貞応三年・元仁元年(1224)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月1日
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吾妻鏡
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前陸奥守北條義時が三寅(後の四代将軍藤原頼経)に椀飯を献じ、その後に若君は南面に出御された。御剣は駿河守北條重時が、御弓箭は駿河前司三浦義村が、御行騰は出羽守中条家長携えた。
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   献上の馬
     一の御馬 三浦駿河次郎泰村    同四郎家村
     二の御馬 佐々木右衛門次郎信高   同三郎泰綱
     三の御馬 中條出羽次郎家平   苅田右衛門三郎義行
     四の御馬 加藤六郎兵衛尉景長   同左衛門三郎景俊
     五の御馬 三浦三郎光村    同又太郎氏村
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 北條義時は60歳・政子は67歳・北條時房は49歳・北條泰時は40歳・大江廣元(入道覺阿)は75歳 ・
後堀河天皇は11歳8ヶ月・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は6歳11ヶ月(全て満年令)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月2日
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吾妻鏡
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椀飯の儀は通例の通り。御剣は駿河前司三浦義村の持参である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月4日
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吾妻鏡
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椀飯の儀あり。御剣は左衛門尉結城朝光が持参し、前陸奥守北條義時侍間に入って盃酒を行った。隠岐入道行西(二階堂行村)ら、法体の者並びに医師・陰陽道の者が列座しそれぞれ数献を交わした。二品(政子)は南に方違えをするため、隠岐入道行西の二階堂邸に入った。行西はこれを承知している。
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   ※南に方違え: 政子は前年7月26日に新邸(御堂御所)への転居を済ませている。新年を迎えての習慣か。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月5日
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吾妻鏡
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二品(政子)の御方違えは、隠岐入道の家から見て勝長寿院の奥殿は南に当たると陰陽師が申し出たため、改めて大倉泉の御亭を本所とした。   戌刻(20時前後)、月と太白(金星)が重なると天文司から報告があった。
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   ※泉の御亭: 位置は確定できないが、大倉御所敷地の中だろう。
「勝長寿院の奥」はどう考えても「二階堂の南」ではなく大倉御所の東南である。
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元暦元年(1184)11月26日の吾妻鏡は「頼朝は御所の東南に霊地を見出して堂宇の造営を計画した。父義朝の菩提を弔うのが願いである。」と書いている。
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御所と勝長寿院の位置関係は右に載せた地図で概ね間違いない。考えられるとしたら、二階堂邸が地図に載せた赤丸ではなく荏柄天神社の参道寄りだった可能性だが...それでも「勝長寿院の奥殿は南に当る」にはならない。こういうの、気になるんだよね。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月6日
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吾妻鏡
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宰相中将一条実雅が今年初めて前陸奥守 北條義時邸を訪問。義時は馬を始め様々な引出物を贈った。
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   ※一条実雅: 朝廷と鎌倉の仲介役として実績を挙げた一条能保の三男、生母は 頼朝の同母妹坊門姫。しかも
同母姉の孫が三寅(次期将軍藤原頼経)で妻は執権義時の二女という超エリートなのだが...
半年後には「伊賀氏の変」に関わった罪科を問われ離縁の末に越前に配流となった。
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首謀者の伊賀光宗や関与した北條政村三浦義村は政子の死後に復権して幕政の中枢に戻っているが、実雅は配流半年後に変死している。「伊賀氏の変」は6月の義時死没に伴って発言力を強める可能性のあった伊賀一族の粛清を計画した「政子の最後っ屁」だった可能性が高い。
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   ※前陸奥守: 義時は前年の8月16日に離任しているのだが、年末までの肩書きはそのまま陸奥守だった。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月14日
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吾妻鏡
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二所詣のための精進潔斎が始められた。今日、鶴岡八幡宮に於いて最勝八講を開始した。
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   ※最勝八講: 大乗経典である最勝王経(金光明最勝王経)を講ずる法会。朝夕の二回を四日続けて=八講。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月15日
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吾妻鏡
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前陸奥守北條義時が鶴岡八幡宮へ。連日の参詣であり、今日で七日の結願である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月18日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が二所詣の奉幣使として出発した。
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   ※奉幣使: 陵墓や神社に代参する使者。七歳弱の三寅ではまだ無理らしい。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月21日
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吾妻鏡
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若君(三寅)の御方で御酒宴が催された。若君の御精進中には前陸奥守(北條義時)と駿河守(北條重時)と出羽守(中条家長)をはじめとして多くの御家人が参籠し、大進僧都・信濃法眼らも同様に参侯しており、(精進明けとして)宴席を構え延年(歌舞演芸)に及んだ経緯である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月23日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が二所詣を終えて鎌倉に帰参した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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1月29日
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関東下知状
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河野九郎道久が申し出た伊予国土着の者について、父の通信法師(河野通信)は(承久の)兵乱で京方に属した咎により処分を受け、道久は父に背いて関東に加わり忠節を尽くして阿波国富田庄の地頭職を与えられた。
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しかしながらこれを本望に非ずと称し同国の石井郷を願って差し替えを得た。父の代からの従者が昔日の恩を忘れず寄せ集まっていたためである。これに同国の新補地頭らが制止を加え処罰する云々の事件が起きた。これは甚だ妥当性を欠く行為であり、早急に本来の姿に戻すよう命じるものである。
                         貞応三年正月二十九日  前陸奥守(北條義時・花押)
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   ※河野道久: 伊予水軍を率いて源平合戦を戦った河野一族は元々
朝廷との関係が深く、承久の乱では院方に味方して敗れた。西面武士として戦った嫡子通政は斬首、通信は流刑地の江差(岩手県北上市稲瀬町)で没した。
  (一遍上人聖塚を参照されたし)
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生母が北條時政の娘だった四男の通久だけが鎌倉側に加わり、本領を安堵されて伊予での勢力を保ったが徐々に衰退したらしい。通政を含む3人の兄が通久と同母だったか否かは手元の資料では確認できない。
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富田庄は現在のさぬき市大川町(地図)の一帯、石井郷は父祖伝来の地である愛媛県松山市石井(地図)。家系は通久−通継−通有と続き、通有は伊予水軍の将として元寇に出陣、志賀島の合戦で敵将を生け捕るなどの軍功を挙げている。
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右画像は「蒙古襲来絵詞」より、竹崎季長(右)と歓談する河野通久(クリック→拡大)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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2月3日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震あり。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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2月11日
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吾妻鏡
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御所の中庭で犬追物を催した。前陸奥守(北條義時)と相公羽林(一条実雅)らが観覧した。犬が20疋に射手は6騎、駿河次郎(三浦泰村)・佐々木八郎信朝(加地信実の嫡子)・結城七郎兵衛尉朝廣(結城朝光の嫡子)・駿河四郎家村(三浦義村の五男、泰村の弟)・武田六郎信長(武田信光の嫡子)・横溝六郎義行(近江または相模横山党の武士で得宗被官)が務めた。
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   ※犬追物: 承久四年(1222)2月6日を参照。今回の催しは騎射ではなく柵の外側から射るタイプだろうか。
いずれにしろ、愛犬家として許し難い蛮行なのは間違いないが。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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2月22日
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吾妻鏡
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駿河国衙からの使者が報告、一昨日(20日)丑刻(深夜2時前後)に当国惣社および富士新宮などが焼失した。神の火である、と。
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   ※駿河国総社: 現在の静岡浅間神社(公式サイト)。惣社の神部神社、富士新宮(現在の浅間神社)、大歳御租
神社(大歳御祖命が主祭神)の三社を併せて浅間神社と称していた。
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ちなみに駿河国府の位置は確定していない。官公庁が集中している駿府城の周辺で、特に北側の静岡高校一帯説が有力らしいが、沼津説(これはややムリ筋か)などもある。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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2月23日
