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元仁二年・嘉禄元年(1225年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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1月1日
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吾妻鏡
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相模守北條時房が椀飯を献じた。御剣役は駿河前司三浦義村が務めた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令: 政子は68歳・北條時房は50歳・北條泰時は41歳・大江廣元(入道覺阿)は76歳 ・
三浦義村は50歳ほどか・三寅(後の四代将軍藤原頼経)は7歳11ヶ月・後堀河天皇は12歳8ヶ月。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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1月8日
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吾妻鏡
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若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)は御歯固めを終えた後に行う方違えの打ち合わせを行った。
武蔵守北條泰時の北の方(三浦義村の娘・矢部禅尼)宅を経由するのが妥当だが、武州泰時は(父・義時)の重服(近親の喪中)にあり、従って二品(政子)邸を用いるべきとの意見もあった。
結局は相模守北條時房の女房(女官)の家を利用すると決められた。左近大夫将監親實の差配に依る。
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   ※歯固め: 元日に歯の根を固め健康を祈念して固い食物を食べる行事。栗・大根・串柿・するめ・昆布など、時代
や地方により差異がある。平安時代から「歯固めの儀」として長寿を祝う大根や獣肉などを食べた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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1月14日
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吾妻鏡
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今日、二品(政子)の祈願として鶴岡八幡宮に於いて最勝八講が始められ、今年から毎月この日に行うよう指示が下った。既に昨日、善民部大夫町野(三善)康俊が奉行し(最勝八講を)担当する僧名を書き出してある。
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安楽房法橋重慶・美濃法橋有俊・頓覺房良喜・和泉阿闍梨重賀・肥前阿闍梨良智・丹後阿闍梨頼暁・浄圓房智覺・座心房圓信の八名である。
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   ※最勝八講: 大乗経典である最勝王経(金光明最勝王経)を講ずる法会。朝夕の二回を四日続けて=八講。
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   ※百錬抄の記事: 武装兵を圓城寺(三井寺)に派遣した。中北両院の衆徒が南院の末寺(北蔵・微妙寺・近松)と
争論し去年から結託して合戦に及ぶ噂があり、鎮圧のための官軍派遣だったが衆徒は武士を見て萎縮し争いを中止、武士は虚しく帰洛した。
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明月記にも同様の記事あり。  百錬抄とは?  明月記とは?(共にwiki)
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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1月15日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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1月16日
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吾妻鏡
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月蝕が正常に確認できた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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2月1日
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吾妻鏡
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今日は日蝕が起きる、と宿曜道に任じる法眼珍誉が申し出ていたが、太陽の蝕は起きなかった。
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   ※宿曜道: 星の運行によって日毎の吉凶と人の運命との関係を占う術。平安時代に伝わり中世まで流行した。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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2月21日
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吾妻鏡
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先月9日より降雨が一旬(10日)以上続いている。武蔵守北條泰時は文書によって陰陽師に問合わせた。天の災いではあるが、東西の神社 による崇りの可能性あり。特に念入りな祈祷をすべきでしょう、と答申した。
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   ※2月21日は: 西暦の3月31日に該当する。鎌倉も間もなく桜の季節がくるね。
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西暦1225年
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86代 後堀河

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改 元
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元仁二年
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2月24日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に小鷹が一羽の雀を捕らえ御所中門の廊下に飛び込んだ。遠藤四郎が捉えて献上、若君は特に愛玩した。三條左近大夫将監親實(儀礼・祭祀担当の文官)と遠藤左近将監為俊は「吉兆に違いない」と言った。
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中原師員「野鳥が部屋に入れば主人はこれを避けると中国の古典にあり、不吉である。」と言った。
また、「野鳥は人が用いているものではないが飼われている鷹だ、問題にはならない。」と、執り成す者もいた。
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   ※小鷹: ハヤブサなど小型の鷹を差す。小鷹狩りは秋に小鷹を使ってウズラや雀などを捕らえる狩り、大鷹狩り
は鷹を使って冬に雉や鶴などを捕らえる狩りを言う。飛び込んだのは誰かが飼っていた鷹だろう。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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2月30日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に突然の降雨と数回の雷鳴。申刻の斜め(16時過ぎ)には晴れたが、正月から雨が続いている。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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3月11日
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吾妻鏡
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寅刻(16時前後)に小さな地震あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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3月21日
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吾妻鏡
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御所に於いて人々が孔子を取り宴会を催し引出物などを手配するのが流行している。京都では「螢惑星(火星)の託宣」と称している遊びが流行している、六波羅がそう報告してきたのが発端らしい。
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   ※孔子: 漢字では「くじ」の当て字として「籤」・「孔子」を用いる、らしい。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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元仁二年
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3月24日
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吾妻鏡
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日頃から太白(金星)が中天を横切るのは変異が起きた、と司天(天文担当)から報告があった。
