寛喜四年・貞永元年(1232)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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1月1日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参りのため午一点(11時半)に御束帯・御車で出御。駿河判官三浦光村供奉し和泉守天野政景が御剣を持ち佐原五郎左衛門尉が御調度(弓箭)を携えた。還御の後に相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。陸奥式部大夫北條政村が剣を献じた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※佐原五郎: 佐原姓で五郎で左衛門尉なら盛時だろう。 北條泰時と離縁した矢部禅尼佐原義連の嫡子盛連
に再嫁して産んだ長子が盛時、後に宝治合戦で滅びた三浦宗家を継承することになる。
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   ※年令: 北條時房は56歳・ 北條泰時は48歳・ 北條朝時は39歳・ 北條政村は27歳・ 北條経時は7歳・
三浦義村は66歳ほど・ 三浦泰村は48歳・ 足利義氏は43歳・ 小山朝政は82歳・ 結城朝光は64歳・
四代将軍藤原頼経は14歳11ヶ月・後堀河天皇は今年11月に19歳で崩御。(全て満年齢)
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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1月4日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇の時代(上皇在位は建久九年・1198年~承久三年・1221年)に京都から贈られた朝覲行幸の絵を将軍家(藤原頼経)が御覧になった。陰陽権助安倍晴賢朝臣が仰せを受けて記載されている言葉を読み上げた。
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   ※朝覲行幸: 「覲」とは今上天皇が太上天皇(譲位した元の天皇)と皇太后の御所を訪問して拝謁する行幸。
年始の挨拶として正月に行われるのが恒例で、即位や元服の後にも行われた。
第52代嵯峨天皇の大同四年(809)に始まって鎌倉時代まで継続、以後は徐々に衰退した
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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1月5日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に月が金星の軌道を犯した(隔てる距離は四寸・約12cm)。
去る貞応三年(1224)4月7日にも同様の異変があり、6月13日には右京兆(北條義時)が死去している。
日本でも中国でも良い例は見当たらないのだが年始のため天文道は不吉との言葉を発していない。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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1月23日
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吾妻鏡
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去る12日の朝覲行幸は無事に終わった旨の連絡があった。閑院から持明院殿への行幸である。
武蔵守北條泰時は次のように語った。
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去る12日に山ノ内に行こうとした際に「道虚日なので憚りあり」と言う人がいて延期した。朝覲が行われたとの事だが、先例は当然考慮した上の行幸だろう。この日を吉事に使うとは理解し難い。
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玄蕃允太田康連・齋藤兵衛入道浄圓・法橋圓全らが御前に控えており、浄圓と圓全は「そのような例は知りませんが、昔から貴賤の間で避けるのが習慣となったのでしょう。」と述べ、康連は見た覚えがある、と語った。泰時は更に質問を続けながら座を起ち、大切にしていた文書から一枚の書類を取り出して示した。
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 道虚日(外出は凶とされる日)を吉事に用いた例
   長和五年(1016)2月30日、左大臣(御堂関白藤原道長)が衛兵を与えられた事(24日の六條内裏渡御後)
   延久年月日(1069~1074)、宇治殿(藤原頼通)が三条天皇に拝賀した。
   寛和元年(985)4月12日、大殿(藤原兼家)が随身(衛兵)を与えられた礼を言上した事。
   天喜五年(1057)12月24日、但馬守範永が五位蔵人に補任され初めて礼を言上した事。
   承保元年()10月30日甲午、大甞會(新嘗祭)で白河天皇が御禊ぎを行った事。
   永保三年(1083)11月12日癸丑、宇治泉殿の増築後に殿下(関白藤原師実)が京極殿に渡御した事。
   寛治元年(1087)6月24日甲辰、摂政(藤原師実)が初めて上表(辞表提出)した事(これが先例となった)。
   同二年(1088)2月18日乙未、除目を行なわれ、少将殿(藤原忠実)が礼を言上した事。
   康和元年(1099)10月6日甲辰、大将殿(藤原忠実)が宇治入道(藤原師通)から氏長者を継承した事。
   同十二日庚戌、前の齋院(令子)が大殿(摂関経験者で現摂関の父=藤原師実)の養女として渡御した事
   康和五年(1105)4月6日甲寅、阿闍梨寛信が昇任の礼を言上した事。
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   ※一枚の書類: 泰時って神経質で「相棒の右京さん」みたいに「細かい所が気になる困った性格」なのかも。
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   ※氏長者: 摂関家(平安初期に藤原良信が摂政に任じて以後は全て藤原北家)の中で摂政・関白に任じた者。
平安時代の道長以後は 藤原道長-頼通-教通-師実-師通-忠実-忠通-頼長-忠通-近衛基実-松殿基房-近衛基通- 松殿師家-近衛基通(1184~1186)、
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続く鎌倉時代は 九条兼実-近衛基通- 九条良経-近衛家実-九条道家-近衛家実-九条道家-教実-道家-近衛兼経-二条良実-一条実経-近衛兼経-鷹司兼平-二条良実-一条実経-近衛基平- 鷹司基忠-九条忠家-一条家経-鷹司兼平-二条師忠-近衛家基-九条忠教-
近衛家基-鷹司兼忠-二条兼基-九条師教-鷹司冬平-近衛家平- 鷹司冬平-二条道平-
一条内経-九条房実-鷹司冬平-二条道平- 近衛経忠-鷹司冬教(1330~1333)
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   ※閑院: 平安初期の藤原冬嗣に以来の藤原氏邸宅で二条大路の南
で西洞院の西にあり東西に東三条院と堀川院邸が並ぶ。
三邸とも摂関家と関係が深く里内裏になることが多かった。
中京区古城町の西福寺(地図を囲む一角である。
   右画像は閑院の概略地図。クリック→拡大表示
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   ※斎藤浄圓: (定長)、嘉禄元年(1225)に評定所創設以来の評定衆。
貞永元年に制定された御成敗式目の起草者の一人で、評定衆と連署の起請文草案の作成にも関与した。
吾妻鏡の建保元年(1213)5月3日と同5日の和田合戦の条に以下の記載がある。
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また丁度鎌倉に祇候していた出雲守定長は武門の人物ではなかったが防戦に力を尽くした。彼は刑部卿難波(藤原)頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。...(3日)
出雲守長定同じく賞を蒙る。...(5日)
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斎藤浄円の祖父は藤原刑部卿頼経で父親は経長、頼経は豊後国知行国主として九州の反平家勢力の中心として働き、文治五年(1189)2月22日に安房流罪・更に伊豆流罪の記事がある。 頼朝には嫌われたらしいが、三代続いて能力の優れた人物だったらしい。
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   ※法橋円全: 御成敗式目(貞永式目)執筆者の一人。
今年の吾妻鏡5月14日に「玄蕃允太田康連に(編纂を)指示し円全が執筆」との記載がある。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月7日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が体調を崩し、日中以後は特に苦しんでいるため平癒の祈祷を行なった。五壇法・北斗供・泰山府君・代厄御祭などである。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月8日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に月が天關(牡牛座の星)の軌道を犯し、更に太白(金星)と婁星(牡羊座の星)を犯した。特に珍しい事例が重なった事に天文方が驚いている。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月13日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)の体調は戻りつつある。この事を聞いた小山下野入道(小山朝政)と修理亮宇都宮泰綱らが領国から(見舞いに)駆け付けた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月14日
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吾妻鏡
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甘縄付近の民家で火災あり。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月20日
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吾妻鏡
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一條殿(九条道家)から新調の牛車が贈られ、大夫尉後藤基綱がこれを受け取った。これは将軍家(藤原頼経)の近日中の昇叙を祝うものである。
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   ※九条道家: 寛喜三年(1231)7月に長男教実に関白職を譲り、間もなく従一位に昇進する。更に翌年(つまり
今年、だね)10月には後堀河天皇に嫁した長女の藻壁門院が産んだ秀仁親王が後堀河の譲位によって四条天皇となり、道家は「天皇の外祖父で鎌倉将軍の父」という圧倒的な権勢を手中にするのだが...好事魔多し。仁治三年(1242)に四条天皇が12歳で早世して、目算が狂い始める。
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将軍頼経を介して幕政への関与を強めていた道家は次期天皇として順徳天皇の皇子・忠成王(道家の縁戚)を推し、政敵の土御門定通は土御門天皇の皇子・邦仁王を推した。
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結果として承久の乱に大きく関与した順徳の皇子は泰時に拒絶され、結果として乱には関与しなかった土御門の皇子・忠成王が第八十八代後嵯峨天皇となった。
