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貞永二年・天福元年(1233)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。民部権少輔源親広が御剣を、近江前司佐々木四郎信綱が御弓箭を、 三郎左衛門尉佐原家連が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬(鞍置)  式部大夫北條政村  陸奥五郎北條實泰
   二の御馬      相模四郎北條朝直 同六郎北條時貞(時定・北條時房の六男)
   三の御馬      上野七郎結城朝広 同五郎結城重光(朝広の弟)
   四の御馬      記載なし
   五の御馬      本間太郎左衛門尉忠貞 同三郎左衛門尉元忠
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※本間忠貞: 本間氏の出自は武蔵七党の横山党海老名氏流で本領は相模国愛甲郡依知郷(現在の厚木市の
中依知・地図)。北條氏被官として佐渡代官に任じ、分家の子孫が出羽国の富豪本間氏に続く。
吾妻鏡の嘉禄二年(1226)7月1日の条に以下の記載がある。
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橘右馬允公高(公長の四男)並びに本間太郎左衛門尉忠貞・小河左衛門尉・同右衛門尉らが、去る承久三年(1221)6月の勢多合戦で挙げた功績の恩賞を受けた。相模守北條時房の指揮下で軍功に励んだにも拘らずその恩賞を受けておらず、時房は以前から推挙していたが認可がないため自分の勲功として受けた伊勢国16ヶ所(承久四年(1222)3月3日を参照)の中の4ヶ所を辞退して御下文を発行した。
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   ※佐原家連: 義連の三男。承久の乱(1221)の勲功で紀伊国南部荘の地頭となり、更に義連を継いで紀伊国
の守護に任じた。
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   ※年令: 北條時房は57歳・ 北條泰時は49歳・ 北條朝時は40歳・ 北條政村は28歳・ 北條経時は8歳・
三浦義村は67歳ほど・ 三浦泰村は49歳・ 足利義氏は44歳・ 小山朝政は83歳・ 結城朝光は65歳・
四代将軍藤原頼経は15歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で2歳。(全て満年齢)
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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1月2日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。式部大夫北條政村(狩衣)が御剣を、上野介結城朝光が御弓箭を、 出羽前司中条家長が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬      相模五郎北條時直  相模六郎北條實政
   二の御馬      隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  同、四郎左衛門尉二階堂行久
   三の御馬      上野七郎二階堂行泰  同、左近将監
   四の御馬      近江太郎左衛門尉佐々木重綱  同、三郎兵衛尉泰綱
   五の御馬      越後太郎北條光時  同、四郎北條時幸 .

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   ※二楷堂行義: 行村の次男で暦仁元年(1238)~文永五年<(1268)まで評定衆。
   ※二楷堂行久: 行村の三男で寳治三年(1249)~文応二年(1261)まで評定衆。
   ※二楷堂行泰: 二階堂行盛の長男で政所執事。
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   ※同、左近将監: 二階堂行盛の二男で文永元年(1264)~弘安四年(1281)まで評定衆に任じた、行綱か、
または三男で文永元年(1264)~正応三年(1290)まで評定衆に任じた行忠か。
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   ※佐々木泰綱: 信綱の三男。長兄の重綱が廃嫡されたため家督を継いだが、信綱の没後に重綱の訴えにより
所領の一部を譲渡し家督のみを継承した。近江守護で六角氏の祖。
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   ※北條時幸: 北條朝時の四男で光時の弟。頼経を擁して光時と共に反得宗の急先鋒となり、寛元四年(1246)
の宮騒動の失敗により失脚、出家後に自害させられたらしい。
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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1月3日
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吾妻鏡
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(越後守北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。式部大夫北條政村(狩衣)が御剣を、近江前司佐々木信綱が御弓箭を、 摂津左衛門尉狩野為光が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬      越後太郎北條光時  本庄左衛門尉時家
   二の御馬      越後二郎北條時章  河原田太郎左衛門尉
   三の御馬      越後三郎北條時長(朝時の三男)  河原田籐内左衛門尉
   四の御馬      越後四郎北條時幸(朝時の四男)  小伊手太郎左衛門尉
   五の御馬      久下掾源内  同三郎
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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1月13日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が右大将家(頼朝)の法華堂に御参拝、今日が御忌日(祥月命日)である。敷皮を堂の下に敷いて座し読経して時を過ごした。法華堂の別当尊範が近寄って御堂に上がるよう何度も勧めたが、
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在世の頃でさえ簡単に堂には入らなかった。薨御された今になって礼を失する訳にはいかぬ。
