建保二年(1214)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月1日
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古今著聞集
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鎌倉右府将軍家(実朝)の御所に大名が集まり、三浦介義村は筆頭として上席に座を構えた。
その後に千葉介胤綱が参上、若輩にも拘らず多くの人を掻き分けて更に上席に座した。不快に感じた義村は憤り、「下総の犬は寝床を知らぬ」と語り、少し気色ばんだ胤綱は「三浦の犬は友を喰らうぞ」と言い返した。輪田左衛門尉(和田義盛を差す)が滅亡した合戦を差しての言葉である。
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   ※千葉胤綱: 千葉氏五代当主成胤の長男で六代当主。吾妻鏡の安貞二年(1228)5月28日には「午刻に千葉
介胤綱他界。21歳。」と記録されているが、幾つかの資料から建久九年(1198)生まれの31歳で逝去と推定される。七代当主は嫡子(弟説あり)の時胤が継承した。さらに詳細は wikiで。
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   ※古今著聞集: 建長六年(1254)前後に成立した説話集で編者は伊賀守橘成季(wiki)。
今昔物語集・宇治拾遺物語と並んで日本三大説話集とされるが、この挿話の信頼性には疑問があるとする説が一般的。ただし、義村の人間性を適切に表現しているのは間違いない、と思う。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月3日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に将軍家(実朝が鶴岡八幡宮に御参り。その頃に由比ヶ浜で火災があり民家が焼失した。将軍家は申刻(16時前後)にふたたび御参詣、午刻の御奉幣が火事騒ぎによって落ち着かなかったのが理由である。
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   ※実朝: 満21歳4ヶ月、前年2月に正二位に昇叙し右近衛中将・美作権守に任じている。ついでに書くと...
北條義時は50歳・政子は57歳・北條泰時は30歳・大江廣元は68歳 (いずれも満年令に換算)
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月7日
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名月記
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中原廣元が正四位に叙された。
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   ※中原廣元: 前年1月に従四位に叙されていた大江廣元を差す。
朝廷の許可を得て正式に中原姓から大江姓に改めるのは陸奥守に任じた建保四年(1216)。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月12日
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吾妻鏡
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御的始め(弓射初め)の儀あり。一人が二射づつ・五人が的を射てそれぞれに褒美が与えられた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に参詣(御束帯で牛車)。伊賀守朝光が剣を、左近将監佐々木信綱が弓箭を携えた。
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相模守北條義時・武蔵守北條時房・前大膳大夫大江廣元・修理亮北條泰時・弾正大弼源仲章・遠江守源親廣
蔵人大夫美作朝親・民部大夫二階堂行光・刑部大夫山内経俊・山城判官二階堂行村・左衛門尉小山朝政
左衛門尉三浦義村・左衛門尉結城朝光らが供奉、還御の後に二所詣に備えての精進潔斎を始められた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月28日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣に御進発。
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   ※実朝の二所詣: 頼家が失脚した翌年(建仁四年・1204年)1月に北條義時が代参奉幣したのが最初で、病欠
などを挟んで建暦二年(1212)~建保六年(1218)まで定例として繰り返している。
今年は9月末にもう一度行っているのが面白い。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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1月29日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が箱根権現および三嶋社に御奉幣された。
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   箱根権現の公式サイト訪問レポート、 三島大社の公式サイト訪問レポート、(それぞれ別窓)を参照。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月1日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に地震。今日、将軍家(実朝)が伊豆山権現に御参詣、夜に入って御奉幣された。
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   ※二所詣: 鎌倉から東海道を小田原へ、小田原から尾根筋を辿って
湯坂道を(石仏群のある精進池を経て)箱根権現へ、再び東海道を西に下り三嶋大社へ、三泊四日の行程である。
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三嶋大社から南下して旧熱海街道で日金山を越え伊豆山権現に下るのが二所詣のルート。
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旧熱海街道は治承四年(1180)8月に挙兵した頼朝が土肥郷を目指したルートで、日金山峠道の石碑には実朝の歌が刻んである。白波の打ち寄せる沖の小島(初島)と北條氏の傀儡に過ぎない我が身を重ねた、と伝わっている。
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    箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や
              沖の小島に 波の寄る見ゆ

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このルートにある精進池の石仏群薬師堂と新光廃寺跡なども参考に。
また伊豆山神社では溢れ出る熱湯(伊豆山の中段に記載)を見て次の和歌を詠んでいる。
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    伊豆の国や 山の南に 出づる湯の 速きは神の 験(しるし)なりけり