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そして寛元四年(1246)の宮騒動で鎌倉将軍頼経が将軍を罷免され、直後に勃発した北條光時の陰謀に連座した嫌疑を受けた道家は関東申次を罷免され、更に関白を継承した四男の一条実経も罷免されて道家は政治的な立場を完全に喪失した。
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嘘だか本当だか判らないが、宝治合戦(1247年)で三浦一族が自刃した際に頼朝法華堂の天井裏に逃げ遅れた僧が天井裏に隠れ、聞き留めた一族最後の述懐を報告する話が載っている。その中で三浦光村が次のように語っていた、と。
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頼経将軍の時代にの時世に九条道家様からの指示に従って北條執権を倒して権力を握るべきだった。泰村が躊躇して決断しなかったために妻子と死別する結果となった。三浦一族が滅ぼされる恨みは尽くし難い。
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詳細は25年先の話になるが、取り敢えずは九条道家がどんな存在だったかの概略を。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月23日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が(病の穢を祓うため)沐浴された。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月24日
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吾妻鏡
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武蔵国六所宮の拝殿が破損したため修理に取り掛かり、左衛門尉武藤資頼が奉行を担当する。
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   ※六所宮: 府中市にある現在の大國魂神社(公式サイト)。大化の改新(645年)に伴って武蔵国府が置かれ、
国司が各地の神社に奉幣巡回するのを簡略化するため著名な六社を合祀して建立した「六所宮」を原型とする。この経緯は相模国総社の六所神社とも共通する。
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大國魂神社の例大祭は昔日の「くらやみ祭り」、全村の灯火を消してOPENな男女交際(露骨に言えば乱交)を認める旧弊だった(これは伊豆伊東の音無神社とも共通)。
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前九年の役に出陣するため武蔵国府に滞在した源頼義が秩父武綱(畠山重忠から四代前の先祖)に先陣を命じて白旗を与え、治承四年(1180)の頼朝の鎌倉入りに際してはその旗を掲げた重忠が先陣を務めた故事が知られている。四代後の主従によるパフォーマンスだね。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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2月26日
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吾妻鏡
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武蔵国の槫沼堤が崩れたため原状回復を近在の地頭に命じる旨を定めた。左近入道道然と石原源八経景が現地に下向して奉行を務める。武蔵国の御家人は自領から必ず百姓一人を伴って集まり俵2枚を以て3月5日から作業を開始し、奉行は現地で管理監督を行なうよう命じた。
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   ※槫沼堤: 従来から坂戸市赤尾説(7kmほど北で越辺川と都幾川が
合流する地点・地図)があったが、現在は坂戸市横沼の誤記説(越辺川と入間川が合流する西側・地図)が有力。
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越辺川の西側を霞堤(切れ目を入れた不連続の堤防)とし本流の増水を逃がして下流域の氾濫を防ぐ、広い遊水池の役目を兼ねていたと考えられている。
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また「俵」の意味は(原文は在家別俵二可充之者)は在家毎に炊き出し用の米を二俵供出せよとの意味らしい。
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実は私、30年ほど前に横沼の近くに住んでいたんだよ。越辺川で釣りした事もあるし、懐かしい場所だ。
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右画像は横沼周辺の鳥瞰図(クリック→拡大画像)。霞堤を造ったのは釜無川・笛吹川・御勅使川などの治水に苦しんだ武田信玄が最初だと思っていたが...もし横堤が霞堤なら歴史が変わるね。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月2日
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百錬抄
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巳刻(10時前後)に東大寺元興寺の塔および春日社(共に公式サイト)の塔に落雷して出火、短い時間に三ヶ所とは異様である。各々の火災は消し止められた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月3日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で恒例の神事(上巳の節句)があり、午の一点(11時過ぎ)に将軍家(藤原頼経)が御参宮の予定だったが、御祓いを受け持つ陰陽師の出仕が遅れたため出御が延びた。そこに京都からの飛脚が到着し、先月27日に昇叙(従三位、中将は今まで通り)の聞書が届けられた。
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両国司(相模守北條時房と武蔵守北條泰時)が参上し、頼経から「今日の参拝を以て拝賀に兼ねよう」との仰せがあり、日取りについての確認を行なった。中原師員と清原季氏らは「拝賀については日取りを選ぶ必要はなく、神事に続いて拝賀する事には何の支障があるだろうか。」との意見である。 元々上吉の慶びは当日、中吉は三日以内の良き日を祝賀に宛てた。日取りを選ぶのは近年の習慣である、と。
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その後に牛車を先日京都から到着した毛車に乗り替え、御榻役(乗降の踏み台)と剣役を式部大夫北條政村に交代させた。これらによって時が過ぎ、未の二点(13時反過ぎ)になってから西の廊に出御、前大膳亮泰貞朝臣(衣冠)を呼んで反閇を命じた。泰貞は無官を理由に辞退した後に仰せに従った。
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将軍家は左近大夫将監大江佐房を介して褒美の御衣を与えた後に出発した。相模守北條時房以下多数の供奉人が従い、宮寺では頓覺坊律師良喜を導師とした法華経供養を聴聞され、供奉の諸大夫(身分の低い官人)らに御布施を運ばせた。舞楽は通例の通り、将軍家は夜になって御所に還御された。
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   ※上巳の節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所を模した飾り付けで遊び健康と厄除を願ったのが始まり。
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   ※聞書: 任官叙位の際に昇進該当者名とその理由を記した会議の備忘録・議事録。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)~仁治四年(1243)まで評定衆を勤めている。暦仁二年(1239)~宝治三年
(1249)は同じ清原姓の満定(清原清定の息子)が同じ評定衆に任じているのだが、二人の関係が判らない。評定衆が設けられた(1225)から任じている斎藤(清原)長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。
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   ※毛車: 屋根を色糸で飾り前後の庇にも総(ふさ)、糸を巻いた竹で編んだ簾を用いる。主として貴人の女性用。
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   ※反閇: 邪気を払い除くため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む陰陽道の呪法。動画を検索できる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月9日
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吾妻鏡
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伊豆国仁科庄では飢饉によって餓死する農民もあり、農業が手に付かない状態に陥っているとの報告が武蔵守北條泰時の元に届いた。このため出挙米三十石を貸与し、もし弁済できなかったら泰時の負担として原状回復せよ、と矢田六郎兵衛尉に指示を与えた。この措置は既に数度繰り返している。
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   ※仁科庄: 現在の西伊豆仁科(堂ヶ島温泉の近く・地図)。水田が少なく一次産業は畑作と林業・漁業のエリア。
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   ※出挙米: 領主からの貸付米。原則は返済を要する貸付米で供与ではないが、この場合の扱いは特例。当時の
米の計量は延久宣旨枡(延久四年(1072)に後三条天皇が設定。1升=現在の6.7合)が基準だから一石は670合、1合≒154gだから1石は103Kg、30石は3095Kgになる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月13日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を行った。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月14日
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吾妻鏡
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晴。月蝕正現せず。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月15日
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吾妻鏡
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権大僧都観基が死没した。大宮大進行頼の孫で土佐守源国基の子、去る承久元年(1219)に将軍家の御持僧として下向した僧である。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月19日
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吾妻鏡
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六人の高僧を選び、御所に於いて大般若経の転読を行った。今年の将軍家(藤原頼経)が太一(北天を運行して兵乱・禍災・生死を司る星)の厄に当たる事に対応した祭祀である。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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3月25日
