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建保五年(1217)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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1月1日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に参宮された。
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   ※実朝: 満24歳4ヶ月、前年(1216)10月に正二位のまま中納言に任じている。
ついでに書くと、北條義時は53歳・政子は60歳・北條泰時は33歳・大江廣元は68歳 (全て満年令)。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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1月11日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に御所近くで火災あり。御台所(坊門信子)の御乳母および源仲章朝臣・筑後左衛門尉朝重らの宿館が被災した。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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1月22日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に参宮され、続いて二所詣の精進潔斎を始められた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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1月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)がニ所詣に御進発。相模守北條義時が供奉された。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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2月2日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣から還御された。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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2月8日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事が通例の通り、将軍家(実朝)が参席された。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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2月19日
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吾妻鏡
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右京兆北條義時)の室(伊賀朝光の娘・伊賀の方)が重服(近親の喪)のため万年九郎の家に移られた。この服喪は、去る10日に母親(山城前司二階堂行政の娘)が京都で死去した旨を飛脚が知らせたことに因る。
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   ※右京兆: 右京大夫の唐名。律令制で京都の司法と民生などを司った役所で左京職と右京職に分かれていた。
義時の官職は名前だけの名誉職だろう。
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   ※万年九郎: 北條陪臣か、伊賀氏の縁者か。長野県鹿毛湯温泉 名所21ヶ所の16番に「万年九郎沼大明神」
があったのを思い出して念のため調べてみたが、もちろん何の関係もなかった。鹿毛湯温泉では定宿(と言っても年に一度程度)が休みで代替に手配した宿が最悪で...良く覚えている。
二階堂氏は藤原南家の子孫で伊東氏に近い縁戚関係(「伊東氏の系図」を参照されたし)。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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3月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での一切経法会は通例の通り。式部大夫(北條泰時)が将軍家の使者として奉幣された。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵全てを纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年(1200)以来、上巳節句(3月3日)通例の法会としても概ね定着している。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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3月4日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に信濃守二階堂行光の家が焼亡した。原因は失火、延焼はしなかった。
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   ※二階堂行光: 父親の二階堂行政の没年は記録にないが、長男の行村が久寿二年(1155)生まれ、次男行光
が長寛二年(1164)生まれだから既に死没しているだろう。
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行光は尼御台所政子の腹心として幕政に大きく関与し、実朝が殺された直後には政子の名代として 後鳥羽上皇の皇子を関東の将軍に迎える交渉(結果は破談)を担っている。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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3月10日
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吾妻鏡
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夕刻、将軍家(実朝)桜花を見物するため御台所(坊門信子)と同じ牛車で永福寺に出御された。
まず御本尊に拝礼し続いて花の下を散策、その後に二階堂行村邸に入って和歌の会を催された。亥の四点になって月あかりの中を御所に還御された。
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   ※亥の四点: 亥刻は21~23時、その2時間を5等分したのが点だから一点は24分、その5分の4番目。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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4月3日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に御参り。これは恒例の神事に参席のためである。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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4月5日
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吾妻鏡
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夜になって小町大路で騒乱あり。式部大夫(北條泰時)の家人成田次郎と奥州の住人深沼五郎が喧嘩し、互いに傷を負ったのが原因である。
