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承久三年(1221)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月10日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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終日強風。夕暮れになって突然に雷鳴と降雨があった。
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   ※年令: 北條義時は57歳・政子は64歳・北條時房は46歳・北條泰時は37歳・大江廣元(入道覺阿)は72歳 ・
後鳥羽上皇は40歳・順徳天皇は23歳・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は3歳11ヶ月(全て満年令)。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月11日
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吾妻鏡
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少々の降雪あり。昨年の暮からを通じて初めての雪である。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月22日
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吾妻鏡
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去る10日の雷鳴の変異に対応して祈祷を催した。天地災変祭は安倍泰貞、三万六千神祭は安倍晴吉、属星祭は安倍親職、泰山府君祭は安倍宣賢、天冑地府祭は安倍重宗。また鶴岡八幡宮で供僧の大般若経転読を行った。
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   ※祈祷: いずれも陰陽道による祭紀で、もちろん迷信。祈祷・予兆・予言なんて心の隙間を狙う嘘に過ぎない 。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月25日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に町大路の東で失火し大夫屬入道三善善信の家が焼失。重要な書類と書籍および問註記(阻止用関連の書類)などを失った。
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   ※町大路の東: 町大路は下の下馬橋〜大町〜名越に向かう道。
承元二年(1208)1月16日には「問柱所入道三善康信の名越邸が焼けた」との記事があり、大町と名越の境界付近だったと推定できる。
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名越の範囲はかなり広くて北側は現在の大町3丁目から6丁目、東側は小坪7丁目、南側は材木座4丁目(弁ヶ谷・推定千葉常胤邸と北條時政の名越邸があった)も含まれていた。
新編鎌倉志(光圀の指示で編纂された17世紀末の地誌)には大町の安養院(サイト内リンク・別窓)を「名越の入口」と表示している。
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   右画像は名越地区の地図(クリック→ 拡大表示)。 資料を付け合せながら位置を推定するのって結構楽しい。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月27日
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吾妻鏡
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今朝、二品(二位・政子)の沙汰により、法華堂に於いて故右大臣(実朝)三回忌の追善法要を修した。
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導師は荘厳房律師行勇、百人の僧を伴っている。布施は口別(1人当り)に上絹一疋・被物一重・准布十端、導師には上絹百疋・被物二十重(色々)・砂金五十両・鞍馬三疋、加えて太刀一腰。伊豫中将一条實雅これらを配った。
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法会には右京兆北條義時・相模守北條時房を始め多くの人々が参列した。次いで施行(施し)として乞食千人に(1人当り)十疋(20反)、また犯科者三十人ほどに恩赦を与えた。秋田城介安達景盛入道と隠岐守二階堂行村入道が今日の奉行である。
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   ※法華堂: 頼朝法華堂(現在の白旗神社・頼朝の墓・サイト内リンク、別窓)を参照)を差す。吾妻鏡には実朝の
法華堂に関する記載がなく、「遺骸は(遺髪と共に)勝長寿院の傍らに埋葬」とだけ書いている。
鎌倉で法華堂と言えば頼朝の法華堂、家臣である義時の法華堂は結構立派だったらしいけどね。(義時法華堂とやぐら(サイト内リンク、別窓)を参照されたし)。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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1月29日
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吾妻鏡
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午刻(12時前後)に地震あり。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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2月26日
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吾妻鏡
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民部大夫町野康俊が使節として上洛の途に就いた。
これは去る10日の夜半に七條院の三條御所が放火で焼失したとの情報が届き、放火犯の探索に尽力せよとの指示を(京都守護職の)源親廣入道伊賀光季に伝えるためである。
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   ※七條院: 高倉天皇妃で後鳥羽天皇の生母、坊門信清の同母姉。承久の乱では実子の後鳥羽院と4人の孫
(土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王)が流刑となり、失意の晩年を迎えることになる。
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   ※百錬抄の記事: 2月10日、今夜子刻(0時前後)に三條烏丸の七條院御所が焼亡した。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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2月28日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に突然の曇天と雷鳴あり。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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3月22日
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吾妻鏡
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波多野次郎朝定が二品(政子)の使いとして伊勢大神宮に向けて出発した。今暁に二品の夢に二丈(20尺・約6m)ほどの鏡が現れて由比ヶ浜に浮かび、声が響いた。「私は伊勢神宮の神である。現在の天下を眺めると戦乱が近いと思われるから熟慮して備えよ。(夢の中で)泰時は「自分を重用すれば太平を得る」と言った。」、と。
二品は更に信仰心を深め、伊勢神宮神官の外孫である波多野朝定を使節に選んだ。
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   ※泰時は云々: 原文は「泰時吾〔於〕瑩〔者〕太平〔於〕得〔牟〕者」、何だこりゃ、って言いたくなるね。
波多野次郎朝定も、どの系図を捜しても見付からず、素性が不明なのも不愉快だ。
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西暦1221年
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84代 順徳

85代 仲哀
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承久三年
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4月17日
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吾妻鏡
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波多野朝定が伊勢神宮から帰着し二品(政子)の願書は祭主神祇大副の隆宗朝臣に届けた旨を報告した。
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   ※承久記の記述: 4月17日、勅命の趣は趣は「4月28日に城南寺(wiki)で仏事を催す。警備のために
甲冑を着して参上せよ」との内容である。
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4月20日、今日(第84代順徳天皇の)御譲位あり。申刻(16時前後)、内大臣以下が天皇の大炊殿に参上した。皇太子(懐成・仲恭天皇・2歳7ヶ月)を閑院(里内裏、転じて帝位)とする。劔璽を渡され新摂政 (九条道家(wiki)以下の諸卿はこれに従った。
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   ※承久記の記述: 4月28日、一千騎が高陽院殿に集結した。
上皇(後鳥羽)・中院(土御門)・新院(順徳)・六條宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)が集まり諸国の兵を四方の門に配して警護させた。
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   ※高陽院殿: 元は第50代桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅で、治安
元年(1021)に摂政の藤原頼通が敷地を広げ寝殿造りの建物を造営、第70代後冷泉天皇の里内裏となった。
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平安時代後期からは後鳥羽上皇の御所として250m四方の規模を持ち、院政の拠点として承久の乱計画の立案が行われた。
貞応二年(1223)に放火で焼失しその後は再建されなかった。現在の堀川丸太町近く(地図)に跡地の案内表示がある。 右画像は高陽院殿の復元図面(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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4月29日
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吾妻鏡
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京都の使者が大官令禅門(大江廣元)の許に到着、去る20日に突然の譲位(四歳の仲恭天皇へ)があった、と。
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   ※突然の譲位: 簡単に書くと、第82代天皇だった後鳥羽上皇は倒幕の主導者、第83代の土御門天皇は穏便な
性格が後鳥羽に疎まれて退位させられ、第84代順徳天皇は倒幕賛成派で自由な立場で計画に関与するため退位を選んだ。乱の終結までの短期間は上皇が三人併存したことになる。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月1日
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吾妻鏡
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雷鳴がとどろき、雹(ひょう)が降った。
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   ※百錬抄の記述: 4月2日、三社(伊勢神宮石清水八幡宮、賀茂神社(上賀茂神社下鴨神社)に奉幣使を
派遣した。宣命(和文体で書いた勅命書。漢文体の場合は詔勅)の形式が不審である。
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4月8日、夜になって洛中が騒がしく落ち着かない。重大な決裁があったようだ。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月15日
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史 料
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   ※百錬抄の記述: 5月15日、未刻(14時前後)に院から官兵を送り大夫尉伊賀光季を追討した。
これは勅命に背いて天下の政道を乱している陸奥守北條義時朝臣を追討すべきとの結論に達し、まず彼の縁者である光季を誅したものである。
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光季の邸は高辻北・京極西角(この辺?)にあり、午刻(正午前後)に合戦した末に宿館に放火して自害した。炎は数町を焼き、天下は騒然とした。土御門院・新院・宮々は同時に高陽院殿に渡御され、義時朝臣追討の宣旨は全国五畿七道に下された。
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   ※承久記の記述: 去程に、能登守藤原秀康は御所で合戦の次第を報告、十善の君(帝、この場合は後鳥羽)も
御尋ねになった。秀康は「1000騎の討手と光季の手勢31騎が未の始(13時頃)から申の終(15時頃)にまで戦って味方は35騎が討たれ手負いは無数、敵は恥を知る郎党が少々討たれ、光季父子は自害にて果てました。」と奏上した。
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暫くして右大将西園寺公経と子息の中納言實氏を拘禁した。これは関東に内通している疑惑に基づいている。この間に伊賀判官(光季)の下人が(主人の命令を受けて)15日の戌刻(20時前後)に京都を脱出し、報告のため鎌倉を目指した。
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一方で京都では(院に味方した)検非違使の平判官(三浦胤義)が宿所に帰って兄の義村に勧誘の書状を書き、秀康が宣旨を受けて按察中納言葉室光親卿の書き下した(義時追討の)院宣を添えて院の下僕押松に渡し、押松は16日寅刻(早暁4時)に義村邸を目指した。
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宣旨の内容は次の通り。
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故右大臣(実朝)薨去の後、鎌倉の御家人らは偏に聖断(朝廷の判断)を求めた。この時北條義時朝臣は「三代将軍 の遺跡を管領する人物が不在であると称して申請してきたため摂政の子息を(次期将軍)として下向させた。しかしまだ幼くて実務には就けず、義時朝臣権を朝威を借りて思いのままに政治を専有している。従って義時朝臣の支配を停止し併せて朝廷の判断に委ねるべきである。この決定に従わず更に反逆に与する者は命を落とす結果となり、命令に従って勲功を挙げた者には褒賞を与える。
                          承久三年 5月15日  按察使光親奉る
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月15日
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史 料
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官宣旨案 (小松美一郎氏所蔵文書)
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右弁官から、五幾内諸国(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・太宰府)に下す。
早く陸奥守平義時朝臣の身を追討せしめ院の廰に参り諸国庄園守護人・地頭等の裁断を蒙るべき事。
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右、内大臣宣べ、勅を奉る。近合関東の成敗と称し、天下の政務を乱す。纔に将軍の名を帯すと雖も、猶以て幼稚の齢に在り、然る間彼の義時朝臣偏に仮言の詞を教命し、恣に都鄙に於いて裁断を致す。剰え己の威を燿かすこと皇憲を忘るる如し。政道を論ずるに謀反と謂うべし。
早く五幾七道の諸国に下知し彼の朝臣を追討せしめ、兼ねてまた諸国庄園守護人・地頭等、言上を経るべきの旨有らば、各々院の廰に参り、宜しく上奏を経て状の聴断に随うべし。国宰並びに領家等に仰せ、事を綸意に寄せ、更に濫行を致すこと勿れ。縡これ厳密なり。違越せざりてえり。諸国承知し宣に依ってこれを行え。
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            承久三年五月十五日   大史三善朝臣        大弁藤原朝臣
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月18日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に太白星(金星)が螢惑星(火星)の軌道二尺を犯した。
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   ※太白星: 建保二年(1214)5月15日にも月が太白星の機動を犯した」との記載があった。火星は初出か。
金星は吉凶ともに関係するらしい。本来は吉兆だが昼間現れると凶兆だとか...馬鹿々しいけど。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月19日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)、大夫尉伊賀光季が去る15日に派遣した飛脚が関東に着いて次の通り報告した。
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京都では官軍が院に集結し、前民部少輔源親廣入道は昨日勅喚に応じて加わりました。
(主人の)伊賀光季は右幕下(西園寺公経)からの連絡を受けて勅喚を拒み、勅勘を蒙る形勢があります。
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続いて未刻(14時前後)、右大将家(公経)の家司主税頭長衡が15日に派遣した飛脚が着いて次の通り報告した。
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昨日(14日)、幕下(公経)と黄門(嫡子の實氏)が二位法印尊長によって弓場殿(4月17日の画像参照)に拘禁、15日午刻(正午前後)には官軍を派遣して伊賀廷尉(光季)を誅殺した。また按察使 葉室光親卿に命じて右京兆(北條義時)追討の宣旨を五幾七道に下した。
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右画像は国宝 後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵) 隠岐配流直前に描かせた、と伝わる。
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関東の武士に宛てた宣旨の使者も今日同じく到着したとの情報から、葛西谷(宝戒寺南の谷津・地図)の山里殿の付近から藤原秀康の従卒押松丸を捕獲。宣旨と大監物源光行の添状および院方に加わった御家人の名簿などを没収し、二品亭(政子邸・御堂御所と称す)で公開した。
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また同時に廷尉三浦胤義(義村の弟)の私信が駿河前司三浦義村の許に届いた。「勅定に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。その勲功に応じる恩賞は望み通りに与える。」との内容である。義村は返事をせずに使者を追い返し、その書状を携えて右京兆の許を訪れ「私は弟の叛逆に同心せず、鎌倉方に味方して忠義を尽くす。」と語った。
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その後に陰陽道の安倍親職・泰貞・宣賢・晴吉らを呼び、午刻(最初の飛脚が着いた正午前後)を占わせ、一致して「関東は太平」との結論を得た。相模守北條時房・武蔵守北條泰時・前大官令禅門 大江廣元・前武蔵守足利義氏らが集結、二品(尼御台所政子)は御家人らを簾の下に招き秋田城介安達景盛を介して語りかけた。
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全員が心を一つにして聞くように。これは今回の事件について最期の言葉である
故右大将軍(頼朝)が朝敵(平氏)を討伐し関東に幕府を草創してから、官位に関しても俸禄に関しても、受けた恩は既に山岳よりも高く海よりも深い。その恩に報いようとする志が浅かろう筈はないのに、逆臣の讒言によって理屈のない綸旨が発せられた。名を惜しむ御家人は早く秀康や胤義を討ち取って三代続いた将軍が築き挙げた幕府を守護せよ。ただし、院方に参加したい者は直ちに申し出るが良い。
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群参した御家人の全てがこの言葉に応じ、かつ涙を流して命を惜しまず重恩に報いようと誓った。「国の危機にこそ忠臣が現れる」と言われる通りである。そもそも御家人が朝廷の意向に背いた発端は、後鳥羽上皇が寵姫亀菊の願いを容れ、「摂津国の長江庄と倉橋庄の地頭職を廃止せよ」との院宣を二度も下したのに右京兆(義時)は承諾せず、「これは幕下将軍(頼朝)の時代に挙げた勲功により補任された者は、特に顕著な過怠がない限り更迭しない。」と拒んで上皇の怒りを受けたものである。
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夕暮れの頃、右京兆義時邸で相模守北條時房・武蔵守北條泰時・前大官令禅門(大江廣元)・駿河前司三浦義村・秋田城介安達景盛入道ら評議を続けた。意見は様々、足柄と箱根の関を固めて迎え討つべきとの考えもあった。
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大官令覺阿(大江廣元)は「この考えは一応は尤もであるが、東国の御家人が一致団結しても長期間の防衛が続けば敗北を招いてしまう。運命を天に委ねて直ちに京都を目指して軍兵を派遣すべきである。と主張した。
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右京兆(義時)はこの両論を御堂御所の二品(政子)に言上、「上洛しなければ官軍を敗るのは困難だろう。安保刑部丞實光ら武蔵国の御家人の集結を待って速やかに京都を目指すべきである。」との答を得た。言葉に従って今日遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの諸国へ派遣する飛脚に義時の命令書を持たせて派遣した。一族を率いて参陣せよと、それぞれの家長に命じる内容である。
