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貞応二年(1223)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陸奥守北條義時が三寅(後の四代将軍藤原頼経)に椀飯を献じた。御剣は駿河前司三浦義村が持参した。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※駿河前司: 資料では三浦義村の駿河守任期は承久元年〈1219〉11月13日〜貞応二年〈1223〉4月10日、
その後は北條重時が交代して嘉禎三年〈1237〉11月29日に北條有時 に代わるまで務めている。従って、4月10日までの義村は「前司」ではなく「駿河守」、1月24日などにも混用が見られる。
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   ※年令: 北條義時は59歳・政子は66歳・北條時房は48歳・北條泰時は39歳・大江廣元(入道覺阿)は74歳 ・
後堀河天皇は10歳8ヶ月・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は5歳11ヶ月(全て満年令)。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月2日
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吾妻鏡
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椀飯あり。御剣は陸奥修理亮北條重時が献じた。その後に若君(三寅)の御所で手鞠の会、奥州(北條義時)・駿河守(三浦義村)・左衛門尉後藤基綱・隠岐入道(二階堂行村)・苅田右衛門尉義季らが参加し、若年の輩は加えなかった。
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   ※苅田義季: 北条重時の長男為時(時継)の妻が苅田義季の娘。
為時は早世(廃嫡説あり)し、長男長重が母方の所領陸奥国苅田郡を領有し苅田流北條氏を継いでいる。
この手鞠会に出席したのは重時との関係からだろう。
   北條氏の系図(極楽寺流)を参照。
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  右画像は陸奥国苅田郡の地図
      (苅田郡≒現在の蔵王町・七ヶ宿町・白石市)

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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月5日
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吾妻鏡
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椀飯の後に御弓始めあり。
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  射手
     一番 駿河次郎(三浦泰村)     伊賀四郎左衛門尉朝行(朝光の四男)
     二番 下河邊左衛門次郎(下川邊行平の一族)  佐々木加地八郎(加地信実の一族)
     三番 嶋津三郎兵衛尉忠義(忠久を継いだ嫡子、後に忠時)  横溝六郎義行(下記資重の次弟)
     四番 横溝五郎資重(承久四年1月7日参照)     本間四郎光忠(承久四年1月7日参照)
     五番 武田六郎信長(信光の嫡子)     原左衛門尉忠康(遠州浅羽庄の武士)
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月6日
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吾妻鏡
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若君(三寅・、後の四代将軍藤原頼経)の御祈り始めあり。七日までに行うべきか否かを周防守中原親實から二品(政子)に 問合わせた結果は「何も問題はない」とのことだった。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月18日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に西方向から雷鳴、しばらくして止んだ。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月20日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に雷鳴あり。
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今日、源實親(進士、式部省の官吏登用試験合格者)の奉行として、奥州(北條義時)が検討事項を提示した。
これは若君(三寅)邸西側の土地の狭さを解消するため西大路の一部を庭に取り込み、築地で区切ったらどうかとの提案である。
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隠岐入道(二階堂行村)と駿河前司三浦義村が賛成し、大倉邸に陰陽師を呼んで諮問したところ或る者は不吉、或る者は直ぐに広げれば多少の祟りがあるから今年以降に行うべきなど、一致が見られなかった。
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   ※西大路: 大倉御所の西門前を南北に通っていた大路。
西御門の碑は鎌倉小・中学校(1947年創建)のグラウンド外側にあるが、創建前は北側の来迎寺と筋替橋を結ぶライン(学校敷地の中央)が西大路だったと想像している。筋替橋は大倉御所からの排水を滑川に流す水路に架かっていたと伝わっているし、西大路に沿って北側には報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺・太平尼寺などが並んでいた。
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右画像は西御門周辺の地図(クリック→拡大表示)。西御門跡碑の画像はこちらで。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月23日
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吾妻鏡
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二品(政子)は農民の苦楽を確認したいと考えた。去年の合戦(承久の乱)以後の新補守護と地頭の所領管理について、前例と異なる処理を行っている場合は文書で報告せよと畿内および西国の在庁(国衙の官吏)に命令を下し、奥州(北條義時)が御教書(命令書)を発行した。
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   ※新補: 乱に関与した朝廷や公卿から没収した土地に補任した守護と地頭を差す。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月24日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)が若駒10疋を若君(三寅)に献上、御覧に入れた後に人々に分与した。駿河前司(三浦義村)がこれを差配した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月25日
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吾妻鏡
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西大路(の一部)を若君(三寅)邸の庭に入れる事の可否について改めて議論があり、陰陽師らが呼ばれて陸奥守 (北條義時)邸中門の廊下に集まった。源實親(1月20日)を介して「去る20日の占いの不一致は遺憾なので、改めて論議せよ」との指示がくだされた経緯である。
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安倍知輔と同・忠業は「昨日の未刻(14時前後)には小吉、検討した結果は最吉」と答えた。
一方で晴賢は「占いは最初の直感であり、将軍として憚るとの卦があった以上は今年を避けるべき」とし、知輔・忠業・泰貞・宣賢らと晴賢・親職が論争となって結論が出ない。
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改めて犯土・造作についての吉凶を占ったところ「良くない」との結果となり、京都の陰陽寮に尋ねるべきか。また先日の雷鳴と22日に月が火星の軌道を犯した事などについて、伊賀六郎右衛門尉光重に然るべき対応を命じた。
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   ※伊賀光重: 朝光の子(四男?)で名乗りは六郎、四代将軍頼経の近習。元仁元年(1224)6月の伊賀氏の変
(政子の捏造説が主流)に連座する形で九州に流され、嘉禄元年(1225)の政子の死没後に復権して頼経に仕えている。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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1月26日
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吾妻鏡
