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建保四年(1216)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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1月13日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参詣された。
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   ※実朝: 満23歳4ヶ月、健保元年(1213)2月に正二位に昇叙し右近衛中将・美作権守に任じている。
ついでに書くと、北條義時は52歳・政子は59歳・北條泰時は32歳・大江廣元は67歳 (全て満年令)
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   ※女房出車: 装飾または女性用の表示として女房衣装の裾や袖先をのぞかせた牛車。(wikiの画像を参照)
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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1月15日
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吾妻鏡
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相模の国江嶋明神(現在の江島神社・公式サイト)の託宣の通り、大海の水が退いて陸続きの道ができた。
参詣のため舟に乗る必要もなく、鎌倉を始め各地から多数の僧俗が押し寄せた。これは前代未聞の神変である。
左衛門尉三浦義村が将軍家の使者に任じてその霊地を確認し、御所に戻って「荘厳な奇跡である」と報告した。
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   ※陸続きの道: 大潮で干潮の時間帯なら、現在でも橋の周囲の砂浜を歩いて渡れるから託宣など不要。
いわゆるトンポロ現象(wikiの画像)だ。早めに行けば橋脚に付いた岩牡蠣が採れるかも。
大潮なら材木座から和賀江島にも渡れるから、どちらを選ぶか悩むところだね。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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1月17日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御持仏堂御本尊(雲慶作)が京都から到着した。
開眼供養は信濃守二階堂行光が計画し手配するように、との仰せがあった。
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   ※持仏堂本尊: 運慶円熟期の作品の筈だが現存せず、像高も判っていない。吾妻鏡は雲慶と運慶は同一人物
として描いているが、吾妻鏡の文治五年(1189)9月17日には頼朝が平泉を巡察した記録として、毛越寺の項に以下の記載がある。
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毛越寺の金堂圓隆寺の本尊は大仏師雲慶に造仏を依頼したもので、雲慶は上中下の三段階を提示、藤原基衡は中品を依頼して費用を仏師に送った、云々。
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運慶の誕生年は不詳だが推定では1140~1150年前後(没年は貞応二年(1224年1月)。一方で毛越寺の造営は基衡晩年期の久安六年(1150)~保元元年(1156)だから、年代的には運慶による造像は有り得ない事になる。この食い違いが何に起因するのか、改めて考えるのも面白い。
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閑話休題...運慶が足利義兼の依頼を受けて法界寺(通名を樺崎寺の大日如来像を彫ったのは1190年代初頭、既に25年が過ぎ運慶は功成り名を遂げた円熟期に達している。
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現存していたら素晴らしいだろうが、残念ながら行方不明。
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少し前の承元二年(1208)12月17日に着手し建暦二年(1212)頃に完成した運慶の作品として、奈良興福寺(公式サイト)北円堂四像の一つ・無著像を載せた(右画像をクリック→拡大表示)
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藤原氏氏寺の興福寺造仏を従来の院派に替り慶派が命じられ、運慶と高弟の源慶・静慶と6人の子息が造ったもの。運慶が60歳を過ぎた頃の作だろうか。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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1月28日
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吾妻鏡
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初めて御本尊(釈迦如来像)を御持仏堂に安置し、開眼供養を行った。導師は荘厳房律師退耕行勇、招いた僧(鶴岡八幡宮寺の供僧)は七人である。
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導師の御布施は、綾の被物二重・裹物五、(二階堂行光がこれを差配した)、銀の鞍を置いた御馬一疋(左衛門尉 三浦義村と大須賀太郎道信(胤信の嫡子)がこれを引く)、鞍を置かない馬一疋(筑後左衛門尉八田朝重と同六郎知尚(八田知家の六男で浅羽氏の祖)がこれを引く)。
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追加の布施は砂金五十両(源仲章朝臣がこれを持参す)。請僧の分は1人当りに裹物二・青鳧二千疋を宿坊に送った。大夫判官二階堂行村と左衛門尉結城朝光がこれを差配した。
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   ※青鳧: 大陸から輸入した宋銭(銅銭)。中央の四角い穴が鳥の目に似ている事から「せいふ」(青い鴨)、鳥目
(ちょうもく)などと呼んだ。吾妻鏡に登場するのはこれが最初だが、嘉禄二年(1226)には鎌倉幕府が公式に使用を認可し4年後には朝廷も追随する。絹や布に替る貨幣経済が本格化し、鎌倉時代中期(1250年前後か)には年貢なども貨幣で納めるようになる(参考サイト)。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月1日
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吾妻鏡
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曇天のため日蝕の確認はできず。鶴岡八幡宮寺の供僧である頓覚房良喜が祈祷を行って御馬を与えられた。使者は波多野次郎朝定。夜になって豪雨となった。
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   ※波多野朝定: 和田合戦の建暦三年(1213)5月3日に相模の御家人に参集を命じた実朝の御教書を書いて
いる。また実朝か殺される前年の健保六年(1218)3月16日には実朝を左近衛大将に叙す除書を京都から鎌倉に持ち帰っている。波多野氏系図に記載がないのが残念。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月11日
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吾妻鏡
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将軍家実朝の御祈願である七仏薬師像の造立が今日始まった。二階堂行光二階堂行村が奉行に任じる。
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   ※七仏薬師: 薬師瑠璃光如来と六つの仏。衆生救済のため姿を変えて現れるという七つの姿を差す。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月16日
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吾妻鏡
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小雨のため月蝕を確認できず。
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   ※東寺で盗難: 東寺百合文書(東寺宝蔵の文書群)に別当権律師の花押がある16日付の文書に拠れば...