これに対応して今日、民部大夫二階堂行盛が差配して祈祷が行われた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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改 元
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元仁二年
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4月20日
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史 料
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   ※改元の理由: 吾妻鏡には5月2日に改元の詔書が届いている。前日の5月1日には「病気(天然痘)の流行で
数千人が死んだ、云々」の記事があり、4月21日の明月記にも「病患に依ってこれを改む」と載っていることから、改元は病気の流行が原因と考えられている。
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   ※明月記: 4月20日。昨夜から雨、朝になって止む。今日、改元。勘文(識者の解説書)は見ていないが、何回
改元しても政治の乱れを改めずば何の効果があろうか。嘉禄が「軽く」に通じるのも不満である。
また、4月15日にはこの件について安倍泰俊に「元仁に改める素案を知った鎌倉幕府が不快の念を伝えてきたことが契機だろう」と語っている。定家は面白くなかったらしい。
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   ※皇帝紀抄: 改元あり。天下が鎮まらないことに依る。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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4月30日
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吾妻鏡
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夜半に蔵人大夫入道西阿(毛利季光)邸(御所の向かい)が焼失、周辺一町(約100m四方)が類焼した。

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   ※御所の向かい: 東門や西門ではなく正門(南門)の向い側、つまり
六浦道(金沢街道)の南(この辺)を意味する。
八田知家邸などもこの近くにあった筈だ。
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ちなみに、毛利季光廟は大江廣元・嶋津忠久と並んで義時法華堂跡の北側石段上にある。威信を懸けた毛利家と島津家が争った記録も面白い。
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この廟所(右画像)に関しては大江廣元の墓を参照。
また頼朝の子孫を僭称した嶋津氏が費用を拠出してすぐ近くに造成したのが現在の「頼朝の墓」。
その詳しい経緯については鎌倉将軍 頼朝の廟所を参照されたし
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月1日
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吾妻鏡
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二品(政子)は弁僧正定豪・大蔵卿法印良信・駿河前司三浦義村・隠岐入道行西(二階堂行村)・陰陽権助安倍国道らを招き、行西を介して「世の中では疫病の死者が数千人に上っているという。その禍を祓うため般若心経(wiki)と尊勝陀羅尼経をそれぞれ一万巻写経したらどうか、他に何らかの方法があるだろうか。」と申し出た。
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僧正定豪は「千人の僧に一千部の仁王経を読ませたらどうか」と、また法印良信は「第52代嵯峨天皇(wiki)の御世に疫病が流行して多くの死者が出た。その際に宸筆(帝の自筆)で般若心経を書写して弘法大師による供養を行った事例がある。」と語り、般若心経の書写が良いだろうとの結論を得た。
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二品は書写供養の日取りを選ぶよう安倍国道に指示し、国道は今月の14日と22日を挙げた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月2日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に京都朝廷の使者が到着して報告。先月20日に改元し、元仁二年を嘉禄元年に改めた、と。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月3日
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吾妻鏡
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二品(政子)の新邸(勝長寿院寺域)の鰭板に中門と織戸を設けよとの指示があった。念のため武州泰時は夏季に工事した場合の支障の有無を文書で陰陽師に問合わせた。「6月に入ってから板塀の工事をする方が良い、ただし5月でも特に支障なし」との返答だった。
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   ※鰭板: 巾広の羽目板、転じてその羽目板を貼った板塀を差す。織戸は片開きの枝折り戸。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月6日
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吾妻鏡
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武州泰時が除服(服喪明け)について人々に尋ねた。除服の際に行う祓いは陰陽師が務めるのか他人が務めるのか、である。陰陽師の権助安倍国道と大監物源光行入道からは「葬礼を取り仕切った者である」と。
また源内左衛門尉景房は「陰陽師を招いて行うべきである。」と語った。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月11日
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吾妻鏡
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式部大夫(北條朝時)が除服。陰陽師安倍晴幸が祓いを担当した。
西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月12日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時と駿河守北條重時(極楽寺流)・陸奥四郎北條政村(政村流)・同五郎北條実泰(金沢流)・大炊助北條有時(伊具流)らの除服祓いについて、故右京兆(義時)の葬礼を沙汰した主計大夫知輔が務めるべきだが、体調不良により代理として子息がこれを務めた。
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   ※名簿の順位: 泰時の次弟(異母弟)北條朝時の名が見えないのも一つのポイント。貞応二年(1223)10月の
時点で朝時は加賀・能登・越中・越後の守護を兼任しており、一族の中では嫡男とされた泰時と並ぶ格式(名越流北條氏)にあった。
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朝時が祖父北條時政の生存中に名越邸を与えられていた事から、執権だった時代の時政は義時の後継として朝時を考えていたと推測する説もある。
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右画像は名越邸の一帯と推定される弁ヶ谷鳥瞰図。
   画像をクリック→詳細へ(サイト内リンク・別窓)

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朝時は最も多くの義時遺領を相続しているが、泰時と朝時の間で義時の後継を巡って何らかの取り引きがあった可能性は捨てきれない。
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得宗家と名越流北條氏は泰時の没後も再三トラブルを起こしており、義時の正室(比企朝宗の娘・姫の前)の長子である朝時に「自分こそ北條嫡流」の意識があったのも間違いない。
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20年後の宝治合戦(1247)で三浦氏を滅ぼし外部の敵を壊滅させた北條氏は血で血を洗う一族の内部抗争を繰り返すことになる。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月17日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月20日
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吾妻鏡
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千僧供養についての沙汰があり、衆僧の座を設けるため鶴岡八幡宮の廟庭に仮屋等を設ける事となった。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月22日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に於いて1200人の僧による供養が行われた。寅刻(早朝4時)に集合し各々が左右の廻廊および仮屋に着座、仁王経一巻の転読から始まり続いて般若心経と尊勝陀羅尼を10回読誦した。またその二種類の経典を刷ったものを奉納し、更に各100巻を金泥で書写し、これは諸国の一宮に一巻づつ奉納する手筈になる。
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次いで読経。導師は弁僧正定豪、導師への布施は十物十五種(被物・砂金・裹物・帖絹・染物・染付・帷糸・白布・藍摺・綿・色革・銭貨・准布)、更に加えて紫宿衣一領である。千僧の布施は一人当たり裹物一・帖絹一疋・袋米(三斗入り)。二百僧の分は被物一重・帖絹一疋・袋米(同上)。