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肥田又太郎が奥州(北條義時)の使者として上洛の途に就いた。犯土(土木)や建造について陰陽師の結論が纏まらないため(陰陽寮の)長官に尋ねて結論を得るのが目的である。
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   ※肥田又太郎: 伊豆北條郷北側の肥田原(地図)を本拠にした武士。
治承四年(1180)8月17日の頼朝挙兵の際に北條時政率いる平兼隆襲撃隊は肥田原に迂回して山木館に向っている。肥田⇔日田⇔仁田に転訛した可能性および日田原が仁田郷に隣接していることから、肥田一族と仁田忠常一族が縁戚関係にあったと考える説もある。
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右画像は仁田忠常邸の鳥瞰。画像をクリック→忠常邸の明細(別窓)へ>
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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2月1日
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吾妻鏡
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巳刻(御前0時前後)に地震あり。今日、二所詣でに関する神事が始められた。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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2月8日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)が予定している大倉御所の三寅邸の拡幅と建造について、武州北條泰時担当として京都朝廷の陰陽頭である安倍泰忠朝臣と在親朝臣・在継朝臣らに問合わせた回答が鎌倉に届いた。
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泰忠の書状に拠れば、占いの結果は半吉である。方角違えは、本来の所有者に禁忌の方角であれば、例え所有者が知らなくても使用者による土木・建造は憚られる...と。
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在親と在継の書状には、占いは不吉。方違えも犯土・建造も全て不吉だが、他の事のついでに行えば忌ではない。また所有者には関係なく、使用者にとって禁忌の方角であれば支障なし...と。
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これらについては更なる検討が行われた。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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2月27日
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吾妻鏡
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二位家(政子)が勝長寿院の奥に新しい寺と住居を建てたいと望み、今日二位家の屋敷で良い日取りを選ぶ打ち合わせがあった。
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(陰陽師の)知輔・親職・晴賢・忠業・泰貞・宣賢・重宗が各々選び出したのは、事始め(木造り・地曳き)は2月29日壬寅、基礎工事は4月6日戊子、立柱上棟は同・19十九日辛卯、また御移転は7月26日丁卯、御堂供養は8月20日庚寅。
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これらは安倍親職が特に念入りに選んだ日程で、左衛門尉伊賀光宗がこれを差配する。この地は現在の二位家邸から南方に当たる。
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   ※寺と住居: 老齢を迎え気力・体力が衰え始めた政子は死期が近い
と自覚したのだろう、と私は考える。死没は2年5ヶ月後の、元仁2年(1225年)7月11日。
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政子が選んだ終の棲家は、謂わば源氏の菩提寺として義朝実朝の遺骨(大姫乙姫を葬った可能性もある)が葬られた勝長寿院。残念ながら開発が比較的早くに行われた大御堂ヶ谷には何一つ遺構が残っていないが、のんびりと歩けば往時の雰囲気を感じることはできる。
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右画像は北側から見た大御堂ヶ谷。画像をクリック→勝長寿院の谷津(別窓)へ。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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3月3日
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吾妻鏡
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今日、勝長寿院の奥で土公御祭(現代の地鎮祭)を行った。二品(政子)の御所願として寺を新設する計画に拠る。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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3月14日
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吾妻鏡
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今夜の月蝕ははっきりと確認できなかった。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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3月28日
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吾妻鏡
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二位家(政子)の御方違えのため民部大夫二階堂行盛の山荘に移られた。新居造作の目的に拠る。
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   ※二階堂邸: 正確な位置は確認できないが、実朝の時代に頻繁な訪問があった事から考えると永福寺の南側、
滑川沿いにあったと思う。私ならこの辺(地図)を選ぶけど...。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月8日
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吾妻鏡
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一昨年の合戦(承久の乱)での恩賞は全て処理が終わった筈だが、取り扱う数が多かったため予期しなかった漏れもあり、今日、追加してその処理を行った。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月9日
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吾妻鏡
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女房(女官)の上野局を染殿の別当職に補任した。
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   ※染殿別当: 染殿は布の染色や縫製を担当する部署、別当は筆頭職。専門職のキャリア・ウーマンだね。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月11日
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吾妻鏡
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若君(三寅)の御衣が鼠に喰い切られた。今日巳刻(午前10時前後)に石山禅尼がこれを見付けた。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月13日
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吾妻鏡
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若君(三寅)が南庭(公式の場)に出御し手鞠の御会あり。また駿河三郎三浦光村・筑後九郎八田知氏・伊賀左衛門太郎宗義(光宗の子)・佐々木八郎信朝(加地信実の九男)らが競馬を行い、その後に相撲の勝負を決した。嶋津三郎兵衛忠義が行司を務めた。
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   ※八田知氏: 知家の七男で常陸国田中氏の祖。父から継承したつくば市田中 (地図)を本領とする。 .
