嘉禎三年(1237)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。相模守北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。三浦義村(狩衣)が御剣を、相模式部大夫北條朝直が御弓箭を、佐原三郎左衛門尉家連が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は   相模五郎北條時直  本間式部丞元忠
   二の御馬は   佐原新左衛門尉胤家?  同佐原次郎左衛門尉?
   三の御馬は   信濃次郎左衛門尉二階堂行泰  同三郎左衛門尉二階堂行綱
   四の御馬は   駿河太郎三浦朝村(三浦義村の庶長子)  本間次郎左衛門尉信忠
   五の御馬は   相模六郎北條時定(時房の六男)  出羽左衛門尉中条家平
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   ※佐原家連: 義連の三男。承久の乱(1221)の勲功で紀伊国南部(みなべ)荘(現在の和歌山県みなべ町)の
地頭となり、更に義連を継いで紀伊国の守護に任じた。
みなべ町一帯は南高梅の主産地としても名高い。旅のレポート道の駅「みなべ」も参考に。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※本間氏: 出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は愛甲郡依知郷(現在の厚木市中依知・地図)。
国道246号と129号が交差する渋滞で悪名高い「金田交差点」のすぐ南側・妙純寺の一帯が本間氏の館跡と伝わり、見事な土塁が残っている。承久の乱(1221年)後に佐渡守護となった北條氏の被官として佐渡代官に任じた分家の子孫が地道な活動で勢力を蓄え、やがて出羽の富豪本間氏の系に続く。元忠・信忠は手元の系図では確認できないが同族だろう。
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   ※年令: 北條時房は60歳・ 北條泰時は53歳・ 北條朝時は44歳・ 北條政村は32歳・ 北條経時は12歳・
三浦義村は71歳ほど・ 三浦泰村は53歳・ 足利義氏は48歳・ 小山朝政は87歳・ 結城朝光は69歳・
四代将軍藤原頼経は19歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で6歳。(全て満年齢)
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀は御軽服のため孫の北條弥四郎経時が代行に任じた。丹後守足利泰氏が御剣を、左衛門大夫長井泰秀が御弓箭を、上野七郎左衛門尉結城朝広が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は   遠江式部丞北條光時  南条七郎左衛門尉時員(泰時の被官)
   二の御馬は   駿河四郎左衛門尉三浦家村(義村の六男)  同五郎三浦資村(義村の七男)
   三の御馬は   隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  同四郎左衛門尉二階堂行久
   四の御馬は   陸奥太郎北條實時  原左衛門四郎泰綱(工藤氏庶流?)
   五の御馬は   陸奥七郎北條業時(重時の四男)  平左衛門三郎盛時
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   ※御軽服: 軽い服喪を意味する。前年12月23日に三浦泰村に嫁した泰時の娘が死没している。
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   ※御内人重用: 新年二日間だけでも、北條氏の師弟と並んで本間・南条・平などの北條被官が登用されている。
この傾向は更に増え続け、最終的には御家人との対立が深まり、弘安八年(1285)の霜月騒動で幕府創設以来の御家人・安達一族の滅亡まで招いてしまう。
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御内人の重用は政敵の排除には有効だったが、権力構造の変化が招く弊害を予想しなかった愚かさの反証でもあった。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴、酉刻(18時前後)に雨、夜になって南で雷鳴あり。
今日、越後守北條朝時の差配による椀飯あり。御剣の献上は右馬権頭北條政村、御弓箭は城太郎安達義景、御行騰沓は筑後図書助時家。
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   一の御馬は   遠江式部丞北條光時   小井弖左衛門尉(工藤氏支流?)
   二の御馬は   上総介太郎   同次郎?
   三の御馬は   伊賀六郎左衛門尉光重(伊賀光宗の弟)   同太郎兵衛尉?
   四の御馬は   信濃三郎左衛門尉   隠岐四郎左衛門尉二階堂行久
   五の御馬は   佐原新左衛門尉胤家?   同次郎兵衛尉?
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   ※信濃三郎: 常識的には南部三郎光行だが嘉禎三年に死没との説もあり、確定できない。1165年生まれが
正しいとすれば76歳、可能性はある、と思うが...。
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   ※上総介太郎: 千葉成胤の嫡子で五代当主となった時胤か。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月8日
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吾妻鏡
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恒例の心経会(般若心経を訓む法会)があり、将軍家(藤原頼経)が出御。
今日、二所御奉幣についての指示があった。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月11日
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吾妻鏡
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晴。椀飯の後に御弓始めが催された。
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    射手
      一番   駿河次郎  佐原次郎兵衛尉
      二番   下河邊左衛門尉  伊賀太郎兵衛尉
      三番   本間次郎左衛門尉  廣河五郎
      四番   横溝六郎  原三郎
      五番   小笠原六郎  松岡四郎
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月17日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御束帯・御車で鶴岡八幡宮に御参り。御祓い役は安倍晴賢朝臣、補佐役は左衛門大夫長井泰秀。周防前司中原親實が御剣を取って太刀持ちの相模式部大夫北條朝直に渡し、佐々木八郎左衛門尉(?)が御調度(弓箭)を携えた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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1月22日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に雷鳴あり。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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2月8日
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吾妻鏡
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大夫判官藤原定員が上洛の途に就いた。 (底本により一日との記載あり)
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   ※藤原定員: 京都から頼経に従って下向した将軍家の近臣で将軍御所を奉行した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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2月15日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が二所詣に伴う精進潔斎を始めた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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2月21日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が二所詣に御進発。匠作(相模守北條時房)が従者を務め、その他にも多数が同行。護衛の随兵は兵四十余騎である。
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   ※二所詣: 記録に残っている頼経の二所詣は今回が最初。建保七年(1219)7月に下向して18年、二所詣を
行わなかったのは何故だろう?