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吾妻鏡
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晴。御所での大般若経転読が結願した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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4月1日
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吾妻鏡
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今日、宿曜(天文暦学)の備中法橋から日蝕がある旨の申し出があり、御所を覆うべきか否かを周防前司中原親實を介して暦道に問い合わせた。日蝕は起きない筈、との回答があった。
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   ※暦道: 暦を作成する学問・暦学。律令制では陰陽道の部署とされた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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寛喜四年
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4月2日
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皇帝紀抄
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この日改元あり。寛喜四年を改め貞永元年、変異の頻発に依る。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月4日
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吾妻鏡
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京都大番役に関する沙汰があった。領国以外に居住している者であっても、地頭に任じている土地を基準にして大番役を務めるか代官を派遣して任務を全うするよう命令した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月7日
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吾妻鏡
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新補地頭(1221年の承久の乱以後に補任された地頭)の職務に関する七ヶ条が定められた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月9日
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吾妻鏡
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頼朝法華堂西側の護摩堂が去年10月25日の火事で失われていた。御台所(竹御所)に再建の希望があり、今日政所で御所からの方角を確認するよう、信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛) に指示があった。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月11日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参りした(御浄衣・御乗車)。
大夫判官後藤基綱伊東祐時・宇佐美祐政(祐茂の嫡子)らが供奉し、駿河前司三浦義村が剣を持ち、佐原三郎左衛門尉家連が御調度(弓箭)を携えた。八幡宮寺では八講が行われた。
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   ※佐原家連: 義連の三男らしいが、系図によって義連の子は盛連・政連・景連を記載している場合と、政連の
代わりに家連が入る場合がある。家連は貞応2年(1223)~嘉禎三年(1237)の間は紀伊国守護に任じている。
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   ※八講: 法華経八巻を一巻づつ、普通は1日に朝夕二巻づつ4日で終わらせる法会。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月12日
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吾妻鏡
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将軍家が八幡宮に御参り(八講の二日目、か)。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月13日
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吾妻鏡
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今日ふたたび御神拝あり(八講の三日目、か)。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月14日
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吾妻鏡
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同じく将軍家の御神拝あり(八講の四日目、か)。
今日、改元の詔書が鎌倉に届いた。去る二日、寛喜四年を改め貞永元年とした。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月15日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が去る11日から今日まで続けた鶴岡上下宮に御奉幣が無事に完了した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月21日
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吾妻鏡
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近日、都鄙(都会と田舎)を問わず夜討ち・強盗事件が起きているとの噂がある。守護人と地頭らに向けて、見聞きした事を隠蔽せず報告するよう命じた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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4月25日
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吾妻鏡
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晴。今暁、太白(金星)が鎮星(土星)の軌道を犯した(一尺六寸(約50cm)の距離)。天文担当が勘文(諮問に答えた上申書)を献じた。摂津守中原師員が将軍家にこれを取り次いだ。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月14日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時は政治に専心し、御成敗の式條の設定を内々に検討していた。今日これを具体化するため 、熱心に玄蕃允太田(三善)康連と打ち合わせを行い、法橋円全がこれを書き留めた。従来の関東諸人の訴訟については判決の矛盾などが頻発して統制が取れず、成文化する必要が高まったのが理由である。
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今日夕刻に将軍家(藤原頼経)が鼻血。
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   ※御成敗式條: 頼朝以来の慣習法や先例を基礎にして成文化した幕府法で、当初の泰時は式條としたが後に
式目と改めた。51条からなり、これは「十七条の憲法」を意識してその三倍に設定したらしい。
貞永式目と呼び始めたのは後世になる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月15日
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吾妻鏡
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日中から将軍家(藤原頼経)が体調を崩し、御所で鬼気祭が催された。世間では咳の病気が流行して貴賎を問わず罹病し、三日病(現代でいう風疹)と呼ばれている。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月16日
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吾妻鏡
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将軍家の病気が続いている。精神も弱っているようだ。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月17日
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吾妻鏡
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今暁に占いなどを行なった。七人による泰山府君祭は親職・晴幸・晴職・国継・晴賢・親貞・経昌、土公祭は重宗、鬼気祭は晴茂が担当した。今日未刻(14時前後)、鳥が将軍家御座所北面の御簾に糞を懸けた。これにより国継が担当して百怪祭が行われた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月18日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鳥の糞に対応する祈祷とし、て御所に於いて千度御祓いを催した。
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今日、武蔵守北條泰時が故修理亮 北條義時の三回忌を迎え、義時の墳墓堂(法華堂)で新造の阿弥陀三尊像の開眼供養を行なった。
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   ※義時法華堂: 右画像は頼朝の墓所から東側の法華堂跡の平場。
石段上の伝・大江廣元廟所の近くから撮影している。
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貞応三年(1224)6月18日の吾妻鏡に「前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓」と記載された場所である。この左側の高み中腹には古くから「義時さん」と呼ばれていた「やぐら」もある。
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画像をクリック→「義時の法華堂跡と伝・義時やぐら」の詳細にリンク(別窓)。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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5月26日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の体調不良が平癒し、今日病の穢を祓う御沐浴の儀を行った。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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6月7日
