建保七年・承久元年(1219)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月7日
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吾妻鏡
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戌刻(21時前後)、御所に近い前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)邸など40余棟が焼失した。
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   ※年令: 実朝は満26歳4ヶ月、前年3月6日に左近衛中将→左近衛大将・12月2日に内大臣→右大臣に転任。
ついでに書くと、北條義時は55歳・政子は62歳・北條時房は44歳・北條泰時は35歳・大江廣元(出家して入道覺阿)は70歳 ・ 後鳥羽上皇は38歳(全て満年令)。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で心経会あり。将軍家実朝は通例のとおり南面(公式の席)に出御された。
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   ※心経会: 般若心経を読誦する法会。小規模ながら霊験が高いと考えられ護国の法要としても重視された。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月15日
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吾妻鏡
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巳刻(深夜2時前後)に大倉一帯で火災。相模守北條時房室(足立遠元の娘)の宿舎など数十棟が被災した。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月23日
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吾妻鏡
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晩頭(夕暮れの頃)から雪になり、夜になって一尺ほどの積雪となった。
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今日、大納言坊門忠信卿が京都から下着し、右京兆北條義時の大倉邸を宿館とした。
その他、将軍家の右大臣拝賀式典に列するため、公家や殿上人の多くが鎌倉に参着した。.
西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月24日
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吾妻鏡
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山も地も白雪に覆われている。
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今日、坊門忠信大納言が御所に渡御され、御台所(忠信の妹坊門信子)御対面、将軍の御前に於いて盃酒の儀。
着飾った若い女房(女官)10人が陪膳の役を務めて終日楽しく過ごされ夕暮れになって宿館に還御された。
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将軍家が御馬(鞍を置いた鴾毛、名は鶏冠木)を献じ、秋田城介安達景盛がこれを引いた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月25日
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吾妻鏡
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右馬頭源頼茂朝臣が鶴岡八幡宮に参籠した。
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昨夜拝殿に跪いて祈っていた際に一瞬の眠りに落ち、夢の中で一羽の鳩が典厩(馬寮の長官で頼茂の官職、つまり自分を差す)の前に、その横に子供がいた。暫くしてその子供が杖を持って鳩を打ち殺し、続いて私の狩衣の袖を打った。奇異に思いながら朝を迎えたのだが八幡宮の庭には鳩が死んでおり、人々がこれを怪しんでいた。
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頼茂朝臣がこの件を話したため御占いが行われ、安倍泰貞と宣賢が不吉である旨を上申した。
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   ※八幡宮と鳩: 源氏の守護神は八幡神、鳩はただの野鳥ではなく八幡神の使者を務める鳥、とされている。
吾妻鏡の各所に鳩の死が記載されているのはこの理由に拠る。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月27日
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吾妻鏡
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夜になって雪、二尺余りの積雪となった。将軍家(実朝)は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参宮される。酉刻(18時前後)に出御された。
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  行列
    先ず居飼(牛馬の世話役)四人(二行、退紅・手下を縫い越す)
    次いで舎人四人(二行、柳の上下・平礼)
    次いで一員(官吏・二行)
       將曹菅野景盛    府生狛盛光    将監中原成能(已上束帯)
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    次いで殿上人(二行)
       一條侍従能氏      籐兵衛佐頼経
       伊豫少将實雅      右馬権頭頼茂朝臣
       中宮権亮信能朝臣(子随身四人)      一條大夫頼氏
       一條少将能継      前因幡守師憲朝臣
       伊賀少将隆経朝臣      文章博士仲章朝臣
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    次いで前駆笠持
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    次いで前駆(二行)
       籐勾當頼隆      平勾當時盛
       前駿河守季時      左近大夫朝親
       相模権守経定      蔵人大夫以邦
       右馬助行光      蔵人大夫邦忠
       右衛門大夫時廣      前の伯耆守親時
       前武蔵守義氏      相模守時房
       蔵人大夫重綱      左馬権助範俊
       右馬権助宗保      蔵人大夫有俊
       前の筑後守頼時      武蔵守親廣
       修理権大夫惟義朝臣      右京権大夫義時朝臣
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    次いで官人
       秦兼峯
       番長下毛野敦秀(各々白狩袴・青一の腫巾・狩胡箙)
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    次いで御車(檳榔・前年6月21日を参照) 車副四人(平礼・白張)、牛童一人
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    次いで随兵(二行)
       小笠原次郎長清(甲小桜威)      武田五郎信光(甲黒糸威)
       伊豆左衛門尉頼定(甲萌黄威)      隠岐左衛門尉基行(甲紅威)
       大須賀太郎道信(甲藤威)      式部大夫泰時(甲小桜)
       秋田城介景盛(甲黒糸威)      三浦小太郎朝村(甲萌黄)
       河越次郎重時(甲紅)      荻野次郎景員(甲藤威)
       各々冑持一人、張替持一人、傍路前行す。但し景盛は張替を持たしめず。