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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2月26日
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吾妻鏡
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曇。二所詣から御帰還。往復する間は風雨に会うことはなかった。
今日、京都朝廷の使者が到着、摂政は九条道家から娘聟の近衛左府(左大臣近衛兼経・wiki)に移譲、(兼経は)去る10日に公卿10人を伴って天皇に御拝賀を行った。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月6日
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吾妻鏡
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夜になって小雨、雷鳴が数回あり。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月8日
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吾妻鏡
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晴、夜になって激しい雨。
今日、主計頭中原師員の差配により将軍家の近習および御身固め(加護を担当する)陰陽師の勤番を定めた。
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  一番   遠江式部丞北條光時  周防前司中原親實  前民部少輔三条親実(再三現れる幕臣、詳細は不明)
        隠岐式部大夫  上野弥四郎結城時光  平賀三郎兵衛尉
  二番   壱岐守三浦光村  摂津民部大夫狩野為光  武藤左衛門尉景頼(武藤資頼の孫)
        後藤佐渡左衛門尉基政(基綱の嫡子)  伊賀六郎左衛門尉光重(伊賀光宗の弟)
        伊佐右衛門尉四郎為家
  三番   相模六郎北條時定(時房の六男)  佐原太郎左衛門尉胤家  大江右衛門尉範親
        斎藤左衛門尉  本間式部丞元忠(1月1日を参照)  飯富源内長能
  御身固めの事
  一番   前大蔵権大夫安倍泰貞朝臣
  二番   陰陽権助安倍晴賢朝臣
  三番   前縫殿頭安倍文元朝臣
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   ※伊佐為家: 常陸国伊佐郡(茨城県筑西市)を本領とした常陸入道念西の四男。伊佐大進為宗・次郎為重・
三郎資綱の弟で、姉妹には頼朝との間に貞暁を産んだ大進局がいる。
長兄為宗は承久の乱の宇治川合戦で戦死したが、念西と下の息子らは奥州合戦の恩賞で得た伊達郡(現在の福島県伊達市一帯)に下って伊達氏の祖となった。
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   ※飯富長能: 元暦二年(1185)6月5日に源(飯富)季貞の記事が載っている。三好郡東みよし町足代(地図)の
一帯を継承した孫、だろうか。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月9日
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吾妻鏡
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豪雨が終日止まず、亥刻(22時前後)には洪水となった。
今夜は庚申を守るためもあって新御所で初めての和歌御会を催した。題は桜花盛久と花亭祝言、左兵衛督頼氏朝臣がこの題を献じた。左京兆北條泰時・左典厩足利義氏・相模三郎入道北條資時・快雅僧正・式部大夫入道伊賀光宗源式部大夫光行・佐渡守後藤基綱・城太郎安達義景・都筑右衛門尉経景(都筑郡(横浜市)の武士か)・波多野次郎朝定らが座に加わった。
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   ※庚申: 60種類ある干支の組み合わせの一つ。一晩中寝ないで過ごす習慣で元々は宗教性の強い行事だが、
平安末期以後は酒宴や和歌の会などの遊興で過ごす要素が強くなった。
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   ※左兵衛督頼氏: 一条高能の三男で嘉禎三年には従三位の公卿。北條時房の娘を正室に迎え、承久の乱勃発
の際は鎌倉に下向して情報を伝え(承久三年5月20日を参照)るなどにより関係を深めた。更に二人の息子にも北條氏が妻を迎えて鎌倉に出仕させている。今回の和歌御会の際に鎌倉に下向していた確証はないが、「左兵衛督頼氏」に該当する人物は彼のみなので掲載した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月10日
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吾妻鏡
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明王院(現在の公式サイト・地図)の東に丈六堂を新築せよとの沙汰があった。これは今年が故禅定二位家(政子)の十三回忌に当たり、その追善供養のためである。佐渡守後藤基綱・摂津民部大夫狩野為光が奉行に任じるよう仰せがあり、各々が陰陽師を招いて諮問し、泰貞・晴賢・文元(安倍氏)が勘文(答申書)を提出した。
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   ※丈六堂: 仏陀の身長は一丈六尺(約4.8m)。造像もそれが基準(等倍・半分・複数倍)となり、坐像の場合は
二分の一が基準となる。従ってこの丈六堂は高さ2.4mの坐像を本尊として祀る堂、だろう。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月21日
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吾妻鏡
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京都警衛(大番)について一作年正月から勤務の順番を決めていたにも拘らず不法の輩(御家人として認められていない者)が加わっており、匠作(北條時房)と左京兆(北條泰時)が改めて御家人を指定させた。
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   ※御家人以外: 北條被官を御家人と同様に扱って自ら秩序を乱している北條氏の側に基本的な問題がある。
例えば拝賀などの随兵について、建保六年(1218)12月26日に(右大将家(頼朝)の時代に定めた内容として)以下の記載がある。
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随兵は三つの徳を兼備した者が任じねばならぬ。譜代の勇士である事、弓馬に長けている事、容姿が優れている事の三徳である。譜代でも弓馬に長けていなければ警護を任せられないから事前の確認が要る。
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また少し古い承元三年(1209)11月14日には、
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「以前からの郎従の中から功績のある者を選び御家人に準じる扱いにしたい」と述べた北條義時の希望について、将軍実朝から厳しい仰せがあった。
「それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕政への関与を企てるようになるだろう。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。」、と。
       (更に詳細は当日の吾妻鏡で)
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ただしこの実朝の発言が事実なのか、或いは弘安八年(1285)11月に勃発した霜月合戦(御内人の平頼綱一派が安達一族ら譜代の御家人を滅ぼして幕政の実権を握ったクーデター)の戒めとして編纂者が記載したのか、その辺は疑う必要がある。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月25日
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吾妻鏡
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明王院の東に建てる丈六堂落慶供養の日取りなどについて沙汰が下された。陰陽師の勘文は6月3日か11日か15日か18日が向いているとされているが工事が間に合いそうもなく、日程を延期するようにとの仰せである。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月26日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷が行われた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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3月30日
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吾妻鏡
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御堂(丈六堂)供養の延期などについて評儀があった。改めて陰陽師に諮問し、親職・泰貞・廣経・晴賢・資俊らが連署して6月23日が良いとの勘文を献じた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月5日
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吾妻鏡
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二位家(政子)の菩提を弔って丈六堂の供養を催す事について、布施などについての評議を行った。
