嘉禄二年(1226)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月1日
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吾妻鏡
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新造御所での椀飯は武蔵守中条家長が沙汰した。相模守北條時房以下の御家人は狩衣を着してし西の侍詰所に控え、通例に従って出羽前司中原家長が刻限を告げ、狩衣の藤原頼経が出御して二條侍従教定が南面の御簾三ヶ間を挙げ、侍詰所の人々は庭に列座した。
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束帯の駿河前司三浦義村が御剣(袋入り)を、御調度(弓箭)は狩衣の前大炊助北條有時が、御行騰と沓は出羽前司中条家長が献じた。続いて御馬五疋、一の御馬(鞍を置く)は相模四郎北條朝直と民部丞範重(?)が引いた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 北條時房は51歳・ 北條泰時は42歳・ 北條朝時は33歳・ 北條時氏は23歳・ 北條政村は21歳・
三浦義村は60歳ほどか・ 三浦泰村は42歳・ 足利義氏は37歳・ 小山朝政は76歳・
結城朝光は58歳・ 後の四代将軍藤原頼経)は8歳11ヶ月・後堀河天皇は12歳8ヶ月。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて椀飯あり。越後守北條朝時がこれを献じ、御剣の献上は駿河守北條重時
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて椀飯あり。駿河前司三浦義村がこれを献じ、御剣の献上は駿河守北條有時
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月8日
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吾妻鏡
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晴。若君(藤原頼経)の任官を京都に申し入れる使者を派遣する。左衛門尉佐々木四郎信綱に命令が下された。
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   ※名月記: 兵部(六波羅探題南方の北條時盛)から書状が届き、来る26日に鎌倉に下向する事になった、と。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月9日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸に駿河前司三浦義村の衆(一族)が参集、盃酒と贈物を交わした。
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   ※義村の衆: 原文は「駿河前司等之衆參會」、義村の一統、一族(泰村および 三浦光村)と理解すべきか。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴。若君(藤原頼経)の任官および征夷大将軍宣下についての申し入れに佐々木信綱を京都に派遣するため、今日御書を準備した。助教(文献を扱う大学寮職員)の中原師員は「寅の日に奏書(天子への奏上書)は書かず」と応じたが急ぐ事情を説明して宥めた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月11日
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吾妻鏡
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今朝、左衛門尉佐々木信綱が使節として上洛した。
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   ※明月記: 心寂房(僧・医師)が来訪、河東(鴨川の東、この場合は六波羅を差す)から来た、と。
相模守北條泰時の子息(男・時氏か?と母(三浦義村の娘)が来る26日に掃部助(他腹・時実か?)を引卒して下向し、一人(探題南方の北條時盛)だけ在京する。左衛門尉佐々木信綱ら数人が今日か明日に入洛するとの噂である。
将軍(藤原頼経を差す)が去る29日に元服、その間の詳細を信綱が伝えると思われる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月16日
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吾妻鏡
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曇。 月蝕は明確には確認できなかった。夜半の月は雲間を通して見えたが暁近くになって雲に隠れた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月18日
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吾妻鏡
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夜になってから雪が降り始め、終夜にわたって振り続けた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月19日
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吾妻鏡
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昨日から今朝にかけて雪。約二尺(60cm)余り積もったのは近年では珍しい。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月22日
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名月記
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   ※明月記: (1月22日)兵部(六波羅探題南方の北條時盛)の書状は「相模守北條時房の重病により子息の
四郎朝直)は今日の早暁に急ぎ鎌倉に向かった、と。夕暮れ前に室町殿を訪問すると、今朝時房の郎党・宇麻左衛門が西亭に来て「去る10日から病状が深刻になり子息が急ぎ下向した。掃部助時盛も26日には下向することになる。
また佐々木信綱は将軍元服について報告のため上洛途上だ、が雨と雪によって今日鏡の宿に到着し明日上洛の予定である。」と語った。他の雑人は「相州時房は危篤」と言っている。
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   ※明月記: (1月23日)巳刻(10時前後)に兵部(北條時盛)が来訪。「遠距離なので何の役にも立てない。
夜には佐々木信綱が入洛すると聞いたが今夜も到着していない。」 と語った。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月25日
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吾妻鏡
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晴。 明け方近くに歳星(木星)・鎮星(土星)・太白星(金星)が互の起動を犯した。「行動には慎みが必要である」、司天(天文担当)からからはその旨の報告があった。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月26日
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吾妻鏡
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晴。 田畑を双六の賭けに使う事、個人としての貸米の利子を貸付額以上に課す事、銭を貸した利息を貸付の半額以上を課す事、以上は宣旨の通り全て禁止とする。もし違犯者がいれば氏名を報告せよとの命令が下された。
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   ※明月記: 1月25日の記述。今日、佐々木信綱が関白邸に参上し将軍宣旨について奏上した。叙位については