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    次いで雑色二十人(皆平礼)
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    次いで検非違使
       大夫判官景廉(束帯・平塵蒔の太刀。
         舎人一人、郎等四人。調度懸・小舎人童各々一人。看督長二人。火長二人。雑色六人。放免五人)
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    次いで御調度懸(将軍に替って弓箭を携帯)
       佐々木五郎左衛門尉義清
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    次いで下臈御随身
       秦公氏      同兼村      播磨貞文
       中臣近任      下毛野敦光      同敦氏
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   次いで公卿
       新大納言忠信(前駆五人)      左衛門督實氏(子随身四人)
       宰相中将国道(子随身四人)      八條三位光盛
       刑部卿三位宗長(各々乗車)
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    次いで
       左衛門大夫光員       隠岐守行村
       民部大夫廣綱      壱岐守清重
       関左衛門尉政綱      布施左衛門尉康定
       小野寺左衛門尉秀道      伊賀左衛門尉光季
       天野左衛門尉政景      武藤左衛門尉頼茂
       伊東左衛門尉祐時      足立左衛門尉元春
       市河左衛門尉祐光      宇佐美左衛門尉祐政
       後藤左衛門尉基綱      宗左衛門尉孝親
       中條右衛門尉家長      佐貫右衛門尉廣綱
       伊達右衛門尉為家      江右衛門尉範親
       紀右衛門尉實平      源四郎右衛門尉季氏
       塩谷兵衛尉朝業      宮内兵衛尉公氏
       若狭兵衛尉忠季      綱嶋兵衛尉俊久
       東兵衛尉重胤      土屋兵衛尉宗長
       堺兵衛尉常秀      狩野七郎光廣(任右馬允の除書は後日到着)
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    多数の武装兵が八幡宮の周辺を警護している。

八幡宮寺の楼門を入る際に右京兆北條義時が急に体調不良を訴えて御剣役を源仲章朝臣に譲り、神宮寺で列から離れ小町邸に帰った。夜半になって親拝の行事が終わり将軍家(実朝)が退去される際に、石階(石段)の際に隠れていた八幡宮の別当阿闍梨公暁が太刀で右大臣実朝を殺害した。その後に武田五郎信光を先頭にして随兵が駆け付けたが下手人を発見できない。
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或る人が言うには、「八幡宮上宮の横で別当阿闍梨公暁が「父の敵を討った」と名乗っていた」と告げ、随兵らは(公暁の住む)雪ノ下の僧房に押し寄せた。門弟の悪僧らが防戦し、長尾新六定景と子息の太郎景茂と次郎胤景が先を競って突撃して悪僧を追い散らした。戦場に於ける勇士の行動はかくあるべきとの美談を残したが、阿闍梨公暁はここにはいなかった。
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阿闍梨公暁は将軍家の首を持って後見人である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に入り、食事を勧められた間も首を離さなかったと言う。
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そして阿闍梨の乳母子である弥源太兵衛尉を使者として三浦義村邸に派遣し、「将軍の座が空席となった今は私が関東の棟梁である。早急に討議し手順を定めよ」と申し入れた。これは義村の息子・駒若丸を門弟にしている関係からの言葉だろう。
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この言葉を聞いた義村は先君(頼朝)に受けた恩が忘れられず、数行の涙を流した後も言葉を出し得なかった。暫くして「まず拙宅にお越し下さい。迎えの兵を差し向けましょう。」と伝えるよう使者に命じた。使者の退去後に義村は使者を北條義時邸に派遣して指示を求めた。義時からは「躊躇することなしに阿闍梨を殺せ」との命令が届いた。
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義村は対応を協議し、阿闍梨は武勇に優れた人から簡単に討ち取れないなどと相談し、歴戦の勇士・長尾新六定景を討手に選んだ。(雪ノ下で戦った後に三浦邸に戻っていた)定景はこの命令を辞退できず、黒皮威の甲冑を着して雑賀次郎(強力で知られた西国住人)ら郎従5人を伴って阿闍梨公暁のいる備中阿闍梨宅に向かった。
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一方で阿闍梨は義村からの使者が遅れたのを待てず、鶴岡八幡宮背後の峰を登って義村邸に入ろうとした所で定景と遭遇した。雑賀次郎は直ちに阿闍梨を組み伏せようとして戦い、定景が太刀を抜いて阿闍梨(素絹の衣に腹巻(鎧の胴)を着す、20歳)の首を落とした。金吾将軍(頼家)の息子で生母は賀茂(足助)六郎重長の女(為朝の孫娘)、公胤僧正の受戒により出家し貞暁僧都を仏法の師としている。
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定景は公暁の首を義村邸に持ち帰り、義村は直ちに首を京兆(義時)邸に届けた。義時は玄関で安東忠家の持つ明かりの下で首を確認、李部(泰時)は「私は未だ阿闍梨の顔を正しく見ていないので疑念あり」と語った。
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今日の事件については、以前から凶兆が幾つも現れていた。
出立の朝、前大膳大夫入道(大江廣元)が進み出て「私は成人してから涙を流した事がありませんが、今は涙を抑えられません。東大寺落慶供養の際の右大将(頼朝)の例に倣い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)」を着けて下さい。」と進言したが源仲章朝臣が「大臣や大将に昇叙する人にその例はない。」と制止した。また宮内公氏が髪を整えた際には自ら髪の一筋を抜き、記念と称してこれを与えられ、更に庭の梅を見て禁忌(とされる)和歌を詠まれた。
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      出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
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次いで南門を出御される際に鳩が頻りに鳴き、牛車から降りる時には帯びていた剣の先端を突き折ってしまった
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また今夜中に阿闍梨の仲間を捕らえて糺弾せよとの命令が二位家(政子から下された。信濃国住人中野太郎助能が少輔阿闍梨勝圓を生け捕って右京兆義時邸に連行した。これは公暁に仏法を教える師である。
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   ※北條九代記は: 戌刻(20時前後)に右大臣家(実朝)が鶴岡八幡宮
に拝賀のため参詣した際、若宮別当の公暁が女の姿を借りて実朝を殺した。文章博士源仲章も同じく殺害された、と書いている。
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   ※大銀杏伝説: 大銀杏の陰に隠れた公暁が...との話が一般的だが
平成二年に倒れた銀杏の樹齢は一説に千年と言われるから、実朝が殺された時はせいぜい樹齢200年。
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愚管抄が「伝聞」として書いている「それに続いて同じような姿の3、4人が現れて」が事実なら、それだけの人数が隠れるスペースがあって随兵が来るまでの時間が確保できる石段の上、拝殿の近くじゃないか、と考える。結局は吾妻鏡原文の「石階之際」を石段の上と読むか下と読むかの問題。
