安貞三年・寛喜元年(1229)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雪。相模守北條時房による椀飯あり。御剣の献上は駿河守北條重時(狩衣)、同じく御弓箭は大炊助北條有時、同じく御行騰沓は左衛門尉佐原三郎家連。献上の御馬は五疋。
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  一の御馬(鞍を置く)    陸奥四郎北條政村    同、五郎北條實泰
  二の御馬    相摸四郎北條朝直    同、五郎北條時直
  三の御馬    佐原四郎光連(義連の庶子か)    同、十郎頼連(?)
  四の御馬    吉良次郎    同、三郎
  五の御馬    肥田三郎兵衛尉  同、八郎宗直
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   ※吉良氏足利義氏の庶長子長氏が三河国吉良荘(現在の西尾市 地図)を得て移住し、吉良太郎を名乗った
のが最初。吉良氏および支流の一色氏のみが足利宗家を継承する資格を持っている、らしい。
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次郎と三郎の該当者は正確には判らないが長氏の弟で共に三河に移った義継、長氏の嫡子満氏などが考えられる。江戸時代中期の「忠臣蔵」で敵役となった吉良上野義央は長氏から18代目の子孫となる。ちなみに足利宗家は正室(北條泰時の娘)が産んだ泰氏が継いでいる。
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   ※肥田氏源頼朝主従が挙兵した治承四年(1180)8月17日の吾妻
鏡に次の記載がある。
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山木判官平兼隆邸に向かう討ち入りの一行は茨木を北へ、肥田原に進んで時政が馬を止め「兼隆後見の堤信遠の館が山木の北にある。武勇の優れた男だから佐々木兄弟は彼を討ち取ってくれ。案内を付ける。
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肥田氏の出自には土岐氏系や近江出身など諸説あるが、函南町の肥田神社周辺には「御屋敷や北屋敷」などの字名があり、肥田氏の居館跡と推測されている。一説には仁田(日田)氏→ 肥田氏に転訛した同族関係と主張する郷土史家もいる。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 北條時房は54歳・ 北條泰時は45歳・ 北條朝時は36歳・ 北條時氏は26歳・ 北條政村は24歳・
三浦義村は63歳ほどか・ 三浦泰村は45歳・ 足利義氏は40歳・ 小山朝政は79歳・
結城朝光は61歳・ 四代将軍藤原頼経は11歳11ヶ月・後堀河天皇は15歳8ヶ月。(全て満年齢)
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時による椀飯あり。御剣献上は駿河守(狩衣)、御弓箭は大炊助北條有時(狩衣)、御行騰沓は大須賀左衛門尉胤秀(狩衣)。
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     一の御馬(鞍置き)  陸奥四郎北條政村   同五郎北條實泰
     二の御馬       相模四郎北條朝直   同五郎北條時直
     三の御馬       越後太郎北條光時   同五郎北條時章
     四の御馬       梶原三郎   同五郎
     五の御馬       駿河次郎三浦泰村   同四郎三浦重村
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   ※大須賀胤秀: 千葉氏の実質的初代である常胤四男の大須賀胤信の二男。
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   ※梶原三郎・五郎: 承元三年(1209)5月28日(関連記事が6月13日にあり)に西浜で土屋宗遠梶原景時
孫・家茂を斬り殺す事件が起きた。景時の息子で「茂」を使っているのは三男景茂のみだから、殺されたのは多分景茂の息子だろう。この時は(推定で)23歳前後、息子がいれば安貞三年には20歳前後になっているから、「梶原三郎と五郎」が該当する可能性はある。
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   ※三浦重村: 義村の子は長男朝村・嫡子の次郎泰村・長村・駿河三郎光村・駿河四郎重村・末子家村の順。
長兄の朝村は駿河の所領を継ぎ駿河三浦氏の祖になったとの説がある。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月3日
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吾妻鏡
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尺を越える降雪。今日、越後守北條朝時の沙汰による椀飯あり。御剣の献上は駿河守北條重時、御弓箭は大炊助北條有時、御行騰沓は出羽左衛門 尉中原家平。
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     一の御馬(鞍置き)  越後太郎北條光時   本庄四郎左衛門尉時家
     二の御馬        越後三郎北條時長(光時の弟)   山家次郎(諏訪氏系、信濃の武士か)
     三の御馬        越後四郎北條時幸(時長の弟)   廣河五郎(?)
     四の御馬        河原口次郎兵衛尉(?)   同三郎兵衛尉
     五の御馬        小井弖太郎兵衛尉   同五郎
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椀飯が終わり、夜になってから将軍家藤原頼経が武蔵守北條泰時邸に入御した。これは御行始めではなく、雪を愛でるため三浦義村が誘った結果である。
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   ※本庄時家: 児玉党の武士で本庄北堀一帯(地図)が本領。さらに詳細はwikiで。.
   ※小井弖: 伊那郡小井弖(こいで・地図)の武士。工藤氏の系らしいが...。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月7日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)から、今年の二所詣は中止し奉幣使を代参させるよう駿河守北條重時に指示があった。差配は周防前司中原親実が担当する。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月8日
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吾妻鏡
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御所で心経会(般若心経を読む法会)あり。将軍家の御衰日(陰陽道で行動を慎むべき日)のため延期すべきかと助教の中原師員が申し出たが、法会や祈祷などは問題ない旨を以前から定めている。さらに8日は心経会の定例日であると弾正清原季氏が意見を述べ、実施となった。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)〜仁治四年(1243)に評定衆に任じている。
同時代・同姓の文官には嘉禄元年(1225)〜延応元年(1239)に任じた清原清定と、その嫡子で延応元年(1239)〜寳治三年(1249)に任じた清原満定がいる(共に評定衆)。系累だとは思うが系図上では確認できない。いずれも北條氏に近い実務官僚。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月9日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の御行始め(外出初め)があり、武蔵守北條泰時邸に入御された。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月13日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時は今夜が御所の宿直初めとして小侍所に詰めた。駿河前司三浦義村・籐内左衛門尉定員らが集まって雑談などで過ごした。
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   ※藤原定員: 将軍頼経に随行して鎌倉に下り将軍御所の管理に任じた近臣。将軍頼経が追放された寛元四年
(1246)閏4月の宮騒動の際には執権北條時頼に弁明する使者を務めたが失敗し出家した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月15日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参り、御束帯で牛車である。西門から出御する際に(車が門に当たり?更に)門前の橋が高くなっているため牛車の上部が門の棟木に当たり傾いてしまった。参拝後に武蔵守北條泰時が西の侍所に着座し、車が当たった部分と橋の修理を指示した。この作業は犯土であり現在は大将軍(三年毎に居を変える方位神。詳細はwikiで。)の方向に該当するから当分の延期となる。その後に御弓始めがあり(二射づつ五度)、伊賀四郎左衛門尉朝行がこれを差配した。
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   射手
      一番 武田六郎信長(信光の嫡子)  vs  岡辺左衛門四郎(岡部?)
