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寛喜二年(1230)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。夜に入って雪が二寸余り。椀飯あり、通例の通り。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令: 北條時房は55歳・ 北條泰時は46歳・ 北條朝時は37歳・ 北條時氏は27歳・ 北條政村は25歳・
三浦義村は64歳ほどか・ 三浦泰村は46歳・ 足利義氏は41歳・ 小山朝政は80歳・
結城朝光は62歳・ 四代将軍藤原頼経は12歳11ヶ月・後堀河天皇は16歳8ヶ月。(全て満年齢)
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴、深夜に雪。戌刻(22時前後)に御所の南にある淡路前司長沼宗政宅で失火、近隣への類焼はなかった。
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   ※御所の南: 幕府の庁舎は嘉禄元年(1225)に旧大倉から現在地の
宇都宮辻子に移転し、嘉禎二年(1236)になって更に北側の若宮大路東側に移転(地続き説あり)している。
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長沼宗政は小山政光の三男で(朝政の同母弟、朝光の異母兄)。後に宇都宮氏五代当主となる頼綱が幼い頃に政光の後妻・寒河尼の猶子として養育されており、宗政と頼綱が義理の兄弟(頼綱が10歳下)だった関係から宗政が宇都宮邸の近くに居を構えていた、と思われる。
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   ※宇都宮辻子: 辻子は「大通りを結ぶ小道」を意味する普通名詞。
この場合は「宇都宮邸に面して若宮大路と小町大路を結ぶ小道」を意味し、小路の北が庁舎の敷地で南が宇都宮邸だった。 右画像は現在の宇都宮稲荷神社。更に詳細は段葛と二つの政庁で。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の御行始め(外出初め)として武蔵守北條泰時邸に入御、巳刻(午前10時前後)に狩衣に牛車である。越後守北條朝時・ 駿河守北條重時・壱岐前司・出羽前司中条家長・周防前司中原親実が供奉した。
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酉刻(18時前後)の還御におよび引出物を献上、御剣大炊助北條有時がこれを持参した。砂金(紙に包み銀の薄板に置く)は陸奥四郎北條政村、鷹羽を納めた蒔絵の櫃は左近大夫将監大江佐房である。
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   一の御馬(蒔絵の鞍、総鞦(房飾り)懸け)  越後太郎北條光時と尾藤太景氏(景綱の養子)がこれを引く。
   二の御馬(銀鞍を置く)  陸奥五郎北條實泰平三郎左衛門尉盛綱がこれを引く。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月7日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が竹御所邸に入御した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月8日
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吾妻鏡
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来る14日に方違えのため入御される旨を相模守北條時房に仰せられた。御使は助教の中原師員
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月10日
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吾妻鏡
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雨。将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡に御参宮。相模守北條時房・駿河守北條重時・陸奥四郎北條政村・大炊助北條有時・駿河前司三浦義村・左衛門尉中條家平以下が供奉した。鶴岡八幡宮から還御後にまず椀飯の儀、次いで御弓始めを行った。
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   一番 結城七郎朝広     本間太郎左衛門尉忠貞(時房の代官)
   二番 岡部左衛門四郎(駿河か、武蔵か)   吉良次郎(前年の1月1日を参照)
   三番 横溝五郎資重(前年の1月15日を参照)      内藤左衛門六郎(盛時?)
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竹御所の御行始め(外出初め)あり、武蔵守北條泰時邸に入御した。
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   ※中條家平: 家長の孫・家平が左衛門尉(仁治元年(1240)に尾張守護。)
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月14日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が方違えのため相模守北條時房邸に入御した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月15日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が相模守北條時房邸から御所に還御した。.
西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月16日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣の精進潔斎を開始(実際には奉幣使の代参)。
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   ※二所詣: 鎌倉から相模路を通って伊豆山権現へ、さらに日金山を経由して三島明神から箱根権現へ巡拝する
恒例行事。いずれも頼朝に崇敬され庇護寄進を受けていた神社で、頼朝は4回・政子は2回・実朝は8回実施している。ニ所は筥根権現と伊豆山権現、実質的には三嶋大社を含む三所である。
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吾妻鏡に拠れば最初の二所詣は文治四年(1188)1月。二度目に実施した建久元年(1190)1月20日には
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初日の伊豆山権現に向かう途中で石橋山合戦場に立ち寄り、佐奈田与一と郎従豊三の討死を思い出した頼朝が涙を流した、不吉なので次回からは順路を逆にした。
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と書かれている。三島→伊豆山のルートに変更されたため三島から日金道を越え十国峠を経て伊豆山に向かった後年の実朝が相模湾に浮かぶ初島を見て
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「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ」と詠み、それを金槐和歌集に載せる事となった。
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右画像をクリックして日金山東光寺の項を参照されたし。
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   ※日金道: 函南から旧・熱海街道で日金山を超える旧街道(ルート地図)。治承四年(1180)に韮山で挙兵した
頼朝の軍勢が土肥郷(湯河原)を目指したルートと概ね等しい。
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   ※金槐和歌集: 実朝の私家集。「金」は鎌の偏で「槐」は槐門(大臣の唐名)、鎌倉将軍実朝を意味する。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月17日
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吾妻鏡
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晴。竹御所が方違えのため駿河入道行阿(中原季時)の宿所に渡御された。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月20日
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吾妻鏡
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大炊助北條有時が二所詣の奉幣使として鎌倉を出発した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月25日
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吾妻鏡
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大炊助北條有時が二所詣から帰着した。
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   ※巡拝の距離: もちろん地図上の概算で170km、4泊5日の行程。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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1月26日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が公文所で武蔵国太田荘内の荒地を開墾するよう
指示を下した。左近入道道然(尾藤景綱)がこの奉行を担当する。
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   ※太田荘: 埼玉県の東部、荒川と利根川(現在の流路)に挟まれた
羽生市から春日部市にかけての一帯。藤原秀郷の子孫太田行尊(小山氏・結城氏・下川邊氏の祖。藤原秀郷の系図を参照)が開発し、八条院領として立荘した。
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右画像の淡青部分が概ねの太田庄。クリック→ 拡大表示。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは1月の次が閏1月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月7日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は四人の祇候人を去年京都に派遣し多好氏に神楽の秘曲伝授を依頼している。好氏が近日鎌倉に下向したい意思があると聞き、「下向は考えず秘曲などの伝授に専念して欲しい」と書いた書状を送った。