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吾妻鏡
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三郎兵衛尉平盛綱と左近将監尾藤景綱が前陸奥守北條義時の使者として駿河国に下向した。 富士新宮などの火災への対応である。
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   ※義時の使者: 二人とも幕吏ではなく義時の私的な家臣(御内人)。やがて実務能力の高い御内人が幕政を
支配する時代が...承元三年(1209)11月14日に興味ある記事が載っているから確認を。
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権力を握るとイエス・マンで周辺を固め、反対意見に耳を傾けない愚か者が増えてくる。
安倍晋三が典型的な例だね、中身は苦境に耐えられず政権を投げ出した軟弱者なのだが。
最近(2016年3月)の様子から判断すると、また仮病で敵前逃亡するのが近いように見える。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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2月29日
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吾妻鏡
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去年の冬に高麗人の船が越後国寺泊浦に流れ着いた。今日、式部大夫(北條(名越)朝時 )が彼らの弓箭や甲冑を若君の元に提出してご覧に入れ、奥州(北條義時)を始めとする幕臣が集まった。
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弓は二張(普通の弓に近いが遥かに短く、夷(当時のアイヌ民族)の弓に似て弦は皮)、矢壷一個、太刀一振り(やや細長い)、刀一振り(概ね普通の刀)、帯一筋(組み紐)などである。帯の中央に銀の飾り(長さ7寸・巾3寸、21×9cm)があり銘4文字が記してある。他に銀の匙一・鋸一・箸一双(動物の骨製)・櫛(皮製、櫛袋入り)。甲冑は我が国に似ており、全ての品は用途を判別できる。四字の銘は数名の学識者が確認したが誰も読めなかった。
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   ※短い弓: 南宋との交易があった割には幕府の知識が少なかったと思われる。
福岡市の元寇記念館に展示してある短弓は長さ64cmの複合弓(木や竹に動物の健や金属などを貼り合わせたもの)で、日本の長弓に比べても威力は劣っていなかったらしい。アイヌ民族も短弓だったが狩猟や戦いには鏃にトリカブトの毒を塗った関係から弓には特に強さを求めなかったという。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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3月14日
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吾妻鏡
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若君御亭の南廊下板戸の上に烏の巣が見つかった。先例(前年4月28日の烏の糞)は不吉とされており、内々で卜占を行ったところ、病気に要注意の結果であると安倍国道・親職が報告した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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3月18日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に若君御亭の調理場にあった釜の耳(取手)に生えている蔬(キノコの総称)が見付かった。式部丞伊賀光宗と同六郎右衛門尉光重を奉行として御占いが行われた。結果は「聞いて驚く様な事件が起きる。また寅年と申歳に生まれた女房は身を慎み行動に注意せよ。」との結果を陰陽師五人が連署して報告した。
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   ※伊賀光重: 朝光の子(四男?)で名乗りは六郎、四代将軍頼経の近習。元仁元年(1224)6月の伊賀氏の変
(政子の捏造説が主流)に連座する形で九州に流され、嘉禄元年(1225)の政子の死没後に復権して頼経に仕えている。
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   ※要注意は: 寅年(42歳・30歳・18歳)と申年(48歳・36歳・24歳)生まれに該当する。満年齢と数え年の違い
があるし、そもそも占いなんて実に愚劣だと思うけれどね。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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3月19日
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吾妻鏡
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早暁から、前陸奥守北條義時の無事を祈る百日間の泰山府君祭(御使は林太郎)が始まった。こ れは殿中で異変を告げる幾つかの兆しが見られたことに起因する。
丑刻(深夜2時前後)に甘縄の南麓で三町余(概算で3000坪、100m四方)を焼く火災があり、その中には千葉介胤綱の家も含まれていた。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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   ※甘縄の南麓: 安達邸跡(現在の甘縄神社)を連想するが「安達邸
が焼けた」との記載がないから、更に南側か西側が燃えたのだろう。千葉胤綱邸の位置は不明だが、近くには染谷時忠邸跡の石碑が建っている。
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貞応の頃には長谷寺も光則寺も高徳院も存在せず、深沢に向かう長谷通りも狭い山里の道だった。
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   ※染谷時忠: 頼朝から五代前の源頼義や嫡子の八幡太郎義家
生きた時代より300年以上前の奈良時代の人物。
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文武天皇から聖武天皇の頃(697〜728年)に関東八ヶ国の総追捕使として鎌倉に住み由比の長者と呼ばれた半ば伝説上の人物(一説に東大寺の開山和尚良弁の子、とも)。時忠の存在は鎌倉が歴史に現れた最初だろうと思う。
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右画像は由比ヶ浜大通り周辺の地図(画像をクリック→拡大表示)。
古道周辺の史跡などは極楽寺坂から小町口への画像を参照されたし。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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3月21日
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吾妻鏡
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天変や怪異に対応して(陰陽道に基づく)祈祷が催された。属星・月曜・螢惑・百怪(五座・担当五人)、泰山府君(七座・担当七人・3月19日を参照)などの祭祀である。
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   ※属星: 誕生年の十二支から決まる北斗七星の一星を本命属星として長寿・招福を祈る。
   ※月曜: 年齢によって九曜の一つが当年の属星となり、変異に対応して星祭を行う。螢惑星は火星。
百怪は諸種の怪異を払う祈祷。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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3月23日
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吾妻鏡
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かねて脚気を患っていた左衛門尉伊賀三郎光資が死去した。伊賀守朝光の三男である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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4月25日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震あり。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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4月27日
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吾妻鏡
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土佐守源国基(観基僧都)が前殿下(若君(三寅)の厳閣)の使者として鎌倉に入った。すぐに狩衣に着替えて若君の御方に参上して対面し手本や御硯等を献上した。手習いを励むよう道家が贈ったものである。
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前陸奥守北條義時も参会し、駿河守北條重時、駿河前司三浦義村以下の幕臣も出仕して椀飯を催し、元旦の儀式の如くだった。数献の盃酒後に国基は御剣を賜って退出した。
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   ※源国基: 摂津源氏頼国の四男・実国から五代後の武士で頼政の系に近い。清和源氏の系図を参照。
文治2年(1186)8月27日の吾妻鏡に次の記載がある。
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土佐守源国基は頼朝の同族で断ち難い関係にある。伊勢神宮領の伊勢国玉垣御厨の領主職の他にも多くの所領を与えた。
また家人刑部丞景重は鎌倉で頼朝に仕えるよう命じられた。渡辺党の武士である。
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   ※前殿下: 前任の摂政関白、厳閣は三寅の父親九条道家を差す。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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4月28日
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吾妻鏡
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若君(三寅、後の四代将軍藤原頼経)の御手習い始めの儀が催された。陰陽権助安倍国道朝臣が良い日取りを選び、今日の巳刻(10時)か未刻(14時)と定めた。
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南面の御簾三間を挙げ、御硯一面(蒔絵の鶴)・御手本(昨日京都から届いた)などを御前の文台に置いた。吉時(未刻・14時)に狩衣の前陸奥守北條義時が着座し若君が出御、狩衣の宰相中将(一条実雅)が傍らに控えた。
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頃合いを見て奥州義時が進み出て御硯蓋を開き、墨を摺って筆を浸して若君に渡し、若君は長生殿の詩を書いて習い初めを行った。儀式が終って義時が錦の袋に納めた御剣を献上、出羽守中条家長を介して相公羽林(一条実雅)が若君に手渡した。その後に上の台所で盃酒となり宿老の御家人数名が参席した。
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   ※長生殿: 驪山(西安の東、山麓の温泉で始皇帝が傷を癒した地。)唐代の第六代皇帝玄宗が華清宮と改めて
楊貴妃と遊んだ、と伝わる。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月4日
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吾妻鏡
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若君(三寅)の御手習いあり。二品(政子)がこれを補助し、女房数人が付き添った。
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西暦122四年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月8日
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吾妻鏡
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土佐守源源国基が帰洛の途に就いた。去る4日に宿館を出て、若君から使者の駿河三郎三浦光村を介して 引出物の御馬を下賜され、陸奥守北條義時からも御馬と帷(一重の衣類)などを、他の人々の多くも餞別を贈った。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月13日
