嘉禎四年・暦仁元年(1238)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年(1238)
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1月1日
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吾妻鏡
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雨。匠作北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。宮内少輔(足利泰氏)が御剣を、若狭守三浦泰村が御弓箭を、大和守伊東祐時が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は   相模式部大夫北條時直  本間式部丞元忠
   二の御馬は   相模六郎北條時定  橘右馬允公高(公長の孫? 公成の子?)
   三の御馬は   上総介太郎  同次郎
   四の御馬は   本間次郎左衛門尉信忠  同四郎
   五の御馬は   越後太郎北條時定  吉良次郎
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※上総介太郎: 千葉成胤の嫡子で五代当主となった時胤か。同・次郎は系図が不明確。
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   ※本間氏: 出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は愛甲郡依知郷(現在の厚木市中依知・地図)。
国道246号と129号が交差する渋滞で悪名高い「金田交差点」のすぐ南側・妙純寺の一帯が本間氏の館跡と伝わり、見事な土塁が残っている。承久の乱(1221年)後に佐渡守護となった北條氏の被官として佐渡代官に任じた分家の子孫が地道な活動で勢力を蓄え、やがて出羽の富豪本間氏の系に続く。元忠・信忠は手元の系図では確認できないが同族だろう。
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   ※吉良次郎: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖となった西条吉良長氏(吉良太郎・吉良義央(上野介)の祖)
の兄弟(同じく義氏の庶子)で東条吉良氏の祖となった吉良義継以外に該当者はいない、と思う。
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   ※年令: 北條時房は61歳・ 北條泰時は54歳・ 北條朝時は45歳・ 北條政村は33歳・ 北條経時は13歳・
三浦義村は72歳ほど・ 三浦泰村は54歳・ 足利義氏は49歳・ 小山朝政は3月3日に88歳で死没・
結城朝光は70歳・ 四代将軍藤原頼経は20歳11ヶ月・四条天皇は今年3月で7歳。(全て満年齢)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月2日
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吾妻鏡
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左京兆北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。駿河前司三浦義村が御剣を、玄蕃頭後藤基綱が御調度(弓箭)を、肥後守狩野為佐が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は   左近大夫将監北條経時   信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
   二の御馬は   駿河五郎左衛門尉三浦資村(義村の七男)   同、八郎左衛門尉三浦胤村(義村の七男)
   三の御馬は   上野七郎左衛門尉結城朝広   同、弥四郎時光(朝光の六男で寒河氏の祖)
   四の御馬は   近江四郎左衛門尉佐々木氏信   佐々木六郎(?)
   五の御馬は   北條時頼   南條七郎左衛門尉(?)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月3日
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吾妻鏡
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遠江守北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭北條政村が御剣を、北條光時が御調度(弓箭)を、壱岐守三浦光村が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は   遠江三郎北條朝時   小井弖左衛門尉
   二の御馬は   陸奥七郎   廣河五郎
   三の御馬は   信濃三郎左衛門尉二階堂行綱   隠岐四郎左衛門尉二階堂行久
   四の御馬は   小次郎左衛門尉小野寺通業   同四郎左衛門尉小野寺通時
   五の御馬は   豊田太郎兵衛尉   同次郎兵衛尉
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月4日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月9日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣に御進発。
供奉人は右京兆北條泰時、進発の読経供養の導師は大納言律師隆弁が務めた。
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   ※隆弁: 父は四条隆房(正二位・権大納言)で生母は葉室光雅(正二位・権中納言)の娘。将軍家(藤原頼経)に
招かれて鎌倉に下った天台宗の高僧。北條得宗家のバックアップを得て零落していた園城寺を再興し、園城寺と鶴岡八幡宮別当(九代)を務めた政商ならぬ政僧。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月10日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に駿河前司三浦義村・玄蕃頭後藤基綱・若狭守三浦泰村らの家が失火により焼失した。
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   ※三浦邸: 西御門の西側、現在の横浜国大付属のグラウンド北部(概略図を参照)と推定される。義村邸と泰村
邸は同じ敷地にあったのだろう。後藤邸も至近だろうが、確認できない。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月15日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に将軍家(藤原頼経)が二所詣から還御した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月18日
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吾妻鏡
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晴。匠作北條時房と左京兆北條泰時が小侍所に入り、主計頭中原師員・毛利蔵人大夫入道西阿(毛利季光)・玄蕃頭後藤基綱・隠岐入道行西(二階堂行光)・加賀前司町野康俊らが召集され、将軍家上洛について評議があった。
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康俊の奉行として、行程に関する細かい割り当てなどが行われた。御家人のそれぞれが供奉に漏れる事のないよう、また信濃式部大夫入道行然(二階堂行盛)は鎌倉の留守を守ることになる。
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続いて中原師員の奉行として陰陽師を呼び集めて次のように指示を下した。
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来る20日に御出門の儀式を済ませ28日に御進発だが、この日は八龍である。これは御出門に支障はないのか、別の日を選ぶべきだと言う者もあるから対応を検討せよ。
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安倍晴賢朝臣がそれに答えて言上した。
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御出門の儀式以後は既に旅の途中ですから特に日を選ぶ必要はありません。ただし吉日の出発が良いのはもちろんの事で、来月の2日か3日がよろしいでしょう。それ以外は当直の陰陽師に御確認ください。
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泰時は後藤基綱を介して将軍家に決裁を求め、将軍家は「(八龍であれば)延期せよ」と命じられた。
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   ※八龍: 干支の組み合わせによる甲子と乙亥が春の悪日=八龍とされる、らしい。下らん!
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月19日
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吾妻鏡
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御所で心経会(般若心経を読む法会)が行われた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月20日
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吾妻鏡
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御弓始めが催された。厄年に当たるため年末には中止も検討したが、あえて実施となった。射手については昨夕に将軍家(藤原頼経)から三浦義村に突然の仰せがあり、射手を招集する手配を陸奥太郎北條実時に命じていた。
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  射手
   一番は   小笠原六郎時長   藤澤四郎清親
   二番は   横溝六郎義行   松岡四郎時家
   三番は   岡辺左衛門四郎   本間次郎左衛門尉信忠
   四番は   三浦又太郎左衛門尉氏村(義村の庶長子で泰村の庶兄)   秋葉小三郎
   五番は   下河邊左衛門尉行光(系図にないんだよね)   山田五郎
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午刻(正午前後)に将軍家が御上洛に備えて御出門の儀を行うため秋田城介安達義景の甘縄邸に御輿で入御した。立烏帽子で御直垂を着し、供奉人も同じ装いである。
夜になって左京兆北條泰時と室家(安保実員の娘)が駿河守北條有時邸に向かった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月28日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の御上洛である。寅刻(朝8時前後)にまず安倍晴賢が参上して身辺の幣束(お祓い)を行った。八龍日(1月18日を参照)なので避けるべきと言う者もいたが、(将軍家は)「既に出門を済ませたのだから日取りの善し悪しを選ぶ必要はない。」として、変更を許さず、巳刻(10時前後)に輿で出発となった。
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護持僧は岡崎法印成源(輿)、御験者(祈祷役)は少将僧都公覺と大納言律師隆弁と丹後律師頼暁、医師は施薬院使の丹波良基朝臣(嘉禎元年(1235)11月18日を参照)と権侍医の丹波時長朝臣、陰陽師は前大蔵権大輔安倍泰貞と散位安倍晴賢朝臣である。
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随兵を含む前後の供奉人が全て出発する際になっても匠作(北條時房)だけが未だに出門せず、囲碁を打ち続けていた。左京兆北條泰時が催促させると時房の家臣を介して「旅支度が整っていない」との返事があり、泰時が野箭(狩猟用の矢・実践用は征箭)と行騰(袴カバー)を届けさせ、時房は酉刻(18時前後)になって鎌倉を発った。
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将軍家の一行は酉刻には既に酒匂の駅に到着、護持僧と医師・陰陽師らも御所近くの宿舎に入った。同じく雑務担当や運搬人夫らは、加賀前司町野康俊が担当して差配した。
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   ※酒匂の駅: 鎌倉から約36km西の小田原市の酒匂川東岸(地図)。
当時に比べると相模川など多くの河川が流路を東に移動したため正確な位置は確定できず、これは相模川橋供養の条にも記述しておいた。
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右画像は広重の東海道五十三次・小田原酒勾川。背後は箱根連山、右奥は富士山か。
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ここまでの時速は4.5km、当時の行列とては平均的なペースなんだろうね。酒勾駅は古くは治承四年(1180)8月23日に合流を予定した三浦勢が増水で石橋山合戦に間に合わず、虚しく衣笠に撤退。途中の由比ヶ浜で畠山重忠軍と局地戦を演じている。
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5年後の元暦二年(1185)には頼朝の不興を受けて鎌倉入りを許さなかった九郎義経が腰越に続いて酒勾での待機を命じられ、京都に追い返された事によって兄弟の離反が決定的になった場所だ。
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右画像は概ね同じ酒匂川東岸からの画像(凄いデフォルメ)。神山は箱根権現の御神体、天平宝字元年(757)に万巻上人が駒ヶ岳と神山で3年間修行した後に箱根権現(現在の 箱根神社)を開いた、と伝わる。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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1月29日
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吾妻鏡
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晴。夕方に藍澤の駅に入御した。
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   ※藍澤の駅: 古道・足柄峠を西に下った御殿場市に藍沢五卿神社がある。この時代には、まだ箱根道ではなく
足柄道がメインだったと推定される。藍沢(藍澤)は頼朝の時代から巻狩りの舞台として再三記載されたエリアで、酒勾から藍沢までは約36km
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月1日
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吾妻鏡
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晴天ながら強風。申一点(15時過ぎ)に車返の牧御所に着御。
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   ※車返: 裾野市から沼津市にかけての黄瀬川流域は元々は平頼盛
所領で現地管理者が北條時政の後妻牧の方の兄・牧宗親。
元久二年(1205)6月の時政夫妻失脚に伴って北條義時の管理下に移り、得宗(北條嫡流)家の私財になった。
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JR沼津駅から狩野川までの一帯(右地図の三枚橋町・上土町・本町)が鎌倉時代の沼津驛で東海道五十三次沼津宿。
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ここは御殿場から南下した足柄道と箱根から下って三島を過ぎた東海道が合流する要所だった。藍沢から車返まで約27km、東海道はここから千本街道に入り富士川を目指す。
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ちなみに、三枚橋とは「貉(むじな)川に架かる三枚の石板」が起源で、現在の旧東海道北側歩道の暗渠に「三枚橋」の橋柱が立っている。
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また吾妻鏡にある「車返」は沼津宿の南側、海岸に近い湿地帯に至る場所で地盤が軟弱なため馬車などを通行止めにしていたらしい。「牧御所」はこの宿驛付近だと思うが、もちろん痕跡は失われている。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月2日
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吾妻鏡
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晴、強風が砂塵を巻き上げている。蒲原に御宿泊。
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   ※蒲原: 現在の静岡市清水区、正確にはJR東海道線新蒲原駅の北側(地図)。車返~蒲原は約26km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月3日
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吾妻鏡
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晴。手越に御宿泊。左京兆北條泰時が差配して宿館を設定した。泰時の室(安保実員の娘)も今日鎌倉を発ち、一行に続いて上洛の途に就いた。
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   ※手越: 安倍川の西岸(地図)。旧東海道は手越から丸子を経て宇津ノ谷峠(訪問レポート)を越えて西へ、嶋田
(島田)宿を目指す。蒲原~手越は約31km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月4日
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吾妻鏡
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晴。嶋田に御宿泊。
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   ※嶋田: 大井川の東岸(地図)。江戸時代には防衛上の理由から橋を
架けず、増水時期には「川止め」で旅人を苦しめた。
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鎌倉時代の正確な渡河地点も現場の状況も判らないが、相模川や浜名湖と同様に架橋されていたのか、あるいは臨時の浮き橋を利用した可能性がある。
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右画像は手越~嶋田(約26km)の概略行程図
     (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月5日
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吾妻鏡
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晴。懸河に御宿泊。匠作(左京兆北條泰時)の御沙汰として遠江国の御家人らに命じ、前もって御所(宿館)を造らせていた。横地太郎兵衛尉長直の差配である。
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   ※懸河: 江戸時代の東海道は現在のJR掛川駅と掛川城の間(地図)を通っていた。また「北條泰時の沙汰」は、
この時の駿河守が北條有時(昨年までは北條重時)だった事によるのだろう。横地長直は義経に従って源平合戦を転戦した長重の嫡子で懸河から7kmほど東の横地郷を本領とした御家人。
嶋田~懸川は約18km、現在は約5km北側に一号バイパス(道の駅 掛川あり)が完成している。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月6日
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吾妻鏡
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晴。早朝に諸人の乗替え馬を管理する者らが将軍家の出立以前に出発し、忠義心を表すため競って天龍河を 渡ろうとした。浮橋が破損し制止しても聞き入れないため奉行の横地太郎兵衛尉長直らが宿舎に駆け付けて報告した。
