文暦二年・嘉禎元年(1235)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。三浦義村が御剣を、出羽前司中条家長が御弓箭を、相模式部大夫北條朝直が御行騰沓を携えた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。

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   ※年令: 北條時房は59歳・ 北條泰時は51歳・ 北條朝時は42歳・ 北條政村は30歳・ 北條経時は10歳・
三浦義村は69歳ほど・ 三浦泰村は51歳・ 足利義氏は46歳・ 小山朝政は85歳・ 結城朝光は67歳・
四代将軍藤原頼経は17歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で4歳。(全て満年齢)
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月2日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。 陸奥式部大夫北條政村が御剣を、出羽前司中条家長が御弓箭を、
越後太郎北條光時が御行騰沓を携えた。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月3日
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吾妻鏡
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越前守北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。 駿河前司三浦義村が御剣を、加賀守町野康俊が御弓箭を、城太郎安達義景が御行騰沓を携えた。
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   ※名月記: 今日 修理亮(佐々木泰綱)が冷泉を訪れ馬五疋を献じた。
泰綱が二疋、子息三人(経泰・頼綱・頼起か? )がそれぞれ一疋)、金吾(佐々木政義か?)が一疋。
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   ※冷泉: 名月記を書いた藤原定家の嫡子である為家の後妻(阿仏尼)が
産んだ為相が冷泉家の祖となったが、父の為家邸が冷泉小路(現在の上京区玄武町599・地図)にあり、明月記の記述はそこを差しているのだろう。
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阿仏尼は為家の遺領を愛児の為相に継がせる訴訟のため鎌倉まで旅し、その道中を綴った「阿仏尼日記」でも知られた女流歌人。鎌倉の扇ヶ谷に伝・彼女の墓石が残っている。
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彼女は訴訟の結果を見ずに死没するが、為相も再三鎌倉に下向して最終的に勝訴し(為家の先妻、つまり幕府の大物御家人だった宇都宮頼綱の娘と争う形になったため長引いた、らしい)。
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その間に鎌倉の歌壇を指導した縁で晩年は鎌倉にて定住して死没、は扇ヶ谷の浄光明寺(wiki)に葬られた。阿仏尼の墓から僅かに200mの距離に眠っている。
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右画像は今出川通に面した現在の冷泉家。寛政二年(1790)の建築だが京都御所の公卿屋敷としては唯一現存する建物(重要文化財・非公開)。背後は同志社大学。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月5日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御方違えについての検討を指示した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月9日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が節分会の御方違えのため越後守北條朝時の名越邸に入御された。名越邸入御は初めての例であり、華美を尽くした接待が催された。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月12日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参り(御束帯で牛車)。佐原新左衛門尉御剣、摂津左衛門尉狩野為光が弓箭を携えた。
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今夜、御方違えのため周防前司中原親實の大倉宅に入御された。これは大将軍王相方の御方違えであり、春の間は15日に一度の移動を必要とする。
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   ※佐原家連: 義連の三男。承久の乱(1221)の勲功で紀伊国南部(みなべ)荘(現在の和歌山県みなべ町)の
地頭となり、更に義連を継いで紀伊国の守護に任じた。
みなべ町は南高梅の主産地として名高い(道の駅「みなべ」(サイト内リンク・別窓)も参考に。)
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   ※方違え: 大別して二種類、個人の生年による干支で決まる凶の方角を避けるものと、天一神・太白神・金神・
「王相」・八将神・土公神などの諸神が遊行する方角を避ける共通の例がある。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、緑で記載した部分が漏れている場合あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月15日
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吾妻鏡
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五大尊堂(現在の明王院・公式サイト)の山門を建てる木組み作りが始まった。来月10日に堂舎を建てるよう命令があり、、まずこの沙汰からの作業である。周防前司中原親實と摂津左衛門尉狩野為光がこの奉行に任じる。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月20日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御方違えで中原親實の大倉宅に入御された。明日五大堂の門を建てる関係から太一方を避けるのが目的あり、これに先だって前漏刻博士の宣友からの申し出があり、出御の前に小御所の東面に陰陽師を呼んで結論を求めた。
忠尚・親職・晴賢・文元らが渡廊下の北隅に控え、宣友は「遊行の方角が大将軍王相に関与するのは特に問題なし」と、また忠尚らは「問題である」と述べた。越後守北條朝時は遊行神の御方違えでの利用であり、以前から御本所(御方違えの基点)として利用していたのは周防前司中原親實の家である、と。
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   ※太一方: 太一星(北極星)の軌道によって吉凶を占うこと。
   ※王相方: 陰陽道で祀る王神と相神が示す方角。月毎に所在の方角が変わり、その方向は移転・建築を忌む。
   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、1月20日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月21日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が念願としている五大堂建立については相模守北條時房と武蔵守北條泰時が再三々巡検して鎌倉中の景勝地を選んでいた。去年は城太郎安達義景の甘縄邸近くの駅はと定めたのだが御意に叶わず思い悩んだ末に幕府の鬼門に当たるこの場所(十二所)に思い至った。蔵人大夫大江(毛利)季光法師(法名を西阿)の所有地であり、占いによって相応しい場所と決まった。今日まず惣門を建てたものである。
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相模守時房・武蔵守泰時・大膳権大夫(中原師員)ら数人が立ち会い、伊賀式部入道光西(伊賀光宗)と清判官季氏が作業を差配した。
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   ※去年は...甘縄を選んだのは寛喜三年(1231)10月19日と20日に記載があるが中止になった旨は記録に
ない。最終的に十二所(大倉と表示)と決定したのは貞永元年(1232)10月2日と22日。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、1月21日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月26日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)は今夜、御方違えのため周防前司中原親實の大倉宅に入御された。ここで庚申御会が催され、竹間鶯と寄松祝の題で二首の和歌を詠み合わせた。石山侍従・河内前司光行入道・大夫判官後藤基綱・式部大夫入道伊賀光宗(光西)・東六郎行胤らが懐紙に記して提出した。
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   ※庚申会: 庚申の日に仏教では帝釈天または青面金剛を・神道では猿田彦を祀って徹夜する行事。この夜に
眠ると体内の虫が抜け出して天帝に罪過を告げ早死にを招くとの道教の教えがある。
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   ※東行胤: 千葉常胤の二男で東氏の祖となった東(六郎)胤頼-重胤と続く。嫡子に中務丞胤行がいるが、行胤
は東氏系図には見当たらない。
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   ※石山侍従: 飛鳥井教定を差す。難波頼経の二男飛鳥井雅経の二男で母は大江廣元の娘。歌人・蹴鞠の名手
としても知られ、三代の鎌倉将軍(頼経・頼嗣・宗尊親王)に仕えて蹴鞠と和歌を指導した。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、1月21日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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1月27日
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吾妻鏡
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鎌倉中の僧徒に兵仗(武器の保有)を禁止した。
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   ※武器保有禁止: 京都と奈良の惨状を見れば宜なるかな。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月3日
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吾妻鏡
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五大尊堂を建てる用地で土公祭が始められた。陰陽師が交代で連日の祭祀を行なう。
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   ※土公祭: 地鎮祭に概ね等しい。陰陽道で言う土公神は遊行神の一種で春は竈・夏は門・秋は井戸・冬は庭に
棲み、その期間中に該当する場所を犯すと祟りがある。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、2月3日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月4日
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吾妻鏡
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五大尊堂を崇める(付帯)施設についての沙汰が下った。
唐門の外に(摂社などを)設けるよう兼ねてからの意向が示されていたが土地が狭いため、相模守北條時房・武蔵守北條泰時・大膳権大夫中原師員・駿河前司三浦義村らが現地に立ち会って評議した。
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門内を選ぶべきか堂の背後の山に建てるべきかの意見が様々あり、背後の場合はかなり高くなるため支障の有無を有識者と陰陽師に確認させた。
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河内入道源光行・安倍親職・安倍晴賢は「高低を選ぶ必要なし、地形に従うべき」と答え、堂の東に建てるよう定めた。
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   ※唐門: 一般的には唐破風を設けた四脚門を差し、寺院の場合は「これ
より山内」を示す惣門の奥、堂塔の建つ敷地との境界を示す。
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右画像は平貞能が主人平重盛夫妻の遺骨を葬った茨城県城里町の小松寺の唐門(クリック→ 拡大表示)。鎌倉と白雲寺の間には何の関係もないが、規模から考えるとこの位の規模かな、ということで。 重盛夫妻の墓についての詳細は白雲山小松寺を参照されたし。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、2月4日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月9日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が(方違えのため)大夫判官後藤基綱の大倉邸に入御、御水干で御騎馬である。陸奥式部大夫北條政村・ 相模式部大夫北條朝直・前民部少輔三条(中原)親實・駿河前司三浦義村・大夫判官伊東祐時・駿河大夫判官三浦光村らが供奉した。 五位は水干、六位は直垂に立烏帽子。
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上野七郎左衛門尉結城朝広・同五郎結城朝光・武田六郎の三人が甲冑で後尾に続いた。今夜は後藤邸に宿泊し遊興。弓射、小笠懸、蹴鞠に続いて御酒宴と管弦、夜になってから和歌の会があり、相模守北條時房 武蔵守北條泰時も加わった。
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  弓射の射手
      一番 駿河次郎三浦泰村    岡部左衛門四郎時綱
      二番 佐々木八郎左衛門尉    神地四郎(?)
      三番 武田六郎    横溝六郎義行(本領は近江国横溝(滋賀県東近江市横溝町)、得宗被官)
  小笠懸
      相模式部大夫北條朝直    駿河次郎三浦泰村
      小山五郎左衛門尉長村    相模五郎北條時直
      近江三郎左衛門尉    佐々木八郎左衛門尉
      横溝六郎    宇都宮四郎左衛門尉(?)