確認していない。また姓については信綱が行兼を伴って春日神社を訪れて改姓すべきか否かを質問した。名は頼経、籘姓の源氏であり藤原氏の氏社であると理解していないのだろうか。
正二位・参議菅原為長(wiki)の娘婿・藤原俊親は義村のの推挙吹挙によって両国司(時房泰時)の耳目となり追従横謀の言葉を弄するとは実に悲しむべきの世の中だ。
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   ※明月記: 1月26日の記述。夕暮れに室町殿を訪問。中納言から今夜彼(藤原頼経)の叙位が認められると
聞いた。また春日大社は改姓を認めなかった、と。
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参考: 叙書には「正五位下藤原朝臣頼経」とある。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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1月28日
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吾妻鏡
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巳午の両時(9時前後〜13時前後)に雷雨と強風が続いた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月1日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)、鶴岡八幡宮恒例の御神楽を奉納する際に数刻の間も上宮神殿の扉が開かなかった。神主から仔細の報告を受けた武蔵守北條泰時は特にこの事件を畏怖し、陰陽師らを呼んで占わせた。
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  「辰の時間帯に行う神事は不浄を嫌い、火の気を慎むように。」
        それが卜占結果の趣旨である。
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右画像は江戸時代中期以後(神仏習合時代)の八幡宮境内図。
石段の下はかなり様子が変わっている。画像をクリック→拡大表示。

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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月5日
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吾妻鏡
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晴。天変の発生に対応する祈祷を催した。七曜供は法眼珍誉、北斗供は法橋珍瑜の担当である。
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   ※七曜供: 目視できる五つの惑星(火星・水星・木星・金星・土星)に太陽と月を加えた七天体を供養する修法。
   ※北斗供: 天変や疫病の災厄を除を息災延命を祈って北斗七星を供養する修法。共に天台・真言に基づく。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月9日
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吾妻鏡
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晴。重ねて祈祷。天地災変祭・属星・月曜・螢惑(火星)・歳星(木星)・太白星(金星)・鎮星(土星)の祭である。
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   ※属星: 生まれた年の干支を北斗七星の星に当て嵌めて祀る考え方。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月13日
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吾妻鏡
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晴。左衛門尉佐々木四郎信綱が京都から帰着した。1月27日に藤原頼経を征夷大将軍に任じる旨の宣下があり、また右近衛少将に任じ正五位下に叙位となった。これ下名除目の追加で、その除書などを持参した。
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   ※下名除目: 式部省から兵部省へ該当者の名簿を下す事から「下名」を称する。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月14日
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吾妻鏡
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晴。佐々木信綱が御所に召された。使節を務めた報奨として、武蔵守北條泰時を介して御剣を下賜された。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月17日
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吾妻鏡
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曇りで弱風。午刻から夕刻まで薄暗くて霧か霞のような状態だった。高塩と言う者もいるが、北風である。
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   ※高塩: 海から吹き付ける潮風。鎌倉の場合は南風になる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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2月22日
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名月記
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   ※明月記: 2月22日の記述。心寂房が六波羅(武士の辺)から来訪。関東で聟を迎える様子がある。
武蔵守北條泰時の娘が相模守北條時房の嫡男(四男朝直に嫁す話だが、愛妻(伊賀光宗の娘)がいる事を理由に固辞しており、父母が説得している、と。
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   ※朝直の固辞: 愛妻との離別が辛かった朝直は説得を拒否し続け、一時は出家の支度をする騒ぎにまで発展
したが...5年後の寛喜三年(1231)4月19日の吾妻鏡に「申刻(16時前後)に相模四郎朝直の室(武州泰時の娘)が男子を平産。」との記事があり、承服せざるを得なかったらしい。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。吉日により、竹御所が方違えのため武州北條泰時邸に入御された。今年の外出始めである。
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   ※竹御所: 短命の二代将軍頼家の娘で25歳、生母は比企能員の娘若狭局、兄は比企の乱で殺された一幡
頼朝の血を引く最後の一人となった彼女もまた不幸な生涯を送ることになる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月9日
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名月記
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   ※明月記: 3月9日の記述。武州泰時(の娘)の婚姻の件は猶も四郎朝直(相州時房の嫡男)が固辞を続けて
大騒ぎになっている。相州時房を継ぐ器ではないのだろうか、本妻との離別を悲しみ出家の支度をしているらしい。公賢朝臣の如きか。
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   ※公賢朝臣: 奇しくも同じ嘉禄二年に権大納言滋野井実宣(wiki)の長男。縁談について父と対立して出家し、