      二番 佐々木八郎信朝  vs  藤澤四郎(?)
      三番 本間次郎左衛門尉(加地信実の末子)  vs  平左衛門三郎盛時
      四番 南條七郎三郎(?)  vs  渋谷六郎(?)
      五番 駿河四郎三浦家村(三浦義村の六男)  vs  神地四郎(?)
      六番 佐貫次郎  vs  横溝六郎義行
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   ※横溝義行: 兄の五郎資重と共に得宗被官。本領は近江国(東近江市
横溝町・地図)らしいが詳細は確認していない。
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鎌倉幕府が滅亡する直前の元弘三年(1333)5月16日、関戸の合戦で主人の北條泰家(第九代執権北條貞時 の四男)を助けるため壮烈な討死を遂げた鎌倉勢の中に横溝八郎の名前がある。兄弟どちらかの子孫だろう。
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右画像は聖蹟桜ヶ丘駅近くに残る横溝八郎の墳墓。まだ100年以上も先の話だけど、横溝がらみで。
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画像をクリック→ 「敗走する鎌倉勢と関戸の掃討戦」へ(別窓)。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が二所詣に対応しての精進を始めた。
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   ※精進: 一義的には酒色を禁じて心身を清浄に保つ事だが、当時の武士が獣肉食をどの程度の禁忌と考えて
いたのかは少し気になる。精進の期間中は鶏肉や魚まで許されない完全な野菜食だったのか、否か。まだ禅宗による精進料理も定着に至っていないと思うが...。
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また今回は北條重時の代参にも拘わらず頼経も精進するらしい。そういう習慣なんだろうね、酒色を禁じた経験のない私には理解できないけど(笑)。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月21日
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吾妻鏡
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二所奉幣の使者として駿河守北條重時朝臣が鎌倉を出発した。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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安貞三年
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1月27日
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吾妻鏡
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酉の一点(17時過ぎ)に、駿河次郎三浦泰村の妻(武蔵守北條泰時の娘)が死産。去る19日から出産の気配があり、ひどい難産の結果である。祈祷を担当したのは大進僧都観基と丹波律師頼暁、医師は丹波良基、陰陽師は安倍晴賢ら四人である。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月5日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月11日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸に於いて走湯山(伊豆山権現)造営についての評議を行った。当山管領の仁浄蓮房が参席、陰陽師を含めて日時を検討し、安倍親職以下の四人が着工を3月5日と選んだ。平盛綱が奉行である。
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   ※走湯山: 伊豆山麓の海岸近くに噴出する熱湯が語源。昔に較べると
湯量は圧倒的に減ったらしいが、今でも70℃の熱湯を1日7000トンも噴出する(地図)。海沿いの有料道路から車で入れるし近くには政子所縁の逢初地蔵堂もあるから立ち寄る価値はある。「お宮の松」や「貫一お宮の像」よりはマシだ。
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昔日の伊豆山権現参道はこの近くからスタートし、今でも国道から一直線に山腹の本殿まで続いている。
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吾妻鏡の寛元四年(1246)11月27日には「寅の刻、大地震」とあり、「百錬抄」の宝治元年(1247)1月12日に「噂によれば、伊豆国の地震で長さ1300m・巾1000m前後が失われ、その跡は湖水のようになった。」と書いてあるのは現在の伊豆山漁港の沖だとされている。
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右画像をクリックして熱海伊豆山神社を参照されたし(別窓)。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月17日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に大地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月20日
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吾妻鏡
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晴。竹御所並びに武蔵守北條泰時の室が三浦三崎の津(港)に出御された。駿河前司三浦義村が催す来迎講に臨席するためである。
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   ※泰時の室: 建久五年(1194)2月2日に大倉御所で北條義時の長男金剛(元服して頼時、後の泰時)が元服。
名付け親の将軍頼朝は式典終了後に三浦介義澄を招き「この若者を婿とせよ」と命じ、義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた。と記録されている。
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8年後の建仁二年(1202)に義澄の嫡男義村の娘(後の矢部禅尼)が泰時に嫁して翌年に時氏(27歳で死没し執権に就いていない)を産んだ。時氏の正妻(安達景盛の娘・後の松下禅尼)が四代執権になる経時と五代執権になる時頼を産んでいる。
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義村の娘(矢部禅尼)は8年後頃に離縁(理由は不明)となり、佐原盛連(義連の嫡子)に再嫁して盛時らを産んだ。この関係から佐原一族は北條得宗との結び付きが強く、三浦一族が滅亡した宝治合戦では北條方に与して三浦宗家を継承している。
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   ※来迎講: 浄土信仰の世界で、阿弥陀仏が死者を救済するために来迎する様子を演ずる法会。首都圏では
世田谷九品仏浄真寺(浄土宗)の二十五菩薩来迎会(YouTube動画・阿弥陀仏の出現は4分過ぎ頃から)が有名だが、三浦での催事も(会場と内陸の差はあっても)同じ趣旨と内容だと思う。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月21日
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吾妻鏡
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彼岸の初日、晴天で無風。三崎の海上で来迎会の催しがあった。走湯山(伊豆山権現)の浄蓮房が駿河前司三浦義村の依頼を容れて事前の準備を入念に整えていた。
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十数艘の船を浮かべて来迎の様子を再現し、荘厳を極めた飾りは夕陽に映えて楽曲の音が波浪の響きを添えている。催しの後に説法があり、その後に船で周辺の島を巡巡覧した。
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   ※場所の確定: 三浦義村が歌舞を催した場所が当時は離れ島だった
現在の歌舞島公園付近(地図)、里人が来迎会を遥拝した場所が「拝之台」(現在の二町谷漁港付近・地図)と伝わっている(とりあえず右の概略地図を)。
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背後から夕陽を浴びた神聖な雰囲気を演出したのだろう。これは奥州平泉で藤原秀衡が極楽浄土の具現化を夢見て 無量光院を建造した理念にも共通している。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月22日
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吾妻鏡
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晴。竹御所らが三崎から還御。駿河前司三浦義村は前もって(六男の)四郎家村を杜戸(森戸・地図)に待機させ、豪華に誂えた御駄餉(外出先での食事)を準備させた。