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吾妻鏡
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夜になって強風があり民家が破損した。籐内左衛門尉藤原定員の小町口の家が桁から吹き飛ばされ二町(約200m)も先に落ちた、と。
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行して将軍御所を奉行した近臣。
小町大路は八幡宮社頭東側の宝戒寺前から大町四つ角を経て頼朝開基と伝わる材木座の補陀洛寺まで続く約2kmの主要道(鎌倉六大路の一つ。)
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右の地図には南北に三本・東西に二本の大路を記載してある。もう一本は六浦から八幡宮の前を西へ通る道。窟小路を経て亀ヶ谷坂切通しまたは化粧坂に向かう道と、巨福呂坂を登って山ノ内に下る道とに別れる。
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小町口の「口」は入口を示すが、大町四つ角の付近を差すのか或いは材木座を差すのか判らない。(右図をクリック→拡大表示)
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。今暁の寅刻(4時前後)に太白(金星)が東井(ふたご座 ~かに座)の軌道を犯した。これは安徳天皇が西海(壇ノ浦)で崩御され宝剣が失われた際と同じ天変であるとの報告が天文道から提出された。
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   ※宝剣紛失: 原文は「安徳天皇没西海給寳釼紛失時變也。」当時の後白河法皇が宝剣探索を厳命しているし、
頼朝義経に対して同じ指示を送っている。少し時が過ぎて見付からないのが判ると朝廷は「本物は京都に残っていた」だとか、熱田神宮(サイト内リンク・別窓)は「草薙の剣は門外不出で熱田の宝蔵にあり、壇ノ浦で沈んだのはレプリカだ」などと誤魔化しているのが面白い。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月10日
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吾妻鏡
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晴。私心を離れて政道に就く事を表すため評定衆11人を招集して起請文に連署を求めた。
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    摂津守中原師員   前駿河守平(三浦)義村   沙彌隠岐守行西(二階堂行村
    前出羽守藤原(中条)家長   加賀守三善(町野)康俊   沙彌民部大夫行然(二階堂行盛
    左衛門少尉藤原(後藤基綱)   大和守三善倫重   玄蕃允三善康連   相模大掾藤原(佐藤)業時
    沙彌浄圓(斎藤長定・評定衆)
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相模守北條時房と武蔵守北條泰時は全体を統括し判断を下す立場としてこの起請文に署判を加えた。
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   ※起請文: 記載されている文面と署名は省略した。
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   ※三善倫重: 問注所執事の三善康信-公事奉行の行倫-初代評定衆の一人倫重と続く幕府の中枢で矢野氏
とも名乗っている。御成敗式目執筆者の一人とされる。
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   ※藤原業時: 佐藤姓も名乗る相模大掾。嘉禄元年(1225)の評定所設置と共に初代評定衆の一人に任じた。
仁治二年(1241)5月20日に落書などの罪を問われて評定衆を解任され26日鎮西配流に処された。後に許されて鎌倉に戻ったが評定衆復帰は成らなかったらしい。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月11日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の西の廻廊、南から第四間(4スパン目)に死人(14、5歳の子供)があったと宮寺が報告した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月12日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)に兼ねての所願があって、体調不良の際には鶴岡宮で臨時の祭祀をせよとの事だった。
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来る17日を予定していたのだが、昨日八幡宮で蝕穢(死骸)があり、支障の有無を周防前司中原親實を介して陰陽師に確認させた。結論は、先ず体調に注意する事、そして八幡宮の穢を祓うには30日を要するとの事である。
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これについて相模守北條時房・武蔵守北條泰時・摂津守中原師員・駿河前司三浦義村・隠岐入道二階堂行村・加賀守町野康俊・信乃民部大夫入道二階堂行盛・大夫判官後藤基綱・大和守矢野(三善)倫重(7月10日参照)・玄蕃允太田(三善)康連らが評議した。臨時の祭祀は穢によって延期すべきか、祭祀を中止しても悪い事は起きないのか、結果として中止が望ましいとの結論に至った。これは兼ねてから或る人が語っていた通りである。
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今日、勧進聖人の往阿弥陀仏が申請していた件、船が着岸し安全に荷降ろしなどが出来るよう和賀江嶋に堤防を築くべきとの提案に武蔵守北條泰時は特に喜んだ。幕府も協力し、御家人も助成することになる。
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   ※勧進聖: 諸国を巡り布教すると共に財物の寄進を求め堂塔や仏像のみならず、橋や道路の補修などに尽力し
民生に奉仕した僧侶。特に時宗・念仏宗に属する遊行僧が多かった。
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   ※往阿弥陀仏: 勧進聖の一人だが素性は不明、前年の4月に筑前国
葦屋津鐘ヶ崎(地図)で築堤を行なった記録のある土木技術の専門家である。
彼の思想は後に時宗の僧・忍性らに継承される。
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   ※和賀江嶋: 現在も材木座の南端に痕跡が残り、大潮の干潮時には
砂浜から渡渉できる。由比ヶ浜は遠浅で大型船が着岸できず、荷降ろしは沖合から小舟で運ばざるを得なかった。
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漂流や難破を防ぐ施設として相模川などから石を運び築堤と係留施設を8月9日までの25日間で完成させた、と伝わっている。残念ながら数年後に崩壊し、復興には極楽寺に入った忍性が本格的な活動を始める1260年代を待つ事になる。
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右画像は大潮・干潮の和賀江島鳥瞰(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月15日
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吾妻鏡
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勝長寿院で一切経会があり、将軍家(藤原頼経)の意向で舞楽などの奉納は特に丁重に催された。
将軍家は御直衣(公卿の普段着)に牛車、相模五郎北條時直が剣持ちを務めた。
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越後守北條朝時・陸奥式部大夫北條政村・民部少輔民部少輔三条(藤原)親実・上野介結城朝光・和泉守天野政景・大夫判官後藤基綱・大夫判官伊東祐時・大夫判官三浦光村・駿河次郎三浦泰村・左衛門尉三浦家村(三浦義村の六男)・左衛門尉佐々木重綱らが供奉した。
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今日、和賀江嶋の築造が開始され、三郎左衛門尉平盛綱が立ち会った。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月23日
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吾妻鏡
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御所に於いて相撲六番の勝負を観覧、将軍家(藤原頼経)御衣を脱ぎ、褒賞として下賜した。民部少輔中原親實と右近蔵人親光(?)がこれを手渡した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月27日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が御方違えにより駿河入道行阿(中原季時)の家に渡御された。これは故左金吾将軍(頼家)追善の伽藍を建立するためで、場所は勝長寿院内にある弁阿闍梨の房である。ただし「この場所は望ましくない、頼朝法華堂下の方が良い」との意見もあり、詳細の確定が目的である。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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7月28日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が陰陽師七人を招き禄(帷・一重の衣類)を与えた。御堂を建てる場所についての打ち合わせの序で、奉行は大和籐左衛門尉久良
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   ※大和籐左衛門尉久良: 承久の乱(1221)6月18日の勲功リストの中に「大和の籐内(一人討ち取り) 」の記載
がある。詳細は判らないが、同一人物か。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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8月6日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)の御方違えについて、駿河入道(中原季時)の家は本所の方角として正しくないから東御所を使うべきとの沙汰があった。大和久良がこれを差配する。
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   ※東御所: 勝長寿院を南御堂と呼ぶ事から考えれば旧大倉御所が想定できるが、現在の宇都宮辻子に庁舎を
移転したのが嘉禄元年(1225)12月、7年後まで利用しているとは思えないか。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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8月8日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)は御堂造営のため今夜から東御所に遷り、145日の御方違えとなる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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8月9日
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吾妻鏡
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晴。和賀江嶋の工事が完了、左近入道尾藤景綱・三郎左衛門尉平盛綱・兵衛尉諏方盛重が使者として巡検した。