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月3日
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吾妻鏡
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夜になって二所詣から鎌倉に還御された。右衛門尉安達景盛が御所に準備した宴を催し献酒が行われた。同行していた者は酒を酌み交わして終夜の酒宴に及んだ。
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   ※景盛と言えば: 正治元年(1199)7月~8月にかけて、京都から招いた愛人を頼家に奪われる事件があった。
その後の彼女がどんな運命を辿ったか、少し気になる。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月4日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)がやや体調を崩され周辺が騒ぎとなったが特に深刻ではなく、昨夜の深酒の影響らしい。
加持祈祷に参上していた葉上僧正(栄西)がこれを聞いて寿福寺から良薬として知られる茶を運ばせ、効能を記した一巻の書を添えて一服を献じた。将軍家は特に喜び、先月参禅した際に飲茶について記した旨を語った。
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   ※一巻の書: 茶の製法や効能を述べた喫茶養生記(上下二巻・栄西の著)。史料には「茶徳を誉むる所の書」と
あり、実朝に贈った物が完本の最初とする説が多い。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月7日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に大地震があった。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月10日
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吾妻鏡
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今日、新黄門(中納言の唐名・坊門忠信を差す)の使者が京都より参着し蹴鞠の書一巻を届けた。
忠信卿は去年12月2日、藤原宗長と共に紫革の襪(足袋の一種)の着用を許されている。
将軍家は様々な趣味を賞翫しており、中でも和歌と蹴鞠が特に御意に叶っている。
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   ※襪の着用: 履(くつ)をはく際に用いる足袋の一種で一般には使用が禁じられた。紫(禁色)と併せて、高位の
側近のみに許された、という意味だろうか。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月14日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が烟霞の興を催すため杜戸浦(森戸海岸・地図)に出御された。御駄餉(外出先での食事)の準備は長江四郎明義が担当した。海辺では小笠懸を催し、武士が各々の武芸を披露してみせた。
黄昏の頃に明月の光を待って舟で由比ヶ浜に渡り、御所に還御された。
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   ※烟霞の興: 霞(かすみ)のたなびく風景を愛でる集い。
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   ※長江明義: 鎌倉権五郎景政の子が景継、その子が大庭景宗(景義景親の父)と、三浦義明の娘を妻にした
長江義景(所領は葉山町長柄・地図)で、義景の嫡子が長江明義。
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治承四年(1180)に頼朝が挙兵した際には同族の大庭・俣野・梶原・長尾など鎌倉党の主流は平家に与したが、長江氏は三浦氏と共に頼朝側に味方している。
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明義は父の所領の森戸川流域を継承して長柄字殿ヶ谷(地図)に本拠を置き、建久五年(1194)の8月8日には頼朝の相模国日向山参詣などに供奉のメンバーとして従っている。
宝治合戦では縁戚関係の深い三浦氏と共に戦って滅亡し、次弟の師景が長江の家名を継いだ。
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殿ヶ谷の入口にある福厳寺が長江氏の菩提寺で、森戸川沿い400mほど上流左手の長江義景大明神一帯(地図)が館跡と考えられる。裏手には数基の五輪塔が残っている。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月15日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に月蝕。白雲を透かして七分ほどの蝕が確認できた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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2月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参拝。相模守北條義時が供奉された。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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3月9日
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吾妻鏡
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夜になって将軍家(実朝)が突然永福寺に出御された。桜の花を御覧になるためで、修理亮北條泰時・山城判官二階堂行村東平太重胤・宮内兵衛尉公氏らが供として従った。将軍家を含めて徒歩、戌刻(20時前後)の還御 に合わせて牛車を寺の門前に着けた。
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   ※宮内公氏: 実朝の側近。建保七年(1219)1月の暗殺前には形見として髪の毛一筋を受け取っている。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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3月11日
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吾妻鏡
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山城判官二階堂行村が永福寺の寺社奉行に任じる申請を行った。
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   ※永福寺奉行人: 建久五年(1194)12月2日に頼朝命令で三浦介義澄畠山次郎重忠義勝房成尋の3人
が任じている。その後に変更記録があったような気がするが...
