承久二年(1220)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1220年
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84代 順徳
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承久二年
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1月11日
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吾妻鏡
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(御所の)対屋などの建築工事の明細が決まった。
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   ※対屋: 寝殿造りで寝殿の左右または背面に母屋と相対して建てた別棟。渡り廊下で寝殿と結ぶ。
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   ※年令: 北條義時は56歳・政子は63歳・北條時房は45歳・北條泰時は36歳・大江廣元(入道覺阿)は71歳 ・
後鳥羽上皇は39歳・順徳天皇は22歳・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は2歳11ヶ月 (全て満年令)。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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1月12日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に地震あり。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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1月14日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に相模守北條時房の息子次郎時村と三郎資時が出家し、時村は行念、資時は眞照を称した。突然の出来事なので人々はこれを怪しんだ。
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   ※真照: 時房の三男、後に六波羅探題南方に任じた北條時盛の弟。時村はそのまま上洛し親鸞に仕えて政治
の世界から去り、資時は幕臣に留まり嘉禄三年(1237)に評定衆、建長元年(1249)に三番引付頭(土地に関わる訴訟決裁の長)に任じている。蹴鞠と和歌には長じていたが政治的な手腕は低かったとする説もある。二人の出家は家督争いからの脱落が原因と見られ、最終的には五男の北條朝直が大仏流北條氏の家督を継承した(北條氏の系図を参照)。
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承久元年の時点で長男時盛は22歳(生母は不詳)、次男時村は21歳前後(生母は足立遠元の娘)、三男資時は19歳(時村と同母)、四男朝直は13歳(時村と同母)、五男時直と六男實政は幕臣として元寇の役を体験し、幕末近くまで騒乱の時代を生きている。
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   ※大仏流: 朝直は深沢に屋敷を構えたと伝わっている。現在の深沢は大船と江ノ島を結ぶ湘南モノレールを
連想するが、鎌倉時代には現在の長谷の一部までを含んでいたらしい(地図を参照)。大仏切通し(現在の大仏隧道部分)の東側だった可能性もありそうだ。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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1月16日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に月が太微宮の中に入った。
辰刻(朝8時前後)に鶴岡八幡宮別当の三位僧都慶幸が死去した(去年8月21日に(公暁の後任として)別当に任じたため世間では「一年別当」と呼んだ)。
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   ※太微宮: 玄元皇帝廟の別名で、獅子座(wiki)の西端を意味する。ちなみに「玄元皇帝」とは、楊貴妃を愛人に
した唐の玄宗皇帝が孔子に贈った諡号。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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1月21日
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吾妻鏡
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弁法印の定豪(元勝長寿院別当)を鶴岡八幡宮の別当職に、内大臣僧都親慶を勝長寿院の別当職に補任した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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1月29日
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吾妻鏡
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定豪法印が別当に任じてから初めて鶴岡八幡宮に神拝を行った。夜になって窟堂の付近が火災となり進士判官代工藤右衛門尉らの家が焼失した。
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   ※窟堂: 現在の小町通り入口から扇ヶ谷に抜ける小道(窟小路)にある。画像などは壽福禅寺の3枚目前後で。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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2月16日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に大町(地図)から南で火災、強い北風に煽られて南の浜までが焼失した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久元年
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2月21日
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皇帝紀抄
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天変地異や彗星の出現により二十二社に奉幣使を派遣した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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2月26日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に大町から北が失火により焼けた。武蔵守北條泰時の前で延焼を食い止めた。
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   ※泰時邸: 現在の宝戒寺の地にあり、義時の執務場所を兼ねていた。
将軍御所を含む鎌倉幕府の庁舎は大倉から宇都宮辻子を経て嘉禎二年(1236)には泰時邸(つまり宝戒寺)に隣接した若宮大路庁舎に移転している。段葛と二つの政庁を参照されたし。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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3月9日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)、窟堂(1月29日を参照)付近の民家数十棟が火災で失われた。
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   ※火災が連続: 寒い季節なのを考えても火災が多過ぎる。しかも規模が大きいし...。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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4月3日
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吾妻鏡

史 料

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大夫尉大内惟義の使者が京都から到着して次の通り報告した。
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先月22日に内裏造営の着工儀式を催した。筆頭に任じた公卿・参議・弁官・大夫史らが仮屋で執行した。
