当サイトは、9月から http://kamakura-history.holy.jp/index-aisatsu.html に一本化します。
.
8月末までは 従来のTOK2 サーバー も並行して使えますが、9月からは上記のみになります。ブックマーク変更を、お早めに!




嘉禎二年(1236)

.
前年・嘉禎元年(1235)の吾妻鏡へ       翌年・嘉禎三年(1237)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示するには 吾妻鏡を読む のトップ頁 で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。今日は歓楽(忌み言葉、病気を意味する)のため御簾が上がらず、将軍家(藤原頼経)の出御なし。陸奥式部大夫北條政村が御剣を、越後太郎北條光時が御弓箭を、相模式部大夫北條朝直が御行騰沓を携えた。
.
   一の御馬(鞍置)  隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  同五郎左衛門尉二階堂行方
   二の御馬      佐原新左衛門尉胤家  同十郎頼連
   三の御馬      相模五郎北條時直  本間三郎左衛門尉元忠
   四の御馬      原右衛門尉  同五郎
   五の御馬      相模六郎北條時定  吉良次郎
.

.
   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
.
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
.
   ※本間左衛門尉: 本間氏出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。
本領は相模国愛甲郡依知郷(現在の厚木市の中依知・地図)。国道246号と129号が交差する悪名高い「金田交差点」のすぐ南側・妙純寺の一帯が本間氏の館跡と伝わり、見事な土塁が残っている。
    (右画像、画像をクリック→ 拡大表示)
.
北條被官として佐渡代官に任じた分家の子孫が出羽の富豪本間氏の系に続く。
.
吾妻鏡の嘉禄二年(1226)7月1日に「本間太郎左衛門尉忠貞」の記載があり、この人物が惣領と思われるが系図には載っておらず、弟(らしい)次郎・三郎・四郎の名前は判らない。
鎌倉~室町時代に同族間の争いなどで栄枯盛衰を繰り返しており、系図も錯綜が多い。
.
   ※吉良次郎: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖となった西条吉良長氏(吉良太郎・吉良義央(上野介)の祖)
の兄弟(同じく義氏の庶子)で東条吉良氏の祖となった義継以外に該当者はいない、と思う。
.

.
   ※年令: 北條時房は59歳・ 北條泰時は52歳・ 北條朝時は43歳・ 北條政村は31歳・ 北條経時は11歳・
三浦義村は70歳ほど・ 三浦泰村は52歳・ 足利義氏は47歳・ 小山朝政は86歳・ 結城朝光は68歳・
四代将軍藤原頼経は18歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で5歳。(全て満年齢)
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月2日
.
吾妻鏡
.
.
晴。武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。相模式部大夫北條朝直が御剣を、駿河次郎三浦泰村が御弓箭を、城太郎安達義景が御行騰沓を献じた。
.
   一の御馬(鞍置)  出羽三郎左衛門尉中条義季(家長の弟で和賀苅田氏)  同四郎左衛門家広(同、弟)
   二の御馬      信濃次郎左衛門尉二階堂行泰  同三郎左衛門尉二階堂行綱
   三の御馬      弥次郎左衛門尉  夜叉左衛門尉
   四の御馬      南條七郎左衛門尉時員(泰時の被官)  同兵衛尉(同)
   五の御馬      上野七郎左衛門尉結城朝広(朝光の嫡子)  同五郎重光(同、朝光の七男)
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。越後守北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。陸奥式部大夫北條政村が御剣を、大須賀左衛門尉胤氏(胤信の嫡孫)が御弓箭を、摂津四郎左衛門尉が御行騰沓を携えた。
.
   一の御馬    隠岐四郎左衛門尉二階堂行久  同五郎左衛門尉二階堂行賢(行方)
   二の御馬    信濃左衛門尉二階堂行泰  同三郎左衛門尉二階堂行綱
   三の御馬    南條七郎左衛門尉時貞(泰時の被官)  同太郎兵衛尉(同)
   四の御馬    平左衛門次郎  同三郎
   五の御馬    越後太郎北條光時  海老名左衛門尉
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月9日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)の疱瘡が回復、穢を祓う沐浴の儀があり行勇僧都が加持祈祷を担当した。良基朝臣(医師・前年の11月18日を参照)が治療の恩賞として御馬・御劔・御衣などを与えられた。
.
夜になって再び祈祷があり、伴僧を率いた弁僧正定豪が五壇法を修した。百日の泰山府君祭は陰陽助安倍忠尚朝臣が、天冑地府は大監物安倍宣賢がおこなった。
.

.
   ※五壇法: 五大明王(不動・降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉)を個別に安置して国家安穏を祈る密教の修法。
昨年の6月29日に将軍頼経が建てた五大尊堂(現在の明王院・公式サイト)が関係する。
.
   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と富貴を支配
すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚(すさのお)尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
.
   ※天冑地府祭: 国家の大事などの際に陰陽道が行う重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君・天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月17日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)の疱瘡の余病により股・膝に腫物(押領使と称す)が20余ヶ所に現れた。今日女房(女官)の石山局が良基朝臣を招いて症状の判断を求めた。「特に問題なし」との診断があり、多少の治療が行われた。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月19日
.
吾妻鏡
.
.
病気の後遺症に対応する祈祷として宮内卿僧都承快による冥道供、七壇(七人の僧)の炎魔天供を催した。
.

.
   ※冥道供: 閻魔大王に罪の消滅と長寿を祈願する密教の供養法。
   ※炎魔天供: 除病・息災・延寿・産生を祈願する大がかりな密教の修法
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月20日
.
吾妻鏡
.
.
御所に於いて七座(七人の僧)による招魂祭を、また珍譽法印が大属星供を催すことになる(三十夜)。
.

.
   ※招魂祭: 衰弱している人間の活性を高め、広義では死者の霊魂の離散を防ぐ。
   ※大属星供: 生年の干支を当て嵌めた北斗七星の星が運命を支配すると考える、その星の供養。
三十夜の意味は不明。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月21日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵守北條泰時が御所に参上し盃酒を献じた。相模守北條時房以下の人々が座に加わった。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
1月23日
.
吾妻鏡
.
.
左馬頭足利義氏が椀飯を献じた。
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家の余病には土公が祟をなしているとの意見が有職者からあった。武蔵守北條泰時の沙汰として土公祭を行なう事となり、夜に入ってから御所に於いて安倍晴賢朝臣がこれを催した。また、今日上野入道結城朝光が御所に於いて下若(酒)を差し入れた。
.