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   ※小町大路: 宝戒寺門前(地図)から大町四ツ角まで、若宮大路と並行する鎌倉期の繁華街。昭和末期から観光道路
として喧騒を極めている西側の「小町通り」とは異なる。なんで小町通りと名付けたのだろう。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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4月17日
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吾妻鏡
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宋人の陳和卿が唐船を完成させた。今日数百名の人夫を御家人から拠出させてその船を由比ヶ浜に進水させようとした。
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将軍家(実朝)の出御と右京兆北條義時の立会もあり、信濃守二階堂行光が全体を差配した。陳和卿の指示で全員が力を合わせ、午刻(正午前後)から申の斜め(16時過ぎ)まで綱を曳いたが浮かべることができなかった。
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そもそも唐船が出入りが不可能な遠浅の浜である。船は浜辺で朽ち果てるに過ぎなかった。
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   ※鎌倉の港湾: 前浜(由比ヶ浜)は水深が浅く、貞永元年(1232)に
和賀江島が完成するまでは沖に停泊した大型船から艀(はしけ)で荷揚げするか、六浦から朝比奈切通しを越えて運搬するしかなかった。
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和賀江島の完成後も、港湾として稼働が本格化するのは忍性が極楽寺開山に任じて港の運営権を得た文永四年(1267)以後となる。 右画像は和賀江島の鳥瞰(クリック→拡大)
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通常は水中に没している和賀江島は大潮の干潮には遺構の一部が水面に現れ歩いて渡れる。ずっと前に渡った時には数個の青磁欠片を拾えたが、今でも変わらないだろうか。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月11日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)、鶴岡八幡宮の別当三位僧都定暁が腫物を患って死去した。
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   ※定暁: 頼家の遺児善哉は建暦元年(1211)年に八幡宮別当定暁の下で出家し 公暁を名乗った(満10歳)。
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八幡宮寺別当の初代は圓暁(生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟)、二代は尊暁(圓暁の弟)~三代定暁~四代公暁(実朝を暗殺)~五代慶幸と続き(ここまでは園城寺(三井寺)系)、東寺系の六代定豪 ~七代定雅~八代定親、次が再び園城寺系の九代隆弁となる。
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定暁の前歴は不明瞭で、頼朝の三男貞暁と同一人物説(wiki)もあるが...更に調べる必要がある。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月12日
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吾妻鏡
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寿福寺の長老である荘厳房律師行勇退耕行勇が御所に参上した。これは相続を争っている者の片方についての配慮を求め、既に 数回も同様の申請に及んでいた経緯である。
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遂には将軍家(実朝)も機嫌を損ね、大江廣元を介して「仏法に帰依している尊さは理解するが、政治に関与するのは僧の本分を離れている。行動を改めて修行に専念されよ。」と仰せになった。行勇は心中でこの処遇を恨み、泣きながら寺に戻って門を閉ざした。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月15日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が寿福寺に入御された。李部(式部大夫の唐名)北條泰時と武蔵守北條時房が供として従った。これは(厳しい言葉を伝えてしまった)長老(退耕行勇)を慰める目的である。行勇は恐縮し、暫く禅室で対面し仏法の法話を交わした。
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   ※武蔵守: 時房はこの年12月12日に武蔵守から相模守に遷任しているが、この時点では武蔵守。それよりも
記載順序が「時房と泰時」ではなく「泰時と時房」となった事実に留意したい。
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義時の死没は7年先で、時房は更にその16年先まで生きている。泰時の序列を時房より上にしたのは参考にした史料ではなく、編纂者の意図とみるべきだろう。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月20日
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吾妻鏡
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右衛門尉の紀康綱は精勤を重ねているが未だ新恩に浴していない。今日一首の和歌を実朝に献上して不遇を嘆き、備中国村社郷のうち小埋社町は八代前からの相伝であると言上した。その結果、「不輸の地として領掌せよ」との仰せを受け、陸奥守陸奥守(大江廣元)朝臣がこれを差配する。功績は兎も角として和歌に感動を受けたのが理由である。
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   ※不輸の地: 学生時代を思い出す言葉、不輸不入。不輸は租税の一部または全てを免除される権利を、不入は
国衙の立ち入りを拒む権利。康綱の素性は不明だが、紀氏の末裔で文官か神祗関連だろう。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月25日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の持仏堂で文殊菩薩像を供養する法要を催した。導師は寿福寺長老の退耕行勇。将軍家は以前から持っていた牛玉を布施に贈った。大江廣元朝臣通例に異なり望ましくないと申し上げたが聞き入れなかった。
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   ※牛玉: 漢方薬としての牛黄(外部サイト)なのか、東大寺二月堂で行っているような墨汁・香水・牛黄が混ぜて
描いた護符「牛玉宝印」なのか判らない。従って廣元が異議を呈した理由も判らない。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月27日
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吾妻鏡
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去る建保元年5月に没した和田義盛らの所領にある神社や仏寺について、義盛の頃と同様に興隆に努めるよう、彼らの遺領を与えられた者に仰せられた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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5月29日
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吾妻鏡
