祖父が三浦義明で、義明の祖父が為継。源義家に従って奥州に赴き、後三年の役
を戦った。権五郎景政の右眼を貫いた矢を引き抜いた為次が該当する。
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   ※横大路: 鎌倉六大路の一つ。六浦道(金沢街道)の大倉御所南門前から筋替橋を経て小町大路北端に接し、
八幡宮南を経て窟小路に続く。突き当たりが壽福禅寺、右に折れると海蔵寺を経て化粧坂に至る。
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   ※前浜: 現在の由比ヶ浜(坂ノ下から和賀江島まで約2km)の総称だが、翌3日には腰越方面から横山時兼ら
の援軍が合流しているから若宮大路の西側、江ノ電で言うと和田塚駅から由比ヶ浜駅にかけての南側で残兵を再編成したのだろう。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月3日
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吾妻鏡
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和田義盛勢は補給の術を失った上に馬も疲れ切った状態になった。
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寅刻(早朝4時前後)になって横山馬允時兼、波多野三郎(時兼の娘聟)と横山五郎(時兼の甥)ら数十人の縁戚が郎従を率いて腰越浦に駆け付けた。時兼と義盛の計画では今日が箭合せ(開戦)と定めていたのだが、既に合戦の最中である。援軍の一党は蓑笠を捨てて義盛の陣に加わり、新手を得た軍勢は逆襲に転じた。
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辰刻(朝8時前後)に曽我・中村・二宮・河村らの兵が鎌倉に入り、各々武蔵大路や稲村崎の付近に布陣した。
彼らは法華堂の将軍家(実朝)から招集を受けたものの戦局を判断できず、いずれも軽率な行動を躊躇っていた。
将軍家は御教書(命令書)の発行を考え、数百騎の軍勢の中から傷を負っていた波多野彌次郎朝定がこれに応じて石段の際で御教書を書いた。
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   ※箭合せの予定: 横山時兼との打ち合わせでは5月3日朝が決起だった。吾妻鏡の記載をそのまま解釈すれば
三浦義村は3日朝の決起計画を義時に報告し、義時は横山勢が合流して敵の戦力が整う前に先手を打ったことになる。もしかすると「御所まで攻め込まれた、云々」も捏造で、実際には二俣川合戦と同様の計算した「殺戮」あるいは「騙し討ち」だったのかも。
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将軍家の花押を載せた御教書は安芸国の住人山太宗高が携えて軍兵に閲覧させた結果悉くが味方として馳せ参じ、また千葉介成胤も一族を率いて加わった。巳刻(午前10時前後)に御書(北條義時大江廣元が連署と将軍家(実朝)の花押あり)が武蔵国など近国に送られた。内容は次の通り。
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近辺の者に内容を伝えて招集に応じること。和田左衛門・土屋兵衛・横山の一党が謀反を起こし将軍家を討とうとしたが概ね鎮圧した。分散した敵を討ち取り鎌倉に参上せよ。  5月3日 巳刻 大膳大夫(大江廣元)
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(御書の発行と同時に)大軍を前浜に進めて合戦となった。義盛はもう一度御所の襲撃を試みたが若宮大路には匠作(北條泰時)と武蔵守(北條時房)が防衛線を構え、大町大路には足利三郎義氏が、名越は近江守頼茂が、大倉は佐々木五郎義清結城朝光が布陣しているため突破できず、由比ヶ浜と若宮大路で戦う以外に術はなかった。
合戦は昨日夕刻から今日の昼に至るまで続き、軍兵は死力を尽くして攻防に務めた。
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北條勢の中で由利中八太郎維久(維平の息子)という者は弓箭の名手と称えられ、若宮大路で姓名を記した矢で義盛の軍兵を射続けていた。古郡左衛門尉保忠の郎従3名がこの矢を受けたため保忠は激怒してその矢を射返したところ、北條泰時の鎧の草摺に突き刺さった。維久は面白がって「維久が味方の大将軍を射たぞ」と吹聴した。
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鎮西の住人小物又太郎資政が義盛の陣に攻め込んで義秀に討ち取られた。彼は故右大将家(頼朝)の時代に高麗と戦った指揮官である。また丁度鎌倉に祇候していた出雲守定長は武門の人物ではないが防戦に力を尽くした。
彼は刑部卿難波(藤原)頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。
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また日光山の別当法眼弁覚(俗名を大方余一)弟子らを率いて大町大路で中山太郎行重と戦い、間もなく撃退した。長尾新六定景の嫡子太郎景茂と次郎胤景が土屋義清と土肥惟平に遭遇して戦った際に胤景の弟(名を江丸、13歳)が(本領の)長尾庄(現在の横浜市栄区長尾台町)から馳せ参じて兄の陣に加わり戦っていた。義清はその勇気に免じて矢を放たなかった。
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土屋義清・古郡保忠・朝比奈義秀の三人は馬を並べて北條方の軍兵を再三追い散らした。匠作(北條泰時)は小代八郎行平を使者として法華堂の将軍家に伝えさせた。
     味方は多勢ですが敵の武勇も侮り難く、簡単には打ち破れません。何らかの策を講じるべきと考えます。
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将軍家はこの報告に驚き、政所に詰めていた大江廣元に警護の兵士を派遣して御所に呼び出した。水干に葛袴の姿で参上した廣元は祈願書を書き、実朝は自筆の二首を加えて公氏を呼び八幡宮に届けさせた。
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丁度この時に大学助土屋義清が甘縄から亀谷に入り窟堂の道(窟小路)を通って仮御所(頼朝法華堂)に向かおうとしていたが、鶴岡八幡宮赤橋の横で流れ矢を受け絶命した。その矢は北から飛んできたため神意に違いない。
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従僕が義清の首を落として壽福寺に葬った。義清は岡崎四郎義實の二男、母は中村庄司宗平の娘である。建暦二年12月30日に大学権助に任じ、法勝寺九重の塔造営に功績を挙げた。
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酉刻(18時前後)、和田四郎左衛門尉義直(37歳)が伊具馬太郎盛重に討たれて父の義盛(67歳)を深く悲しませた。義直を愛しているからこそ禄を求めた、もう合戦を続ける理由がないと声を揚げて泣き、遂に江戸左衛門尉義範の従者に討たれた。
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   ※和田塚: 江ノ電の駅名にもなっている和田塚は戦死した一族の亡骸を葬った
場所と伝えられてきたが、発掘調査の結果ではもう少し時代を遡った無常堂塚と呼ばれる向原古墳群の一部で、鎌倉唯一の高塚式古墳らしい。古い五輪塔残欠などが集められ、それなりの雰囲気がある。
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      右画像をクリック→「和田塚」の詳細(別窓)へ
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息子の五郎兵衛尉義重(34歳)、六郎兵衛尉義信(28歳)・七郎秀盛(15歳)ら首謀者七人も討ち取られた。朝夷名三郎義秀(38)は船で安房国に落ち延びた。その数は五百騎、船六艘、と。
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また新左衛門尉常盛(42歳)・山内先次郎左衛門尉・岡崎余一左衛門尉・横山馬允・古郡左衛門尉・和田新兵衛入道の指揮官六人は戦場を離れて行方不明になった。謀反した将士が全て敗れ去って騒ぎは鎮まり、相模守北條義時は金窪行親安東忠家に命じて死骸などの検分を行った。仮屋を由比ヶ浜の渚近くに建てて義盛以下の首を集め、暗くなってからは各々が松明を翳した。
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また相模守北條義時と大官令大江廣元は将軍家の仰せを受けて飛脚を仕立て、両人の連署に将軍家の花押を添えた御書を京都に送った。義盛は追討したが脱出して消息不明の仲間もいるし、京畿には親類縁者も残っている。早急に対処しなければ後顧の憂いになるとの考えである。
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和田左衛門尉義盛・土屋大学助義清・横山右馬允時兼ら相模の者共が謀反を起こしたが将軍家には何事もなく、義盛は落命し騒動は鎮圧した。 義盛の縁戚らは戦場から分散し海路を西国に落ちた可能性もある。