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左京兆北條泰時はすぐに懸河の宿から河辺に出て敷皮に着座した。泰時は一言も発しなかったが諸人は礼儀を糺して静まり、騒ぎは収まった。将軍家(藤原頼経)が通過した後に泰時は騎馬で供奉した。
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河の水量は減っており、諸人の従者ら大半は浮き橋を渡る必要も船に乗る必要もなしに河を渡った。水は僅かに馬の下腹を濡らすほどで、将軍家は酉刻(18時前後)に池田の宿に入御した。
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   ※池田宿: 現在の磐田市池田(地図)。頼経の一行が渡河した当時の
天竜川本流は現在よりも数km東(今之浦川か太田川か)を流れており、池田宿を出て天竜川を渡った江戸時代の東海道五十三次とは異なる。
鎌倉時代には池田荘(興福寺一乗院領)の東端が天竜川で、その後に西に流路が変わったため荘園の概ね中央を流れ下るようになったらしい。
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右画像は懸川~池田(約20km)の概略行程図
     (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月7日
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吾妻鏡
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晴。橋本の駅に着御した。左京兆北條泰時が確認すると、陸奥太郎北條實時は舞澤松原に野宿したとの事だった。泰時は「小侍別当(實時の職責、将軍近習の長) は将軍御所の近くに控えるべき重職、宿舎がないまま驛の近くで野宿など有り得ない話だ。私だけ民家で暖かく過ごすことはできぬ。」と言って野宿の場所へ行こうとした。
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宮内少輔足利泰氏と駿河前司三浦義村以下の人々も多くが宿舎を出て野宿する松原に向かったが、「却って事態が面倒になりますから取り敢えず戻って下さい」と押しとどめ、御所近くの宿舎にいた大和守加藤(遠山)景朝が宿舎を出て陸奥太郎を招き入れた。泰時もそれ以上は言わず宿舎に戻り、實時も面目を保って景朝の宿舎に入った。
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   ※橋本の駅: 現在の湖西市新居町浜名(地図)。舞澤は舞阪の古名で
室町時代まで現在の浜名川が東西を隔てる境界だった。
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明和七年(1498)の地震による地殻変動で浜名湖と海を隔てていた地点(今切・現在の浜名大橋地点)が切り離されて浜名湖は汽水域となり、後に今切と弁天島を結ぶラインが東西の境界となった。
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初めて上洛した建久元年(1190)10月18日には頼朝もここ橋本宿で宿泊している。
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右画像は今切と橋本宿の地図(画像をクリック→ 拡大表示)  池田~橋本の距離は約27km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月8日
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吾妻鏡
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寅刻(朝4時前後)から小雨、日の出と共に晴、未刻(14時前後)に再び雨になった。将軍家は豊河の宿に着御、夜更けになって風雨が強まった。
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   ※豊河の宿: 豊川稲荷(公式サイト)門前の赤坂町(地図)、橋本~豊川の距離は約28km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月9日
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吾妻鏡
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晴。矢作の宿に到着し、左馬頭足利義氏邸に入御した。昨夜の風雨で洲俣河(長良川)と足近河(木曽川の古流路)の浮橋が流失した。
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   ※矢作の宿: 岡崎市の矢作川西岸(地図、三河守護足利義氏の本拠
で豊河の宿から矢作まで約29km。
 右画像は洲俣河と足近河一帯の地図(クリック→拡大)
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   ※足利義氏: 生母は政子の妹で正室は泰時の娘。承久の乱の勲功で
承久三年(1221)~建長四年(1252)の長期間、三河守護に任じている。
義氏は本拠を矢作に置き、同族の仁木氏と細川氏(足利義康 の庶長子義清(源平合戦で戦死)の子孫)を北側に、庶長子の長氏と三男の義継を南側の吉良に配置して勢力を広げ、三河国での支配を安定させた。
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墨俣は東山道の要所で、治承五年(1181)4月に平重衡の率いる平家軍と源行家義圓の連合軍が衝突した場所。義圓は戦死、源氏側は壊滅的な損害を受けた墨俣川合戦の激戦地だった。
この一帯は承久の乱の際にも戦場(合戦場の概略地図)になった要所である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月10日
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吾妻鏡
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晴。萱津の宿に到着。亥刻(22時前後)に将軍家(藤原頼経)が突然体調を崩した。霍乱だろうか、諸人が驚き騒いだ。(同行している)権侍医丹波時長(嘉禎元年(1235)11月18日を参照)が治療を担当して体調を戻され、褒美として御剣を与えられた。京兆(北條泰時)からも馬が贈られた。
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   ※萱津の宿: 江戸時代には名古屋駅の西側、中村公園から庄内川を挟んで甚目寺近くまで(地図)の広い範囲
が宿場町だった。 矢作の宿から萱津の宿まで約40km、頼経には少しハードだったか。
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   ※霍乱: 漢方では日射病を差す。吐き気や下痢を伴う急性の病気。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月11日
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吾妻鏡
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晴。昨夜の体調不良を勘案して今日は萱津の宿に御逗留となる。その間に両河(2月9日に記載のある洲俣河と足近河)の浮橋修理を行なう。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月12日
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吾妻鏡
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晴。小隈の駅に着御した。
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   ※小隈の駅: 羽島市小熊町西小熊(地図)、2月9日に記載した墨俣川合戦で源氏が布陣した場所。義圓はここ
から深夜に渡河して奇襲を狙ったが発見され、濡れた甲冑を怪しまれて討たれたと伝わる。
萱津の宿から小隈の駅まで、約31km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月13日
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吾妻鏡
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晴。垂井の駅に着御した。
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   ※垂井の駅: 不破郡垂井町(地図)、東海道と中山道が分岐する追分
がある交通の要衝。美濃国府を宿舎にしたのだろうか。
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近くには平治の乱(1159年の末)で敗走する義朝主従が休息した青墓長者の屋敷や異母兄の朝長を葬った圓興寺などがある源氏所縁の土地なのだが...藤原頼経にも北條泰時にも無縁だね。
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小隈の駅から垂井の駅まで約17km、関が原を越えて琵琶湖畔まで進んでも合計で35kmほどだが、頼経の体調に配慮したのかも。右の図を参照されたし。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月14日
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吾妻鏡
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曇。小脇に着御。
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   ※小脇: 現在の東近江市小脇町(地図)、地図を拡大すると堀が囲んだ
一角なのが判る。近江佐々木氏の館跡である。
垂井から小脇まで約52km、前日の三倍を移動している。
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建久元年(1190)12月14日には京から帰る途中の頼朝も宿泊している。小脇は寛弘年間(1004~1011年)に 佐々木秀義の祖父経方(宇多源氏)が定住して以来の本貫地。
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頼朝は小脇の驛ではなく、東山道からは少し外れるが信頼を置いている定綱の小脇館に宿泊した可能性が高い。
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頼経の往路には「小脇」の記載のみだが、10月13日の復路では「近江入道(佐々木信綱)が建てた仮御所に宿泊して豪華な接待を受けた」との記載がある。頼経は早朝3時に京都を発って18時に小脇に入っている。
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右画像は堀に囲まれた小脇館跡の鳥瞰 (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月15日
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吾妻鏡
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晴。野路に着御。
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   ※野路: 現在の草津市野地町(地図)、小脇から野路まで約26km。
南草津駅病院敷地東側(地図)の遠藤医師宅には野路で斬られた平清宗(宗盛の嫡子)の胴塚(右画像、クリック→ 拡大)がある。
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義経に連行されて鎌倉を出た親子はまず宗盛が野洲篠原で斬られ(平家終焉の地を参照)、続いて野路で清宗が斬られた。
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二人の首は京に運んで晒されたが、篠原の伝承によれば二人の胴は同じ穴に埋葬されたという。篠原の伝承と野路の伝承、果たしてどちらが真実か。清宗の幼い弟たちも頼朝の指示によって無残に殺されてしまうのが何とも哀れではある。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月16日
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吾妻鏡
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晴。従五位下行隠岐守藤原朝臣二階堂行村法師(法名行西)が死没(84歳)。先日伊勢国益田庄に向かい、死去した。
今日、将軍家(藤原頼経)は野路の駅に逗留し、明日御入洛の予定である。随兵以下の行列明細を確認するため、小侍所別当の陸奥太郎北條實時が供奉人の名簿を持参し、匠作(北條時房)と京兆(北條泰時)が御前に於いて順列などを決め奉行人の實時に返却、将軍家が回覧する書状の端に花押を書き加えた。
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   ※益田庄: 現在の桑名市増田(地図)。暦仁元年(1238)に九条家の祈願寺・成恩院領となり、地頭職は二階堂
一族が世襲している。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月17日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に野路の宿を出御。最初に随兵以下の供奉人が庭から街道に出て二列に座し、輿を寄せて将軍家が乗った後に騎乗した。四条隆親卿(正二位・権大納言)以下の貴族が関寺の近くで行列を見物、子刻(深夜0時前後)に入洛と六波羅に新造した御所に入った。
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  行列
  まず駿河前司三浦義村の随兵(三騎並列、家子36人)
      一番   大河戸民部太郎   大須賀八郎   佐原太郎兵衛尉
      二番   筑井左衛門太郎   同次郎   皆尾太郎
      三番   三浦又太郎左衛門尉   同三郎   山田蔵人
      四番   武小次郎   同三郎   同又次郎兵衛尉
      五番   秋葉小三郎   山田六郎   同五郎
      六番   多々良小次郎   同次郎兵衛尉   青木兵衛尉
      七番   安西大夫   金摩利太郎   丸五郎
      八番   丸六郎太郎   三浦佐野太郎   石田太郎
      九番   石田三郎   三原太郎   市脇兵衛次郎
      十番   長尾平内左衛尉   同三郎兵衛尉   平塚兵衛尉
      十一番   壱岐前司   駿河四郎左衛門尉   遠藤兵衛尉
      十二番   駿河五郎左衛門尉   同八郎左衛門尉   三浦次郎
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  先陣
     駿河前司(騎馬、郎従二人が前に)
     御所の随兵百九十二騎(三騎が並ぶ。各々に弓袋差一人、歩走三人が前に)
      一番     小林小次郎    同小三郎    眞下右衛門三郎
      二番     猪俣左衛門尉    荏原七郎三郎    河匂野内
      三番     二宮左衛門太郎    同三郎兵衛尉    同四郎兵衛尉
      四番     池上籐兵衛尉    小串馬允    多胡宮内左衛門太郎
      五番     大井三郎    品河小三郎    春日部三郎兵衛尉
      六番     高山五郎四郎    江戸八郎太郎    同高澤弥四郎
      七番     大胡左衛門次郎    伊佐四郎蔵人    大胡弥次郎
      八番     都筑右衛門尉    同左近将監    遠藤右衛門尉
      九番     山内籐内     同左衛門太郎    西條與一
      十番     後藤弥四郎左衛門尉    佐渡五郎左衛門尉    伊勢籐内左衛門尉
      十一番    小野寺小次郎左衛門尉    同四郎左衛門尉    薗田弥次郎左衛門尉
      十二番    紀伊次郎兵衛尉    豊田太郎兵衛尉    同次郎兵衛尉
      十三番    片穂六郎左衛門尉    和田右衛門尉    同四郎左衛門尉
      十四番    秩父右衛門太郎    倉賀野兵衛尉    那珂左衛門尉
      十五番    中澤小次郎兵衛尉    同十郎兵衛尉    河原右衛門尉
      十六番    小河左衛門尉    河口八郎太郎    立河兵衛尉
      十七番    阿佐美六郎兵衛尉    塩屋民部六郎    福原五郎太郎
      十八番    下河邊左衛門尉    新開左衛門尉    大河戸太郎兵衛尉
      十九番    中野左衛門尉    俣野彌太郎    海老名四郎
      二十番    四方田三郎左衛門尉    塩屋六郎左衛門尉    蛭河四郎左衛門尉
      二十一番  本間右近将監    多賀谷太郎兵衛尉    松岡四郎
      二十二番  本庄四郎左衛門尉    西條四郎兵衛尉    泉田兵衛尉
      二十三番  中村五郎左衛門尉    同三郎兵衛尉    加治新左衛門尉
      二十四番  阿保次郎左衛門尉    加治丹内左衛門尉    同次郎兵衛尉
      二十五番  飯富源内    本庄新左衛門尉    那須左衛門太郎
      二十六番  進士三郎    多賀谷左衛門尉    江帯刀左衛門尉
      二十七番  本間次郎左衛門尉    佐野三郎左衛門尉    高田武者太郎
      二十八番  小河三郎兵衛尉    平左衛門三郎    三村兵衛尉
      二十九番  長掃部左衛門尉    長右衛門尉    長兵衛三郎
      三十番    豊田彌四郎    秋元左衛門次郎       須賀左衛門太郎
      三十一番  弥三郎    同弥四郎    矢口兵衛次郎
      三十二番  薗田又太郎    木村弥次郎    同小次郎
      三十三番  後藤三郎左衛門尉    同四郎左衛門      同兵衛太郎
      三十四番  伊達八郎太郎    中村縫殿助太郎    伊達判官代
      三十五番  佐竹八郎    結城五郎    佐竹六郎次郎
      三十六番  大曽祢太郎兵衛尉    同次郎兵衛尉    武藤左衛門尉
      三十七番  長三郎左衛門尉    長太右衛門尉    長内左衛門尉
      三十八番  善右衛門次郎    弥善太右衛門尉    布施左衛門太郎
      三十九番  得江蔵人    平賀三郎兵衛尉    得江三郎
      四十番    笠間左衛門尉    出羽四郎左衛門尉    狩野五郎左衛門尉
      四十一番  信濃民部大夫    同三郎左衛門尉    肥後四郎左衛門尉
      四十二番  壱岐小三郎左衛門尉    足立木工助    壱岐三郎左衛門尉
      四十三番  佐原太郎左衛門尉    下総十郎    伊賀次郎右衛門尉
      四十四番  千葉八郎    相馬左衛門尉    大須賀左衛門次郎
      四十五番  内藤七郎左衛門尉    押垂三郎左衛門尉    春日部左衛門尉
      四十六番  近江四郎左衛門尉    豊前大炊助    加治八郎左衛門尉
      四十七番  武田五郎次郎    仁科次郎三郎    小野澤左近大夫
      四十八番  宇都宮新左衛門尉    氏家太郎    筑後左衛門次郎
      四十九番  和泉次郎左衛門尉    同新左衛門尉    同五郎左衛門尉
      五十番    佐原新左衛門尉    同四郎左衛門尉    同六郎兵衛尉
      五十一番  大井太郎    南部次郎    同三郎
      五十二番  宇佐美與一左衛門尉    弥次郎左衛門尉    関左衛門尉
      五十三番  少輔左近大夫将監    同木工助    上総介太郎
      五十四番  筑後図書助    安積左衛門尉    伊藤三郎左衛門尉
      五十五番  佐渡二郎左衛門尉    同三郎左衛門尉    同帯刀左衛門尉
      五十六番  宇都宮四郎左衛門尉    同五郎左衛門尉    梶原右衛門尉
      五十七番  加藤左衛門尉    河津八郎左衛門尉    河越掃部助
      五十八番  小山五郎左衛門尉    宇都宮上條四郎    宮内左衛門尉
      五十九番  伊豆守森頼定    武田(一条)六郎信長    小笠原(伴野)六郎時長
      六十番    左衛門尉薬師寺朝村    左衛門尉淡路四郎時宗    上野七郎左衛門尉結城朝広
      六十一番  陸奥五郎太郎    毛利蔵人季光    那波次郎蔵人
      六十二番  若狭守三浦泰村    修理亮宇都宮泰綱    秋田城介安達義景
      六十三番  遠江式部丞北條光時    越後太郎北條親時    遠江三郎北條時長
      六十四番  相模六郎北條時定    左近大夫将監北條経時    宮内少輔足利義氏