家督はわずか三歳の次男公光が継承している。都人の大きな話題になっていたのだろう。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月15日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に竹御所は法華経写経(如法経)に伴う法話を聴くため御堂御所(勝長寿院に建てた政子の遺宅)に出御された。先月22日から始めた写経である。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月18日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺の舎利会は通例の通り催された。竹御所および武蔵守北條泰時が参堂されている。
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   ※大慈寺: 実朝が大倉郷(十二所近く)に建てた大寺で既に廃寺、痕跡も見られない。詳細は健保2年(1214)
7月27日の落慶供養で。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月20日
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吾妻鏡
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晴。 戌刻(20時前後)に京都からの使者が到着、将軍家が去る13日に禁色(wiki)を許された、と。
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   ※名月記: 3月21日の記述。去年殺害された下鴨神社の禰宣資頼の子・比々良木禰宣が遂に正禰宣に補任
された。関東(三浦義村だろう)の推挙である。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月23日
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吾妻鏡
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晴。(京都の)一條殿(九条道家・四代将軍藤原頼経の父)から禁色の御装束が届けられた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月27日
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吾妻鏡
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晴。如法経十種供養(定められた方式で写経した法華経10部による法要)あり、導師は荘厳房退耕行勇律師。
武蔵守北條泰時も聴聞された
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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3月29日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に地震あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月4日
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吾妻鏡
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晴。如法経の奉納あり。右大将家(頼朝)と右府将軍(実朝)と二品(政子)の三ヶ所の法華堂に各々一部である。
また相模守北條時房は故二品(政子)の追善供養のため大倉新御堂の寺域に三重の宝塔建立に取り掛かった。今日が着工の儀である。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月10日
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吾妻鏡
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河越三郎重員が武蔵国留守所惣検校職に補任された。これは先祖の出羽権守秩父重鋼(秩父平氏の系図を参照)以来の代々当主が継承していた権威である。
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   ※河越重員: 河越重頼の三男。父重頼と長兄重房は九郎義経との
縁戚を理由に所領没収(吾妻鏡の文治元年(1185)11月12日)、後に追討され、家督相続は重頼の後家と次男の重時が継承していた。
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泰時が今回の検校職継承権を領主の重時ではなく重房に与えたのは、河越氏棟梁に権限が集中するのを避け一族の分断統治を図った一環と考えられている。
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        右画像は河越氏館の復元想像図。クリック→詳細へ(別窓)。
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   ※留守所惣検校職: 直接的には「遥任(現地赴任しない国司)により
国司不在となった国衙の実務を代行した在庁官人で軍兵の招集権を具える」を差す。平安時代末期の武蔵国司は平知盛ら平氏の遙任が常態となり、秩父牧の別当として力を蓄えた武基−武鋼と続いた次の武綱が武蔵七党などの武士団を統括する実力を備えて初代の検校職に任じた。
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秩父氏の家督は重綱から(長子重弘(畠山重忠の祖父)ではなく)二男の重隆が継ぎ、大蔵合戦で重隆が討たれた後は河越重頼に伝わった。そして重頼の失脚によって本来の嫡流重忠に渡り、重忠の敗死(元久二年(1205)6月の二俣川合戦)によって空席となった。
もちろん鎌倉幕府の成立後は実権を伴わない名誉職である。
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   ※大蔵合戦: 久寿二年(1155)8月に源義朝の命令を受けた長男
悪源太義平が北関東に力を広げた叔父の義賢を討ち取った事件。詳細は右画像をクリックして大蔵館跡と源義賢の墓所で。
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義賢に味方していたのが秩父氏棟梁の重隆、義平に味方していたのが重忠の父畠山重能斎藤別当実盛や籘姓足利氏や新田義重ら、義朝のシンパシー。
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大蔵合戦は源氏内部の覇権争い(義朝vs義賢)であり秩父氏の主導権争い(重隆vs重能)であり、利根川を挟んで争った新田氏と秩父氏の所領争いでもあった。
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更に重能らの配慮で生き残った義賢の遺児が後の木曽義仲だから話は複雑だ。
義仲の遺跡である班渓寺と鎌形八幡も参考に。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月19日
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吾妻鏡
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相模守北條時房が建立する三重塔は今日卯刻(朝6時前後)に柱立てとなる。
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   ※柱立て: 奈良時代早い時期から大型建築物には穴を掘って柱を
建てる「掘立方式」か、ら礎石を置く方式が採用された。
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根元の腐食を防ぐには有効だが固定するまで支柱が必要なこと、土中に埋める部分の深さで柱の高さを調節できないためより高度な建築技術が求められ、次のステップとして土台を据える方式へと発展する。