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   ※工事完了: 巾40m×長200mの範囲に相模川や酒匂川(小田原市)河口の丸石や伊豆の石材を使った埠頭
の痕跡が確認されている。工期25日は港湾を建造するには短か過ぎるから、事前に相当期間の準備があったと推測される。何となく平清盛が築造を命じた大輪田泊の石椋を思い出すね。
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右画像は神戸港西側から出土した大輪田泊の石椋(防波堤の基礎)。詳細は画像をクリックして「神戸港の原点(一の谷合戦の一部)」(別窓)へ。
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また吾妻鏡の建長六年(1254)4月29日には唐船の数についての記載があり、1250年以降の忍性らによる改修で拡張された可能性や、寛喜四年の築造により外洋を航行する大型船停泊の設備が整ったとも推定できる。
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往阿弥陀仏が前年4月に筑前国に葦屋津鐘ヶ崎で築堤した時点では既に和賀江嶋の計画がスタートしていた、と考えるのが合理的か。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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8月10日
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吾妻鏡
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晴。御台所(竹御所)所願の御堂建立の日時を決定した。
また武蔵守北條泰時整えている御成敗式目50ヶ條の編纂が完了し、今日から訴訟の決裁はこれに依拠して行なうよう定められた。 これは淡海公(藤原不比等(wiki)の諡号)の律令に比べるべきもので、律令は海内(国)の亀鏡(宝)、式目は関東の宝である。第44代元正天皇の養老二年(718)に淡海公が律令を纏めさせた歴史がある。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は昨日に続いて御参宮、御台所は馬場の桟敷に出御され、三浦盛時三浦光村が垣根横に控えた。盛時は家の子(狩衣)を1人従え、光村は 小型の弓を携えて家の子(狩衣)3人(各々郎等4人と雑色2人、童僕2人、弓箭持ちを各1人)を率いている。馬場での催事は通例の通りだが競馬では兵衛尉景氏・土肥左衛門尉義綱を呼んで競わせ、景氏を勝たせるよう祈祷してその通りの結果になった。
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   ※家の子: 三浦氏や千葉氏のような大身の豪族は所領の分与を受けて分家するが、それ以外の一族は惣領が
宗家と家名を継ぎ次男以下の弟や庶子や家臣の娘婿は家臣(家の子)として惣領の支配を受ける。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月1日
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吾妻鏡
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畿内近国および西国での境界争いについては、双方が国衙領地の場合は国司が決裁し、荘園の場合は領家(一次所有権者)が決裁した後に奏聞を経て朝廷の承認を得る。この趣旨を六波羅に伝達した。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月3日
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百錬抄
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中宮が皇女を産んだ。

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   ※中宮と皇女: 後堀河天皇妃の九条道家の娘・竴(しゅん)子)、第四皇女の皞子内親王(5歳で死没)。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月11日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時は五十ヶ條の御成敗式目に和字(仮名混じり)の文書を添えて六波羅に送付した。
使者は駿河原左衛門尉。
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   ※御成敗式目: 現代語訳としては満足できるものが少ないが、理解し易さではこちらのサイトがお薦めできる。
特に難解な部分は見当たらない。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月13日
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吾妻鏡
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雨。去る3日の午刻(正午前後)に中宮が皇女を御平産(安産)。大相国から将軍家に連絡があった。
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   ※大相国: 太政大臣を差すのだが、誰だろう。近衛家實(wiki)は安貞二年(1228)12月に辞任した筈だし...
九条道家か・教實か、勉強不足で判らない。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月18日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に地震。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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9月28日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が御方違えを終えて御所に還御された。相模守北條時房と武蔵守北條泰時が参上し、盃酒と椀飯を献じた。
閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは9月の次が閏9月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月1日
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吾妻鏡
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畿内近国および西国での境界争いについては、双方が国衙領地の場合は国司が決裁し、荘園の場合は領家(一次所有権者)が決裁する、と定めた。
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   ※決裁について: 9月1日の記載と重複する。本来なら六波羅送付が後になる筈だが...。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月4日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に彗星が乙方(東南東)に現れて庚方(西南西)に向かった。長さは二尺で広さは八寸(約60×24cm)で白っぽい赤。この変異が何の予兆なのか、凶事の前兆である彗星なのか、本星(属する星座)のない彗星が出現する例も再三である。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月5日
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吾妻鏡
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晴。(将軍家は)周防前司中原親實を奉行として司天の輩(天文方)を呼び集め、昨夜の天変について何の予兆であるかを尋ねた。 晴賢・晴継・晴幸・宣賢(いずれも安倍)が御厩の侍控えに着座した。将軍家が簾中に御坐されて意見を聞かれたが、各々の言葉が異なり一致を見られなかった。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月6日
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨。大夫判官後藤基綱の奉行として天変に対応する祈祷をせよとの命令があった。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月8日
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吾妻鏡
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この数日は曇や雨が続いたが今暁は久しぶりに晴天となり彗星が確認できた。輝きを増した光の筋(尾)は長さ二丈で広さは一尺余(約6m×30cm強)、東山から一丈(3m)離れて南に動いている。 今日、武蔵守北條泰時と相模守北條時房が御所に参上し、摂津守中原師員・駿河前司三浦義村・隠岐入道二階堂行村を交えて協議した。
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(天文方ら)それぞれの意見を添付して京都に問い合わせる事に決まり、斎藤兵衛入道浄円(1月23日を参照)の奉行として陰陽師を招集した。親職・晴継・晴幸は白虹(兵乱の兆し)であると述べ、晴賢は白気(吉兆)であると述べ、泰貞と晴茂は彗星であると述べ、宣賢は戦の神の旗(兵乱の兆し)と述べた。
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結論が出ないため、京都への問い合わせは保留とし、後藤大夫判官後藤基綱の奉行として祈祷を行なう決定を下した。弾正清原季氏(3月3日を参照)が陰陽師の名前を記録した。
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   ※百錬抄の記述: 彗星が東方に現れた。長さは二丈余。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月9日
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吾妻鏡
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晴。天変(彗星)の様子は変わらず、白くて光の尾は長い。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月10日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応する祈祷が始められた。
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  修法(祈祷)は次の通り。(雑掌は「代官として管理し供物を負担する者」程度の意味か)
     八字文殊(信乃法印) 雑掌(和泉守天野政景
     一字金輪(松殿法印) 雑掌(出羽前司中条家長
     尊星王(宰相法印)  雑掌(五郎左衛門尉佐原(三浦)盛時
     北斗(松殿法印)   雑掌(城太郎安達義景
     薬師(丹後僧都)   雑掌(駿河入道中原季時
     愛染王(加賀律師)  雑掌(左衛門入道土屋宗光・宗遠の嫡子)
  御当年
     一壇(助法印)   雑掌(陸奥五郎北條實泰
     一壇(越後法橋)  雑掌(隠岐入道二階堂行村
  鶴岡宮
     仁王会御神楽(政所沙汰)
  御祭
     三万六千神(晴賢) 雑掌(武蔵守北條泰時
     天地災変(親職)  雑掌(相模守北條時房
     属星(晴幸)    雑掌(修理亮宇都宮泰綱
     天冑地府(宣賢)  雑掌(大和左衛門尉久良・7月28日を参照)
     泰山府君(経昌)  雑掌(足立三郎?)