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京都の官兵が東国を攻めるとの情報があり、相模守・武蔵守が軍勢を率いて上洛の途に就き、式部丞北條朝時が北陸道の大将として出陣する。この旨を一族の人々に周知させ、軍勢に加わるように、と。
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   ※尊長: 一条能保の四男で後鳥羽上皇の近臣。承久の乱に破れて逐電し嘉禄三年(1227)に京で捕縛された
が自殺を図って重体となり「さっさと首を斬れ、さもなくば義時の妻(伊賀の方)が義時に飲ませた毒薬で自分も殺せ」と叫んだと伝わる。ただし、その内容の真否は疑われている。
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   ※御堂御所: 最晩年の政子は勝長寿院(南御堂、大御堂)の一角に住居を構え、嘉禄元年(1225)7月11日に
死去。翌12日の吾妻鏡は「戌刻(20時前後)に御堂御所の地で火葬した。」と書いている。ただし7月8日には「二品は(危篤状態のため)東御所に渡御。」と書いており、東御所と御堂御所の厳密な特定ができないのは辛い。
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   ※亀菊の願い: 建保七年(1219)3月9日の吾妻鏡を参照。
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   ※政子の演説: 承久記や六代勝事記など多くが「心に響く大演説」と賞賛しているが、安達景盛が伝えた言葉を
「政子が御家人を説得」したと言い換えるのは異議あり、だ。それに、東国武士団が皇室の権威を恐れて出兵を躊躇したとは考えにくい。天皇や上皇に反抗して幽閉するのは清盛の時代に実施済みで、勅命に従って既得権を失うか・朝廷と戦って領地を守るか、二者択一を迫られたら結論は決まっている。後鳥羽上皇は明らかに、東国武士の価値観が変化した事を読み誤った。
政子の演説の有無に関係なく挙兵は決まっていた、と思う。
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   ※御家人感動: 承久記だったかも知れないが、朝廷に兵を向けるのを躊躇う足利義氏・千葉胤綱・宇都宮泰綱
ら幕府中枢の御家人を大演説で説き伏せた政子が黄金造りの太刀を与える場面があった。
足利義氏に与えたその一振りこそが頼朝が遺した源氏の重宝「鬚切」で、足利家の家宝として今も古刹鑁阿寺(サイト内リンク・別窓)に保存されている、なんて噂まである。これが本当なら実に面白いんだけどねぇ。トレジャー・ハンターっぽい話だし。
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西暦1221年
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84代 仲恭
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承久三年
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5月20日
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吾妻鏡
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関東の平穏のため特に懇切な祈祷を行うよう荘厳房律師および鶴岡別当法印定豪らに申し付けた。
また民部大夫三善康俊と左衛門尉清原清定の差配により三万六千神祭を催す予定である。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月21日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)、去る16日に京都を出た一条大夫頼氏が鎌倉に着き、二品(尼将軍政子)邸に入った。宰相中将(一条信能)ら一族の多くが院に与した中で、鎌倉との好誼を忘れなかった人物である。二品は喜びつつ京都の情勢を尋ね、頼氏はそれに応じて詳細を報告した。
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先月からの洛中は落ち着かない状態が続き人々の不安が鎮まらなかった。14日の夜に後鳥羽院源親廣入道を仙堂に呼び、更に右幕下(西園寺公経と中納言實氏)の父子を拘禁した。15日の朝には概ね1700余騎の官軍を招集して高陽院殿の門々を警衛させ、内蔵頭清範がこれに加わった。
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次に藤原範茂卿を御使として新しく上皇となった順徳院を呼び迎えられた。続いて土御門院と六條の宮と冷泉の宮が各々密かに高陽院殿に入御された。
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同日に大夫尉大内惟信・山城守佐々木廣綱と高重(経高の長男)・廷尉三浦胤義らが勅定を受け、800余騎の官軍を率いて伊賀光季の高辻京極邸を襲撃。突然だったため光季と息子の寿王冠者と光綱は自害して宿舎に火を放った。南風が烈しく吹き、炎は数十町先の姉小路東洞院までを焼き払った。
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申刻(16時前後)に新帝(仲恭天皇)が摂政九条道家を従え徒歩で高陽院殿に行幸、近衛府の将軍二名と公卿少数が賢所(神鏡)を奉じて同行した。これは同じ頃に六角西洞院から広がった火災が閑院皇居(里内裏)まで延焼する気配を見せたための避難である。また高陽院殿に於いて祈祷を催し、仁和寺宮道助並びに良快僧正らがこの業務に任じ、寝殿御所を祈祷の壇所とした。
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今日、天下の重大事態について重ねて評議した。本領から離れて官軍との合戦に上洛する是非についての異議が出たためである。前大膳大夫入道大江廣元は次の通り主張を展開した。
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上洛が決定したにも拘らず日が過ぎると共に異論が出される。ただ待っている間には武蔵国の御家人の中にも変心する者が現れるかも知れない。今夜中に武蔵守 北條泰時が例え単騎であっても出陣すれば東国の御家人は龍が雲に従うように続くだろう。
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京兆(北條義時)はこの言葉に心を打たれた。更に二品(尼将軍政子)は病床にあった宿老の大夫屬入道三善康信を呼んで意見を求め、善信は次の通りに答えた。
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関東の安否はこの瞬間の決断に懸かっており、論議を巡らしても何の益にもならない。軍兵を京都に送る冪なのは今であり、いたずらに日数を費やすのは過怠である。大将軍は単騎であっても出陣すべきである。
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京兆(北條義時)は「議論は決した、直ちに出陣せよ」と泰時に命じた。これに従って武蔵守北條泰時は今夜出発し、左衛門尉藤澤清近の稲瀬河宅に宿泊した。
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   ※稲瀬河: 現在の江ノ電長谷駅近く(地図)。治承四年(1180)
10月には頼朝に合流するため伊豆山から鎌倉に向かった政子は吉日を選ぶため稲瀬河で一泊した。また寿永三年(1183)8月に頼朝は稲瀬河に桟敷を設けて平家追討に出陣する大軍を見送っている。
ここが鎌倉と外界を分ける狭義の境界だった(更に広義には極楽寺の一帯、更に広げると腰越が境界となる)。
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右画像は稲瀬河沿いに建つ石碑(画像をクリック→石碑から極楽寺坂方面の遠景へ)。鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(1333)5月18日には新田勢の大館宗氏と北條勢の本間山城左衛門が血で血を洗う壮絶な死闘を演じている。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月22日
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吾妻鏡
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卯刻(6時前後)に武蔵守北條泰時が京都を目指して出発した。従う兵は18騎、子息の武蔵太郎北條時氏、弟の陸奥六郎有時、また北條五郎時房(尾藤左近将監(平出彌三郎と綿貫次郎三郎が従う)、関判官代、平三郎兵衛尉、南條七郎、安東籐内左衛門尉、伊具太郎、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎、葛山小次郎、勅使河原小次郎、横溝五郎、安藤左近将監、塩河中務丞、内嶋三郎である。
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京兆(北條義時)は彼らを招いて武具を贈った。その後に相州時房・前武州足利義氏・駿河前司三浦義村・同次郎三浦泰村らが(東海道へ)出発、式部丞北條朝時は北陸路の大将軍 として出発した。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月23日
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吾妻鏡
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右京兆北條義時・前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)・駿河入道行阿(中原季時)・大夫屬入道三善善信・隠岐入道行西(二階堂行村)・壱岐入道(葛西清重)・筑後入道(八田知家)・民部大夫二階堂行盛(行光の子、政所執事)・加藤大夫判官入道覺蓮(加藤景廉)・左衛門尉小山朝政・入道蓮生宇都宮頼綱・隠岐左衛門入道行阿(二階堂基行・行村の子で表情衆)・善隼人入道善清(三善康清)・大井入道(大井實春だと思う)・右衛門尉中條家長らの宿老は上洛に加わらず、鎌倉に留まって祈祷や後方支援などに任じる。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月25日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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去る22日から今朝までに名のある御家人は全て上洛の途に就き、京兆(北條義時)が名簿に記録した。
各々が東海路・東山路・北陸路の三道に分かれ京都を目指せと命じてある。総勢十九万騎である。
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東海道の大将軍は相模守北條時房(十万余騎)、従うのは武蔵守北條泰時、同太郎時氏、武蔵前司足利義氏
   駿河前司三浦義村、千葉介胤綱 (成胤の嫡子で六代当主)
東山道の大将軍は武田五郎信光(五万余騎)、従うのは小笠原次郎長清、小山左衛門尉朝長(朝政の嫡男)、
   結城左衛門尉朝光
北陸道の大将軍は式部丞北條朝時(四万余騎)、従うのは結城七郎朝廣(朝光の嫡男)、佐々木太郎信實
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今日の黄昏に武蔵守北條泰時は駿河国に入った。ここで先日義時の命令に背いて駿河に蟄居していた安東兵衛尉忠家が武州泰時の上洛を知り、騎馬で駆け付けてきた。泰時は「主人の勘気を受けた者である、同道は好ましくない」と拒んだが忠家は「それは承知の上、命を捨てるため軍勢に加わるのだから、鎌倉に知られても構いません」と答えて軍勢に加わった。
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   ※十九万騎: 軍記物語が描く軍勢の実数を推定する論拠を読んだ
記憶がある。例えば、その時代の武蔵国の穀物生産量を根拠に動員できる戦闘参加可能者を割り出す計算式で、明細は忘れたが結構面白かった。要するに、表示の10%〜30%の範囲内。そんなもんだろうと思うよ。  右画像は軍団別の進軍ルートの概略図(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月26日
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吾妻鏡
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世の中が無事に過ぎるための祈祷が始められ、鶴岡八幡宮では仁王百講(関東では初めての例)が催された。講師は安楽坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修。招いた僧百人は八幡宮寺宮および勝長寿院と永福寺と大慈寺の供僧である。また若君(五寅、後の四代将軍藤原頼経)のための属星祭と、右京兆北條義時による百日の天冑地府祭が始められた。民部大夫町野康俊および清原清定がこれを差配した。
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武州(北條泰時)は手越の驛(安倍川西岸)に到着。春日刑部三郎貞幸(信濃の名族滋野氏の傍流)が信濃国から参陣した。武田信光・小笠原長清軍に合流する命令だったが、約束があると称して泰時軍に加わった、と。
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夜になり、去る19日に墨俣を固めている官軍の藤原秀澄が飛脚を京に送り報告。鎌倉軍は官軍を破るため既に上洛の途上にあり、その数は膨大で神仏の加護がなければ防げない、と。朝廷は徐々に混乱を深め、三人の上皇は五社に祈願を命じるべきかと検討した。
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   ※仁王百講: 仁王経は仏教における国王のあり方について述べた経典。百回唱えるのが百講。
   ※属星祭: 十二支に従って北斗七星の一つを本命属星とし、その星に寿命延長と招福を祈祷する。
   ※天冑地府祭: 十二座の神に供物を捧げて無病息災と延命長寿を祈祷する。陰陽道での最も重要な儀式。
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   ※手越の驛: 現在の静岡市の安倍川西岸・地図)。この時期の東海道は焼津を経て大井川下流に向かう旧い
ルートと、丸子宿を経て宇津ノ谷峠を越える新しいルートが併存していた。北條時房軍がどちらを選んだかは判らないが、宇津ノ谷峠に関する詳細は峠のレポート(サイト内リンク・別窓)で。
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   ※春日貞幸: 6月14日の宇治川渡河作戦を強行した眞木嶋の中洲で奮戦した記録が残っている。
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   ※墨俣: 木曽三川(西から揖斐川・長良川(墨俣川)・木曽川)が4〜8km間隔で南北に流れる東海道の要所。
治承五年(1181)には頼朝の叔父新宮行家と異母弟義円の連合軍が重衡率いる平家軍に惨敗し義円が戦死した墨俣川合戦(サイト内リンク・別窓)や、340年後の永禄九年(1566)に木下藤吉郎が一夜城を築いた事で知られる。ただし後者は伝承に過ぎないらしい。
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   ※藤原秀澄: 藤原北家流、秀郷の子孫を称する藤原秀宗の三男で兄弟三人とも院に仕えた。長兄秀康は下野・
河内・備前・能登の国司を歴任している。三浦胤義を計画に引き込んだのが長兄の秀康で、乱の終結後に出家して罪を減じられ後鳥羽上皇に従って隠岐に同行したのが次兄秀能。末弟の秀澄は大将軍として墨俣に布陣していた。
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軍陣に加わっていた山田重忠は「兵を集結させ尾張国府を急襲して突破し手薄になっている鎌倉を攻めるべし」と進言したが、既に臆病風に吹かれていた秀澄は決断できず、惨敗して京に逃げ帰った。武士の面目を重んじた山田重忠は手勢の300騎で児玉党の3000騎を迎撃、杭瀬川で散々に戦って100騎ほどを討ち取った後に京に退いた。
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後に鎌倉軍が入京した際に山田重忠は最後の一戦を交えようと御所に駆けつけたが後鳥羽上皇は門を閉ざして答えず、重忠は「臆病者に騙された」と口惜しがった、と伝わる。
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   ※山田重忠: 清和源氏満政流の末裔で出自は尾張。父重満は治承五年(1181)4月の墨俣川合戦で行家軍に
加わり戦死している。鎌倉幕府創設後は御家人に列し、本領の尾張国山田荘(瀬戸市周辺)地頭職を得た。一族は代々朝廷との関わりが強く、上皇挙兵と同時に参戦した。
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   ※杭瀬川: 美濃国府跡の5km東、美濃国分寺跡から約3km東を南に流れて揖斐川に合流する。少し上流には
平治の乱の際に頼朝の異母兄朝長所縁の円興寺(サイト内リンク・別窓)があり、朝長の死を悲しんだ異母妹の夜叉御前(父は義朝、母は青墓長者大炊兼遠の娘延寿)が入水自殺した川でもある。
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吾妻鏡が実戦を記録しているのは6月6日で「踏み止まった山田重忠は暫く戦ってから退却、鏡右衛門尉久綱は「臆病秀康のため思った通りの合戦が出来なかった」と口惜しがって自刃した。」と書いている。380年後の慶長五年(1600)9月には関ヶ原合戦の前哨戦で西軍の島左近(清興)が奇襲作戦によって東軍を撃破(西軍唯一の勝利)している。地図はこちら
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   ※五社: 中心に位置するのが平安神宮、北の玄武を守る 上賀茂神社、西の白虎を守る松尾神社、東山々麓の
八坂神社、南の朱雀を守る 城南宮が五社(全て公式サイト)。現在も五社詣が人気を保っている。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月27日
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吾妻鏡
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勅使として鎌倉で捕らえていた押松丸に進士判官代隆邦が書き下した宣旨への返状を渡して釈放した。
今日、再度の祈祷を行った。如意寺の法印圓意・弁法印定豪・大蔵卿法橋良信・信濃法橋道禅がこれを行い、各々に供料を与えた。
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   ※宣旨に返状: 吾妻鏡は上請文の詳細を記録していない。承久記前田本(加賀前田家傍流のーつで徳川幕府
の大名となった尾張前田家に伝わる写本)にある27日着の義時上奏文と押松の報告は以下。
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私(義時)は将軍後見を務め皇位を軽んじた事はないにも関わらず尊長(一條能保の子で法勝寺執行)・三浦胤義の讒言による突然の宣旨で朝敵とするのは誠に不合理です。
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但し上皇は合戦を好み武勇を嗜まれる由、海道の大将に弟時房と嫡子泰時、副将軍に足利義氏三浦義村・千葉胤綱(六代当主)など19万8百余騎を派遣しました。東山道から5万余騎、北陸道から次男朝時が4万余騎で合戦を御覧に入れます。
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それでもなお不足であれば三男重時を先陣に、私が大将として馳せ参じます。老齢の古参御家人は鎌倉に残して関東勢の三分の一が急ぎ出発し、残りの三分の二は今日明日に出陣いたします。
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押松は6月1日酉の刻(18時前後)に高陽院殿の中庭に辿り着いた。上皇も公卿も「押松が何も言わぬのは疲れたのか、義時の首は誰が持参するのか」と口々に問いかけた。
暫くして押松は次のように報告、上皇も公卿もみな顔色を変え魂を失った。
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5月19日に片瀬河から鎌倉に入り三浦義村に見せたら拘束され、軍勢の出立後の27日早朝に追い出されました。義時の言葉は上奏文の通りですが本隊は21日に鎌倉を出陣し、後続を待って上洛を目指す様です。私は軍勢から5日遅れて鎌倉を出ましたが大変な事態なので夜も走って軍勢を追い越して参上しました。鎌倉勢は百万騎もいるでしょうか、既に近江に入っていると思います。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月28日
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吾妻鏡
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降雨の中、東海道を進んだ武州(北條泰時)の軍勢は遠江国の天龍河に到着。連日の雨で渡河に支障があるのを心配していたが意外にも水がなく、全員が徒歩で渡渉できた。
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   ※天龍河: 頼朝が最初に上洛した承久元年(1190)の帰路では、12月21日に池田の渡し(地図)で宿泊した
記録がある。今回の渡渉もこの近辺だろう。
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   ※防衛軍派遣: 鎌倉の大軍に怯えながらも対策は欠かせない。後鳥羽上皇は北面の武士・能登守藤原(足利)
秀康を総大将に防衛軍を派遣した。承久記に拠れば、東海道には藤原秀康の率いる7000騎・東山道には蜂屋入道父子率いる5000騎・北陸道には伊勢前司らの率いる7000騎が防衛拠点に派遣された。こちらは三道併せて総勢19,326騎と、端数まで省略せずに記述している。
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兵力で上回る敵と戦うには一点集中で雌雄を決するのが原則なのだが分散の愚策を冒し、この時点で敗北は決定的になった。まぁ身も蓋もない言い方をすれば、鎌倉が出兵を決めた時点で勝敗の帰趨は明らかだったけど、ね。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月29日
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吾妻鏡
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佐々木(加地)兵衛太郎信實兵衛尉盛綱法師の子)は北陸道の大将軍北條朝時に従って京都を目指した。
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今回の戦乱を起こした首魁の1人・阿波宰相中将信成卿の家人である深匂八郎家賢(腰瀧口季賢の後胤)が軍兵60余人を率いて越後国加地庄の願文山に立て籠っており、信實がこれを追討した。関東の御家人が官軍を打ち破った、これが最初である。
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今日、相模守北條時房と武蔵守北條泰時が大軍を率いて上洛を目指している事が上皇の耳に届き、院の中は身分の上下を問わず魂を消すような状態になった。
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   ※瀧口季賢: 八幡太郎義家の郎党として後三年記に記載がある。尊卑分脈(分脉)は梶原氏傍流(景時の甥?)