夕刻になって竹御所は武蔵守北條泰時邸に入御、日取りが悪いため今夜は泰時邸に止宿となる。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月23日
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吾妻鏡
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竹御所が自邸に還御、武蔵守北條泰時が贈物を献じ、御共の人々にもそれぞれ下賜された。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月24日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に将軍家(藤原頼経)が体調不良。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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2月25日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の病気に対応して祈祷が始められた。泰山府君・呪咀霊気などである。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応する祈祷が始まった。
愛染王は松殿法印・金輪は信濃法印・北斗は大進僧都・螢惑は珍誉法印・歳星は珍瑜法橋。仏典に拠るもの以外は、地震祭を重宗・螢惑星を宣賢・歳星を国継・泰山府君を晴職(いずれも陰陽道の安倍氏)。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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3月5日
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吾妻鏡
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晴。八座(八人)による鬼気祭(災いを除く陰陽道の祭祀)を行った。
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   ※玉蘂: 申刻(16時前後)に主上が出御(中略)、安貞三年を改め寛喜元年と為す。
玉蘂は九条道家の日記。曽祖父の九条兼実の日記・玉葉に対し末節を意味する「玉蘂」と名付けた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月8日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早朝4時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月14日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時の室岩殿観音堂(坂東三十三観音のサイト)に参詣し、その折に北條朝時の女房らと内緒で会合。夜になって屋敷に戻った。
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   ※泰時の室: 正妻は三浦義村の娘(後の矢部禅尼)だが既に離縁。この時点では継室の安保実員の娘。
   ※朝時の室: 正妻は大友能直の娘だがこの場合は北條時房の娘と考えるべきか。兄弟の嫁の私的会合。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月15日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が花を楽しむため水干・御騎馬で永福寺に出御された。駿河守 北條重時・陸奥四郎北條政村・同五郎北條實泰・周防前司親實中原親実・式部大夫親行ら20余人供奉した。
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   ※花を楽しむ: 3月15日は西暦の4月10日、花は桜だろう。
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   ※式部大夫親行: 源氏物語の研究家だった父親源光行の跡を継いだ文官。政所別当だった父と交代する形で
鎌倉に下向した直後に承久の乱(1221年)が勃発、光行は迷った末に後鳥羽上皇に従い、戦後に斬られる筈のところを親行の嘆願で許された(同年8月2日の条を参照)。
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親子二代が文系の官僚として実朝・頼経・宗尊親王と続いた三代の将軍に仕えている。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月25日
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吾妻鏡
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晴。政所で改元に伴う吉書始めを行った。信濃次郎左衛門尉二階堂行泰が武蔵守北條泰時の供として御所に持参し将軍の御前に披覧した。去る五日、安貞三年を改め寛喜元年と為す。大蔵卿為長卿がこの年号を撰び上申した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月26日
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吾妻鏡
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晴。新判官(新任の検非違使)となった後藤基綱が京都より帰参した。2月27日に宣旨を受け3月9日にこれを畏み受ける上奏を行った(一度謝絶する習慣に倣ったらしい)。
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譜代の職務にも拘わらず数人に先を越され、49歳になってようやくこの栄誉を受けた。「今日は往亡日(祝い事を忌む日)だろう」とからかう人もいたが「武家はこの日を気にしない。祖先の 藤原秀郷の頃から敢えて用いた日取りだ」と答えて大倉の自宅に到着、今夜は早々に御所と北條泰時邸に参上して検非違使着任の喜びを申し上げる、と。
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   ※検非違使: 衛門府の役人が宣旨を受け兼任する検察・警察組織で五位から昇殿が許された。
平安時代末期からは北面武士などに権限が移譲され、更に鎌倉幕府が六波羅探題を置いた承久年代以後は弱体化したが、東国武士にとって昔から垂涎の的だった名誉職。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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3月〜6月
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史 料
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3月末に不法を行った延暦寺傘下・日吉社の神人が六波羅探題北方北條時氏の配下である左衛門尉三善為清の命令を無視した末に為清の部下に斬られる事件が発生、延暦寺が幕府に抗議し下手人の引渡しを求めた。
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六波羅探題は為清主従に過失がなかった証拠を提示したが幕府は延暦寺との対立を避け、6月19日に為清を日向に・前左兵衛尉大江貞知を大隅に流罪処分とした。時氏はこの決裁に抵抗したらしいが、力のバランスなどを考えた幕府の決定には従わざるを得なかったらしい。
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   ※六波羅探題: 承久の乱(1221)後に従来の京都守護を改組して六波羅に設置した幕府の出先機関。
北(上位)と南があり、鎌倉時代末期(1310年頃)に探題の呼称が初出するまでは単に六波羅と呼ばれていた。本稿では便宜上「探題」を付記して記述している。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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3月28日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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4月17日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に将軍家(藤原頼経)は三崎の津(港)に出御された。相模守北條時房と武蔵守北條泰時を筆頭に多数の御家人が供奉、駿河前司三浦義村は将軍の船を件の浦に停泊させ演奏と歌で楽しませた。
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佐原三郎左衛門尉家連(佐原義連の嫡男)は遊女を載せた船を漕ぎ寄せて華を添えた。山の趣きも海の眺めも比類ない美しさだった。
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   ※件の浦: 2月21日に来迎会を催した場所だろう。賓客の頼経(12歳)には満27歳の竹御所とは違う歓待方法
を考えねばならない。たぶん頼経は竹御所から三崎の楽しさを聞いたのだろうね...
