嘉禄三年・安貞元年(1227)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時による椀飯あり。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立で、その食事を摂る儀式・行事も意味する。大判振る舞い、の語源。

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   ※年令: 北條時房は52歳、 北條泰時は43歳、 北條朝時は34歳、 北條時氏は24歳、 北條政村は22歳、
三浦義村は61歳ほどか、 三浦泰村は43歳、 足利義氏は38歳、 小山朝政は77歳、
結城朝光は59歳、 四代将軍藤原頼経)は9歳11ヶ月、後堀河天皇は13歳8ヶ月(全て満年令) 。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時房による椀飯あり。戌刻(20時前後)に田楽辻子の東西一町ほどが焼失した。
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   ※田楽辻子: 大御堂橋から滑川の南岸を報国寺まで抜ける小道で、
距離は約800m。車の少ない平坦な小道が続いているから、自転車や徒歩で十二所方面を往復する際は六浦道(金沢街道)と往復を使い分ける方が面白い。
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田楽師が住んだのが語源とされるが、厳密なエリアは確定できない。竹寺(報国寺・公式サイト)がある宅間ヶ谷は頼朝に招かれ寿永三年(1184)1月22日に鎌倉に入った絵師・ 藤原(宅間)為久の定住地で、技能演芸集団が定住した「芸術家村」だった可能性もある。
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為久は一旦京都に戻り、翌年8月23日には勝長寿院の仏画を描くため再び下向している。落慶供養が近づいた10月11日には壁画の修正を命じられているから、腕前は「いまいち」だったのかも。
  (右画像をクリック→拡大表示)
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。駿河前司三浦義村による椀飯あり。御剣の献上は駿河守北條重時
戌刻(20時前後)に太白(金星)が螢惑星(火星)の軌道を犯した(距離は約2尺)。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。去年12月29日亥刻(22時前後)に走湯権現(伊豆山神社)の拝殿・釜殿・常行堂および廻廊・惣門・金剛力士像などが焼失、詳細を左衛門尉平盛綱が報告した。
大事件なので鎮火するのを待たず、正月1日には神社の所司(管理官)が鎌倉に駆けつけて知らせたのだが、三ヶ日の間は(新年を憚って)盛綱が報告を保留していたものである。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。天変(星の動きの異変)がある旨を司天(天文担当)が報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月8日
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吾妻鏡
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晴。幕府で心経会(般若心経を読む法要)があり鶴岡八幡宮の供僧がこれを行った。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月9日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に将軍家(藤原頼経)が輿による御行始め(外出始め)に武蔵守北條泰時邸に入御された。
供奉人は徒歩、剣持ちは駿河守北條重時。泰時邸では御剣・御馬などの引き出物を用意するなど、特に念入りな接待を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月11日
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吾妻鏡
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晴・戌刻(20時前後)に太白(金星が)螢惑星の軌道の範囲を犯した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月14日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月15日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)と子刻(深夜0時前後)の二度、地震があった。
今日から二所詣の精進潔斎が始まり、奉幣使(将軍の代理)の駿河守北條重時が精進の建物に入った。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月23日
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名月記
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1月23日・晴。今日、遠江守北條時政朝臣の後家(牧の尼)が婿の藤原国通卿邸で十三回忌法要を催した。
宰相(権大納言藤原為家、藤原定家の次男で嫡子)の女房(宇都宮入道頼綱の娘)とその母親などが参列、関東(願成就院か)でも同様の供養があったらしい。
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1月27日・晴。関東の禅尼(牧の方)が今暁に子孫女房を引き連れて天王寺および七大寺長谷に参詣した。
東大寺(公式サイト)で万燈会を催すらしい。
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   ※藤原国通: 時政と牧の方の間に生まれた娘は平賀朝雅に嫁したが
朝雅は元久二年(1205)閏7月の時政夫婦失脚に連座し、京都守護の任地で追討を受けた。
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朝雅の妻は権中納言の藤原国通に再嫁し、牧の方は(多分それなりの資産を所有していたのだろう)娘夫婦と京都で余生を過ごしている。藤原定家は日記名月記(wiki)で彼女の驕奢な振る舞いを悪しざまに罵っている。
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一方で定家の嫡子藤原為家は正妻(宇都宮朝綱の娘)が産んだ為氏を嫡男としたが、晩年に至って歌人の安嘉門院四条(後の阿仏尼)を愛し、結果として彼女が産んだ為相と先妻の子二条為氏の間で壮絶な遺領相続争いが勃発する。
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その係争での正当性を訴えるため、60歳に近い老齢を押して鎌倉に下向した阿仏尼の紀行文が「十六夜日記」。鎌倉の扇ヶ谷に伝・彼女の墓石がある。右画像をクリック→本文へ(別窓)
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   ※七大寺長谷: 南都七大寺(東大寺興福寺元興寺西大寺薬師寺・ 大安寺薬師寺法隆寺、加えて
長谷寺への巡礼。定家は豪奢を楽しむ牧の方母子の行動を嫉妬混じりに書いている。嫡子為家は父を越え正二位・権大納言まで昇るのだが、嫁とその母親の贅沢は不愉快だったらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月28日
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吾妻鏡
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晴。去る16日から螢惑(火星)が光を増し、更に輝く気配がある旨を天文担当が報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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1月28日
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名月記
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1月28日・晴。噂では尊長法印が吉野の奥の戸津河八郷庄に隠れているらしい。(一味の)黒太郎は既に五郷を掌握し、熊野を攻めて武器を奪い阿波に渡る計画を立てている。しかし黒太郎の弟が神威を恐れて加わらなかったため兇徒に殺されそうになり、逃げ出して計画を熊野に知らせた。熊野では警戒を厳しくして備えたという。
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   ※尊長: 一条能保の四男で高能信能実雅の異母兄弟。知恵と武芸を認められて後鳥羽上皇の側近となって
承久の乱(1221)に参画、芋洗で戦った後に逐電し行方不明になっていた。半年後の6月7日に京都で捕縛されそうになって自殺を図り、翌8日に死んだ、と吾妻鏡には記録されている。後述するが、その際の名月記の記録(4月11日)が面白い。
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   ※八郷庄: 現在の五條市大塔町(地図)付近らしい。熊野本宮まで約80km、荒唐無稽な話でもなさそうだ。
大塔町は鎌倉の土牢で殺された大塔宮護良親王が一時期住んだ場所。奈良から和歌山に旅した際に立ち寄った道の駅吉野路大塔の近くに騎馬の銅像があったっけ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月4日
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吾妻鏡
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晴。京都の使者が到着、先16日に将軍家(藤原頼経)が近江権守を兼任となった旨を報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月5日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後に)雷鳴あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月8日
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吾妻鏡
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晴。今年の後半は三合に相当する上に先日来の天変地異が重なっている。天文道(天文担当)の面々は年初からの報告を避けていたが遂に勘文(諮問に対する報告書)を提出する事態になり、 後藤左衛門尉基綱を経て進士判官代橘隆邦が将軍の御前でこれを読み上げた。
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子一点(23時過ぎ)に幕府の東西に連なる人家および武蔵守北條泰時の倉庫一棟が焼失した。
御所の人々と時房邸・泰時邸・竹御所邸などの人々はこの火災に驚かされたが、特に延焼などは起きなかった。
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   ※三合: 太歳・太陰・客気の三神が合する陰陽道の厄年で災害が多発する。それとは別に、金星・木星・火星が
重なり合う凶兆も意味する。どちらにしろ悪い事が続く巡り合わせらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月13日
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吾妻鏡
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晴。阿波院の御所造営について、寝殿建造は阿波国守護の小笠原弥太郎長経(小笠原長清の嫡子)が負担し、その他の建物は諸御家人に割り当てを行った。負荷された出費については豊後前司の受領書を保存するよう命じられた。農民に負担させれば納税に支障が起きる危惧があり、地頭の取り分の範囲で処理するようとの配慮である。
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   ※阿波院の御所: 土佐に流された土御門院を都に近い阿波に遷すための御所を差す。土御門上皇は倒幕計画
に関与せず、幕府は処罰しない方針を執ったが、父の後鳥羽上皇と弟の順徳の流罪に準じて自ら土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を与えた。御所の位置には諸説あるが阿波市土成町宮川内上畑の御所神社(地図)が一般的。かなりの山奥で...