     七瀬御祭(晴茂・重宗・晴秀・清貞・泰宗・道氏・文親)
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   ※三万六千神祭: 陰陽道の祭祀で、天変地異を除き天下泰平を願う。前年12月28日にも催行。
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   ※属星祭: 陰陽道の祭祀。生年の十二支で決まる北斗七星の一つを属星とし長寿招福を祈る。
前年11月27日にも催行している。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。寛喜二年(1230)5月24日にも催行している。
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   ※七瀬御祭: 七瀬の禊または七瀬祓い。平安時代からあった陰陽道の修法で水を司る七ヶ所の霊所で行う。
由比ヶ浜(前浜)、 金洗澤(七里ヶ浜・地図)、 多古恵河(田越川・地図)、 森戸(杜戸・地図)、
抽河(いたち川・鼬川・地図)、 六浦(横浜市金沢区・地図)、 堅瀬河(境川・地図)か、江ノ島龍穴。
寛喜二年(1230)11月13日にも催行している。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月11日
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吾妻鏡
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雨。御供料を早急に処理するよう、武蔵守北條泰時から特に通達があった。
属星祭が安倍晴幸により催された。周防前司中原親實が奉行、将軍家(藤原頼経)がその庭に出御された。
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   ※属星祭: 生まれた年の干支を北斗七星の星に当て嵌めて祀る祈祷。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月15日
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吾妻鏡
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晴。彗星は小さくなり光芒も薄れ、やがて中心の光も見えなくなった。数日で再び出現する例はないが、天文方は希代の天変であると語っている。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月17日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鏡社(唐津松浦の鏡神社・公式サイト)の住人が高麗に渡って夜討ちを仕掛け多くの宝物を奪って帰国した。守護人の少貳資能武藤資頼の嫡子)が仔細を調べるため実行犯を拘束しようとしたが、預所(荘園の現地管理者)は守護に従う理由なしと書面で主張してきた。今日この件の決裁があり、「預所の関与する権限外である。乗っていた船および財物は全て守護所で然るべく処理せよ」と隠岐左衛門入道(二階堂行村)に通達された。
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   ※少貳資能: 肥前国守護は建久六年(1195)~嘉禄三年(1227)が武藤資頼、寛喜二年(1230)~文永七年
(1273)は少弐資能が任じている。弘安の役(1281)では老齢ながら元軍と最前線で戦った。壱岐島から駆逐したが負傷して後に死没、息子の資時も壮烈な討ち死にを遂げている。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月18日
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吾妻鏡
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法勝寺九重の塔を修理について将軍家(藤原頼経)からの助成があった。瓦を焼く費用については西海の御家人が負担することになる。
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   ※法勝寺: 藤原師實(wiki)が別荘地(白河別業)を白河天皇に献上、
白河天皇は承保二年(1075)から壮大な堂塔を建造した。永保三年(1083)に愛染堂と共に完成した八角九重塔は高さ80m、京都のランドマークだったと伝わっている。
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周辺には次々と天皇の祈願寺が建造され、いずれも名称に「勝」の字を入れた事から六勝寺と呼ばれた。
寺名は、法勝寺(白河天皇)・尊勝寺(堀河天皇)・最勝寺(鳥羽天皇)・円勝寺(鳥羽天皇中宮)・成勝寺(崇徳天皇)・延勝寺(近衛)、応仁の乱(1467~1477)までに全てが廃絶している。
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現在は敷地跡(厳密には敷地の南半分)が京都市動物園(公式サイト)となり、法勝寺町の名が往時の繁栄を伝えている。   右画像は六勝寺の旧跡ポイント(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月20日
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吾妻鏡
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晴。天変(彗星)に対応するため鶴岡八幡宮で臨時の神楽が行われた。
将軍家(藤原頼経)も御参宮、相模守 北條時房・武蔵守北條泰時・石 山侍従(藤原教定)・陸奥式部大夫・民部少輔・周防の前司・左近大夫将監(佐房)・駿河前司三浦義村・上野介結城朝光・和泉守天野政景・駿河判官三浦光村・土屋左衛門尉宗光(宗遠の嫡子)・嶋津三郎左衛門尉忠時(島津忠久の嫡子、初名は忠義)らが供奉した。
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   ※藤原教定: 飛鳥井(二条)雅経の子、生母は大江廣元の娘。頼朝・頼家・実朝に仕えた父の跡を継ぎ鎌倉将軍
(四代頼経・五代頼嗣・六代宗尊親王)に近侍し、蹴鞠や和香の指導に任じた。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月21日
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吾妻鏡
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晴。去る四日の天変は彗星である旨、京都朝廷の陰陽寮から勘文(諮問への報告書)が鎌倉に届いた。この内容は安倍泰貞の当初の発言と符合するため、その仔細を載せた御書が与えた。周防前司 中原親實が奉行である。
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   ※当初の発言: 閏9月8日に詳細が記載してある。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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閏9月26日
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吾妻鏡
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晴。今日御台所(竹御所)による祈祷が行われた。また鶴岡宮寺に於いて百人の僧による仁王経法会があり、これは彗星に対応した祈祷である。呪文は次の通り。
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     牟尼釈範 仁王妙文 一部金乗 両軸寶偈 通二諦道 開五忍尽 佛界庠蔵 法門枢健 極聖目足
     大士肝心 実智挙燈 慧輝瑩鏡 一四天下 三千界中 褊日月明 破国土暗 排般若蔵 解露一封
     捧摩尼輪 降雨万寶 天上妙薬 甘露染唇 海中寶珠 法水潤色 吉海舟楫 飛化度帆 護国劔刃
     磨勝利刀 満足悉地 早於龍蹄 被膽諸天 扣得麟角 彼佛本誓 方便無量 斯経大慈 効験利□
     感応之至 得而難称 霊威之通 仰而取信 従初三晩 迄弟九晨 白気聳東 蒼穹驚下 司天所告
     懇地不閑 称星称蛇 数丈数尺 変異縁底 畏途覆水 恐懼多端 休門相泥 何況閏月 加干暮秋
     愉慎紫霄 漸送素律 又是年厄 太一定分 因茲日来 無貳方寸 仰佛天応 丹祈翹誠 呪幽明霊
     就八幡宮 敬屈臥雲 展百講席 非仮佛力 誰競天災 請微運志 新本吉日 非浴神恩 爭禳時妖
     白法不妄 金言無私 縦雖彗星 蓋鎖法雨 玉燭照洞 表壽星祥 香烟薫空 彰慶雲瑞 宮闕月朗
     狎葉縣烏 羽林風和 戯華表鶴 正室翠帳 伴岩松栄 将軍華亭 譲石椿算 家門千輩 華夷兆民
     楽有道邦 誇無為世
                                貞永元年閏九月二十六日
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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10月2日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の御願として寺を大倉に建てる予定が定められた。親職・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・泰宗ら陰陽師を呼んで将軍の御前で直接の質問と春の間の吉日を選定せよとの指示があった。
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各々の答えに拠れば「春の間には全く吉日がなく、10月2日が上吉である。堂の建立について六勝寺の例を勘案すれば、成勝寺の他は全て吉日を選んでいる事に倣うべき」とのこと、その内容を採用した。
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   ※百錬抄: 前関白九条道家の里内裏に於いて譲位を定めた。これは應徳の例に依ったものである。
権中納言定家が寛平の国史を書き出し、その例を追うべきである、と。
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   ※里内裏: 九条道家邸は現在の京都御苑の南西部分にあった。
現在は庭園の一部にあった九条池と、その中島にある厳島神社は当時の鎮守社だったらしい。
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また元治元年(1864)の禁門(蛤御門)の変では九条邸に布陣した会津藩兵が鷹司邸の長州藩兵に向け砲撃を行加えたとの記録がある。600年を隔てても同じような政争・紛争が繰り返された場所だ。まぁ京都周辺は何処でも同じような歴史を背負っているのだろうけれど。
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右画像は九条池周辺の鳥瞰(画像をクリック→拡大表示)
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   ※應徳の例: 應徳二年(1085)に異母弟で皇太弟の實仁親王が崩御
すると白河天皇は実子の善仁親王(8歳)を皇太子として即日譲位し、幼帝を後見する形で院政を開始した。
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嘉承二年(1107)7月に堀河天皇が崩御した後は74代鳥羽・75代崇徳の併せて三代に亘り幼帝を擁立して43年間の院政を敷き、上皇が「治天の君」と呼ばれる専制・独裁時代が続くことになる。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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10月4日
