建保六年(1218)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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1月1日
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吾妻鏡
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正月の記録なし。
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   ※実朝: 満25歳4ヶ月、1月1日現在は権中納言・左近衛中将に任じている。今月1月13日権大納言に転任。
ついでに書くと、北條義時は54歳・政子は61歳・北條泰時は34歳・大江廣元は69歳 (全て満年令)。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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1月12日
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吾妻鏡
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大夫判官後藤基清の飛脚が京都から参着して次の通り報告。
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去る3日に白河の付近で基清が謀叛人を捕縛し、その際に郎従の多くが傷を負ったが最後には首魁の首を挙げた。彼は伊勢平氏の残党 掃部権助平正重で、驕奢な飲食などによって仲間を募っていた者である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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1月15日
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吾妻鏡
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政所に於いて尼御台所(政子)の熊野詣が決定。相模守北條時房が供として同行する。
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   ※相模守: 前年の12月12日に前任の北條義時に替って相模守に任じている。義時は 大江廣元の出家・辞任
に伴って陸奥守に任じている。武蔵守は一時的に空席になったらしく、承久元年(1219)11月13日になって北條泰時が任じている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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1月17日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が讃岐国司を推挙するつもりだから早急に(朝廷に)申し入れるよう、京都守護の駿河守中原季時に命じられた。式部大夫北條泰時朝臣を讃岐国司に任じる要望である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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1月21日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に入り、去る13日に将軍家(実朝)が権大納言を任じられた旨を報告した。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月4日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)が相模守北條時房を供に従えて御上洛の途に付いた。これは熊野詣が目的で、この次いでに故稲毛三郎重成入道の孫女(年十六、生母は綾小路二品師季卿の娘)を伴っている。これは侍従の土御門通行朝臣(源通親の五男)に嫁がせる予定である(同月21日に入洛された)。
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   ※政子の上洛: 実朝の後継問題解決が目的である。政子は藤原兼子 (後鳥羽天皇の乳母)の推挙を受けて
出家後の女性としては異例の従三位に叙された。
結果として、兼子が養育していた頼仁親王(実朝の妻坊門信子の甥)を次期将軍候補にする事で二人の合意が成立、政子はこの年11月に再び兼子の推挙を受けて従二位に昇叙する。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月10日
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吾妻鏡
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大江廣元朝臣が将軍家(実朝)の命令を受けて使者を京都に派遣した。これは将軍家が大将の地位への昇叙を所望されているためである。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月12日
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吾妻鏡
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波多野彌次郎朝定が使節として上洛の途に付いた。大将の地位について、必ず(右大将ではなく、更に上位の)左大将に任じられるよう申請せよとの内容である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月14日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)の二所詣のため辰刻(朝8時前後)に出発された。
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   ※愚管抄: 2月18日に次の記載がある。西園寺公経後鳥羽上皇に大納言への着任を求めて拒まれ「鎌倉
に依頼を...」と漏らした言葉が勅勘を受け謹慎となったが、18日に許された。
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実朝の口添えは特に効果なかったらしいが、公経は翌年に大納言に昇っているから、院の一時的な怒りだったらしい。天皇家との縁戚関係も深かった公経は頼朝に厚遇された平頼盛の曾孫であり、妻は一条能保の娘(生母は頼朝の妹坊門姫)、実姉は藤原定家に嫁している。
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承久の乱では上皇の挙兵に反対して幽閉されながら幕府に内通して勝利に貢献し、更に孫の一人は鎌倉四代将軍藤原頼経。「幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物」と評されている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月19日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が二所詣から還御された。その途中で御馬一疋が理由もなしに突然死ぬという事件が起きた。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月23日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着して報告。鎌倉から讃岐守を推挙する件について去る12日に後鳥羽院に奏上した。早急に任じる者を上申せよとの仰せを承った、と。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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2月24日
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吾妻鏡
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新補地頭8人が伊豫国に出発した。各郡ごとへの任命である。
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   ※新補地頭: 補任の場合は交代、新補はそれまで鎌倉幕府の地頭を置いていなかった土地(例えば平家から
没収した所領など)への着任。伊予国には貞観八年(866)~明治初期まで14郡が置かれていたから、鎌倉幕府がその中の8郡の支配権を得た、という事か。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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3月16日
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吾妻鏡
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波多野次郎朝定が京都から鎌倉に参着。去る6日の除書(任命書)を持ち帰り、将軍家(実朝)が左近大将を兼任となった。朝定が入洛するまでは故右大将軍(頼朝)の例に倣って右大将に任じようとしたが、実朝が辞退する姿勢を見せたため朝定の入洛に合わせて急遽変更となり、朝廷の使者が博陸(関白)近衛家実の屋敷を数回往復する結果になった。この聞書(除書を聞き写したもの)は安芸権守藤原範高が将軍家の御前に呈上した。
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    侍従藤原範有    兵部権大輔藤原頼隆    勘解由次官平範輔
    出羽城介藤原景盛(安達景盛を差す)    伊豫守藤原實雅    (兼)左近大将源実朝