阿波市観光協会による紹介サイトはこちら、御製の和歌にも次のような描写がある。
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     「山ふかく 住みけるほども 知られけり 月夜の猿の 窓ちかき声」
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詳細は承久三年(1221)7月8日前後の吾妻鏡を参照。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月14日
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吾妻鏡
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将軍(藤原頼経)が唐突に駿河前司三浦義村の休所に渡御し直ぐに還御、義村は後ほど御馬と御剣を献じた。
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   ※休所: この意味は不確定らしい。三浦邸は御所まで1km弱(大倉御所は徒歩5分)だから出仕の準備をする
別邸の必要はない筈だし...。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月15日
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吾妻鏡
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晴。幕府の南庭で十二番の相撲の試合を催し、見物人多数が集まった。今日、武蔵守北條泰時の持仏堂で涅槃会が催された。供物は52種類、信濃法眼道禅が涅槃講式を・大蔵卿法印良信が舎利講式を・大進僧都寛基が遺跡講式を読んだ。
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   涅槃講式・舎利講式・遺跡講式はそれぞれ仏陀の教えと行動を伝える説話だが安易な解説には馴染まない。
興味があれば検索して深く触れることをお薦めしたい。少なくとも「聖教新聞」を読むよりは有益だ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月19日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時の御願として、右京兆(北條義時)を供養してた薬師堂と大倉御堂を動かし、その跡に二位家(政子)の三周忌供養の新御堂を建立する事についての考えを評定衆に諮問した。
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まず 先ず隠岐入道行西(二階堂行村)と玄番允太田康連が発言し、「二つの堂は元より追善のためで、動かしたり建てたりするのは二重の行いになる。まして供養した仏像を動かすのは当初を軽んじて後を重視すること、明らかに憚られる。」と。駿河前司三浦義村と他の三人も同意見で、助教の中原師員は体調不良で出仕していない。
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また陰陽権助安倍親職朝臣と晴幸・文元らに意見を求めたところ親職と文元は特に問題はないだろう、泰貞・晴幸・宣賢は憚るべき、との考えを述べた。
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   ※大倉御堂: 元々は健保六年(1218)7月9日に義時の意向で建立した薬師堂(現在の覚園寺・参考サイト)。
同年12月2日と、翌年の実朝死没後の2月8日に関連記事がある。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月20日
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吾妻鏡
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曇。夜半に突然騒動が起きたが特に問題はなく間もなく鎮まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月21日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に亀ヶ谷の一帯で火災があった。
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   ※亀ヶ谷: 地名の初出は治承四年(1180)10月7日の吾妻鏡。
頼朝はまず鶴岡八幡宮(由比若宮・現在の元八幡)を遥拝した。次に故義朝の亀ヶ谷旧宅跡を訪れ館を建てる指示を下したが土地が狭く、更に岡崎義實が義朝の菩提を弔って建てた堂があったので中止した。」とある。
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この由比若宮の旧地名が「鶴岡」で、頼朝は由比若宮を小林郷に勧請してその名前のまま「鶴岡八幡宮」とした。つまり「頼朝が鶴岡八幡宮を遥拝」とは後世の吾妻鏡編纂者の見方であり、由比若宮を勧請した時点で初めて「鶴岡」の地名になった、という事。
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「鶴岡」に対語として呼んだのが西側の「亀谷」、両方とも1180年10月以前は存在しなかった地名で、もしかすると扇ヶ谷の方が旧名だった可能性もある。
扇を広げた様に谷が開けているからね。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月25日
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吾妻鏡
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晴。伊勢神宮式年遷宮の労務と費用について三条の規定を定めた。式年遷宮は朝廷での重要な行事であり、庄公(荘園と公領)が等しく尽力せねばならない旨が命じられた
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   ※命令の主語: 10歳の藤原頼経の言葉じゃなく執権の北條泰時なんだろうね。主語は書いて欲しいけど。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月27日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時邸に於いて大倉御堂(2月19日を参照)を移動する可否を助教の中原師員・法橋圓全・吉田右衛門志時方・弾正忠季氏・右衛門尉時定らに諮問した。師員・季氏・時定は同じように「避けるべきである」と答え、圓全・時方は「問題はない」と答えた。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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2月29日
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吾妻鏡
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晴。六波羅からの飛脚が到着。去る15日に熊野山で平井法眼らによる合戦があった。これが原因となって衆徒が蜂起し、21日に神体(神輿)を掲げて洛中に入ると宣言した。朝廷の重大事件になる事を危惧しての報告である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に太白(金星)が昴星(すばる)を凌犯した。
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今日、大倉御堂の移動について再び評議があり、移動の中止が決定した。
また熊野山での衆徒蜂起についても評議し、神輿が入洛を目指すようであれば京畿の御家人を動員して途中で阻止せよと六波羅に命じた。白河法皇の永保二年(1082)10月25日に熊野の衆徒が三ヶ所(熊野本宮・那智大社・新宮神社)の神輿を担いで入洛し直ぐに即ち帰還した記録がある。
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   ※凌犯: 陰陽道では「吉凶の逆転」を意味するらしいが、ここでの意味は「軌道を犯した」で良いのか?
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月7日
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吾妻鏡
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曇。戌刻(20時前後)に大地震。所々の門扉や築地塀が倒れ地割れが起きた。
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古老の話では、去る建暦三年(1213年5月)の和田左衛門尉義盛叛逆の頃にも今回のような大地震があり中の下馬橋で地割れが起きたが、近年では同様の事例はない、と。
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   ※古老の話: 14年前なら古老でなくても覚えてる。泰時は29歳、弟の朝時
でさえ20歳になっているから記憶にある筈だ。
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ちなみに建暦大地震の記録は乱が収束した5月21日、「地鳴りと共に家屋が崩壊し山崩れや地割れが発生した」とある。
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   ※下馬橋: 若宮大路(つまり段葛)を騎馬のまま横切るのは禁止。下馬して
横切るのが許されたのは三ヶ所のみだった。
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上の橋は八幡宮社頭の赤橋(現在の太鼓橋)、中の橋は二の鳥居前の扇川(源流は海蔵寺・既に暗渠)橋、下の橋は下馬交差点の佐助川(源流は佐助稲荷付近・既に暗渠)。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月8日
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吾妻鏡
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晴。陰陽師らが地震についての勘文(諮問を受けての上申書)を提出した。ただし晴幸と宣賢の所存は他の者と異なるため相模守北條時房邸で論争することになった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月9日
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吾妻鏡
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晴。隠岐院(後鳥羽上皇)の三宮(三番目の皇子)を詐称して悪事を企む者と仲間数人を前浜(由比ヶ浜)辺の民家で波多野中務次郎経朝が捕らえ連行した。左衛門尉金窪行親と三郎左衛門尉平盛綱が命令を受け尋問した結果、伊豆前司の郎従で現在は百姓と自白した。
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   ※伊豆前司: 鎌倉御家人の森頼定(義家−六男義隆(陸奥)−頼隆(毛利)−二男頼定(森)と続く)か、それ以前
だと頼政−嫡子仲綱−頼政の二男広綱が国司を継承している。要するに誰だか判らない。
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   ※波多野経朝: 義通−三男忠通−嫡男経朝へと続く。経朝の名が吾妻鏡に現れる例は多くないが、寛元五年
(宝治元年・1247年)11月16日に三浦盛時(盛連の嫡子で佐原義連の孫に当たる)が上申書を提出している。これにより経朝が承久の乱に出征し恩賞として越前国吉田郡志比荘を得た。更に出雲国司に任じて山陰に勢力を扶植し、共に戦った義重がそれを継承したと判る(3月19二日の条を参照)。 その内容が面白くて馬鹿らしいので、20年後の話ではあるが掲載しておく。
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   ※宝治元年(1247)11月16日
三浦盛時が書状を提出した。「昨日(放生会)の随兵の名簿には盛時の名が出雲前司の下段に書いてあった。我が家は特に遺恨を受ける理由もないのに片目の者の下に書かれたのは面目が立たない。従って供養での供従は止めて貰いたい。」と。
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これを聞いた波多野義重は激怒し、「累代の家格については三浦に劣るものではない。ましてや片目なのは承久の兵乱で抜群の功績を挙げた際に負った名誉の傷である。今更盛時ごときに言われる筋合いではない。」と応じた。
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陸奥掃部助(北條実時)の奉行として相模守北條重時および左親衛(執権北條時頼)らが評議して両方を宥めることとなったが、五位であるのを勘案して義重を上に記する順序は訂正しない。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月13日
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吾妻鏡
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晴。弾上忠季氏(右衛門志彈正清原季氏(後に評定衆に任じている。清原清定の縁戚の可能性あり)を奉行として地震に対応した祈祷を八幡宮供僧および陰陽師らに指示した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月15日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月19日
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吾妻鏡