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いずれにしろ義澄も重忠も既に故人、義勝房成尋(中条兼綱)の年齢は不明だが推定で60歳以上、横山党小野氏の系だから和田合戦での失脚が考えられるが戦死者名簿には見当たらない。奉行人は空席だったか、誰かが兼任していた可能性もある。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月3日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に大地震。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月18日
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吾妻鏡
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御所に於いて、大倉に建造している新御堂の落成供養についての評議を行った。相模守北條義時・前大膳大夫大江廣元・民部大夫二階堂行光・大夫屬入道三善康信・山城判官二階堂行村が参席した。将軍家(実朝)は供養の導師は京都の高僧を招聘したい意向だが、廣元朝臣・行村・康信らは違う考えがあり、次のように強く主張した。
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勝長寿院建立以後の伽藍供養に際しては三井寺や醍醐寺の碩徳(高僧)を招いたために往還の費用や民の賦役で大きな負担があった。 これは善行を積むという仏の教えに叶っていない。今回の落慶供養に関しては
関東の僧侶に任せるのが一番の徳政である。
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   ※新御堂: 建暦二年(1212)着工の大倉郷(現在の十二所・地図
の大慈寺(廃寺)を差す(同年の4月18日を参照)。
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滑川の両岸に堂塔が軒を連ねたと伝わっているが廃寺になった年代も不明、堂塔の礎石すら確認できていない。
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存在した事実は間違いないが伝承に基づく推測に頼るしかない、まさに「幻の大寺」である。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月21日
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吾妻鏡
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大倉新御堂(大慈寺)の惣門に安置する金剛力士像が完成した。筑後左衛門尉朝重・布施左衛門尉康定(三善康信の養子で公事奉行人)がこれを沙汰し、民部大夫二階堂行光が奉行に任じた。
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   ※像の完成: 吾妻鏡に「完成」の文字はないが、大慈寺の落慶供養は7月27日、像の完成と考えて良い。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月23日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に京都からの飛脚が鎌倉に到着して次のように報告した。
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去る15日に比叡山延暦寺の衆徒が園城寺 (三井寺)を襲撃し金堂などの仏閣や僧房の全てを焼き払った。
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騒動の発端は14日の日吉山王神社の祭礼で、唐崎神社(日吉の摂社・地図)への供物の多少から始まった下級神人と比叡山の紛争に端を発している。比叡山の担当官に唐崎の神人が矢を射掛けて負傷させ、翌朝になって下手人を捕えるため出向いた比叡の所司と神人が喧嘩となった。三井寺の衆徒が引き上げる所司を追い掛けて合戦となり、更には比叡山の衆徒が馳せ参じた。
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まず錦織里西浦(地図)にある三井寺の在家と北院の僧房に放火し、丑刻(深夜2時前後)に堂塔を焼いた。
最近の比叡山は徒党を組んで騒動を起こす例が多く、それに伴って飛脚が往来したり使者が都と鎌倉を往還するなど朝廷や庶民の負担が増えるのも正常な状態ではない。
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圓城寺に至っては天武天皇十六年(686)の創建以来、比叡山衆徒によって焼かれたのは五度に及ぶ。
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最初は白河院の承保元年(1074)6月9日に比叡の衆徒が金堂以下の堂宇全てを焼き払った事件、次に鳥羽院の保安二年(1121)閏9月2日、次に崇徳院の保延六年(1140)閏5月25日、次に二条院の長寛二年(1164)6月9日。この四度もそれぞれ金堂と三院を焼き払っている。
    (青文字はいずれも公式サイト)
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   ※三井寺: 北院には法明院、中院には金堂・唐院・鐘楼、南院には観音堂がある。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月25日
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吾妻鏡
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園城寺の長吏僧正公胤の使者が鎌倉に入り、寺が焼亡した件の嘆きを伝えた。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼を受け、後に 政子の依頼を受けて
頼家の遺児公暁を弟子として預かった。当初は批判した法然と面談してから念仏に帰依し、曹洞宗の祖道元に臨済宗の栄西への入門を勧めたことでも知られる。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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4月27日
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吾妻鏡
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武蔵守北條時房が三品(三位)への叙位を望む旨を非公式に申し出た。
将軍家(実朝)は「早急でなければ無理ではないだろう」と答えた。
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   ※時房の叙位: この時点で従五位下。建保六年(1218)に従五位上、
天福二年(1234)に従四位下、嘉禎三年(1237)に従四位上、嘉禎四年(1238)に正四位下に昇ったが、三位には昇れなかった。
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世俗に囚われず黙々と義時の補佐を続けたイメージがあるけど、心に秘めた願いを抱いていたんだね。
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   右画像は伊豆長岡の北條寺墓苑にある時房一族の墓碑。
   第三十三代が御存命らしい。(画像をクリック→ 拡大表示) 時房は建保五年(1217)12月に相模守に遷任。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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5月7日
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吾妻鏡