不幸な結果に終わった16歳違いの政略結婚だったが、夫婦仲は睦まじかったと伝わっている。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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4月19日
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吾妻鏡
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将軍家が三崎から還御された。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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4月27日
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吾妻鏡
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晴。今日、走湯山(伊豆山権現)の講堂と常行堂の上棟が行われた。当初の日程は延期となった。
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   ※走湯山: 秀吉による小田原攻めの際に後北条氏に味方した伊豆山
権現は秀吉軍に全山を焼き払われたため古い建物も遺構も全く残っておらず、現在の社殿を含む建造物は全て江戸時代以後に再建されたもの。
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ちなみに、小田原城包囲戦は4月初旬に始まって6月下旬に降伏・開城となったが、支城の鉢形城・韮山城・津久井城・忍城などは最後まで落城せず、小田原城の降伏後に自ら開城している。これは東国武士の意地を貫いたようで個人的には少しばかり嬉しい。
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   ※その2: 伊豆山神社の草創は奈良時代の日金山(現在の十国峠)に
あった祠らしい。その後に岩戸山中腹に遷宮し、更に現在地に遷座した事になっている。もちろん遠い昔の神仏習合時代の話。 右画像は日金山から伊豆山神社までの概略図(クリック→ 拡大)
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  それぞれ日金山東光寺および伊豆山本宮神社を参照されたし。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事、将軍家(藤原頼経)の御臨席なし。陸奥五郎北條實泰が奉幣使に任じた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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5月15日
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吾妻鏡
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雨が終日止まず、子刻(晋也時前後)に晴。月食は確認できた。関わる祈祷は薬師護摩を大時進僧都、一字金輪を信濃法印、八字文殊を宰相律師、愛染王を若宮別当(七代)定雅。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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5月21日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に犬の糞が御所の将軍居間の畳で見付かった。御占いをした結果は病気に注意し、他人の言葉に耳を傾けるべきとの事、晴賢・晴茂・国継(いずれも陰陽師道・安倍氏)が連署の上申書を献じた。
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   ※犬の糞: 犬追い物などを催すからだ。因果応報!(笑)
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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5月23日
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吾妻鏡
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評定衆による評議の後、相模守北條時房・武蔵守北條泰時・駿河前司三浦義村・新判官後藤基綱・信濃民部大夫入道二階堂行盛らが御所に参上、将軍頼経は扇を持ち出させて人々の中に置き、賽の目の勝負によってこれを与える遊びに興じた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月14日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月19日
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皇帝紀抄
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流人の宣下があり、左衛門尉三善為清が日向国に・前左兵衛尉大江貞知が大隅に流された。4月に日吉の神人らとの喧嘩が原因である。
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   ※流人の宣下: 不法を働いた延暦寺鎮守社の日吉社神人が、探題北方北條時氏(当時26歳)の配下にあった
三善為清の制止を無視して部下の大江貞知に斬られた。延暦寺の抗議に対し六波羅探題は為清主従に過失なしの証拠を提示したが、幕府は延暦寺との対立を避け為清らを流刑に処した。
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政治的にやむを得ない配慮とも見えるが、義時政子なら突っぱねたと思う。失う物の大切さを理解していない泰時の人物像が見える事例だ。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月20日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の神事があり、将軍家(藤原頼経)が御束帯・御車で参宮された。陸奥四郎北條政村太刀持ち、狩野籐次兵衛尉為光が御調度(弓箭)を携え、新判官後藤基綱が供奉した。
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   ※狩野為光: 狩野茂光の三男、後に為佐と改名した。寛元四年(1246)に宮騒動に連座して評定衆を罷免され
建長五年(1253)になって引付衆に復帰する。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月25日
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吾妻鏡
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晴。左大臣法印定親が鶴岡八幡宮別当職に補任となった。彼の師匠定豪僧正が悔還(契約を破棄して旧に復すこと)し、定親が獲得する結果となった。
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   ※定豪: 職務の本質を忘れ権力に執着する代表格。まぁ現代でも舛添要一が同じ事を繰り返しているから鎌倉
時代を笑えない。しかし石原慎太郎→ 猪瀬直樹に続いてこんな人物を知事に選ぶとは、最近の都民は真っ当な判断力を失っているのかね。都民OBとしては恥ずかしい限りだ。これで都議会が何の対処もしなかったら、都民には都議会議員を選ぶ能力すらないと証明する事になる。嫌な世界だね。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月26日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に小地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月27日
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吾妻鏡
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曇。御所の馬場殿で流鏑馬・遠笠懸などを催した。
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小山五郎長村・駿河次郎三浦泰村・同四郎家村(三浦義村の六男。)・宇都宮四郎左衛門尉頼業・氏家太郎公信・小笠原六郎時長らが技を競い、将軍家(藤原頼経)も出御し武蔵守北條泰時以下の人々も集まった。
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その中で小山兄弟と三浦兄弟は作物を演じてみせた。長村が七違取止、泰村が四六三遠立、家村が八的、時長が三尺取止など、いずれも見事な腕前を見せた。夕刻になり将軍家の体調がやや悪くなって御所に入御された。
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   ※遠笠懸: 流鏑馬は再三記載しているし現代でも神事の一環として奉納されているため説明は割愛。遠笠懸は
綾藺笠(い草を編んで内側に布を貼った笠・1尺8寸・約55cmφ)を的にし、馬場(直線109m)から5〜10杖(1杖≒2.3m)離して置いた笠を射抜く。
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一矢で敵を倒すには甲冑の弱点である内兜(兜の内側・顔面)を狙って射るだけの技術が必要、実戦で敵が顔を上げたり振り向いたりした瞬間に倒す騎射芸。寿永三年(1184)1月20日には木曽義仲が、元久二年(1205)6月22日には畠山重忠が、共に「内兜を射られて」最期を遂げている。
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   ※小山長村: 小山政光朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏の四代当主(建保五年・1217年生れ)。