      武田六郎信長    上総介太郎(千葉(境)常秀
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   ※岡部時綱: 一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄から七代目の子孫(忠澄-近綱-長綱-家綱
-康綱-照綱-時綱)。一ノ谷合戦での二人の接点は腕塚神社(サイト内リンク・別窓)で。
   ※佐々木八郎: 佐々木義清-次男泰清-八男宗泰と続く。隠岐国守護代で出雲高岡氏の祖。
   ※武田信長: 信光の次男。頼朝が粛清した叔父一条忠頼の家名を継承、武田宗家は兄の信政が継いでいる。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、2月9日の記録が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月10日
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。将軍家(藤原頼経)が後藤基綱の家から五大尊堂の地に渡御した。
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相模守北條時房・武蔵守北條泰時・大膳権大夫中原師員・駿河前司三浦義村・左衛門大夫長井泰秀・出羽前司 中条家長・加賀守町野康俊らが供奉した。
今日御堂を建立、親職・晴賢・文元(いずれも安倍)らが立ち会い時刻について言上、午刻(正午前後)になって建立となった。大工棟梁は矢坂次郎大夫、大工四人を従えている。作業が終わって褒賞を与え、判官代大夫橘隆邦・清判官清原季氏が奉行に任じた。
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  大工分
   馬二疋
   一の御馬(鹿毛、鞍付きく) 野内太郎兵衛尉と同次郎がこれを引く
   二の御馬(黒葦毛)     本間次郎左衛門尉と同四郎
   十物十種
    絹十疋  染絹十端 綿十両  白布十端 藍摺十段 奥布十段
    直垂紺十 帷紺十  色革十枚
  引頭分
   馬一疋
   五物五種
    絹五疋  白布五段 直垂紺五 帷紺五  奥布五段
     以上、それぞれ一人宛。
  この外檜皮大工・壁塗・鍛冶等、各々馬一疋が与えられた。
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馬は、両国司(時房と泰時)並びに駿河前司三浦義村・小山下野入道(結城朝光)・千葉介(千葉時胤・胤綱の長男)らの拠出、他は全て政所の手配である。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月15日
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吾妻鏡
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御所の南面に於いて涅槃経の論議(解釈と議論)を講じた(2月15日は釈迦入滅の日、涅槃会を催す)。
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  僧衆八人
   光寶法印  兼盛法印  定親僧都  頼兼僧都
   憲清僧都  定清律師  審範已講  定修阿闍梨
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夕刻に終了し布施が与えられた。左近大夫将監大江佐房・左近蔵人親光(毛利季光の次男)・駿河蔵人三浦泰村がこれを差配した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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2月18日
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吾妻鏡
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晴。弁僧正定豪が僧房に置いて一切経による供養を行った。導師は興福寺の東南院法印公宴、呪願(施主の 願意を述べて祈る)は大蔵卿法印良信、将軍家藤原頼経も結縁を求め御輿で出御し、武藤左近将監(古庄(大友)能直)剣持ちを務めた。相模守北條時房と武蔵守北條泰時らが供奉した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月3日
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吾妻鏡
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小雨。鶴岡八幡宮で恒例の神事(五節の上巳)。将軍家(藤原頼経)が御参宮。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月5日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に五大尊堂の鐘楼を建立、相模守北條時房 武蔵守北條泰時が立ち会った。
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   ※史料: 明月記に拠れば、この年の春頃に摂政の九条道家後鳥羽上皇と順徳院の京都還御を認めるよう
提案したが、北條泰時は受け入れなかった。」と書いている。 後鳥羽院は延応元年(1239)2月20日に配所の隠岐で、順徳院は仁治三年(1242)9月12日に配所の佐渡で、それぞれ崩御した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月9日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に大地震。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月11日
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吾妻鏡
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天変と地震に対応して祈祷が始められた。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月13日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に小さな地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月16日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に大地震。今日、天変地異に対応して祈祷を行ない、武蔵守北條泰時邸に於いて徳政を心掛けるよう指示があった。大膳権大夫中原師員がこれを差配した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月18日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時房 武蔵守北條泰時が御所に参上し、五大尊堂の完成供養の日時について協議した。陰陽師らも加わって4月11日が上吉、同18日が下吉、5月5日が上吉であると申し出た。4月11日は土木工事が終わっていても堂宇の造作は間に合わず、4月18か5月5日を選ぶべき、と。これについて評議があった。
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安倍親職は「五月は堂供養が多く催されており何も支障なし。」と。晴賢は「5月を避けるのは元服・着袴・移徙(移転)・嫁取などで、5月は忌月なので先例を憚る必要はなく、経典でも1月・5月・9月の法要を奨めていおり、京都の法成寺(wiki)・嵯峨野釈迦堂(清涼寺・公式サイト)・高野山の惣持院(公式サイト)などは5月の完成供養を行っている。また宇治平等院(公式サイト)の一切経会も5月である。五月の上吉日を選ぶべき。」と。
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忠尚・宣俊・資俊・文元らもこれに同意し、両国司(時房と泰時)はその通りに定めて退出した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月25日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸で五大尊堂落慶供養の日時について再度の指示が下された。5月5日に行なう予定だったが、その日は鶴岡八幡宮で端午節句に伴う神事があるため、陰陽師を集めて対応を協議した。
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忠尚らからは「神仏の催しを同じ日に行う例は多いが、今回は両方とも大きな行事であり、(臨席が)重複するなら別の日に延期すべき。」との意見が出た。それならば何日が向いているかと泰時が質問し、陰陽師一同は6月29日が最吉である、と答えた。これにより、廷尉(検非違使判官)後藤基綱を介して将軍家(藤原頼経)に言上した。
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   ※端午節句: 恒例の節句神事があるのは最初から判っていた事、少なからず杜撰な計画だと思う。
ちなみに、五節句(1月7日の人日・3月3日の上巳・5月5日の端午・7月7日の七夕・9月9日の重陽)が定まったのは江戸時代で、吾妻鏡に現れるのは上巳・端午・重陽が多い。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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3月28日
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吾妻鏡
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武蔵守北條泰時邸に於いて五大尊堂落慶供養についての陰陽師の勘文(諮問に対する上申)を提出させた。
決定は昨日だが将軍家の御所の御衰日(運勢が衰える日)に当たるため今日となった。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月1日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に京都からの飛脚が到着、殿下(摂政関白の略称・この場合は九条教実)が去る2月21日から日増しに病状が悪化し、摂関の職務を大殿(教実と将軍頼経の父で前任摂関九条道家)が還任した、と報告した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月2日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に京都からの飛脚が再び到着、前の摂政九条教実殿が先月27日に昏睡状態となり同28日の巳刻(10時前後)に死去した、と報告した。これ将軍家(藤原頼経)の実兄(生母は西園寺公経の娘)である。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月3日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)は御軽服(竹御所死去に伴う軽い服喪)に加えて(兄の)摂政九条教実の死去により政務を三日間欠席する。

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   ※玉蘂の記録: この日、故摂政殿の葬礼。最勝金剛院東山で火葬し遺骨は浄妙寺に送った。

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   ※最勝金剛院: 伏見区深草の東福寺(公式サイト)の境内東(地図)にあり、九条家の墳墓を管理している。
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   ※浄妙寺: 藤原氏埋葬地の寺で、室町時代の寛正三年(1462)に焼失し廃寺となった。宇治市の木幡小学校
地図)敷地での発掘調査(宇治市のサイトを参照)が平成22年に終っている。東福寺まで約8km。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月6日
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吾妻鏡
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隠岐四郎左衛門尉二階堂行久が使節として上洛する。前殿下(九条教実)の弔問である。
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   ※二階堂行久: 設立の寛喜二年(1230)~嘉禎四年(1238)まで評定衆に任じた二階堂行村の三男。
長男元行(基行)は延応元年(1239)~同二年(1240)、次男行義は暦仁元年(1238)~寳治三年(1249)、三男行久は建長元年(1249)にそれぞれ評定衆を勤めている。
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四男行方は北條一族以外では唯一の四番引付頭人となり幕閣として高位に就いた。彼が残した筆録が吾妻鏡終盤の編纂に大きな関与を残した、とされる。五男の惟行に関する事跡は不明。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月7日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に御所寝殿の棟上瓦近くに烏が巣を懸けた。御占いを行なった結果は吉事である、と。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、4月7日~5月3日までの記事が載っていないケースあり。
と言ってもカラスの巣と地震の記事だけなので特に問題はないが。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月8日
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史 料
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   ※百錬抄: 関東五大尊堂鎮守社の神宝と御装束を神祇権大副兼直宿祢の沙汰として誂え鎌倉に向かった。
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   ※玉蘂: 三浦光村が鎌倉の使節として入洛した。
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   ※鎌倉の使節: 九条教実の弔問として4月6日に二階堂行久が鎌倉を出発している。三浦光村の派遣は吾妻鏡
には載っていないが、名月記の2月22日には九条教実の病状が載っているから、将軍頼経が派遣した病気見舞いだろう。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月11日
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吾妻鏡
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今日、馬場に於いて周防前司中原親實の奉行として烏の巣に関する指示があった。
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   ※烏の巣: 撤去命令か?吉事だからそのまま放置か?