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右画像は大銀杏が倒れた後に下宮横の舞殿横から見た大石段(突き当たりは上宮の拝殿)。
公暁が実朝を殺した現場はどの辺だろうかねぇ。
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   ※殺害命令: 義時が事件に関与していなかったら、背後関係究明のため「生け捕り」を命じるのが当然の手法。
もし背後に義村の策謀があったとすれば、自白させて一気に三浦を滅ぼす絶好の機会になるし、後鳥羽上皇の関与があれば朝廷との交渉に有利な材料になる。狡猾な義時なら公暁を簡単に殺さず温存するのが当たり前だ。
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   ※政子の関与: 物的証拠はないが、一年半前の建保五年(1217)6月に圓城寺から公暁を鎌倉に呼び八幡宮
別当に赴任させたのが政子だから、殺害を幇助・あるいは知りながら黙認した可能性はある。
公暁は7歳から12歳まで政子の庇護下で過ごしているから、殺害後に公暁が叫んだ「父の敵を討った」、つまり実朝こそが父の敵(かたき)であると公暁の頭に刷り込む事が政子にはできた。
父の時政に同意して頼家を見捨てた前歴も、彼女の価値観を表している。
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   ※公暁の武勇: 12歳で出家し圓城寺で仏教の修行をしていた満18歳の若者が武勇の人である筈はない。
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   ※吾妻鏡は: 実朝が自分の死を受け入れているような印象を与えようとしている。念願の右大臣に昇った28歳
の若者が理不尽な死を受け入れるなどナンセンスなのに。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月28日
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吾妻鏡
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早暁に加藤判官次郎景廉が使節として上洛の途に付いた。これは将軍家(実朝)逝去の報告が目的で、行程は5日と定められた。
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辰刻(朝8時前後)に御台所(坊門信子)が落飾、荘厳房律師行勇が授戒の任を務めた。また武蔵守源親廣・左衛門大夫長井時廣・前駿河守中原季時・秋田城介 安達景盛・隠岐守二階堂行村・大夫尉加藤景廉ら御家人100余名が薨御の悲しみに耐えられず出家を遂げた。
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戌刻(20時前後)、将軍家の遺骸は勝長寿院の傍らに埋葬、昨夜は御首の所在が判らず、五体不具では支障があるため昨日宮内公氏に与えた遺髪を頭に替えて入棺した。
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   ※愚管抄の記述: 拝賀に参列するため京都から五人の公卿が檳榔の牛車と共に鎌倉に下った。
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大納言坊門忠信(内大臣信清の息)、中納言實氏(春宮大夫西園寺公経の息)、宰相中将藤原国通(故・泰通大納言の息、朝政前妻(時政前妻、つまり牧の方の間違い)の夫)、正三位光盛(平頼盛 大納言の息)、刑部卿三位宗長(蹴鞠の名手難波(藤原)頼経の息)である。
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無事に拝賀を遂げ夜に奉幣を済ませ、神殿前の石階(石段は拝殿の前で、本殿ではない)を下り扈従する公卿の前を歩いている際に法師の姿をした者が実朝の衣を踏みつけ、一太刀で斬り倒して首を落とした。それに続いて同じような姿の3、4人が現れて供の者を追い散らし、先頭で松明を持っていた源仲章北條義時と思って同じように斬り倒して殺した。
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太刀を持って近くにいた義時は「公卿は中門にとどまれ」と指示し、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。光盛は鳥居に止めてあった自分の毛車で逃げ帰った。鳥居の外にいた多数の武士はこの騒ぎを知らなかった。
犯人の法師は頼家の子を八幡宮の別当に任じていた者で、前々から計画して犯行を遂げた。最初の一太刀の際に「親の敵はこう討つぞ」と叫んだのを公卿全員がはっきりと聞いた。
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その後に一の郎党と思われる三浦義村に「今は我こそ大将軍よ、そこへ行くぞ」と伝え、実朝の首を持って大雪の中の山道を義村邸に向かった。義村はこの経緯を義時に報告し、討ち取るように命じて武士を送ったが簡単には討ち取れず、切り散らしつつ義村邸の板塀まで辿り着き、塀を越えて入ろうとした所で討ち取られた。
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実朝の首は山道の雪の中から見つけ出した。犯人の仲間は全て討ち取り、家も焼き払った。その夜と翌日に出家した者は7、80人に達したらしい。
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   ※義時と思って: 公暁に協力した八幡宮寺の供僧が最高権力者の義時と仲章を見間違う筈がない。この言葉の
根拠が判らないし、公暁ではなく仲間の僧が殺したのは事前の打ち合わせがあった筈だし、「義時が同行していた」と書いている事から考えるとこの伝聞情報は信用すべきか、どうか。
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   ※勝長寿院に埋葬: 鎌倉幕府が滅亡してから約120年後に勝長寿院
を保護していた足利成氏が下総国古河に移り、その後は財政的な枯渇もあって荒廃・廃絶した。
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現在壽福寺裏山の「やぐら」にある政子と実朝の五輪塔は、勝長寿院が廃絶した頃に移設された供養墓と推定されている。
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            右画像は「やぐら」の中の実朝五輪塔(クリック→拡大)。
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   ※五体不具: 貴族などの間では五体が揃わずに死ぬと穢を招き、成仏
に支障ありと考えられていたらしい。
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習慣の原点は確認していないが、例えば吾妻鏡の承久三年(1221)7月18日の条に次の記載がある。
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(承久の乱首謀者の一人として鎌倉に送られる途中の)甲斐宰相中将藤原範茂卿は式部丞北條朝時の預かりとして足柄山の麓で早河の底に沈められた。これは(斬首され)五躰不具のままでは最期を迎える障碍となるため入水による死を望んだ結果である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月29日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の別当坊に仕える悪僧らの取り調べを行った。
宿老の供僧である弁法橋定豪・安楽坊法橋重慶・頓学坊良喜・花光坊尊念・南禅房良智らは事件の際には御祈祷に専念し、席を離れていない事が確認できていたため調査から除外した。
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   ※実朝の首: 鎌倉から直線で約30km西の秦野の伝承では、公暁を
討った長尾定景に同行した武常晴が八幡宮裏山の雪の中で実朝の首を見付け、大津兵部と共に波多野忠綱を頼って秦野に埋葬した、とされる。
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公卿の追討を命じた主人の三浦義村に首を届けるのが本来なのに、鎌倉から離れた波多野まで首を運んだのは何故か...