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  次いで御甲着け一人
  次いで御冑持ち一人
  次いで御小具足持ち一人
  次いで御引馬一疋
  次いで歩走(被召人、郎従三十人)
  次いで御乗替二人(野箭(狩猟用の矢)を持つ童が輿の右に、征箭(戦闘用の矢)を持つ童が輿の左に)
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  次いで御輿(御簾を上げ、御装束は御布衣。御力者(剃髪の従者・力士)三人)
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  次いで水干を着す人々(各々野箭)
      一番   駿河守北條有時   備前守北條朝直   右馬権頭北條政村
      二番   淡路前司長沼宗政   大河戸民部大夫   大和守加藤景朝
      三番   和泉前司天野政景   玄蕃頭後藤政景   肥前前司佐原家連
      四番   肥後前司狩野為佐   江判官大江能行   伊賀判官光重
      五番   出羽判官中条家平   壱岐大夫判官佐々木泰綱   因幡大夫判官
      六番   左京権大夫北條泰時(随兵三十人、水干を着す侍十八人、その他の従う者は数えきれず。)
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  後陣
    修理権大夫北條時房 (随兵二十人。水干を着す侍二十人、その他の従う者は数えきれず。)
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   ※関寺: 現在の大津市逢坂二丁目(地図)付近にあった大寺院(世喜寺)で、五丈(約15m)の弥勒仏を祀って
いたと伝わる。創建年代は不明、天延四年(976)の大地震で倒壊し、再建後の慶長年間(1600年前後)に徳川vs豊臣の兵火で廃絶状態になった。明治期に残った堂が長安寺と改めて現在に至る。
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「逢坂の関」の正確な位置は確認されていないが、菅原孝標の次女(本名不明)が著した更級日記(共にwiki)には、彼女が石山寺に詣でる途中に逢坂を通り、13歳の頃(寛徳四年・1020年)に受領(上総介)の任を終えた父と共に都に帰る際には関寺の仏像(大仏)が造像の途中だった事を思い出す。
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関寺關のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」と年月の流れ(25年前)を感じて和歌を詠む。
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      ~ 相坂の 関のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり ~
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菅原孝標は従四位上の公卿。従五位下の寛仁元年(1017)に上総介として赴任し寛仁四年(1020)に帰京、正五位下の長元五年(1032)に常陸介として赴任し長元九年(1036)に任を終えて帰京している。彼女の日記から逢坂の関と関寺が至近距離にあったと確認できる。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月17日~
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玉蘂
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   ※2月17日: 今日、征夷大将軍民部卿藤原頼経卿が入洛した。太政入道(西園寺公経)が三条北白河付近に
簾を備えた十二間の板桟敷を設け、東の三間は入道・次の三間は女房ら・次の三間は私(九条道家)・次の三間は前の博陸(関白・近衛家実を指す)の利用に備えてくれた。私は家実卿に謁して雑談、主として建久の時代に頼朝卿が入洛した頃の話題である。
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   ※2月18日: 今日、石山尼が来訪。将軍頼経と共に上洛していた。
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   ※2月21日: 藤原定員が民部卿(将軍頼経)の使者として来訪した。
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   ※頼朝上洛: 建久元年(1190)10月と、東大寺大仏の開眼供養に参席した建久元年(1195)4月の二度。
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   ※石山尼: 詳細は不明。九条道家と親しい人物で頼経と共に鎌倉から上洛した尼とは誰だろう。
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   ※玉蘂は: 九条道家の日記で1209~1238年の分が現存する。「蘂」は「おしべ+めしべ」の意味で、祖父の
九条兼実が遺した日記「玉葉」に因んだ命名。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月22日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。将軍家(藤原頼経)が入洛して初めての外出(御直衣・公家以上の平常の略例服で形は衣冠と概ね同じ)。
陰陽頭の安倍維範朝臣が身辺を祓い、まず大相国(西園寺公経)邸へ、続いて一條殿(九条道家)邸を訪問した。
今日は前駈(前触れ役)を用いず、右馬権頭北條政村が御車の前で先導役に任じた。
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  行列は 先ず右馬権頭北條政村
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  次いで御車(八葉)
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     宇田左衛門尉    四方田五郎左衛門尉資綱
     小宮五郎左衛門尉    本間次郎左衛門尉信忠
     左衛門三郎平盛時    富所左衛門尉
     若兒玉小次郎    小河三郎兵衛尉直行
     参河三郎左衛門尉    飯富源内長能
        以上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に列歩す。
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   ※八葉の車: 花弁が八つある「八葉蓮華」の紋を付けた牛車。大型紋を付けた車は上位の公卿や帝の一族が、
小型紋を付けた「小八葉」にはそれ以外の貴族が乗る習慣だった。上の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。大型紋を付けた車の画像は...手元になかった。
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  次いで衛府八人(各々布衣、帯剣・騎馬、列は年令順 )
     一番 内藤七郎左衛門尉盛綱   左衛門尉安積六郎祐長
     二番 河津八郎左衛門尉尚景   豊後四郎左衛門尉島津忠綱
     三番 上野七郎左衛門尉結城朝廣   駿河四郎左衛門尉三浦家村
     四番 佐渡帯刀左衛門尉後藤基政   近江四郎左衛門佐々木氏信
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  次いで扈従の殿上人
     左近中将藤原親季朝臣(蔵人頭、後に参議・二位)
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   ※内藤盛綱: 藤原秀郷10代後の子孫に内藤盛家の名がある。:系図には盛綱の名は見当たらず、庶子か孫の
可能性がある。
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   ※河津尚景: 詳細は不明。伊東祐親の嫡子河津祐泰の子孫説もあるが祐泰の系統は若年のまま断絶しており
信頼性は乏しい。伊東氏の系統が河津氏を仮称した可能性は有りうる。
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   ※後藤基政: 後藤基綱の長男で将軍頼経の近習。正嘉元年(1257)には引付衆に任じている。
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   ※三浦家村: 義村の六男、泰村光村の弟。弓馬の術に優れ、宝治合戦(1247年)で遺骸確認ができなかった
人物の一人。和田合戦(1213年)朝比奈(和田)義秀同様の生存説も流れた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月23日
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吾妻鏡
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雨。将軍家(藤原頼経)御参内。一條殿(九条道家)より前駈(行列の前触れ)三人が派遣され、昼過ぎに出御。
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  行列
  先ず前駈
     右馬権頭北條政村    治部権大輔兼康(派遣された前駈)
     宮内少輔足利泰氏    左馬権頭盛長(派遣された前駈)
     備前守北條朝直    宮権大夫茂俊(派遣された前駈)
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  次いで御車(八葉)
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     小河三郎兵衛尉直行    小宮左衛門次郎直義
     本間次郎左衛門尉信忠    左衛門平三郎盛時
     四方田五郎左衛門尉資綱    若兒玉小次郎
     飯富源内長能    修理進三郎宗長
      以上の八人は直垂で帯剣し御車の左右を警護。
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  次いで府(近衛府の任官者)十人、各々布衣で帯剣。
     源左衛門尉    和泉次郎左衛門尉天野景氏
     四郎左衛門尉宇都宮頼業    左衛門尉河津八郎尚景(2月23日を参照)
     肥前太郎左衛門尉佐原胤家    佐渡帯刀左衛門尉後藤基政(2月23日を参照)
     薬師寺左衛門尉朝村    左衛門尉三浦又太郎氏村
     信濃三郎左衛門尉二階堂行綱    左衛門尉宇佐美籐内祐泰
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  次いで殿上人
     左近中将藤原親季朝臣
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  夜になって小除目あり。将軍家を権中納言に任じ、右衛門督を兼任とする。
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   ※天野景氏: 天野遠景政景-景氏と続く。
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   ※佐原胤家: 三浦(佐原)盛時か、その父・盛連の系累だと思うが系図には見当たらない。胤が通字の千葉氏系
の可能性もあるが、こちらも同様。要するに判らない。
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   ※薬師寺朝村: 小山政光朝政朝長と続く小山嫡流朝長の次男。現在の下野市薬師寺町(地図下野薬師寺
の中盤を参照)を本領として薬師寺氏の祖となった。
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   ※小除目: 春秋に行なう定期の移動ではなく臨時の(小規模の)除目。
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   ※玉蘂 23日: この日民部卿始めて参内の日なり。
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   ※玉蘂 24日: 午刻(正午前後)に太政入道(西園寺公経)が来訪され昨日の様子を語った。北條泰時朝臣と
面談し、昨日の引出物として連れて来た馬二疋と三浦義村が贈った馬を西の内庭で見た。
頼経卿(将軍)は権中納言に還任し右衛門督・別当兼任となった、と。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月26日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が検非違使別当に補任された。
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   ※検非違使: 京都の治安維持と民政を所管した役職だが、院政に伴う北面武士が設置されると次第に弱体化し
承久の乱(1221年)後に六波羅(探題)が設置されてからは有名無実になりつつあった。
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鎌倉時代が終わって幕府政庁が京都に置かれると検非違使庁は幕府の侍所に吸収される。今回頼経が任じた別当は検非違使の長だが、実質的には名目だけの名誉職。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月28日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が朝廷(天皇家と高位の朝臣)に御馬を献上した。
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     一の御馬 大和前司伊東祐時   六郎左衛門尉安積祐長
     二の御馬 大和守加藤景朝   河津八郎左衛門尉尚景
       以上四人これを引く(各々布衣で帯剣)
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今日、中納言などに任じられた御拝賀(礼詞の奏上)なり。御出立を眺めるため大殿(九条道家)が六波羅殿を訪れ門外で牛車を降りた。これは異例のことである。すぐに前駈として五人を差し進じた。
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  御拝賀の行列
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  先ず一員
     番長(衛府の下級幹部)安利  府生(検非違使の下級職)為末  大志  小志家平(各、衛府の四等官)
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  次いで前駈(先触れ)
     左馬権頭盛長   宮内少輔足利泰氏
     刑部少輔家盛   備前守北條朝直
     治部権大輔兼康   右馬権頭
     皇后宮権大夫茂能   駿河守北條有時
     中務権少輔時長   越後守北條時盛
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  次いで御車
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     丹治部左衛門尉   小河兵衛尉直行
     同左衛門小川次郎   本間次郎左衛門尉信忠
     平左衛門三郎盛時   四方田五郎左衛門尉資綱
     立河三郎兵衛尉基泰   富所左近将監
     池上籐七康親   飯富源内長能
       以上十人直垂を着し、帯剣、御車の左右に候す。
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  先行      看督長(検非違使の下級職員)四人
     火長四人(検非違使の下級職員、府生の下)
     雑色が後に続く
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  次いで衛府二十人(下臈(身分の低い者)が先)
     大見左衛門尉実景   宇佐美與一左衛門尉祐村
     宮内左衛門尉公景   宗宮内五郎左衛門尉
     淡路四郎左衛門尉時宗   伊藤三郎左衛門尉祐綱(祐時の三男)
     武藤左衛門尉景頼(頼茂の息子、評定衆)   加藤左衛門尉行景
     上野七郎左衛門尉結城朝廣   信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
     近江四郎左衛門尉佐々木氏信   出羽四郎左衛門尉伊賀光宗
     肥前四郎左衛門尉光連   壱岐三郎左衛門尉葛西時清
     関左衛門尉政泰(妻の兄が三浦泰村)   佐渡帯刀左衛門尉後藤基政
     五郎左衛門尉小山長村   大曽祢兵衛尉長泰
     遠江次郎左衛門尉三浦光盛   三浦駿河四郎左衛門尉家村
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  次いで官人
     主馬大夫判官家衡
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  次いで随兵十人(三騎相並ぶ、最末一騎)
     一番 左近大夫将監北條経時   相模六郎北條時定   足利五郎長氏
     二番 若狭守三浦泰村   下野守宇都宮泰綱   秋田城介安達義景
     三番 武田六郎信長   小笠原六郎時長   千葉八郎胤時
     最後尾 上野五郎結城重光
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  次いで扈従の公卿二人
     宰相中将實雄     三位中将公経
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  次いで殿上人五人(牛車)
     左中将實光   二條少将教定   権中将親季   近衛少将實藤   左少将為氏
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月29日
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吾妻鏡
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晴。大理庁(検非違使別当の唐名)の着任式あり。検非違使26人全員が集合、五位の尉が8人含まれている。
大理(藤原頼経)が出御し、各々と顔を合わせた。
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夜になって将軍家が直衣(勅許を得て参内できる平服)で御参内、供奉人は去る11日と同様。暁更(明け方)になって前右府(右大臣)西園寺実氏(西園寺公経の嫡子・従一位太政大臣)ならびに准后(西園寺掄子・頼経の生母)の屋敷に渡御された。
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   ※玉蘂は: 少し内容が異なる。今日、准后が六波羅に向かった。密々の儀である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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2月30日
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吾妻鏡
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卯の一点(早暁5時過ぎ)に将軍家は六波羅に還御した。
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   ※玉蘂: 早朝に(頼経が献じた)御馬百疋から選び出して13疋は入道相国(西園寺公経)が、13疋は私が受け
取った。8疋は前の博陸(前関白九条道家)、5疋は摂政(九条教実)、5疋は右府(右大臣二条良実)、5疋は前右府(前右大臣・西園寺実氏)、2疋は天台座主宮(尊性法親王・後高倉院第二王子)、2疋は御室(仁和寺門跡・後高倉院第二王子道深法親王)、2疋は右大将(大炊御門家嗣)が受け取った。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。御招請があって将軍家(藤原頼経)は大相国禅閤(西園寺公経)邸に渡御した。接待の席は華美を極め、御贈物として風雅に誂えた棚を二脚(それぞれ金銀で飾り和漢の書が置いてある)を御贈物として準備してあった。夜になってから六波羅に還御となった。
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   ※西園寺邸: 現在の金閣寺の地に建てた西園寺を差す。
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鎌倉幕府滅亡後の建武元年(1334)に公経から七代後の公宗が地位の回復を図って後醍醐天皇を西園寺に招き暗殺を計画したが...