   ※嶋津忠義: 初代忠久を継いだ嫡子の初名で、後に忠時に改めた。生母は 畠山重忠の娘(異説あり)。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月16日
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吾妻鏡
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今暁、泰山府君祭が行われた。鼠が若君(三寅)の御衣を喰い破った件を占ったところ、病気に注意が必要との卦が出されたためである。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月19日
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吾妻鏡
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勝長寿院の奥に建造する事となった新しい堂と、その傍らの二品(政子)邸の上棟式が催された。
隠岐入道行西(二階堂行村)と左衛門尉伊賀次郎光宗がこれを奉行した。
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   ※勝長寿院: 頼朝は勝長寿院を源氏の氏寺として考えたと思う。喪主の 頼家政子には寺域に法華堂を建てて
頼朝の墓所とする選択肢もあったと思うが、生前の持仏堂(現在の白旗神社の地)を選択した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月28日
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吾妻鏡
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若君(三寅)が西の坪庭に出御して通例の手鞠会を催し、この際に烏の糞を掛けられた。驚いて占わせた結果は病気の兆しである、との卦が出された。
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   ※烏の糞: 鳩の糞なら良かった。鎌倉の鳩は只の野鳥ではなく八幡神の使者、鳩の変異は凶事の兆しとなる。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月29日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が昨夜田村から鎌倉に帰着し、今日若君(三寅・後の藤原頼経)の御所に盃酒を献上した。奥州北條義時、隠岐入道二階堂行村、左衛門尉伊賀次郎光宗、苅田右衛門尉義季(1月2日を参照)が参上、石山禅尼と女房少々が加わった。
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   ※田村: 平塚市の田村地区には三浦義村の別邸(田村館)があり、
将軍頼経も再三訪れたと伝わっている。市営団地の敷地に田村館の碑(右・クリック→拡大)が建っている(地図)。
実際はもっと北側だったらしいが遺構などは残っていない。
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田村地区の八坂神社(地図)起源は災厄を防ぐ功徳がある牛頭天王(wiki)を祀る社であり、これらの経緯から義村が祈祷奉幣の使者として田村に派遣された可能性が考えられる。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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4月30日
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吾妻鏡
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五座(5人による)百怪御祭(魔除け)を催した。担当したのは知輔・親職・晴賢・忠業・泰貞ら、28日に起きた烏の糞の穢を払うのが目的である。伊賀六郎右衛門尉光重(1月25日参照)がこれを差配した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月4日
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吾妻鏡
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)御方の御物忌を行った。周防守中原親實がこれを差配した。
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   ※物忌: 例えば肉食、飲酒、外出など日常の行為を控えて自らの汚れを抑え神仏に汚れを移さない努力。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月5日
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吾妻鏡
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二品(政子)が若君(三寅)の住居に渡御された。陸奥守北條義時も加わって酒宴を催し、歌女らを招いて各々が芸を披露して楽しませた。義時は衣装を脱いで 纏頭し、駿河前司三浦義村・次郎左衛門尉伊賀光宗以下の列席者もそれに倣った。
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   ※纒頭: 歌舞や演芸を行った者に与えた褒美の金品。衣服を与え、受けた者は頭に纏った習慣が語源。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月12日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に大地震あり。
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   ※百錬抄の記述: 5月8日、後堀河天皇が一條殿(院の御所)に行幸。持明院宮が重体、と。
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   ※持明院宮: 第82代後鳥羽天皇の同母兄で、第81代安徳天皇の異母弟だった守貞親王の院号。
本来は安徳を継いで次期天皇になる筈だったが、寿永二年(1183)7月の平家都落ちに同行させられ、壇ノ浦合戦から救出された時には既に実弟の後鳥羽が後白河法皇の意向で着位していたという、実にアンラッキーな運命を辿った人物(「天皇家の系図」を参照)。
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帝位は82代後鳥羽→83代土御門(嫡子)→84代順徳(次男)→85代仲恭(順徳の嫡子)と続き、承久の乱後には後鳥羽の系統を嫌った鎌倉幕府の意向によって後堀河が86代の帝位を継ぎ、父の持明院宮(守貞親王)は異例の太上天皇号を奉られ、承久三年(1221)7月から法皇として院政を敷いていた。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月14日
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吾妻鏡
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)の御物忌である。物忌の字を札に記して御簾に下げ、護持僧の大進僧都観基が付き添って参籠した。
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三條蔵人親實は「朝廷に於ける手順は御物忌の札を置いた場合には人の出入は禁止しないのが習慣」と言ったが陸奥守北條義時「厳格に物忌の手順に従うべきだろう。食事と大番(警護担当)は参籠すべし。その他は全て出入りを禁止し、今後はこの方式を定める。」とした。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月18日