5日に盗人が以下の品を盗み取った。御道具唐櫃から独鈷など14点・灌頂院御仏具の花瓶など17点・西院御仏具の6点・その他。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月19日
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吾妻鏡
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宣旨一通が大夫屬入道三善康信の元に到着し、中原季時を介して将軍家(実朝)に報告されたが(ニ所詣に備えて)精進中のため閲覧が憚られた。将軍家は「内容の通りに東国の御家人に指示せよ」と三善康信に命じた。「去る5日の夜に群盗が東寺の宝蔵に入って仏舎利や諸道具などの宝物を盗み取った。この盗人を捜して捕縛せよとの宣旨を五幾七道に下す」との内容である。宣旨の内容は次の通り。
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弁官(事務官)から東海道諸国に下す。東寺の舎利および道具などを盗み取った犯人を捜索せよ。
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右、今月五日の夜に白波(盗賊)が東寺に入り、舎利と道具を盗み出した。舎利は一代教主(釈迦)の遺身、道具は三国(印度・中国・日本)に伝わる霊宝である。仏法は既に衰微の時代に入り国家もまた鎮護の力が衰えている。
手間を惜しまず、また盗人などを恐れてはならない。
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帝の勅を奉じて左大臣が命じる。五幾七道の国々および諸寺・諸山に命じて捜索せよ。一品を取り戻した者であっても破格の賞を与えると承知せよ。
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   健保四年二月九日   左大史小槻宿祢国宗  権左中弁藤原朝臣
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右画像は東寺の軍茶利明王像(木造202cm・国宝)。現存する最古の五大明王像(不動明王・隆三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)の一つで、足元の岩まで一木から彫り出している。(画像をクリック→拡大)

   ※白波: 中国後漢時代(23~220年)に白波谷に本拠を置いた盗賊で黄巾の乱の残党。盗賊の語源となった。
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   ※東寺: 真言宗の根本道場であり、「教王護国寺」(王を教化し国家を鎮護する密教寺院)との別称を持つ。
何処にでもある寺とは成り立ちが違うから盗賊捕縛の宣旨までが発行される。公式サイトを参考に。
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   ※藤原朝臣: 左大臣の九条良輔。九条兼實の四男、2年後に急死する。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月23日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣に出発された。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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2月27日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、将軍家(実朝)が二所詣から還御された。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮で一切経会を催した。将軍家の出御なし、武蔵守北條時房が使者としてとして神拝された。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵全てを纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)・建仁元年(1201)・建仁三年(1203)・元久三年(1206)・承元三年(1209)・建暦元年(1211)・建暦二年(1212)の3月3日(上巳節句)にも開催しているから、上巳節句(3月3日)通例の法会としても完全に定着している。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月5日
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吾妻鏡
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故金吾将軍(頼家)の姫君(14歳)が狩衣の侍二人を従えて御所に渡御され、御台所 (坊門信子)と面談された。これは尼御台所政子の仰せに従い御猶子の儀を行うためで、二階堂行光が贈物などの手配を行った。
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   ※頼家の姫君: 28歳で四代将軍藤原頼経の正室となった竹御所鞠子
を差す。尊卑分脈に拠れば生母は公暁と同じ足助重長の娘(その生母は為朝の娘)。紛れもなく源氏の血筋であり、実朝の没後に残った最後の頼朝の血筋である。
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   ※猶子: 本来の養子関係との区分は曖昧だったが、鎌倉時代には官位
昇進の便宜・婚姻の便宜・他の氏族との関係強化の側面が強くなった。ただし、通常の養子と同一の例もあるから個別の判断が必要。
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    右画像は鎌倉妙本寺の墓地にある竹御所の墓標。彼女を葬った廟所の須弥壇直下の位置だと伝わる。
         画像をクリック→妙本寺の詳細(別窓)へ。

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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月7日
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吾妻鏡
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海水の色が赤紅を浸したように変色した。
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   ※海水の変色: 熱海から小田原にかけての相模湾では春~夏を中心に赤潮の発生が珍しくない。単なる植物
プランクトンの堆積で、相模湾の場合は青潮のような漁業被害は少ないらしい。
実際の画像はwikiの画像紹介を参考に。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月16日
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吾妻鏡
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御台所(坊門信子)が江嶋明神(現在の江島神社・公式サイト)に参詣。信濃守二階堂行光・筑後前司頼時ら五位・六位の数名が従った。
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   ※前筑後守頼時: 源姓の実務官僚。検非違使、筑後守を経て建暦二年(1212)に地頭職を務め鎌倉に常駐。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月22日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に入って次の通り報告した。
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先月29日の申刻(16時前後)に東山の新日吉社(現在の新日吉神宮・公式サイト・地図)近くで大夫尉(検非違使)足利秀能と淡路守足利秀康らが
東寺の強盗を捕獲し仏舎利その他の盗品も確保して元通り東寺に安置した。
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その日のうちに秀康は右馬助(淡路守は留任)に、秀能は出羽守(検非違使は留任)に任じられた。強盗を捕らえて連行した褒賞である。
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盗難の解決を祈るため2月23日には勅使の葉室光親卿を伊勢神宮に派遣しており、29日に京都に戻った日に賊徒が捕らえられたのは明白な天皇家や仏法の威光が衰えていない証拠であろう、と。
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右画像は東寺(公式サイト)の兜跋毘沙門天(多聞天)・木造189.4cm・国宝、中国唐時代の作(右画像をクリック→拡大表示)。
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元は羅城門(地図)の楼上にあり、天元三年(980)に門が倒壊した際に掘り出され500mほど東の東寺に運ばれた。東寺は嵯峨天皇から空海に下賜されて真言密教の根本道場となった古刹だから、この像は空海が唐から持ち帰った可能性がある、と思う。
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   ※任官: 律令制では検非違使や右馬助は内官(在京の官職)、淡路守や出羽守
(国司・郡司・大宰府・鎮守府など)は外官に含まれる。内官と外官の兼任は可能。
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   ※秀康と秀能: 藤原秀郷の子孫で藤姓足利氏(生母は源光基(wiki)の娘)。成行と孝綱の兄弟は足利に土着