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異母弟公重の密告で計画は露見し、公宗は出雲国に流される途中で処刑され所領と財産は没収、やがて荒廃した西園寺は応永四年(1397)に室町幕府三代将軍足利義満に渡り、鹿苑寺(金閣寺)(wiki)が完成することになる。
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ちなみに、西園寺邸は明和六年(1769)に京都御苑に移り、明治維新になって東京に移転した。
跡地には白雲神社(地図)が建っている。 右画像は鹿苑寺マップ(クリック→ 拡大表示)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月7日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)佐女牛の東洞院で失火、南北二町余(単純に換算すれば約140m四方)が焼失した。
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   ※火元は: 左女牛通は東西に走る現在の花屋町通、東洞院通は現在も同じ、交差点は橋爪町(地図)。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月13日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に日重暈(太陽に懸かる二重の傘)があった。陰陽頭の維範朝臣が絵図を携えて真っ先に六波羅殿に駆けつけ、特に心して慎み深くあるように申し入れた。その後に権天文博士の季尚朝臣および三人の担当者が呼ばれて御所に参上、維範朝臣が提出した絵図を提示して所存を述べよとの仰せがあり、次のように答えた。
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特に重大な変異ではなく、去る建保年間に道昌朝臣が水無瀬殿で「白虹が太陽を貫いている」と奏聞した際に孝重朝臣が「変異に非ず」と否定したのは今回の暈であります。
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今夜、維範朝臣が天地災変に対応する祈祷を行ない、伊勢前司藤原定員がこれを差配した。
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   ※水無瀬殿: 後鳥羽上皇の離宮があった場所(地図)。隠岐に流され崩じた後鳥羽上皇の遺勅により仁治元年
(1240)に御影堂が建てられ、明応三年(1494)には後土御門天皇が上皇の神霊を迎えて水無瀬宮とした。現在は水無瀬神宮(wiki)となっている。
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   ※建保年間: 1213~1219年。吾妻鏡の建保五年(1217)に次の記載がある。
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山城廷尉二階堂行村が京都より帰参した。上皇の病状は7月10日から発作が頻発している。
智識の深い高僧たちが各々の祈祷を行っても癒える気配が見えなかったが、25日になって前の陰陽博士道昌が赤山修学院(公式サイト)に於いて泰山府君祭を行ない、翌日には平癒した。
これにより道昌は勅勘を解かれ旧職に復帰した。
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去る2月、廣瀬殿(御所の一角か?)に白虹が現れたと道昌が奏聞した際に同輩がこれに同意せず、「白虹ではない」と言上した事により、陰陽博士を停職となる処分を受けていた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月14日
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吾妻鏡
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終日雨。(陰陽師の)安倍泰貞朝臣は日頃から「重大な変異が起きても30日以内に雨が降れば(禍を)消してくれるものです。」と語っている。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月15日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に維範朝臣が再び六波羅殿に参上し、「太白(火星)昴の軌道を犯し、歳星(木星)が災星(山羊座の星)の軌道を犯している。」と報告した。これに対応し将軍の祈祷として在衡朝臣による属星祭を催した。
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戌四刻(20時半前後)に樋口町の辺が焼失した。
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   ※樋口町: 六波羅から約3km西に樋口町の地名あり(地図)、ここか否かは判らないが。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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閏2月16日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に鞍馬寺(公式サイト)が小堂からの失火が原因で焼失した。
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第五十代桓武天皇の延暦十五年(796)に藤原伊勢人が貴布禰(貴船)明神のお告げに基づいて創建してから既に380余年、専ら帝の都を護持し続けた寺である。
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   ※百錬抄: 鞍馬寺が焼亡した。毘沙門霊像(本尊・国宝)は救い出されたが、大治
元年(1126)以後は起きなかった事件である。
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右画像は国宝毘沙門天像の上部拡大画像。殆どの毘沙門天像は左手に宝塔を掲げているがこの像は右手で鉾を持ち、都の敵を睥睨するかのように左手を翳している。
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橡(とち)材の一木造り・176cm、平安時代中期を過ぎた頃の作品と推定されている。  (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月2日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(深夜2時前後)に将軍家(藤原頼経)がやや体調不良。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月6日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に突然の雷雨あり。
西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月7日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が権大納言に昇叙し、督(右衛門府の長官)と検非違使別当を辞任した。
今日体調不良から回復し(病気の穢を払う)御沐浴、医師の丹波時長朝臣(嘉禎元年(1235)11月18日を参照)が付き添って介助した。
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   ※玉蘂 8日: 早朝に聞書(叙書の控え)を見た。権大納言に藤原頼経(元・権中納言)、権中納言に藤原公相
(元・三位中将)。 午刻(正午前後)に新大納言頼経卿が来臨し、寝殿北面(私室)で面会した。行幸の前に拝賀する事、高位の貴族なのだから外出の際は殿上人と前駈を伴うように助言した。従者は日暮れになってから帰った。
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   ※頼経の位官: 貞永元年(1232)2月に従三位・右近衛中将・備後権守、 天福元年(1233)1月に権中納言、
文暦元年(1235)12月に正三位、権中納言は変わらず、 嘉禎元年(1235)11月に従二位、
嘉禎二年(1236)7月に正二位に昇叙、
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月18日
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吾妻鏡
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海老名左衛門大夫忠行が位記(叙位の辞令)を取り消され、旧来の左衛門尉とする旨の宣下があった。関東の許可を受けず直接朝廷に昇叙を願ったのが理由である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月19日
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吾妻鏡
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昨夜遅くから今日の辰刻(朝8時)まで雨。将軍家(藤原頼経)が北山の別業(別邸・閏2月3日に記載した西園寺邸)に渡御した。亭主である(母方の祖父・西園寺公経)および一條殿(父の九条道家)と前右府(母方の叔父・西園寺実氏)以下、昨夜からこの別邸で待っており、遊興の時を過ごしてから深夜に六波羅に還御した。
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   ※移動距離: 六波羅から金閣寺までは約8km、「牛歩」って言うくらいだから2時間半ぐらいか?
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月22日
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吾妻鏡
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曇・夜になって雨。今日六波羅殿に於いて、南北二京の碩学(学識の深い、この場合は僧)を招き仁王八講を行った。大殿(九条道家)と准后(掄子・母方の伯母)が御聴聞のため入御した。
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   ※玉蘂の記事: 今日、新大納言藤原頼経が六波羅で仁王八講を催した。関東では以前から毎年一度法華八講
を催しているらしい。私(九条道家)も亜相(大納言・頼経を差す)に誘われ、八葉の車に准后(妻の掄子=公経の娘=頼経の生母)と同乗し(非公式に)参席した。
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   ※南北二京: 京都と奈良。この場合の北は比叡山延暦寺で、南は東大寺か興福寺、または両方。
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   ※法華八講: 八巻の経典を八座に分けて講じ完結させる法会。仁王八講は同様に仁王経を当て嵌めた法会。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月23日
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吾妻鏡
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雨。未の三点(概ね14時)に東南東の強風が吹き人家の破損や樹木の折損などが多数発生した。申刻(16時前後)には晴れたが、再び西の強風が吹き荒れた。
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今日、相模国深澤里の大仏堂の建設が始まった。僧浄光が尊卑の緇素(身分の尊卑や出家世俗の区別なく)を勧進を募っての完成を計画している。上品上生 阿弥陀九品来迎印
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   ※深澤里: 当時の深澤は現在の大仏切通しの南、つまり現在の露座
の大仏を祀っている高徳院の一帯までを含んでいた。
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   ※大仏関連: 吾妻鏡 仁治二年(1241)3月27日の記事
午刻(正午前後)に大倉北斗堂の立柱と上棟。前武州北條泰時が立ち会い、前兵庫頭藤原定員と信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)が奉行に任じた。
また深澤の大仏殿も同じく上棟の儀式を行った。
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吾妻鏡 寛元元年(1243)6月16日の記事
深澤村に建立した仏殿に八丈余(約24m)の阿弥陀像を安置して落慶供養を催した。導師は卿僧正良信で讃衆(供養に参加した僧)は10人。勧進聖人浄光房が六年間勧進に務め、身分の尊卑や出家世俗の区別なく勧進に加わった。
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同時代の仁治三年(1242)に成立した紀行文「東関紀行」(著者不詳)には同じ仁治三年に「完成前の大仏殿に参拝した事、大仏と大仏殿が三分の二ほど完成していた事、大仏が木造だった事」が記載してある。そして1243年から1251年の間に木造の大仏と大仏殿は失われ(火事か、地震か)、次は木像ではなく東大寺と同じく金銅の仏像鋳造が開始されるのだが...
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吾妻鏡 建長四年(1252)8月17日の記事
彼岸の七日目に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像の鋳造を開始した。
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大仏鋳造に関する吾妻鏡の記述はこの一ヶ所だけで、その後は工事の経過も開眼供養の様子も含めて全く記録が残っていないのが面白い。ここから、「宝治合戦(1247)で三浦一族の滅亡に直接関与した安達氏が三浦の怨霊を鎮めるため屋敷(甘縄邸の裏山に大仏建立を思い立った」などの話が真実味を帯びてくる。
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   ※釈迦如来: 鎌倉の大仏は釈迦如来ではなく阿弥陀如来。
如来が死者を浄土に迎える印相(手の形と組み方)には九種類があり、簡単に書くと「膝の上で両手を組み人差指の第二関節を曲げて親指と円を描く」のは阿弥陀九品来迎印の「上品上生」 (右画像 クリック→ 拡大表示)
吾妻鏡の編纂者がなぜ間違ったのかは判らない。
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与謝野晶子が「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」と詠んだのは単純ミスか、それとも「阿弥陀仏」よりも「釈迦牟尼」に響きの美しさを求めたのか、これも判らない。
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小学校の遠足で高徳院へ行った際に引率の先生が「かまくらや 大仏なれど みほとけは...」と言ったのを覚えている。何でも忘れる癖に、下らない事は何十年も覚えているんだね。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月24日
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吾妻鏡
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晴、午刻(正午前後)に雨となり雷鳴が数回あった。
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   旧暦の3月24日は西暦の5月9日。ゴールデン・ウィーク明けの春雷だね。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月28日
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吾妻鏡
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晴。今日、四条天皇が春日大社に行幸
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   ※玉蘂は: 「翌29日に行幸還御」と書いている。京都御所~春日大社は片道約42kmだから、時速4km前後の
牛車での一泊旅行としては結構ハードスケジュールだね。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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3月30日
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吾妻鏡
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下野守従五位下藤原朝臣小山朝政法師(法名生西)が没した(享年81歳)。病床に伏して数日にも満たなかった。少し前には弟の上野入道日阿(結城朝光)と共に南都興福寺で登壇し受戒していた。
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   ※登壇受戒: 単なる剃髪ではなく、戒壇に登って僧として守るべき戒を
受けて出家すること。大陸から伝来した仏教が定着し繁栄するとと共に戒律を守らない僧が増えるなどの社会問題が深刻化し、朝廷はこの状態を打開するため正式な受戒(仏弟子となる道徳基準)を与える資格を有する高僧を唐から招き、統一したシステムを構築しようと考えた。
 
この招聘に応じたのが律宗の開祖・鑑真和尚で、天平勝宝五年(753)の来日と共に、正式な受戒の儀式を行う権限を持つ三ヶ所の寺院(三戒壇)が定められた。
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南都の東大寺(公式サイト)、筑紫の観世音寺(wiki)、そして東海道の足柄峠と東山道の碓井峠から東の受戒を受け持ったのが下野薬師寺である。
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下野薬師寺跡と龍興寺への中段で受戒の詳細を紹介した。ここは政争に敗れた弓削道鏡(巨根云々は捏造らしい)が生涯を閉じた場所でもある。
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右画像は下野薬師寺記念館の戒壇模型(画像をクリック→ 拡大表示)。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月2日
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吾妻鏡
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若狭守三浦泰村と出羽前司二階堂行義を評定衆に召し加える旨の仰せがあり、両名も了承した。
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   ※評定衆: 頼朝を継いだ将軍頼家の権限制約を目的に北條時政が主導して正治元年(1199)に設立した13人
の御家人による合議制が原型で、実質的には北條独裁の第一歩だった。
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元仁元年(1224)と翌年にかけて、頼朝以後の幕政の中心を担った北條義時大江廣元北條政子が相次いで没し、義時を継承して執権に任じた北條泰時は権力を維持強化するためにも、執権を長にした集団指導体制を再構築する必要があった。この時点で司法・立法・行政の三権を掌握する事になったのが評定衆で、北條時房と泰時による二頭政治を翼賛する組織の色合いが強い。
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鎌倉時代中期には政治権力の中心が執権をトップとする評定衆ではなく、北條一門の私的な長(惣領)である得宗と得宗被官のグループに移り始め、やがて得宗を中心にした「寄合衆」に権限が集約され、評定衆は徐々に形骸化する。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月6日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が勅授を受ける旨の通達があった。
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   ※勅授: 太政官の奏薦ではなく勅旨で位勲を授けること。五位以上の叙位・六等以上の叙勲が該当する。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月7日
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吾妻鏡
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曇。将軍家(藤原頼経)が大納言に叙された拝賀(神仏や朝廷への御礼)あり。扈従の公卿と殿上人が多数、前駈以下は中納言御拝賀 の例と同じ。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月9日
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吾妻鏡
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晴。今日天台座主(慈源僧正、将軍頼経の同母弟)を拝堂。
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   ※天台座主: 天台宗総本山の比叡山延暦寺貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を統括する。比叡山には住まず、
重要な儀式に際してのみ入山する座主が多かった。慈源は頼経(満19歳)の同母弟だから上限でも17か18歳、比叡山ではなく市内在住だろう。また「拝堂」には新任の僧が本尊を拝する儀式の意味があり、慈源の座主就任が今年(嘉禎四年)である事と関係があるのかも。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月10日
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吾妻鏡
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晴。一條殿(九条道家)の御息若君(福王公、将軍家舎弟)が道家の牛車に同乗し仁和寺御室(法親王)として入られた。兄の右府二条良実と幕下(左大将)の一条實経と将軍家(藤原頼経)が同行、多くの貴族が牛車で続いた。
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この若君(福王)は将軍家猶子だが今回立場を変更、皇族以外がの(法親王として)入室は特異な例である。
夜になって六波羅に還御した。
戌刻(20時前後)に錦小路白河で火災、数十軒が焼失した。その後に小雨。
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   ※道家の子: 長男教実は九条家を継いで従一位摂関・左大臣、次男良実は後に従一位関白・左大臣、三男は
将軍頼経、父に溺愛された四男実経は従一位摂 関白・左大臣、五男円実は興福寺別当となったが石清水八幡宮との紛争で丹波配流、六男慈源は天台座主、仁和寺御室となっ七男の福王(10歳)は臣下として初めて仁和寺第十世となった。
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九条家は教実の代で分裂し、次男良実が二条家・四男実経が一条家の祖として分家している。
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   ※錦小路白河: 八坂神社(公式サイト)の北西辺り (地図)か?