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   ※祇候人を: 派遣した前年9月9日に詳細が載っている。「祇候人」は近臣・近習を意味するがいずれも北條被官
に近い存在で、「泰時の命令を受けて将軍に仕える祇候人」である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月17日
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吾妻鏡
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晴。竹御所の代参として二所奉幣使を務める左衛門尉廣光が鎌倉を出発。去る13日から御精進を始めていた。
西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月19日
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吾妻鏡
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今暁に地震があった。
西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月20日
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吾妻鏡
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夜に入ってから雷鳴があった。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月22日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に地震があり、大慈寺の裏山で土砂崩れが起きた。
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   ※大慈寺: 5年後の嘉禎元年(1235)に将軍藤原頼経が創建する明王院(公式サイト)の東側一帯に大慈寺が
あり、現在は鎌倉青年団が建てた石碑(地図)があるのみだが鎌倉時代末期までは多くの堂塔伽藍を備えた大寺だった。東西の裏山には天園ハイキングコースが伸びている。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が由比ヶ浜へ、新年最初の渡御である。最初に小笠懸、次に遠笠懸、次に流鏑馬、次に20疋を使った犬追物が行われた。次に小山五郎・三浦四郎・武田六郎・小笠原六郎が仰せに従って作物を射て将軍家を喜ばせた。
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   ※作物: 弓射の技術を競う形式だが詳細は既に不明。一部を前年(寛喜元年)6月27日に記載した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月26日
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吾妻鏡
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瀧口武者が不足しているため経験のある武士の子孫に命じて出仕させよとの院宣が下された。今日その件について、小山・下河邊・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野ら一族から各々子息一人を派遣するよう沙汰があった。鎌倉殿(将軍)の命令として、相模守北條時房と武蔵守北條泰時連名の下文である。
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   ※瀧口武者: 蔵人所の配下に置かれた警護の武士組織で、赴任するのは武士の栄誉でもあった。
名称の由来などは承元四年(1210)5月11日の条に概略を記載してある。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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閏1月29日
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吾妻鏡
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雨。将軍家(藤原頼経)が四十五日の方違えとして相模守北條時房邸に入御、竹御所は駿河入道 中原季時邸に入御された。
今夕に旅の御所(時房邸)に於いて、佐々木兵衛太郎信實法師(加地信実)が再三の勲功を考慮の上で本領の返却を求めている件についての沙汰が下された。勲功についての主張は妥当であるが、該当の土地は既に支給を受けた者がいる。暫く機会を待つように、との事である。
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   ※四十五日: 頼経は1月14日と15日、竹御所は1月17日に方違えを行った。何のための方違えか不明だが、
12月の婚姻に関係があるのかも知れない。
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   ※本領の返却: 信実が父佐々木盛綱に勘当されたのは40年も前だから無関係だろう。 佐々木四郎信綱が独占
する形になった一族の所領の中に信実の継承権が入っていた可能性はありそうだ。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月6日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の別当法印定親が御所に参上して盃酒を献上した。相模守北條時房と武蔵守北條泰時や駿河前司三浦義村ら数人も同席した。上綱が伴っていた稚児の中に芸能に優れた者があり、仰せに従って数度の舞を見せ満座を楽しませた。将軍家は特に喜び、その稚児の出自を尋ね法印がこれに答えた。
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承久兵乱の際に意図せず院方に加わってしまった勝木七郎則宗の息子です。所領は没収、則宗の家族も従者も全て離散して孤児となり山林での暮らしを余儀なくされていたそうです。
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泰時は不憫に思いつつ法印の言葉に付け加えた。
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勝木則宗は正治二年(1200)に梶原景時に与して拘禁され、後に赦免となって本所の筑前国に下向し、後鳥羽院の西面武士としてに伺候した者です。
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   ※上綱 : 仏寺に置かれた三綱(総務を管掌する三種の役僧)の上位。貞観十二年(870)に大寺には別当職が
置かれ始めてから権限は弱体化し、この時代は単なる尊称となっている。
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   ※筑前勝木 : この話は同月8日の記事に続き、勝木氏の旧領が筑前国遠賀郡香月(勝木)荘(現在の北九州
市八幡西区香月・地図)だと判る。詳細は8日の記事で。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月7日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が杜戸に渡御され、遠笠懸・流鏑馬・犬追物(二十疋)などを催した。通例の射手が皆参上し各々が弓射の技術を披露した。
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   ※杜戸: 現在の葉山町森戸(地図)。三浦義明の六男重行が長徳寺の付近に本拠を置いて杜戸六郎を名乗った
のが最初と伝わるが、異説も多数あり。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月8日
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吾妻鏡
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勝木七郎則宗の本領である筑前国勝木庄を返却した。中野太郎助能が承久の乱で挙げた勲功の褒賞として拝領した土地だが、6日に舞った稚児への褒美として父の則宗に与えたものである。
中野助能には代替として筑後国高津と包行の両名を与えた。武蔵守北條泰時による配慮である。
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   ※中野助能: 信濃国の御家人。建保七年(1219)1月27日に将軍実朝公暁に殺された際、政子の命令を
受けて公暁の師匠・少輔阿闍梨勝圓を生け捕った」との記載がある。頼家の側近として中野五郎能成の名が数回記載されており、たぶん同族だろう。
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   ※名: 荘園や公領を構成する単位。管理と徴税を行うのが名主だが、「名」の正確な実態は不詳。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月17日
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吾妻鏡
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晴。御所の西侍(御家人控え室)の南縁側で千度御祓いを行った。陰陽師は束帯の安倍親職以下の10人、陪膳(食膳の手伝い役)は大炊助北條有時と常陸大掾北條政村、手長(配膳役)は隠岐三郎左衛門尉二階堂行義行村の子で評定衆)・出羽左衛門中条家平(尾張守護・頼経の側近)ら10人、後藤判官基綱がこれを奉行する。
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   ※千度祓い: 大祓の祝詞を神前で千回読み上げ、罪を祓い清めること。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月19日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が由比ヶ浜に出御された。これは駿河守北條重時が京都守護に任じて近日上洛する事への餞別の意味がある。相模守北條時房・武蔵守北條泰時・駿河守北條重時らが各々野矢(狩猟用の矢)を携えて加わり、60疋の犬追物の開催である。場内の検分役は駿河前司三浦義村(白の直垂・夏毛の行騰に黒馬)、外の検分役は下河辺左衛門尉行光(柿渋仕上げの直垂・鹿の夏毛の行騰、葦毛の馬)。
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  射手は
     一手
       相模四郎北條朝直  武田六郎信長  佐々木四郎
       城太郎安達義景   結城五郎重光(朝光の七男で山川氏の祖)  三浦又太郎氏村(?)