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右画像をクリックし、「実朝の首塚」(別窓)で詳細を確認されたし。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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1月30日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺供僧の和泉阿闍梨重賀は別当公暁に仕えていたが、今回の犯行には与していないと聞いたため、右京兆北條義時から住居の坊を安堵する旨の御書が与えられた。勝圓阿闍梨を呼んで関与を調べたところ、勝圓は次の通り陳述した。
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別当と供僧は別々に祈祷に従事したため関与はしていません。
ただし、禅師師範三位僧都の貞暁(公暁の師で前任の別当)が死去してからは仏法の指導者が不在となり、二位家(政子)の指示により真言(wiki)を少し指導しましたが、勉学の素地も励む意思も認められませんでした。従ってそれ以外には接しておらず、ましてや陰謀に加担するなど有り得ない事なのを御賢察ください。
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この内容は確認ができたため元の僧職を安堵し、公暁禅師の後見に任じていた備中阿闍梨の雪ノ下の家と土地および武蔵国にある所領については没収の措置を取った。
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   ※僧房の位置: 八幡宮北側の谷津(御谷・北谷)の宮寺に仕える供僧の僧房が置かれていた。時代により多少
の増減はあったらしいが、いわゆる「御谷二十五坊」と呼ばれた集落である。
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      右画像は「五海道其外分間見取延絵図」の浦賀道見取絵図から、八幡宮上宮(本殿)と二十五坊の図。
      画像をクリック→詳細へ(サイト内リンク・別窓) 画像などは鶴岡八幡宮(サイト内リンク・別窓)の末尾で。

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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月1日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺供僧の浄意坊堅者良祐が犯行に関与したとの訴えがあった。取り調べによって謀反には関わっていないとの結論に達した旨の仰せが右京兆北條義時から仰せられた。
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大きな事件が勃発して世間が動揺し、ましてや将軍家(実朝)が崩御してわずか三日で悲しみの最中であるにも拘らず、八幡宮の供僧たちは関東で最初の祈願所として治承年間以来の祈りを片時も怠らなかった。
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従って武士の乱入を停止させ、御書を発行して本来の職務を安堵する措置を講じている。別当公暁に与した悪僧 は全て討ち取ったが古老の僧侶を拘禁する事はなく、終日の読経や恒例の神事は今まで通りに続いている。
人々は行き届いた配慮に感謝し、神仏を敬う誠実さを知る結果となった。
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   ※仲間の悪僧: 無実だった僧の名前を載せて討ち取った悪僧の名を載せないのは理解に苦しむ。源仲章を斬殺
した犯人さえ記載しないのでは、背後に何らかの意図があったと思わざるを得ない。
まぁ個人的には公暁を操って実朝を殺させた義時&政子の謀略だと思っているのだが。
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   ※愚管抄の記載: 鎌倉では将軍実朝の跡を母親の二位尼(政子 )が惣領し、更に右京権大夫北條義時が政務
を補佐する事に決まったという。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月2日
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吾妻鏡
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武蔵国熊谷郷は右大将家(頼朝)の時代に直實法師(熊谷直實)が的立て役を拒んだ咎に依って鶴岡八幡宮に寄進された。その後は税の徴収などを神社が直接差配し地頭不在に近い状態だったが、別当(将軍の血縁である公暁)の権勢を恐れて支障を訴える事ができなかった。今回の事件を契機として宮寺の関与を停止し、地頭を介して年貢を納めるよう右京兆北條義時が地頭に御書を発行した。
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   ※的立て役: 文治三年(1187)8月4日の事件。頼朝から流鏑馬の的立て役を命じられた直實は「騎馬と徒歩で
は処遇に優劣の差がある」と主張して承服せず、所領の一部を没収された。
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更に建久三年(1192)11月25日には叔父の久下直光所領との境界争いの場で激高し、髷を切り落として逐電・出家の道を選んでしまった。(共に吾妻鏡の日付を参照)
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月4日
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吾妻鏡
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悪阿闍梨公暁の後見者だった備中阿闍梨から没収した家と土地は女房(女官)の三條局(縫殿別当)の希望に従って与えられた。ここは冷水が湧き出る土地であり、布を晒すのに適した土地である。 甥の僧である少納言律師観豪を代理の管理者に任じた。
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   ※縫殿別当: 以前にも一度登場したキャリア・ウーマンの筈だが思い出せない。そのうち追記できると思う。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月5日
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吾妻鏡
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京都から下向していた官人や殿上人らが帰洛の途に付いた。下向の際には慶賀の鞭を揚げ、帰洛の際には悲哀の涙で纓(顎に廻す冠の紐)を濡らす旅になる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月6日
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吾妻鏡
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故鶴岡別当阿闍梨(公暁)が派遣した白河左衛門尉が伊勢神宮に参詣して奉幣を済ませ鎌倉に戻る途中、三河国矢作宿で阿闍梨が討たれたとの話を聞いて自殺した、と。
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   ※矢作宿: 愛知県岡崎市を流れる矢作川西岸の宿駅(地図)。日吉丸(後の秀吉)と蜂須賀小六が矢作橋の上
で出会った伝説で有名だが、これは作り話らしい。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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右京兆北條義時が大倉薬師堂(前年の7月9日の条を参照)に詣でた。霊夢のお告げに依って創建した堂である。
先月27日の戌刻(20時前後)に八幡宮に供奉した時、傍らにまるで夢の様に白い犬が見えてから急に気分が悪くなり、御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行(朝光の四男)だけを伴って退去した。
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阿闍梨公暁は義時が御剣役を務めるのを事前に知っており、剣役を狙った結果として仲章の首を斬ってしまった。ちょうどこの時間には、薬師堂の中に戌神は居なかったという。
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   ※戌神の不在: 白い犬に姿を変えて義時に危険を知らせたと言いたいのだろうが、少し作為が過ぎるね。
義時と吾妻鏡の編纂者は危機から逃れた「偶然」を神仏の加護として辻褄を合わせる必要を感じたのだろうが、この件だけ取り上げても義時黒幕説の有力な傍証になる。
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白い犬と言えば...「白い犬とワルツを」は泣ける映画だった。私が観たのは吹き替えのTV映画だけど、仲代達矢主演のリ・メイク邦画もあったとは知らなかった。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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月日
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吾妻鏡
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2月初旬から6月末まで、私が種本にした吉川弘文社の「現代語訳 吾妻鏡」と画像を転載した「伏見本」には大きな食い違いがあり、参照には支障があるため写本にリンクできないケースがある。いつか空白を埋めてみたい。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月9日
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吾妻鏡
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判官次郎加藤景廉が京都から帰参した。去る二日に入京し、将軍家(実朝)の崩御を報告したところ洛中では軍兵が競って集結する騒ぎとなった。仙洞(院の御所)から禁止命令が出てやっと沈静化した。