    少将藤原盛兼    右近少将藤原能継    左衛門権佐藤原経兼
    雑任これを略す(三十余人か)。
    従三位藤原資家    従四位下平宗宣
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まず藤原右衛門尉景盛を御前に召し、聞書(範高が御前で更にこれを書写したもの)を賜えた。これは出羽権介に任じたのが理由である。景盛の恐縮と喜悦は顔色に現れた。この職は醍醐天皇の昌泰二年(899)以後は途絶え、後冷泉院の永承五年(1050)9月に平繁盛が任じた後に再び途絶えて適任者がなく現在に至る珍しい例である。
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また先月18日に文章博士源仲章朝臣が進講のための昇殿が許され、翌19日に宣下された。これは関東の推挙ではあるが朝廷による貴重な配慮である。
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将軍家は波多野朝定を御簾の下に招いて御剣を下賜された。使節の任に当っての忠節を賞した故である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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3月18日
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吾妻鏡
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権少外記の中原重継が勅使として鎌倉に到着。これは去る6日に発せられた将軍家を左馬寮御監に任じる宣旨の状を持参したものである。まず鶴岡八幡宮の廻廊に着座し、その後に前大膳大夫入道(大江廣元)の沙汰として宿舎を手配して勅使を招いた。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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3月23日
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吾妻鏡
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日和を待つ間は御家人に命じて接待が行われ、今日の良い日和に勅使の中原重継が御所に参上した。午刻(正午前後)に重継は西廊に参上し、右京兆(北條義時・狩衣)が取り次ぎ、暫時して将軍家(実朝・御直衣)が出御され、車寄の間を隔てる簾を上げて御対面となった。
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重継は摺り膝で進み、大外記師重が書した宣旨の状を笏の上に置いて献上した。将軍家はこれを受け取り奥へ入御したの後に重継を寝殿の東面に招いて盃酒を賜り、馬二疋(一疋は鞍を置く)を与えた。馬を引いたのは佐々木太郎左衛門尉高重と小野寺左衛門尉秀道 、重継は庭に降りてこれを受け取り一礼して退出した。
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今日、常陸国志筑郷内の願成寺住僧らが鎌倉に入り、「検注使が寺領に入り新しい基準を以て査定している。」と訴えた。これを停止せよとの指示があり、右京兆(北條義時が命令を下した。
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   ※検注使: 所領の年貢徴収の基準を定めるため荘園領主や国司が田畑の面積や収穫を調査する役人。
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   ※佐々木高重: 佐々木四兄弟の次男経高の嫡男。承久の乱では父と共に院方に与して討死。
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   ※小野寺秀道: 小野寺道(通)綱の弟で道綱の養子として跡を継いだ。
先祖の藤原義寛は藤原秀郷の末裔を称し、源為義に従って東国を転戦した下野国都賀郡の小野(現在の小野寺・東北道岩舟JCT一帯)の地を得て大慈寺(公式サイト)を建てたのが始まり。
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一時期の道綱は平家に従い知盛旗下の宇治川合戦で頼政と戦ったが頼朝に帰服し御家人として奥州合戦にも加わっている。東北道の側道沿い(都賀郡小野寺)に道綱の墓石(右画像地図)が残り、東500mの住林寺(時宗)は承久の乱で戦死した道綱の菩提を弔って親族が建てたと伝わる。
全国の小野寺氏発祥の地であり、小野小町の出身地を主張している場所の一つでもある。
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   ※常陸国志筑郷: 現在は合併して茨城県かすみがうら市となった旧・志筑村(地図)。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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3月24日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に勅使の重継が帰洛の途に就き、将軍家(実朝)は三浦右衛門尉胤義を介して鞍を置いた馬三疋と砂金百両を贈り労を労った。勅使の出発に当たり李部北條泰時ならびに大夫判官二階堂行村・左衛門尉小山朝政らか仰せを受けて固瀬の駅(江ノ島の入口・地図)まで重継を送った。
重継は恐縮して前に進まず礼を述べたため、御家人はここから引き返した。
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また将軍家は北條泰時を讃岐国司に推挙すると仰せになったが、過分を称して固辞したため、その旨を後鳥羽院に奏上するよう重継に依頼した。
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   ※泰時の固辞: 吾妻鏡には同様の事例が数ヶ所載っている。北條氏による北條氏のための史書だからね。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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4月7日
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吾妻鏡
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千葉介成胤の病状が重篤で心身ともに苦悩している。将軍家(実朝)これを見舞うため東平太重胤を派遣し子孫には特に配慮を与える旨を伝えさせた。忠節を賞するためである。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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4月10日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に千葉介平成胤が死去した。千葉介胤正の息子である。
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   ※千葉成胤: 千葉胤正の嫡男で千葉氏五代棟梁、母は上総廣常の娘。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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4月29日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に尼御台所(政子)が鎌倉に還御の途に就いた。南山御奉幣(熊野詣)は無事に終わったが、在京されている間に特筆すべき事件があった。去る4日に後鳥羽上皇が大秦殿(広隆寺を差す)に行幸され御車(牛車)の行列を整え三條河原(天神川三条(地図か?)の近くに停めて見物された。
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同じく14日に尼御台所を従三位に叙すると宣下され、筆頭公卿の中納言三条実宣卿(wiki)が参内して清範朝臣により叙書を尼御台所の宿舎に届けさせた。この件は朝廷でも相当の議論になったらしい。
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出家した人物に叙位を与えた前例は道鏡(wiki)の他に見えず、女の叙位は准后(太皇太后・皇太后・皇后)である安徳天皇の外祖母(平時子)の例がある。また知足院殿(藤原忠実卿・wiki)の御母儀准后 (藤原全子・wiki)もまた、出家以後の叙位である。これらの前例に依拠して御台所の叙位を決定した、と。
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同15日に仙洞(院の御所)から対面を許す旨の仰せがあったが「年老いた辺鄙(田舎)の尼が上皇の尊顔を拝するなど滅相もない、遠慮させて頂きます」と答え、諸寺を巡拝する予定を中止して直ちに鎌倉に下向した。
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   ※道鏡: 巨根伝説でも有名だが、彼の左遷は皇位を巡っての勢力争い
(天武天皇系を排して天智天皇系の皇位継承を正当化)の結果だったらしい。つまり勝者による史実の捏造、ね。
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    道鏡は すわるとひざが 三つでき  江戸川柳
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哀れな道鏡さんは下野国薬師寺の別当として左遷され間もなく死没、薬師寺に近い龍興寺の塚に葬られた、と伝わる。