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と断って法華堂の堂庭で拝礼を済ませて屋敷に戻った。
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   ※頼朝法華堂: 現在の白幡神社が法華堂(生前の持仏堂)で、明治
維新の神仏分離(神仏判然令)によって白幡神社となった。正確には、白幡神社~南側の「よりとも児童公園」の一帯に法華堂があった、と伝わっている。
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石段上の墓所は島津藩主重豪が安永八年(1779)に造成したもので、明治十年(1877)に島津久光の命令を受けた家令の奈良原繁が整備した。
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頼朝の墓とされている五層の石塔は勝長寿院(南御堂)跡に残っていた素性不明なものを移設した、と。
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右画像は法華堂跡周辺の地図。(クリック→拡大)
詳細は法華堂の跡 いわゆる頼朝の墓で。
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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 月 日
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吾妻鏡
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1月14日から4月14日までの3ヶ月間は記載なし。逸失か。
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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4月15日
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吾妻鏡
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晴。隠岐三郎左衛門尉(二階堂行義・1月2日参照)が京都から帰参。先月29日に大殿(藤氏長者九条道家)による春日大社詣で無事に終った、また今月3日に中宮の院号を藻壁門とする宣下があった旨を報告した。
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   ※藤氏長者: 藤原一族の政治・財務・宗教など全般を司る代表者。職務権限は藤原氏の政治的な権限の確保、
領有する荘園や財産の管理、氏寺の興福寺や氏社の春日大社・大原野社などの管理を担う。
前年(寛喜四年)1月23日の条も参照されたし。
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   ※中宮: 皇后(正妻)より後に入内した妃。この場合は後堀河天皇妃の藤原(九条竴(そん)子)を差す。
父は関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経の娘・准三宮倫子。
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西暦1233年
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87代 四条
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貞永二年
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4月15日
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改 元
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改元あり。貞永二年を改めて天福元年、撰進者は式部大輔の菅原為長、決裁は九条道家
反対派の藤原定家は「福を初めて採用した唐の「景福」以来大乱に縁がある。」と、この元号を非難している。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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4月16日
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吾妻鏡
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大風(台風・寛喜二年(1230)8月8日か)より前の出挙については身分の上下や親しさなどに拘らず倍返しを禁止し、一束(玄米なら五升・白米なら二升)に対して五割の利息を以て倍返しと定める。この旨を諸国に命令する奉行人三手を選んで六波羅にも通達する。
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    一手 宗監物孝尚が十ヶ国  尾張、伊勢、伊賀、美濃、近江、若狭、摂津、河内、飛騨、越前
    一手 治部丞宗成が九ヶ国  山城、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、石見、長門、伯耆
    一手 左衛門尉明定が十一ヶ国   播磨、美作、備前、備中、安藝、伊豫、土佐、阿波、淡路、紀伊、和泉
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   ※出挙米: 領主からの貸付米。原則は返済を要する貸付米で、供与ではない。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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4月17日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)と御台所(竹御所)が武蔵守北條泰時邸に入御され、内庭で満開になっている卯の花(ウツギ)と瞿麥(ナデシコ属の総称)を愛でながら連歌の会が催された。相模三郎入道眞昭(北條資時)・式部大夫(北條政村)・式部大夫(源)親行・大夫判官(後藤基綱)・都築九郎経景らが召されて参上。親行が優れた句を献じて手ずから御剣を与えられた。早暁になって還御、六位の8人が松明を掲げた。
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   ※卯の花: すぐに連想するのが、芭蕉に同行した俳人の曾良が平泉