が酒匂川下流域に土着して酒匂氏を名乗り、子孫の一部が建久八年(1197)に大隅・薩摩守護に任じた島津忠久に従って九州に定着した、としている。
梶原氏の傍流なら越後平氏と接点を持ち加治庄願文山に立て籠っても不思議はないが、この時点で信実が領有していた加治庄で鎌倉勢に抵抗した意味が判らない。ちなみに、山頂の願文山神社は家賢と家臣を祭神として祀っている。これは昭和天皇即位の際に勤王の功勲を賞して家賢に正五位が遺贈された事を記念して建立されたもの。
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   ※加治庄願文山: 加治庄は新発田市中心部の加治川流域(地図)。願文山は約7km北、標高248m(地図)。
北陸道進軍ルートの北限だった越後国府から160kmも北にあるので少し詳しく調べてみた。佐々木信實はこの功績により加地庄の地頭に任命されているが、信實の父佐々木盛綱は既に加地氏を名乗っていた(尊卑分脈)。
盛綱は建仁元年(1201)に越後鳥坂(胎内市・加地庄の10km北)で城資盛の乱(女武者の坂額が捕虜となった建仁元年(1201)勃発)を鎮圧しており、この時点で加地庄を領有したのだろう。従って信實による家賢追討は私権の絡む行動だった可能性が高い。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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5月30日
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吾妻鏡
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相州時房は遠江国橋本の驛に到着、夜になり10数騎の武者が密かに相州の大軍に混じって先頭に進出した。
これを警戒して内田四郎に確認させたところ、軍勢に紛れ込んで仙洞(院の御所)に加わろうとした下総前司小野盛綱の近親筑井太郎高重の一党だったためこれを誅伏した。
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   ※橋本駅: 現在の湖西市新居町浜名の宿駅。東海道が浜名湖を越えた西側で、養和元年(1181)には守護職
安田義定が平家軍進出に備えて防衛施設を築いた要所。江戸時代には 新居関所(公式サイト)が設けられている。建久元年(1190)10月18日には上洛途上の頼朝主従が橋本の遊女を呼んで呑めや歌えの楽しい時を過ごしている。鎌倉では政子さんのチェックが厳しいからねぇ。
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   ※小野盛綱: 成綱の子で尾張守護。承久記に拠れば、5月15日の伊賀光季追討の官兵に加わっている。
内田四郎は遠江の住人で60余騎で筑井高重主従19騎を討ち取った。地元の資料では戦場は宮路山(地図)の麓だったらしい。
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   ※筑井高重:現在の三浦市津久井(地図)を領有した武士で三浦義明の弟・津久井義行の曾孫。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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(勅使の)押松が帰洛して仙堂(院の御所)に参上し関東の情勢について質問に答えた。「鎌倉に着いてから帰洛するまで 心身を痛める日々でした。官軍を倒すため上洛を目指す東国の武士は幾千万とも判りません。」と。院では上下を問わず全ての人が驚く以外になす術がなかった。
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   ※高陽院殿: 4月17日の記事を参照。発掘調査など詳細は京都埋蔵文化財研究所のサイトで。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月3日
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吾妻鏡
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関東の大将軍が遠江国府に入ったとの報告を飛脚が届けた。公卿らは会議を催して防戦のため官軍を各地に派遣し今暁にそれぞれが出陣した。
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北陸道は宮崎左衛門尉定範・糟屋右衛門尉有久・仁科次郎盛朝ら、
東山道大井戸の渡は大夫判官大内惟 信・筑後左衛門尉有長・糟屋四郎左衛門尉久季ら、
鵜沼の渡は美濃目代帯刀左衛門尉・神地蔵人入道ら、
池瀬は朝日判官代・関左衛門尉・土岐判官代・関田太郎ら、
摩免戸は能登守秀康・山城守廣経・下総前司盛綱・平判官三浦胤義・佐々木判官高重・鏡右衛門尉久綱・
      安藝宗内左衛門尉ら、
食渡は山田左衛門尉・臼井太郎入道、洲俣は河内判官秀澄・山田次郎重忠、
市脇は伊勢守加藤光員らである。
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   ※遠江国府: 現在の磐田市中心部の天竜川東岸。平安時代初期から
国府があり、鎌倉時代には国衙と守護所が置かれた。
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   ※防衛拠点: 大井戸渡は美濃加茂市太田本町、鵜沼渡は各務原市
鵜沼、池瀬は同・鵜沼大伊木、摩免戸は各務原市前渡東町、食渡は岐南町の下印食、市脇は羽島市市之枝。
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鎌倉軍本隊は6月5日に一宮で軍議を行っており、本陣は数km南の尾張国府(稲沢市松下)と考えて良い。
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木曽川から国府までは6kmほどだから、山田重忠が建策した国府奇襲作戦が官軍唯一の勝機だったかも知れない。 右画像は官軍の防衛拠点(クリック→拡大)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月5日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)、関東の両将(時房泰時)は尾張国一宮(現在の真清田神社・公式サイト)付近に到着。合戦の軍議を行い、ここから軍勢を分けて攻撃目標を定めた。
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鵜沼の渡は毛利蔵人大夫入道西阿(毛利季光)、池瀬は武蔵前司足利義氏、板橋は狩野介宗茂入道、摩免戸は武州泰時と駿河前司三浦義村ら数輩、洲俣は相州時房と城介入道安達景盛・豊嶋・足立・江戸・河越などの御家人が攻める手筈を整えた。
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夜になって東山道から進んできた武田五郎信光・同小五郎(信政)・小笠原次郎長清(父子8人)・小山新左衛門尉朝長(朝政の子)らが大井戸を渡って官軍と戦い、大将軍の大内惟信(惟義の嫡子)らは逃亡した。筑後有長と糟屋久季(有季の三男)は負傷、足利秀康佐々木廣綱三浦胤義らは防衛拠点を放棄して京都へ逃亡した。
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   ※足利秀康: 源姓足利氏系は全て鎌倉方だから藤姓足利氏だと思うが、藤姓の通字は「綱」で系図にも記載が
ないため詳細が把握できない(藤原秀郷の系図を参照)。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月6日
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吾妻鏡
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早朝、武蔵太郎北條時氏と異母弟の陸奥六郎有時は軍を進め、少輔判官代佐房・阿曽沼次郎親綱・小鹿嶋橘左衛門尉公成・波多野中務次郎経朝・善右衛門太郎康知・安保刑部丞實光等を率いて摩免戸を渡った。官軍は抗戦も出来ず敗走し、山田次郎重忠だけが残って伊佐三郎行政と戦った後に逃亡した。
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その中で鏡右衛門尉久綱は後退せず、姓名を書いた旗を高台に立てて攻め寄せた少輔判官代と戦った。久綱は「臆病者の能登守秀康に従ったため、思い通りの合戦が出来なかったのは無念」と叫んだ後に自殺した。武蔵太郎北條時氏は筵田に進み、30数騎の官軍と戦った。矢戦を続けた後に先頭を進んだ波多野吾郎義重は右目に矢を受けながらも返し矢を射た。官軍は逃げ去り、杭瀬河・洲俣・市脇らの防衛地点は全て陥落した。
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   ※鏡久綱: 頼朝流人時代から仕えた佐々木四兄弟(父は秀義)の長兄定綱の次男。兄の広綱と共に院の西面
武士として官軍に加わった。敗戦後に広綱は斬首、捕虜になった広綱の四男・勢多加丸は許されたが、鎌倉方に属した広綱の弟信綱は勢多加丸を殺し、結果として近江の本領の全てを相続した。
久綱が鏡を名乗ったのは、鞍馬山を脱出した牛若丸が元服して義経を名乗った鏡の里を領有した人物だろうか。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月7日
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吾妻鏡
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相州泰時と武州時房ら東海道の指揮官と東山道を進んだ甲斐源氏の指揮官は野上宿と垂井宿に入って軍議を行った。三浦義村「北陸道の軍勢が上洛するより前に東の軍を進めよう。勢多は相州(北條)泰時、手山は城介入道(安達景盛)と武田五郎信光ら、宇治は武州(北條五郎)時房、芋洗は毛利入道、淀渡は結城左衛門尉(結城朝広)と義村が向おう。」と。
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時房はこれを承諾、他の指揮官にも特に異論はなかった。駿河次郎三浦泰村は本来は父義村に従って淀に向かうべきだが、時房に従っての進軍を望んだ。
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   ※垂井宿: 中仙道の宿駅で美濃国府が置かれていた。京に向って次の宿駅が3km西は野上宿、更に3km西
には慶長五年(1600)に大合戦の舞台となった関が原宿に続く。
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   ※攻撃目標: 勢多は琵琶湖南端の瀬田、手山は供御(くご)の瀬
とも呼ぶ浅瀬で瀬田から5km上流の大戸川と瀬田川の合流点、宇治は平等院の建つ宇治川渡河地点、芋洗は伏見区宇治川南東の一口、淀渡は一口南東5kmの淀・宇治・木津川の合流点。勢多攻め以外の鎌倉軍は南に迂回して攻め上り、北陸道の朝時が到着する前に合戦を決着させようとする。
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   ※供御の瀬: 琵琶湖周辺から水産物を献上させるために設けた御厨
の一つで瀬田川で数少ない浅瀬があり、軍事上の要衝だったと伝わる。(地図)。
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   ※一口(芋洗): 三方が巨椋池に囲まれていたので一口。池は昭和初期までに埋め立てられて今は存在しない。
なぜ「いもあらい」なのかも不明。京に入る水上交通の入口だったため疫病や穢れ(穢瘡・えも)を落とす意味が転訛したと考える説が多い、らしい。巨椋池は昭和初期の干拓事業によって完全に姿を消している(検索すると資料・画像など多数あり)。
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   ※宇治平等院: 平安末期から三度の大きな合戦の舞台になっている。最初は治承四年(1180)5月に挙兵した
源三位頼政が南都へ敗走の途中で自刃した合戦、二度目は寿永三年(1184)1月に 義経率いる鎌倉軍が義仲軍を壊滅させた合戦(源平盛衰記が佐々木高綱梶原景季の宇治川先陣争いを描いている)、三度目がこの承久の乱。頼政の合戦は「鎌倉...壱」のこちら、義仲討死についてはこちら、平等院の宝物についてはこちらで。
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2014年3月に大改修が終った鳳凰堂(この呼び名は江戸時代以後で、本来は阿弥陀堂)。
藤原道長の子頼通が道長の別荘宇治殿を永承七年(1052)に寺院に改築して平等院と名付け、翌・天喜元年(1053)に極楽浄土を模した阿弥陀堂を建立した。
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これを模したのが基衡が奥州平泉に建てた毛越寺秀衡の建てた無量光院で、それを見て感銘を受けた頼朝が建てたのが二階堂の永福寺。いずれもすでに廃寺で痕跡が残るのみだが、幾多の戦火に晒された鳳凰堂が960年を経て今も残っているのは驚異的だ。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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寅刻(早暁4時前後)に(鎌倉軍との合戦で)傷を負った藤原(足利)秀康と筑後有長が帰洛した。去る6日の摩免戸の合戦で官軍が敗北した旨を報告した。院に集まっていた公卿は顔色を変え、御所中の女房(女官)や北面の武士や医師なども東西に走り回る騒ぎになった。
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坊門忠信・藤原定通(権中納言家通の三男)・源有雅藤原範茂など公卿も侍も宇治・勢多・田原などに向かうよう仰せがあり、後鳥羽上皇は腹巻を着して比叡山に向かわれた。女御や女房らも全員が牛車に乗り、土御門院・新院(順徳)・六條親王・冷泉親王は騎馬である。まず専長法印の押小路河原邸(泉房と称す)に入御され、ここで各地の防戦についての検討を行い黄昏になって山上(延暦寺)に着座された。
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内大臣久我通光・藤原定輔(琵琶と蹴鞠の名手で後鳥羽と順徳の師匠)・親兼・信成・四条隆親・尊長(各々甲冑)姿であり、主上(仲恭天皇)も女房用の輿を用いて密かに行幸された。蔵人頭資頼朝臣・具實朝臣が帝に従い、劔璽(三種の神器)は輿に載せ大納言局(大相国三条公房の娘)が付き添っている。主上と上皇は西坂本の梶井御所に入御、両親王は十禅師を宿舎とした。右幕下(右大将)西園寺公経父子はまるで囚人のように連行された。
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今日、式部丞北條朝時結城七郎朝光佐々木太郎信實らは越後国小国源兵衛三郎頼継・金津蔵人資義・小野蔵人時信以下の御家人を伴って上洛を目指し越中国般若野庄で宣旨の書状を受け取った。佐々木次郎實秀が(甲冑を着けず)軍陣に立ってこれを読んだ。「士卒は勅旨に従って右京兆北條義時を誅殺せよ」との内容である。
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その後官軍に遭遇し、宮崎左衛門尉・糟屋乙石左衛門尉・仁科次郎・友野右馬允が各々林・石黒など在国の武士を率いて合戦、結城七郎朝広朝光の嫡男)が特に武功を挙げ、味方の乙石左衛門尉が戦死、官軍は降伏し加賀国の住人林次郎・石黒三郎は降伏して李部(北條朝時)と結城七郎の陣に連行された。武州泰時は本陣を置いた野上(関ヶ原の近く・地図)に留まっている。
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鎌倉ではこの日の戌刻(20時前後)に右京兆(北條義時)邸の釜殿(浴室)に落雷し下人が1人感電死した。義時はこれを酷く恐れ、大官令禅門(大江廣元)を招いて相談した。
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「泰時らを上洛させたのは朝廷(の過誤)を倒すのが目的なのに落雷で人が死ぬ怪異が起きた。これは運命が縮む兆しだろうか」と。廣元は次のように答えた。
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「君臣の運命は全て天命に従うもので畏怖する必要なし。ましてや、文治五年(1189)に故幕下将軍(頼朝)が藤原泰衡を征伐した際には奥州での軍陣に落雷があったのを考えれば関東にとって吉兆である。先例は明らかだが卜占をするのも良いでしょう。」と。 安倍親職・泰貞・宣賢らは「最も吉の状態である」と口を揃えた。
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   ※般若野庄: 富山県高岡市中田地区の庄川東岸(地図)にあった大徳寺領の荘園。北陸道の要所として寿永
二年(1183)5月9日には平家の先遣隊として進出していた平盛俊軍を木曽義仲の武将 今井兼平軍が奇襲、撤退させている。
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   ※梶井御所: 京都大原の三千院門跡(公式サイト・地図)。貞永元年(1232)に焼失し,仁治二年(1241)に
法華堂を建立して後鳥羽院の遺骨を埋葬している。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月9日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇は坂本に滞在され、偏に山門(比叡山衆徒)が頼りと仰せられているが延暦寺としては衆徒の力を併せても鎌倉勢の軍事力は防げないと奏上した。御所への還御を検討しているところに右京兆(北條義時)が誅せられたらしいとの噂が届いた。人々は喜悦して右幕下(西園寺公経)父子を斬罪も考えたが異論があって中止となった。
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   ※公経らを斬罪: 西園寺公経(右近衛大将)は挙兵に批判的だったため連行された廷臣。この日の百錬抄は
「三院(3人の上皇)と両宮(2人の親王)が還御された。」と書いている。後鳥羽院は形勢に不安を感じて厳しい処遇を撤回したのだろう。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月10日
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吾妻鏡
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主上(仲恭天皇)と3人の上皇(後鳥羽・土御門・順徳)が梶井御所から高陽院殿(4月17日を参照)に還御された。白河付近(地図)から各々牛車を利用し、土御門院と冷泉宮が同乗、新院(順徳)と六條宮が同乗である。
また今日、右幕下(西園寺公経)父子が勅勘(後鳥羽院の怒り)を許された。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月11日
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吾妻鏡
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諏方大祝盛重が去る八日に送った書状が今日鎌倉に届いた。世上の平安を祈って廻らした祈祷の数を知らせると共に子息の太郎信重が小笠原長清に従って上洛した軍勢に加わっている、と。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月12日
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吾妻鏡
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京都朝廷は追加して官軍を各地の防衛拠点に派遣した。
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三穂崎には美濃堅者観厳の千余騎、勢多には山田次郎重忠・伊藤左衛門尉および山僧(比叡の僧兵)の三千余騎、食渡には前民部少輔入道・能登守足利秀康(藤姓足利氏)・下総前司小野盛綱(成綱の子)・平判官三浦胤義の二千余騎、鵜飼瀬には長瀬判官代・河内判官の千余騎、宇治には二位兵衛督源有雅・甲斐宰相中将源範茂・右衛門権佐藤原朝俊・伊勢前司清定・山城守佐々木広綱・佐々木判官高重・小松法印らの二万余騎、真木嶋には足立源三左衛門尉親長、芋洗には一條宰相中将と二位法印尊長、淀渡は大納言坊門忠信である。
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今日、相模守北條時房と武蔵守北條泰時は野路の付近で休息をとった。
下川邊行平の子)は小山新左衛門尉朝長(朝政の子)らの親類と共に上洛を目指す途中であり、武州泰時と懇意にして長年を過ごしている。各地で合戦に加わり先駆けして討ち死にするのが武士の本懐であると考え、一門から離れ最前線を求めて守山(野路の5km北)から野路の驛に駆け付け、泰時の軍陣に加わっている。
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酒宴の際に行時を見つけた泰時は喜んで上座に招き盃酒を与えると共に 太郎時氏に命じて乗馬(黒)を与えた。加えて行時が伴っていた郎従や小舎童まで幕の近くに招き食事などを与えたため、この優しさを見た者は更に勇気を掻き立てられた。
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   ※三穂崎: 現在の高島市安曇川に三尾崎(地図)の地名が残る。個人的には6km北の西近江路(北国海道)と
若狭街道の合流点を指していると思うのだが...いずれにしろ琵琶湖西岸から京都を目指す鎌倉勢を警戒したのだろう。鵜飼瀬は平等院の少し上流。
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   ※野路: 勢多まで約5kmの草津市野路(地図)。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月13日
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吾妻鏡
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相模守北條時房以下の軍兵は野路から各地の官軍拠点に向かって進軍した。
指揮官の時房はまず勢多に着き、官軍が勢多橋の中央二間分の板を外て盾を並べ、弓箭を構えた官兵と比叡山の衆徒が待ち構えているのを確認して攻撃を開始した。一方で、酉刻(18時前後)には駿河前司毛利季光入道は淀手上(淀渡)を目指し、武蔵守北條泰時は栗子山に布陣した。
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武蔵前司北條義氏・駿河次郎三浦泰村は武州泰時には知らせず宇治橋に迂回して戦端を開いた。 官軍は雨のように矢を放ち、鎌倉軍の兵の多くが矢を受けて平等院に退避した。
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  ※勢多: 勢多は湖東から畿内に入る唯一のルートだったため古来
から何度も合戦の舞台になった。治承四年(1180)5月の源(三位)頼政vs平知盛重衡軍、寿永二年(1183)1月の義経軍vs木曽義仲軍の合戦が名高い。
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宇治川合戦で義経に敗れた義仲は勢多(瀬田)へ逃れ、橋を守っていた今井兼平と合流して北陸を目指したが粟津原で囲まれ討ち取られた。
