建保三年(1215)

.
前年・建保二年(1214)の吾妻鏡へ       翌年・建保四年(1216)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示する場合は 吾妻鏡を読む のトップページ で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
当サイトのアドレスは http://23.pro.tok2.com/~freehand2/ に一本化しています。

指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。
.

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家(実朝)が牛車を用いて鶴岡八幡宮を御参拝。筑後左衛門尉朝重が御剣役を務め、相模守北條義時
武蔵守北條時房、修理亮北條泰時、遠江守源親廣伊賀守朝光、筑後守五条有範、左衛門大夫加藤光員
左近大夫美作朝親、左近大夫三条親實らが供奉した。
.

.
   ※五条有範: 在京の御家人で姓は平。元久二年(1205)閏7月には平賀朝雅を追討、後に検非違使・筑後守。
和田合戦直後の建暦三年(1213)5月22日には鎌倉に向かう前に実朝の命令書が届いて京の警護に任じた。承久の乱(1221)の際は後鳥羽上皇側に加わり、戦後に処刑された。
.
   ※三条親實: 将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた文官。周防守護・安芸守護・厳島神社神主などを転任
後に六波羅評定衆となり建長五年(1253)頃まで在任している。
.
   ※実朝: 満22歳4ヶ月、前々年2月に正二位に昇叙し右近衛中将・美作権守に任じている。ついでに書くと...
北條義時は51歳・政子は58歳・北條泰時は31歳・大江廣元は66歳 (いずれも満年令に換算)
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月7日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)が再度鶴岡八幡宮に詣でられた。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月8日
.
吾妻鏡
.
.
伊豆国から飛脚が鎌倉に入って報告。去る6日の戌刻(20時前後)に入道遠江守従五位下・平朝臣(北條時政・78歳)が北條郡で没した。日頃から腫物を患っていた、と。
.

.
   ※時政死没: 頼朝挙兵に加わったのが1180年、頼朝死没が1199年1月、 頼家を殺して全権を掌握したのが
1204年、政子義時に実権を奪われたのが1205年閏7月。幕府に君臨したのは僅か6年半だから、悪役の独裁者としては意外に短い。墓所の詳細は願成就院で。
.
韮山の北條邸は元弘三年(1333)の幕府滅亡後に九代執権北條貞時の側室だった覚海圓成(高時の生母 )に与えられて尼寺となり、室町時代の明応二年(1493)には伊勢新九郎(後の通称・北条早雲)が関東を制覇する最初の一歩を記している。ここも、兵どもが夢の跡だ。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月11日
.
吾妻鏡
.
.
若宮辻の人家が火災となり、籐右衛門尉安達景盛の宿所まで延焼した。酉刻(18時前後)と戌刻(20時前後)の間に20余町が全て灰燼に帰した。
.

.
   ※若宮辻: 若宮は八幡宮、辻は十字路。安達景盛邸は甘縄神明宮
地図)だから大倉御所まで行く通勤距離は2.7kmで、やや距離がある。宿所を設けるメリットがその三分の一までと考えれば、二の鳥居(中の下馬橋・御所まで1km)付近の十字路近くだろうか。根拠の貧弱な空想だけど。
.
      右は鎌倉駅上空からの鳥瞰図。 (クリック→拡大表示)
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月20日
.
吾妻鏡
.
.
内府(内大臣)坊門信清卿の使者が御台所(坊門信子)方に到着し、来る2月に出家する予定である事を伝え、加えて次の通り報告した。
.
去年12月29日の夜に蔵人の勘解由次官平宗宣と中宮大進の藤原兼隆が殿上で喧嘩し、兼隆が宗宣を殴った。この事件により翌30日に兼隆は土佐国に配流され、参議の 藤原定家卿が結政に赴いて公文書に捺印した。
.

.
   ※結政: 大内裏の外記庁の南にあり、参議・弁官・外記などが集まって政務を執った役所。
   ※外記: 太政官の少納言の下にあって詔勅・上奏文の起草や朝儀の記録などを司り除目叙位の儀式を扱う。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
1月25日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)の持仏堂に於いて文殊菩薩像(wiki)を供養する法会を催した。導師は荘厳房退耕行勇である。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
2月2日
.
吾妻鏡
.
.
左衛門大夫加藤光員が御台所(坊門信子)の使者として京に向かった。(父親の)内府坊門信清)が今月に剃髪して出家する。また御逆善を修するため、その法事に供物を贈るためである。
.