して藤姓足利氏の祖になったと思われるが、孝綱系の詳細系図は判らない。
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私は源姓足利氏より藤姓足利氏贔屓(笑)。平氏と同様に滅びる者の美しさがある。
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秀郷─千常─文脩─文行─兼光─頼行─兼行─┬─足利成行─家綱─俊綱忠綱
└─足利孝綱─秀基─秀忠─秀宗─秀康・秀能兄弟
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月24日
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吾妻鏡
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京都の飛脚が到着して報告。去る14日の夜に前内府禅室坊門信清卿が京都西郊の別宅で死没した。
石清水八幡宮(公式サイト)にいた後鳥羽上皇は15日寅刻(早暁4時前後)に急遽還御の意思を示された。
坊門信清卿は上皇の外舅(後鳥羽の生母藤原殖子は坊門信清の同母姉)である。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月25日
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吾妻鏡
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厳閣(父親・坊門信清)の薨御に伴い御台所坊門信子は牛車で信濃守二階堂行光の山荘に内密で渡御された。死穢を避けるためである。
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   ※薨御: 親王・女院・摂政・関白・大臣の死。天皇・皇后・皇太后・太皇太后(昔は上皇・法皇も)の場合は崩御。
   ※死穢: 死者の遺族は死穢(しえ)の中にいると考えられ、隔離され清められる必要がある、とする考え。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月26日
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吾妻鏡
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坊門信清家を弔問するため左近将監佐々木信綱と足立八郎元春(足立遠元の嫡男)が上洛の途についた。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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3月30日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が相模守北條義時邸に着き、去る22日に中納言三条實宣の室が逝去したと報告した。故遠州禅室(北條時政)の御息女で義時の妹である。義時は御軽服(軽い喪)に入り、諸 人が弔問に群参した。
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   ※三条實宣室: 牧の方の娘だから義時には異母妹になる。牧の方のもう一人の娘は 平賀朝雅に嫁し、朝雅が
追討された後は権中納言の藤原国通(正二位権大納言藤原泰通)(wiki)の次男)に再嫁した。
夫の北條時政が没した後の牧の方は上洛し、娘の屋敷で優雅な余生を楽しんでいた。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月7日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が中原姓を改めて大江姓を称する勅裁を申請する意思を日頃から朝廷と幕府に相談していた。
今日、ついに女房(女官)を介して将軍家(実朝)に許諾を上申した。
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   ※大江に改姓: 廣元の実父は大江維光(従四位上・式部大輔、紀伝道(中国史)の大家)で、養父(生母の再婚
相手?)が中原広季(明経博士(清原・中原家が世襲した儒学の教官)とする説が一般的。
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健保四年6月11日に提出した申請書(閏6月1日に認可の宣旨)には「養父の中原廣季の養育を受けた恩はあるが大江氏の衰運を黙視できない」として大江維光を継ぐ希望を述べている。
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鎌倉に下って頼朝に仕えた頃から名乗っていた大江姓は通名で既に氏姓制は半ば崩壊していたのだが、晩年を迎えた廣元としては筋を通したかったのだろう。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月8日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に御参りし、十六羅漢の絵像に供物を献じた。
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   ※羅漢: 阿羅漢の略。全ての煩悩を断って修行の極致に達し、人々の供養を受けるに値する仏弟子や聖者。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月9日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は普段おられる御所の南に於いて終日諸人の訴えを聴いて裁断された。それぞれ藤の坪庭に控えて子細を言上し、三浦義村三善康信二階堂行光中原仲業らがこれを差配した。
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   ※諸人の訴え: 原文は「終日令聴断諸人愁訴給」。一般的な訴訟は問註所が取り扱い、建長元年(1250)から
御家人の訴訟のみ引付衆に分離した。実朝は御家人の愁訴を直接聞こうとしたのだろう。
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執権の権限に関与したり御家人への影響力を強化したり傀儡将軍の枠を越えようとする試みと受け取られかねない危険も含んでいる。執権の北條義時は気に止めなかったか、それとも不愉快に思ったか。そして源仲章などを介した背後に後鳥羽上皇の存在を意識しなかっただろうか。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月15日
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が到着し、去る2日に殷富門院が崩御されたと報告した。
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   ※殷富門院: 第77代後白河天皇の皇女で保元元年(1156)から同三年(1158)まで伊勢斎王を務めた。
81代安徳天皇と82代後鳥羽天皇の准母(生母と同等の処遇を受ける)。享年89。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月17日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が申請した大江姓について将軍家(実朝)の認可があった
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   ※皇帝紀抄の記事: 4月18日、東寺の舎利を盗んだ盗賊六人を検非違使に引き渡した。上皇の御見物あり。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月19日
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吾妻鏡
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御台所(坊門信子)が御仏事を修せられた。坊門信清殿の三十五日である。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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4月20日
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吾妻鏡
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左近大夫美作朝親が使節として上洛の途についた。殷富門院の弔問である。
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   ※皇帝紀抄の記事: 4月29日、東寺の盗賊24人の身柄を関東へ、佐々木左衛門尉廣綱が請け取った。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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5月10日
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吾妻鏡
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御所の将軍家(実朝)持仏堂に七仏薬師像を安置し開眼供養を行った。導師は小河法印忠快、供養の後に七仏薬師法を修した。
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   ※七仏薬師像: 薬師瑠璃光如来と六つの仏で、衆生救済のため姿を変えて現れるという七つの姿を差す。
2月11日に造立が始まったとの記載がある。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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5月13日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が法華堂に出御し仏事を行った。