有範と広綱はこの内容を御家人に漏れなく周知させ、準備を整えて討ち取るように。
         佐々木左衛門尉殿    五月三日  酉刻  大膳大夫 相模守
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二日間の合戦に加わった者の多くが匠作(北條泰時)の屋敷に集まって盃酒を受け、次のような話を聞いた。
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今後は酒を断とうと考えている。数度の酒宴があった翌日早暁に義盛の挙兵があり、甲冑を着けて騎馬した際にも酔いが残っていたため断酒を誓った。更に再三の合戦で喉が渇いて水を求め、誓いも忘れて葛西六郎(武蔵国の住人)が小筒に盃を取り添えて勧めた酒を呑み、更には景綱(尾藤次郎)にも与えてしまった。人の思いが定まらないのは面白い事だが、大酒は控えるべきだろう。
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   ※義秀が安房へ: 船で脱出したのは事実かも知れないが生き延びたか否かは確認できない。
加えて5月6日の死傷者名簿の中に載っている「あさひな三郎」との齟齬も無視できない。
源平合戦の時代と違って北條氏の覇権は全国に及んでおり、隠れられる土地もないはず。
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また「五百騎、船六艘」は如何にも多過ぎる、せいぜい一割程度と考えるべき。そうでないと義秀よりも動員力のある横山一族の人数が少な過ぎて不合理になる。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月4日
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吾妻鏡
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古郡左衛門尉兄弟は甲斐国坂東山波加利の東、競石郷二木で自殺した。和田新左衛門尉常盛(42歳)と横山右馬允時兼(61歳)は坂東山償原別所で自殺した。時兼は横山権守時廣の嫡男で伯母(時廣の妹)は義盛の妻(側室)であり、その妹は常盛に嫁している。これが今回の謀叛に与した経緯である。両人の首は今日鎌倉に届き、これで固瀬河近くに晒した首の数は234にのぼった。
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   ※波加利荘: 平安時代末期に横山荘を本貫とした武蔵七党・横山党の
横山義隆が現在の笹子トンネルの東京側にある初狩地区に入部して立荘、子息の忠重が古郡郡(上野原地区)に進出して古郡氏を名乗った。
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和田合戦に記録の残る保忠は忠重の子息か兄弟と思われる。本領の古郡から鎌倉までの距離は約100km、笹子峠を越えると武田信光の支配地だからここが限界か。
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横山氏の縁戚は武蔵国と相模国に広がっており、秩父氏・波多野氏・梶原氏・和田氏・渋谷氏などが義盛与党として和田合戦に加わる直接の根拠となった。
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北條氏側から見れば武蔵と相模での支配権を固める上での邪魔な存在だったと言える。
古郡氏と横山時廣に関する件は4月27日の吾妻鏡にも記載してある。
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右画像は上野原の鎮守 牛倉神社(山梨観光サイト)、北側参道が甲州街道に面している。
この辺が古郡氏の本拠と推定できる。
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辰刻(朝8時前後)に将軍家(実朝)は頼朝法華堂から東御所(尼御台所政子の邸)に入御された。
その後に幔幕で囲った西御門に於いて合戦で負傷した軍士を集めて検分した。奉行は山城判官二階堂行村が務め、金窪行親安東忠家がこれを補佐した。傷を負った者は概ね188人である。
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同様に負傷した相模次郎(北條朝時)も匠作(北條泰時)に支えられ、御所の庭を経て小御所の東面に入った。
朝夷名三郎義秀と戦って傷を負い歩行に支障があるためで、年老いた宿老はこの姿を見て涙を流した。
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次いで将軍家(実朝)から将兵が挙げた勲功について問い掛けがあった。波多野中務丞忠綱がこれを受けて、「米町と政所では二度の一番乗りを果たしました。」と申告した。これに対して三浦義村「米町については異論なし、しかし政所前の合戦では私が先頭でした。」と抗議の声を挙げ、南庭で喧々諤々の議論になった。
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相模守北條義時は忠綱を裏手に招いて声を潜め「今回の合戦が無事に終わったのは偏に義村の忠節(義盛を裏切った事)による。米町の合戦で先駆けしたのは異論がないのだから、政所前での件は争わず義村に譲ったらどうか。そうすれば勲功も間違いない。」と勧めた。
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忠綱は「武士が戦場に向かう時は先駆けこそが本意である。私は家業を継いで弓馬の道に携わるからには何回でも一番乗りを果たす所存であり、一旦の褒賞に満足して将来まで名を汚すつもりはない。」と答えた。
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これによりやむを得ず、真偽確認のため両名を北面の藤の小庭に呼び、将軍家の前で審査することになった。水干姿の相模守北條義時と大官令大江廣元、直垂姿の民部大夫二階堂行光だけが広縁に控え、行光が奉行(軍奉行に任じている)として最初に義村を、次に忠綱を招き入れた。
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両名は簀子の圓座(藁などで編んだ円形の敷物)に座って対決した。まず義村が「義盛が襲来した際には私が最前に進み南に向けて矢を放った。私より前には誰もいなかった。」と述べた。忠綱は「先頭を進んだ武士は私だけだ。義村は私の息子経朝と朝定らの背後にいたのに、忠綱が見えなかったとは盲目なのか。」と応じた。
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これによって同じ場所で戦っていた皇后宮少進・山城判官次郎・金子太郎らを呼んで確認すると「先頭に進んだのは赤皮威の鎧を着して葦毛の馬に跨った武士」と答えた。これは忠綱であり、その馬は北條義時から拝領した「片淵」という名である。義盛と親しくしていた者もこれを確認した。
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   ※波多野忠綱: 波多野義通の次男とされている。義盛に与して死没した三郎(義定)は次弟だから兄弟が敵味方
に別れて戦ったことになり、義定の生母が横山氏の娘だった可能性がある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月5日
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吾妻鏡
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和田義盛横山時兼ら謀反人の所領と美作・淡路など守護職、横山庄などは没収して恩賞に充てる事となり、相模守北條義時と大官令大江廣元がこれを差配した。また侍所別当は義盛の後任として北條義時を宛てた。
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また去る3日に由利中八太郎維久が匠作(北條泰時)を射た件は義盛に与した意図的な行為なので究明せよとの仰せがあり、その矢を提出させると姓名が明確に書いてあり、将軍家(実朝)は「間違いないだろう」と怒った。
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   維久は「味方と共に戦っていたのは武蔵守(北條時房)殿が御存知ですから確認を願います。」と述べた。
   時房は「維久は若宮大路で保忠に向け何度も矢を放って撃退した。多分彼らが射返した矢だろう」と説明した。
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それでもなお、将軍家の怒りは鎮まらなかった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月6日
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吾妻鏡
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岡崎余一左衛門尉實忠の父子三人が(謀反人として)斬首された。