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詳細は下野東山道の史跡の末尾を参照されたし。ここには鑑真和尚の慰霊墓もあり、薬師寺跡などと併せて一見の価値がある。  右画像は道鏡塚の裾(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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5月4日
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吾妻鏡
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尼御台所(政子)の上洛に同行した相模守北條泰時が京都から下着された。尼御台所は先月15日に京都を出発したが後鳥羽上皇の蹴鞠の会に参加するため逗留を延期していた経緯である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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5月5日
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吾妻鏡
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泰時が将軍家(実朝)に召されて御所に参上し洛中の様子を問われ、それに答えて次のように語った。
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まず先月8日の梅宮大社(公式サイト)の祭礼に出御の際に私の蹴鞠を見たいとの内々の仰せがありました。
右大将久我通光(wiki)は半蔀車で随臣上臈(高位の随臣)を伴って顕官(高官)の威厳を示しており、いずれも私を見物する意図だったようです。
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同14日、御所での蹴鞠の会に初めて加わりました。着衣は布衣(顕文紗の狩衣に白の裾括り袴)、息子次郎時村は二藍布の狩衣、白の狩袴で公卿の座の濡れ縁に控え、上皇は御簾を上げ私共を眺めました。
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15日と16日からは続けて参上し、「蹴鞠の技術を良く習得している」とのお言葉を頂きました。あらかじめ院に出仕する作法を知らないと申し上げましたので、尾張中将清親卿(故・坊門信清卿の甥)の補佐を頂いたのは生涯忘れられない恩であります。
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   ※顕文紗: 下に着る衣の色で模様が浮いて見える織り方の紗。二藍布は藍の下染めに紅系の色を重ねる染め。
   ※半蔀車: 開閉できる物見窓を付けた牛車。高位の公卿、時に上皇・高僧・上﨟も使った。wiki画像を参考に。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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5月9日
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吾妻鏡
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女房の三條局(督典侍藤原範盛の娘)が京都より帰参した。亡父の越後法橋範智の粟田口邸に堂を建てるため上洛していた女官である。先月8日に落慶供養を済ませ、それから3日以内に尊長法印が急いで垣根を設けた。
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花山院右府藤原忠経(wiki・生母は清盛の娘)が被物十重を贈り、布施を渡した公卿は前中納言藤原範朝・宰相中将経通・刑部卿宗長・三位兼季である。
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   ※三條局: 史料では法橋範智(頼朝の生母由良御前の兄)の娘とされている。つまり頼朝の母方の従姉妹。
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   ※尊長: 一条能保の四男で後鳥羽上皇の近臣。承久の乱に破れて逐電し嘉禄三年(1227)に京で捕縛された
が自殺を図って重体となり「さっさと首を斬れ、さもなくば義時の妻(伊賀の方)が義時に飲ませた毒薬で自分も殺せ」と叫んだと伝わる。ただし、その内容を含めて伝聞の真否は疑われている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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5月25日
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吾妻鏡
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右近衛少将の一条能継朝臣が鎌倉に参着。
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   ※一条能継: 一条能保の嫡子高能の子。今回は将軍家(実朝)の左大将拝賀の式典に出席のため下向し、翌年
1月には実朝の右大臣拝賀式にも出席している。叔父(能保の兄弟)の信能と尊長は承久の乱で殺されているが、能継と兄の能氏の消息は判然としない。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月8日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、東方に白虹が見えた。ただしちぎれ雲が多いため星がはっきりと見えない。夜半に降雨があり白虹も消えてしまった。
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   ※白虹: 白色の虹で霧などのときに見られるが、兵乱の兆しであるとされた。建保五年(1217)8月25日にも
現れているが、特に兵乱は起きなかった。今回は実朝暗殺の予兆を暗示しているのか。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月11日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)、西の方角に五色の虹が現れた。上の一重は黄色、次に五尺余りの赤色を隔てて青、濃紅の梅である。その中間の特に巾広い赤色が天地に反射し暫くして消え、降雨となった。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月14日
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吾妻鏡
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新たに蔵人に任じた(大江時廣)が京都から参着。先月17日に蔵人に任じ27日に初めて出仕した。今回は 将軍家(実朝)の左近衛大将拝賀の前駆を務めるため28日に出京、任務の終了後に帰還する旨を奏上している。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月17日
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吾妻鏡
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伊豫少将藤原實雅と花山院侍従藤原能氏が去る12日に京都を出て鎌倉に到着した。これは将軍家(実朝)の左大将拝賀の式典に列するためである。同様に源仲章朝臣も鎌倉に入った。
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   ※藤原能氏: 一条能保の長男高能の長男。5月25日の条を参照。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月20日
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吾妻鏡
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内蔵頭藤原忠綱朝臣が勅使として鎌倉に到着(去る5日に京都を出発)、申刻の斜め(17時頃)に右衛門尉中條家長の若宮大路邸に入った。まず牛車が二輌、御拝賀に用いる調度(嚢(袋)に収納)などを担う人夫が数10人、次に騎馬の忠綱朝臣が供侍10人を伴ない、後騎に40余人。また一條中将一条信能朝臣も同様に下着した。
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   ※藤原忠綱: 院の近臣。実朝死没後の承久元年(1219)3月に院の使者として鎌倉に入り弔意を伝えると共に
雅成親王(後鳥羽院の皇子)を次期将軍として鎌倉に送る見返りに摂津国長江荘と倉橋荘(共に院の愛妾亀菊の所領・現在の大阪市淀川区から西淀川区にかけての一帯・後鳥羽院領)の地頭更迭を求めている。これは幕政の根幹を揺るがすとして義時が拒絶、時房に1000騎を与えて京都に送り恫喝交渉を試みるが...決裂。
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結果として6月に九条道家の子・三寅(後の四代将軍藤原(九条)頼経)を鎌倉に迎えた。承久の乱直前・8月の愚管抄には後鳥羽上皇は藤原忠綱を殿上人として内蔵頭に任じたのが失敗だったと考え、解官して所領没収・追放とした。これにより悩み事が消え去った」と書いている。失脚した忠綱のその後については史料に見当たらない。
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   ※一条信能: 承久の乱後に首謀者の一人として処刑された。矢鱈に一条の姓が現れるので参考に...