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月13日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月28日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月29日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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4月30日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月3日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月4日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に地震あり。(九条教実の弔問として4月6日に鎌倉を出た)隠岐四郎左衛門尉(二階堂行久)が京都から帰還した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月5日
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吾妻鏡
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刻(正午前後)に地震あり。今日鶴岡八幡宮の神事。将軍家藤原頼経の御参宮なし、武蔵守北條泰時奉幣の御使として参宮した。
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   ※参考として: 引用した吾妻鏡の底本により、5月7日~6月16日までの記事が載っていないケースあり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月7日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月8日
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吾妻鏡
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天変地異に対応して祈祷を行なうと共に徳政に励むよう、非公式に命令が下された。沙汰有り。連日地震が続く例は聞いたことがないと古老が語っている。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月13日
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吾妻鏡
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洛中に数ヶ所の空地があるとの報告が届き、関東の御家人に利用したい希望があれば確認の上、今年中に家屋を建てるのを条件に利用許可を出すよう六波羅に指示した。条件を守らない場合は他の者に宛てる、と。
京都市内の荒廃を防ぎ強盗などの犯罪を防ぐのが目的である。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月15日
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吾妻鏡
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土屋左衛門尉平宗光が死没(52歳)。
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   ※土屋宗光: 土屋宗遠の子で将軍頼経の側近。天福二年(1234)から評定衆に任じていた。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月16日
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吾妻鏡
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石清水八幡宮(公式サイト)の別当法印幸清から報告があり、宮寺領の山城国今移薪と御園の両所に守護者を配置して頂きたい、悪党らが男山(石清水)の境内と知りながら猪や鹿を狩ったり強盗を犯す例が頻繁である、と。
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今日、古くから鎌倉と深い関係がある神社として守護せよとの指示を下総守源保茂に仰せ付けらると。
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   ※今移薪: 山城国綴喜郡、現在の京田辺市の甘南備山の麓(地図)にあり、薪荘とも。北西にある興福寺(公式
サイト)領の大住荘(地図)との間で木津川の水利権を巡る争いが起き、興福寺側が薪荘の在家60余軒をが焼打ちし更に石清水八幡宮の神人2名を殺害する本格的な騒動に発展する。
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6月上旬の名月記に拠れば、六波羅探題から500余騎の武装兵が出動して武力鎮圧しているが、その後も紛争は続いた。最終的には弘安五年(1282)の亀山上皇院宣によって大住荘と薪荘は関東御領となり幕府直轄地となった。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月22日
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吾妻鏡
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上野介藤原朝光(結城朝光)が評定衆に加えられた。
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   ※評定衆: 翌・嘉禎二年(1236)には土屋宗光(死去)と結城朝光が退任し、新たに北條朝時と清原季氏
新たに任じた。朝光と宗光の任命には長年の貢献に対する褒賞の意味があったのかも。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年(1236)~仁治四年(1243)まで評定衆を勤めている。暦仁二年(1239)~宝治三年
(1249)は同じ清原姓の満定(清原清定の息子)が同じ評定衆に任じているのだが、二人の関係が判らない。評定衆が設けられた(1225)から任じている斎藤(清原)長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月23日
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吾妻鏡
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石清水八幡宮寺と興福寺の間で紛争から喧嘩争乱となり、鎮圧の院宣が下されたとの連絡が六波羅から届いた。薪と大住両荘の用水を巡る争いが発端である。使者を派遣して現状を確認し呵るべく処理せよとの指示を下した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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5月27日
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吾妻鏡
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竹御所一周忌の追善法要に備えて武蔵守北條泰時が仏像造立を開始させた。
仏師は肥後法橋、下山次郎入道と三津籐次入道がこれを差配する。
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   ※肥後法橋: 鎌倉時代中期に活動した仏師で慶派の康慶(運慶の父)の弟子と
伝わるが、現在では運慶の次男康運が改名して定慶を名乗ったと考える説が有力。定慶を名乗った仏師が複数存在するため肥後別当または肥後定慶として区別している。
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代表作は京都鞍馬寺の聖観音立像(右画像)と大報恩寺の六観音像、宋朝様式の観音像を得意としたらしい。
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      右画像は鞍馬寺の重文・聖観音立像(177cm) クリック→ 拡大表示。
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   ※下山次郎入道: 甲斐源氏加賀美遠光の次男で文治元年(1185)に頼朝
命令によって追討された秋山光朝の次男下山光重(身延に土着)の子。出家して身延下山に寺を拓いた。光朝の滅亡については秋山光朝の史跡を参照されたし。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月10日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の祈願として百日の泰山府君祭が始まった。安倍忠尚朝臣がこれを担当した。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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   ※安倍忠尚: 幕府お抱えの陰陽師で翌・嘉禎二年(1236)には些細な失敗が記録されている。
10数人の陰陽師グループのなかでは末席に近いのかも知れない。しかし...鎌倉の陰陽師は「船頭多くして船山に登る」の典型的な例だね。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月16日
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吾妻鏡
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地震に対応する祈祷が開始された。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月19日
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吾妻鏡
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五大尊堂の洪鐘(巨大な吊鐘)の鋳造に失敗した。奉行に任じた周防前司中原親實の叱咤に鋳物師は「銅の不足が原因なので追加します」と答えた。
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   ※梵鐘: 蛇足...ごく一部の文化財を除き、94%以上の鐘が太平洋戦争末期の勅令「金属類回収令」によって
失われた。日本で鋳造された最古のもので現存するのは京都妙心寺(公式サイト)の梵鐘(国宝)、内面に「698年に筑前で造った」旨の銘がある(wiki画像)。
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文化財の喪失としては多分明治維新の神仏判然令にともなう廃仏毀釈と同類の暴挙と言える。
典型的な人命の軽視として語り継がれる白骨街道と呼ばれたインパール作戦や特攻作戦...何回でも同じ事を繰り返す人間の愚かさと残酷さ。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月21日
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吾妻鏡
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改めて洪鐘を鋳造せよとの指示が御所から下された。奉行は周防前司周防前司中原親實、来る29日の御堂落慶供養までに完成させよとの内容である。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月28日
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吾妻鏡
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今夜、新造の精舎(五大尊堂)で解謝祭などを催した。大鎮は親職朝臣、大土公は晴賢朝臣、大将軍は文元朝臣、王相は廣頼朝臣が務めた。また供養する間は魔障を防ぐため、弁法印良算による南方高山祭を名越の山上で行なった。毛利左近蔵人親光が使者を務めた。
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   ※解謝祭: 神仏の怒りを鎮め感謝を捧げる。
   ※毛利親光: 大江廣元の四男で、宝治合戦で三浦側に与して死んだ季光の子。父とともに自刃している。
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   ※名越の山上: 逗子に抜ける名越切通し(地図)の最高点だと思うが、
具体的な場所は確認できない。語源は「難越」とも言われ、水戸光圀が編纂した「新編鎌倉誌」は次のように記述している。
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名越切通しは三浦へ行く道、この峠が鎌倉と三浦の境となる。急峻で狭く、左右の壁が迫った場所が二ヶ所(大空洞と小曾良洞)ある。峠の東が久野谷村で三浦、西が名越で鎌倉となる。
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15年ほど前に逗子ハイランドのテニスコート近くに路駐して「まんだら堂」経由・法性寺まで往復したのが最後だが、法性寺近辺の画像を除いて行方不明になってしまった。
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    右画像は逗子側の法性寺墓地の大切岸。(クリック→ 拡大表示)
    法性寺周辺の詳細レポートは「防衛施設か? 名越の大切岸」で。

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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月29日
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吾妻鏡
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朝方に時々雨、後に晴。寅卯の両時(16時~18時前後)に五大尊堂の安鎮(建物と国家の安泰を祈願)の祈祷を弁僧正定豪が行なった。改めて鋳造し直した洪鐘(巨大な梵鐘)は高さ五尺二寸(約158cm)で直径四尺四寸(約133cm)、銅銭300貫文を鋳潰して利用し、30余貫目(113kg以上)の重さで完成した。東大寺の洪鐘は三回も鋳直し、法勝寺の鐘は承暦二年(1161)12月2日に鋳造し損なって後日改めて鋳直したという。
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辰刻(朝8時前後)に鐘楼に鐘を懸け、同時に五大明王像(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)を堂内に安置した。巳の二点(9時半過ぎ)に明王院(五大尊堂)の落慶供養を催すため臨席する将軍家(藤原頼経)が御束帯・御劔・笏を持って出御した。西廊西向で忠尚朝臣(6月10日を参照)による反閇が行われ、東方に出て禄(蘇芳の生衣一領)が左近大夫将監大江佐房(狩衣)を介して下賜され、忠尚はこれを左肩に懸けた。その後に南門から御所を出立し小町大路を北へ、塔之辻を東に向かった。
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   ※洪鐘: 6月19日に鋳造失敗の記事あり。銅銭を追加しての再鋳造。
サイズを換算すると約158×133cmだからかなり大きいが、既に失われて現存しない。日本最大の知恩院(公式サイト)の梵鐘は高さ3.3m×直径2.8m・約70トン、寛永十三年(1636)の鋳造。