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吾妻鏡
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相模守北條時房と武蔵守北條泰時の飛脚が京都から鎌倉に到着。去る14日の午刻(正午前後)に太上法皇持明院殿が崩御したと報告した。御腫物を患って数ヶ月の病床にあった。太上天皇の尊号を贈られてから三年、御年四十五歳と。 義時は二品の御方(政子)邸を訪れてこれを報告した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月19日
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吾妻鏡
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二品(政子)邸に於いて駿河前司三浦義村に、「持明院殿の崩御により暫くの間は新邸と堂の建造を中止せよ」との指示が下された。また伊賀三郎左衛門尉光資(朝光の三男)が弔問の使者として上洛せよ、と。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月24日
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吾妻鏡
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)が二品(政子)邸に渡御された。駿河守(北條重時)と駿河次郎三浦泰村が供奉した。これは通常の訪問である。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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5月27日
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吾妻鏡
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土御門上皇が土佐国から阿波国に遷御される件について、祇侯(付き従う)者を報告するように阿波国の守護小笠原弥太郎長経に指示を下した。長経からは「既に4月20日に御迎えの者を土佐国に派遣し」と連絡が届いた。
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今日、若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)の息災を願う祈祷を伊勢神宮の内宮と外宮の両方で行った。
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   ※土御門上皇: 温和な性格だったため、武威による倒幕を願った父の後鳥羽上皇に疎んじられ、順徳天皇への
譲位を強制された。倒幕計画にも関与せず幕府は処罰しない方針を執ったが、父の後鳥羽と弟の順徳の流罪に準じて自らの土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を与えた。
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今回の阿波国遷御には「少しでも都の近くに遷そう」とした幕府の温情があった。
さらに詳細は承久三年閏10月10日の吾妻鏡で。
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   ※小笠原長経: 甲斐源氏小笠原長清の長男。二代将軍頼家の側近を務め、建仁三年(1203)9月の比企の乱
では能員与党として拘束されたが特に罪には問われず、鎌倉を引き払って本領の甲斐(または信濃)に蟄居、嫡流は弟の伴野時長が継承した。承久の乱(1221年)では父に従って東山道を進み、乱の鎮圧後は父の跡を継いで阿波国守護に任じている。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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6月12日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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伊豆国の走湯山(伊豆山権現)の常行堂造営について、柱建ては既に完了し次の19日には上棟の予定であると連絡が寺務方から連絡が届いた。二品(政子)邸で武蔵国目代の次郎兵衛尉惟忠を管理者とする指示があったが、陰陽道に問い合わせたところ安倍親職から土用中の上棟は良くない旨の申し入れがあり、晴賢は7月11日壬子、12月2日庚子が良いとの意見である。
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行西(二階堂行村)は「7月11日壬子は八専だが、堂舎を建てた先例の有無は?」との質問があり、更に「既に柱は建て終えた上での八専であり、仏閣を建てたり法要を行う例は多い。」との指摘だった。従って上棟日程を占う際には、その旨を併記して提議する。
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   ※常行堂: 阿弥陀仏を本尊として般舟三昧経を勤修する堂で、概ね
阿弥陀堂と同じ。伊豆山権現には上と下・二つの常行堂があり、伝承では大姫の病気回復を願った政子が建立を寄進した事になっているが真偽は判らない。
右画像は伊豆山の上常行堂本尊の宝冠阿弥陀如来坐像(伊豆山資料館収蔵・非公開)
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詳細は上記伊豆山権現の中段を参照されたし。
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   ※兵衛尉惟忠: 後に寺社の紛争を裁く引付衆に任じる得宗被官の
大瀬惟忠か。もっと調べないと確信は持てないが。
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   ※八専: 日を選ぶ基準の一つ。詳細はwikiで。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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6月20日
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吾妻鏡
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今日、駿河国の富士浅間宮(公式サイト)の新社殿遷宮である。費用の負担は陸奥守北條義時が任じた。
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   ※遷宮: 北條九代記にも遷宮の記事が載っている。伊勢神宮などのように定期的な建て替え行事に伴う遷宮
ではなく、老朽化による単純な建て替えらしい。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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6月26日
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吾妻鏡
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五仏堂で続けていた千日御講の結願供養を催した。導師は松殿法印で請僧十二人、二品(政子)も臨席された。
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   ※五仏堂: 承元元年(12月27日)に仏師運慶作の五大尊を安置し開眼供養を行っている。場所は勝長寿院