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   ※宇都宮頼業: 五代当主頼綱の二男で横田氏の祖。長男時綱と頼業の生母は共に稲毛重成の娘、三男泰綱の
生母が北條時政の娘だった関係で家督は泰綱が継ぎ、長男時綱は三浦義村の娘を妻として三浦氏との関係を深め宝治合戦で滅亡、頼業は宇都宮南部の広大で肥沃な横田郷(現在の上三川町・地図)を相続して横田氏の祖となった。横田氏は鎌倉幕府滅亡後も繁栄を続けるが、宇都宮氏が22代国綱の時代に秀吉による改易を受けて没落、横田氏も運命を共にしている。
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   ※氏家公信: 宇都宮朝綱の二男公頼を祖とする氏家氏の二代目(異説あり)。本領は現在の氏家町(地図)。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘(長野県佐久市・平賀氏没領を含む)を本領とし伴野氏の祖
となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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   ※作物: (つくりもの)は騎射の技術を競う形式で、上に記載した他にも三三九・手挟・乞垂・引不引・脇細などの
名称が伝わっているが明細は不明、「八的(やまと)のみは一定の距離で八つの的を射る」らしい。
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建久九年(1198)12月27日、相模川橋供養(サイト内リンク・別窓)に赴いた源頼朝は落馬し、翌月に鎌倉で死没した。保暦間記(wiki)は相模川から鎌倉に帰る途中の事件を次のように書いている。
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将軍は相模河橋供養に出席、帰路の八的が原(落馬事故現場から鎌倉方面へ約7km)を通った際、今までに殺した源義廣・義経・行家らの亡霊と目を合せた。これを過ぎた稲村ヶ崎の海上に十歳ほどの童が現れ「汝を見付けたぞ、我こそは西海に沈んだ安徳天皇である」と語って消えた。頼朝は恐怖のあまり落馬し、鎌倉で病に伏した。
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   ※八的が原: JR辻堂駅南東。鎌倉時代には二町(200m強)の馬場に的を八ヶ置いた騎射の練習場があり、
松が多いので八的→八松ヶ原に変った、と伝わっている。四辻に不動堂(現在の宝珠寺)があった事から、辻堂の名が派生した。頼朝の開基と伝わる宝泉寺一帯には「八松」の地名(地図)が残っている。「八的」の説明が長くなってしまったが...
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月28日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の病状は良くないが、戌一点(19時過ぎ)にはやや回復した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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6月29日
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吾妻鏡
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晴。六月祓えが催され、安倍晴賢がこれを行った。補佐は駿河守北條重時、周防前司中原親實が奉行である。
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   ※六月祓え: 身に付いた穢れを形代に移して流し捨てる行事。旧暦6月末なので夏越の祓えともいう。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月3日
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吾妻鏡
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寅の一点(夜半3時過ぎ)に艮方(北東)の空が赤くなり申刻(早暁4時前後)に雷鳴、御所の倉庫の南に落雷あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月4日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に将軍家(藤原頼経)の体調が悪く顔が腫れた状態になった。去年12月7日に初めてこの症状があり、それが再発した。助教中原師員の奉行により御占いを行ったところ「心労がある上に呪咀の気配や氏神の祟も考えられる。内外(仏教と陰陽道)に祈り謝意を捧げれば平癒が見られるだろう。」と、七人が同じ結論だった。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月5日
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吾妻鏡
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晴。今朝は(将軍家の)顔の腫れが多少減じている。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月7日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が馬場殿に出御され稚児舞いを観覧された。若宮新別当に任じた法印定親の同伴である。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月8日
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吾妻鏡
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晴。五壇の御修法(五大明王(wiki)をそれぞれ安置する五つの壇による祈祷)を行なった。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月11日
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吾妻鏡
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故禅定二品(政子)の命日。勝長寿院に於いて一切経会があり、相模守北條時房と武蔵守北條泰時も参席された。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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7月23日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(深夜2時前後)に月が歳星(木星)の軌道を犯した(隔てる距離は一尺)。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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8月4日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺に於いて武蔵守北條泰時の祈願に拠る如法経・十種供養が行われた。
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   如法経は特定の方式で書写した経典(多くは法華経)。十種供養は華・香・瓔珞(wiki)・抹香・塗香・焼香・
絵蓋・幢幡(外部サイト)・衣服・伎楽の十種によって仏に供養すること。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会が催され将軍家(藤原頼経)が出御、相模守北條時房・武蔵守北條泰時も参席した。
助教の中原師員・駿河前司三浦義村・出羽前司中条家長・伊東判官祐時後藤基綱らが供奉し、竹御所・武州の室(安保実員の娘)も加わった。
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   ※伊東祐時: 工藤祐経の嫡子。富士の裾野で祐経を殺した曾我兄弟頼朝が許そうとした際に泣いて身柄の
引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸(建久四年(1193)5月29日を参照)が成長して祐時を名乗り、伊東の家督を継承した。
祐経の最初の妻(伊東祐親の娘)は離縁させられて土肥遠平に再嫁、生まれた娘が祐時に嫁して祐朝を産み、祐朝が早川氏・長門伊東氏・安芸伊東氏の祖となった。
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そして祐時の六男祐光(祐高)が伊東氏の家督を継承して伊豆久須美荘の地頭となり、弘長元年(1261)の「日蓮の伊豆法難」に大きく関与することになる。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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8月16日
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吾妻鏡
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終日雨、夜半に強風。 今日再び将軍家(藤原頼経)が御参宮、馬場での流鏑馬などは通例の通り。体調はまだ元通りではないが、武蔵守北條泰時から重要な神事との言上があり二日続けての参宮となった。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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8月17日
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吾妻鏡
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強風と激しい雨が巳刻(10時前後)まで続き、稲の花が悉く枯れてしまった。