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鎌倉所縁の梵鐘としては、九代執権貞時の側室覚海圓成(14代執権北條高時の生母)が鎌倉山ノ内の縁切寺・正式には松岡山東慶総持禅寺(公式サイト)にあった梵鐘を伊豆北條に運んで旧北條邸の所有を安堵され、幕府と共に滅亡した一族の菩提を弔って建立した圓成寺の遺物が知られる。
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江戸時代の火災によって圓成寺も廃寺となり、現在は江川代官一族の菩提寺・本立寺に移設されている。横暴を極めた北條氏ではあるが、平家一門の滅亡と同様に終焉は常に悲しい。
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右画像は本立寺の鐘楼。画像をクリック→ 梵鐘の拡大と大成山本立寺の詳細へ。
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   ※塔之辻: 鎌倉には七ヶ所の「塔之辻・つまり道路が交差する地点に
建てた石塔」があった、とされる。
私の知る限り現存しているのは由比ヶ浜古道の近くにある石塔の残欠だけだが、小町大路と横大路(六浦道)が交差する筋替橋近くにも塔の一つがあったらしい。
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将軍家の一行が「東に向かった」のは小町大路を北上して筋替橋を東に右折して六浦道で現在の十二所に建てた五大尊堂を目指したのだろう(下記地図の筋替橋を参照)。
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  右画像は筋替橋の風景。画像をクリック→ 拡大表示。
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由比ガ浜古道の塔之辻は塔ノ辻から小町口へ続く古道の中盤に記載した。愛児を鷲に攫われた 染谷時忠の悲しみを今に伝えている。
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  御出の行列
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  先陣の随兵
       上総介常秀(境)常秀   駿河前司三浦義村
       小山五郎左衛門尉長村(朝政の孫、小山氏4代当主)   筑後図書助時家
       城太郎安達義景   宇都宮四郎左衛門尉頼業(頼綱の次男で横田氏の祖)
       足利五郎長氏(着氏の庶長子で吉良氏の祖)   越後太郎北條光時
       陸奥式部大夫北條政村   相模六郎北條時定(北條時氏の三男で阿蘇氏の祖)
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  御車(路次の間御劔の役人無し)
       上総介太郎   大須賀次郎左衛門尉
       小野澤次郎   宇田左衛門尉
       伊賀六郎左衛門尉   佐野三郎左衛門尉
       大河戸太郎兵衛尉   江戸八郎太郎
       本間次郎左衛門尉   安保三郎兵衛尉
       平岡左衛門尉
    以上直垂・帯劔、御車の左右に列歩す。
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  御調度懸け
       加地八郎左衛門尉信朝
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            右画像は宇都宮辻子幕府(御所)から五大尊堂までの約2.5km(クリック→ 拡大表示)
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  御後五位六位(布衣下括り、六位弓矢を帯す)
       前民部少輔   相模式部大夫北條朝直(寺門内御劔を役す)
       北條弥四郎経時   駿河次郎三浦泰村
       陸奥太郎北條實時   左衛門大夫長井(大江)泰秀
       左近大夫将監大江佐房   修理亮宇都宮泰綱
       大膳権大夫中原師員   木工権頭藤原(田村)仲能
       加賀前司三善康俊(泰信の子で評定衆)   出羽前司中条家長
       駿河四郎左衛門尉三浦家村(泰村光村の弟)   佐原新左衛門尉胤家
       三浦又太郎左衛門尉氏村   関左衛門尉政泰
       宇佐美籐内左衛門尉祐泰   下河邊左衛門尉行光
       薬師寺左衛門尉朝村   近江四郎左衛門尉氏信
       河津八郎左衛門尉尚景   摂津左衛門尉為光
       笠間左衛門尉時朝   信濃次郎左衛門尉行泰
       隠岐三郎左衛門尉行義   内藤七郎左衛門尉盛継
       武藤左衛門尉景頼   □弥次郎左衛門尉親盛
       和泉六郎左衛門尉景村   長掃部左衛門尉
       弥善太左衛門尉康義   桿垂左衛門尉時基
       大曽禰兵衛尉長泰
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  後陣の随兵
       河越掃部助泰重(重頼の跡を継いだ重時の嫡子で三代当主)
       梶原左衛門尉景俊(景時の三男景茂の嫡子)
       氏家太郎公信(公頼の嫡子)   壱岐三郎時清
       後藤次郎左衛門尉基親(基綱の子)   伊東三郎左衛門尉祐綱(祐時の三男、三石氏の祖)
       佐竹八郎助義(秀義の三男、北酒出氏の祖)   武田六郎信長(2月9日を参照)
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  検非違使
       駿河大夫判官三浦光村     後藤大夫判官基綱
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将軍家が堂内に入御し両国司(時房と泰時)が近くに控え、午の二点(11時半前後)に曼茶羅供による供養法要が始まった。執行は師法橋快深、願文は大蔵卿為長が起草し内大臣實氏公が清書した。酉刻(18時前後)に法要が終わり将軍家が還御。
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  大阿闍梨
       弁僧正定豪(当寺別当)
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  職衆二十二口(別当定豪これを請う)
       鳥羽法印忠遍  助法印厳海  大夫法印光寶  師僧都定基  左大臣法印兼盛  宮内卿僧都承快
       大納言法印良全  大納言僧都定親  加賀律師定清  宰相律師定俊  宰相律師圓親
       大蔵卿律師定雅  三位阿闍梨範乗  少将阿闍梨實杲  大納言阿闍梨隆弁  越後阿闍梨定憲
       宰相阿闍梨長全  宰相内供定宗  因幡阿闍梨定弁  兵部卿阿闍梨親遍  少納言阿闍梨定瑜
       大夫律師良賢
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  布施
   導師分
    被物三十重(色々)  裹物一(染絹十五端を納る)  白綾三十疋  染綾三十疋  斗帳三十疋
    顕文紗三十端  丹後絹三十疋  巻絹三十疋  染付三十巻  唐綾三十端  筋斗帳三十疋
    紫村濃三十端  紫三十端  綾地三十端  紺村濃三十端  帖絹三十疋  絹浅黄三十端
    紺染絹三十疋  白布三十段  紺布三十段  藍摺三十端  色革三十枚  香炉筥一  居筥一
    水精念珠(銀の打敷在り)  横皮(銀の打敷在り)  法服一具  香染衣一具  上童装束一具
    宿衣一領
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    加布施
       砂金百両(銀の打敷在り) 野劔一腰(銀の長覆輪、銀の袋在り)  この外供米二十石
    馬十疋
       一疋 佐原太郎兵衛 多気次郎兵衛尉 これを引く
       一疋 長尾平内左衛門尉  同三郎兵衛尉
       一疋 信濃三郎左衛門尉  壱岐五郎左衛門尉
       一疋 和泉次郎左衛門尉  同五郎左衛門尉
       一疋 小野寺小次郎左衛門尉  同四郎左衛門尉
       一疋 長三郎左衛門尉  同四郎左衛門尉
       一疋 豊田太郎兵衛尉  同次郎兵衛尉
       一疋 豊前太郎左衛門尉  布施左衛門尉
       一疋 山内籐内  同左衛門太郎
       一疋 中澤次郎兵衛尉  同十郎
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   職衆分(口別)
     被物十重(色々)  裹物一  白綾十端  色々絹十端  巻絹十疋  帖絹十疋  染付十巻  染絹十端
     白布十端  絹布十端  藍摺十端  色革十枚  馬三匹(一匹鞍を置く)
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   ※蘇芳: マメ科の落葉植物で、芯材を煎じた汁で染めた紫がかった紅色の染料で染めた布。
   ※反閇: (へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行う陰陽道の作法。動画も参考に。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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6月30日
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吾妻鏡
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来月が閏月に当たるため、今夜六月祓いを行なうべきか否かを籐内判官藤原定員の差配により有識者と陰陽師らに質問した。河内入道源光行に拠れば「義解文では明らかに閏月を差している。和歌にも「後のみそかをみそかとはせよ」とあり、更に治承四年(1180)・建久八年(1197)・建保四年(1216)も全て閏月に行った。」とのこと、全員がこれに賛同した。安倍資俊は「両月で行なった例はある」と語ったが重ねて行う必要はない、と決定した。
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   ※六月祓い: 夏越の祓(なごしのはらえ、みそぎ)。陰暦六月末日には半年間の罪や汚れをはらう儀式を行っていた。
   ※義解文: 天長十年(833)に第53代淳和天皇の命令で編纂した律令の解説書。全10巻で法的効力がある。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは6月の次が閏6月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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上野入道(結城朝光が評定衆の辞任を申し出た。「思慮が浅く是非も弁えていないのに意見具申は致し難い。」とのこと。武蔵守北條泰時「5月に着任して今月辞任とは如何にも早過ぎると思うが」と慰留したが、朝光は言葉を重ねて「着任の日に辞意を伝えるべきだったが、子孫の名誉と考えて受諾した。既に二ヶ月が過ぎ、更なる勤務は出来兼ねる。」と答え、泰時も許容せざるを得なかった。
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   ※結城朝光: 清潔な人柄は御家人の間でも定評があり、法然親鸞に帰依した敬虔な仏教徒でもあった。
泰時としては朝光が果たした長年の貢献に対する感謝の意味を含む評定衆任命だったと思うが、朝光の性格は政争の中に留まるのを潔しとしなかったのだろう。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月15日
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吾妻鏡
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明日から立秋節に入る。
明王院(五大尊堂)の屋根瓦が少し葺き残っており、将軍家(藤原頼経)御方違えとして越後守北條朝時の名越邸に入御する旨が周防前司中原親實・式部入道伊賀光西(光宗)・摂津左衛門尉狩野為光(為佐)らの差配で協議され、異議が呈されたため中止となった。立冬節以後の御方違えが望ましい、と。
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   ※立秋節: 二十四節気13番目の七月節(旧暦の6月後半~7月前半)。立冬節は二十四節気19番目の十月節
(旧暦の9月後半から10月前半)。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月20日
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百錬抄
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洛中が騒ぎになっている。石清水八幡の神輿が衆徒に担がれて宿院(僧房)に入り明日の入洛を目指している、と。
左少弁(藤原)兼高(藤原長方(wiki)の四男)が急いで現地に出向いた。神人の訴訟は六ヶ條である。
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   ※神人の訴訟: 5月16日の騒動が続いている。焼き討ちされ死傷者を出した石清水も簡単に引き下がれない。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月22日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月23日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が馬場殿に渡御し射芸を観覧された。その序でに大膳権大夫中原師員の家に立ち寄りって引き出物を献じられすぐ御所に還御された。
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   ※百錬抄: 両源大納言(定通と通方)が勅使として石清水八幡宮に出向いたが神人らは猶も承伏せず、神輿
を担ぎ出す気配あり、と。
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   ※両源大納言: 源(土御門)通親の四男定通(村上源氏土御門家の祖)と五男藤原通方(中院(なかのいん)家
の祖で正二位、大納言)
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月24日
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吾妻鏡
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来る八月の鶴岡放生会で舞楽を奉納するため右近将監多好節を招いた。但し朝廷での業務と調整できなければ多好継を代理とするよう、今日京都に連絡した。
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   ※多好節: 雅楽の一者(いちのもの・第一人者)を22年間務めた多好方の嫡子。好方は建久二年(1191)10月
頼朝に招かれて鎌倉に入り、11月21日に抜群の歌唱力を披露した。建久四年(1193)7月18日には頼朝から雅楽の秘曲を御家人の師弟に伝授する依頼を受け、11月12日には褒賞として飛騨国荒木郷を与えられた。頼朝没後の正治元年(1199)11月8日には荒木郷を息子の多好節に譲る旨の申請が認可されている。好方は建暦元年(1211)に死没、多好継は好節の次男。

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   ※名月記: 佐々木信綱法師の子・次郎左衛門が神人を打ち殺し、比叡山の衆徒が騒いでいるらしい。
