天福二年・文暦元年(1234)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴、風は静まった。相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。将軍家(藤原頼経)が出御し、八條少将が簾を挙げる役を務めた。出羽前司中条家長が御剣を、左衛門尉佐原三郎家連が御弓箭を、式部丞直北條朝直が御行騰沓を携えた。
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   一の御馬(鞍置)  越後太郎北條光時  越後次郎北條時章
   二の御馬      相模六郎北條時定(北條時房の六男)  本間三郎左衛門尉
   三の御馬      掃部助太郎結城朝広  本間次郎左衛門尉
   四の御馬      佐原四郎光連(葦名氏)  同六郎兵衛尉佐原時連(横須賀氏)
   五の御馬      本間左衛門尉(太郎忠貞?)  同四郎左衛門尉
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※佐原家連: 義連の三男。承久の乱(1221)の勲功で紀伊国南部(みなべ)荘(現在の和歌山県みなべ町)の
地頭となり、更に義連を継いで紀伊国の守護に任じた。
みなべ町は南高梅の主産地として名高い(道の駅「みなべ」も参考に。)
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   ※光連と時連: 光連(光盛)は義連の嫡子盛連の四男。会津葦名氏の祖。時連は盛連の六男で陸奥国新宮荘
(喜多方市)を本領とし、新宮氏の祖となった。兄弟6人は宝治合戦では北條氏に与している。
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   ※本間左衛門尉: 本間氏出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は相模国愛甲郡依知郷(現在の厚木市
の中依知・地図)。北條被官として佐渡代官に任じ分家の子孫が出羽の富豪本間氏に続く。
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吾妻鏡の嘉禄二年(1226)7月1日に「本間太郎左衛門尉忠貞」記載があり、この人物が惣領と思われるが、系図には載っておらず、弟(らしい)次郎・三郎・四郎の名前は判らない。
鎌倉~室町時代には同族内部の争いなどで栄枯盛衰を繰り返しており、系図も錯綜が多い。
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   ※年令: 北條時房は58歳・ 北條泰時は50歳・ 北條朝時は41歳・ 北條政村は29歳・ 北條経時は9歳・
三浦義村は68歳ほど・ 三浦泰村は50歳・ 足利義氏は45歳・ 小山朝政は84歳・ 結城朝光は66歳・
四代将軍藤原頼経は16歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で3歳。(全て満年齢)
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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1月2日
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吾妻鏡
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曇、夜になって小雨。武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。御剣は陸奥式部大夫北條政村(狩衣)が、越後太郎北條光時が御弓箭を、駿河次郎三浦泰村が御行騰沓を携えた。
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   一の御馬(鞍置)  隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  同、四郎左衛門尉二階堂行久 .

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   ※二楷堂行義: 行村の次男で暦仁元年(1238)~文永五年<(1268)まで評定衆。
   ※二楷堂行久: 行村の三男で寳治三年(1249)~文応二年(1261)まで評定衆。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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1月3日
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吾妻鏡
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椀飯の後に将軍家(狩衣・御車)で武蔵守北條泰時邸に御行(外出)始め、上野介結城朝光が剣持ちを務めた。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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2月24日
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吾妻鏡
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京都の使者が鎌倉に到着して報告。去る14日未刻(14時前後)に北野聖廟(北野天満宮・公式サイト)が焼失した。当社の火災は天延(973~976年)と長徳(995~999年)に続いて三回目である。
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   ※百錬抄の記録: 14日未刻に北野宮の神殿・礼殿・小社廻廊が焼亡、
火元は北側の民家である。神輿と御神体は救い出したが朝日寺(元々この地にあり天満宮創建に関与した)も共に焼け落ちた。神輿は暫く林の中に鎮座し、夜になって宝蔵に安置した。余焔は外記庁などにも及んだが打ち消す事ができた。
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   ※外記庁: 内裏外廊の東門である建春門院(右画像を拡大)の東側に
あった庁舎。北野天満宮からは直線で約1.5kmだから延焼の危険があるエリアではない筈...私はどこかで間違えたか、外記庁が複数存在したのか。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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3月1日
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吾妻鏡
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今日、御台所(竹御所)の御着帯、午刻(正午前後)にその儀あり。