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西側の中洲を跨いで東岸に渡る姿は今も同じだが、中世の橋は約65m南(上流・地図の下側)だったらしい。
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背景の山は多分伊吹山(1377m)をデフォルメして大きく描いたのだろう。直線距離で50km以上、伊吹山はこんなに急峻な姿じゃないけど...。
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夜半になって前武州義氏は兼仗六郎保信らを武州泰時の陣に派遣し「夜明けを待って本格的な攻撃を始める計画だったが軍兵が先を争って矢戦を始め、多くの死傷者が出た。」と連絡した。驚いた泰時は激しい雨の中を宇治に向かったが合戦はその間も続き、更に24人の兵が負傷した。官軍は勝ち誇り、泰時は尾藤左近将監景綱を送って橋上での戦いを中止せよと命じて撤退させた。その後に武州泰時は平等院に入って休息した。
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   ※栗子山: この地名は現存せず正確な位置は不明だが、瀬田川から
1km弱東の三大寺(地図)の一帯か。
瀬田川の岸から見ると約10mほどの高低差があり、近江国衙や近江一之宮建部大社(公式サイト)に隣接している。国衙跡の詳細はこちらのサイトが詳しい。
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   ※宇治に迂回: 琵琶湖から流れ出した瀬田川は途中で宇治川となり、
流路を北寄りに変えて宇治平等院の東側を過ぎて桂川と合流し淀川となる。つまり瀬田から宇治へ行くには左岸に沿って進むのがセオリーなのだろう。
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途中で渡河すれば宇治を守る官軍の背後を突ける筈だが、結構険しい山地が続くため通れなかったらしい。
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今回の宇治川合戦は、治承四年(1180)5月に源三位頼政が戦った宇治川合戦と全く正反対の攻防になった。 右画像は瀬田から宇治までの流路(クリック→拡大)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月14日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は宇治川を越えて戦わなければ官軍を打ち破れないと考え、芝田の橘六兼義を呼んで浅瀬を調べるよう命じた。
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  ※宇治川: 宇治川を含む淀川水系は古来から大規模氾濫を繰り返し、治水は流域自治体の大きな課題だった。
昭和28年(1953)の13号台風で宇治川の堤防が決壊し流域に大きな被害が発生したのを契機に宇治橋上流3kmにアーチダムの建設が計画され、昭和39年(1964)に天ヶ瀬ダムが完成した。
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通常の水量はダム完成以前より遥かに少なくなったと推定される。最古の宇治橋は大化二年(646)の架橋(wiki参照)で、現在の宇治橋は平成八年(1996)に完成したもの。
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  ※眞木嶋: 宇治橋の下流約1kmに填島の地名が伝わり、対岸には莵道稚郎陵がある。
応神天皇の皇子・莵道稚郎子(後の仁徳天皇の弟)が兄に皇位を譲るために自殺して葬られた莵道稚郎陵(日本書紀の記載だが場所は疑問)の向い側、中洲のある付近(地図)。合戦後の6月17日に芝田兼義と佐々木信綱の間で一番乗りの手柄を巡って論争が起きる。
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卯三刻(朝5時半前後)になって橘六柴田兼義と春日刑部三郎貞幸らは泰時の命令に従い、宇治川伏見津瀬を渡るため前進した。四郎左衛門尉佐々木信綱・中山次郎重継・兵衛尉安東兵衛尉忠家らが兼義の後に従って下流に馬を進めた。信綱と貞幸は何度も浅瀬の位置を尋ねたが兼義は答えられず、数町(数100m)下ってから馬に鞭を入れ、信綱・重継・貞幸・忠家が続いて川に乗り入れた。
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これを見た官軍は激しく矢を射掛け、兼義と貞幸の乗馬は川の中で矢を受けて水に漂った。投げ出された貞幸は水底に沈み落命の寸前に心中で諏方明神に祈り、脇差を抜いて甲冑の紐を切り落とし、具足を捨てて浅瀬に這い上がった。水に慣れた男なので生き延びることができた。
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武州泰時は自らから貞幸に数ヶ所の灸をすえて何とか正気を取り戻させたが、共に渡ろうとした子息と郎従ら17人が溺死してしまった。
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その後も多くの軍兵が水面に轡を並べて乗り入れたが急流に押し流され、戦う前に10人中2〜3人は水死。従軍800余騎のうち関左衛門入道・幸嶋四郎・伊佐大進太郎・善右衛門太郎・長江四郎・安保刑部丞ら96人である。 右画像は宇治川周辺の鳥瞰図 (画像をクリック→拡大表示)
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佐々木信綱だけは何とか中嶋に生えていた柳の古木に辿り着いた。後続の武士が川に呑まれるのを見て動きが取れず、子息の太郎重綱を武州泰時の陣に送って「援軍さえあれば対岸に渡って戦える」と伝え、武州泰時は「勇士を派遣しよう」と答えて食事を与え、重綱はこれを頂いた後に父のいる中島に駆け戻った。
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卯刻(6時前後)、この中島から援軍を求めて重綱(裸で衣類を頭に巻き徒歩)が往復する間に朝を迎えてしまった。泰時は駿河太郎(北條時氏)を呼び、「このままでは敗北を招く。今こそ大将軍が先頭を進む時だ、汝は直ぐに渡河して敵陣に攻め込み命を賭して戦え」と命じた。時氏は佐久満太郎・南條七郎ら六騎を率いて川に乗り入れた。
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武州泰時は言葉を発せず前後を見渡し、駿河次郎三浦泰村の主従五騎を始め数騎が続いて乗り入れた。鎌倉勢が渡河を始めたのを見た対岸の官軍は攻撃を始める気配を見せ、武州泰時は馬を進め川に乗り入れようとした。
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春日貞幸は馬の轡(くつわ)を押さえたが縛り付ける場所がない。貞幸は一計を案じ、「甲冑のまま乗り入れた者は殆ど水死しています。まず甲冑を脱ぐのが良いでしょう」と勧めた。泰時が田の畝に降りて甲冑を外しているうちに貞幸が乗馬を引いて隠し、泰時は進む手段を失ってしまった。
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佐々木信綱は一番乗りではあるが、中嶋で時間を費やしたため、対岸に
着いたのは武蔵太郎時氏と同時になった。信綱は太刀を抜いて川に張った大綱信を切り捨てた。柴田兼義は乗馬を射られたが、泳ぎの名手なので無事対岸に渡った。前武州時氏は旗を揚げて矢戦を開始し、鎌倉勢と官軍は生死を争って合戦、鎌倉勢は98人が傷を負った。
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武州泰時と武蔵前司足利義氏らは筏に乗って川を渡った。尾藤左近将監と平出彌三郎に命じて民家を解体したものである。泰時が渡河に成功してから武蔵と相模の御家人が特に勢いを得て奮戦した。官軍の大将軍二位兵衛督源有雅卿・宰相中将 藤原範茂卿・安達源三左衛門尉親長らは防ぎ切れず遂に退却した。
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筑後六郎左衛門尉知尚・佐々木太郎左衛門尉高重(経高の嫡男)・野次郎左衛門尉成時らは右衛門佐朝俊を大将軍として宇治川近くに残って抗戦し、全員が討ち死にした。その他官兵は弓箭を持つのも忘れて敗走し、武蔵太郎時氏らが彼らを追い掛けて討ち取った。さらに宇治川北側にある民家に放火し、逃げ隠れていた官兵は煙に追われ逃げ回った。
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武州泰時は屈強な武士16騎を率いて密かに深草河原に布陣した。
ここに右幕下(右大将)西園寺公経の使者長衡が到着して何所まで進軍されたか確認せよとの命令を受けました」と尋ね、武州泰時は「明朝には入洛する予定なので最初に案内を頂きたい。」と答えて姓名を問い、長衡の名乗りを受けた。南條七郎を長衡に同行させて西園寺公経邸を警固するよう指示を与えた。 右画像は洛南周辺の記載ヶ所 (画像をクリック→拡大表示)
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  ※深草河原: 伏見稲荷南西を流れる鴨川沿い。平安時代から貴族の遊興・別荘の地として利用された。
江戸時代に拓かれた竹田街道(伏見南部と京を結ぶ「京の七口」の一つ)が通っている。
平安時代以来の歌枕として多くの和歌や物語に登場している。
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   深草の さとのまがきは あれはてて 野となる露に 月ぞやどれる  定家
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毛利入道・駿河前司は淀と芋洗(一口)などの防衛拠点を突破し高畠の近くに野営、武州泰時は使者を送って両人を深草に呼び寄せた。相州時房は勢多橋で官兵と合戦した。
夜になって源親廣藤原(足利)秀康・小野盛綱・三浦胤義らは防衛拠点を放棄して帰洛し三條河原に野営、源親廣は関寺の付近に逃げ去った。官軍の佐々木彌太郎判官高重らは囚われた場所で斬首となった。
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  ※一口: これで「芋洗(いもあらい)」と読むから面白い。昭和中期に埋め立てられるまでの伏見区から宇治市の
一帯には広大な巨椋池(wiki)があり、湿地帯に囲まれた村の出入り口は西側の一ヶ所だけだった事から「一口」と呼ばれ、更に疫病が流行した際に「忌むを払う」行事が転じて「いむをはらう」→「いもあらい」になった、と伝わっている。
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  ※高畠: 現在の京都駅南西1kmの南区西九条。深草河原から2〜3kmほどの南側は時房勢が制圧し、東側は
勢多を突破した泰時勢が制圧したことになる。
権力への執着と短慮と判断力の欠如から招いた災厄ではあるが、後鳥羽上皇 万事窮す!
壇ノ浦で平家が滅びた経緯から、三種の神器なしに安徳天皇の跡を継いだ負い目がトラウマになって破滅に至った、との説もある。だとすれば、悲劇の種を蒔いたのは後白河法皇だね。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月15日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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寅刻(早暁4時前後)、敗残の足利秀康と三浦胤義らが四辻殿に参上。
「宇治と勢多の合戦では官軍が敗北し、鎌倉勢は京都に入る街道を封鎖しながら入洛を目指しています。万一にも死を免れるこ事はないでしょう。」と異口同音に奏上した。後鳥羽上皇は大夫史国宗宿禰を勅使として武州(北條泰時)の陣に派遣し、二人の上皇(土御門と順徳)と二人の親王(六條と冷泉)は賀茂と貴船の僻地に避難した。
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辰刻(朝8時前後)に国宗が院宣を帯して樋口河原に於いて武州泰時に面会し、これまでの事情を述べた。泰時は「院宣を拝見します」と称して下馬し、岡村次郎兵衛尉を介して院宣を読める者を尋ねた。ここで勅使河原小三郎が学識のある者として推薦した武蔵国の住人藤田三郎を呼び出し、院宣を読ませた。内容は次の通りである。
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今回の合戦は院の叡慮ではなく近臣の謀略によって勃発した。今は全て鎌倉の求めに従って命令を下そうと思う。また、東国の武士による洛中での狼藉禁止を求める、と。その後に「院の御所御随身(近衛府の官人)頼武が院への武士の参入を禁止する旨を重ねて仰せになった。
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下総前司小野盛綱と足利秀康は逃亡した。三浦胤義は東寺の門内に立て籠って三浦・佐原の御家人と合戦を繰り返し、双方の郎従多数が戦死した。巳刻(16時前後)に相州北條時房と武州泰時の軍勢が六波羅に入り、胤義父子は西山木嶋で自殺を遂げ、胤義の郎従がその首を取って太秦の自宅に持ち帰った。三浦義村がこれを没収し武州泰時の宿舎に届けた。
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          右画像は東寺の鳥瞰。詳細は公式サイトで。
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夕暮れになってから官兵の宿舎にそれぞれ放火し、数ヶ所が焼け落ちた。都の繁栄も今夜で終わるのか、と多くの都人が嘆いた。京都には東国の軍兵が満ち溢れ、戦場から逃げ出した官兵を見つけ出しては首を斬った。
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白刃を拭う暇もなく、人馬の市街が道を塞いで歩くのも侭ならない。郷里には帰るべき家もなく、農業に励もうと考えても苗が残っていない。武勇を誇りにしていた西面の武士も北面の武士も滅亡し、近くに住んでいた近臣も寵臣も全て捕らえられた。悲しむべし、八十五代(仲恭天皇)を末世として皇家が絶えようとするのだろうか。
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今日、関東の祈祷が結願を迎えている。属星祭に捧げる誓文は民部大夫二階堂行盛が清書した。官兵が敗れ去ったのは神仏の力が未だ地に堕ちていない印である。
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   ※四辻殿: 院の御所(高陽院殿)近くにあった藤原重子(後鳥羽上皇
の寵妃で順徳天皇の生母)の屋敷で、後鳥羽上皇は高陽院殿からここに避難していた。後に順徳天皇が流刑地の佐渡で産ませて(生母不明)親王宣下した善統親王が四辻殿を相続、成長して四辻宮家(後に廃絶)となった。
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   ※承久記は: 官軍の残兵は「犬死にするよりは同じ東国の敵と戦って
死のう」との三浦胤義の言葉に従って東寺に籠り三浦義村軍と戦った。胤義は嫡子胤連と二人になるまで奮戦した後に太秦邸に向ったが木嶋神社近くで包囲され境内で自刃、郎党が屋敷に運んだ首は義村を経て六波羅の時房に届けられた。と書いている。
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   ※西山木嶋: 蚕ノ社の名でも知られる木嶋神社(右画像・地図)一帯。
元はここで行っていた神事を下賀茂神社にある糺の森に遷した経緯から「元糺の森」、「元糺の池」の名もあり、続日本紀に拠れば創建は大宝元年(701)よりも前。平安京に遷都する100年以上前から続く古社である。      木嶋神社の詳細はwikiで。
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   ※近臣の謀略: 自分が首謀した兵乱なのに後鳥羽上皇は「謀略を巡らす近臣」が原因だと主張している。
原発事故対応を誤って被害を拡大させた恥知らずの菅直人が東電幹部に責任を押し付けてるのと同じ図式だね。まぁ根本原因は政治献金に汚染されていた自公政権だけど。
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平成の日本人は寛容だから、原発の危険を過小評価して認可した自公政権を含め誰も責任追求されないし、何十万人が生活基盤や住み慣れた故郷を失っても平然と政治家を続けられる。
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   ※東寺: 平安遷都(794)直後の延暦十五年(796)の建立(公式サイト)。
弘仁十四年(823)に第52代嵯峨天皇が空海に与えて国家鎮護の寺院とし、同時に真言密教の拠点となった。南北朝時代の文明十八年(1846)に堂宇のほぼ全てを焼失し創建当初の建物は残っていないが収蔵する仏像のうち十数体は平安遷都当初の作である。
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宝物館の兜跋毘沙門天像(国宝)は約600m西の羅城門(地図)の楼上で都を守っていたもので、門が老朽化して倒壊した後に東寺に移された、と伝わる。京都駅から近い割に静かで落ち着けるし、京都で屈指の古刹でありながら金堂や五重塔など主要堂塔以外の寺域散策が無料なのも嬉しい。
右画像は講堂にある不動明王坐像(国宝) 木造彩色・123cm
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承久記は「逆臣三浦胤義らを捕らえよ」との院宣を発した上皇を描いている。
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藤原(足利)秀康三浦胤義・下総前司小野盛綱(成綱の子 )・少輔入道大江(源)親広、そして山田重忠は各所の合戦に敗れて京に戻り、15日卯刻(朝6時前後)に四辻殿に来て「最後の御供をするべく参上しました。」、と申し出た。
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後鳥羽院は今後はどうなるのか思い悩んでいた所に四人がやって来たものだから更に大騒ぎして、
「(鎌倉の)武士が来たら手を合わせて助命を懇願しようと思っているのに汝らが戦っては具合が悪い、何処へでも落ち延びよ。御所の近くに留まるべからず」と命じた。山田重忠は門を叩き大音声で「何のために戦い何のために参上したのか。見損なったのが不覚の極みだ」と叫んだ。

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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月16日
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吾妻鏡
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相模守北條時房と武蔵守北條泰時の両刺史(国司の唐名)は六波羅の館に移った。
執権北條義時の牙となり且つ耳目となって政治の安定を心掛け、乱の残党の刑も軽くして融和を図り、四面に張った網の三面を解き放つように(苛烈ではない)事後処理を行って世間の賞賛を受けた。
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院で合戦計画に関与した佐々木中務入道経蓮は官兵が敗走した後に鷲尾(東山区北部の粟田口近く・ 地図)に逃れたとの情報を得た時房は使者を送り、「鎌倉に連絡して厚免の措置を求めるから、軽々しく命を捨てるな」と伝えたが、経蓮はこれを自殺を勧める使者と受け取って自刃した。
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まだ息のあるうちに輿で六波羅に六波羅に運ばれた経蓮を見た泰時は「私が伝えたかったのは自殺させようとの趣旨ではない」と語り掛け、経蓮は両目を見開いて嬉しそうに声を挙げ、息を引き取った。
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謀叛に関与した者が各地で捕縛される中で、清水寺の住僧敬月法師は特に勇士とも言えない人物である。
藤原範茂卿に従って宇治に向かったのは許し難いのだが武州泰時に贈った和歌が心に響き、死罪を減じて遠流に処すると長沼五郎宗政に命じた。  勅なれば 身をばすててき ものヽふの やぞうち河の せにはたゝねど
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勅命を受ければ身を捨てて戦うのが筋だが、矢をうち(射て) 宇治川の瀬には立たなかった...ほどの意味か。
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今日、武州泰時が鎌倉に飛脚を送った。合戦は無事に終わったとの報告である。
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   ※北條九代記は: 「武蔵守北條泰時は六波羅北方に、相模守北條時房は六波羅南方に任じた。これが二つの
六波羅の創立である。」と書いている。
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従来の京都守護を改組して北方と南方に分け、後鳥羽院に与した公卿や在京の武士から没収した所領の再分配と、朝廷への監督機能の強化に任じた。所謂「六波羅探題」だが、この名称が使われ始めたのは鎌倉時代末期で、それまでは六波羅北方・南方を称していた。跡地は市立開睛小学校(地図)が建ち、隣接して六波羅蜜寺(公式サイト)があり、40年前までは「驕る平家」の本拠地だった。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月17日
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吾妻鏡
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六波羅に於いて今回の勲功に関する評価を行った。宇治川渡河の先駆けについては佐々木信綱と芝田兼義の主張が食い違い、泰時時房の前で争論する事態となった。
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信綱の主張は「先駆けとは敵陣に入った時を差す。馬を川に乗り入れたのは確かに芝田が先だが、乗馬が射られたため着岸した時には見えなかった。」と。これに対して兼義は「佐々木が渡河できたのは私が先導 した結果である。川底の様子も知らずに先駆けなど出来る筈がない。」と主張した。
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二人が争っても結論を得られないまま、(同行していた)春日刑部三郎貞幸に当時の状況を質問した。貞幸が起請を以て(誓紙を書いて)述べた内容は次の通り。
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去る14日の渡河の際に岸から乗り入れたのは芝田兼義が先だが佐々木も続いて乗り入れた。
芝田は佐々木の馬の弓手(左・上流側)にあり、私(貞幸)も同じく佐々木の妻手(右・下流側)に乗り入れた。
佐々木の馬は二人(兼義と貞幸)の馬の頭より鞭の長さほど先行し、中山次郎重綱も私の馬に並んでいたが、これは川中の島までであり、貞幸が水没した後のことは判らない。
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武州この報告書を見てから更に近くにいた者の話を聞き、概ね同じなのを確認してから兼義を呼んで説得した。
    「争論は望ましくない。貞幸らの話を併せて鎌倉に報告するから恩賞は考えの通りに得られるだろう。」と。
しかし兼義は「たとえ膨大な恩賞であっても、この件に関する限り承服はできません」と答えた。