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御台所(坊門信子)が寿福寺に御参りされた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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6月20日
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吾妻鏡
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(故頼家将軍の息子)の阿闍梨公暁が園城寺から鎌倉に下着された。尼御台所政子の指示に従って(定暁の死去により)空席となった鶴岡八幡宮別当に補任される。この一両年は(三井寺の)明王院僧正公胤の門弟として勉学と仏法の修行を続けていた。
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   ※政子の指示: 公暁はこの17ヶ月後に実朝を殺す。愚管抄は現場に居合わせた公卿の見聞として、初太刀の
際に公暁が「親の敵(かたき)はこう討つのだ」と叫ぶのをはっきり聞いた、と伝えている。
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公暁に親の仇は実朝だと吹き込んだのは誰か、殺害の場を与えたのは誰か、頼家と同じように実朝も排除したかったのは誰か...二人の実子を切り捨てた恐ろしい構図が見えてくる。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼を受け、後に 政子の依頼を受けて
頼家の遺児公暁を弟子として預かった。当初は批判していた法然と面談してから念仏に帰依し、曹洞宗の祖道元には臨済宗の栄西への入門を勧めたことでも知られる。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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6月21日
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吾妻鏡
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吉日のため、将軍家(実朝)が御神籬で御祓いを行った。陰陽の少允安倍親職がこれを奉仕し、右京兆北條義時がこれを差配した。
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   ※神籬: (ひもろぎ)神社や神棚以外の場所で神事を行う際に神を迎える依り代として設けるもの。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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7月24日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着して報告。去る10日から後鳥羽上皇が御瘧病となり、毎日発作に見舞われている。仏教およびその他の御祈祷を行っているが効き目が現れない、と。
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   ※瘧病: (おこりやまい)は現代のマラリアらしい。養老律令の医疾令では典薬寮に瘧の薬を備える規定がある。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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7月26日
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吾妻鏡
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山城大夫判官二階堂行村が使節として上洛の途についた。上皇の病気見舞いである。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家(実朝)出御は通例の通り。還御の後に明月を望んで庚申を守り、御所にいる者を集めて和歌を詠む会を催した。
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   ※庚申: 道教の教えで、庚申の年や日の禁忌を定める信仰。庚申の夜には体内にいる三尸 (さんし) の虫が体
から抜け出しその人の罪過を天帝に告げようとするため、人々はこれを防ごうと不眠の行を行なった。更に詳細は wikiで。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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8月16日
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吾妻鏡
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(昨日に続く放生会に)将軍家(実朝)の出御は昨日に同じ。尼御台所(政子)並びに御台所(坊門信子)も御見物のため馬場の桟敷に出御された。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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8月25日
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吾妻鏡
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山城廷尉二階堂行村が京都より帰参した。上皇の病状は7月10日から連日の発作が起きている。智識の深い高僧たちが各々の祈祷を行っても癒える気配が見えなかったが、25日になって前の陰陽博士道昌が赤山修学院(公式サイト)に於いて泰山府君祭を行った翌日に平癒した。これにより道昌は勅勘を解かれ旧職に復帰した。
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去る2月、廣瀬殿(御所の一角か?)に白虹が現れたと道昌が奏聞した際に同輩がこれに同意せず、「白虹ではない」と言上した事により陰陽博士を停職となる処分を受けていた。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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   ※白虹: 白色の虹で霧などのときに見られるが、兵乱の兆しであるとされた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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9月4日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に強風あり。御所の東西に設けられている回廊など鎌倉中の家屋ほとんどが倒壊した。
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   ※皇帝紀抄は: 9月3日付で「強風で朱雀門と左近衛府の南門が倒壊した」と書いている。皇帝紀抄は鎌倉時代
中期に成立した歴史書(著者不明)。鎌倉の前日に起きた被害だから台風の北上だろう。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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9月13日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は海辺の月を眺めようと三浦に渡御された。左衛門尉三浦義村が特に丁重な接待の席を設けた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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9月30日
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吾妻鏡