.
   ※土公: 春は竈ど(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭に棲む陰陽道の遊行神。その季節に該当する場所の
造作などなどを行うと祟を招く。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月2日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に西の方角で雷鳴あり。今日、相模守北條時房が御所に於いて酒宴を催し、武蔵守北條泰時や駿河前司三浦義村らも加わった。盃酒が数献あり、それぞれが楽しんだ。将軍家の病気が無事に平癒したため、最近は連日の祝宴である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月3日
.
吾妻鏡
.
.
駿河前司三浦義村が盃酒を献じた。両国司(時房と泰時)もその座に加わり、稚児十七人が呼ばれて宴席を盛り上げた。夜になって安倍忠尚朝臣が規則に準じた泰山府君祭(1月9日を参照、定例の祭祀と臨時の祭祀がある)を奉仕した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月10日
.
吾妻鏡
.
.
午刻(正午前後)に雷鳴と豪雨あり。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月14日
.
吾妻鏡
.
.
右近将監の多好節(前年(文暦二年)閏6月24日を参照)が和琴・太笛などを手配して武蔵守北條泰時に献上した。
泰時が特に好んでいる分野の品物である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月 日
.
百錬抄
.
.
   ※2月19日: 衆徒の訴訟が落着し、春日社・興福寺・東大寺の扉が開かれ平常に戻った。
   ※2月21日: 春日大社の御神木が宇治から本社に還御した。神官や神人らが少々付き従ったが、関東からの
厳命を恐れたためか衆徒は供奉しなかった。
.
.
   ※御神木: 興福寺衆徒の強訴はまず僧侶全員の集会で決めた要求を朝廷に提出し、拒否ならば春日大社本殿
と四社の神鏡五枚を集めて神木を誂え、公式に「神木動座の強訴」を行なう。
.
ここで要求が通れば神鏡を本殿に戻して終了となり、拒否された場合は神木を興福寺金堂に遷して石上神宮吉野勝手明神(共にwiki)に神輿の出動を要請、紛争が長期化する様相があれば東大寺など南都七大寺(興福寺・東大寺の他に西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺を差す)にも応援を求めた。更に詳細は 春日神木(wiki)を参照されたし。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月22日
.
吾妻鏡
.
.
伊豫国宇和郡について、薩摩守橘公業法師の地頭職を停止し、領家である常磐井入道太政大臣家(西園寺公経)の直轄管理に変更した。
.
宇和郡は以前から禅閤(仏門に入った摂関)の希望だったが公業が先祖から引き継いで管理してきた土地でもある。
.
また遠江掾遠保が勅命を受けて賊徒の藤原純友を討ち取って以来宇和郡に住み着き子孫に継承してから長い年月が過ぎている。
.
何の失態もないのに解任とは納得できないと嘆き訴えている事に対して理屈の通る説明ができず、強引に(地頭解任の)決裁を下してしまった。
.
先日禅閤(摂政または関白が職を辞して仏門に入った場合の称号、西園寺公経を差す)の書状が再び届き、「この希望が容れられなければ老後の面目を失ってしまう。鎌倉に出向いて所存を述べよう。」とあった。
.
禅閤の鎌倉下向となっては更に大きな問題に発展してしまう。「早急に直轄管理を実行されたし」と(摂関家の)家司陸奥入道理繆を名乗る者に通達した。
.

.
   ※宇和郡: 愛媛県西部、右画像の 部分が該当する。宇和荘は公経の嫡子(常磐井入道)実氏が相続した。
南北朝時代になって庶流の子孫公良が土着した、らしい。一方で権益を放棄した橘氏は鎮西に代替地を得て、子孫は肥前国(熊本県)を中心に繁栄している。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
2月28日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に地震あり。
今日、六波羅の飛脚と大夫判官後藤基綱の使者が鎌倉に到着して次の通り報告した。
.
去る14日に基綱が木津河の北に出向き、使者を河の南(神木御座所)に派遣した。使者は幕府が行なった決裁の趣旨を集まってきた興福寺の衆徒に説明、衆徒もそれを納得し21日になって神木は本社に帰座した。
翌22日に殿下九条道家)の邸で三儀があり同じく御参内された。
.

.
   ※殿下: 平安期以降の摂政・関白・将軍などの敬称。九条道家は文暦二年(1235)3月28日に摂政宣下を受け
西園寺公経に替わって朝廷の実権を掌握している。
.
   ※三儀: 閉門または謹慎を解かれる事を意味するらしい。摂政に任じていた長男の教実の死没(前年3月28日)
の穢を避けたのか、記録に残っていない何らかの事件があったか。
原文は「殿下御亭被行充三儀同刷御参内 云々」
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
豪雨と雷鳴あり。
.

.
   ※百錬抄: 今日、春日祭。先月の予定だったが御神木の件があって延期していた。
.
春日祭は嘉祥二年(849)に始まった氏神祭で、勅使を迎えて国家安泰と民の繁栄を祈る。現在は3月13日の開催だが明治以前は2月と11月の上の申(最初の申)の日に行なっていた。2月の上申は9日、3月は3日が該当する。面倒なので干支の記入をしなかったのは失敗だったか。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月7日
.
吾妻鏡
.
.
下総前司源保茂を男山(石清水八幡宮を含む八幡山全体・地図)の守護とした。甲乙人(一般庶民)の無法を抑止させる目的で去年の5月に赴任を指示したのだが、事情ありと称して未だに出向いていない。宮寺からは再三の催促があり、赴任の命令に従うよう再度の指示を下した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月8日
.
吾妻鏡
.
.
先月末の除目の聞書が届いた。北條時房が修理権大夫に任じて兼の字を賜り、時房は自ら御所に持参して推挙を謝した。
.

.
   ※聞書: 昇進会議の備忘録。叙位・叙任の際にその内容と理由を書き留めた書類。
   ※兼の字: 名目上の内官(在京の官吏)と外官(国司・郡司などの地方官)を兼ねる事(相模守と修理権大夫)。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月12日
.
吾妻鏡
.
.
去る4日に武蔵守北條泰時が従四位下に叙された聞書が届き、御所に報告して推挙を謝した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月13日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵守北條泰時が陰陽助忠尚朝臣を呼んで内密に相談した。
.
恩恵は有難い事だが、特に功績がないまま四位に任じられては天運に危惧があり、果たして能力に相応しいのだろうか。この状況を急いで泰山府君(1月9日を参照)に報告するべきだろう。」と。
.
安倍忠尚は衣冠を整え、南庭に於いて泰山府君祭を催した。
捧げる文面の草案は法橋圓全で清書は斎藤兵衛入道浄圓、泰時(浄衣・立烏帽子)は庭で祭祀を拝した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴。若宮大路の東に御所を建てることになり、来る25日に(将軍家方違えの)御本所として田村に一泊を予定している。これが太白方に該当するか否かを調べるよう駿河前司三浦義村に指示があった。義村は陰陽使と共に武蔵大路の峰に登って確認して戻ってきた。田村は戌方(西北西)と思われる、真西に非ず、と報告した。
.
申刻(16時前後)に将軍家の御行始め(外出始め)があり、武蔵守北條泰時邸に入御。三浦義村が剣を持ち、 越後守北條朝時・陸奥右馬助北條實泰・同太郎民部少輔北條實時・相模式部大夫北條朝直・摂津前司中原師員・周防前司・三條前民部権少輔中原親實・左近蔵人毛利親光・源判官らが供奉した。
.

.
   ※若宮大路御所: 8月4日に完成して将軍家が転居する。義時・政子
の時代から人心を一新する目的で泰時が設けた宇都宮辻子幕府はわずか12年で廃された。
.
以後は鎌倉幕府が滅亡するまでの100年弱は若宮大路幕府が政庁となるのだが、二つの幕府は敷地が概ね南北に隣接していた、とも考えられている。
.
右画像は若宮大路跡の中心部付近に建つ石碑。
   画像をクリック→ 段葛と二つの政庁へ。
.
   ※田村: 現在の相模川西岸(平塚市)にあった三浦義村の別邸。
詳細は貞応二年(1223)4月29日を参照。
.
   ※太白方: 万事に凶とされる宵の明星(金星)。 西の方向に当たる。
.
   ※武蔵大路: 一般的には亀ヶ谷坂を経て山ノ内へ下り大船の常楽寺
向かう道とされるが、化粧坂を登り源氏山を経て梶原または北鎌倉に下る道が武蔵大路だと考える説もある。
.
「亀ヶ谷坂の峰」の標高は約62mなので海蔵寺北側の山並(約85m)が邪魔になって西側は展望できないが、源氏山(85m)からの展望は田村まで開けている。
.
もちろんこの記事だけで武蔵大路の特定はできず、可能性として考えるレベル。なお、地図上で確認すると、鎌倉から田村は確かに西北西になる。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
幕府および将軍家の持仏堂を若宮大路の東に接して新造する事を御所に於いて決定した。日程などについては陰陽師に勘文(諮問に対する上申書)を求め、安倍晴賢と文元が連署して提出した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
3月21日
.
吾妻鏡
.
.
南都の騒動は、興福寺も春日社も門戸を開き神木が元通りに帰座して収束した。鎌倉から派遣した使節の功績が大きいとの沙汰があり、在京の大夫判官後藤基綱(当時在京)に感状を交付した。
.
また興福寺勢力の中で鎌倉に意思を通じていた住僧の武蔵得業隆圓という者が六波羅探題の駿河守北條重時および使節の後藤基綱が互の考えを調整し、衆徒に対して関東の権威や武力を示しつつ静かに説得した。この結果として衆徒の蜂起は鎮まったとの報告が基綱から届き、それについても改めて感状を送った。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
午刻(正午前後)に鶴岡八幡宮若宮に羽蟻が群れ集まった。また、子刻(深夜0時前後)に地震あり。
.