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   ※宇治川先駆け: 信綱としても一番乗りの栄誉は欲しかっただろうね。元暦元年(1184)1月に義仲勢と義経軍
が戦った第二次宇治川合戦では、叔父の佐々木高綱梶原景季と一番乗りを争って堂々の勝利を手中にしている。父子ではないけれど一族二代に亘る勲功に変わりはない。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月18日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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武蔵太郎(北條時氏)秘蔵の馬が宇治川の合戦で敵の矢を受け、体内に鏃が残ったまま取り出せない。死にはしないが苦しみが続き、誰に頼んでも治療は無理との答が返ってくる。
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捕虜の西面武士の中に馬の飼育に長けた名伯楽として知られた友野右馬允遠久がおり、この話を聞いて「治療しよう」と申し出た。武州北條泰時は興味を惹かれその馬を連れて行かせたところ、直ちに鏃を抜いて治癒を終えた。人々は珍しい事だと感心しきりだった。
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今日使者を関東に派遣し、今回の合戦で官兵を討ち取った者・傷を被った者・官兵によって討ち取られた者の姓名を調べ、関判官代・後藤左衛門尉・金持兵衛尉がその名簿を記録して武州泰時に提出した。彼らは勲功の恩賞を行う資料のために派遣された者である。鎌倉への飛脚は中太彌三郎が任じた。
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   ※泰時に提出: 事務処理は書記 → 泰時 → 鎌倉 と流れる。六波羅での序列は当然、北方泰時>南方時房。
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  6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々(相手)。
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秩父平五郎(一人、名は不明)  小笠原次郎(一人、弦袋に付く)  佐々木又太郎右衛門尉(一人、弦袋)
同、奈良五郎(一人)  横溝五郎(一人)  佐竹の六郎(二人、内一人手討ち)
押垂三郎兵衛の尉(一人、郎等が討つ)  戸村三郎(三人、捕虜一人、一人は勅使大夫入道)
富田小太郎(一人)  浦太郎(三人)  島津三郎兵衛尉(七人、内僧一人、捕虜二人)
若狭兵衛入道の手の者(三人)  宮木小四郎(一人、野次郎左衛門尉)  大井左衛門三郎(一人)
品川小三郎(二人)  品川四郎太郎(一人)  於呂左衛門四郎(二人、内生虜一人)
於呂五郎(四人、内一人捕虜)  葛山太郎(一人、弦袋)  並木彌次郎兵衛尉(一人、法師)
伊具六郎(二人、内深草六郎が一人、染屋刑部七郎が一人を討つと)  佐竹別当の手(二人)
天野右馬太郎(五人、内二人手打ち)  黒田三郎入道(一人、郎等これを討つ)
梶原平左衛門太郎の手の者(一人)  四宮但馬允(二人)  香河小五郎(二人、大刀長伏輪)
豊嶋九郎小太郎(二人、郎等これを討つ)  信乃彌太郎(一人)  塩尻彌三郎(出雲国小三郎と)
庄四郎(一人、捕虜) 庄五郎(一人、捕虜)  潮田四郎太郎(一人)  大貫の三郎(一人)
蒼海平太(二人、首は宇治に梟す)  大和太郎左衛門尉(一人手打ち、二人郎等これを討つ)
大和籐内(一人)  山田八郎(二人、手打ち)  山田次郎(二人、手打ち)  河越三郎(一人、手打ち)
小野寺左衛門入道(五人、内一人手打ち)  渋谷三郎(二人手討ち、一人は萩野三郎)
渋谷権守太郎(二人、内一人手打ち、一人捕虜)  渋谷又太郎(一人、手打ち、出雲国神西庄司太郎) 懸左近将監(二人)  神保與三(一人)  多胡宗内(一人)  椎名彌次郎  善右衛門四郎(三人、手討ち)
小平左近将監(二人、内一人捕虜)  渋谷六郎(一人、郎等これを討つ)
以上98人(この内、衛府五人、生虜り七人) 関判官代実忠の日記に拠る。
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長布施四郎(三人、内一人萩野太郎ら、一人佐々木判官親者、一人捕虜)  猪俣右衛門尉(一人)
佐貫右衛門十郎(四人)  金子太倉太郎(二人)  金子右近将監(二人)  金子の三郎(一人)
須久留兵衛次郎(一人)  岩田七郎(一人)  豊田四郎(一人)  豊田五郎(四人)  佐貫七郎(一人)
小代右馬次郎(二人)  河村四郎(一人)  於呂小五郎(一人、西面の手)  小越の四郎(一人)
松田小次郎(二人、内一人甲斐中将侍刑部の丞)  松田九郎(二人、内一人西面平内、一人熊野法印親者)
秩父次郎太郎(一人、上臈と)  瓶尻小次郎(一人)  藤田兵衛尉(一人、手打ち、佐々木判官手の者と)
内嶋三郎(二人)  小越四郎(二人)  大井太郎(二人)  小越右馬太郎(二人)  中村の四郎(二人)
河原田四郎三郎(一人)  人見八郎(一人)  木内次郎(一人)  風早四郎(一人)  甘糟の小次郎(一人)
山城左衛門尉(十六人)  児玉刑部四郎(一人)  河村太郎(三人、郎等が討つ)  同三郎(一人、手打ち)
同五(一人、手打ち、西面)  勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等が討つ) 勅使河原四郎(一人手討ち)
太田五郎(一人、手打ち)  香河三郎(一人、手討ち)  河匂小太郎(一人手討ち)  小代與次郎(一人)
波多野彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟す)  小澤太郎入道(二人、宇治に梟す)  佐田太郎(一人、手討)
沼田小太郎(一人、手討ち、熊野法印子)  糟屋三郎(一人、手討ち)  同四郎(一人、手打ち)
以上84人、金持兵衛尉の日記に拠る。
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佐加良三郎(一人、渡部彌次郎兵衛尉、北面。直垂綾)  長布施三郎(一人)  二宮三郎(二人、名は不明)
曽我八郎(一人、宰相中将格勤の者)  曽我八郎三郎(一人、同格勤)  泉八郎(二人)  泉次郎(三人)
安東兵衛尉の手伊豫玉井四郎(一人)  肥前房(一人、山口兵衛尉小舎人童生取り)
権守三郎(一人、甲斐中将中間と)  工藤太三郎(一人、佐々木判官近親者)
荒巻籐太(一人、三郎法師捕虜)  清久左衛門の尉(二人) 曽我太郎(四人)  成田の五郎(一人)
成田籐次(一人)  奈良兵衛尉(一人、山法師)  別府次郎太郎(一人)
荏原六郎太郎(一人、下総前司郎等)  荏原七郎(一人、郎等が討つ)  岩原の源八(一人)
弓削平次五郎(一人)  河平次郎の手(四人、二人熊野法師、一人弦袋)  宇津幾十郎(一人)
佐貫右衛門尉十郎(一人、弦袋)  宿屋太郎の手(五人)  土屋三郎兵衛の尉(一人)
興津左衛門三郎(二人、手打ち)
15日以後に京都に於いてこれを記す。
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植野次郎(一人)  角田太郎(一人、平九郎判官郎等美六美八)  内記左近将監(二人、熊野法師郎等)
波多野中務次郎(一人、熊野法印、長伏輪太刀)  内藤右近将監(二人、熊野法師郎等)
荻窪六郎(二人、内一人肥前国佐山十郎)  西條四郎手(一人、郎等手討ち)  天野平内次郎(一人)
古郡四郎(一人、瑠璃王左衛門尉が西面を捕虜)  山田蔵人(三人、生取り、下総前司郎等)
仁田次郎太郎(五人、内一人捕虜、宮分刑部丞)  金持兵衛尉(五人、二位法印家人)
豊嶋十郎(一人、金を付くと)  中村小五郎兵衛尉(一人、捕虜、中七左近)  荏原の小太郎(一人)
佐々木四郎右衛門尉(一人、手討ち、佐々木太郎左衛門尉) 以上73人 併せて255人
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6月13日と14日の宇治橋合戦で手負いの人々
13日
富部五郎兵衛尉  同町野兵衛尉  松田小次郎  松田の三郎  同五郎  同平三郎  同右衛門太郎
波多野中務次郎  同五郎  牧右近太郎  同中次  小津太郎入道  同籐次太郎  椎名小次郎
横田右馬允  阿曽沼六郎太郎  香河小五郎  豊田平太  同五郎  保土原三郎  今泉彌三郎兵衛尉
同五郎   同須河次郎  同五郎  同提五郎  世山三郎  河田七郎  甘糟小太郎  藤田新兵衛尉
須賀彌太郎  安保右馬允  目黒小太郎  井田四郎太郎  沼田小太郎  沼田佐籐太  以上35人
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14日
小代小次郎  行田兵衛尉  古庄太郎   曽我太郎  源内八郎  女景太郎  宇津幾平太  同十郎
山口兵衛太郎  須黒兵衛太郎  加世左近将監  同彌次郎(死没)  仙波太郎  同左衛門尉
相模国分八郎  興津左衛門三郎  同四郎  同六郎  同紀太  同八郎太郎  同十郎  河村籐四郎
岩原源八  吉香左衛門次郎  大内十郎  同彌次郎  源七刑部次郎  同三郎太郎  小嶋三郎
同六郎   同七郎  矢部源次郎  内記四郎  屋代兵衛尉  葛山小次郎  波賀小太郎  古谷八郎
同飯積三郎  同十郎  岡村次郎兵衛尉  岩手小四郎  同五郎  同與一  河原次郎  皆河太郎
大江兵衛尉  同四郎  井田四郎  岩田八郎五郎  大倉小次郎  高井小太郎  同小次郎
長澤又太郎  佐加江四郎(大事)  同五郎(大事)  矢田八郎  妻良五郎  西郷三郎  新開彌次郎
布施左衛門三郎(渡河中に負傷)  奈良左近将監(同上)  宇治次郎(同上、波多野とも)
佐貫右衛門六郎(同上)  肥前房(同上、安東の手)  松野左近将監  志水右近将監(同上)
平河刑部太郎  同又太郎  蛭河刑部三郎  同三郎太郎  佐野七郎入道  渋谷平太三郎
渋谷権守六郎  同七郎  品河四郎   阿曽沼次郎  高橋九郎  塩谷左衛門尉  同太郎
同六郎  塩谷彌四郎  同奥太  塩谷小三郎  同五郎  富田太郎  同五郎  玉井小四郎
俣野小太郎  河平三郎  寺尾又太郎  鷲四郎太郎  天野平内太郎  安東籐内  廣原仲次
魚沼工藤三郎  熊井小太郎  鎌田平三   以上97人 併せて132人
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神保太郎  高井五郎  江田兵衛尉  江田五郎太郎  高井彌太郎  同室三郎  屋嶋次郎  小串五郎
青根三郎
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6月14日の宇治橋合戦で渡河の際に死んだ人々の記録
布施右衛門次郎  懸佐藤四郎   高野小太郎   武蔵女影四郎  内嶋七郎  荏原六郎  荏原彌三郎
太田六郎  今泉七郎  片穂刑部四郎  飯田左近将監  志村彌三郎  同又太郎  善右衛門太郎
安保刑部丞  同四郎  同左衛門次郎  同八郎  塩屋民部大夫  関左衛門入道  金子大倉六郎
春日刑部三郎太郎  同小三郎  渋谷四郎  渋谷権守五郎  潮田六郎  志水六郎  於呂七郎
若狭次郎兵衛入道  綱島左衛門次郎  大舎人助  飯沼三郎  同子息一人  大河戸小四郎
幸嶋四郎(下河邊とも)  梶原平左衛門次郎  成田兵衛尉  同五郎太郎  玉井兵衛太郎
佐貫右衛門五郎  同八郎  同兵衛太郎  長江余一(討れる)  長江小四郎(同上)  相馬三郎
同太郎(討れる)  同次郎  小田切奥太  小野寺中務丞  石河三郎(討れる)  古庄次郎(同上)
麻続六郎  中村九郎  左近将監  同三郎  鮫嶋小四郎  新開兵衛尉(橋で討れる)
大山彌籐次(同上)  山内彌五郎  千竈四郎  同新太郎  金子小太郎  籐次(横溝の親類)五郎
寺尾左衛門尉(橋上で討れる)  庄三郎(討ち取られる)    大河戸六郎(同上)  佐野八郎
佐貫太郎次郎(疵を被り河に於いて死す)  同次郎太郎  品河次郎  同四郎三郎  同六郎太郎
信乃大塩次郎  浦四郎  江戸四郎三郎  安東平次兵衛尉 安東籐内左衛門尉
町野次郎(13日に橋上で死す)  仙波彌次郎(疵を被り三日後死す)  新太郎  桜井次郎(浦太郎手の者) 平次太郎(寺尾四郎兵衛尉手の者)  高井三郎  嶋名刑部三郎  屋嶋六郎  神保刑部少輔
道智三郎太郎  麻彌屋四郎   同次郎
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武蔵守(泰時)殿の手の者
平六  少輔房  五郎殿  石河平五  佐伯左近将監  片穂刑部四郎  飯田左近将監  足洗籐内
中三入道  後平四郎
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   ※渡河の際に: 14日の吾妻鏡には「従軍800余騎の96人が水死」とあり、16日の「渡河の際に死んだ人々」
記載された99人(討たれた者4人)の名簿と一致する。戦って死んだのなら兎も角、強行渡河で一割が溺死では「一将功なって万骨枯る」、旅順攻略の乃木大将以下と言えるだろう。
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以前から気になっていた事だが、泰時は指揮官としても政治家としても小物だったのではないか...吾妻鏡の編纂者が再三彼の才気を讃えているのを見るたびに、「泰時の能力不足を必死でカバーしている」ように感じてしまう。
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兵を分けて瀬田から舟を利用するか、増水している宇治での渡河を避けて一口か淀へ迂回するか、寡兵の敵をさらに分散させて弱体化する方法があった筈だ。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月19日
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吾妻鏡
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六波羅に於いて、(出頭してきた)錦織判官代を生け捕りにした。弓射と相撲の達人であり、抜きん出た剛力の武士である。院に参内していた際に官兵は(迫ってくる鎌倉勢に)怖気付いて逃亡し、逃げ切れぬと判断した錦織は堂々と六波羅に現れた。鎌倉勢は錦織と組み合える武士を選び、佐野太郎忠家と同次郎入道と同三郎入道を立ち合わせたが錦織を押えられず、更に佐野の郎従が加わって何とか捕らえる事ができた。
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今日、武蔵太郎(北條時氏)が去る14日に宇治川を渡る際に従った者6人を招いて盃酒を勧め贈物を与えた。
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   ※錦織氏: 前九年の役の後に源頼義は滋賀郡錦織郷(現在の大津市錦織町・ 地図)に館を構え、息子の義光
園城寺一帯と深く接点を持ち、子孫が山本・柏木・錦織・箕浦の各氏として続いた、と伝わる。
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   ※佐野忠家: 籘姓足利氏(藤原秀郷の末)の傍流が佐野氏。系図では忠家を確認できないが野木宮合戦などで
有名を馳せた足利忠綱(吾妻鏡の治承五年(1181)閏2月25日を参照)の縁戚だからそれなりの猛者なのだろう。藤原秀郷の系図を参照してね。
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   ※百錬抄の記事: 一院(後鳥羽上皇)は四辻殿に移られ(鎌倉方の)武士が警護に任じた。新院(土御門と順徳)
は大炊殿に還御され、両宮(六條親王と冷泉親王)は本所(内裏の東宮?)に渡御された。 また今日、秀康以下の徒党を早く追討せよとの宣下があった。
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   ※大炊殿とは: 直接的には貴族などの屋敷で調理を行う建物。一般的には下鴨神社で神饌(神様の食事)を
準備する場所。緊急事態の中での移動だと考えると、どちらに該当するかは判断できない。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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6月20日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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後鳥羽上皇は高陽院から四辻殿に御幸され、土御門院・新院(順徳)・六條宮・冷泉宮は各々本所に還御された。
主上(仲恭天皇)だけが御所に留まっておられる。夜になって、本間兵衛尉が貴船(下鴨神社の近く・地図)の付近で美濃源氏の神地蔵人頼経入道と同仲間の10余人を生け捕った。また多田蔵人基綱を斬首した。
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   ※百錬抄の記録: 仲恭天皇(満2歳7ヶ月)が閑院(現在の二条城の
東(地図)にあった里内裏)に還御された。
今日、軍勢と共に北陸道を進んできた式部丞知時(
北條朝時)が入洛した。
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     右画像の赤枠が閑院の範囲(約150m強)。クリック→拡大表示。
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   ※多田基綱: 頼朝の粛清により本領の多田荘(猪名川町〜川西市の
猪名川流域にあった摂関領・地図)を没収された多田源氏嫡流行綱の四男。基綱が院方に加わったのは偏に旧領を回復したい一念からだろう。
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   ※美濃源氏: 源頼光→長男頼国→五男頼綱→三男国直が美濃国の
山県郡(現在の山県市)に土着したのが最初、とされる(共に清和源氏の系図を参照)。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月23日
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吾妻鏡
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去る16日に京都を発った相模守北條泰時と武蔵守北條時房の飛脚が今夜丑刻(深夜2時前後)鎌倉に到着した。合戦が無事に終結し天下が鎮まったとの詳細が記載してあり、全ての人々が喜びあったのは無論である。
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直ちに後鳥羽上皇の近臣や公卿殿上人の罪名や洛中の治安についての決定を行った。大官令禅門(大江廣元)が文治元年の決定事項と先例を沙汰を確認して箇条に書き出し、進士判官代橘隆邦がこれを清書した。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月24日
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吾妻鏡
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相州泰時と武州時房が申請した通りに、合戦を首謀した公卿が六波羅に引き渡された。按察卿葉室光親武田五郎信光の預かり、中納言藤原宗行卿は小山新左衛門尉朝長(朝政の嫡子)の預かり、入道二位兵衛督源有雅卿は 小笠原次郎長清の預かり、宰相中将藤原範茂卿は式部丞北條朝時の預かりとなった。
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今日寅刻(早暁4時前後)に安東新左衛門尉光成が昨日の決定内容を持って鎌倉から上洛の途に就いた。
京都で処理すべき内容を右京兆北條義時から直接光成に指示した内容である。
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   ※藤原宗行: 権中納言正三位。父は後鳥羽院の側近宗頼で生母は同じく後鳥羽院腹心の女官公二位。
当然のように院の近臣となり、有能な実務官僚として院の雑務処理を管理していた。
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   ※安東光成: 有能な御内人(得宗家臣)として義時と泰時の腹心に任じた尾藤景綱の甥。平盛綱 や尾藤景綱と
協力し、二代執権義時から五代執権時頼まで代々の執権に仕えている。
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西暦1221年
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84代 順徳
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承久三年
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6月25日
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吾妻鏡
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合戦の首謀者が引き続いて六波羅に引き渡された。
大納言坊門忠信卿は千葉介胤綱(成胤の嫡子で六代当主)の預かり、宰相中将一条信能は左衛門尉遠山(加藤)景朝の預かり、刑部僧正長賢と観厳は結城左衛門尉朝光の預かりとなった。二位法印尊長(一条能保の四男)と能登守藤原秀康(籘姓足利氏)らは逐電して行方不明、また熊野法印(小松を称す)と天野四郎左衛門尉は斬首となった。
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   ※遠山景朝: 加藤景廉の長男。美濃国遠山荘(現在の恵那市一帯)の地頭を継承して遠山氏の祖となり、分家
の子孫からは江戸町奉行の遠山金四郎景元が出ている。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月28日
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吾妻鏡
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伊豫国の住人河野入道(河野通信)は領内の武士を動員して京方に与して戦った首謀者の一人である。
武州泰時は河野入道に与しなかった伊豫国内の武士に河野の追討を命じた。
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   ※河野通信: 治承四年(1180)8月の頼朝挙兵に呼応し伊豫で反平家の兵を
を挙げた最古参の御家人(65歳)。
河野家に伝わる「六波羅下知状」に以下の記載がある。
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伊豫国住人河野四郎通信は院宣を帯すと称して一族および伊豫国の勇士を相率いて合戦をした一方の張本である。
早く一揆の力を合わせて忠戦の功を励まし早急に身柄を拘束し連行すべし。河野に与して謀反を図る輩は軍兵を送って征伐する事になる。鎌倉殿の仰せに従って命令する。
       承久三年 六月二十八日    武蔵守(花押)
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右画像は三島水軍の総帥・河野通信着用の「国宝 紺糸威鎧」(クリック→拡大)。
大三島の 大山祇神社が収蔵する源平合戦時代の代表作。
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   ※通信の墓: 通信の嫡子通政は西面武士として朝廷側で承久の乱を
戦い、敗北後は所領の伊予で父と共に翌年まで抵抗した後に投降し通政は斬首となった。.