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吾妻鏡
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近国の海辺で名の知れない多くの大魚が死んで波間に浮き上がり、三浦崎や六浦や前浜(由比ヶ浜)に充満した。鎌倉中の人の多くがその肉を買い求んで魚油を取るため煮込み、異臭が村里に満ち溢れた。世間では前例のないほどの旱魃が起きる兆しだ、尋常ではない出来事だ、などと噂した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応3年
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5月15日
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吾妻鏡
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雨のない日照りが10日以上も続いているため祈雨の祈祷を開始した。百壇の不動供(不動明王への祈り百回)・一宇金輪(如来の真言の神格化)・水天供(水神への祈祷)・降雨法・仁王経と観音経の読経などである。
周防前司中原親實がこれらの奉行に任じた。
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   ※日照り続き: 旧暦の5月15日は太陽暦の6月15日に該当する。田植え時期の日照りは深刻だ。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月16日
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吾妻鏡
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若君(三寅)が二品(政子)の御方に渡御された。駿河守北條重時・周防前司中原親実(5月15日を参照)・少輔判官代大江佐房・駿河次郎三浦泰村・信濃四郎左衛門尉らが供奉した。
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   ※大江佐房: 源通親の養子になり承久の乱では院方に与して逐電した源(大江)親廣の長子、大江廣元の孫。
祖父に従って鎌倉方に与した佐房は軍功により上田荘(現在の長野県上田市)を与えられて上田氏の祖となり幕府の要職を務めた。一族は霜月騒動(1285)で没落している。
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   ※信濃四郎: 二階堂行盛の息子行忠の通称が信濃四郎だが、彼は承久三年(1221)生まれなので満2歳で、
該当しないだろう。別人だと思うが、特定できない。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月18日
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吾妻鏡
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日照りを防ぐ祈祷はどの祭祀を修するのが妥当か、奥州北條義時邸で更に重ねて評議した。
隠岐入道行西(二階堂行村)は「五龍祭(陰陽道の雨乞い)を行うべきか」と申し出たが未だ実施した例がないため、天地災変・属星・水曜などが良いだろうと衆議が決した。
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   ※百錬抄の記録: 今日から神泉苑に於いて親厳僧正が雨を祈る
読経を開始し、諸寺の僧には水天供を行うよう指示した。また炎天が10日以上も続くのは何かの祟りなのか卜占を行わせた。
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百錬抄は鎌倉時代後期に編纂された歴史書で公家の日記などを抜粋して編集したもの。
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   ※神泉苑: 現在の二条城東側にあった禁苑(宮中の庭園)。酷暑が
続いた寿永三年(1184)の夏に後白河法皇が百人の白拍子を集めて雨乞いの舞を演じさせたが99人までは何の効果もなく、百人目の白拍子が舞い始めた途端に黒雲が巻き上がり三日間も雨が降り続いた。
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後白河は「汝は神の子か」と驚嘆した、と伝わる。静と義経、歴史に残る恋物語のスタートだった。
    詳細は右画像をクリックして義経が静を見初めた神泉苑で詳細を。
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   ※水天供: 須弥山の西に住む十二天の一人で龍を支配する水の神。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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5月20日
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吾妻鏡
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深夜になって鎌倉中が騒がしくなったが、その理由は判らない。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月1日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に大地震があった。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月6日
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吾妻鏡
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日照りが旬(10日)を越えている。今日雨乞いのため霊所七瀬(水に関わる七ヶ所の霊地)で祭祀を行った。
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由比ヶ浜は安倍国道朝臣、金洗沢池は同・知輔朝臣、固瀬河は同・親職、六連は同・忠業、柚河は同・泰貞、杜戸は同・有道、江島龍穴は同・信賢が祈祷に任じた。これは関東で初めて行う御祓いである。
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この他に地震祭を国道、日曜祭を親職、七座の泰山府君(3月19日を参照)は知輔・忠業・晴賢・晴幸・泰貞・信賢・重宗が行った。また十壇の水天供(5月18日を参照)は弁僧正(定豪)と門弟らがこれを修した。
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   ※地名の詳細: 由比ヶ浜は別名前浜(地図)、滑川が流れ込む。金洗沢池(地図)は承久三年(1221)8月2日
を参照、文永八年(1271)6月には日蓮と忍性が雨乞いの祈祷比べを行っている。
固瀬川は現在の片瀬川(地図)、 六連は横浜港南部の六浦(地図)、 柚河(鼬川)は武蔵国に向かう鎌倉街道が通っていた横浜市栄区(地図)、杜戸は森戸川と森戸海岸(地図)、 江島龍穴は古来から参籠が行われた江ノ島南西岸(地図)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月10日
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吾妻鏡
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夜に入って雨となった。今日、陸奥守足利義氏が御扇を若君(参寅・後の四代将軍藤原頼経)の御方に献上した。
義氏は国司として在京中である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月11日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて)降雨。弁僧正(定豪)が祈祷のため読んだ経の巻数を報告し、報奨の馬を贈られた。籐民部大夫 (二階堂行盛)がこれを差配した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月12日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて)降雨。辰刻(朝8時前後)に前陸奥守(北條義時)の病状が悪化した。以前から体調を崩しており、今までは特に危惧するほどではなかったが今回は重篤である。
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急遽陰陽師の安倍国道・知輔・親職・忠業・泰貞らを呼んで占った結果は特に大事にはならないとの結果で、戌刻(10時前後)の占いでは全員が快方に向っているとの結論を出し、天地災変祭を二座(国道と忠業)、三万六千神祭を知輔、属星祭を国道、如法泰山府君祭を親職が担当して念のための祈祷を行った。
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祭祀の道具などは規則通りに刷新し、十二種の重宝と五種の依り代(馬牛男女の装束の人形・ひとがた)も全て新しく取り替えるよう指示が下された。その他にも泰山府君や天冑地府祭など数種類の祈祷を行った。これは親しくしていた人々による懇志だが、時が過ぎるにつれて更に深刻な病状になった。
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   ※天冑地府祭: 国家の大事などの際に陰陽道が行う重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君・天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月13日
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吾妻鏡
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(昨日に続いて)降雨。前陸奥守(北條義時)が危篤状態に陥った。駿河守北條重時を使者として現状を若君の御方に報告し許可を得て今朝寅刻(4時前後)落飾、巳刻または辰分(朝10時前後または8時前後)に死去した。
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年齢は62歳、日頃からの脚気に加えて霍乱を併発した。丹後律師の勧めに従って昨朝から終焉の時まで阿弥陀の宝号を唱え続け、縛印を結び念仏数十回を繰り返して息を引き取った。順序通りの往生である。午刻(正午前後)に飛脚が京都に向け報告の途に就き、また後室の伊賀の方荘厳房律師行勇を導師として落飾した。
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   ※霍乱: 日射病、または夏に起きやすい激しい吐き気や下痢などを伴う急性の胃腸病を差す。
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   ※保暦間記の記述: 左京大夫義時(63歳)は意外にも近習として召し使っていた小侍(身分の低い若侍)に刺し
殺された。十善帝王であっても前世の所業から逃れられないものだ。
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保暦間記は保元(1156)〜暦応(1339)を描いた南北朝時代に成立の歴史書。根拠の乏しい物語風の記述もかなり含まれている。
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   ※十善帝王: 前世で十善を行った結果王者に生まれ変わった者。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月15日
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吾妻鏡
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恒例となった七瀬御祓い(6月6日を参照)は義時の死没の穢により延引した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月17日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月18日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に前陸奥守禅門(北條義時)を葬送した。
故右大将家(頼朝)法華堂から見て東の山上を墳墓とした。葬礼の差配を命じられた安倍親職はこれを固辞し、康貞も手順書がないと称して辞退した経緯により知輔朝臣がその任に就いた。
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式部大夫北條朝時・駿河守北條重時・陸奥四郎北條政村・同五郎実泰・同六郎有時と駿河次郎三浦泰村および宿老の祇侯人少々が喪服で供奉した。その他にも多くの御家人が参会して群を成し、それぞれが悲しみの涙を流した。
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   ※法華堂東の山上: 正確には頼朝法華堂から直線で北東100m、
高低差で約11m(地図)。既に発掘調査が済んで三間(スパン・28尺・8.4m)の法華堂礎石跡が確認されている。それとは別に、更に約50m東の山中に昔から「義時さんのやぐら」と伝わっている場所があるから面白い。結論としては単なる伝承なのだが...。
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    更に詳細は右画像(法華堂跡の位置図)をクリックして義時法華堂跡と義時やぐらで。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月19日