また鎌倉駐在の公卿や諸貴族への通知と在京の諸氏を招待する手配を指示し、伊賀六郎左衛門尉光重(伊賀光宗の弟)がこれを担当する。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月7日
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吾妻鏡
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晴、酉刻(18時前後)に地震あり。
大倉御堂(明王院東の丈六堂)の地曳き(縄張り)が始まり、主計頭中原師員と駿河前司三浦義村が現地に赴いて沙汰に任じた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月8日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に大倉御堂を建てる場所で安倍泰貞朝臣が土公祭(現代の地鎮祭に該当)を催した。陰陽師五人を当番制にして落慶供養まで交代で務めるよう政所に指示を下した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月11日
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吾妻鏡
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入道相模三郎北條資時(法名真佛・正しくは真昭)を評定衆に加えた。
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   ※参考までに: この時点の評定衆は、北條資時太田(三善)康連三善(矢野)倫重町野(三善)康俊
西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月17日
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吾妻鏡
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番匠大工大夫の長宗が(鎌倉の)求めに従って京都から鎌倉に到着した。
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   ※番匠: 修理職・木工寮に所属する木造建築の専門職で長宗の場合は散位の官人だが、鎌倉時代の初頭
から都市を中心にして組織に属さない散在工が増えて競争が激化し、請負権を認められた大工職が成立した。この職種の権限も譲渡や売買によって形骸化が進み、室町時代には戦国大名が両国の棟梁を支配下に組み込むようになっていく。
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   ※散位: 官職を持たず官位(父祖の官位などに従い、通常は場合は五位以下)のみを持つ者。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月19日
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吾妻鏡
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晴。大倉新御堂(丈六堂)の上棟式が行われた。
将軍家(藤原頼経)が御布衣・御車で臨席、近江四郎左衛門尉佐々木氏信が太刀持ちを・本間式部丞元忠が御調度(弓箭)を携え、修理大夫北條時房と左京権大夫北條泰時以下が供奉した。
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束帯の大工散位長宗が同じく束帯の引頭(進行役)を伴い加わり、式典後に禄物(褒美)などの下賜があった。
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    大工の分は束帯一揃い(平裹(袱紗・風呂敷)に包む)・被り物が五・十種の反物十・馬二疋(一疋鞍を置く)。
    引頭五人分は各々被物三五・物五・馬一疋(黒漆鞍を置く)。
    小工らの分は被り物一・三種類の反物が三・馬一疋(鞍を置く)。
    檜皮葺き大工の分は被り物が三・五種類の反物が五・馬一疋(鞍を置く)である。
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将軍家は還御の途中で左馬頭足利義氏朝臣邸に入御、御遊びの準備は良く整えてあり、酒宴の間には駿河次郎三浦泰村・壱岐守三浦光村の兄弟が相撲の勝負を決して人々を楽しませた。
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左京兆泰時は「左金吾(頼家)将軍の時代には新左衛門尉(和田常盛)と朝夷名三郎(和田義秀)の兄弟を呼んで取り組ませたが勝負がつかなかった。と語った。
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その後に引き出物(将軍家への献上品)あり。担当は以下。
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    御剣は丹後守北足利泰氏  御調度は足利五郎長氏
    御甲は駿河四郎左衛門尉三浦家村と同五郎左衛門尉資村  南廷(銀の板)は壱岐守三浦光村
    一の御馬(鴾毛、鞍を置く)は畠山三郎と仁木五郎   二の御馬(黒)は新田太郎政義と大平太郎
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夜に入って還御。随兵十騎が御車の前を進む。
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    駿河次郎三浦泰村  右衛門尉梶原景俊  掃部助河越泰重  左衛門尉宮内公景  小笠原六郎時長
    千葉八郎胤時  上野七郎左衛門尉結城朝広  近江四郎左衛門尉佐々木氏信  遠江式部大夫北條光時
    越後太郎北條親時
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   ※常盛と義秀: 正治二年(1200)9月2日に小坪の浜近くで組み合ったとの記録があり、泰時は当時18歳。
常盛は建暦三年(1213)の和田合戦に敗れて甲斐に逃れ、吾妻鏡の5月4日に坂東山償原別所で自殺した記事が載っている。共に戦った義秀の戦死は確認できず、由比ヶ浜から舟で安房国に逃れたなどの伝承が残っている。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月22日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に太陽が日蝕の様に赤くなった。
今日、将軍家(藤原頼経)が左京権大夫北條泰時邸に入御した。将軍家を迎えるために檜皮葺きの御所を新築してから初めての渡御である。接待の準備は良く整い、厳選した供奉人も華麗に装っている。
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  供奉人
右馬権頭北條政村  大夫将監北條経時  前民部少輔北條有時  遠江式部大夫北條光時
宮内少輔足利泰氏  陸奥太郎北條実時  遠江三郎北條時長  足利五郎長氏  左衛門大夫長井泰秀
主計頭中原師員  毛利蔵人季光  駿河前司三浦義村  佐渡前司後藤基綱  駿河次郎三浦泰村
壱岐守三浦光村  修理亮宇都宮泰綱  河越掃部助泰重  和泉前司天野政景
摂津民部大夫狩野為光  隠岐式部大夫  小山五郎左衛門尉長村  淡路四郎左衛門尉長沼時宗
上野七郎左衛門尉結城朝広  関左衛門尉政泰  佐渡帯刀左衛門尉後藤基政
宇佐美與一左衛門尉祐時  武藤左衛門尉景頼  加藤左衛門尉行景  伊東三郎左衛門尉祐綱
肥前四郎左衛門尉佐原光連  宮内左衛門尉公景  大見左衛門尉実景  大曽根兵衛尉長泰
近江四郎左衛門尉佐々木氏信  河津八郎左衛門尉尚景  和泉次郎左衛門尉天野景氏
宇都宮四郎左衛門尉頼業  出羽四郎左衛門尉中条光宗  信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
内藤七郎左衛門尉盛継  宗宮内左衛門尉  安積六郎左衛門尉祐長  豊後四郎左衛門尉島津忠綱
弥次郎左衛門尉親盛   梶原右衛門尉景俊  和泉新左衛門尉  壱岐小三郎左衛門尉時清
駿河四郎左衛門尉三浦家村  三浦又太郎左衛門尉氏村
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寝殿の南面で酒宴を催し、夜になって左京兆泰時の孫(字を戎寿、故修理亮北條時氏の二男(10歳)・後の五代執権時頼)が将軍家の御前で元服式を行った。最初に城太郎安達義景と大曾禰兵衛尉長泰が元服の道具を運び、次に駿河前司三浦義村が前髪に鋏を入れた。次に御加冠、続いて泰時が将軍家に御引出物を献じた。
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  役人(運び役)
     御剣は右馬権頭北條政村  御調度(弓箭)は北條大夫将監北條経時  御行騰は左衛門尉小山五郎長村
     御甲は駿河次郎三浦泰村と同四郎左衛門尉家村  南廷(銀の板)は左衛門大夫長井泰秀
     一の御馬(黒鹿毛、鞍置き)は駿河五郎左衛門尉北條資村と同八郎胤村
     二の御馬(瓦毛)は相模六郎北條時定と左衛門尉平三郎盛時
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  次に泰時から(加冠役を務めた)駿河前司三浦義村に御引出物が贈られた。
     御劔は佐渡前司後藤基綱  御馬(栗毛糟毛、鞍置き)は南條七郎左衛門尉時貞と同兵衛次郎経忠
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  次に将軍から元服した若者(五郎時頼と号す)に御引出物が下賜された。
     御剣は宮内少輔泰氏  御調度は遠江式部大夫北條光時
     御甲は上野七郎左衛門尉小山朝度と同三郎重光
     御馬(黒、鞍置き)は近江四郎左衛門尉佐々木氏信と同左衛門太郎長綱
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   ※北條時氏: 泰時の後継者として期待されたが寛喜二年(1230)6月18日に早世、異母弟の時実も嘉禄三年
(1227)の同日に家人の手に掛かり殺害されている。仁治二年(1241)には三男の公義か産まれるが幼いため直系の後継候補が不在となり、寛喜二年(1230)6月の泰時死没の際には時氏の長男経時(18歳)が四代執権となるのだが...