能保の子は上から、高能(嫡子)、信能、實雅、尊長。高能の子は能氏・行能・頼氏(嫡男)・能継。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月21日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に藤原忠綱朝臣が京都から運んできた道具などの調度を御所に運ばせた。牛車が二輌(檳椰・半蔀)・九錫の彫弓・(左大将の)御装束・御随臣の装束・(古式の)移鞍(参考サイト)など、全て仙洞(院の御所)が調えて下さったもの。源仲章朝臣が奉行としてこれを受け取った。
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暫くして将軍家(実朝)が忠綱朝臣を簾(みす)の中に招いて御対面し朝廷の行き届いた配慮に謝意を表した。面談の後に忠綱朝臣は退出した。
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夜になって池の前兵衛佐平為盛(頼盛の次男)朝臣・右馬権頭頼茂朝臣らが到着、この御拝賀に立ち会うため参向した人は既に数人となり、御家人に命じて設けた接待の席と贈物は華美を尽くした。これらが全て庶民の負担になるのは言うまでもない。
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   ※檳椰・半蔀: 屋根を檳椰(ヤシの葉を晒したもの)で葺いた窓付きの牛車。高位の公家などが利用する。
   ※九錫の彫弓: 九錫(wiki)を参照。弓なのは間違いないが、当て嵌め(横畠の常用句、ヤダねぇ)が判らない。
   ※庶民の負担: 北條ヨイショの吾妻鏡編纂者としては清廉な泰時と実朝の対比を強調したかったんだろうね。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月27日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が左大将に任じた事を謝する拝賀のため鶴岡八幡宮に参宮する。早朝に二階堂行村が指示を受けて拝賀を行う旨を下向していた雲客(殿上人)らに触れ回った。申の斜め(17時前後)にまず南面に出御し、文章博士源仲章朝臣(衣冠束帯)が御簾を上げた。陰陽少允安倍親職(衣冠束帯)車寄の間に控えて反閇を行い、陰陽権助忠尚(衣冠束帯)が廊下の妻戸に入り御祓い。伊豫少将藤原實雅が牛車を寄せ、南門を出御して西へ。
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  行列
     居飼(牛の世話係)四人(二人づつ二列)
     御厩舎の担当官四人(二人づつ二列)
     一員(随行の官人・一列)   府生狛盛光  將曹菅野景盛  将監中原成能
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  殿上人(一列)      新蔵人時廣  一條大夫頼氏  花山院侍従能氏  一條少将能継
     伊豫少将實雅  前因幡守師憲  右馬権頭頼茂朝臣
     前左兵衛佐為盛朝臣  文章博士仲章朝臣  一條中将信能朝臣
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  前駆笠持ち(十六人)
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  前駆(二行)
     左近蔵人仲能  左近蔵人親實  左近大夫朝親  左近大夫季光
     駿河守季時  相模権守経定  蔵人大夫国忠  前武蔵守義氏
     右馬助範俊  相模守時房  蔵人大夫有俊  右馬の助宗保
     前筑後守頼時  民部権少輔親廣  右京権大夫義時朝臣  前駿河守惟義朝臣
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  番長(衛府の下級幹部職) 下毛野敦秀(郎党二人が前に在り)
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  御車(檳榔(6月21日参照)、車の御者二人、牛飼い一人、榻(踏み台)持ち)
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  下臈随臣(各々相並ぶ)
     秦頼澄  秦清種  下毛野敦家   播磨貞直  下毛野敦継
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  雑色二十人
  御笠持ち
  雨皮・張筵持ち(雨避・各々一人)
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  随兵(警備兵・二行、序列は年齢順)
     大須賀太郎道信  長江の四郎明義
     伊豆左衛門尉頼定  三浦左衛門尉義村
     式部大夫泰時  筑後左衛門尉朝重
     秋田城介景盛  土岐左衛門尉光行
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  検非違使
     江判官能範(布衣・冠・革緒・細尻鞘の太刀、郎等三人・雑色四人・調度懸け(弓箭を携帯する者)一人・
     放免(検非違使の下職)四人)
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  御調度懸け(将軍の弓箭を携帯)
     佐々木彌太郎左衛門尉高重
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  衛府(近衛兵・二列、序列は年齢順)
     大泉左衛門尉氏平  関左衛門尉政綱
     小野寺左衛の尉秀道  嶋津左衛門尉忠久
     平九郎右衛門尉胤義  足立左衛門尉元春
     天野左衛門尉政景  伊賀左衛門尉光季
     後藤左衛門尉基綱  加藤左衛門尉景長
     伊東左衛門尉祐時  武藤左衛門尉頼茂
     中條右衛門尉家長  佐貫右衛門尉廣綱
     江右衛門尉範親  大井紀右衛門尉實平
     塩谷兵衛尉朝業  若狭兵衛尉忠季
     東兵衛尉重胤(最後尾に一人)
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右画像は八幡宮の太鼓橋正面(上)と側面。建造当初は朱に塗った木製だったため赤橋とも呼ばれた。
石造りに変わった時代は判然としない。代々の将軍家は参拝の際にここで輿から降りたと言う。
建暦三年(1213)5月3日の和田合戦では土屋義清が赤橋の前で北からの横矢を受け戦死、この橋の近くに邸を構えた北條長時重時 の次男)の系が赤橋流北條氏で曾孫に16代執権守時がいる。