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右画像は昭和七年(1932)に三島の下田街道橋桁工事で出土した伊豆分尼寺・西塔の塔芯礎石(170cm)。
直径30cm×深さ15cmの穴で柱の下部を固定し、91cmφに浅く掘り込んだ座面で芯柱を受ける。
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     画像をクリック→「三島・白鳳時代の廃寺跡」(別窓)へ。

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三島には頼朝時代の史跡が点在すると共に国分寺・尼寺の痕跡があり、更には国衙があったと推定されている。位置は未確認だが、弘安二年(1279)に訴訟のため鎌倉を目指した阿仏尼が十六夜日記に「伊豆国府という所に到着した。まだ夕陽が残っていたので三島の明神に参拝して歌を奉納した。二十八日に伊豆国府を出て箱根路へ向った。」と書き残している。
彼女がその前を通ったであろう箱根精進池の石仏群(別窓)も参考に。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月20日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に御所中が騒動となった。武蔵国の御家人沼田四郎父子と白井太郎父子が斬り合いを起こし双方に死者を出した。怨恨が原因らしい。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月27日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に大地震あり。陰陽師らは「旬(10日)を過ぎない内に兵乱が起きる」と占い、大夫将監三条親實を経由して御所に報告し、併せて武蔵守北條泰時にも通知した。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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4月30日
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吾妻鏡
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曇。騒動が発生し、人々が甲冑を着けて御所に集結したが間もなく鎮まった。白河関で謀叛を企む者が在国の御家人らと合戦に及んだ事を知らせる飛脚が鎌倉に入ったのが原因である。
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   ※白河関: 義経が平泉から黄瀬川に駆け付けた治承四年(1180)
と、頼朝率いる大軍勢が奥州藤原氏討伐に向かった文治五年(1189)8月の事件が名高い。
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「白河の関」は陸奥国を示す代表的な枕詞でもあり、元禄二年(1689)4月に訪れた松尾芭蕉も三つの句を詠んでいる。出来栄えに不満足だったのか「奥の細道」には見られず、随行した「曽良旅日記」にのみ載っている。
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右画像は史跡「白河の関」入口部分。
           画像をクリック→明細(別窓)へ。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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5月4日
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吾妻鏡
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小雨。申刻(16時前後)に結城七郎朝廣と甲斐源氏の浅利太郎知義が鎌倉に駆けつけ次の通り報告した。
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先月27日の申刻(16時前後)に白河関の袋辻で、若宮禅師公卿(公暁)と詐称して謀反を企んだ者がいた。ちょうど出合わせたため討ち取って首を携え、仲間2名を生け捕って連行した。
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その首は直ちに金洗沢(承久三年(1221)8月2日を参照)に送って晒した。仲間は50余人、首謀者は禅師大将軍(名は忍寂房)を名乗っていた。全員が博徒の悪人である。
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   ※浅利知義: 弓の名手として名高い浅利義成(与一)の嫡子。
義成は52歳の建仁元年(1201)に越後城氏の乱に出兵し、捕虜となった女武者坂額を頼家から貰い受けて妻にしている(同年6月29日の吾妻鏡)。
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知義を「坂額が産んだ」としている資料もあるが、確実な記録が見当たらないのが少し悲しい。まぁ52歳まで子供がいなかったのも不自然だし、ね。
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新潟美人(笑)の坂額は義成の本領浅利郷(現在の中央市浅利・地図)で生涯を過ごしている。
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右画像は上向山地区に残る伝坂額の墓。刻銘などが皆無なので真偽は不明。画像をクリック→義成の本領と坂額へ>
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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5月8日
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吾妻鏡
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晴。内藤左衛門尉盛時が先月19日に検非違使任官の宣旨を受けた件が評議され、任官停止の指示が下った。
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父の左衛門尉盛家入道が強盗を捕縛した恩賞を受ける代りに子息盛時の昇進を申請したもので、嫡男(盛時の兄)の右衛門尉盛親は父に従って領国や京都で勤めている。
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弟の盛時は鎌倉で昼夜の勤務を重ね功績を挙げているが、嫡男と弟の順に従って先に兄を検非違使に任じるのが当然である。盛家入道が寵愛する盛時を密かに京都で推挙した結果の任官であり、弟が兄を越える理由は認められない。検討の末にこの結果となった。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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5月16日
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吾妻鏡
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晴。白河関で陰謀を企てた者を捕らえた功績について、結城七郎と浅利太郎が先日来争論を続けている。
今日、この件についての決裁があった。    (決裁内容の記載なし)
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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5月23日
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吾妻鏡
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小林五郎と高山五郎が管理している領所について、請所の納税を請負制にして欲しいとの申請を認める旨を 武蔵守北條泰時が決裁した。両者の勤務態度は真摯であり、不諧を救うのが目的である。
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   ※高山氏: 秩父重綱(畠山重忠の曽祖父)の三男重遠が武蔵国高山村に土着して高山氏の祖となった。