高館で詠んだ一句、「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」
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兼房は義経記に登場する老武士で義経正室(河越重頼の娘、郷御前・京姫)の守り役を務めた架空の人物。
藤原泰衡の討手と奮戦して主人が自害する時間を稼ぎ、燃える館に飛び込んで壮絶な最期を遂げた。
卯の花は兼房が白髪を振り乱して戦う姿に見える、と。
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    画像をクリック→「卯の花」の拡大表示。
    高館の詳細は「平泉高館」で。
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   ※源親行: 源氏物語研究で名高い源光行の嫡子で河内守。
父に続いて鎌倉幕府の和歌所奉行に任じ、将軍藤原頼経宗尊親王の歌会の定連となった。
父と共に源氏物語を研究し、「河内本源氏物語」を著している。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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4月23日
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吾妻鏡
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晴。改元の詔書が到着。去る15日、貞永二年を改めて天福元年とした。大蔵卿菅原為長卿の撰進による。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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5月5日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮での節句神事は通例の通り。越後守北條朝時が束帯を着して奉幣使を務めた。
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今日端午節を迎て御所で和歌の会が催された。題は菖蒲を楽しみ郭公の声を聞く」である陸奥式部大夫北條政村・相模三郎入道 北條資時・源式部大夫親行(4月17日を参照)・大夫判官後藤基綱・式部大夫入道伊賀光宗・波多野次郎経朝・都築九郎経景らが参席し、両国司(相模守北條時房と武蔵守北條泰時)も臨席された。
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   ※名月記: 昨夜陣口(坊門南・洞院西)の親宰相(従二位・参議平有親朝臣)邸に群盗が押し入り、宿直の者が
戦って撃退した。内裏の近くでさえこの有様である。また今朝、鴨川(一條末・洪水が頻発した現在の賀茂大橋辺りか)の水が溢れて人が渡れない状態になった。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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5月19日
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吾妻鏡
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在京の御家人が牛車で洛中を移動する事および内野(大内裏の跡地)であるのも考えず馬場に使う事など、顰蹙(ひんしゅく)を受けるような行為は禁止を命じる旨の通告が発せられた。
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   ※内野: 京都の大半を焼いた治承元年(1177)4月の火事で平安遷都以来の大内裏は放棄され廃墟と化した。
現在の千本丸太町北側の一帯(地図)が該当する。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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5月24日
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吾妻鏡
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晴。去る7日の子刻(深夜0時前後)と12日の寅刻(2時前後)に男山(石清水)八幡宮(公式サイト)の甲良宮(現在の境内社、高良神社・地図)の御神体が山中に響くほど鳴動し、太陽か月を思わせる光が東を差した。
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古くからこのような例はない旨を記した別当幸清の報告書が今日届いた。これに依って占いが行われ、五人の陰陽師が「特に畏怖する必要はない」との結果を言上した。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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5月27日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時が御所に参上、一通の書状を携え、御前に披露して言上した。
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去る3月7日に熊野の那智(勝)浦から補陀落渡海した者は智定房を称した下川邊六郎行秀であります。
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故右大将家(頼朝)が下野国の那須野で狩りをした時に一頭の大鹿が勢子に囲まれて逃げられず、伏し倒れた事がありました。右大将家は優れた射手として行秀を選び射取るよう命じましたが行秀の矢は的を外し、勢子の外へ逃げた鹿は四郎左衛門小山朝政が仕留めました。
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これを恥じた行秀は狩場で出家を遂げて行方不明になり、最近になって熊野山で日夜法華経を読んでいるらしいとの噂があった後に結局はこのような企てに及びました。
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この書状は智定房が武蔵守に届けるよう託したもので、紀伊国の糸我庄から今日鎌倉に届き、出家前から現在までの経緯を全て載せている。周防前司中原親實がこれを読み上げた。
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御前に祇候していた男女は感動の涙を流し、泰時は「昔、私の弓馬の友だった」と語った。彼が乗った舟は外から釘で密閉して光は入らず灯明に頼るのみ、30日ほどの食料と灯明の油だけを積んでいるらしい。