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雨。去る9日の謀反人事件について評議した。「そもそも謀反を企てたなど信用できる話ではなく、物狂いの連中が考えた事だろうから関東から追放すれば済むだろう。」との意見もあり、「民間の事件に武士の刑法は適用し難いから今後にも配慮して斬罪に処すべき」との意見もあった。
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結局は「罪名は二位家(政子)の三回忌が済んでから検討する」と決まった。 続いて波多野次郎経朝の功績が検討され、美作国(岡山県東北部)に一村を与える結論になった。これは無視できない忠節への勲功である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月22日
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名月記
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3月28日 晴。冷泉(権大納言藤原為家藤原定家の次男で嫡子)の妻(宇都宮入道頼綱の娘)の外祖母(北條時政朝臣の後家・牧の尼)が来訪、冷泉からの連絡に拠るらしい。私はこのような例を知らず、ただ呆然とするのみ。
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   ※意味不明: 1月23日の記事を参照。もう少し勉強すれば愚か者の私でも理解できるかも知れぬ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月24日
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吾妻鏡
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晴。三合並びに地震に対応する祈祷が始まった。五座(五人)による北斗の護摩行は大進僧都寛基、八字文殊法は越後阿闍梨、一字金輪法は信濃法眼、七曜供は助法眼珍誉、北斗供は師法橋珍瑜である。三萬六千神祭は下野前司入道小山朝政の沙汰、奉幣使は駿河蔵人、安倍晴幸の担当。地震祭は駿河入道(中原季時)の沙汰、奉幣使は星崎判官代、安倍晴賢の担当。天地災変祭は駿河前司三浦義村の沙汰、奉幣使は大江兵衛尉(能行?)、阿部宣賢の担当である。
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   ※三合: 太歳・太陰・客気の三神が合する陰陽道の厄年で災害が多発する。それとは別に、金星・木星・火星が
重なり合う凶兆も意味する。どちらにしろ悪い事が続く巡り合わせらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月27日
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吾妻鏡
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晴。大進僧都寛基が陸奥国葛岡郡小林郷の新熊野社領を拝領し、神社を隆盛させるように指示をを受けた。これは先般(24日)の祈祷に対する報奨である。
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今日、将軍藤原頼経が幕府で相撲を観覧した。その中に城太郎(安達義景)が連れて来た僧体の力士があり、相手は周防前司中原親實が連れて来た平太という男である。
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将軍は籐内左衛門尉定員に命じて陰陽師の散位安倍晴賢・雅楽助安倍晴貞・散位安倍重宗・散位安倍道継らを呼び、一の男と二の法師の勝負を午刻(正午前後)を期限に占わせた。晴賢は一の勝ち、晴貞は一の勝ち、重宗は引き分け、道継は二の勝ちと答えた。夜になって十七番の相撲で雌雄を決し、法師が平太に敗れる結果となった。
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   ※葛岡郡: 該当する郡はなく、津久毛橋北側の玉造郡の葛岡(地図)だと思うが確証はない。
葛岡は文治五年(1189)の奥州合戦で畠山重忠が恩賞として獲得しており、阿津賀志山合戦直後の8月20日にも記載がある。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは3月の次が閏3月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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3月・閏3月
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史 料
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  ※皇帝紀抄: 盗人が陰陽寮の倉に放火し収蔵している財物を盗み取った。
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  ※百錬抄: 近日に内蔵寮の倉庫(二條猪熊・地図)に盗人らが乱入し累代の御物を盗み出した。目録が明確で
ないため紛失物の数は不明。
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  ※名月記: 3月3日・曇。若侍の話では27日の夜に群盗が内蔵寮の宝蔵の一部を焼き累代の宝物を全て盗み
出した。礼服は七條河原の小社に捨ててあった。犯人は既に捕縛したとの事。
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  ※皇帝紀抄: 閏3月7日。盗人が陰陽寮の倉に放火し収蔵している財物を盗み取った。
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  ※皇帝紀抄: 閏3月15日。内蔵寮の盗人が捕縛され紛失物は全て見つけ出した。その中には応神天皇の御剣
が光を放っていた。(装具の)金物を剥ぎ取ってから剣を折ろうとした際に盗人(法師)の額に当たり傷付けたとのこと。
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  ※被害場所: 陰陽寮と内蔵寮は同じ中務省に属する別組織、別の事件が重なったのだろうか。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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閏3月17日
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吾妻鏡
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快晴。諸国の守護と地頭による所領の管理については、貞應二年の御下知状に沿って処理すること、また市や津(港湾)の経費・労役について守護所の横暴な行為を禁止することなどの各条項を六波羅に送付した。
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   ※貞應二年の下知: 7月6日に以下の記載がある。
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一昨年の合戦(承久の乱)の恩賞として新たに補任した地頭の取り分について、水田十町について次の一町は国衙に納める税を免除し、また水田一反について五升の徴収を認める宣下が先月15日に下された。その書類の到着に伴い内容の通りに実行するよう決裁された。
橘隆邦(判官代)と清原清定がこれを差配する。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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閏3月20日
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吾妻鏡
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晴。腰越の海辺で潮が血のように赤い現象が起きている。
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   ※赤潮: 暖かな季節になると相模湾(私の見た範囲では熱海伊豆山〜小田原)で比較的多く発生している。
主な原因は海水の富栄養化に伴うプランクトンの異常増加だが、他にも誘因はあるらしい。
鎌倉時代には合成洗剤などによる富栄養化はなかっただろうから。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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閏3月29日
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吾妻鏡
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晴。故禅定二品(政子)の三回忌法要のため大倉大慈寺の寺域に仏堂の建立を協議して結論を得て今日、日程についての諮問に勘文(上申書)が提出された。
安倍親職と安倍晴幸を含む七人の陰陽師が連署し柱立てと上棟を4月2日を選定した。
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   ※大倉大慈寺: 完成供養を行った建保二年(1214)7月27日に詳細記事と現在の鳥瞰図を記載してある。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月2日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺境内に於いて行う二位家(政子)の三周忌法要に際し、武蔵守北條泰時の御願として丈六堂を建立し今日上棟式を催した。相模守北條時房と相模守泰時も臨席、御家人らも多く集まり工匠らも記録できないほど多くの褒美を受け取った。
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同日に民部大夫入道二階堂行盛が二品(政子)の追善供養に建立した仏堂も上棟式を行った。 酉刻(18時前後)に将軍家(藤原頼経)が体調不良となり、祈祷を催した。明日が重日に当たるためである。
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   ※丈六堂: 丈六の仏像を納める仏堂で、阿弥陀堂とされる場合が多いらしい。
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   ※丈六の仏像: 仏陀の身長が一丈六尺(約4.8m)とされている事から仏像(立像)の基準も一丈六尺で、その
5倍・10倍・半分のサイズで造像された。坐像の場合は半分の八尺(約2.4m)、大慈寺の場合は坐像と考えて良いだろう。
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   ※重日: 陽が重なる巳の日と陰が重なる亥の日。凶事には忌日、吉事でも婚姻には適さない。明日が亥の日。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月3日
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吾妻鏡
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晴、辛亥。将軍藤原頼経は微熱があるようだが、今日は特に異常は見られない。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月4日
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吾妻鏡
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晴。 将軍藤原頼経は十三番の相撲を観覧された。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月8日
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吾妻鏡
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晴。如法鬼気祭などの祈祷を行った。
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   ※鬼気祭: 元仁元年(1224)12月26日に「四角四境の鬼気祭」に関する記載あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月11日
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名月記
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朝から雨。申刻(16時前後)に心寂房が来訪して次のように語った。
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去る8日午刻(正午前後)に管十郎左衛門を訪ね、武士から法印(尊長)の死没を詳しく知らされた。
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以前から熊野や洛中や鎮西に逃げていた末にこの三年ほどは京都に隠れ、茂盛の子・兵衛入道と親しく交わっていた。この法師の従父兄弟が比叡山の伯耆房の知り合いで、兵衛入道は間もなく裏切って使者を送り武州(この場合は六波羅探題北方の武蔵太郎北條時氏)に尊長のことを通告した。
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喜んだ時氏は直ちに伯耆房と共に六波羅の兵を派遣し 〜中略〜 尊長は捕吏数人を傷付けた後に自殺を試みたが、息のあるうちに車に乗せ六波羅に連行した。