経時もまた寛元四年(1246)閏4月に22歳で早世。異母弟の時頼が五代執権となる。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月23日
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吾妻鏡
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晴。日中に将軍家(藤原頼経)は泰時邸から還御、右京兆北條泰時は再び御引出物を献じた。
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今日、午の二点(11時半)から酉の三点(17時)まで太陽の色が日蝕を思わせる暗さになった。とても驚いた将軍家は天文の担当を呼び、寝殿の中庭で直接の質問をした。
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泰貞・晴賢・廣経・晴貞・資俊らは「雲や霞が懸かっている時に西山に入ろうとする太陽の色が赤く見える例があり、変異とする必要はありませんが旱魃の予兆とも思えます。」と語り、宣賢は「春が無かった年もあり、霞が無かった春もありましたから、霞に見えるのであれば毎年起きる変事でしょう。建久の時代には薄い日蝕と判断して仁王会の呪願文に載せられています。」と語った。 同夜の丑刻(深夜0時)には月光が黄色に見えた。
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   ※百錬抄: 石清水八幡宮へ行幸、皇后も輿に同乗し摂政(九条道家)は騎馬。
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   ※行幸: 天皇は6歳の四条、女御は九条彦子(道家の孫娘)だが入内は仁治二年(1241)12月だから、現在は
皇后が存在しない。太上天皇(上皇)の後堀河は3年前の天福二年(1234)8月に崩御しているから「行幸」できるのは四条だけだが...すると皇后って誰だよ?
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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4月24日
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吾妻鏡
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晴。昨日の日光のについて、安倍親職朝臣が「薄い日蝕である」との勘文(諮問に対する答申)を提出した。
(一方で)天変ではないと主張する者も多数あり。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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5月15日
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吾妻鏡
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御所で占いを行った。これは春(2月8日)上洛した大夫判官の藤原定員(将軍家の近臣)が鎌倉に戻るのは何日かを知るためで、晴賢・泰貞・資俊らは「今月の18日か19日」、知輔は「今月の16日か17日」と申し述べた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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5月19日
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吾妻鏡
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藤原定員が京都から帰参した。先月22日から24日の太陽の色は洛中でも怪しまれていた。23日は晴れていたが太陽の色は赤かった。石清水八幡宮行幸のため特に指示はなく、翌日に天文担当の季尚・良光・業経が天変であるとの報告を奏上した。以上が定員から将軍家への報告である。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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5月29日
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吾妻鏡
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晴。先月23日の太陽と月が共に赤や黄だった件について、朝廷陰陽寮頭の惟範朝臣から「薄い日蝕である」との報告が届き、宣賢の言葉がこれに符合した。これによって主計頭中原師員の奉行として日曜祭を催すよう仰せがあり、他には祈祷の指示は出されなかった。
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安倍季尚朝臣は「霞に反射している太陽の色が赤か黄色なのは当然だ。建久年間に資元や晴光が「薄い日食である」と言っているのに安倍季弘朝臣は今でも「変異ではない」と主張している。」と語った。
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   ※日曜祭: 九曜(太陽・月・火星・水星・木製・金星・土星・月の昇交点・降交点(wiki))に関わる変異に対応する
陰陽道の九曜祭(星祭)のひとつ。日蝕・月蝕の際には日曜祭・月曜祭を行う。
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   ※陰陽師: 安倍晴明の「安倍と阿部」の区別が面倒なので全て「安倍」に統一しているのだが、それはさておき。
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吾妻鏡の元暦元年(1184)8月20日に「義仲の祈祷師・掃部頭安倍季弘朝臣(陰陽師安倍晴明の子孫で安倍泰親(wiki)の息子)の官職廃止を朝廷に申し入れた。」との記事があり、更に9月28日には「去る五日に季弘朝臣を解官したとの通知が院から届いたと義経が書状で報告」と載っている。
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この「掃部頭季弘朝臣」と、季尚朝臣が悪口を言っている季弘朝臣が同一人物が否かを証明する史料は見当たらないが、阿部氏系図では晴明から五代目の泰親-季弘-孝重-季尚-業氏と続いているから面白い。史料を文字通りに読めば、季尚は祖父季弘の悪口を言ってる事になるからね。
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京都で活躍の場を得られず、新天地を求めて鎌倉に流れ着いた一族が主導権を争って足を引っ張り合っているのかな...と考えると、少し侘しい。
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ちなみに、季弘が泰親50歳の時に産まれたとすれば嘉禎三年には87歳。あり得るか、無理か。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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前遠江守佐原盛連の譲渡により、矢部禅尼(法名禅阿)を和泉国吉井郷(現在の岸和田市吉井町・地図)の地頭に任じる御下文が発行され、北條五郎時頼(孫、10歳)がこれを三浦矢部郷地図)の(禅尼)別宅に届けた。
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矢部禅尼は駿河前司三浦義村の娘で北條泰時に嫁して故修理亮北條時氏を産み、後に離縁して佐原盛連(義連の嫡子)に再嫁し光盛・盛時・時連らを産んでいる。
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   ※三浦矢部郷: 三浦一族の聖域のような存在で、義明廟所のある満昌寺・佐原氏の菩提寺万願寺・義明の父
義継と祖父為継と曽祖父為通の五輪塔(年代的に信憑性は乏しい)がある清雲寺・和田義盛が建立した廃寺跡・もちろん衣笠城址も含めて史跡が点在している。三浦半島も散々歩いているのだが、矢部郷には足を踏み入れていないのが残念。
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   ※離縁と再嫁: 泰時が元服した建久五年(1194)2月2日、幼童の金剛を頼時と命名した烏帽子親の将軍頼朝
三浦介義澄を座右に召し「この若者を婿とせよ」と命じ、義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りにいたします。」と答えた。
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特に「頼」の字に愛着のなかったらしい幼名・金剛は後に頼時を泰時に改名するのだが、それは兎も角として、夫婦仲に関して特筆はなく、離縁の理由は謎とされている。
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再嫁した盛連は乱暴者で酒癖が悪く、大番役か六波羅勤務で在京中の乱行が重なり天福元年(1233)5月に六波羅の武士に追討されている。後家になった彼女は「矢部郷に帰った」、つまり佐原一族の本領佐原郷(矢部郷の東に隣接)近辺の婚家に戻ったと考えて良い、と思う。
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盛連との間に産まれた光盛・盛時・時連らは宝治合戦(1247)では北條氏に味方し、母の実家である三浦一族を滅ぼす側に与している。この時の矢部禅尼は満60歳だから息子らの去就には大きな影響力を持っていたのだろう。ましてや矢部禅尼の息子たちは、泰時の後継として期待されつつ早世した北條時氏とは異父兄弟の関係にある。
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宝治合戦で滅亡した三浦宗家は盛時が継承して三浦介となった。矢部禅尼の死没は康元元年(1256)4月だから彼女は盛時が三浦家棟梁になったのを見届けたことになるが、その後の三浦氏が御家人の中で高い家格を取り戻すことはなく、幕政にも殆ど関与できなかったらしい。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月11日
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吾妻鏡
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晴。二位家(政子)の十三回忌追善供養のため大慈寺に於いて一切経の法会が催された。導師を務めたのは助僧正厳海、題名僧(読経に唱和する僧)は60人、舞楽の奉納も行われた。