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この他に御家人から贈られた布・銭・扇・経袋などが無数にあった。天下に蔓延した疫病と10日以上も続いた日照りに対処する祈祷のため御家人に求めた作善の寄進である。
大膳亮(宮内省に属する神祇官職を幕府に転用)の廣仲と、右近大夫将監大江佐房がこの奉行を務めた。
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   ※この日の予定: 5月1日に政子が招集した協議で14日か22日と決めていた。
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   ※大江佐房: 源通親の養子になり承久の乱では院方に与して逐電した源(大江)親廣の長子、大江廣元の孫。
祖父に従って鎌倉方に与した佐房は軍功により上田荘(現在の長野県上田市)を与えられて上田氏の祖となり幕府の要職を務めた。一族は霜月騒動(1285)で没落している。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月24日
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吾妻鏡
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昨夜に降雨があった。日照りに苦しむ庶民にとって法会直後には将に干天の慈雨、天の恵みである。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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5月29日
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吾妻鏡
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二位家(政子)が体調不良と。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月2日
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吾妻鏡
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二位家(政子)が病床にあるため武蔵守北條泰時の決裁により今日から祈祷を開始した。天地災変・呪咀などの祭祀は安倍国道朝臣、属星・鬼気は安倍親職、三万六千神・螢惑・大土公は安倍泰貞、太白星(金星)の祈祷は安倍重宗、泰山府君は安倍宣賢、天冑地府は重宗が祈祷に任じた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月3日
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吾妻鏡
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二位家(政子)の病状がやや回復した。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月5日
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吾妻鏡
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継続して祈祷を行っている。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月8日
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吾妻鏡
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二位家(政子)が危篤状態にあり、子刻(深夜0時前後)に御逆修を始めた。導師は信濃僧都道禅である。
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   ※逆修: 生前に死後の冥福を祈って行う仏事。予修・逆善・逆修善とも。
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   ※名月記は: 二品は重体だが存命している。夜に中将持明院家定卿(wiki)が来訪、相国(宰相西園寺公経)の
使者として行兼(公経の家臣で三寅の鎌倉下向の供奉人)が関東に馳せ下った。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月10日
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吾妻鏡
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前陸奥守正四位下の大江朝臣廣元法師(法名覺阿)が死去した。享年78、日頃から痢病(腹痛・下痢、赤痢か)に苦しんでいた。

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   ※明月記は: 長綱朝臣から連絡あり。関東を5日に出た飛脚が到着、二品(政子)の病状がやや回復していると
報告した。天下が落ち着く気配だろうか。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月12日
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吾妻鏡
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去る7日から二位家(政子)の病状が悪化している。武蔵守北條泰時の命令により三万六千神の祭祀を行った。
使者は藤原勾当頼高が務めた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月13日
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吾妻鏡
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今日は故京兆(北條義時)の周関(一周忌)に当たり、武蔵守北條泰時が新造した釈迦堂で法要を催した。導師は弁僧正定豪、請僧は20人。相模守北條時房ら多くの人々が集まった。
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   ※釈迦堂: 吾妻鏡の前年11月18日に建立計画と関連画像を載せてある。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月16日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に二品(政子)が昏睡状態になり大勢が集まった。間もなく意識を回復したものの病状は日々悪化している。昨15日には(勝長寿院の) 新御所に移ると仰せられたが「甲辰の日は良くない、21日なら問題なし」と陰陽師が判断し、延期となった。
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   ※甲辰の相剋: 陰陽五行では十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)の甲は「陽の木」であり十二支の辰は
「陽の土」、相手を打ち滅ぼす陰の関係になる。「土と木は互いに補い合う収穫と養分の関係」とは考えていない。園芸ファンとしては不満だね(笑)。 。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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6月21日
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吾妻鏡
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二品(政子)の新御所への転居は今日に決まっていたが、医師の行蓮から「戌の日の転居は避けるべき」との意見が出され、隠岐入道 (二階堂行村)が安倍国道朝臣ら陰陽師六人を 呼んでその事実を確認した。
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国道は「戌の日を避けるなどの話は知らない。行蓮を呼んで明確にするべき」となった。国道朝臣は「戌の日の転居は避けるべき」の出典を尋ね、行蓮は「特になし、世間の話である」と答えた。国道は更に「世間の話にはそれぞれ由緒があるはず。どのような由緒か」と食い下がり、行蓮は答えられずに座を起った。
二階堂行村はこの内容を報告し、聞いた者は失笑した。
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夜になって二品(政子)は再び意識を失い、相模守北條時房と武蔵守北條泰時は転居中の異常事態を危惧した。陰陽師6人は改めて6月26日(乙卯)を選び、この日は外出には不適だが転居には支障がないため決定となった。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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7月6日
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吾妻鏡
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前権侍医の和気定基(定経の息子)が昨夜から二位家(政子)治療のため近くに控えている。通常は頼経朝臣が担当だが、回復の見込みがなく医術の及ぶところではないと辞退した経緯がある。
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   ※和気定(貞)経: 安元二年(1176)に後白河法皇の瘡(できもの)を治療した朝廷侍医の和気貞説−その長男
で権侍医・医博士の定経−二男定基と続く漢方医の家系。頼経(系図に見当たらないが丹波系らしい)と共に幕府の医師に任じていたらしい。ただし陰陽師と同じく京都で仕官する術を持たないレベルの者が人材不足の鎌倉に下向して職を得た程度と推定される。
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藤原頼経が四代将軍に就いた嘉禄元年(1226)に朝廷の医師職だった施薬院使の丹波良基が頼経の主治医として鎌倉に入り、京都に限定されていた「権威のある医学知識」が鎌倉に定着した最初、と考えられている。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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7月8日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に二品(政子)は東の御所に渡御された。危篤状態に陥ったためである。