.
   ※内府: 左大臣・右大臣に次ぐ官職で相当する官位は正または従二位。
   ※逆善を修す: 生前に自分の死後の冥福を祈って法事を営むこと。
   ※愚管抄は: 「病を得ながら大臣に昇り、健保三年2月18日に出家して翌年2月15日に死没」と書いている。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
2月18日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
諸国の関所や河越えを管理する地頭に対し旅人の負担を免じるよう命じた。ただし船賃などの経費は料田を設けて賄うように、との仰せである。
.

.
   ※料田: 伝馬制を維持・運営を目的に、必要とされた経費に充当するために設置された公田のこと。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
2月24日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に雷鳴が数回。
.

.
   ※雷鳴: たかが雷鳴程度を何回も史書に載せるのかと思って「雷鳴の夢」を調べてみたら「吉凶が混在するから
どちらも早急な対応を」とあった。ただし、吾妻鏡がそんな意味を含むのか否かは判らない。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
(上巳節句に伴い)将軍家(実朝)が鶴岡宮に御参り。法会と舞楽は通例の通り。
.

.
   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所などを模した飾り付けで遊び、無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉時代には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。直近の数年は一切経の法会を催している。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
3月5日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)は花を観るため三浦横須賀に出御された。相模守北條義時と大官令大江廣元らが付き従い、三浦義村の一族が宴席を設けた。

.
   ※花を観る: 旧暦の3月5日は現在の4月5日、観梅ではなく観桜だ。建暦二年(1212)3月9日に記載のある
三浦の桜の御所(現在の本瑞寺、右画像をクリック→ 拡大表示)と推定できる。
.
吾妻鏡の建久五年(1194)閏8月1日に次の記載がある。
.
将軍家(頼朝)が右武衛一条高能を伴って三浦に渡御された。これは三崎の津に於いて御山庄を建てるための視察である。上総介足利義兼北條時政殿ら多数の供が同行し、まず小笠懸が行われた。
.
本端寺は三浦家の菩提であり、頼朝が建てた別邸の一つ「桜の御所」の旧跡である。観桜の別邸は本端寺、観桃の別邸は見桃寺、観椿の別邸は大椿寺と変貌し、「花の三御所」として今に伝わっている。
.
奥州征服が済んだ頼朝にとって最も幸せだった時代だったのかも知れないね。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
3月13日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)が(故頼朝将軍の)法華堂に御参りして(月違い命日の)法事を催し、大学房法眼行慈の弟子である慈淵が導師を務めた。また、この法事には鶴岡八幡宮寺の供僧が加わる必要はないだろう、との仰せがあった。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
今日、将軍家(実朝)から次の通り仰せがあった。「朝廷に献上する馬は担当する役人が各々駿馬三疋づつを準備して見参せよ。どのように撰定するかは考慮しておく。」との事である。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
4月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮に恒例の御供(神前への供物)を備えるため将軍家(実朝)が女房が使う輿でお忍びの参宮を行った。御供は 若狭忠季と宮内公氏のみである。
.

.
   ※宮内公氏: 実朝側近として吾妻鏡に数回載っている。建保七年(1219)1月27日の実朝暗殺の朝が有名。
.
(右大臣拝賀に謝する)出発の直前に大江廣元が午前に進んで言上した。
「私は成人してから涙を流した事がありませんが(不吉な前兆が重なった)今は落涙を抑えられません。東大寺落慶供養に立ち会った際の右大将軍(頼朝)の前例に倣い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)を着けますように。」
.
仲章朝臣が「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」と言って腹巻の件は中止となった。
.
また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き、記念にと称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。   「出でいなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
.
もちろん道真の和歌の「本歌取り」だが、昇叙の拝賀に「主なき宿と...」は異様である。
実朝殺害事件は脚色が多いし実朝の和歌も駄作だと思うが、側近公氏の傍証として載せた。
.
この白々しい記述が吾妻鏡編纂者の改竄なのか、それとも原資料として使った誰かの覚書に拠る脚色なのか...判別は無理ではあるが。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
4月2日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)が甘縄神宮および日吉別宮に参詣、その後に(隣接する)安達右衛門尉景盛邸に入御された。
.