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吾妻鏡
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故式部大夫北條義時の初七日法要を催した。導師は丹後律師である。
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   ※丹後律師: 寛喜三年5月17日の吾妻鏡に「丹後律師頼暁」との名が載っている。出自などは不明。
法事の会場は大倉薬師堂(建保六年(1218)7月9日を参照)と考えるのが順当か。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月22日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が臨時の法事を催した。導師は走湯山(伊豆山権現・サイト内リンク・別窓)の浄蓮房、一日で法華経六部を書写した、と報告している。
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   ※浄蓮房: 安貞三年(1229)2月21日の吾妻鏡に「三浦義村の依頼を受けた浄蓮房が三浦に10余艘の船を
浮かべて阿弥陀や菩薩の来迎を演出するイベントを行った、云々」の記載がある。この来迎会は平安中期に恵心僧都源信(wiki)が考案した、という。臨場感のある企画なんだろうね。
世田谷九品仏浄真寺の「お面かぶり行列(wikiの画像)も参考に。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月26日
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吾妻鏡
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二七日(14日)の法要を行い、大進僧都観基が読経の唱導に任じた。
今日未刻(14時前後)に武蔵守北條泰時が京都から下着し、まず由比ヶ浜近くの宿舎に入った。明日屋敷に入る予定である。去る13日に鎌倉を出発した飛脚が16日に入洛し17日丑刻(深夜2時前後)に京都を出発した。
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また19日に出京した相模守北條時房と(別行動の)陸奥守足利義氏も同じく鎌倉に到着した。
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   ※保暦間記の記述: 義時死没の際は京都六波羅にいた嫡子武蔵守泰時と彼の伯父相模守時房は直ちに出京
し鎌倉に向かった。式部丞伊賀光宗光季の弟)は義時後妻(伊賀の方)の兄弟である。
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伊賀の方が産んだ義時の子・左京大夫北條政村(式部丞)は生母と光宗および宰相中将の一条実雅(義時の娘聟)は泰時を殺して政村を執権に就けようと企んだ。
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これによって泰時は取り敢えず伊豆国に留まり、時房が先に鎌倉に入って陰謀を企んだ者を謹慎させ、26日に泰時は鎌倉に入った。時房の忠義に基づいた行動は二位家(政子)の指示である。こうして泰時は義時の跡を継いで将軍家の執権に就任した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月27日
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吾妻鏡
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吉日を迎えて、武蔵守北條泰時は以前から修理していた鎌倉の屋敷(小町の西北)に移った。
関左近大夫将監実忠と左近将監尾藤景綱の家もこの敷地内にある。
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   ※関実忠: 平清盛の侍大将を務め、壇ノ浦で捕虜になった後に飲食を断って自殺(吾妻鏡の文治二年(1186)
7月25日)した伊勢平氏平盛国の子または孫と伝わる。
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実忠は頼朝に仕え、元久元年(1204)3月に勃発した三日平氏の乱で功績を挙げて関谷(鈴鹿庄)の地頭に補されて関氏を名乗った。頼朝没後は北條氏に仕えて鎌倉に常駐、宝治元年(1247)に老齢を迎えて関谷に帰り、 文永二年(1265)に亀山城(wiki)で没した、と伝わる。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月28日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が(鎌倉に戻って)初めて二位殿(政子)邸に入った。父の死に伴う触穢は特に問題なし、と。
相模守北條時房は泰時の軍事に於ける後見人の立場を守り、武家の実務を行う意図を鮮明にしている。
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ただ泰時は「行動を急ぎ過ぎては問題を生じないだろうか」と前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)に相談し、廣元は「今日まで延びたのはむしろ遅過ぎると言うべきでしょう。政局が落ち着かなければ人の疑念が生じます。決めるべき事は早急に決める、決断が必要です。」と答えた。
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前奥州禅室(北條義時)の死去後には噂話が乱れ飛んでいる。「武州泰時は弟ら(北條氏の系図を参照)を討ち亡ぼすために京都から戻って来た」と言う者もあり、四郎政村の周辺も騒然としている。
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式部丞伊賀光宗の兄弟は外戚の北條政村に執権に継がせたい意図がある。前奥州禅室の後室 (伊賀守朝光の娘伊賀の方)もまた、娘聟の宰相中将一条実雅卿を関東の将軍に推し立てようと願い、子息の政村を将軍の後見に据えて関東御家人の支配を兄弟の光宗らに任せる計画の相談を巡らしている。そのように語る者も、それと異なる意見を述べる者もいるのが現状である。
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武州泰時の周辺にはそれらの情報を告げる者もいるが泰時は「事実とは言い難い」として問題にしていない。近臣の他は全て面談を断り、周辺にいるのは三郎左衛門尉平盛綱・左近将監尾藤景綱・左近大夫将監関実忠(6月28日参照)・左衛門尉安東光成・万年右馬允(御内人)・南條七郎時員(御内人)らのみで、甚だ寂寞としている。
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   ※安東光成: 義時・泰時・時頼の三代執権に仕えた御内人。
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   ※謀反の計画: 実際に打倒泰時の計画があったかは疑わしい。後に泰時が「謀反の計画などなかった」と語って
いるし、吾妻鏡も事実としてではなく「謀反の風聞がある」とのみ記述している。
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そして2年後の嘉禄元年(1225)7月11日)に政子が死去すると一ヶ月半後の8月27日に光宗の弟(庶弟?)で鎮西に流されていた四郎朝行と六郎光重が許されて鎌倉に戻り、同年12月22日には信濃流罪だった光宗が許されて鎌倉に戻り没収された所領の返還を受けている。更には寛元二年(1244)になると幕政の中枢である評定衆に着任している。
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更に首謀者の一人の筈の政村は延応元年(1239)に評定衆、翌年に筆頭、建長八年(1256)に連署と順調に出世を重ね、文永元年(1264)には第七代執権に就任している。これだけ状況証拠が重なっていては「彼らが謀反を計画した」のは濡れ衣だったと考えるのが妥当。
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後妻の伊賀の方と政村は義時没後の冷遇を避けようと多少の工作をした、一方で高齢の政子は幕政の実権が伊賀一族に移り北條氏が零落するのを危惧した...自分が権力を握っている間に将来政敵となる可能性を排除しておこう、と。
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越前流罪の一条実雅は4年後の安貞二年(1228)に変死、伊賀の方は伊豆北條に流されて半年後の12月24日に死没の報が鎌倉に届いている。実雅は兎も角として牧の方は政子による暗殺だと思う。
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伊豆長岡の北條寺には義時の墓石(分骨か)と伊賀の方の墓石が並んでいる。銘には○○伊賀守藤原朝光娘、○部分は再確認の必要がある。ここ北條寺は義時の本領だった江間郷にあり、義時の分身として生涯を送った五郎時房の菩提寺でもある。 右画像をクリック→北條寺の詳細記事にリンク(別窓)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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6月29日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)、掃部助北條時盛時房の長子)と武蔵太郎北條時氏泰時の長子)が上洛の途に就いた(去る27日に出門の儀あり)。二人とも政情が不安定の間は鎌倉に留まるべきではないかと言ったが、時房と泰時は相談の上で「世間が落ち着かない時こそ京畿の動静に注意が必要である、早く洛中の警護に専念せよ。」と命じ、出発となった。時房は何事に関しても泰時の意思に従う方針を示している。
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今日、六月祓いの行事は触穢により中止となった。天下諒闇の際には行うべきではない、との沙汰に拠る。
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   ※六月祓い: 夏越祓に同じで、半年間に蓄積した心身の穢を払い長寿を祈る行事。
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   ※天下諒闇: 本来は天皇が父母の喪に服する期間。この場合は義時の存在を天皇に準(なぞら)えている。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月4日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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今暁に太白(金星)が井鉈(どこかの星座らしい)を通過したと司天(天文博士の唐名)からの報告があった。
今日は三七日(21日)の法事が催された。導師は信濃法眼道禅である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月5日
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吾妻鏡
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鎌倉中が騒ぎとなった。伊賀光宗の兄弟が何回も駿河前司三浦義村に出入りしている。何かの相談を行っているに違いないと人々は怪しんだ。
夜になって兄弟は故・奥州(義時)邸・後室(伊賀の方)の住居に集まり決め事に背かないとの誓言を交わした。
或る女房がこれを聞きつけ、会話の最初は聞かなかったものの不審に思って武州(北條泰時)に報告した。
泰時には動揺する気配がなく、「光宗の兄弟が変節しないと誓約を交わしているのは神妙な事だ。」と語った。
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   ※三浦義村邸: 義村は延応元年(1239)に死没し、鎌倉の屋敷は嫡子
泰村が継承、宝治元年(1247)6月に安達景盛の命令を受けた泰盛の軍勢に攻められて滅亡...屋敷の遺構は既に失われたが、吾妻鏡には屋敷の位置を特定できる幾つかの記述がある。
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北谷(御谷)から峰を越えた場所で、筋替橋の北から鳴鏑が届く(200m未満)場所で、安達勢の矢を受けずに頼朝法華堂に逃げ込める場所、その条件を満たすのは右図のエリアに限定される(下記記述を参考)。
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建保七年(1219)1月27日
実朝を殺した公暁は首を抱いたまま雪ノ下北谷の備中阿闍梨宅から八幡宮背後の峰を越えて義村邸に入ろうとしたところで長尾新六定景に討たれた。
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宝治元年(1247)6月6日
安達泰盛以下の軍勢は赤橋(太鼓橋)を渡り神護寺門外に出て時の声を挙げ、筋替橋の北に進んで(三浦邸に)鳴鏑を放った。(中略)
やがて北風が南に変わった。三浦勢は泰盛邸南側の民家に火を放ち、煙が屋敷を覆った。苦しくなった泰村らは頼朝法華堂に逃げ込んで立て籠った。
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   ※女房の密告: 吾妻鏡には「女房が密談を漏れ聞いた」との記述が頻繁に現れる。