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   ※法華堂: 父親の右大将軍頼朝の廟所を差す。13日は月違い命日。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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5月18日
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吾妻鏡
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七仏薬師法の結願である。布施は華美を尽、相模守北條義時・武蔵守北條時房・遠江守源親廣・駿河守中原季時らが着座し、堂の上は花が咲いた如くに華やかだった。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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5月24日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が山内の辺りを散策された。予定外の行動だったため近習が急いで駆け付けた。
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   ※山内: 巨福呂坂隧道を抜けた一帯(地図)が山内。大倉御所から行く
場合は巨福呂坂を越えるのが最も一般的だが...西御門から八幡宮境内を抜けても2km近い。
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35年後の建長二年(1250)でさえ、「山ノ内および六浦への道は先年に険しい部分を改修したが、土石が村里を埋める状態になったため復旧の指示が出された。」(6月3日)と記載してある。実朝が少数の側近だけ伴って行くとは信じ難い。
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途中で近習が追い付き山ノ内まで散策したと考えるべきか。
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右画像は西御門から山ノ内までの概略地図(クリック→拡大)
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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5月25日
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吾妻鏡
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恩沢についての沙汰があった。また新御堂の寺領について定められた。
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   ※新御堂: 現在の十二所に建立し健保二年(1214)7月27日に落慶供養した大慈寺を差す。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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6月8日
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吾妻鏡
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東大寺の大仏を鋳造した宋人・陳和卿が鎌倉に入った。東大寺供養に出席して仏と結縁した右大将家(頼朝)が面談を求めた際に陳和卿は「多くの人を殺したあなたの罪業は重いから面談は憚られる」と主張して遂に実現できなかったのだが、「現在の将軍家は仏の権化であるから温顔を拝したい」と語っている。
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このため筑後左衛門尉八田朝重の家を陳和卿の宿館とし、まず大江廣元朝臣に詳細の確認を指示した。
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   ※陳和卿: 大仏殿の落慶供養と陳和卿の面談は建久六年(1195)3月12日と13日に詳しく記載している。
陳和卿は彼の厚遇を妬んだ同僚の僧による事実無根の讒訴で元久三年(1206)に失脚した。
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以後10年は消息不明になっていたが、建保四年(1216) 6月に突然鎌倉に現れて三代将軍実朝に面会を求めたから話が面白くなる。
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   ※厚遇の結果: 彼の功績に対して朝廷は播磨国賀東郡大部荘(現在の兵庫県小野市敷地町一帯・地図)の他
4ヶ所を与えた(いずれも東大寺領らしいので管理権を得たらしい)。
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告発を受けた朝廷は元久三年(1206)4月15日に後鳥羽上皇の名で「宋人陳和卿濫妨停止下文」を発行し、東大寺復興事業と荘園管理から追放した。
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簡単に書くと、東大寺大勧進職を務めた重源(wiki)は醍醐寺(公式サイト)の出身で陳和卿は渡来僧、実績を重ねた部外者に対する東大寺生え抜き僧の卑しいエゴ、である。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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6月14日
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吾妻鏡
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先ごろ佐々木左衛門尉廣綱の使者が捕縛した東寺の盗賊や強盗や海賊の類50余人について、今日処分が決定、奥州流罪となった。夷嶋に送るため4月28日に一條河原で廷尉(検非違使)から佐々木廣綱に引き渡された。
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この東寺の賊徒は同月18日に足利秀能(家の子4人と郎党2人)に連行され、三條坊門東の洞院から大理の正親町西の洞院の門前(路次東の洞院から北に行き、一條で西に折れ、西の洞院を南に行く)を引き回し獄舎に拘禁された。見物人が人垣を作り、後鳥羽上皇も御車を大炊御門東の洞院に停めてこれを御覧になった。
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   ※夷嶋: 義時が執権の時代に北海道の蝦夷(アイヌ)支配のため「東夷の堅めとして夷嶋の岬に北條氏の代官
安藤太(五郎)を派遣した」との記録がある。夷嶋は北海道か、控えめに考えても下北半島辺りか。
彼は義時の家臣として頭角を現した安東忠家の系累だった可能性もある。
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   ※足利秀能: 東寺の盗賊を捕縛した功労者の1人。3月22日に詳細を記載した。
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   ※家の子と郎党: 家の子は基本的に当主の一族・縁戚と子弟、郎党は(郎等)は血縁関係のない当主に従って
主従関係を結んだ者。武士と武士の間で主従関係を結んで棟梁の郎党になるケースや、家の子と郎党全てを「郎党」と称するケースもある。
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   ※京都の地図: 最初に、大内裏の位置が現在と大きく違う事を確認
する必要がある。資料の記載に従って条里(wiki)を辿るのも、手間は掛かるけど結構面白い。
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私がいつも使っているのはこちらのサイトの左上画像の拡大図。サイトが消えると困るので私のサイトにコピーを置いている。
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   ※獄舎: 右(西)の獄舎は嵯峨野線円町駅近く(地図)、左(東)の
獄舎は京都府庁舎西側(地図)にあった。意外にも3km弱しか離れていないのは面白いが、朱雀大路(概ね現在の千本通)の突き当たりにあった大内裏を基準にしている。
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右獄の獄門に懸けられたのは安倍貞任・源義親(義家の子)・藤原信西など、左獄の獄門には源義朝主従・悪源太義平木曽義仲・一ノ谷で打たれた平忠度ら7人・野洲で斬られた宗盛親子、後には越前で戦死した新田義貞の首もここに懸けられている。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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6月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が陳和卿を御所に召して対面した。陳和卿は将軍家を三拝して泣き出し、それを不審に思った将軍家に、 「貴方の前世は宋の国医王山の長老であり、私はその門弟の一人でした。」と語った。
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去る建暦六年(1211)6月3日の丑刻(深夜2時前後)に一人の高僧が将軍家の夢に現れて同様の趣を告げた事があった。これは敢えて言葉に出さなかったが、その6年後に陳和卿が語った意味と符合している。将軍家はそう考えて信仰心を更に深めた。