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時氏の前に引き出された尊長は「早く首を斬れ。さもなくば義時の妻(伊賀の方)が夫に飲ませた薬で早く殺せ。」と語り、人々はこの言葉に驚愕した、と。 〜中略〜
8日辰刻(朝8時前後)、尊長は座したまま念仏を唱えて絶命した。
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   ※尊長: 一条能保の四男。長兄で嫡男だった一条高能は早世、二男の信能は承久の乱で後鳥羽上皇に与して
斬首、三男一条実雅北條時政の陰謀に連座する形で追討されている。尊長も信能と共に戦ったが、逃げ延びて行方不明になっていた。北條氏に遺恨を抱いても不思議ではない境遇、ではある。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月12日
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吾妻鏡
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晴。御所の畳に犬の糞があった。驚いた将軍藤原頼経の命令で安倍国継が担当し、百恠祭(恠=怪)を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月13日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に地震あり。今日、恠異と息災(怪異と健康)に対応する祈祷として七座(七人による)泰山府君祭を催した。親職・晴賢・泰貞・重宗・文元・道継・国継(いずれも安倍氏)がこれを担当した。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月16日
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吾妻鏡
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晴。最近は突然の死亡が増える傾向にあり、これを避けるために餅をすり潰したり粥を煮て食べる習慣が定着している。将軍家(藤原頼経)の体調不良に対応して御所でも同じことを始め、安倍泰貞の担当により南門での鬼気祭も行なった。豊後守嶋津忠久が費用を負担し、周防前司中原親實がこれを差配した。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月21日
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吾妻鏡
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晴。新御所の天井裏板を葺き替えて瓦葺きにする予定だが既に五月節に入るため保留するべきか、担当する隠岐入道二階堂行村後藤基綱の問い合わせに対応して陰陽師に諮問した。 天井の裏板は問題ない、屋根は瓦も裏板も5月を避けるべきであると陰陽師が答申し、保留となった。
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   ※五月節: 二十四節気の一つで、芒種(稲や麦などの(芒のある)穀物を植える)とされる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月22日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時が大倉御堂に渡御して陰陽師を呼び、新造堂の完成供養について尋ねた。
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「京都からは6月19日が望ましいと伝えてきたが、外構工事が間に合いそうもない。7月11日(政子の命日)より前の、望ましい日取りを選ぶ事になるが、5日はどうだろうか」と。
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安倍晴幸と文元は「午の日は将軍家の御衰日なので最も避けるべきです。」と、
安倍泰貞は「将軍家の御衰日に二位家(政子)の三回忌法要を避ける必要はありません。ただし11日(戊子)は
        無難ですから勧められます。」
と、
また安倍親職と宣賢は「戊子は吉日には当たらず、ましてや丈六仏像を開眼供養した例はありません。5日が宜しいでしよう。」と各々が答えた。申し出に差異があるため駿河前司三浦義村らが評議した。
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「将軍家の御衰日を避ける根拠はなく、吉日である5日に決定する。清和天皇の貞観三年(861)3月14日戊子には東大寺大仏の開眼供養を行っている。」との決定があった。
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   ※大倉御堂: 建保六年(1218)12月2日に北條義時が建てた大倉薬師堂。個人的には 実朝暗殺事件と微妙
にリンクしている、と思う。私は実朝暗殺=義時計画説だからね。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月22日
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百錬抄
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未刻(14時前後)に土御門町(現在の京都御所西側)付近から出火し強い東風に煽られて大内裏まで延焼、承久の兵乱(1221年)の後に再建した殿舎も全て灰燼に帰した。外記庁(太政官に属して朝廷の儀式・公事の奉行を行う役所)は何とか焼失を免れたが、平安遷都以来火災を免れてきた南側は燃えてしまった。鎮火後には内裏を移転するか否かの論議まで起きた。
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   ※大内裏: 現在の京都御所の西側の烏丸通りから約1.5km西(下立売通土屋町付近・地図)一帯にあった。
(5月1日に京都からの飛脚が同様の報告を届けている。)
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月23日
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吾妻鏡
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晴。西国の悪党が徒党を組んで動く事例があり、守護人に命じて退治させるよう命令が下った。
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   ※悪党: 謀反人や強盗・盗人のみならず荘園領主や荘官に従わない者、荘園への侵略者や紛争の相手、荘園
領主にとっては所領を審判する一部の地頭までも「悪党」の範囲に含まれていた。幕府がそれらを含めて強盗・盗人と同一視し組織として鎮圧に着手したのは正嘉年間(1257〜1258年)からになる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月24日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)体調を崩して時折発作。今日も戌刻(20時前後)に同様の症状があり、 武蔵守北條泰時ら多数の御家人が群参した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月25日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良に対応して祈祷を始めるよう命令が下った。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月26日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月27日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時の御沙汰として将軍家の体調不良に対応し三万六千神(天変地異を除き天下泰平を願う陰陽道の祈祷)などの祭祀を行なった。今日から多少の回復気配が見える。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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4月29日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の御不例に対応して祈祷が始まった。周防前司中原親實の奉行による。
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   仏眼護摩は荘厳房律師行勇    尊星王護摩は信濃僧都
   薬師護摩は大進僧都    北斗護摩は若宮別当僧都
   金剛童子護摩は丹波律師    正観音法は山口法眼
   千手法は宰相律師    不空羂索法は常陸律師
   延命供は越中阿闍梨    大威徳法は蓮月房律師    以上は内典(仏教)に拠る。
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   三萬六千神祭は前大膳亮泰貞    属星は陰陽大允親職
   天地災変祭は陸奥権守国継    泰山府君祭は左京亮重宗
   呪咀祭は陰陽少允晴幸    霊気は散位晴賢
   疫神祭は散位道継    竈神(図書助晴職
   土公祭は散位宣賢    以上は外典(仏教以外)に拠る。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護など
を転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月1日
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着して報告。
先月22日の未刻(14時前後)に土御門室町から出火して南勘解由小路まで延焼、強い東風に煽られて炎が大内裏まで広がり、承久元年(1219)以後に新築した殿舎・門宇が悉く灰燼に帰した、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月2日
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吾妻鏡
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伊勢神宮の式年遷宮費用に宛てる賦役や租税については諸国の飢饉も影響して期限通りの納付は困難である趣旨の奏聞を既に行なった。
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朝廷の判断を待つ間にも材木を切り出す費用が闕如(欠如)していると担当官が嘆いているため武蔵守北條泰時は所領である駿河国と伊豆国の負担分は取り敢えず出挙(種籾の貸し付け分)を回収して充当させる指示を与えた。利子には地元の産品を充当するように、と。
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     右画像はちょっと古いけど、平成25年の式年遷宮敷地風景。
     画像をクリック → 「伊勢神宮巡拝記」(別窓)へ。

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   ※出挙: 種まきの時期に種子を貸与し収穫時期に利息を加えて回収
する慣行で、中世まで全世界で見られた。平安・鎌倉時代の日本では稲・粟の場合は一年満期、公の出挙は年利50%・私の出挙は100%が上限とされ、複利計算は禁止。貸借関係であると共に公の場合は税の一種とも考えられていた。
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   ※出挙を回収: 貸し付けた種籾(またはその費用)を回収したら田植えに支障が起きる筈なのだが...通常なら
国司による課税が免除される荘園に対しても、式年遷宮の費用の場合は例外なく課税できる。
その辺が関係した措置だった可能性もある。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月8日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)病後の御沐浴の儀(災厄を落とす儀式)があり、武蔵守北條泰時が参列した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月10日
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吾妻鏡
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晴。大内裏の火災焼失に対応して幕府から使者が上洛の途に就いた。将軍家(藤原頼経)の使者は伊東左衛門尉祐時(祐朝の長子、武蔵守北條泰時の使者は左近将監尾藤景綱である。
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   ※伊東祐朝: 工藤祐経−嫡子祐時−嫡子祐朝と続く。祐経を殺した曾我兄弟頼朝が許そうとした際に泣いて
身柄引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸(建久四年(1193)5月29日を参照)が成長して祐時を名乗り、伊東の家督を継承した。
祐経の最初の妻(伊東祐親の娘)は離縁させられて土肥遠平に再嫁、生まれた娘が祐時に嫁して祐朝を産み(先妻の子の可能性あり)、祐朝が早川氏・長門伊東氏・安芸伊東氏の祖となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月11日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月14日
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吾妻鏡
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晴。高麗国の牒状(国書・公文書)が到来し、今日御所で披露となった。その内容は以下の通り。
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高麗国全羅州道の按察使が日本国惣官太宰府に国書を送る。