.
   ※若宮: 本宮の分霊を遷して祀ったのが若宮。更に厳密に考えると、
「本宮に祀る祭神の御子を祀る」ケースを若宮と呼ぶらしい。
.
その意味で源頼義が石清水八幡宮を勧請した元鶴岡八幡宮も「由比若宮」だったし、そこから頼朝が由比から遷して祀った鶴岡八幡宮も「鶴岡若宮」だった。段葛が通っている鎌倉のメインストリートは「若宮大路」だし、ね。
.
鶴岡八幡宮の場合は本宮(大石段上の「上宮」)の御祭神が応神天皇で、その御子・仁徳天皇らを祀っているのが大石段の下・右手にある下社(若宮・右の画像)になる。
.
画像をクリック→ 鶴岡八幡宮の風景へ。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月2日
.
吾妻鏡
.
.
若宮大路御所の建物造営工事が始まった。工匠が衣冠束帯で儀式を行い、終了後に酒肴と褒美を受け取った。
今日、宮寺の羽蟻についての占いがあり、陰陽師六人から病気に注意し行動を慎むよう託宣が伝えられた。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月4日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)が御方違えのため下野入道生西(小山朝政)の若宮大路邸に渡御する旨の決定があった。この家は去年の火災で焼失し、新築してから将軍家は入御されておらず、渡御の可否を大夫判官藤原定員を介して陰陽師に確認し知宗・源親行・清原季氏が答えた。
.
この場合の対応には二通りあり、安倍家の説は「元の家に戻る際の方角が塞方(凶の方角)なら良くない」と、賀茂家の説は「一泊した後に仮の移動を挟んで戻れば特に問題なし」としている。
.
更に安倍晴賢・文元に確認すると「避けるべき」と答えたが、「問題のない出発点を設定すれば問題にはならない」とも付け加えた。
.
将軍家からは「朝政邸は御所の坤(南西)だから今日の太白方(凶の方角・3月14日を参照)ではないのか」との疑義が呈され、安倍晴賢らが丈尺(3mの物差し)を使って丁の方向(南寄りの南々西)なのを確認した。夜になって将軍家は朝政邸に渡御された。
.

.
   ※賀茂家: 陰陽師として朝廷中務省陰陽寮の覇権を長年に亘り醜く争っていたのが賀茂氏と安倍(阿部)氏。
ちなみに、方丈記を著した鴨長明は陰陽師の賀茂一族を輩出した賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜(宮司の補佐役)鴨長継の次男だったが神官としての栄達の道を絶たれ、鎌倉に下向して源実朝の和歌の師範としての就職活動もしたのだが、実朝は受け容れなかった。
.
吾妻鏡の建暦元年(1211)10月13日にその経緯が記載されている。「方丈記」は出世の道を閉ざされた恨みの集大成、不満が人間を大きく育てるのはソクラテスの時代から変わらない、か(笑)。
.
   ※朝政邸: 御所から見て丁の方向(南寄りの南々西)なら概略見当がつく。鎌倉郵便局の南(地図)あたりか。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月6日
.
吾妻鏡
.
.
巳刻(10時前後)に前駿河守で従五位下の藤原朝臣季時法師(中原季時・法名行阿)が没した。先月27日から時行(?)と脚気を併発していた。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月8日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)は17日に伊豆国の小名温泉に渡御を予定していたが、去る1日に八幡宮若宮で羽蟻が群集する怪異が起きた。
.
この怪異を占った結果は好ましいものではなく、更に宿曜師(密教に基づく占星術の一種)の珍譽法印は「遠出は避けるべきでしょう」と言い、陰陽師も「望ましくない」と申し出た。そんな経緯から協議が開かれて、将軍家は遂に(伊豆渡御を)諦める結果になった。
.

.
   ※小名温泉: 源氏山の東麓に開けた現在の古奈温泉。1300年前
の開湯と伝わる、伊豆で最も古い温泉の一つ。
.
明治時代中期に源氏山西麓に長岡温泉が開湯し、戦後には大型旅館が次々と開業して少なからず行楽客を奪われている。
.
古奈は治承四年(1280)4月に以仁王を奉じて挙兵した源三位頼政の後室・菖蒲御前の出身地でもある。頼政が敗死した直後の彼女は幼子らを伴って古奈に避難していたから、同年8月に頼朝が挙兵した際には韮山で出陣を見送った...だろうと、私は勝手に想像している。
.
古奈と菖蒲御前の関わりなどについては古奈・菖蒲田の風景などで。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月11日
.
吾妻鏡
.
.
御所に於いて祈祷(複数)を行なった。これ鶴岡八幡宮宮寺で起きた怪異(羽蟻)への対応である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月14日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)が御方違えのため下野入道(小山朝政)邸に渡御した。45日間の宿泊である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月20日
.
吾妻鏡
.
.
弁僧正(定豪)が雨乞いの祈祷を行うため鶴岡八幡宮に参籠する。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
4月23日
.
吾妻鏡
.
.
激しい風雨あり。炎天が10日以上も続いたため国土の全てを潤すほどではないが祈祷の成果を法験を誉められ、僧正定豪には馬が贈られた。押垂左衛門尉が使者である。
.

.
   ※押垂左衛門尉: 埼玉県東松山市のエリアでは良く知られている将軍塚古墳(参考pdfファイル)近くには押垂
地図)の地名がある。野本(斎藤)基員の息子・基時(時基?)の本領で、木曽(源)義仲の父親・帯刀先生源義賢悪源太義平に討たれた大蔵館比企一族の本領も近いエリアだ。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
5月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。鶴岡八幡宮での神事は通例の通り。将軍家の臨席あり。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
5月24日
.
吾妻鏡
.
.
新造する御所の築地塀は七月中に工事を完成させるよう定めた。後藤基綱と籐内大夫判官藤原定員が指揮管理に任じる。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
5月25日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵守北條泰時が伊豆国に下向する出発の儀式を行なった。5月中は日取りに支障があり、来月1日に北條に入る予定である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
5月27日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵守北條泰時が(伊豆国北條に向けて)出発した。これは故右京兆(北條義時)の十三回忌にあたり、北條で法要を営むのが目的である。
.