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   ※医王山: 石川と富山の県境にある同名の「いおうぜん」が有名だが、宋の医王山は阿育王山広利禅寺(参考
サイト)と考えられている。通名の育王山が医王山に転じて伝わったらしい。
アショーカ王(wiki)、石塔寺(wiki)などと併せて古代宗教に思いを馳せるのも一興か。
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同じ山号を持つ寺が薬草や薬師如来などに関連している場合が多いことから考えると、宋の場合も医薬に関連する霊山なのかも知れない。例えば佐藤継信忠信兄弟の菩提寺として知られた飯坂の 医王寺は平泉の毛越寺の本尊と共に運慶が彫ったと伝わる薬師如来を本尊としている。
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   ※実朝の信仰心: 陳和卿が本気で信じていたのか、それとも食い詰めた詐欺師すぎなかったのか...
単細胞な実朝は本気で宋に渡ろう(正確に書くと「宋に帰ろう」か)と考え始める。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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6月20日
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保暦間記
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将軍実朝が権中納言に叙任となった。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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6月30日
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吾妻鏡
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京都の使者参着し、去る20日に将軍家が中納言に叙任された旨を報告した。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは6月の次が閏6月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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閏6月11日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に大地震。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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閏6月14日
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吾妻鏡
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(大江を通姓としていた)中原廣元朝臣が今月1日に大江姓に戻った。勅裁(帝の決裁)の趣旨が二階堂行光を介して将軍家に伝えられた。これは直ちに御前で書写し保管された。内容は次の通り。
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正四位下の陸奥守中原朝臣廣元が謹んで言上いたします。 朝廷の恩恵を受けて先例に従い中原姓を改め大江姓とする申請であります。朝廷の御恩を受けて先例に倣い、中原姓を大江氏に改める願いであります。
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      ~以下、面倒臭いので中国での先例などを挙げている部分を省略~
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散位従四位上の大江朝臣維光とは父子の間柄なので跡を継ぐのが道理であります。従四位下の掃部頭中原朝臣廣季には養育の恩を受けておりますが、中原には姓を継ぐ逸材に不足がなく、大江には血縁者が少ないため早く本姓に復して氏の衰退を防ごうと考えます。願わくば朝廷の配慮を受けて先例に依拠し、中原への復姓を許し儒教の道を認可されんことを。  建保四年六月十一日  正四位下 陸奥守中原朝臣廣元
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正二位行中納言藤原朝臣隆衡より伝える。 詔勅を賜り申請を認める。
                        同年後(閏)六月一日   大外記兼筑前守 中原朝臣師重(奉)
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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閏6月24日
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吾妻鏡
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小河法印忠快六字河臨法(参考サイト)の祈祷を行う事について、陸奥守大江廣元朝臣と信濃守二階堂行光の奉行として日時などの指示があり、陰陽少允の安倍親職・少輔大夫安倍泰貞らが内容を控えて来月7月1日から29日までの3日を 検討すべきとの結論を出した。法印は 「上旬と中旬の日程には支障あり、29日に近付けば大きな災厄を招く恐れがある。」と答えた。将軍家(実朝)からは「明らかに陰陽師の間違いだから彼らの出仕を停止せよ。」との仰せがあり、二階堂行光がその旨を二人に言い渡して蟄居の処分となった。
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   ※信頼の問題: 法印忠快は実朝が絶対的な信頼を置いている僧。京下りの陰陽師とは言葉の重さが違う。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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閏6月29日
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吾妻鏡
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去る20日の未刻(14時前後)に前大僧正法務・公胤が死没した(72歳)。風聞では穏やかな往生だった、と。将軍家が帰依していた僧であり、故前幕下(頼朝)も特に気配りを言い遺した者である。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼を受け、後に 政子の依頼を受けて
頼家の遺児公暁を弟子として預かった。当初は批判していた法然と面談してから念仏に帰依し、曹洞宗の祖道元には臨済宗の 栄西への入門を勧めたことでも知られる。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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7月15日
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吾妻鏡
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曇天のため月食は確認できず。今日、御台所(坊門信子)が寿福寺に渡御し亡父(坊門信清)の新盆法事を催した。大夫判官二階堂行村 が随行し法事を差配した。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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7月29日
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吾妻鏡
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小河法印忠快が相模河六字河臨法(参考サイト)を行った。将軍家(実朝)が出御され、随兵12人が先陣を務めた。続いて六位の者が12人(水干で野矢を帯す)。
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  随兵 (二行)
       式部丞北條泰時    左衛門尉結城朝光
       相模次郎北條朝時    長沼五郎宗政
       伊豆左衛門尉頼定    土岐左衛門尉光行
       左衛門尉三浦義村    右衛門尉宇佐美祐茂
       河越次郎重時    筑後左衛門尉八田朝重
       下河邊四郎行時(行平の嫡子)    伊東兵衛尉祐時
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  狩装束(二行)
       右衛門尉佐貫廣綱    九郎右衛門尉三浦胤義
       小野寺左衛門尉秀道(藤原秀郷の末裔)    武藤左衛門尉頼茂
       宗左衛門尉孝親    左衛門尉嶋津左衛門尉忠久
       波多野中務丞忠綱    関左衛門尉政綱
       左近将監佐々木監信綱    江左衛門尉能範
       左衛門大夫加藤光員    刑部大夫山内経俊
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  次いで御輿
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  相模守北條義時・武蔵守北條時房・陸奥守大江廣元朝臣・大学頭源仲章朝臣・信濃守二階堂行光‬
  大夫判官二階堂行村・左衛門尉小山朝政らが供奉し後続は一万余騎、無双の壮観である。
  亥刻(22時前後)に鎌倉に還御された。.