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鶴岡八幡宮寺の橋の砌前で牛を外し、源仲章朝臣が進んで御簾を上げた。平頼茂朝臣が御榻(踏み台)を備え、一條少将能継が御沓を揃え、伊豫少将藤原實雅が将軍家の御裾を取った。大夫判官二階堂行村(衣冠束帯)・佐々木判官廣綱(狩衣衣に冠)が楼門の東西に相対し床子に座し両人の随兵各々十人が傍らに控えた。
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禅定三品(政子)と御台所(坊門信子)は牛車を橋(太鼓橋・赤橋)の西に停めて見物された。信濃守二階堂行光・右衛門大夫加藤光員・安藝権守範高および衛府十人(各々下を括った狩衣)が轅(牛車の柄)の左右に控えた。
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その他、御家人が八幡宮中及び周辺の道路を警備し右京兆の室(伊賀の方)らの女房が桟敷を流鏑馬馬場の近くに設けるなど見物人が群参した。八幡宮上宮と下宮への御奉幣は通常通り。将軍家は夕暮れに還御された。
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   ※反閇: (へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行う陰陽道の作法。動画も参考に。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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6月28日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に流星が北西から南東へ飛んだ。満月ほどの大きさである。
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   ※満月ほど: いくら何でも誇張だと思うが、そう見えるほど大きかったのだろう。岡山県井原市の星尾神社(市の
サイト)は「巨大な流れ星が水田に落ちて光り輝いた」と伝えている。2013年の ロシアの隕石落下(wiki)の音や振動を考えると衝撃波などの記録があっても良い、と思うが。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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7月1日
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吾妻鏡
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勅使の藤原忠綱朝臣(6月20日を参照)が帰洛。将軍家(実朝)より鞍を置いた馬三疋などの餞別を受けた。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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7月5日
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吾妻鏡
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(実朝の拝賀に立ち会うため)下向していた雲客(殿上人)の前兵衛佐為盛・花山院侍従能氏らが帰洛した。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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7月8日
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吾妻鏡
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左大将家(実朝)の御直衣始めにより(参内の代りに)鶴岡八幡宮に御参宮、午刻(正午前後)に出御した。
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前駆および随兵は先月27日の供奉人に命じていたが数人は既に帰洛し、右京兆北條義時も随行せず宮寺で合流した。随兵の中で大須賀太郎道信は体調不良によって欠席し、民部丞阿曽沼廣綱(藤姓足利氏)を呼んで代行とした。
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前回は大須賀道信と長江四郎明義(鎌倉景政の曾孫で大庭景義の従兄弟)・伊豆左衛門尉頼定(若槻(森)頼定)と左衛門尉三浦義村が並んだが、今回は頼定と廣綱となったため義村が左・明義は右に並ぶと定めた。ここで義村が「年長者の長江明義が右に並ぶべきではない」と上申、一方で明義は「義村は官位が上であり、三浦介義澄 の遺跡を継いでいる。左に並ぶべきである。と主張した。
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礼節による譲り合いが長引いて出発の遅れとなるのを危惧した大夫判官二階堂行村が御前に参上して判断を仰ぎ、左大将家(実朝)は各々が謙譲する美徳は立派だが儀式を遅らせてはならぬ。義村は若年だから再びの機会があるだろう。今回は高齢の明義が左に並んで子孫の誉れにせよ。と仰せになった。行村がその趣旨を伝え、特に異論もなく長江明義が左となった。
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  行列
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  前駆(二列)       左近蔵人伊賀仲能   左近蔵人三条親實
      左近大夫毛利季光   左近大夫美作朝親
      前武蔵守足利義氏   右馬助範俊
      相模守北條時房   蔵人大夫有俊
      前筑後守頼時   民部少輔源親廣
      前駿河守大内惟義朝臣(最後尾に一人供奉)
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  殿上人(一列)
      新蔵人長井(大江)時廣  文章博士源仲章 一條中将信能朝臣
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  御車(御随身、御車副えなどは先月に同じ)
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  随兵(二列)
      長江四郎明義   左衛門尉三浦義村
      伊豆左衛門尉頼定   浅沼民部丞光綱
      式部大夫北條泰時   筑後左衛門尉八田(小田)朝重
      秋田城介安達景盛   土岐左衛門尉光行.