.
   ※北條で法要: 開催は旧時政邸かな、北條寺の可能性もと思ったが、やはり順当に願成就院だった。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。新造御所の御持仏堂の柱立てを行ない、夜にはその場所で安倍晴賢朝臣が土公祭を催した。
.
今日、武蔵国北條で故右京兆(北條義時)の十三回忌の追善法要が催された。正命日は13日だが日程を早めた。
願成就院の北側には塔婆が建立された。この本尊は大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の尊像で、曼陀羅供による供養である。大阿闍梨荘厳房僧都行勇で供僧は12人、右馬助と民部少輔が阿闍梨行勇の布施を運んだ。
.
駿河国と伊豆国などの御家人多数が参席し、武州による丁寧な応対を受けた。

.
   ※塔婆: 願成就院の正確な伽藍配置は確認されておらず、僅かに
南塔の礎石部分と時政の墓所が特定されているのみ。
.
吾妻鏡の記録では時政が文治五年(1189)に大御堂を、承元元年(1207)に南塔を建て、二代執権義時が時政没後の建保三年(1215)に南新御堂を建て、三代執権泰時が嘉承元年(1235)に北塔を建てたとされる。
.
50年以上の年月を経て壮大な堂塔群と庭園が完成した。
.
右鳥瞰図をクリック→ 拡大画像へ。更に詳細は時政が建立した願成就院で。
.
   ※右馬助: 今年の3月に右馬助に任じた北條政村だろう。義時の五男で泰時の異母弟だから違和感はない。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月6日
.
吾妻鏡
.
.
若宮大路新造御所の築地塀工事が始まり、連日の土公祭(2月1日を参照)を催すよう命令が下された。
.

.
   ※築地塀: 土塀の一種。時代は300年ほど下るが、熱田神宮の信長塀(公式サイトの頁)が有名。
法隆寺の東大門からすぐ北へ、天満池に向かう用水の両側に続く築地塀だとか、多賀城政庁跡に復元した築地塀などは印象に残っている。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月11日
.
吾妻鏡
.
.
晴。戌刻(20時前後)に地震あり。その後に将軍家(藤原頼経)は直垂を着して門外の西東堀の辺に出御し安倍晴賢朝臣の御祓いによ.り御除服(服喪明け)の儀式を行なった。付き添いは大江佐房朝臣、妹姫御前(12歳、生母は准后)の死去に伴う服喪で、外祖父(母方の祖父)太相国禅室(西園寺公経)の猶子となっていた。
.
夜半になってから武蔵守北條泰時が伊豆国北條から帰着した。
.

.
   ※妹姫御前: 死去は前年の10月28日、吾妻鏡には11月15日に記載がある。
.
   ※猶子: 一般的には相続権を伴わない養子だが実質の扱いは様々。例えば身分の低い女性が入内するような
場合には貴人の猶子になった後に、などの例もある。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月22日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に地震あり。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月25日
.
吾妻鏡
.
.
昨夜の夜半に螢惑(火星)に異常が現れた。天文道担当が大膳権大夫中原師員を介してこれを報告した。
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月26日
.
吾妻鏡
.
.
新御所の柱立てを明日に行なう事になり、信濃民部入道行然(二階堂行盛)が差配し将軍家が御方違えのため中原師員の家に移る件を協議した。
.
これは新御所が現在の御所(生西(小山朝政)邸)の真北なので明日には太白方(凶の方向)になり、明日一晩の御方違えが必要なためである。
.
将軍家からは「本来の御所(宇都宮辻子)ならば中原師員邸は乾方(北西)ではないか」との疑義があり、二階堂行盛に「確かな方角を調べよ」と下命があった。
.
忠尚・晴賢・国継(いずれも安倍)を伴い丈尺(3mの物差し)を携えて中原師員邸を調査した結果は「北西ではない」と確認ができた。
.

.
   ※御方違え: 吾妻鏡の記述に従って中原師員邸と小山朝政邸と二つの御所
の中心部(実際には敷地が隣接し北へスライドしたらしい)を右の地図にマークした。御所の位置以外は根拠になる史料が乏しいため完全な概略・推定となる。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月27日
.
吾妻鏡
.
.
七月節(立秋)、晴・風鎮まる。巳刻(10時前後)に地震あり。
今日、若宮大路新御所の寝殿以下、建物の立柱・上棟を行なった。伊賀式部大夫入道光西(伊賀光宗)・信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)・清左衛門大夫清原季氏がこれを差配した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
6月28日
.
吾妻鏡
.
.
大納言阿闍梨隆弁を御所に招き、如意輪観音菩薩を供養する護摩行を行なった。
.

.
   ※隆弁: 父は四条隆房(正二位・権大納言)で生母は葉室光雅(正二位・権中納言)の娘。将軍家(藤原頼経)に
招かれて鎌倉に下った天台宗の高僧。北條得宗家のバックアップを得て零落していた圓城寺を再興し、圓城寺と鶴岡八幡宮別当(九代)を務めた政商ならぬ政僧。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。新御所の門(複数)を建設した。
.
今日、大膳権大夫中原師員・伊賀式部大夫入道光西(伊賀光宗)・籐内大夫判官藤原定員らの差配により新御所への移転について協議があった。また忠尚・定昌・泰貞・晴賢・宣友・晴茂・宣賢・廣資・国継ら(いずれも安倍氏)を西の廊下縁に呼び集め、移転について順番に意見を求めた。
.
来月4日の移転を予定している。まず、臨時の沙汰として武蔵守北條泰時邸に入御してから新御所に入る事が大将軍(凶の方角)に該当するのかを確認したい。」と。
.
定昌・泰貞・晴賢・宣友らは「臨時の移動について方角を憚る必要はなく、また王相方は現在の御所から移動する際に考慮すべきことです。」と答えた。
.
陰陽助忠尚朝臣と前主計助廣資は「好ましくないが他の者が賛成しているから問題はないでしょう。」と答えた。
更に「現在の御所(小山朝政邸)は建設の途中で門も出来ていないから移転の際に行列を整える必要もないが、武蔵守の屋敷から出御の場合は正式に考慮しなければならない。」と。
.

.
   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
7月17日
.
吾妻鏡
.
.
佐々木近江次郎左衛門尉高信と日吉の神人の喧嘩(前年12月29日)に関し、神輿を担ぎ出して強訴に及んだ天台の張本人を出頭させるよう武蔵守北條泰時から何度も申し入れたにも拘らず衆徒がこれを拒んで蜂起したため保留になっており、今日改めて天台(比叡山)座主に申し入れを行った。
.
佐々木高信ら神輿の入洛を防ごうとした武士は衆徒の訴えを受け直ちに流罪に処した。続いて問題を今後に持ち越さないために両門(延暦寺と日吉社)に属する(強訴の)張本人の名簿を提示して呼び出している。筋の通らない集会を催したりすれば例え堂舎に立て籠っても、罪の報いを受ける結果になる、と評議が決した。
.
弁解や配慮すべき情状があれば申し出れば良い。承久兵乱の際に京方に味方した者は諸社の別当や神官に至るまで誰一人罪を逃れられなかったが、比叡山の張本人は更に重い関与があっても処罰しなかった。今回の強訴の張本人は決して罪科を免れる事はできない。
.
また信濃国善光寺の地頭職について、右大将家(源頼朝)の時代に淡路前司宗政(長沼(小山)宗政)の申請を容れ地頭に補任したが寺僧からの訴えを受け承元四年(1210)8月11日(吾妻鏡の8月12日に記載)に解任した。
その後も代官による差配があるとの訴えについては、改めて停止命令を発行した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
7月24日
.
吾妻鏡
.
.
南都興福寺の関わる騒動について、在京および京都近国の御家人は一族を率いて警護の忠義を尽くすよう既に命令を下しているが、一族が従わず統括できない旨の訴えが届いている。今後は大番などを含む役務は直ちに一門の惣領の指示に従って果たすよう、今日重ねて決定を下した。図書左衛門尉がこの件を差配する。
.
今日、転居に関する指示があった。将軍家(藤原頼経)は北條泰時邸の西妻(西の棟?)に3日の夜宿泊する、と。
.