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永福寺では初めてになる舎利会(仏舎利を供養する法要)を催した。尼御台所政子と将軍家(実朝)ならびに御台所(坊門信子)が出御された。法会の内容も舞楽の奉納以下、華美を尽くしたものだった。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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10月11日
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吾妻鏡
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阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮別当職を補任されてから初めての神拝を行った。また宿願があり、今日から千日間の宮寺参籠をされる、と。
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   ※宮寺参籠: 公暁の宿願は実朝殺害と考えるのが妥当か。実朝殺害計画の決行まで、約15ヶ月。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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11月8日
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吾妻鏡
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陸奥守大江廣元朝臣が目の疲れと腫物などが重なり体調を崩している。今日七座の如法泰山府君祭を行う、と。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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11月9日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣の病状が重篤と聞いた右京兆北條義時は見舞いのため彼の屋敷に渡御された。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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11月10日
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吾妻鏡
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陸奥守大江廣元は獲麟を感じたため延命を祈って出家し法名覺阿を称した。将軍家 (実朝)は左衛門尉結城朝光を見舞いの使者として派遣した。
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   ※獲麟: 麒麟(キリン)を獲る、の意味。孔子春秋(共にwiki)を著した最後に「西に狩りして麟を獲たり」の句で
筆を絶ち死没した。その事から 絶筆、物事の終わり、 臨終などを意味する。これには逆説的な孔子の意図(wiki)があることに留意されたし。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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11月17日
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吾妻鏡
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大江廣元の出家によって空席となった陸奥守は右京兆北條義時の兼任とするよう京都朝廷に申し入れた。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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12月10日
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吾妻鏡
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前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)の病気が平癒し、今日穢れを清める沐浴を行った。ただしまだ視野が暗く、黒白の判別もできない状態である。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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12月24日
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吾妻鏡
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右京兆北條義時が去る12日から陸奥守兼任となった事に謝するため御所に参上し、美作左近大夫朝親がこれを取り次いだ。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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12月25日
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吾妻鏡
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夜に入り将軍家(実朝)は方違えのため永福寺内の僧坊に渡御された。御剣持ちは宮内公氏、相模式部大夫 北條朝直・左衛門尉結城朝光・山城判官次郎基行らが騎馬、李部(北條泰時)以下は徒歩で従った。
非公式なので出迎えはなく、二階堂行村が僧房に獣形一式と桃九枝を届けさせて終夜の連歌会を催した。
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   ※宮内公氏: 実朝の側近。建保七年(1219)1月の暗殺前には形見として髪の毛一筋を受け取っている。
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   ※山城基行: 後藤基清の養父・實基の兄弟だと思うが確信が持てない。實基は平治の乱で悪源太義平に従って
戦い、戦後は坊門姫(後に一条能保の室)を養育した。源平合戦では義経に従って戦い、屋島の合戦では平家の陣屋を焼き払っている。
一方で基清は...承久の乱で上皇方に与し、欄の終結後に嫡子基礎綱に斬首されている。
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   ※獣形: 儀式の際に張り渡した幔幕。白綾の中央に金色の太陽、左右に瑞雲・竜虎・麒麟・獅子・天馬などを
五色の糸で刺繍したと伝わる。
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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12月26日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は未明になって御所に還御された。御衣二領を彼の僧坊に残し、一首の和歌を詠んで副えられた。
このような時には配慮に満ちた御芳情を見せられるのが常である。
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                         春まちて かすみの袖に かさねよと しもの衣を 置てこそゆけ
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1217年
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84代 順徳
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建保五年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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