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   ※佐々木次郎: 信綱の次男高信。近江国高島郡を継承して本拠とし、高島佐々木氏の祖となった。
同郡田中郷(高島市安曇川町田中・地図)の地頭を務め、勢多橋修理の際に日吉神社(公式サイト)の神人と争って殺害しその罪で豊後(大分)流罪の処分を受けた。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月27日
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百錬抄
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今日、石清水八幡宮の神輿が帰座することとなった。因幡国を寄附して事態を収拾したらしい。
去る二十日より数日間も院の宿舎に御座し続けたのは希代の事件である。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月28日
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吾妻鏡
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今日起請文を無効とする場合の決め事を箇条書きにして定めた。
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      一.鼻血が出た場合、
      二.起請文を書いた後の病気(以前からの病気は除く)、
      三.鳶や烏の糞が懸かった場合、
      四.鼠が衣装を損傷した場合、
      五.体から下血した場合(楊枝による出血・生理・痔病などを除く)、
      六.服喪の場合、
      七.父または子が罪を犯した場合、
      八.飲食の際に咽せた場合(背を叩くほど重篤に限る)、
      九.普段乗っている馬が死んだ場合、以上の九ヶ条である。
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これらは政道には無私を優先させるのが目的である。争論に疑義があっても決裁に疑いがあってはならず、従って神慮に背く事なく罪科の有無を糺す事が求められる。
信濃左衛門尉二階堂行泰・図書允清原清時・判官清原季氏の奉行としてこの内容を取り決めた。
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   ※二階堂行泰: 建暦元年(1211)生まれの文官で二階堂行盛の嫡子。建長元年(1249)に引付衆、同五年に
政所執事五番引付頭人、正元元年(1259)に評定衆。弘長二年(1262)に政所執事を嫡子行頼に譲るが翌年に行頼が30歳で早世、行泰が還任する。
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   ※清原: 清時と季氏は5月22日の記事を参照。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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閏6月29日
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名月記
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29日・曇。南都興福寺の強訴が再び発生。六波羅も南都の横暴を認識しており、鎮圧が遅れれば悪徒の行動が拡大して大事になるだろう。多くの人々が南都鎮圧を優先すべきと考えている。
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同、30日。噂によれば薪荘と大炭荘が再び戦い、権別当らが解任された。南都と比叡山の衆徒も蜂起している。
加賀白山の神輿も京都を目指している、と。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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所職と所帯に関わる土地の境界の訴訟は、事実と異なる主張があれば所領を没収する。所領を持たない場合は罪科に処す旨の承諾書を提出させた上で事実を糺明すると定めた。これは六波羅にも通達する。
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   ※所職と所帯: 例えば地頭は「職」だが、相続や売買や質入れなど利権の対象なら「所職」となる。
「所帯」は初職や所領を含めた広い意味の財産で、「所職と所帯」と書いた場合は所職の意味合いが強くなるらしい。長期政権になると腐敗や利権の追求が常態化する。泰時には一種の危機感があったのかも知れない。「世襲が続けば質の低下と腐敗の蔓延が避けられぬ」、みたいな。
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西暦1235年
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87代 四 条
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文暦二年
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7月5日
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吾妻鏡
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永福寺の惣門上棟式があり、将軍家(藤原頼経)が牛車で出御、相模守北條時房 武蔵守北條泰時が供奉した。
この門は去る 寛喜三年(1231)10月25日に炎上し、丙日(この日は丙寅)の上棟は避けるべきとの意見を排して挙行した。夕暮れになって将軍家は御所に還御した。
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   ※惣門炎上: 寛喜三年の大火では頼朝法華堂と義時法華堂も類焼している。義時法華堂は間もなく再建されて
貞永元年(1232)5月18日に開眼供養を催している。頼朝法華堂についての記載はないが、宝治合戦(1247年7月8日)には三浦一族が頼朝法華堂に立て籠って自刃しているから、再建されたのは間違いない。火災の範囲などは当日の吾妻鏡で確認されたし。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月7日
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吾妻鏡
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近江入道虚仮(佐々木信綱)が承久の乱の際に宇治川渡河合戦の先駆けで得た褒賞の領地を神社に寄進したため、今日代替えを下賜する沙汰があり、下文を発行した。勲功を称える言葉が載っている。
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   将軍家政所が下す 尾張国長岡庄住人  補任地頭職 前近江守(佐々木)信綱法師
     右の者は承久兵乱の宇治河先駆けの勧賞として与えた豊浦庄の代替として長岡庄地頭を下賜する。
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   ※豊浦庄: 安土町下豊浦一帯(地図)、長岡庄は愛知県稲沢市の南西部(地図)、明治期の木曽三川分流工事
によってこの地区周辺の岐阜県との境界が旧状と異なっている。
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西暦1234年
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87代 四条
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文暦二年
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7月8日
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吾妻鏡
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資俊と晴賢(共に陰陽師の安倍氏)が天文の事について論争して訴訟に至り、その訴状を今日外記大夫(矢野)倫重が御所で読み上げた。相模守北條時房と武蔵守北條泰時が同席している。
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   ※矢野倫重: 三善氏の一族だが系譜は不明。初代評定衆として嘉禄二年(1226)~寛元二年(1244)に死去
するまで務め、御成敗式目の起草にも加わった実務官僚。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月10日
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吾妻鏡
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雨、夜になって雷鳴と豪雨。鎌倉中が洪水となり人家の流失と土砂崩れが多数発生した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月11日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が小御所の端に出御し世間の情勢について聞いた。
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陸奥式部大夫北條政村・木工権頭伊賀仲能・周防前司中原親實・小野澤蔵人・籐内判官藤原定員・隠岐五郎左衛門尉二階堂行賢・施薬院使良基・大蔵権大輔安倍晴賢・大監物安倍文元・掃部大夫安倍資俊らが参席し、将軍家は「各々が興味を惹かれた事や心に留めた事を書き出すように。」と命じた。
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参加した面々は思ったように書いて提出し、藤原定員がこれを読み上げた。内容はそれぞれが異なり、心打たれる話や、また頤を解く(顎をはずすほど笑える)話も多く混じっていた。
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月18日
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吾妻鏡
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故御台所(竹御所)の一周忌法要として未刻(14時前後)に新阿弥陀堂で曼茶羅供が催された。大阿闍梨 助法印厳海・相模守北條時房・武蔵守北條泰時以下、多くの人々が参席した。また旧跡である二位(政子)邸でも法事を営むなど、各地で多くの人々が追善の供養を行った。
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法事の日程については多くの陰陽師に確認を求めたが良い日取りが見当たらず、安倍忠尚朝臣らの意見も様々だった。結果として勘解由次官知家が18日を選定し、陰陽師の異論はあったが決定に至った。
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   ※新阿弥陀堂: 竹御所を葬った新釈迦堂を差す、と推測される。
右画像は妙本寺祖師堂の左手墓所の奥にある竹御所(鞠子)の墓で、自邸に建てた新釈迦堂に葬られてた。
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新釈迦堂は既に失われ、彼女の持仏だった本尊の釈迦如来像(伝・動かない巨船を造った陳和卿作)は日蓮の遺宝と共に現在の妙本寺霊宝殿に納めてある。伝承に拠れば、この墓石の真上に竹御所邸の新釈迦堂須弥壇があった、と。
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画像をクリック→ 拡大表示。さらに詳細は妙本寺 比企一族滅亡の跡で。
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西暦1235年
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887代 四条
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文暦二年
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7月23日
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吾妻鏡
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六波羅探題に指示した条項は次の通り。
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まず京都での刃傷や殺害人については、関与したのが武士であっても検非違使の差配に委ねる事になる。
確実に夜討ちや強盗の主犯であれば死罪、従犯の者は身柄を関東に連行し夷嶋(津軽および北海道)に送る。
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次に大番勤務(京都警備の役務)については、交代の遅れによって前任者の勤務延長が一ヶ月を超えれば遅れた者には二ヶ月の勤務を追加させる。
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次に、至急の用事で京都と鎌倉を往来する飛脚がやむを得ず他人の馬に乗ってしまう例が発生している件について、今後は替え馬を宿驛に常備するように定める。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月24日
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吾妻鏡
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念仏者を称して墨染の僧服を着た者が各地に横行する例が頻繁である。禁止する宣旨が再三出されているが未だに減らず、更に宣下するよう朝廷に申し入れることになる。
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また石清水八幡宮の神輿について協議があり、八幡宮寺と興福寺の紛争調停のため双方に使節を派遣する旨を5月に通知したにも拘らず、6月4日には南都興福寺の衆徒が薪庄に押し寄せて民家60余軒を焼き払った。
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石清水八幡宮寺は勅裁を仰ぐべきなのに、同月の19日には突然神輿を担ぎ出して僧坊に集結し、事情の確認に派遣した季継宿祢に説明もせず係官の為末に暴行を加えた。
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更に上申書を提出して幾つかの勅許を強引に手に入れた。宮寺の強訴は正当なものではないとの決裁が下され、今日別当成清法印に通達された。しかしながら神輿の入洛を防ぐため因幡国(鳥取県東部)を寄進したのは事実であり、筋の通らない強訴によって過剰な朝恩を得る結果となった。
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   ※強訴: 公明党が「平和の党是」に背いて憲法違反の集団的自衛権行使に賛成するのも「数による強訴」だね。
恥を知らない偽宗教者は本当に恐ろしい。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月27日
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吾妻鏡