     一手
       相模五郎北條時直  小山五郎長村  下河邊左衛門次郎宗光(検分役行光の子か)
       佐々木八郎信朝(加地信実の末子・八男) 駿河四郎三浦家村(三浦義村の末子)  小笠原六郎時長
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   ※下河辺左衛門尉行光: 下河邊庄司行平の叔父とされているが詳細は不明。
   ※武田信長: 石和信光の次男。一條忠頼の粛清後の名門一條氏の名跡を継承した。
   ※小山長村: 小山政光朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏の四代当主(建保五年・1217年生れ)。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘(長野県佐久市・平賀
氏没領を含む)を本領とし伴野氏の祖となった。
小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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右画像は小笠原一族発祥の地・韮崎市北部に残る伝・小笠原長清の五輪塔(畑から出土した物で、信頼性は乏しいが)。
画像をクリック→ 小笠原氏の本領(別窓)へ。
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   ※佐々木四郎: 本来は佐々木秀義の四男高綱が四郎なのだが、高綱
15年も前に死没している。
長兄定綱と息子は承久の乱で断絶し次兄経高の系統も同様。三兄盛綱の子は加地氏として越後に土着し上記した末子の信朝が八郎を称しているから、四郎の可能性は四男信重か五男資實だが、確定できない。
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ちなみに、異母末弟の義清(生母は渋谷重国の娘)は隠岐・出雲に土着している。義清を除く四兄弟の生母は源為義の娘である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月20日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に地震。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月23日
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吾妻鏡
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晴。21日(一昨日)の太白星(金星)に異常な動きが見えたため祈祷が始められた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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2月30日
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吾妻鏡
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曇。丑刻(深夜2時前後に突然鎌倉中に騒動が起き、甲冑を着け旗印を掲げた武者が御所と武蔵守北條泰時邸の門前に競って集結した。 制止を加えたが数百騎にも及んで簡単には鎮まらず時が過ぎ、泰時は次の様に語った。
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   御所周辺での騒動は特に不穏で、世の乱れはこんな時にこそ起きやすい。慎み深くあるべきだ。
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その後に内々の命令があったらしく、左近入道尾藤景綱と左衛門尉平三郎盛綱と兵衛尉諏方盛重が郎従を率いて門外に出動し、「謀反人がいる!」と叫んで由比ヶ浜の方向に駆けた。数百騎の武者もその後に続いたが、三人は稲瀬河に着いた所で彼らを待ち受けて語り掛けた。
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謀反人など存在しない。御所近くでの騒動を鎮めるためであり、命令もないのに旗印を掲げて集まる事の是非を問うている。野心を持たないのであれば、夜である事も考えて掲げた旗を引渡すように、との命令である。
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この言葉に従って古参の武士20余人が旗を引き渡し、それぞれがこの場所から解散した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。昨夜の騒動の際に旗を差し渡した武士らを御所に呼び集めて武蔵守北條泰時が対面して語った。
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  「各々が不満を言わず旗を差し出したのは実に神妙である。但し根拠のない騒動は向後は固く慎むように。
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求めに応じて旗は返却、世間は美談であると噂した。集まった武士の姓名は記録したが理由は判らない。
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   ※美談: また例によって吾妻鏡の「泰時賛歌」みたいな気がする。次に起きる事件の予告だろうか。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月2日
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吾妻鏡
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晴。竹御所邸で千度御祓い(2月17日を参照)を催した。将軍藤原頼経は夜になって鶴岡八幡宮に御参り。
駿河守北條重時が六波羅勤務になるため小侍別当を辞し、今日から陸奥五郎北條實泰を後任とする。
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   ※六波羅勤務: 貞応三年(1224)6月の執権義時死没に伴って六波羅探題の 泰時が執権を継承するため鎌倉
に戻り、後任には泰時の後継として期待された長男時氏が就任したのだが...病を得て鎌倉に戻り6月28日に死没。次男の時實は2年前に死没し三男の公義は2歳なので後継候補にならず後に出家。時氏の長男で6歳の藻上丸(元服後の経時)が泰時死没後の四代執権となる。
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   ※病を得て: 近年発見された古文書「六波羅守護次第」では、経時は鎌倉へ向かう途中の宮路山(旧東海道が
通っていた愛知県豊川市・地図)で発病した、と記録している。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月5日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応する祈祷とし、御修法三檀を催した。また将軍家(藤原頼経)の本命星供養は助法印、歳星(木星)供養は備中法橋が務めた。
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   ※助法印: 詳細は不明だが、嘉禄二年(1226)8月3日の吾妻鏡に「土曜供は助法印珍誉」の記載がある。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月11日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に駿河守北條重時が六波羅(探題)就任のため上洛の途に就いた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月12日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)から雨、西の方向で雷鳴あり。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月14日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が御方違えのため相模守北條時房邸に入御した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月15日
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吾妻鏡
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晴。永福寺で恒例の一切経会が催され将軍家(藤原頼経)が渡御された。相模守北條時房と武蔵守北條泰時が供奉し、土屋左衛門尉宗光が剣持ちを務めた。

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   ※土屋宗光: 中村宗平の三男土屋宗遠の嫡子。
建暦三年(1213)5月の和田合戦で多くの中村党が滅びたが土屋氏は北條に与して滅亡を免れ、更に足利→武田→徳川と主家を替えて生き残っている。
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右画像は金目川沿いの高台に残る一族の五輪塔。
画像をクリック→ 土屋城址の風景(別窓)へ。

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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月16日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御方違えのため石山局の家(御所北の別棟)に入御。小侍控所の別棟造作工事による。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月17日
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吾妻鏡
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晴。今夜も再び石山局の宅に御方違えあり。
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   ※明月記: 宰相(左中将で参議の姉小路実世・wiki)が昨日北條時氏に面会のため河東(六波羅探題)を訪問。
28日に鎌倉に向かうとのことである。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月18日
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吾妻鏡
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天晴。午刻(正午前後)に小侍を他所に曳き移し十間の対を建てた。
周防前司中原親実が奉行である。
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   ※小侍(所): 将軍に近侍して宿直などを務め御所内の役職を統括した
機関。承久元年(1219)から正式な組織となり、別当や所司などの役職も定めている。
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   ※対(屋): 寝殿に相対して渡殿(渡り廊下)で繋いだ別棟の構造。
十間は部屋数ではなく正面から見た柱のスパン数を示す。
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   右画像は寝殿造りの略図例(クリック→ 拡大表示)。
西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月19日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は遊覧のため三崎の磯に出御された。山桜の花期(少し遅い西暦5月3日)であり、領主の駿河前司 三浦義村は念入りに準備して迎えた。
相模守北條時房と武蔵守北條泰時以下が供奉し六浦津から船、八幡宮の稚児が海上で管弦を演じた。連歌の会が催され、両国司(時房と泰時)と廷尉後藤基綱・散位源親行・平胤行らが各々優れた和歌を献じた。
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   ※六浦津: 北條義時の六男實泰が父の遺領・六浦荘(横浜市金沢区)を相続し後の金沢流北條氏の祖となって
いる。今回の遊覧は鎌倉から朝比奈切り通しを経て六浦→ 三浦のルートを辿ったらしい。
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   ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた光行の息子。京都に戻る父と交代する形で
鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願した後に源実朝・藤原頼経・宗尊親王の三代に仕えて歴代の和歌奉行を担当した。
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   ※東胤行: 千葉常胤の二男で東氏の祖となった東(六郎)胤頼の嫡子が重胤、その嫡子が中務丞胤行。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月22日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が三崎から還御された。