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月11日
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吾妻鏡
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曇、夜更けに小雨あり。将軍家(藤原頼経)が御直衣始めを行なった。
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   ※玉蘂: 今朝、新大納言(頼経)が直衣で参内。前駈六人と殿上人二人を伴った。
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   ※直衣始め: 直衣は公卿の平常服、画像はwikiで。勅許を受けて初めて着する儀式。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月13日
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史 料
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   ※玉蘂: 早朝に新大納言(藤原頼経)が来訪。私(九条道家)は未時(14時前後)に北白河院を訪問した。
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   ※北白河院: 4年前崩御した第86代後堀河天皇の生母で権中納言持明院基家の娘持明院陳子(共にwiki)。
四条天皇を産んだ後堀河の中宮竴子が道家の娘という関係で、北白河院は半年後の10月3日に死去しているから、この訪問は病気見舞いだろうか。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が今日の賀茂祭を御見物、今回の華美な装いは例年を越えているとの噂である。御家人で廷尉(検非違使)の大江能行・中条家平・後藤基政 ・伊賀光重・宇都宮(横田)頼業らが大路の行列に加わった。
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   ※賀茂祭: 通称を葵祭、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭礼(共に公式サイト)。
詳細はこちら(wiki)で。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月18日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が権大納言を辞した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月24日
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吾妻鏡
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雨。今日、一條大殿(九条道家)が兵仗(武官の官職)を辞す。准三后の宣旨が下されたが、これも辞した。
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   ※准三后: 准后・准三后に同じ。太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇及びその処遇を受けた者。
道家の辞任は明日の出家に備えたもの。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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4月25日
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吾妻鏡
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雨。今日、一條大殿(九条道家)が法性寺殿で御素懐を遂げた(念願の出家を遂げた)。戒師は飯室前大僧正良快(九条兼実の息子)、唄師は岡崎法印成源、剃り役は法印印圓。
摂政殿(近衛兼経)を始め、将軍家(藤原頼経)を含む多くの人々が集まった。
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   ※百錬抄の記事: 一條太閤(九条道家)が法性寺別邸で落餝した。
これは長年の宿願で、戒師は飯室の前大僧正良快、御年は46歳、法名行恵を名乗った。保延の例に倣った出家である。と。
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   ※法性寺: 山城国愛宕郡(京都市左京区)に建っていた「勝」の字を含む
祈願寺六山(wiki)の一つで現在は石碑(地図)が残るのみ。
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全ての六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)は院政の衰退と再三の災害と戦乱で応仁の乱(wiki)以後、つまり1477年以後には廃寺となった。
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法勝寺は承保三年(1076)に白河天皇による六寺最初の建立で、中でも最大の規模だったらしい。従一位・摂政関白太政大臣の藤原師実(wiki)が一族の別荘を寄進し、高さ80mの壮麗な八角九重塔が建っていた、と伝わる。 (画像をクリック→ 拡大表示)
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   ※飯室: 比叡山飯室谷にあった寺院で現在の不動堂(公式サイト)らしいが詳細は不明、苦行なんて大嫌いだ。
肉体の鍛錬と精神の浄化は比例しない。精神が清らかであれば、清らかな精神を収めた容器の形状など大きな問題足り得ない。
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   ※唄師: 音節を非常に長く延ばして歌うように唱える唱名。法会の最初などで厳粛な雰囲気を醸すのが目的。
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   ※保延の例: 保延六年(1140)に准三宮宣下を受けながら辞して出家した摂関・太政大臣の藤原忠実(wiki)の
行動を意味するのだろう。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月4日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴・陰。夜になって将軍家(藤原頼経)から金銀を鏤(ちりば)め菖蒲を詰めた御枕と御扇を四条天皇に献上した。
この枕は六位定役として調達するものだが帝の求めに応じての献上である。
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   ※六位定役: 六位の者に課された賦役。菖蒲の香りを好んだのは確か枕草子にも載っていたはず。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月5日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に太白(金星)が軒轅大星(獅子座の星)の軌道を犯した。これは希代の変異であり、延喜と天暦二代の記録に見えるという。
今日、大納言入道坊門忠清殿が左京兆北條泰時に面談の希望を申し入れてきたが、風邪の気配ありとして辞退した。承久の兵乱の際に罪に問われた忠清を泰時が弁護し、結果として故二品政子並びに右京兆北條義時が罪を問わない配慮をしてくれた、その恩に報いたい思いがあった。泰時はそれを知りつつ配慮したものである。
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   ※延喜天暦の治: 第60代醍醐天皇の治世「延喜(901~923年)」と第62代村上天皇の治世「天暦(947~
957)」を神聖視した呼称。摂関政治が定着して中・下流貴族が昇進を得難い体制が続いた中で、延喜と天暦の治世は上級官位への昇進が幾分望める時代だったらしい。そのため中・下級貴族の間では延喜天暦が理想の社会と考える風潮があったという。
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   ※坊門忠清: 内大臣坊門信清の次男で兄が正二位・大納言の忠信、姉妹に三代将軍実朝の正室・信子。
後鳥羽上皇の挙兵に大きく関与した兄・忠信(信子の嘆願により罪を減じて佐渡流罪後に赦免)に連座して失脚した。
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   ※罪を減じて: 吾妻鏡の承久三年(1221)8月1日には「忠信卿が(鎌倉に連行する途中の)遠江国舞沢から
京都に戻った。西八條禅尼(坊門信子)から二品禅尼(政子)への申し入れもあって罪を減じたものである。」との記載がある。赦免はされたが二人共失脚して歴史の舞台から消えており、ここで「大納言」と肩書きを付ける理由はない。零落した忠信が泰時との接触を試みたのかも。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月11日
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吾妻鏡
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故左衛門尉坂上明定の子息左兵衛尉明胤が領掌している亡父の遺領について確実に安堵(承認)する旨の決裁があった。石見国長田保(島根県浜田市金城町長田・地図)と播磨国巨智庄(姫路市夢前町古知之庄・地図)の地頭職、河内国の藍作りの奉行、近江国天福寺(長浜市大光町に天福寺の字名あり・地図)の地頭職などである。
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去年10月4日に父の明定がこれらを譲った後に死去した。明定は名人(明法道の識者)だったことから、左京兆(泰時)は遺児の明胤を特に気遣っていた。
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   ※坂上氏: 坂上 田村麻呂を祖とする名家で明法道の識者。初期の鎌倉幕府は既存の律令法や公家法を根拠
にせず武士の慣習や道徳に基づく裁判を行ったとされる。
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ただし、政所や問注所を実質的に運営したのは京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者、例えば 大江廣元中原親能三善康信らが主体だった。彼らを引き継いだ一人である坂上明定が泰時の御成敗式目制定に関与しただろう事は容易に想像される。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月16日
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吾妻鏡
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今日、将軍家(藤原頼経)が右府(右大臣二条良実・wiki)邸に渡御した。歓談の最中に若君(福王公)が飼っている小鳥が籠から飛び立って庭の橘の梢に止まった。若君は嘆き悲しんだが、近習や侍らも捕らえる方策がない。
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同席した公卿の一人が若君に「将軍家が連れている弓の名人を呼んで射取らせましょう」と提案、若君は頼経にその旨を話し、頼経は敢えて若手の上野十郎結城朝村(結城朝光の八男)を召し、鳥を殺さず捕らえるよう命じた。
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朝村は辞退もできず、弓と引目の矢(鏃のない鏑矢)を持って橘の下に進んだが茂った葉の間から鳥の姿が僅かに見えるのみ、養由でなければ無理だと思われた。朝村は庭に屈み小刀で引目の穴を削って広げ、橘の下を数度廻って状態を確認した。
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人々は瞬きもせず見守り、朝村は遂に矢を放った。鳥の声は止み、朝村は庭に落ちた鏑矢を持って御前に届けた。鳥は削って広げた引目の中に取り込まれて少しの傷も負わず、籠の中に入れると尾羽を動かして囀った。
見ていた人々は感嘆の声を挙げた。将軍家は御衣を脱ぎ、二条良実は御剣を運ばせてそれぞれ朝村に与えた。
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   ※福王公: 九条道家の五男(10歳)で頼経の弟・後の仁和寺御室(法親王)法助(4月10日の記事を参照)。
良実は九条道家の次男で頼経の次兄(26歳)。
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   ※小鳥: 原文は「鳩皐于鳥」、籠で飼われ囀りを楽しめる小鳥で、直径がせいぜい6~7cmの鏑矢(引目・蟇目)
の中に入るのだから鳩とは別種、十姉妹より小さい程と考えるべきか。
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   ※養由基: 中国春秋時代の楚の武将。彼の矢は甲冑7枚を射抜き、100歩離れた柳の葉さえも射損じなかった
と伝わる弓の名人。飼っていた白猿を楚王が射ても白猿は飛んでくる矢を空中で掴み戯れていたが、養由が弓を持っただけで柱にしがみつき泣き喚いたという。まぁ白髪三千丈みたいな話、ね。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月19日
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吾妻鏡
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小雨、申刻(16時前後)から晴。最勝講が始められた。
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   ※最勝講: 5吉日の5日間に清涼殿で行なった法会。東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の高僧を招き最勝王経の
10巻を朝夕に講じて天下太平・国家安穏を祈った法会。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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5月20日
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吾妻鏡
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陰・晴。今日、将軍家(藤原頼経)の御家人左衛門少尉藤原(笠間朝時)と藤原・上野十郎結城朝村(結城朝光の八男)を前右大臣家 (西園寺実氏(wiki)・普光園)の御簡(近侍)衆として仕える任務を与えた。
朝村の着任は(16日に見せた)弓箭の技に感心した(二条家=良実の)御所望による。
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   ※笠間朝時: 下野の塩谷から笠間に移った経緯が面白い。鎌倉時代初期の常陸中部では正福寺(公式サイト・
地図)と徳蔵寺(参考サイト・地図)が同じ真言宗ながら激しく覇権を争っており、劣勢になった正福寺の僧兵が宇都宮頼綱に援軍を求め、頼綱は甥で養子の塩谷時朝に軍勢を与えて派遣した。
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元久二年(1205)に笠間に入った時朝は徳蔵寺を攻める拠点にするため正福寺に近い佐白山麓に城を築き、間もなく徳蔵寺の僧兵を鎮圧したが、時朝の勢力拡大を警戒した正福寺と対立してこちらも鎮圧する結果となった。時朝の子孫は以後の18代に亘り笠間を支配することとなる。
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宇都宮市の側に笠間を支配下に収める計画があったのかは不明だが、益子付近まで勢力下に収めていた宇都宮氏が常陸国に食指を伸ばしたとしても不思議はない。
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元久二年には宇都宮頼綱が謀反を疑われて出家・蟄居に追い込まれている(8月7日~8月19日の吾妻鏡を参照)。笠間での兵乱と何らかの関係があったのかも知れない。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が春日社に御参拝。申刻(16時前後)に雨、夜更けにに及び雷鳴と降雹あり。
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  出御の行列
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  先ず駿河前司三浦義村配下の随兵が六騎
   一番   長尾平内左衛門尉景茂  同三郎兵衛尉光景
   二番   駿河四郎左衛門尉三浦家村  三浦次郎有村
   三番   駿河五郎左衛門尉三浦資村  同八郎左衛門尉三浦胤村
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  先陣
  次いで御所随兵三十騎
   一番   河内守三浦光村  千葉八郎胤時  右衛門尉梶原景俊
   二番   右衛門尉下河邊行光  左衛門尉関政泰  左衛門尉三浦又太郎氏村
   三番   左衛門尉佐渡次郎後藤基親  佐竹八郎助義  壱岐三郎左衛門尉時清
   五番   図書助筑後時家  左衛尉伊東三郎祐綱  左衛門尉宇佐美與一祐村
   六番   遠江次郎左衛門尉佐原光盛  和泉次郎左衛門尉天野景氏  左衛門尉加藤行景
   七番   武田六郎信長  大井太郎光長  近江四郎左衛門尉佐々木氏信
   八番   若狭守三浦泰村  秋田城介安達義景  肥前前司佐原家連
   九番   相模六郎北條時定  足利五郎長氏  掃部助河越泰重
   十番   左近大夫将監北條経時  遠江式部大夫北條光時  陸奥掃部助北條實時
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  次いで御輿(御簾を上げている。御弓袋差以下は入洛時の際と同じ)
   江戸八郎太郎景益  山内籐内通景  品河小三郎實員
       各々交代で御剣を持つ。
   池上籐兵衛尉康光  中澤十郎兵衛尉成綱  本間次郎左衛門尉信忠
   小河三郎兵衛尉直行  阿保次郎左衛門尉泰實  猪俣左衛門尉範政
   四方田五郎左衛門尉資綱  本庄新左衛門尉朝次  修理進三郎宗長
   平左衛門三郎盛時  立河三郎兵衛尉基泰  荏原三郎貞政
    以上十五人は直垂で帯剣し御輿の左右に列歩。五人づつ順番に、二里毎に交代して休息する。
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  次いで水干の人々
   一番   相模守北條重時  武蔵守北條朝直  右馬権頭北條政村  宮内少輔足利泰氏
   二番   越後守北條時盛  甲斐守長井泰秀  下野守宇都宮泰綱
   三番   玄蕃頭後藤基綱  壱岐大夫判官佐々木泰綱  豊前大炊助親秀  宇都宮判官頼業
   四番   肥後前司狩野為佐  江大夫判官大江能行  出羽判官中条家平
   五番   大蔵少輔加藤景朝  左衛門大夫伊賀光重  後藤佐渡判官後藤基政
   六番   和泉前司天野政景  大和前司伊東祐時  信濃民部大夫二階堂行泰
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  後陣
   左京権大夫北條泰時   修理権大夫北條時房 
    この両名の後に騎馬の数百人が雲霞の如く続く。この他に人々の従者が前後に群を成している。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月6日
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吾妻鏡
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晴日中雷雨。今日、将軍家(藤原頼経)が春日社から還御した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月7日
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吾妻鏡
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晴。遠江三郎北條時長が蔵人に任じた。布衣(狩衣)の侍五人と雑色一人(如木・糊を強く効かせた装束)と童一人を伴って参内、併せて右衛門権少尉に任じた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月9日
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吾妻鏡
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紀伊国日前宮の造営については、成功により造畢せよとの宣下があり、将軍家(藤原頼経)は推薦する者に任せていたが、未だ申し出なしとの訴えが神社から出された。そのため漏れなく申請せよとの指示が発せられた。
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   ※日前宮: 紀伊国一之宮。同じ境内に二社の大社(日前神宮・國懸神宮)を祀っている。詳細は公式サイトで。
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   ※成功: 国費の不足を補うため、朝廷に私財を献じた者に官職を授与する売官制度。平安時代中期以降頻繁に
行われた。昔は五位に昇って検非違使に任官するのが東国武士の夢だったのだが...。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月10日
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吾妻鏡
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加賀前司町野康俊が重体に陥り、問注所執事の辞任を申し出ている。子息の民部大夫町野康持を後任に充てるよう仰せがあった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月14日
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吾妻鏡
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前加賀守で従五位上の町野康俊朝臣が死去した(享年72)。
西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月19日
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吾妻鏡
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洛中の治安を守るため町の辻々に篝(かがり火を焚く鉄製の籠)を置いて灯す事が決まり、その役を御家人らに割り当てる事になった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月23日
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吾妻鏡
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禅定殿下(九条道家)の若君(福王公)が右府(右大臣二条良実・wiki)の牛車に同乗して仁和寺に入御した。
前駈は10人、後に続く公卿は7・8人、侍は10人。今日剃髪の予定である。
戌刻(20時前後)に北の方向で火災があった。
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   ※福王と右府: 5月16日および4月10日の記事を参照されたし。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月24日
