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承久四年・貞応元年(1222)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陸奥守北條義時が次期将軍(三寅、後の四代将軍藤原頼経)に椀飯を献じた。若君は南面(公式の場)の妻戸の間に出御され、讃岐中将(右京兆の婿・一条実雅)が前に進んで御簾を巻き上げて人々が拝謁した。まず武蔵前司足利義氏が錦の袋に入れた剣を、駿河前司三浦義村が御弓箭を、左衛門尉小山朝長(朝政の長子)が御行騰と沓を献じた。続いて御馬五疋、一の御馬は駿河小太郎兵衛三浦朝村(泰村の庶兄)と同じく三郎光村が引いた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 北條義時は58歳・政子は65歳・北條時房は47歳・北條泰時は38歳・大江廣元(入道覺阿)は73歳 ・
後堀河天皇は9歳8ヶ月・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は4歳11ヶ月(全て満年令)。
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   ※改元: 4月13日に改元して貞応元年に。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月2日
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吾妻鏡
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前武蔵守足利義氏が次期将軍(三寅、後の四代将軍藤原頼経)に椀飯を献じた。御剣は駿河前司三浦義村
御調度は左衛門尉後藤基綱、御行騰は右衛門尉中條家長、御馬の献上は五疋。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月3日
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吾妻鏡
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前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)が椀飯を献じた。
御剣は陸奥修理亮北條重時、御調度(弓箭)は左衛門尉結城朝光、御行騰は次郎左衛門尉伊賀光宗である。
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   ※皇帝紀抄の記事: 天皇(後堀河)が御元服。加冠は太政大臣西園寺公経、理髪の担当は右大臣徳大寺公継
実定の嫡子)が任じた。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月7日
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吾妻鏡
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左衛門尉結城朝光、が椀飯を献じ、蒲判官代佐房が御剣を運んだ。 また今日御弓始めの儀が催された。
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  射手
      一番 駿河次郎三浦泰村     伊東左衛門次郎祐朝
      二番 小笠原六郎時長    横溝五郎資重
      三番 橘新左衛門尉公幸   横溝六郎義行
      四番 佐々木加地八郎信朝(加地信実の八男?)  本間四郎光忠
      五番 佐原太郎経連     工藤中務次郎長光(行光の嫡子)
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   ※伊東祐朝: 工藤祐経の嫡子。祐経を殺した曾我兄弟頼朝が許そうとした際に泣いて身柄引き渡しを求めた
祐経の嫡子犬房丸が成長して祐時を名乗り、伊東の家督を継承した。祐経の最初の妻(伊東祐親の娘)は離縁させられて土肥遠平に再嫁、生まれた娘が祐時に嫁して祐朝を産み、祐朝が早川氏・長門伊東氏・安芸伊東氏の祖となった。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で平賀氏の旧領平賀郷を含む信濃国伴野庄(千曲川南岸・ 地図)を本領とし、承久
の乱で院に味方した大内惟信の任国(伊勢・伊賀)も継承している。
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   ※蒲判官代佐房: 源通親の猶子となった親廣の長男。親廣は大江廣元の長男で建保四年(1216)に父と共に
中原から大江に復姓し、承久の乱では院側に与して幕府軍に敗北した。佐房は幕府の東海道軍に加わり上田荘を得て幕閣に名を連ねたが、霜月騒動(1285)から没落している。
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   ※横溝資重: 現在の東近江市横溝町(地図湖東三山の近くだね)を本領とした武士で得宗家被官。鎌倉幕府
滅亡の前哨戦となった元弘三年(1333)5月の関戸河原の合戦(サイト内リンク・別窓)で、主人の北條泰家を助けるため踏み止まって新田義貞勢と戦い壮烈な戦死を遂げた横溝八郎の名が見える。鶴見の武士だと思うが、たぶん横溝資重の縁戚だろう。
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   ※本間光忠: 鎌倉幕府滅亡の際に極楽寺坂方面の指揮官として壮烈な最後を遂げた大仏流北條貞直(時房
子孫・北條氏の系図を参照)の家臣に本間山城左衛門(泰宣)がいる。系図での関連は確認できないが共に相模横山党系の武士なので同じ一族だろう。山城左衛門の登場場面は太平記 本間の自害で、北條貞直の登場場面は太平記 長崎親子の武勇に記載した。(共にサイト内リンク・別窓)
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   ※佐原経連: 三浦義澄の次弟佐原義連が奥州合戦の恩賞として会津を与えられ、嫡子盛連の子が猪苗代を
継承して猪苗代経連を名乗っている。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月8日
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吾妻鏡
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右衛門尉中條家長が椀飯を献じ、陸奥修理亮北條重時が御剣を運んだ。
今日、御所で心経会(般若心経を読む法会)を催した。導師と請僧は鶴岡八幡宮寺の供僧が通例の通りに務めた。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月10日
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吾妻鏡
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昨夜からの積雪は五寸(約15cm)。今日奥州(北條義時)大庭の野に出掛けた。駿河前司 三浦義村らが供として同行した。

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   ※大庭の野: 大庭一族は相模国の大庭御厨 (現在の藤沢市) 中部
を本領とする豪族で桓武平氏の末裔を称した。
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鎌倉権五郎景政と子の景継が北部の荒地を開墾して伊勢神宮に寄進し、永久四年(1116)に大庭御厨として立荘したのが最初。 右画像は御厨の概略エリア。
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天養元年(1144)の源義朝による大庭御厨略奪事件の際には景政の孫に当る大庭景宗が下司職を務めており、伊勢神宮は義朝の不法行為を訴えたが、事なかれ主義の朝廷は処罰できず、大庭一族はこの事件以降は義朝に従属せざるを得なかった、らしい。
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源平合戦の頃は平家に臣従した大庭景親と弟の俣野景久の管理下にあり、頼朝が覇権を握ってからは頼朝に従った長兄の 懐島(大庭)景義が支配権を得たが、嫡子景兼が継承してからの和田合戦(建暦三年・1213年)で義盛に与して滅亡、北條氏の所有となった。