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   ※御着帯: 現代も続く安産を祈る習慣だがこの日は「亥」、鎌倉時代は戌の日は無関係だったらしい。
蛇足だが、我が家の飼い犬が出産した時は私が産婆(産爺か)を務めて10匹(1匹が死産)を取り上げた。私が胎盤を外して臍の緒を縛り、それを妻が切って体を拭う流れ作業で、5時間を費やした。
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飼っていたペアは数年前に寿命を迎え、各地に貰われていった子犬たちも既に老齢を迎え13才前後で死没...楽しい思い出と悲しい思い出が交差する、それが人生だね。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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3月5日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の内孫(北條時氏の嫡男、11歳)が御所で元服した。
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相模守北條時房(狩衣)・泰時(同じく)・越後守北條朝時・式部大夫北條政村・前民部権少輔 源親広・摂津守中原師員・駿河前司三浦義村・出羽前司中条家長・大夫判官後藤基綱・上野介結城朝光らが西の侍所に着座し、若公(水干姿)は同じく侍所の南に座した。暫くして籐内左衛門尉藤原定員 (将軍家の近臣)を介して将軍頼経が若公を寝殿西側の簾中に招き、続いて泰時も招かれた。
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北條政村・源親広・左近大夫将監大江佐房・左衛門大夫長井泰秀・右馬権助伊賀仲能らがそれぞれの役目を務め、時房が理髪(前髪を落とす)し、(将軍の代理として)加冠して北條弥四郎経時と命名した。続いて八條少将が御剣を取って経時に手渡し、経時はこれを受けて退出した。
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次に両国司(時房と泰時)以下の人々は庭に着座し将軍家(藤原頼経)が南面に出御、八條少将實清朝臣が御簾を引き挙げ、引き出物として御剣・御鎧・御馬が下賜された。その後に御簾が降ろされ、人々は堂上での椀飯・酒宴となり正月三ヶ日の様子になった。泰時は退出後に三郎左衛門尉平盛綱を使者として龍蹄(大型の駿馬)を時房に贈った。また左近将監入道後藤基綱と兵衛尉諏訪兵衛尉盛重を介して儀式に関わった人々に謝辞を伝えた。
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   ※北條時氏: 泰時の嫡男。次期執権として期待されていたが寛喜二年(1230)6月に27歳で早世、次男の時実
も16歳で斬り死にし、三男公義は2歳だったため執権候補には成りえず、泰時は今回元服した時氏の長男経時に全ての夢を託すのだが...
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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3月10日
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吾妻鏡
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大蔵卿(菅原為長卿・wiki)が武蔵守北條泰時宛に送った書状が一巻の記録と共に届き、泰時が御所に持参した。
中原師員が御前で読み上げた内容は次の通り。
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北野天神社の火事について評議がありました。私に長門国が与えられ、その年貢を宛てて来る8月までに宝殿を再建を再建するよう帝から命じられました。また火災の翌日の夜に大宮中納言(實有卿)の夢に現れた天神が四韻の詩を作り、私は夢から醒めてもその七文字、「昨林中火扇凉風」を覚えております。
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また去る2月の頃に南都(奈良)の天狗が怪異を現し、一晩のうちに千戸以上の民家に三文字を書く、と。ただしこの現象は未だ現れておらず、実に奇異な事であります。
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   ※大宮中納言: 西園寺公経の次男で清水谷家の祖となった一条実有。公経の祖父で西園寺家の祖となった
通季が大宮を名乗った経緯に基づく。実有は他の兄弟に比べて出世も遅く地味な存在だったが孫の公経は激しい政争を巧みに生き抜き、朝廷の人事権を思いのままに操って「世の奸臣」と言われるほどの権勢を握っている。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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3月22日
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吾妻鏡
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大納言阿闍梨隆弁が初めて御所に参上し、将軍家(藤原頼経)と面会した。去る6日に本寺(三井寺(圓城寺)・公式サイト)を発って鎌倉に下着したものである。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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4月5日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の所願として今日から鶴岡八幡宮で大般若経一部を書写が始まった。左衛門入道道然尾藤景綱と兵衛入道齋藤浄圓がこの差配に任じた。
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   ※吾妻鏡の欠落: この年の5月は存在せず。欠落か、または記録するような事件がなかったか。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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6月19日
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吾妻鏡
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左衛門少尉狩野為光が評定衆に加えられた。
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   ※狩野為光: 茂光-三男行光(宗茂の弟)-次男為光と続く狩野氏傍流。寛元四年(1246)まで評定衆を務め、