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吾妻鏡
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一晩中雨降。今日、土御門大納言通方卿(源(土御門)通親の五男・50歳)薨じ、左京兆北條泰時が弔問した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月25日
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吾妻鏡
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終日雨。丑刻(深夜2時前後)に強風と霹靂(落雷)と洪水があり多くの民家が倒壊した。栂尾の清瀧河あたりに蛇が出た、と。
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   ※栂尾の清瀧河: 神護寺高山寺(共に公式サイト)は清瀧河流域にある。蛇の10匹や20匹が出ても不思議
じゃないが、蛇が出る=洪水を意味するのか。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月26日
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吾妻鏡
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晴。今日予定していた摂政殿(近衛兼経・wiki)が宇治入りを延期した。昨夜の雨による洪水が理由である。
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   ※宇治入り: 近衛兼経はこの年の6月18日に左大臣を辞しているが引き続き摂政に任じ、仁治元年(1240)の
12月から翌年12月まで太政大臣(いわば名誉職)に任じているから完全に政界から引退したわけではなく、嘉禎四年の宇治入りは引退と休暇の中間程度なのだろうか。
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兼経は6月18日に臣下としての最高位・左大臣を辞任している。建長四年(1252)には異母弟に摂政を譲り、晩年は宇治の別邸・岡屋殿(現在の西方寺・地図)に隠居して没したが、ちなみに旧暦の6月26日は西暦の8月7日、台風で宇治川か山科川が増水したのだろう。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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6月28日
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吾妻鏡
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晴、夜が近づいた頃に雷雨。今日の大臣認証式予定が来月に延期となった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月2日
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吾妻鏡
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晴、午刻(正午前後)から雨。今日、大臣の召仰(帝による認証式)あり。
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   ※大臣: 左大臣の上位である太政大臣には功労者を処遇する名誉職(代表権のない名誉会長か)の傾向があり
特に決まった職掌を持たない。常設の職位でもなく、実質は左大臣が最高位だった。今回の大臣任命は、右大臣が二条良実三条実親へ、左大臣が近衛兼経二条良実(いずれもwiki)に代わった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月9日
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吾妻鏡
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晴。今日、摂政殿(近衛兼経)が宇治入り(宇治の別邸・岡屋殿、6月26日を参照)した。
扈従は殿上人が数十人・公卿一人(御弟の大納言殿(異母弟の鷹司兼平・wiki)である。
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   ※百錬抄: 人々が見物する中で摂政が宇治入りした。また、近日中に一条大路と大宮末大路の要所に兵士が
駐屯し篝火を 焚く事になった。これは群盗の防御が目的で諸人を安心させるためである。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月10日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に螢惑(火星)と鎮星(土星)の動きに変異ありと司天の輩(天文担当)が勘文(諮問に対する上申書)を提出した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月11日
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吾妻鏡
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左京兆北條泰時が非公式に園城寺(三井寺・公式サイト)を訪れた。
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去年が禅定二位家(政子)の十三回忌に当たり、今日また命日を迎えるに当たって、その恩に報いるため鎌倉で書き終えた一切経五千余巻を唐院に納めるのが目的である。
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園城寺は故人が深く帰依し、また施主である泰時も他とは異なる信仰を寄せている寺で、経巻の一巻毎の奥書に花押を書き加えてある。
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   ※唐院: 智証大師円珍が貞観十年(868)に内裏の仁寿殿を下賜され、
唐から持ち帰った経典や法具を納め伝法潅頂の道場とした。
現在の建物(右画像)は秀吉に破壊された後の慶長三年(1598)に建造された国の重要文化財。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は元々の本座(本来の官職・征夷大将軍)の宣旨を受けた。
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   ※官職の変更: 将軍頼経は3月7日に権大納言に昇叙し督(右衛門府の長官)と検非違使別当を辞任している。
官職の移動は面倒くさい。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月17日
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吾妻鏡
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小雨。准后(掄子・禅定殿下(九条道家)の正室)法性寺殿落飾された。戒師は飯室僧正良快(九条兼実の息子・4月25日を参照)。
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   ※掄子(綸子): 西園寺公経の娘。 九条教実二条良実将軍頼経一条実経藤原竴子(後堀河天皇中宮、
四条天皇の母)の生母。  九条教実・二条良実・一条実経・藤原竴子はwikiにリンク。
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   ※法性寺殿: 蓮華王院(三十三間堂)の東側一帯にあった元後白河法皇の御所。関連記事は建久二年(1191)
2月21日・同三年3月26日・同六年9月18日の吾妻鏡で。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月20日
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吾妻鏡
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晴。今日、大臣任命の節会あり。左大臣は二条良実、右大臣は三条実親、内大臣は大炊御門家嗣(共にwiki)。
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   ※節会: 公式行事に伴って宮中で行なった宴会で、この日には天皇が出御し群臣に酒食が与えられた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月23日
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吾妻鏡
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晴・陰、戌刻(20時前後)に小雨。卯の一刻(早暁3時過ぎ)に将軍家(藤原頼経)が石清水八幡宮(公式サイト)に参詣し、午刻(正午前後)に還御した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月25日
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吾妻鏡
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晴・陰。法性寺禅定殿下(九条道家)が出家後初めての御参内。前駈が四人と僧官四人を伴い、その後に出家者用と在家者用の牛車各一台が続く。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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7月27日
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吾妻鏡
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六波羅で計画している建物造営の負担の割り当てについて、納めていない国々は早急に完済するようにとの仰せがあった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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8月2日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)は兼ねてからの御願を果たすため春日大社(公式サイト・藤原氏の氏寺)で一切経供養の献納を行なった。導師は東北院僧正圓玄、唱名を担当する僧は百人である。
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   ※百錬抄: 将軍家が春日社で一切経供養を行なった。願文作成は大蔵卿菅原為長(wiki)、百僧供養である。
   ※東北院僧正圓玄: 興福寺の57代別当で東北院は号、権大納言正二位四条隆季の息子。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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8月18日
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吾妻鏡
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終日雨。八所の御霊祭は延期となった。
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   ※八所の御霊祭: 桓武天皇の時代に疫病が流行し、恨みを抱いたまま
没した霊の祟りと考えた朝廷は怨霊を鎮めるため、貞観五年(863)に神泉苑で催した御霊会が最初。
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この時は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿が慰霊され、後に吉備真備と火雷神を加えて八所御霊となった。
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最も古い御霊神社として上御霊神社下御霊神社(共に公式サイト)に引き継がれている。
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   ※神泉苑: 寿永三年(1184)夏に後白河法皇が雨乞いの祈祷を催した
禁苑(宮中の庭園)。詳細は右画像をクリックして義経が白拍子静を見初めた神泉苑で。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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8月19日
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吾妻鏡
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雨が止み、再び時雨などがあった。
山城国の悪党新平太を捕らえようとしたが取り逃がした。見掛けた場合は生け捕るよう山城国(概ね京都府)と大和国(概ね奈良県全域と和歌山県北部)の住人に指示を下し、併せて双六の禁止を命じた。
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今日、御霊祭。将軍家(藤原頼経)は今出河殿で見物、渡物(山車)などの風情が例年よりも豪華だったらしい。
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   ※時雨: 嘉禎四年8月19日は西暦の9月28日、時雨(秋~冬の一時的な降雨)
の季節に辛うじて該当する。
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   ※今出河殿: 西園寺家の別邸が今出川通にあり、頼経はそこで「八所の御霊祭
の山車が上御霊神社と下御霊神社を結ぶルートを通るのを見物した」という事か。    右画像は両御霊神社と今出川通の交差地図。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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8月25日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が賀茂・祇園・北野・吉田の社に参拝した。
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   ※百錬抄: 将軍が吉田社に参詣、神馬を奉納した。白妙幣(奉幣の一種)は通例の通り。
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   ※神社: 賀茂は下鴨神社上賀茂神社の総称、祇園は現在の八坂神社、北野は北野天満宮、吉田は左京区
吉田神社(いずれも公式サイト)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月1日
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吾妻鏡
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雨。(鎌倉では)左京兆北條泰時七夜繰り返す大土公祭が始められた。今夜は安倍泰貞朝臣の担当で、清基・家氏・晴茂・国継・親職朝臣らが順番に担当する。
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   ※大土公祭: 土公神とは、春は竈・夏は門・秋は井戸・冬は庭にいる遊行神で、その時期の犯土や増改築は祟り
を招く。今回は泰時邸の増改築に対応して陰陽道の祭祀だが、「大」の意味は判らない。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月9日
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に太白(金星)が大微の右執法星(乙女座の星)の軌道を犯すと同時に螢惑(火星)が軒轅(獅子座の星)の軌道を犯した。更に戌刻(20時前後)には月が歳星(木星)の軌道一尺を犯し、亥刻(22時前後)から丑時(2時前後)まで、白または赤い流星が七~八尺あるいは三~四尺の範囲を無数に流れた。
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今日、兵衛入道斉藤浄円(長定)を奉行として地頭の権限についての評議があり、数条の決裁があった。
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まず、本司の跡(父祖伝来の所領)であっても新補(承久の乱の恩賞)であっても、収入は元々定められた割合での徴収を守るよう命じてある。それを守らない場合は改易し、勲功に応じた恩賞を受けていない者に配分する。
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次に、地頭に補任された者は先例を守らなかったり父祖の前例に違背しているとの訴訟が起きた際は、指示命令に従わなければ所領を没収し、忠勤を励んでいる者や所領の入替えに充当する。次に、幕府の催す祭祀に任じている者であっても同様の事例があれば他の者に分与する。
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   ※地頭取り分: 文治元年(1185)11月、頼朝義経探索を根拠として諸国に守護地頭を置き、公領・荘園を
問わず反当り5升の兵粮米徴収を朝廷に認めさせた。換算すると、領主にとって実質5%程度の減収になる。他に年貢として、11町当り1町分、こちらは領主にとって実質9%の減収になる。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月11日
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吾妻鏡
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山城国(京都府)の庄園・郷・保(行政区分単位)に依拠している悪党を厳重に取り締まるよう沙汰が下された。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月13日
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吾妻鏡
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晴、十三夜の明月である。左京兆北條泰時は以前在京していた頃の知人と現在も懇意にしている。名月を介して和歌一首を贈り、懐旧の情を温めた。    みやこにて いまもかはらぬ 月影に むかしの秋を うつしてそみる
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   ※昔の知人: 泰時より11歳年上の宇都宮氏五代当主・宇都宮頼綱。元久二年(1205)の 北條時政夫妻失脚
に関連して8月には謀反の嫌疑を受け、罪には問われなかったが出家して蓮生を名乗り京都嵯峨野に隠棲した。歌人としても著名で藤原定家とも親交があった。
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一方で泰時は承久の乱(1221)の鎮圧後に京都に残り、新設の六波羅探題上席の北方(南方は北條時房)として、貞応三年(1224)6月に北條義時が死没して鎌倉に帰り執権を継承するまでの約三年間、京都に駐留していた。この時に交際があったのだろう。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月18日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜12時前後)に殿下(近衛兼経・wiki)の北政所(正室・九条道家の娘仁子)が女の子を流産、七ケ月だった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月19日
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吾妻鏡
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晴・右馬権頭北條政村が将軍家の使者として九条道家邸を弔問した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月20日
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吾妻鏡
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賀茂別雷社(上賀茂神社)領の近江国安曇河御厨の内藤江村については入部(干渉)を控えるよう守護人の近江入道虚仮(佐々木信綱)に指示した。これは特に神を敬う信仰心の故である。
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   ※御厨内藤江村: 現在の安曇川町四津川藤江(地図)。琵琶湖で獲った魚を献饌として神社に献納する供御人
(安曇川の場合は供祭人)を務めていた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月22日
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吾妻鏡
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晴。初斎宮が野宮に入御した。
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   ※百錬抄: 初斎宮が東河(一條末)で禊ぎをした後に野宮に入御した。
一月に二度の禊ぎを行なうのは天禄(970~973年)の例に倣っている。
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   ※初斎宮: 斎王が初めて潔斎する場所。その後に野宮に入り、初斎宮
から三年目の9月に野宮を出て禊を行い、宮中で所定の儀式を済ませてから伊勢に向けて出発する。
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   ※野宮: 嵯峨野宮町に造営された斎王の殿舎で、一代で取り壊す習慣
だった。野宮神社(公式サイト)の一帯が跡地とされているが、正確には確認できていない。
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   ※東河(一條末): 帝の禊にも使われた鴨川西岸らしいが良く判らない。
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   ※斎王: ここで述べるのは賀茂祭(葵祭)の主人公として行列に加わる斎
王ではなく、伊勢に駐在して神宮の祭神に奉仕した未婚の内親王または女王(当時は帝の直系で六親等まで)を差す。
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任務から解放されるのは帝の崩御か退位・父母近親の死没・当人の密通(実際にあったらしい)など様々で、退任後の入内や婚姻するケースもあるが、大部分は独身のままで過ごしたらしい。
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今回の斎王は後堀河天皇の第三皇女で延応元年(1239)9月に伊勢群行、仁治三年(1242)1月の四条天皇崩御により退任、寛元四年(1246)8月に16歳で没している。
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斎王に関する行事は鎌倉時代中期から徐々に衰退し後醍醐天皇の建武三年(1336)頃に廃絶した。
伊勢旅行の機会があれば斎王歴史博物館(公式サイト)と斎宮の遺跡を歩いて王朝の歴史に触れてみよう。
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右画像は歴史公園として整備が進む伊勢斎宮跡。上から...