.
   ※甘縄神宮: 和銅年間(708~715)に行基上人あるいは染屋時忠
創建したと伝わる。染屋太郎大夫時忠は東大寺の開山和尚を務めた良弁上人(689~774年)の父親とされ、行基(668~749)と概ね同時代を生きた人物である。
.
時忠館跡、塔之辻の伝承などは極楽寺坂から小町口へを参照されたし。
.
主祭神は天照大神。源頼義は相模守として赴任中に甘縄神宮に祈り、平直方から屋敷の贈与を受け娘を娶って八幡太郎義家が生まれた。これが源氏が鎌倉と接点を持った最初で、後に頼朝が本拠を鎌倉に構えた原点となる。
.
日吉別宮は境内摂社と思われるが、現在は存在が確認できない。
.
      右画像は甘縄神明宮の拝殿。画像をクリック→ 神社と安達盛長の墓所(別窓)などへ。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
4月18日
.
吾妻鏡
.
.
在京の御家人が洛中の警備を緩怠しているとの苦情があり、その件について「忠実に勤めているか否かを判断して賞罰を行うように」との沙汰が下った。源親廣が奉行を担当する。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
5月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮で祭礼と神事。将軍家(実朝)は出御せず、前大膳大夫大江廣元朝臣が奉幣使を務めた。
.

.
   ※神事: 人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の五節句が正式に
定まったのは江戸時代だが、風習としては平安時代から宮廷を中心に定着していた。吾妻鏡には上巳・端午・重陽の神事が頻繁に記録されている。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
5月12日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)が證菩提寺(参考サイト)に(非公式の)御参詣をされた。
.

.
   ※證菩提寺: 石橋山合戦(サイト内リンク・別窓)で死んだ左奈田義忠(与一)の菩提を弔って建久八年(1197)
頼朝が創建したと伝わる真言宗の古刹(地図)。鎌倉の鬼門(北東)を守護する意味もあり、500m四方ほどの敷地に多くの堂塔が並ぶ大寺だったと伝わっている。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
壽福寺の長老葉上僧正栄西が没した。痢病(赤痢・疫痢など下痢を伴う疾患)が原因で、(僧正との)結縁を求めて鎌倉中の人々が集まり、遠江守源親廣が将軍家(実朝)の使者として臨終に立ち会った。
.

.
   ※栄西死没: 現在では「大乗院具注歴日記」が記している通り、7月5日に京都建仁寺(公式サイト)での死没が
定説らしい(墓所は開山を務めた建仁寺護国院)。吾妻鏡は鎌倉で死没した如くに書いているが、4月18日に在京御家人の監督に任じた源親廣が(鎌倉での)臨終に立ち会うのは不合理。
大乗院は奈良興福寺に存在していた塔頭の一つ、具注歴日記は朝廷の陰陽寮が頒布した暦に記入した日記。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
6月7日
.
吾妻鏡
.
.
御台所(坊門信子)に仕える祗候人(常勤の専従職員)の数を定めた。今日将軍家(実朝)の御前で勤務の順番を決め、容姿の良い者が選ばれた。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
6月20日
.
吾妻鏡
.
.
今夜子刻(深夜0時前後)に御霊社が鳴動した。併せて三度に及んだ、と。
.

.
   ※御霊社: 坂ノ下の権五郎神社(サイト内リンク・別窓)を差す。起源は平安時代中期、相模に並立した桓武平氏
の五族(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)を祀った五霊神社が転訛した、と伝わる。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
7月6日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
黄門(中納言の唐名)の坊門忠信卿から、去る6月2日に催された仙洞(院の御所)での歌合せの記録一巻を将軍家 (実朝)に贈ってきた。これは後鳥羽上皇の非公式な指示による。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
7月19日
.
吾妻鏡
.
.
鎌倉に於ける商人の数を定めよとの仰せがあった。結城朝光がこれを奉行する。
.