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   ※東の御所: 結局政子は新造の御堂御所(勝長寿院の寺域)に移らず大倉御所東邸で息を引き取ったらしい。
ただし、7月23日の記事を併せ読むと「東の御所」は義時の私邸を差しているようだ。旧跡は既に
失われたが推定場所は鎌倉 宝戒寺のリンク先冒頭に記載した。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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7月11日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に二位家(政子)が薨御、御年69歳。前大将軍(源頼朝)の後室で、(頼家と実朝の)二代に亘る将軍の母儀である。前漢の呂后の如く天下の政治を行い、また神功皇后の再来の如く天皇家を護持された。
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   ※頼朝の後室: 前妻は伊東祐親の娘八重。祐親が殺した頼朝の初子千鶴丸の生母なので政子は後室になる。
更に祐親の長女は北條時政の前妻で長男の宗時と長女の政子を産んだ(義時は確認できず)、
つまり頼朝の前妻八重と後妻政子は「叔母と姪」という、かなり複雑な関係だった。
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頼朝と祐親と八重と千鶴丸の物語は「鎌倉時代を歩く 壱」の伊東に残る史蹟と伝承で。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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7月12日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に二位家(政子)の死去が発表され、民部大夫二階堂行盛を筆頭に多くの男女が出家した。
戌刻(20時前後)に御堂御所の地で火葬、葬儀は前陰陽助安倍親職が差配したが本人は参加せず、弟子の惟宗大夫有季が代理を務めた。
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   ※百錬抄: 昨夜関東からの飛脚が到着し、洛中は貴賤を問わず大騒ぎになった。故頼朝卿の後家二品(政子
が死没したとの報告である。(13日の記事)
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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7月23日
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吾妻鏡
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相模守北條泰時が京兆(義時)の旧邸に移転された。今までの二品(政子)の住まいである。
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   ※義時旧邸: 7月8日の「東の御所」部分に記載した(地図)。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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8月1日
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吾妻鏡
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申酉の刻(16時〜18時前後)に日蝕があるか否かを宿曜師と暦道が以前から論争していたが雨天で決着せず。
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   ※宿曜師: 星占で天皇や貴族の運勢を推定し厄払いの祭祀を職務とした僧侶。
   ※暦道: 朝廷では陰陽寮の一部署に属し暦術と暦数に関する業務を担う。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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8月2日
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吾妻鏡
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御所の侍控えの間を千鳥が飛び抜けた事により驚いて卜占が命じられた。病気または家事などの災厄について酉刻(16時前後)に安倍国道が報告、昔の御所にはいつも千鳥が群れていたから特に異変にあらず、と。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会は延期となった。二品(政子)の死去による触穢である。
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   ※触穢: 死などの穢に触れること。触れた者は一定期間の神事や参内を避ける習慣だった。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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8月27日
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吾妻鏡
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今日、二品(政子)の葬礼。竹御所鞠子の御沙汰である。
導師は弁僧正定豪、曼陀羅供の庭儀などは通例の通り。布施を受ける僧は15人、(鎌倉と交流の深かった蹴鞠の名手)二條侍従教定(参議飛鳥井雅経の息子)が追加の布施役(砂金百両)を務めた。
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未刻(14時前後)に一條太政大臣家(西園寺公経)の御台所(一条能保の孫)が臨時の法要を催した。導師は荘厳房律師行勇、請僧は10人、御布施取りは同じである。
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(公経卿室の)代理として下向したのは主馬判官、導師の御布施は錦の被物一重・同横皮(金銀を配した袈裟)・銀の籠に入れた錦六端・色々の呉綾十段・錦の裹物一重、加布施は金百両、その他色々である。請僧10人分は、各々錦の横皮・銀の枝に懸けた水晶の念珠。
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全て華美を尽くした品で実に見事だったが、残念ながら説法に時間を費やして請僧に布施を渡すのが燭光の時間になったのは残念である。
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今日、伊賀四郎左衛門尉朝行と六郎右衛門尉光重が赦免を得て配流地から鎌倉に戻った。二位家追善の沙汰として恩赦を行ったものである。
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   ※政子の墓: 政子を葬った勝長寿院は康元元年(1256)に焼失、2年後に再建されたが室町時代に再び焼け
落ち、そのまま廃寺となった。政子の五輪塔と実朝の五輪塔は多分その後に彫られた供養の石塔と推測される。政子と実朝にとって壽福寺は縁の深い場所でもあった。
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      右画像は壽福禅寺裏山の「やぐら」と政子の五輪塔。画像をクリック→明細へ(サイト内リンク・別窓)

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   ※曼荼羅供: 真言系・天台系で行う仏事の中では最も華やかなもの。大きな壇を設け、その上で導師が声明を
唱え独自の修法を行い請僧が和唱する。
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   ※庭儀: 建物の外で行われる儀式。寺院の法会の際、衆僧が前庭を練り歩く儀式などを差す。
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   ※一條能保の孫: 西園寺公経の室は一条能保の娘全子で、孫ではない。たぶん記載ミスだろう。
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   ※伊賀朝行と光重: 伊賀朝光の四男と五男で光季光宗兄弟の異母弟。伊賀氏の乱に連座して鎮西に流罪
(前年閏7月23日を参照)に処されていた。政子の死去が7月11日で45日後の8月27には九州から鎌倉に戻っていたのは手順が良すぎる。
鎌倉から鎮西まで赦免の使者と帰還を併せて20日程度と考えると「政子の生存中は赦免できないが...」との暗黙の合意があった、と思われる。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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8月28日
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吾妻鏡
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丑刻に雷鳴あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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9月3日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は終日御所に詰めて駿河前司三浦義村・隠岐入道行西(二階堂行村)らと密談を交わしていた。
治世に関する協議だろう。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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9月8日
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吾妻鏡