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施主は左京権大夫北條泰時、将軍家藤原頼経も結縁のため臨席した。
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   ※大慈寺: 建保二年(1214)7月に前将軍実朝が落慶供養を行った
巨刹で別称を大倉御堂、開山和尚は栄西が務めている。
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広大な敷地に七堂伽藍を備えていたと伝わっており、実質的には頼経の建立した明王院(公式サイト)と一体化に近かったらしい(右側・鳥瞰図(クリック→ 拡大表示)を参照)。北條氏の庇護を受けて繁栄したが鎌倉幕府の滅亡後に衰退し、南北朝時代末期に廃寺となったと考えられている。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月16日
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吾妻鏡
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終日激しい雨のため月蝕は視認できず。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月20日
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吾妻鏡
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京都大番役の勤怠については管理を厳密にして報告するよう六波羅探題と諸国の守護人に命令を下した。
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   ※大番役: 動員の命令権は守護に、管理義務は六波羅にある。平安末期の京都大番役は3年間、幕府成立後
頼朝が半年に短縮し、鎌倉時代中期には3ヶ月となった。御家人の責務としては鎌倉大番役もあるが、期間など詳細は確認できない。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月22日
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吾妻鏡
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激しい雨。新丈六堂の落慶供養を明日に控えて魔物などによる支障を避けるため五壇法の祈祷を行った。
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  鎮壇供は 助僧正厳海
  五壇法は 中壇を安祥寺僧正良瑜  降三世を信濃法印道禅  軍茶利を大夫法印賢長
大威徳を佐僧都寛耀  金剛夜叉を民部卿僧都尊厳
  外典    大歳八神祭を知輔  堂鎮を晴賢  大土公を泰貞  大将軍を国継  王相を廣資  小土公を文親
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   ※五壇法: 五大明王(不動明王(中壇)・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)を個別の壇に祀り祈祷する密教の
修法で、鎮壇供はそれぞれの壇を鎮める儀式。外典は仏教以外、この場合は陰陽道の修法を差す。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月23日
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吾妻鏡
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降雨滂沱(土砂降り)。
今日大慈寺郭内に新造した丈六堂の落慶供養、将軍家藤原頼経が御束帯で臨席された。
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  行列
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  先陣の随兵十騎
     左衛門尉小山五郎長村  新左衛門尉佐原光盛  河越掃部助泰重  佐竹八郎助義
     筑後左衛門尉知定  和泉五郎左衛門尉天野政泰  上野七郎左衛門尉結城朝広
     近江四郎左衛門尉佐々木氏信  相模六郎北條時定  遠江式部大夫北條光時
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  御車
     駿河五郎左衛門尉三浦資村  同八郎左衛門尉三浦胤村  同太郎三浦朝村
     狩野五郎左衛門尉為広  長内左衛門尉  那須左衛門太郎
     小河三郎兵衛尉直行  本間次郎左衛門尉信忠
         以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に控えている。
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  御調度懸け  佐々木八郎左衛門尉信朝
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  御後(狩衣)
     右馬権頭北條政村  左近大夫将監北條経時  駿河守北條有時北條有時
     宮内少輔足利泰氏  陸奥太郎北條實時  駿河前司三浦義村
     佐渡前司後藤基綱  出羽守二階堂行義  淡路前司長沼宗政
     壱岐守三浦光村  肥後守狩野為佐  修理亮宇都宮泰綱
     和泉前司天野政景  大和守伊東祐時  筑後図書助時家
     大友大炊助親秀  薬師寺左衛門尉朝村  淡路四郎左衛門尉長沼時宗
     駿河四郎左衛門尉三浦家村  左衛門尉宇都宮四郎頼業  佐渡次郎左衛門尉後藤基親
     三郎左衛門尉伊東祐綱  右衛門尉梶原景俊  壱岐小三郎右衛門尉時清
     笠間左衛門尉時朝  新左衛門尉宇都宮朝基  関左衛門尉政泰
     信濃三郎左衛門尉二階堂行綱  左衛門尉伊賀三郎光泰  弥次郎左衛門尉親盛
     河津八郎左衛門尉尚景  籐内左衛門尉宇佐美祐泰  和泉次郎右衛門尉景氏
     出羽四郎左衛門尉中条光宗  平内左衛門尉長尾景氏  押垂左衛門尉時基
     大曽根兵衛尉長泰
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  後陣随兵十騎
     足利五郎長氏  越後太郎北條親時  城太郎安達景盛  宇都宮藤四郎行綱
     佐渡帯刀左衛門尉後藤基政  隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清  千葉八郎胤時
     左衛門尉大須賀胤秀  兵衛尉佐原六郎時連  武田五郎次郎信時
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  検非違使
     籐内大夫判官藤原定員  近江大夫判官佐々木泰綱
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  最末
     修理大夫北條時房  左京権大夫北條泰時
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将軍臨席の後に供養の儀、七僧による法要である。導師は南都東北院の僧正圓玄、呪願(施主の代りに願いを唱える)は助僧正厳海。導師の布施は三十種二十包と法服・横皮・香炉筥・童装束など。他に大相国禅閤(西園寺公経)より被物百重・鞍馬十疋。加えて銀塗りの檜扇に砂金百両。また御剣などは別に送り届けた。
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夜になって儀式は終了し、将軍家が還御された。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月25日
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吾妻鏡
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社寺および国司や領家(荘園領主)からの訴訟は関東の(御成敗)式目を基準にした判断を禁じる旨を決定した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月26日
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吾妻鏡
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御所の御持仏堂で法華八講が始まった。講じる僧は16人である。
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   ※法華八講: 法華経八巻を八座に分け朝夕に一座づつ四日間を続けて
講じる法会。中国で行ったのが最初とされる。
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日本では延暦十五年(796)に奈良石淵寺(岩淵寺)の勤操(伝・空海が剃髪した時の導師)が法華経を四日間講義したのが最初らしい。
石淵寺は奈良市南東部(地図・更に東の岩井川ダム近くとの説あり)にあった大寺で、現在の白毫寺(wiki)は千ヶ所もあったと伝わる石淵寺支院の一つだった。
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また新薬師寺(公式サイト)の十二神将像は、石淵寺が東大寺の天地院と争って焼かれた際に新薬師寺に遷されたもの。石淵寺が土砂崩れで流出した際に回収したとの説もあるが、塑像(木材などを芯にした粘土製で焼成していない)だから、これは有り得ないだろう。奈良の歴史は果てしなく奥深いね。
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右画像は新薬師寺本堂の十二神将像(国宝)。本尊の薬師如来(国宝)を中心に円陣を組んで取り巻いているが石淵寺にあった頃の配置は不明、違う姿だろうと思う。
十二神将のひとつ・伐折羅(ばせら)大将像の頭部近接画像はこちら、白毫寺から石淵寺跡(推定地)にかけての 鳥瞰画像も参考に。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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6月30日
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百錬抄
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五畿七道の国司および民部卿藤原朝臣の郎等らに命じて山門の悪徒を捕縛交流せよとの宣旨が下された。