.
   ※商人の数: この政令の詳細(人数・場所・選定の基準など)に関する記録は
残されていないが、市内周辺の定住人口増加と貨幣経済の普及に伴って、様々な規制が設けられ始める。
.
仁治元年(1240)2月には押買の禁止(強引な買取りの禁止と対等な取引を守る命令)、建長三年(1251)3月には指定した七ヶ所(大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上)以外での商いを厳禁し、併せて牛を小路に繋ぐ事の禁止と清掃を命じる布告、更に文永二年(1265)3月には武蔵大路下と須地賀江橋の指定を追加している。  (右画像を参照)
.
それ以後に規制が加わった可能性もあるが...翌文永三年(1266)7月20日で吾妻鏡が幕を閉じているため確認は不可。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月10日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家(実朝)がやや体調不良のため御所に於いて祈祷、大監物安倍宣賢が月曜祭を行った。
.

.
   ※大監物: 物品の出納や鍵の管理をする職種。祈祷の手順を心得ていた京下りの安倍一族だろう。
   ※月曜祭: 九曜星の一つでインド伝来の古代仏教。単なる迷信の世界だが、興味があればこちらで。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月14日
.
吾妻鏡
.
.
子刻(深夜0時)に皆既月蝕。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で放生会。将軍家(実朝)の出御は通例の通り。結城朝光が御剣を持ち、加藤新左衛門尉景長が弓箭を携帯した。
.

.
   ※加藤景長: 加藤景廉の次男で、遠山氏の祖となった景朝の弟。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月16日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家は御参宮されず、馬場の桟敷で流鏑馬を観覧された。前大膳大夫(大江廣元)奉幣の使者を務めた。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月18日
.
吾妻鏡
.
.
激しい雨に加えて午刻(正午前後)に強風が吹き、鶴岡八幡宮の鳥居(前浜)が倒れた。
.

.
   ※前浜の鳥居: 一之鳥居(浜の大鳥居)と考えられる。柱の痕跡が若宮大路歩道橋の下(地図)に残っているが
これも後北条氏の頃(16世紀中盤~後半)の建立らしい。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月19日
.
吾妻鏡
.
.
地震あり。  (時刻の記載なし)
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月21日
.
吾妻鏡
.
.
巳刻(10時前後)に鷺が御所の西侍所の屋根に集まっていた。未刻(14時前後)に地震。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月22日
.
吾妻鏡
.
.
地震の頻発と鷺が集まった異常について卜占を行った結果、重大な事件が勃発する可能性が述べられた。
これにより将軍家(実朝)は御所を出て相模守北條義時に入御された。佐々木信綱が御剣持ちを務め、邸の主である義時は他所に移った。
.

.
   ※義時邸: 従来は大倉御所の東側(地図の一帯)に住んでいたが、この
時点では現在の宝戒寺一帯が執務場所を兼ねた私邸として大倉邸と併用していたらしい。実朝が変事に備えるなら鎌倉中心部に近い宝戒寺(公式サイト)を選ぶのがセオリーか。
.
ここは代々執権の執務場所となり、元弘三年(1333)に新田義貞の大軍に追い詰められた北條一族が滑川の200m下流に架かる橋を渡り東勝寺に籠って滅亡の時を迎えている。
.
嘉禎二年(1236)からは将軍御所も小町大路を隔てて概ね隣接する若宮大路幕府に移転している。
若宮大路幕府などの詳細は段葛と二つの政庁の参照を。
.
          右画像は現在の東勝寺橋、この300mほど奥に東勝寺の跡がある。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
8月25日
.
吾妻鏡
.
.
安倍親職・泰貞・宣賢らの陰陽師が御所に於いて百怪祭を行った。将軍家の代理として立ち会ったのは伊賀太郎左衛門尉光季、奉行は図書允清原清定。これは鷺の怪異を祈祷によって払うのが目的である。
.