の寺域、実朝の追善供養を願って建立した。
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   ※五大尊: 密教の五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)を差す。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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6月28日
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吾妻鏡
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伊賀大夫判官光季の子息四人(皆10歳未満)が二品(政子)邸を訪れた。である。 陸奥守北條義時が近くに控える前を簾の近くに招き、「どの子も光季の顔に良く似ている。亡父の志を継いで忠節に励むように」と涙を見せた。
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今日、走湯山(伊豆山権現)の常行堂上棟の日程について、7月11日の八専は選ぶべきではないか、との沙汰があった。陰陽師に尋ねると、「11月2日より前は然るべき吉日がありません。何とか8月8日戊寅を使いましょう。」と安倍親職と晴賢が言上した。
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   ※伊賀光季: 承久三年(1221)5月15日に記載あり。京都守護として在京していた際に後鳥羽上皇から参集を
命じられたが無視し、更に勅命を下すと「対面して聞くから来たれ。命令を受けて敵に向かうのは臣下の本分だが官閥に加わるのは本分に非ず。」と拒み、抗戦の末に二男光綱と共に自害した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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6月30日
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吾妻鏡
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六月祓いを行い、晴賢がこれを務めた。補佐は三條蔵人親實、周防前司中原親實(5月4日の吾妻鏡を参照)がこれを差配した。
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   ※六月祓い: (みなづきばらえ)は旧暦の6月末に行う祓いで夏越(なごし)の祓ともいう。身についた罪穢を形代
に移して流し捨てる行事。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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7月6日
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吾妻鏡
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一昨年の合戦(承久の乱)の恩賞として新たに補任した地頭の取り分について、水田十町について次の一町は国衙に納める税を免除し、また水田一反について五升の徴収を認める宣下が先月15日に下された。
その書類の到着に伴い内容の通りに実行するよう決裁された。橘隆邦(判官代)と清原清定がこれを差配する。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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7月9日
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吾妻鏡
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薬師堂のある谷津に浄密と称する住僧の坊があり、その前庭で優曇花が咲いたとの噂が流れた。
鎌倉中の男女がこれを見ようとして群参し、二位(政子)は遠藤左近将監為俊を派遣して確認させたところ「芭蕉の花と思われる」との報告があった。
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   ※薬師堂: 鎌倉で薬師堂と言えば二階堂の覚圓寺(wiki)。吾妻鏡
の建保六年(1218)7月9日と翌年2月8日に記載あり。
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北條義時が1月27日の実朝暗殺の際に現場を離脱して事前に暗殺を知っていた、その関与を誤魔化すために捏造した霊夢が関係している。
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右画像は薬師ヶ谷の鳥瞰。覚圓寺三文の少し先に薬師堂があるのだが、ここは見落としてしまった。次回は必ず...。
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   ※優曇花: (うどんげ)には諸説あるが、ここでは「インドの想像上の
植物で三千年に一度花の咲かせる時には転輪聖王(求められる全ての要素を備えた王者の概念)が出現するという」、その優曇花を差しているのだろう。 更に詳細はwikiを参照されたし。
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   ※遠藤為俊: 摂津渡辺党の子孫で三寅(後の四代将軍藤原頼経)の近習を務め、政子にも近侍した御家人。
娘二人を北條氏に嫁がせて縁戚関係を結び、要職を世襲した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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7月25日
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吾妻鏡
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陸奥守北條義時の所願として、鶴岡八幡宮の廻廊で一日百部の法華経を書写する法要を行った。供養導師は八幡宮別当(七代定雅)、卯刻(朝6時)に開始し、亥の一点(刻(2時間)の五等分の最初・21時過ぎ)に完了した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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7月26日
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吾妻鏡
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二位家(政子)が(勝長寿院の奥に)新築し御亭(御堂御所と称す)への転居である。水火の祈り※: は省略し、陰陽大允安倍親職が反閇※: により先導、周防前司中原親實と判官代大江佐房が御輿の横に付き添った。
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   ※水火の祈り: 洪水と火災の災厄を避けるための祈祷らしい。
   ※反閇: (へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行う陰陽道の作法。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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8月3日
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吾妻鏡