通信は暦年の勲功により死罪を免れ、陸奥国江刺郡に流されて翌・承応元年(1222)5月に国見山極楽寺(岩手県観光協会サイト)で没した。
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通政の弟・通広の子が時宗の開祖一遍上人。諸国を布教に歩いた弘安三年(1280)に祖父通信の墓を訪れた様子を描いたのが一遍聖絵(国宝)。
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この絵が通信の墓所・ひじり塚(北上市稲瀬町水越54−2、地図)を発見する根拠となった。
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   右画像は一遍聖絵に描かれた祖父通信の墓に詣でる光景 北上市のひじり塚(クリック→拡大)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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6月29日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)、安東新左衛門尉光成(24日に鎌倉を発ったとの記録あり)が六波羅に到着し、洛中および周辺で謀反に加わった者の断罪に関する事柄を伝えた。
相州泰時と武州時房は鎌倉からの書状を開き、駿河前司三浦義村および毛利季光入道らと協議した。
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   ※戦後処理: 6月16日には「(泰時は)苛烈ではない事後処理を行い世間の賞賛を受けた。」との記載があるが
実際には容赦ない処罰が行われている。尼将軍政子執権義時の怒気が伝わってくるようだ。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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7月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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今回の合戦を首謀した公卿の面々を断罪すべきとの宣下があった。武州時房は「彼らを預かっている御家人は早急に関東に連行せよ」との命令を下した。
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   ※関東に連行: 実際には「京都で殺さず、関東に送る途中で処断せよ」との命令である。それにしても自ら主導
した倒幕作戦なのに、加わった公卿に罪を着せて「断罪せよ」と宣下した後鳥羽上皇の卑劣さは目を覆うようだね。自分の恥ずべき行動が歴史に残るという自覚が皆無だもの。
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まぁ、自民党に媚びて集団的自衛権の行使を容認した公明党や創価学会も同じ轍を踏んでいるのを見れば、「彼らが全く歴史に学んでいない愚か者」だと証明しているのは、判る。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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7月2日
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吾妻鏡
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西面の武士を四人、引き回して斬首し首を晒した。武士に関する極刑の掟は朝廷の判断には左右されない、その考えに基づく措置である。この四人は、検非違使従五位上行左衛門少尉藤原朝臣後藤基清(命令を受けた子息の左衛門尉基綱 による斬首)・五條筑後守従五位下行平朝臣五条有範・山城守従五位下源朝臣佐々木廣綱・検非違使従五位下行左衛門少尉大江能範朝臣らである。
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彼らは関東の御家人であり、右大将家(頼朝)の恩を受け数ヶ所の荘園の地頭職に任じていた。更に右府(右大臣)将軍(実朝)の推挙を受けて五位の位階に昇る事ができた。例え勅命を重く考えたとしても、将軍の心に対して恥じる思いもなく遺志を踏みにじるのは武士の道に背く行為である。
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   ※資料: なにごとも、思いに拠らぬ事ばかりで、〜 中略 〜 各々が迂闊に動かず長い目で見るように。
深いこころざしは理解している。この文は間違っても披露してはならない。 あなかしこ  7月3日
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上記は原財閥の創始者原善三郎(wiki)が収蔵していた古文書で、後鳥羽上皇の宸筆とされる。
真贋は不明だが、毀誉褒貶・感情の起伏が激しく能力も低い事を物語っているのは間違いないし、少なくとも自分の過誤で多くの臣下を殺してしまった自覚は見られない。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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7月5日
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吾妻鏡
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宰相中将一條信能は遠山左衛門尉景朝(6月25日を参照)に連行され美濃国に下着、直ちに当国遠山庄で首を刎ねられた。今回の合戦を首謀した公卿は全て洛中で斬罪に処すのが鎌倉の命令だったが、洛外の方が良いだろうとした武蔵守北條泰時の判断である。
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   ※一條信能: 後白河院の寵臣だった一條能保の二男。能保の正室は
頼朝の同母妹(姉とも)の坊門姫。もし坊門姫の息子だったら殺されずに済んだだろうが、信能は異腹だった。
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信能は後鳥羽上皇の近臣として源有雅と共に承久元年(1219)1月の三代将軍実朝の右大臣拝賀に同席して公暁による殺害を目撃している人物。この戦乱では芋洗(伏見方面)の守備隊を指揮し三浦義村勢に惨敗した。
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   ※遠山景朝: 古参御家人加藤景廉の嫡男。父が数多くの勲功で得た
美濃国遠山荘(恵那市〜中津川市)の地頭を務め、美濃遠山氏の祖となった。遠い子孫に遠山金四郎がいる。
鎌倉時代の本拠は岩村城址の北麓の大円寺跡から富田一帯の平地(地図)にあった。
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   ※遠山荘: 三州街道(三河(岡崎)〜信州(塩尻)を結ぶ現在の国道153号)の平谷と中仙道を繋ぐ要衝である。
50km東の三州街道阿智村駒場は元亀四年(1573)4月に甲斐へ撤退途中の信玄が病没した地と伝わっている。この地を得た加藤景廉は現地に赴任せず後半生を鎌倉で過ごし、承久の乱後に景朝が土着して遠山氏を名乗ったらしい。遠山荘の知行権(≒所有権)は近衛家だが遠山氏が地頭請として実質的な支配権を握る事となった。
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   ※地頭請: 荘園領主(近衛家)に毎年一定額を納め、地頭が荘園の管理・支配・徴税権を得る不在地主制度。
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   ※斬首の地: 吾妻鏡では7月5日、公卿補任(朝廷の歴代の職員録)では8月14日とされる。連行の指示が7月
1日で藤原光親の甲斐での斬首が12日、最後の源有雅が甲斐稲積庄で斬られたのが29日だから、京から最も近い遠山での処刑が5日でも違和感はない。
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わずか32歳で斬首された信能を哀れんだ遠山荘岩村相原の村人は処刑地に祠を建てて霊を弔い続け、明治十三年(1880)の明治天皇中山道巡幸を契機に岩村(正式には巌邨)神社と称するようになった。右画像は岩村神社の社頭(画像をクリック→拡大表示)。
巌邨神社の地図はこちら(by yahoo)、地番は恵那市岩村町若宮749。普段使っているMapFanの地図は細かい表示に向かないのが欠点だ。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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7月6日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇が四辻仙洞から鳥羽殿に遷られた。大宮中納言西園寺實氏と左宰相中将藤原信成と左衛門少尉藤原能茂の三人が各々騎馬で御車の後に従った。洛中の屋敷は主人を失って扉を閉ざし、離宮(鳥羽殿) の柴垣には兵士が列を成している。君臣共に、後悔で断腸の思いだろう。
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   ※百錬抄: 7月7日、鎌倉からの使者が参洛した。天下が騒ぐような
事件が重なるのだろうか。
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   ※六代勝事記: 太上天皇(仲恭)は鳥羽殿に遷られた。東国の軍勢
が道を挟んで旗を飜えす中、後鳥羽上皇は大宮中納言と左宰相中将と左衛門尉能茂だけを供にて四辻殿を出られ八日には出家された。
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右画像は鳥羽離宮跡一帯の鳥瞰図 (画像をクリック→拡大表示)。
敷地は東西1.5km×南北1km、西は鴨川の天神橋東詰から東は東高瀬川までの1.5km、南は津知橋通りから北の鴨川南岸に至る1kmの広大なエリアである。当時の姿を再現した想像図はwikiによる画像紹介を参照されたし。
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このエリアは徳川幕府の命運を決した鳥羽伏見の戦い(wiki)の舞台でもある。徳川勢がもう少し上手に戦っていれば会津の悲劇もなかったし、越後長岡藩の河井継之助も無駄死にせずに済んだし、長州の田舎侍に大きな顔をされる事もなかったし、安倍晋三ごとき軟弱者が首相になることもなかった、かも知れない(無念だ!)。
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私は東京生まれだが母方の先祖は福島の貧乏侍、1868年の会津戦争の恨みや福島原発事故の恨みがあるから、薩長や自公政権とは決して手など握らないのだ!(笑)
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西暦1221年
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85代 仲恭
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承久三年
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7月8日
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吾妻鏡
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新しい帝には持明院入道守貞親王の継承が望ましい、それが鎌倉の意向である。また摂政の九条道家は退任し、前関白の近衛家實 (基通の長男)が摂政の詔を受けた。
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今日、後鳥羽上皇は御室道助(後鳥羽院の息子で生母は坊門信清の娘。仁和寺第八代門跡に任じた法親王)を御戒師として出家され、落飾に先立っ先信實朝臣を召して似顔絵を描かせた。後鳥羽院の生母七條院殖子は警固の勇士を伴って鳥羽殿に御幸し対面し、ただ涙を抑えて還御された。
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   ※鎌倉の意向: 土御門上皇は倒幕計画に関与せず、幕府は処罰しない方針を執ったが、土御門は父の後鳥羽
と弟の順徳の流罪に準じて自ら土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を与えた。
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幕府は後鳥羽の系統が帝位に就くのを許容せず、幼い仲恭天皇も退位させ直系の全員を出家または臣籍降下させる措置を取ったが、男子皇族が守貞親王の三男茂仁王のみとなったため第86代後堀河とし、違例ながら守貞親王を法皇として院政を認めることとなる。
せっかく復権したものの守貞は2年後に逝去し、「後高倉院」を追贈された。
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   ※守貞親王: 第82代後鳥羽天皇の同母兄で、第81代安徳天皇の異母弟。本来は安徳の次期天皇になる筈
だったが寿永二年(1183)7月の平家都落ちに同行させられ、壇ノ浦合戦から救出された時には既に実弟の後鳥羽が着位していたという、実にアンラッキーな人物(「天皇家の系図」を参照)。
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哀れといえば仲恭天皇も同様で、満2歳6ヶ月で着位し2ヶ月半後の満2歳9ヶ月で廃位、後に復位の求める動きもあったらしいが生母の実家である摂政九条道家(鎌倉四代将軍藤原頼経の父)邸に引き取られ軟禁に近い状態のまま17歳で崩御した。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月9日
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吾妻鏡
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今日践祚(天子の交代)である。仲恭天皇は高陽院皇居で退位し、密かに九條院に行幸した。戌刻(20時前後)に新帝の後堀河天皇(持明院の二宮、10歳)が軍兵の警護の中を持明院殿から禁裏に入った。
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   ※後堀河: 第85代仲恭天皇は2歳9ヶ月で「廃位」、後堀河天皇(9歳
4ヶ月)が践祚した。践祚は天子の位に着くことで、その事実を内外に告知するのが即位。後堀河の即位は12月1日になるので、その間はやむを得ず仲恭と併記しておく。
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   ※持明院殿: 京都御所の北西に、光照院門跡(京都観光サイト)として
残っている(右画像)。通称は常磐御所、元は藤原基頼(wiki)の屋敷で、彼の孫娘が守貞親王妃となり、その後数代の上皇が仙洞(上皇の御所)とした。
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鎌倉幕府の滅亡後、足利高氏(尊氏)らが擁立した持明院統(89代後深草天皇系)光明天皇の北朝と、摂津を本拠とした大覚寺統(90代亀山天皇系)後醍醐天皇の南朝(吉野朝廷)が皇位を巡って争う、私の余り好きじゃない南北朝時代の到来だ。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月10日
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吾妻鏡
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中御門入道前中納言の藤原宗行卿は新左衛門尉小山朝長に連行されて鎌倉を目指した。今日遠江国菊河の駅に宿泊したが一晩中眠れず、1人窓に向かって法華経を唱え宿の柱に漢詩を書き残した。
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   昔南陽縣菊水  汲下流而延齡  今東海道菊河  宿西岸而失命
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   ※詩の意訳: 昔日の人は南陽県の菊水の下流を汲んで齢を延ばし、
今は東海道菊川の西岸に宿して命を失う。
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南陽縣の菊水は中国河南省内郷県の白河支流、鞠水は崖上に咲く菊の露が滴り落ちた甘い水で、これを飲めば長生きできるとの伝説があった。国道一号菊川バイパス近くの旧東海道沿いに宗行が詩を書いた宿館の跡があり、記念の碑が残っている。
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ただし宗行はここでは殺されず、更に東の浮嶋ヶ原で斬られた、と伝わっている。
  右画像は「菊川の里会館」の記念碑(画像をクリック→拡大表示・地図
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月11日
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吾妻鏡
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相州北條泰時以下への恩賞が行われ、後鳥羽上皇に加わった輩の所領を没収して分与した。
今日、山城守佐々木廣綱の子息(勢多伽丸・満12歳)を仁和寺から六波羅に呼び出した。御室(道助)の御寵童であるため芝築地の上座に座らせた。真昭が武州北條時房に申し出た内容は次の通り。
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廣綱の罪が重い事に疑問の余地はないが、この子供は門弟として長く務め、合戦への関与もありません。十余歳で一人だけ残された者に悪行の恐れもなく、今までと同様(御室に)預け置くのが良いと考えます。
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母親もまた六波羅で助命を嘆願した。武州時房は御室の使者と面会し、「申し入れを尊重して処分を猶予します。容姿の華麗さと母親の嘆きが共に哀れですから。」と答えて仁和寺に戻した。しかし勢多伽の叔父である佐々木四郎右衛門尉信綱が強く抗議したため再び出頭させて信綱に引き渡したところ、斬首してしまった。
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   ※御室道助: 後鳥羽上皇の息子で生母は坊門信清の娘。仁和寺第八代門跡に任じ、7月8日には法親王として
後鳥羽出家の戒師を務めている。
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   ※真昭: 時房の三男資時の法名。前年の1月に兄の次郎時村と共に出家、幕府に留まっている。
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   ※勢多伽丸斬首: 没収した廣綱の遺領は親族による継承が当時の習慣で、勢多伽丸を殺せば独占できる。
実際に佐々木氏所領の大部分は信綱の所有となり近江国は4人の息子が分割相続して各々大原氏・高島氏・六角氏・京極氏として繁栄することになる。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月12日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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按察卿葉室光親(先月出家して法名を西親)は武田五郎信光の預かりとして鎌倉に向かっていた。駿河国車返の近くで鎌倉からの使者が到着して斬首の命令を伝え、加古坂で梟首となった。年は46歳、後鳥羽上皇無双の寵臣であり、葉室一族の当主として優れた才能を備えた人物である。
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今回の挙兵に関しては特に思い悩み、上皇には正しい判断をされるよう諫言を繰り返していた。最終的には叡慮に背く形となり、不本意なまま義時追討の宣旨を書き下す結果となったのは「忠臣とは諌めた後に従う」と言われる通りの行動である。葉室光親を斬首した後に上皇を諌めた書状数十通が仙洞(院の御所)に残っているのが見つかり、武州北條泰時は光親を斬ったことを酷く後悔した。
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   ※加古坂: 国道138号の近くを通る籠坂峠の古名。甲斐の酒折から
河口湖と西湖の間を経て山を越え須走に下る御坂路(鎌倉街道)が通っていた。光親は国道沿いの加古坂神社から山道を300mほど先で(地図)で斬られた、と伝わる。
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処刑に立ち会った真言宗・山尾山普両庵・現在の日蓮宗実成山久成寺地図)の僧が庵の墓地(御殿場)に埋葬、現在は大御神(おおみかみ)と呼ぶ五輪塔が墓石らしい。
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但し「駿河国車返」は現在の沼津なので御坂路からは大きく外れるのが気にかかる。信光が本領の甲斐(甲府盆地)に立ち寄ってから足柄峠経由で鎌倉を目指し、篭坂峠から10km南の普両庵から僧を呼んだと考えれば、一応の辻褄は合うのだが...。
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     右画像は国道から処刑の地への登坂地点。画像をクリック→詳細(別窓)へ
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   ※御殿場: この地名は元和二年(1617)に没した徳川家康の遺骸を久能山東照宮から日光東照宮(共に公式
サイト)に移す際に「仮に安置する御殿を建てた場」が発祥。足柄峠を越えて日光を目指したらしい。
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久成寺(くじょうじ)寺伝に拠れば普両庵の創建は光親死没と同じ承久三年、これは光親の菩提を弔って開いたのが起源なのだろう。日蓮宗に改めたのは南北朝時代の暦応元年(1338)9月、鎌倉幕府滅亡から5年後で、日蓮没後からは60年近くが過ぎている。
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改宗した際の開山和尚は北山本門寺(公式サイト)を開いた日興上人に師事した日済、同じ富士宮の西山本門寺とは同じ法華宗ながら宗派を別にする巨刹である。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月13日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇が鳥羽離宮から隠岐国に遷御された。甲冑姿の武士が御輿の前後を囲み、供は女房三人と内蔵頭清範入道だが清範入道は途中から急に呼び戻され、施薬院使長成入道と左衛門尉能茂入道が供に加わった。
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今日、入道中納言宗行が駿河国の浮嶋原を通る際に荷物運びの疋夫が泣きながら歩いているのに行き逢った。話を聞いてみると按察卿(葉室光親)の従者で、昨日斬首された主人の遺骨を拾って帰洛する途中である、と。
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京都を出た時から死罪は避けられないとは思っていたが、同じ境遇だった按察卿の最期を知って死を待つだけの思いを改めて噛みしめた。黄瀬河の宿に休息した際に筆と硯があったので傍らに和歌を書き付けた。<
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      けふすぐる 身をうき嶋の 原にてぞ 露の道とは きヽさだめつる
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菊河の駅では優れた漢詩を残して後世まで詠み伝えられ、黄瀬河では和歌を詠じてひと時の愁いを散じた。
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   ※浮嶋原: 富士山南麓の湿地帯(地図)。約1.5km東には阿野全成の館跡・大泉寺がある。当時の東海道の
本道は現在の沼津千本松原を通っていたと思われるが(維盛の墓と六代松碑を参照)、サブとして大泉寺ルートも使われていた、と思う。
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   ※黄瀬河: 狩野川と黄瀬川の合流点に近い宿駅。近くには富士川合戦の直後に奥州平泉から駆け付けた義経
と頼朝が歓談した八幡神社がある。黄瀬川の風景も参考に。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月14日
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吾妻鏡
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藍澤原に至り、黄門(中納言)藤原宗行は護送の役に任じた小山朝長の手で斬首となった。没年は47歳、読経を続けつつ最期の時を迎えた。
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   ※藍澤原: 足柄峠の西麓一帯。御殿場駅に近い藍沢五卿神社(地図)
が宗行処刑の地と伝わる。社殿の左手、墓の痕跡と思われる小さな塚の上に石碑が建っている。
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五卿とは7月5日に美濃遠山荘で斬られた一条信能卿、7月12日に加古坂で斬られた藤原光親卿、7月14日に藍澤原で斬られた藤原宗行卿、7月18日に足柄東麓で入水した藤原範茂卿、7月29日に甲斐稲積庄で斬られた源有雅卿の五人である。 右画像は五卿神社。画像をクリック→五卿神社の明細(別窓)へ。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月18日
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吾妻鏡
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式部丞北條朝時の預かりとして鎌倉に向っていた甲斐宰相中将源(藤原)範茂は足柄山の麓で早河の底に沈められて没した。「五躰不具では成仏に支障あり」として水死を望んだ結果である。