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御厨の中心部と推定される大庭城址と、景義の同母弟・豊田景俊が領有していた旧・豊田郷に
の残っている大庭塚の痕跡も参考に。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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1月16日
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吾妻鏡
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讃岐中将(一条実雅)の室(右京兆北條義時の娘)の安産を祈り、義時亭で身を清める千度祓いを行った。
人数は去年の12月3日と同じく主計大夫知輔・少輔大夫泰貞・陰陽大允親職・右京亮重宗・漏刻博士忠業の5人。
終了後に1人当たり上絹を三疋を若侍が配布した。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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2月1日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に雷鳴が数発、激しい降雨あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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2月6日
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吾妻鏡
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御所の南庭で犬追物を催した。讃岐羽林(一条実雅)が何度も推奨した犬追物は若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)に特に喜ばれ、陸奥守(北條義時)や前武蔵守足利義氏ら多勢が見物した。
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犬は20匹で射手は4騎、本気で競うようにとの指示があり、各々が争って5匹づつ射た。最初の10匹は一匹毎に審判が射手を指名して確実に当てていたが、後半の10匹は射手が自ら名乗り出て全てを射止めた。
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人々は見事な技に感嘆し、駿河前司三浦義村による成績の確認後に嶋津三郎兵衛尉忠義が報告した。射手は小山新左衛門尉朝長(小山朝政の嫡子)、氏家太郎、駿河次郎三浦泰村、横溝六郎(1月7日参照)の四名。
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   ※犬追物: 流鏑馬・笠懸と並ぶ騎射三物の一つ。時代により変遷は
あるが、最も大きな催し物の場合は40間(約72m)四方を囲って馬場とし、12騎×3組の騎馬武者と2騎の判定者(検見)が入場して150匹の犬を追い込み、所定の時間内に何匹を射たかを競った。
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もちろん矢には鏑を付けて殺傷能力を減じているが、犬にとって苦痛なのは間違いない。犬派の私としては断じて許容できない蛮行である。
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右画像は土佐光茂が六角氏の居城観音寺城本丸の障壁画として描いた「犬追物図」の模本を更に部分的に模写したもの。画像は明治時代の作で、原本の障壁画は弘治元年(1555)前後の作だったが既に失われた。
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   ※嶋津忠義: 初代忠久を継いだ嫡子の初名で、後に忠時に改めた。生母は 畠山重忠の娘(異説あり)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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2月9日
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吾妻鏡
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讃岐羽林(一条実雅)の室(右京兆北條義時の娘)の安産祈祷が行われた。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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2月12日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での神事は通例のとおり。
今日申刻(16時前後)に一条実雅の室(右京兆北條義時の娘)が女子を平産した。祈祷に任じたのは大進僧都観基、医師は権侍医頼経朝臣、祓いは陰陽権助安倍国道朝臣と主計大夫安倍知輔と陰陽大允安倍親職ら、各々御衣を下賜された。陸奥守義時・式部丞北條朝時・修理亮北條重時・駿河前司三浦義村らが集まった。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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3月3日
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吾妻鏡
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相模守北條泰時が伊勢国守護職の御下文を賜った。去年の合戦の功績として朝廷から拝領した書類だが焼失したための再発行を依頼していた。この他に同じ伊勢国内の16ヶ所、匂御厨・丹生山・南堀江・永垣・黒田御厨、両金法師の遺領などを下賜された。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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承久四年
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3月8日
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吾妻鏡
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昨夜から若君(三寅)が体調不良のため戌刻(20時前後)に御所の南庭で月曜祭を催した。大夫泰貞が祈祷に任じ、左衛門尉嶋津忠久が行事を差配した。使者は駿河太郎兵衛尉三浦朝村(三浦義村の庶長子で泰村の庶兄)。
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   ※月曜祭: インド占星術による9ヶの天体・九曜(wiki)が原型だが陰陽道の場合は具体的な星(太陽・月・火星)
ではなく抽象概念として勢至菩薩に当て嵌めていた。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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4月13日
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皇帝紀抄
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改元あり。代始に依ってである。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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4月19日
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吾妻鏡
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安芸国千與末の地頭職を厳島社(厳島神社・公式サイト)領に寄進した。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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4月26日