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   ※五畿七道: 五畿(畿内)は大和・山城・摂津・河内・和泉の五ヶ国、七道は東海道・東山道・北陸道・山陽道・
山陰道・南海道・西海道の七エリア、要するに朝廷の支配が及ぶ全国。
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   ※民部卿藤原朝臣: 民部卿の官職に任じている鎌倉将軍頼経を差す。
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   ※山門: 比叡山麓の三井寺(園城寺)を寺門、山上の延暦寺を山門と呼ぶ。共に天台宗。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大江左近次郎久康からの申請により、彼に神楽の歌曲を伝授するよう御教書(命令書)を左近将監中原景康に送った。鶴岡八幡宮で御神楽を演じさせる目的である。
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   ※中原景康: 源頼朝に招かれ、建久二年(1191)11月に3月の火災から復興した鶴岡八幡宮で妙技を披露
した多好方の系累の養子らしい。好方の系図は多好方-多忠節-多景節-多忠久と続くのだが、陰陽道と同様に権益をめぐって陰惨な闘争があったと伝わっている。
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また頼朝没後の正治元年(1199)11月8日には「頼朝に下賜された飛騨国荒木郷を息子の多忠節に継承させる件が認可」との記事が載っている。多景節は鶴岡八幡宮の楽人筆頭として鎌倉に定住しており、星川の姓を得た(現在の保土ヶ谷市星川説あり)とも伝わるから、2日後の記事を考えると多景節(星川)=中原景康の可能性がある、という事か。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月10日
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吾妻鏡
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神楽曲を久康に伝授する件について景康が領掌(承諾)の請文(履行を約した文書)を提出した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月11日
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吾妻鏡
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晴。二位家(政子)の十三回忌。南小御堂(勝長寿院の域内)で法要が催された。導師は東北院僧正圓玄、将軍家 (藤原頼経)は出御せず匠作(北條時房)と右京兆(北條泰時)が参席した。大夫判官加藤景朝(茶染の狩衣)が奉行として御堂西の外廊下に控えた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月19日
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吾妻鏡
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北條五郎時頼(10歳)が来月の放生会で初めての流鏑馬射手を務める事になり、今日初めて鶴岡八幡宮馬場での練習を行なった。(祖父の)武蔵守北條泰時が手助けのため馬場の建物を訪れ、駿河前司三浦義村らの宿老も集まって左衛門尉海野幸氏を招いて言葉を交わした。彼は幕府に仕えた古老の一人であり、幕下将軍(頼朝)の時代には弓の名手八人の一人とされ、故実にも通じた人物である。
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泰時は「弓の技術や作法に間違いがあれば指摘して欲しい」と言葉を掛け、幸氏は感心して「とても見事であり、これは天性の才能でしょう」と答えた。泰時は更に指摘を頼み、幸氏は強いて言えばとして答えた。
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矢を番える時に弓を一文字(水平)に構える手法があり、故右大将軍家(頼朝)の御前で弓箭の談議を重ねた際に居合わせた者は皆それに同意しました。しかし佐藤兵衛尉憲清入道(西行法師)は「弓は拳を立てて垂直に持つべきである。流鏑馬で矢を番える時に一文字に持つのは礼を失するものだ。」と語っていました。
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考えてみるとこれは道理に合っており、一文字に構えては(縦に構え直して)射るのが遅くなりますから、弓の上部分を少し挙げて滑らかな動きを心掛けるのが必要です。この話を聞いた時には下河邊行平工藤景光の両庄司、和田義盛望月重隆藤澤清親・諏方大夫盛隆(諏訪(金刺)盛澄の間違いか、と思う)・愛甲三郎季隆らも感心して納得していました。従って、この部分は直すべきであります。
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三浦義村は「この話は聞いた記憶があります。面白い話だったのを思い出しました。」と語り、武州泰時も感心して「今後の弓はその方法で構えよう。」と納得した。その後も弓馬に関する話題が続き、義村は使者を宿所に派遣して息子らを呼び、話を聞く輪に加わらせた。
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流鏑馬や笠懸および作物(その他の射芸)の故実、草鹿(的の一種)の知識などが様々に続き、日暮れになってから解散となった。
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   ※海野幸氏: 初めて吾妻鏡に現れたのは元暦元年(1184)4月21日、
木曽義仲の遺児 清水冠者義高の鎌倉脱出を助けて身代わりに留まったのが最初。43年の前だが当時は11歳だから今年64歳、流鏑馬などの出場機会は多かったが、古老と言うほどの年齢ではない。
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幸氏の晩年は記録が乏しく、建長二年(1250)3月の吾妻鏡に閑院殿建造の作業負担の一人として載っている海野左衛門入道(たぶん幸氏、80歳間近)が最後。海野氏の子孫は天文十年(1541)5月に武田信玄に滅ぼされるが支流の真田氏が生き延び、徳川家康と戦うことになる。
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右画像は信濃海野宿近くの海野氏菩提寺・瑞泉山興善寺。
画像をクリック→義仲挙兵の地・白鳥神社と海野宿(コメント未完成)へ。
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   ※西行法師: 文治二年(1186)8月15日に突然鎌倉を訪ね一泊して頼朝と多くの談話を交わしている。当時は
13才だった幸氏は陪席したか、談話を書き留めた藤原俊兼を介して話の内容を聞いたのだろう。
幸氏が上げた名前はいずれも弓馬の名手として鎌倉時代初期を飾った人物だ。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月25日
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吾妻鏡
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北條左親衛北條時頼・満10歳)が潛かに(私的な行動として)藍澤に赴き初めて鹿を射止めた。それを祝って箭口餅を祀り、一口は三浦泰村、二口は 小山長村、三口は下河邊行光がこれを食べた。
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   ※左親衛: 近衛府四等官の判官で従六位上に相当、左近将監に同じ。史料では「9月1日に時頼は左兵衛少尉
に任官」とある(吾妻鏡には記載なし)。
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   ※藍澤: 吾妻鏡の承久三年(1221)7月14日に、「承久の乱に関与した中納言宗行は護送した小山朝長により
藍澤原で斬首された。享年47歳、読経を続けながら最期の時を迎えた。」との記載がある。
藍澤原は狩場として吾妻鏡に数回の記載あり、詳細は藤原宗行の墓所 五卿神社で。
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   ※箭口餅: 初めての獲物、とくに少年が初めて鹿などの獲物を射止めた時に三色重ね(黒・赤・白)の餅を神に
捧げ、同行者に食べさせる。曽我兄弟が仇討を決行する直前の建久四年(1193)5月16日には富士野の巻狩りで頼家が初めて鹿を射止め、通例に従って矢口(箭口)餅を献じて通例の手順で儀礼を行っている。「とらや」のサイトで復元した画像が確認できる。
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   ※下河邊氏: 行光が系図のどこに位置するのか確認できないが、当時の弓馬催事を差配していた三浦泰村との
関係は良いとは言えず、(1241)には下河辺行光と三浦泰村が駿河国でトラブルを起こしている。宝治合戦に向けての前哨戦だろうか。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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7月29日
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吾妻鏡
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晴。(将軍家藤原頼経)の明年御上洛が決定した。
今日、京都朝廷の使者が鎌倉に到着。去る17日に鷹司院(近衛長子)が御入内、准母(共にwiki)の儀である、と。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月4日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に大地震。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月7日
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吾妻鏡
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明春の将軍家御上洛について評議あり。建久の例に倣って六波羅に滞在用の屋敷を新造し、費用負担を諸国に割り当てる明細を定めた。 また今日、京都朝廷の飛脚が到着した。去る2日に一品宮(四条天皇の妹、六歳)の薨御を伝え、また先月27日に摂政九条道家が上表(辞表)を提出した、と。