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多胡江河原に八万四千基の石塔を建てて供養を行った。武蔵守北條泰時・駿河守 北條重時・駿河前司三浦義村らが出向き、弁僧正定豪が門弟らを伴って法要を沙汰した。
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   ※多胡江河原: 承久記は手越川(現在は田越川)と記載している。
三浦半島の分水嶺から逗子海岸に流れ込む川で、鎌倉時代には中流域まで川舟が遡上していた(地図)。
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中世までは集団埋葬地や処刑場で、承久記は「承久の乱で院に味方した三浦胤義の子息五人(11歳から3歳)が伯父義村の家臣に斬られた」と書いている。
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川沿いにあった墓石群は後に延命寺などに移され、泰時らが供養した八万四千基の石塔はその菩提を弔う意味もあった。そんな経緯からか、街中ではあるが広大な墓地を所有している。
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右画像は参道から見た延命寺。画像をクリック→黄雲山延命寺の公式サイトへ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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9月12日
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吾妻鏡
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故大夫判官伊賀光季の遺領について沙汰があり、子息の四郎季村(光季の嫡男)による常陸国塩籠庄などの継承が認められた。塩籠庄は元は和田平太胤長の知行地(現在の茨城県東茨城郡城里町塩子・地図)である。
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   ※城里町: 光季の遺領とは無関係だが、塩子の約10km南には親子
二代が「平家一の郎党」と称された平貞能が主人重盛の遺骨を葬った白雲山小松寺がある。
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また東隣接の益子町には貞能を葬ったと伝わる安善寺や貞能と深く関わった宇都宮氏の廟所などが点在している。この地域を旅した際には是非とも立ち寄りをお薦めしたい。
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右画像は宇都宮氏の廟所。32代に及ぶ五輪塔や宝筐院塔・石碑が林立する。画像をクリック→ 宇都宮氏の廟所大羽の地蔵院へ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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9月20日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は訴訟を担当する奉行人を召集して対面し注意事項を説明した。各々が正しく判断して賞罰の決裁を行うように、と。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月3日
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吾妻鏡
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相模守北條泰時と武蔵守北條時房が御所に集まって宇津宮辻の地に御所を移転する検討を行った。また(宿老らと共に)若宮大路の東側に沿って建てるべきかも協議した。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月4日
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吾妻鏡
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相模守北條泰時と武蔵守北條時房が人々(常駐の御家人と実務官僚)を伴って宇津宮辻子と若宮大路を巡回して距離などを計測した。
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隠岐入道行西(二階堂行村)を担当奉行として着工以下の日時について安倍国道朝臣に尋ね、「今月13日か12月5日が望ましい」との回答を得た。
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10月22日からは故・二品(政子)の百ヶ日法要が始まることを考慮して12月5日に行う旨を決定した。古い御所は解体する。今日は天火日(卯の日)にあたる。
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   ※天火日: 屋根葺き・かまど造り・棟上げなどに不吉な日で、10月は
卯の日(4日)が該当する。
   ※宇津宮辻子: 辻子は小路・横町などを意味する。小道(地図)を挟んで南側に宇都宮氏の屋敷があった。
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   右画像は幕府跡の石碑がある稲荷神社。画像をクリック→宇都宮辻子と若宮大路(サイト内リンク・別窓)へ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月11日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に大地震あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月13日
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吾妻鏡
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今日御所造営の勘文を提出させ外記大夫矢野倫重(対馬守)を奉行として御前に提示した。 内容は次の通り。
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    木作り(材木の加工)を始める日時
         今月23日(庚戌)の辰(8時)から申(16時)、または11月7日(甲子)の巳(10時)から未(14時)
    礎を居える(礎石を据える)日時     11月7日(甲子)の巳(10時)から申(16時)
    立柱・上棟の日時     12月5日(辛卯)の卯(6時)から午(12時) 立柱は西・東・南・北の順序
           嘉禄元年10月13日        陰陽権助安倍国道
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   ※勘文: 先例・故実・吉凶などを検討して日時の選定などの意見を上申する文書。
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   ※矢野倫重: 姓は三善とも。建久元年(1190)生まれの幕府官僚。嘉禄元年(1125)に設けられた評定衆の
初代メンバーで貞永元年(1232)制定の「御成敗式目」を起草した一人。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月15日
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吾妻鏡
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降雨、夜になった雷鳴あり。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月19日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸に相模守北條時房らが参集して御所の位置確定の意見を交わした。小路(宇都宮辻子)の東西どちら側に設定するか、意見は様々である。
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地相を観る金浄法師は「右大将家(頼朝)法華堂の下(大倉御所)は四神の考えに添う最良の地相なのに、なぜ移転の必要がありますか。西側に広げ新たに造作するべきです。」と述べ、泰時と時房も言葉を交わした。これらの経緯によって結論は得られず、卜占を行う運びとなった。
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   ※四神の地相: 東に青龍(流水)・北に玄武(丘陵)・西に白虎(大道)・
南に朱雀(湿地)を具える。鎌倉の場合は東に滑川または六浦・北に大倉山・西に武蔵道または稲村路・南に由比ヶ浜があるから地相の要件は条件を備えている(右画像)。
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所詮は迷信だから特に意味などないのだが、泰時の場合は頭を押さえる三つの背後霊(義時・政子・廣元)の精神的支配から脱し、人心を改め新庁舎で執務したいのだろうけれど。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月20日
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吾妻鏡
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相模守北條泰時と武蔵守北條時房が協議し、御所の土地については卜占で決めることになった。安倍国道朝臣ら7人の陰陽師を呼び、頼朝法華堂下の土地を第一・若宮大路(の宇都宮辻子)を第二として、どちらを選ぶべきかを占って報告するよう命じた。国道朝臣は次のように述べて新たな占いに反対した。
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陰陽道としては既に御所を移転するようにと進言しました。再び占った結論が「法華堂の下が良い」と出れば二つの答えを示した事になります。従って占いはできません。
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珍誉法眼が意見を述べた。
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法華堂前の土地が良いとは言えません。西に岡があり右幕下(頼朝)の御廟があります。親の墓より下に住めば子孫が絶えると言う通りで、右幕下の子孫は途絶えています。若宮大路は四神に対応する地相で、西には大道が南に続き東には川(滑川)があり北には鶴岡があって南の海は湿地に当て嵌ります。