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吾妻鏡
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評議あり。去年の兵乱以後の守護と地頭の所務についての詳細決定があった。
また酉刻(18時前後)に前浜(由比ヶ浜)で七座の百恠祭が催された。安倍国道朝臣・知輔・親職・忠業・重宗・文元(いずれも陰陽師の安倍一族)が任じ、使者は勾当藤原頼隆が務めた。
最近前浜と腰越(七里ヶ浜)で死んだ鴨が打ち寄せられる怪異が続いている事への対処である。
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   ※百恠祭: 「恠」は変異・怪異、異様な出来事に対応する祭祀を差す。七座は藤原頼隆を含める七人か。
   ※勾当: 「事に当たる、事を処理する」を意味し、本来は朝廷の内侍司で経理・総務・礼式などを担当した部署。
そのまま鎌倉幕府の職種にスライドさせたらしい。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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4月27日
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吾妻鏡
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鳥居禅尼の所領である紀伊国佐野庄の地頭職は尼の死没後は子息の長詮法橋の相続と定められた。
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鳥居禅尼は六條廷尉禅門(源為義)の妹(実際は娘)で故右大将家(頼朝)の叔母(「清和源氏の系図」を参照)に当たるため、数ヶ所の地頭職を受けている。にも拘らず子息の法橋行忠(長詮の兄)が母の遺命に背いて押領した上に去年の兵乱の際は院に味方して合戦に加わり、更に零落して荘園に立ち戻ったとの訴えが長詮から提出された。長詮は関東の為に祈祷の忠義を果たしたこともあっての決裁である。
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   ※佐野庄: 現在の和歌山県新宮市佐野(地図)。その他、湯橋(和歌山市岩橋・地図)・但馬国多々良木庄(兵庫
県朝来市多々良木・地図)などが含まれる。
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   ※母の遺命: 承元四年(1210)9月14日の吾妻鏡に「熊野の鳥居禅尼から申請があった所有する地頭職を
養子に譲補する件について、故将軍 (頼朝)の御避状があるため支障なしとの仰せがあった。大江廣元がこれを差配する。」との記載がある。
御避状は「自分の所有権を放棄する」意味の証書。禅尼は実子行詮の息子(行忠または長詮)を養子として相続させた後に没し、結果として行忠から長詮に所有権が移った。本来の所有は行忠だった知れない。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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5月2日
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百錬抄
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今夜、土御門万里小路源大納言定通卿の屋敷が焼け落ちた。放火とのこと。
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   ※土御門定通: 源(土御門)通親の四男。承久の乱への直接の関与はなかったが後鳥羽院政の関係者であり、
更に土御門上皇の叔父という関係から官職を失い、政治的に失脚した。
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20年後の仁治三年(1242)になって四条天皇崩御の際に密使を派遣し、三代執権北條泰時に邦仁王の天皇擁立を働きかけ後嵯峨天皇として即位させた。官職に復さず天皇親政に伴う後見人として権勢を取り戻し、幕府との強調関係を保った。放火は承久の乱の余波か。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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5月4日
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吾妻鏡
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地震あり(時刻の記載なし)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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5月18日
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関東御教書
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4月26日に続いて、諸国の守護と地頭に向けて詳細に亘る禁止事項と責務を通知している。
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殺傷事件が起きた場合は検非違使などの職権を尊重すること、権限外の横領行為などの禁止、新補地頭が没収地に関与することの禁止、私領への過剰な関与の禁止、各国に代官一人を派遣する、など(陸奥守北條義時の押印あり)。承久の乱に伴う院や公卿からの没収領でのトラブルを防ぐ意図と思われる。
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   ※関東御教書: 幕府の公式命令書。御教書と下知状は執権と連署が署名して関東御教書・関東下知状と称され
六波羅探題が発するものは南北両探題が連署して六波羅御教書・六波羅下知状と称された。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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5月24日
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吾妻鏡
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天地災変御祭(陰陽道に基づく災厄避けの祭祀)を行った。安倍泰貞これを奉仕し御使は藤原勾当頼隆(4月26日参照)、関わる経費は壱岐入道定蓮(葛西清重)の手配による。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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5月25日
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吾妻鏡
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陸奥守北條義時が三浦の海辺を遊覧、駿河前司三浦義村が豪華な接待を催した。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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6月14日
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吾妻鏡
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終日雨。30余日も日照りが続いたため鶴岡八幡宮寺の供僧らが雨乞いの祈祷を始めて三日目の慈雨であり、人々は霊験に感嘆した。
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   ※6月14日: 太陽暦の7月24日に該当する。酷暑に日照りは辛いよね。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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7月2日