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   ※相模河: 現在の相模川河口(地図)に近いエリアだが、当時の河口は幾筋にも分かれた湿地帯だった。
その中の比較的大きな大きな流路が橋脚遺跡なのだろう。
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   ※野矢: 狩猟に使う矢で征矢(戦闘用の矢)よりも粗略な作り。
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   ※森頼定: 源義家の孫である若槻頼隆の次男で森氏の祖、伊豆守。父の頼隆から相模国毛利庄を相続して
森氏を名乗った
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   ※土岐光行: 美濃源氏の嫡流土岐光衡の長男で妻は東胤頼の娘。承久の乱では西面の武士として上皇方に
与した美濃の武士として土岐判官代の名がある。戦後には土岐左衛門尉の名が吾妻鏡に散見されるため光行と弟の光時が交錯している可能性もあり、千葉氏の口添えで処刑を逃れ(東胤頼の申請の可能性か)美濃の有力御家人として存続した。
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   ※河越重時: 文治元年(1185)11月に父重頼と兄重房が頼朝の命令で討たれた。理由は義経の舅だった事。
義経と娘(郷御前)の婚姻は頼朝の指示なんだけど...それはさておき、没収した重頼の所領は後に妻の河越尼に安堵され、嘉禄二年(1226)に重時が継承した。この時点で三代執権となっていた泰時は剥奪していた武蔵国留守所総検校職(在庁官人筆頭の名誉職)を当主の重時ではなく弟の重員に与えた。河越氏の勢力を分断し北條得宗家の支配下に組み込む政策である。
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   ※伊東祐時: 工藤祐経の嫡子で 曽我兄弟の仇討事件後に泣きながら五郎時致の引き渡しを求めた犬房丸。
家督を継承し、息子祐光の時代に伊豆流罪に処された日蓮との接点を持つことになる。
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   ※武藤頼茂: 系図では資頼(武藤氏の猶子)の孫だが、頼茂が直系か否かは確認できない。
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   ※宗孝親: 宗は惟宗氏の略。建久七年(1196)から安芸国守護に任じていた。承久の乱(1221年)で朝廷側
に与して解任されたが死罪は免れたらしい。
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   ※波多野忠綱: 波多野義通の次男とされている。義盛に与して死没した三郎(義定)は次弟だから兄弟が敵味方
に別れて戦ったことになり、義定の生母が横山氏の娘だった可能性がある。
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   ※関政綱: 結城朝光を継いだ結城氏二代当主朝広の四男朝泰が関氏を名乗っている。彼の系累を政綱とする
説もあるが、建久元年(1190)に生まれた朝広が15歳の時の長男と考えても11歳、かなり無理がある。藤姓足利氏の足利俊綱の四男有綱の嫡子佐野太郎基綱の次男広綱の子が政綱を名乗っている。この辺が可能性あり、と思うのだが確証が得られない(藤原秀郷の系図を参照)。
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   ※大江能範: 在京の御家人で西面の武士。後鳥羽院の挙兵に加わり承久の乱後に斬首となった。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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8月3日
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吾妻鏡
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先月21日の除書が到着した。将軍家(実朝).は継続して左近中将兼任である。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家(実朝)が参宮された。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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8月16日
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吾妻鏡
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昨日に続いて将軍家が臨席され流鏑馬などが通例通りに催された。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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8月19日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の境内地に別当定暁僧都が北斗堂を建立し、今日落慶供養を催した。小河法印忠快が導師を務め、尼御台所(政子)も参席された。夜になって故伊賀守朝光追善のため永福寺の寺域に塔婆を造立して落慶供養を催した。導師は荘厳房律師行勇、施主は相模守北條義時の室(伊賀の方)並びに光季光宗である。
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夜になって、他所に移っていた御台所(坊門信子)が御所に戻った。故坊門内府禅室(坊門信清)の御事(死穢)を避けていたためである。
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   ※定暁: 頼家の遺児善哉は建暦元年(1211)年に八幡宮別当定暁の下で出家し 公暁を名乗った(満10歳)。
八幡宮寺別当の初代は圓暁(生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟)、二代は尊暁(圓暁の弟)~三代定暁~四代公暁(実朝を暗殺)~五代慶幸と続き(ここまでは園城寺(三井寺)系)、東寺系の六代定豪~七代定雅~八代定親、次が再び園城寺系の九代隆弁となる。定暁の前歴は不明瞭で、頼朝の三男貞暁と同一人物説(wiki)もあるが...更に調べる必要がある。
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   ※北斗堂: 平安時代から盛んになった北斗星を祀る信仰。日蓮宗の普及とともに妙見信仰(wiki)に発展する。
   ※死穢: 死者の遺族は死穢(しえ)の中にいると考えられ、隔離され清められる必要がある、とする考え。
   ※塔婆: 三重塔か五重塔か多宝塔かの記載がないため想像するしかない。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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8月24日
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吾妻鏡
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相模守北條義時が将軍家(実朝)の仰せを受け、證菩提寺に於いて故佐那田余一義忠の追善供養を催した。
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   ※證菩提寺: 横浜市栄区(地図)の五峯山一心院證菩提寺を差す。創建の経緯は不明だが文治五年(1189)
あるいは建久八年(1197)とされ、背後の高台には岡崎義實の墓(供養墓?)も残っている。
まだ訪問していないため、詳細は(参考サイト)で。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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9月10日