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   ※三浦へ遊覧: 延応元年(1239)に三浦義村が没して泰村が家長になると義村の四男光村は将軍頼経の側近
として北條執権と対立、1247年の宝治合戦で一族の滅亡を招く事になる。
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義村が何時の日か北條氏と覇権を争う事態が来るのを予期して将軍頼経との交流を模索したのかどうか、それとも決断力に欠ける無能な策士に過ぎなかったのか、興味を惹かれる部分だ。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月28日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応する祈祷を行った。内外典の数座である。
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   ※内外典: 内典は仏教・外典は仏教以外(この場合は祈祷なので陰陽道)を差す。
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   ※明月記: 夕刻に宰相(左中将で参議の姉小路実世・wiki)が来訪、今朝密かに時氏朝臣の下向を見た、と。
単葛(葛の繊維を横糸に織った単(ひとえ)の布)の直垂に夏(鹿)毛の行騰で征箭(実戦用の矢)を 負い、黒作(黒漆)の太刀を佩き同じ仕様の鞍である。郎従数百騎が早暁に先発し、自身は明け方に出発した。七歳の息子(後の北條経時)が手戟を携え小型の馬に跨って従っている。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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3月29日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に御所の両対(十二ヶ間)に二ヶ間を増築した
十四ヶ間とする事について支障の有無を陰陽師に諮問したところ安倍親職ら三人は「寝殿以外なら問題なし」と答え、図書助安倍晴賢のみが支障ありと申し立てた。結果として二寸(約6cm)下げて繋げることに決定した。
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   ※増築工事: 詳細は3月18日の条を参照されたし。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月1日
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吾妻鏡
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雨のため日蝕は確認できず。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月9日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に越後守北條朝時の妻室が死去した。
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   ※朝時の室: 大友能直の娘と北條時房の娘が妻とされており、どちらなのか確証がない。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月11日
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吾妻鏡
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晴。六波羅から匠作(北條時氏・匠作は修理職の唐名)が鎌倉に到着。先月26日の駿河守北條重時入洛との交代である。

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   ※日程確認: 重時の鎌倉出発は3月11日で京都到着は26日(行程15日)、時氏の京都出発は3月28日で
鎌倉到着は4月11日(行程14日)、特に気になるような誤差はない。
3月2日に載せた「六波羅守護次第」の「宮路山で発病」の傍証には成り得ないな。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月13日
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明月記
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承久の時代、関東の海で漁師が網を引き上げると頭だけで体のない魚が多数入っていた。人々は驚愕したが、その後に(承久の兵乱で)鎌倉勢が勝利して多くの公卿らが首を斬られ、東国ではこれを吉兆とした。また近頃網を引いた際に頭がなくて体だけの魚が多数入っていた。承久の事件に懲りた人々はこの事件を恐れている。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月17日
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吾妻鏡
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晴。弥勒堂で如法経の十種供養を催した。竹御所と武蔵守北條泰時が参席し、導師は大学法眼行慈。
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   ※弥勒堂: 関連記事は次の二点があり、勝長寿院の弥勒堂だった可能性が高い、と思う。
文治二年(1186)7月11日と15日に 「勝長寿院で盂蘭盆会、行慈法橋に布施を届けた」、
元久二年(1205)6月28日に 「武蔵国の久下郷を勝長寿院の弥勒堂領として寄進した」 
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   ※如法経: 一定の法式に従っての写経、および、その筆写した経文。多くは法華経が該当する。
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   ※十種供養: 華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・絵蓋・幢幡・衣服・伎楽の十種で仏を供養すること
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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4月27日
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明月記
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最近になって法師の武具所有が禁止となった。多くの悪僧が捕縛され六波羅の沙汰として関東に送られた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月5日
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吾妻鏡
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雨。子刻(深夜0時前後)に盗人が常の御所(日中の居間)に忍び込み御剣や御衣などを盗み取り行方知れずになった。武蔵守北條泰時が事件を知って駆け付け、左衛門尉金窪行親・左衛門尉平三郎盛綱らに命じて大番衆(警護担当)に周辺を警備させ、人の出入りを禁止した。
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   ※盗人侵入: いい度胸と言うべきか、警備が杜撰と言うべきか...結局は内部の手引きによる犯行だった。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月6日
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吾妻鏡
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小雨。武蔵守北條泰時は昨夜の盗難事件に驚くと共に憤って未だに御所から退出していない。侍(控えの間)に昨夜勤務していた者を全員集めて取り調べを行った。その中に恪勤(雑用に任じる下級武士)一人と美女(女官)一人に疑いがあり、鶴岡八幡宮に参籠した上で起請文を提出するよう命令した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月14日
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吾妻鏡
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晴。嫌疑が掛かっていた恪勤と美女は起請文を提出できず、事件の子細を糺明した上で御所から追放となった。美女が男を誘惑して盗ませた事が露見した結果である。
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   ※男を誘惑: 犯罪の影に女あり、じゃなくて、犯罪の影に異性ありと言う方が正しいね、きっと。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月21日
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吾妻鏡
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加賀前司遠兼は亡父安藝前司源仲兼から相続した遺領を管理している。地頭職としての取り分などは先例に従って徴収するよう、将軍から指示が下された。彼の仲兼朝臣は、去る元久元年(1204)12月に当時の将軍家(実朝)の室(坊門信子、現在の西八條禅尼)が京都から鎌倉に嫁入りした際に供奉、翌年閏7月26日に一ヶ村を拝領、父子二代が鎌倉御家人として奉公している。
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   ※加賀前司遠兼: 原文は「遠兼「だが、「兼遠」の間違い。父の仲兼は法住寺合戦で義仲が仙堂を攻撃した際
に防御勢として戦った宇多源氏の武士。閏7月26日はちょうど北條時政夫妻の失脚の余波で 平賀朝雅が京都で追討された動乱期、仲兼の「一ヶ村拝領」は吾妻鏡には載っていない。
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   ※坊門信子: 事件後に27歳で剃髪して京に帰り、本覚尼を名乗って九条大宮に遍照心院(現在の大通寺)を
建立、夫の菩提を弔いつつ82歳で没した、と伝わる。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月22日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に将軍家(藤原頼経)が鼻血、咳が原因と思われる。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月24日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に将軍家(藤原頼経)が再三の鼻血に及んだため御所に於いて七座(七人)による泰山府君祭 を行った。左近大夫将監佐房が奉行するはずだったが支障があったため隠岐三郎左衛門尉に交代となった。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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5月27日
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吾妻鏡
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修理亮北條時氏が体調を崩し今日未刻(14時前後)から悪化、武蔵守北條泰時が数ヶ所で祈祷を行わせた。
宮内兵衛尉公氏・周枳兵衛尉(京丹後市の地名だが..)・安藤左近将監・同次郎・雑色兵衛尉らが看病に務め、座を離れなかった。
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   ※宮内公氏: 建保七年(1219)1月27日の実朝の右大臣拝賀式典の
出発前に実朝の髪を整え、記念として髪の一筋を与えられたのが宮内公氏。泰時の被官に転身していたんだね。
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甥の公暁に斬殺された実朝の首は結局見つからず、鎌倉では公氏が受け取っていた一筋の髪を首の代りとして勝長寿院に葬っている。実際には首は三浦の家臣・武常晴が波多野に持ち込んで埋葬しているのだが。
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右画像は波多野に残る実朝の首塚(三十三回忌の供養墓)。
画像をクリック→ 「実朝の首塚 詳細」(別窓)へ。
「くびづか」ではなく「みしるしづか」と呼ぶのが礼儀らしい。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。巳刻(10時前後)、幕府小御所の屋根に白鷺が群れ集まっていた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月6日
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吾妻鏡