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史 料
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   ※五代帝王物語: 主上(後堀河)が春宮(皇太子→四条天皇)に譲位した。皇太子は御年二歳であり、先例として
好ましいものではない。
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   ※百錬抄: 譲位が行われた。変異の勃発に依るものだが十月の先例はなく、今回が初めてである。
先帝は上皇となった今も禁裏に在している。
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   ※史料名: 「五代帝王物語」は鎌倉時代後期に書かれた編年体の歴史物語。詳細はwikiで。
「百錬抄」は公家の日記などを抜粋して編集した歴史書。詳細はwikiで。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月5日
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吾妻鏡
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先月28日から今暁まで彗星が連夜現れた。光芒は弱まったが南から北西に向かい、長さは四丈(約12m)だった。
今日、御台所(竹御所)が御堂を建てる土地について評議があり、弁阿闍梨の房がある場所を選んだのだが当人の愁訴があって中止し、頼朝法華堂南の土地もまた支障があるため大倉観音堂(現在の杉本寺(公式サイト)・ 地図)の横を選び出した。    (杉本寺のレポートはこちらで。
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武蔵守北條泰時が持ち主の大多和左衛門尉(義季)の了解を得て安倍親職と晴賢も賛成したのだが、金蔵房が地相について西透地(西に傾斜の意味か?)の難点を指摘した。親職らと争論になったためこの案は取り消し、大慈寺の域内に変更した。夜になって御台所は御方違えのにより東御所に渡御された。
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   ※大多和左衛門尉: 三浦義明-三男大多和義久-嫡男義成-義季と続く。横須賀市太田和2213 (地図)が
大多和城址、標識はあるが遺構などは全く残っていない。
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   ※蛇足 その1: 太田和の東隣に「武」の地名がある。建保七年(1219)1月に八幡宮で公暁に殺された 実朝
首級を波多野に運んで埋葬し、出家・定住して墓を守ったと伝わるのが「武」を本貫の地とした三浦義村の家臣・武常晴。詳細は秦野 実朝の首塚で。
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   ※蛇足 その2: 大多和義久の嫡男義成は和田義盛が決起した和田合戦(1213)には義盛に同調せず宗家の
三浦氏に従い、更に宝治合戦(1247)では三浦泰村を見捨て北條時頼に与して家名を保った。
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そして義久から五代後の義勝(義行)は鎌倉に向かう途上の第一次分倍河原合戦に敗れて意気消沈した新田義貞の陣に駆け付けて陣容を整え、第二次の分倍河原合戦の戦局を左右して北條一族の滅亡に決定的な影響を与えることになる。詳細は分倍河原の合戦で。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月7日
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吾妻鏡
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今日、(竹御所所願の)御堂の用地を大慈寺の域内に縄張りした。信乃民部大夫入道行然(二階堂行村)・大和籐内左衛門尉久良(7月28日を参照)がこれを差配した。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月14日
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吾妻鏡
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晴。去る四日に御譲位(春秋二歳)があった件が京都から伝えられた。
夜になって天変に対応する祈祷のため御所で七壇の僧による北斗護摩が行われた。弁僧正定豪(八幡宮別当)が伴僧を率いての催しである。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月17日
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吾妻鏡
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不空羂索護摩を(昨夜と)同様に催した。安祥寺法印がこの役を務めた。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月22日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の御願として明年に五大尊堂(五大明王を祀る堂)を建てる場所が未だ確定しておらず、人々に命じて良い土地を探させている。蔵人大夫入道西阿毛利季光が所有する大倉の奥が望ましいとの沙汰があった。
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今日、(将軍藤原頼経の)指示により相模守北條時房と武蔵守北條泰時が安倍親職と晴賢・文元、助法印珍譽・金蔵房らを伴って現地を確認した。
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毛利入道と摂津守中原師員・駿河前司三浦義村・隠岐入道二階堂行村・大夫判官後藤基綱・伊賀式部入道伊賀光宗らも同道した。各地を巡見してきた人々は地形や景色が優れている、この土地が望ましいと語った。
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   ※五大尊堂: 鎌倉将軍が建立した中で、当時の姿で現存している唯一
の建物、十二所の明王院(公式サイト・地図)を差す。
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すぐ東隣は実朝が建立した巨刹・大慈寺(廃寺)の敷地(ひょっとしたら大慈寺敷地の一部を使ったのかも)、明王院の山道を左に折れて谷津に進むと梶原景時邸の跡、滑川の対岸には大江廣元邸の跡がある。
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         右画像は参道途中の岐れ道、五大堂明王院と彫った石塔。
         画像をクリック→「明王院と伝・梶原邸の跡」(別窓)へ

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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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10月29日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)が過ぎて雷鳴、夜になって甚雨。
今日、五大尊堂の建立に伴ってその参詣道を造るよう沙汰が下った。
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西暦1232年
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86代 後堀河
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貞永元年
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11月3日
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吾妻鏡
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五大尊堂を建てる土地に縄張りし、(六浦道からの)道路を築造した。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月9日
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吾妻鏡
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御堂参詣に往来する道を造るため今夜からその地で七日間の土公祭を行ない、陰陽師が交代でこれを務める。
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   ※参詣道: 現地の拡大地図を参照されたし。滑川が六浦道の南側を流れていれば簡単なのだが、テニスクラブ
の南側は高さ10mほどの岩山が南に張り出しており、明石橋まで約250mの六浦道は大きく南に迂回している。滑川に新しい橋(現在の「二つ橋」(地図)の前身?)を架けたのか、大慈寺の参道を一部兼用した可能性もある。ちなみに「二つ橋」の名は橋の下に残る二つの大石に由来する(旧・五大尊堂の礎石だった、とも)。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月13日
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吾妻鏡
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飢饉により疲弊困窮した農民を救わなければとの武蔵守北條泰時の意向を受けて矢田六郎左衛門尉は既に九千余石の米を放出したが、今年弁済できる見込みがないとの愁訴が届いている。
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これにより、来年まで弁済を待つよう矢田に指示を与えた。執権泰時は農民を救う手立てを講じ、美濃国高城西郡大久礼など千余町の年貢徴収を停止し、平出右衛門尉と春近兵衛尉等を派遣して当国珠河の驛で流浪民に食事の施しを行った。留まって農業を続けたい者はこの荘園で農民に預ける形になる。
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   ※九千余石: 玄米・白米などの区分で誤差はあるが、160トン前後か。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月16日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)は御方違えの出発地点として信濃民部大夫入道行然(二階堂行村)の家を設定した。近日御堂を造営に備えるためである。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月17日
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吾妻鏡
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夜に入ってから御台所(竹御所)御方違えのため民部大夫入道行然(二階堂行村)の家に渡御された。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月18日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)所願の御堂(大慈寺内)で柱立てと上棟式を行った。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月20日