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   ※稲の花: 米を実らせる(自家)受粉の季節。西暦の9月6日だから二日にまたがった台風被害か。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月4日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の娘で駿河次郎三浦泰村の室が来る10日に京都に向かうため、今日将軍家藤原頼経および竹御所から御餞物が届けられた。小袖や宿衣などを中持(長持)に納めてある。
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   ※宿衣: 一般的には御所などに宿直する際の軽装衣服で、泰村室の夜具を意味する可能性もある。
9月10日の記事には「大番勤務のため泰村が妻を伴って上洛の途に就いた」との記載があり、「泰村の宿直用衣装」を差したのだろうと思う。
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   ※大番役: 平安末期までは「費用は全て自己負担で三年間の御所警護などに従事する」のが原則だった。
その留守中に所領の支配権に関わるトラブルが起きたり(例えば伊豆久須美荘を巡る伊東祐親工藤祐経の争い)や、留守番役が重い決断を求められたケース(例えば平家を見捨てて源頼朝への臣従を選んだ畠山重忠の例)などがあり、東国武士には大きな負担となっていた。泰村のように恵まれた環境の豪族には何の苦労もなかっただろうけど。
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鎌倉幕府の成立後は徐々に負担が軽減され、この時点では六ヶ月に期間短縮されていた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月5日
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吾妻鏡
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晴。駿河次郎三浦泰村の室が初めて新調の輿に乗って竹御所邸を訪れた。
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   ※婚姻の形態: 平安時代末期までは通い婚が普通だったらしいが鎌倉時代
中期のシステムについては明確な資料が見当たらない。夫婦同居が定着していたと考えて良いのかどうか。 将軍頼経が何度か竹御所邸を訪れているから通い婚みたいな気もするし。
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右画像は三浦邸から竹御所までの徒歩ルート。
地図上の計測で約1700m(画像をクリック→ 拡大表示)。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月9日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が南條七郎次郎・横尾左近将監・美濃澤右近次郎・弥平太三郎らを京都に派遣した。
南條は和琴を習熟させるため、他の三人は神楽の秘曲習得を右近将監の多好氏に師事させるためである。
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   ※多好氏: 多好方−好節−好氏と続いた雅楽の家系。多好方(おおのよしかた)は建久二年(1191)に頼朝に
招かれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し再三の功績によって飛騨国荒木郷の地頭職を得ている。詳細は同年10月25日と11月21日の条で。
息子の好節は建久四年(1193)11月4日に八幡宮の神事で宮人曲を舞って瑞兆を呼び、正治元年(1199)11月8日の吾妻鏡に「荒木郷の相続を許可」された記録がある。
好氏は文暦二年(1235)8月に再び吾妻鏡に登場するが、まだ整理が進んでいない。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月10日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に駿河次郎三浦泰村が妻室(武蔵守北條泰時の娘)を伴い、大番勤務のため上洛の途に就いた。
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西暦1228年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月17日
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吾妻鏡
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晴。将軍家藤原頼経が海辺を遊覧するため杜戸浦に出御、病気回復後最初の外出となる(7月と8月は体調が悪く、顔の腫れなどに対応して祈祷を行っていた)。相模守北條時房と武蔵守北條泰時も供奉し、犬追物を催した。
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射手は大炊助北條有時足利五郎長氏・小山五郎長村・結城五郎重光(?)・修理亮宇都宮泰綱・武田六郎信長(信光の嫡子)・小笠原六郎時長・長江八郎師景(鎌倉党長江義景の二男で嫡子)・佐原左衛門四郎(義連の庶子?)・佐々木八郎新朝(加地信実の末子)以下数人である。
北條泰時は「駿河次郎三浦泰村が上洛して不在なのは残念だ。」と語って父の 三浦義村を嬉しがらせた。
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30余匹の犬を放って騎射を行い、その後に作物(6月27日を参照)を催して小山長村と小笠原時長らが見事な射芸を披露した。未の斜め(15時過ぎ)に突然の強風があって楽しさが薄れ、申の斜め(17時過ぎ)になっても鎮まらないたる還御となった。   (「犬追物」は承久四年(1222)2月6日に詳細を紹介した。参照されたし)
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   ※杜戸: 現在の葉山町森戸(地図)。三浦義明の六男重行が長徳寺の付近に本拠を置いて杜戸六郎を名乗った
のが最初と伝わるが、異説も多数あり。
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   ※小山長村: 小山政光朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏の四代当主(建保五年・1217年生れ)。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘(長野県佐久市・平賀氏没領を含む)を本領とし伴野氏の祖
となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月18日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)に御夢想のお告げがあったため二つの壇を設けて祈祷を行った。若宮別当法印定親と大進僧都観基がこれを奉仕した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月20日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月24日
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名月記
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晴。先月、鎌倉でちょっとした事件があった。高倉院の三宮・惟明親王の子である(後の)交野宮が突然鎌倉に入り鶴岡八幡宮の拝殿に坐して下向を告げた。驚愕した幕府は至急の帰洛を求めたが従わず「元服も出家の考えもない、ただ鎌倉に住みたい」と懇望したが、然るべき僧の元で出家させるよう公家に申し送り、武士一人を付けて醍醐の近くに送り届けた。
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   ※交野宮: 訳の判らない事件のように思えるが、予備の将軍候補として皇孫を確保しておきたい幕府の思惑と、
幕府に皇孫を送って影響力を維持したい大納言堀川通具(土御門通親の次男)の思惑と、その動きを察して鎌倉で楽しく暮らしたいと考えた皇孫の思惑が一致したらしい。
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常軌を逸した行動(幾分の狂気か?)に幕府側が驚愕し二の足を踏んだと思われる。この事件については吾妻鏡が全く触れていないのが面白い。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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9月30日
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吾妻鏡
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晴。若宮大路西横の下馬橋(地図から北側が火災で焼けた。
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   ※下の下馬橋: 現在の佐助川は若宮大路の西側から江ノ電まで暗渠、
その北側も所々に顔を出すドブ川で当時の痕跡すら見られず、若宮大路の東側歩道に琵琶橋がある。
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吾妻鏡の養和二年(1182)3月15日に「政子の懐妊に際し頼朝が自ら指揮して八幡宮から由比ヶ浜まで参道(段葛、後の若宮大路)を造り、北條時政以下の御家人が土石を運んだ」との記載がある。
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それまでは弁財天の祠を避けて大きく湾曲していたため琵琶小路と呼ばれていた道を直線に直して段葛を通し、祠は八幡宮の境内に遷した(これは現在の源氏池にある旗上弁天)。  右画像は琵琶橋周辺の拡大図。琵琶橋から江ノ電まで川を追描した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月9日
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吾妻鏡
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長尾寺の院主圓海の門弟僧が受戒のため上洛し、途中で必要な過書(証明書・後世の道中手形か)を相模守北條時房と武蔵守北條泰時の連署で与えた。特別な高僧ではないが仏法に帰依する篤志に従っての付与である。