例えば正治元年(1199)10月26日に景時の讒言を聞いた阿波の局結城朝光に知らせた、建仁三年(1203)9月2日に頼家の愛妾若狭局(比企能員の娘)と頼家の密談を障子の影で政子が聞いていた、など...詳しく確認すれば10回ほどある。鎌倉御家人が余程の間抜けでない限り、他人に漏れるような場所で密談をする筈はない。吾妻鏡編纂者の御都合主義だ。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月6日
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吾妻鏡
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早暁に太白(金星)が井中(双子座)に入った。戌刻(20時前後)には月が近世の軌道を犯した(距離は一尺五寸)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月9日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に月が心中央星(ふたご座に属する星)の軌道を犯した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月11日
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吾妻鏡
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国の安全を祈って二品(政子)が三万六千神祭を催した。連夜の天変への対応で、陰陽師泰貞がこれを担当し御使は大膳亮廣仲御が務めた。今日四七日(28日)の御仏事が行われ、荘厳房律師行勇が導師を務めた。
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   ※三万六千神祭: 陰陽師祭祀の一つで、天変地異を遠ざけ天下泰平を願うのが目的。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月13日
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吾妻鏡
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天変について司天(天文担当)の報告は重大な意味を持つ。対応して三万六千神・天地災変・月曜・螢惑星祭などの祈祷祭祀が行われ、或るものは既に結願している。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月16日
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吾妻鏡
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奥州(北條義時)五七日(35日)の法事が催された。導師は左大臣律師である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月17日
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吾妻鏡
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近国の御家人が競って鎌倉に集まり民家や庭などに入って待機し騒動になっている。子刻(深夜0時前後)に二位家(政子)が女房の駿河局のみを従えて密かに駿河前司三浦義村邸に渡御し、義村は特に敬屈(礼を尽くすの意味)して迎えた。 二品は義村に対して婉曲に次のように語り掛けた。
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奥州(義時)の死去に伴って武州(泰時)が鎌倉に戻ってから人々が群れ集って世の中が落ち着かない。陸奥四郎(北條政村)および式部丞(伊賀光宗)らが頻繁に義村の許に出入して密談を交わしているとの噂があるのは何事か、意味が判らぬ。これは泰時を排除して政務を独占する意図か。
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承久の戦乱を制したのは天運を得たと同時に泰時の功績でもある。奥州義時は数度の戦乱を鎮めて平和な世を実現した。その後継となるのは泰時であり、泰時がいなければ人々は長く争うことになるだろう。政村と(烏帽子親の)義村は謂わば親子である、共謀の嫌疑を受ける事態を招かないように。
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義村は「私の知るところではありません」と答え、二品は猶も語気を強めて義村に迫った。
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政村を助けて世を乱す企てがあるのかどうか、和平を求める意思があるのかどうか、返答せよ。
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義村はこれに答えて「陸奥四郎政村には全く逆心はありません。光宗らには何らかの考えがあるでしょうが、私が制止しましょう。」と約束し、これを受けて二品は還御された。
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   ※政子の思惑: 泰時の異母弟・政村の背後には、彼の烏帽子役を務めた御家人bQの実力を持つ三浦義村の
存在がある。予断を許さない状況だ、と政子は考えた。彼女も既に68歳、私が元気なうちに泰時の将来を担保するには早めに伊賀一族を排除し三浦を強く牽制しなければ、と。
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一方で権謀術策を弄する人物として知られ、同族の和田義盛を裏切った前歴もある義村は...
保身を図ったに過ぎない光宗を「何らかの考えがある」と偽って差し出した、のかも知れない。
この男には乳母子の公暁を簡単に見捨てた過去もある。
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詳細は実朝首塚と波多野城址と、次に続く和田義盛別邸跡の本文を参照されたし。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月18日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が武州(北條泰時)に面会した。
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故大夫殿(北條泰時)の時代に私は微力を尽くして忠義に励み、懇意を頂いて四郎主(北條政村)御元服の際には加冠役を務めました。更に愚息の泰村を御猶子としたなどの好意を思うと、貴殿(泰時)と四郎主のどちらに与するかなど考えた事もなく、願うのはただ世の平和だけです。伊賀光宗には多少の考えがありましたが言葉を尽くして話し合い承服させております。
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泰時は喜びもせず驚きもせず、義村に答えた。
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私は政村に対して何の敵意も抱いておりません。そもそも何を以て仲間と言うのでしょうか。
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   ※多少の考え: 原文は「光宗日者聊有計畧事歟」、直訳すれば「光宗には何かの策略があろうか」となる。
泰時が「私は政村に対して何の敵意も抱いておりません。」と答えた事と政子没後の早い時期に光宗兄弟が復権した事を考え合わせると、泰時は事態が政子の「暴走」による捏造だと理解していたが、政子の意思に逆らうほどの気概はない。光宗に謀反の意図はなく、伊賀の方を含めて今後の立場の保全を協議した程度か。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月23日
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吾妻鏡
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義時三十五日の法要を催した。導師は退耕行勇律師である。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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7月24日
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吾妻鏡
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去る4日から今日に至るまで連夜の天変が続いており、対応して国土安穏の御祈祷として鶴岡八幡宮の供僧が祭祀を催した。 未刻(14時前後)に勝長寿院別当の内大臣僧都親慶が死去した(56歳、内大臣忠親公の息子)。
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   ※内大臣忠親: 藤原北家花山院流の公卿で正二位、、平徳子の中宮権大夫・建礼門院別当として仕えた。
後白河法皇の院庁別当に任じ寿永二年(1183)正月には正二位・権大納言となるが同年7月に平氏一門が都落ちした後は昇進が停滞した。日記「山槐記」、「水鏡」の著者としても知られる。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月29日
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吾妻鏡
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前日に続いて天変に対応する御祈祷が行われている。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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7月30日
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吾妻鏡
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今日、弁僧正定豪を導師として(北條義時の)四十九日法要が催された。多数の御家人が旗を掲げ甲冑を着して走り廻っているが合戦が起きた気配もなく、明け方になって鎮まった。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは7月の次が閏7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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閏7月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)並びに二位家(政子)が武州泰時邸に入った。何度も義村に使者を送って鎮静を申し入れたにも拘らず勃発した昨夜の騒動に驚き、 三浦義村を呼んで次のように仰せられた。
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私は若君を抱いて相模守時房・武蔵守泰時らと共にある。義村も別行動をせず、ここに控えるように。
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義村はこの仰せを辞退できなかった。二位家(政子)はその他にも壱岐入道葛西清重・出羽守中条家長小山判官朝政・左衛門尉結城朝光らの宿老を招き、相州時房を介して言い渡した
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将軍家が幼い間は御家人による謀反の計画があっても抑え難い。私はただ長生きしているに過ぎないが、貴方がたは故将軍(頼朝)と深く関わって過ごしていた。遺命に思いを馳せ心を合わせれば何者が謀反を企んでも懸念には及ばない。
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   ※泰時邸: この頃から泰時は故・義時が執務した屋敷に本拠を置いた。以後、幕府の滅亡までここが代々執権
の公邸となり、建武二年(1335)には後醍醐天皇の勅命を受けて宝戒寺(公式サイト)に改めた。
右画像は宝戒寺参道の北條執権邸旧跡碑。画像をクリック→訪問レポート(別窓)へ。
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   ※政子の説得: 承久の乱勃発のような幕府存亡の危機じゃあるまいし、たかが義時の後妻一族を陥れる冤罪
に頼朝の恩まで持ち出さなくても、と思うのだが...結局政子の頭を占めていたのは「北條氏の繁栄」だけで、嫁だろうが婿だろうが「北條に非ずんば人に非ず」だったらしい。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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閏7月3日
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吾妻鏡
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二品(政子)の御前で政情についての協議が行われた。相州(北條泰時)も出席、更に前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)も老衰の身ながら同席した。記録の担当は関左近大夫将監實忠。
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伊賀光宗らが宰相中将一条實雅卿を関東の将軍に立てようとした奸謀はすでに明らかである。ただし公卿の立場にある者を鎌倉が罪を決定できないため、身柄を京都に送って罪科の決裁を委ねる。奥州後室(伊賀の方)および伊賀光宗らは流刑に処す。その他は例え同意した疑惑があっても罪に問う必要はない。