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園城寺の回禄(火災)に対応し、唐院および堂舎・僧坊の修復を手配せよとの仰せが下された。
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惣奉行は駿河前司大内惟義朝臣と豊前守尚友が担当する。宇都宮入道蓮生 (頼綱)は山王社と拝殿、佐々木左衛門尉廣綱頼綱は四脚門、源三左衛門尉親長は鐘楼、内藤左衛門尉盛家は預坊(寺務司所)を復旧担当とするなど18人を定めた。圓城寺は源家が数代に亘って崇敬を重ねてきた経緯がある。
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豫州刺史(伊予国守)禅室源頼義朝臣は息子の快誉阿闍梨智證大師円珍(wiki・建暦三年(1213)6月2日に関連記事)の弟子にし、三男刑部丞義光を新羅明神で元服させて以降、鎮守府将軍(八幡太郎義家) もこの寺による祈祷を受けていた。最愛の娘が眼を病んだ際には錦織僧正行観の加持祈祷によって全快したため将軍は特に喜んで三度僧正を拝し、自分の子孫を和尚の門徒に帰依させるつもりだと語っている。
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幕下将軍(頼朝)は二ヶ所の荘園を圓城寺に寄進して繁栄に貢献し、更に鎌倉に創建した諸寺には(圓城寺から)公顕僧正と公胤僧正を開眼供養の導師として招いた。また八幡太郎義家が御鬢髪を青龍院に納めたなどの仏縁を重ねているため今回の復旧奉仕に及んだものである。
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   ※唐院: 天安二年(858)に唐から帰国した智証大師円珍(空海の甥)が持ち帰った経典や法具などを貞観十年
(868)に第56代清和天皇から下賜された内裏の仁寿殿に納めて伝法潅頂の道場としたのが名前の起源。圓城寺唐院は入唐の修行から帰った僧の住房だったらしい。
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   ※豊前守尚友: 建暦三年(1213)9月8日の吾妻鏡に次の記載がある。「豊前前司尚友が子息の内蔵允尚光と
兵衛尉能尚を伴って京都から参着し、籐民部大夫二階堂行光の取次を得て将軍家 (実朝)に面会した。西国に於ける関東御領の年貢を扱うため在京する者である。」
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   ※四脚門: 文字通り、4本の柱で支える一般的な構造の門。例として、
足利鑁阿寺東門の画像を右に載せた。(クリック→ 拡大)
厳密には六脚門かも知れないけど...。
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   ※源三親長: 本姓は安達なのだが盛長との関係は判らない。頼朝時代
に但馬国(兵庫県北部)守護、後に出雲国(島根県東部)の守護を兼ねた。元久二年(1205)閏7月には後藤基清らと共に京都守護平賀朝雅を追討、承久の乱(1221年)では後鳥羽上皇軍に加わって守護を解任された。
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   ※内藤盛家: 藤原秀郷の子孫を称して西国に基盤を置いていた武士。
寿永四年(1185)から頼朝御家人に加わった。
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文治三年(1187)4月23日には東大寺再建の大勧進重源上人から内藤盛経ら東大寺の年貢米を横領していると訴えられ、建久元年(1190)には内藤盛家が周防国遠石荘内石清水別宮領に乱入した記録があり、鎌倉時代初期の一族は周防国に新領を得ていたらしい。
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   ※快誉と智證大師: 快誉(頼義の庶子)の生涯は1036~1112年だから、
智證大師(814~891年)の弟子には成り得ない。
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それどころか父の頼義(988~1075年)さえ智證大師が没して90年以上後に生まれているのだから、吾妻鏡の編纂者は飛んでもない思い違いをしている。
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      右画像は圓城寺収蔵の智證大師像(国宝・85cm) クリック→ 拡大
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   ※新羅明神: 圓城寺守護神社の一つで元は地主神だったらしい。
智證大師が唐から帰国する船に現れて新羅国明神と名乗り、「仏法を日本に広めよ」と命じたとされる。現在は絶対秘仏(秘神)として新羅善神社 (地図)に祀っており、すぐ近くには新羅義光の墓所もある。新羅明神の画像はwikiを参照されたし。
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   ※青竜院: 吾妻鏡の建久元年(1190)12月8日には次の記載がある。
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前右大将家(頼朝)が御劔一腰と砂金十両を三井寺の青龍院を修理する費用として寄進した。この霊場は八幡太郎義家が特に崇敬し、遺髪を埋葬した地である。(青竜院の詳細は継続して調査中)
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   ※錦織僧正行観: 平安中期の天台宗の僧(1013~1073年)で園城寺長吏行尊の叔父。近江錦織庄(地図
の尊勝院に住み、後に園城寺に入った。源頼義と義家父子の帰依を受け、頼義は錦織山に宇佐八幡宮 (地図)を祀り、行観は盲人だった義家の娘の目を開かせた、と伝わる。
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平成27年6月23日、圓城寺(三井寺)は憲法に関する声明文(pdfファイル)を発表している。
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同じ宗教者でありながら、金と権力に汚染された創価学会と公明党は政権に媚びて海外派兵に賛成し、創価学会が「邪宗だ」と非難して折伏し続けた他の仏教団体は堂々と集団的的自衛権の行使容認に反対している。
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果たして、創価学会・公明党のような堕落集団に一票を投じて国民の未来を託す値打ちがあるのだろうか。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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5月15日
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吾妻鏡
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寅刻(16時前後)に月が太白(金星)の軌道から三尺の位置を犯したと司天(天文担当者)が報告した。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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5月28日
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吾妻鏡
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降雨なしの天候が一旬(10日)を越えたため鶴岡八幡宮で雨乞いの祈祷が催された。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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6月1日