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申刻(16時前後)に将軍家(実朝)が前大膳大夫大江廣元朝臣亭 に入御された。去る二日の御所焼失に伴う措置で、御台所(坊門信子)も南御堂から輿に乗って同様に入御された。尼御台所(政子)は元の御所に渡御された。
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また今日、北條義時は金窪左衛門尉行親を侍所所司に定め、二階堂行村・金窪行親・安東忠家らに命じて今回の合戦による戦死者と捕虜の姓名を記録せよと命じた。これは既に確認が済んでいるため直ちに提出し、将軍家の閲覧を経てから廣元朝臣に預けられた。
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   ※侍所所司: 次官だが、北條氏の陪臣が歴然たる幕府の公職に任じた最初となった。義時の宿願である。
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建暦三年5月2日から3日に討たれた者
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(和田の人々)  和田左衛門尉  同新左衛門  あさいな三郎  同四郎左衛門尉  同五郎兵衛
同六郎兵衛  同七郎  同新兵衛入道  同八郎  同五郎  同宮内入道  同弥次郎
同弥三郎     (小者と郎党は記録せず) 以上13人
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横山の人々   横山右馬允  やないの六郎  平山次郎  同小次郎  あいはら太郎  同小次郎  同籐五郎
たなの兵衛  たなの太郎  岡次郎  小山太郎  ちちう次郎   同太郎  同次郎  同五郎  古郡左衛門  同五郎  同六郎  同おい一人  同弟二人  同次郎  くぬきたの太郎
同次郎  同五郎  同三郎  同五郎  同又五郎  横山六郎  同七郎  同九郎  以上31人
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土屋の人々   大学助  同新兵衛  同次郎  同三郎  同四郎  薗田七郎  同太郎  同次郎
やきゐの太郎  同次郎  以上10人
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山内の人々   山内左衛門  同太郎  同次郎  岡崎左衛門尉  同太郎  同次郎  由井太郎  高井兵衛
ふくいの小次郎  同七郎  大多和四郎  同五郎  大方小次郎  同五郎  成山四郎
同太郎  同次郎  高橋の小次郎  土肥左衛門太郎  同次郎  以上20人
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渋谷の人々   渋谷次郎  同三郎  同五郎  同小次郎  同小三郎  小山四郎  同太郎  同次郎
以上8人
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毛利の人々   毛利太郎  同小太郎  同小次郎  同もりへの五郎  おい一人  むこ一人  渋河左衛門
同小次郎  同左衛門太郎  同次郎   以上10人
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鎌倉の人々   梶原刑部  同太郎  同小次郎  宇佐美平太左衛門   大庭小次郎  土肥小太郎
豊田平太  四宮三郎  同太郎  愛甲小太郎  同三郎  同五郎  金子太郎   以上13人
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(その他)      逸見五郎  同次郎  同太郎  海老名兵衛  同太郎兵衛  同次郎  同三郎  同四郎
おきのヽ八郎  六浦三郎  同平三  同六郎  同七郎  松田三郎  同小次郎  同四郎
同六郎  同七郎  あいたの三郎  同四郎  さヽのふの六野太  波多野三郎  同太郎
同彌次郎  こさの入道  同禅師八郎  同五郎  塩谷三郎  同太郎  かせの彌次郎
しらねの與三次郎  さなたの春八  かたひうの彌八  同太郎  同次郎  同三郎
つくいの七郎   以上37人(小者と郎党は記録せず)
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捕虜にした者  愛甲右衛門  同太郎  おほちの三郎  村岡五郎  同太郎  同三郎  同四郎
をきのヽ彌八郎  同太郎  富田太郎  三浦高井太郎父子(各々兼ねて出家す)   小高太郎
同次郎  金子與一太郎  同與次  宇佐美平左衛門  しぬきの野三  同太郎
ふかさわの次郎  こまの太郎  高田太郎  同中八太郎  同四郎  こもの次郎(つくしの人)
園田六郎  同太郎  むかいの四郎   以上28人
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味方の戦死者  筑後四郎兵衛  壱岐兵衛  同四郎  安東四郎兵衛  いなの兵衛  そめやの刑部  同太郎
こがの三郎  ひちかたの次郎  大ぬきの五郎  小河馬太郎  たかへの左近
ときかやの四郎  神野左近  うち山八郎  新平馬允  富所次郎  同小次郎  籐次郎
同太郎  ぬまたの七郎  同次郎  五條の七郎太郎  林太郎  黒田弥平太  平野與一
とい岡五郎  河井籐四郎  山田次郎  西山太八  同太郎  片山刑部太郎  同八郎太郎
したかの小次郎  泉六郎  松本九郎  籐三  蓮乗坊  こんのヽ左近  同八郎
たか井兵衛  林内籐次  つくいのさい太郎  五十嵐小豊次  籐五郎  富士四郎
栗林加藤次  つくしの税所次郎  殿岡五郎  足洗四郎  與田小太郎  おしたかの三郎
       以上51人(その他、負傷した源氏の侍は千余人)
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   ※あさいな三郎: 5月3日に載っている「朝夷名三郎義秀(38)は船で安房国に落ち延びた」との整合性が問題
になる。3日には船で逃れたが三浦か安房で追捕されたと考えるのが妥当か。
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   ※集計すると: 和田勢の戦死者と捕虜の合計は142名、北條勢の51名も勝利した割には多い。特に目に付く
名前としては...梶原刑部朝景(景時の末弟)、愛甲三郎季隆、大庭景義の次弟豊田平太、大庭小次郎(景義の嫡男景兼か)、土肥小太郎(惟平の嫡子)、などなど。横山・土屋・山内・渋谷・鎌倉など、平安時代末期から武蔵と相模を駆け抜けていた一族の滅亡は寂しい限りだ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月7日
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吾妻鏡
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(和田合戦の)勲功について、主な件は今日決定した。波多野中務丞忠綱の軍功が無双だったのは間違いないが、将軍の御前で対決した際に「義村は盲目なのか」と悪口を述べたため功績と相殺する。子息の次郎経朝の功績については、これを認める。また由利中八太郎は遂に所領を没収される結果となった。
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甲斐国波加利本庄(大月市初狩・地図))は武田冠者信光
同新庄(隣接地域か)は嶋津左衛門尉忠久
同国古郡(上野原・地図)は加藤兵衛尉(加藤景廉の孫で景朝の子景長)
同国岩間(市川三郷町・地図)は伊賀次郎左衛門尉光宗
同国福地(福地郷は猿橋の一帯・地図)は鎌田兵衛尉
同国井上(笛吹市御坂町・地図)は大須賀四郎胤信
相模国山内庄(横浜市戸塚区から栄区にかけての広大な土地・土肥惟平領・地図)と
     菖蒲(秦野市菖蒲・波多野領・地図)は相模守北條義時
同国大井庄(足柄上郡大井町・地図)は山城判官二階堂行村
同国懐島(茅ヶ崎市円蔵一帯・大庭景義伝領・地図)は山城四郎兵衛尉(行村の嫡子基行・後に評定衆)
同国岡崎(平塚市岡崎一帯・土肥惟平領・地図)は近藤左衛門尉(古庄能直か)
同国渋谷庄(大和市福田一帯・渋谷領・地図)は女房因幡局
坂東田原は志村次郎
武蔵国長井庄(斎藤実盛を経て横山党が領有・熊谷市北部・地図)は籐九郎次郎(安達盛長の弟時長)
横山庄(八王子市~日野市一帯・横山時兼領・地図)は大膳大夫大江廣元
上総国飯富庄(千葉県袖ケ浦市一帯・地図)は武州北條時房
同国伊北郡(千葉県いすみ市、勝浦市、大多喜町一帯・和田義盛領・地図)は平九郎左衛門尉三浦胤義
同国幾与宇は籐内兵衛尉
常陸国左都(茨城県常陸太田市一帯・地図)は 伊賀前司朝光
上野国桃井(北群馬郡榛東村地図)は籐内左衛門尉秀保
陸奥国遠田郡(宮城県涌谷町と美里町地図)は修理亮北條泰時
同国三迫(宮城県栗原市と大崎市周辺地図)は籐民部大夫二階堂行光
同国名取郡(宮城県名取市と岩沼市一帯(地図)は平六左衛門尉 三浦義村
同国由利郡(秋田県由利本荘市とにかほ市一帯(地図)は大貳局
金窪(埼玉県児玉郡上里町一帯(地図)は左衛門尉金窪行親  金窪が金窪って、ジョークか?