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   ※罪科の決裁: 一条實雅は妻(北條義時の娘)と離縁させられて越前国へ流刑(4年後に変死)。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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閏7月23日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に武州泰時邸の周辺で騒動が勃発した。普段は起きていない事なので人々は怪しんだが、卯刻(朝6時前後)に宰相中将一条実雅が京都に向けて出発し、武士らも解散した。
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伊賀四郎左衛門尉朝行(朝光の四男)・同六郎右衛門尉光重(朝光の五男)・式部太郎宗義(光宗の長子)・伊賀左衛門太郎光盛らが供として従った。また式部大夫親行・伊具馬太郎盛重らは特に命令はなかったが自身の希望により同行した。日取りの善し悪しについて意見もあったが、出発を急ぐため許されなかった。
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   ※光重と光盛: 8月29日の記事には京都から直接鎮西(九州)に配流されている。
   ※伊賀光盛: 資料になし。伊賀氏系図には光重の孫に名前があるが年代は一致しない。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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閏7月27日
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吾妻鏡
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六波羅の使者が鎌倉に入って報告。
去る6月29日に鎌倉を発った掃部助北條時盛は16日に入洛、同17日には武蔵太郎 北條時氏も入洛した、と。
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   ※京の二人: 時盛は鎌倉で連署に就いた父時房を継いで六波羅探題南方、時氏は鎌倉で第三代執権に就いた
泰時の後任として六波羅探題北方に就任している。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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閏7月28日
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吾妻鏡
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天変の数々に対応して行った三万六千神と天地災変の祭祀が結願し、左近将監大江佐房(5月16日を参照)が代理の使者に任じた。これらは二品政子の仰せに従って去る26日に始めた祈祷である。
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今日、若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)および相州北條時房が本所(本来の屋敷)に還御した。
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   ※本所に還御: 閏7月1日から泰時邸に滞在していた、という事だろうか。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応二年
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閏7月29日
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吾妻鏡
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伊賀式部丞光宗を政所執事職から解任し所領52ヶ所を没収した。外叔父(妻の叔父)である隠岐入道二階堂行村が身柄を預かった。重罪の者を親戚に預けるのは多少の憚りはあるが、二品(政子)から「行村は信頼できる人物だから支障なし。」との言葉があり、武州(北條泰時)が許可した結果である。
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光宗の後任として籐民部大夫二階堂行盛を政所執事に補任した。また左近将監尾藤景綱を武州泰時の後見とし、時政義時の二代には置かなかった家令を初めて置く事になった。景綱は武蔵守藤原秀郷朝臣の後胤・玄蕃頭知忠から四代の孫である。
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   ※家令: 家司や執事などに概ね等しい職位で家の事務や会計および使用人などを管理する。鎌倉時代後期に
は一部が得宗家の御内人として実質的な管理権を掌握し幕政に関与するまでに権力を高めていく。
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   ※保暦間記: 光宗は政所執事を解任され、所領五十二ヶ所も没収され信濃国へ流罪となった。
舎弟の朝行と光重は鎮西へ流罪、政村には特に処分はない。(政村の)母(伊賀の方)である義時の後室は二位殿(政子)の指示で伊豆北條に流された。  保暦間記とは?(wiki)
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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日蝕は確認できなかったが他の地域では見えたらしい。
夕暮れの頃に相模守北條時房が初めて政所に出仕した。時房と武蔵守北條泰時が執権に任じると決まってから今まで、出仕は行われなかった。奥州禅室(北條義時)の五旬(四十九日)が過ぎるまで行動を慎むのは理に沿っており、更に先月は閏が重なっている。二品(政子)は「日取りなど選ばずに早く出仕せよ。政務の空白が続いては世の中が落ち着かないのが当然、着任の儀があれば元に戻るだろう」と申し入れた。
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   ※百錬抄: 暦では寅卯刻(早朝から7時前後)に日蝕がある筈だが、雲が消えて日輪が現れても蝕が起きない
まま正午になった。政満ちの遅れを表しているのか。  百錬抄とは?(wiki)
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月8日
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吾妻鏡
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大蔵卿僧都良信が勝長寿院の別当職に補任された。今日、故奥州禅室(北條義時)の墳墓(新法華堂と号す)供養である。導師は走湯山の浄蓮房(加藤左衛門尉實長の斎なり)。
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   ※僧都良信: 実朝の時代から幕府の護持僧に任じ、天変や雨乞いの祈祷に従事した。寛元四年(1245)には
四代執権時氏出家の戒師も務めている。建長五年(1253)に80歳で死没。
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   ※浄蓮房: 加藤景員の三男で伊豆山権現の別当。伊豆山神社の「走湯山上下諸堂目安」には「上蓮上人源延」
として記載されている。関連して加藤次景廉の本領、牧之郷(サイト内リンク・別窓)のリンク先中段(金剛廃寺の項)を参照されたし。「加藤左衛門尉實長の斎」は該当人物が見当たらず意味不明。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会は延期となった。これは奥州禅室(北條義時)の死穢(wiki)による。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月19日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が到着し、去る11日に左大臣近衛家通(関白近衛家実(共にwiki)の嫡子・21歳)が死去したと報告。今月6日病床にあった、と。去る7日に螢惑星(火星)が歳星(木星)の軌道を犯したのは同じ上旬、大臣死没の予兆だろうと司天(天文担当)が語っている。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月22日
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吾妻鏡
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故奥州禅室(北條義時)の百ヶ日法要が行われ、導師は弁僧正が任じた。
今夕、六波羅の使者が到着し、去る14日に相公羽林(一条実雅)が京に到着した旨を報告した。
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   ※京に到着: 鎌倉を出たのは閏7月23日、平常の通り約20日間を要している。
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西暦1223年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月27日
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吾妻鏡
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夜になって鎌倉中が騒がしく落ち着かない。これは式部丞伊賀光宗が誅殺されるらしいとの噂が流れたためで、風聞に過ぎないと解ってから騒ぎは鎮まった
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月28日
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吾妻鏡
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武蔵守(北條泰時)が政所の吉書始めを行った。また左近将監尾藤景綱と三郎兵衛尉平盛綱の奉行として北條嫡家に於ける決め事を定めた。
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   ※決め事: 史料としての存否は解らない。鎌倉幕府には成文法が整備されておらず、裁判も先例や武士の道理
に基づいた決裁が行われていた。承久の乱によって従来は幕府が管理していなかった西国にも多くの御家人が入植し、それに比例して紛争も顕著になった。また1220年代後半からの天候不順が農村の疲弊を招き全般に政情が不安に陥っていく。今回の「家訓」が泰時の記憶にとどまり、貞永元年(1232)8月制定の御成敗式目(wiki)の下書きとなった可能性も否めない。
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   ※皇帝紀抄: 世間が騒がしくなり、武士が四方に走り廻っている。四郎左衛門尉(伊賀朝行)と同六郎左衛門尉
(伊賀光重)が六波羅に拘禁されたのが原因である。(皇帝紀抄は鎌倉中期の歴史書、著者不明)
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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8月29日
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吾妻鏡
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前奥州(北條義時)の後室禅尼(伊賀の方が二位家(政子)の命令によって伊豆国北條郡に下向し、その罪科によって籠居の処分を受けた。式部丞伊賀光宗は信濃国に配流、舎弟の四郎左衛門尉朝行と同六郎右衛門尉光重は相模掃部助北條時盛と武蔵太郎北條時氏の預かりとして京都から直接鎮西に流すよう命令が下った。
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この両名は相公羽林(一条実雅)の上洛に従ったまま鎌倉に戻っていない。
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   ※伊賀の方: 吾妻鏡の同年12月24日に伊豆国の飛脚が「去る12日から病悩で
昨日から危篤」と報告している。政子による毒殺と考えるべきか。
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右画像は伊豆長岡の北條寺で義時と並んでいる伊賀の方の墓石。正面に「松月院殿大虚清心大禅定尼」の戒名が、向って左側面には「佐伯伊賀守藤原朝光娘」と刻まれている。
ちなみに、夫・義時の戒名は「北條寺殿観海大禅定院」。
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右画像は墓石の正面(クリック→拡大)。更に詳細は北條寺レポートで。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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故奥州禅室(北條義時)遺領の荘園を子女らに配分する明細を二品(政子)から示された。内容は鎌倉に戻った当初に泰時が二品に見せたものである。
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二品から「概ね適正な配分だが嫡子の取り分が少ないのはなぜか」と問われた泰時は「執権を継承する立場として所領を争う気持ちはありません。弟らに分与するのが当然です」と答えた。