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晴、未刻(14時)以後に雨。今日、助教の中原師員と弾正忠季氏の奉行として陰陽師を御所に呼び七人集まった。親職・泰貞・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・晴職・国継(いずれも安倍氏)で、各々西の廊下に着座した。相模守北條時房・武蔵守北條泰時・隠岐入道行西(二階堂行村)・出羽前司 中条家長らが評定所に集まり、昨日の鷺について中原師員の奉行により占いが行なわれた。
親職と晴賢は「口論などを慎むように」との結果を示し、泰貞らは「将軍家や重要人物の病気に関して文書あるいは口頭での争いを知る事になるでしょう」と語り、それぞれが文書による結果を献じた。
またこの怪異への対応として御所から移るべきか否かを問うたところ、全員が移る必要なしと口頭で答えた。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)~仁治四年(1243)まで評定衆を勤めている。
暦仁二年(1239)~宝治三年(1249)は同じ清原姓の満定(清原清定の息子)が同じ評定衆に任じているのだが、二人の関係が判らない。評定衆が設けられた(1225)から任じている斎藤(清原)長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月7日
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吾妻鏡
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今夜鷺祭を催した。担当は安倍晴賢である。
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   ※明月記: 修理亮北條時氏が鎌倉で病となり既に死を待つ状態との事、在京の武士が騒がしく動いており、更に
事件が起きそうで落ち着かない。夕方になって雑人の話では相模四郎北條時房朝臣の嫡男が死没したとの噂がある、と。(翌日に誤報と判明)
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月9日
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吾妻鏡
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雷雨。酉の四点(17時半過ぎ)に御所の車宿(牛車車庫)の東母屋に落雷、柱と破風が破損し後藤基綱の下働き(牛飼い?)が一人雷を受けて悶絶した。北の土門(屋根のない門)から運び出したが戌刻(20時前後)に死んだ。
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   ※明月記: 巳時(10時前後)に宰相(左中将で参議の姉小路実世・wiki)が来訪、駿河の事(6月7日の情報)は
虚言だが、武蔵(北條時氏)は既に獲鱗の状態で、絶命には至っていない、と。
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   ※獲鱗: 孔子の著と伝わる史書「春秋」に載った最後の言葉。気味の悪い生き物を見た孔子が麒麟(聖獣)だと
気付き、聖獣=気味の悪いとする人々の姿に絶望して「西に狩して麟を獲たり」を最後の記録とした。
これが転じて最期・臨終の意味に使われるようになった、らしい。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月10日
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吾妻鏡
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雷雨、戌刻(20時前後)に晴。御所に於いて七座(七人)による鬼気御祭を行なった。隠岐三郎左衛門尉二階堂行義(行村の子で評定衆)が奉行である。
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   ※明月記: 掃部助北條時盛(時房の長男で佐介流の祖)が北條時氏を見舞うため急いで鎌倉に向かった。
彼の話では時氏は4月の頃から重病(熱病)で存命は無理だろう、と。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月11日
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吾妻鏡
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小雨。午刻(正午前後)に武蔵国の在庁官人が報告。去る9日の辰刻(8時前後)に当国金子郷に雪混じりの雨と共に雷と雹も降った、と。
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   ※金子郷: 現在の埼玉県入間市金子(地図)、武蔵七党村山党金子一族の本領で、金子十郎家忠が義経軍に
加わり、元暦二年(1185)2月19日に田代信綱や弟の余一近則(親範)と共に屋島の平家を攻めた事が吾妻鏡に載っている。金子近辺は今では狭山茶の名産地だ。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月14日
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吾妻鏡
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激しい風雨。相模守北條時房と武蔵守北條泰時が御所に入り西の廊下に着座、助教の中原師員・隠岐入道行西(二階堂行村)・駿河前司三浦義村・民部大夫入道行然(二階堂行盛)・加賀守町野康俊・弾正清原季氏らがその近くに控えた。去る9日の落雷に対応して将軍家(藤原頼経)が御所から退避べきか否か、また占いの吉凶を確認してから対応すべきか否か、などを評議したが意見は様々だった。
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清原季氏は「前例に拠る判断はできず、このような場合は占いの吉凶に従うべきです。醍醐天皇の延長八年(930)6月26日に清涼殿坤方(西南西)の柱に落雷した際には大納言清實卿・右中弁希世朝臣が雷に打たれて死ぬ異常事態でしたが遷幸せず、常寧殿に入御されました。」と語った。
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二階堂行村は「延長の事例は不吉であります。醍醐天皇は同年8月23日に退位し9月29日に崩御されました。常寧殿への入御は遷幸に準じる行動と考えるべきか、と。」と語った。
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中原師員は「故右大将家(頼朝)の奥州征伐の際に軍陣に落雷し、承久の兵乱では右京兆(北條義時)の釜殿(湯殿)に落雷がありましたが共に良い結果を招きました。落雷は怪異ではなく吉事であります。」と語った。
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    右画像は奥州征伐の頼朝が本陣を置いた跡・水雲神社。
        画像をクリック→ 阿津賀志山の合戦(別窓)
へ。
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三浦義村・二階堂行盛・町野康俊らは「先例は判断の基準とならず、現状を判断して御所を去るか否かを占えば宜しかろう、と。」と語り、中原師員が陰陽師七人(去る6日に鷺について占ったメンバー)を呼び、簾中に座した将軍家および列座した時房・泰時・義村・行西らの前に参集させた。
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中原師員が将軍の言葉を次のように伝えた。
「去る9日の落雷は忌むべきの事だが関東の先例では吉事とも言える。
しかし御所を遷幸すべきと考える者もいるため、どう対処すべきかを各々が占って判断してもらいたい。」

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泰貞朝臣は「大内裏に限らず落雷は日常起きる事件であり、占いによって安易に御所を去る先例は知りません。それでも占いで決めるとの考えでしょうか。」
晴賢は「先祖の晴道は雷が落ちた場所に住むべからずと解釈し、古い経典にも良くないと記されています。退去すべきでしょう。」と語り、師員がその経典を確認した。国継はこれに賛成した。
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親職と晴幸は「鷺と雷雨、重なった怪異を避けて退去すべきです。」と主張した。
重宗は「京都では落雷があった場所から立ち去る事はなく、この御所に限っての退去は不要でしょう。」と語った。
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中原師員は「将軍家の御先祖である後京極殿(九条良経)は大炊殿に出仕した際に落雷があっても退去しなかったのは御存知の通り。後京極殿の子孫として現在の繁栄があるのだから吉例と考えるべきでしょう。」と語った。
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晴賢はこれに答えて「御子孫の繁栄はその通りですが大炊殿は間もなく焼け落ち、今は跡地も荒廃しています。70歳・80歳まで生きる人もいる中で38歳での死去は良くない例の典型でしょう。」と語り、義村もこれに同意した。
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泰貞は再び「それらが吉事であるのなら御所の退去は不要になります。」と語った。将軍家から是非を占うべきとの指示があり、泰貞と重宗は「(落雷のあった)9日酉刻以後は特に何も起きていませんから特に支障はありません。」と答えて占った結果、親職と晴賢と晴職は「良くない」、晴親と国継は「半吉である」と答え、陰陽師は退出した。
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その後に評議があり、時房・泰時・師員が御前に進んで「落雷事件による遷幸は不要」との結論を報告した。将軍家は「先日の鷺の件により立ち退くことにしよう」と答えた。泰時は再び廊下に出て陰陽師等を呼び、元の席で占いを行わせた。全員が「遷幸すべし」との結果を報告、泰時邸に入御するとの結論に達して解散となった。
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   ※清涼殿に落雷: 安貞二年(1228)6月25日の吾妻鏡に引用あり(資料として北野天神縁起絵巻を添付)。
   ※軍陣に落雷: 文治五年(1189)8月7日の吾妻鏡に載っている。場所などについての詳細は右画像をクリック
して阿津賀志山の防塁(サイト内リンク・別窓)で。
   ※釜殿に落雷: 承久三年(1221)6月8日の吾妻鏡。義時は酷く恐れて大江廣元を招いて相談した、と。
   ※九条良経: 藤原(九条)兼実の次男で従一位、摂政・太政大臣。元久三年(1206)に38歳で急死した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月16日
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吾妻鏡
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晴。美濃国の飛脚が鎌倉に入って報告、去る9日の辰刻(朝8時前後)に当国蒔田庄に雪が降った。
武蔵守北條泰時はこの現象を特に恐れ、徳政に努める旨の決意を新たにした。美濃と武蔵は10余日の距離に隔てているのに同じ日の同じ時刻にこの怪異が起きるのは驚くべき事件である、と。
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6月の多雨は豊年の予兆なのだが、寒さが例年より長く続いて穀物が実らず、天候の不順が飢饉を招いている。
関東では懸命に善政を尽くして悪行を禁止し我が身を顧みず努力しているのに、近年の天候不順は陰陽師卜占の不一致まで引き起こす起こす異様な状態である。
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そもそも6月に降雪の例など実に稀有で、孝元天皇39年(紀元前176年)6月の雪から26代が過ぎて推古天皇の34年(626)6月の大雪、更に26代を経て醍醐天皇の延長八年(930)6月8日に大雪、いずれも不吉である。今また26代(但し九條帝を加え)を経て今月9日に雪とは、上古でさえ異様なのに現代では有り得ない怪異である。
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   ※蒔田庄: 現在の岐阜県南西部・大垣市なのは間違いないが詳細なエリアは確認できない。
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   ※武蔵国で: 9日の記事を参照。辰刻(8時前後)に当国金子郷に雪混じりの雨と共に雷と雹があった、と。
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   ※飢饉: 寛喜二年から寛喜三年にかけて続いた天候不順は鎌倉時代を通じて最大の「寛喜の大飢饉」となる。
天候不順は1228年には発生しており、食糧難による餓死は1233年頃まで続いたらしい。
貞永元年(1232)8月に泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定した背景には、飢饉による深刻な社会不安を鎮めたいという願いが含まれていた。