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   ※補陀落渡海: 那智湾から3kmほど北、熊野詣でのルート上(地図)にある古刹補陀落山寺(観光案内サイト)
に向けて舟を出すこと、つまり極楽浄土への旅立ちを意味する。
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   ※那須野の狩: 吾妻鏡の建久四年(1193)4月2日に頼朝巻狩りの記載がある。泰時は寿永二年(1183)の
生まれだから行秀が「弓馬の友」なら9歳前後、年齢の面では少し物足りない。
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   ※糸我庄: 現在の有田市糸我町(地図)。約9km東にある明恵上人の歓喜寺(建久六年(1195)4月5日の条
を参照)と何らかの関連があったのかも。信仰の世界は理解の外だが。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月8日
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吾妻鏡
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晴。京都の使者参着し、5月末日の丑刻(午前2時前後)に近衛禅定殿下(近衛基通)が普賢寺殿に於いて薨御(74歳)。日頃から体調を崩し、去る1日火葬して高野山に納骨した。
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御遺言には追善供養の法要や墓守は不要とあった、と。武蔵守北條泰時と相模守北條時房が御所に参上し、政務二七ヶ日(14日間)の政務を休み、弔問の使者の派遣を決めた。
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   ※普賢寺殿: 基通は建仁二年(1202)12月に摂政を辞し、承元二年(1208)に
出家して普賢寺に住んだことから観音寺殿とも呼ばれた。
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普賢寺は天武天皇の勅願寺として天平十六年(744)に良弁僧正(共にwiki)が創建した古刹。治承四年(1180)に焼失し基通の尽力によって再興したと伝わっている。
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現在の名称は大御堂観音寺(京田辺市普賢寺下大門13・地図)。かつては多くの堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺だったが永享九年(1437)の火災で大部分を失い、現在は農地の奥の山裾に昭和二十八年(1953)建造の本堂と庭園が残るのみ。
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右画像は観音寺本尊の十一面観音立像(像高173cm・京田辺市で唯一の国宝)、天平時代からの本尊である。(クリック→拡大表示)
西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月12日
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吾妻鏡
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晴。禅定殿下(近衛基通)を弔問する使者として修理亮宇都宮泰綱が上洛の途に就いた。
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   ※宇都宮氏: 下野国中泉荘(現在の壬生町)、塩谷荘(現在の塩谷郡)などが摂関領で藤原氏と関係が深い。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月19日
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吾妻鏡
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晴。六波羅の使者が到着し、武蔵守北條泰時が駿河守北條重時の書状を御所に持参した。内容は以下の通り。
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去る11日少将藤原實任朝臣(公雅卿の長男)が外出した際に大炊御門東洞院の付近(この辺?)で入道相国(西園寺公経)の家臣左近大夫親賢(騎馬)に行き逢った。羽林(少将の唐名)は下馬の礼を何度も求めたが親賢は従わずに通り過ぎた。これを恨みに思った實任朝臣は青侍に命じて、その日の戌刻(20時前後)に一條殿からの退出を待ち伏せ、親賢を袋叩きにした。
今度は(氏長者である)入道相国が立腹し、實任朝臣を藤原一族から除籍し解官するよう奏聞したが許されず、親賢を襲った淡路国の武士の処分は武家(鎌倉)に任せるよう命令を下した。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月20日
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吾妻鏡
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出雲国杵築(出雲大社)の神主眞高が刃傷による狼藉に及んだとの報告が出雲守護の隠岐太郎左衛門尉佐々木政義から届き、連行せよとの命令が発せられた。また神職を解任し、蔵孝元を新たに任じる事となった。
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   ※出雲大社: 熱田神宮も下鴨神社も伝統芸能の家元騒動も同じ、内部では激しい権力争いを繰り返している。
美味しい利権を手放したくないのは現代の世襲議員も同様に貪欲で浅ましい。
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   ※佐々木政義: 義清の嫡男で出雲・隠岐守護職を継承したが建長二年(1250)12月に突然出家、所領は没収
され弟の泰清が引き継いだ。吾妻鏡の同月29日には次のような記載がある。
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三浦泰村が北條縁戚として横柄な態度を続け、承服できない政義が着座の順序などで再三の喧嘩を繰り返し、最後には馬鹿らしくなって突然出家してしまった。後に息子が生まれ、元の所領少々の分与を願ったが拒絶された。訴訟に及んでも許されなかった。