同年の宮騒動に連座して解任されたが建長五年(1253)に引付衆(評定衆の下部組織で定員は3~5人、頭人・引付衆・引付奉行で構成)として幕政に復帰した。
従五位に叙された嘉禎三年(1237)に為佐と改名している。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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6月30日
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吾妻鏡
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陸奥五郎北條實泰が病気のため小侍所別当を辞任した。實泰は「小侍所別当は重職であり、若年の息子太郎實時には補任し難い。」との申し出があったが、武蔵守北條泰時から「重職や年少については私が補佐しよう」との意見があり、任命する結果となった。
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   ※實時: 元仁元年(1224)生まれだから満9歳か10歳、成人後は優れた政治家・文化人として実績を積む。
   ※小侍所: 将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍と御所の警備を統括した職種。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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7月6日
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吾妻鏡
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家司らに命じて起請文を提出させた。業務の執行に際しては親しいか否かや身分の高低などに関係なく、正義を基準として措置するとの内容である。提出したのは以下の17人。
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前山城の守藤原秀朝・前山城の守中原盛長・散位大江以康・散位三善康持・民部大丞三善康連・中務丞大江俊行・弾正忠大江以基・大膳進大江盛行・左衛門尉惟宗重通・兵庫允三善倫忠・藤原頼俊・沙弥行忍・惟宗行通・三善康政(康宗と改名)。
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   ※家司: 本来は公卿や大名の家政を司る役職だが、鎌倉時代の中期からは幕政への関与が頻繁になり、北條
被官が幕僚を兼ねる例が恒常化し、執事を含むような職務の性格が薄れてくる。
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承元三年(1209)11月14日の吾妻鏡には郎従を引き立てて御家人に準じる扱いをするよう願い出た執権北條義時に対して将軍実朝が許さず、「それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕政への関与を企てるようになるだろう。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。」と厳しく言い渡す記載があった。
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その危惧が当った可能性もあり、また御内人(北條被官)の平頼綱が権力を握って独裁を敷いた霜月騒動(wiki・弘安八年・1285)から彼が滅亡した正応六年(1293)以後に吾妻鏡の編纂者が書き加えた記事の可能性も考えられるが...。
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   ※蛇足: 平頼綱の別邸が熱海にあったとの話がある。出典は夢窓疎石
の弟子で臨済宗の僧義堂周信(共にwiki)が書いた日記に「熱海在住の僧に聞いた話」として下記の内容が載っている。
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多くの悪行を重ねた頼綱の別邸が熱海にあり、再三の温浴を楽しむのが習慣だった。頼綱が殺されると共に館は地中に沈み、その跡が「平左衛門地獄」と呼ばれている。
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実際には「清左衛門という名の百姓が馬に跨って走り、湯壷に飛び込んで焼け死んだ」との伝承が誤つて伝わったらしく、現在は「熱海七湯の一つ・清左衛門の湯」として残っている。
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右画像をクリック→清左衛門の湯を拡大表示。更に詳細は熱海七湯で。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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7月12日
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名月記
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快晴。先月末の書状が鎌倉から到着した。将軍家室の出産に対応する祈祷についての報告、また去る26日の朝に北條義時の五男(生母は一条実有(西園寺公経の次男)の娘)が誤って腹を突き破り意識を失った。兼ねてからの狂気、との噂もある。
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   ※義時の五男: 北條實泰を差す。通説では生母は伊賀の方、異説として一条実有の娘。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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7月26日
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吾妻鏡
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御台所(竹御所)が供奉の数人と共に御産所(相模守北條時房邸)に移られた。渡御後の子刻(深夜0時前後)になって産気づき、廷尉藤原定員が鳴弦役人を呼び10人(下記)が集まった(各々白の直垂と立烏帽子)。
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   左近蔵人  城太郎安達景盛  上野七郎左衛門尉結城朝広  駿河五郎左衛門尉三浦資村(義村の七男)
   近江三郎兵衛尉(?)  三浦又太郎  左衛門尉伊東三郎祐綱(祐時の三男)
   葛西新左衛門尉清時(清重の三男時清)  中條左衛門尉(家長の嫡子家平)  和泉二郎左衛門尉景氏(?)