.
   ※百怪祭: 陰陽道の祭祀の一つ。平安時代から室町時代まで、怪異が起きた際に行なわれた。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月6日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
丑刻(夜2時前後)に大地震。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月8日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(早暁4時前後)に大地震。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月9日
.
吾妻鏡
.
.
鶴丘八幡宮で(重陽節句の)神事が催され、将軍家が出御された。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月11日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(早暁4時前後)に大地震。未刻(14時前後)になって再び小さな揺れがあった。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月13日
.
吾妻鏡
.
.
未刻(14時前後)に地震
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月14日
.
吾妻鏡
.
.
酉刻(18時前後)および戌刻(20時前後)に地震があり、同時に雷鳴。
.
亥時(20時前後)には佐藤伊賀前司が死没した。 従五位上伊賀守藤原朝臣朝光(年齢記載なし)、散位光郷の息子、母は 下総守邦業の娘。 正治年間(1199~1201)に左衛門少尉に任じ、建永元年(1210)4月25日に検非違使の宣旨を受けた。翌年3月12日に辞意を呈したため4月10日に叙留となり5月23日に辞職。
承元四年3月19日に伊賀の守に任じ、建暦二年(1212)12月10日に従五位上に叙された。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月15日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に伊賀朝光を山城前司二階堂行政邸の後山に埋葬。相模守北條義時が臨席された。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月16日
.
吾妻鏡
.
.
卯刻(朝6時前後)に地震。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月17日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に三度の地震があった。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月21日
.
吾妻鏡
.
.
連続して起きた地震に対応して祈祷が催された。三万六千神祭は安倍親職、地震祭は安倍宣賢が行った。駿河守中原季時これを沙汰し、大江左衛門尉能範が将軍の代理で臨席した。
.

.
   ※三万六千神祭: 天変地異を除き,天下泰平を願う祈祷。
   ※大江能範: 西面の武士で大江一族、廣元との縁戚関係はない。承久の乱で後鳥羽院に味方し戦後に処刑。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
9月26日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)雷鳴数度を伴って李子(すもも・5cm前後)ほどもある雹(ヒョウ)が降った。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
10月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
相模守北條義時が絹糸五十疋(百反)を献上、将軍家はすぐ御前で近習の武士に分け与えた。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
10月2日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(早暁4時前後)に地震。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
10月10日
.
吾妻鏡
.
.
越後国に於ける検断について、守護人の間で権限の調整を行うようにとの仰せを西念(佐々木盛綱)が承った。
.

.
   ※検断: 刑事裁判を司る権限。鎌倉幕府では侍所(義盛滅亡後は執権義時が兼任)に所属するが、荘園領主や
守護地頭も領内に私的な検断職を置いていた。
.
   ※越後守護: 建久六年(1195)~建久十年(1199)が佐々木盛綱、承元四年(1210)以後が北條義時、
貞応二年(1223)~寛元三年(1245)は北條朝時、以後は名越流北條氏当主が世襲している。佐々木氏は建仁の乱(1201年4月)に城資盛の籠る鳥坂城を破って以来地頭として越後国に勢力を保っていた。今回は佐々木氏と義時のトラブル未遂なのか、それとも権限の調整なのか。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
10月30日
.
吾妻鏡
.
.
去る8月に強風で倒れた鶴岡八幡宮浜の鳥居を建て直した。相模守北條義時・武蔵守北條時房・匠作北條泰時ら多くが臨席し夜になって完成したが、足場が倒れて工匠一人と人夫二人が負傷した。これは喪中の者が加わっていたのが原因ではないかと別当や供僧が申し出た。
.

.
   ※喪中の者: 義時の後妻・伊賀の方は9月14日に没した伊賀朝光の娘だから軽服(遠縁の服喪)の対象。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家の御牧から馬が届き、三浦義村が仮御所(義時邸)に引き連れてきた。 将軍家(実朝)は南面(公式の場)で馬を見た後に側近に与えた。 夜になって庚申の御会が催された。
.

.
   ※三浦義村: 正確な時期は解らないが義村は御厩奉行に任じている。馬は幕府直営の牧場(場所は判らない)
から鎌倉に届き、それを義村が将軍の御前に連れてきたのだろう。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月8日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)が相模守北條義時邸から大倉御所に還御された。鷺の怪異によって仮御所に移ってから既に75日が過ぎたためである。籐右衛門尉安達景盛が前もって御所での儀式準備を済ませてあり、御引出物と供奉人への贈物の手配を行っている。
.

.
   ※既に75日: 一年=四季プラス土用の丑=五季節との考えがあり、365日÷5≒約75日になった、という。
「人の噂も75日」と同じで75日を一つの区切りとしたらしい。真偽は不明。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月12日
.
吾妻鏡
.
.
御霊社に於いて清めの儀式を行った。以前から再三の怪異があったためである。
.