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「着座の順序」の件は、古今著聞集に載っている「上座に着座した千葉胤綱(千葉氏六代当主)に「下総の犬は寝床を知らぬ」と罵った三浦義村が「三浦の狗は友を喰らうぞ」と言い返された話の原点かも知れないね。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月25日
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吾妻鏡
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晴。日照りが既に30日も続き、東国では西収が出来ない状態が続いている。弁僧正定豪および鶴岡八幡宮の供僧と大蔵卿法印良信らに命じて雨乞いの祈祷が開始された。
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   ※西収: 「秋の収穫」を意味し、東作(春の耕作)の対語となる。でも旧暦の6月25日は西暦の8月2日に当たり、
稲刈りには早過ぎる。収穫の季節とは言い難いと思うが...。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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6月27日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)から亥の四点(22時半過ぎ)にまで雷鳴と豪雨が続き、上綱(上席の僧)らが(雨乞いのために読み挙げた教典の)巻数を報告した。周防前司中原親實がこれを取り次ぎ、先ず褒美の馬と剣を両人(昨日祈祷に任じた定豪と法印良信)の宿坊に届けさせた。使者は籐内左衛門尉藤原定員と信濃左近将監(1月2日を参照)。
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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7月9日
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吾妻鏡
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(去る4月16日に)大風より前の出挙(貸付米)の利息については窮民を救うため減額すると定め、畿内と西国での対応は六波羅に通達してある。にも拘らず丹波国夜久郷の神人(下位の神官)で参詣の先達を称する者が神威を利用して命令に背き、耐えかねた農民が鎌倉に直訴してきた。これを哀れんだ武蔵守北條泰時は庭に呼び出して直接訴えを聞き、正確に調べて対処するよう六波羅に指示を下した。
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   ※夜久郷: 現在の福知山市夜久野(地図)だが、600km近い距離を直訴とは信じがたい。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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7月10日
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吾妻鏡
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慈雨あり、終日やまず。 先月27日に雷雨があってから再び炎暑が数日続いていたが、この雨は国土を潤し豊かな実りを招くだろう。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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7月11日
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吾妻鏡
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二位家(政子)の祥月命日に伴う法事あり。導師は良信法印、御台所(竹御所)も御聴聞のため南御堂(勝長寿院)に入御され、武蔵守北條泰時も臨席された。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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7月20
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に内藤判官盛時気を失って倒れ、子刻(深夜0時)になって蘇生した。妻子に語った内容は「夢の中で広野を彷徨っていたら一人の僧が現れて手を引いてくれた。門のような場所に出たと思った所で目が覚めた。」、と。日頃から崇敬していた地蔵菩薩の功徳で息を吹き返したのだろうか、珍しい出来事である。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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7月21日
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吾妻鏡
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晴。先月20日に前の伊勢齋宮(wiki)を務めた利子内親王(式乾門院、父は後高倉院守貞親王)が四条天皇の准母として皇后宮に入られた。今月13日の入内であると朝廷からの通知があった。
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   ※守貞親王: 81代安徳天皇の異母弟で、後鳥羽天皇の同母兄。満4歳で(皇太子に擬され)平家都落ちに同行
を余儀なくされた。そして後白河法皇は安徳在位のまま三種の神器もなく後鳥羽を即位させた。
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安徳天皇は壇ノ浦に沈んだが守貞親王は生還し文治五年(1189)に親王宣下を受けたものの、皇位継承の可能性がない運命を嘆いて建暦二年(1212)に出家した。
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そして親王の運命は、承久の乱(1221)によって大きく変わる。鎌倉幕府は乱の首謀者として82代後鳥羽・83代土御門・84代順徳および男子の景累を全て流刑に処して順徳の第四皇子・85代仲恭天皇を廃位とし、後鳥羽の系統による皇位継承を認めない方針を定めた。