ちなみに重綱の長男重弘は畠山氏と小山田氏の祖、二男の重隆は河越氏の祖、四男重継は江戸氏の祖となっている。高山村は現在も高山村(地図)、他の氏族に比べると比較的地味な存在だった。鎌倉時代中期の庶流に小林氏の名前が現れている。
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   ※不諧: 物事が思い通りに運ばない事、転じて貧しさ。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月4日
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皇帝紀抄
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夜半に最勝光院が焼失した。盗人が放火し金物などを焼き取ったらしい。 (皇帝紀抄は鎌倉時代中期の歴史書)
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   ※最勝光院: 承安三年(1173)に後白河法皇が法住寺殿の敷地に建てた豪壮な御願寺。今回の火災を契機に
衰退し、嘉暦元年(1326)に後醍醐天皇によって東寺に寄進された。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月7日
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吾妻鏡
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相模守北條時房が造立している三重の塔に九輪(wiki)を上げた。
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   前年末の大病が契機になったのだろうか、時房が発願した三重塔
は4月4日に着工して4月19日に柱立て、6月7日に九輪を上げるという早い工程で進んでいる。大倉新御堂(勝長寿院の寺域)の正確な跡地は確定できず、勿論三重塔の痕跡も判らない。
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ちなみに北條時房邸は後の若宮大路幕府跡から段葛を隔てた西側、鎌倉彫りの「山水堂」と酒の「三河屋」の間の路地「小池小路」の奥に案内板と層塔が置かれている(地図)。この一帯のかなり広範囲を占めていたのだろう。
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        右画像は小池小路奥の標識と層塔。(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月13日
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吾妻鏡
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晴。 右京兆(北條義時)三回忌を迎え大慈寺の釈迦堂で供養法会。導師は求仏房、施主は 武蔵守北條泰時
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   ※大慈寺: 実朝が大倉郷(十二所近く)に建てた大寺で既に廃寺、痕跡も見られない。詳細は健保二年(1214)
7月27日の落慶供養で。
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   ※明月記: 辰刻(10時前後)に道澄僧都が来訪。土亜相(土御門定通・正二位内大臣)の室(武蔵守泰時の妹)
が父義時朝臣のため毎年八講の法要を催している。去年は顕尊・降圓・聖覺らが證義者(仏典の解説担当)を務め、今年は圓経ら八人と。
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   ※法華八講: 法華経の八巻を第一巻から1巻ずつ8回に分けて講義し称える法会。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月14日
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吾妻鏡
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晴。二位家(政子)一周忌の法要が催された。相模守北條時房は二位家の追善供養のため大慈寺の寺域に三重塔一基を建立し、今日落慶供養を催した。導師は小河法印忠快、御布施は三十種を含む三十包である。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月20日
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吾妻鏡
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曇。竹御所の服喪明けである。二位家(政子)は祖母だが(通例より長期の)一周忌まで喪に服していた。新御堂(大慈寺)の池近くで泰貞による御祓いを行った。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月26日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月27日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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6月28日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時時前後)に地震あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月1日
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吾妻鏡
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晴。 亥刻(20時時前後)に地震あり。
今日、橘右馬允公高(公長の四男)並びに本間太郎左衛門尉忠貞・小河左衛門尉・同右衛門尉らが、去る承久三年(1221)6月の勢多合戦で挙げた功績の恩賞を受けた。相模守北條時房の指揮下で軍功に励んだにも拘らずその恩賞を受けておらず、時房は以前から推挙していたが認可がないため自分の勲功として受けた伊勢国16ヶ所(承久四年(1222)3月3日を参照)の中の4ヶ所を辞退して御下文を発行した。
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   ※本間氏: 武蔵七党の横山党海老名氏流で本領は相模国愛甲郡依知郷(現在の厚木市中依知・地図)。
北條氏の被官として佐渡代官に任じ、分家の子孫が出羽国の富豪本間氏へと続く。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月5日
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名月記
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   ※明月記: 7月5日晴。六波羅の武士本馬左衛門の妻が外出中に窃盗が入り衣装や財物を全て盗み出した。
(7月1日の本間と同一人物だろうか。)
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   ※明月記: 7月6日晴。武蔵太郎(北條時氏)の嫡男 (後の経時、五、六歳か)が修理亮宇都宮泰綱(頼綱
四男で六代当主(注:24歳)、生母は北條時政の娘)の娘(二、三歳)の婿となる約束を泰時朝臣と交わした。これは東国の習慣らしい。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月11日
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吾妻鏡
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故禅定二位家(政子)の一周忌法要が勝長寿院で行われた。一切経供養があり舞楽を演じられ、大蔵卿法印良信が導師を務めた。 相模守北條時房、武蔵守北條泰時ら多くの御家人が参列、竹御所も参席された。