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   ※建久の例: 建久元年(1190)10月の頼朝上洛には六波羅に邸内に新築した。吾妻鏡の同年9月21日には
「京都での宿館は故池大納言(平頼盛)の屋敷跡に決定し、既に工事を始めたとの報告が一品房昌寛から届いた。」との記載があり、建久六年(1195)の上洛にも同所を利用している。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月13日
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着して報告。去る5日に四天王寺執行(実務担当の長)の一族上座の覚順が200余人を率いて天王寺に立て籠もり渡辺党と合戦、覚順以下の93人が討ち取られ、残党も各所で生け捕られた。放火された金堂などの火も消し止めた。
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   ※天王寺の合戦: 8月5日の百錬抄には「合戦のため寺中に死骸が充満し穢が洛中に広がった。前執行の明順
が死去し、部下の悪僧百余人が寺に乱入して放火を企てているとの噂があったため渡辺党が攻め込み悪徒を討伐した。」とある。執行の利権を巡る争いか。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家(藤原頼経)の御参宮もあり、午刻(正午前後)に安倍晴賢の御身固め(厄払い)により出御。備中蔵人が牛車を寄せ、前民部少輔北條有時が御剣役として庭に控えた。
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直垂を着し帯剣した六位の武士15人が階段の西に控えた。その時に駿河前司三浦義村「将軍出御の際に帯剣の武士が従うのは、承久元年(1219)正月に八幡宮宮寺で事件(公暁による実朝暗殺)が起きて以来の警備だが、今日はその役目を務める勇士の数が少ない。追加すべきでしょう。」と申し出た。
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その言葉に従って三浦次郎泰村・四男家村・五男資村・六男胤村らが装いを直垂・腹巻に改めて警備に加わったが義村の傍若無人な振る舞いは人々を驚かせた。
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その後に将軍家は放生会に出御し、法会と舞楽の奉納は通例の通りに行われた。還御の後、明月の夜を迎えて和歌の御会を催した。右馬助北條政村・相模三郎入道北條資時・主計頭中原師員・加賀前司町野康俊・大夫判官藤原定員(頼経の側近)・式部大夫入道伊賀光宗・城太郎安達義景が参席し、続けて陰陽師の安倍廣資も加わった。
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   ※傍若無人: 三浦氏の言動だから傍若無人、北條氏の言動なら先見の明。吾妻鏡のダブル・スタンダード。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が御参宮。大夫判官加藤景朝(束帯・正装)と伊豆判官頼定(布衣・狩衣)が供奉した。
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馬場の神事では北條五郎時頼が流鏑馬の射手を務め、佐渡前司後藤基綱ら五位の武士が的立て役に任じた。河津八郎左衛門尉尚景・佐々木七郎左衛門尉氏綱ら衛府(兵衛府の武官)が十列に並んで十番の競馬を行い、各々の装いは華美を極めた。将軍家に御願い事があって特に華麗な催しとなった。
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   ※北條時頼: この時期から吾妻鏡に名前が現れる例が増え、その割に兄の経時(13歳)の頻度が少ない。
経時は寛元四年(1246)閏4月1日に22歳で病没するが、3月23日の深夜に重大会議が開かれて「経時の発案により」息子が幼いため19歳の弟時頼の執権職継承を決めた事になっている。
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吾妻鏡がこのように書く場合って、事実と逆の例が多いんだよね...時頼が経時の系を排除したと考える説も多く、当然ながら吾妻鏡の意図的な曲筆も疑われる。
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   ※河津尚景: 筑前河津氏の系譜に拠れば、伊東祐親の次男祐清から七代の子孫河津重貞が九代執権の北條
貞時から糟屋郡尾中庄(福岡県篠粟町・地図)を得て筑前に下り宗像郡西郷庄(宗像市西郷・地図)に土着した、とされる。眉唾だと思うけど、眉唾と決め付ける根拠もない。
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祐清に子がいた記録がないし伊東氏の通字が「祐」なのを考えると無条件に信用はできないが...七代目がいたのなら、祐清は頼朝と同年代だから、嘉禎三年前後に三代目か四代目がいても不思議ではない理屈にはなる。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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8月18日
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吾妻鏡
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激しい雨と雷鳴。将軍家(藤原頼経)は山荘(不明)に遊行の予定だったが、雨のため延期となった。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月11日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月15日
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吾妻鏡
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晴。大夫判官の藤原定員(頼経の近臣)が使節として上洛の途に就いた。これ太閤九条道家が来月に御物詣(熊野詣)をされる費用と物品を届けるのが目的である。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月16日
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吾妻鏡
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信濃国諏方社(諏訪大社・公式サイト)が明年5月に催す神事について、幕府の対応の指示が下された。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月23日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に地震。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月24日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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9月29日
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吾妻鏡
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卯刻(朝6時前後)に光る物が現れた。流星と思われる。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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10月4日
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吾妻鏡
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天変に対応して祈祷が催された。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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10月9日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に白雲が天空を渡って行った。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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10月16日
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吾妻鏡
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信濃国善光寺(公式サイト)五重塔の落慶供養あり。浄定聖人の総指揮で知識(徳の高い僧)の献納を勧進した。
導師は寺の大貳律師円仙、呪願(祈願の代読)は斎円能登阿闍梨。この供養法会に出席するため去る5日に別当勝舜が本寺(三井寺)から下着していた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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10月19日
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吾妻鏡
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駿河掃部権助三浦泰村が御所で盃酒(酒席)を献上。匠作(北條時房)と京兆(北條泰時)以下多勢が集まった。
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   ※掃部権助: 今までは駿河次郎だった泰村が掃部権助、つまり官職を得た謝礼の酒席らしい。
当年53歳(承久記では33歳だが)としては遅い官職だと思う。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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10月25日
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吾妻鏡
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(9月16日に上洛した)大夫判官藤原定員が鎌倉に帰参した。去る2日に大殿(九条良経)・准后(西園寺公経の娘で九条道家の正室掄子准三后)・太政入道(西園寺公経)が天王寺(公式サイト)に参詣し万燈会供養を催した。