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この時点で出家していない唯一の男子皇族となった守貞親王の三男茂仁王が86代後堀河天皇として承久三年(1221)7月に帝位を継承した。父の守貞親王は治天の君として太上天皇号を受け法皇として院政を敷いたが2年後に崩御、後高倉院の院号を贈られている。
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   ※准母: 天皇の生母ではない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性の称号。天皇と配偶関係にない
内親王が准母となりさらに皇后として扱われる場合は准母立后。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会があり将軍家(藤原頼経)が御参席し、御剣役は北條有時。左衛門尉佐々木太郎重綱が御調度(弓箭)を携えた。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。(昨日に続いて)将軍家が御参宮。馬場での行事(流鏑馬などの)奉納は通例の通り。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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8月18日
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吾妻鏡
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早朝、武蔵守北條泰時が江島明神(現在の江島神社)に奉幣のため向かったところ、前浜に殺害された死体があった。参詣を中止して御所に戻り評定衆を集めて会議を行ない、まず御家人を派遣して武蔵大路・西浜・名越坂・大倉横大路などの各所を封鎖させた。その上で範囲内にある家を捜索させ諸人が奔走した結果、名越近くで一人の男が血の付いた直垂の袖を洗っているのが見つかった。岩手左衛門尉がこの男を生け捕り御所に連行して取り調べると犯行が明らかになった。犯人は賭博が生業で、直ちに禁止する措置が命じられた。
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   ※前浜: 文字通り鎌倉の前の浜、具体的には小坪浜手前の和賀江嶋
(材木座6丁目・地図)から滑川の流れ込みまでを西浜、滑川から坂ノ下(地図)までを前浜と呼んだ。前浜と西浜の総称が由比ヶ浜、距離にして約2kmの範囲を差す。
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泰時が小町を出て江島に向かう場合は若宮大路から塔之辻を経て由比ヶ浜古道を稲瀬川に下り、坂ノ下から稲村路を辿る筈だから、死体があったのは「稲瀬川流れ込みから坂ノ下までの浜」の範囲となる。 (クリックして拡大地図を参照)
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   ※他の地名: 武蔵大路は壽福寺前を南北に通る道(寛喜三年(1231)3月16日を参照)、西浜封鎖なら材木座
6丁目一帯、名越坂は法性寺に下る切通し(地図)、横大路は八幡宮前を東西に通る六浦道の一部だから封鎖するなら巨福呂坂に向かう辺り、大倉を封鎖なら大慈寺の辺り。
いずれにしろ人に見つかるところで血の付いた衣類を洗うなんて、事件そのものが疑わしい。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月13日
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吾妻鏡
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晴。雲が消えて月光が鮮やか。武蔵守北條泰時の屋敷で内輪の和歌の会が催された。源親行(4月17日を参照)と後藤基綱が同席した。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月18日
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吾妻鏡
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駿河次郎三浦泰村が使節として上洛の途に就いた。出産の近い藻壁門院(九条道家の娘で将軍頼経の同母姉)の体調が悪化しているとの連絡による。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月24日
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吾妻鏡
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晴。京都からの飛脚が鎌倉に入って報告。去る18日卯刻(朝6時前後)に後堀河上皇の御所で藻壁門院が皇子を死産し、意識を失ったまま辰刻(朝8時前後)に崩御(25歳)。将軍家の御姉公であり、喪に服すため政務を30ヶ日の間開かない旨を定めた。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月27日
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吾妻鏡
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伊賀右馬助が藻壁門院弔問の使節として京都に向かったが突然の病気で由比ヶ浜付近で体調の回復を待つ、と。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月28日
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吾妻鏡
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藻壁門院の中陰仏事の費用を御家人らに割り当てた。10月10日までに京都に届けるようにとの仰せである。
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   ※中陰: 死没してから次の生を受ける49日の期間。七日ごとの法事を催す。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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9月29日
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吾妻鏡
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伊賀右馬助が今日出立した。安東左衛門尉光成も武蔵守北條泰時の使節として同様に上洛の途に就いた。