また時房が建立した三重塔でも荘厳房律師退耕行勇を導師として供養が行われた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月15日
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吾妻鏡
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晴。皆既月食あり、鮮明に視認できた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月18日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に天変(星の軌道に於いて異変)あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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7月22日
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明月記
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晴、午後大雨。謀反計画の噂に基づいて武士ら数名を捕縛し拷問を加えたが仲間を自白せず。300人ほどが計画に加わっているとの風聞あり。また一切経谷で武士が書いた宛先のない書状32通が発見され事態が露見した。洛中で80人が加わっている、と。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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8月1日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)地震、揺れが大きかった。今日准布(銭に代用した布)を止めて銅銭を用いるよう命令を下した。特に武蔵守北條泰時の強い指示による。また幕府の南庭で京都から来た者に相撲三番を取らせた。両国司(時房と泰時)および他の御家人も多数が見物に集まった。
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   ※銅銭の認可: 鎌倉幕府が銅銭(宋銭)の使用を認めた最初とされる。「百錬抄」に拠れば寛喜二年(1230)の
6月24日には朝廷もこれを追認した。銅銭が輸入され始めたのは清盛の時代で、数回の禁止令などの紆余曲折を経て1230年代には完全に定着したらしい。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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8月3日
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明月記
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   ※明月記: 8月3日 晴。心寂房が来訪し風聞などについて語った。美濃国の高桑次郎と称する者が六波羅に
捕縛され謀反計画を自白したが仲間の名前は言わず、謀反の首謀者で一切経谷にいた覚心坊なる者は逐電した。従者大夫房のみを捕縛し、宛名の書いてある33通の書状を没収した。
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武州(この場合は六波羅探題北方の(武蔵太郎)北條時氏)が六波羅の四方に巾一丈五尺で深さ一丈(4.5m×3m)の堀を設けた。諸国七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に叛徒が群居している、と。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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8月7日
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吾妻鏡
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晴。天変と地震に対応し祈祷を催した。一字金輪護摩は若宮(八幡宮)別当僧正、八字文殊法は宰相律師、土曜供は助法印珍誉、木曜供は師法橋珍瑜、鎮星祭は安倍泰貞、三万六千神祭は安倍国道朝臣、属星祭は安倍宣賢、歳星祭は安倍文元、螢惑祭は安倍晴賢、北斗祭は二位僧都尊長。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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9月2日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が女官用の輿を利用して非公式に勝長寿院と永福寺に渡御され本尊拝礼を行った。
剣役は結城七郎朝廣、駿河守北條重時・大炊助北條有時・駿河前司三浦義村以下数名が供奉した。
隠岐入道行西(二階堂行村)が盃酒を準備し門前で人々に勧めた。
西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事(重陽節)は通例の通り。大炊助北條有時が奉弊使を務めた。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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9月22日
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吾妻鏡
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幕府の南庭で草鹿の競技を催した。
相州時房・武州泰時・駿河前司三浦義村・出羽前司中条家長・下野入道小山朝政らが判定役に任じた。
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  射手
     一番 相模四郎北條朝直    下川邊左衛門尉(行平の子息(朝行・行綱・行時)と思うが確認不可)
     二番 小笠原六郎(長清の四男伴野時長・wiki)    本間太郎左衛門尉
     三番 駿河次郎三浦泰村    横溝太郎義行
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   ※草鹿: 騎射ではなく徒歩で的を射る歩射の一つ。革や布で作った鹿を射て競う競技。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月6日
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吾妻鏡
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夜になって光物が飛翔した(流星か)。子刻(深夜0時前後)に地震あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月9日
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吾妻鏡
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晴。 駿河前司三浦義村以下の幕臣中枢が集合し御家人の訴訟について評議を行った。尾張国の御家人民部丞中原泰貞と駿河前司義村の郎従大屋中原太郎家重(泰貞の同族)が以前から所領についての争いを続けている。その件の評議中に泰貞は密かに評定所の背後で内容を窺い、「義村は家重の意見を代弁している」と訴えた。
家重も前に進み、「元より義村の扶助なし」と述べた。口論が始まったため二人ともその場から追い出された。
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   ※評議: 新たな組織・評定衆による会議。原型は建久十年(1199)4月に頼家の権限を縮小する目的から発足
した古参御家人13人による合議制で、頼家と比企一族が建仁三年(1203)9月に失脚後は実質的な北條時政による執権独裁となった。元久二年(1205)閏7月に時政が失脚した後は政子を中心にして義時大江廣元による一種の変形トロイカ方式の指導体制が定着したのだが...