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この意見に従ってこの(宇都宮辻子の)土地を選ぶと決定した。ただし(辻子の)東西どちらを選ぶかは陰陽師多数の占いに従って最吉の西側とした。安倍信賢だけが「東西ともに不吉」と主張した。
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   ※地相論争: 前日には地相を観る金浄法師が「法華堂の下は最良」と
言ったのは一日でひっくり返ってしまった。
そもそも頼朝法華堂を建てたのは大倉御所を建てた20年後だから、問題があるとすれば法華堂の位置だ。
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珍誉法眼の地相に関する意見も辻褄合わせ、占いだとか風水だとかは実に下らない、と思う。
珍誉法眼の提言の甲斐もなく宇都宮辻子幕府では不幸が続き、僅か12年後の嘉禎二年(1236)に若宮大路(現在の宝戒寺と若宮大路の間)に移転する。
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   話のついでに、若宮大路幕府跡碑の画像を載せておく(地図)。
   泰時以後の代々執権の私邸跡に建てたのが宝戒寺、幕府(御所)と執権邸は概ね一体化していたらしい。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月22日
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吾妻鏡
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二位家(政子百ヶ日の法事を武蔵守北條泰時の御沙汰として催した。導師は信濃僧都道禅、請僧は20人。
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   泰時にとって父義時の姉は伯母、妹なら叔母の字を当てる。英語ならauntで済むのに。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月27日
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吾妻鏡
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安倍国道朝臣が北條泰時邸を訪れて申し述べた。
今暁から太白(金星)が弖(星座の固有名、詳細不明)に入るため、行動には慎みが必要となります。天変が続いていることを考えれば御所の造営は延期すべきでしょう。
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この申し出に伴ってどの年の工事が妥当かの卜占が行われた。多くの者が「今年である」との結果を申し述べたが重宗だけは「今年も来年も行うべきではない」と主張し、続いて晴賢が申し述べた。
内裏などの造営は天変に配慮しません。また来年には若君(三寅・後の四代将軍藤原頼経)は九歳、建築を避けるべき年齢となります。今年中に造営を始めるべきでしょう。
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これらの意見は全て左近将監尾藤景綱を介して取り次ぎが行われた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月28日
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吾妻鏡
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御所の造営は年内に済ませるよう決定が下された。外記大夫矢野倫重が工事の奉行を務める。
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今夕、若君(三寅)が四郎左衛門尉伊賀朝行邸(大御堂前の家)に渡御された。騎馬・水干姿、駿河守北條重時・大炊助北條有時・駿河前司三浦義村・同次郎三浦泰村・左衛門尉後藤基綱らが供奉した。これは大倉御所を解体するため仮の御所として使用する。
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   ※伊賀朝行: 伊賀朝光の四男(詳細は8月27日の項を参照されたし)。「大御堂(勝長寿院)前の家」の位置は、
そもそも勝長寿院の位置が確定できないため滑川に架かる現在の大御堂橋から谷の中間付近までを想像するしかない。鶴岡八幡宮・永福寺と並ぶ頼朝が手掛けた三大寺社の一つだからそれなりの規模だろうし、一説には現在の谷津の大部分を占めていた、とも言われている。
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ちなみに、金沢街道から大御堂橋を亘ってすぐ右手には「文覚上人屋敷跡」の石碑が建っている。新編鎌倉志(水戸光圀編纂の地誌)には「上総国菅生荘12ヶ郷を寺料」とあり、郷=50戸ならばそれなりの規模になる。菅生荘は小櫃川の中流域、JR久留里線上総清川駅の一帯 (地図)。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月29日
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吾妻鏡
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民庶(農民)の費煩を軽減するために諸人の過差(不相応な贅沢)の停止を命じた。衣装や調度(弓箭)などについて新符(新たな法制)が朝廷から発せられ、今日から鎌倉でもこれを施行した。
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また他所(宇都宮辻子)に新築することに伴って(大倉)御所の解体が始まった。新築に携わる者の担当となる。
奉行は左衛門尉後藤基綱が担当する。
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   ※費煩: 一義的には税などの負担だが労役を課したり使用人として扱う事などを含む。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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10月30日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)、新しい御所の敷地で大土公祭を行った。四郎左衛門尉伊賀朝行の奉行である。
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   ※大土公祭: 現代の地鎮祭に概ね等しい。大土公は陰陽道の神で春は竈(かまど)・夏は門・秋は井戸・冬は庭
にいる遊行神。地の霊であり、その領域を犯すと祟る、と考えられていた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月7日
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吾妻鏡
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新しい御所を建てる木作り(材木の加工)が始まった。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月8日
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吾妻鏡
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昨日に引き続いて御地を引いた(建築の縄張り)。武蔵守北條泰時と相模守北條時房がこれを見守った。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月15日
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吾妻鏡
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安倍国道朝臣から「御作事(築造工事)の間は太白(金星)などが移動する邦楽や土公(地の神・10月30日参照)が遊行する方角での作事を控えるべきである。」と述べた件について協議した。
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安倍親職は「現在では控える必要なし」、安倍晴賢は「支障あり」、安倍晴重と宗重と有道は晴賢に同調した。安倍泰貞と晴職は「連日の工事の場合は支障なし」との意見である。
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   ※安倍親職: 陰陽師の安倍と言えば当然、安倍晴明を連想する。
吾妻鏡に現れる親職の死没は1240年、晴明の長男・吉平の子から「親」を通字にした。吉平の三代ほど後の人物が下校して幕府の陰陽師になったのだろう。
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晴明の嫡流子孫は明治初期まで朝廷の陰陽寮を統括しているから、親職は庶流の可能性が高い。
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   ※安倍と安部: 吾妻鏡や一部の古典(今昔物語集など)では「安部」
だが、吾妻鏡に登場している陰陽師は全て安倍晴明(wiki)の子孫または系累に当たる。
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従って当サイトは吾妻鏡に従わず「安倍」を採用した。私の嫌いな某国の首相と同じなので使いたくないのだけれど。
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        右画像は我が家の窓から見える公共用地の桜。老木になったため数本が伐採され少し寂しくなったが、
        今でもそれなりに楽しませてくれる。リビングで花見ができるのは実にありがたい。 2016年 4月

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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月17日
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吾妻鏡
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夕方、新御所の祭(屋敷神(wiki)の祭祀か)あり。外記大夫矢野倫重(10月13日を参照)が奉行を務めた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月20日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸で御所造営のため連日の犯土(土木工事)の是非を改めて検討した。