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今日、北條義時は大倉邸から若宮大路邸に移り、祇候人(御内人・陪臣)らに勲功の賞を与えた。
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   ※義時と廣元: 壽永二年(1183)閏2月23日の野木宮合戦の鎌倉勢に鎌田為成の名がある。鎌田政家の子の
可能性がある俊長か、年齢的に無理か。
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   ※義時と廣元: 義時が山内庄で廣元が横山荘とは、自民党並みのお手盛配分だ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月8日
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吾妻鏡
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山内刑部大夫経俊和田義盛に与していた山内先次郎左衛門尉(既に出家)を生け捕った。兼ねて交際のあった経俊邸への出頭である。また遠江守源親広が京都から到着した。修造中の塔婆の完成供養が終って去る二日に出京し途中で合戦の話を聞いて急行したとの事。
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夜になって修理亮(北條泰時)が御所に入った。これは去る5日に受けた勲功の恩賞を辞退し大江廣元を介して御下文を返却するためである。辞退を許さずとの仰せが再三下され、理由を問われた泰時が答えた。
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義盛は将軍家に反逆する心を持たず、私が戦ったのは父の相模守(北條義時)に従ったからです。謀叛が起きた際に防戦した御家人の多くが命を落しましたから、私への恩賞は彼らへの勲功に加えてください。
私は父の敵と戦っただけで、これは恩賞に値するものではありません。
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多くの御家人がこれに感嘆したが将軍家(実朝)が仰せを撤回する事はなかった。
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   ※行動の美化: 時代が下るにつれ、時政<義時<泰時<時頼<時宗の順に執権の評価が高くなるから吾妻鏡
は面白い。編纂した時代(1300年頃?)には近親者が生存している権力者の悪口は書けない、だから義時が畠山重忠を謀殺したり父の時政を失脚させた事実も曲筆する必要があった、と考えるのも面白い。時政を逆臣っぽく表現するのは義時&政子連合の賛美だからね。
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この事大主義は、例えば内閣法制局の横畠長官や自民・公明の国会議員や、その他多数の「政治評論家」など醜い日本人が伝統のように引き継いでいる。
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   ※事大主義: 信念の有無に関係なく、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度や考え方。
つまり、彼らは将軍様の演説に「マンセー」を叫ぶ北朝鮮の側近と同じレベル、ということ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月9日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣の奉行として、御教書を在京の御家人に送付した。相模守(北條義時)と大官令大江廣元がこれに連署し、将軍家(実朝)の花押を加えてある。在京御家人の鎌倉参向を禁じる。関東の情勢は鎮静しており、御家人は院の警護に専念せよとの内容である。
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また謀叛の与党が鎮西方面にも逃げたとの情報があるため対応せよとの指示を佐々木左衛門尉廣綱に下した。
夜になって近江・美濃・尾張の御家人が鎌倉に入り、農民が落ち着かず農事が手に付かない状態と報告した。
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今日、追加して勲功に関する御下文の発行があった。伊賀前司朝光ら数輩が対象である。また和田平太胤長が配所の陸奥国岩瀬郡鏡沼の南付近で誅殺となった(31歳)。
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   ※和田胤長: 流罪となった3月17日の項を参照。妻が入水自殺した伝承が残っている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月10日
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吾妻鏡
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日光山の別当但馬法眼弁覚が勲功の恩賞を受けて御所に参上し、相模守(北條義時)を介して、僧でありながら合戦に加わった忠節を賞賛された。弁覚は「将軍家の長寿を祈祷しましたから呪詛などは全て排除されます。ましてや形のある敵など敵対できるものではありません」と述べ、鎮西の土黒庄を拝領した。
また出雲守長定も同じく恩賞を受けた。
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   ※日光山: JR宇都宮駅から1kmの距離にある現在の宇都宮二荒山神社(公式サイト・地元では「二荒さん」と
呼ぶ)を差す。保元元年(1156)には日光山造営に尽力した功績により源義朝が下野守に任じ、文治二年(1186)には頼朝が寒河郡の水田15町を寄進するなど源氏との関係が深く、座主の弁覚は再三の祈祷を行っていた。中禅寺湖畔にある日光二荒山神社(公式サイト)とは全く別だが正式名称は共に二荒山神社なので通常は地名を冠して記載している。
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   ※出雲守長定: この人物の詳細は3月28日に記載してある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月15日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に二度の地震があった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月17日
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吾妻鏡
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先次郎左衛門尉政宣の所領である武蔵国大河戸御厨の中の八條郷を式部大夫重清に与えた。但し地頭の渋江五郎光衡は従来の通り安堵するとの仰せがあり、相模守(北條義時)と大官令大江廣元がこれを差配した。
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   ※先次郎政宣: 確証は得られないが、土肥遠平の息子惟平が山内荘地頭に任じて山内先次郎政宣を名乗って
いた可能性が認められる。土屋氏の同族として義盛に味方し、無関係を貫き通して安芸国沼田荘を安堵された遠平を覗いて一族は滅亡している。
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   ※大河土御厨: 現在の松伏町と越谷市にまたがる古利根川の流域で、北側を下河邊荘に接している。
元々は源氏相伝の所領で、平家が押領していたらしい。中川沿いに現在も八條の地名(地図)が残り、少し南の淵江は渋江の転化らしい。更に詳細は八潮市立資料館のサイトで。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月21日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に大地震。地鳴りと共に家屋が崩壊し山崩れや地割れが発生した。
近年の東国では起きていなかった地震である。陰陽師は「25日以内に兵乱があるだろう」との占いを報告した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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5月22日
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吾妻鏡
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関東の飛脚らが京都から帰着した。最初の使者は去る8日の戌刻(20時前後)に、次の飛脚は同14日の丑刻(深夜2時前後)に入洛した。これによって洛中には様々な噂が流れ、院からは流言飛語の禁制令が発せられた。
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また在京の御家人が 鎌倉に向かおうとしたためこれを禁止し、洛中の警固に専念せよとの命令が下された。佐々木左衛門尉廣綱は自分の飛脚を介して状況を把握し、五條大夫判官有範(有範と廣綱は各々坊門忠清殿(坊門信清の嫡男)から馬を与えられた)を伴って出発する直前だったが将軍家の御教書が到着した事によって京に留まった。
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また去る14日、故掃部頭中原親能入道の猶子である左衛門尉(大友)能直が六波羅に在宅中で、縁戚関係にある三浦一族が警護に任じた。小野六郎左衛門尉成時(大夫尉小野義成の子)が筑紫から上洛して金吾(衛門府の唐名、ここでは中原能直)を討つ意思を抱いていたが院の禁止により無事だった。
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   ※大友能直: 横山党と縁戚関係にある能直を小野義成が狙い、同じく縁戚の三浦氏能直を警護した図式。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月2日
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吾妻鏡
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今日、寿福寺長老の栄西が京都から参着した。かねてから大師号を所望していたが先月3日に協議の結果があり、生存中の大師号は前例がないため、4日に権僧正に任じる決定があった(元は権律師)。
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   ※大師号: 朝廷から高徳な僧に贈る尊号。ほとんどは死後に贈る諡号だった。鎌倉時代までの大師号は下記。
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伝敎大師最澄(天台宗・822年没)   弘法大師空海(真言宗・835年没)
道興大師実慧(真言宗・847年没)   道興大師実慧(真言宗・847年没)
慈覚大師円仁(天台宗・864年没)   法光大師真雅(真言宗・879年没)
智証大師円珍(天台宗・891年没)   本覚大師益信(真言宗・906年没)
理源大師聖宝(真言宗・909年没)   聖応大師良忍(念仏宗・1132年没)
円光大師法然(浄土宗・1212年没)  興教大師覚鑁(真言宗・1143年没)
月輪大師俊芿(真言宗・1227年没)  証誠大師一遍(時宗・1289年没)
承陽大師道元(曹洞宗・1253年没)  常済大師瑩山(曹洞宗・1325年没)
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見真大師親鸞(浄土真宗・1262年没)は明治九年(1876年)に追贈
立正大師日蓮(日蓮宗・1282年没)は大正十一年(1922年)に追贈
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月3日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に地震を避けるための祈祷を行った。不動明王に祈る護摩法要は隆宣法橋、金剛童子法(密教の修法)は豪信法眼、更に安倍泰貞が天地災変祭を催した。駿河守大内惟義がこれを差配した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月8日
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吾妻鏡
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千葉介盛胤の沙汰により属星祭(開運のため当年の星を祭る)、大夫安倍宣賢がこれを実施した。 故中原親能入道邸の亀谷堂に参籠、美作蔵人朝賢が将軍家の代参を務めた。先月二日の合戦に勝利する御立願の御礼である。
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   ※千葉介盛胤: この時代の千葉介は胤正(1203年没)の跡を継いだ千葉成胤。盛と成の誤記だろう。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月12日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に騒動が勃発、御家人らが甲冑を着して御所(現在は大江廣元邸を代用)に駆け付けたが事件は誤報なのですぐに鎮まった。只事ではない可能性もある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月25日
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吾妻鏡
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廣澤左衛門尉實高が備後国から帰参した。これは海陸で蜂起した賊徒を鎮圧する任務を帯びて一昨年から下向していた者だが、和田義盛に協力し実戦用の矢百腰(一腰は24本)を送ったとの讒訴があったため在京の御家人に追討を命じる手筈だった。それを知らない實高が今日鎌倉に参着した経緯である。友人の知らせを受けた實高は一族の波多野中務次郎経朝らを伴って御所に参上し、大江廣元朝臣を介して事情を説明した。
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実戦用の矢は義盛の為ではありません。侍所別当の義盛から「特別の仰せを受けた」との指示により忠節を尽くすため送った物で、義盛からの書状を確認すれば明白です。直ぐに訴えた者を呼んで下さい。もしも義盛に与した証拠があるなら罪を免れる意思はありませんが、根拠のない讒訴は許し難い行為であります。
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義盛の書状を見ると確かに「仰せ」の字が載っており、それ以上追求する理由もない。實高は側近として長年の実績があり、二心を抱かない人物でもある。今回の説明も筋が通っているため元通りに仕えるよう将軍家 (実朝)から直接の仰せがあった。
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   ※廣澤實高: 波多野義通の四男。「藤原秀郷の系図」で12代の子孫(藤原経範の系)に当たる。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月26日
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吾妻鏡