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   ※直衣: 外見は衣冠と概ね同じ。天皇・皇太子・親王・公家の平常服。
直衣(のうい)での参内が許されるのは原則として公卿(三位以上)と参議職の四位の中から特に天皇に許された者が直衣での参内が可能。
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右画像は紫式部日記絵巻に見る直衣。式部邸を訪れた藤原斎信と実成。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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7月9日
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吾妻鏡
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未明に右京兆北條義時が大倉郷に渡御され、南の山際で良い土地を占った。一堂を建立して薬師像を祀るのが目的である。この経緯は、昨日将軍家(実朝)の鶴岡八幡宮出御に立ち会った夜、邸に戻って休息した際の夢に薬師十二神将の戌神が現れ、「今年の神拝は無事に済んだが明年の拝賀には供奉すべきではない。」と告げた。
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奇異な出来事で託宣の意味も判然としないが、元服後は薬師如来とその護法神・十二神将を篤く信仰している。
今回の夢も軽視せず信仰を深めねばならない、日柄などに拘らず堂を建てようと考えた結果である。
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相模守北條時房と李部北條泰時はこれに賛同せず、各々が「今年は左大将拝賀や殿上人の参向があり御家人も庶民も多くの財産を費やした嘆きが未だ収まっていない内の造営は民生にとって好ましくないでしょう。」と諌めたが、義時は「これは一身上の宿願であり百姓の負担を求めるつもりはない。薬師如来と眷属の託宣を黙止できようか」と答えて工匠らに指示を行った。
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   ※戌神: 薬師如来と薬師経を信仰する者を守護する十二神将の一つ
宮毘羅大将。本地仏は勢至菩薩、十二支は亥神。
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   ※明年の拝賀: 言うまでもなく、1月17日の八幡宮に於ける将軍家の
右大臣拝賀の夜。儀式の直前に義時は体調不良を訴えて自邸に帰り、代理を務めた源仲章が惨殺された。
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如何にも恣意的な体調不良だけでは説得力が乏しい、吾妻鏡の編纂者(又は史料を残した者)は義時か゜建立した薬師堂と夢のお告げを組み合わせ、殺害現場を避けた辻褄を合わせようとしたのだろう。
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危険を予知したのなら主人である実朝の安全を確保して現場での危険回避を図るのが順序だろうに。
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この薬師堂は真言宗泉涌寺派の覚園寺(参考サイト・地図)として現存する。本尊は薬師三尊、現在の鎌倉宮と荏柄天神社の間を北に切れ込んだ谷(薬師ヶ谷)の突き当たりに位置する。
残念ながら山門から内側の写真撮影は不可。
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   右画像は覚園寺に登る石段と山門。(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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7月22日
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吾妻鏡
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侍所の所司五人を定めた。式部大夫北條泰時朝臣を別当とし、山城大夫判官二階堂行村・左衛門尉三浦左衛門尉義村らを指揮して御家人に関する件を取り扱う。次いで大江判官能範は将軍家の出御を始め御所に於ける雑事を差配する。次いで兵衛尉伊賀次郎光宗は御家人が供奉する際の招集などを差配する。武蔵守北條義時が将軍家の仰せを受けて各々に連絡した。
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   ※武蔵守: 前年11月に大江廣元が体調を崩して出家し陸奥守を辞任、後任は相模守だった北條義時が転任し
相模守は武蔵守だった北條時房、武蔵守には北條泰時が着任している。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会が催され将軍家(実朝)が御参宮。供奉人の煌びやかな装いは普段より一段と美しい。檳榔の御車(6月21日参照)を用いられ、 一員(随行の官人)を従えている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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8月16日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は昨日に続いて八幡宮に出御。流鏑馬は特に盛大に催された。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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8月20日
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吾妻鏡
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蔵人左衛門尉大江(長井)時廣が禁裏に奉公するため上洛する旨を申し上げ、二階堂行村がこれを取り次いだ。
将軍家は特に不機嫌で、「既に蔵人の官職を得て鎌倉に下向したのだから、敢えて上洛の必要はないだろう。関東を軽んじる様で不愉快だ。」との仰せだった。行村は顔を伏せ言葉もなく引き下がり、仰せの内容を時廣に伝えた。
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時廣は「京都を優先しているのではありません。廷尉(検非違使)の官職を得て実際の勤務をしないまま左大将御拝賀の前駆を勤めるため鎌倉に下向したもので、官職から除籍されていない状態です。将軍家から上洛の許可を頂いて職務を務めた後に鎌倉に戻り、忠義を尽くしたいと考えています。」と語った。
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行村はこれ以上の上申は困難だと考え、取次を辞して退出した。
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   ※時廣の立場: 朝廷から派遣されたまま鎌倉に留まる不合理は理解できるし京都の文化に憧れつつ傀儡将軍
として「飼い殺し」の立場に甘んじる実朝の心も理解できる。現状の打破を夢見た唐船での前世回帰も実現できなかったしね...人生って切ない事の積み重ねなのだよ、実朝さん。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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8月21日
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吾妻鏡
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上洛について時廣が昨日の経緯を涙と共に右京兆北條義時に訴え、義時が将軍家に願い出て上洛の認可を得た。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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9月13日
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吾妻鏡
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名月の夜を迎え御所で和歌の会を催した。一條羽林(中将)信能と李部(北條泰時)らの寵臣七、八人が同席した。
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催しの最中に鶴岡八幡宮で騒動との知らせがあり、関左衛門尉政綱と若狭兵衛尉忠季等が使者として八幡宮寺に駆け付けた。稚児と若い僧たちが名月の中を歩き回っているのを廻廊にいた宿直が見とがめて喧嘩になり、若者たちに殴られたのが騒動の経緯である。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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9月14日
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吾妻鏡
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兵衛尉金窪行親を派遣し、昨夜宮寺で勃発した狼藉について糺明した。左衛門尉三浦義村の子息駒若丸(元服後の光村が張本人である。宿直人は右大将家(頼朝)の時代に神を敬う心から幕府に勤務する者を当番制にして夜間の八幡宮を警護していた。それが現在まで続いていたのだが、今回のような恥辱を受けるようでは中止にすると決定。駒若丸は出仕停止の処分を受けた。
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   ※駒若丸: 元久元年(1205)生まれだから元服直前の13歳か。宝治合戦(1247年6月)で武勇を見せた後に