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弾正忠清(原忠季)は「連日行う場合は前例に背く行為に非ず」と、また民部大夫町野康俊は「避けるのが妥当」と主張して決められない。再び陰陽師を呼び左衛門尉後藤基綱を奉行とし、星座の移動方向などを考慮せずに連日の犯土を行ったが今後も同様で支障がないか否かを占わせた。
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安倍国道ら6人は「来る23日の基礎工事・井戸の掘削・門の建立などは支障あり」と語り、大膳亮泰貞は「今まで連日の犯土を行った。今後は寝殿以外を続けるべきではない。」と語った。
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正確な方位の確認を命じられた後藤基綱は陰陽師らを伴って現地測量を行い、現在の御所(伊賀朝行邸)の寝所から新しい御所の乾維(乾は南西、維は隅)を基点にすると東西が256丈5尺(777m)で南北が61丈(185m)、正確には西にも乾(南西)にも該当せず、正式に測るまでもなく庚(西南西の西寄り)であると報告した。
従って更なる協議は不要と決まった。灯を点す頃になって会合は終了し、人々は退出した。
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   ※弾正: 犯罪や風俗を取り締まる役所が弾正台、弾正は官吏。朝廷
の組織の場合は後に検非違使に吸収されたらしい。
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   ※東西: 小町大路の「日蓮辻説法跡」を起点にして計測すると六浦道
の大御堂橋入口まで970m、勝長寿院寄りの伊賀朝行邸までを直線で測れば概ね777mに当て嵌る。南北約185mの意味は不明だが、南西隅を基点にした敷地の北端か。
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この地点から嘉禎二年(1236)に移転した「若宮大路幕府跡の碑」までは約100m、大掛かりな移転ではなく宇都宮辻子幕府の敷地を北に延長して移設したと考えるべきだろう。
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それにしても敷地の一部を取り出して「西南西の西寄りだから西ではない」と強弁するなんて、横畠内閣法制局長官の憲法解釈と同じだ。陰陽師も自民党総裁も「安倍」だから嘘は当たり前、か(笑)。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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11月22日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。8月から(二品(政子)の死没により)延期した神事である。武蔵守北條泰時が参宮した。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月2日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に鳶が御所の中に飛び込んだため周防前司中原親實を奉行として卜占を行った。逸失物・病気・凶事・盗難などに要注意の旨を安倍国道朝臣らが言上した。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月5日
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吾妻鏡
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新御所の上棟式典が催され相模守北條時房と武蔵守北條泰時が監臨された。隠岐入道行西(二階堂行村)・駿河前司三浦義村・左衛門尉後藤基綱・外記大夫矢野倫重(10月13日を参照)らが臨席し、式典の終了後には工匠らに報奨を与えられた。また政所庁舎(11月20日の地図を参照)と倉庫を解体して運び入れた。
女房(女官)大納言局の宿舎でも同様に上棟式を行った。
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   ※大納言局: 太政大臣藤原(三条)公房(wiki)の娘で通称は今小路禅尼。今小路が住所か。
新編鎌倉志には「今小路は壽福寺の前から南、厳密には巽神社までを差す」と書いている(現在は和田塚駅に近い六地蔵(和田塚の風景を参照)までを今小路と呼ぶ)。
御所の建造とは特に無関係の棟上げと思われる。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月8日
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吾妻鏡
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若君(三寅)元服の日程を答申した文書が京都から到着した。来る29日(乙卯)の午刻(正午前後)を賀茂在継が選び出した。しかしその日は新しい御所への移転と元服が重なり特に忙しくなるため、以前の予定に従って移転を20日にするのはどうか、それを関東の陰陽師らに諮問した。答申は「29日は四不出日(悪い日取り)で、先例はあるが20日よりは劣る。ただし問題ではない」との返事を得た。直ちにその内容で上申書を提出させた。
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   ※賀茂在継: 賀茂氏嫡流の陰陽師で安倍国道と朝廷の地位を争うライバル。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月9日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が新御所に入り、若君の移転前に祭祀が必要かどうかを協議した。大監物 源光行入道・源内左衛門尉景房と安倍国道朝臣と親職が呼ばれ参上した。光行 入道と景房は前もって「特に祭祀の必要は認められない」と言っており、その件を国道に確認するのが目的である。国道は次のように述べた。
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二人とも有識者だが陰陽の世界とは異なるもの。御所から臣下の家を経て御所に帰る際には祭祀を行うのが定例であり、昔には華山院・最近では後京極(九条良経)殿」が移転の際に行っています。
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また安倍親職も「故左府(藤原頼長・wiki)も移転の際には行っており、また故右府将軍(実朝)も厩の場合以外には行っています。同様にすべきか、と。」と語った。

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   ※新御所: この場合は建設途上の宇都宮辻子か、勝長寿院前の現在の御所(伊賀朝行邸)を差すのか判別が
できない。実際に祭祀を行った17日の記述でも全く同じ「新御所」と記載している。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月17日
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吾妻鏡
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夜になって新御所で御祭祀を行った。太歳八神祭は安倍晴賢、謝土公(犯土に対応)は安倍有道、井霊(鑿井に対応)は安倍信賢、大将軍(星座に対応)は安倍晴幸、王相(方位)は安倍文元、防解火災は安倍泰貞である。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月18日
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吾妻鏡
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宅鎮祭は安倍親職、石鎮は安倍晴茂、西獄真人と七十二星は安倍国道、厩鎮は安倍晴職が催した。奉行は周防前司中原親實(12月2日を参照)。
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   ※陰陽師たち: 翌年には帰洛する安倍国道を除いて今年だけでも親職、晴茂、晴職、晴賢、有道、信賢、晴幸、
文元、泰定の9人(いずれも安倍氏)が登場している。数年遡れば更に数人は増えそうだ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月20日
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吾妻鏡
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若君(三寅)の(新御所)転居の儀。申の一点(15時過ぎ)に御狩衣・御騎馬で出御された。勘文は午刻(正午前後)との記載にも拘らず予定を過ぎた。先例では全て夜だが今回は武蔵守北條泰時に考えがあり白昼である。
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御出の儀
先ず諸大夫
    左近大夫将監佐房   周防前司親實   三條左近大夫将監親實
    大膳亮廣仲   兵衛蔵人廣光   籐勾当頼隆
    善式部大夫光衡   伊賀蔵人   周防蔵人
    兵衛判官代   伯耆蔵人   和泉蔵人
      以上十二人が先行。
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次いで御後
    一.武蔵守北條泰時   同次郎北條時実   越後守北條朝時
    二.駿河守北條重時   大炊助北條有時   相模四郎北條朝直
    三.駿河前司三浦義村   同次郎三浦泰村   同三郎三浦光村
    四.三浦四郎家村   出羽前司中条家長   民部大夫町野康俊
    五.日向介   下野左衛門尉小山朝長(朝政の嫡子)   左衛門尉結城朝光
    六.左衛門尉後藤基綱   左衛門尉佐々木四郎信綱
隠岐三郎左衛門尉二階堂行義(行村の嫡子)
    七.左衛門尉加藤行景(景廉の嫡孫、父は景長)   左衛門尉天野政景(遠景の嫡子)
四郎左衛門尉伊賀朝行(朝光の四男、承久三年11月3日参照)
    八.同六郎右衛門尉光重(朝行の弟)   宇佐美兵衛尉  次郎左衛門尉中條家平(家長嫡子)
    九.太郎左衛門尉佐々木重綱(信綱の嫡子)   土屋左衛門尉宗光(宗遠の嫡子)
籐次兵衛尉狩野為光(為佐・工藤行光の子?)