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吾妻鏡
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夜になって少し雲が広がり雷鳴が轟いた。これは御祈請の効果だろうか。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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6月3日
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吾妻鏡
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諸国は旱魃の続く天候を嘆いている。将軍家(実朝)は葉上僧正(栄西)を招き、降雨を祈るため八戒を守る誓願を立てて法華経を転読された。相模守北條義時を始め鎌倉中の緇素も貴賤も般若心経を読み続けた。
一心に祈って勤めを果たす行為である。
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   ※八戒: 在家の男女が出家に倣って守る戒め。殺生・偸盗・淫行・妄言・飲酒の五戒に加えて装身や歌舞見物・
立派な寝台・余分な食事を加えたのが八斎戒。
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   ※緇素: 緇=黒で僧衣、素は白で俗人を表す。併せて僧俗。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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6月5日
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吾妻鏡
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降雨となった。これは偏に将軍家の懇切な祈りの結果だろう。
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第35代皇極天皇元年(642)の7月、日照りが続いたため各地で祈祷が行われたが効果がなく、大臣の蘇我入鹿蘇我馬子大臣の息子)が自ら香炉を持って祈念しても同様だった。
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8月になって帝が河上に行幸して四方を拝されると直ちに雷鳴と共に大雨となって五日間も降り止まず、国の農作物は豊かな実りに戻った。君臣(帝と将軍)の立場は違っても志は同様である。
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   ※日本書紀の記録: 7月25日、大寺の南庭に菩薩像と四天王像を祀り多くの僧が屈請し大雲経を誦した。
蘇我の大臣は香炉を持ち香を焚いて祈ったが効果がなかった。8月1日になって天皇は南の河上に行幸し跪いて四方を拝し天を仰いで祈った。たちまち雷雨となって五日間も止まず見事に天下を潤した。天下の百姓は万歳を叫んで至徳の天皇を称えた。
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   ※大雲経: 国王による仏教保護の重要性を説く六巻の経典で「浄光天女が帝位を継ぐ」との文節がある。
第34代舒明天皇が崩御しても後継が決まらず、妃が女帝・皇極天皇となった。その正当性を喧伝するために大雲経を持ち出したのだろう。都が明日香村にあった時代、蘇我入鹿と蝦夷親子が滅んだ乙巳の変(大化の改新)の直前である。唐の則天武后も愛人に同じ構図を設定させている。
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「明日香村探訪記」も参考に。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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6月13日
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吾妻鏡
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関東御領の国々に関する年貢を来秋から三分の二に減免する。その恩恵を翌年から毎年一ヶ所づつ各地に割り宛てよう、将軍家(実朝)がそのように仰せになった。
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   ※減免する: 原文は「自來秋可被免三分二」、厳密に訳すると「三分二を免じる」のか「三分二に免じる」のかが
判らない。今になって真面目に勉強しなかった学生時代を悔いても遅いのだが、勉強しなくてもそれなりに楽しい時代だったのも間違いない。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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7月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)民部大夫二階堂行光を派遣して大慈寺(落慶)供養の導師を務めるよう葉上僧正栄西に伝えた。
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   ※落慶導師: 実朝は4月18日の協議で京都の高僧を望んだが重臣の反対(実質的には執権北條義時の意向
だろう)で断念した。ただし実朝の京都志向が後退することはなく、建永元年(1206)前後から侍読(教育係)となった源仲章は建保四年(1216)には政所別当(大江廣元を筆頭にして源頼茂大内惟信と仲章の集団指導制)になっていく。惟信と仲章は共に後鳥羽上皇に近い存在である。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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7月27日
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吾妻鏡
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終日の雨ながら、大倉大慈寺(呼称は新御堂)の落慶供養である。巳刻(10時前後)に尼御台所(政子)御輿)大慈寺に渡御され、午刻(正午前後)に将軍家(実朝)が御束帯で出御された。(右下画像は大慈寺周辺の鳥瞰)
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供奉人行列
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前駈(身分の低い者を先頭に)
   橘三蔵人惟広   伊賀左近蔵人仲能   三條左近蔵人親實   蔵人大夫国忠
   左近大夫美作朝親   相模権守経定   右馬助範俊   前筑後守頼時
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殿上人 右馬権頭源頼茂
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御車(御車副え二人、牛童二人、雑色十八人)
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   御劔役 小野寺左衛門尉秀道  御調度懸け 加藤左衛門尉景長(景廉の次男)
後騎
   相模守北條義時   武蔵守北條時房   修理亮北條泰時(以上一列)
   前大膳大夫大江廣元   前駿河守大内惟義   遠江守源親廣
   伊賀守朝光   筑後守有範  九郎右衛門尉三浦胤義
   右衛門尉中條家長   兵衛尉葛西清重   嶋津左衛門尉忠久
   兵衛尉佐貫廣綱   大井紀右衛門尉實平(大井實春の息子)   宇佐美右衛門尉實政
   江右衛門尉範親   加藤右衛門尉景廣   江兵衛尉義範
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随兵