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   ※九条帝: 第85代仲恭天皇を差す(順徳の次、後堀河の前)。父の順徳天皇が後鳥羽上皇の挙兵(承久の乱)
に加わるため21歳で譲位し4歳で仲恭天皇となったが上皇は間もなく敗北し、仲恭天皇は即位78日で廃位となった。即位式も大嘗祭もないため諡号追号がされず九条廃帝・承久の廃帝などと呼ばれ、明治維新になって仲恭の諡号を贈られた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月18日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)、修理亮平朝臣(北條時氏)が死去(28歳)。去る4月に京都から下向して間もなく病床に伏し祈祷も医療も効果が見られなかった。去る嘉禄三年(1227)6月18日には次男(時氏の異母弟時實)が死去し、四年後の同じ日に再び訪れた不幸で、男子二人の早世による悲しみは例えようがないほど深い。
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寅刻(早朝4時前後)に大慈寺近くの山麓に埋葬、葬礼については陰陽大允晴憲の門生・刑部房の差配となる。
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   ※時實の死去: 家人の高橋次郎による殺害で、原因の一端は時實の側にもあったらしい。いずれにしろ後継者
を失った執権泰時は時氏の遺児経時(この時点で6歳)に望みを託すことになる。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月22日
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吾妻鏡
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晴。鷺の異変に対応して計画された将軍家(藤原頼経)の御所転居は匠作(北條時氏)の死去により中止となった。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月23日
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史 料
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   ※明月記: 晴。去る18日に修理亮北條時氏の死去を知らされた。中原行兼は明暁に鎌倉に下向する。
時氏と交代して六波羅探題に任じていた駿河守北條重時も下向を望んだが相門(左中将で参議の姉小路実世・wiki)が京都の情勢を説明して押し止めた。
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   ※中原行兼: 九条道家に使えていた実務タイプの武士で周防介。西園寺公経藤原定家らとも懇意にしており、
京都と鎌倉の間を頻繁に往来している。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月24日
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史 料
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   ※明月記: 晴。駿河守北條重時は(制止の)言葉にも拘わらず明暁に下向するつもりである。
河東(六波羅探題)が一人も居なければ夜討ち勝手の状態になってしまう。
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   ※百錬抄: 銭一貫文の価値を米一石にする旨の宣旨が発せられた。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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6月28日
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吾妻鏡
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大倉にある後藤判官基綱の家で評定を行なった。通常は武蔵守北條泰時邸での開催なのだが(時氏死没の)禁忌によって避けた結果である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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7月11日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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二位家(政子)の祥月命日。勝長寿院の南小御堂で恒例の法会を催した。竹御所も御聴聞のため渡御された。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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7月15日
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吾妻鏡
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小雨。酉刻(朝8時前後)に駿河次郎三浦泰村の妻室(泰時の娘)が女子を平産した。祈祷は丹後律師頼暁(八幡宮供僧・大僧都)、医師は丹波良基朝臣、陰陽師は新大夫泰宗。各々に絹布二領の褒賞あり。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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7月16日
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吾妻鏡
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霜が降りた。まるで冬空の状態である。
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   ※まるで冬空: 7月16日は西暦の8月25日、いよいよ本格的な「寛喜の大飢饉」の到来だ。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が見付かったのは昭和八年(1933)に37歳で没した一年後、生前に愛用していた手帳にメモとして書かれていた。 賢治が9歳だった明治三十八年(1905)の東北は冷夏による大凶作で米の収穫は平年に比べゼロ~3割、餓死や娘の身売りが普通だった。
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「寒さの夏はおろおろ歩き...」 は少年期に直面した悲惨な記憶から生まれたんだね。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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7月26日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)、去る15日に産まれた駿河次郎三浦泰村の女子(生母は泰時の娘)が死去した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月4日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に武蔵守北條泰時の御息女(駿河次郎三浦泰村の妻室)が死去した(25歳)。
出産前の数十日間の容態が深刻で、かなり苦しんだ末の結果だった。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月6日
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吾妻鏡
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朝が曇、午刻(昼前後)に激しい雨。夜になって洪水が起き川沿いの民家が流失し多数の溺死があった。
古老は「こんな例は聞いたこともない」と嘆いている。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月8日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に豪雨と強風があり夜半まで続いた。草木は枯れて冬の如く、穀類も実らない。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月12日
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史 料
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※明月記: 晴。有長朝臣から連絡、武蔵守泰時の息女(時房子息の妻)が難産の
ため去る4日に死去した。また今暁、園城寺の南院が中院と北院の衆徒によって焼き払われた。天下の大事である。
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      「時房子息の妻」ではなく、「駿河次郎三浦泰村の妻」 。
遠距離からの伝聞情報だからやむを得ないけど。
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※皇帝紀抄: 園城寺の中北両院の衆徒が南院を焼いた。
以前から寺域を巡って勢力を競う紛争があり、南院側の対応が頑固だったのが原因らしい。夜になって南院の衆徒が中北両院を焼き、朝廷が武士を派遣して鎮圧に当たった。
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   ※南・北・中院: 三井寺(圓城寺)は寺域が広く、観音堂一帯を中心にした南院、
金堂を中心にした中院、新羅善神堂・法明院を中心にした北院が勢力を競っていた(右地図(クリック→拡大)を参照)。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月13日
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明月記
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朝から雨。園城寺の紛争は未だに落着していない。北院と中院の衆徒が南院を焼いた後に、南院の衆徒が再び中院と北院を焼いた。火災の間に殺し合ったが武士が駆け付けたため悪徒は退散し、南院の僧が少し残った。 火災は堂塔には及ばす互の僧房のみを焼いて鎮火、武士が残留して警備に当たった。
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   延暦寺と圓城寺が放火合戦するなら少しは理解できるが園城寺内部で争うとは、コメントする気も起きない。
梶原・比企・畠山・和田、後に三浦を滅ぼした北條氏も次は同族で争ったのだから不思議じゃないが...。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。(恒例の)鶴岡八幡宮での放生会は延引となった。多くの人が弔問に訪れるため泰時の触穢が方々に広がってしまった。元仁と嘉禄の例に従って延期と定めた結果である。
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   ※触穢: 死穢や産穢などの穢れに触れること。神事の開催や出席などを慎むのが通例となった。
泰時の場合は時氏の死去(6月18日)と孫娘の死去(7月26日)と娘の母親 (三浦泰村の室)の死去(8月4日)の、三重の穢である。ちなみに、元仁の例は1224年6月の義時死没、嘉禄の例は1225年7月の二位政子の死没を意味している。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月21日
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吾妻鏡
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曇。六波羅の飛脚が到着して報告。、去る12日の卯刻(朝6時)に園城寺の中院と南院の衆徒が僧房の争いを起こし、北院の房舎を焼いてしまった。同日の戌刻(20時前後)には北院の衆徒多数が中院と南院を焼き、一日で三ヶ所の房舎が灰燼に帰した。学僧は分散して逃れ高僧は山林に隠れた。朝廷の法要などには僧の出席ができず、天皇家にとっては重大な支障である。
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   ※園城寺の争い: 8月12日と13日の記事を参照されたし。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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8月28日
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吾妻鏡
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雨。辰刻(朝8時前後)に大夫判官佐々木四郎信綱が使節として上洛の途に就いた。三井寺衆徒が起こした紛争を調べて処理する為である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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9月8日