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   ※史料: 百錬抄にも同様の記載あり。京を深夜に出発しお忍びで参詣した、と。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月1日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が二所詣を前にして精進潔斎を始められた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月7日
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吾妻鏡
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小雨。辰刻(8時前後)に将軍家(藤原頼経)が二所詣に出発。丑刻(深夜2時前後)に豪雨による洪水があり、稲瀬河沿いの民屋数十余戸が流失し下女二人が水に拐われた。
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   ※稲瀬河: 長谷の山から由比ヶ浜に流れ込む流程の短い川。
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治承四年(1180)鎌倉入りした頼朝に合流する政子がここで日取りを選び、寿永三年(1183)には平家追討に出陣する範頼の軍勢を桟敷から頼朝が見送っている。
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そして幕府が滅亡する150年後の元弘三年(1333)、稲村古道を強行突破して由比ヶ浜まで進出した新田勢の大将大舘宗氏主従が本間山城左衛門隊の斬り込みを受けて壮烈な戦死を遂げ...幾多の歴史を見守った河辺には鎌倉青年団による石碑が建っている。
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更に詳細は画像をクリックして稲瀬河河口の碑へ。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月8日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が筥根(箱根神社、サイト内リンク・別窓)に御奉幣し御経献納による供養を行った。
導師はこのために鎌倉から同行させた大納言律師隆弁
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   ※大納言律師隆弁: 鎌倉に招かれていた天台宗の高僧。更に詳細は吾妻鏡の前年6月28日で。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月9日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が三嶋大社へ。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月11日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が伊豆山権現へ。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月12日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が二所詣でから還御された。
西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月16日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に月が鎮星(土星)の軌道を犯した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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11月17日
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吾妻鏡
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駿河式部丞三浦泰村が奥州産の馬五疋を御所に献じた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月1日
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吾妻鏡
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雨により日蝕は確認できず。昨日は晴れたが夜半から曇りとなり丑寅刻(深夜2時頃)から雨になった。
蝕が始まる時間帯には愛染明王と金剛明王を仏法通り五指量で造像した。主計頭中原師員による差配である。
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   ※五指量: 発祥は東寺に伝わる秘伝の印の結び方による指の長さで二寸五分(約8.3cm)。
   ※百錬抄の記載: 昨夜から雨で日蝕の確認はできなかった。定豪僧正による祈祷の効果だろうか。
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鶴岡八幡宮寺別当だった定豪は前年11月に東寺筆頭に転任、今年には四条天皇の護持僧に昇り詰めている。実に権力欲の旺盛な老僧だった。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月2日
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吾妻鏡
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昨日の日蝕の際に祈祷勤行に任じた僧三人を御所に呼び、各々に銀造りの剣一振りを与えた。伊勢守藤原定員がこれを差配した。
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   ※藤原定員: 9月15日に鎌倉を発ち九条道家への使節を務めた褒賞として大夫判官から伊勢守に昇任した。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月10日
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吾妻鏡
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日蝕や月蝕など天変の連続に対応し、御所に於いて属星御祭が行われる。将軍家(藤原頼経)が祭祀の庭に出御されるため、祈祷を担当する安倍晴賢が参籠してそれに備える。右大将家(頼朝)と右府将軍(実朝)の時代に倣って重軽服(全ての喪中にある)人々は参加してはならない、との仰せである。
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   ※属星祭: 生年の干支を当て嵌めた北斗七星の星が運命を支配すると考える、その星の供養。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月12日
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吾妻鏡
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晴。今日右衛門大夫金窪行親に命じて御所の巽(南東)角を掃除させた。属星祭を行なうためで、亥刻(22時前後)に安倍晴賢朝臣が清掃した後に将軍家(藤原頼経)が束帯姿で出御し、内蔵権頭資親が御祓いに任じた。
三十夜に亘って祭祀を行ない、毎回出御されると予定である。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月13日
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吾妻鏡
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晴。左京兆北條泰時の室が母親の追善供養のため山内にある墳墓のそばに堂を建立した。
今日、荘厳房律師行勇を導師として落慶供養があり、匠作北條時房・遠江守北條朝時が聴聞に参席した。
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   ※泰時の室: 先妻の矢部禅尼とは1210年頃に離縁し、武蔵七党の
丹党・安保氏の二代棟梁安保実員の娘が後妻に入った。
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   ※山内の堂: 現在の大船駅に近い古刹・粟船山常楽寺を差す。原型は
泰時の室が建てた粟船御堂と呼ばれる小規模な寺で、創建当初は密教か浄土宗だったらしいが後に鎌倉に入った宋の禅僧・蘭渓道隆が禅宗に改めた。
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1kmほど西を流れる柏尾川の標高は10m前後、鎌倉時代の海水面は現在より数m高く、大船付近からは船で粟を積み出していたのが山号「粟船」の元になった。「大船」も(時代は違うかも知れないが)同じ由来なんだろうね。
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建長寺の創建後も「常楽は建長の根本なり」とされた鎌倉で最も古い禅宗寺院であり、泰時や建長寺住職を務めた南浦紹明(円通大応国師)の墓、義仲の遺児・清水義高の塚(木曽塚・伝承)がある事でも知られている。   右画像は常楽寺の山門。画像をクリック→ 常楽寺の明細へ。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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12月15日
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吾妻鏡
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曇り後に雨のため、今夜は月蝕を確認できず。天文方は以前からこの蝕は現れないと言っていた。
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1237年
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87代 四条天皇
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嘉禎三年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1237年
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