   相模次郎北條朝時   武田五郎信光   左衛門尉結城朝光
   左近将監佐々木信綱   伊豆左衛門尉頼定   若狭兵衛尉忠秀(嶋津忠久の弟)
   下河邊四郎行時行平の嫡子   兵衛尉塩谷朝業   大須賀太郎道信(胤信の嫡子)
   東平太所重胤(胤頼の嫡子)   左衛門尉三浦義村   左衛門尉筑後知重
   検非違使 山城判官二階堂行村
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惣門に到着して御車から牛を離し、右馬権頭が進み出て御沓を差し出した。
将軍家が御堂に上った後に導師の葉上僧正栄西が供僧20人を引率して堂に入り落慶供養を執り行った。
その後、晩になって御布施を配布した。被物三十重と御馬二十疋である。
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   ※前筑後守頼時: 源姓の実務官僚。検非違使、筑後守を経て建暦二年(1212)に地頭職を務め鎌倉に常駐。
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   ※筑後守有範: 姓は五條。元久二年(1205)閏7月に京で平賀朝雅
を追討した在京の御家人で、後に検非違使・筑後守。
承久の乱で後鳥羽側となり、戦後に処刑された。
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   ※宇佐美實政: 文治六年(1190)1月に大河兼任の乱で死没した
宇佐美(大見)實政と同姓同名である。
宇佐美氏にも大見氏にも同名の人物は見当たらないので記載ミスじゃないか、と思う。
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   ※大江範親・義範: 大江氏一族だが廣元と直接の縁戚関係はない。
共に西面の武士か。
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   ※加藤景廣: 景廉の系累だと思うが系図には記載なし。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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8月7日
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吾妻鏡
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豪雨により洪水。大倉新御堂の惣門が倒壊した。
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   ※惣門が倒壊: 右上の画像を参照。四代将軍藤原頼経 による明王院(公式サイト)創建は嘉禎元年(1235)
だから大慈寺創建当時は存在しない。大慈寺から明王院一帯までの山裾は東西250mほど、頼経は大慈寺の西に隣接して明王院を建てた、と考えるべきだろう。
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水戸黄門が編纂を命じた「新編鎌倉志」には「大慈寺旧跡は五大堂(明王院)と光觸寺(地図)の間にあり」とある。間を流れる滑川の手前迄だと思うが、直線だと旧蹟碑までは300m。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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8月13日
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吾妻鏡
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大夫判官大内惟信(在京御家人・検非違使)の使者が鎌倉に入って報告。去る4日に南都興福寺の衆徒が欝訴(強訴)と称して春日神社の神木を運んで 木津川近くに移した。この使者が京を出た7日には入洛する意図ではないかとの噂があり、在京の武士は衆徒を防ぐため勅定に従って宇治と勢多の二ヶ所に出動した、と。
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   ※春日の神木: 神仏習合時代には興福寺と春日大社は一体の存在。春日大社の榊(さかき)または梛(なぎ)の
枝に春日明神御神体(依代)の神鏡を付け、注連縄を掛けて神木とし強訴の神威とする。 これが朝廷の脅威になった理由と詳細は春日神木(wiki)を参照されたし。
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   ※興福寺: 乙巳の変で蘇我一族を滅ぼした中臣鎌足(没後の尊称が
藤原釜足)は大化の改新の成功を祈り、山階(京都山科)で釈迦三尊像と四天王像を造像した。
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天智天皇の八年(669)、釜足夫人の鏡大王が夫の病気快復を祈って京都に山階寺(山本石材店前に碑(右画像地図)を建立したが...同年に鎌足は死没。
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壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智の弟・後の天武)が大友皇子(天智天皇の皇子)を滅ぼし天武天皇として覇権を握り、その14年後の686年に崩御した。
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後継を巡る多少の混乱後の690年に皇后の鸕野讚良が持統天皇として即位した。持統天皇は694年に藤原京(橿原市・地図)に遷都し、山階寺も宮殿から
3kmほど南(地図)に移って厩坂寺と称した。 右下画像は飛鳥宮と藤原宮を含む広域地図。
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そして和銅三年(710)の平城遷都と共に釜足の子・不比等が現在地に移して興福寺と改称した。
藤原氏の氏寺であり、国の大寺として政治的・宗教的権威を具備した興福寺の誕生である。
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平安時代中期には土地の私有化が活発になり、「寄進系荘園」が各地に登場する。 土地を開墾した領主などが国司の関与を排除するため有力社寺や貴族に土地を寄進し、荘官として収益権の保護を受けるシステムである。
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大和国で最大の宗教的権威を持ち摂関家との関係も緊密な興福寺は在地の土豪から次々と寄進を受けて膨れ上がり、多くの社寺を吸収して末社・末寺とし、武装した在地の土豪を「衆徒」として支配下に置いた。
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更に談山神社(多武峯)を中心に団結していた国衙領の有力農民も興福寺が強大になると共に傘下に加わり、各地の末社に所属する神人としてウィン・ウィンの関係を確保していく。
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権力の集中は常に「巨大な権力の行使」を生む。巨大化して豊富な資金力を得た宗教団体は「宗教者の顔をして政治に関与」し、既得権の維持と組織の拡大に専念する。
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平和や幸福を唱えている間は良いが、やがて 政治権力と結託して憲法をも無視する存在 になる。
創価学会や公明党の姿は、票の力を利用して政権政党と癒着した「現代版強訴」 と言える。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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8月15日
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吾妻鏡