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吾妻鏡
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鎌倉の住人(地侍で御家人身分ではない)藤井国貞(籐平と号す)が鶴岡八幡宮の御膳役を務めよと命じられた。
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   ※御膳役: 神饌(祭神の食事・wiki)を供する役目。例えば伊勢神宮では毎日朝夕二回の神饌を欠かさず供して
いる。当時の鶴岡八幡宮の通例は判らない。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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9月18日
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吾妻鏡
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相模守北條義時大江廣元朝臣を招いて次のように語った。
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将軍家(実朝)は大将への叙任を願っているようです。右大将家 (頼朝)は官位を与える宣下がある度に固辞し良い運を子孫に残そうとされていたが、今の将軍家は若年なのに壮年に相当する官職を望まれる。これは如何にも性急であります。御家人らも同様で、京都に仕えずに重い官職に補任されるのは頗る過分で嘆かわしい事です。 私如きが口出しをしても怒らせるだけでしょうから、貴方が諌めて下さるのは如何でしょうか。
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廣元はこれに答えて次のように述べた。
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私も同様に頭を悩ませていました。右大将家(頼朝)の時代には度々の下問を頂きましたが、現在は何もないため言葉に出す術がありません。相談して頂けたのは実に有難いことです。 昔から家臣は自分の器に応じた職に任じるべきだと言われています。今の将軍家は先君(頼朝)の功績を継承しただけで、特に勲功を挙げたわけではないのに諸国を支配しているのみならず中納言や中将に昇りました。摂政関白の息子でなければ有り得ない待遇で、子孫に良くない影響が及ぶでしょう。早速に私の存念を申し上げるようにします。
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   義時には実朝と朝廷(後鳥羽上皇)の接近を牽制する意図があった、と思う。少なくとも「良い運を(源家の)
子孫に残させたい」などとは考えなかった筈だ。忠誠心は、覇権を握る欲望よりも優先順位が低い。
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一方で廣元は典型的な実務官僚で、権力者の意向に逆らって正義を貫くほどの気概は持っていない。これは建仁三年(1203)9月2日に比企能員追討の意思を語った際に、つまり実質的に前将軍頼家の失脚計画を告げた北條時政に対して「私は頼朝将軍の時代から政治について補佐してきましたが軍事面での是非は弁えません。討伐については貴方が御判断ください」と答えた事でも明らか。
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勝ち組に与して自己保存に徹するのが長年の官僚生活から得た教訓なのだろう。歴史は(現代も)繰り返す。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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9月20日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が御所を訪れ、相模守北條義時の中使と称して将軍家の御昇進についての意見を申し述べた。
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「子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して征夷将軍のみに任じ、年齢を重ねた後に大将を兼任されたら如何でしょうか」と。将軍家(実朝)はその言葉に対して、
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「諫言の趣旨は至極もっともであるが、源氏の正統は私の代で終わりとなり子孫が継ぐことはないだろう。従ってただ官職に拠って源氏の家名を上げようと考えている。」と答えた。
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廣元は言葉を続けられずに退出し、この旨を義時に伝えた。
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   ※中使: 間に入って双方の意思を確認するための使者、の意味がある。ちなみに実朝はこの時点では24歳、
子作りを諦めてしまうほどの年齢ではないのだが、疱瘡を病んだ後遺症との認識があったのだろう。
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   ※大将: 近衛大将の略で常設武官の最高職、左右がある。建久元年(1190)秋に上洛した頼朝は権大納言と
右近衛大将に任じられたが短期間(右近衛大将は10日後に辞任)した。これは権威だけを得て朝廷に拘束されるのを避けたためらしい。実朝は頼朝の右大将より高位の左大将を望んでいた。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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10月5日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は御所の庭で御家人の言葉を聞く習慣を続けた。左衛門尉海野幸氏は上野国三原荘の境界などについて言上した。
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   ※上野国三原荘: 吾妻郡嬬恋村三原(地図)。仁治二年(1241)3月25日の吾妻鏡には次の記載がある。
海野幸氏と武田光蓮(武田信光)が上野国三原庄と信濃国長倉保の境界を争い、幸氏が勝訴した。光蓮はこれを恨んで前武蔵守(北條泰時)を狙っているとの噂が流れたが、泰時は「恨まれても理を通すのが優先される。」として意に介さなかった、云々、と。
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長倉保は現在の軽井沢町長倉(地図)、浅間山の東北麓辺りで境界を接していた。
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寿永二年(1183)4月に清水義高に従って鎌倉に入った時は11歳だった幸氏は既に69歳、実兄や父親を陥れて甲斐源氏の棟梁となった信光も79歳、3年前に武蔵守を辞任した泰時は58歳、翌仁治三年(1242)6月15日に死没する。光陰矢の如し、か。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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10月29日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の御願として鶴岡八幡宮の北斗堂(8月19日に落慶)で一切経の法会(3月3日を参照)を催した。
導師は三位僧都定暁(8月19日を参照)。 将軍家と御台所(坊門信子)は同じ牛車に乗り、相模守北條義時が供として従った。陸奥守大江廣元朝臣が今日の法会を奉行した。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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11月12日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事である。将軍家(実朝)が出御され中納言中将に昇進された拝賀(神前で礼を述べる)の儀を行った。 相模守北條義時と武蔵守北條時房以下、前後には供の者が垣根の如く連なった。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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11月23日