.
   ※御霊社の怪異: 6月20日に事件の報告がある。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月20日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に太白(金星)が哭星(山羊座)の第一星(γ(ガンマ)星)から七寸の所を通過した。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月21日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に太白(金星)が哭星(山羊座)の第二星(δ(デルタ)星)から七寸の所を通過したと陰陽少允安倍親職が報告し、将軍家(実朝)が御所の南面に出てこれを御覧になった。
.

.
   ※星の変異: 8年周期で同じ現象が起きるらしい(次回は2016年12月27日と28日)。0.7度以内に接近する
のは「犯」・それ以上は「合」と呼び共に凶兆、直視しないのが当時の習慣だった。
実朝が「公式の場である御所南面で観察した」のは、約三年後に迫った死期の暗示だろうか。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月24日
.
吾妻鏡
.
.
安楽寺(大宰府天満宮・公式サイト)領の岩田庄については多少の逡巡があったが、今日遂に左近大夫菅原時賢の子有成に与えられた。相模守北條義時と武蔵守北條時房および前掃部頭中原親能と遠江守源(大江)親廣らが御下文に花押を書き加えた。有成の兄弟が「有成は平家に与している」と訴え出たため没収を検討したのだが、そのような事実はない旨を陳述した事によって所領安堵に至ったものである。
.

.
   ※岩田庄: 天満宮から約18km南、現在の福岡県小郡市上岩田地域を差す。植え岩田の老松神社は大宰府に
流される途中の道真が松の苗を植え、「これが一夜で成長すれば私の無実が明らかになるだろう」と語った。果して松は一夜で古木となって老松神社の御神木になった、との伝承が残っている。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
11月25日
.
吾妻鏡
.
.
幕府に於いて突然の仏事(導師は退耕行勇律師)が催された。これは将軍家(実朝)の昨夜の夢和田義盛ら死没した多くの者が現れたのが理由である。
.

.
   ※実朝の夢: 今頃になって夢を見ても遅いのだけれど...頼家梶原景時を救えなかった(救わなかった)時に
朝廷では「頼家最大の失敗」と噂したらしい。同じ意味で和田義盛を見捨てたのは実朝にとって最大の失敗と言えるかも。まぁ失敗続きの若者ではあるが。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
12月15日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
亥刻(22時前後)に金星と木星が接近し、同じ時刻に地震があった。
.

.
   ※金星の異常: 2015年7月に金星と木星の大接近(wikiの画像を参照)が話題になった。簡単に書くと陰陽道
では金星(太白)と将軍は同じ五行の金(万物は木・火・土・金・水の五種類から成る)に分類されるから、金星に異常があると将軍にも何らかの影響があるだろう、と考える。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
12月16日
.
吾妻鏡
.
.
続いている惑星の変異などについて、天文を司る部署から報告書が提出された。将軍家(実朝)は特に注意して身を慎む必要があるとの内容で、大夫屬入道三善康信が将軍家に取り次いだ。
.
相模守北條義時・大官令大江廣元・籐民部大夫二階堂行光らは「善政を行って良い運が続くよう 補佐するべき」と取り決めた。
.
今日、伊豆の国で願成就院の南新御堂完成供養を催した。本尊は阿弥陀三尊および四天王像で、北條義時の祈願として新たに建てた御堂である。
.

.
   ※願成就院: 右画像は東側からの周辺鳥瞰図(左側が南)。
南御堂がどの辺だったかを考えるのも結構楽しい。時政が建てた南塔の手前かな...なんて。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
12月19日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に太白(金星)が歳星(木星)の軌道を九寸ほど犯した。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
12月20日
.
吾妻鏡
.
.
絹糸や絹布などを善光寺(公式サイト)の僧徒に布施として贈った。布施右衛門尉がこれを差配した。
.

.
   布施氏が布施なんて、まさか駄洒落じゃないよね(笑)。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
12月30日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(実朝)御前の南庭に於いて、天変に対応するため宣賢が歳星(木星)に奉仕する祈祷を行った。
左衛門尉三浦義村がこれを沙汰した。
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1215年
.
.
84代 順徳
.
建保三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.
   ※:
.


前年・建暦三年(1214)の吾妻鏡へ       翌年・建保四年(1216)の吾妻鏡へ