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二品は感動の涙を浮かべ、この経緯により配分の内容を二品の決裁として公表した。また故前奥州禅室の存命中は、対外的には右京大夫・幕府内部では前陸奥守を称していたが、今後は右京権大夫に統一するように定めた。
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子刻(深夜0時前後)に駿河前司三浦義村の西御門邸が焼亡した。類焼はしなかったが時勢がら多少の騒動があったらしい。
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   ※子女に配分: 当然ながら四郎政村も相当する配分を受けたのだろう。従って
政村(19歳)が執権を狙った云々はありえない話で、伊賀光宗&一条実雅の謀反計画があったとする状況証拠の一角が否定されてしまう。つまり謀反の存在を主張しているのは政子だけで、それ以外の全てが謀反計画の存在を否定している。
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   ※西御門: 鎌倉青年団の石碑(右画像・クリック→拡大表示)は横浜国立大付属の
グラウンド北東隅の近く(地図)に建っているが、これは学校設立の際に移設したもの。元々は筋替橋(ファミマの左側信号)から現在の校舎右側を通って来迎寺へと伸びていた道に建っていた。古い道を校庭に吸収して廃止し、校庭に沿って南北に走る道に付け替えられると共に牌も移設したのだろう。元々の正確な位置は既に確認できない。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月9日
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吾妻鏡
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陸奥守足利義氏が新恩に浴した。美作国新野保(津山市南東部の因幡街道沿い・ 地図)など数ヶ所である。
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   ※足利義氏: 生母は政子の異母妹時子、妻は泰時の娘。父の義兼
続いて北條得宗家に全面協力し歴代に亘って最上位の御家人として幕政に寄与するが、六代後の足利尊氏が北條氏を滅ぼすことになる。
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同族でありながら頼朝に疎まれた新田氏棟梁新田義重から七代の子孫である新田義貞と協力して幕府を倒し、間もなく敵味方に別れて戦った因縁の確執も面白い。
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義氏が父の持仏堂を更に拡張し整備したのが足利を代表する古刹の鑁阿寺、その少し北に浄土庭園と隠居所を建立して将来の廟所とした。
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右画像は法楽寺の義氏墓所。画像をクリック→法楽寺へ。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月13日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に螢惑(火星)が南斗(南斗六星の一部・wiki)の軌道を犯した旨を司天(天文担当)が報告した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月15日
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吾妻鏡
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延期していた鶴岡八幡宮の放生会を今日開催した。相模守北條時房が若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)の奉幣使を務めた。束帯姿・帯剣である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月16日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に太白(金星)が辰星(水星)の軌道を犯した。
今日、流鏑馬などの神事が通例に従って催され、相模守北條時房の参宮も昨日と同様である。駿河前司三浦義村・出羽守中条家長らが廻廊に控え、小山判官朝政が馬場を警固した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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9月17日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に地震あり。天変に対応する祈祷を行った。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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10月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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武蔵守北條時房が駿河前司三浦義村小山判官朝政・出羽守中条家長らの宿老を招き盃酒を勧め贈物をした。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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10月10日
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吾妻鏡
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宰相中将一条實雅卿が越前国に配流と定められた。
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   ※百錬抄: 10月5日、参議左中将一条實雅卿が越前国に配流となった。但し官符(太政官決裁)ではなく武士と
しての処分である。一昨日に解官されていた。    百錬抄とは?(wiki)
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   ※皇帝紀抄: 明け方に中将の一条實雅朝臣が越前国に下向した。朝廷は関与せず、武家内部の措置である。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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10月16日
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吾妻鏡
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天変に対応した祈祷を催し、左衛門尉嶋津忠久がこれを差配し一方の供料を負担した。
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   愛染護摩(弁僧正)   薬師護摩(左大臣律師)   不動護摩(大進僧都)   北斗護摩(信濃法眼)
   七曜供(助法眼珍誉)   三万六千神祭(晴幸)   天地災変祭(晴職)   属星祭(信賢)
   太白星祭(文元)   螢惑星祭(重宗)
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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10月28日
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吾妻鏡
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阿波国麻殖保を管理する預所の左衛門尉平清基と地頭の小笠原太郎長経が以前から管理権を争っている。今日、執権の北條泰時と連署に就任した北條時房の前で両者が対決した。
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清基の主張に拠れば「麻殖保は(父の)康頼法師が挙げた功績で右大将家(頼朝)から拝領し相伝して管理している。それなのに長経が「謀叛人による管理地だ」と主張して専有しているのは不当である、早く返却すべき。」と。
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長経の主張に拠れば「清基は去る承久三年(1221)の兵乱(承久の乱)の際には院に参上し甲冑を着けて官軍に加わった。更に和田新兵衛尉朝盛法師を自宅から戦場に出陣させている。」と反論した。清基は「伯父の左衛門尉仲康と朝盛入道とは友人であり、その際に会っただけで謀反に関わったのではない。」と指摘した。
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しかし兵乱の頃に清基から阿波国守護人の佐々木弥太郎判官高重に送った書状が見付かり、「一人でも貴重な戦力になります。麻殖の者は貴方の味方に加わって働くでしょう。」との記載が確認された。結果として利敵行為を理由に清基の訴訟は却下となった。
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   ※平康頼: 元は平家の家人で尾張国野間庄の義朝墓所を整備した功績により、文治二年(1186)閏7月22日
に麻殖保の保司に任命された。麻殖保は吉野川市鴨島町麻植塚、吉野川中流域の南岸(地図)。
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   ※小笠原長経: 長清の嫡子。承久の乱では父と共に東山道を進み、父の跡を継いで阿波国守護に任じた。
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   ※和田朝盛: 義盛の嫡男である常盛の嫡男。義盛も常盛も建暦三年(1213)5月の和田合戦で没したが実朝
の側近だった朝盛は生き延び、後鳥羽上皇に従って承久の乱を戦った。敗北して逐電し嘉禄三年(1227)6月に捕縛され、以後の消息は不明。
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   ※佐々木高重: 佐々木四兄弟の二男経高の嫡子。承久の乱では院に与して経高(経蓮)は自害(吾妻鏡の承久
三年(1221)6月16日を参照)、阿波国守護だった高重も戦死した。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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10月29日
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吾妻鏡
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宰相中将(一条実雅卿)が京都で解官(解任)となり越前国に配流となった。参議従三位行右近衛中将で美作権守を兼任した藤原朝臣實雅卿は入道前中納言一条能保卿の嫡子で、母は従五位下行備前守藤原家恒の娘。
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建仁三年(1203)1月5日、従五位下に叙す(皇太后宮による去年12月1日の叙位、当時の名は實俊)。
元久三年(1206)4月3日侍従、承元四年(1211)1月5日、従五位上に叙す(宣秋門院による叙位、俊雅を
    改め實雅と)。同14日、越前介を兼任。
建保五年(1217)1月28日、伊豫守に任ず(侍従はそのまし)。12月12日に守を解任。
建保六年(1218)3月6日、伊豫の守に還任。4月9日左少将に叙任。
承久元(1219)年1月5日、臨時の叙位で正五位下。
承久二年(1220)1月6日、従四位下に叙位(春宮(皇太子・後の仲恭天皇)による叙位、少将はそのまま)。
    4月6日右中将に転任。
承久三年(1221)7月28日、讃岐の守に遷任。11月29日、従四位上に叙位(臨時)。
貞応元年(1222)8月16日、参議に叙任(右中将はそのまま、関東に駐在)。11月22日、正四位下に叙位。
貞応二年(1223)1月27日、美作権守を建仁。10月28日従三位に叙位。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月9日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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亥刻(22時前後)に地震。今日伊賀四郎左衛門尉朝行と同六郎右衛門尉光重が(京から)流刑地鎮西に向かった。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月13日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に雷鳴と激しい降雨あり。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月14日
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吾妻鏡
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式部大夫源親行と伊具馬太郎盛重が出仕の停止処分を受け所領没収の措置となった。
これは許可もなく相公羽林(一条実雅卿)の上洛に扈従したことへの処罰である。
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   ※源親行: 政所別当だった父・光行と交代する形で鎌倉に下向し、実朝・藤原頼経・宗尊親王まで三代の将軍