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貞応三年(1224)6月には二代執権義時が、翌年6月には廣元・7月には政子が相次いで死没、まだカリスマ性のない泰時は集団指導性のシステムを取り入れつつ、叔父時房の補佐を受けて北條執権の権限を徐々に強化する方策を執る必要があった。御所移転や銅銭導入もその一環だった、と思われる。
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スタート時点での評定衆は以下の11人で、その上に泰時と時房。奇しくも合計13人だ。
中条家長 二階堂行村  町野(三善)康俊 斎藤長定(浄円) 三浦義村 佐藤業時(実務官僚)
矢野(三善)倫重 後藤基綱 中原師員(大江廣元の系累) 二階堂行盛 太田(三善)康連
(この項は最初に評議が開かれた前年の12月21日と重複する。)
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   ※斎藤長定: この時30歳の文官で貞永元年(1232)の御成敗式目起草者の一人。評定衆連署起請文の草案
も手掛けたと伝わる。
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   ※矢野倫重: 問注所三善康俊の弟で公事奉行を務めた行倫の二男(実務文官)。
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   ※太田康連: 三善康俊の末弟。三善系が三人・二階堂が二人で泰時と時房がトップだから実質は北條独裁だ。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月12日
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吾妻鏡
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評定衆の協議中は訴訟の当事者が近寄るのを禁止すると決定した。従わない者があれば法に従って処罰するよう左近将監尾藤景綱・左衛門尉平三郎盛綱・南條七郎時員・安東左衛門尉(泰時被官)らに命じた。
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この決裁は(9日に起きた)泰貞の狼藉が原因である。泰貞の所帯(所領・職位)は結論が出るまで(訴訟相手の)家重の管理下に委ねることとなる。
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   ※南條時員: 泰時の被官で、伊豆国南條(北條の南・現在の伊豆の国市南條・地図)を本領とした武士。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月18日
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吾妻鏡
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晴。竹御所邸の造作工事が始まり礎石が置かれ、狩野宗茂入道と籐内左衛門尉が奉行を担当した。
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今日、武蔵太郎北條時氏が宋から取り寄せた唐鳥(輸入の意味)一羽(名は愛子)を献上。翼が青く頭が赤で白い筋が首の周囲に環をなしている。将軍家藤原頼経は喜んで可愛がっている。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月20日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬の上洛計画について沙汰が下された。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月21日
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吾妻鏡
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晴、風が鎮まる。鶴岡八幡宮寺の修理が始まるため、今夕に御神体などを仮殿に遷すことになった。
八幡宮の御神体は若宮の御殿に、若宮の御神体は竈殿(かまどの神を祀る場所)に遷した。
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   ※若宮: 石段に登る手前右手にあるのが若宮(下宮)、石段の上にあるのが本宮(上宮)。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月26日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に天変(星の動きの異変)あり。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月27日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に八幡宮修理の完了に伴う遷宮。御神体が本宮に還御し武蔵守北條泰時も参宮された。
戌刻(20時前後)に将軍家(藤原頼経)に多少の体調不良あり、御温気(熱気・発熱)かと。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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10月28日
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吾妻鏡
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晴。将軍家藤原頼経の体調不良に対応して招魂祭などの祈祷を行った。三條左近大夫将監親實が奉行である。
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   ※招魂祭: 陰陽道で行う祭祀の一つ。衰弱した肉体から魂の遊離を呼び戻す意味を持つ。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月2日
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吾妻鏡
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将軍家藤原頼経の体調不良に対応し、周防前司中原親實の奉行として卜占を行った。晴賢・道継・国継(陰陽師・いずれも安倍氏)らが召集された。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月3日
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吾妻鏡
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晴。今暁、将軍家の体調不良に対応して七座の泰山府君祭が行われた。親職・晴賢・重宗・晴職・宣賢・文元・道継ら(陰陽師・いずれも安倍氏)が担当した。
戌刻(20時前後)に月が太白星(金星)の軌道を犯した(距離は二尺(約61cm)余)。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月4日
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吾妻鏡
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快晴。夜になって鶴岡若宮の修理完了に伴う遷宮。御神体が本宮に還御し、武蔵守北條泰時も参宮された。
戌刻(20時前後)に螢惑星(火星)が歳星(木星)の軌道を犯した。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月5日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に月が鎮星(土星)を凌犯し、月が螢惑星(火星)の軌道を犯し、亥刻(22時前後)に月が歳星(木星)の軌道を犯した。
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   ※凌犯: 陰陽道では「吉凶の逆転」を意味するらしいが、ここでの意味は「軌道を犯した」で良いのか?