.
   ※惣領制の崩壊: 嫡男による一括相続制が崩れて相続の細分化が進み、更に貨幣経済が定着するに従って
「宗家による一族支配」のシステムが崩壊し始める。鎌倉幕府には侍所・政所・評定所などはあったが経済政策を担当する部署がなく、(徳政令などの)対症療法で乗り切る策しかもたなかったのが崩壊の主原因...と書いた書物を読んだ事があった。経済政策の面から鎌倉幕府を見直してみるのも案外面白い、かも知れない。
.
   ※図書左衛門尉: この官職は清原清定だが...それなりに高齢の筈なので確信なし。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
7月25日
.
吾妻鏡
.
.
石清水八幡宮の神領・讃岐国本山庄を知行する足立木工助遠親の地頭職を停止し、全ての権限を石清水八幡宮に付与した。
.

.
   ※讃岐国本山庄: 現在の香川県三豊市(地図)、所有権者は九条家。
   ※足立遠親: 足立遠元-嫡子基(元)春-嫡子遠親と続く。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
7月28日
.
百錬抄
.
.
春日大社の御神木が興福寺金堂に入御した。南都は去年から石清水八幡宮と訴訟を続け、未だに年来の宿願を達していない。世の為に不都合と言うべきか。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。戌刻(20時前後)に新御所で地鎮の祈祷を行った。大歳八神は泰貞朝臣、宅鎮は晴賢、大土公は晴茂、大将軍は宣賢、王相は国継、井霊は廣資、厩鎮は道氏が務めた。
忠尚朝臣が七十二星鎮と西岳真人鎮を里亭(一泊する泰時邸を差す)で催した後に鎮物(供物)を持参した際に将軍家(藤原頼経)から伊賀六郎右衛門尉を介して指摘があった。
.
「本御所(宇都宮辻子)を新築する際には、この両鎮は故・安倍国道朝臣が御所に於いて行った。今回の両鎮を私宿(仮の宿)で行うのは不都合ではないのか。」と。忠尚は説明ができないまま退出した。
.

.
   ※伊賀六郎光重: 伊賀朝光の末子(六男)。貞応三年(1224)7月の伊賀氏の変により鎮西流罪 (政子が計画
した冤罪事件)となり、政子が死去した直後の翌・嘉禄元年(1225)8月に恩赦の名目で鎌倉に帰還、将軍頼経の近臣として仕えた。弘長元年(1261)4月没。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月4日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風鎮まる。 戌刻(16時前後)に将軍家(藤原頼経)が若宮大路に新造した御所に転居する式典が行われた。
.
将軍家は武蔵守北條泰時邸から御束帯・御乗車で渡御、前大監物文元に命じて轅(牛車の引き棒)内側で反閇を行ない新御所の南門から入御。御車が門内に入り二丈(6m強)余を進んでから下車した。
.
安芸右馬助が御榻(踏台)を置き、木工権頭伊賀仲能が御沓を揃え、前民部権少輔中原親實が御裾を持った。
備中左近大夫重氏と美作前司宇都宮時綱が松明を掲げ、二條侍従教定と一條大夫能清が予め軒下に控えて牛車から黄牛を外した。押垂三郎左衛門尉晴基と野本太郎時秀が牛童一人と共にこれを牽いた。
.
次に水火の難を祓う役人(水は壱岐五郎左衛門尉行方、火は伊賀六郎左衛門尉光重)、次に陰陽助忠尚朝臣(束帯)が反閇で歩み庭中に於いて呪詞を唱えた。
西廊に昇り、二棟御所の南縁を経て寝殿(五間四面)の南に面した中の間に入御し南に向かって着御、水火(の役人)が中の間まで将軍家の前を進んだ。五菓(栗・柿・甘子・棗)を木製の高杯に盛り鶴と松を描いた折敷の上に置いた。酒盃(蓋の付いた片口の銚子に入れ折敷の上に置く)を供えた。
.
次いで忠尚が階の陰に於いて木工権頭伊賀仲能を介して褒美(絹の単衣)を与えられた。次に椀飯の儀があり、相模守北條時房と 武蔵守北條泰時が西の侍控間に進んだ。また泰時が吉書(将軍が見る蓋付きの箱入り)を持参し、信濃次郎左衛門尉 二階堂行泰を介して将軍の御覧に供した。以上で行事は終了し退出となった。
.
今日の供奉人
.
  前駆
    木工権頭中原仲能   前民部権少輔中原親實
    備中左近大夫重氏   前美作守宇都宮時綱   右馬権頭北條政村
.
  御劔役 相模権守俊定
  御調度懸け 安積六郎左衛門尉好長
  御甲着け  長太右衛門尉
  御後五位六位(布衣・下括り)
    遠江守北條朝時      民部権少輔北條有時
    陸奥太郎北條実時      北條弥四郎経時
    足利五郎(吉良)長氏(1月1日参照)      遠江太郎清時
    駿河前司三浦義村      大膳権大夫中原師員
    左衛門大夫長井左衛門大夫泰秀      毛利左近蔵人親光
    周防前司中原親實      伊豆判官若槻頼定
    安芸右馬助      佐渡守後藤基綱
    修理亮宇都宮泰綱      加賀前司町野(三善) 康俊
    大和守伊東祐時      上総介境常秀
    河越掃部助泰重      筑後図書助時家
    豊前大炊助大友親秀      上野七郎左衛門尉結城朝村
    同五郎重光      薬師寺左衛門尉朝村
    淡路左衛門尉      後藤次郎左衛門尉基親
    同四郎左衛門尉後藤基時      関左衛門尉政泰
    下河邊左衛門尉行光      宇都宮四郎左衛門尉横田頼業
    笠間左衛門尉時朝      佐原新左衛門尉胤家
    左衛門尉伊東祐時      大曽祢太郎兵衛尉長泰
    同次郎兵衛尉盛経      信濃次郎左衛門尉二階堂行泰
    同三郎左衛門尉二階堂行綱      隠岐四郎左衛門尉二階堂行久
    籐四郎左衛門尉藤原秀実      梶原右衛門尉景俊
    近江三郎左衛門尉佐々木頼重      葛西壱岐左衛門尉
    加地八郎左衛門尉信朝      宇佐美籐内左衛門尉祐泰
    河津八郎左衛門尉尚景      武藤左衛門尉景頼
    摂津左衛門尉狩野為光      出羽四郎左衛門尉中条光宗
    加藤次郎左衛門尉      紀伊次郎兵衛尉為経
    廣澤三郎兵衛尉実能      小野寺四郎左衛門尉通時
    平賀三郎兵衛尉      狩野五郎左衛門尉為広
    春日部左衛門尉      相馬左衛門尉
    宮内左衛門尉公景      弥善太左衛門尉三善康義
    駿河次郎三浦泰村
.
  直垂
    駿河四郎左衛門尉三浦家村      同又太郎左衛門尉三浦氏村
    上総介太郎      大須賀次郎左衛門尉胤秀
    大河戸太郎兵衛尉広行      伊賀六郎左衛門尉光重(8月3日を参照)
    佐々木近江四郎左衛門尉氏信      波多野中務次郎経朝
    内藤七郎左衛門尉盛継      江戸八郎太郎景益
    宇田左衛門尉      豊後四郎左衛門尉島津忠綱
    長掃部左衛門尉秀綱      渋谷三郎
    南條七郎左衛門尉時員      中野左衛門尉時景
    平左衛門三郎盛時      本間次郎左衛門尉信忠
    小河三郎兵衛尉直行      飯富源内長能
  検非違使
    駿河大夫判官三浦光村      籐内大夫判官藤原定員      遠山判官(加藤)景朝
.