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晴。故・竹御所の姫君が相模守北條時房邸で御除服(服喪明け)の儀式を行った。
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今日、六波羅探題の飛脚が到着して次の通り報告した。
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近江入道虚仮(佐々木信綱)の子息次郎左衛門尉高信が日吉神社(日吉大社・公式サイト)の神人を殺害した件で、比叡山の衆徒による訴えに対し朝廷の処断遅延を理由として去る23日に日吉三社の神輿を振り担いだ。
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勅命を受けた武士らが近衛河原口に進出して入洛を阻み、双方に多数の負傷者が出た。勢多橋の修理工事に関する賦役を神人が拒否し、高信の使者と喧嘩になったのが事件の発端である。(閏6月24日の明月記を参照)
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   ※竹御所の姫君: 彼女は子を産んでおらず、源氏の血を引かない養女と思われる。ちょうど一年の服喪だった。
   ※百錬抄: 左衛門尉高信が遠流(豊後流罪)となる。これで山門も納得するか。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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7月29日
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吾妻鏡
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去る23日に比叡山の衆徒が三社(十禅師・客人・八王子)の神輿を洛中に入れようとした。近江国高嶋郡田中郷(現在の高島市安曇川町・地図)の地頭佐々木次郎左衛門尉高信(信綱の二男)の代官と日吉社の神人が喧嘩に至ったのが発端である。
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また官軍が神輿の入洛を阻止しようとした際に神人が死傷したとの訴えがあり、官軍の先頭にいた右衛門尉遠政と兵衛尉遠信を流刑に処し、高信は鎮西に配流せよと六波羅に申し入れた。
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神輿の入洛に前例はあるが、今回の状態は 昔の狼藉の範囲を超えている。衆徒を率いた張本人を召喚して今後の戒めにするために、まず御家人を重科にならない程度に処罰して衆徒を宥める必要がある。その旨を奏聞するため今日御教書を二條中納言(忠高卿)に呈上し、六波羅に申し入れることになる。
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田中郷地頭高信の代官と住民が喧嘩になった事は先日北條重時北條時盛から詳細の報告があったため、双方を取り調べて処理するよう貫首(天台座主)に申し入れてある。これは高信を庇っているのではなく、彼に罪科があれば炳誡(厳しく戒める)を加えるのが道理である。
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神人の訴訟が続いており、是非を正しく究明しなければ周辺の者が勢いに乗じて訴えを乱発することになる。衆徒の側は朝廷の意向を尊重し関東の決裁を待つべきなのに神輿を動かして帝を驚かしたのは理不尽な悪行である。張本人以下を呼び出しての取り調べが必要である。
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   ※三社: 天台宗の鎮守神で比叡山・上七社の三社。社名と本地仏は下記、他に中七社と下七社がある。
大宮(釈迦如来)・二宮(薬師如来)・聖真子(阿弥陀如来)・八王子(千手観世音菩薩)・
十禅師(地蔵菩薩)・三宮(普賢菩薩)
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   ※重時と時盛: この時点で重時は六波羅探題北方(上位)、時盛は探題南方に任じている。
参考までに付記すると、この当時の六波羅探題の権限はかなり制約されており、訴訟の審理はできるが決裁権は幕府が、人事権や官位官職への推挙権も幕府が握っていた。
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寛喜元年(1229)の皇帝紀抄(吾妻鏡 6月19日に記載)には無法を働いた日吉の神人を斬った探題北方北條時氏の部下が(正当な職務だったのに)幕府の決裁で流刑に処されている。
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今回も泰時は同様の決裁を繰り返しており、吾妻鏡による再三の泰時賛美記事にも拘らず彼の能力と人心の掌握は低レベルだった、と思う。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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8月8日
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百錬抄
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佐々木高信が豊後国に配流となった。神輿を阻止した先陣の武士右衛門尉遠政は備後国に配流。
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   ※高信と遠政: その後の運命は不詳だが高信の跡は長男泰信が継ぎ、近江朽木氏として繁栄している。
朽木は近江旅行で立ち寄った道の駅くつき新本陣のある土地だ、懐かしい!
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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8月14日
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吾妻鏡
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晴・曇。卯刻(朝6時前後)に将軍家(藤原頼経)が浄衣(白・無紋の狩衣)で鶴岡に御参宮。御台所(竹御所)の一周忌が過ぎてから最初の参宮である。明後日の放生会隣席から平常に戻るが、重日を前にした儀礼、と。
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   ※重日: 陰に陰・陽に陽が重なる日。吉事と共に、特に凶事は避ける風習がある。
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西暦1235年
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87代 四 条
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文暦二年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会あり、将軍家(藤原頼経)が臨席された。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。馬場での神事は通例の通り。将軍家の御参宮は三ヶ日の連続で、昨今の供奉人は三浦光村藤原定員
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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8月18日
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吾妻鏡
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鎌倉に滞在中の舞人・多好氏に殿下(摂政関白の九条道家)から帰洛せよとの連絡があり、将軍家は自筆の御請文(了解の上申書)を書き送った。また御馬一疋(白鹿毛)を好氏に下賜し、三年に一度ほどは放生会に参席するよう木工権頭を介して多好氏に伝えた。
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   ※木工権頭: 田村仲教の子で藤原親實中原師員の叔父)の養子に
迎えられた伊賀(藤原)仲能を差す。
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後に陸奥守・伊賀守・能登守を転任、寛元三年(1245)から慶長三年(1251)まで在京の六波羅評定衆、建長四年(1252)には宗尊親王に従い鎌倉に下り後見役、翌五年には親王の命令を受けて扇ヶ谷に扇谷山海蔵寺を開いた。源氏山葛原神社社務所の東にある道智塚が墓所と伝わっている。
亀ヶ谷に比べると使用の頻度は低いが、この頃から扇ヶ谷の呼称は一般的だった、らしい。
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右画像は扇ヶ谷から源氏山一帯の地図。壽福寺から海蔵寺に立ち寄り化粧坂を登って源氏山公園へ、八幡宮や小町通りの喧騒を離れた静かな散策が楽しめる。  画像をクリック→ 拡大表示。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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8月21日
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吾妻鏡
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相模守北條時房と武蔵守北條泰時が御所に参上し、各々御厩侍(厩番の詰め所)の東側立て戸に着座し評定衆も集まった。 中原師員中条家長三善康俊は南側に控え、西阿(毛利季光)・三浦義村・行西(二階堂行村)は北方に控え、将軍家(藤原頼経)が簾中に座した。
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加藤七郎左衛門尉景義と兄の加藤判官(遠山)景朝が伊豆国狩野庄の牧郷(現在の伊豆市牧之郷・地図)の地頭職を争っている件についての裁決である。兄(景朝)は南方の末席に・舎弟の景義は同じく北に対座 し、図書允清時の奉行として子細の質疑となった。
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景義の主張は、「牧郷は伯父の故伊勢前司加藤光員の所領であり、承久三年(1221)5月30日に亡父 加藤景廉がこれを拝領した。ただし仰せに従って暫くの間は叔父の覚蓮が管理し、彼の死没後は景廉の契状(証文)通りに景義が管理すべきなのだが、景朝は義絶された立場も顧みず押領している。早急に返却すべきである、と。
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景朝の主張は、牧郷は二位家政子の時代に景朝が相続するとの御書を頂いており、所有には何の瑕疵もない。亡父に義絶された云々は景義の虚誕(作り話)として処罰すべき、と。
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評定の結果は景義の主張に道理があると決した。しかし景朝が提出した二位家(政子)の遺書を確認すると「狩野牧は覚蓮房の後は景朝に与える」と明白に書かれていたため、景朝が継承する結果となった。
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二位家の御教書(指示書)を無視する事はできないとの泰時朝臣の言葉により、地頭の補任は景朝とする旨を御下文に載せられた。
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   ※加藤兄弟: 景朝は景廉の嫡子で美濃国遠山荘(恵那市と中津川市
の大部分・本拠は岩村・地図)を相続した。牧郷は景廉の兄・光員の所領だったが、承久の乱で院方に与して没収され景廉に与えられた。景義は景廉の四男で牧郷を継承する権利はあったらしく、政子の指示書は頼朝挙兵以来苦楽を共にした光員と景廉への配慮だった可能性もある。
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   ※覚蓮: 源実朝が暗殺された直後の建保七年(1219)1月28日に加藤景廉は出家し覚蓮房妙法を名乗った。
従って「叔父の覚蓮」は吾妻鏡編纂者の誤りで、景廉の遺志は景義による継承だったらしい。
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   ※景朝義絶: 何処かで読んだ気もするけど思い出せない。もう一度ひっくり返して読み直してみよう。
景朝は特に問題なく承久の乱に参戦し、景廉は承久の乱の直後(1221年8月)に死没している。
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右画像は牧之郷に残る加藤一族の廟所。画像をクリック→ 景廉の本領・牧之郷へ(別窓)
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遠山荘・岩村は何度も近くを通ったのに立ち寄れなかった場所で、悔いだけが残っている。
近くには上洛を夢見た三方ヶ原合戦後に撤退した武田信玄が息を引き取った地もあるんだよね。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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9月1日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に右大将家(頼朝)法華堂前の湯屋から出火、風に煽られて法華堂にも延焼の危険が迫ったが諏方兵衛尉盛重が一人で現場に駆け付け、間にある民家数十軒を破壊して火の手を食い止めた。
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   ※湯屋: 建久三年(1192)3月20日の吾妻鏡に後白河法皇追善のために山ノ内に施しの湯屋を設けた」との
記述がある。法華堂前の湯屋は常設していた施しの施設だろうか。また「頼朝法華堂と湯屋の間に民家数十軒」の記述は、法華堂周辺の姿を想像させて実に面白い。この時点では大倉幕府の建物は撤去され古材は再用された筈だから、御家人の家を含めた住宅地に変貌していたのだろう。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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9月10日
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吾妻鏡
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長尾三郎兵衛尉光景(定景の三男)は「再三の勲功を挙げているにも拘らず未だ恩賞を得ていない」と駿河前司 三浦義村と同・次郎泰村から恩澤奉行の大夫判官後藤基綱に再三の申し入れがあった。 鎮西(九州)で強盗事件があり、その犯人の所領を没収して(定景に)与えるべきとの上覧状(上申書)を義村が提出した。未決の闕所(没収所領)を望んではならない旨は御成敗式目に載っており、評定衆として望ましい行為ではない。
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光景は建暦三年(1213年5月)の和田合戦で13歳の子供ながら北御門の搦手で腹巻(鎧の胴)に敵の矢を何本も突き立てながら防衛し、また承久の乱(1221年)では泰村に従い宇治橋合戦で功績を挙げた若者である。
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   ※評定衆: 三浦義村は延応元年(1239)12月の死没まで評定衆、泰村はそれを引き継いで宝治元年(1247)