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近鉄山田線斎宮駅から歴史博物館周辺の地図。
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同じく、史跡の広域図。
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同じく、発掘調査が進む建物群の詳細図。
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全体の鳥瞰画像。斎宮跡から伊勢外宮まで約11km、
内宮までは約15km。  画像をクリック→ 拡大表示。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月24日
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吾妻鏡
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晴。弁僧正定豪が死去した。去年東寺長者(貫主)に補任されてから余り時が過ぎていない。民部権少輔源延俊の息子、兼豪法印の灌頂(wiki)を受けた弟子である。
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   ※去年: 嘉禎二年(1236)12月7日に「親厳僧正死去の後継として東寺長者に補任のため上洛の途に就いた」
との記事がある。文暦元年(1234)7月に将軍藤原頼経の正室 竹御所出産の護持僧を務め、母子の死没によって東大寺別当と東寺二長者(副)を辞任し、間もなく東寺長者に復帰していた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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9月27日
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吾妻鏡
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晴。御家人の任官について、所望する者が成功を値切る相談(談合)をしている旨の情報があり、今日協議の末に中止の命令が発せられ、成功(売官)の規定を守らない者は推挙しないと定めた。
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将軍家の京都滞在の折に官位を望む者が多く、従って推挙の例も増えている。今後の方針を明確にするための評議である。詮勾勘者(推挙の是非を判断する担当)は相模三郎入道眞昭(北條資時)である。
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   ※成功: 国費の不足を補うため、朝廷に私財を献じた者に官職を授与する売官制度。平安時代中期以降頻繁に
行われた。昔は五位に昇って検非違使に任官するのが東国武士の夢だったのだが...。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陰・晴、夜になって激しい雨。今日、鞍馬寺の上棟。
将軍家(藤原頼経)も御奉加(寄進)として馬三疋・御剣・砂金などを贈り、河越掃部助泰重が使者を務めた。
今夜、北白河院(禁裏御母)が崩御・日頃から脚気を病んでいた、と。
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   ※河越泰重: 義経の舅・河越重頼と嫡男重房は頼朝に粛清され(文治元年(1185)11月12日の記事を参照)、
次男の重時が家督の継承を許された。重時の長男が北條泰時の偏諱を受けた泰重。
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   ※偏諱: 烏帽子親として一字を与え、親子関係に近い関係を構築する北條得宗家の御家人支配策の一種。
例えば河越氏は御家人として鎌倉殿(将軍家)との間に主従関係を結んでいるのだが、偏諱を受け入れる事によって実質的に北條氏との主従関係を深めている。
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泰重の嫡子経重は四代執権北條経時の、その嫡子宗重は八代執権北條時宗の、その弟で家督を継いだ貞重は九代執権北條貞時の、その嫡子高重は十四代執権北條高時の、各々偏諱を受けている。
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貞重は元弘三年(1333)の六波羅探題配下として足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受け自刃を遂げたが、嫡子高重の方は武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加わり、倒幕軍として転戦している。
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   ※北白河院: 後高倉院 (高倉天皇の第2皇子)の妃で後堀河天皇の生母藤原陳子(享年66)。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月4日
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吾妻鏡
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雨。松殿禅定殿下(松殿師家)が天王寺で死去した。
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今日、南都東大寺別院の住僧武蔵得業隆圓を東大寺の別当職に補任した。これは一昨年の奈良衆徒蜂起の際に関東のため忠節を顕した際に交わした「抜擢しよう」との約束があったからである。
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前任の別当頼暁得業は承久の乱で首謀者の一人だった(藤原)秀康の子息を匿い、更に山辺庄の押領にも関与する罪を犯している。更迭せよとの要求を東大寺別当僧の指導部に申し入れたところ、
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山辺庄は頼暁が私的に相続したもので本所(東大寺)が関与する範囲ではない、彼の罪によって没収するのであれば直接命令されたし。
               との回答があり、この措置となった。
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   ※得業隆圓: 鎌倉の南都社寺対策に協力していた興福寺の従僧。
嘉禎二年(1236)3月21日・10月2日と5日に関連記事あり。
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   ※山辺庄: 正確な位置は確認できないが中世の山邊郡は現在の天理・奈良市
南西部・山添村を含む。(右上画像を参照)
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また記録に残る最古の道「山の辺の道」は現在の天理駅付近から桜井駅付近まで、文字通り「山並みの西辺」を通っていた。
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  右下画像・緑線のルートより更に東、崇仁天皇陵や景行天皇陵の
  東側を通る「歴史の道」が整備されている。

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山邊郡から宇陀市北部のどこかに山辺庄があったのだろうか。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月7日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時は弔問の使者として小野沢左近大夫仲実松殿師家邸に派遣した。
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   ※官位官職: 泰時は3月18日に従四位下から従四位上に昇叙。4月6日に武蔵守を、12月7日に左京権大夫
を辞任している。
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   ※小野沢仲実: 吾妻鏡の建長三年(1251)12月3日に次の記載がある。実務担当の北條被官だろう。
この時の執権は四代の北條経時を挟んで五代の北條経頼が任じている。
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鎌倉各所の小町屋(商人や職人の店)を設ける事には、以前から禁制を加えている。今日以後は次の各所のみを認め、その他は一切禁止を厳命する。佐渡大夫判官基政と小野沢左近大夫入道光蓮がこれを差配する。
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認可ヶ所は大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上。また牛を小路に繋いではならず、小路は掃除して清潔を保つこと。   建長3年 12月3日

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話のついでに町屋を落とし込んだ地図を載せておいた。詳細情報は改めて別項で。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月9日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に女院(10月3日を参照)を北白河殿に葬送した。
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   ※北白河殿: 現在の北白川久保田町(地図)と考える説が有力らしい。山州名跡志(元禄年間編纂の地誌)は
更に西の後二条天皇陵だと書いている。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月11日
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吾妻鏡
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丹後国の曽我部庄後白河院法華堂(建久三年(1192)3月26日を参照)の領地なので地頭を補任しておらず、従って守護人も関与していない。野盗などの事件が発生した場合は荘官が調査して犯人を(六波羅に)引き渡すよう、前武蔵守北條泰時が決定した。
これは故右幕下(頼朝)の遺命でもあり、この法華堂の事を重要に思われていた経緯がある。
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   ※曽我部庄: 現在の京都府亀岡市曽我部町(地図)、従って丹後ではなく丹波の誤記(京都府地図を参考に)。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月12日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御直衣(公卿の平服)・八葉車で御参内。左馬権頭盛長・刑部少輔家盛ら供奉、後車には藤原親季(参議)朝臣が乗っている。その後一條の九条道家邸と今出河の西園寺公経邸に渡御し、明日関東に向けて出発する挨拶を済ませた。一條殿では多数の贈物を受けた。拾遺納言(藤原行成卿・wiki・著名な書家)真筆の古今和歌集、丹波雅忠朝臣が父祖から受け継いでいた医書などが含まれている。
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今日、畿内と西国の庄園・郷・保(土地の行政単位)の武士の中で好んで強竊(強盗と窃盗)・博奕・刃傷・殺害を常習している者は社寺や身分の高さやなどを問わず即刻捕縛しするか、居住地を報告するよう守護人に通達した。
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   ※丹波雅忠: 平安時代中期の医師で典薬頭・施薬院使、後冷泉天皇や関白藤原頼通を治療している。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月13日
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吾妻鏡
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晴。寅の一点(深夜1時過ぎ)に将軍家(藤原頼経)が鎌倉に出発。護持僧は岡崎僧正成源、医師は良基・時長、陰陽師は泰貞・晴賢、朝廷から陰陽頭の維範朝臣が付き添い、安倍忠尚・安倍季尚・賀茂在直らの朝臣が護持の祈祷を行なった。前後陣の供奉人と随兵の構成は御入洛の際と同様だが、各々の装いは今回の方が華美である。
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大相国禅閤(西園寺公経)が四宮河原で御見物。堀河大納言(堀川通具卿・wiki)は大津浦に車を停めて見送った。
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その他、公卿や殿上人の牛車は数知れず、見物人は垣をなした。酉刻(18時前後)に小脇の駅に到着、近江入道虚仮(佐々木信綱)が設けた御所(2月14日を参照)に入御した。接待の豪華さは素晴らしい内容である。
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   ※四宮河原: JR山科駅の南側、東海道が四宮川を渡る一帯を差す。
右画像はスタートを六波羅(探題)、ゴールを膳所にした。
平家物語 「六代」の条の次の記載がある。
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最後の御供で候らへば、苦しうも候らはず」とて、血の涙を流して、足にまかしてぞ下りける。若君は、さしも離れ難くおぼしける母上、乳母の女房にも別れ果て、住み慣れし都をば、雲井のよそに顧みて、今日を限りの東路におもむかれけん心のうち、推し量れてあはれなり。 駒を速むる武士あれば、我が首切らんかと肝を消し、物を言い交わすもの有れば、すは今やと心を尽くす。四宮川原と思へども、関山をもうち過ぎて、大津の浦にもなりにけり。粟津の原かとうかがへば、今日もはや暮れにけり。国々宿々うち過ぎうち過ぎ下りたまふほどに、駿河の国にもなりしかば、若君の露の御命、今日を限りとぞみえし。
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六代は小松三位中将平惟盛の嫡子。この時は沼津の千本松原で斬られる間際を 文覚上人の尽力で助命されたが、10年後の頼朝死没によって文覚も庇護者を失って隠岐流罪、神護寺で出家していた六代も連座して斬首となった。
詳細は伝・平惟盛の墓と沼津の六代松碑の後段部分で。
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   ※行程: 深夜に出発して17時間の少しハードな行程、約47km。今夜は佐々木邸で宴会だ!