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今日、所領に関して訴訟を起こした者が武士による寺社などへの寄付を装って没収を逃れること、および出挙を行って巨利を得ること、についての(幕府政所か)評議が行われた。幕府では御家人の行為のみを取り扱い、それ以外は関与しないとの結論を六波羅に伝えた。
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   ※没収の回避: 一種の徳政令だったらしい。鎌倉時代では元寇(1274年と1281年)の後に顕在化した御家人
の窮状を救済しようとした永仁五年(1297)の永仁の徳政令(wiki)が知られているが、一部の御家人には既に(経済のシステムに起因する)破綻が迫っていたのだろう。
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   ※出挙: 農民に種子や種籾を貸し与え、収穫と共に利子を付けて回収する習慣。更に詳細はwikiで。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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8月20日
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吾妻鏡
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今日、南新御堂の落慶供養が行われた。本尊は弥勒菩薩像である。この堂は右大将家(頼朝)の姫君(大姫)が早世した際に追善供養のため(政子が)建立を願ったのだが、右大将家の崩御によって実現できなかった。
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奉行は民部大夫二階堂行盛と進士判官代橘隆邦、導師は弁僧正定豪、布施は三十・物百(30種セットを百)。
陸奥守北條義時・式部大夫北條朝時・駿河守北條重時以下、多数の人々が廊下に着座した。
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   ※橘隆邦: 比較的出る頻度の高い文官。承久三年(1221)5月27日に宣旨への返状(上奏文)を書いている。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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8月27日
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吾妻鏡
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二位家(政子)の新しい御所の御持仏堂(廊御堂)が完成し仏師運慶が彫った本尊を安置した。これは右大臣家(実朝)が健在だった頃の御本尊で、今日改めての開眼供養を遂げられた。導師は内大臣僧都親慶
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   ※僧都親慶: 承久二年(1220)1月16日に鶴岡八幡宮別当の慶幸が死没して勝長寿院別当だった定豪
補任、その後任として勝長寿院別当に任じたのが親慶となる。
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   ※持仏堂本尊: 建保四年(1216)1月17日に京から届いた仏像。
吾妻鏡には「釈迦如来像」の記載があり、運慶晩年期の作品ではあるが持仏堂と共に現存せず、像高も判っていない。
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興味深い話としては、同じ建保四年に運慶が彫った大威徳明王坐像が横浜市金沢区の称名寺に保存されており、これは胎内の文書から頼家と実朝の養育係を務めた大弐局加賀美遠光の娘)の発注だった事が確認されている(大日如来像と愛染明王像の三体セットだった、とも)。
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釈迦如来像と大威徳明王像が同じタイミングで鎌倉に入ったと考えれば話は簡単だが、「同年11月に完成」との時期的なズレに配慮すれば「釈迦如来像」を見て感動した大弐局が追加注文したのだろうか。大弐局の初出仕と大威徳明王像の画像は文治四年(1188)7月4日に記載してある。
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右画像は称名寺の大威徳明王坐像が運慶作として確認されるまで「運慶最晩年の作」とされていた奈良興福寺北円堂の国宝・弥勒仏坐像。
  木造漆箔・140.4cm、建暦二年(1212)の春に完成。(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月1日
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吾妻鏡
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未の二刻(15時前後)に日蝕、が支障なく見られた。三分ほどの蝕である。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月2日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に太白(金星)が歳星(木星)の軌道を犯した(二尺七寸(約82cm)の距離)。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月3日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に月が太白(金星)の軌道を犯した(二尺七寸(約91cm)の距離)。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月4日
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吾妻鏡
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月が心前星(さそり座σ星)の軌道を犯した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月5日
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吾妻鏡
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横町(場所の確定不可)付近に住む下女が三つ子を産んだ。「女性が三つ子を産んだ場合は国庫から必要な衣食が支給されていると国史に記載されている」と有識者が話したため、二品(政子)は雑色三人を送り各々養育せよと言い付けた。その上で、母親の衣食も同様に配慮せよと命じた。
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午刻(正午前後)に和賀江の付近に火が見られた。これについて祈祷をせよとの指示が陸奥守北條義時から非公式の指示があった。 蔵人兼佐がこれを差配する。連夜の天変への対応である。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月6日
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吾妻鏡
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下女が産んだ三つ子は皆死んでしまった。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月10日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を開始した。