    十.中左衛門尉   左近将監遠藤為俊(渡辺党の武士?)   遠大夫判官嶋津忠久
供奉人は以上、若君の前後は皆徒歩である。
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(若君は)南門より入御。南庭中央に於いて下馬され、車寄せから二棟の廊下を経て寝殿の控に入御し武蔵守北條泰時が御簾を支えた。束帯姿の陰陽権助安倍国道朝臣が反閇(邪を祓う特殊な歩き方)を行った。(その間の若君は庭中に待機されていた)。
その後は幾つかの手順(煩雑なので略す)を経て供奉した者は庭に列座し、進物の儀となった。
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御剣は駿河守北條重時、御調度(弓箭)は駿河前司三浦義村、御行騰と沓は大炊助北條有時
   一の御馬は  駿河次郎三浦泰村  同三郎
   二の御馬は  佐々木太郎左衛門尉  同三郎三浦光村
   三の御馬は  隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  同四郎行久(行村の子で行義の弟、)
   四の御馬は  籐次兵尉狩野為光  五郎兵衛尉加藤行景
   五の御馬は  陸奥四郎北條政村  同五郎実義(義時の六男で金沢流北條氏の祖)
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若君の退出後に人々は侍所で椀飯(1月1日を参照)となった。今回の御所転居は略儀であり、手順は三ヶ日方式ほどではない。
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   ※大江佐房: 源通親の養子になり承久の乱では院方に与して逐電した源(大江)親廣の長子、大江廣元の孫。
祖父に従って鎌倉方に与した佐房は軍功により上田荘(現在の長野県上田市)を与えられて上田氏の祖となり幕府の要職を務めた。一族は霜月騒動(1285)で没落している。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月21日
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吾妻鏡
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今朝、新御所に飼い置く黄牛(車を曳く美しい色の牛)を引き出した。
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また相模守北條時房・武蔵守北條時房・助教(中原師員)・駿河前司三浦義村・隠岐入道二階堂行村らが御所に集まり、社寺について最初の評議(評議始めの儀)を行った。続いて東西の侍詰所について検討し若君(三寅)が幼いうちは近くに詰めるのが必要だから東小侍に待機する、これは京都から下向された当初に定めたまま変更しない。
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ただし西の侍詰所が無人になるのは通例に背くから、相模守時房ら然るべき人々は代理を差し出して数ヶ所の門などの警護を昼夜体制で勤める。遠江国(静岡県西部)から東15ヶ国の御家人は所領の規模に応じて月毎の勤務を割り当て、自分が東の侍詰所に出仕する場合でも大番役として代理人を西の侍詰所に待機させる旨を定めた。
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これは右大将軍(頼朝)の時代に当番として一または二ヶ月と定めて昼夜交代で詰めていた例に準じたものである。 ついで、新御所で初めての西の侍詰所の当番を定めた。桜井次郎・安部光高・今泉太郎・大宅政光・八町六郎・橘以康・市三郎・平重遠・長田太郎・藤原維定・飯田太郎・物部忠重・阿美小次郎・伴範兼らである。
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   ※黄牛: 飴色の毛をした頑健な牛(あめうし)。突然の記述には何か(縁起などの)意味があるか。
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   ※評議: 新たな組織・評定衆による会議。原型は建久十年(1199)4月に頼家の権限を縮小する目的から発足
した古参御家人13人による合議制で、頼家と比企一族が建仁三年(1203)9月に失脚後は実質的な北條時政による執権独裁となった。元久二年(1205)閏7月に時政が失脚した後は政子を中心にして義時大江廣元による一種の変形トロイカ方式の指導体制が定着したのだが...
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貞応三年(1224)6月には二代執権義時が、翌年6月には廣元・7月には政子が相次いで死没、まだカリスマ性のない泰時は集団指導性のシステムを取り入れつつ、叔父時房の補佐を受けて北條執権の権限を徐々に強化する方策を執る必要があった。御所移転や銅銭導入もその一環だった、と思われる。
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スタート時点での評定衆は以下の11人で、その上に泰時と時房。奇しくも合計13人だ。
中条家長 二階堂行村  町野(三善)康俊 斎藤長定(浄円) 三浦義村 佐藤業時(実務官僚)
矢野(三善)倫重 後藤基綱 中原師員(大江廣元の系累) 二階堂行盛 太田(三善)康連
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   ※斎藤長定: この時30歳の文官で貞永元年(1232)の御成敗式目起草者の一人。評定衆連署起請文の草案
も手掛けたと伝わる。
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   ※矢野倫重: 問注所三善康俊の弟で公事奉行を務めた行倫の二男(実務文官)。
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   ※太田康連: 三善康俊の末弟。三善系が三人・二階堂が二人で泰時と時房がトップだから実質は北條独裁だ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月22日
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吾妻鏡
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式部大夫伊賀光宗法師(法名光西)が赦免を得て配流地(信濃国)から鎌倉に戻り、本領八ヶ所も返還された。
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   ※光宗赦免: いわゆる「伊賀氏の乱」は貞応三年(1224)6月28日の記事を参照。政子晩年の最後っ屁だ。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月23日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に相模守北條時房が突然の体調不良に陥った。危急のため修験者の頼益を招いた。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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12月29日
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吾妻鏡
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若君三寅(八歳)が元服、申刻(16時前後)に二棟の御所南面で儀式があり左衛門尉後藤基綱が奉行を務めた。二條侍従教定が若君を補佐して定刻に出御し、武蔵守北條泰時と陸奥守足利義氏以下の面々が侍間に着座した。
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次に元服に使う道具類が用意され駿河守北條重時が陪膳(食膳の給仕)を、周防前司中原親實(12月20日参照)・右馬助藤原仲能が運び役を務めた。理髪と加冠は武蔵守北條泰時、御名字(頼経)は前春宮権大進藤原俊道朝臣が選び出したもの。相模守北條時房は去る23日からの病気により出仕を控えている。
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   ※藤原仲能: 武蔵藤原氏の系統で大友能直の従兄弟(弟とする史料もある)。尊卑分脈は評定衆の一人として
いるが、史料の確認がとれない。扇ヶ谷の海蔵寺(化粧坂と海蔵寺(位牌あり)を中興したとされ、近くの葛原神社に墓碑がある。
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1225年
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86代 後堀河
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嘉禄元年
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吾妻鏡
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