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吾妻鏡
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申一刻(15時過ぎ)から寅四点(17時前後)まで特に激しい強風。御所の中をはじめ多くの人家が破損・倒壊した。
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   ※皇帝紀抄: 強い風雨により伊勢神宮の殿舎も被害を受けた。 9月8日は西暦10月15日、少し遅い台風か。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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9月18日
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吾妻鏡
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晴。故修理亮北條時氏の墳墓堂供養が催され、武蔵守北條泰時が渡御された。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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9月27日
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吾妻鏡
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去る4日から続いている天変に対応して今日五壇法を催行した。
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   ※五壇法: 五大明王(不動・降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉)を個別に安置し国家安穏を祈る密教の修法。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月6日
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吾妻鏡
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晴。右丞相(故将軍実朝)十三回忌に際して建立する追善の三重塔の定礎を行なった。
戌刻(20時前後)、民部大夫入道行然(二階堂行光)の沙汰で安倍親職朝臣が土公神(wiki)を祀り、右近大夫将監大江佐房が将軍の代参に任じた。
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   ※三重塔: 11月11日に「勝長寿院内に新造する三重塔を上棟」との記載がある。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月16日
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吾妻鏡
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晴。今日、武蔵守北條泰時所願の北條御堂の上棟を行なった。左近入道道然 (尾藤景綱)・齋藤兵衛入道浄圓(藤原長定)が奉行に任じた。
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   ※北條御堂: 場所の確定はできないが嘉禄元年(1225)に執権に就任
した泰時が一族の菩提寺として建立した東勝寺だと思う。
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開山は泰時が嘉禎三年(1237)に開基した常楽寺と同じく退耕行勇。吾妻鏡には東勝寺建立の記事がなく、創建年代は13世紀初~中期と推定されているのみ。
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時政開基の韮山の願成就院が該当する可能性もあるが、こちらは義時の時代に全て完成したから除外すべきだろう。
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右画像は一族滅亡の地でもある葛西ヶ谷の東勝廃寺跡。
     画像をクリック→ 東勝寺跡(別窓)へ。
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   ※藤原長定: 実朝近臣として働いた京下りの官人。和田合戦の建保元年(1213)5月3日に「丁度鎌倉に祇候
していた出雲守定長は武門の人物ではなかったが防戦に力を尽くした。刑部卿難波(藤原)頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。」との記載がある。
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   ※明月記: 全国の飢饉が深刻な状態で、関東の将軍以下も常膳(普段の食事)を減らしているとの噂である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月20日
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明月記
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晴、風は静まった。下位の山法師(比叡山衆徒)4人が通行人の剣を奪い、叫び声を聞いた雑人(下級武士)が駆け付けて2人を射殺し2人を捕縛して河東(六波羅)に連行した。 悪徒や謀反人が横行しているのは危険である。
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   ※悪徒の横行: 飢饉が広がって世情が乱れが広がり始めている。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月24日
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吾妻鏡
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昨夜の丑刻(2時前後)から今日の子刻(深夜0時)にまで激しい雨。午刻(正午前後)に武蔵守北條泰時娘 (三浦泰村の室)の墳墓堂で供養を行なった。百ヶ日の回向である。
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   ※墳墓堂: 常楽寺裏山の「姫宮」との伝承あり(16日の「常楽寺」を参照)。常楽寺の建立は嘉禎三年(1237)
だからこの時点での姫宮は道もない山の中、墳墓堂に適してるとは言えない。泰時が常楽寺を建立し自分の墓所と定めた事から派生した伝説だろう。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月28日
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名月記
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晴。奥州の馬50疋が都に届き、用途別に検分した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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10月29日
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百錬抄
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昨夜より客星(普段は見えず、一時的に現れる彗星・新星)が確認された。養和元年(1181)以来の事件である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月1日
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名月記
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晴と曇。28日、西の空に客星が現れた。甚だ不吉である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月1日
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皇帝紀抄
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先月27日の夜、盗人が東大寺の勅封倉(正倉院を差す)を焼いて開き、累代の宝物を盗み出した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月6日
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吾妻鏡
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雨。西国で発生した夜討・強盗・殺害の犯人などを庇護する与党があれば守護所から出頭を二回通告させ、従わない場合は人数を送って捕縛せよとの指示を六波羅に命令した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月7日
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吾妻鏡
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晴。西国の庄(荘園)や公(公領・国衙領)の地頭が領家(上位の所有者)の訴訟を受けて敗訴した場合、二回対応を命じても従わない場合は書面で報告させるよう六波羅に命じた。
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申刻(16時前後)に鶴岡八幡宮の回廊中門の西側に死体があった。8月に行なうべき放生会を延期して今日の開催にしたにも拘わらずこの様な穢れが発生したため、将軍家(藤原頼経)の仰せに従い、放生会を再び延期するか否かを七人の陰陽師に占わせた。「延期が吉」が占いの結果である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月8日
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吾妻鏡
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晴。大進僧都観基が御所に参上、「先月16日の夜半、陸奥国芝田郡で石が雨の如く降る事件が起きました」と語り、その石を一つ将軍家に呈上した。大きさは柚子ほどで細長く廉(角)があり、降った範囲は20余里、と。
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   ※大進僧都観基: 祈祷に任じる修験者として再三の登場あり。貞応元年(1222)12月12日に義時室の出産、
貞応二年(1223)10月16日に天変に対応した祈祷、嘉禄三年(1227)11月15日に天変地異と赤斑瘡に対応した祈祷、など。天台または真言密教の修法専任らしい。
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   ※芝田郡: 現在の宮城県柴田町一帯(地図)。すぐ東側の亘理町は亘理郡衙のあった場所で、奥州藤原氏の祖
藤原清衡の父亘理(藤原)経清の本拠だった。そうそう、伊達騒動を描いた「樅の木は残った」の主人公原田甲斐が本拠を置いた船岡もこのエリアだね。
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   ※20余里: 律令制の一里は4kmではなく約454m、従って約9km。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月11日
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吾妻鏡
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晴。勝長寿院内に新造する三重塔を上棟、武蔵守北條泰時も立ち会い、併せて変異(石の件か)の祈祷も催した。
また今日巖殿 (岩殿)観音堂の礎石を置き、縄張りを行なった。勧進上人(寄進を集める僧侶)は西願である。
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   ※岩殿観音堂: 倒壊した観音堂の再建工事らしい。坂東札所の公式サイトはこちらで。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月13日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は特に祈願の事があり今日、霊所御祓いを行なう。
由比ヶ浜は泰貞、金洗澤 (七里ヶ浜・地図)は晴茂、多古恵河(田越川・地図)は国継、森戸(時々出る杜戸・地図)は親貞、抽河(いたち川・鼬川・ 地図)は大夫、六浦(横浜市金沢区・ 地図)は忠弘、堅瀬河(境川・ 地図)は晴貞。
新民部少輔親實が奉行を務める。
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   ※霊所御祓い: 七瀬の禊または七瀬祓い。平安時代からあった陰陽道の修法で水を司る七ヶ所の霊所で行う。
堅瀬河ではなく江ノ島龍穴を含めるのが通例だと思うが...