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   ※源範茂: 範茂は後鳥羽上皇の寵臣であり、姉の重子(修明門院)が産んだ順徳天皇の近臣でもあった。
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鎌倉幕府に対してやや批判的な立場だった父の影響に加えて、後鳥羽と順徳が幕府打倒を計画して承久の乱を起したのだから、範茂(享年は37歳)が積極的に関与したのはごく自然な結論だったと思われる。懐疑的な立場だった葉室光親に比べると、むしろ積極的に倒幕計画に加わっていた。
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範茂の正妻は平知盛の娘(中納言局)。治承五年(1181)生まれの彼女は寿永三年(1184)2月に一ノ谷合戦で同母兄の知章を討たれ、翌3月には壇ノ浦で父の知盛を失ったが母と共に生き延びて都に戻った。
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承久の乱では当時16歳の嫡子範継も参加していたが、彼は泰時の配慮で死罪を免れている。
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   ※承久記: 甲斐宰相中将(源範茂)は式部丞北條朝時 と供に下向し、
「五体不具の者は往生に支障あり、入水を」と申し出た。
「どの様にも計らいましょう」として籠を組み石を積んでその上に据え左右の膝を縛り付けて沈めた。
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   ※足柄山の麓: 南足柄市怒田(地図)の史跡公園にある宝篋印塔が範茂卿の墓。早河は現在の貝沢川、深みを
作るために川を堰き止め、袂に石を入れて入水した。哀れに思った朝時主従が北の高台に葬ったとの伝承が残っている。 右画像をクリック→史跡公園(別窓)へ。
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   辞世  思いきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身の やどるべきとは
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月20日
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吾妻鏡
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新院(順徳上皇)が佐渡国に遷御。花山院少将一條能氏朝臣・左兵衛佐範経・北面の武士左衛門大夫康光が供奉し、女房二人が同様に付き添った。国母(順徳の生母修明門院藤原重子)・中宮の東一條院(九条立子)・一品宮(諦子内親王(明義門院)か?)・前帝仲恭(九条廃帝)・いずれもwiki)らは別離の嘆きを交わす他になす術もない。
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羽林(花山院能氏)は体調が優れず途中で帰京、武衛(左兵衛佐範経)も重病のため越後国寺泊浦に留まった。両院(後鳥羽と土御門)も臣下たちも二度と会えない別離と思い、悲しみは尽きなかった。
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   ※寺泊浦: 新潟港の50km手前、一時期の買い物ツァーで人気の高かった寺泊港。佐渡流罪の出航地は正確
には判らないが現在のフェリーターミナルの近辺だと思う。
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   ※順徳上皇: 温和な兄土御門天皇より性格が強く、父の後鳥羽上皇
の強い期待を受けて皇位に就き、挙兵に備え退位して上皇となっていた(当時24歳)。
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新院順徳は流刑地の佐渡で21年間を過ごした後の仁治三年(1242)に真輪寺の阿弥陀堂(現在の真野宮)で崩御。佐渡の伝承は「京に戻れる望みがないなら存命しても意味なし」として自殺に近い最期だった、と。
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父の後鳥羽上皇がその3年前・延応元年(1239)2月に隠岐で崩御した影響があったのかも知れない。
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亡骸は荼毘に付され、遺骨は阿弥陀堂の東に松と桜を植えて葬られた。この場所が後に真野御陵として整備され、現在は宮内庁の管理下にある。
陵は佐渡市真野448(地図)。遺骨は翌年に掘り出されて都に運ばれ、大原の後鳥羽院近くに改葬されている。  右画像は真野御陵 (画像をクリック→拡大表示)
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   ※仁治三年: 6月15日には三代執権泰時も死没しているのだが、吾妻鏡にはこの年の記事がない。
何か意味があるのか、それとも単なる散逸・脱落か。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月24日
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吾妻鏡
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六條宮を但馬国に遷した。相州時房と武州泰時の命令を受けて法橋常陸房昌明が警護・護送を担当した。
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   ※常陸房昌明: 元は延暦寺の僧。この年に但馬国守護に任じているから、護送に任じたのはその関係だろう。
前任者は頼朝の存命中から出雲国と但馬国守護を兼任していた安達親長(出自不明)で元久二年(1205)には平賀朝雅追討に加わったが、承久の乱では院方に味方して守護を解任された。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月25日
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吾妻鏡
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冷泉宮を備前国豊岡庄児嶋に遷した。佐々木太郎信實法師が武州泰時の命令を受け子息に警護と護送を担当させた。またこの日、阿波宰相中将信成と右大弁光俊朝臣が流刑地に出発した。
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   ※親王の消息: 雅成親王は5年後の嘉禄二年(1226)に配流地で出家した
後鳥羽上皇崩御後に赦免され、寛元二年(1244)には京で修明門院(生母)と暮らしている。
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その二年後に九条道家が息子の四代将軍藤原頼経(寛元二年に退位して息子の頼嗣が五代将軍)と協力して後嵯峨天皇を廃し、雅成親王を次期天皇に擁立する動きを見せた。
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結果として執権時頼の圧力を受けた道家は失脚し、頼経は京へ送還、雅成親王も再び但馬国に送り返され建長七年(1255)に配流地で没している。
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備前国豊岡庄児嶋に流された異母弟の頼仁親王は文永元年(1264)に配流地で死没している。一説に南朝の後醍醐天皇の忠臣児島高徳(wiki)は親王の子孫とされるが、信頼性は乏しいようだ。親王の遺恨を継いだようで話としては面白い。
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   ※頼経送還: 後に 三浦一門を継承した三浦泰村は四代将軍頼経との関係を
深めて勢力を伸ばし、更に弟光村は五代将軍頼嗣との関係を深め幕政での発言力を増した。
頼経の送還には三浦氏の勢力拡大を抑える執権北條時頼の意図があり、これによって生まれた両者の溝が宝治元年(1247)に全面衝突して三浦一族が滅亡に至る引き金の一つに発展していく。承久の乱で怨みを残しつつ死んだ三浦胤義のタタリか?
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   ※児島高徳: 太平記のみに記載され、他の史料では確認できないため実在は疑問視されている。
桜の幹を削って後醍醐天皇への忠誠を誓い零落の境遇を励ます漢詩を記した逸話から、戦前は忠臣の鏡とされていた。太平記の編者として実在する人物・小島法師がモデル、あるいは児島高徳の存在自体が小島法師のフィクション、と考える説もある。
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備前国児島郡(倉敷市周辺)出身の武士で、後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵した際から参戦し数々の功績を挙げたとされているのだが、倒幕に関する合戦の論功行賞記録には高徳の名前は載っていない。後醍醐が忘れたのか?(笑)。
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新田荘に近い群馬県大泉町には児島高徳の墓所がある。実在以上に眉唾みたいな気もするが、新田義貞の弟・義助の息子義治とは共に戦ったと伝わるから、荒唐無稽と一蹴する程でもない。
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  画像をクリックすると彼が隠棲した(と伝わる)高徳寺のレポート(別窓)にリンクする。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月26日
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吾妻鏡
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幕府に於いて今回の合戦に関して勲功の賞および畿内西国の守護職などについての任命が行われた。
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   ※守護職など: 7月24日に記載の常陸房昌明の但馬国守護着任はこの日の正式発令か。
確認できる範囲では越前国が大内惟信→島津忠久、若狭国が津々見忠季→島津忠時、
近江国が佐々木廣綱→佐々木信綱、伊賀国が大内惟信→不明、長門国が惟信→北條時房、
紀伊国が後鳥羽→三浦義村、和泉国が後鳥羽→逸見氏、播磨国が後藤基清→小山朝政、
備前国が佐々木廣綱?→佐々木信実、石見国が佐々木廣綱→小鹿島公業、
淡路国が佐々木経高→長沼宗政、阿波国が佐々木高重→小笠原長清、などが交代している。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月27日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇が出雲国大浜湊に到着し乗船。警護の武士は概ねここから帰京した。
上皇は御歌を七條院(後鳥羽上皇の生母)と修明門院(寵妃・女院、同行は許されず)らに贈った。
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      たらちめの きえやらでまつ 露の身を 風よりさきに いかでとはまし
      しるらめや うきめをみほの 浦千鳥 なくなくしほる 袖のけしきを

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   ※大浜湊: 13日に都を離れた後鳥羽上皇 は14日を費やして隠岐
へ渡る風待ちの大浜湊(地図)に着いた。出航を待つ上皇御座所は美保の真言宗古刹三明院、天正年間(1573〜1592年、織田信長の頃)に改宗して現在は浄土宗竜海山仏谷寺(宗派の公式サイト)となっている。
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隠岐島までの距離は直線にして60kmだから当時でも1日の船旅に過ぎないが、順風を待つ必要があって隠岐島に到着したのは8日後である。
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上皇は出航する前に和歌を詠み都に帰る者に託した。途中の海が荒れた時に(あるいは崎の地に上陸した時に)詠んだ歌が、増鏡に拠れば...
                  われこそは 新島守よ 沖の海の 荒き波風 こころして吹け
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つい半月前には上洛した鎌倉武士を恐れて、命掛けで協力した在京御家人の追討令を出した人物が何を偉そうに...なんて書くと戦前なら間違いなく不敬罪だね。罰金で済んだら不経済だ。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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7月29日
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吾妻鏡
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入道二位兵衛督源有雅(先月出家、46歳)が小笠原次郎長清の預かりとして甲斐の国に下着した。
多少の縁がある二品禅尼(尼将軍政子)に助命を嘆願し、返事が来るまで暫く待つように願ったが長清は許さず、当国の稲積庄小瀬村で斬首した。その後に刑を免除するとの二品の書状が届いたが、間に合わず、急ぎ過ぎての決断は恨みを残すものであった。
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   ※源有雅: 宮廷歌謡を司る家柄・堂上楽家「郢曲源家」の嫡流。
父は宇多源氏の通家、母は伊予守藤原信経(紫式部の従兄)の娘で崇徳天皇の中宮・皇嘉門院(摂政藤原忠通の娘)の雑仕を務めた真木屋。
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従二位権中納言藤原範光の娘で順徳天皇の乳母を務めた憲子を娶って出世を重ね、後鳥羽上皇の側近として建暦二年(1212)には権中納言に昇進していた。
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軍事経験が皆無なのに官軍を率いて宇治に出陣し惨敗、実務能力には乏しかったのだろう。<吾妻鏡は「二品禅尼(政子)と聊かの因縁あり」と書いているが接点は不明。
政子上洛した際の交流か、実朝を介しての知己だろうか。
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   ※処刑の猶予: 有雅を葬った場所から200mほど南に「有雅幽閉の地(浄福廃寺跡)」と伝わる場所があり、暫く
猶予があった可能性もある。 右画像は有雅の供養塔。画像をクリック→墓所の詳細(別窓)へ
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大納言坊門忠信卿が遠江国舞沢から京都に戻った。彼は今回の合戦で大将軍に任じ、千葉介胤綱(6月25日の記載を参照)預かりとして下向の途上にあった。しかしながら右府将軍(実朝)の正室だった坊門忠信卿の妹・西八條禅尼(信子)から二品禅尼政子への申し入れもあり、その罪を減じた結果である。
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   ※遠江国舞沢: 六代勝事記(鎌倉前期編纂の歴史物語)は「はまなの橋よりぞかへりにし」と書いている。
現在の浜松市西区舞阪町(地図)に舞沢の地名が残り、江戸時代には浜名川を挟んで東側が舞阪宿、西側が新居宿(昔日の橋本驛)だった。
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現在の地形は大きく変っているが、元慶八年(884)改修の浜名橋は長さ56丈(約166.9m)・巾13尺(約3.9m)・高さ16尺(約4.8m)と記録されている。架橋の場所や当時の地形などはこちらのサイトに詳細が載っている。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月2日
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吾妻鏡
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大監物源光行は清久五郎行盛に連行され鎌倉に下向し、今日巳刻(10時前後)に金洗沢に着いた。
行盛は子息の太郎を派遣して前右京兆北條義時に処分を問い合わせ、「その場で処刑せよ」との命令を受けた。関東から様々の恩沢を受けながら東国御家人の名簿を提出し、加えて宣旨に添え書きするなどの罪科は重篤である。
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光行の嫡男・源民部大夫親行は鎌倉で功績を重ねた者で、涙を流して死罪の減刑を願ったが許容されず、更に伊豫中将(一条実雅)に頼み込んで遂に助命が認められた。親行は金洗沢に駆け付けて父の命を救い、小山左衛門尉朝政に引き渡された。光行は平家に与した父・豊前守光秀の助命を頼朝に懇願して許された事があり、その善行が息子の助けを招いたのだろう。
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今日の夕刻、陸奥六郎(北條有時)を始め(合戦に伴って)上洛していた多くの御家人が鎌倉に帰還した。
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   ※光行の減刑: 他の公卿などはごく簡単に斬首されているのに、光行は特例の扱いを受けている。光行親子が
二代の将軍(実朝と頼経)に仕えた関係か、「後鳥羽に味方したのは弟の光時、兄の光行は鎌倉側に加わっていた」との異説が正しいのか、判らない。
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   ※清久行盛: 清久郷(現在の埼玉県久喜市清久・地図)を本拠とした藤原秀郷流の御家人。6月18日の宇治川
合戦では二人を討ち取ったとの記載がある。
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   ※金洗沢: 腰越の約1.5km東、現在の江ノ電七里ガ浜駅付近。
平家物語異本では鎌倉に入ろうとした義経は金洗沢の関所で梶原景時に止められ腰越に追い返された、とある。
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また五代執権時頼の頃(1250年頃)の相州の刀工正宗(参考サイト)は金洗沢の砂鉄で作刀した、とも。
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日蓮忍性と雨乞いの祈りを競った池(参考サイト)もこの近くにある(地図)。
海岸に沿って走る国道134号に架かるのが「行合橋」、龍ノ口での日蓮斬首が江ノ島の方向から来た強烈な光のため執行できず、それを幕府に報告する使者と赦免を知らせる幕府の役人がここで出会った事から金洗沢は行合川、橋を行合橋と呼ぶようになったと伝わる。
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   ※源親行: 政所別当だった父の光行と交替する形で鎌倉に下向し、源実朝藤原頼経宗尊親王の三代将軍に
仕えて歴代の和歌奉行を担当した。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月3日
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吾妻鏡
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寅刻(朝4時前後)、検非違使従五位下の左衛門少尉藤原朝臣加藤景廉法師(法名を覺蓮房妙法)が没した。
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   ※加藤景廉: 頼朝挙兵に加わってから42年、韮山で山木判官平兼隆
を討ち取った最古参の御家人だが挙兵当時は満14歳、まだ老人ではないのだけれど...古参の御家人も既に世代交代の時代を迎えつつある。 光陰、矢の如し。
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     右画像は伊豆牧之郷に残る一族の五輪塔。
           画像をクリック→加藤一族の本領(別窓)へ。

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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月5日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇は隠岐国阿摩郡の刈田郷に着御した。仙宮(上皇の住まい)の様子はそれまでの翠帳紅閨(煌びやかな宮殿の比喩)が柴扉桑門(現実の住居の比喩)に変わってしまったもので、雲海と波濤の続く地である。
都を離れた悲しみが上皇の心を悩ますばかりだった。
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   ※吾妻鏡の記録: 暦仁二年(1239)3月15日、六波羅の使者が鎌倉に到着して報告。
去る2月22日、隠岐遠島の法皇が崩御(60歳)。25日に葬り奉った、と。
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   ※刈田郷御所: 正確な場所は不明だが、火葬塚(隠岐海士町陵)の
ある海士町周辺(地図)と推定される。
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18年後の延応元年(1239)2月に没した上皇は荼毘に付されて火葬塚に葬られ、遺骨の一部のみが京の大原に埋葬されている。また明治維新になって上皇の御霊は都に遷すべきだとの議論が起こり、陵墓を掘り返して正式に遺灰を運んだらしい。
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実際には只の土だったとか、後に廃仏毀釈運動で寺を取り壊した際に墓を掘ったら三重に埋められた甕が出土し、中間の青磁の壷の中は明らかに周辺と異なる土で更に最下層の壷の中は確認せず埋め戻したとか、そんな話も伝わっている。
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明治政府は「上皇は大原陵に遷したのだから火葬塚などは破却せよ」と命じたが、島民は陵墓を大切に保存し守り続けたらしい。
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右上画像は後鳥羽上皇の火葬骨を葬った隠岐海士町陵。右下画像は大原法華堂。
仁治二年(1241)に建立した法華堂は享保二十一年(1736)に焼失し、安永七年(1778)に再建して落慶法要が行われた。明治になって大原陵(後鳥羽と順徳)が築造され、法華堂にあった遺骨は陵墓に遷されている。(画像をクリック→拡大表示)
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当時の出雲・隠岐の守護は佐々木義清、佐々木四兄弟(母は源為義の娘)から見ると異母弟(生母は渋谷重国の娘)に当る。承久の乱での功績により守護として下向し、嘉禄元年(1225)に出雲守・安貞元年(1227)に隠岐守に任じている。
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元々は近江源氏で朝廷とも縁の深かった武士だから後鳥羽上皇にとっては地獄に仏の様な存在だった。更に在地の土豪・村上氏が義清の意向を受け衣食住に最大限の配慮を尽したらしい。
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もちろん愚痴を言えばきりがないし、多くの臣下が落命したのを考えれば当然過ぎる帰結なのだが、贅沢三昧・我侭放題に暮らした人物に彼らを思い遣る心などなく、ただ我が身の不遇を嘆くばかり。
ちなみに、この村上氏一族は後鳥羽上皇の没後に火葬塚を明治維新まで守り続けている。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月6日
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吾妻鏡
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大夫屬入道善信(三善康信)が老衰のため余命が幾許もない状態となった。これに拠り問註所執事を辞任し、嫡子の民部大夫三善康俊が後任に補された。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月7日
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吾妻鏡
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(合戦および事後処理が終わって)世の中が静謐となり、二品禅尼(政子)の夢想(3月22日の記事を参照)に符合する結果となった。この結果に感謝する目的で、所領を二所大神宮(伊勢神宮)に寄進した。内宮には後院(土御門)領の伊勢国安楽村と井後村、外宮には同領の葉若と西園両村である。祭主神祇大副隆宗朝臣に処理を委ねるため藤原朝定が寄進状を携えて使節を務めた。
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その他の諸社にも同様の寄進が行われた。鶴岡八幡宮には武蔵国の矢古宇郷(五十余町)の管理権を、諏方宮(諏訪大社)には越前国の宇津目保を寄進した。叛逆に加わった公卿・殿上人・御家人の所領についての明細を武州 (北條泰時)に書き出させたのは約3000ヶ所である。二品禅尼はこの没収地を合戦での勲功に応じて御家人に分与したが、差配した右京兆(北條義時は針を立てるほどの土地も得ようとせず、人々はこれを美談とした。
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   ※義時の無欲: 今更遠隔地に新たな領地を得るよりも御家人に分与する方がメリットが大きい、と判断しただけ
の話。こんな北條贔屓を重ねるから吾妻鏡は史料としての公平性を損なっている。
自民党や公明党の広報紙みたいな存在だと思いながら読む姿勢が必要だ、という事。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月9日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)、問註所散位従五位下(三善朝臣康信法師法名善信)死没、81歳。