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   ※百錬抄の記述: (鎌倉将軍の)右大臣拝賀の際に扈従するため下向していた新大納言坊門忠信卿が関東から
帰洛した。同様に下向していた左衛門督實氏卿・宰相中将国通卿・平三品光盛卿・刑部卿宗長卿ら殿上人も各々帰洛となる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月13日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)、信濃前司二階堂行光が上洛の途に就いた。六條宮あるいは冷泉宮(共に後鳥羽上皇の皇子)が関東将軍として下向されるよう求めている禅定二位家(政子)の使節である。宿老の御家人および連署の奏状(申請書)を捧げてこれを願っている、と。
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   ※愚管抄の記述: 尼二位(政子)が使者を派遣。政所を沙汰する二階堂行光、実績を積んで信濃守まで昇った
優秀な人物らしい。後鳥羽院の宮(皇子)の御下向を頂いて将軍にしたいとの希望である。
将軍が率いる武士は数万を越えるが、主人を失って途方に暮れた状態である、と。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月14日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)、太郎左衛門尉伊賀光季が京都警固(京都守護)のため上洛の途に就いた。また同時に右京兆 北條義時の御願として天下泰平を望む天地災変祭などの祈祷を催した。
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丑刻(深夜2時前後)に将軍家の政所(家政を司る)が失火により一棟も残さず焼失した。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月15日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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未刻(14時前後)、二品(二位)政子の寝所に小鳥が飛び込んできた。凶兆である。また、申斜(16時過ぎ)に駿河国からの飛脚が鎌倉に入って次の通り報告した。
阿野冠者時元(法橋阿野全成の子、母は遠江守 北條時政の娘・阿波局)が去る11日に多くの兵を率いて山中に城郭を設けた。宣旨に従って東国支配を企てている、と。
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   ※阿野時元: 父の全成は建仁三年(1203)に二代将軍頼家と対立して
八田知家に殺されたが時元らの兄弟は政子の口添えなどで連座を免れ、父の所領である阿野荘に蟄居となった。
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元より北條氏に対抗できる程の軍勢を集められる筈もなく、義時による源氏の系累抹殺作戦か、百歩を譲っても時元の自衛行動だろう。
一族の菩提寺は旧東海道の要衝浮島に近い大泉寺
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近くには延徳三年(1491)に挙兵して伊豆韮山の堀越公方を滅ぼし伊豆・相模を制覇した伊勢新九郎(通称を北条早雲)の居城だった興国寺城跡(沼津市のサイト)がある。
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右画像は大泉寺の山門。画像をクリック→大泉寺の明細(別窓)へ。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月19日
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吾妻鏡
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禅定二品(政子)の仰せに従い、右京兆北條義時金窪兵衛尉行親以下の御家人を駿河国に派遣した。
阿野冠者時元の追討が目的である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月20日
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吾妻鏡
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夜に入って、ある公卿の書状が京都から二位家(政子)の元に届いた。去る六日に故右府将軍(実朝)の御祈祷を担当していた全ての陰陽師が停職処分を受けた。これは後鳥羽上皇の御沙汰である、と。
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   ※ある公卿: 大納言で東宮大夫の西園寺公経を差す。頼朝の同母妹・坊門姫と一条能保の間に産まれた全子
を妻にし、頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫でもある。一貫して鎌倉幕府に近い姿勢を執り続けた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月21日
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吾妻鏡
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白河左衛門尉義典が悪別当(公暁)の使者として伊勢神宮に参詣した件について、(鎌倉に戻る)途中で自殺を遂げてもその罪は償えず、遺領を没収して新たな地頭を補任した。
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これは相模国大庭御厨(伊勢神宮領・wiki)に在る土地なのだが、祭主神祇(現地神官)の大副隆宗朝臣が左衛門大夫の加藤光員を介して「義典の遺領の中で外家(外戚・妻の実家)から相続した御厨領の没収は不都合なので神宮に返還されたし。」との申請書が提出された。
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従って神宮への返還が今日になって定められた。
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   ※大庭御厨: 現在の茅ヶ崎市から藤沢市・寒川町・平塚市の一部まで
含む広大な荘園。このエリアに依拠していた横山氏・渋谷氏・大庭氏・波多野氏・中村氏・二宮氏・土肥氏・蘇我氏などが建暦三年(1213)5月の和田合戦で概ね滅亡、実質的に北條氏が独占する財源になってしまった。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月22日
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吾妻鏡
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鎌倉から派遣した軍兵が駿河国阿野郡に到着して阿野次郎・同じく三郎入道を攻撃、時元およびその仲間は尽く追討された。
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   ※保暦間記の記録: 頼朝の舎弟悪禅師全成の息子阿野次郎隆光は将軍の後継が空席になったのを見て密か
に宣旨を謀作して謀反を起こし2月20日に討伐された。
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   ※阿野全成の息子: (上から)頼保・頼高・頼全・時元(四男だが時政の孫で嫡男)・道暁・頼成
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月23日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に駿河国から飛脚が参着し阿野時元らが自殺した旨を報告した。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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2月29日
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吾妻鏡
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武蔵守源(大江)親廣入道が京都守護として上洛の途に就いた。
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   ※大江親廣: 2月14日に鎌倉を出発した伊賀光季と二人で京都守護を務める体制を取った。承久の乱での
伊賀光季は後鳥羽上皇の招聘を拒否して兵を向けられ次男光綱と共に自刃、一方で大江親廣は宮方に与して敗北、祖父の多田仁綱(生母の父)が目代を務める出羽国寒河江荘に隠れ住んだ。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは2月の次が閏2月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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閏2月12日
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吾妻鏡
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信濃前司二階堂行光の使者が到着して次の通り報告した。
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後鳥羽上皇の)皇子の御下向について今月1日に奏聞し仙洞(院の御所)で協議が行われた。二人の中のどちらかを必ず鎌倉に下向させるが近日中ではない、と四日の仰せである。一度鎌倉に戻るべきか、否かと。
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   ※二人の皇子: 候補は坊門信清の娘(つまり実朝の正室坊門信子の姉)が産んだ頼仁親王(冷泉宮・17歳)と
藤原重子の産んだ雅成親王(六条宮・満18歳)。後鳥羽院は実朝と近い距離を保って幕府への影響力を強める意図を持ち、前年に上洛した政子は子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて「(傀儡の)宮将軍」とし、併せて政権の権威を安定させる目論見があった。
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前年2月の上洛で従三位に・秋には従二位に叙された政子は「宮将軍」の実現を確信し、義時と協議して「実朝抹殺に支障なし、その後に宮将軍を」の結論に達したのだろうが...