.
   ※反閇: (へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行う陰陽道の作法。動画も参考に。
.
   ※宇都宮時綱: 頼綱の長男で生母は稲毛重成の娘。六代当主は異母弟泰綱(生母は 北條時政の娘)が継ぎ、
河内郡(wiki)の南半分を支配して上条を名乗った。正室が三浦義村の娘だった関係から宝治合戦(1247)では泰村に味方して滅亡した。
.
   ※五菓: 栗・柿・甘子(みかん)・棗(なつめ)の表示だが、通常は桃・李(すもも)・杏(あんず)・棗・栗を表す。
食い違いの理由は判らない。
.
   ※平盛綱: 執権北條氏の家司を務め内管領長崎氏の祖となった盛綱の子で北條得宗家の御内人。息子が後に
得宗被官でありながら専制独裁政治を敷いた平頼綱
.
   ※伊東祐時: 大和守と左衛門尉を兼任しているため両方にを付けてあるが、原文では上が「大和守」だから
祐時、下が「伊東左衛門尉」だから弟の祐朝か息子の祐政または祐光だろうと思う。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月5日
.
吾妻鏡
.
.
匠作(相模守北條時房)と武蔵守北條泰時が新造の評定所に出仕し、評定衆全員が参集して評議始めを行なった。ただし出羽前司中条家長は体調不良のため欠席した。
.
まず御勤仕(当番)を決めてから御祈祷を行い、権暦博士定昌が河臨の祓いを務めた。御転居の三日後に御祈りを始める先例は知らないと言う者もいたが躊躇なしの実施である。
.
酉刻(18時前後)に政所の開催始めがあり、時房と泰時も参席した。行然(二階堂行盛)が(将軍家が下賜した)鞍置きの御馬と御劔を両人(時房と泰時)に差し渡した。
.

.
   ※匠作: 修理・造営を担当する「修理職」の唐名。時房の系譜では修理権大夫叙任は翌・嘉禎三年(1237)3月
の筈なのだが...ま、いいか。
.
   ※河臨の祓い: 無病息災や安産のため川辺で行なう陰陽道の祓。身代りの人形(ひとがた)などを川に流す。
この祭祀を七ヶ所で行なうと七瀬祓となる。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月6日
.
吾妻鏡
.
.
晴。新造御所の御弓始めあり。匠作(相模守北條時房)と武蔵守北條泰時以下の諸人が布衣(狩衣)を着てし庭上に控え、将軍家(藤原頼経)は簾 中から観覧された。取り次ぎ役は中原親實
.
  同射手
    一番 駿河次郎三浦泰村    左衛門尉
    二番 下河邊左衛門尉行光    横溝六郎義行
    三番 長小笠原六郎時    藤澤四郎清親
.
今日、内法による祈祷が始まった。功徳院僧正快雅が奉仕し、更に鶴岡八幡宮寺別当別当と供僧らにも勤行を命じた。また御湯殿の使用始めの儀もあった。
.

.
   ※下河邊行光: 弓の名手だった下河邊行平の孫だと思うが系図での確認ができない。行光は旧利根川に沿った
広大な下河邊荘(八条院・74代鳥羽天皇の皇女)の荘司職を継承した記録は見えず、頼朝没後の一族は徐々に影響力を失って北條氏の被官になった可能性が高い。鎌倉幕府滅亡後の下河邊荘は小山氏の支配を経て古河公方足利成氏の拠点になる。栄枯盛衰...
.
   ※横溝義行: 承久三年(1221)5月22日の吾妻鏡、京都を目指して鎌倉を出た泰時配下の18騎に横溝五郎
の名が見え、翌年1月7日の弓始め二番に横溝五郎資重、三番に横溝六郎義行の名前がある。
.
更に太平記の記述では、新田義貞が鎌倉を攻めた久米川の合戦では横溝五郎入道が、更に続く関戸の掃討戦では「主人の左近入道泰家(14代執権・北條高時の同母弟)を助けるため踏み止まった横溝八郎は敵23騎を射落した末に主従3騎が討死、」との記載(横溝八郎を葬った武将塚を載せておいた)があるから下河邊氏同様に北條被官になっていたのだろう。
横溝氏の出自は東近江市横溝町・横浜鶴見・相模原などの説があり確定できそうもない。
.
   ※内法: 他の宗教(外法)に対して仏教を内法と呼ぶ。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月9日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(藤原頼経)が転居後最初の御行(外出)始めの儀として武蔵守北條泰時邸に入御。御直衣(狩衣)と牛車、供奉人は去る4日(新御所への転居式)に同じ。廷尉(検非違使)の土岐光行は随兵の最後尾に従っている。
.
  随兵十二人
     北條弥四郎経時     上野七郎左衛門尉朝広(結城朝光の嫡子・上野介)
     足利五郎長氏     河越掃部助泰重
     近江三郎左衛門尉頼重     葛西壱岐左衛門尉(葛西清重の子または孫。)
     河津八郎左衛門尉     宇佐美籐内左衛門尉祐泰(宇佐美祐茂-嫡子祐政-次男日向守祐泰)
     梶原右衛門尉尚景     相馬左衛門尉
     駿河次郎三浦泰村     武田六郎信長
.

.
   ※足利長氏: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖・西条吉良長氏(吉良太郎・吉良義央(上野介)の祖)。
   ※河越泰重: 河越重頼-次男重時-長男泰重と続く河越氏の当主。
   ※近江頼重: 佐々木重綱の次男。嫡流は三男の秀綱。
   ※武田信長: 信光の次男。頼朝が粛清した叔父一条忠頼の家名を継承、武田宗家は兄の信政が継いでいる。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で放生会。将軍家(藤原頼経)が御臨席、法要と舞楽は通例の通り。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月16日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼経)が八幡宮の上宮と下宮に御奉幣。その後に流鏑馬など馬場での催事。廷尉藤原定員が子息定範を伴って埒(馬場を仕切る垣)の門近くに控えていた。
.

.
   ※藤原定員: 京都から頼経に同行した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月20日
.
吾妻鏡
.
.
南都興福寺の衆徒がまたも蜂起したとの飛脚が到着。鎮圧のため佐渡守後藤基綱の上洛を将軍家に申請して今日出発の儀式を済ませ、明日早暁に上洛の途に就く。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月25日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(朝の4時前後)に前出羽守従五位下藤原朝臣家長(中条家長、72歳)が死没した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
8月30日
.
吾妻鏡
.
.
新造の御所で恩賞に関する協議を行なった。大膳権大夫中原師員の差配による。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月1日
.
吾妻鏡
.
.
晴。子刻(深夜0時前後)に螢惑星(火星)が輿鬼星(かに座の星)の軌道を犯した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
去る承久三年(1221)の合戦(承久の乱)の際に本来の所領復活を願いながら恩賞から漏れてしまった御家人の願いを充足させる評議が行われた。但し現状では然るべき土地がないため追って手配する旨の発言があった。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月5日
.
吾妻鏡
.
.
今日、近江入道虚仮(佐々木四郎信綱が評定衆を辞して俄かに上洛の途に就いた。以前から隠居の希望を抱いていたらしい。

.
   ※佐々木信綱: 承久の乱で後鳥羽上皇に味方した長兄広綱の遺児を殺し、一族の所領を独占した過去を持つ。
この隠居は冷酷な生き様の悔恨か、兄広綱の遺志を無視して功を遂げた充足感だろうか。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月7日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に月が建星(不明)の軌道を犯した。隔てる距離は一尺(約30cm)。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月8日
.
吾妻鏡
.
.
螢惑(火星)が鬼積尸星(かに座の星)の軌道を犯した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月9日
.
吾妻鏡
.
.
京都(朝廷)の使者が鎌倉に入って次の通り報告した。
.
去年の7月23日に日吉大社の神輿が京都に入ろうとした祭にこれを阻止した武士右衛門尉遠政および喧嘩の当事者である近江(佐々木)次郎左衛門尉高信らは関東の意向に拠り、比叡山の不満を宥めるため流罪に処した。鎌倉からは比叡山側の当事者も召喚して今後の戒めにするべきとの申し入れがあり、日吉七社の神輿を造り替えてから出頭を命じたが、先月の8日に新造した神輿を中堂で振り回して拒絶した。これにより同月の28日に赦免の綸旨を発行した。
.