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   ※三善康信: 治承四年(1180)の挙兵前から京の情勢を頼朝に伝えていた古参の御家人(文官)である。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月10日
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吾妻鏡
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法橋昌明は幕下将軍(頼朝)の時代に功績を挙げ、今回の戦乱勃発(5月15日の記事)に際して後鳥羽上皇から参加の勅喚があっても断固として鎌倉に背こうとしなかった。 これは既に二品禅尼(政子)の耳に届いており、まだ昌明からの報告は届かないうちに但馬国守護職への補任と庄園などを与える下文を先月中に発行(7月24日の記事)した。これと入れ違いに実績を報告した同月23日付けの書状が届き、二品禅尼を感嘆させた。
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去る5月15日の洛中合戦(勅命を受けた官兵が京都守護伊賀光季親子を追討した事件)の後に軍勢の参加を命じる院宣が但馬国の屋敷にも届けられた。昌明はその使者五人の首を斬り、院方に加わろうとした国内の軍兵の襲撃を受けた。昌明は防戦した後に深山に籠り、武州(北條泰時)の上洛を確認してから駆け付けた。
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「朝廷軍と鎌倉軍の合戦に当たり、命令を受けて上洛を目指した者の多くが矢を受け或いは水死したのは戦場の常である。しかし勝敗の帰趨さえ判らない時に(参入を命じた)院の使者を斬ったのは関東を重く考えている姿勢が明らかで、他とは異なる勲功である。」と、北條義時は判断した。
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   ※法橋昌明: 7月24日には相州時房と武州泰時の命令を受けて六條宮(後鳥羽院の皇子)を但馬国に遷した。
この時点で但馬守護に補任されていた、と思われる。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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8月15日
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吾妻鏡
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合戦によって天下に穢が満ちており、鶴岡八幡宮に於ける恒例の放生会は延期となった。
また、祈祷などによる功績で僧および陰陽師の多くが恩沢を得た。
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   ※承久記8月16日: 持明院宮(後鳥羽の同母兄で後堀河天皇の父)は異例の太上天皇(譲位後の天皇)号を
奉られ治天の君となったのは目出度いことである。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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86代 後堀河
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承久三年
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8月23日
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吾妻鏡
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中将一條實雅朝臣は先月28日に兼国となり、今日が讃岐国庁の業務始めとなった。通例に従って先使 の雑色を派遣し国務の五ヶ條を命じる手順を済ませた。民部大夫二階堂行盛(行光の子で政所執事)が書類を整えた。
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   ※兼国: 本来の官職の他に国司や太宰師(太宰府の長官)を兼務する事。實雅は参議(太政官の官職の一つで
四等官の次官)に任じており、今回は讃岐国司を兼務する。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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9月10日
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吾妻鏡
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叛逆者の処分に関して追加の沙汰が下された。刑部僧正長賢(後鳥羽上皇の護持僧)は陸奥国配流、賀茂禰宣大夫は甲斐国配流、同神主は鎮西配流。先月22日に、権中納言定高卿が出向いて官符を受け取ってきた。
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   ※配流の人々: いずれも院側で祈祷に任じた僧と神官らしい。
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西暦1221年
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85代 仲恭
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86代 後堀河
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承久三年
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9月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催した。合戦によって天下が大きく穢れたため延引していた神事である。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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9月16日
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吾妻鏡
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馬場での(流鏑馬など)神事は通例の通り催され、右京兆(北條義時)が奉幣を行った。神事の後に(今回の合戦で)軍忠を挙げた者への沙汰と右京兆からの感状発行があった。これらは勲功の明細に従っての措置である。
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また高陽院殿(4月17日の記事を参照)を警護するよう畿内の御家人に指示を下した。今日六波羅で当番の順序を定めた、と。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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9月17日
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吾妻鏡
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六波羅の使者が到着して報告。去る9日の夜半に大炊殿が焼亡し法皇は賀陽院に遷幸、放火である、と。
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   ※大炊殿: 内裏の厨房を示すらしい。賀陽院は高陽院殿(4月17日の記事を参照)に同じ。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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9月29日
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吾妻鏡
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大蔵卿僧都定雅(教雅を改名)が師範である定豪法印から譲られて鶴岡八幡宮寺の別当職に補任、今日赴任を報告する神拝を行った。
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   ※八幡宮寺別当: 圓暁−尊暁−帝暁−公暁−慶幸−定豪−定雅−定親・・・と続く。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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10月2日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に地震あり。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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10月12日
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吾妻鏡
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六波羅からの飛脚が到着して次の通り報告。
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先月25日、今回の合戦の張本人である能登守足利秀康と河内判官藤原秀澄が南都(広義には奈良、狭義には興福寺と東大寺)に隠れているとの情報があり、相州(北條時房)の立案により家人を派遣して搜索させた。
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両人は既に逃げ去っていたが、衆徒は夜討ちだと勘違いして取り囲み合戦となった末に衆寡敵せず、大部分が討ち取られた。僅かに残った僕童3人が六波羅に逃げ帰って事件の経緯を報告、相州と武州(北條泰時)は協議して翌26日午刻(正午前後)に在京と近国の武士数千騎を率いて南都に兵を進めた。
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これを聞いて狼狽した衆徒は木津川近くまで出向き、まず使者を介して「軍兵が南都に入れば平家が(東大寺と興福寺の)伽藍を焼き払った時と同じになってしまいます。今回の犯人らは必ず捕らえて引き渡しますので御猶予を」と懇願したため、猶予を与えて帰洛した。
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そして今月の2日に南都から秀康の後見人が六波羅に差し出された。また3日の夜半に殿下(太政大臣近衛家実・基通の嫡子)邸と右幕下(右大将西園寺実氏・公経の嫡子)邸が(放火により)焼け落ちた。前殿下(前太政大臣九条道家)邸も同時に放火されたが、これは消し止めた。叛逆の余韻は未だに続いている。
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   ※木津川近く: 山城国(京都府南部)と大和国(奈良)を結んで幾多の
歴史を彩ってきた奈良街道(奈良から見ると京街道)の国境とされたのが木津川(地図)。
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約5km南には元暦元年(1184)6月に斬首となった平重衡を埋葬したと伝わる塚(右画像、クリック→明細へ)があり、川を渡って7km北の旧道沿いには治承四年(1180)5月に討たれた以仁王終焉の地・阿弥陀寺と高倉神社(木津川市観光ガイド)がある。 (地図
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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10月13日
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吾妻鏡
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洛中の警固および叛逆に与した者の罪科についての決裁があり、六波羅からの使者を呼んで具体的に指示を与えた。担当は進士判官代隆邦である。
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武州(北條泰時)は京都に新しく伽藍を草創した。関東の若公(三寅・後の四代将軍藤原頼経)と二品禅尼(政子)の息災を祈り、併せて今回の合戦で落命した貴賤の菩提を祈るのが目的である。完成供養については今日内々に青蓮院宮(wiki)の僧正坊に申し入れ、門徒の中で叛逆に関与しなかった僧に読経させることになる。
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   ※北條九代記: 武州泰時は二品(政子)の健康を祈って東山高橋南の近くに塔舎を建立し、今日供養を遂げた。
大阿闍梨眞性僧正が二十日間で建造した事から二十日塔と呼ばれた。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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10月16日
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吾妻鏡
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六波羅からの飛脚が到着して次の通り報告した。
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去る6日の寅刻(早暁4時前後)に河内国で足利秀康藤原秀澄を捕らえた。これは(12日に拘束した)秀康の後見人の自白による成果で、8日には六波羅に連行となった。
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今回の戦乱の根源は彼らの謀略から始まったものであり、罪科には責めても余りある重さがある。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは10月の次が閏10月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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閏10月1日
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吾妻鏡
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弁法印定豪が刑部僧正長賢の跡を継いで熊野三山の検校職(運営事務を監督する役職名)に補任された。関東の合戦勝利を祈祷した褒賞として推挙した結果である。暫くは軽服によって蟄居していたが既に日数が過ぎ、今日右京兆(北條義時)に拝謁して推挙について礼を述べた。
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   ※軽服: 遠縁の死没に伴う軽い服喪。父母の服喪の場合は対語の「重服」を使う。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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閏10月10日
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吾妻鏡
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土御門上皇が土佐国に遷幸し後に阿波国に移った。女房四人と少将雅具、侍従の俊平らが従った。穏やかな性格の上皇だったが後鳥羽上皇の叡慮に殉じて南海に遷る結果となった。天照大神から第85代の現在に至るまで、三人の帝と二人の親王が配流の恥辱を受けるなど誰が想像しただろうか。
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   ※土御門上皇: 三歳で後鳥羽天皇の跡を継いだ第83代天皇。
土御門の温和な性格が不満だった後鳥羽上皇は承元四年(1210)に退位を強要し、異母弟の順徳天皇(14歳)に譲位させた。
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承久の乱には全く関与していなかったため処分の対象には含まれなかったが、父が隠岐遠流で自分が京で暮らすのは耐え難いと申し出て土佐国に流された。
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後に鎌倉幕府の配慮を受けてより都に近い阿波国(徳島県)に遷った。現在の鳴門市大麻町大谷(地図)、火葬塚(左画像)が残る地である。藤原光親と同様に、承久の乱で不本意な運命を辿った一人だった。
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上皇は配流11年後の寛喜三年(1231)に35歳で配流地で崩御(35歳)。火葬塚に葬られ、後に長岡京市金ケ原の金原陵(地図)に改葬された。天福三年(1233)に生母の承明門院が建てた法華堂の落慶供養が行われた記録があるから、改葬までの期間は比較的短かった。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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閏10月23日
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吾妻鏡
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武州(北條泰時)建立の堂舎で今日落慶供養の法事があった。曼陀羅(wiki)の供養である。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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閏10月29日
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吾妻鏡
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日吉社(現在の日吉神社・公式サイト)祢宜の祝部成茂は今回の叛逆に与した疑いがあって関東に呼び出したのだが許されて帰洛し、左衛門尉伊賀次郎光宗を介して礼状を右京兆(北條義時)に送った。その状が今日鎌倉に届き、厚免を得た喜びと併せて武家の繁栄が続くよう祈る旨が記載してあった。
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祝部成茂は左衛門尉筑後知重が預かった囚人として神社を出てから起居のたびに状況を嘆いて祈りを繰り返し、日吉七社に向って一首の和歌を詠んだ。
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        すてはてず ちりにまじはる かげそはば 神もたひねの 床や露けき
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鎌倉に下着した翌日の夜、義時の妻(伊賀の方)の夢に鉄鎖を付けられた猿(日吉神社の神使)が現れ、彼女の髪を掴んで手に巻きつけ怒りの気配を示した。夢から覚めても茫然とした状態が続き、女房を送って大官令禅門(大江廣元)に詳細を伝えた。廣元は特に驚き、「祝部成茂の罪を早く許すべきです。神道に関する事は人力の及ぶ範囲ではありません。」と義時に申し入れた。義時夫妻は共に日吉神社を信仰しており、「早く日吉社に戻って神事に務めるように。また今夜中の出発が望ましい。」と伝えるよう命じて餞別を手配した。
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   ※日吉七社: 日吉大社の本社・摂社・末社を併せた21社を上・中・下に七社ずつ分ける呼び名で特に上の七社
(大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮)の七ヶ所を差す。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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11月3日
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吾妻鏡
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右京兆(北條義時)の室(伊賀の方)に出産の気配あり。出産の穢などを配慮し場所を移した方が良いかどうかを陰陽師に問合わせたところ、権助国道朝臣ら五人が相談し、三条局宅が望ましいとの結論を得た。現在の住居からは東、大倉亭からは乾(西南)の方角になる。
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現在の住居は武州(北條泰時)に譲った家だから、本来の住まいの大倉亭(この辺)に一泊して、45日以内に産所に移れば支障がない事になる。伊賀四郎左衛門尉朝行がこの件を差配する。
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   ※三条局: 御所の女房を務めた法橋範智の娘で源頼朝の母方の従姉妹(範智=由良御前の兄祐範か?)に
当たるらしい。縫殿別当を務め、承久元年(建保七年・1219年)2月4日に公暁を後見していた備中阿闍梨邸と土地(雪ノ下)を下賜されている。
「宝戒寺の東で義時大倉亭西南の雪ノ下、冷水が湧き出る土地」なら、この辺(地図)だろうか。
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   ※伊賀朝行: 系図には載っていないが伊賀朝光の四男。実朝暗殺事件直後の2月8日に次の記載がある。
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(義時は)先月27日の戌刻(20時前後)に八幡宮に供奉した時、傍らにまるで夢の様に白い犬が見えてから急に気分が悪くなり、御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行(朝光の四男)だけを伴って退去した。
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西暦1221年
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  85代 仲恭
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  86代 後堀河
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承久三年
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11月13日
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吾妻鏡
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北條義時の室(伊賀の方)が産所である三條局宅に移った。
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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12月3日
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吾妻鏡
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讃岐中将(一条実雅)の室(右京兆北條義時の娘)が懐妊し、大倉亭の廊下で身を清める千度祓いを行った。主計大夫知輔・少輔大夫泰貞・陰陽大允親職・右京亮重宗・漏刻博士忠業(各々衣冠を着す)が儀式を務め、進士判官代隆邦(布衣)が陪膳(食膳の給仕)を工藤右馬允が手順を差配した。
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   ※一条実雅: 「四代将軍藤原頼経→実雅を将軍に擁立」を画策したとされる伊賀氏の変(安貞二年・1228年)で
失脚する。結果として実雅は妻(義時の娘)と離縁させられ、4年後に流刑地の越前国で没した。
この政変は政子が伊賀氏の排除を狙った捏造だと考える説が主流である。
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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12月1日
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史料
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7月9日に仲恭天皇が廃位となり同日に後堀河天皇が践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐこと)、12月1日に86代 後堀河天皇として即位(天子の位に就いた事を内外に示すこと)した。
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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12月11日
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吾妻鏡
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右京兆(北條義時)の室(伊賀の方)が立願して造像した薬師如来像を産所で開眼供養を行った。導師は伊賀阿闍梨光猷、布施は鞍を置いた馬一疋で原左衛門尉忠康これを引き、筑後介藤原秀朝が手順を差配した。
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1221年
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86代 後堀河
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承久三年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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