対馬の島民からは古来から貢物を受け取り友好的な交流を行ってきた。また我が国も(交易の)便宜を図るため宿舎を設けて相互の利益に資し、沿岸地域の有効には何の問題もなく、金海府(現在の金海市・ 地図)には対馬島民らの宿舎も置かれていたが、丙戌(嘉禄2年・1226年)の6月には夜陰に乗じて城竇(城の抜け穴)から侵入し、倉庫から金品を盗み取る事件が起きた。
最近は同様の事件が頻発し、更に無辜の百姓への侵略行為も度々起きている。現在では国家もこれを重視し係官ら20人を派遣した。現在は互いに船の往来も途切れているのを良いことに悪事を重ねている。この事情を早急に周知させ、停止させるよう望む。    副使兼監倉使転輪堤黙刑獄兵馬公事龍虎軍郎将兼三司判官趙判
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   ※高麗国: 936年に朝鮮半島を統一した国家。1392年までの約450年続いたが1230年代初頭からモンゴル
の侵入が始まった。1259年には降伏して高麗王はモンゴルの貴族となり属国化された。
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残存勢力はその後も抵抗を続けて鎌倉幕府にモンゴル撃退への支援と協力を求めたが1273年に鎮圧された。直後にクビライは日本に国書を送り、交渉を拒絶した鎌倉幕府は文永十一年(1274)に最初の元寇を迎える事になる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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5月23日
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吾妻鏡
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晴。 播磨国の鵤庄内久岡名の地頭青木兵衛五郎重元が管理権を停止された。
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当所の名主だった内藤右馬允成国は去る承久三年(1221)の戦乱の際に官軍に加わったため解任し重元を地頭に補任したのだが本所(最上位の所有権者)の法隆寺からの改善要求でこの結果となった。この荘園は聖徳太子の寄進による建立で他と異なる由緒があり、右大将軍(頼朝)の時代には御帰依を得て興隆した経緯がある。
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去る14日の辰刻(朝8時前後)に修理亮北條時氏の北の方が六波羅で男子を平産したとの連絡があった。
また名高い医師・和気清成の介助によっての平産だったと添えてあった。
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   ※鵤(いかるが)庄: 兵庫県太子町(地図)一帯にあった法隆寺領の
荘園。聖徳太子が岡本宮(現在の明日香村)で推古天皇に法華経を講義した際、法隆寺建立の費用として与えられた、と伝わる。気が向いたら
気が向いたら奈良 明日香村遺跡群も覗いてね。
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   ※北の方: 時氏の正室は安達景盛の娘で後の松下禅尼。この時に
生まれたのは後に五代執権に就任する二男の北條時頼、長男は22歳で早世した四代執権北條経時。時頼は鎌倉ではなく京都で生まれたんだ!
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時氏は執権に就かないまま寛喜二年(1230)に26歳で病死した。その後の松下禅尼は実家の甘縄邸で経時と時頼を養育している。
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右画像は甘縄神社(安達邸跡)の参道。画像をクリック→甘縄神社と盛長の墓所(別窓)へ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月1日
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吾妻鏡
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晴。日蝕が鮮明に確認できた。(四割ほどの蝕)。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月7日
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百錬抄
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土御門油小路で尊長法印を急襲、捕吏に囲まれ自害を企てた。承久の戦乱以後の7年間を隠れ続けていた。
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   ※尊長法印: 4月11日の名月記は「4月8日に聞いた事件」として書いている。百錬抄の錯誤か。土御門油小路
はこの付近(地図)、当時の京都中心部だ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月8日
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吾妻鏡
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雨。大倉大慈寺の梵鐘鋳造の沙汰が下った。左衛門尉後藤基綱と右衛門尉清原季氏がこの業務を差配する。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)〜仁治四年(1243)まで評定衆を勤めている。
暦仁二年(1239)〜宝治三年(1249)は同じ清原姓の満定(清原清定の息子)が同じ評定衆に任じているのだが、二人の関係が判らない。評定衆が設けられた(1225)から任じている斎藤(清原)長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月12日
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吾妻鏡
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雨。一旬(10日)以上も降り続いている。各地で洪水が勃発し流域の田畑が水没して失われた。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月14日
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吾妻鏡
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晴。六波羅からの飛脚が鎌倉に到着して次の通り報告。
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去る7日の辰刻(朝8時前後)、鷹司油小路の大炊助入道の後見人肥後房宅で管十郎左衛門尉周則が二位法印尊長を捕らえようとしたところ忽ち自殺を図り、その前に襲いかかった武士二人が負傷、尊長は翌8日に六波羅で死没した。尊長は去る承久三年(1221)の戦乱(承久の乱)での首謀者の一人で、以前から肥後房宅に隠れ住んでいた。また、前回に取り逃がした和田新兵衛尉朝盛法師も同様に捕縛した。
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   ※大炊助入道: 大友(古庄)能直の嫡子・親秀(大炊助)。豊後国を本拠にしている。
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   ※和田朝盛: 常盛の嫡子で義盛の孫。豊後国を本拠にしている。朝盛は和田合戦(1213年)を生き延び更に
承久の乱(1221年)でも院方に与して敗れ、再び逃亡していた。吾妻鏡には処刑の記録がなく、父義盛の本領だった初声には帰農して仏堂を建て高円坊を称したとの伝承があるが、二度の敵対行為での赦免は有り得ないだろう。朝盛塚と呼ばれた墓は日枝神社西側の畑の中(地図)にあるが、数回の移転を経ているため旧い姿は残っていない。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月15日
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吾妻鏡
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晴。(大内裏火災見舞いのため5月10日に派遣した)伊藤(伊東)左衛門尉と尾藤左近将監が京都から帰参した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月16日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に白い虹(兵乱の兆しと言われる)が見えた、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月17日
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吾妻鏡
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晴。御所の乾(西北)角に納殿を設けると決まったが、担当する周防前司中原親実から「明日からの西方向は王相方(禁忌の方角)だから方違えが必要でしょう。」と申し出た。
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「西方に当たらないだろう」と仰せがあり、陰陽師に諮問したところ、計測した上で「寝所から西へ二十二丈八尺五寸(約69m)・北へ十六丈八尺(約51m)、戌の方角(概ね西北西)に一丈五尺六寸(約4.7m)に該当する。西の鰭板(板塀)から六丈(約18m)離して建てれば方違えがなくても憚りなし。」との回答を得た。
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   ※納殿: 納所、後世の納戸。貴重品や調度などを保管する屋内または棟続きの倉庫。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月18日
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吾妻鏡
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雨。卯刻(朝6時前後)に武蔵次郎時實(武蔵守北條泰時の二男(当腹、16歳)が家臣の高橋次郎(京高橋の住人)により殺害、同僚の三人も共に殺された。豪雨の中で起きた事件だという。
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丈六堂落慶供養を明日に控えて集まっていた御家人らが駆けつけ、伊東左衛門尉祐時の郎従が下手人の高橋を捕らえて連行、腰越の近くで即日の斬刑に処された。
夜になって左近将監尾藤景綱が出家した。武蔵次郎時実の乳母夫だった経緯に拠る。
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辰刻(朝8時前後)、豊後守従五位下の嶋津(惟宗)忠久朝臣が死没、日頃脚気に加え赤痢を病んでいた。
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   ※当腹: 時實の生母は継室の安保実員(武蔵丹党の御家人)娘。泰時の正室矢部禅尼は建歴元年(1211)の
前後に離縁(理由は不明)し、後に佐原盛連(義連の長子)に再嫁して三人の男子(光盛・盛時・時連)を産んだ。三浦氏が滅亡した宝治合戦(1247年)では息子らは父母の同族である三浦泰村勢には加わらず北條氏側として戦い、戦後に盛時が三浦本家を継いでいる。
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   ※殺害事件: 動機は不明。高橋一族への処分はなく、その後も北條重時の家臣として家系が続いているので、
時實の側に何らかの瑕疵があった可能性も考えられる。この事件の三年後には長男の北條時氏も病死し、四代執権は時氏の長子経時(泰時死没の時には18歳)が継ぐことになる。
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   ※嶋津忠久: 父は京都の官人惟宗広言あるいは惟宗忠康なのだが、
生母が頼朝の乳母(の一人)比企尼の娘で宮廷の下働きをしていた丹後内侍だった事から話が複雑になる。
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「乳母姉弟」の関係だった頼朝と丹後内侍は「仲睦まじく京都で過ごし頼朝の子種を宿した」、比企尼は娘と共に頼朝の伊豆流罪を追って亡夫の所領武蔵国比企郡に移り、丹後内侍は安達籘九郎盛長と婚姻。
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京都で育った頼朝の落胤は惟宗氏の子として養育された、それが「頼朝の子孫である」と主張する島津氏の主張に発展する。平治の乱(1159年12月)の頼朝は13歳8ヶ月だから決して不可能ではないのだが、「島津歴代略記」に拠れば忠久の誕生は治承三年(1179)12月・つまり頼朝が伊豆韮山で挙兵する8ヶ月前。すると頼朝は腹心の部下である籘九郎盛長の妻に手を出して(あ、手じゃないか)子供を産ませ京都で育てた事になる。
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文治二年(1186)6月10日の吾妻鏡には「頼朝がお忍びで甘縄邸を訪れ丹後内侍の病気を見舞った」との記載がある。
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  右画像は比企尼が頼朝支援の拠点を置いた函南・高源寺に残る比企尼供養の宝篋印塔。
      画像をクリック → 高源寺の詳細(別窓)へ。