.
   ※佐々木高信: 近江守護佐々木信綱の次男。事件の詳細は昨年・文歴二年閏6月20日の百錬抄、同23日の
百錬抄、6月27日の百錬抄、同29日の名月記、7月7日の吾妻鏡、7月27日の吾妻鏡と百錬抄に事件の関連記事が載っている。
佐々木高信と右衛門尉遠政(高信の郎党か)はこの後の史料には現れず、配流地で不遇の生涯を終えたのだろうか。執権泰時はこの措置を承服すべきではない、と思うのだが...。
.
   ※日吉七社: 本宮二社と摂社五社、日吉七社・山王七社と呼ばれる。本社は西本宮と東本宮、摂社は牛尾宮・
樹下宮・三宮宮・宇佐宮・白山宮を差す。更に詳細は公式サイトで。
.
   ※綸旨: 天皇の意を受けた蔵人が発給する命令書。太政官の正式な手続きなど複雑な手順が必要な宣旨を
簡略化して私的な命令に利用される例が多い。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月10日
.
吾妻鏡
.
.
遠江守北條朝時朝臣が評定衆に加えられてから初めて出仕。庶幾(希望する事項)ではなく渋々の行動である。
.

.
   ※北條朝時: 吾妻鏡には載っていないが直後に評定衆を辞任、その後は幕政と一定の距離を保っており、自分
が北條嫡流との考えが底流にあったらしい。5人の男子(光時時長教時時基 )はいずれも北條得宗家と大小のトラブルを引き起こしている。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月13日
.
吾妻鏡
.
.
天変に対応する祈祷として御祈りとして七壇(七人による)の北斗護摩を行なった。弁僧正定豪・功徳院僧正・鳥羽法印らがこれを担当、大膳権大夫中原師員がこれを差配した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
9月28日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に強風と豪雨、西南の方向に雷鳴があった。
.

.
   ※天候: 9月28日は西暦の10月28日、少し遅い台風か
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。六波羅の飛脚が到着して次のように報告した。
.
先月中旬の頃から南都興福寺の衆徒が蜂起し防衛施設を築いて合戦に備えている。六波羅から使者を派遣して説得に努めているが人数は増え続けている。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月5日
.
吾妻鏡
.
.
南都の騒動を鎮めるために評議を催した。
しばらくの間は大和国に守護人を配置し衆徒が管理している荘園を没収し全てに地頭を補任する、また畿内と近国の御家人を招集して南都への道を封鎖し人の出入りを禁止する旨の決定があった。
.
印東八郎・佐原七郎(?)を始めとする武勇に優れた御家人を選んで派遣し、もしも衆徒が敵対した場合は容赦なく討伐せよとの意向である。東国の武士には命を惜しまず実行せよと直接に下命し、京畿の武士には六波羅探題を介して申し伝えた。 また南都興福寺領の位置などの詳細は把握していないため、武蔵得業隆圓が密かに書き出した書類が佐渡守後藤基綱を経て関東に届き、その内容に従って新たに地頭を任命した。
.

.
   ※印東八郎: 上総廣常の兄次郎常茂が印旛郡印東庄の庄司として印東を名乗ったのが一族の最初だが八郎の
詳細は不明。寛元三年(1245)1月9日の弓始めの一番に印東次郎の記載あり。親子か。
.
   ※武蔵得業隆圓: 鎌倉に通じている興福寺の住僧で、3月21日にも衆徒の説得に協力している。得業は所定の
学業を終了した者の称号で、この場合は「興福寺の維摩会と法華会、薬師寺の最勝会」を終えた者を差す。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月6日
.
吾妻鏡
.
.
大和国守護職などの御下文(辞令)を六波羅探題宛に送付した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月13日
.
吾妻鏡
.
.
御所に於いて天変(先月27日の太白(金星)の動き)に対応して祈祷が行われた。太白星祭は武蔵守北條泰時の差配により安倍泰貞朝臣がこれを務め、伊賀六郎左衛門尉光重(8月3日を参照)が奉幣使に任じた。天地災変祭は匠作(相模守北條時房)の差配により安倍廣経が務めた。廣経は最近京都から下向してきた人物である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月16日
.
百錬抄
.
.
夜になって興福寺に留まっていた衆徒は退去したが神木はまだ残っているらしい。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
10月29日
.
吾妻鏡
.
.
下総前司源保茂は日頃から良く任務を果たしているが、今回は男山(石清水八幡宮)守護を命じて上洛するため武蔵守北條泰時から餞別を贈られた。更に六波羅の駿州(北條重時)には然るべく配慮を加えるように伝えた。
.

.
   ※源保茂: 前年5月16日に石清水守護に任じたが、今年3月7日には「事情ありと称して未だ出向いていない」
との記載がある。一年近く赴任を伸ばしている理由も、それでも叱咤されない理由も判らない。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。未刻(14時前後)に六波羅の飛脚が到着して次の通り報告。
.
南都の衆徒は先月17日の夜に防御の陣を破壊して退散した。所領に補任された地頭によって補給が絶たれ、勢力を維持できなくなったのが原因である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月2日
.
百錬抄
.
.
今夜、春日の神木が本社(春日大社に帰座)した。関東の厳しい対応が主な理由である。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月13日
.
吾妻鏡
.
.
小雨。六波羅探題の飛脚が到着。南都興福寺の衆徒蜂起は既に鎮まり、去る2日から僧綱(僧正・僧都・律師)以下は寺に戻って門を開き仏事に就いている、と報告した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月14日
.
吾妻鏡
.
.
匠作(相模守北條時房)と武蔵守北條泰時が評定所に入り、評定衆も集まって南都に関する協議を行った。
衆徒の沈静化が確認できたため大和国の守護職と地頭職を停止し、元の通り寺の管理に戻した。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月15日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による協議あり。これは去る2日に東寺の長者親厳僧正が死去し、鶴岡別当僧正の定豪を後継に考えているとの殿下(九条道家)の非公式な御教書が昨日届き、上洛させられるかどうかの問い合わせである。鶴岡八幡宮の別当が東寺長者に補任されるのは関東にとっても名誉であり僧正の本意でもある、その通りに対応すると決した。
直ちに大和前司天野(三善)倫重と佐藤民部大夫業時を派遣して僧正に事の経緯を伝えた。
.

.
   ※三善倫重: 問注所執事の三善康信→ 公事奉行の行倫→ 初代評定衆の一人倫重と血筋が続く幕府の中枢で
矢野氏とも名乗っている。御成敗式目執筆者の一人とされる。
.
   ※佐藤業時: 評定衆を設置した嘉禄元年(1225)12月から、落書の罪で流罪(後に赦免され鎌倉に帰還)に
なった仁治二年(1241)まで評定衆に任じた実務官僚、別称は相模大掾。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月22日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(藤原頼経)は御方違えのため蔵人大夫入道西阿(毛利季光)の宿所に入御。これは造営中の御持仏堂の場所が御寝所の北(凶の方角)に位置する疑いがある事による。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月23日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家が(御所に)還御し、蔵人大夫入道(毛利季光)が引出物を献じた。御剣を献じる役は左衛門大夫長井泰秀、砂金は駿河次郎三浦泰村、御馬(鞍置き)は毛利新蔵人泰光(季光三男)と岩崎左衛門尉が(手綱を)引いた。
.