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   愛染王護摩は弁僧正定豪      薬師護摩は大進僧都観基
   尊星王護摩は内大臣僧都親慶    北斗護摩は信濃法眼道禅
   七曜供は助法眼彌誉      属星祭は晴賢
   月曜祭は親職         歳星祭は知輔
   太白星祭は忠業         天冑地府祭は泰貞
   七座の泰山府君祭は晴幸、信賢、右京亮重宗、文元、道寛、陰陽大夫重宗、家秀
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月16日
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吾妻鏡
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若君(三寅)が讃岐中将(一条実雅)邸に渡御された。駿河守(北條重時)・陸奥四郎(北條政村)・駿河次郎(三浦泰村)・周防前司中原親実(5月4日を参照)・少輔判官代佐房が供として従い、その後に小笠懸などを行った。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月24日
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吾妻鏡
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二品(政子)の御持仏堂(廊御堂)で地蔵菩薩絵像の開眼供養法会を行った。導師は大進僧都観基、用意した布施は御衣一領と袋物である。
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   ※廊御堂: 気になっていた部分...もしかすると堂の四方あるいは三方に外廊下を廻した建物の可能性あり、
のような気がする。ずっと前に訪問した秩父の米山薬師堂みたいな感じ、その規模は兎も角として。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月25日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)の指示で若君(三寅)邸の建造に着手する。日程は柱建て・上棟が来年1月3日庚子と5日壬寅、御遷居は4月19日丙寅が吉日と安倍親職と晴賢が連署した勘文を提出した。
左衛門尉伊賀次郎光宗がこの件の差配を担当する。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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9月26日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に大地震あり。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月1日
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吾妻鏡
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北陸道守護人の行っている決裁について規定に背く事例があるとの風聞があり、問合わせの上で処理するよう式部丞北條朝時に命令が下った。
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   ※北陸道の国と守護人: 若狭(嶋津忠久の嫡子忠時・4月13日参照)、越前(嶋津忠久)、加賀・能登・越中・
越後・佐渡(この5ヶ国の守護は北條朝時)
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月4日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)が招待を受けて駿河前司三浦義村の田村別邸(4月29日を参照)を訪れた。苅田右衛門尉義季(1月2日を参照)以下、多くの者が参会し、駿河守(北條重時)は人々を誘って若君の近くに伺候した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月5日
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吾妻鏡
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)が坪庭に出御された。去る4月(28日)に烏の糞を受けて以後は避けていたが今回は坪庭で遊びたいとの希望があり、二品(政子)の許諾を得ての出御である。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月6日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)が田村から鎌倉に戻った。駿河前司三浦義村が義時に従い、直に若君(三寅)の御方に参上し、引出物の馬(黒駮(黒ぶち)一寸)を贈った。特にお気に召したようである。
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   ※馬のサイズ: 平安〜鎌倉時代初期の一般的な馬は南方系の四川馬で、体高(首の根元で計測)は平均して
4尺2寸(130cm弱)程度、4尺を越えると1寸づつ呼称が変わる。
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サラブレッドは160〜170cmだから現代なら「ポニー(147cm以下)」に分類されるサイズで、鎌倉時代中期には北方系の奥州産馬が多くなったらしい。 平家物語には「宇治川の先陣争いで佐々木高綱が跨った生月は4尺8寸(約145cm)、極めて太く逞しい」と書かれている。
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当時の奥州の馬は四川馬よりもはるかに大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲(現代に換算すると100万円近く)もの値が付けられた、と言う。
頼義や義家や頼朝が奥州を欲しがった気持ちが判るなぁ...。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月13日
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吾妻鏡
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駿河守(北條重時)が差配し、若君(三寅)の近くに仕える者を選び(近習番と号す)輪番制とした。
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     一番 駿河守     結城七郎兵衛尉     三浦駿河三郎
     二番 陸奥四郎     伊賀四郎左衛門尉     宇佐美三郎兵衛尉
     三番 陸奥五郎     伊賀六郎右衛門尉     佐々木八郎
     四番 陸奥六郎     佐々木右衛門尉三郎     信濃次郎兵衛尉
     五番 三浦駿河次郎     同四郎     加藤六郎兵衛尉
     六番 後藤左衛門尉     嶋津三郎兵衛尉     伊東六郎兵衛尉
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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10月21日
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吾妻鏡
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佐々木兵衛太郎入道西仁(加地信実)から「児島宮の御所警固の任は三男時秀から次男實秀に変更」との申し出があった。これは以前に指示した事であり、北條義時からは「対応が遅いのは筋が通らぬ」との怒りを受けた。