また同26日に清水寺(公式サイト)の本堂が焼失した旨を報告した。桓武天皇の延暦十七年(798)に大納言坂上田村麻呂が私宅を解体して草創した寺である。
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   ※玉蘂の記事: 3月22日、内裏の築造始め。まず仮屋で勧盃の儀があり、その後に大工らが殿舎で作業始め
を行った。(玉蘂は九条兼実の孫九条道家の日記。蘂は花のオシベ・メシベ、祖父の日記「玉葉」に因む命名である。)
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   ※百錬抄: 3月26日、亥刻(22時前後)、清水寺の本堂および塔と釈迦堂が焼失した。原因は放火、観音堂は
被害を免れた。霊験は他と異なる名刹である。
(百錬抄は公家の日記や記録累を編集した歴史書。成立は鎌倉時代末期、編著者は不詳。)
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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4月複数日
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史 料
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   ※百錬抄: 4月13日、丑刻(深夜2時前後)に祇園社(八坂神社(wiki)を差す)が焼亡した。御殿と東面廊・
南大門・薬師堂など全てが灰燼に帰した。
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   ※玉蘂: 寅刻(4時前後)の頃に祇園の一帯が焼亡した。被害が続くのは稀代の事で、延久(1069~1073)
や久安(1145~1150)の頃以来である。八坂神社も共に焼亡した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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5月7日
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吾妻鏡
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先月27日の未刻(14時前後)に御門町で出火し大内裏の陽明門・左近府・上東門左脇・斎院御所などが焼失した。また同月の13日は祇園社が焼失した。この件に関する有範(詳細不明)の専使による報告である。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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5月16日
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吾妻鏡

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二品禅尼(政子)の願いとして千日講を催して今日が結願、これは故右府(実朝)の追善法要である。
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   ※千日講: 千日間、法華経を読み合わせし講話と解説を論ずる法会。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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5月20日
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吾妻鏡
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史 料
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右京兆北條義時・相模守北條時房・前武蔵守足利義氏が大官令禅門(大江廣元)邸で小弓の会を楽しんだ。
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   ※前武蔵守: 現職は北條泰時、前任者は大江(源)親廣だが前年2月に京都守護として赴任した関係で前々任
足利義氏と記載した。義氏がこの会合に加わる必然性は乏しいので泰時と考えるべきと思うが、12月1日の条には「足利武蔵前司義氏」との記載がある。考え過ぎらしいね。
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   ※玉蘂の記事: 5月24日、延暦寺で千僧御読経、彗星出現の対応である。行事は左中弁資経朝臣の差配。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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6月10日
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吾妻鏡
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左大臣九条道家の使者が鎌倉に入り、次の通りに伝えた。
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去年12月の彗星出現に対応して朝廷では祈祷を行った。
先月24日に延暦寺の根本中堂に於いての千僧御読経(薬師経)には東塔から500人・西塔から300人・横川から200人の僧が集まってこれを奉仕した。しかし関東の司天(天文担当)は彗星が見えなかったと言っているのは疑義が無きにしも非ず、どんな理由で若宮(鶴岡八幡宮)での祈祷をしなかったのか。
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   ※九条道家: 次期将軍として鎌倉に下向した三寅(後の四代将軍藤原頼経)の父であり、鎌倉と朝廷が提携する
立場の最高権力者。これは明らかに抗議の意味を込めた申し入れだろう。そもそも京都で見えた北天の彗星が鎌倉では見えなかったなど、有り得ない。
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ただし、三寅は散々交渉し苦労の末に迎えた次期将軍となる貴族の幼児だから、取り敢えず凶兆(彗星出現)は公表したくない、そんな意識を司天を含めた幕閣が忖度した可能性はある。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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6月12日
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吾妻鏡
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去年の彗星出現について祈祷を行うべきか否か、「関東では見えなかったのだから必要ない」と司天の者は主張している。左大臣九条道家の申し入れについては入道前大膳大夫(大江廣元)が決裁を下し、今日鶴岡八幡宮に於いて一日中三部大般若経の転読を行った。導師は別当法印の定豪。左衛門尉伊賀光宗がこれを差配した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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7月1日
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百錬抄
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祇園神殿(現在の八坂神社・公式サイト)と廻廊・大門などが上棟、貴賤の見物が群を成した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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7月30日
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吾妻鏡
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昨日の夜半から雨、辰刻(8時前後)から風雨が激しくなった。鎌倉中の人家が倒壊あるいは洪水で流出し、川沿いに住んでいた多くの人が死没した。近年には起きていなかった惨状である。
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   ※激しい風雨: 建保七年7月30日は太陽暦の9月10日に該当、台風の可能性が高い。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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8月6日
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吾妻鏡