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   ※鳴弦: 邪気・魔物を払うため弓の弦を鳴らすこと。元は朝廷、後に武家の病気・誕生などの際に行われた。
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   ※左近蔵人: 左近衛府の官人で蔵人を兼任した人物。文暦二年(1235)9月19日の吾妻鏡に「毛利左近蔵人
親光が使者を...」との記載があるから素性は判るのだが、毛利氏の系図には記載がない。大江親広の庶子か、とも思うが...。
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   ※三浦又太郎: 貞応三年(1224)1月1日の吾妻鏡に「三浦又太郎氏村」の記載がある。三浦氏の中で「村」の
通字は義村の系だけだが、ここにも氏村は見当たらない。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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7月27日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時)に竹御所が死産した。加持祈祷に任じたのは弁僧正定豪、産後の御台所は酷く苦しんだ末刻(8時前後)に死去した(御歳32)。正治将軍(正治時代の将軍=頼家)の姫君である。
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   ※竹御所死没: 頼朝の血を継ぐ男子は実朝死没(建保七年・1219年)で絶え、女性は竹御所で完全に絶えた。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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8月1日
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吾妻鏡
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北條弥四郎経時が小侍所別当(6月30日を参照)に補任となった。これは陸奥太郎北條實時が竹御所の御後事(葬儀などの処理か)を担当するための穢を避けるのが理由である。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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8月 日
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名月記
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   ※8月2日: 早朝に永光朝臣の使者が伝えた。関東の貴人が死産後に死去したとの飛脚が(鎌倉から)4日間
で駆け付けた、と。故前幕下(頼朝)の血筋が絶えたことになる。平家の景累は嬰児まで探し出して殺した、その報いだろう。北條重時(六波羅探題のトップ)が鎌倉に向けて出発した、と。
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   ※8月6日: 重時ら著名な武士が鎌倉に向かい、京都の警備が手薄になっている。
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   ※8月20日: 昼過ぎに實家朝臣(?)が来訪、去る10日に鎌倉を出発して上洛した、と。関東の葬送は29日、
服者(喪に服す者)なので凶事の後は出仕せず、それ以前は時々将軍家に出仕していた、と。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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8月21日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の家令・尾藤左近入道道然(尾藤(藤原)景綱)が病気で辞職、左衛門尉平盛綱が後任となった。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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8月22日
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吾妻鏡
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左近将監藤原景綱(藤原(尾藤)景綱法師・法名道然)が死去した。
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   ※吾妻鏡の欠落: この年の9月と10月は存在せず。7月29日に行なう筈の竹御所の葬儀と9月20日前後には
四十九日法要も催したはず、何らかの原因で欠落したのだろう。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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9月 日
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名月記
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   ※9月3日: 多くの武士が入洛した。掃部助(北條時盛)は特に群盗を取り締まる命令を受けている。
時盛は7月末日、北條重時は昨日入洛、その他にも多数の武士が続いている。
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   ※9月4日: 噂では重時朝臣の今回の入洛は郎従千騎と両人の他に武士十人を伴っている。
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   ※9月11日: 東大寺別当については御中陰(竹御所の四十九日)を過ぎに決定するらしい。また関東将軍家
が突然に厳海法印を鎌倉に招いた、と。
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   ※9月13日: 厳海法印の来訪あり、鎌倉に向かう旨を報告した。
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   ※東大寺別当: 承久二年(1220)の実朝暗殺後に空席となった八幡宮別当に任じた定豪は安貞二年(1228)
に東大寺別当を兼任した。竹御所母子の死没により祈祷失敗の責任を取る形で東大寺別当と東寺長者(二位)を辞任、後継の別当には頼恵が就任するのだが...頼恵は翌文暦二年6月に死没、108代には親厳が就任する。
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   ※厳海法印: 誰だ?八幡宮別当は定豪-定雅-定親-隆弁と続くから該当しないし。ま、そのうち判るか。
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西暦1234年
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87代 四条
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天福二年
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11月5日
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改 元
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改元あり。天福二年を改めて文暦元年、天災の凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。
「百錬抄」は、天福の字は最初から否定的な意見が多かった、と書いている。

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西暦1234年
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87代 四条
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文暦元年
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11月28日
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吾妻鏡
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前伊賀守で従五位下の源朝臣義成が死去(78歳、名乗りは里見)。彼は幕下将軍家(源頼朝)の寵臣で、親しいか否かを問わず惜しまない者はいなかった。
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   ※源朝臣義成: 頼朝挙兵当時の源氏の長老だった新田義重の庶長子里美義成。義重の遺言により新田宗家は
四男の世良田義季が継ぎ、義成は上野国碓氷郡里見郷を継承して分家している。
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系図の錯綜は見られるが、義成の子孫は後に現在の房総半島一帯を領有して安房里見氏となり、江戸時代末期の「房総里見八犬伝」のモデルになっている。新田義重の相続に関わる経緯は新田義重置文 長楽寺文書で紹介した。ちなみに、徳川家康は征夷大将軍として源氏を名乗るため、義季の息子で新田荘得川郷を相続した頼有を徳川の氏祖と僭称している。
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西暦1234年
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87代 四条
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文暦元年
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12月28日
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吾妻鏡
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去る21日に決まった除目の聞書(聞き書きした記録書類)が届いた。将軍家藤原頼経が正三位に昇叙され、それに伴って同日中に中納言を辞任した。
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西暦1234年
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87代 四条
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文暦元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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87代 四条
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