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   ※民部少輔親實: 明経道の中原忠順の子で評定衆中原師員の叔父。将軍藤原頼経に仕え儀礼や祭祀などの
奉行を務めた。文暦二年(1235)年に厳島社造営を担当して周防守護から安芸守護に転任し厳島神社の神主に任じた。寛元二年(1244)には上洛して六波羅評定衆に転任。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月18日
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吾妻鏡
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朝は晴、午刻(正午前後)から突然風雨、申刻(16時前後)に雷鳴。夜になって暴風雨に雷が加わった。冬至の雷は特に異変であり、慎みが必要である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月20日
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百錬抄
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朝廷では非常赦が発布された。客星(普段は見えず、一時的に現れる彗星・新星)の祈祷のためである。
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   ※非常赦: 恩赦などでは赦免できない罪も特別に赦免の対象にする例。平安中期から頻繁に行われた。
政権与党の顔色を忖度した内閣法制局長官(悪党顔の奴)が憲法解釈を都合よく変えるのも同じ。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月22日
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吾妻鏡
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頻発する天変に対応して祈祷。大属星供は助法印珍誉(3月5日を参照)、東方清流は法印良算の担当である。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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11月28日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に勝長寿院の塔婆九輪(wiki)を挙げた。
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   ※塔婆: 10月6日に「右丞相(故将軍実朝)十三回忌に際して建立する追善の三重塔の定礎」の記事がある。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月4日
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皇帝紀抄
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興福寺の衆徒が東大寺勅封倉(正倉院)の盗人(11月1日の事件)を捕らえた。盗んだ御鏡八面は全て破損した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月5日
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吾妻鏡
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晴。客星が出現したと安倍親職が報告した。
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   ※客星: 彗星または新星を差す。彗星だと思うが、この時点では確定できない。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月6日
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百錬抄
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左少弁の時兼朝臣が東大寺勅封倉(正倉院)を開くため南都に下向した。先月の盗難による収蔵物の被害を確認するのが目的である。
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   ※正倉院: 元は東大寺の倉庫。明治八年(1875)に内務省、明治十七年(1884)に宮内省、現在は宮内庁の
正倉院事務所の管理下にある。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月7日
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吾妻鏡
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周防前司中原親實が天文司に奉書を呈し、客星の出現か否かの報告を求めた。
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   ※奉書: 主人(この場合は将軍)の意を受けて従者(この場合は中原親實)が下達する文書。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月9日
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吾妻鏡
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雨のち雪。 将軍家(藤原頼経・13歳)の婚姻について(泰時から)非公式の沙汰が下された。
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助教中原師員の奉行として安倍親職・晴賢らを呼び吉日の選定を指示、二人とも今日か明日が良いと答申したが、清原季氏が「明日は天狗下食なので好ましくない」と異議を呈した。
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師員を介して親職らに「両日とも良いのは何故か、また明日には難ありと言う者もいる。」と再び尋ねた。親職らは「共に吉日ですが今日の方が優れています。天狗下食には全く問題がなく、むしろ吉と考えるべき。」と答えた。
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これ以上の検討は不要とされ今日との決裁が下った。この勘文を政所に送付し、行然(二階堂行盛)の奉行として然るべき準備を整えるよう命じた。また泰貞に命じて吉となる時間を報告させた。
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亥刻(22時前後)に竹御所(28歳)が御所に入御し婚姻の儀となった。
急に決まった内輪の婚礼なので晴れがましい儀式ではなく、御輿を用いて小町大路を経て南門から入御された。
        右画像は竹御所邸から御所南門までの道(クリック→ 拡大)
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雑色二人が松明を掲げて進み、供として北條朝時(4月9日に妻が没したため遠慮)・式部大夫北條政村・大炊助北條有時・周防前司中原親實・左近大夫将監大江佐房・上野介結城朝光(それぞれ狩衣で騎馬)、隠岐三郎左衛門尉二階堂行義・同四郎左衛門尉行久・佐原十郎左衛門太郎(三浦(佐原)義連の四男十郎泰連か)・佐々木八郎信朝(それぞれ白の直垂で徒歩)が従った。
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武蔵守北條泰時(白襖の狩衣)と相模守北條時房(香の狩衣)は御所の御輿寄せで待機した。
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   ※天狗下食: 天狗星(音を発したり燃えたりする巨大な流星)の精が下界で食を求めるという凶日。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月10日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に雷鳴あり。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月11日
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吾妻鏡
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今暁に客星が再び現れた。京都では先月28日に現れ、天文博士惟範朝臣が最も早く奏聞したという。
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   ※客星: 藤原定家が安倍泰俊(晴明の六代子孫)に同様の事例を調べさせたところ「寛弘三年 (1006)4月2日
の夜から火星のような大客星が現れた」との記録があった、と。
現在では「超新星残骸SN1006」として天文ファンには知られた存在らしい。
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ちなみに有名なハレー彗星は約76年周期、次の接近は2061年7月。45年後じゃ私は死んでるけど、どんな時代になってるだろうね。鎌倉時代には貞応元年(1222)8月2日(吾妻鏡に記載あり)と正安三年(1301)10月(鎌倉年代記に記載あり)に出現している。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月16日
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吾妻鏡
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昨日に続いて放生会、弓射の奉納である。流鏑馬が十番催され、二騎が的を外した。
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   ※明月記: 伝聞、大夫尉大内惟信大内惟義の嫡男で承久合戦の後に逃亡)が法師の姿で日吉八王子社
僧房に隠れ住んでいたのを六波羅の武士が知って差し出すよう座主に申し入れ、一昨日に門徒の悪僧が捕縛した。武士は粟田塔前に出向き、夕刻に身柄を受け取った。戦場から逃亡して10年も逃げ隠れたのは稀有である。 腕力の強い人物だが、捕縛の際には抜刀しなかったと言う。
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   ※八王子社: 日吉大社(公式サイト)の奥宮がある裏山が八王子山。粟田塔の詳細は判らないが、大内惟信は
牛尾神社辺り(地図)の僧房に隠れていたのだろう、と思う。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月22日
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名月記
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   ※明月記: 晴。惟信法師が捕縛された結果、事情を承知の上で匿っていた三人召し取られた。延暦寺の律師・
仁和寺の僧一人・掃部助北條時盛の近習で江中務と称する男(元は惟義の郎等)一人が含まれている。 またこの事を密告した法師も同様に捕縛されたという。今朝、関東への飛脚を派遣した。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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12月25日
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吾妻鏡
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晴。勝長寿院に新造した三重塔の落慶供養が催された。巳刻(10時前後)に狩衣姿の将軍家(藤原頼経)が御台所 (竹御所)と同じ車で出御された。相模守北條時房と武蔵守北條泰時他に数人が各々狩衣・騎馬で供奉した。
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午の一点(11時過ぎ)に故右大臣家(実朝) の十三回忌追善供養が二階堂行村の差配で執り行われた。正命日は1月27日だが、指示に従って日程を早めた。導師は当院の別当卿法印良信、願文は文章博士菅原公良朝の草案である。酉の一刻(17時過ぎ)に御仏事が終わって将軍家が還御、夜に入り将軍家と御台所は御方違えのため竹御所邸に入御された。
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1230年
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86代 後堀河
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寛喜二年
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吾妻鏡
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記事
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