6月の一族滅亡まで評定衆に任じている。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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9月2日
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吾妻鏡
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昨夜の火災で法華堂が焼失を免れたのは偏に諏訪盛重の勲功である。感銘を受けた武蔵守北條泰時から恩賞が与えられた。
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西暦1235年
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87代 四条
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文暦二年
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9月19日
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改 元
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   ※百錬抄: 地震頻発のため改元あり、文暦二年を改め嘉禎元年。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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9月24日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に陰陽師の安倍資俊が御所に参上して次のように語った。「今夜五更(3時~5時)に坤星が南北に三尺ほど逆行して旋回する異様な動きをする。」と。
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将軍家 (藤原頼経)は御所東面の回廊に出御し、忠尚・親職(いずれも陰陽師の安倍氏)に観察を命じたが早暁になって「全く変異なし」との報告があった。但し風があって星の光が揺れて見えた、と言葉を添えた。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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9月29日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時房と武蔵守北條泰時が御所に参上し、小侍所(将軍世話係の詰所)に着座して報告した。
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先月24日深夜の星の動きについて司天(天文担当)の判断が一致せず、今日忠尚・親職らの陰陽師を集めて検討した。資俊は「二~三尺ほど円を描く如く東西南北に揺れ動いた」と語り、忠尚以下の六人は「全く動かなかった」と主張した。 資俊は萎縮した様子を見せ、他の者は「怠状(謝罪状)を出させるべき」と訴えたが、泰時は「関東ではその例はないし、怠状に値する程ではない」と申し渡した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月8日
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吾妻鏡
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改元の詔書が鎌倉に到着、先月19日に文暦二年を改め嘉禎元年とした、と。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月14日
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吾妻鏡
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幕府政所で改元に伴う吉書始めの儀式が催された。
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   ※吉書始め: 新年・改元・移転・将軍就任などの際に縁起の良い文書を書く儀式。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月16日
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明月記
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(六波羅探題北方)駿河守北條重時の最愛の嫡男(八歳)が疱瘡によって死没、悲しんだ乳母夫婦(左衛門尉)が出家した、と。
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   ※疱瘡で死去: 北條氏の諸系図に拠れば実際には死没ではなく疱瘡
または他の病気により精神疾患を伴う後遺症を負って廃嫡(系図の添え書きは「物狂い」)となったらしい。
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その後に為時→ 時継と改名し、母方の所領である陸奥国苅田郡(宮城県南西部・右画像を参照)を領有して苅田流北條氏の祖となり病のためか早世した。
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為時の長男長重は祖父重時の養子になり、出家した次男の宣覚は醍醐寺の座主に昇進している。
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一方で重時の家督は次男の長時が継ぎ、系図上は生母の平基親(公卿・従三位兵部卿)の娘が重時の正室とされている。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月17日
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吾妻鏡
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曇。京都の使者が到着し、去る8日に将軍家(藤原頼経)を陸奥出羽按察使に任じたと報告した。
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   ※按察使: 地方行政の監督官。国司の行政を監督し報告するのが主な業務だが、鎌倉中期は完全な名誉職。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月19日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)雨、雷鳴が数回あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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10月28日
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吾妻鏡
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先月20日大嘗祭(wiki)に伴う御禊の行幸が無事に催された。昨夜から四条天皇は疱瘡を病んでおり、都では誰も避けられないほど流行している。
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   ※先月20日: 百錬抄が書いている「10月20日」が正しいと思う。大嘗祭は即位した天皇が行う最初の新嘗祭
(収穫祭)だが、四条天皇が即位した貞永元年(1232)10月4日には満1歳8ヶ月、5歳になるまで待ったのだろう。その甲斐もなく、四条幼帝は11歳が近付いた仁治三年(1242)1月に転倒事故が原因で崩御し血筋は絶えてしまう。承久の乱に関与しなかった皇子は既に存在せず、やむを得ず幕府の推した土御門上皇の皇子・邦仁王が第88代後嵯峨天皇となる。
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百錬抄は「姉小路東で禊」と書いているから多分京阪三条駅近くの鴨川(地図)だね。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月14日
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吾妻鏡
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京都の使者が着いて報告、先月28日に将軍家(藤原頼経)の御姫君(腹違いの妹、15歳)が死去した、と。
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   ※頼経の妹: 生母などの素性は判らない。父・九条道家の子女は20人前後いたらしいから下手すると頼経さん
は一年中喪服で過ごしていたかも(笑)。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月15日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御除服(服喪明け)。南門より出御し安倍晴賢が担当して御祓いの儀式あり。
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   ※服喪明け: 10月28日から数えると18日目だが、訃報を聞いた翌日には服喪明けか? 変なの。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月18日
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吾妻鏡
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辰刻(厚8時前後)に将軍家(藤原頼経)が体調を崩し、両国司(相模守北條時房と武蔵守北條泰時)以下の多数が御所に集まり、良基朝臣が治療に任じた。
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   ※良基朝臣: 正四位上・施薬院使の丹波良基 。将軍頼経の主治医を務めた。丹波氏は医師・典薬の家柄。
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良基は延応二年(1240)に死没するが、建長四年(1252)に宗尊親王が鎌倉に下って六代将軍に就くと最先端医術(と言っても低レベル)をマスターしていた典薬頭(典薬寮の長官)丹波長忠と玄蕃頭(寺院の管理と対外の接待を担う玄蕃寮の長官)の丹波長生が鎌倉に入った。
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長生は正治元年(1199)に院宣を受けて乙姫治療のため鎌倉に入った丹波時長(同年5月7日と8日、6月14日を参照)の息子で、吾妻鏡の記事からは時長も共に下向したと思われる。
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長忠は宗尊親王の侍医として、時長と長生は(高位の)北條一族まで治療の範囲を広げ、京都の先端医術が鎌倉にも広がる契機となった。
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弘長三年(1263)11月22日の北條時頼葬送の記事に「医師の長世朝臣らは(死去した)去る22日の夜に至るまで、最明寺禅室(時頼)のために祈祷と医術を巡らした」と記載されている。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月19日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の病気に対応して早暁から祈祷を始めた。泰山府君祭を忠尚、七曜供を珍譽法印、他に邪気を祓う鬼気祭と天冑地府祭なども複数の担当で催すことになる。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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   ※七曜供: 目視できる五つの惑星(火星・水星・木星・金星・土星)に太陽と月を加えた七天体を供養する修法。
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   ※天冑地府祭: 国家の大事などの際に陰陽道が行う重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君・天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月26日
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吾妻鏡
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京都の使者が到着し、去る19日に将軍家(藤原頼経)従二位に叙された旨を報告した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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11月28日
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吾妻鏡
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去る19日、風雨の妨げもなく大甞會が催された。当日の状況を記録した文書が京都から到着し、大膳権大夫の中原師員が将軍の御前でこれを読み上げた。
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   ※大甞會: この催しに伴う禊についての記事が10月28日の吾妻鏡に載っている。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月11日
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吾妻鏡
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宇佐神宮(公式サイト)の神領については11ヶ所を没収地としており、このたびその中の四ヶ所を返却する事となった。残る七ヶ所は根拠が乏しいため返却に至っていない。今日この件で検討が行われ、例え20年を過ぎた事例でも何らかの理由が発生した場合には式條(御成敗式目)に拘ることなく裁定する、と。
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   ※宇佐神宮: 九州に広大な荘園を領有していた宇佐神宮だが治承・寿永の戦乱で大宮司家の宇佐氏が平家に
味方したため神領を没収された。50年が過ぎても完全返却には至っていなかったらしい。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月15日
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吾妻鏡
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月蝕あり。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月18日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の体調不良には疱瘡に罹病した様子があると(主治医の)丹波良基朝臣(11月18日を参照)が報告、今夜再び祈祷が始められた。子刻(深夜0時)になって左衛門尉平盛綱が武蔵守北條泰時の使者として御所に参上し毎日招魂祭を催すことを報告、まず七ヶ夜の奉仕を(陰陽師の)安倍国継に指示した。