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子刻(深夜24時前後)に月蝕があり、九割ほど欠けたのがはっきりと確認できた。
今日、鶴岡八幡宮の放生会が催された。月蝕が過ぎた明け方になって将軍家(実朝)が出御され、読経の法会と舞楽が直ちに行われた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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8月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御参宮(鶴岡神事)は昨日と同じ。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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8月29日
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吾妻鏡
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去る16日に後鳥羽上皇が秋十首の歌合わせを催した。二條中将飛鳥井雅経朝臣がこれを書き写して鎌倉に届け、将軍家(実朝)はこれを特に喜ばれた。
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   ※秋十首: 10人が左右に分かれて秋をテーマに詠んだ和歌の優劣を競う歌合わせ。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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9月1日
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吾妻鏡
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巳午の両時(午前10時から正午にかけて)日蝕が確認できた。五分ほどの蝕である。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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9月19日
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吾妻鏡
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常陸国府中の地頭に関し、今後は大掾資盛を任じるよう朝廷から指示があった。国衙からの申請による。
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   ※常陸国衙: 昭和45年(1970)に建て替え工事中の石岡市立石岡小学校(地図)で発見され発掘調査後に
埋め戻された(国府跡の紹介・茨城県教育委員会)。府中の地名は少し北側に残っている。
天慶二年(939)に平将門が占領した常陸国府はここなんだね。
資盛の名は直系の系図に見当たらないが大掾の一族には間違いないだろう。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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9月22日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に大地震あり。今日、将軍家(実朝)二所詣の御精進を始められた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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9月29日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に将軍家は二所詣に御進発。相模守北條義時が供奉し随兵五十余騎が前後を警護した。
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   ※二所詣: 今年の1月末にも二所詣を行っている。年に二回は珍しい。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月2日
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吾妻鏡
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夜になって将軍家(実朝)が二所詣から還着。供奉した相模守北條義時は相模国一宮に奉幣使として逗留した。
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   ※相模国一宮: 寒川神社(公式サイト)を差す。1km南に梶原景時の一宮館があった。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月3日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に相模守北條義時が鎌倉に還着した。戌刻(20時前後)に義時の子息が御所に於いて元服、髪を整える役は前駿河守大内惟義朝臣が務めた。名乗りは相模五郎實義である。
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   ※相模五郎: 實義は烏帽子親の実朝が与えた名で、元仁元年(1224)に勃発した伊賀氏の変の後に三代執権
を継いだ北條泰時から「泰」の字を与えられ北條實泰を名乗った。
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義時の息子は上から、江間太郎泰時 ・相模次郎朝時 ・極楽寺重時・陸奥六郎有時・相模四郎政村・相模(後に陸奥)五郎實泰、の順になる。なぜ六郎が四郎や五郎の兄なのかは判らない。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月6日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に大地震。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月10日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に激しい雨と雷鳴。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月15日
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吾妻鏡
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大慈寺に於いて葉上僧正栄西が舎利会(仏舎利を供養する法要)を催した。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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10月27日
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吾妻鏡
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寅刻(16時前後)に月が太白(金星)の軌道から一尺五寸の範囲を犯し、その状態が辰刻(20時前後)まで続いたと天文の担当者が報告した。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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11月22日
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皇帝紀抄