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終日降雨が続いた。子刻(深夜0時前後)に中将一条實雅朝臣の室(右京兆北條義時の娘)が男子を平産した。
祈祷の担当は大進僧都寛喜、医師は頼経。陰陽師は権助安倍親職ら4人が百ヶ日の泰山府君祭を行っており、今夜が96日目に当たる。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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9月25日
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吾妻鏡
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西の強風あり。酉刻(18時前後)に大野右近入道・工藤八郎左衛門尉らの家が失火により焼失、右京兆北條義時邸は辛うじて延焼を免れた。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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10月11日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に町(小町か)の辺りで火災、南北二町(200m)余が被災した。相模次郎入道行念(北條時村と大夫尉大内惟信(大内惟義の嫡男)らの家がその中に含まれる。
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   ※町=小町: 出典の記憶はないのだが、大内惟信の家は確か義時小町邸(宝戒寺)の南にあった筈。
   ※相模次郎: 北條時房の次男時村を差す。1月14日に弟の資時と共に突然出家して行念を名乗っている。
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   ※百錬抄の記事: 10月18日、大内裏の殿舎と門廊などの立柱と上棟式あり。権大納言通具卿(wiki)・参議の
公頼卿・右中弁頼資朝臣・右少弁光俊已らが立ち会った。(前年7月の源頼茂事件の復旧か)
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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11月21日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に雷鳴が数回あり。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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11月23日
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吾妻鏡
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若君(三寅、後の四代将軍藤原頼経)の着袴の儀(男児5歳の儀式、民間の七五三に該当)を催すため日取りについての勘文(朝廷の諮問に応じた上申)および使用する道具類が京都から届いた。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月1日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)、大倉御所の南面(公式の場)に御簾を下げて若君着袴の儀があり、武蔵守北條泰時・武蔵前司 足利義氏・駿河守三浦義村・左衛門尉小山朝政・千葉介胤綱(五代当主成胤の嫡子で六代当主)・小山朝政らが小侍(の間)に着した。次いで中将藤原實雅朝臣(束帯)・右京兆北條義時(布衣)・相模守北條時房(布衣)らが東面の弘廂(広いひさし)に控えた。
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定刻を迎えて左衛門尉後藤基綱(後藤基清の嫡男)が広い蓋の箱に収めた着袴の装束を持って前に進み、義時が袴の紐を結んだ。二品(政子)が若君を補助し、次いで兵具の献上が行われた。剣は北條泰時、弓箭は前武州足利義氏、刀は三浦義村、兜(鎧を収めた唐櫃の蓋に載せる)は結城朝光長沼宗政がこれを運んだ。
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馬は三疋、一匹目(銀鞍・絲鞦)は小山朝政結城朝光中条家長が引き、二匹目(鞍は同上)は三浦泰村と同三浦光村が、三匹目(裸)は波多野経朝と同朝貞がこれを引いた。
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西暦1220年年
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84代 順徳
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建保七年
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12月2日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に地震あり。同じ頃に永福寺内の僧坊三棟が焼失した。
今日、左衛門尉小山朝政を使節として上洛の途に就いた。着袴の儀が無事に済んだ旨の報告である。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月4日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に火災、民部大夫二階堂行盛(二階堂行光の嫡男)と左衛門尉内藤盛家 らの家が焼失した。去年から今年には鎌倉中で火事が続き、遅かれ早かれ被害を受けて逃げる場所がない、これは普通の事態ではない。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月15日
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吾妻鏡
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大慈寺での舎利会(仏舎利を供養する法会)は通例の通り。二品(政子)並びに京兆北條義時が参堂した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月20日
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吾妻鏡
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大内惟信 の使者が鎌倉に着いて次の通り報告した。
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去る8日に大内裏の殿舎の建立が始まった。上卿の源大納言通具・参議公頼・右中弁頼資・右少弁光俊らが立ち会い、大夫史国宗・六位史・検非違使章重らがこれを差配した。これは(前年7月の)頼茂朝臣を追討する際に焼失した建物を新築する作業である。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月27日
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吾妻鏡
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(12月2日に京都に向かった)左衛門尉小山朝政が京都から帰着した。
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西暦1220年
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84代 順徳
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建保七年
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12月29日
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吾妻鏡
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快晴で静かな夜だが、この三ヶ月は地を潤すほどの降雨がなく、また雪も降っていない。
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久二年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1220年
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84代 順徳
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承久二年
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吾妻鏡
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