.
   ※岩崎左衛門尉: 武田(石和)信光の五男信隆(本領は山梨郡岩崎邑・現在の甲州市勝沼町・地図)が承久の乱
(1221)後に阿波国守護に任じた小笠原長経(長清の嫡男)に従って下向、土着した。左衛門尉は信隆の嫡子政隆か、嫡孫の政嗣だろうか。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月24日
.
吾妻鏡
.
.
晴。戌刻(20時前後)に町大路で失火し南北十余町が焼失した。筑後左衛門尉知重(八田(小田)知重)・中民部太郎(?)を始めとする多くの人家が失われた。
.

.
   ※町大路で失火: 大町大路を差す。安貞二年(1228)7月16日にも「大町の松童社付近から出火して東西四町
(一町は約100m四方)を焼き尽くした」記録があり(当日に地図を掲載)、これは大町一帯が当時の鎌倉で有数の繁華街だった事に起因する可能性がある。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
11月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。(将軍家の)御持仏堂で密教による落慶供養あり。導師は弁僧正定豪、御本尊は六條法印院圓(院派(wiki)の仏師)が京都で造立の日程は一条殿で検討し、4月23日の賀茂祭に合わせて彫り始めた、初めての例である。
.

.
   ※一条殿: 九条道家の三男一条実経(将軍頼経の弟)の屋敷。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。京都朝廷の使者が参着、先月22日に将軍家(藤原頼経)が民部卿に任官した、と。
.

.
   ※民部卿: 民政を司る民部省の長官。頼経の場合は実務には携わらない名誉職。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月6日
.
吾妻鏡
.
.
晴。大膳権大夫中原師員の担当により、陰陽師を御所に集めて年末年始の行事日程を提案した。煤(すす)払いについて議論があり、安倍文元朝臣は「新築した際の三年間の煤払いは支障がある」と主張し、安倍親職と晴賢朝臣は「先達の正式記録にはないが控えは残っている。新築の場合でも煤があれば行うべきだろう。」と語った。
どちらの意見にも確たる根拠がなく、将軍家の「煤払いは不要と判断すべきだろう」との仰せが結論となった。
.
夜になって将軍家が鞍置きの御馬三疋と砂金50両と紺絹百反を弁僧正定豪に贈った。これは明暁上洛の途に就くためで、相模守北條時房と武蔵守北條泰時以下の人々もそれぞれ餞別を手配した。
.

.
   ※定豪上洛: 11月15日に定豪が京都東寺(公式サイト)の筆頭職に就任する話が出ていた。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月7日
.
吾妻鏡
.
.
晴。弁僧正定豪が上洛の途に就いた。親厳僧正死去の後継として東寺長者に補任するためである。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月11日
.
吾妻鏡
.
.
新丹後守足利泰氏が龍蹄(大型の駿馬)を将軍家に献上した。国司推挙への感謝である。
.

.
   ※足利泰氏: 15年後に無届で出家し蟄居することになる。宮騒動と宝治合戦が影を落としたらしい。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月19日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に武蔵守北條泰時が転居した。御所の北側に新しく建てていた屋敷で、檜皮葺きの母屋と将軍家(藤原頼経)を迎える車宿(車庫)を備えている。
.
御家人(泰時の被官を差す)らも家屋も構えており、南門の東脇は尾籐太郎景氏、同じく西脇は左衛門尉平盛綱、西に並んで太田次郎、南の角は兵衛入道諏訪盛重、北門の東脇は万年右馬允、同じく西脇には安東左衛門尉光成と南條左衛門尉時員の家が並ぶ。
.

.
   ※泰時邸: 義時存命の頃は泰時私邸と執権の執務場所を兼ねており
時政を追放して幕政の実権を握った元久二年(1205)閏7月以後に建てた小町邸敷地に新築したもの。
.
ここは代々の執権の公邸として使われ、元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めによって焼け落ち、滅亡した北條一族を弔うため後醍醐天皇の命令を受けて文和三年(1354)までに現在の宝戒寺(公式サイト)として完成した。
.
従って泰時時代の敷地などは推定の域を出ないが、北條邸の周辺から若宮大路にかけての約500m四方が約100年間の鎌倉幕府中枢を支えていたのは間違いない。
.
北條一族は滑川の東300mの山裾に菩提寺として建立した東勝寺に籠って最期の時を迎える。
.
   ※泰時被官: 平盛時・万年右馬允・安東光成・南條時員らは古参の郎党で、執権義時死没直後の貞応三年
(1224)6月28日以前から泰時に仕え、いずれも武勇と実務能力に長けている御内人。
.
右画像は宝戒寺を中心にした幕府敷地などの地図(範囲の枠はもちろん推定)。
訪問レポートの宝戒寺東勝廃寺跡も参照されたし。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月23日
.
吾妻鏡
.
.
夜になって駿河次郎三浦泰村の妻室(武蔵守北條泰時の妹)が早世、泰時は御軽服(軽い喪)に服して左衛門尉平盛綱の小町宅に移った。今夜、太白(金星)が辰星(水星)の軌道を犯した。隔てる距離は二尺(60cm)。
.

.
   ※泰時の妹: 吾妻鏡の寛喜二年(1230)7月26日に以下の記載がある。
   酉刻(18時前後)に武蔵守北條泰時の御息女(駿河次郎三浦泰村の妻室)が死去(25歳)。
   出産前の数十日間の容態が深刻で、かなり苦しんだ末の結果だった。

.
両日の文面通りを読めば、泰村に嫁した娘の死没後に後妻となった妹娘も死没したことになる。
10年後の宝治元年(1247)7月には泰村以下の三浦一族は宝治合戦で滅亡するのだが、嘉禎二年の時点では両者の対立はまだ深刻ではなかった。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月26日
.
吾妻鏡
.
.
去る18日の除目の聞書が到着、北條泰時は左京権大夫を兼任、大膳権大夫中原師員が主計頭に任じた。
.
また施薬院使の丹波良基朝臣は正四位上に昇叙し、和気清成朝臣に官位を越えた。これは将軍家(藤原頼経)が疱瘡を病んだ際に医術を駆使して治癒させた功績であり、その旨が末尾に書き加えてあった。
.
今日、北條弥四郎経時が小侍所別当職(将軍近習の長)を辞任した。
.

.
   ※和気清成: 建保四年(1216)に朝廷の侍医となり図書頭・典薬頭を歴任し嘉禄三年(1227)12月には後の
五代執権北條時頼の誕生に立ち会った。また第86代後堀河上皇を診察した経験もあり、丹波良基の一族とはライバル関係にある医師。
.
   ※聞書: 昇進会議の備忘録。叙位・叙任の際にその内容と理由を書き留めた書類。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
.
佐渡守後藤基綱が京都から参着し南都の騒動が鎮静化した事などを報告、これらの功績は偏に武蔵得業の隆円(興福寺住僧・10月5日を参照)の尽力による、と。この趣旨は去る10日に届いた六波羅探題の駿河守北條重時の書状にも載っている。
.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.
   ※:

.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.
   ※:

.
西暦1236年
.
87代 四条
.
嘉禎二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
整理中
.

.
   ※:

.


前年・文暦二年(1235)の吾妻鏡への吾妻鏡へ       翌年・嘉禎三年(1237)の吾妻鏡へ