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相模守北條義時と武蔵守北條時房と大官令大江廣元が御所新造の日程について協議、陰陽師の大允安倍親職・大夫安倍泰貞・安倍宣賢が連署した意見書を提出した。これは去る五月の合戦で焼失した件への対応である。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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6月29日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に光る物が北から走って岡の如く天地を照らし南に消えた。人々は人魂か流星か、と語り合った。
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   明月記にも「夜になって巽(東南)の方角に炬火のような光物があった(後に流星と聞いた)」との記載がある
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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7月7日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に大地震。今日、御所(和田合戦で焼失したため現在は大江廣元邸を代用)で和歌の会あり。相模守北條義時・修理亮北條泰時東平太重胤が座に加わった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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7月9日
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吾妻鏡
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新しい御所造営の犯土(地鎮祭)および将軍家実朝の御方違え(方角改め)について、民部大夫二階堂行光の差配により協議を行った。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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7月11日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が御所(廣元邸の仮御所)に参上し酒宴を献じた。義時が「去る5月の合戦で義盛に与した富田三郎の大力は桁違いで、鼎を投げて石を砕くほどです。」と語り、実朝はその技を見るために富田を呼び寄せた。
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伊東七郎が富田を伴って参上し寝殿西面の縁に控えた。御所からは奥州で獲れた大鹿の角(長さ2尺・巾7寸)二本を出し、富田は仰せに従って2本を一度に折って見せた。満座の者は感嘆し、将軍家も感心した挙句に囚人の身分を赦免する旨を仰せになった。義時は直ちに金窪左衛門尉行親に命じて仰せに対処した。
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   ※金窪行親: 義時の家臣。和田合戦の勲功により5月6日に陪臣ながら御家人待遇の侍所所司に任じている。
   ※伊東七郎: そのまま読めば伊東祐時の四男祐明(田島氏の祖)だが年令的に妥当か否かは微妙。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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7月20日
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吾妻鏡
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故・左衛門尉和田義盛の妻(横山権守時兼の妹)が赦免を得た。彼女は豊受太神宮七社(伊勢神宮外宮)の禰宜・度會康高の娘で、夫の謀叛によって所領を没収され更に囚人待遇となっていた。
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その所領は伊勢神宮の御厨(遠江国の鎌田)であると禰宜らが申し出たため神宮に返還し、併せて赦免の措置を受けた。伊勢神宮を敬う心が他と異なるのが決裁の根拠である。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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7月23日
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吾妻鏡
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御所の新造について決裁があり、今日御前に於いて細かい指示が下された。新たに中門を設けるなど少々の変更があり、江右衛門尉(大江範親)と籐民部大夫二階堂行光がこの奉行に任じる。
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夕方になって大友左衛門尉大友能直が京都から帰参した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月1日
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吾妻鏡
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御所の新築に伴い将軍家実朝は御方違え(方角改め)のため東殿(尼御台所(政子)の御第)に渡御された。
ここを御所とし、改めて転居される。相模守北條義時と大官令大江廣元が将軍家に従った。
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   ※御方違え: 十二所の廣元邸は御所から見ると東南東、邦楽の良し悪しを計算すると大倉御所の敷地にある
実朝邸と政子邸の位置が推定できる、かも。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月3日
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吾妻鏡
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今日申刻(16時前後)に御所の上棟式が行われ、相模守北條義時以下 多数の御家人が参席した。
ちょうどその時刻に理由が判らないまま御家人が走り回る騒ぎが起きた。義時が金窪行親安東忠家等に沈静化を命じ、程なくして鎮まった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月6日
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吾妻鏡
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新造御所の襖絵が将軍家の御意に叶わず、職者(故実に詳しい者)にそれを伝えたり尋ねたりした。その意向を書いた書状を佐々木太郎左衛門尉廣綱に伝えるため紀伊刑部次郎を京都に派遣した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月14日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が参着して次の通り報告した。
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先月25日に清水寺(公式サイト)の僧が一堂を建立したのだが、その土地が清閑寺(京都観光ナビ)領を侵していたため、これを怒った僧が訴訟を起こした。清閑寺を末寺とする比叡山(延暦寺(公式サイト)も清水寺を咎めて衆徒が長楽寺(公式サイト)に集結し、清水寺を末寺とする南都 興福寺(公式サイト)の衆徒もこれに対抗して今月3日には清水寺に砦を構えるという騒ぎになった。
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朝廷は検非違使の平有範・大内惟信後藤基清を派遣し清水寺の砦を破却して武装を解き、法衣を着して仏前に留まる事を了承させた。
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次に院の職員長季を長楽寺に派遣して同様の自制を求めたが所司の法師らが応対しただけで、承服する言葉は得られなかった。
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長季は更に衆徒に面会して綸言を伝えようとしたが、悪僧が応対し「身命など惜しくはない、綸言など聞くに及ばず」などの暴言を吐いた。
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院の職員は取り敢えずの恥辱を避けて退去したが、その間にも石礫が飛んでくる状態だった。駆け戻ってこの内容を奏聞すると「北面の武士と在京の御家人・近臣の家人に命じて寺を囲み一人残らず捕縛せよ」との宣下が発せられ、招集を受けた武士は先駆けを競って進んだ。
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これより前に近江守大内の源頼茂は別働隊を寺の東の峰に派遣し、山にいた悪僧を生け捕って旗を掲げ、峰に逃げ登って来る僧を追い落とした結果大きな戦いには発展しなかった。
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派遣した武士たちは捕虜にした衆徒の武装を解いて連行し、後鳥羽院から御褒めの言葉を受けた。生け捕りは凡そ30人、討ち取った者は10余人である。同6日に比叡山の衆徒は全て山から退去させられた。
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根本中堂(wiki)と常行三昧堂は板と釘で閉鎖され、常灯も消えてしまった。日吉大社(公式サイト)を初めとする七社の御簾と神鏡を断ち落として門を閉鎖し、神官は追放の措置となった。天台宗の仏法もこれで滅亡だろうかと思われる。    右画像は該当する三ヶ寺の配置図(クリック→ 拡大)
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   ※不滅の法灯: 最澄が比叡山を開いてからこの時まで400年以上消さずに守った灯明。元亀二年(1571)の
織田信長による焼き討ちで途絶えた際は山形市の立石寺(公式サイト)に分けていた法灯を移したと伝わっているが、今回(建暦三年)のケースは弁解が載っていない。
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壇ノ浦で海に沈んだ草薙の剣(天叢雲剣)が実は熱田神宮に...の類と同じ捏造だろう。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月17日
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吾妻鏡
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京極侍従三位(藤原定家)、二條中将飛鳥井雅経朝臣を介して和歌の書物などを将軍家(実朝)に献上した。
これは将軍が探しているとの話を伝え聞いたためで、その書物などは今日大江廣元朝臣を介して直ちに(仮の?)御所に届けられ、将軍家をとても喜ばせた。
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   ※(仮の?)御所: 翌18日に「子刻に将軍家南面に出御され」の記載がある。翌々日の正式移転を待たず新造
の大倉御所で執務していた可能性もある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月18日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に将軍家(実朝)が南面(公式の場)に出御された。既に灯火も消えて人も寝静まり、月の輝きと虫の音が心に染み入るばかり、将軍家はここで和歌数首を詠んだ。
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丑刻(深夜2時前後)に至り、夢を見ている如くに若い女が前庭を走り過ぎ、何度も問い掛けても遂に名乗らないまま門の外に出た頃に松明の如くに光る物が現れた。 直ちに宿直の者に命じて陰陽の少允安倍親職を呼び、着物を裏返しに羽織るほど急いで参上した親職に今までの経緯を伝えた。親職は「問題になるような変異ではありません」と答え、念のため南庭で招魂祭を行った。将軍家は今夜着していた御衣を親職に与えた。
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   ※招魂祭: 生きている者から遊離した魂を呼び戻す陰陽道の祈祷。実朝の狂気を暗示しているのか。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月19日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に大地震あり。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月20日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が新造の御所に移転の儀式を行った。京都に手配した牛車の到着が遅れたため御輿を用いて、酉刻(18時前後)に大江廣元邸から新しい御所に入御された。大須賀太郎道信(大須賀太郎胤信の嫡子)の索く黄牛の車である。
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  随兵
    三浦左衛門尉義村       武田五郎信光
    小笠原次郎長清         三浦九郎右衛門尉胤義
    波多野中務丞忠綱       佐々木左近将監信綱
    小山左衛門尉朝政       籐右衛門尉景盛
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  前駆
    前右馬助範氏        伊賀左近蔵人仲能
    右馬権助宗保        兵衛大夫季忠
    三條左近蔵人親實     橘三蔵人惟廣
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  殿上人 出雲守長定  3月28日の条に明細を記載してある。
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  (将軍家の)御輿(御簾を上げ御束帯)
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  御劔の役 修理亮北條泰時   御調度懸け 勅使河原小三郎則直
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  御後に従う者
    相模守北條義時          駿河守大内惟義
    武蔵守北條時房          前大膳大夫大江廣元
       以下数輩(これを略す)
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    蔵人大夫美作朝親       左衛門大夫大内惟信
    前皇后宮権少進盛景(?)   伊賀守朝光
    筑後守頼時          狩野民部大夫行光
    山内刑部大夫経俊       善民部大夫康俊
    結城左衛門尉朝光       伊賀太郎兵衛尉光季
    中條右衛門尉家長       加地五郎兵衛尉義綱
    堺平次兵衛尉常秀       葛西兵尉清重
    塩谷兵衛尉朝業         天野右馬允泰高(?)