法華堂で自刃している。兄の泰村に弟ほどの気概があれば滅亡を避けられた、かも。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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9月29日
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吾妻鏡
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京都の飛脚が参着して次の通り報告した。
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去る21日に比叡山の衆徒が日吉山王神社祗薗八坂神社北野天満宮の神輿を担いで京都に入り閑院殿(里内裏)の前で振り威した。このため北面の武士を派遣して防ぎ、更に在京御家人の加藤光員後藤基清大友能直佐々木廣綱らが勅命を受けて門前に駆け付け防衛に任じた。
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ここで加藤兵衛尉光資(光員の息子、加藤新左衛門尉を称す)が八王子(延暦寺の頭塔)の神輿を担いだ男の腕を斬り落として神輿を穢したため、神輿を放棄して引き上げてしまった。
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石清水八幡宮の別当法印宗清が鎮西の筥崎八幡宮で執務していた時、天台(比叡山)の末寺大山寺の神人(下位職)の船頭長光安が筥崎八幡宮を管理していた相模寺住持の行遍と子息左近将監光助に殺害される事件があった。この際にも衆徒が蜂起し奏状を携えて訴え出たため行遍と光助は投獄されたのだが、衆徒は筥崎宮を没収して比叡山領にする事と宗清法印の流刑を要求して神輿を振り翳した事件が起きた。

                                  リンク先の寺社は全て公式サイト。
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   ※衆徒の横行: 建保二年(1214)8月13日の条(興福寺の例)に宗教団体の強訴にさいて記載してある。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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10月19日
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吾妻鏡
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佐々木廣綱からの飛脚参着して次の通り報告。
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去る10日に中宮九条立子(故・関白九条良経の娘・wiki)が皇子(後の第85代仲恭天皇)を御産した。
また9日に大臣などの任命があって将軍家が内大臣に叙任となり除書を持参した。
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太政大臣に三条公房(wiki)、内大臣に実朝(大将の職位は変わらず)、大納言に土御門定通(wiki)、中納言に西園寺實氏(wiki)、である。同11日に再び除目があり長井時廣ら数名が任命され、他に中宮御産の際に鳴弦(魔除けの儀式)を務めた者が任官を受けた。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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10月22日
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吾妻鏡
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日吉山王神社の神輿が入洛してからの件は既に鎮静したとの仰せがあった。これは以前から再三朝廷に申し入れた件である。先月21日に入洛し同23日に三塔(東塔・西塔・横川)と諸堂と日吉山王神社も同様に門を閉じた。
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また祗薗八坂神社・北野天満宮以下の末寺・末社も同様に門を閉じた。今月12日に貫首以下の高僧が比叡山に登って衆徒を説得し、社頭の門戸を開かせ根本中堂四社の神輿は本社に還座した。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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10月26日
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吾妻鏡
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京都の使者が到着し、去る13日に禅定三品(尼御台所政子)が従二位に叙された、と。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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10月27日
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吾妻鏡
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秋田城介安達景盛が使節として上洛、皇子降誕について祝賀を申し述べるためである。
今日、長谷部信連法師(wiki) が能登国大屋庄河原田で死没した。以前は故・三条高倉宮以仁王の侍でその後は関東の御家人となった。長馬新大夫為連の息子である。
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   ※長谷部信連: 「平家物語巻四 信連」には「検非違使が捕縛に向かっていると知った信連は以仁王を三井寺に
逃がし、奮戦の末に負傷して捕縛された。六波羅で平宗盛の尋問を受けたが供述せず、勇猛さに感心した清盛が死罪を減じた」と書いている。
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   ※大屋庄河原田: 現在の石川県穴水町川島にあった国衙領(地図)。伯耆国日野(鳥取県西部)に流された信連
は平家滅亡後に鎌倉に入り梶原景時の仲介で頼朝と面会、大屋庄を与えられている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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11月5日
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吾妻鏡
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大夫判官佐々木廣綱が京都より書状を届けた。これは先月15日に日吉山王神社に御幸した御鳥羽上皇に従って出掛けた際に僧を斬った専当童(雑務を担う下級職の若い僧)を射止め、この褒賞として21日に官職を得た。
将軍家(実朝)もこの件を喜び、近江国松伏別府を褒賞に加えた。
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   ※松伏別府: 松伏は現在の滋賀県近江八幡市馬渕町(地図)。別府は国衙の認可を得て開発した農地。
税制の恩典を受けるメリットがあったらしい。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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11月13日
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北條九代記
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右大将家(頼朝)の後室で遠江守北條時政の娘(尼御台所・政子)が従二位に叙された。
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   ※政子が従二位: 何故だか判らないが、吾妻鏡はこの情報を記載していない。単純なミスか、それとも政子を
「後室」と書くのを憚ったのか。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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11月25日
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吾妻鏡
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(10月27日に派遣した使者の)安達景盛が京都から帰参した。去る10日嵯峨野栖霞寺の釈迦堂と阿弥陀堂が焼失したが本尊は持ち出すことができた。同じく11日に八條左大臣(良輔・九条兼実の三男)が死没(享年34)。
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   ※栖霞寺: 現在の清涼寺(京都観光サイト)。渡月橋から化野念仏寺に向かう途中にある(地図)。
嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデル)が嵯峨野に建てた山荘、源氏物語の世界だ。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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11月27日
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吾妻鏡
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東平太重胤は無双の近臣であり、その息子胤行も父と同様に昼夜を問わず君側に控えている。しかし重胤は先頃所領の下総国海上荘に下向し長く戻らないため、将軍家実朝は和歌一首が添え、早く帰参せよとの書状を送った。