鎌倉の窮地と考えた後鳥羽上皇側は条件闘争が得策だと判断したから事態は面倒になる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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閏2月14日
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吾妻鏡
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二階堂行光の使者が帰洛の途に就いた。早急の親王御下向を願うよう奏聞を図るべしとの指示を受けた。
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   ※親王御下向: 相手の弱点を握って有利な展開を図るのは百戦錬磨の朝廷が上、弱みを見せたら負けだ。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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閏2月28日
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吾妻鏡
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(京都守護)伊賀光季の飛脚が鎌倉に到着して次の通り報告した。
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去る20日の戌刻(20時前後)に頭中将(一条能保の次男)の青侍(身分の低い若侍)と大番役で在京していた武士が喧嘩、22日の夜になって(大番役の)武士らが夕郎(蔵人の唐名。信能は今年に蔵人頭に任じている)の邸を襲撃するとの噂が流れ、光季が駆け付けてこれを鎮めた。
しかし検非違使から(喧嘩して事件の発端となった)件の武士を出頭させよとの指示が発せられた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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閏2月29日
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吾妻鏡
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一條中将信能朝臣が二品(政子)邸に参上して次の通り言上した。
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右府(実朝)の御旧好を忘れられないまま鎌倉に留まっておりますが、上皇はこれを頗る不快に思われ、去る19日には解官させよとの沙汰に及んだそうです。一度京都に戻るべきかと考えております。と。
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二品政子は「安易に帰洛を考えてはならぬ」と返答した。
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   ※京都に戻る: 吾妻鏡の記載は確認できないが、信能は間もなく帰洛し後鳥羽上皇の側近に復帰している。
その後は倒幕の謀議にも加わり、戦後は弟の尊長(前年の5月9日の条を参照)に処刑された。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月1日
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吾妻鏡
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永福寺別当の三位僧都慶幸を鶴岡八幡宮寺別当職に補任した。先月の宮寺に於ける騒動(実朝暗殺と別当公暁の誅殺)および駿河国の兵乱(阿野時元の追討)による触穢によって神事も祈祷も行えなかったための補任である。また永福寺別当職には圓如房阿闍梨遍曜を任命した。
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   ※僧都慶幸: なんの因果か彼も翌年1月16日に死没、人は「一年別当」と呼んだ、と。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月8日
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吾妻鏡
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内蔵頭の藤原忠綱朝臣が後鳥羽上皇の使者として鎌倉に入った。
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   ※藤原忠綱: 前年6月にも実朝の左大将拝賀に列するため鎌倉に入っている。詳細は6月21日の条で。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月9日
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吾妻鏡
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仙洞(後鳥羽上皇を差す)の御使藤原忠綱朝臣が禅定二品(政子)の屋敷(右府(実朝)の旧邸)に参上。右府の薨御について上皇が特に嘆いておられる旨を伝えた。次に右京兆北條義時と面談し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止せよとの院宣を伝えた。
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   ※政子邸: 吾妻鏡に具体的な記載はないが、最初に政子邸を訪問したのは今年の2月1日に「愚管抄」から引用
した「将軍実朝の跡を母親の二位尼が惣領し、加えて右京権大夫北條義時が政務を補佐する」との決定を裏付けている。世に言う「尼将軍」は儀礼的象徴ではなく、明らかな「公式の権威」だった。
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   ※地頭更迭: 雅成親王(後鳥羽院の皇子)を次期将軍として鎌倉に送る見返りに、摂津国長江荘と倉橋荘(共に
後白河院の愛妾・亀菊の所有で現在の大阪市淀川区から西淀川区にかけての一帯・後鳥羽院領)の地頭更迭を求めている。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月11日
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吾妻鏡
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明け方に院の使者藤原忠綱朝臣が帰洛の途に就いた。申刻(16時前後)に京都守護の太郎左衛門尉伊賀光季からの飛脚が参着して次の通り報告した。
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先月の末に江州(近江国・滋賀県)で謀叛計画の噂があり、今月1日から4日まで捜索を行ったが事実を確認できず、疑いのある者2人を拘束した。彼らは後鳥羽上皇の護持僧である刑部僧正長賢の一族である。
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   ※刑部僧正長賢: 承久の乱終結後の処分として1221年9月に陸奥国流罪に処されている。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月12日
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吾妻鏡
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右京兆北條義時・相模守北條時房・駿河守北條泰時・前大膳大夫入道(大江廣元)が二品(政子)邸に集まって協議した。藤原忠綱朝臣を介して下された後鳥羽上皇の仰せには追って奏上すると返事したが、早急に結論を出さないと御意向に背くだろうとの評議である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月15日
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吾妻鏡
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相模守北條時房が二位家(政子)の使者として武士千騎を従え上洛の途に就いた。これは今回の藤原忠綱朝臣を介して仰せが下った件についての返答および宮将軍の下向についてである。
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   ※武士千騎: この時期に軍兵を派遣する理由はない。明らかに武装兵による鎌倉の威圧だろう。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月17日
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吾妻鏡
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日光に力がなく恰も薄曇の状態で、月もまた同様である。去る13日からこれが継続している。
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   ※薄曇状態: 春を中心に東アジアに蔓延する黄砂と考えるのが一般的らしい。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月26日
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吾妻鏡
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駿河守北條泰時が駿河国に下着された。富士浅間宮(現在の富士山本宮浅間大社(公式サイト)を差す)などへの神拝が目的で、去る1月22日に駿河守に任じた後に国郡(鎌倉と駿河)で騒動が続いて延引となっていた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月27日
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吾妻鏡
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巳刻(午前10時前後)に豪雨と雹が降り雷鳴が轟いた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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3月28日
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吾妻鏡
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信濃前司二階堂行光が京都から帰着した。これは相模守北條時房の上洛と交代する形で、途中で体調を崩し3日ほど休息している。
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西暦1219年
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84代 順徳
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建保七年
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4~6月
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史 料
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4月~6月の3ヶ月間は吾妻鏡が欠落している。記事がなかったのではなく、逸失だろう。
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   ※4月2日 百錬抄: 午刻(正午前後)に近衛町(上京区、現在の京都御所西側・地図)付近から出雲路東出川原
近く(約2km北東の賀茂川左岸)が焼失、天下の大火災である。
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   ※4月12日 百錬抄: 改元あり。建保を改めて承久、日照りや火災などによる。
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   ※6月18日 承久記: 右大将西園寺公経卿の外孫で摂政殿下(九条道家・wiki)の三男、寅歳の寅の日、寅時に
生れたため幼名を三寅と呼ぶ若君を鎌倉に下向させる。噂では伊予中将実雅(一条能保の三男・2歳)が補佐し、右京権大夫北條義時を後見と定めた。
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   ※6月25日 皇帝紀抄: 今暁、左大臣の第四男の童(後の四代将軍藤原頼経 )が関東下向の途に就いた。
鎌倉からの将軍着任要請への対応である。
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   ※6月26日 承久記: 関東から御迎に上洛した者、三浦太郎兵衛尉・同平九郎左衛門尉・大河津次郎・
佐原二郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・
結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介の12人。
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先陣は三浦太郎兵衛尉友村、後陣は千葉介胤綱が任じた。相模国国村(国府(大磯)か?)に5日間逗留し、7月19日に鎌倉に下着した。
御迎えは島津左衛門尉・伊藤左衛門尉・小笠原六郎らを筆頭に、10人の随兵である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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7月19日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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左大臣(九条道家・wiki)卿の賢息(二歳、母は 西園寺公経卿の娘、建保六年(1218)正月16日寅刻(朝4時前後)に誕生した三寅、後の四代将軍藤原頼経)が関東に下向した。これは前右大将(頼朝)の後家である二品禅尼(政子)がその縁を重んじて血筋を継ぐため朝廷に申請し、先月3日に下向を許す宣下を得たのが経緯である。
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同じく9日に春日大社(藤原氏の氏神)に参詣(牛車、殿上人1人・諸大夫3人・供侍10人)し、14日に九条道家邸で魚味の儀、17日に院に参上して御馬と御剣などを下賜された。
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25日には(補佐役に任じた伊予中将実雅の)一条邸から六波羅(幕府の出先機関で後の六波羅探題)に移り、そのまま鎌倉に向け出発して今日の午刻(正午前後)に鎌倉に入り右京権大夫北條義時朝臣の大倉邸(御所の南に新築)に到着した。
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  その行列
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    先ず女房(各々輿に乗り下臈を先(身分の低い者から)と為す)
        雑仕一人 乳母二人 卿の局 右衛門督の局 一條の局 (他に相模守北條時房の室足立遠元の娘)
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    先陣の随兵
        三浦太郎兵衛尉重連  同次郎兵衛尉盛連   天野兵衛尉(遠景の弟・光家か?)