    廣澤左衛門尉實高      大友左衛門尉義直
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  廷尉 山城判官二階堂行村

将軍家の御輿が南門に入御する時に陰陽少允安倍親職(束帯を着す)が水と火に模した童女を伴って反閇に任じた。 将軍家は西廊で御輿から降り、反閇に続いて寝殿に入御された。大江廣元は「転居の際は反閇を介せず直接寝殿に入るのが本来の作法だ」と繰り返して不満を述べた。
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次に尼御台所(政子)が入御され、遠江守源親廣・狩野民部大夫行光が輿を付ける場所に控えた。 次に安倍親職が左近蔵人仲能を介して褒美の五衣を下賜されて親職一礼した後に退出、その後に椀飯と献盃等の儀が行われ、相模守北條義時吉書を持参 、将軍家は寝殿の階段の間でこれを御覧になった。
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戌刻(20時前後)に安倍泰貞が七十二星西岳真人(陰陽道の護符)を新御所の天井裏に置いた。
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   ※勅使河原規直: 武蔵七党の一つ・丹党の武士で児玉郡勅使河原郷を本領とした。文治五年(1189)7月1日
に記載のある勅使河原有直の嫡子。
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   ※筑後守頼時: 源姓の実務官僚。検非違使、筑後守を経て建暦二年(1212)に地頭職を務め鎌倉に常駐。
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   ※加地義綱: 佐々木盛綱の四男として越後加地荘を継承した加地信実の四男で倉田氏の祖となった武士。
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   ※廣澤實高: 波多野義通の四男。「藤原秀郷の系図」で12代の子孫(藤原経範の系)に当たる。
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   ※反閇: 貴人の移動に際して無事を祈って陰陽師が行う歩き方による呪法。
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   ※五衣: 男性が参内する際に着す正式の装束。袍(うえのきぬ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・単(ひとえ)・
引倍木(ひきへぎ)の五種でひとそろい。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月22日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)、鶴岡八幡宮上宮の神殿に黄色の蝶の集団が現れ、人々はこれを不審に思った。
今日、大友左衛門尉義直が京都に向かった。比叡山衆徒が起こした騒動(8月14日)についての使節である。
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西暦1213年
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84代 順徳
.
建暦三年
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8月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が大江廣元朝臣の屋敷に入御された。新造の御所からのの外出初めである。供奉人は次の通り。
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  随兵
小山左衛門尉朝政  三浦九郎右衛門尉胤義  籐右衛門尉景盛  佐々木左近将監信綱
善右衛門尉康盛  武田五郎信光  伊豆左衛門尉頼定  大井右衛門尉實平  狩野民部大夫行光
伊賀太郎兵衛尉光季
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  前駆
前右馬助範氏  右馬権助宗保  伊賀左近蔵人仲能  三條左近蔵人親實  橘三蔵人惟廣
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  殿上人 出雲守長定  3月28日の条に明細を記載してある。
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  御後
北條義時  駿河守大内惟義  武蔵守北條時房  遠江守源親廣  修理亮北條泰時
駿河左衛門大夫大内惟信  美作左近大夫朝親  伊賀守朝光  前皇后宮権亮盛景  筑後守頼時
山内刑部大夫経俊  善民部大夫康俊  籐民部大夫行光  三浦左衛門尉義村  結城左衛門尉朝光
中條左衛門尉家長  小野寺左衛門尉秀通  加藤左衛門尉景長(景廉の子)  嶋津左衛門尉忠久
宇佐美右衛門尉祐政(祐茂の嫡子)  佐貫兵衛尉廣綱  江兵衛尉能範  江左衛門尉能親
天野右馬允泰高(?)  堺兵衛尉常秀  波多野中務丞忠綱
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  検非違使   山城判官二階堂行村
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   ※三善康盛: 康信康清の系だと思うが系図には見当たらない。
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   ※伊豆頼定: 左衛門尉で頼定なら伊豆守に任じていた森左衛門尉頼定(陸奥義隆の次男)だろう。
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   ※大井實平: 畠山重忠と共に永福寺造園で大力を発揮した御家人大井實春の息子、だと思う。
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   ※大江能範・能親: 大江氏の一族だが廣元と直接の縁戚関係はない。共に西面の武士か。
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   ※筑後守頼時: 源姓の実務官僚。検非違使、筑後守を経て建暦二年(1212)に地頭職を務め鎌倉に常駐。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月28日
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吾妻鏡
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去る22日に起きた鶴岡八幡宮での怪異について兵乱の兆しと言う者があり、卜占を行ったところ注意を要する旨の結果が出た。このため鶴岡八幡宮で百怪祭を催した。奉行は遠江守源親廣である。
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   ※百怪祭: 怪異を避けるために行う陰陽道の祭祀。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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8月29日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に大江廣元朝臣の息女(6歳)が死没。亥刻(22時前後)に地震あり。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月8日
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吾妻鏡
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豊前前司尚友が子息の内蔵允尚光と兵衛尉能尚を伴って京都から参着し、籐民部大夫二階堂行光の取次を得て将軍家 (実朝)に面会した。西国に於ける関東御領の年貢を扱うため在京する者である。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月10日
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吾妻鏡
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幕府に於いて女房(女官)による賭け事の勝負を催した。武蔵守北條時房と近江前司源仲兼と内藤右馬允知親だけが参加を許された。
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   ※源仲兼: 宇多源氏源仲章の弟で後白河院の近習として法住寺合戦を戦い、この年から実朝に仕えている。
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   ※内藤知親: 藤原定家の門弟で実朝の近臣。承元三年(1209)7月5日に実朝の和歌30首を京都の定家に
届け、8月13日に実朝宛の口伝書を預かり持ち帰った。承元四年(1210)9月13日には御所での和歌の会にも加わり、建暦元年(1211)5月には実朝に従って永福寺の近くへ郭公(カッコウ)の声を聞きに出掛けている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月12日
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吾妻鏡
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修理亮北條泰時が差配し幕府に於いて将軍家が駒を覧る催しがあった。奉行は御厩別当 三浦平六左衛門尉義村(御厩別当)が務め、見物人は千人(白髪三千丈か)にも及んだ。御覧の後には御家人に下賜せよとの仰せがあり、相模守北條義時がその人数を承って右筆に記録させた。
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鹿毛一疋を今日の護持僧  黒駮一疋を出雲守  葦毛一疋を大和前司  鴾毛一疋を三條蔵人
黒糟毛一疋を近江前司  鹿毛一疋を豊前兵衛尉  鴾毛一疋を内兵衛尉  瓦毛一疋を籐九郎次郎
栗毛一疋を内藤右馬允  赤葦毛一疋を当番の陰陽師
殿上人・僧・陰陽師の他は各々庭に入って馬を受け取り退出した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月18日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に永福寺の別当美作律師経玄が死去した。日頃からの痢病が原因と思われる。
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   ※痢病: 激しい腹痛や下痢を伴う病気で、主に赤痢・疫痢の類を差す。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月19日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)、日光山の別当法眼弁覚が使者を派遣して次のように報告した。
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畠山次郎重忠の末子である大夫阿闍梨重慶が当山の麓に隠棲して浪人を呼び集め、更に何かの祈祷に専心している。これは間違いなく謀叛を企てているに違いない。
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仲兼朝臣弁覺が使者の言葉を上奏し、将軍家(実朝)は近くにいた長沼五郎宗政に重慶を生け捕りして連行するように命令した。宗政はその場から帰宅せず家の子一人と雑色八人を伴って下野国に向け出発した。これを知った郎従が急いで後を追ったため鎌倉中が騒ぎになった。
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   ※法眼弁覚: 5月10日に和田合戦の恩賞を受けた人物。権力の掌握が明確になると必ず「ゴマスリ」が現れる。
権力に癒着して「ウィン・ウィン」を狙う連中、内閣法制局の某・横畠長官(笑)や御用学者や心卑しい評論家を筆頭に、本来なら心の平和を模索するべき宗教団体までバスに乗り遅れまいとする。
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殆どの宗教団体が「新安保法制(集団的自衛権の行使)は憲法違反」として反対する中で、最大の規模を誇る創価学会(代理人=公明党)は堂々と賛成したから凄い。日蓮も真っ青の豹変ぶりだ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が火取澤の一帯を逍遙された。これ秋の草花を様子を覧るのが目的である。
武蔵守北條時房・修理亮北條泰時・出雲守藤原長定(3月28日に記載)・三浦左衛門尉義村結城左衛門尉朝光・内藤右馬允知親(9月10日に記載)ら、和歌の道に携わっている者が同行した。
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   ※火取澤: 横浜市磯子区の地名で大倉御所からは8km程度、現在は「氷取沢」とされている(地図)。
火から氷に変わった経緯は判らないが、氷取沢市民の森(外部サイト)が当時の面影を伝えている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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9月26日
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吾妻鏡
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夜になって長沼宗政が下野国から鎌倉に戻り、重慶の首を斬って持ち帰った旨を報告した。将軍家は仲兼朝臣(9月10日に記載)を介して次のように勘気を表した。
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重忠は冤罪により追討された者だ。その末子の僧が謀反を企んだとしても何程の事ができようか。
そう考えたから生け捕りにして連行し、企みの有無を確認すべきと考えた。殺すとは軽率の極みである。