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熊野新宮(熊野速玉大社・公式サイト)の宝殿などが焼失した。
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   ※皇帝紀抄: 皇帝紀抄は鎌倉時代中期編纂の歴史書(編者不明)。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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11月25日
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吾妻鏡
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六波羅の飛脚が鎌倉に入って次の通り報告した。
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和田左衛門尉義盛と大学助土屋義清の残党が京都に潜伏し、故金吾将軍家(頼家)の息子(禅師・栄実)を大将軍に擁して叛逆を計画しているとの情報が届き、去る13日に前大膳大夫大江廣元の家人(在京の御家人)らが一條北の宿舎を襲撃、禅師は間もなく自殺し仲間は逃げ去った。
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   ※愚管抄は: 和田合戦を逃げ延びた者が寄り集まり、葉上上人の弟子として出家していた頼家の息子(14歳)を
擁して決起を計画したが情報が漏れて討ち取られ、14歳の禅師は自殺した。 と書いている。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月1日
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吾妻鏡
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相模国大山寺の免田五町二段に同国の丸嶋郷を加えよとの仰せが下された。
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   ※大山寺: 神仏習合時代の大山阿夫利神社(公式サイト)。
明治初期の神仏分離後はすぐ近くの雨降山大山寺(大山不動尊・参考サイト)として移転した。
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   ※丸嶋郷: この地名は平塚市の岡崎(地図)地区に残っている。
周辺は岡崎義實の旧領であり、東側に隣接する無量寺が岡崎氏の館跡だったと伝わっている。
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義實の長男で石橋山合戦で没した佐奈田義忠(余一)の遺児岡崎実忠と土屋氏の養子となった土屋義清は和田合戦で義盛に味方し、共に落命している。彼らの遺領が大山寺に寄進されたのだろう。
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          右画像は無量寺近くの伝・義實墓所。 画像をクリック→周辺の風景(別窓)へ。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月2日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着して報告。先月21日の未明に高陽院の仙洞(後鳥羽院の御所)から失火し二棟を焼いただけで打ち消した。 同日の亥刻(22時前後)に仁和寺(公式サイト)の御室(道法)が崩御した(御年49歳)、と。
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   ※高陽院: (かやいん)は桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の邸宅だった場所で後鳥羽上皇が里内裏とし行政の
拠点を置いた。更に詳細はwikiで。
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   ※仁和寺の御室: 後白河法皇の皇子道法法親王。六勝寺検校・仁和寺総法務を務め、後高野御室と称された。
六勝寺は元久元年(1204)11月3日の条を参照されたし。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月4日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に由比ヶ浜の付近で出火、激しい南風に煽られて若宮大路の数町まで燃え広がり、その間の人家が全て焼け落ちた。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月10日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が永福寺に出御された。恒例の一切経会である。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)・承元三年(1209)・建暦元年(1211)・同二年(1212)の3月3日・同三年11月にも開催しているから通例の法会として完全に定着している。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月12日
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吾妻鏡
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御家人が官職を望む場合は、家督を継いでいる者がその人物の功績などを充分に吟味して推薦せよ、直接申請する場合は奉行人を介する必要はない、との仰せがあった。大江廣元が差配してこの内容を周知させる。
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西暦1214年
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84代 順徳
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建保二年
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12月17日
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吾妻鏡
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故屋嶋の前内府(平宗盛)の家人である美濃前司源則清の息子左衛門尉則種が丹後国から参上し、御家人として幕府に仕えたいとの希望を述べた。多少の問題はあるが、右大将軍(頼朝)が建久七年(1196)に伊賀大夫を討った際に「平家の武士から希望が出された時は採用して良い」との仰せがあったのだから許可しよう、とした。
則種は和歌の名手であり、これが御意に叶ったと思われる。
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   ※伊賀大夫: 平知盛の次男知忠。都落ちの際は幼児(満3歳、7歳説もある)のため父に同行を許されず伊賀の
乳母子の元で成長、一條能保の暗殺を企てたが露見し追討された。享年17歳、21歳説もある。
   (6月25日付の明月記を同日に転載してある)。
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西暦1214年
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84代 順徳
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 月 日
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西暦1214年
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西暦1214年
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