        宇都宮四郎頼業(頼綱の次男(横田)頼業 )  武田小五郎信政(信光の嫡男)
        小笠原六郎時長(長清の次男で伴野氏の祖)  相模小太郎(北條時盛)  幸嶋四郎
        陸奥三郎(北條重時)  左衛門尉結城朝光
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    狩装束の人々
        左衛門尉三浦義村  左衛門尉後藤基綱  兵衛尉葛西清重
        土屋左衛門尉宗光(宗遠の子)  千葉介胤綱(成胤の嫡子で六代当主)
        筑後左衛門尉八田朝重  陸奥次郎北條朝時  左衛門尉小山朝政  駿河守北條泰時
        武蔵守足利義氏
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    若君の御輿
        佐貫次郎  波多野次郎朝定  山内彌五郎  長江小四郎  木内次郎胤家  渋谷太郎光重
        本間兵衛尉飯富源内長能  土肥兵衛尉  高橋太九郎   それぞれ徒歩で輿の左右に列立す
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    殿上人   伊豫少将藤原實雅朝臣
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    諸大夫   甲斐右馬助宗保  式部大夫三善光衡  右馬助藤原行光
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    侍      左衛門尉藤原光経  主殿左衛門尉行兼  四郎左衛門尉友景
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    医師     権侍医頼経
    陰陽師   大学助晴吉
    護持僧   大進僧都寛喜
        以上十人(殿上人から護持僧まで)は京都から供奉。
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    後陣の随兵
        左衛門尉嶋津忠久  右衛門尉中條家長  八郎左衛門尉足立元春(遠元の嫡子)
        左衛門尉天野政景(遠景の嫡子)  左衛門尉伊東祐時(工藤祐経の嫡子、幼名犬房丸)
        左衛門尉遠山景朝(加藤景廉の嫡子で遠山氏の祖)  兵衛太郎堺秀胤(境常秀の嫡子)
        長江八郎師景(義景(wiki)の嫡子)  兵衛尉加地義綱 (加地信実の五男で倉田氏・竹俣氏の祖)
        左衛門尉橋公業  相模三郎資時(時房の四男)  兵衛大夫季忠  三浦次郎泰村
        河越次郎重時(重頼の次男で嫡子)  伊豆左衛門尉  小山五郎(長沼宗政
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    後陣 相模守北條時房
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    酉刻(18時前後)に政所で政務始め。若君が幼い間は二品禅尼(政子)が簾中で理非を判断する。
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   ※魚味の儀: 「魚味始」に同じ。貴族社会での通過儀礼の一つで小児に初めて魚肉や鳥肉など動物性食品を
与える儀式を差す。実施時期は生後11ヶ月~25ヶ月まで様々だった。
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   ※三浦重連: 三浦氏系図では、佐原義連-次男で嫡子の盛連-長男の重連、と続いている。
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   ※幸嶋四郎: 下川邊行平の三男。古河市東部の幸嶋郷(現在の新和田・ 地図)を領有して幸嶋氏を名乗った。
宇都宮・小山氏系図を参照。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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7月25日
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吾妻鏡

史 料

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酉刻(18時前後)に伊賀太郎左衛門尉光季の使者が京都から到着して次の通り報告した。
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去る13日の未刻(14時前後)、右馬権頭源頼茂朝臣を誅殺し、子息の下野守頼氏を生け捕りにした。
ちょうど若君(三寅)の御下向があり、飛脚の派遣を遅らせて現在に至った。頼茂が叡慮に背いたため官軍を彼の在所である昭陽舎(頼茂は大内裏守護に任じてここに居住)に派遣して合戦した。
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頼茂の与党は右近将監藤原近仲・右兵衛尉源貯・前刑部丞平頼国らは仁寿殿に立て籠って自殺し御所の殿舎に放火、仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿および大甞会や即位の際に利用する衣装や器具が全て灰燼に帰した。 朔平門・神祇官・陰陽寮・園韓神なども災厄を免れなかった。
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愚管抄・北條九代記・保暦間記・百錬抄などに共通する記事(7月13日前後)
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源頼政 の孫である頼茂が将軍になろうと考え内裏に立て籠って謀反を起こしたため勅命に従って追討した。自害して鎮静したが官軍の多くが死傷し、仁寿殿への放火によって仙洞の重宝など多くが失われた。
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   ※真相は: 頼政-次男頼兼-長男頼茂と続く摂津源氏嫡流。大内裏守護に
任じながら在京御家人として朝廷と幕府の間を調整する立場にあった。7月13日に詰所の昭陽舎を官兵に襲撃されて応戦したが最終的に仁寿殿に追い詰められ、放火して自刃した。
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もちろん将軍を望んでの謀反など存在せず、院の倒幕計画に気付いたため幕府に通報が漏れるのを警戒した後鳥羽上皇が口封じしたと考えるのが通説である。
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右画像は大内裏の略図と焼失ヶ所 (画像をクリック→拡大)
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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7月26日
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吾妻鏡
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早朝に鶴岡八幡宮で祈祷があり、陰陽師の大学助安倍晴吉が七瀬祓いを行った。
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   ※七瀬祓い: 平安中期以後の朝廷で行った祓で、天皇の人形(ひとがた)を勅使が七ヶ所の水辺に流す祈祷。
鎌倉の七瀬は由比ヶ浜・金洗沢池(地図)・固瀬川・六浦・㹨川(現在のいたち川・ 地図)・杜戸(森戸海岸・地図)・江島竜穴(江ノ島)の七ヶ所とされる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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7月28日
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吾妻鏡
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御所での宿直などについて定められた。先代の将軍までは役職に就いている御家人は西の侍所に控えていたが手狭になっているため小侍所を利用することになった。この別当は陸奥三郎北條重時(22歳)である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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8月26日
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吾妻鏡
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左衛門尉後藤基綱(後藤基清の嫡男)が使節として上洛の途に就いた。後鳥羽院が去る13日から体調を崩された事への対応である。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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9月6日
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吾妻鏡
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左衛門尉伊賀次郎光宗を政所執事に補任した。信濃前司二階堂行光が急病で辞任したためである。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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9月8日
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吾妻鏡
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巳刻(朝8時前後)に前の信濃守従五位下藤原朝臣二階堂行光法師が死去した(享年56歳)。
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午刻(正午現在)伊豆国の走湯山(伊豆山権現)衆徒の使者が到着し去る6日の丑刻(10時前後)に当山の中堂(本堂)と講堂(教典の講義・説法を行う場)が炎が降ってきた如くに燃えてしまった、と。
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   ※伊豆山本堂: 神社の場所は当時のまま変わらないらしいが別当寺は