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宗政は眼を怒らして仲兼朝臣に反論し、分に過ぎる言葉を申し立てた。
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あの法師が叛逆の企てたのは疑いの余地がありません。生け捕って連行すれば女官や尼御台所(政子)が赦免を言い出すに決まっていると考えて首を斬ったのです。今後も同様の事例が起きたとすれば忠節に励む者がいなくなるのが必定で、これは明らかに将軍家の誤った判断であります。
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右大将家(頼朝)の時代には「恩賞を篤くせよ」との厳命が下されましたが私は納得せず、「民の無法を糺し武芸を重んじるのが本来の姿です」と申し上げました。
それが今では和歌や蹴鞠を本業となして武芸は廃れ、女性を重んじて勇士を必要とせず、没収した土地は女どもに与えています。榛谷四郎重朝の遺領は五條局に与え、中山四郎重政の遺領は下総局に与えました。
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仲兼は返答をせず座を起ち、宗政もそのまま退出した。
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   ※長沼宗政: 記録にはないが出仕停止になっている。翌月16日には勘気が解けて出仕が許された。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは9月の次が閏9月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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閏9月12日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、東の空に異変が現れた。丑刻(深夜2時前後)に地震あり。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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閏9月16日
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吾妻鏡
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左衛門尉小山朝政の申請により、舎弟の長沼五郎宗政を赦し、出仕禁止の措置を解いた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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閏9月17日
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吾妻鏡
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大地震あり。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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閏9月19日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、和田義盛に与した土肥先次郎左衛門尉惟平が梟首となった。囚人として数ヶ月が過ぎて赦免も期待されたが、結局はこの処分となった。
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   ※土肥惟平: 中村宗平-次男の土肥實平-嫡男遠平-嫡男惟平へと
続く。土肥遠平は源平合戦で得た安芸国沼田荘の所領を景平(平賀義信の子を迎えた養子)に継承させ惟平に土肥と早川(現在の小田原)を継承させていた。
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遠平は和田合戦の終結後も関与を否定し続けて所領を守り安芸に下向して生涯を終えたが、相模国に確保していた権益は北條氏に吸収される結果となった。
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処刑が遅れたのは頼朝挙兵に大功を挙げた土肥實平の子孫を尊重したい実朝の意向と、相模国の敵対勢力を駆逐したい北條義時の調整が長引いた結果、だろう。
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      右画像はJR東海道線湯河原駅近くの土肥一族墓所(城願寺) 画像をクリック→ 城願寺の詳細(別窓)へ
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月2日
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吾妻鏡
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将軍家実朝は御方違え(方位替え)のため相模守北條義時邸に入御された。出雲守藤原長定・武蔵守北條時房・遠江守源親廣・左衛門尉結城朝光・左衛門尉三浦義村・籐内左衛門尉季康らが供奉した。
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   ※籐内季康: 元は坊門信清の侍。娘の坊門信子が実朝の御台所として嫁した元久元年(1204)12月に彼女に
従って鎌倉に入った。承元二年(1208)7月22日には熊野御幸の後鳥羽上皇 に供奉した坊門忠信信清の嫡男)に駿馬を届けるため上洛した記録がある。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月3日
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吾妻鏡
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日中に御方違えの御所(義時邸)から新しい御所に還御され、その際に北條義時に御馬と御剣を下賜された。
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今日、書面により大宮大納言(西園寺公経)殿に申し入れるべき件があった。
朝廷による西国の幕府御領への臨時課税について、大江廣元「一切応じる必要なし」との考えを述べたが、将軍家(実朝)は「一方的な拒否は望ましい事ではない。今後は現地での判断は無理になるだろうから、事前に鎌倉の意向の概略を書状で知らせるように。」との指示を下した。
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前大膳大夫(大江廣元)は宿館に帰って御書を清書し、遠江守源親廣に託して御所との間を数回往復させて実朝の花押を頂き、京都に送るため籐民部大夫二階堂行光に下げ渡した。
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   ※実朝の意向: 朝廷との安易な協調が最終的には実朝に対する廣元の姿勢に影響した可能性はある、と思う。
もちろん私見だが、最終的に廣元は北條氏による実朝排除を黙認した...可能性がある。
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朝廷とは是々非々で対応し、鎌倉の利権を守る事で一族の存在価値を維持するべき廣元にとって好ましい存在ではなくなりつつあった筈だ。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月4日
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吾妻鏡
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惟宗尚友が帰洛の途についた。
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   ※惟宗尚友: 今年の4月1日と9月8日に尚友に関連する記事が載っている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月13日
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吾妻鏡
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夜に入って雷鳴あり。同時に御所の南庭で狐の鳴き声が再三あった。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月14日
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吾妻鏡
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昨夜の変異(雷鳴と狐の声)に対処して祈祷を行う運びとなった。大江廣元朝臣の奉行として鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺の供僧および陰陽師らに指示が下された。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月18日
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吾妻鏡
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武蔵国の新田開発状況を検査するため宗監物孝尚を派遣した。差配は図書允清原清定が任じた。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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10月29日
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吾妻鏡
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六波羅からの飛脚が鎌倉に参着。清水寺の僧らが寺領の在家を比叡山の末寺に寄付した事に伴って延暦寺の使者が清水寺の所領に立ち入ってきた。これに対して(清水寺を指揮下に含めている)興福寺の衆徒が怒って延暦寺を焼き払うべく出向こうとしている。再び官軍を差し向けるか否か、公卿が協議している、と報告した。
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   ※伝統の一戦: 8月14日に勃発した延暦寺vs 興福寺のトラブル第二弾か。天台宗と法相宗、因縁の対決。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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11月5日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に御所の周辺で騒動が起き、間もなく鎮まった。これは右衛門尉三浦平九郎胤義が女性問題で喧嘩になり、それに伴って一族が集まったのが経緯である。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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11月10日
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吾妻鏡
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夜になって故左金吾将軍家(頼家)の息子が御所で突然出家された。これは尼御台所 (政子)の計らいである。
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   ※頼家の息子: 長男の一幡は比企の乱(建仁三年・1203年)に死没、次男の 公暁は建暦元年(1211)9月に
八幡宮寺で出家し圓城寺で修業中、四男の禅暁は頼家暗殺(元久元年・1204年)後に出家して仁和寺に入っている。今回出家したのは三男の千寿丸(13歳・出家して栄実)で、2月に勃発した泉親衡の乱(和田合戦の前段)の際に次期将軍候補として親衡らに擁立されていた。
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ただし吾妻鏡には「若公」のみ、千寿丸あるいは栄実の名が載っていないため別人と考える説もある。いずれにしろ栄実は翌・建保二年(1214)11月に和田氏残党に擁立されて謀反を計画した嫌疑で在京の御家人に襲撃され自刃している。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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11月23日
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吾妻鏡
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京極侍従三位(藤原定家卿)が相伝の私本万葉集一部を将軍家(実朝)に献上した。これは二條中将(飛鳥井雅経)を介して問合わせたのが経緯である。去る7日に羽林がこれを受け取って鎌倉に送ったものを 大江廣元が御所に持参した。将軍家は大層喜ばれ、「何物にも優る重宝である」との仰せがあった。
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定家卿の所領は伊勢国小阿射賀御厨にあり、地頭の渋谷左衛門尉が不法な収奪をしているため悩んではいたが元々は世事に疎く、放置する状態で年月を過ごしていた。今回は大江廣元からの書状で「何か手助けできる事があれば」との申し出があり、農民を気遣って話した結果が地頭の不法停止の措置となった。これもまた、和歌の道によって得た結果である。
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   ※羽林: 近衛府、近衛中将、少将の唐名。また大臣家に次ぐ家系を差し、飛鳥井家はそれに含まれる。