藻壁門院崩御の悲嘆を仙洞(後堀河院)および北白河院(後堀河天皇の生母陳子)に言上する目的である。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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10月19日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に伊賀右馬助と駿河次郎三浦泰村が京から戻り、旅装も改めないまま御所に参上して報告。先月18日に女院(藻壁門院) が崩御し、24日に諒闇の宣旨が下された。30日丑刻(深夜2時前後)に庇御車により葬送、多くの公卿・殿人が或いは衣冠或いは狩衣、全員が徒歩で供奉した。また京極中納言(藤原定家卿)の書状が武蔵守北條泰時に宛てて届き、去る11日に出家し明静を称した、と。
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   ※庇御車: 高位の女性が晴れの席で用いる牛車。庇を色糸で飾ると糸毛車。
   ※諒闇: 天皇の父母死去に伴う一年間の服喪。臣下も同様に服喪となる。
   ※定家の剃髪: 九条兼実が摂政に任じた文治二年(1186)から九条家の家司として仕えており、藻壁門院は
主家の娘に当たる。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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11月3日
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吾妻鏡
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蔵人大夫大江(毛利)季光法師(法名を西阿)が評定衆に加えられた。大和前司倫重が使者として西阿に連絡した。
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   ※大江季光: この年から評定衆を務め、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦泰村に味方して一族の大部分が
滅亡し、越後にいた四男経光の系統たけが生き残って後世のの毛利元就に繋がっていく。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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11月10日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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夜まで評議が行われた。武蔵守北條泰時は就業後に大和前司天野倫重と玄蕃允三善(太田)康連・民部丞佐藤(藤原)業時を招いて酒宴を催し、業務への尽力を慰労した。
最近は訴訟が多発した上に評議も続いている。泰時の出仕は早朝が通例となっており、他の評定衆は衣服を裏返しに着るほど急いでも間に合わないため、この三人は相談して評定所に泊まり込み泰時の出仕を待つ事が既に数回に及んでいた。この酒宴は、謂わば精勤に対する褒賞である。
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   ※藤原業時: 佐藤姓も名乗る相模大掾。嘉禄元年(1225)の評定所設置と共に初代評定衆の一人に任じた。
仁治二年(1241)5月20日に落書などの罪を問われて評定衆を解任され26日鎮西配流に処された。後に許されて鎌倉に戻ったが評定衆復帰は成らなかったらしい。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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12月12日
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吾妻鏡
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曇。南御堂(勝長寿院)で八万四千基塔を供養する法要を行った。導師は内大臣僧都定親(弁僧正定豪の弟子で 源(土御門)通親卿の息子、定豪の二代後の八幡宮別当)、開眼の呪願(施主のための祈願)は弁僧正定豪。
直垂姿の将軍家(藤原頼経)が御台所(竹御所)と同じ車で出御、武蔵守北條泰時と相模守北條時房も列席した。
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   ※八万四千基塔: 建仁三年(1203)8月29日の吾妻鏡に「鶴岡八幡宮の宝前に土で造った八萬四千基の泥塔
を供えて供養を行った」との記載がある。更に詳細は同日の記事を参照されたし。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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12月28日
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吾妻鏡
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晴。狩衣姿の将軍家(藤原頼経)御方違えのため竹御所邸に入御された。御台所も同じ車である。
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西暦1233年
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87代 四条
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天福元年
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12月29日
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吾妻鏡
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陸奥五郎の子息小童(10歳)が武蔵守北條泰時邸で元服し、太郎實時(後の北條(金沢)實時)と名乗った。駿河前司三浦義村らが同席し、儀式の全ては泰時が負担し、加冠役(烏帽子親)も務めた。事前の予定ではなく、思う所があっての行動との仰せがあった。
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87代 四条
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 月 日
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