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私が島津を嫌う理由には、琉球(現在の沖縄)に過酷な圧政を敷いた事や、明治維新に母方の郷里である福島を迫害した事だけではなく、平然と系譜を詐称する卑劣さや川内原発再稼働を容認した愚かさに対する抗議も含まれているのだ(笑)。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月19日
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吾妻鏡
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曇。評議あり。丈六堂の落慶供養は武蔵次郎時實の事件によって延期と決まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月24日
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百錬抄
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比叡山の管理者と衆徒が大谷の辺(知恩院勢至堂、法然の廟所)に群集し法然上人 の墓所を破壊した。
これは専修念仏に関して比叡山から訴えがあり、宗派の隆盛を憎んでの行為である。ただし遺骨は事前に門弟が掘り出して避難させていた。
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   法然上人(wiki)は比叡山延暦寺で天台宗を修めた後に知恩院近くに移って浄土宗(それぞれ公式サイト)を
開いている。まぁ比叡山の歴史は覇権争いと暴力と破壊の歴史でもあるが、決して天台宗の本質ではない。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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6月30日
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吾妻鏡
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晴。御所の寝殿(私的スペース)南面で安倍晴賢が六月祓いを行った。石山侍従(飛鳥井教定)が報奨を渡す役を務め、周防前司親實が全体の差配に任じた。
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   ※飛鳥井教定: 難波頼経 → 二男飛鳥井雅経の二男で母は大江廣元の娘。歌人・蹴鞠の名手としても知られ、
三代の鎌倉将軍(頼経頼嗣宗尊親王)に仕えて蹴鞠と和歌を指導した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月4日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に六波羅探題の修理亮北條時氏が鎌倉に下着した。丈六堂供養に結縁のためではあるが、
次郎時實(時氏の異母弟)死没(6月18日)の知らせを聞き急いで出発した経緯である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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 月 日
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史 料
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   ※名月記: 7月6日、晴。比叡山から「要求を聞き入れなければ神輿を掲げて入洛する」旨の強要があり、今日
権大納言の源雅親卿がこれに対応した。張本人の隆寛(本山僧で律師)と空阿弥陀仏と成覺ら(いずれも念仏宗(浄土宗)の僧)を流罪に処す、と。
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   ※百錬抄: 5日。専修念仏者を配流に処す官符が発行された。隆寛律師(還俗名山遠里)を陸奥に、空阿弥陀仏
(改名原秋澤)を薩摩に、成覚(改名枝重)壱岐に配流、と。
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   宗教が平和と幸福を願っていれば問題ないが、創価学会のように権力に擦り寄ったら存在する意義を失う。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月10日
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吾妻鏡
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晴。夜に入り、新造の堂舎※: で鎮祭(地鎮祭)を行った。
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   ※新造の堂舎: 北條義時が建保六年(1218)12月2日に建造した大倉の薬師堂敷地に 北條泰時が建立して
いる丈六阿弥陀堂(本尊は8尺の阿弥陀如来坐像だった)を差す。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月11日
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吾妻鏡
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晴。二位家(政子)三回忌の法要と丈六(阿弥陀)堂の開眼供養法会が行われた。日程については再三検討した結果、命日の11日となった。導師は荘厳房律師退耕行勇で招いた僧は20人、舞楽の奉納は省き御布施は三十種を二十五包。竹の御所も聴聞のために渡御された。
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法要には相模守北條時房・武蔵守北條泰時北條時氏以下、結縁を求める数え切れぬ多くの貴賤が集まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月12日
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吾妻鏡
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晴。最近は伊勢国で悪党(4月23日を参照)の蜂起が頻発している。去る6月30日には本間左衛門尉元忠が同国の大石御厨(伊勢神宮領・松阪市大石町・地図)で悪党の首魁・丹生右馬允を見付けて襲撃したが仲間と共に逃げ去り、一人も討ち取れなかったと報告していた。この丹生右馬允は捕縛の命令を受けた本間が去る4月22日に丹生山で捕獲しようとした際に親類・郎従の多くを討ち取った相手である。
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   ※丹生山: 大石御厨から8km東、女人高野の丹生山神宮寺成就院(公式サイト)を差す。奈良時代から水銀を
産出して繁栄した事で知られる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月19日
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吾妻鏡
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激しい風雨、亥刻(22時前後)に晴れ間。西山から赤白の靄が半天まで立ち昇り、西は黒雲に隠れ東は明月に照らされて明るくなったり暗くなったりする状態が続き、やがて消えた。明け方になって再び激しい雨となった。
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   ※7月19日: 新暦の9月1日に該当する。台風だろうか。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月21日
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百錬抄
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関白の近衛家実(近衛基通の長子)が直廬(摂関の詰所)に於いて議定あり。去年起きた対馬国の悪党らが高麗国全羅州で財物を奪い住民を傷付けた件について対応を知らせる国書を送った。太宰小貳武藤資頼の上奏は重大であり、捕らえた悪徒90人を高麗国使の前で斬首した旨で、これは我が国の恥辱である、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月22日
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吾妻鏡
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晴。今日、納殿の柱を立てて工事を進めた。進士刑部丞行継の差配による。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月23日
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吾妻鏡
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晴。光物が飛翔した。流星と思われる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月25日
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吾妻鏡
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晴。民部大夫入道(二階堂行盛)が二位家(政子)の菩提を弔うため堂を建立し落慶供養を行った。導師は京都から招いた聖覚僧都で前夜鎌倉に着いた。説法は言葉には表せないほど素晴らしい内容で、竹の御所も結縁を求めて御臨席、相模守北條時房と武蔵守 北條泰時も参席した。
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夜になって将軍家藤原頼経の御方違えあり。西の侍間火爐(あんか、または置き炬燵風の暖房)に宿泊され、近習数人と連歌を催した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月26日
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吾妻鏡
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晴。納殿(6月17日の条を参照)の上棟式を行った。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月28日
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吾妻鏡
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晴。左衛門尉後藤基綱の奉行として陰陽師らを御所に集めて天変について質問した。泰貞と宣賢は白虹ではないと答え、親職と晴賢は白虹であると答えた。
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   ※天変: 6月16日の夜に現れた現象で、白虹は兵乱の兆しとされる。陰陽師はいずれも安倍氏。
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   ※名月記: 比叡山衆徒の怒りは更に激しく、悪言を続けている。流罪にする三人(専修念仏)は安全な場所へと
避難させた。朝廷の威光の衰退と人心の狂乱は実に嘆かわしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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7月29日
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吾妻鏡
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晴。(陰陽師の)親職と晴賢らが白虹についての勘文(諮問への回答)を左衛門尉後藤基綱に提出した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月1日
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吾妻鏡
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晴。左衛門尉内藤盛家法師が死没(89歳)、老衰に加えて痢病(赤痢・疫痢など)に苦しんでいた。念仏を唱え穏やかな臨終を迎えた、と。
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   ※内藤盛家: 寿永四年(1185)からの御家人で周防国遠石荘の地頭に任じた。建久二年(1191)1月18日の
吾妻鏡には「石清水八幡宮の所領に乱入して神官の友国を刃傷し、神社に納めるべき年貢を横領し退去を命じられた」との記載がある。吾妻鏡の死亡記事にはバラツキがあり、著名な人物が載らずに比較的無名に近い御家人が乗っている例も多い。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月 日
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史 料
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   ※名月記: 8月7日、終夜雨。宰相(太政大臣西園寺公経)の使者が駆け付けて(宰相の室)の死去を報告、
慌てて駆け付けた。
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   ※名月記: 8月8日、曇。西園寺公経の室は前夜に葬送し東山(瀧艮方)に葬ったと聞いた。
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   ※宰相の室: 一条能保の娘で、将軍藤原頼経の祖母(頼経の母は西園寺公経の娘、父は九条道家)。
瀧艮方は「滝尾神社(地図)の北東」を意味するのだろうか?