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   ※小阿射賀御厨: 伊勢外宮の御厨で現在の三重県松阪市大阿坂町・小阿坂町付近(地図)。平家没官領として
地頭が置かれ、藤原道長の六男長家を外する定家が領家となっていた。
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明月記(藤原定家の日記)に拠れば、私本万葉集を実朝に送った礼が地頭への措置ではなく、鎌倉への訴えが認められた事に対して定家が私本万葉集を贈ったのが経緯、としている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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11月24日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に将軍家(実朝)が永福寺に御参り。恒例の一切経法会である。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵全てを纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)・承元三年(1209)・建暦元年(1211)・建暦二年(1212)の3月3日(上巳節句)にも開催しているから、上巳節句(3月3日)通例の法会としても完全に定着している。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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11月30日
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吾妻鏡
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六波羅の飛脚が到着して次の通り報告した。
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南都の騒乱については官軍を遣わして対応した結果、去る20日に衆徒は宇治から支障なく退去した。関東から使者として派遣した 大友左衛門尉能直は今も在京している。
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   ※南都の騒乱: 10月29日に起きた騒乱の後始末か。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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12月1日
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吾妻鏡
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戌刻(22時前後)に御所に近い一帯が焼亡した。武蔵守北條時房、前大膳大夫大江廣元、筑後守源頼時、八田知家入道らの宿館が被災した。
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   ※御家人の宿館: 便宜的に御所近くに別宅を設けていた御家人も少なからずいたらしい。
屋敷が十二所にあった大江廣元の別宅も、今回で二度目の火災被害を受けている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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12月3日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に御参りして仏事を行った。これは左衛門尉和田義盛ら亡卒の菩提を弔う為である。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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12月4日
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吾妻鏡
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将軍家の御持仏堂に於いて薬師法を修した。隆宣法橋による差配である。
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   ※薬師法: 薬師如来の功徳である病気の平癒・災厄の除去などを祈願する法事。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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12月6日
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皇帝紀抄
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改元あり。建暦を改めて建保とした。
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   ※改元: 皇帝紀抄は鎌倉時代中期編纂の歴史書(編者不明)。百錬抄(13世紀末編纂の歴史書)は「天変地妖
(大地震)が原因」としている。建保の出典は尚書(書経)」の「惟天丕建、保乂有殷」。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月7日
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吾妻鏡
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鷹狩りの禁止を諸国の守護人に命令した。再三の命令にも拘らず自分勝手な者が違反していると聞こえることへの対応である。 ただし各地の神社の貢税や神事についてはこの限りに非ず。図書允清原清定がこの件を差配する。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月10日
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吾妻鏡
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(12月4日から始めた)薬師法が結願した。御布施は被物二重・砂金一裹・野剣一振、左近大夫美作朝親・近江前司源仲兼・橘三蔵人惟廣らを介してこれを与えた。
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   ※源仲兼: 宇多源氏源仲章の弟で後白河院の近習として法住寺合戦を戦い、この年から実朝に仕えている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月11日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に大地震。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月13日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に地震。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月15日
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吾妻鏡
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改元の詔書が到着した。去る6日、建暦三年を改めて建保元年と定めた。大江廣元朝臣は遠江守源親廣を介して
御所に報告した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月18日
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吾妻鏡
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今日、修理亮(北條泰時)が伊豆国阿多美郷の地頭職を走湯権現 (伊豆山神社、サイト内リンク・別窓)に寄進した。元々伊豆山の神領だった土地を仁田忠常が横領し、忠常が滅びた後に右大将軍(頼朝)から泰時が拝領した地である。泰時は神領となった経緯を今朝初めて知り、直ちに放生の地として寄進すると定めた。
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   ※阿多美郷: 現在の熱海市。北條氏が時政の曽祖父と称している阿多見聖範は伊豆山権現の僧職だったとの
話もあるが真偽は疑わしい。熱海から伊豆山の一帯は古来から噴火を繰り返し、大規模な崩落などもあった。江戸時代には伊豆山権現と熱海の来宮神社(公式サイト)が漁業権を巡って訴訟を繰り返しているから、鎌倉時代以降の熱海が伊豆山の神領になったのは間違いないと思うが、仁田忠常の横領云々は眉唾の話だと思う。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月19日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が山里の雪景色を楽しむため民部大夫行光の宅に入御され、この際に行光が盃酒を献じた。
山城判官(行村)らも集まって和歌と管弦の御遊宴を催し、夜になって御所に還御された。行光は龍蹄(黒・大型の駿馬)を献上した。
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   ※二階堂行光: この頃には政所の実務官僚として執権義時の補佐に任じていた。また尼御台所(政子)の側近と
して朝廷との折衝や幕府の行政に大きな役割を果たし、子孫は政所執事を世襲することになる。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月20日
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吾妻鏡
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今朝、将軍家(実朝)は昨夜に行光が献上した馬を御覧になり、立髪(たてがみ)に結び付けた紙に気付いて取り寄せた。中を見ると 「この雪を わけてこヽろの 君にあれは 主しるこまの ためしをそひく」 と記してあった。
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将軍家は何回も繰り返して御詠吟され、行光の仕儀の優雅さに感動し内藤馬允知親を使者にして和歌を送った。
   「主しれと ひきける駒の 雪をわけは かしこきあとに かへれとそおもふ」
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   ※和歌の趣旨: 雪の中を訪れた御主君に贈ったのは飼い主を良く知る駿馬、試みに曳いた甲斐がありました。
飼い主を良く知る馬は雪の中を元の飼い主の元に帰るのではないか、そう思ってしまう。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月21日
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吾妻鏡
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明春正月の椀飯について、特に配慮をして行うよう雜掌(雑務を処理する職)に指示した。近年は度々行き届いていない例も見えるが無理に外見を繕う必要はないとの仰せである。二階堂行光がこれを差配した。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月28日
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吾妻鏡
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夜になって相模守北條義時の愛息(九才、当腹の子)が御所に於いて元服した。烏帽子親は三浦左衛門尉義村、名乗りは四郎政村である。
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   ※当腹の子: 現在の妻、伊賀朝光の娘(伊賀局)の子。「決して離縁は致しません」と誓詞を入れて頼朝の許可
を得て迎えた姫の前(比企朝宗の娘)は朝時重時・竹殿を産んだ後に離縁となっている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月29日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)日頃から自筆で圓覚経の書写を続けられ、今日落成供養の儀を催した。導師は荘厳房行勇、招いた僧は三人。(導師の)御布施は被物二重・裹物二つ・五衣一領、請僧の分は被物一重・裹物一つ。美作朝親と近江前司がこれを配布した。
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   ※源仲兼: 宇多源氏源仲章の弟で後白河院の近習として法住寺合戦を戦い、この年から実朝に仕えている。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建保元年
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12月30日
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吾妻鏡
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三浦義村に命じ、昨日落成供養をした経巻を三浦の海底に沈めさせた。御夢想のお告げがあったためである。
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1213年
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84代 順徳
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建暦三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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