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      こひしとも おもはていはヽ ひさかたの あまてる神も そらにしるらん
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   ※海上荘: 海上郡は現在の銚子市・東庄町(東氏の本貫地)・旭市を含む一帯、
海上荘は東庄町の東に隣接する利根川沿い。現在は人気のローカル線銚子電鉄(公式サイト)が走っている。
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右画像は千葉県の行政区分 (画像をクリック→拡大表示)
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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12月2日
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吾妻鏡
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右京兆北條義時が霊夢(詳細は7月9日)に従って草創した大倉新御堂に薬師如来像(雲慶(運慶)作像)を安置し、今日開眼供養を行った。導師は荘厳房律師行勇、呪願は圓如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覺房良喜(若宮供僧)。
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施主および室家(伊賀の方)は簾の中に坐し、相模守北條時房・式部大夫北條泰時・陸奥次郎北條朝時は正面の濡れ縁に坐した。信濃守二階堂行光・大夫判官二階堂行村・大夫判官加藤次景廉・以下の御家人も薬師如来との結縁を求めて群参した。
筑後前司源頼時(検非違使)・左近大夫美作朝親・三條左近蔵人親實・伊賀左近蔵人仲能・安藝権守範高らが布施を配るため堂の南に設けた仮屋に控えた。戌刻(20時前後)に儀式が終わり、導師以下が御布施を受け取った。
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   ※薬師如来像: 覚園寺は鎌倉時代中期に二度の火災で焼失、二度目には本尊の薬師如来像も失われている。
もし寺伝が正しければ十二神将像の作成も含まれている。この頃の運慶は晩年の円熟期で、地蔵十輪院(廃寺)や六波羅蜜寺の造仏もあって鎌倉に下るほどの余裕はない。当然ながら京都で彫り上げて鎌倉に送ったのだろうが、その日程は合理性が疑われる。
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義時が霊夢を見た7月8日以後の注文であれば相当の日数が必要で、、もしも寺伝の通り十二神将像も含めての作成依頼であれば、とても間に合わない。義時が「霊夢を見た」と称したのは実朝の右大将拝賀の供奉を欠席した事を神仏の意志として正当化する意図があったのだろう。
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   ※地蔵十輪院: 運慶が八条高倉に建立した氏寺と伝わるが詳細は不明。
本尊の地蔵菩薩坐像(なぜか重文)を含む仏像群は十輪院の火災を避けて六波羅蜜寺(公式サイト)に移し今に至った、とも伝わる。像高は約88cm、同時代の運慶作品として掲載した。
     右画像をクリック→ 拡大表示
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   ※皇帝紀抄の記事: 九条(藤原)道家が右大臣から左大臣に転任、実朝
内大臣から右大臣に転任した。
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   ※愚管抄の記事: 大臣を望んでいたが内大臣は重盛宗盛の例があって宜しくない。道家が左大臣に転じて
欠員が生じたため内大臣の実朝が思いを遂げて右大臣となった。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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12月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺の別当(公暁)が宮寺に参籠して長く退出せず、幾つかの祈請を行った。しかも剃髪しないため諸人はこれを不可解に思っている。また白河左衛門尉義典を使者として伊勢神宮に奉幣するため派遣した。その他幾つかの神社に奉幣の使者を送っていると御所に披露した。
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   ※不可解: しかも義時には薬師如来から「拝賀を欠席せよ」との警告があったのに実時の警護を強化する対策も
施さず、御台所政子は実行犯の公暁を園城寺から鎌倉に呼び寄せ犯行現場の八幡宮寺別当に任じている。これだけでも実朝殺害を立案したのは誰かを推測する状況証拠になる。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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12月20日
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吾妻鏡
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去る2日に将軍家(実朝)が右大臣に任じられてから初めての政所が催された。右京兆北條義時および政所執事の信濃守二階堂行光・家司で文章博士の源仲章朝臣・右馬権頭源頼茂朝臣・武蔵守源親廣・相模守北條時房・伊豆左衛門尉頼定・図書允清原清定らが狩衣を着して列座し、清定が吉書を書き上げた。
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右京兆義時が座を起って吉書を御覧に入れるため御所に参上、二階堂行光が吉書を奉げ持って義時の後ろに続いた。義時は御前に吉書を運び、将軍家は南面の部屋に出御して吉書の御覧になった。右京兆義時は政所に戻って椀飯で(執事と所司を)饗応し、二階堂行光は御馬と御剣を義時に献上した。
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   ※森頼定: 源義家の孫である若槻頼隆の次男で森氏の祖、伊豆守。父の頼隆から相模国毛利庄を相続して
森氏を名乗っている。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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12月21日
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)は右大臣拝賀のため来年正月に鶴岡八幡宮に参拝される。その御装束と御車などの調度類が仙洞(院の御所)から下賜され今日到着した。また将軍家に従う上位の公卿・大納言坊門忠信らが下向される、とのこと。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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12月26日
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吾妻鏡
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大夫判官二階堂行村の奉行として、御拝賀に供奉する随兵などについての沙汰があった。兼ねて定めた人数の中で左衛門尉小山朝政と左衛門尉結城朝光は服喪のため除外し、山城左衛門尉二階堂基行・荻野次郎・梶原景員を呼んで交代要員とした。右大将家(頼朝)の時代に定めた内容は次の通りである。
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随兵は三つの徳を兼備した者が任じねばならぬ。譜代の勇士である事、弓馬に長けている事、容姿が優れている事の三徳である。譜代でも弓馬に長けていなければ警護を任せられないから事前の確認が要る。と。
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交代として呼んだ梶原景員は父の平次左衛門尉梶原景高が去る正治二年(1200)正月に駿河国高橋の付近で自殺してから活躍の場を失っていた御家人だが、三徳を持ち合わせているため任命されたのは名誉である。
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また基行は武士ではないが父の二階堂行村は既に廷尉(検非違使)職にあり、容貌が美しく弓箭にも長けている。
文官の家から近習として仕え、武士より劣るとの恥辱を受ける事もあったが今回の拝賀は千載一遇の機会である。随兵に加えて頂ければ長く一族に武名を伝えられる、と。この願いを許し、異議は受け付けないと定めた。
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   ※朝政と朝光の服喪: 死去したのは誰か判らない。異母兄弟だから共通の近親は父の政光に限られるが、政光
は正治元年(1199)より前に死没している。
政光の兄弟は生没年不詳の弟・下河邊行義のみ、その息子(従兄弟)は下河邊行平政義、二人とも生没年不詳だから確定する術がない。
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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吾妻鏡
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西暦1218年
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84代 順徳
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建保六年
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吾妻鏡
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