現在の般若院一帯にあった、と伝わっている。
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この近くには頼朝と政子が始めて出会った石橋、つまり曽我物語が描いた逢初橋(たぶん捏造だろう)もあり、訪問する価値のある史跡が点在している。
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更に約500m先には本来の別当寺跡の可能性も指摘されている伝・密厳院の跡もある。
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もっとも伊豆山権現は秀吉の小田原攻め(1590年)の際に後北条氏に味方して全山を焼き払われているから所在地は確定し難いのだが...。
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右画像は伝・密厳院跡に残る五輪塔群。(クリック→拡大表示)
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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9月22日
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吾妻鏡
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申一点(15時過ぎ)から戌四刻(21時近く)まで火災が広がった。
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由比ヶ浜に近い阿野四郎宅の北から出火し、強い南風に煽られて由比ヶ浜の倉庫から北の永福寺惣門まで、東は名越山麓から西は若宮大路まで焼失した。
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右大将(頼朝)の時代から考えてもこれほどの例はない。
二品禅尼(政子)邸(右府(実朝)の旧邸)と若君の御所は辛うじて類焼を免れた。
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   ※火事の範囲: 滑川の東側は低い山並みが続いているから火は小町大路沿い
に北へ延びて六浦道(金沢街道)を越えたのだろう。永福寺の惣門まで燃えたのに八幡宮が火を免れたのは奇跡的だね。
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石段の上にある本殿などは兎も角として、池の周囲には宮寺の堂塔群が林立していた筈だから。
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記載のあった地点を右画像の地図に落とし込んだ。(クリック→拡大表示)
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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10月20日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に伊豫中将實雅朝臣一條能保卿の末子)が右京兆北條義時の嫡女(正妻の長女・母は伊賀朝光の娘)に嫁し、侍10人従えて大倉の家(右京兆義時邸の近く)に向かった。複日ではあるが、良い日取りがないため今日と定めた。
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   ※嫁した: 形式は「婿入り」だが「通い婚」の形式を残す呼び方。実生活は通常の婚姻と大差はない。
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   ※複日: 重日(6月6日、8月8日など)と同じで吉事を行えば吉が訪れ凶事を行えば凶が訪れる。ただし婚姻に
限っては、再婚に繋がるため凶、となる。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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11月13日
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愚管抄
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大納言西園寺公経卿が(後鳥羽上皇の)熊野御参詣の後に右大将に昇任となった。19日に拝賀を済ませ、世人の慶祝を受けた。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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11月21日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁6時前後)に強風が吹き、巳刻(11時前後)に收まってから相模守北條時房の新造した家が倒壊した。
卜筮によれば頗る不吉である、と。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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11月27日
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皇帝紀抄
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巳刻(11時前後)に白川祓殿の一帯が火災となり数町が焼けた。延暦寺の塔と金堂、成勝寺、最勝寺の塔三基・金堂、證菩提院なども同じく焼け落ちた。また亥刻(22時前後)には靱負廰(ゆげいのちょう・検非違使の庁に同じ)も放火で焼けた。
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   ※火災エリア: 現在の地名なら、岡崎成勝寺町(地図)付近から約2km北東の真如堂(地図)付近まで。
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   ※靱負廰: 保元物語の下巻五章「謀反人が各々召し捕らわれる事」に「盛憲兄弟と先滝口の秦助安らを靱負聴
で拷問した、云々」の記載がある。他にもあると思うが、取り敢えず思い出せない。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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12月17日
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吾妻鏡
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二品禅尼(政子)が体調を崩し、今日戌刻(20時前後)に泰山府君祭を行った。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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12月24日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に故右府将軍(実朝)邸(現在は二品政子の住居)が失火により全焼した。二品はすぐに若公三寅(後の四代将軍藤原頼経)の屋敷に移った。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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12月27日
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吾妻鏡
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二品(二位・政子)の宿願として故右府(実朝)の追善供養のため勝長寿院の寺域に堂を建立し五大尊(仏師運慶法印による造像)を安置した。五仏堂と名づけ月違い命日を迎えて供養の法要を 催した。導師は明禅法印である。
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   ※五大尊: 密教の五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)を差す。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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12月29日
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吾妻鏡
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陰陽の頭安倍資光朝臣の勘文(諮問に答える文書)が到着し伊賀光季を介して提出された。「去る20日の酉刻(18時前後)に西の空・騰蛇(星座)の中に彗星が見えた。」と。この件を司天の輩(天文の担当)に提示して意見を求めたところ、関東では全く見えなかったと同心して言葉を揃えた。
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   ※陰陽の頭: 中務省に属する機関で占い・天文・時・暦の編纂を担当する陰陽寮の長官で官位は従五位下。
なぜか判らないが資光の名は系図に見当たらない。朝廷の陰陽師にも御他聞に漏れず熾烈な勢力争いがあり、権力から脱落したり嫡流に排斥されたりして鎌倉に下向した者も多かったらしい。
「同心しての」背後には朝廷の陰陽師に対する遺恨や牽制があったのかも。
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   ※騰蛇: 唐・宗での星座の呼称でアンドロメダ・カシオペヤ座(北天の位置)周辺を差すらしい。
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西暦1219年
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84代 順徳
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承久元年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1219年
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吾妻鏡
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