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月14日
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吾妻鏡
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晴。匠作北條時房と前武蔵守北條泰時が旅の御所(佐々木信綱邸内)に参上し、然るべき御家人の多くが小侍所に列座し数献の盃酒があり、木工助佐野俊職らが陪膳(食膳の給仕)に任じた。虚仮(佐々木信綱)が御引出物を献じ、巳刻(午前10時前後)に出立となった。未(14時前後)から雨、酉斜め(18時前後)に箕浦の宿に入った。
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   ※箕浦: 米原市箕浦(地図)。行程約8時間で約30km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月15日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に垂井の宿(2月13日を参照)に入った。
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   ※行程: 箕浦から垂井まで、約23km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月16日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に小隈の宿(2月12日を参照)に入った。
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   ※行程: 垂井から小隈まで、約17km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月17日
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吾妻鏡
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晴。萱津(2月10日を参照)の宿に入った。
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   ※行程: 小隈から萱津まで、約32km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月18日
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吾妻鏡
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晴。熱田社(熱田神宮・公式サイト)への御奉幣を経て酉の一点(17時過ぎ)に矢作の宿に近い左馬頭足利義氏邸(2月9日を参照)に入御。
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   ※行程: 萱津から足利義氏邸まで、約40km。熱田神宮訪問記はこちらで。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月19日
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吾妻鏡
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夜になって雨。戌一刻(19時過ぎ)に豊河の駅(2月8日を参照)に着御。
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   ※行程: 足利義氏邸から豊川まで、約29km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月20日
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吾妻鏡
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風雨。辰刻(8時前後)に出御、本野原(豊川市・地図) 付近で暴風雨に遭遇したが御輿の前後を警護する武士は笠を差さず、鼻から垂れる雨水を舐めるが如くだった。午刻(正午前後)過ぎに雨が止み、酉刻(18時前後)に橋本の宿(2月7日を参照)に入った。
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   ※行程: 豊川から橋本まで、約28km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月21日
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吾妻鏡
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晴。池田の宿(2月6日を参照)に入った。
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   ※行程: 橋本から池田まで、約27km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月22日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に懸河の宿(2月6日を参照)に入った。
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   ※行程: 池田から懸河まで、約20km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月23日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に嶋田の宿(2月4日を参照)に入った。
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   ※行程: 懸河(現在の掛川市)から嶋田(現在の島田市)まで、約18km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月24日
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吾妻鏡
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晴。手越の宿(2月4日を参照)に入った。
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   ※行程: 嶋田から手越までは約26kmだが、翌日の記事には「体調不良のため蒲原の宿に御逗留」とある。
嶋田から蒲原までは54kmだから前後の行程と頼経の体調不良を考えれば間に1~2日を挟む筈で、中間地点の手越に宿泊するのが常識的。日程か行程のどちらかに誤記がある、と思う。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月25日
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吾妻鏡
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晴。蒲原の宿に御逗留。将軍家(藤原頼経)の体調不良による。
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   ※行程: 手越から蒲原まで、約29km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月26日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に車返の牧宿(2月1日を参照)に入った。
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   ※行程: 蒲原から車返まで、約26km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月27日
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吾妻鏡
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晴。鮎澤竹下の宿に入った。
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   ※鮎澤竹下: この地名は現存しないが、鮎沢川東岸の竹之下・嶽之下(地図)が該当すると考えて良いだろう。
文字通り足柄峠の麓で、往路で宿泊した藍澤(1月29日を参照)からは約7km北西(足柄峠寄り)になる。車返から竹下まで約35km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月28日
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吾妻鏡
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晴。酒匂の駅(1月28日を参照)の濱部御所に入った。
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   ※行程: 竹之下から酒匂まで、約26km。「新編相模国風土記稿」に拠れば、「東海道から北に折れた町並み、
北側に土手の痕跡が残る付近を御所小路と称した」との記述がある。将軍家が宿所とした「伝・濱部御所」は西酒勾二丁目付近(地図)の可能性がある。
往路と同様に袋も箱根路ではなく、足柄路を利用している。
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蛇足だが、藤原定家の嫡男で、伯父である西園寺公経の猶子でもあった藤原為家の側室(愛人というべきか)になったのが阿仏尼。為家との間に二人の男子を産み、為家の没後に相続権を争って公安二年(1279)に京都から鎌倉に下り、幕府に訴えている。
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この時の阿仏尼は57歳前後、道中の様子と鎌倉滞在の見聞を記録した「十六夜日記」の中で彼女は「(田子の浦を過ぎて)伊豆の国府に着いた。まだ夕陽が残っているので三島の明神に参詣し和歌を詠んだ」と書いているから、健脚とは言えない老女が選んだルートは足柄路ではなく箱根路だった。
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つまり1238年から1279年の間に東海道の主要ルートは足柄峠経由から箱根峠経由に移り、やがて忍性所縁の石工たちが箱根精進池の石仏群を刻む、鎌倉時代の後半期が近付いてくる。
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箱根峠を経由して三島と酒勾を結ぶルートはニ所詣で再三利用している。こちらを利用するのがノーマルだと思うのだが...まだ整備が進んでいなかったという事なのだろうか。
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更に蛇足...訴訟の結論が出ないまま弘安六年(1283)に阿仏尼は鎌倉で没した(66歳・京都説あり)。息子の藤原(冷泉)為相は数回の鎌倉下向を経て勝訴し、鎌倉に定住して八代将軍久明親王を補佐しつつ鎌倉で没した。墓所は 浄光明寺(wiki・地図)、200m西の山裾には伝・阿仏尼の墓もある。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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10月29日
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吾妻鏡
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寅刻(14時前後)に小雨、巳の三点(10時過ぎ)に晴。酉の一刻(17時過ぎ)に鎌倉御所に着御した。
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   ※行程: 酒勾から鎌倉まで、約36km。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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11月14日
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吾妻鏡
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昨夜から雨、申の斜め(16時過ぎ)に乾方(北西)数回の雷鳴があった。天変に対応する祈祷として安倍維範朝臣が天地災変祭を催した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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11月17日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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夜になって降雪。御所に於いて和歌の御会あり。前武蔵守北條泰時が参上、眞昭(北條資時)・後藤基綱基政・源親行らが同席した。接待担当の甲斐守長井泰秀が酒肴を取り揃えた。
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   ※後藤基政: 基綱の嫡子で引付衆。後に六波羅評定衆となり、息子もその職を世襲している。
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   ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた光行の息子。京都に戻る父と交代する形で
鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願した後に源実朝・藤原頼経・宗尊親王の三代に仕えて歴代の和歌奉行を担当した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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嘉禎四年
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11月23日
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改 元
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  ※百錬抄: 暦仁元年に改元。天変への対応である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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11月28日
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吾妻鏡
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去る16日の除目の聞書が到着し将軍家(藤原頼経)が御覧になった。右大将には鷹司兼平公(wiki)、直ちに祝賀の使者を派遣した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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11月29日
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吾妻鏡
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晴。今暁、太白星(金星)を祀る祈祷が行われた。今日、将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参拝。未刻(14時前後)に御束帯・御笏の装束で御所を出発、安倍維範朝臣が反閇を務め、周防守北條光時が御剣を持った。
夕刻に地震あり。
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   ※反閇: 陰陽師が邪を祓うため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む呪法。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月2日
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吾妻鏡
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雪が降った。(旧暦の12月2日は太陽暦の1月8日に該当する)
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月3日
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吾妻鏡
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夜半をすぎて雪、午刻(正午前後)になって晴。明け方に左親衛北條経時は鳥を狩るため大庭野に出掛けた。若狭守三浦泰村・駿河四郎左衛門尉三浦家村・駿河五郎左衛門尉資村・左衛門尉下川邊行光・遠江三郎左衛門尉北條時長・武田六郎信長・小笠原六郎時長ら多数(の弓の名手)が同行した。
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   ※左親衛: 近衛府四等官の三等官・判官の左近衛将監。経時は天福二年(1234)8月に任官している。
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   ※大庭野: 藤沢市にあった大庭御厨。この時期なら獲物は渡り鳥の鴨などがメイン、引地川流域の湿原(地図
での狩りだろう。
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   ※同行者: 家村は三浦義村の六男、資村は七男、北條時長は北條朝時の三男、武田信長は武田(石和)信光
次男で頼朝が謀殺した一條(武田)忠頼の名跡を継承している。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年.
12月7日
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吾妻鏡
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晴。今日評議の際に諸堂の供僧についての規則を定めた。病気などに対応して祈祷を依頼される場合に非器(資格・能力のない)の弟子や代理人を立てて利潤を貪る例があり、今後の停止を命じる内容である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月9日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に地震。今日、京都朝廷の使者が到着し、先月23日に改元の詔勅があり嘉禎四年を改めて暦仁元年となった。藤原経範朝臣の撰進であり、螢惑の変(火星の変異)が改元の理由である。
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   ※改元: 通常は一週間程度で鎌倉に届く改元の詔勅に16日を要しているのは異例である。
百錬抄は「暦仁=略人=人を消す、を意味するとの噂が起きたため発布が遅れた」と書いている。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月12日
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吾妻鏡
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大雪。夜明け近くに左親衛北條経時は若狭守三浦泰村以下の人々を伴って山内の辺に出掛け、雉や兎など多くの獲物を捕らえた。
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   ※山内の辺: 亀ヶ谷切通しを抜けた北鎌倉手前から横浜市栄区を東西
に流れる「いたち川」までが広義の山内となる。この場合は桂台から「いたち川」までの広野だろうか(地図)。
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これも蛇足なのだが...
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二階堂の永福寺から大平山とゴルフ場の桂台に下る半ばハイキングコースっぽい細道が現在も通じている。
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最終的には磯子の近くで六浦から北上した鎌倉街道(下ノ道)と合流するのだが、鎌倉時代には利用頻度の高い道だった可能性もあり、ひょっとすると経時一行はこのルートで「いたち川」を目指したのかも、などと思わせる。
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新田義貞の鎌倉攻めの際に戦闘があった記録もないし勿論「太平記」にも載っていないのだが、いつか全体を歩いてみたいと思う。まさか熊と遭遇するなんて事もないだろうし。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月14日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を内外典(内典は仏教、外典は仏教以外)で始められた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月16日
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吾妻鏡
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終日雨。今日、評定衆による評議あり。御家人の立場にある者は重病など緊急の事態以外には所帯を妻妾に譲る事を禁じると決定した。その後に匠作(北條時房)と前武蔵守北條泰時が御所に参上して恩賞についての沙汰があった。奉行は後藤基綱
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   ※所帯の譲渡: 惣領制度が崩れ所領分割相続による細分化と貨幣経済の普及に伴って中小御家人が生活を
維持できず土地を手放す例が増えたのだろう。こんな禁令を発しても焼け石に水なのだが...。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月18日
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吾妻鏡
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毎月の六齋殺生禁断についての仰せが下った。ただし川や海で漁業を生業とする者はその限りではない、と。
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   ※六齋殺生禁断: 仏教思想に基づく斎日(戒律を守り精進する日)。毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日
が該当する。ところで、この「仰せを下した」のは頼経か、それとも執権か。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月19日
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吾妻鏡
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節分の御方違えに関して御所から命令が発せられた。前武蔵守北條泰時からは「遠江守北條朝時の名越邸を。」との意見があり、清右衛門大夫季氏は「名越邸「は天一遊行の方向だから支障あり」との意見が出た。
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陰陽頭安倍維範朝臣に確認すると「天皇家以外は支障なし」との回答があり、名越邸に決定した。
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   ※天一遊行: 方角神の一つで、十二天将の主将。更に詳細はwikiで。
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   ※北條朝時: 祖父時政の存命中に名越邸の贈与を受けた。 義時正室(姫の前)が産んだ長男でもあり、時政は
義時の後継として(又は時政の後継として)泰時ではなく朝時を想定していた可能性は高い。
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朝時の子孫が得宗家と再三の紛争を起こしたのは「我らこそ北條嫡流」との自負があった。
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元久二年(1205)閏7月に時政と牧の方が計画したのは娘婿の平賀朝雅&執権朝時のラインによる政権掌握だったのかも知れない。牧の方が産んだ若年の政範(早世)は官位で義時を越えていたし、時政夫婦と政子・義時の関係は円満と言えるレベルではなかった。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月22日
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吾妻鏡
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去る20日から今夜まで御所で安倍晴賢朝臣による属星御祭を行ない、将軍家(藤原頼経)は束帯姿で毎夜その庭に出御し神拝された。御祭の物具は全て炊き上げ、能登守中原仲能がこれを差配した。
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   ※属星祭: 陰陽道の祭祀。生年の十二支で決まる北斗七星の一つを属星とし長寿招福を祈る。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月23日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に将軍家は御方違えのため遠江守北條朝時の名越邸に入御した。ここが今後の御本所(移動の正式な基点)となる。 今日、匠作(北條時房)は所領の全てを書き出して子息らに配分した。
概略は前武蔵守北條泰時との相談を済ませており、一部を交換して調整してある。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月24日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は北條朝時の名越邸に逗留している。これは今日が帰亡日(帰宅に適さない日)とされており、陰陽師は「特に支障なし」と言上したのだが父親の法性寺殿(九条道家)が忌避していた例に倣った行動である。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月25日
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吾妻鏡
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(将軍家が)名越邸から御所に還御し、遠江守北條朝時が御引出物を献じた。御剣は式部丞北條時章、御馬は遠江修理亮北條時幸と同五郎時兼(朝時の五男だが詳細の記録なし)がこれを引いた。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月26日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御持仏堂の東僧坊に出御した。匠作(北條時房)と前武蔵守北條泰時が参上し、恩沢の件について御前での決裁を得た。仏像開眼の後に東の縁に出御し、陰陽師を呼んで来年の二所御奉幣の日時などについて直接の下問があり、決定となった。
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   ※御持仏堂: 御所の敷地に建てられた久遠寿量院。この名称が吾妻鏡に載るのは延應元年(1239)5月12日
が最初となる。久遠寿量院の別当を務めていた教雅が記録した文書が東寺の別院に移って収蔵され、最近になって調査が進められている。いずれネット上でも詳細が公開されるだろう。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月28日
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吾妻鏡
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匠作(北條時房)と前武蔵守北條泰時と遠江守北條朝時と右馬権頭北條政村・駿河守北條有時・宮内少輔足利泰氏が右大将家(頼朝)・二位家(政子)・前右京兆(北條義時)らの法華堂に参拝した。
歳末のためか駿河前司三浦義村・蔵人大夫入道毛利季光・甲斐守長井泰秀・秋田城介安達義景らも加わった。
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   ※北條九代記: 宣秋門院が崩じた(享年67)。   宣秋門院は後鳥羽天皇の中宮、父は摂政関白九条兼実
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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暦仁元年
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12月29日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に周防前司中原親實の家が失火により焼失した。
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西暦1238年
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87代 四条天皇
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 月 日
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