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月10日
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吾妻鏡
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晴。納殿の工事が完成し、今日初めて御物を収納した。後藤基綱の奉行による。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月13日
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吾妻鏡
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晴。祈祷が始められた。助教の中原師員の奉行による。
   不動護摩は山口法眼  歳星祭は安倍晴賢  太白星祭は安倍晴職
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今日申刻(16時前後)に京都の飛脚が到着、去る七日に太政大臣(西園寺公経)の御台所が赤痢により他界した旨を報告。 将軍家(藤原頼経)の外祖母である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会は延期となった。将軍家の御軽服(外祖母の死去に伴う軽い服喪)による。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月18日
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吾妻鏡
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晴。匠作(北條時氏)が帰洛の途に就いた。
また兵衛尉大江能行西園寺公経室の死去を弔問するため使節として上洛の途に就いた。
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   ※大江能行: 後に石見守に任じているが出自などの詳細は確認できない。六波羅探題の北條時氏は7月4日に
異母弟次郎時實の死没と丈六堂開眼供養に伴って下向していた。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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8月30日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の体に風疹(wiki)が発症した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月2日
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吾妻鏡
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晴。金星が火星を追って近付いていると、天文道(天文担当)らが周防前司中原親實を介し連署の勘文を提出した。
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   ※中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原頼経の近習として鎌倉下向に同行し御所奉行を務めた。藤原氏系
の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護などを転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月3日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(深夜2時前後)に大地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月4日
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吾妻鏡
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晴。地震について将軍家から周防前司中原親實を介して下問があり、陰陽師からは「天王の意思により、月日に随って吉凶が混在するのが常である」との答えが出された。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月9日
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吾妻鏡
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天変に対応した祈祷が今日から始められた。
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   薬師護摩は大進僧都    一字金輪法は信濃法印
   八字文殊法は宰相律師   七曜供は助法印珍誉
   北斗供は師法橋珍瑜    天地災変祭は安倍親職
   螢惑星祭は安倍晴賢    太白星祭は安倍国継
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  以上の祈祷については左衛門尉後藤基綱と進士判官代橘隆邦の奉行による。
  但し薬師・八字文殊・天地災変などは今日の評議によって延期となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月13日
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吾妻鏡
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将軍藤原頼経からは御所での和歌会開催の意向が示されていたが体調が戻っていないため見合わせとなった。ただし人々が詠んだ歌は御覧になっている。
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   ※頼経の和歌: 前将軍実朝は秀作駄作を取り混ぜて多くの和歌を残しているが、頼経の場合は話題にもなって
いないようだ。あまり好きじゃなかったか、才能に乏しかったのかも。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月21日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷のうち(9日に持ち越された)薬師護摩・八字文殊法・天地災変祭などが始められた。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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9月22日
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吾妻鏡
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晴。佐々木判官信綱が近江国佐々木豊浦・羽爾堅田の両庄および栗本北郡などの地頭職を与えられた。去る承久三年(1221)合戦の恩賞である。宇治川合戦の際に一番乗りで渡河した勲功により補任するとの下文あり。
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   ※佐々木氏: 佐々木豊浦は佐々木氏の本貫地・近江八幡市安土町一帯(地図)、羽爾堅田は堅田近辺(地図)、
栗本北郡は現在の栗東市一帯らしい。信綱は承久の乱で後鳥羽上皇に味方して斬首された広綱の遺児で既に出家して仁和寺にいた勢多伽丸(12歳)の処刑を強く主張し、北條泰時も容認せざるを得なかった。結果として信綱は佐々木氏の遺領をほぼ独占、四人の息子が琵琶湖周辺の所領を分割相続し大原氏・高島氏・六角氏・京極氏として繁栄した。
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ちなみに佐々木兄弟の二男経高親子も院に味方して全滅、三男盛綱の子加地信実は越後に土着、四男高綱と五男義清は出雲に土着となり、近江国に残ったのは信綱の子孫のみである。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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10月12日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に御所の釜殿(湯殿・浴室)で鼎(釜)が鳴った。 このため周防前司中原親實を奉行として祈祷が行われ、病気に注意を要するとの結果が出た。
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   ※釜が鳴る: 神道・修験道の吉凶に関係があるらしい。興味があれば「釜が鳴る」で検索を。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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10月14日
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吾妻鏡・他
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晴。釜の恠(怪異)に対応し、御所で百怪祭などを行った。
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   ※皇帝紀抄: 10月15日。比叡山の僧綱(管理職の僧官)・三綱所司(僧を統括する僧職(上座・寺主・都維那)
の総称)・日吉大社の社司らが群参し、専修念仏宗の活動禁止を求めて訴え出た。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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10月20日
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吾妻鏡
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竈(釜)が再び鳴った。
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   そんな事、逐一史書に載せなくても良いのに...などは現代人の発想なんだろうね。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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10月25日
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吾妻鏡
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六波羅が取り次ぐ院宣や、鎌倉から朝廷・公卿への返信などを送る際には案文(内容の控え)を 添えるように担当奉行人に指示した。六波羅でも事前に把握する方が望ましいとの判断である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月4日
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吾妻鏡
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晴。御所の女房(女官)阿波局が死去した。武蔵守北條泰時の大叔母であり、三十ヶ日の御軽服(軽い服喪)に備えて自邸から左近将監入道道然(尾藤景綱)の家に転居した。
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   ※阿波局: 政子の異母妹で阿野全成の妻。従って泰時にとっては叔母で、大叔母ではない。阿野全成の失脚
については菩提寺の士詠山大泉寺(サイト内リンク・別窓)で。彼女は 頼家によって夫の阿野全成を殺され、更に嫡子の時元は北條氏によって殺されている。極論すれば、政子と同じく実家北條氏のために夫と実子を見捨てた前歴(故意か・やむを得ずかは別にして)を抱えているのが面白い。
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もう一人の政子の異母妹(異説あり)が時子。彼女に関連して足利に残っている伝承も面白い。この経緯は時子の菩提寺 法玄寺に詳しく載せてある。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月6日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に大地震。将軍家(藤原頼経)は頻発している地震を特に気に掛け、左近大夫将監親實の奉行として善政を行う箇条書きや祈祷の明細などを上申せよと諸道(仏教・神道・陰陽道などを差す)に指示を下した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月9日
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吾妻鏡
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贄殿の足竈が鳴った。陰陽師は「火事に留意せよ」との占い結果を報告した。
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   ※贄殿の足竈: 贄殿は厨房あるいは食料を貯蔵しておく場所、足竈は脚を備えた釜の類。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月15日
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吾妻鏡
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打ち続く天変地異に加えて赤斑瘡(風疹・wiki)の流行があり、これに対応して今日から祈祷が開始された。
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   薬師護摩は大進僧都      千手護摩は丹後僧都
   十一面護摩は加賀律師    馬頭護摩は若宮別当
   如意輪法は越中阿闍梨    不空羂索法は宰相律師
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月16日
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吾妻鏡
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祈祷などが行われた。
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   三万六千神祭は安倍晴賢    天地災変祭は同、国継
   月曜祭は安倍親職        歳星祭は同、晴幸)
   鎮星祭は安倍泰貞        螢惑星祭は同、文元
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月18日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)以後に将軍家(藤原頼経)が体調不良となり、御所の御持仏堂で護持仏の絵を描かせた。周防前司中原親實がこれを差配した。