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吾妻鏡
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今夜子刻(深夜0時前後)、承明門院御所(土御門万里小路)が焼亡した。放火である、と。
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   ※承明門院: 後鳥羽上皇の後宮で土御門天皇の生母・源在子。この年、51歳。土御門万里小路は現在の花園
小学校(地図)辺りか。この放火も承久の乱絡みだろう。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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7月3日
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吾妻鏡
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讃岐中将(一条実雅)が大倉の屋敷で百日連続の小笠懸を始めた。
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毎日の日の出前、あるいは涼しくなった頃に集合するよう数人と約束を交わした。今日の射手として結城七郎朝廣駿河次郎泰村同四郎家村 ・小笠原六郎時長・佐々木太郎兵衛尉重綱 ・同八郎信朝・伊東六郎兵衛尉・嶋津三郎兵衛尉忠義・原左衛門尉忠康・岡辺左衛門尉時綱・横溝五郎・同六郎・伊具右馬太郎盛重が参加した。
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   ※小笠懸: 遠笠懸を射た後に馬場を逆走して射る競技が笠懸けの簡易版として独立したらしい。
馬場から一杖(約2.3m)に置かれた的(12〜24cm)を射る。競技としては鎌倉時代中期以後は衰退した。 wikiの画像を参考に。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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7月11日
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百錬抄
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准后の院号付与あり。北白川院と。
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   ※准后: 太皇太后(先々帝の皇后)・皇太后(先帝の皇后)・皇后の三后を差す。
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   ※北白川院: 後高倉院の妃・持明院陳子(後堀河天皇の生母)。後高倉院(守貞親王)は安徳天皇の異母兄で
後堀河天皇の父詳細は承久三年7月8日を参照)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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7月23日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に大地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月2日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に彗星が戌方(西北西)に現れた。大きさは半月ほど、色は白で赤系色の尾、長さは一丈七尺余り(17尺・5m強)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月13日
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吾妻鏡
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去る2日から昨夜(12日)まで毎晩彗星が現れている。対応して今暁から百日間の泰山府君祭を開始した。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、舞楽・御経供養は通例の通り。今夜の彗星の尾は一尺余、二日から毎夜の出現である。
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   ※彗星: 貞応元年に現れたのは76年周期で地球に接近するハレー彗星。前回の出現は昭和61年(1986)、
次回は2061年夏だそうな(詳細はwikiで)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月16日
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吾妻鏡
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(放生会に続いて)馬場での流鏑馬。射手は16騎、一人として的を外す者なし。次いで競馬と相撲が奉納された。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月20日
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吾妻鏡
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先月23日の地震に対する祈祷に今回の彗星の祈祷を加えて祭祀あり。三万六千神祭は安倍国道朝臣、天地災変は安倍親職。その他天冑地府・七座の泰山府君(いずれも陰陽道の祈祷)などを行った。また鶴岡別当法印が七ヶ日の不動護摩供養を修した。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月23日
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吾妻鏡
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彗星は猶も坤方(南々西)に見える。長さは五尺(150cm強)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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8月29日
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吾妻鏡
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司天(天文と担当)から報告、彗星が見えなくなった、と。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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月日
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吾妻鏡
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巳刻(御前10時前後)籐民部大夫二階堂行盛の妻が男子を平産した。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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9月22日
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吾妻鏡