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   ※児島宮: 後鳥羽上皇の皇子冷和泉宮頼仁親王(承久三年(1221)7月25日を参照。生母は後宮の坊門局
坊門信清の娘)。承久の乱後は備前国児島(倉敷)に配流となり、別名を児島宮と。終生京に戻ることは許されず、43年後に配流地で没した。児島高徳の先祖説あり。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月1日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に歳星(木星)が辰星(水星)の軌道を犯した。また螢惑(火星)が大徴(天球の位置、北斗七星の南)に入ったと司天の輩(天文担当)が報告した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月7日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を開始した。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月19日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に太白星(金星)が哭星(山羊座)の第一星の軌道を犯した。前右京亮重宗の報告である。
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   ※百錬抄の記事: 熊野の那智大社(公式サイト)が焼亡。再三の火災により復旧の目処は立っていない。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月27日
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吾妻鏡
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勝長寿院の鎮守神社の在所(寺奥)を移転せよとの沙汰があり、隠岐入道行西(二階堂行光)がこれを差配する。
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今日、豊前守従五位下藤原朝臣(大友能直・52歳)が京都で死去した。鎮西の管理を担当した二人の内の一方である。万一の際には子息の次郎親秀が跡を継いで業務に任じるよう兼ねてから鎌倉の指示が発せられていた。
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   ※鎮守の移転: 勝長寿院から見て裏鬼門(南西)に位置するためか、あるいは政子 の新邸(御堂御所)との位置
関係が理由か。その指示を出したのが政子か義時かも不明確。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月29日
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吾妻鏡
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来年に若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)の御所を建てる事について、奥州義時邸で評議があった。ただし義時から最近続いている天変や今日の雷鳴などの変異も考慮の必要ありとの意見があり、陰陽師を呼んで意見を求めた。
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未刻(14時前後)に卜占があり、「最吉とは言えないが悪くはない。」との結論を得た。続いて天変と雷鳴についての質問があり、安倍知輔朝臣が委細の説明を述べた。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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11月30日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に雷鳴、風雨が特に激しかった。今日、御所造営について更に評議を行い、陰陽師を呼んで結論を求めた。安倍国道朝臣・知輔・親職・晴賢・泰貞・信賢・晴茂の七人が参上し各々「良くない」旨を言上した。
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近日の天変頻発が示すのは歳星(木星)が房星(さそり座頭部の四星)の軌道を犯している。本文の載せる所、五星(木星・火星・土星・金星・水星)が房星の軌道を犯すときは失策の例が多い。明年の若君は七歳で 計都星(要するに悪い運勢)に当たり、建築などは勧められない。  これが国道朝臣の意見である。
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この件については更に六波羅に指示し朝廷の陰陽寮に問い合わせることになった。
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   ※義時の逡巡: 少し弱気で占いなどを気にする例が多い。姉の政子は一度決めたら他人の意向なんか完全に
無視するのに。私の母方の叔母と同じタイプだね、天上天下唯我独尊だと信じている。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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12月3日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に奥州(北條義時)邸に光る物体が現れた。
直ちに大倉の薬師堂(後の覚園寺・建保六年(1218)7月9日を参照)で祈祷を催し、神馬(片岡と名付けた名馬)を鶴岡八幡宮に寄進した。更に七座の招魂祭(七人による祭祀)を行った。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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12月20日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に奥州(北條義時)が若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)の御方に参上、駿河前司三浦義村・隠岐入道行西(二階堂行村)・出羽守中条家長および陰陽師六人を呼び集めた。(若君の)御所を造営する件を京都に問合わせた返状を持った飛脚が前夜到着し、もう一度検討するのが目的である。返状の内容に拠れば11月29日の未刻(14時)が最吉の日取りで、七人(泰忠朝臣・定平・宣俊・廣俊・泰基・忠光・在友)が同意し連署している。
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鎌倉の使者が入洛したのは今月10日の申刻(16時前後)だが、11月29日に定めた場合の吉凶を問うたのが問い合わせの趣旨である。ここで再び陰陽師に占わせた結果は、信賢が最吉・知輔と泰貞が半吉・安倍国道朝臣と親職と忠業が不吉を申し立て、義時は明確な返答を求めた。
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国道らは「言葉で説明できない部分があり、(陰陽寮の)七人が占った詳細を精査してから報告しましょう」と答え、返状を受け取って退出した。この件の差配は民部大夫町野康俊と籐内所兼佐が担当する。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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月日
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