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  ※威光寺: 既に廃寺だが、川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い妙楽寺(参考サイト)一帯が旧跡らしい。
地図はこちら、寺の名は長尾寺=妙楽寺=威光寺と変遷している。
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治承四年(1180)11月15日の吾妻鏡に「武蔵国の威光寺は源氏代々の祈祷所であるから院主増圓の管理する寺領は従来通り租税を免じられる、とした。」との記載がある。
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また同年11月19日には頼朝は武蔵国の長尾寺を弟の阿野全成に与えた。住僧はそのままで従来通りの祈祷を続けるよう申し付けるため慈教坊僧圓・慈音坊観海・法乗坊辨朗を召しだした。 」との記載が付け加えてある。
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  ※受戒: 仏門に入る者が仏弟子として生きる戒め(守るべき道徳基準)を
受けること。下野東山道の史跡の中段、下野薬師寺の項目に詳細説明と経緯を記載してある。
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右画像は下野薬師寺資料館の戒壇模型。鑑真和上が伝えたのが最初、とされる。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月14日
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吾妻鏡
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晴。故右府将軍(実朝)の十三回忌(明後年)供養として南新御堂(勝長寿院)の敷地に塔婆を建てる事を政所で決定した。弾正忠清原季氏が差配し日程の勘文(諮問に対する上申)を提出させる。
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   ※塔婆: 原文は「南新御堂内可被建塔婆之由」(塔婆を建てるべきこと)とあり三重塔や多宝塔から石塔婆まで
範囲が広すぎて確定できないが、11月26日の記事に「右大臣家御追善御塔材木杣入也」(追善の塔を建てる材木)とあり、更に寛喜二年(1230)10月6日の「右承相十三年御追善三重寶塔」(実朝十三回忌追善の三重宝塔)で実態を確認できる。「塔婆」などの曖昧な表現は止めて貰いたいよね。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月22日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)tが由比ヶ浜に出御し流鏑馬あり。相模四郎北條朝直足利五郎長氏・小山五郎長村(9月17日参照)・駿河四郎家村(三浦義村の六男)・武田六郎信長(信光の嫡子)・小笠原六郎時長・三浦又太郎(?)・城太郎安達義景・佐々木三郎・佐々木加地八郎(加地信実の末子・信朝)らが射手を務めた。
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三的の後に三々九・四六三以下の作物(6月27日を参照)を各々が射た。相模守北條時房「騎射などの芸は長く見るものではありません。」と内々に諫めたが将軍家は興味を惹かれて続けて観覧された。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘(長野県佐久市・平賀氏没領を含む)を本領とし伴野氏の祖
となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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   ※佐々木三郎: 佐々木信綱の三男泰綱で嫡子と近江守護を継承。廃嫡された長兄の訴えで相続し所領の一部
を割譲したが、家督相続はそのまま認められ、後の守護大名六角氏の祖となった。
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   ※三的: 騎射三物(犬追物・笠懸・流鏑馬)の総称。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月24日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に地震。相模守北條時房が新たに作らせた蹴鞠と(専用の)靴を武蔵守北條泰時に贈った。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月25日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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10月26日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が蹴鞠を観覧するため永福寺に渡御。狩衣で御輿、途中の御剣持ちは佐原三郎左衛門尉家連が、寺の門内では駿河前司三浦義村がこれに任じた。供奉人は立烏帽子に直垂である。小山五郎長村以下の蹴鞠を行なう者は狩衣を着している。座を紅葉の林間に設けた相模守北條時房の配慮は行き届いており、併せて(著名な歌人でもある)子息の三郎入道眞照も特に呼び出された。源式部大夫親行も参上し、蹴鞠の後には同じ場所での和歌の会が催された。
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   ※佐原家連: 義連の三男らしいが、系図によって義連の子は盛連・政連・景連を記載している場合と、政連の
代わりに家連が入る場合がある。家連は貞応2年(1223)〜嘉禎三年(1237)の間は紀伊国守護に任じている。
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   ※眞照: 承久二年(1220)1月14日、北條時房の四男・三郎資時が兄の時村と共に突然出家して法名眞照を
名乗った。共に時房の長男で後に六波羅探題南方に任じた北條時盛(佐介流北條氏の祖)の弟。
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時村はそのまま上洛して親鸞に仕え政治の世界から去り、資時は幕臣に留まって嘉禄三年(1237)に評定衆、建長元年(1249)に三番引付頭(土地に関わる訴訟決裁の長)に任じている。蹴鞠と和歌には長じていたが政治的な手腕は低かったとする説もある。
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二人の出家は時房流北條氏の家督争いからの脱落が原因と見られ、最終的には五男の朝直が大仏流北條氏の家督を継承した(北條氏の系図を参照)。
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承久元年の時点で長男時盛は22歳(生母は不詳)、次男時村は21歳前後(生母は足立遠元の娘)、三男資時は19歳(時村と同母)、四男朝直は13歳(時村と同母)、五男時直と六男実政は幕臣として元寇の役を体験し、幕末近くまで騒乱の時代を生きている。
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   ※大仏流: 朝直は深沢に屋敷を構えたと伝わる。現在の深沢は大船と江ノ島を結ぶ湘南モノレールが有名だが
鎌倉時代には現在の長谷の一部までを含んでいたらしい(地図を参照)。大仏切通し(現在の大仏隧道部分)の東側だった可能性もありそうだ。
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   ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた光行の息子。京都に戻る父と交代する形で
鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願した後に源実朝・藤原頼経・宗尊親王の三代に仕えて歴代の和歌奉行を担当した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月3日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応する祈祷を行った。今日、武蔵守北條泰時が三嶋大社の神事に参席する精進潔斎を開始した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月14日
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吾妻鏡
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晴。今夜は皆既月蝕なのだが月の輪郭が不明瞭で、雲に覆われている様な様子に見える。今までも皆既月蝕は多くあったが今回の如き例は初めてらしい。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月17日
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吾妻鏡
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雨。江嶋(江ノ島)明神の託宣あり。崇敬する者の田畑は豊かな収穫に恵まれるだろう、と。参詣が群れをなした。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月18日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が伊豆国三嶋大社に参詣のため早暁に出発した。来る21日の神事に参席である。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月20日
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吾妻鏡
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御所に於いて蹴鞠の会が催された。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月24日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が三嶋社より帰着し戌刻(20時前後)に御所に参上、無事に奉幣を済ませた旨を報告した。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月26日