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吾妻鏡
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今夜深雪、終夜降り止まず。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月21日
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吾妻鏡
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早朝、将軍家(藤原頼経)は雪を観覧するため竹御所邸に渡御。大夫判官後藤基綱が供奉し、間もなく還御された。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月23日
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吾妻鏡
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陸奥国平泉保の吉祥寺が焼失、霊験の顕著な本尊観自在菩薩も灰燼に帰した。藤原清衡が建立した寺である。
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   ※吉祥寺: 頼朝が平泉に入った吾妻鏡の文治五年(1189)9月17日の毛越寺の項目に「また吉祥堂の本尊は
洛陽(京都の別称)の補陀洛寺の本尊(観音)を模した像を祀っている。観音の生身を伝えているとの託宣があった霊像なので別に造った丈六の観音像胎内に本尊を収めている。」との記載がある。
吉祥堂は現存せず、境内の何処にあったのかも確認できない。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月28日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が当番として今夜は御所侍溜まりに宿直される。この時に供侍が筵を持参したため、「畳の上に敷いてはならない。私に近侍する者はその程度の自覚が必要で、同僚に対して恥じる行為である。」と叱責した。
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出羽前司中条家長・民部大夫入道二階堂行盛ら宿老の三人が同席してこれを聞いた。周防前司中原親實は末代まで伝えるべき美談である、と語った。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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11月29日
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吾妻鏡
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早朝、霜のように見える小雪あり。将軍家(藤原頼経)は林の雪景色を楽しむため水干と騎馬で永福寺に渡御され、 武蔵守北條泰時は昨夜の宿直から退出しないまま将軍家に扈従された。
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式部大夫北條政村・陸奥五郎北條實泰・加賀守町野康俊・大夫判官後藤基綱・左衛門尉藤原定員(京都から頼経に同行して将軍御所を奉行した近臣)・都築九郎経景・中務丞胤行(東氏三代惣領。胤頼-重胤-胤行と続く)・波多野次郎朝定ら、和歌に秀でた者を選んで御供とした。
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寺門の近くで卿僧正快雅が出迎えて釣殿に入御され和歌の会が催されたが、雪が雨に変わったため心残りのまま還御された。その途中で後藤基綱が「雪が雨となって残念でした」と語ったのを聞いた泰時が「あめのしたにふれはそ雪の色も見る」と詠み、基綱が「三笠の山を頼む影とて」と返した。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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故入道前大膳大夫(大江廣元)朝臣が存命の頃、幕府の政務を執行した壽永・元暦(1180年代初頭)以来の朝廷の意向や幕府との遣り取り・人々の陳情・京都や奈良一帯で武士が関与した事件・文治(1185年~)以後の荘園領家と地頭の訴訟記録・源平合戦の勲功記録や報告書などは公務で右筆に渡したまま散逸した書類も多い。
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これを聞いた武蔵守北條泰時はこれらの書類の回収を清原季氏斎藤浄円・法橋円全(5月14日にも記載あり、祐筆か)に指示し、目録を作成して左衛門大夫(長井泰秀)届けるよう命じた
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   ※清原季氏: 1236~1243年まで評定衆。
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   ※長井泰秀: 大江廣元の次男大江時廣の嫡子。廣元の跡を継いだ長男の 親廣が承久の乱(1221年)で失脚、
惣領となった時廣を継ぎ長井流大江氏の惣領となった。本領は出羽長井荘(山形県長井市)。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月12日
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吾妻鏡
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祈祷のため御所に於いて寿命経および一万巻の般若心経を転読する法会が七ヶ日催される。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月18日
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吾妻鏡
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岩殿観音堂(坂東札所のサイト)の修理が完了し、今日供養法会を行った。導師は三位僧都頼兼、陰陽師は滅門(陰陽道が万事に凶とする日)だと主張したが、勧進聖の西願が「観音菩薩の縁日である」と説得して挙行した。
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   ※勧進聖: 民生や寺の建立などのため各地を勧進して歩く遊行僧。特に時宗の僧が多かった
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月23日
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吾妻鏡
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武蔵国惣検校職および国検に伴う引き継ぎ文書や署名、軍勢催促に関する署名、父・重員の譲り状など。河越三郎重資に先例の通り処理する権限を与える決裁を行なった。
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   ※惣検校職: 秩父重綱が最初-次男重隆(継承)-能隆(葛貫別当・継承の記録なし)- 河越重頼(継承)-
重員(継承)-重資(継承)、と続く。血縁の詳細は「秩父平氏の系図」で。
惣検校職と重員については吾妻鏡の寛喜三年(1231)4月2日に詳細の記事を載せてある。
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   ※国検: 徴税の基準を正確に確認するための国司による国司による検注。国司交替の際には新任の国司が
検注を行うのが通例であり、義務でもあった。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月24日
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吾妻鏡
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雪。最近の京都に関して大相国(太政大臣の唐名・この場合は近衛家実)が最近の書類を送ってきた。
7月29日の即位に伴う叙位、今月2日の四条天皇即位、5日の行幸、12日摂政(息子の九条家實)の従一位拝賀、14日の秋の除目などである。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月27日
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吾妻鏡
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大夫判官後藤基綱による大倉堂の開眼供養が行われた。導師は弁僧正定豪(鶴岡八幡宮六代別当)、故右府将軍(実朝)の追善と、(基綱が受けた)重恩に報いるための建立である。
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   ※大倉堂: 既に場所も不明で遺構も確認できないが、鎌倉幕府滅亡後
の建武二年(1335)の中先代の乱(wiki)に二階堂の東光寺(現在の鎌倉宮・公式サイト)の土牢で殺された大塔宮護良親王の首塚の場所(地図)にあったとも(信頼性は?)。
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護良親王の形相の凄まじさに怯えた討手の淵辺義博(相模原の武士)がここに首を捨て、近くにあった五峯山理智知光寺の僧がすぐ前の山(護良親王御陵)に葬ったと伝わる首塚の場所が大倉堂の旧跡である、と。(信頼性は乏しいらしい)
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今では理智知光寺の石碑が建っている。すぐ前の参道を100mほど登ると御陵だが近くに駐車場所がなく、鎌倉宮の駐車場(1時間450円)から400mほど歩く必要がある。
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右画像は護良親王御陵参道前に建つ理智知光寺跡の碑 (画像をクリック→拡大表示)
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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12月29日
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吾妻鏡
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在京の御家人は大番の勤務を免除すると定められた。また宮中で五節句の催しがある際に、大番勤務で在京している者の下人らが見物に集まって騒がしいとの苦情があり、その停止を命じた。
また市場で和市(合意の売買)を行なう際に騙すなどの悪事が頻発しているため厳罰に処するよう指示が下った。
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1232年
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87代 四条
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貞永元年
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 月 日
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前年・寛喜三年(1231)の吾妻鏡への吾妻鏡へ       翌年・貞永二年(1233)の吾妻鏡へ