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吾妻鏡
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将軍家が中納言に叙任されてから最初の御直衣(参考サイト)始めである。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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11月24日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は前世の居住地である医王山(阿育王山広利禅寺・参考サイト・6月15日も参照)を拝するために唐に渡ろうと思い付いて唐船の建造を宋人の陳和卿に命じ、従者60余名を定めた。結城朝光の差配である。
相模守北條義時と陸奥守大江廣元が再三これを諌めたが聞き入れず、造船が始められた。
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   ※唐船の建造: 清盛の時代には宋との交易は盛んに行われていたし、
鎌倉時代中期にも宋船が六浦(金沢文庫一帯の入江と河口部分・地図)に寄港して銅銭・陶磁器・香料などを陸揚げしていた。この帰り船に乗れば早いのだが、元医王山の長老だった実朝(笑)としては巨大な新造船で故郷に錦を飾りたかったのだろう。
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右画像は阿育王寺の位置(クリック→拡大表示)
検索すれば様々な画像などが確認できる。
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ちなみに唐王朝が倒れたのは907年、宋王朝は960年から始まって1279年まで続いている。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月1日
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吾妻鏡
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窮状の改善を求める御家人の愁訴が続いていると聞いた将軍家(実朝)は年内の決裁を担当の奉行人らに命じた。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月8日
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吾妻鏡
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伊賀国の壬生野庄は春日大社(公式サイト)領なのだが宇都宮彌三郎頼綱入道が地頭を称して年貢に充当する収穫を押領している旨を興福寺(公式サイト)住僧の信賢が訴えている。今日その決裁があり、関東で判断する範疇ではないため記録所で対決するのが妥当との仰せが下された。
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   ※壬生野庄: 現在の伊賀市の滝川流域、川西・川東地区(地図)。
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   ※記録所: 荘園整理のため第71代後三条天皇の命令で延久元年(1069)に設置された記録荘園券契所が
最初で、太政官内の朝所をその事務所とした。天永二年(1111)には荘園記録所となり、国司と荘園領主との荘園に関する相論 (訴訟) を審議する機関となった。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月13日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)頼朝法華堂に出御され恒例の法事(月違い命日)を催した。尼御台所(政子)も同席された。導師は和泉阿闍梨である。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月20日
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吾妻鏡
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富士浅間神社(公式サイト)領の済物(年貢・献納物全てを差す)と朝廷に納める木綿も完納されていないとの指摘があった。京都朝廷に甘苔を運ぶ人夫は必ず今日・明日中に出立せよとの指示があった。
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   ※富士浅間神社: 表記したのは富士宮の本宮神社。他にも代表的な
神社として東麓須走の富士浅間神社地図)、北嶺の富士吉田に北口本宮富士浅間神社地図)など。
   右画像は境内の鳥瞰(クリック→拡大)
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いずれも富士山信仰に根ざした古刹で一見の価値あり。特に本宮大社は社殿右手にある湧玉池から溢れた富士山の伏流水が境内横を流れ下り、我が家の犬の遊び場になっていた。帰らぬ日々の記憶。
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   ※甘苔:甘苔は多分、伊豆の岩海苔だと思う。外海に面した岩場に着く
天然の海苔で磯の香りがとても強く、寒い時期に採れる。空き缶のフタなどを使って掻き取っている風景を今でも見掛けるよ。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月23日
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吾妻鏡
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橘左衛門尉公業と御対面された。故右幕下(頼朝)から受けていた心の籠った書状を見せ涙を拭って述懐し、将軍家(実朝)の憐れみを受けた。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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12月25日
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吾妻鏡
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小笠原次郎長清が次のように言上した。
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甲斐国の領所に私が長く信仰を続けている一宇の寺があります。故右大将家(頼朝)の御菩提を祈るため殊に修理を加えてきた寺であり、今後は幕府の祈願寺として一村を寄付するのは如何でしょう。
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将軍家は「祈願寺とする件はその通りに。ただし一村の寄付については追って決める事にしよう。」と仰せになった。中原仲業がこの件を差配する。
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   ※小笠原長清: 甲斐小笠原郷の遺跡については明野町と櫛形町の史跡を、父の加賀美遠光の遺跡については
櫛形町の法善寺を参照されたし。
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1216年
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84代 順徳
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建保四年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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