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吾妻鏡
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晴。今日、右大臣家(実朝)御追善の三重塔の材木切り出しに取り掛かった。駿河国富士郡に指示して去る3日の予定が定められたが三嶋社の神事に因って今日に延期となった。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月27日
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吾妻鏡
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内藤判官盛時については一昨年に鎌倉幕府への出仕が停止されており、再三の赦免願いが出されていたが去年8月以降は父の死没に伴う重服で在国し特に問題もなかったため今日赦免の沙汰があった。
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   ※内藤盛時: 父・盛家の申請により検非違使任官の宣旨を受けた件が鎌倉で問題になり、特に勲功があった訳
でもないのに嫡男の兄盛親を越えての任官は不合理との沙汰があり、任官不許可と出仕停止の処分を受けていた(嘉禄二年(1226)5月8日の条を参照)。
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   ※内藤盛家: 嘉禄三年(1227)8月1日の吾妻鏡に次の記載がある。寿永四年(1185)からの御家人で周防国
遠石荘の地頭に任じた。建久二年(1191)1月18日の吾妻鏡には「石清水八幡宮の所領に乱入して神官の友国を刃傷し、神社に納めるべき年貢を横領し退去を命じられた」との記載がある。
吾妻鏡の死亡記事にはバラツキがあり、著名な人物が載らずに比較的無名に近い御家人が載っている例も多い。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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11月30日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震あり。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月4日
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吾妻鏡
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昨夜から雨。辰刻(朝8時前後)に雷鳴が数回、驚く程の勢いだった。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月10日
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吾妻鏡
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晴。去る4日の雷に対応する祈祷として、近国の一の宮に奉幣の試写を派遣した。相模国一宮(寒川神社)は駿河守北條重時、武蔵国一宮(小野神社※: )には北條泰時の使者、上野国一宮(貫前神社)は相模五郎北條時直、安房国一宮(安房神社)は駿河前司三浦義村、上総国一宮(玉前神社)は足利五郎長氏、各々神馬と御剣などを寄進し社壇で大般若経を転読するよう別当らに指示を行なう。助教の中原師員・弾正忠清原季氏がこれを奉行する。
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   ※小野神社: 一宮を称している大宮の氷川神社と思っていたら小野神社説が遥かに有力、少なくとも鎌倉時代
までは氷川神社と考える根拠はないらしい。ちなみに府中の大國魂神社は武蔵国総社(国内の祭神を集めて合祀した神社)、これは大磯の六所神社と同じだね。(神社名は全て公式サイト)。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)〜仁治四年(1243)に評定衆に任じている。
同時代・同姓の文官には嘉禄元年(1225)〜延応元年(1239)に任じた清原清定と、その嫡子で延応元年(1239)〜寳治三年(1249)に任じた清原満定がいる(共に評定衆)。系累だとは思うが系図上では確認できない。いずれも北條氏に近い実務官僚。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月13日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に助法印珍誉(南都興福寺出身の僧で歌人、幕府に仕えた)の僧房が焼けた。
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   ※珍誉の僧房: 八幡宮北側の御谷二十五坊にあったのだろうか。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月17日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が書状を右近将監多好氏(9月9日を参照)に送った。和琴の秘曲を美濃澤右近二郎に授けるよう申し送った件についての尽力に感謝する内容である。この指導については過日南條七郎次郎に伝授するよう依頼したが母親が病気のため帰国し、美濃澤への変更を依頼した経緯がある。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月19日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に大地震があった。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月21日
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吾妻鏡
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(地震などの)変異に対応して祈祷が始められた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月25日
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吾妻鏡
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今夜、窟堂下の一帯が焼亡。強風で余焔や火の粉が飛び若宮大路や甘縄などの民家まで被害が及んだ。
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   ※窟堂: 昔は現在の愛宕社北側の山にあったが地震などの崩落により
現在の愛宕社の位置に移ったらしい(移転の時期は不明)。
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八幡宮から壽福寺に抜ける窟小路の語源になっているが、ここから若宮大路までは兎も角、2km以上南西に離れた甘縄まで類焼するのは幾ら何でも無理だと思う。
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右画像をクリック→ 拡大表示。窟小路の画像と詳細のコメントは義朝の館跡、壽福寺を参照されたし。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月26日
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吾妻鏡
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地震の発生に対応しての祈祷が始められた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月27日
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吾妻鏡
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終夜雪。武蔵守北條泰時邸に於いて、来年の将軍家(藤原頼経)による二所詣についての評議が行われた。
信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)が奉行に任じた。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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寛喜元年
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12月29日
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吾妻鏡
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明年の二所詣・御奉幣について、将軍家の御参詣か奉幣使を派遣するかを重ねて評議した。最終的に代官(奉幣使)を派遣することに決定した。
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   ※将軍の二所詣: 間もなく満13歳、代参じゃなくても構わないと思うが...人形扱いするからストレスが溜まる。
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1229年
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86代 後堀河
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安貞三年
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 月 日
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吾妻鏡
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