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月6日
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名月記
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三つの星が異様な接近している。一昨日から近寄り、今夜は螢惑(火星)が月に溶け込む様相を呈している。
西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月8日
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吾妻鏡
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陸奥国平泉の圓隆寺(毛越寺と号す)が焼け落ちた。この災厄を鎌倉で予言して廻った者がいたのは何とも不思議である。しかも後日の噂では時刻までが合致していた、と。
圓隆寺は藤原清衡が建立した寺院で、その荘厳な美しさは我が国に比類のない霊場である。右大将軍 (頼朝)が文治五年(1189)の奥州征伐の際に訪れて信仰を深めていた。
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   ※圓隆寺: 毛越寺金堂の呼称で、本尊の丈六薬師如来(伝・運慶作)
と十二神将像を納めていた。毛越寺は二代基衡が久寿三年(保元元年・1156年)までに殆どの堂塔群が建立して保元二年(1157)に没し、仁安二年(1167)に三代秀衡が嘉祥寺を完成させて全ての伽藍が完成した。
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従って「清衡が建立した」は吾妻鏡編纂者の誤記であり、文治五年(1189)9月17日の「毛越寺について」の項は「基衡が建立した寺」と記載している。
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また圓隆寺本尊の「丈六薬師如来を運慶が彫った」としているのは明らかな間違いで、現存する運慶最古の作(奈良円成寺の大日如来像)は1176年の完成だから、その20年前の保元元年(1156年)に圓隆寺の本尊造像を彫るほどの仏師ではなかった。9月17日の条に詳細を記載してある。
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右画像は毛越寺の復元想像図。画像をクリック→毛越寺の明細(別窓)にリンク。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月13日
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吾妻鏡
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晴。(10月27日からの)将軍家(藤原頼経)の体調不良が回復しつつあり、沐浴の儀で穢を落とした。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月14日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に歳星(木星)が哭星(火星)の軌道を犯した。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月26日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応して祈祷を開始した。内法(神道・陰陽道に対しての仏教を差す)は北斗供を、外典(仏教以外の宗教)は天地災変・属星・月曜などの祭祀である。
また今月から毎月の泰山府君祭(11月3日を参照)を催すことになる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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11月27日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に太白(金星)が鎮星(土星)の軌道を犯した。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月4日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に月が火星の軌道を犯した。また近世が木星の軌道を犯した(二寸を隔てる)。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月8日
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吾妻鏡
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晴。竹御所邸が完成し、改めて地鎮祭などを行った。また調度(家具・備品)などを置き、鋪設を儲けた
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   ※鋪設を儲ける: 客を招いて祝う、の意味があるらしい(半ば推定)。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月10日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)から雨、夕刻から雪。 今日竹御所が転居。戌刻(20時前後)に新築の御所に輿で入御された。伊賀右馬助仲能・源左近大夫家平・窟平左衛門尉廣光・那珂左衛門尉が供に従った。入御の際に束帯の大膳亮安倍泰貞が廊下で反閇を行い、伊賀仲能を介して白綾の御衣を下賜された。また廣光が牛車を付ける軒下の際に黄牛(丈夫で美しい牛)を引いた。
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   ※反閇: 陰陽師が邪を祓うため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む呪法。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月13日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に政所の前から失火による火災が起きた。
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左近将監尾藤景綱・三郎左衛門尉平盛綱・右衛門志彈正清原季氏(後に評定衆に任じている。清原清定縁戚の可能性あり)・大和左衛門尉・近藤刑部丞らの家が焼失した。
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   ※政所: 執務地は右画像の地図(クリック→拡大表示)の マーク
の一帯にあったとされている。このマーク地点が現状更地の駐車場で、発掘調査をするか保育園を建てるかで一時期かなり紛糾していた。もちろん政所の規模も確認されていないし、大倉御所の敷地に含んでいたのか飛地だったのかも判っていないが、北條義時大江廣元らと同じ場所を歩いているという感慨に浸ることはできる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月21日
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。夜になって相模守北條時房と武蔵次郎(北條時実)らが新造の屋敷に転居の儀を行った。
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   ※北條時実: 泰時の二男で生母は安保実員の娘。将軍藤原頼経の側近として仕えたが翌・嘉禄二年6月に家人
の高橋次郎により殺害(満15歳)、高橋次郎は翌日に斬首となった。時実の他にも御家人三人が殺された事、高橋家は存続し、一族がそのまま北條重時の家臣として勤めている事などから情状酌量される要因があったと考えられている。
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3年後の寛喜二年(1230)6月には兄(泰時の長男)の北條時氏(生母は矢部禅尼)が満26歳で早世、後継の男子二人を失った泰時は孫の経時(時氏長男)を次期執権に育てることになる。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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12月29日
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吾妻鏡
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晴。夜半、伊豆国走湯権現(現在の伊豆山神社)の宝殿および廻廊と堂舎など数十棟が焼け落ちた。
火は翌日の午刻(正午前後)まで消えなかった、と。
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   ※伊豆山神社: 公式サイトを参考に、 伊豆山神社の風景および
伊豆山本宮神社伊豆山般若院も参照されたし。
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   ※宝殿: 神社の本殿(神殿)を差す場合と宝物殿を差す場合がある。
ここでは神殿が正しい、と思う。
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右画像は般若院前の「千人塚」。加藤景廉の兄で 頼朝に仏典を教えた僧・覚淵の墓もこの中にある、と伝わるが真偽は不明。画像をクリック→拡大表示。
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1226年
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86代 後堀河
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嘉禄二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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