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戌刻(21時前後)に陸奥守北條義時邸の寝殿の坤(南西)角に放火があった。これを見付けた工藤右馬允の郎従が叩き消し、 褒美として御剣が与えられた。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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10月5日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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10月15日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大慈寺で一切経の法会あり。二位家(政子)御と陸奥守北條義時参席され、他にも多数が参列した。今日は二位家の御本尊である釈迦如来像の開眼供養があり導師は近弘聖人實禎が務めた。布施は砂金十両と唐綾三反。
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   ※大慈寺: 三代将軍実朝が建てた大倉新御堂。建保二年(1214)7月27日に落慶供養を行っている。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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10月25日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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10月26日
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吾妻鏡
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内大臣西園寺公経卿の昇進について、二品(政子)が内々に朝廷に申し入れた。
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   ※公経の昇進: 吾妻鏡には記載がないが公経は年内に太政大臣への昇進を実現している。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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11月1日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に大地震。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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11月4日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に地震。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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11月25日
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吾妻鏡
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前陸奥守北條義時の室の出産が近づいて千度祓いが行われ、安倍親職・泰貞・重宗・宣賢・大和大夫が祈祷に任じた。お祓いの後に食事で饗応し、報奨として各々上絹二疋(四反)を与えた。
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   ※前陸奥守: 記録では義時が陸奥守を辞任したのは貞応二年(1223)8月としている(実際に同年2月8日の
吾妻鏡には「陸奥守が御所の造作について泰時に云々」の記載あり)。後任は半年ほど間を置いてから足利義氏が任じている。従ってこの時点で「前陸奥守」と書いているのは記述の間違い。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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11月30日
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吾妻鏡
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今朝初雪が降った。

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   ※初雪: 11月30日は太陽暦の1月3日に該当する。初雪は(この冬一番)の意味。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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12月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大外記中原師季朝臣の書状が到着、先月22日の大甞会は無事に済ませられた、と。また除書(叙任の目録)が添えられていた。
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   ※大外記: 外記は少納言の下に置かれ中務省が作成した詔勅を校勘し太政官から帝に上げる奏文などを作成
した職種、大外記はその中で五位に昇進した者。中原氏(押小路家)は大外記を世襲していた。
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   ※大甞会: 天皇が即位後に初めて皇祖と全ての神に新穀を供えて食する、一世一度の儀式。
平安時代以降は、即位が7月以前なら年内に8月以降なら翌年に行う習慣になった。現在の大嘗祭の原型。平成二年に行われた今上天皇の大嘗祭は録画が許可され、YouTubeに公開されている。
興味があればこちらで。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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12月12日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に奥州(北條義時)の室が男子を平産した。加持祈祷は弁法印 定豪、修験者は大進僧都観基、医師は頼経朝臣、陰陽師は安倍国道朝臣以下六人。
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   ※男子: 陸奥七郎時尚か。寛元元年(1243)7月17日の吾妻鏡 「欠番 下旬」の9番目に陸奥七郎の名があり
更に下の弟に小四郎時経の名もあるが、彼の生母は伊賀の方ではないらしい。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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12月13日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)、昨夜の平産により立ち会った修験者らに御衣と御馬を与えた。
験者分の御馬は安東左衛門尉光成が、医師と陰陽師の分は原左衛門尉忠康と大野新右近将監が引いた。加持僧の分は中野五郎に宿坊へ届けさせた。
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   ※安東光成: 義時泰時時頼の三代執権に仕えた御内人。原忠康は7月3日の小笠懸にも名が載っている。
大野将監は素性不明、中野五郎は頼家 の側近だったが北條時政のスパイと思われる武士(本領は信濃、建仁三年(1203)9月4日を参照)。
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1222年
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86代 後堀河
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貞応元年
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月日
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吾妻鏡
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記事
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