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   ※頼経の持仏堂: 寛元二年(1244)1月1日の吾妻鏡に「今日将軍家の御願として、久遠壽量院で大納言法印
隆弁が如意輪法を修した。元日の夜には最勝王経の転読、次の日中は観音経、次の夜以後は大般若経の真読(省略や転読をせず全てを読む)があった。」との記事がある。
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将軍頼経はこの年4月に退任し、5月15日には「御持仏堂で前大納言家(藤原頼経)が自ら供花された。」、更に翌年2月25日には「久遠壽量院に於いて八万四千基の泥塔を供養」し、7月5日には「前大納言家(藤原頼経)が久遠壽量院に於いて剃髪・出家した」とある。
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出家前の5月26日には「大納言家(藤原頼経)が御所を将軍(頼経の嫡子・頼嗣)に譲り渡した」とあるから、久遠壽量院が御所内の持仏堂と別の場所に存在していたのかも。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月19日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良に対応して土公祭および鬼気祭(いずれも陰陽道の祭祀)を始めた。今日は(将軍家の)御衰日(陰陽道で忌み慎むべき凶日)なのだが明日が悪日に当たるためである。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月20日
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吾妻鏡
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晴。(将軍家の)病状が悪化している。対応して去る16日に未だ祈祷に着任していない陰陽師に命じて七座(七人による)の泰山府君祭を行った。晴職・晴茂・重宗・宣賢・晴俊・晴秀・道継ら(いずれも安倍氏)がこれに任じ、進士判官代橘隆邦が奉行を務めた。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月21日
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吾妻鏡
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(将軍家の)容態は今日も変わりがない。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月22日
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吾妻鏡
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常陸国の鹿嶋神宮(公式サイト)で仁王経およびに信読の大般若経を講読する供養を催し、併せて御神楽を催すよう指示が下った。
今日、信濃民部大夫入道行然(二階堂行村)が奉行として、来る28日に催すよう社家に連絡した。また、今日夜になって鬼気祭と招魂祭を行った。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月23日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が赤斑瘡(麻疹・はしか、詳細はwiki)を発症し、今日更に無事治癒の祈祷を催して神馬を鶴岡八幡宮に寄進し、また御所で七座(七名による)泰山府君祭を行った。
晴賢・泰貞・重宗・文元・宣賢・親貞・道継ら(いずれも安倍氏の陰陽師)がこれを担当した。
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先月の下旬頃から赤斑瘡が流行し、身分の上下を問わず感染している。京都も同じ状態で、今月八日には主上(後堀河天皇)も罹病した、との事。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月24日
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吾妻鏡
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将軍家の病苦が重いため重ねての祈祷を行い、伊豆走湯権現・箱根権現・三嶋大社にそれぞれ奉幣の手配を済ませた。大和右衛門尉久良・遠藤左近将監為俊を奉幣使として御剣などを献納する。共に今暁に出発し明日には任務を果たすよう指示が下った。また秘法による祈祷などを行なった。
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  五壇法
     中壇不動明王は弁僧正    隆三世明王は大進僧都
     軍茶利夜叉明王は信濃法印  大威徳明王は加賀律師
     金剛夜叉明王は宰相律師   炎魔天供は丹波僧都
     北斗供は珍誉        当年星供は珍瑜
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  夜になって安倍親職による属星祭を開始した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月25日
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吾妻鏡
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今夜、七座の招魂祭・天冑地府・泰山府君祭などを行なった。祈祷費用は左衛門尉結城朝光・左衛門尉 土岐光行(wiki)・廣澤三郎実能(波多野氏庶流の御家人)による献納である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月28日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良は少し回復の気配となった。今日、御持仏堂に於いて御護仏の供養法要を催した。
導師は弁僧正定豪、布施などについては民部大夫入道行然(二階堂行盛)が差配した。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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11月29日
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吾妻鏡
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将軍藤原頼経の病状が回復し諸人は安堵した。権侍医の丹波良基の医術が功を奏したと思われる。
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   ※丹波良基: 関連記事が嘉禄元年(1225)7月6日にもあり、コメントを記載しておいた。
翌・嘉禄二年1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になると朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は本来は陪臣に過ぎない北條氏にも提供され始める。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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12月1日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に地震。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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12月2日
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吾妻鏡
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晴。周防前司中原親實が奉行として地震に関して陰陽道に諮問、勘文(諮問に対する上申書)を求めた。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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12月5日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)から将軍家(藤原頼経)が咳の病気に罹った気配がある。赤斑瘡の治癒に伴って今日行う筈だった御沐浴はこの咳の件で延期となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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12月8日
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吾妻鏡
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駿河前司三浦義村が下若(酒)を携えて御所に参上し女房(女官)に勧めた。これは将軍家の病気が無事に治癒した祝賀である。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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嘉禄三年
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12月10日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の病気が治癒し、穢を落とす御沐浴の儀が行われた。丹波良基が近くに控え、相模守北條時房ら多くの人々が集まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月13日
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吾妻鏡
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曇。将軍藤原頼経の近くに仕える護持僧と陰陽師の当番を定めた。隠岐入道二階堂行村・周防前司中原親實・左衛門尉後藤基綱の奉行である。
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    先ず護持僧
       上旬   弁僧正   丹波僧都   宰相律師
       中旬   大蔵卿法印   大進僧都   常陸律師
       下旬   信濃法印   加賀律師   蓮月房律師
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    次いで陰陽師(全て安倍氏)
       一番 泰貞   二番 晴賢   三番 重宗
       四番 晴職   五番 文元   六番 晴茂
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月14日
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吾妻鏡
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晴。竹御所が御方違えのため越後守北條朝時の名越邸に入御された。
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   ※名越邸: 元々は北條時政の屋敷で、義時の二男朝時が生前贈与
を受けていた。朝時の生母は三浦義村の娘・姫の前、兄の泰時の生母は御所の女房だった阿波局。時政は後継として朝時を想定していた、とも考えられている。
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北條名越邸は由比ヶ浜に近い弁ヶ谷にあったが、詳細の遺構などは確認されていない。
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右画像は弁ヶ谷の鳥瞰。画像をクリック→ 「名越邸の推定地、弁ヶ谷」(別窓)へ。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会が行われた。8月の予定が御軽服(将軍藤原頼経の外祖母(太政大臣西園寺公経室)の死去に伴う軽い服喪)で延期していたものである。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月25日
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着し、改元の詔書を届けた。去る10日、嘉禄三年を安貞元年に改めた。今年は三合に当たる上に赤斑瘡の流行により病死が多発した事に拠る。
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   ※三合: 太歳・太陰・客気の三神が合する陰陽道の厄年で災害が多発する。それとは別に、金星・木星・火星が
重なり合う凶兆も意味する。どちらにしろ悪い事が続く巡り合わせらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月26日
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吾妻鏡
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晴。政所に於いて改元の吉書を行った。信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)の奉行である。
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   ※吉書: 年始や政務や改元などの際に奏覧に供する儀礼的な文書や儀式を差す。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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12月28日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸で、明春の将軍家外出初めについて評議した。陰陽師は正月8日と14日が良いが8日を延期して14日にすべきである、と上申、安倍晴賢は「天一の方角・北への御行始めのが望ましい。」と述べた。
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   ※天一: 星の名。天帝の神で戦闘を支配し人の吉凶を知る、とされる。
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1227年
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86代 後堀河
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安貞元年
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