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   ※招魂祭: 衰弱した人間の活性を取り戻すための陰陽道による祭祀。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月20日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の病気に対処し御所の南庭に於いて七座(七人による)の泰山府君祭(11月19日を参照)を催した。担当は忠尚・親職・晴賢・資俊・廣資・国継・泰秀(いずれも陰陽師の安倍氏)。夕刻になって四角四境祭を催した。
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四角の担当は御所の艮角(北東)が陰陽大允晴茂、巽角(南東)が図書助晴秀、坤角(南西)が右京権亮経昌、乾角(北西)が雅楽助清貞。四境の担当は小袋坂が雅楽大夫泰房、小壺が近江大夫親貞、六浦が陰陽少允以平、 固瀬河が縫殿助文方。
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   ※四角四境祭: 敷地の四隅と国(地域)の四境で邪気を祓う鬼気祭を
催すこと。冒頭に「御所の」とあるので文面通りなら建物の四隅と敷地の四境と考えるのも可能だが、本来は御所の四隅(艮・東北、巽・東南、坤・南西、乾・北西)と、四境=鎌倉の境界。通常は「北の巨福呂坂、南の小坪・東の六浦・西の固瀬河」。
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元仁元年(1224)12月26日の記事では「東の六浦・南の小坪・西の稲村・北の山内を差す。」とあるから、多少の違いはあるらしい。  右画像は四境をマークした地図(クリック→拡大表示)
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月21日
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吾妻鏡
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さらに祈祷が行われた。愛染王護摩は忍辱山僧正、十一面護摩は信濃法印道禅、不動供は摂津法眼行重、七曜供は助法印珍譽、天冑地府祭は文元朝臣、如法呪咀並びに鬼気祭は安倍親職、土公祭は大膳権亮道氏の担当である。
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   ※忍辱山: 奈良の圓成寺(公式サイト)を差す。この時の僧正は 前に八幡宮寺
別当も勤めていた定豪、文暦元年(1234)の竹御所安産祈祷に失敗して東大寺別当を辞任したと思ったら同じ奈良の圓成寺に天下り(笑)していた。高僧だが、地位と権力に執着が強い人物だった。
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右画像は圓成寺収蔵のの国宝・阿弥陀如来坐像(木造漆箔・145cm)。
藤原後期、定朝様式のおだやかな姿を見せている。
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   ※百錬抄: 南都の衆徒が蜂起し春日の御賢木(神木)を掲げ木津に着御した。
昨年夏の大住庄と薪庄が治まったのに、先日石清水八幡宮の使者が 大住庄に向かった際に再び喧嘩となり春日社の神人を殺害したのが原因である。
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   ※神人: 騒動に関与している神人は所謂神職ではなく、神社の下級職員で警護にも任じるため武装した僧兵に
近い存在。神威を背景にしたフーリガンだと考えて良いらしい。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月22日
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吾妻鏡
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ふたたび(将軍家の病気治癒のため)祈祷あり。
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仏眼(仏眼尊(仏の智を象徴する本尊)に祈る密教の修法)は鳥羽法印光宝、金輪(真言の真髄を顕した聖王)は内大臣僧都定親、金剛童子護摩(金剛童子を本尊として祈る密教の修法)は丹後僧都頼暁、霊氣道断祭(悪霊を断ち運命を予知する修法)は陰陽助安倍忠尚、雷神祭は相模権守俊定が担当した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月23日
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吾妻鏡
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七日間の尊勝護摩(尊勝仏頂を本尊とする密教の修法)が始められた。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月24日
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吾妻鏡
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更に続けての祈祷のため各地の神社本宮で大般若経を転読し御神楽を奉納するよう、雑掌人(雑務を担当する官僚)を経由して指示があり、各地にその旨を伝える使者が派遣された。
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    伊勢内外宮は相模守北條時房の差配    石清水八幡宮は武蔵守北條泰時の差配
    賀茂社は大炊助入道(大友(古庄)能直の嫡子親秀)の差配
    春日社は長井判官代(大江(長井)時広の嫡子で六波羅評定衆)の差配
    日吉社は駿河入道(中原季時)の差配    祇園社は陸奥掃部助(北條実時
    大原野社は武蔵守北條泰時の差配    吉田社は毛利入道(毛利季光)の差配
    北野社(天満宮)と若宮(鶴岡八幡宮)は武蔵守北條泰時の差配
    熱田神宮は出羽左衛門尉中条家平(中条家長の孫、将軍頼経の側近)の差配
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    正月15日以後に祈祷を行う熊野社について、
    本宮は三郎左衛門尉佐原家連(義連の三男・1月12日を参照)の差配
    新宮は備中左近大夫重氏の差配    那智は湯浅次郎入道宗業の差配
    この他、尊星王護摩は宰相律師圓親、不動護摩は荘厳房律師行勇、炎摩天供は宮内卿律師征審が行なう。
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   ※湯浅宗業: 長く京都に住んだ教養人で紀伊保田荘(和歌山県有田川町・地図)地頭を務めた武士。明慧上人
(建久六年(1195)4月5日を参照)に帰依し、荘内に星尾寺(遺跡の紹介地図)を草創した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月25日
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百錬抄
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春日社の御神木が宇治に渡御したため武士等が橋板を剥がして(大和街道の)防御を固め、蔵人頭左大弁為経朝臣が御使として現地に向かった。
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   ※大和街道: 私は東京生まれの東京育ちなので関西の土地勘に乏しく
中学生の頃までは源平合戦や承久の兵乱の際になぜ宇治橋が要衝になったのか理解できなかった。
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昭和16年に完了した干拓工事で失われた巨椋池の存在なんて全く知らなかったからね。わざわざ宇治橋に迂回せず伏見を目指して北上すれば良いのに、と。
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資料を調べるだけではなく、現地を確認して昔人の想いに触れる貴重さを(自らが「昔人」になりつつある頃(笑)になって)しみじみと感じております。
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右画像は巨椋池(おぐらいけ)があった頃の姿を描いた絵図。クリック→拡大表示。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月26日
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吾妻鏡
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今暁、御所の南庭で如法泰山府君祭(1月19日を参照)を催した。担当は大舎人権助安倍国継、神前に備える供物は将軍家(藤原頼経)が下賜し、更に将軍家の甲冑・弓箭・紙箱・鞍置きの馬などを祭祀の庭に置いた。甲冑などは焼いて神に捧げる習わしである。
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今日の将軍家は少々の食事を摂られた。武蔵守北條泰時は高名に背かない良基朝臣(11月18日を参照)の医術に感動し、褒賞として御剣を与えた。
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今日、更に祈祷を始めた。十一面観音の護摩行は鳥羽法印、太白祭は法眼承澄、北斗の護摩行は法印明弁、御当年星供は法橋珍譽である。
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   ※明月記: 昨日の申刻(16時前後)に衆徒が平等院の門前に集結した。防御の武士らは橋板を外し河を挟んで
東西の岸に対峙している。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月27日
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吾妻鏡
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更に祈祷を続けている。鶴岡八幡宮に於いて百人による仁王講(仏教における国王のあり方を説いた経典の読謡)を行なった。また相模守北條時房の申し出による祈祷として忠尚が属星祭を、武蔵守北條泰時の申し出による祈祷として安倍宣賢が天地災変祭を行ない、続いて霊所祭を行なった。
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   由比浦は大膳亮資俊  金洗澤は陰陽権大允晴茂  固瀬河は主計大夫廣資  六浦は前右京亮経昌
   柚河は相模権守俊定  杜戸は雅楽大夫泰房  江嶋は備中大夫重氏 (地名は12月20日の地図を参照)
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  今夕、大仏師康定(康運(運慶の次男)の弟子)に仏像の造像を命じ、明後29日までの完成を指示した。
     千躰薬師像は一尺六寸(約48cm)。
     羅ゴ星(「ゴ」は「喉」の偏が「口」ではなく「目」)、忿怒の形相で青牛に乗り左右の手に日月を捧ぐ)。
     計都星(忿怒の形相で龍に乗り左手に日を捧げ、右手に月を持つ)。守護仏の薬師如来像。
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  夜に入り、文元朝臣による計都星祭を催した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月28日
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吾妻鏡
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相模守北條時房と武蔵守北條泰時が申し出た祈祷は忠尚と宣賢が今日これを行ない、更に安倍親職が三万六千神祭を催した。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月29日
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吾妻鏡
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雨。酉刻(18時前後)に六波羅の飛脚が到着して次の通り報告した。
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去る24日辰の一点(7時過ぎ)に南都興福寺(公)の衆徒が春日大社(公)の御神木を捧げて木津河近くまで進んだため在京の武士が勅命に従い入洛を阻むため現地に駆け付けた。これは石清水八幡宮(公)の神人(12月21日を参照)と春日大社の神人が喧嘩になった際に春日大社側の多くが傷を受けた事を朝廷に訴えるのが目的で、(本来の宗家である)摂関家や藤原氏の公卿らは関わりを恐れ門を閉じている状態である。
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武蔵守北條泰時は直ちに御所に参上し、評定衆と共に丑刻(深夜2時前後)まで様々に協議を重ねた。朝廷にとっての大事であり、使者を派遣して善後策を講じるよう決定し、飛脚はそれを確認して帰洛の途に就いた。
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西暦1235年
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87代 四条
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嘉禎元年
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12月30日
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吾妻鏡
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仏師康定が昨夜、千躰薬師・禄存星・羅計二星などの造像を完了し、今日早朝に卿法印良信を導師として彼の本坊に納め開眼供養を催した。籐内判官定員が彼の坊に出向いてこれを奉行し、両国司(相模守北條時房と武蔵守北條泰時)も臨席し美絹十疋・南廷(銀の板)一つを布施とした。
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
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   ※仏師康定: 慶派の代表である運慶の系統も流石に孫の代になると著名な作品
は残っておらず、世襲制度の虚しさを痛感させられる。
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右に載せた教王護国寺(東寺)の持国天像(183cm・木造彩色・国宝)は講堂須弥壇の東隅に置かれ、夜叉を踏みつけて周囲を睥睨する姿が見事に表現されている。 (画像をクリック→ 拡大表示)
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父の運慶に従った四兄弟(湛慶・康慶・康弁・康勝)が造像を担った、と伝わっているが、康運が嘉禎二年(1236)10月に没したとの記録を考えるとひょっとしたら彼の長男康定が下働きとして造像に加わった可能性も...などは妄想の類だろう。そもそも制作年代さえ不明確な作品である。
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西暦1235年
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87代 四条
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