に仕えて和歌奉行に任じた。源氏物語の研究を家業とし、吾妻鏡の建久三年(1221)8月2日には院方に与した父の助命を嘆願した記事が載っている。元々は河内守・式部大夫に任じた文官なので實雅と親しかったのだろう。
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   ※伊具盛重: 武蔵国井草郡(現在の比企郡川島町・地図)または陸奥国伊具郡(現在の宮城県伊具郡丸森町の
一帯・地図)の武士とされるが判然としない。北條義時の四男で陸奥国伊具郡を領有した有時が伊具氏の祖としているが、宮城県角田市の地史は「(建保年間の領主は)伊具馬太郎盛重」としており整合しない。井草云々が正しい、のかも。
建暦三年(1213)5月の和田合戦では義盛の四男義直を討ち取る殊勲を挙げている
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月15日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に雷鳴あり。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月18日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は故右京兆北條義時一周忌に備えて伽藍の建立を計画し、今日柱立ての儀を催した。左近将監尾藤景綱が差配に任じた。
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   ※伽藍建立: 翌年6月13日の吾妻鏡には「今日、故京兆の一周忌に
当たり、武州が新造の釈迦堂供養を催した。導師は弁僧正定豪で請僧は20人、相模守北條時房ら多くの人々が参集した。」との記事がある。
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釈迦堂は切通し北側(浄明寺口)の東側にあったと伝わるが既に失われ跡地も不明、僅かに釈迦堂口切通し地図)の名前のみが残っている。(外部参考資料
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右画像は北側の浄妙寺口から見た釈迦堂口切通し(画像をクリック→拡大表示)
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   ※釈迦堂口切通: 完成した時期は鎌倉時代中期以降。義時釈迦堂の完成時期には
開通しておらず、三浦一族が滅亡した宝治合戦(1247)以後の開削と思われる。崩壊と落石のため2005年頃から全面通行禁止になり、フェンスなどで閉鎖されている(画像は崩落前の撮影)。
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切通しの上が北條時政の名越邸)と考えられていたが2008年の発掘調査で鎌倉時代中期以後の寺院遺跡と確認された。
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   ※釈迦堂: 本尊の釈迦如来像は釈迦堂の廃寺により杉本寺に遷され、以後の経緯
は解らないが現在は目黒区の大円寺(天台宗サイト)が収蔵している(公開は不定期・像高162cmの榧材寄木造り)。
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胎内にあった木札(宝永四年(1707)銘)と銅鏡などの解析から、この釈迦如来立像(国の重要文化財)の完成は建久四年(1193)だったと確認された。保存状態は800年近くを経ているとは信じられないほど良い。
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右画像は大円寺の釈迦如来立像(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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11月20日
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皇帝紀抄
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改元あり。天変地妖に依る。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月2日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は執権として特に政治を充実させる方針を明確に示した。
明法道(律令法・wikiを差す)を目安とし、今日から毎朝一度はこれを読むのを習慣にする、と。
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今日、外記大夫祐通が検注のため上野国に向けて出発した。泰時は土用の最中に検注を行う事について支障の有無を陰陽師に尋ね、安倍国道と親職は特に問題なしと答えた。新たに境界の標識などを立てれば永代に含まれるから憚りがあるが、検注を行う限りではその支障なし、と。
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一方で晴幸は「支障があります。信濃国一坪会坂の状態は土用の前こ検注を行って招いたものです。」と主張した。陰陽師の意見は一致せず、両論併記の形で祐通に伝えさせた。
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   ※検注: 荘園領主や国司が年貢を徴収する基準を定めるため担当者を派遣し田畑の面積や収穫量などを調査
させたこと。穀類を収穫する田畑だけでなく、果樹や林産品なども調査の対象となった。正式な検注は国司や領主の代替りごとに行われるのが通例だった。
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   ※土用: 陰陽五行説で四季を木・火・金・水に当て嵌め、各季節の終わりの18日間を土用とした。
具体的には立春・立夏・立秋・立冬の前の各々18日間を差す。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月4日
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吾妻鏡
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改元の詔書が到着。先月20日に貞応三年を改めて元仁元年とした。式部大輔為長卿が元仁を選び、為長卿の子息である大内記長貞が詔書を書いた、と。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月14日
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吾妻鏡
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夜に入ってから若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)が女房(女官)を全て従えて武蔵守北條泰時邸に渡御され、贅を尽くした接待で迎えられた。これは19日の立春節に備えての方違えであり、当日は厄日のため前もって遷られたのが経緯である。.

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   ※立春節: 旧暦の立春は二十四節気(1年を24等分した期間)の一つで八十八夜・二百十日などの起点。
翌・元仁元年の立春節(12月19日)は新暦の1月11日に、正月は1月22日にあたる。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月15日
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吾妻鏡
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若君が還御され、武州泰時が引出物を献じた。御剣は駿河守北條泰時が持参し、御馬は駿河次郎三浦泰村と同四郎家村(義村の六男)が引いた。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月17日
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吾妻鏡
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武州泰時が建立した釈迦堂の位置は今の屋敷から見て東にある。立春が過ぎると王相の方向に当たり、方違えが必要だが節分の前夜には若君が方違えのため今の屋敷に入御される。
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陰陽師の安倍知輔を呼んで対処法を相談すると「釈迦堂を仮に他人に譲渡してから完成させれば宜しい。祈願寺などを立てる場合には同様の例が多くあります。」との返事だった。それでも不安なので念のため安倍親職に尋ねると「追善のために立てる堂を他人に譲るのは本来ではない。方違えが出来ないのなら工事を休止し、立夏(八十八夜の数日後)が過ぎてから再開すれば良いのです。」と答えた。泰時は親職の意見を容れることにした。
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   ※王相: 基本的には方違えと同じだが陰陽道の王相神は月によって所在の方角が変わるから面倒臭い。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月19日
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吾妻鏡
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若君(三寅)が立春の御方違えのため武州泰時邸に入御された。
左近大夫将監佐房・大膳亮廣仲(?)・駿河前司三浦義村・同次郎泰村・同三郎光村・出羽前司中条家長・佐々木三郎泰綱(信綱の三男で嫡子)らが供奉し女房五人が同行した
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   ※大江佐房: 源通親の養子になり承久の乱では院方に与して逐電した源(大江)親廣の長子、大江廣元の孫。
祖父に従って鎌倉方に与した佐房は軍功により上田荘(現在の長野県上田市)を与えられて上田氏の祖となり幕府の要職を務めた。一族は霜月騒動(1285)で没落している。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月20日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に若君(三寅)が還御され、武州泰時は再び御剣と御馬を献じた。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月24日
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吾妻鏡
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伊豆国北條からの飛脚が到着。右京兆の後室禅尼(伊賀の方)が去る12日から病気になり、昨日の巳刻(10時前後)から危篤状態であると報告した。
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   ※伊賀の方死没: 彼女が産んだ長子政村が1205年生まれ、彼女が20歳で産んだと仮定すれば40歳未満、
軟禁状態だったとしても早過ぎる。政子が後顧の憂いを断ったと考えるべきか。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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12月26日
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吾妻鏡
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疫病が流行している。武州泰時はこれに驚いて四角四境の鬼気祭を催した。邪鬼を退治しようと考えた陰陽権助安倍国道の申し出である。
四境とは、東の六浦・南の小坪・西の稲村・北の山内を差す。
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   ※四境: 小坪と稲村は現在も地名が残っているので判りやいが、山内
建長寺(公式サイト)の付近から常楽寺の北(横浜市の一部)までが含まれる。また朝夷奈切通し朝夷奈切通し(wiki)を抜けた辺りから六浦に含まれるから、北側の山内と六浦の二ヶ所の正確な位置の指定はむずかしい。
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嘉禎元年(1235)12月20日には「北の巨福呂坂、南の小坪・東の六浦・西の固瀬河」とあるから、ほぼ今回に近い。
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1224年
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86代 後堀河
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元仁元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1224年
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86代 後堀河
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貞応三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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